伝統板・第二

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「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

言葉の力③ - 伝統

2017/07/24 (Mon) 04:27:15

  *伝統板・第二「言葉の力②」からの継続です。
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6844600

《はじめにコトバあり》

        *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P94) より

物質発生以前の宇宙とういものを考えてみると、
其処には無論「物質」なるものは存在しなかったのである。

そこには“霊”がまだ物質的なものと見える如き波動を起していなかったのである。
即ち、“真空”だったのである。しかしそれはただの”カラッポ”ではなく、
”不生”の大生命が確固儼然(かっこげんぜん)として存在していたのである。

不生の大生命が動き出したので所謂る”コトバ”である。
これが「元始(はじめ)にコトバあり、コトバは神と偕に在り、コトバは神なりき」と
『新約聖書』のヨハネ伝に書かれているところの真理である。

但(ただ)しこの“コトバ”と謂うのは、まだ物質発生以前の「元始(はじめ)のコトバ」
であるから、物質的発声器官を通してあらわれて来たコトバではないのである。
発声器官にあらわれる以前のコトバ ―― 即ち想念であったのである。

即ち、”真空”と見えている”不生”の生命が想念によって動的に動き出して
波動を起こしたのであって、これが「神の心うごき出(い)でてコトバとなれば、
一切の現象展開して万物成る」である。


・・・

<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板「言葉の持つ力 (5205)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1100  

(2)光明掲示板・第一「言葉の力」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=216    

(3)光明掲示板・第二「言葉の創化力」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=27

(4)光明掲示板・第三「言葉の力 (213)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=77

(5)光明掲示板・伝統・第一「言葉の力 (71)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=44

(6)伝統板・第二「言葉の力①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6459722

           <感謝合掌 平成29年7月24日 頓首再拝>

良い言葉と悪い言葉 - 伝統

2017/08/10 (Thu) 03:07:57


      *「ユダヤ賢者の教え(1)」(P124~126)より

ラビ・シモン・ガムリエルは、イスラエルの長(最高法院のサンヘドリンの裁判長)
をつとめていたが、神の教えにすぐれていた。

あるとき、ラビ・シモンが召使いのトヴィを呼んだ。

「市にいって、何かうまいものを買ってきてくれ」

トヴィは肉屋にいって、牛の舌を求めた。
「おいしいものを買ってまいりました」 と、トヴィが言った。

「けっこう」と、ラビ・シモンは言った。
「さて、もう一度市にいって、今度はまずくて最低のものを買ってきてくれ」と言った。

トヴィはおどろいたが、黙って主人の言いつけどおりに市へ戻った。

みちみち、トヴィは考え抜いた。
トヴィは考えに考えたすえに、ふと気がついた。

市に着くと、トヴィはまた肉屋に入り、牛の舌を買い、
主人のもとに戻ると、買ってきた舌をさしだした。

「トヴィ、なぜなのか、話してごらん」 と、ラビ・シモンが言った。
「うまいものとして舌を買ってきた。まずいものをと頼んだら、
また舌を買ってきた。なぜだ? 舌はうまくもまずくもあるのかね? 」

「ええ、そのとおりです」と、トヴィは答えた。

「トーラーや祈りや、良いこと美しいことを人々に語るときには、
舌はたいへんすばらしいものです。
ですが、悪口や、人を傷つける言葉やあざけりを口にするとき、
舌はどうしようもないほど悪いものになります」


ラビ・シモン・ガムリエルは、
召使いのトヴィが、市で学んだことを知って喜んだ。

そして、弟子たちにも、良いことのみを口にするよう、
口をつつしむことを学んでほしいと、いそいで教えを語った。

           <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

【言葉にはエネルギーがある】 - 伝統

2017/08/24 (Thu) 04:40:58


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月01日)」より

   (江原啓之氏の心に響く言葉より…)

   口を開けば不平や不満、人の批判や悪口ばかり。
   こうした人が幸せになることはありません。

   インターネットなどで無責任な誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)を
   書き込む人も目立ちますが、バッシングをして憂(う)さを晴らしている
   つもりでいるとしたら大間違いです。

   陰陽師(おんみょうじ)が人を呪い殺すときに、
   墓穴を二つ用意していたというのは有名な話。

   自分の行いは、ブーメランのように自分のところへ戻ってくる
   という意味の「因果の法則」を理解していたのでしょう。

   日本には昔から「罰当たり」という言葉もあります。


   言葉にはエネルギーがあるのです。

   たとえば「いってらっしゃい」には相手を守るパワーが、
   「おかえりなさい」には相手を癒すパワーがあります。

   逆にネガティブな言葉を発すれば、相手を傷つけるだけでなく、
   自分の波長を低めることにつながります。

   「どうでもいい」といった投げやりな言葉が口癖だという人も用心が必要です。


   言葉はあなたの思いの表れ。
   発する言葉が今のあなた自身を如実に表しているのです。

   その言葉はいずれ行動となります。
   そして、その行動すべてが自分自身に返ってくるのです。

   幸せとなって返ってくるのか、それとも不幸となって返ってくるのか。
   言葉は人を不幸にもすれば、幸せへと導いてもくれるのです。

            <『幸せになる100か条』徳間書店>

              ・・・

「人を呪わば穴二つ」という言葉がある。

他人を呪い殺せば、呪った人もやがて相手の恨みを受けて呪い殺され、
相手と自分とで墓穴が二つ必要になる、ということ。


インターネットなどでは匿名(とくめい)でひどい書き込みをする人がいる。

匿名だから分からないだろうと思って書いているが、
それはやがて必ずその報いを受けることになる。

なぜなら、自分の口に一番近いのは他人の耳ではなく、自分の耳だからだ。

自分の発した言葉は、自分が一番多く聞いている。

そして、一番影響を多く受ける。


『因果応報』

自分が蒔(ま)いた種は自分が刈り取らなければならない。


「言葉にはエネルギーがある」

いい言葉を発したい。

           <感謝合掌 平成29年8月24日 頓首再拝>

明瞭に語られたる言葉は、実現力が強い - 伝統

2017/08/30 (Wed) 04:50:57


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月30日>(P68)より

明瞭に語られたる言葉は、曖昧に念ぜられたる言葉よりも実現力は強いのである。
合掌瞑目神想観の形式をとり、自分の耳に聞こえるほどの声をもって、
次のごとく誦(とな)えることは自己内在の無限の力が自覚する上に効果がある。

「神はすべてのものを我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の智慧を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の愛を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の生命(いのち)を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)」

十回には限らないのであるが、あまり永いのも長時間かかるし、
短くても感銘が浅くなる。
十回と限定したのはそのためである。

敬虔の念を起こすために合掌の形式をとっているから、
1回称えれば、右手の拇指に軽く力を入れ相対する拇指を押し、
2回称えれば右手の人差指に軽く力を入れて相対する指を押し、
順次に中指、紅指指、小指と移り、

さらに左手の拇指より始めて左手の小指に至りて、終われば合掌のまま、
数のことを考えて意識を複雑にすることなしに十回称え終わるのである。

「ありがとうございます」と称える時は、すでにそれを受けたる感激に浸りつつ
本当にありがたい気持を起こすのである。

言葉は単なる思想以上の感情を招(よ)び起こし、
感情は単なる思想以上の動的創化力となるのである。

          <感謝合掌 平成29年8月30日 頓首再拝>

《あなたの言葉で人を傷つけてはならない》 - 伝統

2017/09/10 (Sun) 04:42:46


        *『 生長の家 』(昭和44年12月7日の法語)より

   誰でも不快なことを聞くと、自分が不快になるのである。
   人に不快なことを聞かせることは、人に不快な目をさせることになる。

   人に不快な目をさせることは、相手の心を傷つけることである。
   それは相手の肉体を傷つけるよりも一層大なる罪悪である。

   何故なら、“ 心 ” は “ 肉体 ”よりも一層
   大切なものであるからである。

   人の心を傷つけながら、自分が相手を傷つけている事を知らぬ人がある。

   そして常に、人に“不快な言葉”を聞かせて、
   常に人を傷つけて止まるところを知らないのである。

   だから、釈迦は「 悪いと知らずに犯す罪の方が、
   悪いと知って犯す罪よりも重い 」といって
   教えられたのである。

   あなたは決して“不快な言葉”を人に話してはならないのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3190094d2d8a3520db72dc9a8636c921

          <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

《暗黒の預言をする宗派に近づいては危険である》 - 伝統

2017/09/11 (Mon) 04:28:21


        *『白鳩』(昭和49年1月13日の箴言)より

   『信仰の科学』151頁には、コトバには創造力があるから、
   暗黒な事柄が生ずるという種類の八卦見や宗教家の預言的言葉を
   決してきいてはならないということを次の如く説いているのである。

   『暗黒を告げる憂鬱なる預言の徒に注意するがよい。
   彼らの預言に耳をかせば、
   黒き暗雲があなたの頭上に降りて来るのである』

   宗教家のうちには、「今までの宗派を信じておれば罰があたる」
   などといって「暗黒を告げる憂鬱なる預言的脅迫」をもって
   自派の宗教に誘い込もうとする種類のものがあるけれども、

   もし彼らがそのような「暗黒の預言的言辞」を弄するならば、
   ただそれだけで、その宗教が邪教だということがわかるのである。

   コトバは〃造る力〃をもっているのであって、
   〃悪〃や〃不幸〃をコトバで預言すれば、コトバの力で、
   その表現する内容の事柄を将来造り出すことになるのである。

   それゆえに「暗黒を告げる脅迫的な言葉」をもって其の宗教に
   誘い込もうとする人は、〃暗黒なる不幸〃の種蒔きをする人であるから、
   そのような人に近寄ってはならないのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

          <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

あなたの幸福を左右する”言葉の力” - 伝統

2017/09/22 (Fri) 04:00:46


  《あなたの幸福を左右するもの》

             *『白鳩』(昭和49年1月の箴言)より

   『信仰の科学』の67頁には次のように書かれている。 ――

   『われわれが幸福であるか否かは、
   われわれの懐く人生観または世界観如何によるのである』

   本田ムラさんは家庭の幸福は、八卦見の言葉の力により、
   彼女自身のいだきはじめた夫婦の〃相性観〃によって
   崩れはじめたのであった。

   「夫婦の相性が悪い」という八卦見の〃言葉の力〃によって、
   彼女の人間観が変り、自分のいだく「夫婦仲が悪い」という
   思いが起り、

   「思うことはあらわれる」という〃唯心所現の法則〃によって、
   それが具体化して実際に夫婦仲が悪くなってしまったのであった。


   だから『信仰の科学』の19頁には、

   『全ての人々の真の運命は、彼自身の生涯の上に、
   「元始(はじめ)に言(ことば)あり」 の
   「言(ことば)」をひらいて表現することなのである。

   内なる扉を開き、「実相の言(ことば)」をして語り出さしめ、
   自己の生活に、実相のコトバを活現せしめよ』

   という意味が書かれているのである。


   八卦見の言葉が本田ムラさんの家庭の幸福を毀してしまったのは、
   神が〃元始(はじめ)〃に人間をコトバによって造った完全人間の
   実相を語らず、迷いによって、本来存在しないところの
   「夫婦喧嘩」を、さも存在するかの如く、
   それが真実であるかの如く語ったからなのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

          <感謝合掌 平成29年9月22日 頓首再拝>

【言葉を発する前によく考える】 - 伝統

2017/09/28 (Thu) 03:59:57


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年09月04日)」より

   (ボブ・バーグ氏の心に響く言葉より…)

   あなたは誰かの言葉や行為に対して辛らつなことを言って、
   その直後に「しまった」と思ったことはないだろうか。

   私はある。
   実際に、何度もある。

   だが、いったん言ってしまったことは取り消すことができない。

   その時点であなたがすべきことは、誠意を持ってきちんと謝罪し、
   もめごとが大きくならないように努めることだ。


   ある人は

   「腹が立ったときに発する言葉は弾丸のようなものだ。
   いったん発射したら、絶対に元に戻すことはできない」

   と言っている。

   言葉を発する前によく考えることを方針にしよう。


   一瞬、口を閉じることがカギだ。

   しかし、ほとんどの人にとって、それは自然にできることではない。

   だから、日ごろそういう事態を想定して練習しておかなければならない。

   場合によっては、何も言わないこと(少なくともしばらくは)が
   最も賢明な選択肢である。


   もめごとが発生する前に芽を摘み取ることが最善の策だが、
   もし もめそうになったら、それがエスカレートする前に
   止めることが次善の策である。

   誰かがあなたを批判したり侮辱したりしたとき、
   あなたは言葉を発する前によく考えるべきだ。

   取り消すことができない言葉の弾丸を発する前に、
   いくつかの選択肢を入念に検討する必要がある。


   一瞬、口を閉じて冷静に判断し、問題解決につながる利口なことを言おう。

   あなたは必ず優位に立てるはずだ。


   沈黙の恩恵は、対面でのやりとりにとどまらない。

   最近、私はある友人のフェイスブックを見ていた。

   彼はいつも親切で冷静な人物として世間から尊敬されている一流の職業人だ。

   しかし、そんな彼ですら、
   「かんしゃくを起こして感情的なメールを長々と書いたことがある」
   と告白していたのはじつに興味深い。

   幸い、彼はそのメールを先方に送る前に親友と相談したところ、
   その親友はそれを送信せずに削除するよう提案したという。


   (1)リンカーンのやり方をまねる

      リンカーン大統領は誰かに対して腹を立てたとき、
      思い浮かんだ激しい言葉を書きつらねた手紙をしたためることがよくあった。

      そして、それに署名し、封印し、切手を貼ったうえで、
      絶対に誰にも見られないようにその封筒を細かく刻んで捨てた。

      リンカーンは怒りを発散させるためにこのテクニックをよく使っていた。

      その手紙を投函するつもりはもともとなかったのだ。


   (2)メールを送信する前に待つ

      私は感情的なメッセージを書いて送信する前に
      24時間待つことによって、仕事であれプライべートであれ、
      相手を傷つけて後悔するのを免れたことが何度もある。

      24時間待つことによって、
      より親切で効果的なメッセージを発することができる。

      あるいは、メールを送信しないことが正しい選択肢だと気づくかもしれない。


   (3)助言を求める

      私は効果的なメールを書くことが自分の強みだと思っている。

      しかし、重要なメールの場合、
      それを送信する前に信頼できる友人に助言を求めることがある。

      その人たちは私のメールを見て、その内容を適切に判断し、
      言葉の使い方がまずい箇所を指摘し修正するように提案してくれる。


      心理学者のダニエル・ゴーマン博士はこんなことを言っている。

      「衝動を抑えるカギを握る能力とは、まずとっさの衝動をコントロールし、
      次にそれにかわる行動を決定し、その結果を予測することである」


   まったくそのとおりだ。

   メールを書くのはいいが、すぐにそれを送信してはいけない。

   まず自分の衝動をコントロールし、自分の行動がもたらす結果を予測し、
   ここで紹介した3つの選択肢から選ぼう。

         <『敵を味方に変える技術』ディスカヴァー>

              ・・・

「言葉とは、包丁のようなもの。喜ばせることもできるが、傷つけることもできる」

という言葉がある。

包丁がなければおいしい料理はできない。

だが、ときとして包丁は人を傷つける。


「覆水盆(ふくすいぼん)に返らず」と言うことわざの通り、
一度発してしまった言葉は元に戻すことはできない。

人を傷つける言葉は、まるで矢のように相手の心につきささる。


『どんなことに対しても一喜一憂しない心をつくると
ものすごく人生が楽になります。

何を言われてもにこにこしている状態を、強靭な魂と言いますが、
私が発見した方法を使えば、15秒くらいでこれをつくれます。

必要なことはただひとつ、「ぼーっ」とすること』

と言ったのは小林正観さん。


「ぼーっ」とする練習をしたい。

          <感謝合掌 平成29年9月28日 頓首再拝>

善きことを信じて言葉に出す - 伝統

2017/10/08 (Sun) 04:31:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月8日>(P96)より

善きことのみを語り、善きことのみを考える習慣をつけなければならない。
自分の嫌いなこと、望ましくないことを語ってはならないし、思ってもならない。
言葉は想念と同様に強力なる具象化(かたちにあらわす)の力を持っているのである。

われわれは自己の運命ラジオのアナウンサーである。
われわれ自身が言葉に発するとおりに現象世界にあらわれてくるのである。

だから常に自己の欲することを、希望することをあたかもすでに実現せるがごとく
想念し言葉に出すようにつとめなければならない。
そして言葉に出す場合にそれを信じて出すことが必要である。

善き言葉がかえって実現しないように見えるのは、
悪いことを言う時にかえって信じながら話すからである。

           <感謝合掌 平成29年10月8日 頓首再拝>

コトバの力で、「全一」から呼び出し創造する - 伝統

2017/10/19 (Thu) 04:44:42


    *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(「円満具足」10月19日)より

実在は「全一(ぜんいつ)」である。
「全一」は表現せられえない。
「全一」は一度に知覚せられえない。

そのことはわれわれの記憶内容全体のようである。

われわれは生れてからいろいろの機会に無数に触れ、見、聞き、経験した事柄を
記憶しているのであるけれども、
その全体が一度に記憶の表面に浮かび上がって来ないのは、

「全一」なるものは、無数の相(すがた)が超時空的な世界に重なり合っているから、
知覚することができないためである。

それを記憶心象として脳髄の知覚面に浮かび上がらせうるには、
「全一」の中から、必要でないものを残して置いて、
「今」必要なものだけを、空間的表象面に浮かび上がらせなければならぬ。

それと同じく、「全一」なる存在が、それが知覚しうるように
表現せられるためには、

「全一」の中からある物を”呼び出し”て来て、
他を「全一」の中に残しておかなければならぬ。

表現はコトバであり、コトバは呼び出しであるのはこのためである。
われわれは善きコトバの力によって善き物を創造することができるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月19日 頓首再拝>

善き言葉であらわれた「真象」、悪しき言葉であらわれた「偽象」 - 伝統

2017/10/20 (Fri) 03:29:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P104)より

善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。

悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは本来が虚であるから”ある”ように見えても存在せぬ。

そういう現象を偽象または虚象と言う。

善き言葉であらわれた現象は、実在の延長であるから真象と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、神の嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。

真象は神の表現であり、神の発展であり、み心の天になるがごとく地に成ることである。
真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。

現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。

「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。

           <感謝合掌 平成29年10月20日 頓首再拝>

言葉の神秘 - 伝統

2017/10/31 (Tue) 03:25:50


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月31日言葉の神秘を知る日)より

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。 
                (『生命の實相』第二巻)】 

早稲田政治科出身の先輩、上田謙氏は言語学を深く研究している人である。
次のような草稿を送ってこられた。

―― 言(こと)とは音(おと)に子音Kなる無意味の接頭語を飾りたるものです。
葉とは端(はし)くれ即ち現象の意。

然らば音とは何ぞや。
是れ印度(いんど)、波斯(ペルシア)、希臘(ギリシア)等に於ける
拝火教によびなされし音即ち odo と称する veda 教典に説く
万有に貫通する生命乃至実在の事也(なり)。

希臘”オデ”イ・イリ”アド”は皆此の音乃至 odo の事にして、
是が又歌とも同じものです。

其の証拠には「斯う云う事を歌って置き乍(なが)ら」云々の言葉の中の
「歌う」とは「言う」乃至言葉の意味なるに依(よ)りても知らる。

又音無(おとな)しい人とは、喋らぬ人の謂(いい)にて、
是も音とは言葉である事が証さる。

かく日本人の上層を成せるものの名は正しく梵語と同一語源で
出羽(でわ)は deva(神)、佐分利(さぶり)は svara(日神<ひのかみ>) 

幣原(しではら)は svara では余り梵語其の儘故、これを隠して「て」を入れて
「し(て)はら」であり、されば神の意である弊(しで)の字があるので、
此の弊(へい)の字が「しで」と読む理由が解る訳で字引には謎である。
んと撥(は)ねて「しんばら」となる。

御社(おんしゃ)の「光明」も「しばら」で光明真言に言う「じんばら」は
此の「しばら」で光明(神)の事です。

・・・・・

<参考Web>

(1)光明掲示板・第一内のスレッド「『言靈と神通力』」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=613 

(2)Web:山ちゃん1952(2015年01月27日)「皇道大本と谷口先生-1」
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21485215.html

(2)Web:山ちゃん1952(2015年01月27日)「皇道大本と谷口先生-3」
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21485484.html

(4)Web:亀の子ブログ (言霊-事始め(壱)~言靈雑感(拾陸)
    → https://blogs.yahoo.co.jp/kamenoko159357/folder/1133703.html?m=l

           <感謝合掌 平成29年10月31日 頓首再拝>

言葉の力 - 伝統

2017/11/16 (Thu) 03:15:47


          *Web:わくわくブログ(2016年1月15日)より

先ずは映像をご覧下さい。

the POWER of Words~『ことばの力』

  → http://youtu.be/7nAa1L6epHs



アンドレ・ブルトン(フランス・詩人)が
ニューヨークに住んでいたころのお話がベースとなっています。

ブルトンの家からさほど遠くない街角で、いつも物乞いとすれちがいました。

通行人はぼんやりとその首にかかった看板「私は目が見えません」を見ていました。
彼のお椀のなかにコインを入れようと足を止める人はめったにいませんでした。

ある朝、その姿に心を動かされたブルトンは、
彼にその看板の文句を変えてはどうかと勧めました。

それからというもの、お椀にコインの雨が降りそそぎ、
人びとは同情の言葉をかけていきます。

不思議に思った物乞いは、ブルトンに「なんと書いてくれたのですか」と尋ねました。
詩人は答えました。

「春はまもなくやってくる。でも、私はそれを見ることができません」


意味は同じでも、表現を変えれば人の心を動かし、行動も変える事ができる。

だからこそ、言葉は大切にし、しっかりと心を乗せていきたいですね。

     (http://honsinjuku.com/B-03.html

           <感謝合掌 平成29年11月16日 頓首再拝>  

【ゆっくり話すこと】 - 伝統

2017/12/07 (Thu) 04:19:20


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年10月05日)」より

   (医師、小林弘幸氏の心に響く言葉より…)

   「言い方」と「自律神経」はつながっているので、
   自律神経のバランスによって「言い方」は変わってきますし、
   逆に、「言い方」によって自律神経のバランスも変わってきます。

   この2つはループのようにつながって、お互いに作用し合っているのです。


   たとえば、上司に急な仕事を依頼された際、

   「了解です! 」

   とハキハキと感じのよい言い方をした場合と、


   「はい、わかりました…」

   と、ボソボソとネガティブな言い方をした場合とでは、
   体の中の細胞の働き方が変わってきます。


   前者の言い方の場合は、自律神経のバランスが整い、
   脳をはじめとする全身の細胞に酸素と栄養が行きわたるので、
   頭が冴えて仕事のパフォーマンスが高まります。

   体にもエネルギーが満ちるため、疲れにくくなり、健康を維持しやすくなります。


   いっぽう、後者の言い方の場合は酸素と栄養が不足するため、
   脳や体のパフォーマンスが下がります。

   当然、仕事の処理能力も落ち、上司からの評価は下がります。

   また、細胞が活性化しないため、さまざまな健康被害を引き寄せてしまいます。

   この時生じる健康被害は、短期的なものでは、

   「疲れやすい」
   「頭がぼーっとする」
   「よく眠れない」

   「頭痛」
   「便秘」など。


   長期的にリスクが高まるものとしては、

   「がん」
   「脳卒中」
   「心筋梗塞」
   「糖尿病」などが挙げられます。


   日常生活で気にする「言い方」というのは、
   「相手に不快な思いをさせないように」という、
   コミュニケーションを主としたものだと思います。

   しかし実際には、毎日の何気ない「言い方」によって、
   自分のパフォーマンスや健康状態にまで影響が及んでいるのです。

   ふだん何気ない「言い方」で、
   自分のパフォーマンスや健康を害しているという事実に
   気づいている人は、ほとんどいません。


   しかも、「言い方」は、自分が発するものだけではなく、
   他人からの「言い方」も同様に作用します。

   他人から、怒りや愚痴など、ネガティブな「言い方」を投げかけられた瞬間、
   あなたの自律神経のバランスは一気に乱れ、
   パフォーマンスや健康に悪影響が及ぶのです。

     <『「ゆっくり」話すと、空気が変わり、人生が変わる!』幻冬舎>

             ・・・

小林弘幸氏は本書の中でこう語る。

『人は言葉を発する時、妬みや自尊心、怒り、悲しみ、喜びなど、
さまざまな感情に突き動かされています。

たとえば、怒りにまかせて叫んだとしましょう。
すると、それによって怒りの感情が増幅し、さらに怒声を上げたり、
物にあたったりして、感情のコントロールがきかなくなってしまいます。

ところが、ゆっくり話すと、言葉が感情に左右されなくなります。

言葉を発する前に、感情を打ち消す余裕が生まれるので、
怒っている、喜んでいるなどの「衣」を着なくなります。

何色にも染まっていない平常心に満ちた言い方をすることができるのです』


話していて、「気持ちのいい人だな」、「感じのいい人だな」という人がいる。

反対に、「とげのある話し方だな」
「感じ悪いなぁ、あまり話したくないな」と思う人もいる。

言葉は、「言い方」や「使い方」次第で、
刃物のように相手を傷付けもするし、
太陽にように温かく癒すこともできる。


早口でポンポンと、言葉を発すると、使う言葉を吟味することができない。

だが、ゆっくり話すことで、
「言葉を発する前に、感情を打ち消す余裕が生まれる」。

ゆっくり話すことを心がけたい。

           <感謝合掌 平成29年12月7日 頓首再拝>

口から発した言葉は現実化する、よき言葉を発したい - 伝統

2017/12/24 (Sun) 03:19:21


           *メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年09月09日)より

【そのように考えるからそうなる】

   (マーク・レクラウ氏の心に響く言葉より…)

   かつてシェイクスピアは「いいとか悪いというのはなく、
   そのように考えるからそうなるのだ」と言った。

   これは名言である。


   どんなに悪く見える経験でも、その中に隠されたいいことを探し求めよう。

   いかなる状況でも悲観主義に陥らず、
   つねにいいことを見つける習慣を確立すれば、
   人生の質を飛躍的に高めることができる。

   経験それ自体は中立的だが、それに対する物の見方が
   それをよいことにしたり悪いことにしたりするのだ。


   物の見方を改善する1つの方法は、ポジティブな表現を使うことである。

   たとえば、「失敗」を「学習経験」と言い換えるのがそうだ。

   ポジティブな表現を使って、
   自分が置かれている状況に対する解釈を変える具体例を紹介しよう。


   私は失業者だ。→ 私は自分に合う仕事を見つけるために時間をとっている。

   私は病人だ。→ 私は健康を取り戻すためにしばらく休養を必要としている。

   私は問題を抱えている。→ 私は成長するための機会に恵まれている。

   私は失敗してしまった。→ 私はこの素晴らしい学習経験を今後に生かす。

   私は何をしてもダメだ。→ 私はこれから飛躍を遂げるために全力を尽くす。


   ■楽観主義者はドーナツを見て喜び、
    悲観主義者はドーナツの穴を見て悲しむ(オスカー・ワイルド)


   ■悲観主義者とは、チャンスがドアをノックしても
    「うるさい」と嘆く人のことだ。(オスカー・ワイルド)

         <『習慣を変えれば人生が変わる』ディスカヴァー>

             ・・・

斎藤 一人さんは、「過去は変えられるが、未来は変えられない」という。

過去に起きた出来事が「不幸だった」「つらい経験だった」と思えばそうなるし、
あのおかげで「自分は成長した」「今の自分がある」「だからすべてがよかった」
と思えばそうなる。

つまり、見方一つ、考え方一つで、過去は変えられるということ。


「幸福は、不幸の顔をしてあらわれる」

という言葉がある。

何かが起きたその時は、「嫌なことが起きてしまった」と一瞬思う。

しかし、少したってみてそれを考えると
「あのことが幸せを運んでくれたんだ」と思えることは多い。


ただし、「不幸の顔」があらわれたときに、
文句や不平不満、グチ、泣き言を言ってしまうと、後から「幸福」はあらわれない。

なぜなら、口から発した言葉は現実化するからだ。

つまり、文句や不平不満、グチ、泣き言をいえば言うほど、
もっと言いたくなるような現象があらわれる。


その悪い循環を断ち切る言葉はたった一つ、「ありがとう」という感謝の言葉。

嫌なことがあったとき、はじめに「ありがとう」と言ってから言葉を続けると、
後の言葉はすべてポジティブに変わってくる。


「そのように考えるからそうなる」

どんなときも、よき言葉を発したい。

           <感謝合掌 平成29年12月24日 頓首再拝>

「和顔愛語」 - 伝統

2018/01/08 (Mon) 03:26:03


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年01月01日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「愛語(あいご)」という言葉は、
   良寛和尚(りょうかんおしょう)が好んで使っていたと言われています。

   良寛和尚の「愛語の心」とは、こういうものだと聞きました。


   「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。
   だからせめて、心をあたたかくするような、
   心を安らげるような『言葉』をあげたい。
   それならいくらでもあげることができるから」


   良寛和尚は、自分の口から出てくる言葉を
   「あたたかい言葉」「やさしい言葉」「思いやりに満ちた言葉」にしたい
   と思っていたようです。


   日本の神道には「言霊(ことだま)」という概念があります。

   「言葉には神が宿っている」という考え方ですが、
   私たちは、普段、使っている言葉のひとつ一つに、
   相手に大きな影響を与える力(神)が宿っていることを
   忘れていたのかもしれません。


   京都に、空也上人(くうやしょうにん)の木像があります。
   木像の口から細い板が出ていて、その上に、小さな仏様が何人も立っています。

   説明によると、「空也上人の口から発せられるひと言ひと言が、
   すべての人を救いに導く『仏』であった」というのです。


   私はこれまで、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言うことは、
   「悪臭を放つ花の種を蒔(ま)くこと」と同じだと考えていいましたが、

   一歩進んで、自分の口から発せられる言葉をすべて、
   「あたたかいもの」「勇気づけるもの」「安らげるもの」
   「幸せを感じさせるもの」「喜びを与えるもの」にできたらと思います。

   そうすれば、「芳香(ほうこう)を放つ花の種を蒔く」ことにもなるでしょう。

   「悪臭」の中で生きるか、それとも「芳香」の中で生きるか…

   芳香の中で生きるほうが、楽しそうです。


   「言葉には『神』が宿っている」という考えは、
   「言葉には『気』が込められている」という考えでもあります。

   だとすれば、人の心を明るくする気を込めたいものです。

   人に対して「愛語」を考えるだけでも、生活が変わってくるような気がします。

        <『ありがとうの魔法』ダイヤモンド社>

            ・・・

『大無量寿経』というお経の中に、
「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉がある。

このあとに、 「先意承問」(せんいじょうもん)という言葉が続く。


和顔愛語とは、和(なご)やかな笑顔と、愛のあるやさしい言葉のこと。
先意承問とは、相手の気持ちを先に察して、それを満たしてやること。

毛利元就という戦国武将の言葉がある。

「一年の計は春にあり
一月の計は朔(ついたち)にあり
一日の計は鶏鳴(けいめい)にあり」


新年を迎えることを「迎春」というが、
志や計画を立てるなら、新年の始まりである元旦に立てる必要がある。

また、月の計画は、朔日(ついたち)に。

そして、今日の計画は、早朝に立てるべきである、と。


この佳(よ)き日、平成30年の元旦。

「和顔愛語」の実践を重ねたい。

           <感謝合掌 平成30年1月8日 頓首再拝>

悪しき言葉、悲観的な言葉を否定せよ - 伝統

2018/01/23 (Tue) 04:13:35


        *「光明法語」(1月23日)より

《在(あ)るものはただ神のみと思念せよ》

人々よ、よき言葉を語れ。
悪しきことばに惑わされること勿れ。

悲観的なことばを発するな。
悲観的なことばに惑わされること勿れ。

ことばは種であるから悪しきことばは言わぬがいい。
悪しきことばを聞いたならば直ちに心の中でそれを打消すことである。

人もし悪しきことばを語るともその人を非難するな。
人の悪しきことばは吾が心の中にある隠れたる所の想念の影であると思いて
自ら明るくなるように反省せよ。

神のみが實在であるから悪しきものは存在しないものだと否定せよ。

           <感謝合掌 平成30年1月23日 頓首再拝>

【ダメなときほど「言葉」を磨こう】 - 伝統

2018/02/07 (Wed) 03:16:04


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年12月31日)より

   (萩本欽一氏の心に響く言葉より…)

   僕はこれまでコメディアンとして、たくさんの舞台に立ち、
   そしてさまざまなテレビ番組をつくってきました。

   いいときもあったし、何をしてもダメなときもありました。

   そうした中で、僕なりの「運」の法則を見つけたのです。


   それは、とてもシンプルな考え方で、
   どん底のときには大きな運がたまり、反対に、
   絶頂のときには不運の種がまかれているというものです。

   たったこれだけのことですが、どんなに辛(つら)いことがあっても、
   今に大きな運がやってくると信じて努力することができました。

   僕の「運」に対する考え方は、これまでにも僕の本や
   さまざまなインタビューで言及してきたので、ご存知の方も多いかもしれません。


   しかし、僕には「運」だけでなくそれと同じくらい大事にしてきたことがあります。

   それが、「言葉」です。

   いい言葉を聞くと、とてもうれしくなります。
   同様に、自分がいい言葉を話すと、周りの人もうれしくなって、いい気分になります。

   そうやっていい循環が生まれて、いい運がやってくると思うのです。

   だから僕は、いつも発する言葉一つひとつを大切にしたいと思っています。


   いくら努力をしても、自分に風が吹かないときは必ずあります。
   何をしても裏目に出て、うまくいかないときもあるでしょう。

   ダメなときでも、言葉を磨くことで、いい運を引き寄せることができます。

   何も話し方を変えるというのではありません。
   ほんのちょっとした心がけでできることです。

   たとえば、「その服、お似合いですね」と言われて、
   つい「いえいえ…」と謙遜してしまうところを、
   「うれしい。ありがとう! 」と言ってみる。

   たったそれだけのことで、
   褒めてくれた相手までいい気分になり、関係も深まると思うのです。


   人生とは言葉の積み重ねです。
   その都度、どんな言葉を話すかで、終着点も大きく変わると思います。

   そんな言葉の力に目を向けてみると、
   毎日の生活も、もっと輝いて見えるんじゃないかな。


   いい言葉には、幸運を手繰り寄せたり、人生を好転させる力があります。

   仕事で大成功する人、磁石のように周囲の人間を惹(ひ)きつける人は、
   揃(そろ)って言葉遣いの名手です。


   日本テレビ系の『世界の果てまでイッテQ!』という人気番組があります。

   この番組が始まる前、担当ディレクターが僕に聞いてきました。

   「どんなことに気を配れば番組が当たりますか?」と。


   僕は、「ヒントは『遠い』と『辛(つら)い』だ」とだけ言いました。

   すると、そのディレクターはそれを見事に実現しました。

   『イッテQ!』は、タレントが遠くまで行って辛いことをこなしてくるという
   実にシンプルな番組です。

   それがヒットにつながったと思います。


   テレビの現場は常に慌ただしいものです。
   だから、ともすると「近くて」「楽な」方法で番組をつくりがちです。
   これはテレビの番組に限った話ではありません。

   何か迷ったら、自分にとって物理的な距離や心理的なハードルがあったり、
   これはちょっと大変かなというほうを選ぶ。

   そこにいい物語が生まれ、人生を豊かにしてくれるのです。

      <『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書>

              ・・・

欽ちゃんの言葉は、いつも逆説的でハッとさせられる。

同書の中にこんな話があった。

『テレビで一緒に番組を作っていた仲間が、とてもいい話をしてくれました。

ある朝、彼はドッタン、バッタンという大音響で目を覚ましたそうです。
マンションの下で、何かの工事が始まったらしい。

事前の知らせもなく、朝8時からけたたましい音を立てられて、
文句を言いに行こうと起きあがりました。

「“朝っぱらからうるさいな!せめて10時からにしてくれ!”
と言おうと思ったんだけど、途中で気が変わった。

欽ちゃんだったらこういうときどうするかな、と考えて、
欽ちゃんがしそうなことをしてみたんだよ」と。

すると彼は、工事をしていたおじさんに「大変だね」と声をかけ、
缶ジュースを1本差し入れたそうです。

「そうしたら工事をしていたおじさんが“すみません、うるさいでしょうね”と言うので、
思わず“いやいや…”と言っちゃった。

不思議だね、次の日も工事の音で目覚めたのに、音がそんなに気にならなくなっていた。
それに、時計を見たら9時でね、おじさんも気をつかって開始時間を遅くしてくれたみたい」

やせ我慢でもいいから優しい言葉をかけてみる。

すると、お互いに気遣いが生まれて、いいほうへ状況が変わっていくんですね』


『ダメなときほど「言葉」を磨く』

やせ我慢でもいいから優しい言葉をかけるよう心がけたい。

           <感謝合掌 平成30年2月7日 頓首再拝>

円味(まろみ)のある言葉は、家庭の空気を円満にする - 伝統

2018/02/18 (Sun) 03:55:54


         *「光明道中記」(2月18日 万(よろず)円満大調和の日)より

【言葉の円味(まろみ)は家庭の重要な要素である(『生命の實相』第八巻)】

言葉は創造の力をもっているのである。

”太郎”と呼べば”太郎”が出て来る。
”次郎”と呼べば”次郎”が出て来る。
”馬鹿野郎”と怒鳴りつければ、相手は狂い立って馬鹿な行為をする。

多くの家庭はその家の主人の言葉の乱暴さによって、
どんなに毒されているか知れないものである。

或る家庭では、その家の主人が妻を呼ぶのに
「オイ、馬鹿」と云う言葉以外で読んだことがない。

「馬鹿と言われて腹が立つが、私を呼んでいるに違いないから、主人の方を向き、
用事をきき、嫌々ながら仕事をしました」と言って述懐された奥様もある。

そう云う家庭の空気が棘(とげ)立ったものであり、不愉快なものであり、
不調和なものであり、従って、その家の運命が暗いものであり、
不明朗なものであり、病人が絶えないのは当然である。

優しい言葉、愛称を伴っている言葉は家庭の空気を円満にするものである。
先ず家長から目下の者に、朝起きたとき、
丁寧に「お早うございます」と言い得るようでないと本当でない。

何でも横柄に権利のような態度でせられると、味わいがすっかり無くなって了う。
細君が古くなるほど飽きられて来るのは、
何でも権利のような顔をして押が強くなるからである。

           <感謝合掌 平成30年2月18日 頓首再拝>

できるだけ善いことを語る - 伝統

2018/02/23 (Fri) 04:11:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月23日)」より

ある教化団体のある講師があるところへ講演に出かけて行った。

彼はその教化団体で救われ人生観が一変し、性格が一変し、
生活が一変したものであるから
そのことを聴衆に語りたかった。

どんなに自分の生活が一変したかということを知らせるには、
自分の過去の生活を述べねばならない。

彼は「わたしはこんなに悪い者だったのです」といって女を騙したことや、
酒を飲んだことなどを過去の生活を懺悔のつもりで50分間も喋り続けた。

そしてこんな浄まった生活になったのはこういう動機であるといって、
その転向の明暗を明朗(はっきり)させるつもりであったのだが、
彼が50分間も自分の過去の罪悪を喋っている間に、
聴衆は「そんな悪い人の話は聴く必要はない」と一人去り二人去りして、
彼が本当によくなったところを話すころには聴衆は四分の一に減ってしまった。


懺悔でも、悪いことをあまり喋りつづける者は、
ついに人の信用を墜すものである。

言葉は力であるからできるだけ善いことを喋らねばならぬ。

美人の色の白さを引き立てるための斑点美粧(ビューティ・スポット)も、
それが顔半面イッパイに及ぶようになっては痣(あざ)としてまちがえられる。

光を引き立たす陰影(かげ)は濃く、ただし少量でなければならむ。  

               <感謝合掌 平成30年2月23日 頓首再拝>

「快」の言葉 - 伝統

2018/03/05 (Mon) 04:37:49


        *「ありがとう」は魔法の言葉 ツキを呼び運命を開く 
          佐藤富雄・著(P17~18) より

私たち人間の脳と心と身体は常に快の言葉を欲しています。

「こうしたい、こうなりたい」と夢を語る言葉。

「さすがだね、すごいね」と自分自身や周囲の人を誉める言葉。

そして 「ありがとう」 という感謝の言葉。

こういう快の言葉を頻繁に口にしていると、快の意識が作られて、
心も身体も快の状態になります。

すると本当に不思議なほど、言ったとおりのことが現実になっていくのです。

           <感謝合掌 平成30年3月5日 頓首再拝>

【どんなときでも、何かポジティブなことを言う】 - 伝統

2018/03/09 (Fri) 04:01:08


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年01月14日)より

   (チャーリー・ジョーンズ氏の心に響く言葉より…)

   生きることを学ぶには、ポジティブな姿勢と心の眼、
   このふたつを育てることから始めよう。


   《第一に、誰に対しても、どんなときでも、何かポジティブなことを言う》

   そんなことは不可能だって?

   わたしは、そうしなければならないと言っているのではなく、
   そう努めるようにと言っているのだ。

   達成はできないにしても、常に「成長の途上にある」ことはできるのだから。


   へたをすると、わたしたちの会話の99%近くがネガティブなものになる。

   誰かをほめるのではなく、
   ネガティブなことことを口から出したくて、うずうずしている人もいる。

   わたしが言っているのは、皮肉交じりのお世辞とか余計なひとこととかではなく、
   正真正銘の厭世主義(ペシミズム)のことだ。


   仕事の場でも、教会や家庭でも、
   他人に何かポジティブな言葉をかけようとする人こそ、
   その場の雰囲気をいちばん明るくする。

   何についても、誰に対しても、
   いつも何かポジティブなことを口にするというのは、そう望めばできることだ。

   わたしはそう信じている。


   次のふたつのせりふが、どんな差をもたらすか、考えてみよう。

   「この雨で何もかも台なしだ! 」

   「あのきれいな虹を見てごらんよ! 」


   誰に対しても、何かポジティブなことを言う習慣を身につければ、
   全員に話しかけなくてもすむようになる。

   どこに行っても、あなたのイメージが、
   その場の雰囲気をポジティブにするからだ。

        <『「成功おじさん」の最優先ルール』PHP研究所>

            ・・・

たった一言で、
相手の気持ちを冷やしてしまったり、シュンとさせてしまう名人がいる。

悪口、非難、不平不満、グチ・泣きごと、文句などのような、
ネガティブなことを言ったり、相手を否定したり、ゆるさなかったりする人だ。


反対に、たった一言で、
相手の気持ちをあたたかくしたり、明るく元気にさせてしまう達人もいる。

ありがとう、感謝します、ツイてる、うれしい、たのしい、しあわせ、
というようなポジティブなことを言ったり、心から相手をほめたり、認めたりする人だ。


自分の口から出た言葉が、相手を明るくするのか、暗くするのか。

毎日毎日の、ポジティブな言葉の積み重ねが自分の人生を形づくる。

仕事や家庭で実践するのはもちろんだが、
コンビニや、レストランといった自分がお金を払ってお客になるところでも、
相手を喜ばせる言葉は必要だ。


ポジティブなことを言う習慣が身につけば、
ポジティブなイメージが定着し、その人が入ってきただけで、
話をしなくても、その場は明るくなる。

誰に対しても、どんなときでも、何かポジティブなことを言う習慣を身につけたい。

           <感謝合掌 平成30年3月9日 頓首再拝>

【言葉は現実を引き寄せる】 - 伝統

2018/03/15 (Thu) 03:28:16


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年10月26日)より

   (ジェフ・ケラー氏の心に響く言葉より…)

   これからの1か月間、こんな実験をしてみよう。

   職場の同僚であれ、スーパーマーケットのレジ係であれ、
   誰かが「気分はどうですか?」と尋ねてきたら、
   「最高の気分だ」とか、「絶好調!」と情熱的かつエネルギッシュに答えるのだ。

   ほほ笑みを浮かべながら、そう言おう。


   その時点で本当に最高の気分であるかどうかは問題ではない。

   そのようになりきることが大切なのだ。

   言い換えれば、よりポジティブになりたいなら、
   すでにそうであるかのようにふるまうのだ。

   そうすれば、
   自分が本当にポジティブになっていることにことにまもなく気づくはずだ。


   そういうセリフを口にすることに
   最初のうちは少し抵抗を感じるかもしれないが、
   心配する必要はない。

   ずっと続けているうちに、やがて慣れてくる。

   あなたは気分がよくなり、
   人びとがあなたのまわりにいたいと思うようになり、
   ポジティブな結果が出ることにすぐに気づくだろう。


   あなたが「最高の気分だ」と言っている声が、私にはもうすぐ聞こえてきそうだ。

   《本当に最高の気分でなくても、最高の気分であるようにふるまう》

        <『できる人とできない人の小さな違い』ディスカヴァー>

              ・・・

小林正観さんは、「ありがとう」という言葉を、
一日に何回も何十回も、何百回も言った方がいいという。

それは、「ありがとう」と何回も言えば、
「ありがとう」と言いたくなる状況がもっとやってくるから。

「幸せ」「ツイてる」「うれしい」「楽しい」「感謝します」も同じ。


これとは反対に、不平不満やグチ、泣きごと、文句、悪口などを言えばいうほど、
もっとその言葉を言いたくなる状況がやってくる。

引き寄せの理論だ。

また、同じようなネガティブな話題を何時間も話し続けても、
それが居心地がいい仲間を引き寄せ、ネガティブな考えをさらに強化する。


毎日の中で、良きこと、楽しいこと、ツイてること、感謝することを
探し出せる人は幸せだ。

そのために必要なのが、何も起こらないときに、先に「ありがとう」ということ。


ありがたいことが起きたから、「ありがとう」と言うのではない。

楽しいことがあったから、「楽しい」と言うのではない。

気分がいいことが起きたから、「気分がいい」と言うのではない。

最高に調子がいいから、「絶好調!」と言うのではない。


「言葉は現実を引き寄せる」

毎日、「絶好調! 」「気分は最高! 」と発し続けたい。

           <感謝合掌 平成30年3月15日 頓首再拝>

人は言葉遣いで判断される - 伝統

2018/04/03 (Tue) 04:16:32


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年02月05日)より

   (川北義則氏の心に響く言葉より…)

   人生で、言葉遣いはことのほか大切だ。
   使い方一つで人生が180度変わる。

   この事実に私たちはどこまで気づいているか。


   レディーガガがタイでの公演中に、ツイッターで
   「偽物のロレックスを買うわ」とつぶやいた。

   この発言を一部のタイ人が「わが国を侮辱している」と怒り、
   タイ当局はアメリカ大使館に抗議する騒ぎにまで発展した。

   彼女は冗談のつもりだったろうが、
   ちょっとした一言がこんな大事になるのだ。


   就活の面接でも、言葉遣いは決定的な意味を持つ。

   容姿や表情、態度などで第一印象をよくしても、
   受け答えでミスしたら、とても合格はできない。

   ケンカのときに、興奮して、つい地を出してしまう人もいる。


   お金持ちの令嬢とつきあっている男がいた。

   彼はどうしても彼女を手に入れたくて、
   とくに言葉のやりとりには慎重を極めた。

   だが、あるとき怒りのあまり思わずいってしまった一言、
   「テメェ」がすべてをおジャンにしてしまった。


   政治家は失言で政治生命を失うこともあれば、
   経営者も不祥事の際に「知らなかった」といって
   退陣に追い込まれるケースもある。

   何気なく発した自分の一言が、意図を超えて独り歩きし、
   悪く受け取られたり、批判の対象にされる。

   「そんなつもりで、いったのではない」

   いくら弁解しても、一度口から出た言葉は、もう元には戻せない。


   ネットのブログで、 些細な批判を受けた男が、
   ムキになって相手を罵倒する言葉を使ったところ、
   その男をよく知る人間から思わぬ過去をバラされて、
   会社をクビになった例もある。

   いくら気をつけていても、
   一度発信してしまった言葉は、全世界に拡散してしまう。

   写真や身元が特定できる場合、
   世界のどこから誰が何をいってくるかもわからない。

   思えば恐ろしい時代になったものである。



   こんな時代に必要なことは何か。

   ① 言葉に関する感性を磨くこと。

   ② 語彙を豊富にすること。

   ③ 言葉の基本的効用をよく理解しておくことである。


   といって、これらのことは一朝一夕には身につかない。

   とりあえず、以下の3点に配慮することだ。

   ① 相手が誰であれ、まずしっかり聞く。

   ② 目上には、肩書や力関係がどうあれ敬語を使う。

   ③ 目下であっても丁寧語で話す。

   この3原則を守りつつ、言葉遣いの辞典的な本を一冊座右に置いて、
   少しでも疑問があったら調べること。


   また先輩、後輩、同僚の言葉遣いを観察して、
   豊富な事例を頭に入れ、できる人の真似をすることだ。

   真似の仕方は
   「要点だけを取り入れ、あとは自分なりに」というのではダメ。

   言葉磨きというと、その方面のマュアル本を買ってきて
   学ぼうとする人が多いが、
   「見よう見まね」こそが、最高の学び方なのだ。


   なぜか。

   思い出してほしいのは、
   赤ん坊のとき、どうやって言葉を覚えたかということだ。

   大人のしゃべる言葉の見よう見まね、
   しゃべる真似で覚えていったのではなかったか。

   あの習得方法が最高なのである。


   「布地は染め具合で、酒は香りで、花は匂いで、
   人は言葉遣いで判断される」(フランス の詩人ポール・ヴァレリー)

       <『「人間的魅力」のつくり方』三笠書房>

              ・・・

「言葉遣いで注意すべきことの第一は、
無神経でがさつな言葉を使わないことである」(河盛好蔵・フランス文学者)


相手の言葉遣い一つで、気分がよくなったり、落ち込んだりしてしまう。

特に、人の気持ちを冷やすような無神経な言葉だ。

反対に、話していると気分がよくなり、元気が出てくる人がいる。

常にポジティブで明るいことを言い、
年上や年下に関係なく丁寧な言葉をつかう人だ。


とりわけ、体育会系のマインドを持った人が、
社会人になって何年たっても、後輩や年下の人の名前を
パブリックな場で、呼び捨てにしているのはいただけない。

仲間内だけならいざしらず、ただ年下というだけで、
それぞれが家庭も築き、あるていどの社会的なポジションも
得ている人に対して、上下関係を持ち込むのは
傍(はた)で聞いていても見苦しい。

そういう姿勢が、公的な場で失言として出てしまうのだ。

偉そうな言葉、女性蔑視(べっし)、上から目線…。


どんなときも、誰に対しても、丁寧な言葉を使う人でありたい。

           <感謝合掌 平成30年4月3日 頓首再拝>

子供を善導する言葉の力 - 伝統

2018/04/19 (Thu) 02:46:00


       *「希望を叶える365章」(P53~54)より

若しあなたの子供が不良の仲間に入って、生活が紊(みだ)れているならば、
その子供の悪を《みとめて》面詰したり、説諭したり、懲戒したととて
其の効果はあまりないであろう。

何故ならあなたは、その子供の「悪」を《みとめる》からである。
「《みとめた》ものは現れる」と云うのが心の法則である。

子供の不良の現象を見ず、実相の完全さをみとめてそれを、
心に念じ、言葉に言いあらわすがいい。

「神の霊、常にわが子を導き給いて、その生活を正しくならしめ給う。
既に正しくならしめ給うたのである。我れ信ず。有りがとうございます」

とハッキリ自分の耳に聴こえる位の声で唱え、
且つ繰り返し強く心に念ずるがよいのである。

言葉に出し強く念ずれば念ずる通りにあらわれるのである。

実相に於いては既に子供は完全なのである。
現象が不良にあらわれて見えるのは ”迷いの心” の乱れにしか
過ぎないのである。

その迷いを言葉の力で吹き飛ばすのである。

           <感謝合掌 平成30年4月19日 頓首再拝>

言(ことば)は万事の本(もと) - 伝統

2018/05/03 (Thu) 03:53:42


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月3日)」より

「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神なりき。
万(よろず)のものこれによりて成る」と「ヨハネ伝」の冒頭にあるとおり、
言(ことば)は万事の本(もと)である。

言(ことば)というのは空気の振動ばかりのことではない。
心の振動も、顔の皮膚の振動も、身体(からだ)の態度も、文章も、手紙も
すべてコトバである。

しかし根本的には心の振動が、言語という空気の振動ともなり、
表情という顔の皮膚の振動ともなる。

見ゆる形は、見えない心的エネルギーが現われたのである。

心を平和に、言葉に善きことのみを発し、表情を明るくすることが大切である。

            <感謝合掌 平成30年5月3日 頓首再拝>

【美しい言葉と沈黙】 - 伝統

2018/05/14 (Mon) 03:29:54


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年03月22日)より

   (渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   美しさは女の生命だともいえる。

   修道院に入った身に着飾ることも、化粧することも縁遠くなったが、
   美しい言葉を使うことはできる。

   それは、あそばせ、ございますを頻発することではなくて、
   できるだけ美しいひびきを持った言葉を使うと同時に、
   適切な言葉を正確に使うことも意味している。

   借りものでない自分の言葉、そして、
   相手を傷つけないやさしい配慮を含んだ言葉でもある。


   ヴァイオリンの早期才能教育で知られている鈴木鎮一氏が、

   「まず自分の言葉が相手を傷つけるかどうかを感じる能力を育てること、
   それが育てば、バッハやモーツアルトの美しい音楽を感じとることができる」

   という意味のことを言われたように記憶しているが、
   他の子どもに負けないようにと、高い月謝を払い、高価な楽器を買って
   我が子を音楽塾に通わせている親たちの味わうべき言葉であろう。


   今日のようにお金さえ出せば誰も彼も同じような服を着ることができ、
   立派な家に住み、車をのりまわし、外国旅行に行ける大衆社会の時代において、
   教養をあらわすものの一つは言葉となろう。

   流行語でしか話せない人でなく、豊かな語彙(ごい)をもち、
   やたらに外国語を使うことなく美しい日本語を話し、
   自分の立場を正確に判断して正しく敬語を使うことのできる人になりたい
   ものである。

   自分の感情をすなおにあらわし、
   意見を他人にも理解できるように伝えるとなると、
   これはもう言葉の意識ではなく、話す人の品性にかかわってくる。

   感情を適度にコントロールできる自制力、客観的にものごとを見る判断力、
   そして個性のある生活が必要となってくるだろう。


   人は話す前は自分の言葉の主人だが、
   口から出してしまった言葉の奴隷でしかない。

   そのためにもよく考えて話すことがたいせつだ。

   矛盾のようだが、よく話すために、そして美しい言葉を使うためには
   沈黙が必要となってくる。

   それは押しだまった沈黙、「自分」でいっぱいの沈黙でなく、
   または「物言えば唇寒し」といった自己防衛の沈黙でなく、

   実り豊かなもの、その間の充実のあふれが人をして
   話さざるを得なくさせるような準備の時間であり、
   自分のこれから話そうとすることの響きをあらかじめ聞くべく
   心の耳を澄ます時間である。


   女の人の沈黙は特に美しいと思う。

   ほほえみとともに美しい沈黙を育てること。

   言葉に先立つものとしての沈黙をたいせつにしてゆきたい。

          <『美しい人に』PHP研究所>

               ・・・

「ことばは刃物」という言葉がある。

刃物は、気を付けて扱えば料理などではなくてはならない大事な存在だが、
誤った使い方をすると人を傷つける凶器ともなる。


言葉もまた同じだ。

「神のささやきが聞こえるように沈黙しよう」(エマーソン)

《話し三分に聞き七分》、と言われるように、
コミュニケーションは話すことより、むしろ聞くことの方が大事。

耳を澄ませば、神々のささやきまで聞こえるという。


自分が話してばかりいるときは、相手のことを分かろうとしていないとき。

沈黙には忍耐がいる。

しゃべりたくてウズウズしている自分を自己コントロールしなくてはならないからだ。


美しい言葉と沈黙には大人の品格がある。

            <感謝合掌 平成30年5月14日 頓首再拝>

良いことばと悪いことば - 伝統

2018/05/24 (Thu) 03:47:19


       *「神道 感謝のこころ」葉室頼昭・著(P151~153)より

ある実験について読んだことがあります。

それは、右手を熱い湯に、左手は冷水に浸けておき、
その後、両手を同じ水に浸けると、
右手は冷たく感じ、左手は温かく感じるというものです。

ここで大切なのは、その水の温度が同じだということです。

つまり、人間は自分が置かれた状況や経験で判断しがちであり、
そこだけで判断すると間違いが生じることもある、ということなのです。

同じ温度の水を、熱い冷たいと判断するのではなく、
水は水としての、その本質を知ることが必要だということです。

このとこはそのまま言葉の本質の問題にも当てはまります。

今から150億年前、ビックバンという大爆発によって
この大宇宙ができたといわれていますが、

そのビックバンが起こる前には神さまのお心があって、
その心の波動によって、全ての現象が現れてきました。

この神さまのお心を音で表現しているのが人間の言葉ですから、
言葉を発するとそこから神さまの波動が現れ、それが現実のモノとして現れてくる
というのが言葉の本質です。

日本人の祖先はこのことを知っていて、言葉には魂があり、
良い言葉をいえば幸福が現れ、逆に悪い言葉をいえば不幸が現れる
という言霊(ことだま)の信仰としてずっと伝えてきました。

今でも、おめでたいときには決して悪い言葉をいってはいけない
という忌言葉(いみことば)が行われています。


ここ最近、特に不景気が回復しないために国民がこぞって不平不満をいい、
テレビや新聞などで毎日不景気や倒産といった悪いニュースばかりが流れるのを見て、
それが本当のことのように思って皆が暗い気持ちになっています。

しかし私はそうは思いません。

不景気は、神さまからの私たちにたいするお知らせであり、お恵みでもあります。

何も悪いことばかりではなく、そのために自然破壊が収まり、
人々が働くことのありがたさを知る絶好の機会ともなっています。

ですから、不景気の悪いところばかりを見るのではなく、
良い面も見てそれを言葉に出すことが大事です。

神さまは、人を不幸にしようとはなさっておりません。

不幸になるのは、神さまの恵みを忘れ、
人間が勝手に不幸だと思ってそれを口に出して言うからです。

もういい加減に、日本人全体が本当のことに目覚め、誰もが明るい言葉を使い、
生かされていることに感謝する生活を送るべきですし、
またそうならなくてはならない時期にきているのではないでしょうか。

            <感謝合掌 平成30年5月24日 頓首再拝>

【全部、いい方に変える】 - 伝統

2018/05/30 (Wed) 03:17:21


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年05月02日)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   “いいこと”ってね、いっぱい、やんなきゃダメなんだよ。

   体にいいもの、といったってな、朝鮮ニンジンだろうが、何だろうが、
   体が治るまでには相当量、要るんだよ。

   “いいもの”というのは、食品だろうが、そういうものなの。


   ところが、悪いものってのは、毒薬ってのは耳かき一杯あれば、
   ここにいるオレたち全員、死ぬんだよ。

   アレぐらい、少量でも効くものはない。


   それと同じように、他人(ひと)には毒のある言葉だとか、
   傷つける言葉って、ちょっとでも、すごい効くんだよ。

   人の悪口とか、いじめって、それをやられた人の心をどのぐらい、傷つけるか。

   たったひと言、吐いた毒で、簡単に人は傷ついて、
   オレたち、それを直してあげるのに、どのぐらい、たいへんか。

   ひと言、吐いた毒で傷ついた心をキレイにしてあげるのに、
   オレたちは何年かかるか、わかんないんだよな。


   だから、一つひとつ、ひっくり返して、ひっくり返す努力っていうのがな。

   悪いものを“いいもの”にひっくり返す、ひっくり返す努力を自分にやって。

   それができるようになったら、今度、自分の周りにも、

   「おまえ、こういうとこで、つかえてんだったら、
   こういうふうに、ひっくり返したらどうだ? こう思ったらどうだ? 」っていう。

   周りにいる人に、「そんなことないよ、気にするなよ」って、
   心の重荷をとってあげる。

   一つずつ、一つずつさ、「そんなことないよ」って。

   一人さんなんか、もっと成績悪かった(笑)。

   それだって一人さん、明るかったじゃないか、って。

   全部“いいほう”に変えていこうよ、って。


   おねしょしてたのなら、
   あなた、自分で「世界地図書いてたんだ」って、笑い飛ばそうよ。

   そしたら自分は気が楽になって、周りの人も助かるよ、って。

            <『自分さがしの旅』ロング新書>

              ・・・

斉藤一人さんのいう「自分さがしの旅」とは、
自分の先祖だとか、ルーツを探す旅ではない。

自分の記憶の中を旅することだという。

「本当の自分って、どんな人なんだろう」と。

自分が「できないと思ったこと」や、
「親やまわりから言われた欠点や弱点」などをもう一度見つめ直し、
それをオセロのようにひっくり返す旅のこと。


一人さんは、「未来は変えられないけど、過去は変えられる」という。

過去は、「ああいうヒドイことがあったけど、あのおかげで今がある。感謝だなぁ」
と過去の記憶をよい方にひっくり返すことだ。

過去の、「病気や事故」も、「心を傷つけられたこと」も、
「恥ずかしい失敗」も、「嫌な出来事」も、みんないい思い出に変える。

失敗は笑いのネタにするのだ。



全部、いい方に変えられる人でありたい。

            <感謝合掌 平成30年5月30日 頓首再拝>

【「言葉が現象化する」の本当の意味】 - 伝統

2018/06/09 (Sat) 04:46:37


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年05月29日)

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「言葉が現象化する」と言うと、
   多くの場合、誤解されている部分があるようです。

   「こうなりたい。ああなりたいと口に出して言うと、それが実現する」
   という誤解です。


   「言葉が現象化する」というのは、たとえば、神社仏閣に行って、
   良縁祈願というものをお願いしたとします。

   「いい人と出会わせてください。いい人と結婚したいのです。
   素敵な人と出会わせてください」と100回お願いをしたとします。

   そうすると、その言葉をまた言いたくなるように現象化します。

   つまり、いい人や素敵な人にはなかなか出会わない、という現象が起きるのです。


   同じように「商売繁盛をお願いします」と千回行ったとします。

   千回それを言ったことによって、
   また同じ言葉を千回言いたくなるように現象がセットされます。


   「言ったとおりの言葉をまた言いたくなるように、
   言った数と同じ数だけまた言いたくなるように、
   宇宙では現象化が始まる」

   というものです。

   聖書の中にこんな言葉があります。

   「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり。言葉は神なりき」


   「言葉は現象化する」という宇宙の大法則を述べたもののような気がします。

   それも、その言葉を言ったらその言葉が実現する、
   というものではないと思います。


   「言葉が現象化する」というのは、
   「その言葉をまた言いたくなるように現象がセットされる」というふうに、
   私の認識の中ではとらえられました。

   これは神社仏閣に行ってお願いごとをする、
   そういうことを要求するということが、ほとんど意味をなしていない
   ということにもつながっています。


   では「言葉が現象化する」、
   つまり「その言った言葉をまた言いたくなるように現象がセットされる」
   のであれば、最も効率の良い言葉は何でしょう。

   たとえば「うれしい」という言葉を1年間に千回言ったとします。

   そうすると、その「うれしい」という言葉をまた千回言いたくなるように、
   来年は現象がセットされます。


   「楽しい」という言葉を二千回言ったとします。

   その「楽しい」という言葉をまた二千回言いたくなるように現象がセットされます。


   「幸せ」という言葉を年間三千回言ったとします。

   その「幸せ」という言葉を年間三千回言いたくなるように現象がセットされます。


   一番効率の良い言葉は、「ありがとう」「ありがとうございます」です。

   「ありがとう」「ありがとうございます」という言葉を年間1万回言ったとします。

   そうすると来年「ありがとう」「ありがとうございます」という言葉を、
   また1万回言いたくなるような現象がセットされ、次々に降ってくるのです。


   「うれしい」「楽しい」「幸せ」、そして「ありがとう」という言葉を、
   何千回何万回と宇宙に向かって言ったとすると、
   その言葉を同じ数だけ言いたくなるように宇宙の現象がセットされます。

   そして、「うれしい」「楽しい」「幸せ」「ありがとう」
   と言いたくなるような現象が降ってくるのですが、
   それがどんなことであるのかはわかりません。

   だから楽しいのです。

   おもしろいのです。

   そして、ワクワクします。

   ドキドキします。

   このワクワク感、ドキドキ感というのは、
   何にも代えがたいおもしろさであり楽しさです。

             <『運命好転十二条』五月書房>


                ・・・

毎日の生活の中で、
「うれしい」「楽しい」「幸せ」「ありがとう」 という言葉を
たくさん使ったほうがいいですよ、と言うと、

「うれしい」ことも、「楽しい」ことも、「幸せ」なことも、「ありがとう 」
というようなこともそんなに無いから言えない、と言う人がいる。

そして、愚痴や泣き言や、不平不満や文句や悪口ばかりを言っている。

愚痴や泣き言や不平不満を言っている人は、
また来年も、愚痴や泣き言や不平不満を言う人生を歩む。


「言葉が現象化する」

これは、商売も、病気も、トラブル、困難もみな同じだ。

今、病気であっても、
「うれしい」「楽しい」「幸せ」「ありがとう」 という言葉を多用する人はいる。

「うれしい」「楽しい」「幸せ」「ありがとう」 といつも言っている人の周りは、
明るくて、あたたかい空気が流れていて、笑顔がたえない。

だから、人が周りに集まる。


反対に、愚痴や泣き言や、不平不満や文句や悪口ばかりを言っている人の周りには、
暗くて、冷たい空気が流れていて、不機嫌なオーラがただよっている。

だから、人がどんどん離れていく。


人生においては、「言葉が現象化する」の本当の意味を知る必要がある。

            <感謝合掌 平成30年6月9日 頓首再拝>

【ふた言あいさつ】 - 伝統

2018/06/12 (Tue) 03:58:57


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年05月12日)より

   (松本秀男氏の心に響く言葉より…)

   前職の保険会社での話です。
   私は最期の3年間、会社の中心でもある経営企画部に所属しました。

   CEOをはじめ役員たちのサポートをしていく部門です。

   私は数年前までガソリンスタンドのおやじでしたので、
   外資系の経営企画部で唯一英語が話せないメンバーでした。

   しかしながら、他のメンバーは、
   大半が帰国子女や、留学経験者や、外国籍の社員だったりしました。

   またとても心の熱い素晴らしいメンバーばかりでした。


   とはいえ、私以外はみんな賢い人ばかりなので、
   職場がクールで静かな空気になることもありました。

   そのクールさを、とても潤いゆたかで、あたたかな空気に変換してしまう
   メンバーが3人、立て続けに入ってきました。

   この3人は別々に異動してきたり中途入社してきたのですが、
   3人とも共通する点があることに気づきました。

   それは、あいさつが、ひと言多い。


   「おはようございます! 今日も寒いですねぇ」

   「おはようございます! 昨日のサッカー、熱かったっす!」

   「おはようございます! 松本さん、朝からうれしそうですね。
   なんかあったんですか?」


   みんな部屋に入ってくるなり、あいさつとともに、何かひと言加えます。

   あいさつだけして席に着くのではなくて、
   あいさつとともに、何かコミュニケーションが始まっている。

   これをほめ達(ほめる達人)では、「ふた言あいさつ」と呼んでいますが、
   あいさつにひと言足すだけで、びっくりするほどに
   その日のコミュニケーションが変わり、いい関係ができたりします。

   これってとても効果的なのです。


   かく言う私も、部門の事務を支えてくれる派遣社員の方に、
   こんなことを言われたことがありました。

   「松本さんは、朝、自分がおはようございますと言って入って来るときに、
   必ず目を見ておはようと言ってくれるので、朝からちょっと元気になれます」

   「ふた言あいさつ」はひと言プラスだけではなくて、
   ワンアクションをプラスしても相手に伝わるようですね。

   「ひと言」「ワンアクション」、たったそれだけです。

         <『できる大人は「ひと言」加える』青春出版社>

               ・・・

中畑清氏の駒澤大学野球部のときの話がある。
(月間致知より、太田誠駒澤大学野球部監督の言葉)より

『彼のしていた挨拶とは次のようなものだった。

例えば誰かに「こんにちは」と声をかける。

普通ならこれでお終いだが、中畑は必ずその後に
「きょうはいい天気ですね」とか「おばあちゃん、いつも元気ですね」といった
“もう一言”の挨拶を付け加えるのだ。

私はこれを「二言(にげん)挨拶」と名付け、
普段の挨拶をただの挨拶に終わらせないよう心がけてきた。

この「二言」は、必ずしも言葉である必要はない。

すれ違った相手のために立ち止まっても二言。

手振りや微笑であってもいい。

上級生のほうから「おはよう。きょうも元気にいこうぜ」
なんて声をかければなおのことよし。

そこに人間同士の心と心の通い合いが生まれてくるのだ』


「ふた言あいさつ」は、感謝やお礼を言うのもいい。

「おはようございます! 昨日は手伝ってくれてありがとう」

「おはようござます! 先日はすっかりご馳走になってしまい、ありがとうございました」


もちろん、手伝ってもらったときや、ご馳走になったときにもお礼を言うが、
感謝は2度するとさらに、その気持ちが伝わる。


ふた言あいさつ…

「ふた言あいさつ」の実践はコミュニケーションを深める。

            <感謝合掌 平成30年6月12日 頓首再拝>

言葉は、人生航海の舵 - 伝統

2018/06/18 (Mon) 04:03:52


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月18日)より

言葉が舵であって、人生の方向を定める。
言葉、言葉、言葉、言葉・・・・・
われわれの心に印象を深からしめるために「言葉」という字を繰り返し繰り返し書いておく。

船は船長の言葉の力でその方向に必ず進むのである。
船長はみだりにまちがった言葉を出すことはできない。
船長が「東」と言うのに、船が「西」に進むということはありえない。

では、われわれは「幸福」に人生を航海したいならば、「幸福」の方向にのみ
自分の「人生」を進めたいならば、われわれは自分の人生の船長であるから
「幸福」とのみ掛け声をかければよいのである。

「幸福」「幸福」とのみ毎日掛け声を掛けているならば、
必ず自分の「人生」は幸福の方向に進んで行くにちがいないのである。

「健康」「健康」とのみ掛け声をかめていれば、
必ず「健康」の方向にのみ自分の人生は進んで行くにちがいないのである。

それだのに「幸福」を切に求めながら、毎日「自分は不幸だ」と掛け声をかけたり、
呟いたりしている人があり、「健康」を切に求めながら、毎日「自分は虚弱だ」と
掛け声をかけたりしている人がある。

自分の運命について呟く人、自分の病身について呟く人はこういう種類の人であって、
その人がその生活習慣を改めないかぎり、本当に幸福と健康とは来ないであろう。

今現に不幸であっても「幸福」と言う人は、西へ行こうとしている船が
「東」と言う船長の言葉で「東」へ位置を変じはじめると同様に、
「幸福」の方向へ生活が転向しはじめるのである。

           <感謝合掌 平成30年6月18日 頓首再拝>

否定的な言葉は打ち消しておくことが必要 - 伝統

2018/06/19 (Tue) 03:45:00


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月19日)より

「アダムの名づけたるところのものは、その物の名となれり」と
「創世記」にあるように言葉のとおりに事物はなるのである。

宇宙は感受力鋭敏なラジオ・セットのようなものである。
このラジオ・セットは言葉で放送したものを感受するほか、
心で放送したものを鋭敏に感受して、それを具体的可聴的可視的な存在とするのである。

自分の放送しないところのものは一つとしてこの世界に形を顕わさない。

妻を呪う言葉を出したときには、妻はやがてその呪わるべき形に変って来るだろう。
良人を呪う言葉を出したとき、良人はやがてその呪ったとおりの姿に現われて来るであろう。
自分の職業を呪い、境遇を呪うがごとき言葉は冗談にも発すべきではないのである。

もし過ってそんな言葉を出したならば、それと反対の言葉、
「善い良人だ」「善い妻だ」「自分の職業は良い職業だ」「自分の境遇は幸福な境遇だ」
というような言葉で打ち消しておくことが必要なのである。

           <感謝合掌 平成30年6月19日 頓首再拝>

目覚めの言葉 - 伝統

2018/06/23 (Sat) 03:22:38


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月23日)より

朝目を覚ましたとき、その疲労感に捉われるな。
多くの病人は、半睡半覚状態における身体の《だるい》感じを
「病気の執拗(しつこ)いためである」と錯覚しているのである。

「身体(からだ)の《だるい》のは同じ姿勢で長く寝ていたからである」と信ぜよ。

そして

「今後自分には善きことばかりが来るのである。
自分は神の子であり、神に祝福されたるものであるから、
常にいっそう幸運は訪れ、常にいっそう健康になるのである」

と瞑目のまま低声(こごえ)をもって繰り返し念ぜよ。

必ずその言葉の力のとおりになるのである。

           <感謝合掌 平成30年6月23日 頓首再拝>

《”言葉の力”を駆使して天分を開発せよ 》 - 伝統

2018/07/07 (Sat) 04:32:14


       *『人生の秘訣365章』第5篇(P138~139) より

「天才は忍耐なり」と云う諺があるが、
忍耐ある修練をつづけて行くためには
仕事(又は勉強)に対する自信と興味とがなければならないのである。

”自分には到底できない”と云うような劣等感がある限りは、
その仕事に興味をもちつづけて、
忍耐づよく努力を重ねて行くことができないのである。

忍耐強く努力を重ねて行くためには、絶えず、

「自分はこの仕事に天分がある。自分の天分は
毎日一層明かに現象的にもあらわれて来るのである。
自分は此の仕事は必ず上手に出来るのである」

と自分自身の心に囁(ささや)きかけることが必要である。

常に言葉の力にて、
「我れにはこの天分あり、われこれを為す、必ず成就す」と
自分の潜在意識に印象しつづけるならば、

今まで潜在意識に印象せられていた”劣等感”は次第に
”天才の自覚”と置き換えられ、その程度に応じてついに必ず、
その方面に傑出した成績を挙げ得るのである。

           <感謝合掌 平成30年7月7日 頓首再拝>

《“言葉の力”で幸運を創造せよ》 - 伝統

2018/07/20 (Fri) 03:56:56


        *『人生の秘訣365章』第6篇(P147) より

信念深き言葉を発せよ。

「自分が出掛ける時は必ず必ず好天気である! 」

「この講習会には必ず大勢の人が集る」

「どんなに世間が不景気であっても私の店は必ずお客が沢山来るのである。
註文は殺到しつつあるんだ」

と信じて此等の言葉を発し、また心の中にその通りの確信するのだ。

確信の程度に随って必ず、その言葉の通りに成就するであろう。

イエスが「若し辛子種ほどの信だにあらば、
この山に動いて海に入れと言うとも必ず成らん」と教えているのは本当である。

           <感謝合掌 平成30年7月20日 頓首再拝>

人生は言葉を模倣する - 伝統

2018/08/05 (Sun) 04:03:39


      *『第二青年の書』(第七章)より

『生命の實相』の自伝篇にある通り、私は早稲田の文科にいたころ、
オスカーワイルドのそういう芸術論、人生論を読んで非常に感動したのです。

このオスカーワイルドの「言葉で表現したものが存在に入る」という思想が
実は生長の家の根柢にあるのです。

その時分は生長の家を拵えようとも何とも思っておらなかったが、
青年の頃に読んだ思想はその人の全生涯を動かすことがあるものなのです。
これがその実例であります。

だから青年時代にはよい思想の本を読むことが大切であります。

それで、「ロンドンの霧は詩人がこれを詩に歌った時に始めて存在に入った」
「芸術は人生に先立つのである」「人生は芸術を模倣するのである」という
オスカーワイルドの人生論・芸術論を実践に移して人類光明化に応用したのが
生長の家であります。

生長の家で「人間は神の子である」「人間は病気にならない」
という意味の言葉を芸術的文章でそれを現わしたら、
人生がそれを模倣する事になったのであります。

それで「人間は神の子である、肉体ではない、霊であるから病気にならない」
と言葉の力を極めて『生命の實相』に書いてある。
それを読者が読むのですね。

すると人生は『生命の實相』に書いてあることを模倣する、即ち、
「人間は神の子であって、病気にならぬ」と書いてあるから、
これを心読して心に深く印象すると病気にならぬということにもなるし、
病気をしている人も治ることになるのです。

その代り、「病気になるぞ」という病理学や、通俗医学の本などを
余り度々読んでおると、「人間は病気になる」という印象を
潜在意識に受けて病気に罹りやすくなる。

それは人生は言葉を模倣するのでありますから、
そういうことになるのであります。

だから言葉は創造者であるとも言えるのであります。
現象界が現われてるよりも前に先ず、「始めに言葉あり」であります。

(《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1979
<2017年12月19日 (火)名前:平賀玄米> より転写 ) 

           <感謝合掌 平成30年8月5日 頓首再拝>

【言霊の力を信じる】 - 伝統

2018/08/21 (Tue) 04:17:44


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年07月27日)より

   (浜松医大名誉教授、高田明和氏の心に響く言葉より…)

   「すべてはよくなる」。

   この言葉は「困ったことは起こらない」より積極的な響きをもっています。


   では、「因果の法則」と言霊はどのように関係しているのでしょうか。

   こんな疑問が浮かびます。

   もし、悪いことをしていたなら、
   いくらよい言葉を使ってもどうしようもないのではないでしょうか?

   言葉などは意味がないのではないでしょうか。


   私も長い間この疑問に答えられませんでした。

   しかし、現実に「困ったことは起こらない」とか「すべてはよくなる」などと
   口ぐせのようにつぶやくと、ほんとうに問題が解決してしまうのです。

   最近、この謎が解けたのです。

   つまり、悪行をもっている人に
   このような言葉を教えても、そもそも信じないのです。

   「バカらしい」と実行しないのです。


   このような言葉を信じ、実行する人はもともと善業をもっている人たち、
   あるいはその資格がある人たちなのです。

   心に受け皿のある人なのです。

   ですから、言霊は善業をもっている人にこそ、
   もっとも有効に働き、幸せをもたらすのです。

   だいたい自分の人生を真摯に受け止め、
   「困ったことは起こらない」を信じて口ぐせのようにつぶやいている人が
   悪いことをするでしょうか。

   もちろん、人間ですから間違ったことを
   いろいろしてしまうのは仕方がないのです。


   しかし、そもそも人を殺したり、詐欺をしたり、
   いじめたりして他人の心を平気で傷つける人は、
   言霊を信じていないものです。

   信じない人に言霊の効用をいくら説いても、信じないのです。

   そのような人の行いを見ると、皮肉屋で人の心を傷つけて平気な人、
   悪いことをしてもそれに気づこうともしない人がほとんど、いや全部です。


   言霊を信じ、よい言葉を使い、それを自分に言い聞かせている人なら、
   その人が徳を積んでいることがわかるのです。

   そのような人が「すべてはよくなる」と自分に言い聞かせていれば、
   すべてがよくなるのは当然ではないでしょうか。

   あなたは言霊を信じるでしょうか。

   信じているということ自体が、
   あなたがこれまで徳を積んでいるということになるのです。


   無宗教といわれる人も言葉を信じているかぎり、大丈夫です。

   正しいことをする人たちは宗教を信じようが信じまいが、
   言葉の力は信じ、それを用いているのです。

   いい言葉、いい考えを自然におこなう人は言霊を信じることで得られる力を、
   じつは、知らない間に得ているといえます。

           <『人生の目的は「心が楽になること」』新講社>

             ・・・

「素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても耳を傾ける心である」

と言ったのは、松下幸之助翁。

どんなに、いい言葉やいい話を聞いても、素直にそれを聞かず、
またそれを実行しなかったら、人としての成長や進歩はない。


日本は、「言霊の幸(さきわ)ふ国」と、万葉集にある。

言葉の力によって、幸福がもたらされる国。

言葉の力を信じなければ、残念ながら、幸福はもたらされない。


汚い言葉、人をおとしめる言葉、不平不満、愚痴、泣き言、悪口…

いずれも、幸せや運が逃げていく言葉だ。


言霊の力を信じる素直な人でありたい。

           <感謝合掌 平成30年8月21日 頓首再拝>

明瞭に語られたる言葉は、実現力が強まり、感情が強まると動的創化力となる - 伝統

2018/08/30 (Thu) 03:11:18


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月30日)より

明瞭に語られたる言葉は、曖昧に念ぜられたる言葉よりも実現力は強いのである。
合掌瞑目神想観の形式をとり、自分の耳に聞こえるほどの声をもって、
次のごとく誦(とな)えることは自己内在の無限の力が自覚する上に効果がある。

「神はすべてのものを我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の智慧を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の愛を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の生命(いのち)を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)」

十回には限らないのであるが、あまり永いのも長時間かかるし、短くても感銘が浅くなる。
十回と限定したのはそのためである。

敬虔の念を起こすために合掌の形式をとっているから、1回称えれば、右手の拇指に軽く力を
入れ相対する拇指を押し、2回称えれば右手の人差指に軽く力を入れて相対する指を押し、
順次に中指、紅指指、小指と移り、さらに左手の拇指より始めて左手の小指に至りて、
終われば合掌のまま、数のことを考えて意識を複雑にすることなしに十回称え終わるのである。

「ありがとうございます」と称える時は、すでにそれを受けたる感激に浸りつつ
本当にありがたい気持を起こすのである。

言葉は単なる思想以上の感情を招(よ)び起こし、
感情は単なる思想以上の動的創化力となるのである。

         <感謝合掌 平成30年8月30日 頓首再拝>

《生命の存在自覚がコトバである》 - 伝統

2018/09/19 (Wed) 04:21:57


       *『 生長の家 』(昭和24年2月5日の法語)より

   表現することは
   創造することである。

   凡そ存在するもので
   自己を表現していないものは
   何物もないのである。

   その表現は
   自由意思による動作によって行われる。

   波動は 動作である。
   霊の最初の自由意思による動作が
   コトバである。

   そのコトバは
   生命が自己存在を自覚したるときには
   常に伴うものである。

   「 我れあり 」 の自覚そのものが、
   “ 生命の振動 ” であるがゆえに、
   存在の自覚そのものが コトバなのである。

   これが即ち
   「 太初(はじめ)にコトバあり、
   コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき 」である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12896232.html

         <感謝合掌 平成30年9月19日 頓首再拝>

人々に好印象を与えるもの - 伝統

2018/10/07 (Sun) 04:31:12


          *『理想世界』(昭和47年5月号)より

多くの人々の協力を得ようと思うならば、
人々に “よき印象” を与えることが出来なければならないのである。

発声音の 『コトバの巧みなる者』 
必ずしも人々に良き印象を与えるとは決まっていないのである。 

表現は、 “示し” であり、 “申す” であり、従ってそれはコトバであり、 
『神の創造力』 であるから、あなたの一挙手一投足がコトバである。

『身のこなし』 『態度』 などもコトバである。 
『身のこなし』 『態度』 などがブッキラ棒であり、荒っぽく、傲慢であるならば、
他から受け取られる印象は決して “よき印象” ではあるまい。

『出る杭は打たれる』 『能ある鷹は爪をかくす』 『実る程、頭のさがる稲穂かな』 
という諺が示すところの教訓は処世の上で学ばなければ、
人々に好印象を与えることはできないであろう。

知識や能力がすぐれていても、それだけで人々に好印象を与えることはできない。 
“生意気な” という感じや、 “少才子” というような感じは、
そんなに好い感じを人々に与え得るものではない。

人々に好印象を与えるのは、その人のもつ誠実なという感じである。 
物事に丁寧親切な態度である。 

何事にも愛が深く、すべての事をおろそかにはしないという感じが、
その一挙手一投足の間にもあらわれるような心境を養うことが大切である。

それは一夜漬、ある尊敬すべき人に面したときだけ、その場をとりつくろっても、
それは見えすいた虚構であり、うわ面の技巧であることは、直ぐに看破られるものである。 

本当に、表面(うわつら)でなく、心に愛と誠実とをもつようにしなければならない。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24696868.html

         <感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝>

善きことを信じて言葉に出す - 伝統

2018/10/08 (Mon) 03:05:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月8日>(P96)より

善きことのみを語り、善きことのみを考える習慣をつけなければならない。
自分の嫌いなこと、望ましくないことを語ってはならないし、思ってもならない。
言葉は想念と同様に強力なる具象化(かたちにあらわす)の力を持っているのである。

われわれは自己の運命ラジオのアナウンサーである。
われわれ自身が言葉に発するとおりに現象世界にあらわれてくるのである。

だから常に自己の欲することを、希望することをあたかもすでに実現せるがごとく
想念し言葉に出すようにつとめなければならない。
そして言葉に出す場合にそれを信じて出すことが必要である。

善き言葉がかえって実現しないように見えるのは、
悪いことを言う時にかえって信じながら話すからである。

           <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

コトバの力で、「全一」から呼び出し創造する - 伝統

2018/10/19 (Fri) 04:44:03


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月19日>(P103)より

実在は「全一(ぜんいつ)」である。
「全一」は表現せられえない。
「全一」は一度に知覚せられえない。

そのことはわれわれの記憶内容全体のようである。

われわれは生れてからいろいろの機会に無数に触れ、見、聞き、経験した事柄を
記憶しているのであるけれども、その全体が一度に記憶の表面に浮かび上がって来ないのは、
「全一」なるものは、無数の相(すがた)が超時空的な世界に重なり合っているから、
知覚することができないためである。

それを記憶心象として脳髄の知覚面に浮かび上がらせうるには、
「全一」の中から、必要でないものを残して置いて、
「今」必要なものだけを、空間的表象面に浮かび上がらせなければならぬ。

それと同じく、「全一」なる存在が、それが知覚しうるように表現せられるためには、
「全一」の中からある物を”呼び出し”て来て、他を「全一」の中に残しておかなければならぬ。

表現はコトバであり、コトバは呼び出しであるのはこのためである。
われわれは善きコトバの力によって善き物を創造することができるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月19日 頓首再拝>

宇宙とつながる言葉 - 伝統

2018/10/30 (Tue) 03:00:39


          *「宇宙におまかせ! 」大木ゆきの・著(P68~70)より抜粋

宇宙は、私たちに、たくさんのものを、与えてくれようとしている。

何かをする時、

「~しようっと。」
「~しよう。」

という言葉がよい。


例:15時までに、銀行に行く用事がある。



「15時までに、銀行に行こうっと。」



「~しなければならない。」という言葉は使わない方が良い。



宇宙とのつながりが悪くなってしまうんですよ。



これをしなければならないと、大変なことになるという、
「怖れ」の気持ちが出てしまうため。



「怖れ」と周波数が合うと、宇宙から与えられる、

楽しいこと
幸せなこと

を、受け取ることができない。



言い方を変えれば良い。

「勉強しようっと。」

「掃除しようっと。」



「怖れ」から、緩むこと。



「やりたくなったらやっていいよ」って自分に言ってみるのも効果的。

           <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>

言葉の神秘 - 伝統

2018/10/31 (Wed) 04:21:00


    *「光明道中記」(10月31日 言葉の神秘を知る日)より

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。 
                (『生命の實相』第二巻)】 

早稲田政治科出身の先輩、上田謙氏は言語学を深く研究している人である。
次のような草稿を送ってこられた。

―― 言(こと)とは音(おと)に子音Kなる無意味の接頭語を飾りたるものです。
葉とは端(はし)くれ即ち現象の意。

然らば音とは何ぞや。
是れ印度(いんど)、波斯(ペルシア)、希臘(ギリシア)等に於ける
拝火教によびなされし音即ち odo と称する veda 教典に説く
万有に貫通する生命乃至実在の事也(なり)。

希臘”オデ”イ・イリ”アド”は皆此の音乃至 odo の事にして、
是が又歌とも同じものです。

其の証拠には「斯う云う事を歌って置き乍(なが)ら」云々の言葉の中の
「歌う」とは「言う」乃至言葉の意味なるに依(よ)りても知らる。

又音無(おとな)しい人とは、喋らぬ人の謂(いい)にて、
是も音とは言葉である事が証さる。

かく日本人の上層を成せるものの名は正しく梵語と同一語源で
出羽(でわ)は deva(神)、佐分利(さぶり)は svara(日神<ひのかみ>) 

幣原(しではら)は svara では余り梵語其の儘故、これを隠して「て」を入れて
「し(て)はら」であり、されば神の意である弊(しで)の字があるので、
此の弊(へい)の字が「しで」と読む理由が解る訳で字引には謎である。
んと撥(は)ねて「しんばら」となる。

御社(おんしゃ)の「光明」も「しばら」で光明真言に言う「じんばら」は
此の「しばら」で光明(神)の事です。

・・・・・

谷口雅春先生が説かれる「言霊」については、
次のスレッド「『言靈と神通力』」でも学ぶことができます。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=613 

           <感謝合掌 平成30年10月31日 頓首再拝>

【肯定的な顔】 - 伝統

2018/11/17 (Sat) 03:39:11


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年11月10日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   ここで一つ、方程式をお伝えしましょう。

   「不平不満」「愚痴」「泣き言」「悪口」「文句」、
   この「五戒」を言い続けている人には、「頼まれ事」がきません。

   「頼まれ事」を実践していくうちに、自分の使命や役割、
   自分が魂を磨くためにこの世に生まれてきたことの意味などが
   わかってくるのですが、その「頼まれ事」が一切こない。

   理由は簡単です。

   頼みにくい顔がそこに存在しているからです。


   「不平不満」「愚痴」「泣き言」「悪口」「文句」を
   今まで10万回言ってきた人は、その「五戒」の10万枚の和紙を、
   ベッタリと顔の貼りつけています。

   10万回言ってきた人は、それなりの顔になっている。



   一方、「嬉しい」「楽しい」「幸せ」「愛してる」「大好き」
   「ありがとう」「ツイている」…こういった肯定的な言葉を
   10万回言ってきた人もまた、10万枚の和紙を貼り付けていて、
   言葉にしてきたとおりの顔立ちをしています。

   肯定的な言葉を言ってきた人は、肯定的な顔をしている。


   たとえば、テレビ番組で「今の首相の政権についてどう思いますか?」とか、
   「この芸能人についてどう思いますか?」などのインタビューがされている
   場面がありますが、

   このマイクを向けられている人の顔を見れば、
   どんな答えが返ってくるかすぐにわかります。

   肯定的な顔をしている人は、
   必ず「良いと思います」と肯定的な答えが返ってきます。

   否定的な顔をしている人は、
   「ダメだと思います」「頭にきます」という言葉が出てくる。



   それぞれの問題について、どう論評するかというのは関係ありません。

   この人の人生観として常に、目の前で何か起こった時に
   肯定的に物事をとらえるのか、否定的に物事を捉えるのか、が
   はっきり決まっています。

   つまり、自分の顔を明るく楽しい顔になるようにつくり替えるためには、
   自分の口から発せられる言葉をコントロールしたほうが良いということです。


   今まで10万個の否定的な言葉を言い、
   9万個の肯定的な言葉を発してきた人は、
   差し引き1万個の否定的な言葉が顔に貼りついているわけです。

   だから、あと1万個「ありがとう」を言っていくと、
   差し引きゼロになって、やっとニュートラルな顔になります。


   実は顔だけではなくて、体の細胞もそのようになっています。

   否定的な言葉を発すれば発するほど、
   細胞は壊されてしまい、体が弱くなっていってしまう。

   一方で、否定的な言葉を発することをやめて、
   肯定的な言葉に切り替えると、体も元気になっていくようです。

         <『悟りは3秒あればいい』大和書房>

              ・・・

頼まれ事が、常時やって来るかこないかがはっきりしてくるのは、定年を過ぎてから。

会社に在籍している間は、誰であっても色々な意味で頼まれ事はやってくる。

しかし、いざ会社という枠組みを外れたとき、その人の本当の実力が顔を出す。


今まで、頼まれ事を、ニッコリと二つ返事で気持ちよく受けていたか。

それとも、頼まれ事を、
嫌な顔してああだこうだと文句を言って、不機嫌そうに断ってきたか。

あるいは、不平不満や文句を散々言って、
恩着せがましく、嫌々ながら引き受けてきたのか。


どうせ引き受けるなら、気持ちよく引き受けた方がいい。

そのほうが人間の生き方としては、よっぽどカッコよくて、魅力がある。


自分の顔を明るく楽しい顔になるようにつくり替えるためには・・・

頼まれ事を気持ちよく引き受け、肯定的な顔をつくっていきたい。

           <感謝合掌 平成30年11月17日 頓首再拝>

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