伝統板・第二

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真理の生活② - 伝統

2017/06/16 (Fri) 05:27:55

     *伝統板・第二「真理の生活 ①」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

知ったら直(す)ぐ行う日

         *「光明道中記」(6月16日)より

【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、道を知って道を行なうことである。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

            <感謝合掌 平成29年6月16日 頓首再拝>

荘厳なる生活をせよ - 伝統

2017/06/28 (Wed) 04:08:05


          *「光明法語」(6月28日)より

吾等は吾が生活を荘厳なるものたらしめるべからず。
何となれば人間は神の子であるからです。

魂を高揚せしめる大思想家の文章は汝の魂をして荘厳ならしむべし。

低卑なる市井(しせい)の俗語に耳傾くべからず。
闇の話、脱税の話、野卑の話、猥褻なる話きくべからず。

仏典を読むべし。聖書を読むべし。
『甘露の法雨』を読むべし、
『生命の實相』を読むべし。

すべて天啓、神示に基づく荘厳なる文章を読むべし。

猥雑極まる近代のエロ文学読むべからず。

言葉の力は恐ろしき迄強き也。


        <感謝合掌 平成29年6月28日 頓首再拝>

時間を大切にせよ - 伝統

2017/06/29 (Thu) 04:47:56


          *「光明法語」(6月29日)より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、然(しか)らざれば向下するかである。

        <感謝合掌 平成29年6月29日 頓首再拝>

決意 - 伝統

2017/07/04 (Tue) 04:07:01


         *「光明法語(7月3日、7月4日)」より

   《「ハイ」の無限力》 

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。

   然してこれを實行せよ。
   然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

              ・・・

   《「否定」の威力》 

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも
   自由に販売しているところの百貨店だと言える。

   それを求める貨幣は「決意」である。

        <感謝合掌 平成29年7月4日 頓首再拝>

道は自己の「真剣」の中にあり - 伝統

2017/07/06 (Thu) 04:30:45


          *「光明道中記」(7月6日)より

【遊女マグダレーナは一切を真理(キリスト)の足下に漑(そそ)いだのであります。
                                   (『完成の聖書』】


達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。

諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、あまり宇宙の真理を瞑想し
過ぎたので、「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて五峰(ごほう)の秀出(しゅうしゅつ)
せるに似たるものあるに到れり」と言うから、瞑想のために骨相が変り、五峰が突々(とつとつ)
として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。

真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る ―― この意気が欲しいと思う。

慧可四十歳の時、達磨大師が嵩山(すうざん)に巡錫(じゅんしゃく)せられたのを機会に、
嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて入室を乞(こ)えども許されない。

終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。

そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、
入室を許されずんば死すとも此処を去らずの赤誠(せきせい)を
披瀝(ひれき)したので、とうとう入室を許されたのである。


今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。
それだけに真剣味ありや。
真剣味ある者は幸いなり。

道は自己の「真剣」の中にあり。
漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。

            <感謝合掌 平成29年7月6日 頓首再拝>

日常生活に道を現す - 伝統

2017/07/13 (Thu) 04:20:31


          *「光明道中記」(7月13日)より

【本当の美しさと云うものは深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
                          (『生命の實相』第十五巻)】

五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は慧能を学ぶが好いのである。

禅とは変な、日常生活に適用せぬような奇警(きけい)な警句を吐いて問答し、
奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの妙(みょう)を得ることだと思っていれば、
それは大変な間違である。

米を搗(つ)くのが禅であり、掃除をするのが禅であり、飯を炊(た)くのが禅であり、
茶を淹(い)れるのが禅である。

禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。
茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって「茶道」には達せぬのである。

「茶の淹れ方」は茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、御飯を焚(た)いても硬軟その所を得なかったり
するのでは何にもならぬ。

御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。
一芸に名人と謳(うた)われるような人は何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。

「道」は万(すべ)てに通ずるが、「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。
心得べきことである。

            <感謝合掌 平成29年7月13日 頓首再拝>

平凡淡々が道なのである - 伝統

2017/07/14 (Fri) 03:31:39


          *「光明道中記」(7月14日)より

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】


或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。

至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。

天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。

或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、

或る生長の家誌友に、
朝起きたら自分の寝床を畳むこと、机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むことの3つを
実行するように教えてそれを実行せしめたら、その近眼が癒えてしまったのである。

まことに平々凡々が道なのである。

ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。

道は病気になるものではないから、吾々の生活が
平々凡々何の変哲もないところに無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、病気は自(おのずか)ら癒えるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月14日 頓首再拝>

道が生活に生きる日 - 伝統

2017/07/15 (Sat) 04:07:54


          *「光明道中記」(7月15日)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】


手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないとその人に道が生きていないのである。

人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。

飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。

「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」

と「智慧の言葉」に書いてあるのは、

歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。

それは茶道に一致する。

吾等の生活は行住坐臥「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。

大調和である。
清和である。清(せい)は整(せい)であり、整えるである。

無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに
一切の行持(ぎょうじ)が、茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。

            <感謝合掌 平成29年7月15日 頓首再拝>

道を歩む日 - 伝統

2017/07/16 (Sun) 04:50:24


          *「光明道中記」(7月16日)より

【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
 之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】


趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。

ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。

「道は牆(かき)の外にあり」(《そら》其処に道があるじゃないか)と趙州は答えた。

「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。人間の歩む大道(たいどう)のことです」
と修行僧は言った。

「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」と趙州は答えた。

道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。

人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。

手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。

至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌うとはよく言ったものである。

            <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

行き届く生活 - 伝統

2017/07/18 (Tue) 03:45:32


        *『光明道中記(7月18日 行届いた生活の出来る日)』より抜粋

「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、ひとり自室に
招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒するその深く切なる心遣いが禅なのである。

慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、夜に慧能を訪れて法衣を
譲ると、夜のうちに姿を隠して落ちのびるように注意した其の深くこまやかな心遣いが
禅なのである。

茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、割烹と言えば、料理をする
手先の技巧だとのみ思い、禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。

行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、禅の悟りこそ生長の家の悟りである。

            <感謝合掌 平成29年7月18日 頓首再拝>

打てば響くが仏道なり - 伝統

2017/07/31 (Mon) 03:34:37


        *『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より

【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
                             (『生命の實相』第十五巻)】

「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。

剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。

「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。

「如何なるか是れ仏」の問いに対して『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、
仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、

仏が仏であり、始めから成仏しているのが仏であり、
衆生本来仏であると云う意味なども、
この端的の語(ことば)の中に一切が引くるめられているのである。

楠木正成公がまだ若かった頃、奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。
その雲水に正成公が「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。

すると、その老僧はそれに応えないで、
「正成! 」とあらためて楠公の名を呼んだのである。

「ハイ」と楠公は覚えず応えた。

「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。

『爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。

打てば響くが仏道である。

         <感謝合掌 平成29年7月31日 頓首再拝>

「証上の修」 - 伝統

2017/08/08 (Tue) 03:20:19


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月8日>(P45)より

知的に知ることと、信仰的に知ることと、それを思念することとは、いずれも別のことである。
知的に知っても信仰的に信じていない人もあるし、
信仰的に信じていてもそれを知的に知らない人もある。

知的に知り、同時に信仰的に信じながら、なおかつその人から不幸が消えないならば、
それは思念が足りないのである。

思念は一種の実行であり、力であるのは、油田を掘鑿(くっさく)するようなものである。
学的にここに豊富な油田があることを測定しえ、そして石油の存在を信念的に信じていて
さえも掘鑿しなければ石油が噴出しないのと同じように、

『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、神そのままの分け”いのち”にて完全なる
ことを知り、信仰的にそれを信ずるとも、神想観を修しなければ、その実相の完全さが
実現しないことがある。

道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。

真宗でも、どうしないでも救ってくださっている阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。

           <感謝合掌 平成29年8月8日 頓首再拝>

「道は邇(ちか)きにあり」 - 伝統

2017/08/10 (Thu) 03:20:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月10日>(P47)より

世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが自分にとって最も消化しやすい栄養であるのである。
手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。
邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものはついに天国に到ることができないのである。

「道」は ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、太陽は毎朝東から差しのぼってなんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

          <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

無相にして無限相である神を生きる - 伝統

2017/08/22 (Tue) 04:59:15


         *「光明法語」(8月21日~22日)より

《八月二十一日の法語 神は五感も六感も超越せり》

「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。

感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。

感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。

六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。

・・・

《八月二十二日の法語 無相にして無限相》

霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、神の化身(けしん)を見たに過ぎない。

神は、かくの如き六感を超えた存在であり、相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。

これを無相にして無限相と呼ぶ。

吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。

無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。

          <感謝合掌 平成29年8月22日 頓首再拝>

《誰かが自分を中傷するとき》 - 伝統

2017/09/21 (Thu) 03:55:22


             *『幸福を招く365章』第3項(P53) より

誰かが自分の名誉を毀損したと思う場合に、
それについて憤(いきどお)ってならないのである。

実相に於いては人間の尊厳は「神の子」として
永久に失われるものでないのであるから、

静かに座して

「自分は神の子であるから、
何人(なんぴと)も自分の名誉を奪うことは出来ないのである。
ウソは結局、非実在のことを実在らしく語るものであるから、
実在しないものは消えるほかはないのだ」

と安心して念じておれば、いつの間にか、
ウソに伝えられた不名誉は消え去って
永遠の存在である真実のみが輝き出ることになるのである。

決してウソを告ぐる者に対立して、
その渦巻の中に巻き込まれてはならないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月21日 頓首再拝>

《大胆にして細心なれ》 - 伝統

2017/09/30 (Sat) 04:54:31


        *『 生長の家 』(昭和26年1月27日の法語)より

   「 世間の通念に押し流されて生活することは容易であるが、
   また山に こもって自分の好むように生きて行くことも容易であるが、

   大衆の中にいて、ひとり気高く霊の尊厳を維持して生きて行くことは
   大人物にして始めて可能のことである 」 とエマースンは云っている。

   大衆にこびず、自己満足に陥らず、迎合せず、妥協せず、
   しかも大衆を生かして満足せしむるには
   神霊に導かれる者にして始めて為し得ることなのである。

   大胆にして奔放なるのみなら 蛮勇者も為し得るが、
   大胆にして細心なるを得るは 神霊の導きによるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>

《つねに悟りを深める言葉を念ぜよ》 - 伝統

2017/10/13 (Fri) 03:20:47


       *『白鳩』(昭和49年1月27日の箴言)より

   あなたは、もっと繰返し『信仰の科学』の本を読んで、
   人間の生命が不生不滅であることの自覚を深められるのが
   よいのである。

   白隠禅師でさえも、
   「大悟十八回、小悟は数知れず」だったといわれている。

   一回『生命の實相』全巻を読んで、もう 〃人間・神の子〃 の真理を
   悟ったと思っても、その悟りが、どの程度、潜在意識の底の底まで
   徹底しているかどうかは疑問である。

   だから常に、その真理を、少しでも暇ある毎に念ずるがよいのである。

   たといあなたが何処にいようとも、たった一人でいようとも、
   或いは群集の真っ只中にいようとも、この 〃内なる真理〃 の自覚を
   次の如く歌わしめるがよいと『信仰の科学』は説いているのである。


     〃わたしは霊である
      わたしは魂である
      わたしは生命である
      わたしは「個」の姿に顕現した神そのものである〃


   幾回でも多く、真理の言葉を吟誦または黙誦すれば、
   その 〃真理の言葉〃 が種となってあなたの潜在意識に蒔かれ、
   やがてそれが発芽して天空に巨樹として聳えるごとき
   大業を成就し得る時が来るのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

            <感謝合掌 平成29年10月13日 頓首再拝>

真理を生きる - 伝統

2017/10/24 (Tue) 04:50:53


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(「円満具足」10月24日)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、あれは真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月24日 頓首再拝>

濁り水を捨て、真理の水を注げ! - 伝統

2017/11/03 (Fri) 03:32:10


       *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より

生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。

濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、われわれは依然として濁り水を見るのみである。

怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。

せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。

よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。

心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。

         <感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>

善いところへ目を向けるのが悟りというものである - 伝統

2017/11/16 (Thu) 03:38:58


          *「光明道中記」(11月16日自在無礙の日)より

【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】

秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が赤痢に罹ったときの心境と生活態度を時々話して
感嘆せられてものであった。

「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の下見をして居った。

目が凹(くぼ)んで了って、日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。

私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。と云うと、
『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』と小さい声で言って居った。

ナカナカそんな本など見て居れる時ではないは、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」


秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。

見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。

若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。

          <感謝合掌 平成29年11月16日 頓首再拝>

敬愛と従順は《まこと》である。 - 伝統

2017/11/21 (Tue) 04:44:17


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より

仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。

仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。

日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。

仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。

敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。

         <感謝合掌 平成29年11月21日 頓首再拝>

味わい深い人になる - 伝統

2017/11/22 (Wed) 04:55:36



          *「光明道中記」(11月21日味わい深い人になる日)より

【家族に礼を言うこころになれ。(『生命の實相』三巻)】

親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。

弟子が下手に音楽を奏するならば、その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。

禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、竹を憎むからではなく竹を愛して雪を払ってやるためである。

叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。

何事が起っても、淡々として空言のような顔をして空嘯(そらうそぶ)いている人には
深い味わいは感じられない。味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。

じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、味方のチームが優勝した
といっては歓喜の乱舞をしたい思い、病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・
現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、その時、その時の、出て来ることに
真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。

併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。
文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。

          <感謝合掌 平成29年11月22日 頓首再拝>

一歩一歩毎日撓(たゆ)まず歩くこと - 伝統

2017/11/25 (Sat) 04:50:16


        *「光明道中記」(11月25日一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日)より

【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
                       (『生命の實相』第四巻)】

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、
ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得る
のだと思う。然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、
事はなかなか成就するものではない。
神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。

功に誇る者が神智を失うのは、
山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。
功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。

若し神がいなかったら、また若し神が私を導いて下さらなかったら
今日の私はないであろう。

今日の私があるのは、
「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。

神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。

          <感謝合掌 平成29年11月25日 頓首再拝>

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべき - 伝統

2017/11/28 (Tue) 04:46:44


       *「光明道中記」(11月28日功成りて功に居らざる日)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、
押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 平成29年11月28日 頓首再拝>

水の偉大さ、人間の偉大さ、それは柔かさにある - 伝統

2017/11/29 (Wed) 03:17:44


       *「光明道中記」(11月29日心、水の如く柔らかくなる日)より

【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。(『百事如意』)】


生きているものは温い。

あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。

調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、程よく温かいところに生命は大きく顕れる。

天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。

自然は《ひとり》高からんとする者を崩して
低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。

だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。

水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。

水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。

水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。

          <感謝合掌 平成29年11月29日 頓首再拝>

《気尚(けだか)く生きよう! 》 - 伝統

2017/12/01 (Fri) 04:40:12


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より

もっともっと気尚(けだか)く生きよう。
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。

汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

            <感謝合掌 平成29年12月1日 頓首再拝>

真理は自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶもの - 伝統

2017/12/02 (Sat) 03:15:26


      *「光明道中記」(12月2日真理を諦(あきら)かにする日)より

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、
敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、
自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのである
と云うことを知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

            <感謝合掌 平成29年12月2日 頓首再拝>

気高き生活を心がける - 伝統

2017/12/05 (Tue) 03:42:18


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

ただ真理のみを語れ。

多言なるべからず。
多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈(はげ)しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと誤解せられることあり。

心のうちにでも言葉に現わしても、行ないにあらわしても、
人を傷つけてはならない。

誠実であれ。虚偽であってはならない。

素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。

値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いずれにせよなんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みととは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。

不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

            <感謝合掌 平成29年12月5日 頓首再拝>

《逆らえば順潮も逆潮》 - 伝統

2017/12/07 (Thu) 04:27:12


         *「光明法語」(12月7日)より

一直線の運河には美は乏しく、
自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。
自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。

本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。

波に乗って泳げば疲れることを知らずに、
其の目的地に達することが出来るけれども、
波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、
泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。

人生の行路もそのようなものである。

            <感謝合掌 平成29年12月7日 頓首再拝>

神様の番頭 - 伝統

2017/12/10 (Sun) 03:59:02


           *「光明道中記」(12月10日自然に栄える日)より

【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。
                       (『生命の實相』第九巻)】

家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、
ともに自然の人間の衝動であって、何ら咎(とが)めるべきではないのである。

生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。
家の繁栄を願うことは当然なことなのである。

併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。
正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。

人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、
その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、
その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。

そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、
その成功の為に拍車を掛けはじめる。これは甚(はなは)だ危険なことである。
それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、
自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。

馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、
自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。

自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、
吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。

            <感謝合掌 平成29年12月9日 頓首再拝>

「公」なる道に乗る - 伝統

2017/12/11 (Mon) 04:32:17


           *「光明道中記」(12月11日無限生長の日)より

【心を尽し、力を尽して自分自身の無限の可能性を信ぜよ。
                     (『生命の實相』第四巻)】 
                 
宇宙の法則は無限生長にある。換言すれば進歩にある。
だから必ずしも隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望むのが悪いのではない。

ただそれが「公(おおやけ)」なる道に乗らないのが悪いのである。
彼が「公」なる道に乗る限りに於いて、進歩を心がけること、前進を心掛けること、
成功を心がけることは正しいことであり、祝福されることである。

前進する者は衰退しない。
前進する者は多くの困難と戦わなければならない。
困難と戦うことには色々の新しい経験を得る。困難と苦痛とは異なる。

新しい経験は自分の生命の中から「新しい推理」を発掘して来る。
前進するものは常に新しい鉱石に打(ぶ)つかる。

吾々の獲得は、そのたび毎に増加するのである。
吾々の獲得は眼に見えた成果のみではない。
もっと眼に見えない魂のダイヤモンドが吾々の前進によって得られるのである。

そして此の魂のダイヤモンドは、その採掘の動機が利己的でなければならない程、
「公」であればあるほど、より多く獲得することができるのである。

人間は物質的にどれだけあれば生活出来るか、
それは極(ごく)僅(わず)かな分量である。
それ以上に費やされるのは多くは虚栄(みえ)のためである。
此の分量を「公」にために献げよ。

            <感謝合掌 平成29年12月11日 頓首再拝>

常に、後味のよいことを考える - 伝統

2017/12/25 (Mon) 04:38:53


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月25日)より

憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを
考えるようにしなければならぬ。

ピシリと相手をやっつけても、そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。

勝つとは、後味までも歓べることである。

            <感謝合掌 平成29年12月25日 頓首再拝>

善き話題を - 伝統

2017/12/27 (Wed) 03:14:25


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より抜粋

善き話題 ――
彼はこんな深切なことをした。
彼はこんなに向上した。

自分はこんなに楽しいのだ。
自分は近頃大変健康だ。
(まだ現象的には健康になりきっていなくともよい、こう話すのだ。)
自分の従事する事業はますます栄えてゆきつつある。

そのほか何でも、進歩、繁栄、向上、元気、光明、健康の雰囲気を伴うことが
話題として最もよいのである。

しかし顧(かえり)みよ、いかに人が相寄れば他人の悪口や不幸ばかりを口にしていたかを。
これでは人生に不幸な人が多かったのも不思議はない。

欠点を見出して責めるのが今までの教育法であった。
生長の家が出現してまったく教育がその全貌を変化したのである。

ただ児童を、社員を、店員を、賞(ほ)めることだけによって、
児童が、社員が、店員が、改善されてゆくという不思議な事実を ――
われらの同志はすでに不思議でもなく実行しつつあるのである。

しかしそれをまだ対他的教育法だとのみ思っていて、
自分自身の健康法だと思っていない人の多いことは事実である。

それは教育法であるばかりではなく、実に健康法なのである。

            <感謝合掌 平成29年12月27日 頓首再拝>

「悟り」とは”差”を取ること - 伝統

2017/12/28 (Thu) 03:20:55


     *「大丈夫だよ、すべてうまくいていいるからね」(斎藤一人・著)より
          (P56~57)

「悟り」というのは、悩んだり心配しなくなることではありません。

悩みや心配事があっても、それでも「大丈夫だ」と思える心を
「悟り」というのです。
”差”を取ることなんだよね。

相手も人間で、自分も同じ人間なんだ。
能力に”差”があるのは、それぞれ目的が違うからなんだ。

一人ひとりの課題に”差”があっても、
同じように魂を成長させようとがんばっているということに、
”差”はありません。

そうやって相手との能力や姿や肌の色や使う言葉の違いなど、
さまざまな”差”を取って、お互いの魂や命の尊さを知ることが、
本当の「悟り」なんです。


    いつだって大丈夫だって思えることこそが本当の「悟り」なんだよね。
    悩みや心配事があっても「大丈夫、大丈夫」って真剣に思ってみな。

・・・

<参考動画:悟りの話~『差取り』 【斎藤一人さん】
      → https://www.youtube.com/watch?v=VIJUntuy_vo >

          <感謝合掌 平成29年12月28日 頓首再拝>

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2017/12/29 (Fri) 04:21:49


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日~29日)より

「勝てる」という自信はよいが、「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。
「勝てる」という自信はその人を寛大にし、「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。

難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうと
するのであるから、その人の心中は自己葛藤に満たされる。

自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、自己の健康を傷つける。
この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。

・・・

人々よ、今日(きょう)から他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。
人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

            <感謝合掌 平成29年12月29日 頓首再拝>

《再び新生をする》 - 伝統

2017/12/31 (Sun) 04:28:25


        *「光明法語」(12月31日)より

愈々今年もこれで終わる。

吾等は今日限り一切の悪しき習慣、
人を怒ること、憎むこと、恨むこと、不平に思うこと、悲しむこと、
取越苦労すること、持越苦労する事を止めることを誓うのである。

何事に対しても腹立てることなく、常に愉快に、明るく、
人々の心の中に、行いの中に、常に善のみを見て悪を見ず、

物事は今を生かして積極的に取進み、
常に自らが神の子であり、円満完全であり、
無限の能力と健康とを所有していることを自覚自信し、

撓(たゆ)むことなくひるむことなく神の道に邁進せんことを誓う。

            <感謝合掌 平成29年12月31日 頓首再拝>

【いま悪くいわれようが良くいわれようが、それは恐れることはない】 - 伝統

2018/01/04 (Thu) 04:02:55


*メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年12月11日)より

   (神渡良平氏の心に響く言葉より…)

   明治維新を興した青年たちに大変な思想的感化を与えた本に、
   佐藤一斎の『言志四録』がある。

   その佐藤一斎に抱かれて育った孫の士子(ことこ)が、
   敗戦の焦土の中で戦後日本を背負って立った吉田茂を育て上げた
   養母であったことは意外に知られていない。

   吉田茂は土佐出身の政治家・竹内綱(つな)の五男として生まれたが、
   すぐ横浜の事業家・吉田健三の養子となり、士子の手で育てられている。


   人間の資質、それも一番基本的な人生に対する姿勢は、
   幼い時おぶわれた母の背中で形成されたものである。

   吉田茂はワンマン宰相だと悪口を叩かれるものの、戦前の反動として、
   「左翼にあらずんば人にあらず」として荒れ狂った左翼思想の嵐に抗(こう)し、
   一方では戦勝国としてカサにかかって諸政策を押しつけてくる
   マッカーサーの連合国総司令部(GHQ)と折衝し、
   戦後日本の平和国家路線を敷いたことは、やはり偉大な政治家として評価できる。

   吉田茂の性格の一つである気ぐらいの高さ、節を曲げない一徹さは、
   あるいは養母譲りのものではあるまいか。

   士子は折に触れ機会を見つけて
   祖父・一斎の『言志四録』の精神を説き、幼い茂を教育した。

   例えば、次の一節は吉田茂の生き方を表現して余りあるものがある。

   「当今の毀誉(きよ)は懼(おそ)るるに足らず。
   後世の毀誉は懼(おそ)るべし。
   一身の得喪(とくそう)は慮(おもんばか)るに足らず。
   子孫の得喪は慮るべし」(言志録・八九条)


   いま悪くいわれようが良くいわれようが、それは恐れることはない。

   しかし、後世の評価は恐れるべきだ。

   自分自身の成功失敗から来る得失は心配するに足らないが、
   子孫に及ぶ得失は考慮しなければならない。

   吉田茂の一徹さは曾祖父佐藤一斎の精神によって裏打ちされていた
   と見ることができるのではなかろうか。

   昭和二十年代前半、多くの進歩的文化人(?)が、
   ソ連をはじめとした東側諸国を含む全面講和条約締結を求めたのに対し、
   それは現実的ではないと一蹴し、

   昭和二十六年九月、サンフランシスコ平和条約、
   および日米安全保障条約を締結した時の吉田茂に、
   この姿勢を見ることができよう。

   「人類の楽園」といわれた共産主義諸国が馬脚を現して崩壊し、
   それが幻想でしかなかったことが判明したいま、
   歴史は吉田茂の選択が正しかったことを告げている。

   あのとき多く青年たちを扇動し、街頭デモを繰り広げた進歩的文化人たちは、
   一様に口を閉ざして当時のことを語らない。


   それだけに吉田茂の先見の明と一徹さには頭が下がる。

   「右顧左眄(うこさべん)しない。己の信ずるところを貫くのみだ」

   吉田のそういう声が聞こえてくるようではないか。

         <『下座に生きる』致知出版社>

             ・・・

「行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。
毀誉(きよ)は人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候(そうろう)。
各人へ御示し御座候とも毛頭異存(もうとういぞん)これなく候」

という、勝海舟の言葉がある。


私の行いや言動は自らの信念によるものである。
だから、けなしたりほめたりするのは人の勝手である。
そんなものに私は関与しない。
どなたにお示しいただいてもまったく異存はない。


これは、福沢諭吉が書いた『痩(や)せ我慢の説』に対する勝の有名な返事だ。

命を賭けて、信念を持ってやったこと、学者・福沢ごときに
とやかく言われる筋合いはないというのである。(以上、『日本人の心に響く名言』より)


まさに、現代はSNSやネット上では多くの誹謗中傷がある。

その多くが匿名(とくめい)だ。


どんなに心が強い人間でも、連日のように誹謗中傷にさらされれば参ってしまう。

言う方は簡単だが、言われた方はたまったものではない。


「いま悪くいわれようが良くいわれようが、それは恐れることはない。
しかし、後世の評価は恐れるべきだ」

何物にも動じない肚(はら)をつくりたい。

            <感謝合掌 平成30年1月4日 頓首再拝>

緩急自在な生活 - 伝統

2018/01/07 (Sun) 03:50:54


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月7日)より

常に仕事をすると言っても、緩急がなければならぬ。
緩急のない生活は、張り切ってばかりいる弓の弦(つる)のように、
次の矢をつがえることができぬ。

一張(ちょう)一弛(し)の交代によって弓の矢は的(まと)を射抜(いぬ)く。
張り切ってばかりいる弦(げん)はついに切れる。

さればといって、仕事をする時に懶(なま)けよと言うのではない。
弓を射るときには一心(しん)でなければならぬ。
仕事をするときにも一心でなければならぬ。

本当に張り切ったとき仕事は前に命中する。

仕事が終わるか、定められた休息の時間が来るか、家に帰って家族と
うち寛(くつろ)ぐ時が来た等のときには本当に打ち寛(くつろ)がねばならぬ。

仕事は渋面(じゅうめん)をつくるためにあるのではない。
仕事は喜びを感ずるためにあるのである。
仕事を渋面をつくるためにあるように思ったり、
渋面をつくらねば真面目でないと思ったりするのはまちがいである。

団欒のときには楽しくすることが一つの仕事である。
家庭の団欒が忘れられているがために、妻が不平を言ったり、家族が病気になったり、
良人が危険の淵に近づいてゆくことも考えねばならぬ。

人間は金を積んで走る馬車馬のために造られているのではない。

             ・・・

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月8日)より

あまりに四角四面な余裕のない押しつめられた生活からは幸福な生活は生まれぬ。
曲線と直線とが巧みに調和していなければ美術でも生活でも美しくないのである。

団欒と仕事との調和を考えること、
あたかも美術家が曲線と直線との調和を考えるがごとくでなければならぬ。


            <感謝合掌 平成30年1月7日 頓首再拝>

自由自在に生きる - 伝統

2018/01/13 (Sat) 04:21:19


           *「光明道中記」(1月13日八面玲瓏の日)より

【心が柳の枝に雪折れなしの様な状態になったら神経衰弱が治りました。
                          (『生命の實相』第三巻)】

すべての人の立場を認めるとき、吾々は八方正面の心境に到達するのである。

八方正面とは隙がないことである。
凡ゆる立場に於ける相手の位置が、その儘に自分の心の中に映り来るのである。

すべての立場を認めることが出来ず、一つの立場のみを正しいと思い、
その立場にのみ心を執しているとき、その他の方面は全然隙だらけになって
打ち込まれてしまうのである。

あのことに熱中していましたので、つい忘れていましたと言うのは、
弁解にはならないのである。

剣も碁も兵法も商道も、すべての方面見て行き届かねば名人ではない。

如何に鋭くとも折れ易い刃は役に立たない。
人間は剃刀(かみそり)の如く鋭い一面も必要ではあるが、
柳の枝のような強靭性も必要である。

世の中は
「硬(かと)う柔(やわら)こう、柔こう硬う、円(まる)う四角う、四角う円う」
自由自在に生きなければならないのである。

仏教に通達するには無字の門関を透過しなければならぬ。
無字を透過するは、柳の枝の如く無抵抗に、
そして「我れ地に穏かを出さんが為に来れるに非ず、
剣を投ぜん為に来れるなり」と言った基督のように鋭くならん為である。

            <感謝合掌 平成30年1月13日 頓首再拝>

《その所に於いて生き切れ》 - 伝統

2018/01/15 (Mon) 04:33:59


          *「光明法語」(1月15日)より

すべての人は神の子であるから、
必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。

その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、
それによって幸福を得るのである。

その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが
自分に解らないときには、現在の仕事と環境に於いて、
自分の出来るだけの力を尽くして精出せばよいのである。

全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、
必ずそれは真の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。

            <感謝合掌 平成30年1月15日 頓首再拝>

日々、自分は本当に生きているか、と問いかけよ! - 伝統

2018/01/16 (Tue) 04:46:02


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月16日)より

今日(きょう)いちにち自分の生命(せいめい)を生かさないことは自殺である。

「今日(きょう)自分は本当によく生きたか」
とわれわれは毎日自分自身の心に対して問いかけねばならぬ。

自殺はすべての罪悪のうちで最大の罪悪である。

            <感謝合掌 平成30年1月16日 頓首再拝>

心清き人になる - 伝統

2018/01/19 (Fri) 04:26:33


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月19日)より

心が清くなることを心がけよ。
衣裳や白粉(おしろい)で飾っても、心の清さには及ばない。

心を清くするには悪を思ってはならない。
特に他人(ひと)の悪を思ってはならない。
他人(ひと)の悪を思ったら、他人(ひと)の悪が入って来る。

これは「自分に深切でない」ことである。
心を汚(けが)すのが唯一の罪であり、唯一の穢(きた)ないことである。

それでも他人(ひと)の悪が自分の心の中へ毒薬のように入って来たならば、
その毒薬の害毒を避ける道は、赦すことである。

腹を立てたり、興奮してはならない。
その人が善に立ち戻ることができるように静かに祈り、
かつその人のために考えてやらねばならぬ。

            <感謝合掌 平成30年1月19日 頓首再拝>

すべての人の美点を見ること - 伝統

2018/01/30 (Tue) 03:42:37


           *「光明道中記」(1月30日美点を見る日)より

【憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、
 之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)】


心朗かになる道は、
世の中に悪と云うものが決して存在せぬことを根本に知ることである。

一局部だけを見ずに大局を見る。
短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。

冬のうちに春の兆(きざ)していることを知ることである。
陰極は必ず陽転することを知ることである。

心朗かになる道はすべての人を赦すことである。
憎しみを放ち去ること、憤(いきどお)りを含まぬこと。
すべての人の美点を見ること。

相手の立場に自分を置いて考えること。

気にくわぬことは忘れること。

呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。

みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。

他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。

人生の戦いはその人の執(と)る生活の角度で最初にきまるのである。

負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、
既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、
既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って嘆き悲しみ呪い呟く。

呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、
日に日に進歩する者はついに勝利するものである。

            <感謝合掌 平成30年1月30日 頓首再拝>

時処相応の真善美の生活 - 伝統

2018/01/31 (Wed) 03:52:27


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月31日)より

事件に巻き込まれてはならない。
また時処(じしょ)に超然としてもならない。
生命(せいめい)は時処を超越しながら時処の中に美しき華を開く。

「真(しん)」は時空の外に超越している存在であるが、
「善」と「美」とは真(しん)が時処(じしょ)相応(そうおう)を得たときにあらわれる。

「二二ンガ四」は「真(しん)」であるが、「三三ンガ九」が必要な時処(ときところ)に
「二二ンガ四」が出て来たのでは時処相応でないということでそれは悪である。

数理の「真(しん)」の世界には無限の数の組合せがあるが、
そのうちで時処相応はただ一つである。

生命(せいめい)の「真」の世界においても無数の生命(せいめい)の行き方があるが、
その中で、ただ一つだけ「時処相応」がある。

常に「時処相応」の生活をしている人は生活の名人である。
われわれはこの生活の名人になるべく常に心がけたいものである。

常に神の叡智の導きに耳を傾けよ。
そこから本当の時処相応の真善美の生活が顕われてくるのであろう。

            <感謝合掌 平成30年1月31日 頓首再拝>

《気が短いのでは可(い)かぬ》 - 伝統

2018/02/03 (Sat) 04:29:38


           *「光明法語」(2月3日)より

「与えれば与えられる」と云う法則は直ぐ覿面(てきめん)にあらわれて来るものもあるが、
必ずしも直ぐ結果が現れないこともある。

電燈はスイッチを捻ればすぐつくが、水力電気や火力電気の設備を構築するのは
一夜に出来た事ではない。

電燈がスイッチ一つでつくようになったのは、それらの発電設備や配電設備が、
多くの与えられた労力の蓄積として「天の倉」に蓄えられているからである。

麦は一夜にしては実らない。卵も一夜にしては孵化しない。
すべての形の世界に現れるのは時間を通して現れる。
気が短いようなことでは可(い)かぬ。

            <感謝合掌 平成30年2月3日 頓首再拝>

《自分の立場を捨てること》 - 伝統

2018/02/05 (Mon) 04:02:16


           *「光明法語」(2月5日)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。

            <感謝合掌 平成30年2月5日 頓首再拝>

陰を見るな。光明方面を見よ。 - 伝統

2018/02/09 (Fri) 03:29:08


           *「光明道中記」(2月9日陰を見ぬ日)より

【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。
                    (『生命の實相』十一巻)】


現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。

現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。

人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。

太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。

心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。

子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。

            <感謝合掌 平成30年2月9日 頓首再拝>

すべてを自分の責任として受け止め、自分自身を浄める - 伝統

2018/02/11 (Sun) 04:51:10


           *「光明道中記」(2月11日責任を喜ぶ日)より

【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。

自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、
それは既に自己が弱者であることを自己確認したのである。

そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。

弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。

若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。

若し自身が不幸であるならば、
自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。

いずれにしても他を恨み、他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。

最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だと自覚を持つ聖者である。

世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、
自分の罪だと私は言いたい。

            <感謝合掌 平成30年2月11日 頓首再拝>

《後ろから卑怯に斬るな》 - 伝統

2018/02/12 (Mon) 03:33:35


           *「光明法語」(2月12日)より

本人のいない前で悪口を言うのは実に卑怯な行為である。
若し相手が悪いのならば本人に直言すべきである。

若し相手に悪がないのに虚構して悪口するのであれば尚一層卑怯である。
誰も警戒していないのに後ろからバッサリやるのは昔から“悪ざむらい”の所行である。
本人のいないところで悪口言うのは後方からバッサリ斬るのと同じことだ。

そんな行為は常に自分と神との間を遮断するものなのである。

そんなことは愛深き神の波長と会わないのである。

幸福になろうとする者は人の美点を賞めることから始めよ。

            <感謝合掌 平成30年2月12日 頓首再拝>

すべてを受ける心になる - 伝統

2018/02/15 (Thu) 03:20:22


           *「光明道中記」(2月15日卑怯を捨てる日)より

【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、多くの人を病気にしている。
                          (『生命の實相』第四巻)】


同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。

みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。

それは既に病気の心であるが故に、
そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、すべてに対抗するだけの強い自覚がある。

すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。

「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。

そんなに罪を押しつけられたら、進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。

彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。

彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、

「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。

            <感謝合掌 平成30年2月15日 頓首再拝>

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