伝統板・第二

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当たり前に功徳あり - 伝統

2017/07/01 (Sat) 04:31:54

このスレッドでは、「当たり前」の中に、功徳や奇蹟を見出す情報を
紹介してまいります。

             ・・・

ただ有り難い日

              *「光明道中記」(7月1日)より

【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
  当り前の人間が神の子である。     (「生命の實相」第二巻)】 


梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの
信仰深い皇帝であって、「放光般若経」を講じたときには、奇瑞があらわれて
天から葩(はなびら)がサンサンと降り、地が黄金に変じたといわれている位である。

その位の武帝であっても、まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。

当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので武帝は早速達磨大師を迎えて
教を聴いたのであった。

「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して供養したことは
実に夥(おびただ)しいものがございます。
斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」

「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。
功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。

功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。
天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。

心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。

        <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>

ただ当り前に生き、ただ当り前に生かされている、これは奇蹟である - 伝統

2017/07/02 (Sun) 04:01:37


         *「光明道中記」(7月2日)より

【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】 

寺院に奉仕し、仏像に供養し、僧侶に布施してその功徳いくばくなどと思うのは
凡(おそ)そこれに過ぎたる愚問はない。そういう問を発する心の中には、
「供養誇り」と云うホコリで醜く充満しているのである。

「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、
お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。

その人は「《わし》」と云う愚かにも、
本来無いところの自己をつかんで放していないのである。

天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。

何か善いことをして、それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。

《自分の》功徳がないと知るとき、天地間はただ功徳で充満しているのである。

無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。

奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、これが奇蹟である。

或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき一切功徳を蒙(くら)ましているのである。

        <感謝合掌 平成29年7月2日 頓首再拝>

当たり前の幸せに気づける人になる - 伝統

2017/07/16 (Sun) 04:39:51


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年01月22日)」より

   (中山和義氏の心に響く言葉より… )

   ある男性には、4つ年下の妹がいました。
   妹は2歳のときに白血病にかかってしまい、
   それ以来、ずっと入院生活を続けていました。

   妹が病気になってしまってから、両親は妹の看護をするのに必死でした。

   休みの日にはいつもお見舞いに行っていたので、
   彼には家族旅行の思い出がありません。

   友達から、
   「この前、家族でディズニーランドに行って楽しかった」
   「お父さんにプールで泳ぎを教わったよ」

   という話を聞くと幼かった彼は、
   「僕はお父さんにも、お母さんにもどこへも連れて行ってもらっていない」
   とさびしい思いをしていました。

   「妹が病気のせいでどこにもいけない」と、
   幼い頃は妹を憎んでいたこともありました。

   しかし、大学生になり、自分の自由な時間が増えると、
   病院にずっといなければいけない妹がかわいそうに思えてきました。

   時間が空いている限り、お見舞いに行き、
   必死に病気と戦っている妹を応援してあげました。


   ある日。
   1時間くらい、テレビの話題、病院や大学であった出来事を話し合った後、

   「もうすぐ、クリスマスだね。クリスマスの日、また来るから」

   と言って帰ろうとすると、

   「おにいちゃん、クリスマスプレゼントに携帯電話が欲しい」

   とお願いされました。

   クリスマスの日、病気の負担にならないように
   できるだけ操作の簡単な携帯電話を探してから、お見舞いに行くと、

   「これ、頼まれていたやつ」とプレゼントを渡しました。

   そして、とても喜んでいる妹にメールや電話のやり方を教えてあげました。

   その日の晩、妹から彼に
  
   「おにいちゃん、ごめんね。
   私、小さな頃から、おにいちゃんに迷惑ばかりかけているよね。

   せっかくのクリスマスなのに・・・。

   ごめんね。

   おにいちゃん、ありがとう」

   というメールが届きました。

  
   これが妹からの最初で最後のメールでした。
   その日の晩、容態が急変して妹は亡くなりました。

   看護師さんから妹が亡くなったとき、
   携帯電話をしっかりと握りしめていて離すのが大変だったと教えてもらった彼は、

   「妹が最後の挨拶をしてくれたんだ」

   と思いました。

       <『人生の目的に気づく 24の物語』フォレスト出版 (P12)>

  ・・・・・

「あなたがなんとなく生きた今日は、
昨日死んでいった者が、あれほど生きたいと願った明日」(カシコギ)

普段丈夫な人が急に病気になったり、肉親が倒れたりすると、
今までがいかに幸せだったのか、そこで初めて気づく。

なんとなく、ぼんやりと生きることができる人は、本当は、このうえない幸せな人だ。


今、呼吸することのできる幸せ。

今、食べることができる幸せ。

今、生きていることの幸せ。


当たり前の幸せに気づける人でありたい。

        <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

あなたが生まれている当たり前のような奇跡の確率 - 伝統

2017/07/28 (Fri) 03:10:32


         *Web:「確率思考への転換」より

あなたは今平然と生きているかもしれませんが、
あなたが生まれてきたと言うことは「奇跡的」なことだと言うことを
忘れてはいけません。

しかし、実際奇跡的だと言われても多くの方が実感がわかないと思います。


簡単に言えば、私たちは母親の体の中で、卵子1つに父親の精子の1つが受精して
約10か月もの歳月を愛情を受けながら、母親の胎内で過ごし、その後
めでたく生まれてきます。


そして、なぜ奇跡的なのかと言いますとその確率になります。

 
《命は当たり前ではない》

父親が生涯かけて作る精子の数はおよそ3兆5000億個です。
精子を作れる時間は決まっており、生まれてから死に至るまでではありません。
実際は、11歳から75歳の間精子を作ることができます。

確かに、64年間精子を作るのですから、長い期間かもしれません。
そして、1日に換算しますと、1億5000万個の精子を作ります。
1日にこれだけの精子を作るのですからとてもすごいことだと思います。

ですが、この精子を作れる64年のうちすべての期間、
子供を作れるわけではありません。父親になる平均年齢が約32歳ですから、
18歳から50歳と考えたとして、生涯作れる精子の期間の半分が
子供を作れる期間と考えます。

そうなりますと、3兆5000万個の半分になり、1億7500万個が
子供を作れる期間の精子の数になります。


そして、父親が作る数に比べて、
母親が生涯かけて作る卵子の数は400個前後と言われています。

このように比べてしまうと母親の卵子を作る数が少なく思えてきます。

もちろん母親が子供を作れる期間もありますから、
生涯のすべての卵子が子供を作れるチャンスと言うわけではありません。
母親になる平均年齢は約31歳です。

16歳から40歳と考えても24年間しかありません。
女性も約半分と考えても200個の卵子が子供を作れる期間の数
と言うことになります。

この時点の生涯における父親と母親の確率は、

 ・父親が1/1億7500万

 ・母親が1/200

になります。

では、あなたが生まれてきた奇跡の確率を求めますと、

1/1億7500万×1/200=1/1400兆

になります。

1400兆分の1です。

このような確率はほとんどの方が初めて耳にするようなとんでもない確率だと思います。


《とてつもない奇跡》
 
この際の確率はただ単に妊娠する確率でしかありません。
妊娠したすべての胎児が無事に生まれてくるわけではないのです。

妊娠してから無事生まれてくる確率は、93.8%になりますから、
先ほどの確率から更に確率が下がると言うことになります。

このような奇跡の結果があなただと言うことを忘れてはいけません。

ですが、このような奇跡で生まれてきた私たちですが、
残念ながら自殺してしまう人も存在します。
その数は、日本では年間約3万人です。


《日本は恵まれてる》 

私たち日本は世界で水道水が飲める13か国の1つです。
ほとんどの国の水道水が安全に飲むことができないのにも関わらず、
水を購入してまでも飲んでいる恵まれている国です。

また、世界では食べ物に飢えている人もたくさんいます。
しかし、私たち日本ではとても多くの食料を無駄にしています。
このことは、改めて考え直さなければいけない事実です。

ですから、そのくらい日本は恵まれている国と言うことなのです。

しかし、その日本でも、これだけの自殺者がいることは
非常に残念でしかありませんし、もっと命のありがたみを感じて欲しいです。

確かに、人それぞれ事情がありますし、
私にはその事実を受け入れることしかできません。
そのことはとても悲しく思います。

ですから、このサイトを見ていただいているあなただけには、
この事実を噛みしめて、次の世代の奇跡と言う子供を作っていただくと同時に、
あなたの母親と父親に感謝の気持ちを忘れないでいただきたいです。

   (http://fxconsulting.jp/gyanburu/sekai/umareru.html

        <感謝合掌 平成29年7月28日 頓首再拝>

当たり前という奇跡に気づく - 伝統

2017/08/12 (Sat) 03:48:42


       *Web:人の心に灯をともす(2009-10-21)より

ありがとうの反対は?

先日、私の尊敬する人生の大先輩より素晴らしい言葉をいただいた

「ありがとうの反対は?」という話だ

ありがとうの反対語など、今まで考えたこともなかった



教えてもらった答えは…

「あたりまえ」

「ありがとう」は漢字で書くと「有難う」
「有難(ありがた)し」という意味だ
あることがむずかしい、まれである

めったにない事にめぐりあう
すなわち、奇跡ということだ。

奇跡の反対は、「当然」とか「当たり前」。

我々は、毎日起こる出来事を当たり前だと思って過ごしている。

歩けるのが、あたりまえ
目が見え、耳が聞こえるのが、あたりまえ
手足が動くのが、あたりまえ

毎朝目覚めるのが、あたりまえ
食事ができるのが、あたりまえ
息ができるのが、あたりまえ

友達といつも会えるのが、あたりまえ
太陽が毎朝昇るのが、あたりまえ

うまれてきたのが、あたりまえ
夫(妻)が毎日帰ってくるのが、あたりまえ

そして…
生きているのが、あたりまえ



また、ある夫婦の話もしてくれた

晩酌の時、いつも無口の夫が
「ちょっと、お酌(しゃく)してくれないか?」
と珍しく妻に言った

台所の片付けをしていた妻は
「今、忙しいから自分でやって」と答えた

夫は少し寂しそうだったが、手酌で酒をついだ

その、2.3時間後、夫は急に倒れ
救急車で病院に運ばれ、帰らぬ人となってしまった

それから、妻は
何故あの時、夫にお酌をしてあげなかったのかと
ずっと悔やんだという


あの時何故、もっと
優しい言葉で、
こぼれるような笑顔で、
感謝の言葉で、
接することができなかったのか…

誰しも、今日と同じ日が明日も繰り返されると思う


今日
誰かと出逢い、話し、笑い
食事をして
仕事ができる


こんな当たり前だと思うことが、本当は奇跡の連続なのだ


「有ること難し」


生きて、出逢う、という奇跡の連続に
「ありがとう」を言わずにいられない。

        <感謝合掌 平成29年8月12日 頓首再拝>

【しあわせおんちな人】 - 伝統

2017/08/27 (Sun) 04:25:46


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017/02/25)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   私は会社に行くと必ず「ご苦労さん」とか「ありがとう」ってみんなに言うの。

   それでお茶を出してくれたら、また「ありがとう」なんだよ。

   社長にお茶を出すのは当たり前じゃないんだよ。


   それと同じで、旦那さんが給料を持って帰ってきてくれて、
   それが当たり前になったら、人生が急に味気ないものになっちゃうよね。

   社員だから働くのが当たり前じゃなくて、
   働いてもらっているんだから、「ありがとう」なんだよね。

   この世の中には、当たり前のものは何もないんです。


   あるはずがないことが起きたときに“有難い”っていうの。

   だから、ありがとうとは、あるはずのないことなんだよね。


   私は米一粒もつくったことないけど、それでも毎日ご飯を食べることができるの。
   それは、誰かが私の代わりに米をつくってくれるおかげなんです。

   私は漁師じゃないから魚もとれないけど、
   それでも魚を食べることができるのは、ありがたいことだよね。


   それを、どっかで当たり前だって言っちゃうんだよな。

   “あたりまえ”のことを“ありがとう”に変えたら、人生に花が咲くよね。


   当たり前のことに感謝しはじめると、
   人はもっとしあわせを実感できるようになります。

   しあわせって、結局、当たり前のことにどれだけ喜べるかなんだよね。

   私は毎日、朝、昼、晩と三度ご飯が食べられることがうれしいんです。

   たとえそれが、どんなおかずであってもうれしいんです。

   おいしい料理を食べることができたからうれしいとか、
   高級レストランで食べることができたからうれしいということではありません。


   “しわせおんち”な人って、
   たとえば100万本のバラの花を見ないとキレイだって思えないの。

   でもそんなのってめったに見ないよね。

   それよりしあわせって、道端に咲いているタンポポを見ても
   きれいだなって思えることなんだと思うの。

   どんな小さな花を見てもきれいだと思えると、毎日がしあわせになってくるんです。


   だから大切なことは、自分のしあわせを感じるレーダーの感度を、
   常に上げていかないとダメなんだってことなの。

   感度が鈍ってくると、目の前にあるしあわせに気づけなくなってしまうよね。

   それよりレーダーの感度を上げていけば、
   自分のまわりにしあわせがいっぱいあることに気づけるんです。


   しあわせってモノじゃないの。

   感じることだから、常に自分のアンテナをしっかり張ってないと感度が鈍るんです。


   自分のしあわせを感じるアンテナはちゃんと立っているだろうか。

   レーダーの感度は上がっているだろうかって考えてみるといいよね。

   そうすると「ここにも!」「また、ここにも!」って
   目の前のしあわせに気づけるようになりますよ。

         <『変な人の書いた世の中のしくみ』サンマーク文庫>

             ・・・

ほんのちょっとのことで喜んだり、驚いたり、感謝したりする人のまわりには人が集まる。

自分まで明るくなって、楽しくなってくるからだ。

反対に、なにか素敵なことを教えたり、プレゼントしても、
無表情で反応がなく、少しも喜ばない人には、
「二度と教えるものか」とか「絶対にプレゼントしない」と固く心に誓ってしまう。


しあわせおんちな人は、喜び下手の人。

「喜び上手な人」、「驚き上手な人」、「感謝上手な人」は、
喜びや驚きや感謝を感じるアンテナの感度が高い。


「“あたりまえ”のことを“ありがとう”に変えたら、人生に花が咲く」

しあわせを感じるレーダーの感度を高めたい。

        <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>

当り前の幸せに気づく~人生の成功者になるには - 伝統

2017/09/11 (Mon) 04:15:53


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年08月04日)」より

   (斉藤一人さんの心に響く言葉より…

   なにか一つ問題が起きたとき、多くの人は
   「なぜ、こんな問題が起きたんだろう」と考えます。
   理詰めで考えると、いろいろな原因が思い当たるでしょう。

   でも、魂的な視点からいうと、
   自分で起きる問題は「自分の感謝のなさ」を教えてくれるもの
   として出てきています。

   だから、上司が自分にいやがらせをするのだとしたら、
   いやがらせをしない同僚やなんかに感謝が足りなかったのです。


   感謝の反対は「当たり前」。
   同僚たちがいやがらせをしないのは当たり前だと思っていた。
   ということは、感謝を知らないのです。

   だから、病気になったのだとしたら、
   からだに感謝することを知らなかったんです。

   それの「気づき」のために、どこかからだの具合が悪くなる。
   それに気づき、他の具合が悪くないところ一つひとつに感謝すればいいのです。
   必要な治療を受けながら、感謝すればいい。

   そうやって、問題のないところに感謝して、感謝して、
   最後に問題そのものにまで感謝できたとき、
   その問題は消滅するようになっています。

   この世は、そういう仕組みになっています。


   ということは、問題が起きたとき、
   「これは自分が感謝を知らなくて起きたんだ」と思い、
   最初から問題そのものに感謝するのが、一番いいですね。

   でも、最初から問題そのものに感謝するという流れには行かないものなのです。

   だから、最初は問題を起こしていない周りに感謝から始めるのです。
   周りへの感謝から始めると、やがて、その問題にも感謝できるようになります。

   そして、魂が上にあがります。


   この世で人生の成功者になるには、ただ一点、感謝です。

   逆をいうと、「当たり前」といった瞬間から、不幸が始まる。

   会社に行っても、そうですよ。
   給料日に、当然という顔をして給料をもらっている人もいるけれど、
   社長さんに、「ありがとうございます」「感謝しています」って、いってごらん。

   この一言をいえるか否かで、人生、えらく違ってきます。

          <『運命は変えられる』KKロングセラーズ>

             ・・・

ケガをして右足を骨折した人は、
「なぜあの時、骨折したのか」と悔やんだり、反省したりする。

しかし、斎藤一人さんは、そうではなく、骨折した右足より、
ちゃんと動く左足や、手や、口や耳といった、
他の身体の部分に感謝する方が先だという。

その感謝を身体の各部分ずっとやっていくと、
最後はそれを気づかせてくれた骨折した右足にも感謝することができるようになる。


これは、城野宏先生が、脳力開発という考え方の中でいつも出す事例と同じだ。

例えば、「浅草で、大火事があった」、と新聞に載ると、
多くの人は、「それは大変だ」、となる。

しかし、脳力開発的に考えるなら、
浅草以外は無事だった、と考えることができる。


人は、目立つ方や、声の大きい方にどうしても目がいく。
しかし、新聞やマスコミの報道などがそうだが、目立つ方は少数部分なのだ。

目立たない部分の方が圧倒的多数。

当たり前のこと、普段気が付かずに正常に動いていることは、目立たない。

目立たない当たり前の幸せに、感謝できる人でありたい。

        <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

当たり前の中の奇跡 - 伝統

2017/10/19 (Thu) 04:36:20


       *「美人の日本語」(1月15日)山下景子・著より

共同で収穫したり、漁や狩をした時の
一人当たりの取り分を、当たり前と言ったそうです。
それぞれの働きに応じて分け前は決められました。

「当たり前」が当たり前でなかった時代があったのです。

私たちが何もしないで受け取っているものは、
何らかの恩恵だと考えたほうがよさそうです。

人は慣れるとすぐに当たり前と思ってしまいますが、
私たちが生まれたことも、生きていることも、
そして水や空気があることも奇跡です。

この奇跡の積み重ねを当たり前としか思えなくなるほど
心が麻痺してしまうのは、悲しいことだと思いませんか。

当たり前の中の奇跡・・・そのことに気づいたとき、感謝の言葉がいっぱい溢れてきます。

             <感謝合掌 平成29年10月19日 頓首再拝>

3億分の1の確率で、今ここにいる - 伝統

2017/11/02 (Thu) 03:57:01


          *「繁盛店の「ほめる」仕組み」西村 貴好・著(P85~84)より

それが、皆さんの始まりです。
針の先ほどの大きさのものが3億個、お父さんからお母さんの卵子に届きます。

その3億個の精子のうち、たったひとつだけがお母さんの卵子に選ばれて、
皆さんが生まれました。残りの2億9999個のどれでもなく、たったひとつだけ。

もし、違う精子が選ばれていたら、皆さんに非常によく似た兄弟のような人が
生まれていたかもしれませんが、あなたはこの世に存在していないんです。

皆さんは、生まれてきただけで、3億分の1を勝ち抜いた
すごく運のいい、優秀な人たちなんですよ。

それから10ヶ月、皆さんはお母さんのお腹の中で大きくなります。
宿題で、皆さんがお腹にいる間にもお母さんはどのようなことに
気をつけていたか、そのように感じていたかを書いてきてもらいました。

赤ちゃんに影響する薬を飲めないので、風邪をひかないように注意した。
お腹の中の赤ちゃんに栄養が行くように、嫌いだったものもがんばって食べた。
生まれる時すごく苦しかったけど、赤ちゃんの顔を見たらすごく嬉しかった・・・。


そうですね、皆さんは、お母さんのお腹の中にいる間ずっと、
へその緒を通じて、お母さんから栄養をもらっていたんです。

また、皆さんが生まれる時、お母さんはすごく苦しい思いをしたんです。
昔の人は、青竹を握りつぶすぐらいの痛みといったそうです。

それでも、生まれた瞬間に、その苦しさを忘れてしまうぐらいの喜びを、
皆さんはお母さんに与えることができたんですね。

この世に生まれてきた人で、誰かの世話にならずに生まれてきた人はいません。
10ヶ月間、お母さんから栄養をもらい死ぬほどの苦しみを与え、
そのかわりに喜びを与えるために皆さんは生まれてきました。

おへそのない人がいないように、人の力を借りずにこの世に生まれてきた人はいない。

私たちに人間に、おへそがあるというのは、そういうことなんですね。

             ・・・

3億分の1の確率で、今ここにいる。

当たり前のことに感謝することの重要性。
なんだか、お金以外のものを儲けたようになりませんか?

             <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>

【超能力を求めない】 - 伝統

2017/11/16 (Thu) 03:27:55


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年11月11日)」より

   (曹洞宗尼僧、青山俊薫氏の心に響く言葉より…)

   お釈迦さまはね、大変な神通力をお持ちだったようです。

   お釈迦さまほどの方ですら、いやすべてをお見通しのお釈迦さまであればこそ、
   超能力が、神通力というものが大変に危険性を伴うものであることを承知しておられ、
   いかなる場合にも使ってはならないと、ご自分にも弟子たちにも禁じておられ、
   人々を救済するという、よいことにおいてすらも、使うことを禁じておられるのです。

   仏教では、ほんとうの大神通とは『運水搬柴是れ神通(うんすいはんさいこれじんつう)』
   といってね、水や薪を運んだり、何とも思わなくても食べることができ、
   食べたものが必要なカロリーとして消化し、不要なものは排泄され、
   そういう働きを大神通と呼んでいるのです。

   こんな不思議な働きをはじめからいただいている、
   それにめざめることこそ大切と呼びかけているのが仏教なのです。

   どうでもよいもの、むしろ凶器となってあなたの人生を滅ぼしかねないようなものを
   欲しがらずに、授かっている生命の姿にこそ目を開く学びを致しましょうね。

           (一度きりの人生だから)より

    <『たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと』海竜社>

                  ・・・

我々は、何かに行き詰まってしまったとき、奇跡が起こること願う。

超能力があれば、と切に思う。

そんなとき、怪しい占いや、自称超能力者に引っかかってしまうこともある。


斎藤一人さんは、「この地球は行動の星だよ」という。

つまり、行動を通して学び、少しでも役に立つ人間になってあの世に行く
という実践が試される星。

だから、大神通力があるお釈迦さまでさえも、
この世では奇跡は起こさず、具体的な行動を通してしかお教えにならなかった。


大切なことは、息ができること、心臓が動くこと、手足が動かせること、
夜寝たら朝起きれること、という当たり前の不思議に気づくこと。

それこそが、人知を超えた不思議な超能力。


「超能力を求めない」

生かされている不思議に毎日感謝し、
少しでも役に立つ人間になれるよう、日々具体的に行動したい。

・・・

<参考:曹洞宗尼僧、青山俊薫氏
    → スレッド「長寿 ③」内子記事
      【老いたるは、なおうるわし】(2017/11/04)
        http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7654050 >

             <感謝合掌 平成29年11月16日 頓首再拝>

当り前の人間のほかに神の子はない - 伝統

2017/12/06 (Wed) 04:06:34


          *Web:光の進軍
               ~仙 頭 泰

「当り前の人間のほかに神の子はない」、
この言葉は「自然流通の神示」の中にでてくることばであります。

この神示には、「生長の家」は奇跡を見せるところではなくて、
奇跡を無くするところであると、示されています。

つまり、すべての人類に、真理を悟らしめて、異常現象を無くして、
当り前のままで喜ぶことの出来る人間にならしめる処
- それが生長の家だというのであります。

ここで皆さんに「自然流通の神示」を拝読していただきます。
谷口雅春先生は、「神示講義」のなかで詳しく説明しておられます。
それを引用いたします。

私達は、当たり前が喜べる様になった時、
その人の不幸というものは拭いとられことになります。

そこで大切なことは、悟りとは観念の遊戯ではなくて生活実践であると云うことです。
毎日の生活の中で、御教えを行ずるということです。
実相を直視した生活をすることであります。

子供の教育でも、
「この子供は悪い奴だから、なんとか方法を講じて、よくしなければならない」と、
人間智恵を出してしますと、かえってその子供は反抗して悪くなってしまう。

この逆に、「そのままそこに、神の生命の子供がいるのだ」と分かって、
その子供の完全な、神なる実相をジイーツと心の眼でみつめて拝めば、
そこに「実相の催し」と云うのが出てきて、

その内部的催しに私達が支配されて行動する時、
すべての問題は自然に、円満に解決することになるのであります。

次のような事もあります。

毎日乗って通勤している電車でも、それが事故を起こすとき、
何となく乗りたくなくなって、その電車に乗れないような都合が自然と出て来て、
衝突事故から自然に遠ざかると云うようなことです。


谷口雅春先生は次のようなことも述べておられます。

往来に沢山のごみが落ちて散らかっているのは、見苦しいものであります。
誰も掃除をしていません。

「往来」は無言の声で我らに呼びかけている。
「だいぶ汚れましたから誰か私を掃除してくれませんか」と。

「よし来た。私が掃除をしよう」と、素直に、その呼びかけに応じたら、
もうそこに自分の職業があるのであります。
ただ、その職業は金をくれないだけであります。

失業者の多くは、「金をくれないから働かない」と
思っているから職業がないのであります。
彼等は「金」という条件によって自分が縛られておるから
「そのままの働き」を失って、仕事が眼の前にありながら仕事をしないのであります。

「そのままの心」になれば、自然に汚いものを綺麗にしたい
と云う衝動が起こって来る。
そこに生命自身の自由自在の働きが出てきて、運が開けるのであります。

自然科学にはエネルギー不滅の法則というのがあります。
倫理の世界にも「価値を支払っただけのものを得る」という法則があり、
働き少なくして多くを得ようと思っても駄目であります。

すべての人間は、神の子でありますから、
裕なのが実相でありまして、貧乏な状態になっているのは実相ではないのであります。

人間の生活にとって必要なものは、
必要に従って流通無限に流れ入って来るのが当たり前なのであります。

その人の潜在意識の底に、「自分は貧乏でありたい」という考えがありますと、
裕になれないのであります。

 
谷口雅春先生が青年時代には、
裕になることは、聖者の生活ではないと信じて居られました。

ですから、当時の先生は「ゆかた」一枚に縄の帯をしめ、
竹の皮の草履を履いて、柳行季のハンドバック一つを持っておられました。
それには歯ブラシとタオルだけが入っていて、歯磨き粉もない。
歯は食塩で磨いておられました。

そして「私の全財産はただこれだけである、私は誰からも搾取しないのである」と、
このように思っておられたそうです。

谷口雅春先生は、このことで清らかではあるが
「人間は本来神の子であって裕なのが実相だ」という事を知らない
間違いの考えをもっていたと述べておられます。

みずから富たいと思う人は、
「すでに私は神の子であるから無限の富者だ」と云う自覚を、
潜在意識に持つ事から始めなくてはなりません。

人間は神の子ですから自己縮小してケチな心をもったらいけません。
自分が富めないのを資本主義の欠陥から来たのだなどと、
責任を他に転嫁すると、自己内在の力は現れないのであります。

運の好い人は、心明るく、計画するところが大きく、
心の中に豊なるものを持っているから、その豊なる心の反映として、
豊なる経済状態が現れて来るのであります。

何よりも大切なのは「神の子」の自覚であり、自分は神の子であるから、
神の持ちたまえる無限の富の相続者であると云う豊かなる信念を持つことが
必要なのであります。

人間は自分で自分を、自己限定してはならないのです。
また宇宙の富を有限だと限定してはならないのです。

科学者は、自分の発見によって「無限のもの」が出てくる
という想定のもとに研究をすすめているのであって、
「信じたものが出て来た」のですから素晴らしいのであります。

この「自然流通の神示」にもありますが、
人間は他から同情されたいと思うような心を持っていると、
その人は豊かにもなれないし、大きく伸びることは出来ないのであります。

自己憐憫は、自己虐待に繋がります。

「持たずして有(モ)つ」- こういう持ち方が一番いいのであります。
「自分のもの」として執着しないから、奪い合いも、争いも何もいらないのであります。
つまり仏教で云う「無所有」であります。

何物も自分のものはない。
すべてこれ、神さまのものであります。
人生も神様のもの、この身体も神様のもの、この心も神様のもの、
この生命も神様のもの、ありとあらゆるものすべて神様のものでないものはない
のであります。

私達が、神様の生命の中に融け込んで、法そのままに自然に動いて行くとき、
そこに本当の流通無限の自由自在の生活と云うものが現れて来るのであります。

神示の中に、人間が生命の実相を悟って病気が治るのは、
病念と云う異常現象が止んで、人間が本来の自然に還るからであると示されています。
人間は健康なのが当たり前なのであります。

現代では、精神科学の研究がすすんで、肉体と精神との関係が詳しく分かっています。
腹を立てれば、その結果として、身体の筋肉が固くなります。

これは腹立つ感情が、直接または間接に、副腎を刺激して
アドレナリンというホルモンを分泌し、それがこの皮膚や血管や筋肉を収縮せしめ、
内臓の平滑筋をダラリとさせて、消化不良を起こすようになるというのであります。

病気は、心の歪みであると云うわけです。

私達は、当たり前の人間が神の子であることを、もう一度確認して、
真理を生活の中で行じきることに徹底いたしましょう。

その生活の尺度は「生長の家信徒行持要目」であります。
この尺度により、反省し伸展して行きましょう。

http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/14atarimaeno-ningen.htm

             <感謝合掌 平成29年12月6日 頓首再拝>

当たり前のことやマイナスの価値しかないと思えることさえにも、意味を見出して感謝する - 伝統

2017/12/29 (Fri) 04:01:56


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2017-12-20)より

   (渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   女子学生たちと五十年以上接していて気がつくことは、
   この年頃の人たちの多くが、愛に必要なのは、すばらしい対象に出会うことだ
   と考えていることです。

   それも決して間違いではないのですが、その対象が「すばらしさ」を失った時にも、
   果たして愛し続けることができるかどうか、ここに「愛の本質」が問われています。

   健康だった相手が病気になってしまった時も、
   前途を嘱望(しょくぼう)されていた相手が挫折にあった時にも、
   その人を愛し続けることができるかどうかは、私たちが自分の中に、
   「愛する力」を養い育てているかどうかに、かかっているのです。

   エーリッヒ・フロムが『愛するということ』という本の中で、
   「愛するということは、単なる熱情ではない。
   それは一つの決意であり、判断であり、約束である」と
   きびしい言葉を述べているのも、この愛の本質を指摘したものと言えるでしょう。

   ふだんからピアノの練習もせずに、立派なピアノを見つけさえすれば、
   上手に弾けると思ったり、絵を描く練習もせずに、
   ひたすら美しい景色を探している人にも似て、

   ふだんから「愛する」練習をしないで、
   すてきな人との出会いを待っていては、いけないのです。

   愛する力を育てるためには、まず私たちが毎日の生活の中で
   「当たり前」と考えていることや、人、物を「有り難い」と、
   感謝の気持ちで受けとめることが大切です。

   マイナスの価値しかないと思えることや、
   不幸、災難、苦しみにさえも意味を見出して、
   これまた「有り難い」と感謝できる時、

   私たちは愛すべきものを随所(ずいしょ)に持ち、
   愛し難い人さえも、その人の存在そのものの価値を認める、
   愛深く幸せな人間になれるのです。

        <『幸せはあなたの心が決める』PHP研究所>

             ・・・

昔の人は、「一緒に苦労してくれないか?」とプロポーズして結婚したという。

今の人は、「一緒に幸せになろう」と言って結婚する。

一緒に苦労するのが前提なら、二人で苦労することは何ともない。

しかし、幸せになろうと言って、
苦労することになってしまったら「話が違う」ということになる。

昨今、離婚が増えているのは、こんな理由もあるからではないか、と。

日常の中で、当たり前の幸せに気づける人は、
普段から苦労することを厭(いと)わない人。

苦労が前提だから、ちょっとした幸せにも気づくことができる。

物事はうまくいかなくて当たり前、と肚をくくると、
ほんの少し成功しただけで感謝できる。

スタートラインを低くとることはとても大事だ。

マイナスの価値しかないと思えることさえにも、
意味を見出して感謝できる人でありたい。

             <感謝合掌 平成29年12月28日 頓首再拝>

「当り前」に味わいがあり、楽しみがある - 伝統

2018/02/23 (Fri) 04:17:03


           *「光明道中記」(2月23日 淡々妙味の日)より   

【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。(「生命の實相」第十九巻)】

朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。

当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。

朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。

異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。

心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、
肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。

それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。


それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。

其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。

太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?

             <感謝合掌 平成30年2月23日 頓首再拝>

当り前のことが当り前に喜べるようになると、病気が癒る - 伝統

2018/02/27 (Tue) 03:44:39


           *「光明道中記」(2月27日 人を疑わぬ日)より 

【婦人に於ける病気はその原因を辿ってみると、概ね感情生活に起因する。
                            (『百事如意』)】 


私が関西へ移転するかもかも知れぬと云う記事があったので、
若し先生に関西へ移転せられたら、私の熱心が足らぬからであるから、
自殺すると言って手紙を寄越した人があった。

私はその手紙を見ないで内容を秘書から話して貰っただけであって、
その人のことを男性であると思っていた。

この人は度々栞(しおり)に日本画をかいたり、押し花を封じ込んだりして
無名の「一誌友」として手紙を寄越す人なのである。

暫くすると、同じ筆蹟で

「先生にあんなに手紙を差し上げたのは純粋な宗教的思慕の念であったのに、
それを求愛であると誤解せられたのは誠に心外であるから、
この手紙を以て生長の家との訣別の辞とする」と云う手紙が来たのである。

今度の手紙の内容で女性であることが始めて私に判ったのである。

どちらにしても私に何の関係もない空想の産物である。

時として女性と云うものは、空想の世界で、
自殺や、恨みや、憤(いか)りを創作して楽しむものでのである。

空想の世界で自分自身の感情を弄ぶのが此の種の人の病気なのである。

当り前のことが当り前に喜べるようになる迄その人の病気は癒えないのである。

             <感謝合掌 平成30年2月27日 頓首再拝>

あたりまえのことができる者が大賢人 - 伝統

2018/03/15 (Thu) 03:42:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より

心をしっかりと持つこと。

上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。

腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。

あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。

            <感謝合掌 平成30年3月15日 頓首再拝>

当り前の事が当り前に出来る日 - 伝統

2018/04/12 (Thu) 03:23:50


           *「光明道中記」(4月12日)より

【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。心が固定すれば、自然に物も固定する。
                             (『百事如意』)】

何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。

「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。

またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても思い出せないことが
試験場その他で随分ある。そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることも
あり勝である。

「幸福」と云うものも同じようなものである。

「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。

「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、ただ当り前のことを当たり前に感謝して
行なっている人には「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。

            <感謝合掌 平成30年4月12日 頓首再拝>

当り前に、神恩仏徳が充満している - 伝統

2018/07/01 (Sun) 04:03:52


      *「光明道中記」(7月1日 ただ有り難い日)より

【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
  当り前の人間が神の子である。     (「生命の實相」第二巻)】 


梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの
信仰深い皇帝であって、「放光般若経」を講じたときには、奇瑞があらわれて
天から葩(はなびら)がサンサンと降り、地が黄金に変じたといわれている位である。

その位の武帝であっても、まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。

当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので武帝は早速達磨大師を迎えて
教を聴いたのであった。

「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して供養したことは
実に夥(おびただ)しいものがございます。
斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」

「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。

功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。

功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。

天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。

心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。

        <感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>

平凡淡々が道なのである - 伝統

2018/07/14 (Sat) 04:27:48


          *「光明道中記」(7月14日 平凡淡々有り難き日)より

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】


或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。

至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。

天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。

或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、

或る生長の家誌友に、
朝起きたら自分の寝床を畳むこと、机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むことの3つを
実行するように教えてそれを実行せしめたら、その近眼が癒えてしまったのである。

まことに平々凡々が道なのである。

ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。

道は病気になるものではないから、吾々の生活が
平々凡々何の変哲もないところに無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、病気は自(おのずか)ら癒えるのである。

            <感謝合掌 平成30年7月14日 頓首再拝>

当り前が道なのである - 伝統

2018/07/15 (Sun) 04:02:48


          *「光明道中記」(7月15日 道が生活に生きる日)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】


手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないとその人に道が生きていないのである。

人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。

飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。

「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。

それは茶道に一致する。

吾等の生活は行住坐臥「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。

大調和である。
清和である。清(せい)は整(せい)であり、整えるである。

無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに一切の行持(ぎょうじ)が、
茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。

            <感謝合掌 平成30年7月15日 頓首再拝>

淡々と過ぎる「日常」こそが「幸せ」の本質。 - 伝統

2018/07/30 (Mon) 04:05:52


       *『たくさんの「奇跡」が舞い込む感謝の法則』小林正観・著、宝島社  
          (P21、メッセージ09)より

「幸せ」とは、どうやら平和・平穏に過ぎていく日常そのものであるらしい。
そこに気がつけば、「何かを思いどおりにしたい」「幸せに出会いたい」と
叫ぶことはなくなるはずです。


日常的に平和で平穏な状態を「白」、
病気や事故などを一般的に災難とされる状態を「黒」とします。

白は、白だけで存在しているより、黒の中にあることで「白さ」を増します。
いつの間にか当然のように思っていた白があたり前ではなかったことに
気づかせてくれます。


白の中の黒。黒の中の白。
平穏であることが「幸せ」の本質であることに気づき感謝できたら、
平和・平穏の素晴らしさ(白)をより感じさせるための
災難(病気や事故=黒)は近づいてこないのでしょう。


平和・平穏をおびやかす災難(病気や事故)は、何気ない日常生活が
どれほど喜ぶべきもの(幸せの本質)であるかを教えに来てくださった、
素晴らしい使者でもあるのです。

            <感謝合掌 平成30年7月30日 頓首再拝>

【当たり前が輝いてみえる】 - 伝統

2018/10/08 (Mon) 02:51:39


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年10月06日)より

   (渡辺和子氏の心に響く言葉より)

   今日は、今から数年前、同じこの日、同じこの記念館を巣立っていった
   一人の卒業生の言葉を皆さんへのはなむけの言葉にしたいと思います。

   その人は、在学中、健康そのものの人でした。

   それが卒業後まもなく、病気になって入院し、非常に苦しみ悩んだのですけれども、
   やがて快方に向かった折に、一通の手紙を書いてくれました。

   その中に、こう書いてあったのです。


   「ようやく外出許可がいただけました。
   久しぶりに地面を踏んだ時は、感激でした。
   今の私には、当たり前が輝いてみえます」

   この手紙を読んで、私は、病気がよくなったことが嬉しかったとともに、
   病気という十字架が、この人を、ここまで成長させて、
   この言葉を書かせたことを、たいへん嬉しく思いました。

   「当たり前が輝いてみえる」。

   そして、この人から、幸せの秘訣を教えてもらったように思ったのです。


   私たち一人ひとりは、幸せになりたいと願っています。

   今日、ここに集まっていらっしゃる方たちは、
   あなた方一人ひとりが、一生の間、幸せに生きてほしいと、
   願っていてくださいます。

   幸せの条件には、いろいろあって、人それぞれに違うかも知れません。

   ですけれども、共通して言えることは、
   自分が愛するもの、価値あるものに取り囲まれて、
   心が満たされている状態といっていいでしょう。

   ですから、幸せを願う人たちは、たやすく愛せる人を探し、
   やりがいのある仕事を求め、そして、すてきなもの、すばらしいもので、
   自分のまわりを囲みたいと願っています。


   今日の日本は、この種の幸せをあおるかのように、
   そして、それを満たすに十分な、物質的な豊かさと、
   過激といっていいほどの刺激と情報に溢れています。

   お金さえ出せば、ほしいものがほとんどすべて手に入る世の中です。

   では、それらを手に入れた人たちがみんな幸せなのかというと、
   必ずしもそうではありません。

   なぜでしょう。


   星の王子さまが答えを出しています。

   「地球上のみんなは、特急列車に乗り込むけど、
   いまではもう、なにをさがしているのか、わからなくなっている。
   だからみんなはそわそわしたり、どうどうめぐりなんかしてるんだよ…」

   「おなじ一つの庭で、バラの花を五千もつくっているけど、
   ・・・自分たちがなにがほしいのか、わらからずにいるんだ」。

   そして続けていうんです。

   「だけど、さがしているものは、たった一つのバラの花のなかにだって、
   すこしの水にだって、あるんだがなあ・・・」

   「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
   かんじんなことは、目に見えないんだよ」


   今から約千三百年まえにつくられた日本の一番古い歌集『万葉集』の中に、
   一つの歌が収められています。


   信濃(しなの)なる千曲(ちくま)の川のさざれ石も

   君し踏みてば玉と拾はむ


   たぶん、うら若い一人の乙女が、自分の愛する人、夫、恋人を送り出した後、
   “その人が踏んだ石だと思えば、私には玉と思えるのです”とうたった一首です。

   なにが、この当たり前の、どこにでもある石を、輝く玉に変えたのか、
   それはこの乙女の心に宿る愛する心、いとおしむ気持ちだったろうと思います。

   この人は何カラットかするダイヤモンドでなくても、
   愛する人が踏みしめたその石を、玉と抱いて幸せな人です。

   そして、私たちは、幸せの原点というものを、ここに見ることができます。

   (ノートルダム清心女子大学・昭和五十八年度卒業式答辞)より

    《ものごとがうまくいくから、ほほえむのではなくて、
     ほほえむから、ものごとがうまくいくのです》


        <『あなただけの人生をどう生きるか』ちくまプリマー新書>

              ・・・

《幸も不幸もない。 要は心の持ち方一つなのだ。》(シェークスピア)

ほんとうは、幸せという現象も、幸せという現象もない。

あるのは、その現象を見て、幸せと思えるか、不幸せと感じるかの違いだけ。

見方や考え方がその人の人生を決める。


「かんじんなことは、目に見えないんだよ」

ほんとうの幸せは日常の中にある。

当たり前の幸せに気づける人でありたい。

            <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

人間として、生まれてきただけで超ラッキー。 - 伝統

2018/11/02 (Fri) 03:45:04

          *Web:Live Well Labo(2018年10月29日)より

通勤途中、牛を2,3頭、おそらく個人で飼われているのだろう、道路沿いに見かける。

だいたいのんびりと草を食べている。
あるいは座ってくつろいでいる。
一見気楽で何の悩みもないように見える。

でもその実、彼らは知っているはずだ、いずれ時期が来れば殺されてしまうと。
それは、いろん状況から、彼らには分かっていると僕には感じられる。

だから、実はあきらめの境地で、その日がくるまで、日々過ごしているに違いない。
運命を受け止め、気にとめることなく、ただただ生きて行くのだ・・・。



もし自分があの牛に生まれていたら、どうだろう。

どうしようもない、決して状況を変えられない中で、
待ち受ける死刑執行までの日々を過ごすのだ。

夢も希望もなく。
食用の牛として生まれ、食用の牛としての生を全うして行くのだ。


・・・まあ、こうして人間として思考している時点で、そんなこと考える意味がないか。

所詮牛の思考なんてわかりっこないのだ。


僕は人間としてこの世に生まれてき、彼らは牛として生まれてきた。

これが事実。

でもなにかしら、もの悲しい想いは伝わってくる・・・。


(中略~POWER BALL<宝くじ>の一等賞をとる確率は、3億分の1)


”いや、ちょっと待ってください。

あなた人間として生まれてきてますよね。

あなたが人間として生まれてきた確率、ご存知ですか?

70兆分の1ですよ。

70兆分の1の確率を勝ち取って、あなたは今ここにいるのです。

POWER BALLの一等賞の比じゃないのです。

70兆分の1って、3億分の1の23万倍。

POWER BALLの一等賞の確率なんて目じゃない。



あなたどれだけツイてるんですか!



実感できないだけなんです。

途方もないラッキーさでもってあなたは今ここに人間として生きているということを。


POWER BALLのニュースを聴いて、僕に浮かんだ空想が、そんな牛のつぶやきだった。

“You are super lucky to be a human!”

    (http://livewelllaboratory.com/2018/10/29/lucky-cow/

            <感謝合掌 平成30年11月2日 頓首再拝>

「あたりまえ」、本当はたくさんの奇跡の積み重ね - 伝統

2018/11/19 (Mon) 03:07:50


        *「しあわせの言の葉」山下 景子・著(P66~67)より


   【私は不思議でたまらない、誰にきいても笑ってて、あたりまへだと、いふことが。
                          金子みすず(「不思議」より)】


この世界にあふれるすべてのものに、やさしいまなざしを向けた金子みすゞ。
彼女の目には、何もかもが、とっても不思議で、
いとおしいものに映っていたのでしょう。

黒い雲から銀色の雨が降ることも、
青い葉を食べる蚕が白いことも、
夕顔がひとりでに咲くことも……。


それを「あたりまえ」という言葉で受けとめている人々も、
この詩では微笑ましく描かれています。

それにしても、私たちは、何でも簡単に「あたりまえ」と思ってしまいがちです。
考えてみれば、この世に「あたりまえ」と言い切れることが、はたしてあるのでしょうか。


私たちが生まれてきたことも、生きていることも、
本当はあたりまえのことではないのです。
それは、たくさんの奇跡の積み重ね。

彼女が言うように、命とは、自然とは、なんと不思議なものでしょう。


「あたりまえ」と決めつけてしまう心からは、感謝の気持ちは生まれません。
大切にしたいという心も湧きません。
“みんなちがって みんないい”というそのやさしさも、あふれてこないでしょう。


彼女の詩を読むと、忘れがちなまなざしを取り戻せるような気がします。
そして、たくさんの不思議に感謝したくなってきます。

            <感謝合掌 平成30年11月19日 頓首再拝>

当り前のことに天地の恵みを感じる - 伝統

2019/01/03 (Thu) 04:52:44

           *「光明道中記」(1月3日 そのまま素直な日)より

 【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
                    (「生命の實相」第十二巻)】

一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って吾々を生かしてくれていると知るのが
悟りである。斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。

料理人の調味の酸鹹(すいからい)を言うなかれ。
料理の酸鹹を言う前にかく批評する吾が心が如何に鹹(から)く、
如何に酸(す)っぱきかを思え。

既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。

既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。

犬に生まれずして人に生まれたり、
外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。

足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。


到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。

到るところに大自然の恵満ちたり。

霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、曇りたるも、霧深きも、百鳥(ひゃくちょう)啼くも、
白鳩飛ぶも、犬走るも、眼覚めて見れば恵みならざるなし。

心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるに非ず、生命の新生なり。

            <感謝合掌 平成31年1月3日 頓首再拝>

当り前が素直に楽しい - 伝統

2019/02/23 (Sat) 04:50:27


           *「光明道中記」(2月23日 淡々妙味の日)より   

【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。(「生命の實相」第十九巻)】

朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。

当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。

朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。

異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、
肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。

それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。

それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。

其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。

太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?

            <感謝合掌 平成31年2月23日 頓首再拝>

空想で自分の心を持て遊ばす、当たり前に喜べるようになる - 伝統

2019/02/27 (Wed) 04:38:06


           *「光明道中記」(2月27日 人を疑わぬ日)より 

【婦人に於ける病気はその原因を辿ってみると、概ね感情生活に起因する。(『百事如意』)】 

私が関西へ移転するかもかも知れぬと云う記事があったので、
若し先生に関西へ移転せられたら、私の熱心が足らぬからであるから、
自殺すると言って手紙を寄越した人があった。

私はその手紙を見ないで内容を秘書から話して貰っただけであって、
その人のことを男性であると思っていた。

この人は度々栞(しおり)に日本画をかいたり、押し花を封じ込んだりして
無名の「一誌友」として手紙を寄越す人なのである。

暫くすると、同じ筆蹟で
「先生にあんなに手紙を差し上げたのは純粋な宗教的思慕の念であったのに、
それを求愛であると誤解せられたのは誠に心外であるから、
この手紙を以て生長の家との訣別の辞とする」と云う手紙が来たのである。

今度の手紙の内容で女性であることが始めて私に判ったのである。

どちらにしても私に何の関係もない空想の産物である。

時として女性と云うものは、空想の世界で、自殺や、恨みや、憤(いか)りを
創作して楽しむものでのである。
空想の世界で自分自身の感情を弄ぶのが此の種の人の病気なのである。

当り前のことが当り前に喜べるようになる迄その人の病気は癒えないのである。

            <感謝合掌 平成31年2月27日 頓首再拝>

あたりまえのことができるものが大賢人 - 伝統

2019/03/15 (Fri) 04:36:14


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より

心をしっかりと持つこと。

上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。

腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。

あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。

            <感謝合掌 平成31年3月15日 頓首再拝>

当たり前のことに感謝すると幸せになる - 伝統

2019/04/07 (Sun) 03:47:03


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/02/26)より

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

当たり前のことに感謝する

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

今日は、あなたが幸運になれる習慣です。

それは感謝するということ。当たり前のことに・・・

何か特別なことが起これば、誰でも感謝します。

何か大きなことが起これば、誰でも感謝します。


でも、特別なことも、大きなことも、めったには起こりません。

ですから、特別なことや大きなことだけに感謝する人は、
いつまでたっても感謝の習慣を身につけることができません。

そういう人は、一日の生活の中で感謝することがないので、
たいてい不機嫌になります。

口から出てくるのは、愚痴ばかり・・・。
何か気にいらなければ、文句ばかり・・・。

そういう人といっしょにいたいとは、誰も思わないでしょう。

ですから、その人には、いい出会いも、いい仕事にも、チャンスにも恵まれません。


逆に、いつも感謝する人には、いいことが起こります。

感謝する習慣のある人は、ちょっとしたことにでも、
「ありがとう」と言葉に出して感謝してくれます。

穏やかで、にこにこしています。人の悪口や陰口などは言いません。

そういう人といっしょにいると安心するし、楽しく仕事ができます。

ですから、よく感謝する人は、いい出会いも、
いい仕事にも、チャンスにもどんどん恵まれます。

大切なのは、感謝する習慣を身につけることです。

目の前の、当たり前のことに感謝するのです。

いつも起こる、小さなことにするのです。

感謝する習慣をもっている人は気づいています。


《当たり前なことは、ほとんどの場合、実は当たり前でないと・・・》

例えば、今日ご飯が食べられること。

これは日本では当たり前のように思われているかもしれません。

でも、実際は日本の子どもの貧困率は先進国では非常に高く、
ご飯を満足を食べられない子どもは大勢います。

ましてや、世界では全然当たり前ではありません。

アフリカやアジアの貧しい人びとは、
昨日も今日も食べるものがなくてお腹を空かしています。

餓死していく人もいます。

ですから、自分は日本に生まれてきて有り難いな、
こうしてご飯が食べられて有り難いな、と感謝できるのです。

また、おかずの一つに目を向けても感謝できます。

このおかずは、お母さん(あるいは奥さん)が作ってくれたんだ、
健康を考えて、栄養のバランスも考えてくれてるんだな、有り難いな。

他のことで疲れているのに、
一生懸命に、毎日おいしいご飯を作ってくれて有り難いな、
と感謝できるのです。

さらに、食卓にのっているすべての食べ物が、
なぜ、いまここにあるかを考えると感謝できます。

これらは、自分が作ってものでもなく、自分が獲ったものでもありません。

誰かが作り、育て、獲り、運び、取引され、
料理され、食卓にのっていることを思い巡らします。

もしも牛や豚を自分で育てようとしたら、これはもう大変なことです。

米や野菜を作ることも簡単ではありません。

産地から店まで運ぶのも、手間隙かかることです。

それらをすべて誰かが自分に代わってしてくれています。

そのおかげで、食事できることは、実に有り難いことなのです。

私たちは、考えることによって知ることができます。


《目の前の当たり前のことは、
本当は、当たり前に起こっているのではありません。

多くの場合、目には見えない誰かの気配りや努力、温かな愛情に
支えられているのです。》

病気になれば、健康の有り難さが分かるように、
当たり前のことは、それを失ったときに、その本当の価値に気づくものです。

でも、失われないうちにも、私たちは、自分の心の視野を広げることで、
自分がいかに多くの有り難いものに恵まれているか、
気づくことができるのではないでしょうか。


   当たり前のことに「ありがとう」と感謝しよう。


いろいろなことが有り難いことだと気づきます。 (^.^)

   (https://lucky.t-nakai.work/2019/02/26/custom-30/ )

            <感謝合掌 平成31年4月7日 頓首再拝>

当たり前のことに感謝すると、「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す - 伝統

2019/04/12 (Fri) 02:25:56


     *「光明道中記」(4月12日 当り前の事が当り前に出来る日)より

【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。心が固定すれば、自然に物も固定する。
                             (『百事如意』)】

何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。

「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。

またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても思い出せないことが
試験場その他で随分ある。そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることも
あり勝である。

「幸福」と云うものも同じようなものである。

「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。
「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、ただ当り前のことを当たり前に感謝して
行なっている人には「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。

            <感謝合掌 平成31年4月12日 頓首再拝>

今日から幸せな気持ちになれるコツ - 伝統

2019/06/30 (Sun) 04:03:30


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/02/15)より


出版社に読者さんからのお手紙が届き、先日、私のもとに転送されてきました。

手紙って、ドキドキします。

差出人は、「中井先生の本を読んで幸せなSK」とありました。

全然知らない人です。何が書いてあるんだろう?

封を開けて読んでみると、とても嬉しい内容でした。

皆様にもご紹介したいと思いました。
この手紙から、「幸せな気持ちになれるコツ」が学べるからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ふらっと入ったコンビニでこの本を見つけ、
「『ハッピーになろうよ。』って一体どんな本なんだ?」と何気なく買いました。

今日は一人で晩ご飯。ご飯を食べ終え、
はじめはこの本をペラペラめくりながらテレビを見て・・・

しかし読み進めていくうちにどんどん本に引き込まれて、
テレビを消して、あっという間に読んでしまいました。

読み終えたらなんだかわからないけれど幸せな気分で、
この気持ちを誰かに伝えたくて、友達にメールをし、こんなお手紙まで書いてしまいました。


私は、去年の9月に結婚しました。

結婚してすぐの頃は、

(中略)

ちょっとしたことがとても楽しく幸せでした。

しかし、日が経つにつれ、変化のない毎日に

「ご飯を作ってあたり前、掃除をしてあたり前、私って何だろう・・・」

と思うようになってしまいました。

(中略)

大好きな仕事をやめ、毎日毎日、だんなさんの為に・・・
「私は一体何なの~!!」とストレスがたまり、イライラ、イライラ

私がイライラしているので、だんなさんとも喧嘩の毎日でした。

しかし、ふっと思ったのです。

「私は文句ばかり言うけれど、
だんなさんは毎日文句を言わず、一生懸命お仕事をしている、
これではいけない!!」と・・・

そして、私は何てぜいたくなんだろうって。

それから考え方を変えてみると、幸せはいっぱいころがっていて

朝起きたら、だんなさんが隣で寝てる 幸せ

歯磨きしたら、同じスピードでゴシゴシしてた 幸せ

お弁当作ったら、全部食べてくれた 幸せ

今日も無事に帰ってくれた 幸せ

私は幸せに囲まれていたんだ~と思いました。


そして、私にこんなに沢山の幸せをくれるだんなさんに
感謝しなくてはならないと思いました。

今日は、だんなさんは会社の方と飲みに出掛けていないので、
明日、朝一番に「ありがとう~!!」って言おう!! (^^)

毎日、沢山の幸せをくれるだんなさんと、
今、こんなに素敵な気持ちにして下さった中井俊已先生に感謝、感謝

この本に出逢えて本当によかったです。
ますます幸せになれそうです。

ありがとうございます。

(この文字のまわりには、10個くらいのハートの絵が飛んでいました・・中井)

急にお手紙を書いてしまってごめんなさい。
どうしてもお礼の気持ちが伝えたくて書いてしまいました。

中井先生、ありがとう!!

SK

         ・・・・・・・・・・・・

SKさん、嬉しいお手紙をくださってありがとう!!

さらに、このブログでご紹介させていただき、ありがとうございます。 (^.^)

では、皆様、私たちは、SKさんのお手紙から、
「幸せな気持ちになれるコツ」を学んでいきましょう。

自分で「これではいけない」と思う状態にいるとき、
その状態を変えるには、何かきっかけが必要ですよね。

人と会うこと、お話を聞くこと、本、映画・・・何がきっかけとなるかわかりません。

SKさんの場合、きっかけは、たまたまコンビニで見かけた私の本でした。

(ラッキーでしたね、お互い・・・)

幸いにSKさんは、『ハッピーになろうよ。』を読んで素直な気持ちになれました。
(たぶん、もともと素直な人なんだと思います)

そして、自分自身とまわりの人を見つめ直す時間が持てたのだと思います。

すると、不平不満でイライラしている自分に対して、
まわりの人(だんなさん)が、
どれだけ自分を大切に思ってくれているかに気づけました。

日常の何気ないことのなかにも、幸せの種は、いっぱいあることにも気づけました。

そうすると、

「私は幸せに囲まれていたんだ~」

と、感謝の気持ちでいっぱいになれたのです。

さらに、その感謝を表わそうと決心すること、
実際に、お友だちや見知らぬ著者にもその気持ちを伝えることで、
もっと幸せな気持ちになれたのではないでしょうか。


以上を短くまとめると・・・

 ●自分とまわりの人を素直に見つめ直す。(反省する)

 ●自分の幸せに気づく。(恵まれていることに目を向ける)

 ●まわりの人に感謝する。(感謝を伝える)


そうすると、ますます「幸せな気持ちになれる」のです。


ところで、いま、関係ありそうな話を思い出しました。

昔、ある神父さんに聞いた実話です。

        ・・・・・・・・・・

戦後間もない、日本が貧しかった頃のことです。

来日したその神父さんは、教会の子どもたちに何かのご褒美で
オレンジジュースをおごってあげました。

当時、ジュースはめったに飲めない貴重なものでした。

子どもたちはとても喜び、
「ありがとう、ありがとう・・・」と涙を流しながら飲んだそうです。

しかも、子どもたちは、1本のジュースを分け合って・・・。


それから数十年経って、日本は豊かになりました。

その同じ神父さんは、教会の子どもたちに何かのご褒美で
オレンジジュースをおごってあげました。

もちろん一人に1本ずつのジュースをです。

すると、子どもたちの何人かが文句を言いました。

「なあんだ、オレンジか。神父さ~ん、グレープジュース、ないの?」

「あたし、コーラがいいなあー」

というお話です。


つまり、物質的に豊かでも、
いま与えられているものに感謝できない人は、幸せな気持ちにはなれない。

逆に、

いま与えられているものに感謝できる人は、
物質的に貧しくても、幸せな気持ちになれるのです。


わたしたちも、日々、何かを与えられています。

ときには、思いがけずご褒美をもらうことがあるでしょう。

神様から・・・

私にとって、SKさんのお手紙は、
神様からいただいたご褒美(オレンジジュース?)でした。

できれば、誰かと分け合いたいと思いました。

読んでくださってありがとうございます。

まわりの人、そして当たり前のことに感謝しよう。

  ( https://lucky.t-nakai.work/2019/02/15/thinking-24/ )

            <感謝合掌 令和元年6月30日 頓首再拝>

当たり前のところに功徳が満ちている - 伝統

2019/07/01 (Mon) 04:56:57


      *「光明道中記」(7月1日《ただ有り難い日》)より

【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
  当り前の人間が神の子である。     (「生命の實相」第二巻)】 


梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの信仰深い皇帝であって、
「放光般若経」を講じたときには、奇瑞があらわれて天から葩(はなびら)がサンサンと降り、
地が黄金に変じたといわれている位である。

その位の武帝であっても、まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。

当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので武帝は早速達磨大師を迎えて
教を聴いたのであった。

「朕は仏教信仰に篤く、
これまで寺や仏像や僧侶に対して供養したことは実に夥(おびただ)しい
ものがございます。斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」

「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。
功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。

功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。
天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。

心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。

        <感謝合掌 令和元年7月1日 頓首再拝>

平々凡々のところに天地の道がある - 伝統

2019/07/14 (Sun) 04:39:14


       *「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】


或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。

至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。

天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。

或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、

或る生長の家誌友に、

朝起きたら自分の寝床を畳むこと、

机の上を綺麗に始末すること、

父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むこと

の3つを実行するように教えて
それを実行せしめたら、その近眼が癒えてしまったのである。

まことに平々凡々が道なのである。

ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。

そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。

道は病気になるものではないから、
吾々の生活が平々凡々何の変哲もないところに
無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、病気は自(おのずか)ら癒えるのである。

            <感謝合掌 令和元年7月14日 頓首再拝>

当り前が道なのである - 伝統

2019/07/15 (Mon) 04:52:01


          *「光明道中記」(7月15日《道が生活に生きる日》)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】


手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないとその人に道が生きていないのである。

人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。

飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。

「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。

それは茶道に一致する。

吾等の生活は行住坐臥「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。

大調和である。
清和である。清(せい)は整(せい)であり、整えるである。

無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに一切の行持(ぎょうじ)が、
茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。

            <感謝合掌 令和元年7月15日 頓首再拝>

今日、今この時から自分は幸せだと気づく考え方 - 伝統

2019/07/29 (Mon) 04:21:43


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/06/23)より


今日もいいことないな、自分ってついてない、
不幸なのかなと思うときに、読んでほしいです。


     「『不幸が当たりまえ』だと思えば、どんなことも幸せ」

      衛藤信之著『今日は、心をみつめる日。』より


衛藤信之さんは、日本一顧問企業数の多い、
人気心理カウンセラーとして活躍する方です。

衛藤信之著『今日は、心をみつめる日。』は、とても良い本です。

きっと多くの気づきと学びがあるでしょう。


1つのアイディアをご紹介します。

最初に、ある会社のトップセールウーマンの女性の深いお話が出てきます。

この女性は、ふつうのおばさんのように見えて、仕事がよくでき、
まわりの人からも母親のように慕われる謙虚な人です。

その女性が穏やかな笑みを浮かべながらこう語ったというのです。

「私の母はよく、

『1年に3日だけでもいいことがあったら、その年は最高の年だよ』

といっていました。

その母に育てられた私も、『生きるのは苦しいのが当たりまえ』と思って生きてきました。

ですから3日いいことがあれば、残りの362日がたとえつらく苦しい日でも、
私は、十分、幸せだって・・・」


私もこの女性やお母さんの生き方に感動しました。

毎日辛いことや嫌なことがあっても当たり前と考えていれば、
平凡な日、平凡なことにも幸せを味わうことができます。

けれども、もしかすると、私たちの多くは逆に、
「幸せなのが当たり前」だと思っていないでしょうか。

お金を出せば物が買えるのは当たり前。

時間通りに電車が来るのは当たり前。

ごはんを食べられるのは当たり前。

子どもが言われたことをするのは当たり前。

健康で当たり前。

家族がいて当たり前。

そんなふうに何でも当たり前と思っていると、
その状態でなくなったとき、イライラしたり、自分は不幸だと思ったりします。


本当は、いまこの状態にも、感謝できることがあると私は思うのです。


お金を出せば物(たとえば服)が買えるって有難いことです。

もし自分で作れば、その何倍ものお金や時間がかかります。

数分遅れても電車が来るのは有難いことです。

だいたい自分が電車を動かすことなんかできないんです。

1日3食、ごはんが食べられるもの有難いことです。
今日も、食べ物を口にできないで餓死する子どもが世界にはいるんです。

親の言うこと聞かない元気な子どもがいるのも有り難いことなんです。
世の中には自分の子どもを早くに亡くしてしまった親も多いんです。

多少痛いところがあっても体があるのは有り難いことなんです。
まったく機能しなければ死を迎えるだけです。

愛する家族がいるのは有り難いことなんです。

もし明日、その家族の誰かが死んでしまうならば、どう思うでしょう?
何億円払ってでも、その命を取り戻したいと思うかもしれません。
自分が身代わりになってでも助かってほしいと必死に願うかもしれません。

そう考えると・・・

いま、この状態で、私たちは十分に幸せなのではないでしょうか。

いまこの状態に何億円もの価値がある。

そう思えないでしょうか。

たとえ何か少し欠けるものがあったとしても・・・
たとえ何か思い通りにいかないことがあったとしても・・・

実は、いま、それ以上に豊かなもので祝福されているのではないでしょうか。

最初の言葉に戻ります。

「『不幸が当たりまえ』だと思えば、どんなことも幸せ」

たとえ不幸だらけの世の中でも、自分の考え方を変え、心を磨いていけば、
日常生活の中に、たくさんの幸せを見つけることができると思うのです。

日常生活の中に、多くの幸せを見つける。(^.^)

【出典】衛藤信之著『今日は、心をみつめる日。』とても良い本です。

    ( https://lucky.t-nakai.work/2019/06/23/book-22/ )

            <感謝合掌 令和元年7月29日 頓首再拝>

【今この瞬間の幸せに気づくこと】 - 伝統

2019/08/17 (Sat) 04:04:49


        *メルマガ「人の心に灯をともす」( 2019年07月02日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   あるホテルでエレベーターを待っていたときのことです。

   目の見えない方が2人、白い杖をつきながらエレベーターから降りてきました。

   そして、「どなたかホテルの方はいますか?」と声を出しました。


   私の後ろに荷物を押しているホテルの女性職員がいて「はい」と答えたので、
   2人は「大浴場はどちらですか?」と尋ねた。

   職員は荷物のほうを向いていたので、
   2人が目の不自由な方とは気がつかなかったのでしょう、
   「あちらです」と指をさして言いました。

   2人が「では肩を貸してください」と言ったので、
   職員も「あっ!」と気がつき、謝りながら2人に近づいて、
   肩に手を添えながら歩いていきました。


   この光景を見て、思いました。

   私は目が見えないという経験をしたことがありません。
   だから「あちらです」と言われて不自由に感じたことはない。

   日常のあたりまえの言葉なのです。

   しかし、目が見えない人にとって、それはあたりまえの言葉ではなかった。

   彼らは肩を借りて誘導してもらわなければいけないのです。


   生まれてからずっと目が見えない人は、
   「1秒でもいい、いや0.1秒でもいいから、親の顔を見てみたい」
   「結婚した相手の顔を見てみたい」「子どもの顔を見てみたい」
   と思いながら生きているそうです。

   私たちは、0.1秒どころが、生まれてこのかた
   目が見えないことなどないにもかかわらず、
   目が見えるということに対して、感謝することなどまずありません。

   それどころか、「あれが欲しい」「これが欲しい」
   「あれをよこせ」「これをよこせ」と現状に対して不満ばかり口にしています。


   私たちは小さい頃から、足りないものをリストアップして、
   それを手に入れなければ幸せになれないと教え込まれています。

   そのように洗脳されているのです。


   「自分がいかに恵まれているか」「自分がいかに幸せか」
   「自分がいかにありがたい状況に生きているか」ということに気づいたら、
   「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の「五戒」など口から出てきません。

   願いがかなったら、望んだものが手に入ったら感謝する、というのは、
   本当の感謝ではありません。

   何も要求することなく、不平不満を言うこともなく、い
   ま目の前にあるものをありがたく味わう。

   それこそが、本当の「感謝」なのです。


   人は、自分がいかに幸せな状況のなかで生きているのかに気がつきません。

   かぜをひいて、丸1日何も食べられなかったら、
   かぜが治ったときに食べた1杯のおかゆが
   とてつもなくおいしく感じられるでしょう。

   元気いっぱいで毎日おいしいごちそうばかりを食べていたら、
   おかゆのおいしさはなかなかわからないでしょう。

   では、かぜで丸1日食べられなかったことは、
   はたして不幸なことだったのでしょうか?

   そうとはいえないでしょう。


   私たちが「幸せ」を感じるためには、
   その前には一般的に「つらい、苦しい、大変」といわれる状況が起こるようです。

   そういう構造になっている。

   それは、時計の振り子にたとえてもよいでしょう。

   真ん中から右側が、一般的にいう「不幸」。
   つらい、悲しいと感じる領域です。

   一方、左側に行けば、いわゆる「幸せ」だと思ってください。


   「幸せを見せてください」と言われた神さまは、
   まず思いっきり右側に振り子を振ります。

   そして私たちが「もう耐えきれない、ギブアップ」と言うと、
   神さまはその振り子から手を離します。

   振り子は勢いがついて、真ん中を通り越して、大きく左側(幸せ)に行きます。

   そのことに気づいたら、
   私たちはつらいこと、苦しいこと、大変なことに遭遇したときも、
   一喜一憂せずに、平静な心でいられるかもしれません。

          <『人生は4つの「おつきあい」』サンマーク出版>

             ・・・

小林正観さんは、本書の中でこう語る。

『いまという瞬間に幸せを感じるということは、
目の前にあるものを楽しみ、味わい、大事にすることです。
いま目の前にいる人を大事にして、できるかぎりのことをしてあげること。

それは「念を入れて生きる」と言い換えてもいいでしょう。

「念」という文字は、「今」の「心」と書きます。

「念を入れて生きる」とはどういうことなのか、
すでに「念」という一文字の成り立ちに込められているのです。

それをお釈迦様は「刹那(せつな)、刹那」を生きること、言ったそうです。

1刹那とは、ほんの一瞬。

いまここのこの一瞬、一瞬が一生の長さだとお釈迦さまは説いたのです。

私たちはともすると、明日何をしようか、将来どうなっているかなどと考えて、
いまの瞬間を過ごしてしまいます。

しかし、「刹那」を生きるということは、
目の前にいる人、物、現象を大切にすること。

いまという瞬間を心をこめて生きることです。

良寛さんは「私の口から出る言葉は、すべて贈り物でありたい」と言いました。

貧しい僧侶であった良寛さんは、
何か物をプレゼントしようと思っても、何も贈るものがない。

だからせめて、言葉を贈り物にしよう。

自分の口から発する言葉は、
つねにやさしく、あたたかく、人を励まし、勇気づけ、心安らぐものでありたい…。

良寛さんは、たとえ人からどんなひどいことをされても、
このことを実践しつづけたのです。

それが、この一瞬を大切に生きる。

すなわち、「念を入れて生きる」「刹那を生きる」ということです。

この一瞬を大切にしないで、いつ、誰を大切にするというのでしょう。

私たちは、いま目の前にいる人、
いまここに起こっていることしか大切にすることはできません。

昨日会った人を抱きしめることはできないし、
明日会う予定の人を抱きしめることもできません。

いま目の前の人を抱きしめること。

自分のとびっきりの笑顔を見せてあげること、
できるかぎりのやさしい言葉を贈ってあげることです。』


我々は、ともすると、今この瞬間の幸せに気づかないことが多い。

目が見えること、手足が動くこと、息ができること、仕事に行けること、
そして、生きていること…。

当たり前の幸せに気づかない。


不足を数える人は、今ある幸せに気づかない。
不足を数えれば数えるほど、不平不満、愚痴、泣き言、文句が出てくる。


良寛さんは「私の口から出る言葉は、すべて贈り物でありたい」と言ったという。

それが「愛語」。

心のこもったあたたかい言葉だ。


今この瞬間の幸せに気づき、愛語の実践を重ねたい。

            <感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝>

あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。 - 伝統

2019/10/26 (Sat) 04:35:48


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月26日)より要約抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、
      鉱脈透視の霊能を得ており、
      出資者が欲しいとのことでの来訪であった)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
 この人なら君に協力してくれるという。」

(A氏は、自分は多くのことを知っており、上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「君は能力もあるし、学問もある。それでいて協力者がないというのは、
君は君の能力に高慢になって人を見下すというところがある。

君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、
霊魂や心の波や、近代の新興物理学などのことは
君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
そのために大事なところを見のがしてしまう。

そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」

(A氏は、部長は何を言っても信じない。こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。
能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから拝めないのだけれども。
人間に内在する神性を礼拝する。

どんな人間にも、そのバックには尊いものがある。
それを拝むようにすれば、部長も君を拝んで協力を求めてくるにちがいない」

「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、
どんな人間でも、その仏性神性が顕われる。これは否定できない真理なんだ。
君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

君の地位をもっていて君の能力を持っていて協力者がないというのは、
ただ君が相手を軽蔑する悪い癖があるから、
”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、
協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人もたくさんある。
人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。


ただ今を忠実に生きることにあるのである。
米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。
奇跡に見とれている間に大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

           <感謝合掌 令和元年10月26日 頓首再拝>

【人間としてもっとも大事なこと】 - 伝統

2019/11/12 (Tue) 04:26:36


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.10.11)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   大島みち子さんという女性がいた。
   子供の頃は頭もよく、体も健(すこ)やか、
   本当に可愛(かわい)い、いい子だったという。

   その大島さんに異変が生じたのは高校に入った時だった。

   顔の軟骨が腐るという難病にかかったのだ。

   その治療のため、高校は5年かかってようやく卒業した。


   彼女は京都の同志社大学文学部に進学。

   だが、病気が再発、長い病院生活となる。

   その間に一人の男子学生と知り合い、手紙を取り交わす間柄になったりする。

   この大島さんが書き残した文章を集めたのが『若きいのちの日記』という本。



   教育学者、東井義雄氏はこの本に、
   いまここで何をなすべきか、人間としてもっとも大事なことを教えられたという。


   大島さんは書いている。


   「病院の外に健康な日を3日ください。

    1週間とは欲張りません。

    ただの3日でよろしいから病院の外に健康な日がいただきたい」


   「1日目、私はとんで故郷(ふるさと)に帰りましょう。

   そして、お爺ちゃんの肩をたたいてあげたい。
   母と台所に立ちましょう。
   父に熱燗を1本つけて、おいしいサラダを作って、
   妹たちと楽しい食卓を囲みましょう。

   そのことのために1日がいただきたい」


   「2日目、私はとんであなたのところへ行きたい。

   あなたと遊びたいなんていいません。
   お部屋を掃除してあげて、ワイシャツにアイロンをかけてあげて、
   おいしい料理を作ってあげたいの」


   「3日目、私は一人ぼっちの思い出と遊びましょう。

   そして静かに1日が過ぎたら、3日間の健康にありがとうと、
   笑って永遠の眠りにつくでしょう」


   自らの人生を看脚下(かんきゃっか)し、見事に生きた人の姿をここに見る。

   若くして逝った女性の生き方に倣(なら)い、
   私たちも自らの看脚下を深めていきたい。

         <『小さな修養論4』致知出版社 >

            ・・・

『若きいのちの日記「愛と死をみつめて」の記録』は、
1963年に刊行された大島みち子さんと河野実さんの、
3年間に交わされた約400通の文通の記録だ。

大島みち子さんは、22歳の誕生日の前日に亡くなったが、
その後、ドラマやテレビにもなり、映画化もされ、
また歌も、空前の大ヒットとなった。

この「病院の外に健康な日を3日ください」という涙する珠玉の言葉は、
亡くなる4ヶ月前に書かれたもの。


看脚下とは、

自分の足元を見よ、という意味で、
自分の寄って立つところを見失うな、常に自戒せよ

という意味の禅語。

当たり前の幸せに気づけるか、感謝しているか、ということでもある。

まさに、この「病院の外に健康な日を3日ください」という
この心の叫びの言葉は、何度読んでも我々をハッとさせる。

そして、「生かされているありがたさ」に気づかされる。


明日も明後日も、この毎日がなんとなくずっと続くと思えば、
ぼんやりと、日常を無駄に過ごしてしまう。

そしてつい、文句や愚痴や、泣き言や、不平不満を言ってしまう。

人は、死を意識することによって、「生」を真剣に考える。


「人間としてもっとも大事なこと 」

それが…

「今生かされていること」、その幸せに気づくこと。

            <感謝合掌 令和元年11月12日 頓首再拝>

【山を出なければ山は見えない】 - 伝統

2019/12/27 (Fri) 03:01:01


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.12.21)より

   (特別尼僧堂堂長・正法寺住職、青山俊董氏の心に響く言葉より…)

   《床の間に棺桶(かんおけ)を置いて、行き詰った時、
    その中へ入り、そこから見なおして見よ》(内山興正)


   富士山に登った人が語った。

   「富士山は遠くから眺めるものです。
    山に入り、登り始めたら、粗削りの山肌や岸壁や谷にさえぎられて、
    富士の姿は隠れ、目に入るのは登山者の捨てたごみの山ばかり…」


   「山を出なければ山は見えない」と私は好んでサインする。

   山全体を展望しようと思ったら遠く離れて見ることだ。

   そのように一人の人を見るにも、
   例えば親子、兄弟、夫婦、近すぎて見えるのは欠点ばかり。

   まして自分の人生はさらに見えない。


   内山老師が「棺桶の中から」という表現をされたように、
   自分の人生の外から、死にきった世界から見なおして、
   初めてどうあるべきかが見えてこよう。

   日々共にありながら、死にきった世界から見る眼を
   養って育てることができたら、と思うことである。

     <『あなたに贈る 人生の道しるべ 続・ことばの花束』春秋社>

                ・・・

小林正観さんは、
自分の夫(奥さん)に文句を言いたくなったら、こう思えばいいという。

『夫婦はもともと赤の他人です。
 食事なんかも他人様がわざわざ自分の為に作ってくれている
 と思えば有難くて仕方が無いはず。

 そう思えば普通、「いつも すみません」とか「ありがたく頂きます」と
 一言ぐらい何か言うでしょう。
 
 食事を「隣のおばさん」が作って持ってきてくれる。

 給料を「隣のおじさん」が持ってきてくれる。 

 夫婦、お互いがそう考えたら、共にとてもありがたい存在のはず。

 なのに食事を作ったのが「妻」になったとたん、
 味付けや品数で不満を言い感謝出来なくなってしまう。

 給料を持って帰ってくるのが「夫」になったとたん、あたり前になって、
 多い少ないと不満を持ってしまう。

 おかしいと思いませんか?』


何事も当たり前になった途端、感謝がなくなる。

「当たり前」の対義語は「ありがたい」だ。

「有難い」は、今ここにあることが本当に珍しいこと、有ることが難(かた)いこと。


夫婦に限らず、親子、兄弟、と身近になればなるほど、
当たり前になり、感謝がなくなる。

「山を出なければ山は見えない」

身近な存在の有難さに感謝したい。

            <感謝合掌 令和元年12月27日 頓首再拝>

当たり前のことに感謝すると幸せになる - 伝統

2020/02/21 (Fri) 04:40:59


        *Web:今日も良いことがあるように(2019/02/26)より

《どんなことに感謝しますか? 》

何か特別なことが起これば、誰でも感謝します。

何か大きなことが起これば、誰でも感謝します。

でも、特別なことも、大きなことも、めったには起こりません。

ですから、特別なことや大きなことだけに感謝する人は、
いつまでたっても感謝の習慣を身につけることができません。

そういう人は、一日の生活の中で感謝することがないので、たいてい不機嫌になります。

口から出てくるのは、愚痴ばかり・・・。
何か気にいらなければ、文句ばかり・・・。

そういう人といっしょにいたいとは、誰も思わないでしょう。

ですから、その人には、いい出会いも、いい仕事にも、チャンスにも恵まれません。


逆に、いつも感謝する人には、いいことが起こります。

感謝する習慣のある人は、ちょっとしたことにでも、
「ありがとう」と言葉に出して感謝してくれます。

穏やかで、にこにこしています。人の悪口や陰口などは言いません。

そういう人といっしょにいると安心するし、楽しく仕事ができます。

ですから、よく感謝する人は、
いい出会いも、いい仕事にも、チャンスにもどんどん恵まれます。

大切なのは、感謝する習慣を身につけることです。

目の前の、当たり前のことに感謝するのです。

いつも起こる、小さなことにするのです。



《当たり前のように起こることって、本当に当たり前でしょうか? 》

感謝する習慣をもっている人は気づいています。
当たり前なことは、ほとんどの場合、実は当たり前でないと・・・

例えば、今日ご飯が食べられること。

これは日本では当たり前のように思われているかもしれません。
でも、実際は日本の子どもの貧困率は先進国では非常に高く、
ご飯を満足を食べられない子どもは大勢います。

ましてや、世界では全然当たり前ではありません。

アフリカやアジアの貧しい人びとは、
昨日も今日も食べるものがなくてお腹を空かしています。

餓死していく人もいます。


ですから、自分は日本に生まれてきて有り難いな、
こうしてご飯が食べられて有り難いな、と感謝できるのです。


また、おかずの一つに目を向けても感謝できます。

このおかずは、お母さん(あるいは奥さん)が作ってくれたんだ、
健康を考えて、栄養のバランスも考えてくれてるんだな、有り難いな。

他のことで疲れているのに、
一生懸命に、毎日おいしいご飯を作ってくれて有り難いな、と感謝できるのです。


さらに、食卓にのっているすべての食べ物が、
なぜ、いまここにあるかを考えると感謝できます。

これらは、自分が作ってものでもなく、自分が獲ったものでもありません。

誰かが作り、育て、獲り、運び、取引され、
料理され、食卓にのっていることを思い巡らします。

もしも牛や豚を自分で育てようとしたら、これはもう大変なことです。
米や野菜を作ることも簡単ではありません。
産地から店まで運ぶのも、手間隙かかることです。

それらをすべて誰かが自分に代わってしてくれています。

そのおかげで、食事できることは、実に有り難いことなのです。


私たちは、考えることによって知ることができます。

目の前の当たり前のことは、
本当は、当たり前に起こっているのではありません。

多くの場合、目には見えない誰かの気配りや努力、温かな愛情に支えられているのです。

病気になれば、健康の有り難さが分かるように、
当たり前のことは、それを失ったときに、その本当の価値に気づくものです。

でも、失われないうちにも、私たちは、自分の心の視野を広げることで、
自分がいかに多くの有り難いものに恵まれているか、
気づくことができるのではないでしょうか。

     当たり前のことに「ありがとう」と感謝しよう。

いろいろなことが有り難いことだと気づきます。 (^.^)

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/02/26/custom-30/ )

            <感謝合掌 令和2年2月21日 頓首再拝>

当り前のことを楽しく素直に行じる - 伝統

2020/02/23 (Sun) 02:17:30


           *「光明道中記」(2月23日《淡々妙味の日》)より   

【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。(「生命の實相」第十九巻)】

朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。

当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。

朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。

異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。

それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。

それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。

其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。

太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?

            <感謝合掌 令和2年2月23日 頓首再拝>

あたりまえのことができるものが大賢人 - 伝統

2020/03/15 (Sun) 03:30:24


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より

心をしっかりと持つこと。

上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。

腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。

あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。

            <感謝合掌 令和2年3月15日 頓首再拝>

(当り前に)感謝するということ - 伝統

2020/03/29 (Sun) 04:04:40


          *『生長の家』(昭和45年6月号)より
            ~北尾巳代次

兎に角感謝は癒す、と生長の家で教えて頂きますが、感謝の功徳は絶大です。

でも一体何に感謝するのですか、と時々反問せられる方があります。 
何に感謝すると言って当り前に感謝するのです。 
当り前程有難い事は無いと思うのです。

目が見える事、耳が聴える事、ものが言える事、手足が動く事、
この当然の事が一度当然さを失うと、忽ち天地が暗くなる程悩むものなのです。 
私達は平素から此の当り前に感謝する習慣をつけなければなりません。

皆様は子供の目が見える事を喜んでいらっしゃいますか。 
耳が聴えること、手足が動く事、考えてみると
感謝すべきことは山程あるのでは無いでしょうか。


あの大無量壽経の第十七の願の中で  
『咨嗟して吾が名を称せよ』  と教えられております。

咨嗟するとは声を大にして阿弥陀仏の徳を讃えよ、という事ですね。 
一杯の水を飲むにも  『阿弥陀さま、あなたのおかげで此の有難い
生命の水を頂かして頂けるのです。 有難うございます』  
と感謝せよという事なんです。

御飯を頂くにも単に物質の御飯を頂戴するのではない。 
これ悉く仏の功徳ならざるものは無いのであります。 
声を大にしてその功徳を讃え讃嘆称揚する人が極楽に住まわせて頂くのです。 

子供を育てるのも、吾が子であって吾が子では無い。 
これ皆神が授け給うた尊いみ宝として、常にその徳を讃えるのが
育児の根本になるのであります。 

夫婦の生活も互に咨嗟し合う所に幸福が築かれるのです。 

『汝等互に相愛せよ』 と創世記に有りますが、
この調和と感謝の悦びの生活こそ人間が神の祝福を享ける根本に成るのであります。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p9.html
09/01/13

            <感謝合掌 令和2年3月29日 頓首再拝>

当り前のことを当たり前に感謝する - 伝統

2020/04/12 (Sun) 03:29:44


   *「光明道中記」(4月12日《当り前の事が当り前に出来る日》)より

【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。心が固定すれば、自然に物も固定する。
                             (『百事如意』)】

何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。

「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。

またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても
思い出せないことが試験場その他で随分ある。

そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、
突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることもあり勝である。

「幸福」と云うものも同じようなものである。

「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。
「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、ただ当り前のことを当たり前に感謝して
行なっている人には「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。

            <感謝合掌 令和2年4月12日 頓首再拝>

当たり前の中に、功徳が充満している - 伝統

2020/07/01 (Wed) 04:54:25


      *「光明道中記」(7月1日《ただ有り難い日》)より

【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
  当り前の人間が神の子である。     (「生命の實相」第二巻)】


梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの
信仰深い皇帝であって、「放光般若経」を講じたときには、
奇瑞があらわれて天から葩(はなびら)がサンサンと降り、
地が黄金に変じたといわれている位である。

その位の武帝であっても、
まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。

当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので
武帝は早速達磨大師を迎えて教を聴いたのであった。

「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して
供養したことは実に夥(おびただ)しいものがございます。
斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」

「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。

功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。

功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。

天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。

当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。

心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。

吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。

            <感謝合掌 令和2年7月1日 頓首再拝>

天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知る - 伝統

2020/07/02 (Thu) 04:22:59


    *「光明道中記」(7月2日《偽物(にせもの)を捨てる日》)より

【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】 

寺院に奉仕し、仏像に供養し。僧侶に布施して
その功徳いくばくなどと思うのは凡(おそ)そこれに過ぎたる愚問はない。
そういう問を発する心の中には、「供養誇り」と云うホコリで
醜く充満しているのである。

「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、
 お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。

その人は「《わし》」と云う愚かにも、
本来無いところの自己をつかんで放していないのである。

天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。

何か善いことをして、
それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。

《自分の》功徳がないと知るとき、天地間はただ功徳で充満しているのである。

無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。

奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、これが奇蹟である。

或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき一切功徳を蒙(くら)ましているのである。

            <感謝合掌 令和2年7月2日 頓首再拝>

平々凡々のところに天地の道がある - 伝統

2020/07/14 (Tue) 04:54:05


       *「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】


或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。

至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。

天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。

或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、

或る生長の家誌友に、

朝起きたら自分の寝床を畳むこと、
机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むこと

の3つを実行するように教えてそれを実行せしめたら、
その近眼が癒えてしまったのである。

まことに平々凡々が道なのである。

ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。

道は病気になるものではないから、
吾々の生活が平々凡々何の変哲もないところに
無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、病気は自(おのずか)ら癒えるのである。

            <感謝合掌 令和2年7月14日 頓首再拝>

当り前が道なのである - 伝統

2020/07/15 (Wed) 04:38:44


          *「光明道中記」(7月15日《道が生活に生きる日》)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】


手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないとその人に道が生きていないのである。

人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。

飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。

「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。

それは茶道に一致する。

吾等の生活は行住坐臥「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。

大調和である。
清和である。清(せい)は整(せい)であり、整えるである。

無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに一切の行持(ぎょうじ)が、
茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。

            <感謝合掌 令和2年7月15日 頓首再拝>

手近な生活に道がある - 伝統

2020/07/16 (Thu) 04:30:59


          *「光明道中記」(7月16日《道を歩む日》)より

【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
 之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】


趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。

ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。

「道は牆(かき)の外にあり」(《そら》其処に道があるじゃないか)と趙州は答えた。

「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。人間の歩む大道(たいどう)のことです」
と修行僧は言った。

「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」と趙州は答えた。

道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。

人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。

手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。

至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌うとはよく言ったものである。

            <感謝合掌 令和2年7月16日 頓首再拝>

手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。 - 伝統

2020/08/10 (Mon) 04:55:51

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月10日)より

世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが
自分にとって最も消化しやすい栄養であるのである。

手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。
邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものはついに天国に到ることができないのである。

「道」は ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、
太陽は毎朝東から差しのぼってなんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

           <感謝合掌 令和2年8月10日 頓首再拝>

当たり前の奇跡 - 伝統

2020/10/31 (Sat) 04:32:23


          *「そのままでいい 100万いいね!を集めた176の言葉」
            田口 久人・著(P35)より

一緒に笑える「奇跡」

ありがとうと言える「奇跡」

ともに喜びを分かち合う「奇跡」

いつもそばにいてくれる「奇跡」

今日も生きられる「奇跡」

当たり前の日常に「奇跡」は溢れている

あとは気づくかどうか
決して失ってから気づかないように

           <感謝合掌 令和2年10月31日 頓首再拝>

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