伝統板・第二

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魂の法則 ② - 土曜版

2017/06/18 (Sun) 14:43:16

      *伝統板・第二「魂の法則 ①」からの継続です。
          → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6932129

            ・・・

第四の法則: 「愛の法則」~その19

Q:そして、それを全部乗り超えるとどうなりますか?

A:最大の難関に立ち向かう。
  それでもまだ謙虚になることと執着を手放す必要がある。

  つまり、愛情を共有する際に寛容になるという、
  自負心(尊大)の段階で乗り越えるべき目標が残っているのだ。

  自負心のある魂は、平均的な魂と比較すると大変進化したもので、
  君たちの若い惑星では僅かだ。

  大半はより進化した他の惑星を故郷とする魂で、
  進化にかけてきた時間が長い。地球の平均的な魂よりも、
  霊的な年齢では何千年も年上かもしれない。

  彼らの惑星はもっと発展しているので、事実上不正も存在しないし
  感謝されないということもないので、自己の欠点を呼び覚ます
  厳しい状況に遭遇することがない。

  地球に来るのは、自分の短所を表面化させるにはちょうどいい環境だからだ。
  地球は不正や忘恩に満ち溢れた惑星なので、これらの魂は自分の欠点と
  意志力を試そうとするのだ。

  こうしてより厳しい試練を通じて、より速い進化を成し遂げるのだ。


  彼らは能力が高いので、余り進化していない惑星への転生に際しては、
  他者を霊的に援助する使命を果たすように要請されることが多い。

  謙虚さに欠けて愛情の共有が困難である、という自己の欠点を克服するためには、
  他者を援助して鍛錬することが役に立つのだ。

            <感謝合掌 平成29年6月18日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その20 - 伝統

2017/07/09 (Sun) 11:42:46

Q:これまでの説明を伺って、もっとずっと沢山の疑問が湧いてしまったので、
  それらを明らかにして下さればと思うのですが。

  特に、情緒と感情、我欲の様々な具現形態(虚栄心、自尊心、尊大)に関するものです。
  それらをもう少し知りたいのです。

A:遠慮なく質問してごらん。


Q:以前、感情と思考とは起源が異なり、エゴは頭脳から生じると言われましたが、
  考えるのはそれ自体が悪いという意味でしょうか?

A:とんでもない。言いたかったとことは、感じることと考えることとの区別が
  できるようになる必要があるということだ。
  君たちを混同させるような利己的な考えは、頭を介して魂に入ってくるからだ。

  感情を抑圧しない限り、思考自体は悪いものではない。
  自分の想いとの調和がとれれば、思考は、その感情を
  愛の行動へと変容させるための貴重な道具となる。

  君たちの世界の問題は、感じないまま考えることを教えたことだ。

  感情に基づかない思考は、エゴ欲を増長させる。

  愛における進化とは、エゴではなく感情の力で、
  思考を修正することを学ぶことにもなるのだ。


Q:お話がまだ理解できないので、例を挙げて下さいますか?

A:もちろんだ。とっても好きな人に会ったと想像してごらん。
  君は男性で、彼女は女性で、長いこと会っていなかったとしよう。

  その人に対する愛情から君は喜び、
  ハグしてどれだけ好きだか表現したい衝動に駆られる。

  しかし、君が性的偏見を持った人たちと一緒にて、
  彼らには異性間の深い友情関係が理解できないことも、
  後で批判され中傷されることになるだろうことも知っていたとする。

  この不都合のせいで、君は気を変えて感情を抑え込むので、
  愛する人に出会っても人にどう言われるかを恐れて、
  そっけない素振りで礼儀正しく握手をするだけなのだ。

  この場合、脳で状況分析された思考は、感情を変えてしまったのだ。

  つまり、最初の感情は喜びであったのに、
  頭で自制した後に冷淡に振舞ってしまい、
  感情を押し殺してしまったのだ。

            ・・・

Q:でも、その人を好きなのなら、不必要に感情を表せば迷惑をかけてしまうかも
  しれないので、引き合いに出された状況では、慎重にならざるを得ないと思います。
  批判的な目のない場所で、より適切な瞬間を待って、気持ちを表せばいいと思います。

A:確かに、慎重は美徳だ。
  多くの場合、人の意見は理解も尊重もされないので、
  他者の自由意志を尊重する場合には、慎重でなければならない。

  だが、怖れに慎重という衣を着せないように注意しないといけない。

  慎重であれば、適切な状況でなければ感情の表現方法を変えるかもしれないが、
  感情を押し殺すことはない。だが、怖れはそうする。

  人は怖れに捉われると、実際には危険も脅威もなくても、
  怖れが頭の中でそれを現実化してしまい、感情の表現を抑え込んでしまう。

  他者の反応を恐れる余り、自分自身の人生に関して決断しなくなる時から、
  感情の抑圧が始まるのだ。

            <感謝合掌 平成29年7月9日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その21 - 伝統

2017/07/16 (Sun) 12:55:28


Q:頭はどうして感情を抑圧するような規制をすることになったのですか?

A:一部はエゴ自体から生じ、残りは幼児期からの教育のせいだ。
  君たちの惑星での教育は、感情を強く抑制するものなのだ。

  長い間、君たちの教育方針は頭脳を発達させることを重視し、
  頭脳そのものを利用して感情の育成を抑えてきたのだ。

  子どもたちは、感じたり感情を表現する大きな能力を携えて、
  あるがままの姿を表現しようと、心を思い切り開いて生まれてくる。

  しかし、愛情や喜びや自発性を抑制され、喜びを味わうたびに罪悪感を覚えるように、
  小さい頃から愛の代わりに執着を体験させられてきたのだ。

  何世代にもわたって、子どもたちに教えてきたものは何か?
  良い子というのは言うことを聞く子で、親や教師や大人の意志や、
  社会の規則や便宜の奴隷であるということだ。

  子どもがどうしてそうしなければならないのか分からず、
  その理由を尋ねた時に「父親の私がそう言うからだ」と返答したことが
  どれほどあろうか?

  そして両親が不機嫌ならば、子どももそのイライラを我慢しなくてはならない。
  命令と厳格さばかりで、自由が少ない。
  
  親や大人に聞かずにしたことは、全て悪いことになる。
  笑うことも、泣くことも、話すこともいけないことで、
  親の許可を得ずに黙っても悪いとされる。

  「私が認める人とだけつき合い、その人を好きになって、
  言う通りにしなさい。お前のためだよ」と言うのだ。


  非常に宗教的な社会では、全てが罪悪だ。
  いかなる喜びの表現や、ハグやキスといった愛情表現も罪となる。

  それら全てに、罪深く、卑猥で、暗く、悪魔的なものを見出し、幸せに感じると
  罪悪感を覚えなくてはならない。
  犠牲者を刑吏(けいり)に、無実な者を罪人に変えてしまう。

  そのために子どもは、苦しまずに済む唯一の方法は、
  感情を殺すことだという結論に達してしまう。

  本来の自分とは似ても似つかない、他者が求める自己像を世間に示すことを覚える。
  そして、社会の規制は余りにも厳しく、演技をし続けないといけないので、
  大人になると、見せかけてきた自分を本物だと思い込んでしまうのだ。

  大半の子どもが大人になった時には、在るがままに愛してもらうことなどなく、
  ほんの少し愛してもらうためにも必ず何かいいことする必要がある、
  という結論に無意識に達してしまっている。

  つまり、支配的・条件的・強制的・利己的で偽りの愛である執着を信じ、
  無条件で自由で自発的な愛を放棄するように、子どもたちを教育してしまったのだ。

  その結果、愛を信じ、愛に生き、そこから湧き出る幸福を
  ほんの少しでも体験できる人は僅かなのだ。そして、愛がないために、
  エゴとその忌むべき表現形態が我がもの顔でのさばるのだ。

  君たちの世界の悪者の中で、子どもだった時に可愛がられた者は少ない。
  「父母を敬え」という訓戒があるのに、なぜ「子を敬え」という教えがないのだろう?

  君たちの世界の弊害の多くは、まだ感情に鎧を着せていない
  子どもたちを愛せば、解決されることだろう。

  愛せば、愛を許容するだろう。
  子どもたちを一世代にわたって愛せば、
  世の中は一世紀も経たないうちに天国へと変わるだろう。

            <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その22 - 土曜版

2017/07/22 (Sat) 12:08:04

(今回より、「土曜版」としてお届けいたします)


Q:感情を熟知していても、つまり愛の能力があっても、それを抑制してしまって、
  感情のない冷淡な人として社会に出る人もいる、と言いたいのですか?

A:そういうことだ。
  多くの人は、苦しむのが怖く、愛情不足だという弱点を見抜かれたくないために気難しい。
  そしてそのため、鎧兜の中世の騎士のように、衣や鎧で自分を隠す。

  こうして、苦しみたくないということで苦しむことになる。
  苦しむのは、感情を避けて通ろうとするからだ。
  愛し愛され、幸せになるためには、それが欠かせないのだ。


  孤独を恐れる人が大勢いるのは、なぜだと思うかね?
  それは、本当のところは自分自身と向き合うのが怖く、
  「自分は空っぽだ」という大きな真実を発見するのが怖いからだ。

  そのため自分から逃避して、多くの頭痛の種をもたらす物質的・精神的な対象へと
  逃げ込んだり、頭を過度に刺激する娯楽を求めて、真の回答には絶対にたどり着けない
  言い訳とするのだ。そうして、感情の声を黙らせるほど、頭の声を大きくするのだ。

  しかし、良心の囁きを永久に黙らせることは不可能なので、頭脳が油断をしたり、
  アプニングやトラウマとなるような事件が原因で考えられなくなると、
  内なる声は再びこう叫び出すのだ。

  「私は空っぽだ。感じられないから虚しいのだ。見せかけの自分とは違うから虚しいのだ。
  外見とうわべだけになってしまった。自分自身であることを放棄し、愛し愛されたい存在
  であることを諦めてしまったので、不幸なのだ」と。

  現実を直視するのは、痛みを伴いほど、衝撃的なこともある。
  この時に多くの者は、事実を覆い隠してしまえば苦しみが軽減し、
  全てが通常に戻るだろうと間違った思い込みをして、愛情の欲求を
  放棄してしまったことをなんとか正当化しようとするのだ。

  「人生は僕にこんなに辛く当たった!」
  「なんて悪い人たちと一緒になったんだろう!」
  「両親すら僕を愛してくれなかった!」
  「なんで僕がもっといい人にならないといけないんだ?」などと言うことになる。

  そして、憤り・恨み・不信・悲しみ・孤独が彼らを内部から蝕む。

  子どもができると、子は弱くなすがままになるので、
  「人生とはどういうものか教えてやろう」となどと理由をつけながら、
  自分のフラストレーションの復讐をするのだ。

  この時に、再び愛のない方向へとネジを締め付けてしまう。

               ・・・

Q:でも、人生で酷く苦しんだ人が、何の努力の甲斐もない、
  という結論に達してしまうのは、良く理解できることだと思います。

A:確かに人生とはとても厳しいものなので、心で感じようと努力する者は、
  他者から理解されずに、多くの障害に遭遇し苦しむだろう。

  しかし
  それは状況による外部からの苦痛で、結果的に
  その人が感じたり愛せるようになるとするなら、その価値があるものだ。

  だが愛情を避けようと苦しむのは、自分自身が生み出す内部の苦悩で、
  感情や愛を進歩させることには役立たない。全くその反対なのだ。

  人は苦痛に浸りきってしまうと、他者にも痛みを味わわせていいように感じてしまうし、
  自分が与える損害を考えてみようともしないので、
  多くの苦悩と苦痛を生み出してしまうことがある。

               ・・・

Q:でも、人は苦しみに慣れてしまうと、苦痛が全く普通のことに思えるのです。
  多くの人が「苦しみを乗り越えられるだろうか、愛すことができるだろうか」
  と自問するではないですか?

A:しかし私は、「僕が経験した苦しみは全て、もう沢山だ。自分にも他者にも、もう結構。
  少しは人生が分かったよ。自分がされて苦しんだことは、他の人にはしないようにする。

  父母に求めて貰えなかった愛のすべてを、私は、自分の子どもや近親者や
  人生に現れる全ての人に与えるぞ」と言う人はいないものかと思うのだ。

  変わろうという意志と感情の力によってのみ、
  人生というものは逆転し、憎しみの連鎖を断ち切れるのだ。

  こうして、固く締められていたネジは緩み始め、愛のない方向へ回されたネジは
  一つまた一つと反転して行き、最後には完全に引き抜かれる。

  苦痛を感じ愛のない状態にいる人のすべてが、このような決断をしたとしたら、
  世界は一世代で変わるだろう。両親から愛された子どもは、保身の鎧を被らない世代であり、
  愛されて育てられたので、愛すことを恐れない世代となる。

  前に言った通り、愛せる能力とは、魂が生まれ持った資質である。
  そのため、誰もにその能力がある。
  それを発見し、発達させることだけが必要なのだ。

  そうだと信じれば、そうなるのだ。
  そしてすでに言ったように、これは、他者を愛すことだけではない。
  つまり、自分自身を愛すことから手がけねばならない。

            <感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その23 - 伝統

2017/07/29 (Sat) 12:45:13


Q:でも、自分を愛するとはどういうことですか?

A:もう説明したよ。
  自分自身を愛するというのは、自分の愛情の欲求と感情とを認め、
  人生の牽引力となるように、それらを発展させることだ。

            ・・・

Q:それなら、自分自身を愛すのはいいことなのですね。

A:もちろんだとも。自己を尊重することは、幸せになるために欠かせないのだ。

  もう一度くりかえそう。
  人が放棄しなくてはならないのは我欲であって、愛ではない。
  自分自身を好きでなければ、どこから他者を愛すために必要となる
  力と意志とを引き出すのかね?

  愛さずに生きるというのは、死んでいるも同然だ。
  そのため、愛さずに生きている多くの人たちが、死んだら苦悩が終わるのではないか
  という幻想を抱いていて、死にたいと思うのだ。

  そうして自分たち自身で君たちが病気と呼ぶ、肉体の自己破壊の過程を開始するのだ。
  多くの病気は、その人が自分自身を愛せないことから生じる。

  自己尊重レベルのとても低い人たちが、白血病やリンパ種などの
  免疫系の病気や自己免疫疾患に罹りやすい。
  自己免疫疾患というものは、根深い罪悪感にも関係している。

  その人たちは非常に気落ちしているため、他者に捧げるのは難しい。
  先ず初めに、自分の尊厳を回復しなければならない。

             ・・・

Qでは、自分自身を愛すには、どのような手順を踏んだらいいですか?

A:最初に、自分に愛情の欲求と感情があることを認め、
  それらが表出するがままに委ねて、自覚を高めていくのだ。

  つまり、それらを抑制するのを止め、代わりに発展させることで、
  人生の原動力へと変えるのだ。

  次に、行動する際には、気持ちに基づいて行い、思考によらないこと。
  教えられたことでも、それが気持ちに反するならば、正しくはないのだ。

  あまたの理由に左右されてしまう思考に、
  君たちの感情が抹殺されるのを甘んじてはならない。

             ・・・

Q:多くの人が、その価値があるのかと悩むだろうと思います。

A:価値があることは請合おう。
  感情に従って行動していくにつれて、
  愛だけが与えてくれる内面の真の幸福を、少しずつ体験し始めるからだ。

  また、こうして霊的にも進歩できる。
  感情は絶対に放棄してはならない。
  それは努力し生きる甲斐のある、唯一のものだ。

  最初は、ネジが固く締められているので一番難しい。
  ネジが緩み始めるまで、非常に努力せねばならない。

  しかし、その後で道は楽になり、経験していく感情が君たちの心を
  (もちろん、愛で! )満たし、それまで味わったことがなかった気持ちに
  してくれるので、継続する力を与えられるだろう。

            <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その24 - 伝統

2017/08/05 (Sat) 13:30:37


Q:では、他者を愛すにはどうしたらよいのでしょう。

A:他者を自分と同様に見なすのだ。
  彼らも、同じ内面的な必要性を持った同じ本質の兄弟なのだ、と自覚するのだ。

  我々は皆、同じ資質を持ち、
  幸せであるには、完全に自由に愛し愛される必要がある。
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  炎天下を水も飲めずに長く歩いて来て、自分がのどが渇いているとしたら、
  これと同じ状況にいる人は誰でもやはり水を欲している、と思いつかないだろうか?
  水と同じことが愛についても言えるのだ。

  愛を奪われると、我々は全員苦しむ。愛が与えられると皆、元気づけられる。
  それゆえ、愛情に渇えている人を見かけたら、その人に愛の水を飲ませてあげなさい。
  我々が愛に飢えていた時に、その水を飲ませてくれた人たちがいたように。

             ・・・

Q:でも、他者にいいことをしようと思っても、感謝されなかったり、
  軽蔑や嘲笑されたとしたらどうしますか?

A:誰かに害を加えられたら、その人が愛において進化不足なのだと
  理解して、その状況を自分自身を改善させる機会として利用すべきだ。

  我々の中で何か否定的なものが目覚めたとしたら、それは我々自身に
  まだその要素があるということで、排除しようと努力しなければならない。

  前に言ったが、愛を無条件で与えられるようにならない限り、
  課題を終了したと見なすべきでない。

  感謝されないことを容認できない人は、
  まだ与えるものの見返りを何か期待していることになるので、
  ゴールに行き着いてはいないのだ。

             ・・・

Q:それなら人は、「なんてこった。自分が変わろうとしても他の人たちが
  変わらないなら、どんな目にあわされるだろう。そんな甲斐があるだろうか」
  と思うのではないですか?

A:人に叩かれるのはかわすことが出来るのだから、
  自分自身に叩かれるよりいいのではないか?

  愛がない生き方をする者は、自分自身を叩いているのであり、
  愛そうとしてくれる人を近寄らせないのだ。

            <感謝合掌 平成29年8月5日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その25 - 伝統

2017/08/12 (Sat) 23:19:01

Q:お話はもっともですが、まだ疑問が湧いてきています。

A:自由に話してごらん。

             ・・・

Q:先ほど、感情を押し殺さずに表現することの重要性を強調されましたね。
  でもその一方で、他者の愛情の欲求や感情を配慮することも大切だと
  お話しされています。

  そこで質問なのですが、憎しみ・憤り・怒り・恨みなどの否定的な感情は、
  それらを表現すると他者を傷つけることになりませんか。
  他者を傷つけずに感情を表現するにはどうしたらいいですか。
  両方を尊重するのは、難しいのではないですか?

A:君の焦点の当て方では、確かに矛盾してしまう。


  全く反対のことなのに、言葉不足のせいで、感情という同一の単語を
  使用してしまったからだ。混乱を招かないように、もう一度その概念を
  明確にする必要があろう。

  前に、感情に委ねなければならないと話した時は、
  愛から生まれる感情に言及していたのだ。これらはもちろん、常に肯定的だ。
  区別できるように、「愛的感情」と呼ぶとしよう。

  エゴから生まれるもの、または愛とエゴの葛藤から生じるものは、否定的な感情で
  「エゴ的感情」と呼べる別物であり、違う方法で扱う必要がある(それは後で話そう)。

  「エゴ的感情」の意のままに行動するのは、他者に多大な弊害を与えるので、
  確かに避けるべきだ。

  どちらの場合にせよ、感情を抑圧しても碌な事がない。
  自分の内部を傷つけるだけだ。

             ・・・

Q:「エゴ的感情」についてお話し下さいますか?

A:「エゴ的感情」はエゴが具現したものなので、
  虚栄心・自尊心・自負心について話した時に、その幾つかは扱っただろう。

  だが、執着心のように複雑で理解が混乱するものを特にもっと深く掘り下げて、
  今からそれらを見てみよう。
  次が最も重要なものだ。

  (1) 強欲・貪欲・淫乱・憎悪・攻撃性・羨望

  (2) 執着・独占・嫉妬・怒り・恨み・無力感・色欲・罪悪感・怖れ・悲しみ

             ・・・

Q:これらは七つの大罪を思い出させますが、関係はありますか?

A:確かにこれらに翻弄されれば、尊重されるべき「愛の法則」や「自由意志の法則」
  に反する数多くの罪を犯すことになるだろうが、これらは罪ではなく
  エゴの顕現形態なのだ。

             ・・・

Q:どうして二つのグループに分けたのですか?

A:最初のものは、より原始的なエゴの形態だ。
  二つ目もエゴが顕現したものだが、感情というものを言わずもがなに
  認識しているという要素が付加されている。

            <感謝合掌 平成29年8月12日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その26 - 伝統

2017/08/26 (Sat) 12:17:08


Q:より正確なイメージが持てるよう、「エゴ的感情」の一つ一つが
  何から成り立っているのか定義して下さいますか?

A:よろしい。強欲と執着から始めよう。
  執着は強欲から発展した形態なので、まとめて分析するとしよう。




  強欲-執着

  強欲とは物財の蓄積を過度に熱望することだ。

  欲張りな人は、物的には与えられるものを沢山持っているにも関わらず、
  自分の物だと思っている物を他者と分かち合うことを拒否する。

  魂の感情認識が進んでも共有ができない場合には、
  物的な強欲は、霊的な強欲へと変化する。

  霊的な強欲とは執着であり、不当に自分の所有物だと考えている人たち、
  たとえば子どもやパートナーなどの愛情を分かち合うのが難しい。

  執着に苦しむ者は、少数の人しか愛さず、その人たちにも同じことを強要する。
  多くの人が、誤って「愛している」のだと思い込み、相手を強く愛するがために
  苦しいと言うが、実際には愛着による執着から苦しんでいるのだ。

  魂が進歩して初めて、愛と執着との区別がつくようなる。

                ・・・

Q:愛と執着との違いを説明いただけますか?

A:人が愛す場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。
  自分がその人と一緒にいられなくても、
  愛する人が自由で幸せでいられるように尽くすのだ。

  執着を患う場合は、愛す人のためになることよりも、自我を満たすことを考える。
  そのため、愛している筈の人の自由意志を侵害する傾向にあり、その意に反して
  自分の近くに置こうとしたり、自分のやりたい事を強要したりして、
  相手と「自分の競争相手」と見なす他の人との関係を最大限妨害しようとする。

  本当に愛す者は、愛する人を所有しようとはせず、
  愛する人が他の人たちを愛しても不快に思わない。

  執着は底をつくかもしれないが、本当の愛・真実の愛は決してなくならない。
  より沢山の人を愛せるようになっていったとしても、その他への愛が減る訳ではない。

  しかし執着は、そうだと思い込ませるのだ。
  他の人たちに与えられる愛は、自分から奪われると思わせるのだ。

  執着がある者は、感情を要求し、強制し強要する。
  自分がすることの見返りをいつも求める。

  要求し受け取ることばかりを考え、与える時には利益と引き換えで、
  最初に自分が頼んだことをしてくれるのが条件だ。
  執着すると、自分の自由意志すら侵害し、したくないことをするように自己を強要する。


  真実の愛を感じる者は、無条件に与え、感情を束縛しない。
  強制も強要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。

            <感謝合掌 平成29年8月26日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その27 - 伝統

2017/09/02 (Sat) 14:31:41


Q:違いが明らかになる例があればいいのですが。

A:いいだろう。鳥を愛していると公言する二人が出会ったとしよう。

  一人は、冷房の効いた部屋の美しい金のかごの中で鳥を飼っている。
  高品質のえさをやり、瓶詰めの湧き水を与え、定期的に獣医に連れて行く。

  もう一人は、単に食べ物を公園に持って行くだけで、
  鳥が止まればなでてやり、怪我をして飛べない時は世話してやる。


  最初の人は、「僕はなんて鳥たちを愛しているんだろう。野生であれば
  得られない快適さを享受できるように、鳥たちには多額を費やしている!
  でも直ぐに死んでしまうんだ! いつも病気で、薬や獣医に金を使っても
  早死にしてしまう。それが酷く辛い!  どうしたらいいだろう? 」
  と言う。


  二人目は、「僕が世話する鳥たちは、僕のものではない。
  かごに閉じ込めてはいないし、自然の中で生きている。
  鳥が僕と一緒にいてくれるのは、かごの格子から出れないためではなく、
  そうしたいからなので、僕は幸せだ。

  自由に飛び回り、望むがままに生きているのを見られるので、嬉しい。
  友よ、君の鳥は自由でないから、悲しみで死んでしまうのだ。
  好きに羽ばたけるようにかごを開ければ、自由になれて幸せになるので、
  生き続けるよ」と言う。


  最初の者は「かごを開ければ逃げ出して、二度と会えなくなるじゃないか!」
  と答える。

  二人目は、「逃げたとしたら、それは意に反して捕らえられていたからで、
  隷属した生活から離れたいのだよ。私の鳥たちは、好きな時に行ったり来たり
  できると知ってるから、逃げたりしないよ。その反対に僕が公園に着くのを見ると、
  直ぐに寄って来て取り囲んでくれて、僕の上に止まるよ」と応じる。

  一人目は「それが僕の望みだ。鳥たちに好かれたいんだ」と言う。

  二人目は、「強要してでは、絶対に君の望みは叶えられないだろう。
  君は、彼らが最も切望することの埋め合わせのために、快適さばかりを与えたのだ。
  鳥は自由に飛びたいのだ。鳥を本当に愛しているのなら、自由に生かしてあげなさい」
  と返答する。

                ・・・

Q:愛しているのは誰で、執着しているのは誰ですか?

A:鳥をかごに入れておきたい人に執着があり、
  鳥を自由にさせておきたい人が愛しているのだ。

            <感謝合掌 平成29年9月2日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その28 - 伝統

2017/09/16 (Sat) 13:10:29


Q:執着によって他の人の自由意志をどのように侵害してしまうのか、
  例を示していただけますか?

A:子どもが大きくなって、恋人ができたからとか、家から離れたところで
  勉強や仕事をしたいからなどの様々な理由で独立したがる際に、
  自分のそばに引き留めようとする母親には執着心がある。

  執着のある母親は、子どもといたいという欲求を押し通そうとし、
  独立して自分の人生を歩みたいという希望を尊重しようとしない。

  そして、それが叶わないと感情的に傷つけられた気がして、
  「子どもは私を愛していない」などの発言に至り、子どもをそばに置こう
  とする余り、彼らに罪悪感を抱かせるように仕向ける。


  「この職業に就きなさい、あの専門を学びなさい」と子どもに要求して、
  そうしなければ相続権を奪う父親には執着がある。


  恋人に着ていい服といけない服や、何時に家から出入りすべきだとか、
  つき合って良い人と悪い人を指図する人には執着がある。


  この偽りの愛が執着であり、それは執着の対象を閉じ込めておく監獄や
  刑務所のようで、執着に負けた者を牢屋番に変えてしまう。

  鳥をかごに閉じ込めていた人のように、
  執着で苦しむ者は、生きることも生かすこともできないのだ。

                ・・・

Q:執着によって他者の自由意志を踏みにじるというのは理論的ですが、
  自分自身の自由意志も侵害するかもしれない、ということには驚きました。
  執着がある時に、どのように自分の自由意志を侵してしまうのか、
  例を出していただけますか?

A:いいだろう。たとえば、前例の母親が、家族以外の人を支援することなど、
  自分の心が求めることに時間を割きたいと思っても、そうすると
  子どもや夫の面倒が見られなくなると考えて、自制してしまう場合だ。

  執着を乗り越えなければ、内面を充足させることをする際には
  罪悪感を覚えるだろうし、その罪の意識によって、そうすることを
  自分に禁じてしまうかもしれない。

                ・・・

Q:この例のような執着の顕れ方には驚かされます。家族に尽くす人は、
  一般的に愛情に満ちた人だと思われていることが多いからです。

  それは、執着というものが君たちの文化に深く根づいており、
  頻繁に愛と混同されているからだ。

  多くの人は、授かった教育のせいで執着が大層深く、
  それを自分の個性の一部に同化させてしまっている。

  女性には、自分の時間の100%を夫や子どもや仕事に捧げなければ
  罪悪感を抱かせる。

  家族以外の人に時間を費やすと、味方である筈の家族からでさえも
  口さがなく批判され、「自分の家族よりもあの人たちの方が大事なの?」とか
  「一体何でそんな事に関わるんだ? おまえはここに家族と一緒にいるべきだろ」、
  「人にどう思われるだろうか!」などのコメントで罪を意識させられる。

  男性は、慣習的により大きな自由を謳歌してきたが、執着の感情から免がれている
  訳ではなく、家族でも友達でも同郷(同文化)でもない人に手を貸そうと
  時間を割くと、特にそれが何の経済的なメリットにもならない場合には、
  他の人の執着によって非難される。

                ・・・

Q:でも、家族に専念していても、そこには愛があるのではないですか。

A:もちろんだ。一方を取ると他方をなくす訳でない。
  すでに言ったがくりかえしておこう。
  真実の愛はなくなることがないのだ。

  愛す対象が段々と増えていっても、それで家族を愛さなくなる訳ではないのだ。

  だが愛の能力が大きいと、大勢の人との約束も多くなるので、
  自由時間も多くの人と分かち合わねばならない。

  それが、執着に苦しむ者には、前より少ししか愛してもらえていない
  と受け取られるのだが、実際にはそうではない。

            <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その29 - 伝統

2017/09/23 (Sat) 13:23:25


Q:人が変わろうと決意すると、家族はどうなるのですか?
  他者を支援することに時間を割くようになると、
  自分の家族に手がかけられなくなるのではありませんか?

A:いいかい、自己変容したいと願い、内面の話ができる他の人たちと集まりたい
  と思う者が出くわす最もきつい障害は、周囲の人たちに理解されることがなく、
  その人たちに、家族の義務を果たさないという罪悪感を、弄ばれることだ。

  よく観察すれば、誰かが週に1度、2時間かけて、おまけにお金も使って、
  サッカーの観戦やディスコやバーに行っても、その人が家族をないがしろに
  しているという印象を持つ者はいないと分かるだろう。

  しかし、同じ人が、自他に役立つように内面に関する話を2時間しに行く
  場合には、あらゆる難癖をつけられるので、家族を放任してしまった
  という罪悪感を覚えてしまうのだ。

  これは要するに、分かち合うのが困難だという執着のせいだ。
  執着は愛ではないし、この障害を克服できなければ、
  君たちは停滞してしまうのだ。

             ・・・

Q:それでは、家族は霊的進歩の障害となり得るのですか?

A:いや、障害となるのは、自己成長する気がなく
  他者にも成長させまいとする魂たちの理解のなさだ。

  彼らは、進化を願う者を、それが家族のように血の繋がりがある者であっても、
  手中の全ての武器を駆使して押し留めようと努める。

  理解のある家族と暮らす者にとっては、
  家族が霊的な発展を遂げるための支えとなる。

  しかし、地上の人類はほとんど成長していないために、
  霊的な覚醒に取り組もうとする者は少数である。

  しかも、同じ家族の中に似通った魂がいて、霊的進歩に取り組むつもりであっても、
  同時に覚醒できることは非常に稀だ。そのため、先陣を切るのが一番難しいのだが、
  それができる人が、他の者のために道を切り開かないといけない。

  かのイエスでさえこれと同じ問題を克服し、
  執着による家族の理解のなさを乗り越えなければならなかった。

  イエスの家族は彼を理解できなかったので、霊的事柄に応じるために
  家の義務を投げ出している、と常にイエスを非難した。

  気が狂っているとけなし、罪悪感を覚えるように仕向け、
  ヨセフが亡くなって彼が大家族を養う責任を負う羽目になってからは、
  特にそれが高じた。

  だが、それは真実ではない。
  イエスは、母親と兄弟姉妹が自立できるまで物質的支援をしたのだ。

  しかし、彼の使命は、全人類の家族というもっと広範に及ぶものだった。
  イエスが体験した自分自身の家族の理解の欠如は、
  福音書の次の一節に反映されている。

  「そしてイエスは言った、
  『預言者はどこででも尊敬されるが、自分の郷里と家族の間では敬われない』」

             ・・・

Q:でも、無条件に愛すためには、家族を放棄する必要があるのでしょうか?

A:霊界が家族の放棄を要求するなど、どうして信じられるのかい?
  家族は、魂の最初の感情を刺激する手段として、まさに霊界で創られたのだよ。

  夫婦間の愛情や親子間の愛情は、魂が最初に出会う感情で、
  交配本能や子に対する親の保護本能から発達したものだ。

  唯一伝えたいのは、愛において前進するためには、
  心を開いて分かち合い、家族の概念を広げて、全ての霊的存在が
  その一部であると考えねばならないということだ。

  いいかね、人が愛す時にカテゴリーを設けるとしたら、
  真の兄弟愛の実現は不可能だろう。

  自分の家族を一番先にして、同じ故郷・国・人種・文化・宗教の者を優先し、
  それで残ったものがあれば他者にあげる、となる。

  何の見返りも期待しないで与える代わりに、常に何かと引き換えなのは、
  我欲がカモフラージュされたものだかだ。

  そのため、与える際にはリストを作成し、最初に自分に沢山くれそうな人を載せ、
  次にそれ以下の人を記載し、何もくれない人は欄外とするのだ。

  このような利己的な態度は、どんなに会員だけの連帯を正当化しようと
  頑張る人たちがいようと、「愛の法則」を侵害している。

  連帯する権利から誰かを外してしまった瞬間に、
  連帯という言葉は意味を失うのだ。

  このような集団的エゴがどこまでエスカレートできるのかという例は、
  ナチズムに見ることができる。人種による見せかけの結託を謳い、他の人種を
  虐殺したり信仰の権利と個人の自由意志を排除して、それをでっちあげたのだ。

            <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その30 - 伝統

2017/12/23 (Sat) 16:03:48

(P233~234)

Q:執着は、虚栄の段階にも尊大の段階にも見られると言われましたが、
  これは克服するのがかなり難しい「エゴ的感情」のようですね。

A:その通りだ。
  執着は虚栄の段階に始まり、尊大の段階の最後まで克服されることがない。

             ・・・

Q:それなら、執着に関しては、虚栄から自尊を経て尊大へと
  霊的に進化していっても、何の進歩もないのですか?

A:もちろんあるとも。しかし、進歩は常に緩やかなのだ。
  虚栄心の強い者の執着は、自尊心の強い者や尊大な者の執着と
  同じ強さではないし、同じ要因で増長される訳ではない。

  虚栄心の強い者は感情が余り発達していないので執着心はずっと強く、
  他者の自由意志への配慮がなく、甘やかされたり構われたいという思いや
  進化への意志の弱さなどでそれが増長される。

  自尊心の強い者と尊大な者では、執着心は徐々に愛に変化していっているので
  (愛と執着の両方が混在している)それほど強くないが、愛されない
  という怖れや愛する者を失う怖れによって増長される。


            <感謝合掌 平成29年12月23日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その31 - 伝統

2017/12/30 (Sat) 11:25:48

(P234~239)

Q:それでは、強欲と執着は、どう克服するのですか?

A:強欲の反対は寛大なので、強欲に打ち克つためには、
  物的・霊的な寛大さを発展させる必要がある。

  強欲と執着は、物的面・霊的面で、自分が持っているものを
  他者と分け合うことで、乗り越えられるのだ。

  貪欲-独占欲

  貪欲とは、所有したいという過度の欲求が回を追うごとに募るもので
  (欲するものは物財でも他のいかなる性質のものでも良い)、
  それによって他者が損害を被っても構わない。

  貪欲な者は、自分の持ち物では決して満足できずに、
  いつも持っていないものや他者のものを欲しがり、
  それを手に入れるまで留まるところを知らない。

  貪欲な者は、自分のものを評価しないので浪費癖のある魂であり、
  いつも他者の持ち物を切望しているので羨み深い魂である。


  魂が虚栄の初期段階から発展段階へと移行すると、
  物的な貪欲さは霊的な貪欲さ、つまり独占欲へと変化していく。


  人が意識してかしないでか、自己満足のために他者の注意を引こうと、
  相手の自由意志を侵害したり強要してしまうことには頓着せずに、
  できるだけ長く自分に構ってくれるように人の感情を操る場合は、独占欲だ。

  独占欲に支配されている人は、自分の事しか考えないことが多いので、
  他者を尊重することが非常に難しい。


  独占欲の強い者は、どんな手段を講じてでも注意を引こうとし、
  そのため、頻繁に犠牲者の振りをする。


  独占欲は執着心との関係が深く、
  この2つの我欲の形態は、同時に同じ程度の強さで顕れることが多い。
  つまり執着心に苦しむ者は、独占欲も強い場合が多いのだ。


  嫉妬は多くの場合、執着心と独占欲の混ざったものだ。
  貪欲で独占的な人には羨望、つまり自分にはない欲しいものを
  所有する人たちへの反感、が目覚めがちである。

  欲望の対象となるのは、貪欲であれば物的所有物であり、
  独占欲では霊的所有物となる。

           ・・・

Q:それなら、愛して欲しいので構ってもらいたいと頼むのは、
  独占的になるリスクがあるので、正しくはないのですか?

A:その逆だよ。我々は皆愛される必要があるのだ。
  自分の必要性を認めて頼むのは、自己の感情表現の一部を成すので、良いことだ。

           ・・・

Q:それなら、愛して欲しいと頼むのと、独占的になることとの違いは何ですか?

A:強制せず、騙さず、操らず、誠実に頼む場合は、独占的ではない。

  独占的なのは、強制し騙し操った時、要するに、他者の自由意志を侵害した場合だ。

  しかも多くの場合が、愛を求めているのではなく、ちやほやして欲しいだけなのだ。

  愛とは自由に与えられなければならず、強制すればそれは愛ではなく、
  義務となってしまう。

  そのため、家族や近親者なので自分を愛したり面倒をみる義務がある筈だ
  という思い込みだけで、特定の人たちに愛してくれと要求するのは間違っている。

           ・・・

Q:霊的に進化するにつれて、独占欲はどう変化しますか?

A:執着と似通った方法でだ。

  すでに話したことだが、独占欲は貪欲から派生して虚栄心の発展段階で始まり、
  自負心の段階の最後まで完全には克服されることがない。


  魂は、愛せる能力を獲得するにつれて、自分自身の感情で満たされ始めて
  情緒的に他者に依存しなくなるので、
  感情面で寛大になると、独占欲は徐々に力を失ってゆく。

  自尊心と自負心の段階では、独占欲は次第に減少してゆく。


  攻撃欲(憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感)

  攻撃欲の分野には、憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感など、
  自他を問わず痛めつけ傷つけたいという衝動と関連した全ての
  「エゴ的感情」が含まれる。


  攻撃欲は、一般的に外部からの刺激で目覚めるが、自分が攻撃された場合や、
  自分の欲求や願望の障害になると思える状況が要因となる。
  攻撃欲とは、劣悪化した生存本能である。

  攻撃欲は我欲のどの段階にも見られるが、
  それが誘発される原因は、各レベル毎で異なる。


  虚栄心の強い者では、注意を引いたり注目の的になろうとしたのに失敗した場合や、
  欲求を満たせなかったり、人の意志を曲げられなかった場合などに表面化する。
  そして、自分の要求を他者に押しつけようと、攻撃的になる。


  自尊心の強い者や自負心のある者に攻撃欲が顕れるのはより限定的だが、
  もっと過激なケースとなり得る。

  確信していることが正しいと認めてもらえなかったり、望み通りに物事が運ばず
  途方に暮れた時や、やりたい事をしたり表現するのを抑制されてしまったり、
  感情が傷つけられたと感じた時などに、攻撃性が起動する。

  憤怒すると虚栄心の強い者よりも暴力的になり得るのは、
  ストレスを蓄め込む傾向があって、自己コントロールを失うと突然爆発するからだ。


  虚栄心の強い者と自尊心の強い者の攻撃性の違いは、ライオンとサイとに例えられる。
  ライオンは肉食で、他の動物を餌とし本質的に攻撃的なので、
  攻撃欲も生来のものと言えよう。
  この攻撃欲が、虚栄心の強い者の攻撃性なのだ。

  だが草食動物であるサイは、食べるために狩をする必要がないので、
  乱暴に振舞う習性はない。脅かされたり怪我した場合など、
  ごく特別な場合にのみ攻撃的になる。
  これが、自尊心の強い者の攻撃性に似ているのだ。


  自負心のある者の攻撃欲は、自尊心の強い者の攻撃欲に似ていて、
  単にその度合いが違うだけである。自負心の強いと滅多に感情を損うことがないので、
  攻撃性が触発されることも稀だが、
  爆発した場合には、他の者たちよりもずっと破壊的になり得る。


  攻撃欲には、憎悪から恨み・憤りや無力感に至るまで色々な異形態が見られ、
  それぞれに独自の特徴がある。


  憎悪は、他者に向けられる非常に強烈で持続的な攻撃欲である。
  これは、最も愛からかけ離れ、最も有害な、一番原始的で致命的な
  「エゴ的感情」である。宇宙の生命存在への分離と拒絶感情の最たるものだ。

  憎悪は、愛の学習が遅れている最も未熟な存在に特有のものだ。

  憎む人を「怨恨(えんこん)者」と呼ぶとするが、この人はいつも、
  自分の憎しみは正当なものでコントロール可能だと信じているのだが、
  しまいにはより多くの人を憎むようになってしまい、周囲の人に隔絶感をまき散らす。


  憎悪に身を委ねてしまう者は、暴力的で不公平で狂信的で冷酷で、
  すべてのものを破壊してしまう。普通の人たちからは避けられてしまうので、
  孤独を感じないように似た者を探そうとする。


  「怨恨(えんこん)者」は、異種と見なした者への憎悪を正当化する、
  過激で暴力的な活動に参加しがちである。

  しかし魂は益々孤独になり、この世の他の存在からも離れてしまうので、
  憎しみ自体が彼らを破壊してしまう。
  結局のところ、それが彼らが望んだことだったのだ。


  怒りや腹立ちは、持続しにくい攻撃性で、
  その程度が大きい(怒り)か小さい(腹立ち)かの違いである。


  憤りと無力感は、強く長く持続する攻撃性が内側に向けられた状態で、
  他者や自分が逆境に陥った際に起動する。無力感の場合は、物事の流れを
  変えるのは不可能だと感じる欲求不満が、状況を悪化させる。

  怒りっぽいイライラした人は、些細な事が原因で攻撃的になりやすく、
  不機嫌であることが多く、自分自身と人生とに不満である。

  自分の不快感の原因は外のもので内にはない、
  と自己を納得させるために外部のせいにして、
  不快感の本当の原因を探ろうとせず、進歩を拒むので苦しむ。
  恨みはこうして生まれる。


  罪悪感というカテゴリーに入るのは、
  攻撃欲や無力感が自分自身に向けられた場合である。

  自分への攻撃性が蓄積されると、アストラル体レベルの均衡を崩し、
  その状態が長く続くと肉体的な病気を引き起こす。

  たとえば、抑圧された憎しみは、肝臓や胆嚢の病を引き起こす。

  無力感は、消化器系の調子を狂わす。

  抑圧された憤りや恨みが蓄積すると、歯牙の問題(歯痛や虫歯)が起こる。

  攻撃性が自分に向けられた罪悪感は、自己免疫疾患を生じさせる。

            <感謝合掌 平成29年12月30日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その32 - 伝統

2018/01/06 (Sat) 12:14:42

(P239~242)

Q:罪の意識、つまり罪悪感はどこで生まれるのですか?

A:感情と思考に葛藤がある場合に、感じることと考えること、
  つまり魂と頭脳との戦いの中で生じる「エゴ的感情」が原因だ。

  思考の中には、それまでに授けられた全教育が影響していて、
  社会規範や規制、利己的な考えなども含まれる。

  人は、気持ちに反して考えに従って行動すると、罪の意識を感じることがある。
  それは多くの場合、愛に反した我欲での行動を意味する。

  たとえば、思考が発端となる利己的な行動をとった時に、魂が良心によって
  霊的な視点からは誤りだと感知すると、罪悪感が生まれる。
  魂は頭を咎め、感情が思考に異を唱えるのだ。

  この場合は、自分の間違いを認識することができ、成長の指標ともなるので、
  このような罪の意識は肯定的なものだ。しかし、その逆も起こり得る。

  人は、気持ちを感じてしまうことに罪悪感を覚え、
  思考の代わりに感情に従うことを悪いと思う場合がある。
  この場合は、頭脳が魂を咎めるのであり、思考が感情を検証する。
  とても強い偏見や制約があって、特定の感情が悪く誤りだと思い込んだ場合だ。

  そして残念なことにそれが原因で、人は善悪を混同し、
  人生を混乱させる感情は悪いものに違いない、との結論に行き着くのだ。
  こういう罪悪感は、霊的進歩と感情の発達を阻むので、大変否定的なものだ。

                ・・・

Q:2つ目のケースがよく分かるように例を挙げていただけますか?

A:よかろう。人を好きになったとしよう。
  最初の衝動は、そういう気持ちが芽生えた人に、
  意思表示をしようと近づくことだ。

  これが、気持ちのままに行動するということだ。

  だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。

  これは、それまでに授けられた偏見と禁制に満ちた教育の全てに
  条件づけられてしまっており、そこから感情の表現を咎める一連の思考が
  生まれる。

  たとえば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合
  (年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆したり、
  拒否される怖れを増長させる(彼女は同じ気持ちではない、NOと返答するだろう、
  滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまうだろう、など)。

  思考が感情を負かし、心で感じたことをするのを止めてしまうと、
  気持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。

  感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に
  修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、
  考えたことではなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。

                ・・・

Q:罪悪感はどのように克服できるのですか?

A:利己的な行為を認識することで罪の意識が生まれる場合には、落ち込んだり
  がっかりせずに、新たにそうならないように積極的に行動することだ。

  たとえば、傷つけてしまった人に謝ることから始めるなど、
  自分がしてしまった悪いことを可能な限り修復しようとするのだ。

  そうすれば、罪悪感は消えるだろう。

  気持ちに反して、考えに従って行動したために罪悪感が生まれる場合には、
  初めに、自分が感情に則った行動をしていないことを認識すること。

  次に感情に従う勇気を持ち、感じるままに生きることで、
  そうすることを阻む抑圧的な思考回路を壊すことができる。

  このプロセスを開始し、気持ちに素直に生きて行動し始めてはいるものの、
  まだ頭の制約が強く、その努力を放棄するように悩ませられている人には、
  非常な忍耐力が必要だ。

  自分の気持ちに大いに自信を持って、それに従って行動する固い意志が必要となる。

  苦しむとしたら、それは感じることのせいではなく、
  考えることのためだと知るべきだ。
  それゆえ、感情ではなく、思考を修正すべきなのだ。

  心で感じることが分からない人たちによって責められたなら、
  過去に自分もそうであったように、その人たちがまだ利己的で
  偏見に満ちた考えに捉われているのだと理解すべきだ。

  彼らには、忍耐と理解を持って接する必要があるが、
  影響されてしまってはいけない。

            <感謝合掌 平成30年1月6日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その33 - 伝統

2018/01/13 (Sat) 12:59:45

(P242~245)

Q:恨みとは何ですか?

A:恨みとは時間が経って薄れたものの、憎悪が長期にわたり継続するものだ。
  通常は、反対されたり被害にあったせいで、自分の不運を招いた責任者だと
  判断した特定の人に向けられる。

  攻撃欲が目覚めるきっかけとなる事件は、かなり以前に遡る場合もある。
  しかし恨み深い人はこの件をずっと記憶し、攻撃的な衝動を育み、
  復讐すれば不快感を軽減できるだろうと思って、その機会を待つのだ。

              ・・・

Q:恨みはどこで生まれるのですか?

A:気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかった事を実行しなかった
  欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったためや、自分自身の欠点
  (怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰など)に負けてしまった後悔などから
  生まれる。

  恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力した人たちや、
  やりたかったことに反対した人たち、自分の困難な状況に責任があると思う人たちに、
  誤って向けられる。

              ・・・

Q:どうやってそれに打ち克つのですか?

A:外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感が
  どこから生じるかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、
  人生の中の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。

  運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越えて
  無条件に愛す能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合があることを
  理解するように努めるのだ。

              ・・・

Q:前にした質問をもう一度くりかえすことになりますが、憎悪・憤り・怒り・恨みなどの
  感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねませんが、溜め込んでしまえば
  自分自身を痛めつけることになります。

  ですから、こういう感情はどうしたらいいのですか?

A:根本から断ち切ってしまうのだ。
  それらの感情が内部に目覚めないように努めるのだ。

  攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識してそれが目覚めたのだとしたら
  自分の中に存在しているエゴが顕れたのだと気づくのだ。

  自分の取り柄が表価されないためにエゴが目覚めるならば、
  まだ虚栄心を克服できていないのだ。

  感謝されなかったり中傷されたために苦しむのであれば、
  自尊心や自負心を超える必要があるのだ。

  攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなに酷い無礼や非難をされても、
  忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人たちがいる一方で、どんな些細な事にも
  制御不能なほど激怒してしまう人たちがいるのを見れば明らかだ。


  最初の人たちは、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人たちだ。
  二番目の人たちは、そう努めようとし始めてもいない。

  ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないからといって、
  欲求不満になってはならない。

  自分が全権限を有する、内面の世界を変えるように努力するのだ。
  そうした時に、外でのことは、もう怒りの原因とはならなくなるのだ。

              ・・・

Q:攻撃欲はどう乗り越えるのですか?

A:先ず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとするのだ。

              ・・・

Q:何を理解しないといけないのですか?

A:自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。

  自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を
  認めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。

  また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、
  あるがままに自分を表現するように努めるのだ。

  誰かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足りず、
  愛の認識に関してほとんど進化できていないためなのだと理解すべきだ。

  かつては自分も同じように霊的に無知な状態で、
  今されたことと同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。

  自分の利己的な行為が理解されることを期待するのなら、他者の利己的な行為に
  関しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。


  我々が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現したのではなく、
  愛の学習と我欲の克服を促進させるためのもので、
  その多くは生まれる前に自分自身で選んだものなのだと理解するのだ。

  そして大半を占めるその他のものは、自分の頑固さ・不寛容・羨望や、
  他者の欲求や意見を尊重・理解しなかったために、
  我々自身が招いてしまったものなのだ。

              ・・・

Q:攻撃欲が触発されてしまった場合に、誰にも迷惑をかけずに、
  不快感から解放されるにはどうしたらいいでしょうか?

A:他者を傷つけずに不快感を解放する、いい発散方法がある。

  それは、どう感じているかを言い表わすということで、
  自分にわき起こった感情を認めて、そうなった理由を述べるのだ。

  聞き手は、傷つけないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、
  攻撃欲には簡単に屈しない信頼できる人でなければならない。

  不快感を表現するだけで、攻撃欲から生じた不快が和らいで
  かなり楽になる気がするし、もっと冷静に理性的になれる。

  その後でさらに落ち着けば、けんかをした人との話し合いを試みて、
  解決策を模索することが可能だ。

  しかし、それには時と方法を選ばねばならず、
  怒りや激情で爆発しそうな時は、絶対に避けねばならない。

  そうなってしまえば、自分が受けたのと同等かそれ以上の苦痛を相手に与えて、
  大いに傷つけてしまうかもしれないからだ。

            <感謝合掌 平成30年1月13日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その34 - 伝統

2018/01/20 (Sat) 14:00:47

(P246~249)

【悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め】

  悲しみは、士気の喪失と低下という情緒的な状態だ。

  悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、
  感受性がもっと強い人の場合にそうなるのであり、
  エゴに由来していることが攻撃欲ほど明白ではないので、捉えるのが難しい。

  実際、無力感や罪悪感や、場合によっては憤りと自棄も、
  本当は攻撃性と悲しみの入り混じったものだ。

  悲しみは、自分が求める成果が見られなかったり、
  結果が期待したものと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。

  悲しみには色々な形態があり、それぞれに特色がある。

  悔恨は恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。
  日常生活の妨げとはならないが、とても深く内面に根を張っているので
  超えるのが難しく、悲しみによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。

  努力する動機づけや生き甲斐がないというのが特徴である、

  絶望と諦めという悲しみの形態にも深く関連しているが、
  後者は通常、認めたくないような状況から生まれる。

  自暴自棄は、強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕事も行えなくなり、
  精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、致命的な行為に及ぶことがある。

            ・・・

Q:悲しみがエゴの感情だと思われているのは、予想外でした。

A:ところがそうなのだ。
  人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。

  だが、諦めて投げ出してしまって、
  悲しみがその人の日常的な状態になってしまうと、それは停滞した状態なのだ。

  悲しみは、霊的成長の努力を怠る口実となるのだ。

            ・・・

Q:悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか?

A:悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。
  悲しみのせいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。

  悲しみや落胆に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、
  大変強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易に
  その状態がうつってしまう。

  悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こす。
  悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使命を
  途中で止めてしまう人は大勢いる。

  そうした人たちは、同時に、他の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。
  たとえば、悲しみに蝕まれて死んでしまう父親や母親は、
  子どもたちを見捨てているのだ。

            ・・・

Q:悲しみはどう超えたらいいでしょう?

A:攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、
  攻撃性を乗り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、
  悲しみを克服することにも適用できる。

  それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。
  自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。

  我々が直面する逆境の多くは、愛の学習とエゴの克服という過程の一部を成しており、
  その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理解すること。

  そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ、無理解などで、
  我々自身が招いたものなのだ。

  時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利己的な態度を
  認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解すること。

  誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が足りない
  ためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解する。

  自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、
  自分をあるがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。

            ・・・

Q:あなたの処方箋は、諦めを勧めているようですが。

A:とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。
  諦める者は、匙を投げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。
  もうどうでもいい、と生きる希望を失い、落ち込むのだ。

  もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連するエゴの一形態だ。
  それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。
  しかし、この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。

  理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵となるのだ。
  以前は分からなかったことにも、意味を見出すことを可能とするからだ。

            ・・・

Q:諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか?

A:例を挙げれば、死に対する姿勢だ。

  君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、
  それは死の意味を理解しようとしないからだ。

  君たちは生きている間は、死と向き合うことを避け、
  その懸念を直視しようとしない。

  この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、
  冗舌家か頭のおかしい人に思えるのだ。

  本当は君たちは怖いので、この話題を避けて、日々の雑事に没頭しているのだ。
  理解しようとはせず、ただ避けているだけだ。

  そうするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕することになる。
  この状況は、悲しみや悔恨、憤怒や無力感をもたらす。

  そして、このどうしようもない事実を変えることが不可能なので、
  最後に諦めてしまうのだ。

  諦める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、
  理解できていないので、不機嫌に暮らし無益に苦しんでいる。

  死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、
  遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を
  失うことがない。

  そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるように、
  物質界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとする。

  進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだ
  と皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、
  苦々しく思ったりしない。

  その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻るので、喜んであげるのだ。

            <感謝合掌 平成30年1月20日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その35 - 伝統

2018/01/27 (Sat) 12:58:22

(P249~256)

【好色と情欲】

  セックスへの依存は、見栄の顕れでもプライドの顕れでもある。

  だが、人がセックスを常習するようになる原因は、それぞれの場合で異なる。
  そのため、虚栄心強い者に特有の好色と、自尊心や自負心の強い者の特徴である情欲という、
  2つの表現形態に区別してみよう。

  好色とは、セックスの悦びへ過度に傾倒することだ。


  虚栄心の強い者のセックスへの依存は、他者から認められたいという欲求と関係している。
  つまり、セックスを通して人から認められたり、称賛されたり ちやほやされることを
  期待しているのだ。

  彼らは、自分自身を満たす手段として性的快楽に溺れるが、
  他者の欲求を配慮することがほとんどない。

  しばしばセックスを利用して人を独占し、意のままにしたり優位に立とうとする。

  感覚が満たされ飽き飽きしてしまうと、
  性欲をメンタルに駆り立てる手段として新しい刺激を探す。

  それは、パートナーを頻繁に変えることであったり、サディズムとマゾヒズムなどの
  堕落した性様式に訴えたり、他の人たちをその意に反して乱交に巻き込んだりといったものだ。


  一方、自尊心が強い人のセックスの常習は、愛せる人がいないことを受容できないとか、
  特定の人への愛情を抑圧したり認めようとしないなどの、愛情の空虚感や欲求に起因している。

  つまり、自尊心の強い者が本当に必要としているのは、愛され愛すことなのだが、
  自分の愛情欲を認識せずに抑圧してしまうことが、安全弁のように、
  セックスへと逃避させてしまうのだ。

  要は、愛の欠如をセックスで補っているのだ。
  そのために過度の性欲があるが、虚無感は、性的なものではなく感情的なものなので、
  性関係では満たすことができずに満足できない。

  そこで、益々セックスを求めるようになる。
  そうすることで、この空虚感を癒そうとするのだが、上手く行かずに、
  前述のような堕落した様式に至る場合もある。

               ・・・

Q:情欲はどう克服するのですか。

A:情欲に関しては、セックスによって満たそうとしている
  内面の虚無感は愛情の欠如によるもので、
  愛情だけがそれを満たすことができると認めることが、
  それを克服する唯一の方法だ。

               ・・・

Q:好色はどう克服しますか。

A:それが虚栄心の反映したものだと認識して、
  それでは絶対に幸せになれないことに気づくのだ。

  好色の大半のケースは、残念ながら若さや肉体美や精力などの衰えが顕れ、
  性的魅力を失ったり、体が精神的な性欲に応じられなくなった時に、
  自然に消滅するのだ。

  肉体の衰えにより、自分の取り巻き連中は消え、
  それまでの人生の主要な刺激剤も失われる。

  こうして人は、便宜上の虚しい関係を築きながら、無意味な人生を送ってしまったという、
  厳しい現実に直面するのだ。

  肉体的な魅力だけで寄って来る人たちに囲まれていても、
  魅力が失われるや、皆、魔法のように消え失せてしまう。

  その人のエゴにもかかわらず、本当に愛してくれた何人かが残ってくれるかもしれないが、
  彼らに注意を払ったことなどほとんどなかった筈だ。


  虚栄心を満足させるために使用した外見美という武器が失われてしまうと、
  真相にずっと近い新たな局面と対峙しなければならない。

  そこでは、人を惹き付けるためには、自分の内面から
  何か美しいものを引き出さねばならなくなる。

  こうして、便宜上の関係と気持ちの通う関係との違いを評価できるようになり、
  後者を尊重することを学ぶだろう。

               ・・・

Q:でしたら、美しく魅力的な人たちだけが好色なのですか?

A:そうではないが、その多くが好色の深みに陥りやすい。

  魅力がないその他の見栄っ張りな人たちは、そうしたいと思っても、
  欲しいものを手に入れる餌としては、肉体的な魅力を利用できないからだ。

  そういう場合は、虚栄心が羨望を呼び起こし、自分が持たない美貌を獲得したい
  という叶え難い欲望にかられ、体重を落としたり、整形手術を何度も受けようとする
  考えに取りつかれ、自分をより魅力的に見せようとする。

  肉体的に魅力的なのに、完全な肉体を持とうとする執念に捉われてしまう人は多く、
  それは「ナルシシズム」または「肉体信仰」と呼ばれる虚栄心の具現形態の一つである。

               ・・・

Q:ナルシシズムまたは「肉体信仰」がどういうものなのか、
  もう少し広く説明いただけますか?

A:それは、今言ったように、虚栄心の表現形態の一つであり、
  自己の肉体美が望み得る最大の価値を持つものとして際立つものだ。

  自分の体で満足できずに「完全な肉体」を求めることは、脅迫観念へと変わる。
  これは精神的な病気であり、食べることを止めたり、あらゆ
る種類の痩身サプリ
  または強壮剤・興奮剤などを摂ったり、自分の命を危険にさらすことさえ省みず、
  様々な人工物をインプラントするといった、常軌を逸脱した行動を取る。

  ナルシシズムに感化されてしまった人は、絶対に自分の体で納得しない。
  時間とエネルギー、意志とお金のすべてを、肉体の改善へと費やしてしまう。

  肉体自体が自分自身だと思い込んでいるのだが、
  実際には、物質界で動くために使用する衣服に過ぎない。

  いつかは理想的な肉体を手にして幸せになれるのだ、という偽りの幻想を抱いている。
  そして幻想を利用して儲けている、エステ産業や化粧業界や消費主義によって、
  その信念が益々強まっていく。

  だが、その幻想はエゴが仕掛けた罠に過ぎず、それでは幸福にはなれない。
  幸福は、愛を育むことでしか獲得できないのだ。
  そのため、不満はどんどん膨張する。

  そして、体内時計が老年へと向かって情け容赦なく進んで行くにつれて、
  あんなにも一生懸命になって得られた成果が、老化という自然現象に
  台なしにされていくように思える。

  人生はこうして過ぎていき、かつては美しかった肉体を完全に去る時が来て、
  非情にも自然の腐敗プロセスが宣告される。


  魂は霊界に戻ると、今や墓の中で朽ちた自分自身ではなかった肉体を美しくしようと
  無駄に時間と努力を費やしたことに気づき、魂という永続する本当の自分を改善する
  ことにはほとんど努力しなかったことに気づく。

  しかし、手遅れなことなどない。
  魂の命は存続するので、再び生まれ変わって、着ている肉体を自分だと思い込んで
  無駄にしてしまった人生でやらなかった事を、もう一度やり直せるのだ。

               ・・・

Q:こういう見方をすると、肉体美は魂の進歩にとっては障害だと言ってもいいですね。

A:私の話から、美しさはそれ自体がネガティブな特性なのだと思わないで欲しい。
  その反対に、魂が進化していくにつれて内面の美に呼応して、
  魂が宿る肉体はより完全により美しくなるのだ。

  そして実際に、君たちよりも霊的に進化している物質界では、そうなっているのだ。

  しかし、進化の乏しい魂たちが支配する後進的な世界では、確かに諸刃の剣となる。

  虚栄心の段階から抜け出せない進化の乏しい魂にとっては、
  肉体的な魅力は虚栄心の奔放を許す武器となり、そのために使用される。

  気紛れ、下品、不躾、横柄に振舞っても、
  自分の肉体美が欲しいものを与えてくれると知っているのだ。
  それは、称賛してくれる者やちやほやしてくれる人たちだ。

  目も眩む体の美しさで欲しいものが手に入るのなら、
  なぜ善い人になる努力をする必要があろうか?

  こうしていつしか老年になり、自分の唯一の魅力を失い、
  独り取り残されて、自分のモラルの貧しさに失望する。

  美しく魅力的な外見を維持することばかりにかまけていて、
  内面を改善しようと努めたことが一度もなかったからだ。

               ・・・

Q:ナルシシズムはどう克服しますか?

A:自分は肉体ではないので、肉体にそれほど煩わされるべきではないと認識することだ。
  人が幸せになるためには、自分自身を、つまり自分の内面を耕さねばならない。

  肉体美という罠に陥った多くの魂がそのことを知っている。
  そのため、自分の体ばかりを眺めて人生をそれ以上浪費したくないので、
  すぐ後の転生ではありがたみの少ない肉体を選びがちだ。

  エゴを克服して人間として改善したいので、美しい肉体を持つことが
  誘惑の原因となるのであれば、現状では持たない方を選ぶのだ。

               ・・・

Q:それでは自尊心の強い者は「肉体信仰」に陥らない、つまり、自分の体に
  不満を覚えたり、魅力的で美しくなりたい、と熱烈に願いはしないのですか?

A:もちろん願いはするが、見栄っ張りな者とは違う要因でそうするのだ。

  自尊心のある者は、称賛の的となるよりも、愛されることを求めているのだが、
  もっと美しくなればもっと愛してもらえる、と間違って信じ込んでしまうのだ。

  自尊心の強い者がハンサムな場合は、周りの人たちは自分を好きでそばにいるのではなく
  肉体やその他の魅力に惹かれているからで、飽きられたりもっと素敵な人に出会えば
  簡単に捨てられてしまう、と知ってしまうと失望する。

               ・・・

Q:僕たちは、本当は魂であって肉体ではないのに、
  どうして自分の魂を意識せず、身体ばかりを自分と同一視するのでしょうか?

A:それが君たちの世界が教えることだからだ。
  魂は存在せず、人とはその体であると教えている。

  君たちの快楽主義の世の中では、評価される資質とは物的なもの(肉体美・富・権力)で、
  内的な資質(感受性・慈悲深さ・謙虚さ・慎み深さ)は軽視されるている。

  霊界では、それと全く逆だ。

  全ての霊的な資質が評価される。

  中でも謙虚さは最も評価される資質の一つだが、
  外的な資質は、魂個有のものではないので、何の価値もない。

  外的な資質は、劇の作品が変われば俳優の衣装替えがされるように、
  ある人生から他の人生で変化するので、状況的な付随物だと考えられている。

  人は、今生では外見的に美しくても、次の転生では醜いかもしれないし、
  今回は金持ちでも、次回は貧しいかもしれないのだ。


  魂は、肉体から離れている間は、その違いが明確に分かっていて、
  霊性の改善のためにこの世にやって来ると知っている。

  しかし肉体に宿ると、身体との一体感や過去の忘却や、転生先の文化の影響などで、
  霊的に改善する目的意識の低い魂は、自分を完全に肉体と同一視してしまう。

  そして、魂が顕現するということには、
  個人的に経験したことも他者の経験も、頭から否定してしまう。

               ・・・

Q:魂の顕現とは何を意味するのですか?

A:魂の存在とその能力を示す全てのものだ。

  それらはたとえば、肉体を持たない存在たちとの交信、幽体離脱、
  自他の気持ちを直感すること、五感以外での超感知などだ。

  このような体験をした多くの人が、頭がおかしいと見なされる。

  だから、自分の霊感に自信のあるかなり進歩した魂でなければ、
  自分が気が狂っていて精神療法が必要だと信じ込むに至るだろう。

            <感謝合掌 平成30年1月27日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その36 - 伝統

2018/02/03 (Sat) 12:35:16

(P257~262)

【怖れ】

  怖れとは、懸念・動揺・不安の感情であり、自分や自分が愛する者への
  危険や脅威を感知して生まれるが、危険自体は、現実的なものである場合と、
  想像上のものである場合がある。

  怖れに脅かされている者は、自分に全く自信がなく無防備であると感じ、
  大事な決断では、感情または肉体を傷つける悪い結果になりはしないかといつも迷う。

  しかも怖れは怖れを呼ぶ。

  つまり、怖れは頭を過度に刺激して、現実の状況を、
  空想上の脅威が出現する架空の状況に創り変えてしまう。

  しかも、それを本物だと信じてしまい、現実の脅威だけではなく
  想像上の脅威によっても、自分の怖れを増大させてしまうのだ。

  怖れは心配も引き起こす。頭の中で、脅威となり得るあらゆる状況を
  予め想定して、その全てから無傷で逃れる方法を探そうとするからだ。

  恐怖とパニックは、強烈で鋭い怖れの感覚で、非常にトラウマとなり易い。
  
  怖れは、自分が在るがままに振舞う妨げとなるので、
  霊的進化に最も有害な感情の一つである。

  進化する意志のある善意の魂でさえも、怖れを乗り越えられなければ、
  長期にわたって成長が滞ってしまうことがあり得る。

           ・・・

Q:でも、全ての怖れが同じだとは思わないのですが。

A:もちろん違う。
  だが一般的に、怖れは魂を抑圧して、気持ちに従って行動できなくさせ、
  感情を窒息させて完全に抑制してしまうことさえある。
  そのため、停滞してしまうのだ。

           ・・・

Q:しかし、正確には何を怖れているのですか?

A:最も一般的な怖れは、自分への他者の否定的な反応をこわがるものだ。

  これから派生する怖れとしては、愛してもらえない怖れ、理解してもらえない怖れ、
  拒否されたり軽蔑される怖れ、攻撃性(肉体的・精神的暴力)への怖れ、
  孤独になる怖れなどがある。

  ところで、自分への他者の否定的反応が怖いと、その怖れが、
  あるがままの自分を表現する怖れをもっと増長させてしまう。

  そして、これに負けてしまうと、他者が望む自分らしくない振舞いをしてしまう。
  他者とはこの場合、身近にいる人で、愛する人や家族(母親・父親・兄弟・伴侶など)
  のように、少なくとも愛情を期待できる人のことだが、
  全般には、どんな人間関係にも当てはまる。

  この怖れは、家族内外を問わず、こどもが肉体的・精神的な暴力や
  虐待の対象となった幼児期に由来することが多い。

  前述のカテゴリーに入らない怖れとしては、未知なものへの怖れ、
  死への怖れ、苦痛(肉体的または精神的)への怖れがある。

  未知への怖れは、不安を呼ぶ。人は、知らないものについて、
  多大な脅威や危険を想像してしまうものなのだ。

  実際のところ、死の恐怖というものは未知への怖れであり、
  死後に起こり得る未知なるものへの怖れであるか、
  無というもっと冷酷なものがやって来ることへの怖れである。

  まだもう一つ別の怖れがある。人間にとっては最大の怖れで、
  他のものはそこから派生するので、特別に言及しておく必要がある。

  それは、自分自身を知ることへの怖れであり、自分の欠点や美徳も含めて、
  自分が本当はどういう人なのかを発見する怖れである。


  我々は、我々自身の欠点を知るのが怖い。我々は、自分にエゴがあることや、
  自分の災いのほとんどが自我のせいだということがなかなか納得できないために、
  欠点を認識すれば余計に苦しむに違いない、と誤って思い込みをしている。

  気づきは、我欲の一形態に過ぎない「自己愛」を苦しませはするが、
  幸せになろうとして我欲からの解放を望んでいる魂を痛めることはない。


  エゴから解放されるためには、先ず自分自身にエゴがあることを認めて、
  次にそれがどう表面化するのかを認識しないといけない。
  認めるのを怖れてはならない。

  エゴは全員に存在していて、
  それからの脱却の過程のどの地点にいるかが違うだけなのだ。

  だが、自分自身を知ることを怖れて長期にわたってエゴを覆い隠してしまうと、
  我々は停滞してしまい、ずっと苦しむことになるのだ。

  同様に、我々は、愛情・感受性・謙虚さ・優しさ・同情・博愛など、
  自分の美徳や愛の表現を発見することを恐れる。
  実際にそうすることで、傷つけられたり利用されたりして苦しむのが怖いのだ。

  そしてそこから、自分に対する他者の否定的な反応への怖れが生まれる。

  しかしそれにも関わらず、この怖れに打ち克ち、自分自身になって、
  愛の深い自己を目覚めさせるために戦えば、内なる幸福が大変強くなるので、
  外部からのどんな苦痛や攻撃にも屈しなくなる。

  死に対する恐怖も、自分自身を知る怖れから生じている。
  死が終わりで、意識である自分自身が抹殺されると信じているので怖いのだ。

  自分を深く見つめる怖れを失えば、心の奥底で「死は存在しない! 君は不死身だ!」
  と叫んでいる魂の声を聞くことができよう。
  その時に、存在しなくなることへの怖れ、つまり死の恐怖は、消えるだろう。

           ・・・

Q:怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか?

A:すでに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分をあるがままに
  表現するのを止めてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してしまうことだ。

  人は自分自身でいなければ、自由意志が囚われているので、霊的に成長できない。
  自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされる。恐れに支配されるのだ。

  そして、失敗すると思い込むので、霊性進化に有益となり得るどんな状況にも
  立ち向かおうとしない。


  怖れとは、地球の権力者たちが、人類を操り、
  霊的に停滞した状態に保つために利用する感情だ。

  彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑戦には、
  必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、
  挑戦を止めさせるのだ。

  
  それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性・愛情・兄弟愛が目覚めて
  彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特権や全財産が
  剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権力を奪われるのが怖いのだ。

           ・・・

Q:例を挙げて下さいますか?

A:たとえば、人類全体の友愛に賛同する全ての運動に対する恐れを作り出し、
  非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して、恐怖体制を敷く。

  全人類のための連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治・経済体制を導入すれば、
  その後で混乱・無秩序・騒動や経済崩壊が起こるだろうと脅かして、恐れを生み出す。

  彼らは、自由は奔放となり、自由思想は厄介な考えをもたらし、
  自由な感情は悪習・堕落・不道徳をもたらすと予告する。


  地球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、
  それを見習ってしまうことを恐れている。

  そのため、地球外生命の証拠はどれも隠蔽し、他の世界の生物と接触することの
  危険性を映画を通して助長する。

  映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィルス)をしていて、
  体内に入り込んだり、人類を滅亡させる悪意を持っているのだと思わせようとする。


  人間が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上することなのだ
  と気づかれて、その努力を始められるのが怖い。

  そのため、死後の生の存在を示すものは一切否定し、
  物質主義の科学教義の中に逃げ込む。

  同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、
  霊界と交信したりすることの恐ろしさを、映画を介して助長する。

  その中では、生きている人間の魂を支配して苦しめる、幽霊・悪魔・
  血に飢えた吸血鬼やゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、
  死後の命をどれもおぞましく描いているのである。

  それに一役買っているのが、恐怖の産業(映画やテレビ)で、
  最も愚劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによって、
  すべての人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わるように仕掛けている。

  全映画の90%は、テロリスト・連続殺人犯・レイプ犯・麻薬密売人・
  宇宙からの侵略者・ゾンビ・様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な存在に
  姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。


  こうして、子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、
  もっともっと沢山の恐れが外部から加わるようにする。

           ・・・

Q:怖れはどう克服したらいいでしょう?

A:自覚と勇気を持つのだ。
  先ず、自分が怖れているということと、何を怖れているかに気づくのだ。

  深く分析して見れば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結びつかないことや、
  少なくとも思っていたほどではないことが分かるだろう。

  現実の脅威に根ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や環境に
  勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないようにすれば
  乗り越えられる。

  「怖れがなく、完全に自由だとしたらこの気持ちをどうしたいと思うだろう」
  と自問してみなさい。

  答えが、選択されるべき正しい決断なのだ。
  試してみる価値はある。絶えず努力すべきなのだ。

  怖れと対面し勇敢な決断をしていくにつれて、自分の内面が進歩するのを感じ、
  怖れは力を失い、代わりに自信と明晰さを得る。

  そしていつの日か、過去を振り返り「何であんなことが怖かったんだろう。
  今ならはっきり分かるぞ」と言えるようになるのだ。

           ・・・

Q:自分自身を知る怖れを乗り越えることで、特に配慮すべきことがありますか?

A:自分自身を、美徳や欠点も含めて、あるがままに見るのは何も悪いことではない。
  自分をあるがままに受け容れなさい。

  改善途上であることを認め、自分に嫌なところを発見しても落胆しないこと。
  自分の汚れたところに光を当てて欠点を認識することは、
  最初は苦痛を伴い不快かもしれないが、そうする価値はある。

  それが霊的な成長の道における最初の一歩になり、成長するには、
  エゴを排除することと同様に、感情を発達させることが不可欠であるからだ。

  自分の感情を怖れず、それが現れたり表したりするのを怖れず、
  そうする時に嬉しく感じるのを怖れないことだ。

  悪い事を恐れるだけで沢山なのだから、その上、良い事を恐れるのは止めとしよう。

            <感謝合掌 平成30年2月3日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その37 - 伝統

2018/02/10 (Sat) 12:09:03

(P262~268)

Q:同じ質問をしたかもしれないのですが、エゴとその具現形態である「エゴ的感情」に
  関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問をしたいのですが。

A:いいだろう。質問しなさい。

             ・・・

Q:一般的に、エゴとその形態を克服するにはどうすればいいのですか?

A:最初の一歩は認識すること。

   アルコール中毒であった者は、中毒を克服する最初の一歩は、
   自分がアル中だと認めることだと知っている。

   これと同じように、虚栄心、自尊心、自負心に打ち克つための最初の一歩は、
   我々一人ひとりに出現するエゴを識別することで、自分のエゴを認識することだ。

   そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、いつ表面化するのかを
   詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだよ。

             ・・・

Q:それは難しく思えます。

A:それほど難しくはない。エゴ自体が難しく見せているのだ。

   他者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、
   自分自身のものを認めることはなぜこんなに大変なのだろうか?

   隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない。
   (訳注:聖書のイエスの言葉)

   我々がここにいるのは、自分を受け容れてそこから改善するためなのだ
   と理解できれば、後は簡単だ。

             ・・・

Q:エゴ自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識できるのですか?

A:有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、
  自分が受け手であるかのように分析してみることだ。

  つまり、自分と他者とを置き換えるのだ。
  それから分析してみる。

  公正で正直な振る舞いだったろうか?
  それとも、利己的に動いただろうか?

  ある言動に対して、それをする時とそれをされる時とで、
  自分の意見が変わらなければ、客観性に近いのだ。

  しかし同じ言動であっても、自分がした時には容認して、
  他者がした場合に告発するのであれば、それは不公平なのであって、
  エゴに翻弄されているのだ。

  それゆえ、自分の欠点に気づくためには、
  他者を分析する場合と同じ客観性を持つ必要がある。

             ・・・

Q:そしてどうするのですか?

A:次のステップは、態度を修正することだ。
  自分の利己的な思考を認識しても、それが出現しなくなる訳ではない。
  エゴがあることを認識して受容するのは大切だが、
  その意のままに行動することを避けて、エゴに屈しないことだ。

  別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知っているけれど、
  それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするようにするぞ」と言うのだ。

  態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動や行為を
  修正できるようになる。

  利己的な態度は、自分にとっても他者にとっても有害なのだ。

            ・・・

Q:どういう意味で自分に有害なのですか?

A:愛を感じられなくなるからだ。
  愛は、人が味わえる感情の中では最も素晴らしいもので、
  我々を真に幸せにしてくれる。

             ・・・

Q:態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。
  利己的な言動を改めるための助言をいただけますか?

A:行動する際には、次のような内省が役立つだろう。

  「僕がそうされたら、どんな反応をするだろうか?
  僕だったら、その人にどうして欲しいだろうか?」

  こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、
  自分に災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。

  こう推察することで、「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたのだ。
  もちろん、簡単ではない。

  改善しようという揺ぎない紀律と意志が必要とされる。

  しかし辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちになり始め、
  もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける励みとなる。

             ・・・

Q:「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか?

A:それも、同じようにだ。
  最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持っており、
  自分にもそれがあるのだと認めること。

  それらが、エゴが顕現したもの、または、我欲と愛との内面の葛藤が
  表面化したものだと認めてみる。

  次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、
  それらを打ち負かす方法を見出すこと。

             ・・・

Q:内面の意識的な改革とはどういうことですか?

A:それは、自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、
  改革の目的(愛における進歩と我欲の排除)が明確で、
  欠点がどういうものでどのように具現するのか、
  根絶する手段は何なのかがはっきりしている。

  完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと同じように、
  自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができる。

  一日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、
  その日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。

  自分がどの程度愛に基づいて行動し、どれほど我欲によって行動したのか、
  また、他の人たちはどれほど愛またはエゴによって行動したのかを、
  内省してごらん。

  こうして正直に考えてみれば、進歩に必要となる答えを見出すことができ、
  確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなる。

  他者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば
  受け容れることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。

  自分自身の利己的な態度に気づけば、流されてしまったと分かるが、
  自覚することができたので、いいことだ。

  次の機会には、エゴは減らしてもっと愛ある気持ちで行動しよう、
  と固く決意するのだ。

  こうして、毎日少しずつ前進して行ける。

  君たちが、内面の意識的な改革を忍耐強く続けるのなら、
  いつか過去を振り返った時に、見違えるような自分を見出し、
  驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るだろう。

             ・・・

Q:でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っていたのですが、
  いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も見る必要があると言われるのと、
  矛盾しませんか?

A:それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、
  批判したり嘲笑したりするためだからだ。

  人は悪い意図を持っていると、とても不公平になり易く、
  嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさにして、
  何の配慮もしないものだ。

  もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も
  「隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」
  と咎めている。

  このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いことだと信じている。

  しかし、ここで欠点について分析するのは、
  批判するためでも嘲るためでも誰かを非難するためでもなく、
  それがどう作用するかを理解して我々自身が改善するためと、
  他者も改善できるように助けるためである。

  ここでは、現実を、誇張も隠蔽もせずに、在るがままに見ようとしているのだ。

  実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、
  それを排除することが進化の工程の一環となっている。

  それに、初めに認識することなく、
  どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?

             ・・・

Q:エゴに触発されて攻撃してくる人がいたら、
  その人を許さないといけないのだと思っていました!

A:許すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、
  つまり、原因となる場面ごとの我欲についても掘り下げる必要がある。

  たとえば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中傷する者は、
  虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動しているのだ。

  霊性進化の工程や克服すべきエゴの段階と、エゴがそれぞれの段階で
  どのように顕現するのかが理解できなければ、
  羨望・嘲笑・批判・中傷などや、もっと酷い利己的な態度を
  許すことはとても難しいだろう。

             ・・・

Q:それでは、自分自身が我欲のどの段階にいるのかを知ることは可能ですか。
  つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知ることはできるのでしょうか。

A:ああ、知ることは可能だ。
  自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長しようという誠実な思いがあれば、
  自分がどの地点にいて、今生で取り組むべき霊的な課題が何であるかが分かるだろう。

  ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように
  幾つかの指標を与えようとしているのだ。

  手助けがなく、自分を理解することはかなり難しい。
  だが、我々には旅の道連れがいるのだ。

  もう話したことだが、どの人にも指導霊たちががついていて、助けて欲しければ、
  自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように手を貸してくれる。

  また、肉体を持った人の中にも、
  その内なる能力によって、君たちに手を差し伸べられる人がいる。

  しかしこれもすべて、各人の意志による。
  エゴに捕らわれていて前進したがらない者は、
  自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も受け入れようとはしない。

  そのため、霊界から与えられる助言にも、
  もっと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。
  嘆かわしいことに、君たちの世界では、大半の人がその状況にいるのだ。

  自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、
  目隠しを取ろうとも耳栓を除こうともせず、
  「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけでも
  耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれる人を聞こうともしない。

  要は、自分の不幸を嘆いているのだが、
  自分が幸せになるのを阻む主要因たる我欲を放棄したいとは思わず、
  幸福になるために必要な支援を受けるつもりもないのだ。

            <感謝合掌 平成30年2月10日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その38 - 伝統

2018/02/24 (Sat) 09:16:40

《人間関係と「愛の法則」》①(P269~271)

Q:愛についての話で思い出したのですが、
  僕たちには全員双子の魂がいるのだと言われましたよね。

A:その通りだ。

             ・・・

Q:双子の魂は存在するのですね。

A:そういうことだ。

             ・・・

Q:想像の世界の中の幻想で、ロマンチックな夢とばかり思っていました。

A:そうではなく、実在するのだ。
  ただ、君たちが想像する通りだとは限らない。

             ・・・

Q:それでは、双子の魂とはどういうものですか?

A:お互いを補い合える、100%似通った魂のことだ。
  双子の魂は、愛で結びつくように創造され、
  完全に幸せになるためには、お互いを必要とし合う。

             ・・・

Q:各人の双子の魂は一つだけですか、それとも複数存在するのですか?

A:とても似通った魂は複数あり得るが、
  100%類似するたった一つのものだけが、双子の魂だ。

             ・・・

Q:双子の魂は、どういう目的で創造されるのですか?

A:誰もが絶対に、孤独を感じることのないように。
  自己覚醒を促し、愛の道を歩むよう突き動かしてくれる
  自分と同じ存在がいるためだ。

  双子の魂は、君の理想のパートナーで、永遠の伴侶だ。

             ・・・

Q:それは、双子の魂は一緒になるために同時に生まれ変わる、
  という意味ですか?

A:多くの場合にそうだが、いつもそうとは限らない。
  魂の発達に求められることによる。

  たとえば、自己の意志力を発展させて相手に依存しないようになるために、
  独りで物事を経験しなければならない場合も時にはある。

             ・・・

Q:一緒に転生する場合には、カップルとして暮らすためにそうするのですか?

A:それは理想的な状況で、多くの場合にそうなるように転生が準備されるのだが、
  必ずしもそうなるとは限らない。

  また一緒に転生しても、カップルとしてではなく、
  身近な家族や別の関係に生まれ変わることもある。

  魂の成長のために要請されることや、魂自身の選択にもよる。
  転生した後で、一緒にならない選択をする可能性もあるのだ。

            <感謝合掌 平成30年2月24日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その39 - 伝統

2018/03/10 (Sat) 12:45:27


《人間関係と「愛の法則」》②(P271~273)


             ・・・

Q:では、今生で関わる人たちが選ばれるのは、転生前の決定なのですか、
  それとも生まれ変わってから決めるのでしょうか?

A:家族構成や特定の友人や将来のパートナーなど、一番身近な人間関係は、
  転生以前に話し合われる。これに関しては、生まれ変わる魂たちの間で、
  それぞれの使命や試練においてお互いに助け合う約束がなされる。

  たとえば、将来生まれ変わって来る子どもに対して
  親になる約束をすることなどだ。

  ただ、その約束がのちに果たされるかどうかは別物だ。

             ・・・

Q:転生以前の約束は、大抵守られるのですか?
  つまり、ある人とカップルになる約束をしたのに、のちに生まれ変わってから、
  違う人を相手に選んでしまったり、ある夫婦が二人の子どもを持つ約束をしていたのに、
  一人しか、あるいは一人も生まなかったということもあり得るのですか?

A:君たちの世界ではごく頻繁に、転生以前の約束が破られている。

             ・・・

Q:約束が破られてしまう原因は何でしょう?

A:通常は、本人自身の欠点であるエゴ(我欲)に身を委ねてしまい、
  頭で決断を下すからだ。
  頭は、君たちの住む物質界のありさまに多大に影響されている。

  物質の獲得にのみ努力すること(消費主義)や、
  物質的な悦びを味わうこと(快楽主義)にだけ焦点を当てた生活へと誘導され、
  自分の志や霊的な約束を忘れてしまうからだ。

             ・・・

Q:魂は転生以前のことを全く覚えていないのに、
  転生してから、生まれる前の霊的な約束がどんなものだったのかを、
  どうやって知ることができるのですか。

A:霊的な直感に従えばいい。
  人は、心で感じた通りにする時には、
  どの道を選ぶべきか察している内面の声に従っているのだ。

  そして、当初の目的を果たしていくにつれて、もっと幸せになり、
  さらに自信がついて落ち着いて、人生での次の目標が明らかになってくる。

  心の声に耳を貸さなければ、頭脳のみに導かれるが、頭脳は感情とは異なり、
  純粋に物質的な目的を追うように仕向けるので、人は虚無感を覚え、
  自分自身と折り合いがつかず、不満足で自信がなく、人生に意義を見出せなくなる。

             ・・・

Q:具体的なケースで説明下さいますか?

A:生まれる前にカップルになる合意があった2つの双子の魂が、
  今生で出会ったとしてみよう。

  双方の魂はお互いを認識し、両者に愛情が芽生えたとする。
  しかし、一方がひどくエゴに洗脳されていて、
  今生での決定を下す際に、そエゴのままになったとしよう。

  エゴは頭の中で、物的に不利な状況を悪影響を与えるために利用し、
  あらゆる方法で感情を無視させようとする。

  「いい相手じゃない、お金がない、学歴がない、社会層が違う、肉体的魅力がない、
  家族は反対するだろうし面倒はご免だ、遠くに住んでいる、
  これこれしかじかの人ではない」などと。

  こうして、本物の感情を味わって、真の幸福の一端を共に経験できる霊的に似た人と
  暮らす機会が現れたというのに、その機会を見送って、気持ちに反した選択をして、
  双子の魂との転生以前の約束を破ってしまう羽目になる。

  エゴの言いなりになると、自分の気持ちには従わず、
  知的あるいは物的な期待に沿って相手を選ぶことだろう。

  こうして、肉体的にもっと魅力的な人やもっとちやほやしてくれる人、
  もっと経済力がある人など、別の人を優先し、表面的にはもっと刺激的な生活や
  安楽な生活を送るだろうが、感情的には虚しいに違いない。

             ・・・

Q:本当に約束を果たそうとする人たちはどうなるのですか?
  たとえば、前のケースで拒絶されてしまった人は、どうなるのですか?

A:Bプラン、つまり代替計画は常に存在する。
  ガイド役の霊たちは各人の能力を把握し、その限界が分かっている。

  霊的にはそれほど類似していなくても、エゴのためにではなく、
  感情のために努力する気のある別の人と人生をやり直すことが可能だ。

            <感謝合掌 平成30年3月10日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その40 - 伝統

2018/03/24 (Sat) 11:04:33

《人間関係と「愛の法則」》②(P273~278)

             ・・・

Q:それでは、たとえば、未来の両親がもう転生していて、
  彼らが打ち合わせとは違う選択をしてしまって、それぞれが別の配偶者を
  見つけて最終的に一緒にならなかったとしたら、
  二人の子どもになろうと決めていた魂はどうなるのですか?
  生まれ変わるのを止めるのですか?

A:眠っている間に、魂はほぼ毎晩霊界に戻っているので、
  転生していても、霊的世界から切り離されてはいない。
  他の魂が関わることは、その状態にいる時に決めることができる。

  たとえば、最初に準備した計画とは異なるものの、
  将来子どもになる筈だった魂と、かつての約束を再考することもできる。

  両親になる予定だったどちらの親も引き受けない場合には、
  その魂が子どもとして生まれ変わることに同意してくれる、
  似た特徴を持ったカップルを代わりに探す。

  ガイド役たちは、生まれ変わった後で人間が考えを変えやすいことを
  知っているので、進化の代替プランを数多く用意してくれている。

  こうして、選ばれた環境が、転生前の計画からどんなにかけ離れてしまって
  いても、進化のための選択肢が残るように努めてくれているのだ。

  最初に描いた「ルート」から逸れてしまったら、自分が選んだ道から
  新たな「ルート」を再検索するのだが、目的地は同じである。

             ・・・

Q:約束を果たさなかったことは、魂に影響しますか?

A:一見すれば、その人が幸福への最短距離から逸れてしまったかのごとく、
  否定的なことに思えるだろう。

  しかし、好きな時に考えを変える自由も、味わってみなければ
  自覚できない状況を経験することも、自由意志の一部なのだ。
  それに、ある方法で学ばないことは、別の方法で学べるのだ。

  同じ場所に行き着く道は色々あって、それぞれが異なる選択肢だが、
  体験することと学ぶことは同じなのだ。

             ・・・

Q:転生する魂は、自分の家族や近親者となる人たちを前世から知っていたのですか?

A:それは、色々だ。同じ家族に生まれた人の中に、前世での仲間がいるかも
  しれないし、別のケースでは、同じ家族に一緒に生まれ出るのは初めてかもしれない。

             ・・・

Q:家族構成、つまり、父親や、母親や、兄弟を決めるのは誰ですか?

A:通常は、一緒に生まれるそれらの魂自身が、霊的ガイドの支援や助言を得て、
  相互に合意して決めている。

             ・・・

Q:家族関係は何によって決まるのですか?

A:贖罪や使命など、転生する魂の進化に求められることによる。

             ・・・

Q:進化に求められることがどのように家族構成に影響するのかと、
  贖罪と使命との場合で、どう異なるのかを教えていただけますか?

A:よかろう。兄弟・親・子を問わず家族の構成員が前世の天敵で、憎悪や報復欲や
  恨みに駆られて酷い危害を加えた合った過去を持つ場合がある。

  これらの魂は、血縁から生まれる愛情を奮い起こしてお互いの傷を
  癒すという目的で、一緒に生まれ変わる。

  つまりこの場合は、前世でお互いに傷つけ合い「愛の法則」に反したために、
  彼らの間に清算すべき負債があった訳なので、一種の贖罪となるのだ。

  使命の場合には、魂は帳尻を合わせるために集まるのではなく、
  愛し合っているからであり、より進んだ霊的な目的を果たすために
  助け合おうとして一緒に転生する。

  このような霊的な目的は、進化の遅れている人たちを支援することに
  関係しているが、同時に、自分たちの霊性向上にも役立つのだ。

  この二つの極端なケースの間に、エゴと愛または贖罪と使命とが混在する、
  いろいろな意味合いの中間的な状況が存在する。

  魂は、霊的進化の道程を進んで行くにつれて、支払うべき借りが少なくなり、
  無条件に与えられる愛が大きくなるのだ。

             ・・・

Q:でも、家族関係が贖罪の場合には、逆効果にならないでしょうか?
  つまり、憎しみ合っている人たちが同じ屋根の下で共存を強いられたら、
  虐待・暴力・緊張・口論などが絶えないのではありませんか?

A:共存を強要された訳ではない。自分たちの悪感情を克服するために、
  彼ら自身が霊的ガイドの提案を受け入れたのだ。

  君が言う、虐待・暴力・緊張・口論は、これらの魂がまだ霊的な悪習に
  しがみついており、自己改善をしたくないから起こるのだ。

             ・・・

Q:どちらにせよ、憎み合っている人たちを同じ家族に入れるのは、
  過激な療法に思えますよ。

  それでは、危険な囚人をまとめて同じ独房に入れるようなものではないですか!
  しまいにはやり合いませんか?
  こんな状況から愛が生まれるとは思えません。

A:家族の全員がお互いに仲が悪いとは言っていない。
  たとえば、父親と息子の間で衝突が起こるとか、兄弟間の仲が悪くても、
  他の家族とは問題がないケースだ。

  通常、このような家庭には、より進化した魂が転生し、
  愛情に満ちた行いとはどのようなものであるべきかの手本を示す。

  似たような欠点のある魂が一緒に転生するのは、まさに一方が他方の鏡と
  なるためであり、自分と似た人との共存体験から学ぶためだ。

             ・・・

Q:この経験から学ぶべきことは何ですか。

A:一番大切なことは、我々は皆兄弟だと知ること。
  これは、まさに文字通りだ。
  前世で最も憎むべき人が、次の転生では君の兄弟となり得るのだ。

  一つはっきりさせよう。
  一部の人だけを愛して、その他を憎んでいては、進化はできない。
  憎しみを愛に変えない限り、前進できないのだ。

  だから、憎しみによってしてしまったことを償う必要があるのだが、
  一番苦手で最も借りのある人に償いをするのが理想的なのではなかろうか?

  また、エゴが顕現したものが欠点だが、我々と同じ欠点を持つ他者のエゴを
  認識したり、それを身を持って体験してみることも有益である。

  我々は、隣人の目の中のおが屑が見えるのに、
  自分の目の中の丸太に気づかない傾向にある。

  要は、我々は、特に嫌いな人の欠点には、神経を尖らせているのに、
  それと似ていることが多い自分自身のものは見ようとしないのだ。

  他者の我がままのために実際に苦しんでみれば、
  欠点がどう影響するのかを体験できるので、
  欠点を自覚でき、それをなくすべきだと考えるだろう。

            <感謝合掌 平成30年3月24日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その41 - 伝統

2018/03/31 (Sat) 12:58:35

《人間関係と「愛の法則」》③(P278~285)


Q:人間関係のテーマに戻りますが、
  どういう理由で二人の人がカップルになるのでしょう?

A:愛によって、霊的な進化の必要性によって、あるいは執着によって。
  最初の二つの理由は、霊的な判断に従ったもので、転生以前に取り決められる。

  最後のものは、転生してしまってから本人が選択するもので、
  霊的というより「現世的な」理由によって決められる場合が多く、
  転生以前に交わした魂の約束が何度も変更される。

             ・・・

Q:これらの結びつきの種類による違いを説明いただけますか?

A:最初のものは、愛情の結びつきと魂の類似性によるものだ。

  霊的な進化のための結びつきは、互いの学習上の必要性によるもので、
  通常、課題が残っている魂の間や、特定の欠点・美徳に共に取り組むことで
  霊的に向上し得る魂の間で見られる。

  三つ目の執着による場合は、肉体ままたは性的な魅力、
  二人の知的あるいは物的な目標が似ていること、物質的な必要性、
  愛情の欲求、それに一緒になる者同士の便宜や義務などによって結びつく。

             ・・・

Q:子どもたちの転生が、霊界で決められることは理解できるのですが、
  二人がカップルになるというな決定は、生まれ変わった後に、
  いつも物質界でなされるのではないでしょうか?

A:確かに最終決定は転生してからなされるが、見ず知らずの二人が、
  何十億という人の中で出会うというのは、どれほどの確率だろうか?
  偶然であろうか?

  その環境が整うには、つまり、特定の人たちが出会って知り合う機会が
  できるには、無数の状況が重なる必要があり、
  実はこれが霊界で調整されているのだ。

  それに、自分の人生において、ある人が重要な人になると予感できるのは、
  前世の記憶からの感覚によるのだ。

             ・・・

Q:お話から推察すると、
  各転生で違うパートナーになるかもしれないのですね。

A:もちろんそうだ。君たちの進化レベルの世界ではそれが普通であるし、
  おまけに多くの場合、霊性進化のために変える必要があったり、
  前世の行為の結果として変わることがある。

             ・・・

Q:どういう意味ですか?

A:霊的に完全に似通った双子の魂(ツインソウル)の場合でも、
  愛よりも欠点が勝ってしまって、それを認識も修正もしたくなければ、
  一時的であるにせよ、別れてしまうこともある。

  人は、失ってから初めて大切なものに気づくことがあるからね。

  そうして、次生では余り似てはいないが、
  悪習を修正するために役立つ人を相手に選ぶことになる。

  君たちの世界では、大半の人が内面をほとんど気にかけていないので、
  愛によって結びつくカップルは非常に少ない。

  大多数は、物的または情緒的な必要性や便宜、性的な魅力などによって
  一緒になり、魂の要請に従って結びつく者はごく一部だ。

  魂がエゴの大部分を取り除き、魂が気持ちと一致している進化した世界では、
  大半の結びつきが愛に基づくものだ。

  それは、類似する魂同士が相手を見間違えることがないためであり、
  物的な欲望がどれほど満たされようと、相互の愛情ほど幸せを感じさせて
  くれるものはない、と知っているからだ。

  その世界では、私欲によって相手を選ぶ男女は皆無だし、
  双子の魂ではないカップルには滅多にお目にかかれない。

             ・・・

Q:「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」という
  有名な言葉があるので、世間では、ただ一人だけを伴侶にすることが
  最も霊的だと思われてきました。

  それなのに、あなたは、多くの相手を持つのが「普通」で、
  霊的にも有益となり得ると言われました。
  矛盾するのではありませんか?

A:愛の絆と結婚の絆とは別物なのだ。


  ある程度の時間が経つまでは夫婦にははっきり分からないものの、
  地上の90%の結婚に真の愛は存在しないのだ。

  だが、一枚の紙に署名してしまったために、
  どうやら人には、考えを変える権利がないようだ。

  自分たちの関係を感情に基づいて選ぶようになれば、
  進化した世界のように、君たちの関係も永続的なものとなろう。

  しかし、その世界で二人を結びつけているものは、義務ではなく、
  愛情なのだと知らねばならない。

  人には誰もに、相手を選ぶ自由と同じく、
  自分で決意するなら別れる自由があるし、
  自己の決定については誰にも言い訳をする必要がない。

  はっきりさせておきたいのは、
  二人を結びつけるものは相互愛であるが、
  それぞれが個人の自由を完全に保持しているということだ。

  司祭の前であろうと宗教遺物と花で飾り立てられた祭壇の前であろうと、
  サイン入りの契約書では結びつかないのだ。

  そのようにして二人を結びつけているものは神ではなく、
  君たちが作り上げた法律や習慣によって、
  君たち自身がそうしているのに過ぎないからだ。


  神が本当に与えてくれたものは、愛せる能力と、
  愛を体験して幸せになるための双子の魂であり、
  自らの運命を決定できる自由だ。

  だが、君たちの世界では、愛情で結びつく僅かな夫婦も、
  まだそれぞれの我欲を克服する必要がある。
  多くの場合に我欲が勝ってしまい、感情を押さえつけるからだ。

  それゆえ、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはならないん」
  という常套句は、真の幸福を体験したい者の助言となり得る、
  「愛が結び合わせたものを、我欲が引き離してはなりません」という
  より適切な文言に置き換えられるだろう。

             ・・・

Q:それでは、霊的な観点からは、離婚は肯定できることなのですか?
  キリスト教の大半が離婚に反対なので、いつも悪いことなのだと
  思ってきました。

A:宗教と霊性とは異なるものだ。

  誰と一緒にいたいか、またはいたくないかを選ぶ自由があるのは、
  いつも良いことだ。自由意志を行使できるので、肯定的なことだ。
  霊界は、いつも自由意志の味方なのだ。

  ただ紙に署名をしたというだけで、なんの愛情もない相手といることを
  強制したり、好きであっても、何らかの理由で一緒に暮らすことが
  不可能な人を強要することは、自由意志の侵害となる。

  君たちは、夫婦になるということは、自由意志の一部を放棄することだと
  まだ思い込んでいるが、そうではない。

  たとえば君たちは、結婚したり同棲すれば、絶対に果たすべき義務で
  あるかのように、相手と性関係を持たねばならないと思っているが、
  それは違う。

  人は、嫌だったり望まないのであれば、ただ結婚しているという理由だけで、
  性関係を義務づけられたりはしない。
  また、単に性関係を持ったというだけで、その相手と一緒になる義務もない。

  さらに、どんな状況で一緒になったにせよ、
  自分にない気持ちを感じなければならない義務もない。

  そして、これが一番重要なのだが、そのために罪悪感を覚える必要はない。

  感情とは強制されるものではなく、自発的に湧き出なければならないのだ。

  霊的な観点からは、全ての上に自由意志があり、
  他のあらゆることに勝るのだ。

  執着を手放さない限り、愛の至福を味わえはしない。
  愛にとっての執着とは、鳥にとっての鳥かごなのだ。

             ・・・

Q:性関係を持つ人たちが、愛し合っているからではなく、
  単に愉しいひと時を過ごしたいのであれば、
  何らかの霊的な法則に背くことになりますか。

A:いや、その人たちが自由にそう選択したのであれば、全く問題とならない。

  ただ魂は、進化すると性関係以上のものを期待し、
  ただの肉体関係だけでは満ち足りなく虚無感を覚えるものだ。

  しかも、お互いに性的に惹かれ合っても、魂の類似性がなく
  内面の気持ちがなければ、単に性関係だけの結びつきでは、
  しまいには飽きてしまう。そのため、長続きしないことが多い。

  続いたとしても、二人の絆はとても弱いものなので、
  不安定な関係となり、いざこざが絶えないことだろう。

  魂が成長していくにつれ、性関係は、本能という生物的な欲求から、
  気持ちを表現する手段へと変わる。

  原始人の性は、基本的に本能的なものであり、好きでもない人と性交しても、
  まだ感情がほとんど発達していなかったために、
  空虚感を覚えることもなかった筈だ。

  愛の能力の高い進化した魂ならば、
  本能を満足させるだけの性関係には、大きな虚無感を覚えるだろう。
  進化した魂にとっての性的関係は、親密な愛情表現なのだ。

  性関係を持つ魂が、霊的に似ていて互いに愛し合っている場合には、
  その深い愛情が、性関係にも反映される。

  肉体の交歓と共に、お互いのエネルギーが交流し、
  活力を与え満たし合うのだが、これはアストラル体・メンタル体・霊体が
  交わることから生じるのだ。

  それに反して、完全に性的な関係、つまり、性行為に及ぶ男女が双方ともに
  愛情を感じていない場合は、肉体が満足しても、
  アストラル体・メンタル体・霊体などの精妙な体の交じわりに欠ける。
  その結果、虚無感と不満感がもたらされるだろう。

  進歩した世界では、一緒になろうと魂を奮い立たせるものは、
  純粋に内面に感じる愛だけで、その他の理由で二人が結びつくことは、
  極めて稀である。

  また、そこでは洞察力が非常に発達しているので、地球で良くある
  ケースのように、外見に惑わされたせいで思っていた通りの人と違って、
  後で騙されたり失望したりすることがない。

             ・・・

Q:性の問題をどう解決できますか?

A:君たちの性の問題は、その大半が、ほとんどなんの愛情も感じない人と
  性関係を持つということに由来している。

  君たちは、まだ肉体の部分しか見ておらず、性の悦びの最たるものは、
  肉体的に非常に魅力的な人と関係を持つことだと思い込んでいる。

  大多数の人は感情面を認識しようとはせず、
  霊的に似ている愛する人と一緒にならない。
  そのため、愛情がないことから問題が生じる。

  内面が満たされたと感じられないことが問題なのだ。
  愛のない性関係を持つことで一番苦しむのは、進化した魂だ。

  愛情がないことが問題なのだと気づき、気持ちに従って行動すべきだと
  認める代わりに、同じように愛のない別の人との体験を求め続けたり、
  セックスを魅力的にしようと色々な要素を加えてみるが、
  相変わらず虚しいのだ。

  こうして、感情でしか埋められないものを、
  物質で埋めようとするので、悪循環に陥るのだ。

             ・・・

Q:それなら、映画で見る関係のように、
  ロマンチックな愛は、僕たちの世界には不足しているのですか?

A:この場合は男女の愛のことだが、
  問題は、愛というものの君たちの概念が、
  霊的な視点からの愛から歪められていることだ。

  君たちが誤って「情熱的」な愛とか「ロマンチック」な愛と呼ぶ、
  強い肉体的な魅力からの関係は少なくはない。
  それは、花火の光のようで一瞬は強烈だが、その後は完全に消えてしまう。

  そのため、物的な調味料で感覚を過剰刺激(高価なレストランでのディナー、
  豪華なプレゼント、五つ星ホテルのスィートルームでの一夜、楽園のような
  島でのバカンス)して、なんとか継続させようと無駄な努力をする。

  そしてこれら全てを、君たちはロマンチックな愛と呼ぶが、
  実際には、ひと度性欲が満たされるやだんだんと薄れていく、
  強い性的魅力を指しているに過ぎない。

  情熱に関しては、多くの場合、愛とは何の関係もなく、
  誰かを所有したいという満たされぬ欲求であり、
  我々が執着と呼ぶところのエゴが顕現したものだ。

  人は物ではないので、所有できないし、本人以外の誰にも属さない。

  愛することと所有したいこと、愛と執着とを、混同してはならない。

  はっきりさせておこう。 誰かを愛するように強いることはできない。
  愛が自由でないならば、それは愛ではないのだ。

  感情は強要することができない。
  感情は提言・操作・強要・命令に従わない。

  愛されたいのであれば、何の見返りも期待せず、無条件に愛することだ。
  そうすれば、いつか、「原因-結果の法則」が、
  与えたものをもたらすだろう。


  (以上で、第四の法則: 「愛の法則」(人間関係)、終了です。
   次回は、『「愛の法則」からみた病気』の項に入る予定です)

            <感謝合掌 平成30年3月31日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その42 - 伝統

2018/04/07 (Sat) 13:07:53


《「愛の法則」から見た病気》①(P286~291)

Q:肉体的な病は、特定の感情やそれを抑圧することと関係がある、
  と何度も言われましたが、それを掘り下げてみたいのですが。

A:そう、感情を黙殺してしまったがために魂が病気になった人は多く、
  魂が病気になると、肉体も魂と緊密に結びついているので、病気になってしまうのだ。

            ・・・

Q:肉体的な病気が、感情面に起因しているのですか?

A:その通りだ。君たちの世界では感情を抑圧することが、
  精神的にも肉体的にも病気の最大の原因となっている。

            ・・・

Q:精神病に関してならそれに同意できるのですが、癌はどうでしょうか?
  癌は遺伝子の異常で起こる、と科学的に証明されませんでしたか?

A:遺伝子の異常は癌の全てのケースに認められるが、
  多くの場合、それが最初の要因ではない。

            ・・・

Q:では、最初の要因は何ですか?

A:話した通り、原因は精神的なもので、霊的内面を抑圧したことと関連がある。
  人は感情に従って生きて行動しなければ、内部に深い不快感が生じて苦しむ。

  それが、怖れ、憤り、憎しみ、悲しみといった精神的に有害な
  「エゴ的感情」を生み出し、それらが病気の原因となってしまう。

  人生で直面できないような困難な状況に出くわして、気持ちが滅入ることがある。
  そのような場合を感情的トラウマと呼ぶとしょう。

            ・・・

Q:感情的な不快感はどのように肉体に影響し、最後に病気となってしまうのですか?

A:精神的に調子が悪い時には、霊体とメンタル体との間でショートが起きていて、
  それがエネルギー体(アストラル体)に伝達されると構造を乱して、
  波動を下げてしまう。

  この「エネルギー低下」は、送電系の一部が停電したように、アストラル体の
  特定の箇所に支障をきたし、そこと繋がっている身体の部分にきちんと
  活力を与えられなくなってしまう。

  こうして生命エネルギーが不足して活力をなくした領域が、身体の残りの部分と
  連動しなくなり、その結果、活力を失った細胞組織は、他と調和して
  機能できなくなってしまう。

  エネルギーの供給が途絶えると、通常の細胞機能はその影響を被り、
  遺伝子異常が起こり始め、細胞が破壊されて進行性の病となったり、
  細胞が制御不能なほど増殖し始めて癌を発生させたりする。

            ・・・

Q:この話は、アストラル体について話していた時に推薦して下さった、
  物理学者バーバラ・アン・ブレナンの著書、「光の手」と「癒しの光」
  (ともに河出書房新社)の中で、病気について書いてあったことを思い出させます。

  彼女によると、精神的もしくは感情的な問題は、暗いまたはくすんだ色合い
  の部位としてアストラル体に現われ出て、その原因は、当事者が抱いていた
  否定的な考えに根づいているとのことです。

  これが消えずにアストラル体に留まってしまうと、当人の肉体にも遅かれ早かれ
  それが顕現して、病気を引き起こすのだそうです。

  それでは、これは正しいのですか?

A:まさにその通りだ。

            ・・・

Q:新ドイツ医学を宣言したドイツの医師、ライク・ゲールト・ハマー
  (Ryke Geerd Hamer)の推論も思い出されます。

  ハマー医師によれば、癌やそれと同等な病気は全て、独りで経験しなければ
  ならなかった極度の感情的トラウマから発症するそうです。
  そして、トラウマの種類によって、癌が発生する器官が異なるそうです。

  それに、感情の葛藤があると先ず脳に影響して、そこで一種のショートを起こし、
  それから、その脳の部位に対応していた肉体領域が病気になるとのことです。

  また、原因となった感情的トラウマを解消すれば病気が治る、
  と主張しているのですが、この医師の言っていることは正しいのでしょうか?

A:100%ではないが、彼が言っていることはかなり正しい。
  全ての病気が感情的葛藤から生まれる訳ではないのだが、大半はそうなのだ。

            ・・・

Q:では、感情の葛藤を解消すれば病気を治せる、ということについてはどうですか?

A:それは正論だが、葛藤を解決できるためには、
  本人にかなり深い変化が起こらねばならない。

  「エゴ的感情」にしがみついたままで、感情を抑圧し続ければ、
  一つの病気が治っても、また別の病気になる。

  それは、特定の葛藤を解消できたとしても、
  同じような「エゴ的感情」を引き起こす別の葛藤が再び現れてしまうからだ。
  こうして病気の根本的な原因に行き当たる訳だ。

  本当に病気を発病させる原因とは、エゴとその顕現形態なのだ。

  そして、治癒効果があり健康にするのは、愛とそれを表現することなのだ。
  これは、確実に断言できることだ。

            ・・・

Q:しかし僕たちには、大なり小なり、そういうことが起こるのではないでしょうか?
  つまり、ほとんどの人に、憤りや悲しみや攻撃欲を目覚めさせて不機嫌にさせる
  ような物事が、人生では色々と起こるのではないでしょうか?

  僕は、感情の抑圧についての説明がかなり自分に当てはまると思いましたが、
  癌に罹っていないのはなぜでしょう?

A:確かに、君たちは時々病気になるのだが、癌のように本当に重い病に罹るには、
  感情的な不快感に「囚われて」いなければならない。

  囚われるというのは、不快感が恒常的な固定観念に変わり、
  「エゴ的感情」に支配されるがままとなり、
  相当長い期間そのままの状態でいるという意味だ。
  長いこと、眠りの妨げとなる場合もある。

  また、そういう感情を発散させたり表現する、全ての手段を抑制した場合である。

            ・・・

Q:では、癌になり易い性格というのがあるのですか?

A:そうだ。「エゴ的感情」(憤り・憎しみ・悲しみ・怖れ)に流される人と、
  感情の授受や表現が抑圧されていると感じている人だ。

            ・・・

Q:それなら、病気は、物事に正しく対処しなかった罰だという結論になりませんか?

A:罰ではなく、内的な感情的苦痛の結果である。
  病気を生み出すのは当人であり、癒せるのも当人である。
  そのために、魂の本当の姿を抑圧せずに表明して、
  エゴから愛へと自分自身を変化させるのだ。

            ・・・

Q:でも、もう苦しんでいるのに、そのような重い病になることには、
  どういう意味があるのですか?
  苦しむだけで充分ではないですか?

A:肉体の不快感は、内面の不快感の反映だということに気づくことだ。
  この場合、肉体的な病気は、当人に内面の病を気づかせ、
  変化を促すためのアラーム音のように作用している。

            ・・・

Q:でも当人が、肉体的な病気が内面の病と関係していると
  連想できなければ、どう自己変革できるというのですか?

A:肉体的な病気は、内なる魂を出現させまいとする頭脳の防壁を弱めるので、
  自己の感情のみならず、他者の感情や苦悩についての感知力が高める。
  そして、これが、人に変化を促すのだ。

            <感謝合掌 平成30年4月7日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その43 - 伝統

2018/04/14 (Sat) 10:31:56


《「愛の法則」から見た病気》②(P291~293)

Q:自分が変われば、病気は治るのでしょうか?

A:大半は治るが、全てのケースがそうではない。
  肉体レベルで修復不能な病害もあるのだ。

            ・・・

Q:治らない人たちは、死んでしまうこともあるのですか?

A:そういうことになる。

            ・・・

Q:自分を変えても治らずに、どうせ死んでしまうのなら、
  病気にどういう意味があるのですか?

A:霊的視点では、肉体の命は本当の命のほんの一瞬に過ぎず、
  肉体の死は終わりでも悪いことでもなく、
  より制限のない別次元への移行期だということを思い出すのだ。

  病気は、人がより高次の理解・愛・叡智へと進歩するために役立つ手段なのだよ。

  すでに述べたように、
  肉体の病は、内面の感受性の表現を妨げる頭脳の障壁を弱めるので、
  実のところ、進化に寄与するのだ。

  人が、愛における進化で成し遂げた変化は、失われることがない。
  どこに行こうと、自分と一緒に持って行ける。
  これは、人生で得られるものの中では、最も貴重なものだ。

  生涯を通しての目標に掲げることができ、もしそれを達成できたとしたら、
  魂は自分の仕事に満足して、穏やかに霊界に戻ることができるのだ。

  実際、自分の魂に成し得た変化だけが、死ぬ時に持って行ける唯一のものだ。
  なぜなら、物的な成果は全て、物質界に残るのだ。

  イエスの次の言葉はこのことに言及しているのだよ。

  「自分の宝を地上に積むのはやめなさい。
  そこでは、虫とさびでキズ物になり、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。

  自分の宝は、天に蓄えなさい。
  そこでは、虫もさびもつかず、盗人が忍び込んで盗むこともない。
  自分の宝のあるところに、自分の心もあるからだ」(マタイによる福音書6章19~21節)

            ・・・

Q:でも、死んでしまったら、学んだことをどう実践できるのですか?

A:魂は体に宿っていようと離れていようと、生き続けるのだと気づくのだ。
  どちらの場合でも、学んだことは魂の一部となり、継続して進化していく役に立つ。

            ・・・



Q:でも、家族や愛する人たちはどうなるのですか?
  過酷な病気になって、必死に頑張って自分も変えたというのに、
  その愛する人も失ってしまうのは、ショックが大き過ぎやしませんか?

A:病気であろうと自然死であろうと、愛する者たちとの別離は一時的なものだ。
  向こう側では、我々は皆、愛する者と再会できる。

  物質界に生まれ出る時には、その転生で一緒に生まれ出ない愛する者たちと、
  同じように別れてやって来る、と気づきなさい。

  彼らにとっては、それはトラウマとはならない。
  一時的な別離だと分かっているし、生まれ変わる魂は霊的に進歩するために
  そうするのだと理解しているからだ。

  そのため彼らには、君たちのような喪失感はない。

  君たちが、生命は決して尽きることがなく、肉体の死は終わりではなく
  霊的次元への移行段階に過ぎないと会得できれば、愛する者が死ぬことで
  生じる問題やトラウマや落胆の多くのものが、消え去ることだろう。

            ・・・

Q:自分の葛藤を解消できずに、病気のせいで死んでしまう人たちはどうなのですか?

A:試練を乗り越えて自分に打ち克つために必要だった変革を実現できなかったので、
  霊的に停滞してしまうだろう。
  彼らは霊的に超越する戦いで「匙を投げた」のである。

  つまり、霊的に進歩できそうになかったので、
  彼ら自身が霊界へ戻れるようにしたのだ。

  次回の転生では、同じ試練を携えて来て、それを乗り越えようとするであろう。

            <感謝合掌 平成30年4月14日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その44 - 伝統

2018/04/21 (Sat) 10:05:58


《「愛の法則」から見た病気》③(P293~296)

Q:病気の原因の話に戻りますが、表面上は、何の感情的な葛藤もなく
  比較的幸せなのに、癌のような病気を患う人がいませんか?

  それに、感情的トラウマを体験するほど充分な自覚がないのに、
  先天的な病気を持って生まれる子どもについてはどうなのですか?

A:いい質問だ。生まれたばかりの子についてだが、魂は胎芽に結びついた
  時点から、周囲で起こるすべての事や母親の気持ちを感知できるので、
  妊娠期に感情的トラウマを経験しやすく、
  それが肉体的な病気の発症原因となり得てしまう。

  しかし、どんな感情的トラウマとも関係のない病があるのは確かだ。
  したがって、感情的トラウマが全てのケースの要因とは言えない。

  遺伝的要因を持つ先天性の病と呼ばれるものがそれに当たるが、
  他の病気の原因は、感情要因と遺伝的な性質が組み合わさったものである。

            ・・・

Q:先天性の病気の場合、何がその原因ですか?

A:前世での行ないに原因がある。
  病気は、エゴに駆られて犯した、「愛の法則」に反する行為で貯まった
  負債を清算するための試練なのだ。

            ・・・

Q:言われることが分かりません。
  病気が過去の行ないとどう関係するのですか?
  病気をどのように前世から他生へと繰り越すのですか?
  もう少し教えていただけますか?

A:人は「愛の法則」に違反すると、「霊的な作用と反作用の法則」により、
  その行為が心理的毒素となって魂に浸透し、振動レベルを下げ、
  その様相を乱してしまう。

  波動低下に呼応した乱れは、しまいには、
  メンタル体や将来の肉体の型となるアストラル体などの、
  より濃密な体を変化させてしまうのだ。

  転生時に、まだアストラル体が乱れたままだと、
  肉体の遺伝子コードに変異を起こしかねず、先天的な病気を引き起こす。

  だから、たとえ前世のものであろうと、
  病気の要因がエゴであるというのは、やはり正しいようだ。

            ・・・

Q:でも、継承すると分かっている遺伝的変異、
  つまり、両親の遺伝子を受け継ぐための変異もありますよ。
  だから、転生者のアストラル体が原因のようには思えませんが。
  これに関してはどうでしょう?

A:両親からの遺伝で受け継いで、特定の病気になり易くなるというのは、
  極めて確かなことだ。

  だが、転生する魂は、その状況を知っていて同意したのだよ。

  肉体または精神の障害が、前世の行為の結果であり、
  通過すべき試練だと知っているのだ。

  これはまた、過去に、そのような状況を経験することを
  過去に同意した両親にとっても、試練となる。

            ・・・

Q:本人や愛する人がこのような状況を経験している人に、
  こんな話をしても、受け容れはしないと思いますよ。
  「こんな目にあうなんて、僕らは一体何をしたんだ」
  と考えるに違いないでしょう。

A:そういうふうに考えるのが普通だ。
  なぜなら、総括的に理解するには、
  誕生以前に前世が存在していたことや、魂がその時に以後の転生で
  直面する状況を創り出したことを、認める必要があるからだ。

  生命はその人生の後も存続するので、
  病気も結局は一時的な状況に過ぎない。

  その一時の経験からは、愛の学びを積むことができ、
  病気はそのためのものなのだ。

            <感謝合掌 平成30年4月21日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その45 - 伝統

2018/04/28 (Sat) 11:24:00

《「愛の法則」から見た病気》④(P296~298)


Q:先天的なもの・事故のような状況的なものを問わず、普通の生活を営む上で
  妨げとなる、精神または肉体の障害を持った子どもや家族のいる人には、
  どう声をかけられますか?

A:普通の子に接するように振る舞いなさい。実際、普通の子どもなのだ。
  外見で判断してはならない。肉体の奥底に、皆と同じような魂を見出すだろう。

  その子、その愛する者の中に、
  不完全な肉体を見るのではなく、完全な魂を見るのだ。
  そしてその魂の通りに、完全な存在として扱ってあげなさい。

  不具合な衣装の下には、健全な肉体の人と同等かそれ以上に力強く生き、
  感じ、気づくことのできる人がいるのだ。


  音楽を理解している者ならば、音楽は楽器が奏でるのではなく、
  それを弾いている音楽家の心で生まれるのだ、と言うであろう。

  ヴァイオリンが未調弦であったり壊れていても、
  弾き手自身が演奏できない訳ではないし、一時的に思い通りに弾けないだけで、
  手元の楽器がどのように調弦されているかに関わらず、
  自分の音楽の才能を伸ばすことができるのだ。

  それと同じように、楽器となる肉体が一時的に調子外れたからといって、
  愛という心の曲を聴き取り、それを表現する可能性を魂から奪ってはならない。

  普通の子どもに接するように、その子に話しかけたり、気持ちや愛情を表して
  伝えたりすることが、不毛な努力だと思ってはならない。

  人は、肉体の感覚によって感知できなければ、魂の感性を介して感受するのだ。
  特に愛の行為に対しては、もっとずっと感受性が強い。

  健康人の反応をしなくても、感じていない訳ではなく、その子の身体が、
  魂が望むがままに物質界で表現することを妨げているだけだ。

  その子のために心からしてあげることで、無駄になるものは何もない。

  霊界では、愛のためや愛を抱いて行なうことで、失われるものはないのだ。


  すでに言ったが、繰り返しておこう。

  肉体的または精神的な障害は一時的な状況で、
  それはひと度 肉体が消滅するや、終わることだ。

  だが、その体験を通して、当事者や周囲の人びとに生まれ根付いた感情は、
  魂の糧となって永続する。

  そして、それが真に大切なことなのだ。

            ・・・

Q:でもそれによって、何を学べるのですか?

A:自他の苦悩に敏感になれる。
  おそらく前世では、今苦しんでいる人たちが、
  他者に同様な苦しみを与えていたのだが、
  自分がどれほど傷つけていたのか自覚しようとしなかっただろう。

  愛への第一歩は、他者も自分と同じ感情を持ち、
  自分が苦しむのと同じことで苦しむのだと認識することだ。

            ・・・

Q:先天性の病気に霊的な意味があるとしたら、それは何でしょうか?

A:このケースでの病気は、魂が高次の霊的進化を遂げる妨げとなる心理的毒素を、
  肉体に転写するプロセスなのだ。

  肉体は病気になることで、その毒性を緩和し、吸い取りスポンジのように吸収し、
  毒素の除去に貢献する。

  つまり、魂は毒素を肉体に渡し、肉体は汚れをふき取る雑巾のような働きをする。
  この「汚れ」が肉体レベルでの病気の要因であるが、
  病気は、排水システムのように、より精妙な霊体を清めるために役立つのだ。

  また、人生の最後で、この排水システムを利用して毒素を一気に洗い流そうと、
  病気になることを選択する魂もいる。

  つまり、生涯で重い病を患わなくても、肉体との分離の時が近づくと
  肉体は不要になるので、霊体に蓄積されていた心理毒素の一部を
  肉体に転写するために利用して、浄化しようとする。

  このようなケースは頻繁に見られ、この場合には死を妨げようと
  どんなに頑張ってみても、全く効をなさない。

  なぜならそれは、現在進行中の感情的な葛藤とは無関係で、霊的な浄化だからだ。

            ・・・

Q:魂が「愛の法則」に違反すると、次の転生で病気にならされるのですか?

A:いや、そうではなく、心理的毒素を除去する方法は幾つかある。

  悪かったと反省することを愛の行為で償っていけば、
  病気を体験することなく、魂の毒素を取り除ける。

  だから先ほど、病気の原因がエゴであれば、
  愛が諸悪の解毒剤と処方箋になる、と言ったのだ。

  したがって、必ずしも病気になって毒を消散させる必要はないのだが、
  それが一番手っ取り早い方法なので、多くの魂がそう選択するのだ。

  明らかなのは、毒素の負荷を取り除くために何かをしない限り、
  それは残存してしまい、より高次の愛と幸福へと魂が進むことを
  阻止してしまうということだ。

            <感謝合掌 平成30年4月28日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その46 - 伝統

2018/05/05 (Sat) 09:46:40


《「愛の法則」から見た病気》⑤(P298~300)



Q:感情要因と遺伝的な性質が組み合わさった病気もあるのですよね。

A:その通り。


Q:もう少し説明いただけますか?

A:特定の試練に立ち向かうために生まれて来た魂は、
  物質主義に流されて転生の目的から外れてしまわないために、
  病気を記憶の喚起剤として利用する。

  つまり病気は、ドライバーに車線を逸脱したことを警告する路肩の
  ランブルストリップス(訳註:主に路外逸脱防止を目的とし、
  道路両端に施工された液状の舗装)であるかのごとく、
  魂が事前計画から逸れてしまった場合にだけ起動する。

  同じ状況でも重病にならない人がいる一方で、
  遺伝的な性質で特定の病気になり易い人は、アラームが鳴りやすいのだ。

  言い換えれば、それほど強くない感情の刺激でも、
  病気を誘発させるには充分なのだ。

            ・・・

Q:病気の原因が、今生の感情トラウマの場合には葛藤を解消することで治癒できたり、
  浄化の過程であれば先天的な病で治らないことがあるのなら、現在用いられている
  薬学療法は、たとえば癌などの場合で、何かの役に立つのでしょうか?

A:現在の治療法、つまり、化学療法と放射線療法は、
  細胞の増殖という症状をなくそうとするが、
  病気の原因には作用しないので、病気を回避することはできない。

  また、遺伝子を損傷してしまうので、細胞を酷く傷つけ、
  多くの場合にそれが永続して再生不能となる。

  君たちは、癌が遺伝的変異に因(よ)ると思っているのに、
  どうして変異を誘発させる薬をその治療に用いるのか、理解に苦しむよ。

            ・・・

Q:薬は悪いのですか?

A:全部がそうではないが、攻撃性が過ぎるものは、
  効用よりも弊害をもたらすので良くない。

  特定の場合には、抗炎症剤やコルチコイドや、
  ある種の免疫調整剤などは有益である。

  薬学を正しく適用すれば、人生に病が訪れる際に、
  健康を回復するために役立ち、治癒を可能にする。

  また、治るの見込みのない病でも、
  症状を和らげ、生活の質を向上させる助けとなる。

            ・・・

Q:では、薬学治療をして、癌が治る人がいるのはなぜですか?

A:治ったとしたら、原因となった感情面の問題を解消できたからか、
  実は良性だったからで、症状を排除したためではない。

  感情的または霊的な毒素が残留すると、
  最初に冒された組織を切除していれば近部になるかもしれないが、
  癌は別のところに再発してしまう。


            ・・・

Q:癌を治すために有効な、肉体上の助言がありますか?

A:質素な菜食主義とビタミンを多く摂ること。
  異常細胞の除去に身体が専念できるように、休息を多く取り、平穏でいること。
  身体器官を傷めずに回復できる、身体にやさしい治療法を使用すること。

            <感謝合掌 平成30年5月5日 頓首再拝>

第四の法則: 「愛の法則」~その47 - 伝統

2018/05/12 (Sat) 10:13:26


《「愛の法則」から見た病気》⑥(P300~308)


Q:お話のように、「エゴ的感情」が残留することによってアストラル体が力を失い、
  それが長期的には肉体的な病気を誘発するのだとしたら、健康を回復するために、
  アストラル体をエネルギー的に綺麗にすることは可能でしょうか?

A:可能だ。特定の運動(ヨガ)をしたり、人がパイプとなってエネルギーを供給
  (レイキなど)したり、生体エネルギー発生器などによって、悪い流れを
  取り去り活力を与えることができる。

  エネルギー治療は、アストラル体レベルに作用し、疲弊したエネルギーを洗い流し、
  そこに新しい活力を供給し、気の流れを修復する。

  生体エネルギーを用いた治療は、病気の回復を促したり、
  症状を緩和させることに貢献する。

  だが、エゴ的な感情を放棄できなければ、アストラル体の乱れが再発し、
  その結果、肉体の病も再び出現することとなる。

  それゆえ、霊体・メンタル体・エネルギー体・肉体を総合して、
  治療に取り組むべきである。

             ・・・

Q:レイキとは何なのでしょうか?

A:レイキとは、宇宙の生命エネルギーを利用する自然療法の一つで、
  肉体的・精神的な病気の治癒に役立つ。

  レイキは、宇宙的生命エネルギーを意味し、
  それを発見した日本の先駆者に命名された。

  現在ではその名前で有名になってはいるが、
  健康改善を目的としたエネルギーの授受は、
  何千年も以前から、磁気やプラーナなどの様々な名称の下に行われてきた。

  それは、「奇跡の癒し」と呼ばれたイエスの手かざしのことなのだ。

             ・・・

Q:レイキは何を基本としているのですか?

A:レイキのセッションは、不快感や病を緩和したり除去するために、
  送り手またはパイプ役となる人が、自分の手を通して、
  生命エネルギーを受け手に伝達するのが基本だ。

  受け手となるのは、自分自身でも他者(人・動物・植物)でも良い。

  レイキは、アストラル体でのレベルに作用し、
  エゴ的な感情に起因するエネルギーブロックのとり除くのに役立つ。

  だが、外傷または中毒など、完全に肉体的な原因による不調の場合には、
  損傷を受けた部位の気の流れを再動させ、痛みを緩和し、体組織の再生を促す。

  アストラル体の構成気の流れやチャクラについて知り、
  感情的な問題と影響を被る肉体箇所との関係を理解すると、
  正しい位置に手を置けることになり、
  損傷を受けた部分の気の流れを再生できる。

             ・・・

Q:でも、癒しのエネルギーは、どこから出るのですか?
  送り手からです、宇宙からですか?

A:生命エネルギーは、宇宙のあらゆる場所に存在し、レイキの担い手は、
  それを必要としている人に集中してエネルギーを向けようとする。

  時々、送り手となる人が周囲からエネルギーを結集できなかった場合に、
  自分自身の生命エネルギーを譲り渡してしまうことがある。

  また、霊的な存在にエネルギーの伝送を手助けしてもらっている人も多く、
  その人の能力がずっと高められる時もある。

  この場合は、意識の高い仕事は霊的な存在たちが行っており、
  レイキの送り手は、癒しの魂たちが肉体とエネルギー体に近づけるための
  媒体として機能する。

             ・・・

Q:人が自分自身のエネルギーを与えてしまうについては、
  どんな理由があるのでしょうか?

A:過度に力を投入する、集中力の不足、リラックスできていない、
  私心なく助けようとしていない、精神的・肉体的な悪習、などが原因だ。

  レイキのセッション中に以上のようなことがあれば、送り手は疲れきり、
  エネルギーが不足し、受け手の不快な症状まで自分で感じてしまったりする。

             ・・・

Q:レイキができるようになるためには、何が必要ですか?

A:レイキが効力を発揮するために最も重要となるのは、
  送り手が、仲間を助けようとする意志を持つことと、
  愛を実践して自分のアストラル体の波動を高めることだ。

  積極的にエネルギーを受け取ろうとする受け手の姿勢も大切だ。
  その人がどれだけ素直に信頼することできるかどうか、によるからだ。

  受け手が、レイキに効き目がある筈がないと思ったり、
  送り手を信用していなかったり、エゴを捨てて愛をとる自己変革をする意志がなく、
  エネルギーを拒否すれば、その人のチャクラは閉じたままで、
  送り手にどんなに力があろうと、気は流れない。

  ラジオ放送と似ているのだ。
  番組を聴くためには、強い信号を放つ優秀な発信機が必要だが、
  受信機をつけて正しい周波数に調整するのも、同じように大事だろう。

  その後は、スポーツと同じで、継続して練習することで、回を追うごとに
  エネルギーの伝達能力が高まり、もっと大きな波動になる。

  非打算的に助けようとする意志があれば、いつも最善の結果を得ることができる。

  さらに、肉体を浄化させれば、エネルギーが身体を通過する際に、
  波動が低下してしまうこともない。

  そのためには、菜食と、身体の器官にとって有害となる、アルコールやタバコ、
  その他すべての薬物の消費を控えることが必要だ。

             ・・・

Q:エネルギーを伝達できるようになるためには、レイキマスター(ティーチャー)が
  その人のチャクラを事前に開ける必要があるというのは、本当ですか?

A:その必要はない。伝送能力は、魂の進化の力量と、他者を助けようとする意志と
  練習とによる。私利私欲をなくして行うほど、霊界からの援助は大きくなる。

  先生の役目は、生徒の潜在能力を開花させることだが、独学も可能だ。
  スポーツのように、練習すれば能力は増す。

  そして、他者を助けようという意志があれば、霊界から必要な援助を授けられる。
  エネルギー伝授の真の達人がいるのは、霊界なのだ。

             ・・・

Q:レイキの段階を取るための有料の講習がある、と話しているのを耳にしましたが、
  その件に関して、どうお思いですか?

A:お金と引き換えに、天国に行けると文書で約束した免罪符と同じような商売だ。
  最初にレイキを始めた臼井 甕男(みかお)が無償で行ったのに、
  その継承者たちがどうしてお金を取るのだろうか?

  繰り返すが、レイキを始めるために、イニシエーションをする必要などない。
  どれほど有名であろうと、見返りとしてお金を要求するような人から受ける
  イニシエーションであれば、なおさらだ。

  なぜなら、それでお金を儲けようとしているのなら、
  自称するほどレベルが高くはないからだ。

  真のマスターは、万人のエネルギーでお金を取ろうとしない。
  伝達者に過ぎず、謙虚であるので、マスターと名のろうともしない。

  ここに、イエスの手本がある。
  エネルギーで多くの人を癒し、弟子たちへの伝授もしたのだが、
  誰からもお金を受け取らなかった。

             ・・・

Q:講習だけでなく、レイキのセッションでお金を取る人もいますよ!
  これについてはどう思われますか?

A:宇宙エネルギーは、それを扱う人の所有物ではなく、
  お金を払わずに使用できるものなので、同じく無料で与えねばならない。

  レイキでお金を取る人たちは、自分自身のエネルギーや自分が努力して
  周囲からかき集めたエネルギーを扱うのだろう。

  だが、高波動の霊的存在たちからの手助けは期待できない。
  彼らと同調するためには、心を浄化し、他者を助けたいという無私の思いが
  必要となるが、お金を取る者には無私の志はなく、金銭的な利益を得る
  ことに関心があるからだ。

             ・・・

Q:でも多くの人が、レイキで儲けようとしているのではなく、
  それで時間が取られるとサラリーマンはしていられないし、
  何かで暮らしを立てる必要があるから、と言っていますよ。

A:それなら、エネルギーの伝達では生計を立てようとしないことだ。
  経済的にやっていけるように、他の活動で報酬を得られる仕事を持ち、
  自由な時間にレイキをすれば良い。これは、意志力の問題だ。

  しかし実際には、レイキでお金を取る者の多くが、
  生活を維持するだけでなく、それによって儲けようとするのだ。

  レイキの料金は、オーラを綺麗にするというよりも、それにひっかかった
  愚か者の財布の中身を綺麗にしてしまうほど高いことがあるからだ。

  イエス自身も、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言っている。

  物質的に自立する必要があるのなら、実際的な仕事でそうするように努めなさい。

  霊的な仕事を介してはならない。
  霊性にお金を関与させるのは、止めなさい。
  霊性が穢れてしまうのだ。

  君たちを助けている指導霊たちは、君たちからお金を取るのだろうか?
  彼らがそうしないのならば、彼らを見習って君たちもそうしてはならない。

  しかも、自分に能力があるのだからお金を取る資格があると思っていると、
  本当にそうなって、自分自身のエネルギーしか使えなくなってしまう。

  「神と富とに兼ね仕えることはできない」ということを肝に銘じて欲しい。

  現在の言葉に置き換えれば、愛とエゴとに兼ね仕えることはできないという意味だ。
  それらは、相容れられない対立する概念なのだ。

             ・・・

Q:エネルギーを貰う代わりに、お金であろうと他のものであろうと
  何かを引き換えにあげる必要があるので、これは交換をしているに過ぎない、
  と言う人たちもいますが?

A:それならその人たちは、無条件の愛という、何の見返りもなく
  与える行為を知らず、また理解したくもないのだ。

  見せかけの霊性で外側を装おうとしていても、見習うべき手本とはならない。

  それを忘れないようにしなければ、霊性復興運動も、
  あげくの果てにキリスト教と同じことになってしまう。

  つまり、皆の偉大なマスターだと勝手に名のり出る者が現れて、
  自分の富と権力への渇望を満たすために、
  聖なる教えを管理し操作し始めてしまうだろう。

             ・・・

Q:でも、有料レイキに効果はあるのですか、ないのですか?

A:効果はあるかもしれないが、無料で行うレイキよりは、
  常にずっと貧しい結果しか得られない。

  効果は、助けたいという意思の力次第なのだ。

  大半の場合は、他者を助けたいという思いと、
  何かと引き換えに行おうというエゴとが混在している。
  善意によって得られる効用も、私欲で失われてしまう。

  一つはっきりさせるが、エゴがあると、与える前に貰おうとしてしまうので、
  癒しにはならないのだ。

  エゴに委ねる人は、本当は他者を助けようとは思っていないので、
  助けてあげることができないのだ。

  お金を取っているならば、それが他者を助けるためなのか、
  自分が有名になるために他者を利用したいのか、あるいは自己の
  物質的な欲求や期待に沿うためなのかを、分析してみるがよい。


  イエスがあれほど優秀なエネルギーの担い手であり、
  奇跡と思われたほどの素晴らしい、強力で迅速な結果が得られたのは、
  一体どうしてだと思っているのかね?

  それは彼が、無条件の愛を感得するに至った魂だったからで、
  その愛が、エネルギー次元で顕現する時に高振動のエネルギーとなり、
  それに肉体的、または霊的な障害を癒す力があったからだ。

  多くの者が、イエスがしたことをできるようになりたい、と思っているが、
  彼らには本質的なものが欠けているのだ。

  それは、無条件に愛すということで、
  エゴを ―― 虚栄心・自尊心・自負心を ―― 放棄しなければならないのだ。

  イエスがしたことをできるようになりたいか?

  それなら、他者に何かをしてあげる度に、集金してまわるのは止めなさい。

  イエスが癒しに対してお金を取っていたとしたら、
  高次の存在ではあり得なかったし、
  高次の霊たちからも支援されなかったので、癒しそのものが不可能だったろう。

             ・・・

Q:病気とその意味について、最後に言っておきたいことはありますか?

A:病気は、運命のいたずらでも神の罰でもなく、霊的成長の糧となるものだ。
  今生で患う病気は、今回の転生で立ち向かわねばならない試練を知らなかったり
  受け容れようとしなかったのが原因か、または心に従って行動や生活せずに
  霊的な内面を抑圧したのが原因だ。

  このような場合、肉体的な病は内部の病気の警報として作動し、
  自分を変えるように誘導する。

  先天性またはカルマによる病気のケースでは、
  原因は前世での行為の中に見出せる。

  それは、溜まった負債を清算するための試練であり、
  魂が霊的により高い段階へと昇るために障害となる心理的毒素を
  肉体に受け渡すプロセスなのだ。

・・・

本書では、次の章として「イエスの地上での使命」へと繋がっておりますが、
この章はすでに紹介を終えております。

ご関心のある方は、次のアドレスにてご確認ください。

(伝統板・第二「イエスの地上での使命」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6899465 ) 

            <感謝合掌 平成30年5月12日 頓首再拝>

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