伝統板・第二

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聖徳太子憲法② - 夕刻版

2017/05/26 (Fri) 18:59:00

    *伝統板・第二「聖徳太子憲法①」からの続きです。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6631817


儒士憲法十七条

         *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P110~115)より

儒士とは儒学を教える人たちのことです。
日本に儒学が伝えられたのは太子の時代よりずっと以前のことで、
太子憲法が発布されたころにはかなり普及していました。

そのため、こうした憲法が必要になったのでしょう。

儒学を日本に伝えた人としては、応神天皇の御代に百済から帰化し、
日本で活躍した王仁博士が有名ですね。

儒子憲法の本題に入る前に、この王仁博士に関することで、
書かなければならないことがーつあります。

古代日本の文化と儒学の関係を示すエピソードです。

モンゴロイドは世界に十億の広がりを持っていると言いますが、
日本人は、旧モンゴリアンと新モンゴリアンに区別されるというのは御存じでしょうか。

モンゴロイドの広がりを追ってみると、アフリカ大陸、アメ リカ大陸にも及びます。
そこで現在は"環太平洋民族"と呼ぶそうです。

日本列島の原住民はアイヌ民族ですが、
考古学者・ 江上波夫先生の"北方騎馬民族が日本を支配した"という説にもみられる通り、
遊牧民モンゴロイドは、秀れた社会生活の知恵を持っていました。

彼らは日本列島に夢を求めて辿り着き、 縄文文化の花を咲かせました。

その後、稲作文化とともに大陸から渡ってきたのが新モンゴリアン、弥生人なのです。
海を渡ってやってきた弥生人からみれば、縄文人は先住民ということになります。

              ・・・

《本に記載されている欄外解説》

王仁博士
 
応神天皇の時代に、論語をたずさえて百済から渡来。
日本に儒学を伝えたほか、大陸文化の輸入に大きく貢献した。
生没年不明。

(Webより
 『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。
  高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系の学者とされる。

 『日本書紀』によると、王仁は百済王の使者阿直岐(あちき)という学者の推薦を受け、
  応神天皇の招待に従って応神天皇16年2月に百済から渡来し、
  菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子の師となり、後に帰化した学者である。)

              ・・・

この地に根を下ろすにしても、
民族の風習は意識して守っていたのは新旧ともに同じでした。

しかも、先住の出雲族も新興の日向族も、同じモンゴリアン系列の人々でしたから、
その風習には多くの共通点がありました。

家長が代替わりするとき、その権利は末子に相続されるという決まりごとも、
そうした共通点のひとつでしたから、民族の掟として伝承されてゆきました。

今の法律では、親の財産は子供に平等に相続の権利が与えられていますが、
この時代は末子に限られていたのですね。

 
例えば、初代の神武天皇は日霊女の末孫で、
皇后となった伊須気依姫は、出雲王朝の創立者・素佐之男尊の末孫でした。

そして、このお二人の結婚によって、出雲王朝と日向一族の融合という
重要な問題が解決され、後の大和朝廷の誕生となったのです。


さて、時代はずっと後のことになりますが、
十五代応神天皇は、百済から帰化した王仁博士を、
次男で末子の皇太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の学問の師とされました。

しかし、そのために大変な事件が起きてしまいました。

王仁博士が持って来た論語には、先哲の優れた学問がいっぱい詰まっているわけですが、
その中には従来の日本の風習と違う部分もあったのです。

博士が論語の講義を進めるうちに、孔子が説く『長幼の序は守らなければならぬ』
という項目が出てきました。これが大きな問題の種となりました。
この教えに従うならば長子が相続をすることになってしまいます。

それが現実のものとなったのが、応神天皇が崩御されたときのことです。
当然、次の天皇には皇太子が即位するものと誰しもが思っていました。

ところが、当の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が
『長幼の序こそ人倫の道ですから、兄君を飛び越えて十六代(天皇)に
なるわけにはまいりません。兄君が即位なさるのが当然です』

と主張されたのですからさあ大変です。

一方、
 
『そんな馬鹿なことがあるものか。
我々日本人は、もろこし人や韓国人とは違うのだ。
古代から末子相続で父・応神帝も末子であったではないか。
父がそなたを皇太子に指名されたのを忘れたか。

王仁博士が何を教えたか知らないが、皇室の伝統に背くことはできない。
天子の位とはそんなに軽いものではあるまい』

と、こちらも頑として即位を拒否されました。

皇太子は孔子の儒学の信奉者となっていたので兄君に譲らず、
3年間も皇位は空席となり、ある日、遂に悲劇が訪れたのです。

弟の皇太子は、この世に自分がいなくなれば兄君が即位を遊ばすだろうと、
宇治川に身を投げて自らの命を絶ってしまったのです。

弟の自殺を知った兄君の驚きと哀しみは、どれほどだったでしょうか。
兄君は涙の中で即位され、第十六代仁徳天皇となられました。

そして、弟皇子の住んでおられたところに神社を建立、
弟皇子の名にちなみ「字治神社」と名付けられました。
お茶で名高い宇治市という名は、この皇子の名前に由来します。

さらに四国へ行幸されたとき、
高松市に鶴尾神社を建てて弟君を祀ったのを筆頭に、
日本各地に身を捨てて長幼の序という人倫の道を貫いた皇子の神社が建てられました。

このことは、太子も存じておられたはずで、
儒子憲法が作られたことに多少なりとも関係があると思います。
 
蛇足ですが、この末子相続について、
永六輔さんと、雑談の中で何気なく話したところ、
驚くようなことを教えてくれました。

「ああ、それはね、三波さん、今もありますよ。
瀬戸内海地方と沖縄はたしか末子相続なんです。
私もいろいろ聞いてみたことがあったんですけど、なぜかって言うとね、
末っ子っていうのは、親と一緒に居る時間が一番短いからということなんですって」

勿論、戦後の民法に従って、子供たちすべてに平等な財産分けはしても、
末子が家を継ぐという伝統が残っていることに、
しみじみと人間の情があるものと感じました。

・・・

<参考Web>

(1)菟道稚郎子
   → http://www.genbu.net/saijin/ujiwakiiratuko.htm

   →  http://www.sen2.net/contents/history/rekichi/63547335/%E8%8F%9F%E9%81%93%E7%A8%9A%E9%83%8E%E5%AD%90%E7%9A%87%E5%AD%90

(2)莵道稚郎子の陵墓
   → http://inoues.net/club/uji1.html  

(3)仁徳天皇と菟道稚郎子との皇位の譲り合い
   → http://nihonsinwa.com/page/1348.html

            <感謝合掌 平成29年5月26日 頓首再拝>

聖徳太子が建てた京都のおへそ「六角堂」 - 伝統

2017/06/02 (Fri) 20:56:18

(今回は、聖徳太子憲法から離れ、別の情報の紹介です)


聖徳太子が建てた華道の聖地。京都のおへそ「六角堂」を往く

         *Web:MAG2NEWS(2017.05.19)より


京都のちょうど真ん中、おへその部分に位置する、
聖徳太子ゆかりの「六角堂(頂法寺)」。
華道の聖地として、また縁結びのご利益がある寺院としてもよく知られています。

《京都のおへそ・六角堂》

(1)六角堂(頂法寺)は聖徳太子ゆかりのお寺です。
   正式名称は頂法寺ですが、本堂が六角形をしていることから
   六角堂の名で親しまれています。

(2)華道家元池坊家が住職を務める寺院で、生け花発祥の地としても有名です。

(3)西国三十三所観音霊場の十八番札所でもあり、
   昔から巡礼者がたくさん訪れていたようです。


《六角堂の由来》

(1)聖徳太子は四天王寺を建立するために京都盆地を訪れたそうです。
   その時に、現在六角堂が建っている場所で沐浴を行ったようです。

(2)聖徳太子が沐浴を終えて年持仏を手に取ろうとすると、
   仏像は「この地にとどまって人々を救う」と太子に告げたそうです。

   太子はこれに従って仏堂を作って観音像を祀りました。
   これが六角堂の始まりといわれています。

(3)鎌倉時代、浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん)は六角堂で
   百日間籠(こも)るという修行を行ったことで有名です。

   親鸞は修行中に聖徳太子の夢を見て、
   浄土宗の開祖・法然に帰依するようになったと伝えられています。


《生け花発祥の地》

(1)生け花には様々な流派がありますが、最も歴史の古い流派なのが池坊です。
   池坊は六角堂の住職兼、家元を務め、現在まで40代以上続く華道家の家柄です。

   本坊は聖徳太子が沐浴した池のかたわらに建てたことから
   「池坊」と呼ばれるようになりました。

(2)六角堂では、本尊の如意輪観音像に花を供えることは修行の一部でした。
   室町時代中期、六角堂で修業をしていた池坊専慶(せんけい)の立花が
   好評を得ました。

   後に専慶は立花を体系立て、生け花は全国的に知られるようになりました。


《見どころ》

(1)本堂は、眼・耳・鼻・舌・身・意の6つから生まれる欲を断つという願いから、
   六角形に造られています。

(2)境内の「へそ石」は、山門をくぐってすぐの場所にある六角形の石です。
   六角堂は京都のほぼ中心に位置することから、
   この石をへそ石と呼ぶようになったそうです。


《縁結びの六角柳》

(1)平安時代、嵯峨天皇は仏様から夢のお告げを受けました。
   そのお告げは、お妃を「六角堂の柳の下を探してみなさい」というものだったとか。

   嵯峨天皇はお告げ通り六角堂に行ってみたところ、
   柳の下には美しい女性があり、その方を妻にしたという伝承があります。

(2)それ以来六角堂の柳は縁結びのご利益があるとされ、
   現在でも縁結びを祈願する参拝者が絶えません。


   (http://www.mag2.com/p/news/249975


*六角堂
  → http://www.jisyameguri.com/chiiki/kyoto/rokkakudo/

            <感謝合掌 平成29年6月2日 頓首再拝>

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