伝統板・第二

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(七月)の法語 - 伝統

2017/07/01 (Sat) 03:55:14

このスレッドでは、次の4つの法語を紹介してまいります。



(1)『 生長の家 』  昭和二十四年七月号
            ブログ「 住 吉 大 神 浄 め 給 う」 
            http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/m/201404/1

(2)『 生長の家 』  昭和二十五年七月号
            谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐より紹介
            http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

(3)『 生長の家 』 昭和二十六年七月号( 一日の法語 ~ 十八日の法語)
            ブログ「 住 吉 大 神 浄 め 給 う」 
            http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/549262d625380b2d3657ed29ac99f2c9
            
(4)『 理想世界 』 昭和四十二年七月号
            伝統板・第二
            「青年よ悪習慣の鏈(くさり)を断ち切れ
             =最も大切な性格形成の問題について=」
            http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412

・・・


【一日の法語(7月1日)】

(1)《与えただけの値打のものが来る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7dd174f3c05e24216f87966583a937e9


   (抜粋として)

   吾々の得る所の喜びは、その値打を払っただけのものであって、
   それ以上のことはあり得ないのである。

   奮闘の後に得られたる獲得こそ、
   しみじみと自分の魂にその価値が感じられるのである。

   小人(しょうじん)は困難に遭って屈服してしまうのであるが、
   偉大なる人は困難あるごとに一そう自己が偉大となるのである。

・・・

(2)《狭き門より入れ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   実相智に到達すれば 喜ぶ世界のみであるけれども
   それに到達するには 己に打ち克つことが必要である。

   「 己 」 とは 「 ニセモノの自分 」 である。
   「 狭き門より入れ 」 とイエスが教えたのは そのためである。

・・・

(3)《天地万物に感謝せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/549262d625380b2d3657ed29ac99f2c9


   (抜粋として)

   一筋の藁、一本の大根、それに神の愛を感じ、
   感謝出来るのが宗教的境地であって、
   金が儲(もう)かるから集ると云うのは 相場師の境地である。

   百丈和尚(ひゃくじょうおしょう)は 一枚の大根の葉が流れ行くのを
   追っかけて往(い)って拾って頂いたと云う。

・・・

(4)《“粗暴”の種を蒔いてはならない》

   ある有名な哲人がいった言葉には、

   「ある行為の種を蒔けば、吾らは習慣というものを穫りとるのである。
   習慣の種を蒔けば自分の性格というものを収穫する。
   自分の性格という種から自分の運命というものが実るのである」と。

   一寸した行動が粗暴であること位は何の悪い影響もないかの如く考えられ勝ちで、
   若い人たちは、一寸した日常の動作を粗暴にやってのけてそれで
   “元気溌剌”たる若人の特権の如く考えていることが多いらしいが、

   それは毎日”粗暴”の種子を蒔きつつあるのであり、
   それが習慣となって生長し、ついには世界の平和を掻き乱す
   恐るべき果実をみのらす結果ともなることを考えるならば、
   少年だからとて日常の行動を粗暴にしてはならないのである。

   元気と粗暴とは異る。


・・・

<参考:7月の谷口雅春先生の言葉>


(1)『 光明法語<道の巻> 』(七月の法語「生命の本源(神)を顕すには」)
   (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=93

(2)『 生命の實相 』第三十七巻幸福篇(七月「真諦成就」)
   (本流宣言掲示板)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2546

(3)『 光明道中記 』(七月「浄行ととのう」)
   (光明掲示板・第一)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1821

            <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>

【二日の法語(7月2日)】 - 伝統

2017/07/02 (Sun) 03:53:40

(1)《障礙(しょうがい)物は進歩の踏台》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/91b3c7f27b37743f351a0e60d8176e5f


   (抜粋として)

   「 我は 如何なる困難をも克服する所の偉大なる神の子である。」

   かく信じて目の前にある障礙物を却(かえ)って
   自己の向上する為(ため)の踏台とする人こそ
   やがて偉大に成功するのである。

   魂を磨く所の鑢(やすり)は困難である。
   困難こそ人間を玉成するのである。

・・・

(2)《五官は番犬に過ぎない》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   五官の心は 「人間自身」 ではなく
   人間の道具である。
   それは 番犬のようなものである。

   肉体の快楽は 一時的に汝を喜ばすかは知れないが、
   汝の魂に深い悩みと淋しさとを残すのである。

   それは 「 本当の自分 」 が
   打ち敗(ま)かされたからである。

   本当の魂を喜ばすのは
   実相智によるほかはないのである。

・・・

(3)《仕事に悦びを感ずるには》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/491a18692ccef688f441aca102a8e891


   (抜粋として)

   人生が退屈であったり、無意義に見えたりするのは
   その人の愛が乏しいからである。

   愛して何事でも、愛のために行うならば
   自然と歓喜が湧(わ)いて来て 退屈であったり、
   無意義に感じたりする筈(はず)はないのである。

   利己主義のところに真の悦(よろこ)びは 湧いて来る筈はない。
   神の愛を実現する処(ところ)にのみ 真の悦びは湧いて来るのである。

・・・

(4)《雑草からは良きものは実らない》

   プラトー(ギリシャの哲人)も言うのである。

   「無限の善が、良き習慣から生まれて来るのである。
   良き習慣というものは、良き行為の範例や、良き友との交わりや、
   道徳的知識や、道徳的行為の体験を通して養われるのである」と。

   戦後のあまりにも過ぎた日本社会の如き自由主義的放漫の生活からは、
   良き行為の範例や、良き友との交わりや、道徳的知識・・・・・などには
   滅多に接することができないのである。

   そして自由に伸びるものは雑草の如き無秩序性である。
   雑草の中からは決して良きものは実らないのである。

   良き果実を実らせようと思うならば、雑草を自由に伸ばしてはならないのである。
   雑草を引き抜いて、良き種子を選択して播種しなければならないのである。

   自由放漫の中からは稀にしか良きものを生じない。
   行動の自由主義の効果には限界があるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月2日 頓首再拝>

【三日の法語(7月3日)】 - 伝統

2017/07/03 (Mon) 03:29:39


(1)《努力なしには地下の宝玉は得られぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f8a321701bff09ca11de9c55a2bbeb49


   (抜粋として)

   多くの才能は地下に埋蔵された宝石と等しく、
   努力なしに放置する時には眠っているのであるが、
   困難の刺戟(しげき)によってそれが現実となるのである。

・・・

(2)《五官の心を神にまで統制せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   本当の喜びは 五官の心を徹底的に自己統制して、
   自分の生活の凡ゆる瞬間、如何なる小さき行動も、
   如何なる小さき心の想いも
   神にささげてしまった時にのみ得られるのである。

・・・

(3)《神を愛する者は人をも愛する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/440df0246a5efc3ba7f0b10ff42fbd22


   (抜粋として)

   神を愛するとは 自己に宿る神性(しんせい)を愛することにほかならない。
   自己に宿る仏性(ぶっしょう)を愛することにほかならない。

   自己に宿る 神性 仏性 を愛するには
   同時に他に宿る 神性 仏性 を愛しなければならない。

   汝の隣人を愛さないでいて、神を愛していると云うことは、
   虚言(そらごと)にすぎないのである。

・・・

(4)《習慣の“環”は早いうちに中断せよ》

   習慣は、一つ一つの行為の“環“の連続である。その一つ一つの”環“は
   小さいけれどもそれがつながって長き鏈(くさり)となるとき、
   強力に自分をしばる鉄の鎖となるのである。

   何人も、あまりに長くつづいた“習慣の鏈”によって十重二十重に
   縛りつけられるならば、その鏈の縛りを切り放って自由になることは
   殆ど不可能となるのである。
   それは“殆ど”であって“絶対”ではない。

   その実例を、喫煙をやめたいと思って色々と工夫し努力して見ながら
   どうしても喫煙がやめられない“喫煙癖”の奴隷の如き人間を見るがよい。
   全く彼は気の毒な状態ではないか。

   まだ一つ一つの行為の“環”が二つや三つや五つぐらい連続しているだけの
   初期状態では、それは鏈という程でないから、途中でやめられるし、
   自分の全身をしばる長い鉄鎖とならないのであるから、
   「これは悪い習慣になりそうだ」と気がついたら、

   それが習慣となる前にすぐその行為をやめるがよい。

            <感謝合掌 平成29年7月3日 頓首再拝>

【四日の法語(7月4日)】 - 伝統

2017/07/04 (Tue) 04:04:42


(1)《摩擦ある環境もお蔭(かげ)である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fa6ad9358ba8bb76fe1e4e26484fa68f


   (抜粋として)

   すべての困難と抵抗とは 自己を向上せしめ
   前進せしめるための天与の刺戟である。

・・・

(2)《人生の目的は神を実現せんがためである》
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾(われ)は 今 吾(わ)が本性の 「 神 」 なることを知ったのである。

   吾は個人ではないのである。吾は全体である。
   吾は無限である。吾は絶対である。
   吾は永遠である。吾は不滅である。

   吾が人生の目的は これを実現せんがためである。

・・・

(3)《汝(なんじ)の肉体を讃美せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/80ce80b21afdac0966776c2b7e2d50be


   (抜粋として)

   あなたが肉体を愛し、その健康を求めるならば、
   肉体に小言(こごと)を云っては ならないのである。

   肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃(たた)え、
   肉体の健康を祝福しなければならないのである。

・・・

(4)《自分の蒔いた行為の種が芽を吹くとき》

   【四日のことば】

   イタリアのトリノにある大学のボネリ教授の実験によるならば、
   30年間葡萄酒の中に入れてアルコール漬けにされ、さらに16年間、
   空中に乾し晒らされたガラガラ蛇の牙にまだ毒性が残っているかどうかを
   試すために或る動物の皮膚をその牙で刺して実験してみたところ、驚くなかれ、
   その1時間後にはその動物は蛇毒にあてられて死んだのだった。

   行為の積み重ねによって生じた習慣というのも、
   このように吾々の生命の奥深く眠っていて、ある機会が来たら、
   それが活性化して吾々の行動を支配することがあるのである。

   だから、吾々はガラガラ蛇のような、
   人を害する毒性のある想念や行為を積みかさねて
   それを潜在意識の底に眠らしておいてはならないのである。

   一千年以上も以前に乾燥状態で埋もれていた蓮の実が,
   播植してみたら発芽した実例もある。

   人間は、現世一代の存在ではなく、幾度も生れ変って来ているのであるから、
   今、種を播いておいた善行又は悪行が、数代もの生まれ変わりの後に報いられて
   来ることもあるのであるから、人生をこの世一代の存在だと思って、生きてるうちに、
   どんなズルイ事でもやって出来るだけ快楽を貪って置けというような考えから
   悪行の種を播いておくと、数代後の生まれ変りに、困難な状態におかれる
   ということもあるのである。

   私たちは毎日よき種子を業の世界に播いておかなければならない。

            <感謝合掌 平成29年7月4日 頓首再拝>

【五日の法語(7月5日)】 - 伝統

2017/07/05 (Wed) 04:44:51


(1)《抵抗は有難い、吾々を前進せしめる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d14ec46bd5e21bf633f5327ac1344cc9


   (抜粋として)


   人間が反対と摩擦から解放されてしまった時に
   それはレールの上に油を塗って滑らした機関車のように、
   上向することはできないで下向(げこう)するばかりである。

   抵抗と摩擦とによって人間は自己をみがき上昇し向上する。

・・・

(2)《今、吾が生命を直視(じきし)せり》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾は凡ゆる苦痛と悩みとの彼方(かなた)に超出したのである。
   吾は 今 絶対完全なる自由を獲得して
   神人の実相を実現したのである。

   五官の誘惑は 自分を もはや ひきつけないのである。

・・・

(3)《自己に宿る自然療能力に感謝せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e8ba579a5ccc941d9989c4bf18a4b634


   (抜粋として)

   神の自己表現の機関である肉体は 健康であるように、
   美しくあるようにつくられたのであり、

   その美と健康とを維持するように 内部に自然療能
   (神御自身の再生能力)を与えられているのである。

   常に神の再生能力は 吾(われ)らを生かし、修復し、若返らせ、
   疲労を恢復(かいふく)せしめつつあるのである。

   その驚くべき恢復を発現せしめようと思うならば、
   先ず、その力の存在を認め、それに感謝することである。

・・・

(4)《肉体の快楽に誘惑されてはならない》

   【五日のことば】

   どんな悪業を積んでおいても、それが報いられる筈はないという甘い考えで、
   瞬間の快楽のために、誘惑の奴隷となって、ある人妻と姦通した青年がいた。

   彼がその人妻を本当に恋愛しているのであったならば、
   その行為に、ある情状酌量の点数がつけられるかも知れない。

   併し、彼はその人妻のほかに、同じ期間に、別の人妻と姦通していたのであった。
   だから彼は純粋に一人の女性を恋いしたっていたのでもなかった。

   その青年は脚が立たなくなった。あの立派な青年(男)がどうして、
   腰相部の脊髄神経麻痺にかかって脚が立たなくなったりしたのであろうと
   私たちは不思議に思っていたのであった。

   彼の病気の治療は私の毎日の祈りの中に加えられていたにもわらず、
   既に六ヵ月を超えても腰部脊椎神経の麻痺は治らないのであった。

   或る日、この青年から右の事実を告白した手紙が来た。

   それは前非を悔いた手紙であって、姦通した二人の女性のうちの一人とは、
   その女の産んだ可愛い赤ちゃんが側で二人の行為を見ている前で、
   「どうせ赤ん坊のことだから見ていても何をしているか分らないだろう」
   と思って行為したという告白であった。

   ”その幼い子供の純粋な心を汚したことを思うと耐えがたい悔恨だ”
   というような反省がその手紙にはあらわれていた。

   腰部は色情帯であって其処に健康に故障が起こるのは
   色情の過ちが具象化するのである。


            <感謝合掌 平成29年7月5日 頓首再拝>  

【六日の法語(7月6日)】 - 伝統

2017/07/06 (Thu) 04:24:36


(1)《危機を恐れるな、人間の全力は危機に出る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/31f9c2b5ee6544531d0dfaa49ae27ced


   (抜粋として)

   危機一髪のところに無限の力がでてくるのである。
   歴史にその名の出ている人は 殆(ほと)んどすべてが、
   世界の危機に出現した人たちばかりである。

   危機は英雄豪傑を作るのである。

   高きにのぼらんとする努力が
   人間の生活を高邁(こうまい)にするのである。

・・・

(2)《絶対者の顕現としての我》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾は 永遠なるものである。
   吾は 不滅なるものである。

   吾は 神である。
   吾は 仏である。
   吾は 普遍である。

   吾は 時間をこえ、空間をこえ、久遠に存在し、
   無限の智慧をもち、無限の愛をもち、
   死せず滅せず、苦しまず、悲しまず、
   永遠に喜ぶ所のものである。

・・・

(3)《人生は錦織(にしきお)りなす織物である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6ca0b00d4f971cef1d613ba287ea3a34


   (抜粋として)


   人生を織物にたとえるならば、人間はその織り手である。

   経糸(たていと)は 全体を貫く自分の希望であり、理想である。
   緯糸(よこいと)は 経糸を遮(さえぎ)り
   交叉(こうさ)するところの出来事である。

   すべての出来事は 人生を美しき織物に織りなす素材である
   に過ぎないのである。

・・・

(4)《あなたの良心の審判から免れることはできない》

   【六日のことば】

   赤ん坊は見ていないかも知れない。
   又たとい見ても無関心で、何のことか行為の意味を解しなかったかも知れない。

   本人以外誰もそのことは知らないかも知れない。
   ”天知る地知る”といっても部屋の中で、天も地も知らないかも知れない。

   神もそれは看過すかも知れない。
   神は見ていても直接には神罰を下すことはないであろう。

   しかし本人の意識はそれを知っているのである。

   肉体の全細胞はその行為について連関(かんれん)をもっていて、
   その行為に対して反応を示すのである。
   その反応の一つが「腰が立たぬ」ということであった。

   それは同時に彼の意識の自己処罰であった。
   「下腹部を立ててはならない」と彼の潜在意識の自己批判は
   このように考えたのであった。

   そして彼の下腹部から下方が全然不随になったのである。

   私たちは、何人も知らぬと思い、神の罰もないと思っても、
   自分自身の良心が与える判決の前には、
   人は何の抵抗もなくそれに随わねばならないのである。


            <感謝合掌 平成29年7月6日 頓首再拝>

【七日の法語(7月7日)】 - 伝統

2017/07/07 (Fri) 04:49:19


(1)《危急の時に自己の全力を発揮させる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9525d56a7bf2ea70daa447fc89c9b418


   (抜粋として)

   危急存亡の時に到(いた)れば
   吾々の生命の中にある無限の能力が揮(ふる)いおこされる。

   一度 意を決したる人には 如何なる困難も
   その人の自由を奪うことはできないのである。

・・・

(2)《 己に克つことが実相を顕現する》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   己に克つことが実相を顕現する唯(ただ)一の道である。
   「 己 」 とはニセモノのことである。
   ニセモノを否定しないで本物が得られると思うな。

・・・

(3)《自己の心を護(まも)ること》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/efdd9661dbc7c5719ce482817c82a8c4


   (抜粋として)

   最も辛(から)く見えるところの境遇や出来事も、
   それは一層 魂を深めるところの素材である。

   外界が荒々しいときには、人間も外にひろがることを考えないで、
   内を守るが好(よ)いのである。

   自分の心の中に悪い想念はないだろうか、
   間違った感情はないだろうか、
   よく自己反省して見ることである。

   そして外の悪想念の吹き込まないように
   自己の心を守り育てるべきである。

・・・

(4)《“過去の業”が目を醒ます時》

   【七日のことば】

   ツーロンの港に伝染経路不明のコレラ(激しい白色下痢を起こして
   水分が欠乏して死する病気、法定伝染病)が発生したことがあった。
   最初の発病者はフランス政府の輸送船モンテベロ号の二人の船員であった。

   この船は長期間使われずに港の入口にもやってあった老朽船で,
   嘗ては不要の軍の装備の廃品の倉庫がわりに使われていたことがあり
   フランスの兵隊でコレラにかかってセバストボールで病死した兵員の装備も
   そこに、ほり込まれていたことがあることがだんだんわかって来たのであった。

   この二人の新たにコレラに罹った船員は、最近この船に乗って、
   船艙の底に使われずに棄てられていた兵隊の持物の残骸を引っぱり出して
   船艙を掃除したことが判明したのであった。

   そのときモンテベロ号の船艙に眠っていたコレラ菌が目を醒まして
   活性となり、この二人の船員を捉えたのであった。

   私がこの話を引合に出したのは病菌の伝染経路を語るためではないのである。

   或る”行為の業”は、種となって、此のコレラ菌の如く、
   見えざる世界に眠っていて、或る機会が来ると、その”行為の業”が
   目を醒まして活性となり、その業の報いを穫りとらせることになるのであるから、

   吾々は日常生活中に、ちょっとでも、”悪い行為”を種蒔いておかないように
   注意しなければならないということが言いたかったのである。

            <感謝合掌 平成29年7月7日 頓首再拝>      

【八日の法語(7月8日)】 - 伝統

2017/07/08 (Sat) 04:11:58


(1)《吹きすさぶ風に戦う樹木の根は深い》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4baaffc4696b85e8ea13f34d11f03d06


   (抜粋として)

   禿山の頂上に植えつけられた樫の苗は、
   常にはげしく吹きすさぶ風と戦いながら、
   深く根を張り、成長は徐々であるが幹は一そう強固に太くなり
   遂には亭々として天をも摩する大樹となるのである。

・・・

(2)《肉体の快楽に精力を浪費してはならない》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   肉体の快楽に精力を浪費すれば
   霊的能力はそれだけ減少するのである。

   心が五官に奪われて、心が 「 霊 」 に向かわなければ
   霊的力は発揮しないのである。

・・・

(3)《心の窓を閉じて自分を護ること》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/12077fefc563c08d3dacc9c17d7a7a3f


   (抜粋として)

   外に寒い風が吹きすんだり、あまり外に埃(ほこり)が立つときには
   諸君は 窓をしめて、その風や埃が吹き込まないようにするであろう。

   人が誰(だれ)かの悪口を云うときには 自分の心の窓を閉じよ。
   人が汝を悪しざまに云うときには 自分の心の窓を閉じよ。
   人が病気の話をするときには 自分の心の窓を閉じよ。

・・・

(4)《無意識の完成について》

   【八日のことば】

   剣の修行も、英語の修行も同じことである。

   毎日の修練が一つ一つの鎖の“環”を形造って、潜在意識の底にそれが蓄積され、
   敵が襲って来るとか何事かが起こったとき、或いは何かを英語で喋らなければ
   ならなくなったとき、

   潜在意識の底に積み重ねられていた”業の蓄積”が(この場合は)
   自動的に動き出して、適当に敵の刃を払いのけ、敵を一撃の間に斬り仆す動作
   となったり、自動的に英語が喋れるようになったりするのである。

   そのためには修練を重ねなければならないのである。

   いちいち現在意識で考えながら剣を揮っているようなことでは
   敵の急襲に反撃することはできないし、

   相手が早口にしゃべって来るのに、一々現在意識で単語を文法に合うように
   置きならべてから応答しているようなことでは日常会話の
   役に立たないのである。

   たんに剣の打ち込み方を型で習っても修練を重ねなければ
   やり方はわかっていてもその通りに剣が動かないのである。

   このように舌を曲げ、唇をこのようにして発音するのだと知っていても
   修練を重ねねば、咄嗟の場合にその通りに口が動いて発声できないのである。

   良き事の”行為の業”をたびたび重ねることによってのみ、
   無意識の良き行動が完成する。
   それが良き性格の形成である。

   それと同じく悪しき事の“行為の業”を重ねることによって、
   “悪しき行為をやめよう”と思っても、潜在意識が“悪しき行為”を
   無意識のうちにやらせてしまう。

   だから日常生活中の小事にも、
   悪しき事を習慣とするような生活は慎まなければならない。

            <感謝合掌 平成29年7月8日 頓首再拝>

【九日の法語(7月9日)】 - 伝統

2017/07/09 (Sun) 04:46:40


(1)《困難は受け方で毒とも薬ともなる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ed27cbb371adb837540eba1dd399d512


   (抜粋として)

   障害物が人間を滅ぼすのではなく、
   それの受け方が人間を滅ぼしもすれば向上させもする。

   神は青年を教育せんとする時には必ずしも学校へは送らないのである。
   そしてむしろ絶対絶命の境地に追いつめる。
   そしてそこから無限の能力をしぼりださせるのである。

・・・

(2)《生命の真理を自覚する》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   魂の喜びは焔をのむことによっては得られないのである。
   キリストが 「 永遠にかわかぬ水 」 といった所の
   生命の真理を自覚することである。

   生命の真理を自覚することによってのみ
   人間は魂の渇きは 永遠に癒されるのである。

・・・

(3)《神とはどんな難問題をも解決したもう》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4e611a8076c6ee4611c171ace03a28c2


   (抜粋として)

   何事が起って来ようとも、
   問題が起るのは 解決があるから起るのであるから
   心配することは 要らないのである。

   解決が出来ないのは 智慧(ちえ)が足りないからである。
   神の智慧をもって来さえすれば どんな問題でも解決出来るのである。

   神の智慧をもって来るのはどうするか、
   神にその問題をわたしてしまえば好いのである。

   神に 「 自分 」 を明け渡すのである。

・・・

(4)《超越意識の自己審判について》

   【九日のことば】 

   私たちの潜在意識の奥には、
   自分自身の行為を自己審判する超越意識が存在する。

   それは“良心”とも通俗的に呼ばれるものであって、
   良心は人類共通に同一の審判の規準となるものをもっている。

   随ってそれは、普遍的な意識であって”殺生”に対しては誰でも、
   “それは善くない”という審判を下すように、
   共通的判断の規準を備えているのである。

   しかし、吾々は実際生活に於いて時々、その規準を犯して行動するのである。

   そのようなとき、吾々の超越意識はそれに対して、
   “自己懲罰”の判決を与える ―― すると潜在意識が、
   その刑の執行係となって、無意識行為によって自分に対して
   苦痛や病気や不幸や災難を与える方向に動き出すのである。

   その時、その人は自分の潜在意識を“敵”又は“処刑係”に廻すのであり、
   現在意識が如何に幸福を求めても不幸が来たり、富を求めて行動すればするほど
   失敗して損になったり、健康を如何に求めても病気が治らなかったりするのである。

   こんな時、心がクラリと転向して前非を悔いて、生活の方向を一変するとき、
   特赦の恩典に浴するかの如く、病気が突然にして消え、
   運命が突如として好転することが起こったりするのである。

            <感謝合掌 平成29年7月9日 頓首再拝>     

【十日の法語(7月10日)】 - 伝統

2017/07/10 (Mon) 04:07:11

(1)《困難は能力の働く場である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3f668e6447bbcd17c01dd3d2469e6cca


   (抜粋として)

   競技がなければ勝利が存在しないように、
   困難がなければ成功は存在しないのである。

   又 困難がなければ能力が存在しないのである。

   困難は能力の働く場である。

・・・

(2)《自己が霊的存在であることを瞑想せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   生命の真理を自覚する為には、
   自己が永遠の生命であり、不滅の生命であり、
   無限の智慧と愛と生命とにみたされている所の
   霊的存在であるということを、

   常に瞑想することが必要である。

・・・

(3)《「 今 」 を完全に生きよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/776fdceb9039fb5d186d29d1946ce6ba


   (抜粋として)

   今を生かせ。

   「 今 」 は実相世界に既にあるところの勝利が
   現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

   「 今 」 を支配するものは
   過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
   未来永劫に ただ悦(よろこ)びの生活を送ることが出来るのである。

・・・

(4)《最初の一回が大切である》

   【十日のことば】

   “一ぺん位良いだろう。なんでも経験してみなければ分らない”
   などといって
   煙草を喫んでみたのが抜きがたい喫煙壁の始まりであったり、

   一ぺん競馬、競輪に賭けてみたとき、
   旨く大穴に当てて賞金がとれたのが病みつきで、とうとう働かずに
   賭け事ばかりの熱中して財産も人格も滅茶苦茶にしてしまう人もある。

   “一ぺんは赤線街を覗いてみないと話にならぬ”と
   遊里に足を踏み入れたのが因で、商売女にひっかかって
   生涯を堕落に身をもち崩すことになる人もあるのである。

   小事大切、最初の一回が大切だ。

   トルストイの『復活』の女主人公カチューシャは、一回だけ、
   その雇主なる公爵の息子ネフリュードフに貞操を犯されたのが因で、
   その生涯を堕落せしめることになったのである。

   ”行為”は一回であっても”業”をそこに造るのであり、
   “業”は“業”自身の力によって自動し始める。

   そして人間は往々、この”業”の自動力に
   引きずり廻されることになるのである。

   これを「業力によって転ぜらる」というのである。

            <感謝合掌 平成29年7月10日 頓首再拝>

【十一日の法語(7月11日)】 - 伝統

2017/07/11 (Tue) 04:35:09


(1)《克服する物 大なれば自己が偉大となる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/24caecd2bd3a94e474310e22df9b6492


   (全文掲載)

   スター・デーリーは困難を克服した時
   自分の中に潜在する能力がもっとも強く発揮されるといって
   午前四時に必ず起きて精神統一の修行をする事にしたのである。

   彼は獄中を出た後もっとも自分の不得手である所の
   文筆と講演とで生活することにした。

   しかも彼の文筆と講演とによって救われる人は随分沢山あるのである。

・・・

(2)《肉体を神の栄光のために捧げよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   肉体の自己を否定し、肉体の欲望を否定し、ニセモノの自分を抹殺し、
   肉体を神の目的までささげることによってのみ
   人間の実相の完全さは現われて来るのである。

   百万の敵軍を殲滅(せんめつ)するよりも
   汝(なんじ)の内に宿る低卑なるものを征服する方が
   偉大であるのである。

・・・

(3)《善 と 愛 と 深切 の言葉のみを語る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d9d1b98e2cc1f03767bbd615155ac9a0


   (抜粋として)

   われは今日、善と愛と深切の言葉のみを語るのである。
   われは それ故に愛と深切のみを刈り取るのである。

   自分は言語(げんご)が神であり、創造者であることを知ったのである。
   だから、今後自分は善き事のみを語り、善き事のみが実現するのである。


・・・

(4)《過去の”悪業“に負けるな”善業“を創造せよ》

   【十一日のことば】

   潜在意識の録音テープは、吾々のテープレコーダーよりも、もっともっと
   精妙に一切の自分の想念・言葉・行為を記録して、どんな精細なことでも、
   それを記録からはずしてしまうことはないのである。

   そして録音テープをテープレコーダーにかけて音を再生せしめるならば、
   前と同じ音をそのまま繰り返すのと同じように、

   一度我々が行った行為は、同じような環境条件が再来したときに、
   同じような行為を繰り返すことになり勝なのである。

   (意志の力によってそれに抵抗し、新たなる良き業を創造するときは別である。)

   諸君は常に新しき”良き業”を創造して、”悪しき業”があらわれて
   動き出す隙間を与えぬようにしなければならないのだ。

            <感謝合掌 平成29年7月11日 頓首再拝>      

【十ニ日の法語(7月12日)】 - 伝統

2017/07/12 (Wed) 03:11:37


(1)《せまき門より入れ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bd02b0892e905364c92189f61c0c997e


   (抜粋として)

   安易なる道を選ぶな。
   一つの物事をするのに安易なごまかしの道と、
   刻苦精励の道とがあるとすれば 必ず 刻苦精励の道を選ぶべきである。

   刻苦精励の道は 遂(つい)には
   必ずその目的を到達する。

   たといその目的が到達されないにしても、刻苦精励そのものから、
   目的それ自身よりも尚(なお)偉大なるものが得られるのである。

・・・

(2)《神の国を迷いで汚すな》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 などの玩具をとりのけて
   その邸宅を清掃した時にのみ
   実相の清らかな邸宅を見ることができるのである。

・・・

(3)《繁栄への道》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f0b648755f87462c2d6035c9abd6ae7a


   (抜粋として)

   繁昌(はんじょう)は 一日にして来らず、
   それが単なる偶然の好運であるかに見えても、

   必ず過去に蓄積されている 善き想念、善き言葉、
   善き行為、善き感情 が現実化して生ずるのである。

   すべての 想念、感情、言葉、行為 の結果は
   実現しないではいないのである。

   繁栄せんと欲する者は、顧客に対して よき想念、善き感情、深切な注意、
   行き届いたサービスの精神 を揮(ふる)い起さなければならないのである。

・・・

(4)《幸いなるかな、安全の水路のみを航するもの》

   【十二日のことば】

   ある新しい船員が25年間、船長をしているベテランの海員に、

   「船長となって船を安全に航海させるには、どこにどんな浅瀬があるか、
   どこにどんな暗礁があるかを詳しく知って置かなければならないでしょうね」

   といって訊いたら、

   その船長は、

   「そんな事はありません。どの水路がいちばん深いかを知っていればよいのです。
   浅瀬や暗礁を探し廻っていたら自分の船は幾艘あっても足りません。
   吾々は、唯ふかいところだけを知って、その水路ばかりを航しておれば
   間違いないのです」

   と答えたのだという。

   つまらない経験を「一度は経験しておかなければならない」などとやっていると、
   暗礁にぶつかって自分の運命の船が破壊して沈没してしまうのである。

            <感謝合掌 平成29年7月12日 頓首再拝>

【十三日の法語(7月13日)】 - 伝統

2017/07/13 (Thu) 04:11:09

(1)《間断なき奮闘そのものが精神的獲得である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/49ad2fa0c771db5bf69455980ad7e3df


   (抜粋として)

   成功そのものは 概(おおむ)ね 物質的状態であるが、
   間断なき奮闘によって得られるものは
   燦然(さんぜん)たる魂の光輝である。

・・・

(2)《地上の欲望を超えた者は高級霊である》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   されば煩悩の脳熱を消去せよ。
   五官の快楽を捨てて 浮世の欲望を放ち去れ、
   それが汝の魂の向上する道である。

   神の国へ行く道は 「 せまい 」 のである。

   徒(いたずら)に楽行道だと称して、五官の喜びに まどわされるのは、
   サタンに跪(ひざまず)いて礼拝するものである。

・・・

(3)《人の富を非難してはならない》

   (全文は)
   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/69716c487dd8dd8c398cc91ac4318be5

   逆境がやって来たときに、人は 大抵自分よりも順境でいる人や、
   幸福な人に対して 批評的になりたがるものである。

   しかし 他の富を非難する者には、
   自分に対しても 「 富 」 は近づいて来ないのである。

   奪おうと云うものは奪われるのである。
   すべて心の世界に蒔(ま)いたものは
   現実の世界に刈りとらねばならぬのである。

・・・

(4)《「一度だけ」が生涯を誤まる因になる》

   【十三日のことば】

   「一度だけ」「少しの期間だけ」「ちょっとの間だけ融通して貰っておこう」
   このような一時的な”小悪“で、誰も知らぬ間に返済しておけば
   それは誰にも損をかけないじゃないか

   ―― などと甘い考えを起こしたのがもとになって、汚職が生じ、
   一生涯の運命を台なしにしてしまった人々は随分たくさんあるのである。

   一寸のことを、おろそかにしたために一切が駄目になることが随分ある。

   「千丈の堤も蟻の一穴から崩れる」という古諺もある。

   何事も行き届いて、小さい過ちでも、
   それをただ一回でもやらないように心懸けなければならぬ。

   一回ぐらい、もう一遍ぐらいと思って、自己を許しているうちに、
   いつの間にかその行為が繰り返されて習慣の奴隷になってしまうのである。

            <感謝合掌 平成29年7月13日 頓首再拝> 

【十四日の法語(7月14日)】 - 伝統

2017/07/14 (Fri) 03:25:42


(1)《裸一貫になることを恐れるな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6d32d10c516fe5d74e13cb6d9ef99cd2


   (抜粋として)

   もしユダヤ民族に対する運命の重圧がなかったならば、

   ダビデの詩篇(へん)、ソロモンの箴言(しんげん)、
   ナザレのイエスの福音、

   これらのもっとも尊きものは発現しなかったであろう。
   民族も裸一貫になって見なければ その真価はわからないのである。

・・・

(2)《影を追いて実を求めぬ者は愚かなり》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   肉体も 現象世界も 影であることを知れ。

   汝ら影であるもののみを追いて、
   実なるものを何故(なぜ)かえりみぬか。

   本当の喜びは 「 実 」 なるものからのみ得られるのである。

・・・

(3)《ただ善事のみ数えよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3c09a72ecfeb3c3ee15ff5f39ad5c544


   (抜粋として)

   人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。
   小さな過ちを廓大(かくだい)鏡で見て
   増大するような事を避けよ。

   善事はどんな小さな事でも これを廓大(かくだい)して見、
   そしてそれを賞(ほ)め語れ。

   さらば他の人々も諸君の過ちを見のがし、
   諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

   それが心の法則である。

・・・

(4)《すべての行為は記録させられている》

   【十四日のことば】

   すべての行為は記録せられ数えられ、
   それを清算しなければならない時が来るのである。

   それは宇宙の潜在意識に記録せられているのである。

   自分が忘れてしまっていても、
   宇宙の潜在意識は、個人の超越意識と融合していて、
   或る時期が来たとき、審判して判決を下すのである。

   不幸に逢ったとき、その不幸は、そのとき初めて発生したのではないのである。

   それは過去の或る機会に自分が種を蒔いておいた行為(想念及び感情も
   心で行う行為の一種である)から実ったものの収穫であるのである。

   私たちは幸福になろうと思うならば、
   “善き行為”の種を蒔かねばならぬのである。

            <感謝合掌 平成29年7月14日 頓首再拝>

【十五日の法語(7月15日)】 - 伝統

2017/07/15 (Sat) 04:02:31


(1)《困難を超えて来た者には腹が出来る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d04b1db47589c3ed9e466c7c52291ece


   (抜粋として)

   困難と貧乏とは すべての蔽(おお)いをとり去って
   人間を裸にして その尊き実相をえぐり出すのである。

   困難に対して奮闘してきた人のみが
   何が起って来ても、驚かないような魂の平静を
   獲得することができるのである。

・・・

(2)《消ゆる肉体を永遠の存在だと思うな》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)


   愚かなるものは、
   この消ゆる肉体を永遠の存在であると思い、
   それを追求し それを美しく保ち、

   人に好かれ様と思うのであるけれども、
   彼は 魂のみが本当の存在であるということも知らないのである。

   肉体は一時の影にすぎないのである。

・・・

(3)《月が円満なるが如(ごと)く人間は円満なり》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0437d51f25999f55b68c183ace073cec


   (抜粋として)

   この世界は 神の創造し給(たま)える世界であるから
   悪いことは何一つ存在しないのである。

   それはたとえば円満なる満月の如くである。

   それが曇って見えるのは、満月そのものが曇っているのではなく、
   雲が曇っているのを 月が曇っていると間違えているようなものである。

   実相は永遠に曇らないのに、
   人間の心が曇って 実相が曇ったように見えるに過ぎないのである。

・・・

(4)《あなたの表情を明るくする習慣を養え》

   【十五日のことば】

   私たちが常に養成しておかなければならない良き習慣は、
   常に明るい心を持ち、明るい表情をする習慣である。

   この世界には“類を以って集まる”という法則が存在するのであって、
   明るい心をもっておれば明るいものが集まって来、
   明るい運命が訪ずれて来るのである。

   眉の間に皺をつくったり、鼻の上部に縦皺をつくって、
   いつも険しい表情をしているような習慣は、その人に、やがて不幸を喚びよせる
   霊波をもって世界に通信しているようなものである。

   少年時代から常に自分の表情を明るく、
   人から懐かしがられる習慣をつくって置けば
   将来必ずその人の運命は発展するのである。

            <感謝合掌 平成29年7月15日 頓首再拝> 

【十六日の法語(7月16日)】 - 伝統

2017/07/16 (Sun) 04:44:31


(1)《反対者があるので隙(すき)のない修行が出来る》


   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c0b969f50c318fcfa0d7c4b1fc53e5e4


   (抜粋として)

   吾々の反対者は 実は味方である。

   反対者は吾々の気づかない欠点を
   わざわざ教えてくれる先生である。

   反対者があるので、微塵(みじん)も隙(すき)がなくなる修行が
   できるのである。

・・・

(2)《肉体は死んでも人間は死なない 》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   太陽が輝きて西の空に没するとも
   太陽は死んだのではないが如く、

   人間の魂も、没したかの如く見えようとも
   決して死んでいるのではない。

   人が死するが如く見えるのは、 「 幻 」 にすぎない。

・・・

(3)《そのままの心でおれ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6ca666545d0dbab2b4e16492e8a18459


   (抜粋として)

   その儘(まま)だ。そのままの心になるのだ。
   神に委(まか)せ切りの心になるのだ。

   神の創造(つく)り給いし世界には 何一つ悪いものはないのだ。

   そのままでおれば 水は澄み切っているものを、
   そのままの心を失うがゆえに、
   その心の反映として 万事が波立って見えるのだ。

・・・

(4)《明朗な”ハイ“という返事を》

   【十六日のことば】 

   返事をするのでも、明るい語調で返事をして、それを聞いている人に
   気持ちの良い感じを与える者の運命は屹度伸びて、
   幸運を迎えることができるのである。

   “ハイ”という発音は文字に書けば同じようであるけれども、
   「うるさい!! 」というように聞こえる“ハイ”もあり、
   面倒くさそうに聞こえる“ハイ”もある。

   私たちは、明朗に素直に、魂の呼びかけに
   魂が溌剌と答えるような“ハイ”という気持ちのよい返事をするよう、
   少年少女時代から習慣をつけておくことが大切である。

   嫁に往ってからや、大人になってから、つとめて、よい気持の“ハイ”という
   返事をするようにしようと心掛けても、その反対の語調で返事をする習慣が
   ついていたり、返事をせずに物ぐさく行動にうつる習慣のついている人には
   “ハイ”という返事を気持ちよくすることは中々むつかしいのである。

            <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

【十七日の法語(7月17日)】 - 伝統

2017/07/17 (Mon) 03:48:08


(1)《難儀は人生の好機会である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/71dc66790f336c692af2243176a628c7


   (抜粋として)

   人生には千百の好機会がある。
   その好機会とは困難である。

   天理教祖は「 難儀は節じゃ、節から芽が出る 」と
   いったのはそのことである。

   噴水は 狭いところへ押し込まれたので高く昇るのである。

   人間の魂も困難にあってくだけてのみ 高く上(のぼ)るのである。

・・・

(2)《常にそのままであれ 》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   常に単純であれ。
   常に“そのまま”であれ。

   構える心をおこすな。
   “そのまま”の心になれ。
   しかも行きとどくべし。

・・・

(3)《神なる無限供給の源泉と連絡せよ》

   (全文は)
   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ba1fe944a278f2d35d08b5ffb298980f


   (抜粋として)

   神は 万物を生み給うた。
   それゆえに神は無限の富の源泉であり、
   貯蔵庫であることが判るであろう。

   神は無限の富の源泉であるから、
   人間はその無限の富の意識的表出口(あらわれるでぐち)だ
   と云うことが出来るのである。

・・・

(4)《事物の光明面・内在の意義を見ること》

   【十七日のことば】

   明るい語調で返事をし、明るい語調で話をする習慣をつけると同時に、
   常に明るい心をもつ習慣をつけて置くことは、
   運命に対して不死身の性格を養うことになるのである。

   明るい心は、どんな不幸も吹き飛ばしてしまって
   幸福を呼び寄せる事になるのである。

   どんな時にも、事物の明るい面を見、不快なことや不幸なことが起こって来ても、
   それの奥にあるところの深い意義を考えて、思い直して見るようにするならば、
   人生には到るところに良き教訓が漲っているのであり、

   自分に対して辛く当る人も、自分を鍛えて下さる鉄槌であり、
   観世音菩薩が夜叉の仮面をかぶって私を善導して下さるのだと思えば、
   明るい感謝の心をもって、万事を迎えることができるのである。

   これも常にそのように心懸けているならば、それが心の習慣となり、
   すべての人に、事に、物に和解して、万事が円滑に搬んで、
   何事も順調に行くことになるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月17日 頓首再拝> 

【十八日の法語(7月18日)】 - 伝統

2017/07/18 (Tue) 03:41:15


(1)《偉大なる決意は困難を玉成(ぎょくせい)する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fdc453419bfe8baf348eacbbc47411ca


   (抜粋として)

   ベートーヴェンは、殆(ほと)んど完全に耳聾(しい)てから
   彼のいとも有名な諸作品を作曲したのである。

   ミルトンはその主要な著作を貧乏で病気で盲人になった時に
   書いたものだといわれている。

   偉大なる決意の前には困難は
   彼を縛ることはできないのである。

・・・

(2)《良心は汝にやどる神の囁(ささや)きである》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   汝の内なる魂のささやきを
   無視してはならない。

   神は 汝の魂の内にあるのである。
   良心は 汝の魂の内なる神のささやきである。

   高き理想は 汝の内にやどる神のみこころである。

   常に高き理想を描きて邁進(まいしん)するものは、
   常に神につかえている者である。

・・・

(3)《静かに坐して実相を観(み)よ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/379ab23c8551c38c4fb493db9ffed702


   (抜粋として)

   静かに坐して 神の完全なるを観ぜよ。
   そして神の無限の愛と智慧と、無限の供給とを観ぜよ。

   観ずる程度に従って
   実相の円満完全な相(すがた)があらわれて来るのである。

・・・

(4)《現行憲法の不道徳性》

   【十八日のことば】

   現行の憲法は、人間の道徳性を破壊して、
   善悪の基準を混乱せしめるようにつくられているのである。

   数ヵ月前の出来事であるが、ある会社に入社のとき、一人の女性が、
   妊娠して子供が出来たら職場から退くという契約書を入社時に
   その会社に入れて就職したのであった。

   ところが、彼女が子供を産んだので入社時に契約した通りに、
   会社はその女性を解雇したのであった。

   何年か経ってその女性は不当解雇であるから、
   解雇期間も就職中と認めて賃金を支払えという訴訟をした。

   すると裁判所では、
   憲法第十四条にはすべての国民は法の下に平等であると規定されており、

   憲法第二十七条には「すべての国民は、勤労の権利を有し義務を負う」
   とあるから、

   婦人にして子供が出来たから解雇するという約束は、憲法に
   規定されたる法の下に平等の権利と勤労のとを犯すところの契約であるから、
   そのような契約は本来為すべからざる契約であり無効である。

   それゆえ、原告の要求通り、会社は解雇中の給料を支払うべし
   という判決が下ったのであった。

   これでは「人間はウソをついてもよい」という判決をしたわけである。

   「相互の契約があっても、基本的人権と称するものを侵害する契約は無効である」

   というのであり、

   「相互の信頼による契約」よりも、憲法の屁理屈的解釈の方が優先する
   というのであれば、今後、人間は相互に約束を信頼できないことになり、
   滅多に契約できないことになり、社会的秩序が混乱してしまうではないか。

   しかも契約に従って解雇され、出勤していない期間の給料も
   会社側が支払わねばならぬというに至っては、
   会社の財産権というものは無視されているではないか。

            <感謝合掌 平成29年7月18日 頓首再拝>

【十九日の法語(7月19日)】 - 伝統

2017/07/19 (Wed) 04:15:33


(1)《重きものは筋肉を発達せしめる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/508c64494605c4fb3ce67545161615bf


   (抜粋として)

   もっとも美しき、もっとも強き、もっとも高邁(こうまい)なる性格は、
   温室のような環境では育たないのである。

   それはもっとも美しき筋肉美が、重きものを動かす運動をしないで
   発達しないのとおなじことである。

   環境の重圧に耐えて来た魂の筋肉美こそ最も美しいのである。

・・・

(2)《自己の迷いで縛られるな》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   いつまでも囚人(とらわれびと)の如(ごと)く
   煩悩の繭の中に眠っていてはならない。

   煩悩の繭を食い破って
   自己解放をとげなければならないのである。

   煩悩の糸に縛られるものは
   囚人(しゅうじん)である。

   煩悩の糸を悉(ことごと)く摧破(さいは)し
   克服したものが仏である。

・・・

(4)《現行憲法はこのように悪用される》

   【十九日のことば】

    現行憲法にもとづいて「ウソをついてもよい」という判決をした実例が
   さらにもう一つ出たことが最近また一つあるのである。

   それは横浜市港北区日吉東町一七七五小泉方、県誠而氏が東北大学経済学部を
   卒業して三十六年四月一日富士通信機製造株式会社に入社したが、入社までの
   経歴書には、学生時代共産党員であったことを書かずに経歴を胡麻化して入社した。

   それは経歴を偽ってウソをついて入社したのであるからとて、
   会社側は県氏を懲戒解雇したのであった。

   それに対して県氏は解雇無効確認請求訴訟を提起した。

   その訴えは東京地裁民事十一部で審理されていたが、駒田駿太郎裁判長は、

   「共産党員であったことを理由として解雇することは憲法第十四条の「法の下に平等」
   の原則に反し、憲法第十九条には”思想及び良心の自由“が保障されている
   のであるから、自分の思想を隠すことも、思想及び良心の自由の権利に含まれている
   のであるから、このウソをついたことは合憲性であって違憲性でないから、
   これを理由とした解雇は無効であるから、解雇中の賃金九十四万四千六百五十五円を
   原告に支払うよう会社側に申し渡した」

   というのである。

   ・・・・・・尚その理由による解雇無効は継続しているのであって、
   永遠に解雇できないとしたら会社側は永遠に出勤せざる県氏に給料を支払わされる
   のであろうか。

   ウソをつくのも、「思想及び良心の自由」の中に入る現行憲法は果たして
   正しいのであろうか。

   「思想及び良心の自由」といって全国民が平気で真実を語らずウソをつき出したら、
   人間相互の信頼は失われ、社会の秩序は混乱してしまうではないか。
   毎日毎日がエープリル・フールの状態になるのである。

   こうなればまことに現行憲法は益々道徳無視の憲法であるという
   馬脚を暴露したといわなければならないのである。

            <感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝> 

【ニ十日の法語(7月20日)】 - 伝統

2017/07/20 (Thu) 03:26:10


(1)《困難は魂を浄化する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bfdb706a940194f3ffea807b7423de3b


   (抜粋として)

   人生は一見 有用なるものばかりでは
   成り立ってはいないのである。

   人生に不用に思われる摩擦や困難が
   吾々の魂の清浄作用に役立っているのである。

・・・

(2)《精進努力は実相実現の鑿(のみ)である》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   忍耐、克己及び精進努力は
   実相を実現するために
   トンネルを穿(うが)つところの鑿であるのである。

   吾々は精進努力して煩悩の岩を穿って
   魂の自由なる境涯まで達するために
   トンネルをうがたなければならないのである。

・・・

(4)《果たして現行憲法は道徳的に正しいか》

   【二十日のことば】 

   人生の最初の出発の方向が正しければ
   その人の到着点もただしいということができるのである。

   出発の最初に於いて、反対の方向に向かっているならば、、
   努力して前進すればするほど、到着点から遠ざかってしまうものである。

   単に目標から遠ざかって行くだけではほろびの道を歩むことになるのである。

   「良心の自由」などというような事が現行憲法に定めてあるとするならば、
   「泥棒するのは正しいと思う。貧しき者が富める者から奪うことを自分の良心は
   善とみとめる」ということを国民がいい出して到る処に盗みが発生しても、
   裁判長は、これは憲法第十九条で定められている「思想及び良心の自由」であるから、
   何ら違法性はみとめられないという判決を下すであろうか。

   こんな歪曲自由の憲法があってよいものであろうか。

            <感謝合掌 平成29年7月20日 頓首再拝>

【ニ十一日の法語(7月21日)】 - 伝統

2017/07/21 (Fri) 04:01:36


(1)《困難を見ず真直(まっすぐ)に行け》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bf578e341a2f4eb53f68fe99473b6ca7


   (抜粋として)

   どんな困難の前にも困らないで
   常に楽しい精神状態でいるもののみが
   人から歓迎されるのである。

   困難を言葉で表現すれば困難は増大する。

   真直に行け。
   断じて行け。

・・・

(2)《実相は肉体よりも尊い》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   天地は失せても魂の喜びが消えないほどの境地に達したものほど
   実相を悟るものだといわなければならないのである。

   古人曰(いわ)く、
   朝(あした)に道をきかば夕べに死すとも可なりと。

   実相を知る悦びは、肉体の御利益を超越しているのである。

・・・

(4)《業は連鎖反応を起こしてついに性格破産に導く》

   【二十一日のことば】

   諸君は現行憲法にどのように定められているにしても、
   「憲法が許しているから、ウソをついてもよい」などと甘いことを
   考えてはならないのである。

   最初の一つのウソが暴れたら困るというので、
   最初のウソを覆い隠すためにその人は次のウソを言う。
   そのウソを胡麻化すために、また次のウソを言う。

   こうしてその人はウソを告く業を重ねて、業の連(金偏の)の縛り
   の中で、本当の「良心の自由」を失ってしまって「ウソも方便、
   ウソをついても俺の良心はとがめない」などと空を嘯ぶく。

   これは最初のウソの行為が循環的に連鎖反応を起こして、
   ついに良心を麻痺せしめて、その人を性格破産に導く実例である。

   「良心の自由」ということは、そのような「どんなことでも正しいと思う
   自由がある」という意味ではないのである。

   そんなことをいう人は「良心の麻痺した人、良心が麻痺して自由を失った人」
   のことなのである。


            <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝> 

【ニ十ニ日の法語(7月22日)】 - 伝統

2017/07/22 (Sat) 04:14:08


(1)《一念不動、ただ前進せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ab37262da69318d6ba602b25340bc5a7


   (抜粋として)

   一念不動である。
   傍目(わきめ)をふること勿れ。

   目的以外に精力を浪費しないものは、
   遂(つい)に目的を貫徹するものである。

   特に仕事の最中に机の上に色々の物を置いて
   気を散らしてはならない。

・・・

(2)《未来は今日の想念の中にある》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   今なすべきことを明日にのばすな。

   今時々刻々自己の完全なる生命を生ききれ。

   今を生きないものは永遠に生きることはできないのである。
   今生きよというのは今魂のことを生きよということである。

   自分の生命を時々刻々神にささげたるものとしなければならない。

・・・

(4)《「良心の自由」の本当に意味するもの》

   【二十二日のことば】 

   ”良心”というものは人間に宿るところの“普遍的神性”の囁きであって、
   万人共通の善悪の規準をもっているのである。

   だから、「殺す勿れ」「盗む勿れ」という風に人類共通の判断を下すのである。

   その判断を正確に実行することが、「良心の行使の自由」であって、
   その良心の判断を色々に胡麻化して、「殺すこともよい、盗むこともよい、
   ウソをつくのもよい、私の良心は、自由自在に時によって判断をかえる自由がある
   のである。これが憲法に定められている良心の自由である」などというのは、
   実は「良心の自由」を失って「良心の麻痺」である。

   「良心の自由」と「良心の麻痺」とは全然異なるのであろう。

   自由を確保した良心は、磁石が一定の方向を示すが如く、常に一定の行為の規準を示す。

   しかし麻痺した良心は、常に一定した規準を示すことなく、磁性を失い、
   磁性が麻痺した磁石の如く、常に一定の方向を示さず、出鱈目な方向を示すのである。

            <感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>

【ニ十三日の法語(7月23日)】 - 伝統

2017/07/23 (Sun) 03:48:46


(1)《天才とは精神集中者である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ec3b774567c5bc697f856d6c4867f7cf


   (抜粋として)

   まず一人一目的に精神力及び肉体力を集中すべきである。

   一人一目的に集中する時 余程の凡庸なるものも
   必ずその目的を貫徹することができるのである。

   寧(むし)ろ天才とは巧みに事物に興味をもって
   精神力を集中し得た凡庸人とも云(い)えるのである。

・・・

(2)《肉体を十字架につけて新生せよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾々は肉体だと思ってはならないのである。
   肉体はイエスと共に十字架につけ抹殺してしまったのである。

   かくてキリストと共に吾は新生するのである。

   古きはすでにすぎ去り、
   みよ 汝 新しくなり 霊的存在となったのである。

・・・

(4)《日本はこれでよいのか》

   【二十三日のことば】

   最初の間違った実行が、それが連鎖反応を起こして重なるに従い、
   それが習慣となり、習慣が第二の天性となり、本来の天性なる”神の子”たる
   正しい良心の判断を麻痺せしめてしまうことになるのである。

   一事が万事を惹き起こす。
   類が類を招き寄せて、悪業がふくらんで行くことになるのである。

   例えば「なまける」という悪徳の一つがその人の習慣となると、
   職場や色々の会合への出席時間に遅刻することが起こり、
   「なまけていまして遅れました」などと正直にいっては、相手の気持を害する

   と思って、他にウソのアリバイを作って遅刻の理由を言い訳をする
   ・・・・・こうしてウソを覆い隠すためのウソを生じ、
   更にそのウソの辻褄を合わせるためにウソをつかざるを得なくなり、

   彼はついに「欺く勿かれ」「妄語する勿かれ」の戒律に対して不感症になり、
   換言すれば「良心の麻痺症」に罹るのである。

   そして、しまいに「ウソをつくのを正しいと思う思想の自由、良心の自由」を
   強調してそれが当たり前にだと思うようになる。

   そんな人間が、神聖なる裁判の法廷に裁判長となって、
   「ウソを言った人」の味方に立ち、「これは憲法に定められている良心の自由」であって、
   「違法ではない」と判決して、
   正しい人が馬鹿を見て、悪い人の行為が合憲法であるとせられる。

   果たして、日本はこんなことでよいのだろうか?

            <感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>

【ニ十四日の法語(7月24日)】 - 伝統

2017/07/24 (Mon) 04:18:55


(1)《精神の粘着力が天才を作る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7530021d527f8133a5f10acfbfa4510a


   (抜粋として)

   或(あ)る人はいう。

   「 天才は忍耐なり 」 と。

   まことにも天才は一つの目的に
   精神力を粘着せしめて放さない人である。

・・・

(2)《過去の悪は既に無いのである》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   過去に行いたるすべての悪しきことは
   霊に属せざるものであるから なげくことはないのである。

   それらは 「 肉体無 」 を悟って、
   一度 肉体の無を悟った後には キリストと共に復活して
   「 吾は決して罪なきものである 」 ということを
   知らなければならないのである。

・・・

(4)《一度でも良心を欺いてはならない》

   【二十四日のことば】

   ギリシャの哲人プラトーは自分の部屋の扉に
   「幾何学を知らざる者はこの部屋に入る勿かれ」
   と書いて貼っていたと伝えられている。

   それは単に数学の一部門たる幾何学に重点を置いたというよりは、
   「数学的に正確にものを考える者のみを歓迎す」という意味である
   と私は思うのである。

   「こうすれば、こうなる」という精確な判断は“幾何”
   (現今は、“図形”という名で学校で教えられている由)
   の勉強によってきたえられるからである。

   一つの行為が次の行為が次の行為を引き起こして、
   それが次第に強力な業となって自分を縛る綱となるというような推論は、
   精確な幾何学的頭脳によって判るのであって、

   「一ぺん位は煙火(たばこ)を吸ってもよいであろう」
   「一ぺん位は赤線地帯で遊んで見た体験は自分の人生を豊富にするだろう」

   などということを考えて、自分の良心の囁きを、色々の口実で、
   一ぺんでも胡魔化したら行く行く自分の鋭角はどうなるか――
   精確な幾何学的推論で考えるがよい。

            <感謝合掌 平成29年7月24日 頓首再拝>

【ニ十五日の法語(7月25日)】 - 伝統

2017/07/25 (Tue) 04:20:44


(1)《外界の擾乱(じょうらん)に心をとらわれるな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e896837bb6be08abb50b5c0ea851c443


   (抜粋として)

   どんな時にでも心を散乱せしめるようなものは
   大業(たいぎょう)をなすことはできないのである。

   一念集中の力は一大磁石の如(ごと)きものである。

   次第次第に周囲のものをひきよせて、
   そして遂(つい)に偉大なる仕事を成就するのである。

・・・

(2)《浮世の喜びは玩具(おもちゃ)に過ぎない》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   幼き童子に玩具(おもちゃ)が必要な如く、世間的名誉も
   人間の或る時代の魂の発達には必要なものであるのである。

   然(しか)し魂の成人したるものは
   かくの如き玩具(おもちゃ)の喜びを捨てるのであって、

   そして古き魂の習慣を脱皮して
   新たに肉体の子から神の子に生れ更(か)わるのである。

・・・

(4)《一つの行為が自分の性格形成に如何に影響するかを考える》

   【二十五日のことば】

   業というものは、深く自分の潜在意識の海の底に、
   自分の「良心の自由」の信仰を停止するための錨となって重く沈む。

   既に出航の時間が来ているのに、そして出航の汽笛が吹奏され、
   銅鑼が鳴り渡っているのに、その船は動かないのである。

   それは何故であるか、卸していた錨が重く海底に沈んでいて
   船の足をひっぱっているからである。

   悪習慣 ―― なまけものの生き方 ――一 つが重い錨となって
   その人の足をひきずり、全生涯を崩してしまうこともある。

   出席日数不足で、2回も大学卒業を辷った青年もある。
   それが不思議なことにもう1年その大学にいて今度こそは卒業証書を
   もらいたいというのである。

   卒業証書という紙よりも重大なのは、自分の性格形成である。

   日々の”なまけ”が如何なる性格を形成するか、
   もう少し幾何学的に、数学的に計算してみるとよいのである。

   三度も同じ大学に止まって、同じ先生から同じ学科の講義を聞くのは
   中々退屈な修行だと思うので、今学年もまた出席日数不足で落第
   ということにならねばよいがと心配してあげている訳である。

            <感謝合掌 平成29年7月25日 頓首再拝>

【ニ十六日の法語(7月26日)】 - 伝統

2017/07/26 (Wed) 03:57:42


(1)《人間の能力は太陽の如きものである》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/70f6887d21ea56dd44dc600a70c37eb6


   (抜粋として)

   人間の能力も凡庸のように見えていても
   もしその精神力を集中するならば
   如何(いか)なるものをも 成就する力があるのである。

・・・

(2)《 「 若(も)し・・・ならば 」 と云うな》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   イエスいい給う 「 為(な)し得ばというか。信ずるものには
   凡(すべ)てのこと成し得らるるなり。」
                    ( マルコ伝第九章二十三節 )

   もしも、ならば、だけどもなどというものは
   信仰なきものであるのである。

   信ずるものにはすべての事をなし得られないということはないのである。

・・・

(4)《“良心の自由”について》

   【二十六日のことば】

   有名な話であって、私たちの少年時代に教科書の採録されていた話であるが、
   ジョージ・ワシントンは少年時代に日常生活に行うべき徳目を百十カ条書いて、

   それを実行し得た時には、その徳目の上に〇を付け、
   その徳目に反いた場合には●をつけて、

   自分の日常生活の習慣が善に傾いて行くための示標として、
   よき習慣をつけるように工夫したということである。


   ベンジャミン・フランクリンもそれに似たことをして
   自分の性格形成に意を用いたということである。

   「思想の自由、良心の自由」ということは決して、
   「どんな悪い思想をもってもよい、自由だ」ということでもなければ、
   良心の判断を誤として、「他の人が悪だと思う行為でも、
   僕には善だと思う自由がある」ということでもないのである。

   良心の正しい批判を完全に行なわしめて、悪によって誘惑されず、
   善を行なう自由を覆されないということである。

            <感謝合掌 平成29年7月26日 頓首再拝>

【ニ十七日の法語(7月27日)】 - 伝統

2017/07/27 (Thu) 04:22:24


(1)《人生は一路邁進(まいしん)だ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/62cb6664202f07600f39b4052267a49c


   (抜粋として)

   世界は、まっしぐらに一路邁進するものの前には
   自(おの)ずから道を開いて敬意を表するのである。

   人生の前進は「 気合 」によって行われる。

   まず心に実現すべき目的を描いて
   その目標に対して遮二無二(しゃにむに)突き進むのである。

・・・

(2)《現状に飽き足らぬ人は現在が不幸になる》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾々の心には
   現在意識と潜在意識とがあるのである。

   現在意識では心のよきものも、
   潜在意識の底に自分の現状にあきたらざる思いがある場合には、
   その現状を破壊して新境地に出でんがために
   現在の環境に斧鉞(ふえつ)を加えて打ちくだいて
   しまうことがあるのである。

・・・

(4)《実践理性の判断をくらましてはならない》

   【二十七日のことば】

   凡そ、すべての人間は神の子であるから、
   神性の自己批判――即ち道徳規範となるべき善悪の標準――は
   共通的な判断を下すのである。

   「他の人が悪だと思っても、自分には善に思える」などということは、
   “良心”に関する限りあり得ないのである。

   それは二を二倍したら四になるという理性的判断が一つの公理として、
   あらゆる人間の理性の判断に於いて共通であると同じように、

   善悪の理性的判断は共通であるのであって、
   この判断の主体となる理性を、カントは「実践理性」と呼んだのである。

   “殺す勿れ””盗むなかれ“”ウソを告げる勿れ“
   それを犯した場合には、何人も共通に、内心のトガメを感ずる。

   それが人類共通の“良心”即ち“実践理性”による批判なのである。

   しかし或る人は二を二倍して五になると感ずるとするならば、
   その人は精神錯乱か何かであって理性の混乱しているのである。

   それと同じく「”殺す勿れ“などという良心の囁きなどはない」
   という人があるならば、その人は道徳的には精神が錯乱していて
   実践理性が麻痺状態に陥っているのである。

            <感謝合掌 平成29年7月27日 頓首再拝>

【ニ十八日の法語(7月28日)】 - 伝統

2017/07/28 (Fri) 03:14:13


(1)《詰まらない仕事が大きな仕事の基礎となる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7f9d5e54982e0c0db67c5a9f3533617a


   (抜粋として)

   自分の職業をつまらないと思って、
   もっと楽な 成功しているように見える仕事をうらやんで
   心を他にふらふらさせる者は成功することができない。

   どんなつまらない仕事でも、
   それに本当に没頭する時、
   それが基礎になってもっと大きな仕事が
   成就できるのである。

・・・

(2)《常に自己を反省せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   汝(なんじ)の潜在意識の中(うち)にある習慣に
   心を振り向けて反省せよ。

   夫の命令に対して 「 然し 」 「 だけど 」 などと考えながら
   言葉だけでハイと答えているようなことはなかろうか。

   人を さばかない積りで
   やはり さばいていることはなかろうか。

   暗いことは考えまいと考えながら、
   ともすれば暗いことを考えていないだろうか。

・・・

(4)《汝自身を清く純粋に》

   【二十八日のことば】

   諸君は、自分自身の“良心”を麻痺せしめてはならないのである。

   ”良心”とは自己に宿る“神性”であり、
   あなたが“神の子”である本質又は実相であるのである。

   自己の生命の“本質”又は“実相”を麻痺せしめては、
   自己自身の死であるから、どんな肉体の快楽や物質的利益を与えるからといって、
   迫って来ても、あなたの良心の判断によって、
   ”悪い”と感ずることは断じてしてはならないのである。

   あなた自身の良心の囁きを、曇らせたり汚してはならないのである。
   あなた自身を“純粋”に保たなければならない。

   純粋とは、唯ひとすじに自己の本質たる”神性の指示“
   ―― 即ち”良心の判断“に忠実に従って、どんな誘惑が来ても、
   純粋で”二た心“をもたないということである。

            <感謝合掌 平成29年7月28日 頓首再拝>

【ニ十九日の法語(7月29日)】 - 伝統

2017/07/29 (Sat) 04:12:32


(1)《目的を定めなければ生命力は浪費される》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8251179f67290743b8850a8fc55003ec


   (抜粋として)

   目的を定めずに努力しても無効に終ることが多い。

   目的がなければ、目的を心に描くことである。

   最高完全なる あこがれの対象を心に描いて
   それが すでに自分であると念ずることである。

   そしてそれを目的として全力を集中せよ。

・・・

(2)《心に悩みを抱いてはならぬ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   アルコールを飲用してその習慣からぬけだしたいと
   現在意識で考えながら、それから抜けだすことのできないのは、
   潜在意識にアルコールの麻酔力によってごまかさなければならない
   ような心の悩みがあるからである。

   酒をやめたいと思うものは
   家庭全体に感謝するようにならなければならない。

   そして 「 悪癖がある 」 などと思わずに
   「 酒をのむ自分も無い 」 と知ることである。

・・・

(4)《最初の一回が大切である》

   【二十九日のことば】

   “点滴、石を穿つ”という諺がある。

   小さい悪習慣を「この位のことは、それほどの悪でない」と
   易々加減な甘い考え方で、悪いと知りながら止めないでいると、
   結局自分の性格を破壊してしまうことになるのである。

   大きな釣鐘をただ一ぺん力を籠めて押しただけでは殆ど動かないのであるが、
   その釣鐘の振り子の振動数に合わせて、繰り返し繰り返し押しているときには、
   何百貫の大きな釣鐘も、ついにはブランコのように揺れてくるのである。

   あなたがかりに、どんなに強い性格をもっていても、一ぺんや二へん位、
   悪い友達に誘われて遊びに行っても、
   それで生活を持ち崩してしまうなどということはないと思っていても、

   一ぺん友達の誘いに乗れば、次の日の誘いに断り切れなくなり、
   それを繰り返すうちに、釣鐘の揺れはじめるのと同じように、
   あなたの盤石の性格も揺れ動いてしまうのである。

   最初の一回を犯せば、その次は幾回でも犯されやすくなるのである。

   女性の貞操でも同じことである。
   最初の一回誘惑に乗ったために一生涯ヤクザにおどかし続けられて
   悪徳の世界から抜け出すことのできない女性もたくさんあるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

【三十日の法語(7月30日)】 - 伝統

2017/07/30 (Sun) 03:44:41


(1)《よき種子(たね)を播(ま)かねばならぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0ddf2e1f499add58947e7a180e567c85


   (抜粋として)

   善き種を蒔くことは、善き収穫を得ることの前提である。

   善き人格の種を蒔けば、善き運命が刈りとられるのである。

   想(おも)い、言葉、行いは、すべて種となるものである。

   すべての想いと言葉と行いとは
   一種の惰力をもっていて、
   それは結局 形をつくる力となるのである。

   習慣がそれである。

   善き習慣をつくれば
   その次には努力なくして善きものが造られる。

・・・

(2)《悪癖を矯正するには》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   悪しき習慣は悪しきものを征服しようと思うも
   それを克服することはできないのである。

   悪癖にとらわれず、よき習慣を養って行けば
   その喜びのために悪癖は 自(おの)ずから消えてしまうのである。

   喜びにみたされる様になった時、悪癖は消滅してしまうのである。

・・・

(4)《あなたは賢者の道を歩め》

   【三十日のことば】

   どんな疫病よりも、悪癖というものはその人の性格を滅ぼしてしまうのである。
   そして悪癖の習慣というものは、“最初の一回”の積み重ねであるのである。

   何人も最初の一回を慎めば、生涯悪癖に苦しむことはないのである。

   悪癖にまで誘惑する友達は、生活を蝕む道徳的ビールスの撒布者であるから、
   そのような友達から遠ざかるのが賢者の道である。

   あなたは賢者の道を歩め。

            <感謝合掌 平成29年7月30日 頓首再拝>

【三十一日の法語(7月31日)】 - 伝統

2017/07/31 (Mon) 03:32:37


(1)《仕事の順序を正しくすること》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/15bd362ebc82593e72c1e5c035e0a828


   (抜粋として)

   物事を良くするには
   順序が正しくなければならない。

   勉強するのでも、参考書をチャンと手の届くところに
   定めて置いておくことが必要である。

   すべての物は 正しい置き場に置くことだ。

   使ったものを蔵(しま)うときには、
   少し遠くとも、面倒でも 元あった場所に
   それを返して置くが好(よ)い。

・・・

(2)《常に神は吾を守り給う》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   何よりも大切なのは
   神を自分の近くに、むしろ自分の内にましまして、
   常に自分を守り給うものだと自覚するということである。

   自分の生命が 神より来たり、神に生かされ、
   神 吾を守ってい給い、わが内に宿ってい給うが故に

   吾はとぼしきことなく 淋(さび)しきことなく、
   常に喜びに みたされていることを自覚せよ。

・・・

(4)《悪癖を矯正するための思念》

   【三十一日のことば】

   しかしすでに悪癖の習慣をもっていて、
   それから脱しようとしても脱することができず、
   常に良心の呵責に苦しめられている者は如何にすべきであろうか。

   あなたには悪癖を心につかんでいて
   それから逃れようと思うから逃れることができないのである。

   “つかんでいるもの”は掴んでいる其の事によって、
   それから離れることができないのは、“心の法則”であるのである。

   それから離れるためには“つかみ”を放さなければならないのである。

   「私はこのような悪癖になやまされている」と心で思うな。
   心で思うことは心でつかんでいることなのである。

   次のように、神想観中に念ずるのがよい。――

   「私は“神の子“であり、神の生命を宿し生れているのである。
   それゆえに私の日常生活は神の知恵に導かれているのであるから、
   決して悪癖などは私の生活にはないのである。

   私は“神の子“あり、ただ善のみを行うのである。


   (例えばその人が喫煙癖の場合には)

   “神の子”はすべてのものを支配する権能(ちから)を
   与えられているのであるから物質に支配されるということはないのである。

   支配される者は奴隷である。

   煙草という物質に支配されて、
   煙草がなくては淋しいというのは煙草の奴隷である。

   私は決して煙草の奴隷ではないから、煙草を吸わなくとも淋しくないのである。

   私は“神の子”として“神の愛”に包まれているから唯このままで楽しいのである。」

            <感謝合掌 平成29年7月31日 頓首再拝>

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