伝統板・第二

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人間の実相 - 伝統

2017/07/19 (Wed) 04:19:51

《久遠人間を自覚する》

        *『光明道中記(7月19日 久遠人間を自覚する日)』より

【「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には永遠の生命が与えられる。
                         (『生命の實相』第七巻)】


六祖慧能禅師の道場にも俊秀(しゅんしゅう)雲の如く集った。
なかにも最もすぐれて、後世に永く法孫(ほうそん)を連綿として断たなかったのは
南獄(なんがく)の懐譲(えじょう)禅師と青原の行思(ぎょうし)禅師とである。

南獄は黄檗宗、臨済宗の祖であり、青原は曹洞宗の開山である。

南獄が六祖慧能禅師を訪れたとき、慧能は、

「汝(なんじ)は何処から来たのじゃ」とたずねた。

「嵩山(すうざん)から参りました」と答えると、
「その参りましたというのは、一体何物が来たのじゃ」と重ねて問われた。

「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と南獄は答えた。

印加された。

説似(せつじ)と云うのは説示(せつじ)と同じことである。
禅宗には「挙示(こじ)」「挙似(こじ)」など同一に取扱ってある。
「《これ》だとハッキリ言って了ったら《それ》に的中しない」という意味である。

「維摩経」には維摩詰が病気の相(すがた)をしていると文殊菩薩が見舞に来て
「不来(ふらい)の相(そう)で来(きた)る」と言っている。
不来にして来るのが如来である。

超時空的存在が人間である。
「来たと云うのは此の人間だ」と顔を指(さ)そうが、胸を指そうが、
指(ゆびさ)したが最後、それは「物質」の一片「肉」の一片であって人間ではない。

人間とは形なき霊なる、
「説似一物即不中(これだとものをさしたらあたらず)」なのである。

         <感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝>

《人間の実相は大生命の最高顕現である》 - 伝統

2017/08/03 (Thu) 04:51:57


          *『白鳩』(昭和49年1月20日の箴言)より

   ではその「自分の実相」とは何であるかというと、
   人間の生命そのものが〃全宇宙に充満するところの大生命〃
   そのものの延長であり、単に延長であるばかりでなく、
   最高の自己顕現であるということなのである。

   その事を本当に自覚できるならば ―― 私は皆さんが
   この新年を契機として、そのことを真に完全に自覚して頂きたいのであるが
    ―― その自覚が出来て、

   それを感謝の念をもって受取ることができるならば

   「全ての男も女も、あらゆる家庭も、ことごとく
   全く新しき存在へと変貌してしまい、以前とはすっかり異なる
   新しき男、新しき女、新しき家庭が再創造せられることになるのである」


   この事を『黙示録』には『われ一切(すべて)のものを新たならしめたり』
   また『前の天と地とは過ぎ去り』という風に表現しているのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

         <感謝合掌 平成29年8月3日 頓首再拝>

人間の実相 - 伝統

2017/08/18 (Fri) 04:01:56


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P82~84)より


(三)
   神その創造(つく)りたるすべての物を見給いけるにはなはだ善かりき。
                         (「創世記」第1章31)


雲がはれて満月が皓々と輝くのは本来満月があるからであります。
恐怖、不安の迷妄が覚めて、人間が健康になるのは人間の本来が健康だからであります。

西行法師も「雲晴れて後の光と思うなよ、もとより空に有明の月」と歌っておられます。

病気が治って始めて健康が出て来るのではない、もとより人間の実相が健康であるから、
迷いが晴れて「健康」が顕(で)て来るのであります。

宗教というものはすべてこの人間の健全なる「神そのもの」なる、
「仏そのもの」なる実相を自覚せしむるためのものであります。



(四)
   イエス家にいたり給いしに、盲人(めしい)ども御許(みもと)に来たりたれば、
   之に言いたまう。「我このことをなし得(う)と信ずるか。」

   彼等言う「主よ、然り」ここにイエスかれらの目に触(さわ)りて言いたまう
   「なんじらの信仰のごとく汝らに成れ」すなわち彼等の目あきたり。
                       (「マタイ伝」第九章28~30)

   衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ。
   譬えば水の中にいて渇を叫ぶが如くなり。
   長者の子となりて貧里に迷うに異ならず。(白隠禅師)


これは一人の盲人ではなく大量神癒の実例であり、
言葉の力と、目に触れたる触覚とを媒介として、内在の信仰が深く啓発され、
多数の盲人がことごとく視えるように癒されたのであります。

なぜ癒えるか、人間の本来が「神の子」であり、健康であるからであります。

白隠禅師も「衆生本来仏なり」と言われております。
『涅槃経』には「解脱をもって仏とす」と言われておりまして、
解脱すなわち、本来の自由自在な生命の実相が「氷」のように迷いのために
結ばれて本来の自由自在を失っている。

その結ぼれを解き脱し、結縛がホドケて自由自在になった状態が仏であります。

成仏すなわち「ほとけに成る」とは迷いが「ほどけ」て「人間、神の子」
本来の自由自在の状態が復活せる状態になることを言うのであります。
仏教もキリスト教もこの点においては同一であります。

日本語源では、「人間・神の子」という意味を、
ヒト(日止)と言い、ヒコ(日子)またはヒメ(日女)と言います。
日止は大日如来の分霊(わけいのち)がわれわれの生命の中にやどっている
という意味であります。

大日如来の息子が(日子)であり、大日如来の息女(むすめ)が「日女」であります。
キリスト教的に言えば、人間は「神の子」だという意味であります。

人間は神の子であるのに、それを自覚しなければ顕われない。
それを自覚せんがために釈迦は6年苦行せられ、キリストは40日40夜断食せられた。
この種の苦行の意義は、肉体の否定ということであります。

肉体において「神の子」なる生命が顕われているのであって
肉体そのものが「神の子」なる生命ではない。

だから「神の子」なる生命を顕わすためには、まず肉体を否定しなければならない。
イエスの十字架は肉体否定の最後の段階であります。

『法華経』の薬王菩薩本事本にも一切衆生喜見菩薩が肉体を否定して、
これに火を点じて焼きつくした後に金剛不壊の黄金の身を生じたとあるのは、
肉体否定の最後の段階を通して、人間が永遠の生命を獲得するとの真理を
神話化して物語られたものであります。

              <感謝合掌 平成29年8月18日 頓首再拝>

《涅槃経にあらわれたる人間の実相》 - 伝統

2017/09/02 (Sat) 04:50:59


        *「理想世界」(昭和47年10月2日のことば)より

   涅槃経には釈尊が臨終の直前に見舞に来られたところの人たちに対して、
   真理の説法をせられた時の光景と、釈尊が直接彼らに ”真理” を
   伝授せられた説法とが載せられているのである。

   その涅槃経の ”金剛身品” に、
   金剛不壊の実相身(本当の人間の身)のことが説かれている。

   釈尊と迦葉(かしょう)菩薩との対話の 一節を次に引用する。

   「爾(そ)の時、世尊、後(また)、迦葉に告 げたまわく、
   ”善男子、如来身とは是常住身、 不可壊身(ふかえしん)、金剛身、
   非雑食身( ひぞうじきしん)、即ち是れ法身(ほっしん) なり。”」

   迦葉菩薩、仏に白(もう)して言(もう)さく、

   ”世尊、仏の説き給う所の如き等の身を、われ悉く見ず。
   唯、無常、破壊(はえ)、塵土(じ んど)、雑食(ぞうじき)の身をのみ見る。
   何故かと言えば、如来は、今当(まさ)に涅槃に入ろうとしていられるからである。”


   迦葉菩薩の指摘したところの ”無常” というのは、
   釈尊の説かれる”常住身”に対していわれた語であり、

   ”破壊(はえ)”というのは、釈尊の所謂る ”不可壊身(ふかえしん) ”
   に対した語であり、”塵土(じんど)” というのは『創世記』にアダムとイブが
   ”土 の塵(ちり)” でつくられたとあるーー即ち 結局、
   滅して土に帰る唯物論的人間観の表現であるのである。

   しかし迦葉菩薩が、今まさに涅槃に入り、滅して土に帰ると、
   肉眼で見たところの人間は、エマソンに言わせると
   「人間そのものを表わさず、人間を歪めて表わしているのである。」


   だから釈尊は迦葉に対して反論して次の如く言っていられるのである。

   「汝、いま、如来の身は ”不堅(ふけん)” である ”可壊(かえ)” であって、
   凡夫 (注・肉体人間)の身の如しと考えているが、そんな考えを起こしてはならない。

   善男子よ、 汝、今当に知るべし、
   如来の身は無量億劫堅牢 (むりょうおくこうけんろう)にして
   壊(くだ)け がたいものである。

   如来の身は、現象界の人間や天人のもつ身ではない。
   恐怖によって病気を起こすような身ではない。
   雑食で栄養を摂らなかったら死ぬような身ではない。

   如来の身は ”非身是身(ひしんぜしん)” だ
   (この身に 非らざる身が是こそ実相の身なのだ)

   それは不生不滅だ。習わずして知り、修めずして一切に通達して残すところなく、
   有限の身ではなく無 量無辺にして限りがないから、

   去って去ることなく、来たって来ることなく、
   去来を超えているから足跡もない。

   鳥の飛んだ後の青空にその翼の跡をのこさない如く、
   ”知” という ” 知” はなく、”形” という形はない。

   ”知”があって ”形” を把(つか)めば 汚れるということもあろうが、
   ”知”がなく 、”形” がなく、青空そのもののように
   畢竟 清浄なのが如来の身だ・・・・・・・」

   まだまだ涅槃経には実相身の清浄無碍広大無辺なることがかいてあるが、
   これだけ引用しただけでも充分理解できると思う。

   併し頭脳で理解できるだけではなく、それを生命と生命とが触れ、
   本質と本質が触れ、実相と実相とが相触れて、
   直接的に全的に自覚されなければ、本当の悟りではないのである。

   http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2710

             <感謝合掌 平成29年9月2日 頓首再拝>

《人間の実相は大生命の最高顕現である》 - 伝統

2017/09/19 (Tue) 04:44:34


         *『白鳩』(昭和49年1月20日の箴言)より

   ではその「自分の実相」とは何であるかというと、
   人間の生命そのものが〃全宇宙に充満するところの大生命〃
   そのものの延長であり、単に延長であるばかりでなく、
   最高の自己顕現であるということなのである。

   その事を本当に自覚できるならば ―― 私は皆さんが
   この新年を契機として、そのことを真に完全に自覚して頂きたいのであるが
    ―― その自覚が出来て、

   それを感謝の念をもって受取ることができるならば

   「全ての男も女も、あらゆる家庭も、ことごとく
   全く新しき存在へと変貌してしまい、以前とはすっかり異なる
   新しき男、新しき女、新しき家庭が再創造せられることになるのである」


   この事を『黙示録』には『われ一切(すべて)のものを新たならしめたり』
   また『前の天と地とは過ぎ去り』という風に表現しているのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

             <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

“神の世嗣”としての自己完成を得る祈り - 伝統

2017/10/06 (Fri) 03:29:17


         *「光の泉」(昭和54年10月号・日々読誦毎月真理経)より

わたしは肉体人間をば自分の本体だと考える素朴的人間観から超脱して、
人間は“神の子”霊的実在であるという自覚を獲たのである。

人間は肉体ではないのである。
肉体と謂うのは地球という天体に、もっとも高級な霊的雰囲気に満たされている天体から、
ある使命を委ねられて、天降って来た人間の霊魂が、地球の気圧にバランスする
内圧をもつように構造(しつら)えられた宇宙服であることをわたしは悟ったのである。

自分の実相は神の最高の自己実現として、
神の有ち給えるあらゆる貴き霊性を具有する“神の子”として、即ち神の世嗣として、

その内在の能力を訓練され、完き“神の子”としての資格にふさわしく凡ゆる善徳が
発現されるために今、地球を“地上神の子修練学校”として“唯今勉強中”というのが、
地上に生まれたわたしたちの生活であるのである。

それ故にわたしたちは、「自分は病気だ」とか、「自分は貧しい」とか、
「わたしは不幸だ」とか「この世界は面白くない」とか「今は不景気だ」
「誰もわたしを尊敬する人はない」とか、「わたしは淋しい」とか、
「わたしは孤独だ」とか、暗い悲観的な意気阻喪した退嬰的なことを考えたり、
呟いたりは決してしないのである。

わたしは全能の神の世嗣として貴き使命を受けたる者であり、
自分の闊歩するところ常に道は開かれ、ゆたかに協力者があらわれ、
機会の扉を開く鍵は、常にわが掌中に握られてあるのである。

多くの人々はわたしに今又は常に、
必要なアイデアを持って来てわたしの計画を助けるのである。

わたしの一挙手一投足はわたしの計画を成就する方向にのみ自然に動き出すのである。

喩えば春雨来って自然に蕾はふくらみ花開く如く、
暖かさが必要な時期には自然に暖かな気候となり、
潤いの必要な時期には自然に適当な雨が降り、

周囲の動きは悉くわたしの仕事を祝福し、
その仕事の見事なる完成のために協力してくれるのである。

大自然の智慧とわたしの内に啓いて来る智慧とは、常に調和しているのである。
何故ならわたしは神の世嗣として神の御業を成就するのが、
神から授かった使命であるからである。

全智にして全能なる神、大自然の動きを調節し給うて、
わたしの計画の成就に便宜なように循行し給うのである。

わが内なる智慧と大自然の中に動く智慧とは別々のものではないのである。
それゆえにわが内なる智慧が、大自然の内に動く智慧とが矛盾したり、
衝突したりすることは全然あり得ないのである。

内と外は“一つ”であり、別別のものではない。
唯、神のみ実在であり給うこの世界には唯幸福と繁栄と健康と裕かさと美しさと、
すべての悦びの源泉であるもののみが充満しているのである。

そのような実相を悟らしめ給いし神に感謝し奉る。ありがとうございます。


  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )

         <感謝合掌 平成29年10月6日 頓首再拝>

あなたの実相は神である - 伝統

2017/10/24 (Tue) 04:56:03


       *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P225) より

《万物はあなたの味方である》

あなたの中には既に完全なる実相があるのである。
あなたの実相は神であり、神聖である。

あなたの実相は神と偕にあるがゆえに、未だ嘗て生れざる不生の存在である。
不生の存在であるがゆえに無始無終の存在であり決して死せざるものである。

 
あなたの実相は神であり、普遍の神と一体であるがゆえに、
あなたの実相は万物と調和しているのである。

あなたの実相は万物と調和しているがゆえに、
万物はすべてあなたの味方である。

万物すべて味方である実相をあなたが悟るならば
何らあなたにとって恐怖すべきことはないのである。
恐怖すべき事がないゆえにあなたの心は平和である。

心が平和であるがゆえに、正しい智慧が湧き出て来て、
時に随い、場所に応じて適当な行動をとることができるようになり、
凡(あら)ゆることが好都合に行くようになるのである。

         <感謝合掌 平成29年10月24日 頓首再拝>

《本当の自分とは》 - 伝統

2017/11/11 (Sat) 03:22:17


        *『 生長の家 』(昭和46年3月4日の法語)より

   《“ 肉体 ” は本当の自分ではない》

   現実の人間は、“ 肉体 ”と称する“ 物質の体(たい) ” と
   霊体(又は幽体)と称するところの“ 物質以上の霊的な体(たい) ” と、

   その奥に、“ 実相 ” と称するところの
   “ 理念の体(たい) ” をもっているのである。

   一般人は、肉眼で “ 肉体 ” だけを見て、
   それを “ 自分 ” の全部だと思って、

   ” 肉体 ” を楽しませる事を“ 自分 ”を良くすることだと思って、
   肉体的、物質的な利欲の追求に余念がないような状態であるけれども、

   肉体という “ 波動の体(たい) ” は、
   地上で、その人の生命が使命を果すための一種の宇宙服であって、
   地上の使命が終ると結局消えてしまう運命にあるのであって、

   それは、 “ 本当の自分 ” ではないのである。

   “ 本当の自分 ” というものは、永遠の価値あるところの
   永遠に存在するものでなければならないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12630675.html

         <感謝合掌 平成29年11月11日 頓首再拝>

《人間の実相は “ 無限に生きるもの ”》 - 伝統

2017/11/27 (Mon) 03:47:55


        *『 生長の家 』(昭和46年3月5日の法語)より

   “ 本当の自分 ”というものは 変化し、常住の姿なく、
   移り変って結局消えて行くような「 肉体 」ではない、ということは
   どうして判るのであるか ー というと、

   私たち人間は、心の奥底に、
   みな永遠に生きたい願いをもっているからである。

   “ 有限の肉体 ”が どうして
   “ 永遠の生命 ”(無限)を願うのであろうか。

   “ 有限 ”から“ 無限 ”が出て来る筈(はず)は
   あり得ないのである。
   “ 無限 ”は“ 無限 ”からのみ出て来なければならない。

   “ 無限に生きたい ”という願いが
   人間の心の奥底から生まれて来るのは、

   “ 無限に生きること ”が人間そのものの本性(ほんしょう)で
   あるからでなければならないのである。

   それ故に 人間の実相は
   “ 無限に生きるもの ”であるといわねばならない。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12633110.html

         <感謝合掌 平成29年11月27日 頓首再拝>

《神との断絶関係にある人々》 - 伝統

2017/12/15 (Fri) 03:40:33


        *『 生長の家 』(昭和46年3月8日の法語)より

   神から、みずから絶縁し、神と断絶関係にある人間は、
   この世界と、この自分(人体)とを、物質としてみとめるが故に、
   それは有限であることは止むを得ない。

   しかし、彼自身はその内性又は実相に於いては、
   “ 神のいのち ”が宿って“ 彼自身 ”となっているのであるから、

   無限に伸展したい自己拡張・自己発展の願いが
   その抑えがたき意欲として内部から
   湧きあがって来るのである。

   しかも彼自身が物質としてみとめる地盤の上において、
   無限に自己拡張したい願いをもつ多数の人間が、
   地球上にひしめき合っているのであるから、

   其処に衝突や、食い合いや、奪い合いや、戦いが
   起って来るのは当然のことなのである。

   「 神につくられたる世界に、
   どうしてこのような争いが満ちているのだろうか 」の疑問は
   そこから起って来るのである。

   しかし、現象世界は、“ 蛇の知識 ”(「創世記」第二章)にあざむかれ、
   この世界と人間と本質を“ 有限なる物質 ”と観ているのであるから、
   “ 有限世界 ”に“ 無限の欲望 ”を実現し得ない悲しみが湧いて来て、

   イエスの如く「 わが国はこの世の国に非ず 」と
   嘆声を発せずにはいられなくなるのである。

   「 知識の樹(こ)の果(み)」を食して、
   こうして楽園から追放せられた人間が、

   楽園に復帰するためには「 生命の樹の果 」即ち
   “ 生命の実(じつ)の相(すがた)”を食して、
   「 生命は神より来る 」という霊的自覚を
   蘇生(よみがえ)らすほかはないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12656059.html

         <感謝合掌 平成29年12月15日 頓首再拝>

《吾は日に日に完全円満である》 - 伝統

2018/01/08 (Mon) 03:54:04


           *「光明法語」(1月8日)より

神の完全なる実相が、吾を通じて時々刻々尚(なお)一層完全に実現しつつあるのである。
われは神の子であり、神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、
日々に一層あらゆる点に於いて神の完全さを顕わし来(きた)るのである。

肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、言葉に於いて無礙であり、
交友に於いて愛にめぐまれ、ありとあらゆる点に於いて完全なのである。

若(も)し汝が何事か不調和な事を経験するなら
数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。

念を感謝に転ぜば一切は変化する。

         <感謝合掌 平成30年1月8日 頓首再拝>

《人間の生命の本質について》 - 伝統

2018/01/26 (Fri) 03:52:30


         *「理想世界」(昭和47年10月3日の法語)より

   エマソンに於いては、Soul という語を、生命の奥の奥にある
   人間の ”本質” 又は ” 魂” という意味で使っているのである。

   これを ”精神” と訳しても間違いではない。
   精神という語は「精髄であるところの神(たまし い)」という意味を
   もっているからである。

   併し、現代語として ”精神” という語が使われる場合には
   「あいつの精神はくさっている」 とか「あいつの精神はどうかしている」
   「精神 の退廃」とかいう風に、

   脳髄の作用として出て 来る一種の ”心の働き” を ”精神” という
   通俗語で表現することが多いのである。

   エマソンのSoulという語を ”精神” と和訳されている場合、
   その”精神”という語をそんな ”脳髄のはたらきである精神” と
   いうような通俗な意味にとってはならないのである。

   それは ”人間の本質である魂” という意義に
   解しなければならないのである。

   そういう意味に解してエマソンのエッセイを、
   入江勇起男氏の訳を読んで行けば、
   エマソンの真意味が光って来るのである。すなわち、

   「人間の生命の本質である魂は一つの器官ではなく、
   あらゆる器官を生かし働かせるものであり、
   記憶、判断、比較の力のような一機能ではなくて、

   これらを手足のように使うもの、一能力ではなくて一つの光であり、
   知力または意志ではなくて知力、意志の主であり、
   それらを含む私どもの存在の背景をなすものである。

   つまり、Soul(魂)は何物にも属さない、
   また何物にも所有されることのあり得ない
   無際限のもの である」というのである。

   All goes to show that the soul in man is not an organ,
   but animates and exercises all the organs; is not a function,
   like t he power of memory, of calculation, of comparison,
   but uses these as h ands and feet; is not a faculty,
   but a light; is not the intellect or the will,
   but t he master of the intellect and the will;
   is the background of our being, in which they lie,
   --an immensity not possessed and that cannot be possessed.


   このエマソンの人間のSoulの無際限を説くところは、
   涅槃経の

   「それは不生不滅だ、習わずして知り、修めずして一切に通達し、
   有限の身 ではなく、無量無辺にして限りがない」

   と説かれているのと同じ意義なのである。


   http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2711

         <感謝合掌 平成30年1月26日 頓首再拝>

《人間は何であるか》 - 伝統

2018/02/16 (Fri) 03:58:45


           *「光明法語」(2月16日)より

人間は肉体ではない。
肉体は《人間》の肉体である。

それなら人間とは何であるか、人間とは生命である。
『生きる力』であり、『愛する力』であり、『思考する力』である。
肉体は『生きる力』が想念の活動を組み合わせて創造(つく)ったところの産物である。

本当の人間は、その想念し考えるところの本体なのである。

吾々が『悪』を想念することは、吾々自身が『悪』に成ることである。
想念とは生命の波であり、生命そのものが想念することによって
『想念するところのもの』になるのである。


         <感謝合掌 平成30年2月16日 頓首再拝>

本当の自分とは - 伝統

2018/03/07 (Wed) 04:02:23

       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇(P32~34) より

《自分とは何ぞや》

人は自己とは如何なるものかということを切実に、
真剣に考える一時期を通過するものである。

そして、自己の本質を悟り得ないで、「もうどうでも好い」というような
投げやりの気持ちになって、「自己とは如何なるものなのか」などという問題は、
むしろ自分の心の外に押しのけて、

肉体の感覚のクスグリによる快楽で人生の意義を胡麻化してしまうか、
事業だとか金儲けだという物質的なものの構築や増大に心を奪われてしまう
ことになる人が随分たくさんあるのである。

そして事業や財産という外形の方はそれによって段々大きくなって行くが、
「人間とは何ぞや」という”中味”の方はだんだん縮小して空っぽに
なってしまうのである。

こうしてまことに気の毒な蝉(せみ)の抜け殻みたいな
人間になってしまう人が多い。


併し吾々はもっと真剣に「自分とは何ぞや」「人間と何ぞや」の問題に
取り組まなければならないのである。

道元禅師はその著『正法眼蔵』に「仏法を習ふといふは自己を習ふなり、
自己を習ふといふは自己を忘るるなり、自己を忘るといふは萬法に證せらるるなり、
萬法に證せらるるといふは、自己の身心及び他己(たこ)の身心を脱落せしむるなり」
と示されているのである。

自己を習う ―― 
すなわち自己とは如何なるものであるかを知ることが仏法であるのである。

               ・・・

《ニセモノの自分》

「自己を習う」ならば、「自己」というものを
一所懸命につきつめて勉強しなければならない筈と思えるのに、
「自己を習ふといふは自己を忘るるなり」と道元禅師は教えている。

ここに「自己」というものに「本当の自分」と「ニセモノの自分」とが
あるということが示されているのである。

この道元の言葉に多少書き加えて、
「本当の自己を習うというはニセモノの自己を忘るるなり」
という風に表現するならば一層よくわかるのである。

「ニセモノの自分」というものは、彼と我とを分離区分して対立関係や
弱肉強食関係にあり、自分の利益や快楽のためには、他(た)を傷つけたり
陥れたりしても何とも思わないような「自分」なのである。

そのような「ニセモノの自分」はよろしく忘れてしまうがよいのである。
そのような「自他分離の自分」を忘れてしまったら、自分が虚空にひろがった
普遍的存在であり、天地の万物と一体であるということが自覚されて来るのである。

これを道元禅師は「自己を忘るといふは萬法に證せらるるなり」
と仰せられたのである。

               ・・・

《本当の自分》

こうして一心に「自分とは如何なるものであるか」を懸命に知ろうとして
倦(う)まず精進努力修行を重ねている人は、自己の生命(せいめい)というものが
今「この肉体がそれだ」と思っているところの「自分」よりも限りなく大いなる存在
であるということが、インスピレーション的にハッと悟れる時が来るのである。

釈尊もキリストも、いずれも懸命に自己を知るべく静坐修行したことが
経典や聖書に書かれているが、その修行ののち、最後の業の自壊作用として、
「ニセモノの自分」が悪魔波旬又は悪魔サタンとしてあらわれた後(のち)、

「本当の自分が」、釈尊に於いては「仏陀」として、
イエスに於いては「神の子」として完全に自覚されたのであった。


実際、人のうちには「仏性」「神性」が宿っており、それを展(ひら)けば
無限の力を発揮し得るのであるけれども、大抵の人は、それを真剣に求めず、
それを展(ひら)かず、単に有限智、有限能力の”肉体的存在”に過ぎないとして、
みずからを自己縮小しているのである。

         <感謝合掌 平成30年3月7日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2018/04/07 (Sat) 03:51:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。
冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。
魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月7日 頓首再拝>

日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ! - 伝統

2018/07/22 (Sun) 04:54:33


        *『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より
        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より
        *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。(『生命の實相』第十五巻)】


南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。

その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。

 「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」

 「老師よ、坐禅をしているのです」

 「坐禅して何になるんじゃな」

 「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」

そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。

若僧は言った ――

 「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」

 「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」

 「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。

   ・・・・・

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。(『生命の實相』第十二巻)】


南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を待っていたかのように、

 「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。

若僧は驚いた。凡夫が座禅しても仏にはならないこと、
瓦を研いても鏡にならないとしたならば一体どうすべきなのだろうか。

 「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」

 「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
  牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」

若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、
自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを預言されたが、
間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」
と答えたとある。

   ・・・・・

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って死〇ばその病気は治っている。
                         (『生命の實相』第八巻)】

      *〇:ね

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている限りは、
心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が死んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 平成30年7月22日 頓首再拝>

人間は4つの世界に住んでいる - 伝統

2018/11/30 (Fri) 04:37:53


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より

人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
さらに実相の世界に住んでいるのである。

物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。

この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。

だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。

昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。

われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。

科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を
造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。

この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない
生命に必要なある要素が存在するのであって、
科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素において
異なるのであって、これは臨床効果においても見られるところである。

さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、
心のうちに恐怖や心配や悲しみや、ある人に対する
憤(いきどお)りや憎しみを捨てないでいるかぎりにおいては、
薬効があらわれないことがしばしばあるのである。

それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して
不用意にその病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、
かかる不用意なる医者の診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと
思われる患者を急速に死に導いてゆく実例も多いのである。

これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は、人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度にしたがって、
「罪あり」と認めらるべきものである。

さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。

生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先霊を含む)の悟りの向上による
ところが多いのである。

医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、
癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう実例の多いのも、
これらの病気が霊的障礙であるからである。

顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するに
やぶさかでない現代の医学が、なぜ肉眼で見えないという理由だけで
霊の障害による病源を研究することを迷信視しようとするのであろうか。

さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。

         <感謝合掌 平成30年11月30日 頓首再拝>

《霊と精神と物質との三重的存在》 - 伝統

2018/12/26 (Wed) 04:55:06


        *『人生の秘訣365章』第10篇(P245~245) より

人間は“神の子”であると云うことは、神は物質ではなく、精神でもなく、
“霊”であるから、人間は“霊的実在”であると云うことである。

“霊”は物質にあらず、精神(心)に非ずして、
一方に物質を生み出し、一方に精神を生み出す。

「易経」に「太極(霊)よりして両儀(陰陽)生ず」とあるのがそれである。

精神は発動的にして物質(肉体)を動かす。
発動的とは陽性なるを謂い、物質は受動的にして陰性である。

人間は、一見、霊と精神と物質との三重的存在の如く見えるのであるが、
霊が人間の實相であり、精神と肉体とは霊が現象面に働くために
その「道具」として創造したところのものなのである。

精神は精神としての働きの面があり、肉体は肉体としての働きの面があり、
精神界には精神的法則があり、物質界には物質的法則がる。
精神力によって物質的法則を超えることもあり得るがそれは異常の時である。

         <感謝合掌 平成30年12月26日 頓首再拝>

人間は、そのままが仏であり、打てばそれがあらわれる。 - 伝統

2019/01/22 (Tue) 04:33:54


   *「光明道中記」(1月22日 九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日)より

【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】

金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。

凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。

仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅である
と道元は『正法眼蔵』で喝破している。

たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。

発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、人間はその仏なる実相を露呈する。
そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、打てばそれがあらわれる。

打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 
生長の家は

「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」

と言って打つ。

どちらが効果があるかは既に実証済である。

         <感謝合掌 平成31年1月22日 頓首再拝>

《人間は何であるか》 - 伝統

2019/02/16 (Sat) 04:23:44


           *「光明法語」(2月16日)より

人間は肉体ではない。
肉体は《人間》の肉体である。

それなら人間とは何であるか、人間とは生命である。
『生きる力』であり、『愛する力』であり、『思考する力』である。
肉体は『生きる力』が想念の活動を組み合わせて創造(つく)ったところの産物である。

本当の人間は、その想念し考えるところの本体なのである。

吾々が『悪』を想念することは、吾々自身が『悪』に成ることである。
想念とは生命の波であり、生命そのものが想念することによって
『想念するところのもの』になるのである。

         <感謝合掌 平成31年2月16日 頓首再拝>

真実の人間 - 伝統

2019/03/02 (Sat) 04:38:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より

啓示の第二 ――

人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。

人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ―― 
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。

エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。

かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。

しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。

神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」とある以上は、
すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。エデンの楽園のほかに国土はない。

このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。

実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。

そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。

もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。

では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
 ―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。

そしたら「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の「どこへ?」逐い出されたのであるか。

誰が? どこへ? 
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。

            <感謝合掌 平成31年3月2日 頓首再拝>

神通無礙の存在が人間の実相である - 伝統

2019/03/25 (Mon) 02:48:24


       *Web:「住吉大神浄め給う」(2019-01-22)より

万教帰一して百福招来の祈り  谷口雅春 先生


人間の実相は肉体ではなく、神の生命の自己顕現であるから霊的実在である。
それゆえ物質界の法則や、時間・空間の現象世界の枠内に縛られることなく
自由自在神通無礙(じんずうむげ)の存在であるのである。

時間・空間の中に生命が生きているのではなく、
時間・空間を自己の心の掌中に把握していて、
これを握れば一点となり、これを展(ひら)けば無窮(むきゅう)となる
神通無礙の存在が人間の実相である。

本来神通自在にして何物の制約にも縛られない、
常に解(ほど)けたる状態であるのが人間の実相であるから、
“人間の実相の霊(たましい)”をホトケ(解け)と称(い)うのである。

『 涅槃経(ねはんぎょう)』には
「 解脱(げだつ)をもって仏となす 」 と説かれているのはそのためである。

本来、仏であり、如来(にょらい)であり、解脱であるところの人間は、
完全に自分の生活を自己統御し得(え)、環境や、境遇に縛られることなく、
完全に自己の生活を支配し、自分の運命を自分で自分の欲するごとく
創造することが出来るのである。

仏教的に謂(い)えば、人間の実相は仏陀(ぶつだ)であり、如来であるが、
日本民族古来の伝統的信仰によれば、人間の実相はミコトなのである。

日本古代の民族は、神々を皆ミコト称し、自己をも亦、ミコトと称したが、
漢字が渡来してから後(のち)は、“命(いのち)”という字を当て嵌(は)めて、
“命(みこと”と読ませたり、自己が神の生命(いのち)の顕現として
最高の尊貴(そんき)のものであるという自覚から“尊(そん)”という漢字を
当て嵌めて“尊(みこと)”と読ませたりしたのである。

ミコトの語源は御言(みこと)であり、
神のミコトバ われに宿りて、人間となっていることを意味するのである。

直観的に古来の日本民族は、この真理を知っていたので、
別に哲学的論理を追うこともなく、自己を“何某(なにがし)の命(みこと)”と
自然におのずから呼び、彼を亦(また)、“何某(なにがし)の命(みこと)”と
尊称して互いに拝み合ったのである。

はからずも、それがキリスト教の深い信仰をもつ人の自覚と
一致することになっているのである。

すなわち、新約聖書の『ヨハネ伝』には、神の言(ことば)が宿りて
人間の生命(いのち)となったという日本民族古来の自覚と
全く一致することが書かれているのである。

すなわち録(しる)して曰(いわ)く。
「 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、
言(ことば)は神なりき、この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在(あ)り、
万(よろず)の物これに由(よ)りて成(な)り、成りたる物(もの)一(ひと)つとして
之(これ)に由(よ)らで成りたるはなし。之(これ)に生命(いのち)あり、
この生命(いのち)は人の光なりき 」と。

しかし悲しいかな、多くの人々はこの自己に宿る“ 神の光 ” を自覚することなく、
迷いによって暗黒の世界をさ迷(まよ)っているのである。

併(しか)し此処(ここ)に人間生命の実相が神の光そのものである
と説く教えがあらわれたのである。

それが生長の家と謂(い)う広大(こうだい)な慈門(じもん)であって、
人類の魂の光の泉である。

諸宗(そしゅう)を排斥することなく、諸宗の神髄(しんずい)を礼拝(らいはい)して
万教(ばんきょう)一(ひと)つに帰(き)する真理を説(と)く。

誰(たれ)よりも早く、この教えに来(きた)る者は、それだけ早く平和と調和の祝福を
授(さず)かり、人生百般(ひゃっぱん)の幸(さいわ)いを受けるのである。

『 光の泉 』昭和53年4月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18~19頁)

  ( https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2a466d90045b75d9b1a4390e7c48e7ea )

            <感謝合掌 平成31年3月25日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2019/04/07 (Sun) 04:09:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。

冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。

魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月7日 頓首再拝>

肉体は人間ではない - 伝統

2019/04/21 (Sun) 04:19:52


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月21日)」より

英国の文豪ディッケンズは
『エドウィン・ドウロッドの秘密』という小説を書きかけて死んだ。

その後4年になって、米国のジェームズという霊媒
 ―― しかも彼は無学であった ―― が
ディッケンズの霊魂が憑り依(うつ)ったのだと称してその小説の後半を書いた。

その文体なり、筆跡なり、いちじるしくディッケンズに似ていたという。

私はオスカー・ワイルドの霊魂が憑り依って書いたという
自動書記の霊界通信を纂(あつ)めた本を持っている。
それには生前のワイルドの筆跡と霊界通信の文字とが比較して写真版に
撮られているが、筆跡がきわめて近似している。


肉体は人間ではない。人間の操縦機関であったにすぎないのだ。

            <感謝合掌 平成31年4月21日 頓首再拝>

不滅の “ 生き如来 ” を自覚する祈り   - 伝統

2019/05/09 (Thu) 04:27:28


       *Web:「住吉大神浄め給う」(2019-01-23)より

釈尊は涅槃経に於いて
「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と説き給うた。
一切衆生とは一切の衆(もろもろ)の生(せい)ある者のことである。

すべての生きとし生ける者は、悉(ことごと)く仏性を内に有しているということである。
仏性とは“仏(ほとけ)”即ち 如来の本性(ほんせい)である。

すべての生(せい)ある者は内に如来の本性を具有(ぐゆう)するのである。

特に生ある者のうち最も発達したる人間に於いては、
その仏性を単に内に具有するだけではなく、
生(い)ける如来として 今ここに顕現しているのが人間なのである。

謂(い)わば人間は “ 生き如来 ” であるのである。

人間は“生き如来”であるから、決して病むことなく、老いる事なく、
金剛不壊の霊身(れいしん)であるのである。

自己を肉体と称する物質身(ぶっしつしん)として見るのは、五官の感覚によって、
便宜上、縦(たて)横(よこ)厚みの三次元空間面上に翻訳して視(み)ているだけ
のことであって、翻訳文は原文とよく似ているけれども、
原文の全相(ぜんそう)を伝えるものではないのである。

翻訳文は原稿紙の上に書かれている。

しかし原著者の文章は、本来原稿紙の上にあったのではなく、
原著者の心の中にあった霊的理念が、文字というもので綴(つづ)られたものであり、
その時、既に心の中にあった霊的理念が完全に表現せられず、
文字という三次元空間面上に投げ出されて、その時に、霊的理念が
文字の表現力の範囲内に押し込まれて限定されたものとなっているのである。

これは霊的理念が現象界にあらわれる際におこる自己限定を、
文章に喩(たと)えて説いたものであるが、

仏性といい、如来(にょらい)という霊的実在者が人身(じんしん)というものに
顕現する時にも同様のことが起(おこ)るのである。

二千数百年前、肉身(にくしん)の釈迦牟尼如来を見たところの弟子たちは、
本当は釈迦牟尼如来そのものを見(み)奉(たてまつ)ったのではなかったのである。

彼ら弟子たちは、食物を食(しょく)し成長し やがて老衰し
涅槃(ねはん)に入(い)る肉身に翻訳された釈尊を見たのである。

純陀(じゅんだ)はせめて肉体の釈尊が生きて い給う間に、自分の作った食物を
一箸(ひとはし)でも食べて頂(いただ)く光栄を得(え)たいと、
心づくしの御料理を釈尊に奉持(ほうじ)して献(ささ)げている。

その時に釈尊は 「 自分は仏身(ぶっしん)であり金剛身であり、
非雑食身(ひぞうじきしん)であって、未(いま)だ曾(かつ)て
一度も物質の食物はたべたことはないのだ 」 と仰(おお)せられて
折角(せっかく)奉持(ほうじ)した食物をお契(あが)りにならないのである。

非雑食身(ひぞうじきしん)というのは 「 雑(いろいろ)の食物を捏(こ)ねあげて
出来ている身(み)ではない 」 という意味である。

つまり 生まれ、物質の食物を食(しょく)して成長し、
老衰して死滅する自分ではないということである。

純陀(じゅんだ)は純情な青年僧であったらしいが、
実在の釈尊を見奉(みたてまつ)ることが出来なかった。
肉体という三次元空間面に翻訳されたお姿を見ていたのであった。

釈尊は法華経の“ 如来寿量品 ”に於いても、
「 われ常に此処にありて滅せず 」 と仰(おお)せられ

「 自分は五百塵点 阿僧祇劫(あそうぎこう)以前の
まだその以前より不滅に存在する霊的実在であるのに、
汝(なんじ)らは如来の実相を見ずして 滅(めつ)ありと見る 」

という意味を説かれているのである。

わたしたちは肉身に翻訳された釈尊を見た純陀(じゅんだ)のようには、
自分自身の実相を、食物を捏(こ)ね上げて作った肉体だと見てはならないので、
すべての人間は釈尊と同じく「 われ常に此処にありて滅せず 」 であるのである。

その 「 常・此処の世界 」 とは何処(どこ)であるか、
それはイエスがいみじくも 「 神の国は 汝の内にあり 」 と指摘したところの
「 内在の世界 」 であり、

三次元空間面上に翻訳し出されない以前の無次元の世界であり、
われら人間すべて此の 「 常・此処の世界 」 にありて
死することなき不滅の存在なのである。

この真理を知らせ給いし神に感謝いたします。

『 光の泉 』昭和51年9月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18~19頁)
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d19a9f64c179217818019ab0f326b8ca より転写

            <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>

《自己を “ 神の子 ” と直観智で知る瞬間》 - 伝統

2019/06/03 (Mon) 03:47:33


         *『 生長の家 』(昭和46年3月26日の法語)より

   “ 神 ”は“ 霊 ”であるから、物質界の現象を認識するための道具としての
   “ 脳髄智 ”を持ってしては完全に知ることはできない。

   “ 脳髄智 ”は 懐中電灯の中にとじ込められた電池のハタラキによって生じた
   光のようなものであって、全体の存在を明るく照らすことはできないのである。

   それは脳髄組織の中にある生理作用によって生じた“ 光 ”であるから、
   その視野は狭くして縦横厚みの三次元空間の存在だけを照らすに過ぎないのである。

   従って“ 霊 ”なる神を知ることは出来ないし、
   霊なる人間の実相を知ることはできないのである。

   私たちが神を直観し、自己の実相が“ 神の子 ”であり、
   霊的実在を直観することが出来るのは、
   縦横厚みの三次元認識の牆壁(しょうへき)が砕け去った瞬間に於てである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12717736.html

            <感謝合掌 令和元年6月3日 頓首再拝>

《人間の主体は霊である事を自覚せよ》 - 伝統

2019/06/30 (Sun) 04:19:33


         *「眞理」第9巻生活篇第13章(P352~353) より

人間は「霊」である。
「霊」こそ人間であり、久遠に神聖なる「神の生命(せいめい)」の受胎である。
肉体はそこに「霊」が受胎したところの「神の宮」に過ぎない。

「宮」も大切であり、清潔に保存しなければならないが、
「霊」は一層大切である。

「霊」は「神の生命(せいめい)」であるから永遠そのものである。
それは不滅である。神聖である。
それが「人間」である。

その「人間」が「肉体」を道具として使う。
その道具を動かすための媒介となるようなエネルギーが「精神」である。
「霊」は「精神」を媒介として、
自分の肉体を目的通りに操作するのである。

ところがその媒介になる「精神」がくるっていたり、正しくなかったりすると、
肉体は「霊」の目的意志通りに動かなくなる。

「精神」が「霊」の媒介であると云う使命をわすれて、
肉体の奴隷になったりすることがある。

人間の主体を先ず自覚せよである。

            <感謝合掌 令和元年6月30日 頓首再拝>

超時空的存在が人間である - 伝統

2019/07/19 (Fri) 04:27:31


        *『光明道中記(7月19日 久遠人間を自覚する日)』より

【「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には永遠の生命が与えられる。
                         (『生命の實相』第七巻)】


六祖慧能禅師の道場にも俊秀(しゅんしゅう)雲の如く集った。
なかにも最もすぐれて、後世に永く法孫(ほうそん)を連綿として断たなかったのは
南獄(なんがく)の懐譲(えじょう)禅師と青原の行思(ぎょうし)禅師とである。

南獄は黄檗宗、臨済宗の祖であり、青原は曹洞宗の開山である。

南獄が六祖慧能禅師を訪れたとき、慧能は、

「汝(なんじ)は何処から来たのじゃ」とたずねた。

「嵩山(すうざん)から参りました」と答えると、
「その参りましたというのは、一体何物が来たのじゃ」と重ねて問われた。

「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と南獄は答えた。

印加された。

説似(せつじ)と云うのは説示(せつじ)と同じことである。
禅宗には「挙示(こじ)」「挙似(こじ)」など同一に取扱ってある。
「《これ》だとハッキリ言って了ったら《それ》に的中しない」という意味である。

「維摩経」には維摩詰が病気の相(すがた)をしていると文殊菩薩が見舞に来て
「不来(ふらい)の相(そう)で来(きた)る」と言っている。
不来にして来るのが如来である。

超時空的存在が人間である。
「来たと云うのは此の人間だ」と顔を指(さ)そうが、胸を指そうが、
指(ゆびさ)したが最後、それは「物質」の一片「肉」の一片であって人間ではない。

人間とは形なき霊なる、「説似一物即不中(これだとものをさしたらあたらず)」
なのである。

         <感謝合掌 令和元年7月19日 頓首再拝>

「肉体」無し、「本当の自分」のみあり - 伝統

2019/07/23 (Tue) 04:45:11


        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが
「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との截然(せつぜん)たる分離は、
南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は一カ月前に自分の死期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、
「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」
とその入滅を予言していられる。

死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
やはり死んで四大に復帰するのですか」などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、車と牛とを切離したのである。

         <感謝合掌 令和元年7月23日 頓首再拝>

「霊」のみが「本当の人間」 - 伝統

2019/08/13 (Tue) 05:00:04


       *「眞理」第9巻生活篇第13章(P355) より
        ~《大生命と霊的波動を協調すること》

「霊」のみが「本当の人間」であり霊のみが活力の源泉であるから、
私たちは常に「霊」から活力を汲むことが必要である。

それは常に神想観して、「神より無限の生命力が流れ入る」と
想念しなければならない。

肉体と云う自働装置は或る程度””蓄電池”のように活力を蓄積しており、
また食物によって物質的エネルギーは補給されるようになっているけれども、
その活力の蓄積には限りがあり、

人間の生きるのは、単なる物質的えねギーの循環だけでは不可能であるから、
霊的エネルギーの補給を大生命に仰ぐようにする必要があるのである。

そのためには、大生命の霊的波動(愛)と、波長を合わす生活を
送らなければならない。

即ち「愛」の念を起こし、「愛」を生活に実践しなければならない。
「愛」を実践したとき、「愛」の心を起こしたとき、
人間は一層健康となるのである。

         <感謝合掌 令和元年8月13日 頓首再拝>

《「霊」のみが「本当の人間」である》 - 伝統

2019/08/25 (Sun) 04:28:15


        *「眞理」第9巻生活篇第13章(P354~355) より

完全なる幸福と健康とは、人間の主体であるところの「霊」と、
その延長であるところの「肉体」とが、「精神」を媒介として
完全にその目的と行動とが一致したときに得られるのである。

即ち肉体が完全に「神の宮」として、霊的目的に奉仕したとき
得られるのである。

すべての、肉体の生理作用は、人間緒主体たる「霊」がそれを
自働制御操縦装置としてつくったのであるから、それは大体自働的に
働いているのであるが、その原動力は「霊」から来るのである。

「霊」は宇宙大生命(神)の一部分であるから、
肉体の自働装置を動かす原動力は、神から来るのであるとも言える。

若し、「霊」が肉体から来るならば、
肉体の装置は如何に完全であっても、それは生理作用をいとまなくなる。

肉体は単なる「脱(ぬ)け殻(がら)」となるのである。

「霊」のみが「本当の人間」である。

         <感謝合掌 令和元年8月25日 頓首再拝>

《実在の人間を見よ》 - 伝統

2019/09/07 (Sat) 05:03:55


       *「眞理」第9巻生活篇第13章(P362~363) より

神は存在の第一原因である。
寧(むし)ろ存在の第一原因を神と云うのである。

そして神は完全であり、神の智慧も完全であるから、
その智慧によって設計され構成せられた此の世界も完全である。
従って不完全と云うものは存在する余地がない。

此の完全なる世界を”実相の世界”又は”実在界”と呼ぶ。
そして”実在界”に住む完全なる人間を”実相の人間”と云う。

しかし神は霊であるから、神の造りたまえる
「実相の世界」も「実相の人間」も、共に霊的実在であるから、
物質を感覚する道具なる五官の感覚では感ずることはできない。

私達の感覚は、その霊的実在が、
時間空間のスクリーン(銀幕)に投映された「影」を見て、
それを物質として固定化して感じるに過ぎない。

私たちは「影」そのものだけを見て、それを実在だと感じてはならない。
「影」を象徴として其の奥にある霊的実在(神の国)を
霊的人間(神なる人)を見よ。

         <感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>

《あなたは「神」そのものです》 - 伝統

2019/09/21 (Sat) 04:18:20


       *「眞理」第9巻生活篇第6章(P144~145) より

どんなに自働操縦制御(オートメーション)装置が発達したとしても、
機械的に、或る結果をあらわしたり、機械的に自働したり計算したり
仕事をするにしましても、みずから考えるということはできないのです。

自働機械を考え出して作ったのは、生命(せいめい)ある人間です。
此処に、「生命(せいめい)」ものと、「自働機械」との相異があるのです。

その「生命(せいめい)」が何処から来たかと云いますと、「神」と
私達が仮(かり)に称(よ)んでいるところの普遍的な大生命から
生じたのであります。

あなたの内に「神」が生きているのであり、
大生命が生きているのであります。

「神」こそあなたの「生命(せいめい)」、「大生命」が
あなたに《於いて》生きているのです。
「大生命」こそあなたなのであります。

何と云う素晴らしい事実の発見でありましょう。

五尺何寸十何貫の物質的な有限体が「人間」そのものではなかったのです。
大生命があなただったのです。

         <感謝合掌 令和元年9月21日 頓首再拝>

《人間には四つの体がある》 - 伝統

2019/10/05 (Sat) 03:48:25


         *『 生長の家 』(昭和25年4月14日の法語)より

   吾々が自己表現をとげるためには
   色々の食物(たべもの)がいるのである。

   肉体を養うためには 物質的食物がいるのである。
   吾々の魂を養うためには 魂の食物がいるのである。

   人間は 色々の波動の体の合成体であるのである。
   肉体もあれば、エーテル体もあり、幽体もあり、霊体もあるのである。

   その奥に本当の自分なる 「 実相 」 があるのである。

   吾々は 画家が色々の絵具(えのぐ)を以(もっ)て絵をかく様に、
   色々の 「 波動の体 」 を以て 人生に絵をかくのである。

   吾々は 肉体は 「 本当の自分 」 ではないが、
   それを浪費することはいらないのである。

   画布や絵具を浪費してはならぬと同じように。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13815379.html

         <感謝合掌 令和元年10月5日 頓首再拝>

「真の人間(リーアル・マン)」 - 伝統

2019/10/22 (Tue) 03:25:21


        *『生命の實相』第一巻光明篇(P64)より
          ~病気は無い

いったい、皆さんは「病」というものが実際この世にあると信じておられますか。
「病気」というものを神がこの世に造り給うたと信じておられますか。

もし神にして「病気」というものをお造りにならないならば、
病気は第一義的にいえば本当は存在しない。
ただそれはあるように見えているにすぎないのです。

それは本当は「無い」けれども、あるように見えている「迷い」なのです。
「ない」ものをあると思っているから「迷い」なのであります。
「迷い」という心的状態が客観的(かたち)にあらわれて映っている。

これを病気とかいろいろの人生苦とかいうのであります。

これをたとえていいますと、
「大生命」は活動写真を映す機械の本源に輝いている光のような、
不可思議光(光明生命)であります。

それを無色透明の正念(しょうねん)のレンズを透すと
ただ光輝燦然たる大生命の肖像(にすがた)ができる。
これが神のつくり給うたままの光輝燦然たる人間そのままの姿であります。

ただこのわれわれの生命にいろいろの影や不完全な状態があらわれるのは、
それにいろいろの迷いの姿を描いた「念(こころ)というフィルム」を
あてがうからで、われわれが「念しだいでどうでもなる」というのは
このことであります。


本来、われわれ自身の「生命」が「光明生命」でないならば、
影さえも顕わすことができない。
光がなかったら活動写真を映すことができないと同じであります。

いろいろの病気や、いろいろの苦しみを「人生という映画」に
うつし出すことができるのは、病気や苦しみ以上の「光」がその本源にあるからで、
この「光」こそ、われわれが大生命からいただいているわれわれの
「真生命」なのであります。

いい換えると、それは神が造り給いしままの「真の人間(リーアル・マン)」
であって、この「真の人間」そのままを観るとき、それは円満完全であって、
なんらの欠点もない。

むろん、病気や不幸はぜんぜんないのであります。

各人の、この「真の人間」を観ることを
「実相を観ずる」とか「本来の面目を観る」とかいうのであります。

「生長の家の生き方」(『生命の實相』第七巻)に
「生命の実相を礼拝せよ」とあるのは各人に宿っている
「真の人間」を礼拝することをいうのであって、

この「真の人間」というものは心でこれを認めれば認めるほど、
明らかに形にも顕われてくるのであります。

つまり「真の人間(リーアル・マン)」を認めるということは、
「真の人間(にんげん)」(光明生命)に陰影(かげ)のあるフィルムを
当てがわずに、「真の人間(にんげん)」そのものを直接(じか)に見ることになり、
したがって陰影のある暗い映画が人生というスクリーンにあらわれなくなり、
「光明生命」ばかりが客観化してスクリーンにあらわれることになるのであります。

         <感謝合掌 令和元年10月22日 頓首再拝>

「真の人間」「妙有の人間」 - 伝統

2019/10/24 (Thu) 04:40:57


      *「光明道中記」(10月24日《本当に明るくなる日》)より 

【本当の明るさは常に真理と、愛と、智慧とから来るのである。
                    (『生命の實相』第八巻)】

「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに
生長の家の新しき真空妙有の説き方があり、それが驚くべき奇蹟をあらわし、

キリストの言ったところの「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」
と言った如き業績が続々あらわれるようになったのである。

「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。

妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き
頼りなき存在の意ではない。

妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。

妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。

それは五官に触れ得ない故に
非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、

後世人をして人間の真実性を補足するに
くるしませる結果となったのである。

「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き
表現法(いいかた)でも尚足りない。

「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、
具体的な仏身であり、金剛不壊身である。

         <感謝合掌 令和元年10月24日 頓首再拝>

物質の世界、精神の世界、霊の世界、実相の世界 - 伝統

2019/11/30 (Sat) 04:52:15


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より

人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
さらに実相の世界に住んでいるのである。

物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。

この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。

だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。

昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。

われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。

科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。

この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない生命に必要な
ある要素が存在するのであって、科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素において異なるのであって、
これは臨床効果においても見られるところである。

さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、
心のうちに恐怖や心配や悲しみや、ある人に対する憤(いきどお)りや憎しみを
捨てないでいるかぎりにおいては、薬効があらわれないことがしばしばあるのである。

それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して不用意に
その病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、かかる不用意なる医者の
診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと思われる患者を
急速に死に導いてゆく実例も多いのである。

これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は、人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度にしたがって、
「罪あり」と認めらるべきものである。

さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。

生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先霊を含む)の悟りの向上による
ところが多いのである。

医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、
癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう実例の多いのも、
これらの病気が霊的障礙であるからである。

顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するにやぶさかでない
現代の医学が、なぜ肉眼で見えないという理由だけで霊の障害による病源を
研究することを迷信視しようとするのであろうか。

さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。

         <感謝合掌 令和元年11月30日 頓首再拝>

真実の人間 - 伝統

2020/03/02 (Mon) 04:00:52


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より

啓示の第二 ――

人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。

人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ―― 
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。

エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。

かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。

しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。

神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」とある以上は、
すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。エデンの楽園のほかに国土はない。

このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。

実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。

そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。

もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。

では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
 ―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。

そしたら「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の「どこへ?」逐い出されたのであるか。

誰が? どこへ? 
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。

            <感謝合掌 令和2年3月2日 頓首再拝>

《人間は無始無終の存在である》 - 伝統

2020/03/27 (Fri) 05:08:13


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P34~35)より

「本当の人間」は肉体が死んでも死なないとすると、それは、
肉体は生まれないでも、「本当の人間」はそれ以前からの
存在だと云うことが出来ましょう。

即ち「本当の人間」は霊的存在であって無始無終の存在だと
云うことができます。

「霊」は超時空的な普遍的存在であり、姿(すがた)形なくして
能(よ)く一切の相(すがた)をあらわすことが出来るのであります。

その「霊」なる普遍的存在が動き出せば心の波動となり、それは恰も
物理学者がエーテルと謂う普遍的「無」の波動が電磁波となって、
ラジオ受信装置に声となってあらわれ、テレビ装置に姿となって
あらわれる如く、能(よ)く一切の相(すがた)をあらわすのであります。

あなたの本体は霊であり、無始無終の存在であり、心によって、
色々の肉体的状態をあらわします。

同一人格でありながら、心の想念が老いてくれば老人の姿をあらわし
病念を起こせば肉体に病気の姿があらわれます。

          <感謝合掌 令和2年3月27日 頓首再拝>

無次元的存在であるところの「実相人間」 - 伝統

2020/04/10 (Fri) 02:43:25


     *「光明道中記」(4月10日《幸福相(あい)踵(つ)いで来る日》)より

【心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。(『生命の實相』第十二巻)】


「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」であると云う意味であった。
併し、「物質」と見えている其の儘にその「生ける実体」が存在すると云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、三次元的に翻訳して
視ているのであるが、半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば縦横厚みだけの
三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、それは無限次元が三次元に
減ぜられただけであって、不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、平面的存在の如く写真に写されて
いるからとて、その写真には健康者は健康として写っていると同様である。

ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、間違が起るならば其処に映し出された写真に
映像ムラが出来たり、ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)
された場合に不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

          <感謝合掌 令和2年4月10日 頓首再拝>

《人間には仮相と実相があります》 - 伝統

2020/04/21 (Tue) 03:46:03


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P62)より

あらゆる不幸からのがれる道は、実相の完全さを見ることであります。
「実相」とは、神の造りたまうた実(じつ)の相(すがた) ――
そのままの相(すがた)であります。

人間には実(じつ)の相(すがた)と仮(かり)のすがたとがあるのであります。

肉眼に見えるのは現象すなわち、現れて見える象(かたち)でありまして、
見る角度によって、どのようにも見えるのですから、
これは仮の相(すがた)であります。

その仮の相(すがた)がどのように見えましても、見えるそのままが
彼の実相ではありませんから、「そんな悪い相(すがた)は本来無い、
彼は本来は完全である」と悪を打ち消して、善なる実相(じっそう)を
みつめるようにするのです。

現象界には見る人の心の姿が反映するのですから、
如何に見るかと云うことで、人間の幸不幸が定(さだ)まるのです。

人間を霊的実在として、神の子として、本来完全であるとして見ることにし、
互いに拝み合うようにするとき、見られる通りの完全な世界と人間とが
あらわれて来るのです。

            <感謝合掌 令和2年4月21日 頓首再拝>

人間を「 霊的実在 」だと知る - 伝統

2020/07/06 (Mon) 04:59:11


        *『 生長の家 』(昭和26年6月2日の法語)より
          ~ 物質は観念の影である

人間を物質的存在だと思っている限りにおいて、
人間は恐怖心を捨てることは出来ない。

人間の物質的有限観がまた争いを起す原因となる。

そこで不調和を心から投げ捨ててしまうためには、
人間の有限観をすてなければならない。

人間を「 霊的実在 」だと知らなければならないのである。


病気と云うのは真に「 病気 」( 心の不調和 )であって「 病体 」ではないのである。

「 体 」と見えているもの、「 物質 」と見えているもの悉(ことごと)く、

「 空間に投影されたる観念の綾(あや)、これを称して物質と云う 」(「甘露の法雨」)


であるから、病的観念を投影すれば、病体となってあらわれ、
健康の観念を投影すれば健康体となってあらわれるのである。

          <感謝合掌 令和2年7月6日 頓首再拝>

久遠人間を自覚する - 伝統

2020/07/19 (Sun) 04:51:58


        *『光明道中記(7月19日 久遠人間を自覚する日)』より

【「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には永遠の生命が与えられる。
                          (『生命の實相』第七巻)】


六祖慧能禅師の道場にも俊秀(しゅんしゅう)雲の如く集った。
なかにも最もすぐれて、後世に永く法孫(ほうそん)を連綿として断たなかったのは
南獄(なんがく)の懐譲(えじょう)禅師と青原の行思(ぎょうし)禅師とである。

南獄は黄檗宗、臨済宗の祖であり、青原は曹洞宗の開山である。

南獄が六祖慧能禅師を訪れたとき、慧能は、

「汝(なんじ)は何処から来たのじゃ」とたずねた。

「嵩山(すうざん)から参りました」と答えると、
「その参りましたというのは、一体何物が来たのじゃ」と重ねて問われた。

「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と南獄は答えた。

印加された。

説似(せつじ)と云うのは説示(せつじ)と同じことである。
禅宗には「挙示(こじ)」「挙似(こじ)」など同一に取扱ってある。
「《これ》だとハッキリ言って了ったら《それ》に的中しない」という意味である。

「維摩経」には維摩詰が病気の相(すがた)をしていると文殊菩薩が見舞に来て
「不来(ふらい)の相(そう)で来(きた)る」と言っている。
不来にして来るのが如来である。

超時空的存在が人間である。
「来たと云うのは此の人間だ」と顔を指(さ)そうが、胸を指そうが、
指(ゆびさ)したが最後、それは「物質」の一片「肉」の一片であって人間ではない。

人間とは形なき霊なる、
「説似一物即不中(これだとものをさしたらあたらず)」なのである。

          <感謝合掌 令和2年7月19日 頓首再拝>

肉体を神の栄光のために捧げよ、さすれば人間の実相の完全さが現われてくる - 伝統

2020/10/21 (Wed) 05:12:03


      *『 生長の家 』(昭和25年7月11日の法語)より
       ~《肉体を神の栄光のために捧げよ》

   肉体の自己を否定し、肉体の欲望を否定し、ニセモノの自分を抹殺し、
   肉体を神の目的までささげることによってのみ
   人間の実相の完全さは現われて来るのである。

   百万の敵軍を殲滅(せんめつ)するよりも
   汝(なんじ)の内に宿る低卑なるものを征服する方が
   偉大であるのである。

   汝の内に宿る低きものを征服せよ。
   高きものを築きあげよ。
   汚れたるものを清めよ。

   崇高なるもの、偉大なるもの、価値あるもののみを求めよ。
   汝は 間もなく聖者となるであろう。

   人間とは 肉体に非ず、物質に非ず、肉体の奥に、
   物質の奥に 霊妙極まりなき存在がある、それが人間であるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

          <感謝合掌 令和2年10月21日 頓首再拝>

現象の人間は幻、“寂滅の慈“を行じているだけ - 伝統

2020/11/12 (Thu) 04:43:00

        *「精神科学」(昭和45年7月号)
          ~昭和四十五年三月、生長の家記念日の講演会での講話の一部

“寂滅の慈“を行ずること

 さて、「現象は無い」という事を、維摩は、

「菩薩というものは、衆生を観ずるに、衆生即ち人類を観るのに、
恰度魔法使いが現わした幻の人間、テレビに映った人間のようなもの、
水の中に映ったお月様のようなものだ、
それは現われているけれども実在ではないのである」

と言ったので、文殊菩薩が、

「そんな人間というものが幻のような存在ならば、慈悲を行じよう
と言ったって、慈悲を行なう事なんかは出来ないではないか」

と言って尋ねたというのであります。

すると、維摩詰は答えたのです。――

「菩薩たるものは、衆生を『幻師の現じた幻の人間』だと観じ終ってから、
みずから心に念じて、次のように衆生たちのために、

『是れ即ち真実の慈である。寂滅の慈悲を施しているのだ』と心に念ぜよ。

何故なら一切衆生は本来“不生”であるからだ」


 現象の人間を、「幻の人間」だと観じたら、慈悲を行ずることが
出来ないではないか文殊菩薩はいうけれども、そうじゃないんだ、
これは実相の智慧によって“寂滅の真理を教える慈悲“を施しているのである。

本来、一切衆生――肉体の人間――というものは無いという真理を
施しているのであるから、これこそ本当の慈悲というものであると、
維摩は答えているわけであります。


 それは、この、「肉体の人間」を“幻の人間“だと悟らないで、
煩悩即ち「肉体の欲望」を基本人権であると考えて、
人間を“肉体的単位”で見るからそういうようなことになるのであります。

煩悩というのは、貪瞋癡(とんじんち)の三毒でありまして、
貪る心、瞋る心、愚癡の心であります。

こういう迷いがあり、こういう三毒の心がありますと、
カーと興奮して熱くなります。

これに反して肉体は「幻の人間」であり、諸々の現象は『所生なきもの』即ち
”本当の実在として、あるのではない、影のもの“だとわかりますと、
この熱くなる心がなくなる。

だから、維摩は肉体は「幻の人間」と知らしてやることは
『不熱の慈』を施したということになるのだといっているのであります。

 (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672
  道産子 2020/07/07 (Tue) 08:23:36)

          <感謝合掌 令和2年11月12日 頓首再拝>

物質の世界、精神の世界、霊の世界、実相の世界 - 伝統

2020/11/30 (Mon) 04:48:10


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より

人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
さらに実相の世界に住んでいるのである。

物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。

この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。

だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。

昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。

われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。

科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。

この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない生命に必要な
ある要素が存在するのであって、科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素において異なるのであって、
これは臨床効果においても見られるところである。

さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、
心のうちに恐怖や心配や悲しみや、ある人に対する憤(いきどお)りや憎しみを
捨てないでいるかぎりにおいては、薬効があらわれないことがしばしばあるのである。

それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して不用意に
その病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、かかる不用意なる医者の
診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと思われる患者を
急速に死に導いてゆく実例も多いのである。

これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は、人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度にしたがって、
「罪あり」と認めらるべきものである。

さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。

生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先霊を含む)の悟りの向上による
ところが多いのである。

医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、
癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう実例の多いのも、
これらの病気が霊的障礙であるからである。

顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するにやぶさかでない
現代の医学が、なぜ肉眼で見えないという理由だけで霊の障害による病源を
研究することを迷信視しようとするのであろうか。

さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。

          <感謝合掌 令和2年11月30日 頓首再拝>

《常にかわらぬ真物(ほんもの)の自分》 - 伝統

2021/01/05 (Tue) 01:46:01


        *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P286~287)より

人間全体の「永遠不滅の原型」これこそが「本当の人間」であり、
「理念の人間」であり、「霊なる人間」であります。

肉体の姿は、その影のようなものであります。

影は《うつろい》ますけれども、真物(ほんもの)は永遠であって、
影が消えても消えても、又、その姿をあらわす力をもっている
のであります。

その真物(ほんもの<実相>)の人間が本当の自分であります。

常に変っている自分の肉体、それにも拘らず、
その「変っている肉体」を指して、
やはり「永遠に変らぬ自分」のように自覚せしめるのは
何故でしょうか。

それはその肉体の奥に、物質の奥に、
永遠の存在なる「真物(ほんもの)の自分」があるからであります。

人間が「肉体」だけのものなら「肉体」の成分が新生する毎に
「自分」でなくなるけれども、人間は「肉体」の奥にある「霊」であり、
常に易(かわら)らぬ「不滅者」であるからこそ新生や再生が可能なのです。

          <感謝合掌 令和3年1月5日 頓首再拝>

人間を物質だと思うな - 伝統

2021/03/21 (Sun) 03:05:17


           *「光明法語」(3月21日)より

人間を物質だと思っている
 ―― その信念の程度に随って人間は物質の法則に支配され易くなり、
物質と同様に疲労と老衰と病気とに曝(さら)されるのである。

物質は大生命より発した波動のうちで最も粗雑低級な波動であるから、
霊の無限、無消耗性をあらわすことは出来ないのである。

人間を物質だと観ずる念波は、
自分の生命にこの無雑低級な消耗性を引寄せることになるから、
自分自身を消耗性の姿をあらわすことになり、
それだけ自分自身を不健康にあらわすことになるのである。

          <感謝合掌 令和3年3月21日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2021/04/07 (Wed) 04:54:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。

冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。

魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

            <感謝合掌 令和3年4月7日 頓首再拝>

《人間には四つの体がある》 - 伝統

2021/04/14 (Wed) 03:49:54


        *『 生長の家 』(昭和25年4月14日の法語)より

   吾々が自己表現をとげるためには
   色々の食物(たべもの)がいるのである。

   肉体を養うためには 物質的食物がいるのである。
   吾々の魂を養うためには 魂の食物がいるのである。

   人間は 色々の波動の体の合成体であるのである。
   肉体もあれば、エーテル体もあり、幽体もあり、霊体もあるのである。

   その奥に本当の自分なる 「 実相 」 があるのである。

   吾々は 画家が色々の絵具(えのぐ)を以(もっ)て絵をかく様に、
   色々の 「 波動の体 」 を以て 人生に絵をかくのである。

   吾々は 肉体は 「 本当の自分 」 ではないが、
   それを浪費することはいらないのである。

   画布や絵具を浪費してはならぬと同じように。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13815379.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月14日 頓首再拝>

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