伝統板・第二 195553

「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。


幸福の筐を開く③

1:夕刻版 :

2017/05/12 (Fri) 18:42:06

    *伝統板・第二「幸福の筐を開く②」からの継続です。
           → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6840845

(夕刻版にてお届けします)


《あなたの運命を左右する表情》

         *『白鳩』(昭和42年12月7日の箴言)より

   人相には運命があらわれるといわれている。
   しかし人相をよくするには、
   顔貌は自分の心の姿あらわすものであるから、
   心が明るくならねばならぬのである。

   心が明るくなるためには自分の不運を喞って見ても
   何にもならないのである。

   不運を歎き、不幸を呟き、悪い星の下に生まれたと思ったり
   言ったりしてみたところが、それは自分の表情益々陰気にする
   ばかりである。

   あなたの顔貌に暗い影が漂えば、その人の側に行っても
   暗い雰囲気を受けて気持が悪いから、人はその人に成るべく
   遠ざかるようになり、従って縁談なんか申込む人も
   一層少なくなるのである。

   先ず幸福になるためには、自分の表情を明るくすることである。
 

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「幸い (475)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=137     

(2)「光明掲示板・第ニ」内スレッド「幸福 (10773)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2071

(3)光明掲示板・第三「幸福 (85)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=42

(4)光明掲示板・伝統・第一「幸福への出発」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=17

(5)伝統板・第二「幸福の筐を開く①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6493420

             <感謝合掌 平成28年5月12日 頓首再拝>
2:伝統 :

2017/05/13 (Sat) 19:22:22


         *Web:MAG2NEWS(2015.12.08)より

幸福を感じるためには、

現状の自分が満足している(イエス)という前提に立って、
その理由を質問する形にするのが良い方法です。


たとえば

「なぜ私は現状に満足しているのか?」
(満足していることを前提として、その理由を質問する)

「私が幸せなのはなぜか?」
(幸せであることを前提としてその理由を質問する)

「誰のおかげで幸せを感じられるのか?」
(幸せであることを前提として、それが誰のおかげか、を質問する)

という質問です。

これらの質問を紙に書き出し、それに対する答えを考えてみましょう。

なぜ質問をすることに効果があるかというと、
質問には相手の考え方を強制する機能があるからです。

「あなたは幸せですか?」と質問されると、
「自分は幸せかな~、それとも、幸せじゃないかな~」と考え出します。

「なぜ幸せなのですか?」と質問をされると、
「なぜ幸せなのかな~」と考え出すのです。

そうすると、強制的に自ら幸せである理由を探し、
それに答えようとする意志が働きます。

すると質問に則った思考が生まれ、
次第に頭の中は満足している状態になります。


これは誰かに「幸せを感じなさい」と命令されるよりも格段に効果的です。

自分が幸せであると感じるためには、
能動的に、今まで気づいていなかった幸せに気づこうとしなければなりません。

質問は、そのきっかけをつくってくれるものです。

現実的に、悩みの元となっている状況を変えることには、
気持ちの問題だけではなく、行動が必要です。

しかし、行動するためには、まず気持ちを前向きにしなければなりません。

自分への質問を重ね、新しい自分に生まれ変わるための気づきを得てみてはいかがでしょうか。

   (http://www.mag2.com/p/news/129766 )

             <感謝合掌 平成29年5月13日 頓首再拝>
3:伝統 :

2017/05/14 (Sun) 18:05:37


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年12月26日)」より

   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   世の中にもっとバカな人を増やそう。
   そんなことを言うと、それこそ「バカなことを言うな」
   「科学者が無責任なことを」と叱られそうです。

   いまの世の中では、合理性や効率を追い求め、
   少しの労力で最大の成果をあげることができる「利口で賢い人間」が
   優れているとされるのですから、無理もありません。


   しかし、そうした利口さ、賢さが発揮できるのは
   条件が整った状況下だけではないでしょうか。

   つまり、そのような人々は、正解を導き出すための
   確実な知識やデータがあるときは活躍できるけれど、
   正解がわからないようなスケールの大きな問題にぶつかると、
   案外、右往左往してしまうものです。

   たとえば、「幸せに生きるとはどういうことか?」という問いは
   「幸せとは何か」という前提から自分で答えを探し出す必要があります。

   いまの世の中で「利口で賢い」とされる人々は、
   答えを導き出せず「考えても無駄だ」と放棄してしまうでしょう。

   そして、たとえば宮沢賢治の詩篇『雨ニモマケズ』に出てくるような、
   欲がなく、いつも静かに笑い、疲れた人がいれば荷物を背負い、
   世間から「でくのぼう」と呼ばれても気にもしないような人を見ると、
   蔑(さげす)んで笑ったり、邪魔者扱いしたりします。

   会社や学校の中でも同じです。


   みなさんの周りに、無駄や失敗が多く成績は決して良くはないけれど、
   いつもみんなにバカ話をして楽しませたり、他人を手伝うことを厭わない、
   いるだけでみんながホッとするような存在の人がいませんか?

   現代の日本人は、そういった人を許容できなくなっているのです。


   なぜ、そんな世の中になってしまったのでしょう。
   それは、多くの人が目に見えるものしか信用できなくなってしまったからです。

   何時間でどれだけ結果を出したかということは、目に見える形でデータ化できます。

   しかし、『その人の存在がどれだけみんなの気持ちを明るくさせたのか』
   なんてことは、到底データ化できません。


   生命の価値もまったく同じです。
   データ化できませんし、目に見えるものでは表せません。

   しかし、だからと言って、
   その人の生命が大切ではないということには決してなりません。


   『利口で賢い』現代人は、データ化できる世界にばかり重きを置いていて、
   目に見えるものしか信用しません。

   それは、私たちの生命の成り立ちから考えると、
   とても『不自然』なことのように思えてなりません。

         <『どうせ生きるなら「バカ」がいい』水王舎>

               ・・・

サン・テグジュペリの書いた「星の王子さま」に、こんな一節がある。

「じゃあ、秘密を教えるよ。とても簡単なことだ。
ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。
本当に大切なことは、目には見えない」


目には見えないけれど、大切なものはいくつもある。

それはたとえば、「愛」、「信用」、「誠実さ」、「やさしさ」、
「思いやり」、「幸せ」、「ツキ」、「運」、「夢」、「感謝」、「こころ」…


「幸せに生きるために必要なこと」

目に見えない大切なものを信じることができる人でありたい。

             <感謝合掌 平成29年5月14日 頓首再拝>
4:伝統 :

2017/05/15 (Mon) 17:46:33


       *「3賢者の成功哲学」リチャド・H・モリタ編著(P54~55)より

幸福は私たちの行為や、私たちの思想から、少しずつ集積されるもので形作られている。

つまり、日々の善行や、利己心のない行いや、正直な行為や、誠実な思想を、
ここに少し、あそこの少しと、永続的に少しずつ集積していくことで
獲得できるのである。

困難に打倒されている人を援助しては少しの幸福を集め、他人の利益のために
自ら犠牲を払ってはまた少しの幸福を集めるのだ。

幸福は、成功のように、何か一度に大きな物を獲得するようなことで
得られるものではない。それはちょうど、蜜蜂が花から花へと、
僅かな蜜を集めるようなものである。

蜜蜂は、出来合の蜜を集めるようなことはしない。
僅かな蜜を求めて、花から花へと実に勤勉に働く。

私たち人間の幸福もそれと同じく、出来合の幸福を獲得するようなものではなく、

蜜蜂と同じく、日々の生活という花園を飛び回り、花から花へと、少しずつ
これを集めていくことによって「幸福」と称される蜜を獲得するのだ。

したがって、その一生において、その僅かな蜜を最も継続的に、
最も多く集積した人が、最も幸福な人となる。

            <感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝>
5:伝統 :

2017/05/16 (Tue) 18:12:58


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年05月15日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   どうも、私たちには、
   「見ているのに見えていないもの」が、たくさんあるようです。

   私自身にも知らないがゆえに「見えないもの」が、山ほどあるに違いありません。
   その中の、とても重要なものに気がつきました。

   「幸せ」というものです。

   実は、私たちは「幸せ」というものの本質を知らなかったのかもしれません。

   「見てはいる」けれども、「見てはいない」ものの一つに、
   「幸せ」というものがあるように思えます。


   結論を言ってしまえば、「幸せ」の本質は「日常」なのです。

   「山のあなたの空遠く」にあるわけではありません。


   例えば、偏頭痛の人がいるとします。

   ずっと偏頭痛に悩んできた人は、
   「もしこの偏頭痛が消えてくれたら、どんなに幸せだろう」
   と思っていることでしょう。

   そして、ある日突然、その偏頭痛が消えたら、
   「何もない」「静かで平穏な」日々が、どれほど「幸せ」であるか、
   を実感するのです。

   では、その偏頭痛が今まで全くなかった人は、どれほど「幸せ」であったのか。

   まさしく「幸せ」の海の中に暮らしてきたのです。

   ですが、それが(偏頭痛が持続していたことが)自分の生活になかったがゆえに、
   自分が「幸せ」の中に暮らしていることを知りませんでした。


   「知らない」がゆえに「見えない」ものが、たくさんある。

   目に入っているにもかかわらず、
   「見えない」し、「わからない」「認識できない」のです。

   その代表的な例が「幸せ」であるのかもしれません。


   ある人が、例えば台所で、タクアンを切ながら、
   「あーあ、幸せ」と言ったとします。

   その人は、台所でタクアンを切っているだけで「幸せ」なのですから、
   「どこに行かなくても」幸せ、であるのです。

   「どこへ行かなくても幸せ」な人は、「どこに行かなくてもよい」のですから、
   「どこに出かけてもよい」ということになります。


   ドイツの詩人、カール・ブッセは、
   「山のあなたの空遠く『幸い』住むと 人のいう」と、詩に書きました。

   「ああ われひとと 尋(と)めゆきて」というのは、
   「友人と泊りがけで旅に行ってきたが」ということです。

   けれども、「涙さしぐみ かえりきぬ」、涙ながらに帰ってきたのだそうです。

   つまり、「幸」に会うことはできず、
   「悲しくて」涙を流しながら帰ってきた、ということなのです。


   それでも、「山のあなたに なお遠く 『幸』住むと人のいう」、
   とカール・ブッセは書いたのでした。

   海の中に住む魚には「海」の姿がわかりません。

   同様に、「幸」の中に住む人間には「幸」の姿がわからない。

   「見てはいる」が「見えていないもの」が、
   世の中にはたくさんあるのかもしれません。

            <『生きる大事 死ぬ大事』イースト・プレス>

                ・・・

小林正観さんは、「イライラさせる人がいる」わけではなく、
「イライラする自分」がいるだけだ、という。

同様に、「幸せという状態」があるのではなく「幸せを感じる自分」がいるだけ。

万人に共通する「幸せな状態」などない。

病気で入院中であってもその中に「幸せ」を見つける人もいるし、
大きくて立派な家に住みお金も十分あるにもかかわらず「不幸」な人もいる。


健康なときはそのありがたさや幸せに気がつかない。

病気になってみてはじめて、そのありがたさや幸せに気づく。

「明」は「暗」があるからこそ、「明」が際立つ。


『「どこに行かなくても」幸せ』

ディズニーランドやハワイに行けなくても、

今の日常で十分幸せを感じている人はいる。


『「幸せ」の本質は「日常」』

目の前の日常の中に、幸せを感じることができる人が、「幸せ」な人。


今ある幸せに気づける人でありたい。

            <感謝合掌 平成29年5月16日 頓首再拝>
6:伝統 :

2017/05/17 (Wed) 18:44:52


          *『白鳩』(昭和42年12月8日の法語)より

   自分の表情は、その人の対外的看板みたいなものである。

   「自分は斯ういう心をもっているのでございます。
   斯ういう心でおよろしかったら、どうぞお求め下さい」と
   PRしているようなものである。

   そして暗い陰気な〃顔〃という看板を出して、
   「どうぞお求め下さい」といっても買い手がつかないのと
   同じことである。

   無論、人間は商品ではないのだから、買い手、売り手の
   人間関係で比較するのは当を得ないけれども、

   商品でないだけに、一旦選んだら一生涯買いかえるのに非常に面倒で、
   多分一生連れ添わねばならぬ相手だと思うからには、尚一層のこと、
   暗い顔をしている婦人を一生の自分の伴侶として選ぶ筈はないのである。

   だから縁がおそくて、早く結婚相手をほしいと思う人は
   自分の「売り出し看板」である〃表情〃を
   もっと明るいものに取換えなければならないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

            <感謝合掌 平成29年5月17日 頓首再拝>
7:伝統 :

2017/05/18 (Thu) 19:21:42


《人間智慧を加えず》

        *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P89) より

人間の幸福というものは人間自身がつくるものではないのである。

人間自身の智慧巧者によって幸福がつくられると思って
色々と人間知恵をはたらかせて工夫することを、

『旧約聖書』の「創世記」に於いては、
アダムとイヴとが「智慧の樹(こ)の果(み)」を食べて
”エデンの楽園”から追放されたという象徴的神話によって
描かれているのである。

幸福というものは、日本語のその語源の「サイハヒ」が
「先(さ)き延(は)へ」とあるのでも判るように、
神の生命(智慧・愛等を含む)が、前方へ延長して来たのが
幸福(さいわい)であるのである。

“エデンの楽園”に人間が生活していた時には

「アダムとイヴとは”裸か“であった」

と聖書に録(しる)されているのは、

”人工を加えず“人間の知恵巧者で徒(いたず)らなる工夫を
加えなかったという意味であるのである。

人間の愚にもつかない智慧を加えずに、
其の儘(まま)、神の計画に随順するとき、
その人は本当に「幸福の世界」(エデンの楽園)に住むことができるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月18日 頓首再拝>
8:伝統 :

2017/05/19 (Fri) 18:41:11


        *『 生長の家 』(昭和25年11月19日の法語)より

   吾々の幸福、健康、成功が如何(いか)に
   自分自身の心の状態に関係して左右されるかを
   知らない人は非常に多いのである。

   若(も)しこの事実が、もう少し多くの人類に理会されるならば、
   人々は自己の不幸の原因を他に転嫁して
   他の人を憎んだり憤ったりしなくなり、

   自分自身を反省して心を改めるから、人類相互の争いはなくなり、

   人々は各々健康に富み栄えながら
   平和なる生活を送ることが出来るであろう。


   自分の心が周囲のすべての人を愛する時、
   自分も亦(また)周囲のすべての人に愛されるのである。

   何よりも此(こ)の思想の普及が人類の幸福の源泉である。

            <感謝合掌 平成29年5月19日 頓首再拝>
9:伝統 :

2017/05/20 (Sat) 19:43:16


       *「3賢者の成功哲学」リチャド・H・モリタ編著(P138~139)より

私たち人間は、誰でも誠実さと公平さを心の奥深い真の自己で持っている。
   
その尊い天性のものを、不誠実さや不正な行いで堕落させる時、
人は決して幸福になることはできない。君が本当に幸せになりたいのなら、
常に誠実であろうとすることだ。

ここから外れた瞬間に、真の幸福は羽根をつけ、あっという間に飛び去ってしまうだろう。

また、家庭で食べる食事が一番美味しいように、
幸福は、ささやかな日常のなかにある。

そして幸福は、実は自らの内に存在しているものであり、
それがどんなものであるのかを自分の内にはっきり見出すことだ。

幸福とは、心の状態のことである。

人は自己の内に秘めた最良のもの、つまり誠実さや正直さ、
そして公正さや素直な心持ちといったものを引き出せた時、本当の幸せが実感できる。
   
この原理を理解していないために、世界の至る所であらゆる不幸や犯罪が後を絶たないが、
こうした悲惨な出来事が起きるのは、人間の持つ残虐性が原因ではない。

自分自身を欺く人は、どんなに追い求めても、幸福はおろか、決局、何一つ得ることはできない。
  
人間を本当に幸せにするのは 良心だけだ、ということを、
よく覚えておいていただきたい。      <J・C・ペニーの幸福論(マーデン)>

            <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>
10:伝統 :

2017/05/21 (Sun) 17:53:35


          *『 生長の家 』(昭和23年9月11日の法語)より

   チャルス・ラムミスは人が行き詰った時には
   こう云うように思念せよと教えている。

   「 何事が起ろうとも自分はそのすべてのものより偉大なるものである。
   悲しみや、不幸や、苦しみが、どんなに自分に押し迫って来ても、
   それは自分の家の外にいるのである。
   自分は家の中にいてそれを入れない。
   私は鍵をもっているのである 」 と。

   其れは 確に明るい心に導く思念法である。

   更に 「 自分は神の子である。如何なる悪しき事も自分には起らない。
   悪く見ゆる何物も自分の家へ来れば善に変貌するのである 」 と
   思念すれば一層よい。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

             <感謝合掌 平成29年5月21日 頓首再拝>
11:伝統 :

2017/05/22 (Mon) 19:18:40


          *『 生長の家 』(昭和26年6月29日の法語)より

   多くの人々は自分を幸福だと思っていない。
   しかし本当は幸福なのである。

   本当は幸福なのに幸福だと思えないのは何故かと云うと、
   幸福な表情をすることを怠り、
   愉快な想念を心の容器(いれもの)に入れるかわりに、
   わざと不愉快な想念を入れているからである。

   吾々は自分の想念と自分の言葉とを
   子供が危険な淵(ふち)へ墜落するのを見戊(みまも)ってやるかの如く、
   看戊ってやらなければならないのである。

   想念の雑草を刈りとることが大切である。
   言葉の棘草(いらくさ)を刈りとることが大切である。

   そして自分の植え付けようと思う楽しい想念だけ植え付け、
   楽しい表情だけをすることが大切である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

             <感謝合掌 平成29年5月22日 頓首再拝>
12:伝統 :

2017/05/23 (Tue) 19:08:42


          *JAFMate(平成29年)6月号(P5) より
            ~作家・佐藤愛子さん

(佐藤さんはもう既に90歳、詩人のサトウハチローさんの異母兄弟だそうです、
「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を、「血脈」で菊池寛賞を受賞されています、
又昨年には「九十歳。何がめでたい」が大ヒットしました)

・・・

今回のテーマは「幸せって何だろう」ですが、
大正から戦前までは幸せにはひとつの似通った形みたいなものがあったけれども、
今は多様化の時代で、幸せの形は人それぞれでその人の価値観によって
違って来たと感じている。

私は2度の離婚や夫の作った借金の返済などで、人から見たら波乱の人生で
「不幸で気の毒な人」と思われて来たが、生きるのに精一杯で、
幸せとか不幸とか考える暇さえなく、それは或る意味で幸せだったかも知れませんね。

夫の借金も法的には私が返さなくてもよかったんです。
でも、借金した本人は逃げてしまって、小さな子供がいて逃げようのない
私のところに借金取りが来るんです。

私にとっては、逃げるより引き受けるほうが楽だった。

正々堂々と生きるのが、私ににとって”好ましい”こと。
借金取りでも何でも、道で会ったら隠れたりしないで、「こんにちは」
って言いたいじゃないですか。

だから、そうしただけなんです。

私はいつでも自分がしたいように、心のままに進んできました。
だから人生に満足しています。

今になって思うのは、こんな私の人生の道しるべ、佐藤愛子という人間を
作ったのは、乳母やや両親、師など、まわりの人たちの言葉だったと思います。

甘やかせて育ち、小学校に行きたくないと駄々をこねる私に乳母は、
「なんぼお嬢ちゃんやかて、大きゅうなったらどうしてもせなあかんことが、
世の中にはおますのやで」と、人生最初の教訓を与えてくれた。

校長先生をとてもえらい人だと思って怖がっていた私に母は、
「豆腐屋のオッサンかて校長先生かて、おんなじ人間ですがな。何がえらい」
と言いました。

「カネカネと言う奴にロクな奴はおらん」という、明治生まれで作家だった
父の口癖も、私の体の奥に沁み込みました。


小説を書いてもまったく売れなかった私に、
「女に小説は書けないよ、女はいつも自分を正しいと思っている。
そしてその正しさは感情から出ている」と言って呉れたのは、
詩人の吉田一穂(いっすい)先生でした。

その言葉から私は、客観性を身に付けること、
まずはそこから始めなければ、と気が付いたのです。

誰にだって、折に触れ、まわりの人はいいことを言って呉れていると思いますよ。
要はそれを吸収できるかどうか。

今は昔と違って物質的に豊かです。
”当たり前” ”もっともっと” と思わずに、感謝する。
そうすれば、心も幸せになれるかも知れませんね。

             <感謝合掌 平成29年5月23日 頓首再拝>
13:伝統 :

2017/05/24 (Wed) 18:31:29


         *「生長の家」(昭和51年6月8日の法語)より

   さて、『愛と光との生活』の本には

   「皆さんが幸福な成功をしようと思ったら、
   手足を無暗に動かすまでに、心の向きを”幸福 行”にして
   置かなければなりません」

   と書かれている。

   手足は自分で行き先の方向をきめず、
   ”心”がその方向を定(き)めるのであるからである。

   しかし”心”は如何にすれば、その習慣的方向を
   定(き)めることができるであろうか。

   暗い心を明るくしよう と思っても、従来の習慣や惰力では
   どうしても心が暗くなる人があるのである。

   そこ で”心”を支配するものは何か ?
   という重要な問題に逢着するのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

             <感謝合掌 平成29年5月24日 頓首再拝>
14:伝統 :

2017/05/25 (Thu) 17:59:06


         *「生長の家」(昭和51年6月14日の法語)より

   以上は常に善業を蓄積している人のことであるが、
   過去に悪業を積み重ねて来て、暗い現象を見、心が暗くなり、
   心に暗いアイディアのみ が想い浮び、

   そのアイディアの具象化として暗い運命、
   不幸や災厄や病気のおとずれに見舞われ、その現象を見て、

   更に心が暗くなって、暗い事のみ心に思い浮かぶような気の毒な人は、
   どうしたらこの業の流転を喰い停め、業力に翻 転せられる事なしに、
   幸福の”人生電車”に乗り換えることができるのだろうか?

   それは、”不幸の業力”の電車に乗っている ままだから、
   その「不幸電車」が運んで行くところについて行くより
   仕方がないのである、

   「 幸福新幹線の電車」に乗り換えればよいのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

             <感謝合掌 平成29年5月25日 頓首再拝>
15:伝統 :

2017/05/26 (Fri) 19:10:55


         *「生長の家」(昭和51年6月15日の法語)より

   「幸福新幹線」に乗り換えるというのは、 言葉はやさしいけれども、
   一体、具体的に は、どうすればよいのであろうか。

   人間の 住む世界は”心の世界”であるから、
   ”自分の 心”が不幸 ばかりの”暗い世界”を描いて、
   その自分の描いた”暗い世界”に、”自分の 心”が
   今まで住んでいたのであるから、そんな”暗い世界”から
   ”自分の心”を呼び出せば よいのである。

   「一躍超入実相地」ともい うべき境地に入るのである。

   今まで”自分の 心”という”生活の 原点”が、
   ”現象の脚場”の 上に立ち、”現象 の周囲”を見廻して、

   その現象の暗さのみを見て、暗いアイディアを積み重ねて来たために、
   そのアイディアの 具象化としての暗い世界ばかりがあらわれていた
   のであるから、

   今度は、「われ今五官の世界を去って、実相の世界に入(い)る」と、
   神想観実修の最初の「観の原点」の転換をするために
   唱える言葉にある如く、

   今まで”五官の世界”(現象界)に立って、
   現象界の暗い事象のみを眺めて来ていた其の「観の原点」を、
   実相世界に移すのである。

   そして新しき”観”がはじまる。

   神の無限に完全なる智慧が満ち、その、完全なる智慧によって
   構図されたる無欠の実相世界が今ある。

   其の万徳現前の世界を”観 る”のである。
   ”観る ”ことは、”既にある”も のを顕すことになるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

             <感謝合掌 平成29年5月26日 頓首再拝>
16:伝統 :

2017/05/27 (Sat) 19:45:05


          *『生長の家』(昭和25年7月27日の法語)より

   「 どうして あの様な立派な人も不幸になるのだろうか。
   心善きものがよき運命を受けると教えられているのに 」
   という人があるのである。

   然(しか)し乍(なが)ら吾々の心には
   現在意識と潜在意識とがあるのである。

   現在意識では心のよきものも、
   潜在意識の底に自分の現状にあきたらざる思いがある場合には、
   その現状を破壊して新境地に出でんがために
   現在の環境に斧鉞(ふえつ)を加えて打ちくだいて
   しまうことがあるのである。

   現在の破壊は新しき進歩への道である。

   いつまでも腰弁でいるのが
   人間の目的ではないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

             <感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>
17:伝統 :

2017/05/28 (Sun) 19:16:27


          *『白鳩』(昭和42年12月11日の法語)より

   自分の感情想念を暗い方から明るい方向に変革するには、
   人間の根本運命が、〃神の子〃であり、神様の御子であるから
   必ず幸福であるほかあり得ないという理を
   充分自分の潜在意識に納得せしめなければならないのである。

   人間の潜在意識は合理性に従うという一般傾向をもっていて
   合理化を好むのである。

   潜在意識を理論的に説き伏せれば、その通りに潜在意識は動きはじめ、
   人間の潜在意識はその奥底に於いて宇宙の潜在意識につながっているので、
   宇宙の潜在意識に感応して、宇宙の創化力の力が、
   その念じたとおりのところのものを実現してくれることになるのである。

   そこであなたは自分の潜在意識に先ず
   「人間は神の子であり、本来幸福な運命を与えられているのだ」という
   真理を納得せしめなければならないのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

             <感謝合掌 平成29年5月28日 頓首再拝>
18:伝統 :

2017/05/29 (Mon) 20:52:36


         *『 生長の家 』(昭和44年12月15日の法語)より

   私たちは今すぐ自分の境遇を幸福なものに
   変化することが出来るのである。

   それは自分自身の心が先ず変ることである。

   「心はすべての造り主」であるからである。

   先ず 自分自身が調和の心を起すがよい。

   そのためには人の欠点を見つけて、あれこれ批評したり、
   悪口を噂したりする心を棄て、

   それに置き代うるに、人の美点のみ見つけて、それを称讚し、
   祝福の念を送るようにすることだ。


   また自分の今ある生活の不足を数えて
   それを不平に思ったり呪ったりすることを止め、

   どんな貧しい生活の中にも見出される幸福を
    ー 空気がある幸福を、食物がある幸福を、
   兎も角、住む部屋があり、兎も角、今着ている衣服がある幸福
   ・・・等々を、かぞえて、それに感謝する心を起すことである。

   そこからあなたの一層幸福な境遇が展開して来るのである。

   とも角、不平を思う代りに感謝するようにしなさい。
   そこからあなたの幸福な境遇も環境も生まれて来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/980012aca462fb48c91cbd059f831b52

             <感謝合掌 平成29年5月29日 頓首再拝>
19:伝統 :

2017/05/30 (Tue) 18:57:34


        *『幸福を招く365章』第9項(P180) より

「われは今幸福で健康である」と念ずれば、
必ず自分は今幸福に健康になるのである。

もしその思念が成就しないならば、
次の瞬間に「われは今不幸で病気である」と
念じかえるからである。

「不幸」を握っていて幸福になれると思ってはならぬ。

幸福になるためには、幸福の心を出して来なければならぬ。
「わたしは今幸福である」と云う風にである。

幸福の心を出して来れば、表情も態度も言葉の調子も幸福そうになり、
周囲に集まって来る人も幸福そうな表情で呼びかけて呉れ、
幸福な愛にみちた言葉が花降るようにその人を飾ってくれるのである。

「私は今、幸福で健康である」と暇があったら心のうちで唱えようではないか。


             <感謝合掌 平成29年5月30日 頓首再拝>
20:伝統 :

2017/06/01 (Thu) 20:21:00


        *『幸福を招く365章』第9項(P181) より

何が過去にあったにせよ、あなたは過去を心の世界から放すのである。
過去は「今の心」が捉えるからこそ悩みのもとになってくるけれども、
「今の心」が捉えない限りは、あなたを捉えて悩ますことが出来ないのである。

何が未来に起るにしても、未来は未だ来たらざるものであって、
「今の心」がそれを捉えない限りは自分を悩ますことは出来ないのである。

だからあなたは、もう決して、過去のことを思い煩わず、
未来のことに取り越し苦労することはないのである。

悲しみよ、あなたの心から去れ。
恐怖よ、あなたの心から去れ。
悲しみも恐怖も、最早あなたを訪れることはないのである。

唯幸福のみがあなたを訪れる。


             <感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/06/02 (Fri) 21:00:19


        *『幸福を招く365章』第11項(P234) より

神は幸福の源泉であり、人間に幸福を与うることを悦び給うのであって、
決して人間に不幸や貧乏や病気を与え給うのではないのである。

不幸や貧乏や病気は、吾々が勝手に神を拒んだ結果に過ぎないのである。

神は幸福の源泉であるけれども、
人間に完全なる自由を与え給うていられるのであるから、
それを吾々自身が拒む場合には幸福を強制し給うことはないから、
自己選択によって不幸や病気や貧乏があらわれて来るのである。


それは写真師が焼付の時間を選択することによって、
呆(ぼ)けた調子の写真でも、ドギツイ調子の写真でも、
完全な写真でも造り出し得るようなものである。

(初出~「生長の家(昭和26年5月21日)」)

             <感謝合掌 平成29年6月2日 頓首再拝>
22:伝統 :

2017/06/03 (Sat) 19:31:03


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月3日)より

吾々は誰も幸福を求める。

然し乍(なが)ら大抵は外の世界にそれを求め、
外の手段方法をとつおいつ心配して心を労するのである。

併しそれは拙劣(せつれつ)なる求め方である。

労して誰も幸福になれるのであったら、
「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺その儘に
誰も彼も幸福に豊かに富める筈であるが、

事実は

「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)
楽にならざりじっと手を見る」

という石川啄木の歌のように、いくら人間力で労して見ても
幸福になり切れない場合が多いのである。

ここに反省しなければならぬものがある。

心の方向を転換しなければならぬ。

             <感謝合掌 平成29年6月3日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/06/04 (Sun) 18:46:27


ロバート・ウォールディンガー: 人生を幸せにするのは何?最も長期に渡る幸福の研究から

       *Web:TED(2016/2/2(火))より

一生を通して私たちを 健康で幸福にしてくれるのは 何でしょう?
最高の未来の自分に 投資するなら、自分の時間とエネルギーを 何に使いますか?

新世紀世代を最近調査し、最も大切な人生の目的は 何かと訊ねました。

80%以上の答えは 主な人生の目的は、富を蓄える事で
その同じ若者の50%の もう1つの大きな目的は、有名になる事でした。

(笑)

働き 更なる努力をし、もっと成果を出すようにと、常に求められている世の中です。
良い人生を送る為には そうする必要があると 誰もが思わされています。

自分の全人生を ―― 自分の選択がどう人生を描いて行くか
を予測するなんて、殆ど不可能です。

人の人生に関しての凡そは、その人の過去を思い出してもらう事で分かりますが、
ご存知のように、それは あまり頼りにはなりません。

過去に起きた内の 膨大な量は忘れ去られ、時には完全に創作された記憶さえあります。

では ある人の全人生が展開されるのを、観察しながら 記録できないものでしょうか。
人々を10代の頃から老年まで追い、幸福と健康の持続に、本当に何が必要なのか、
探索しようと始めたのが 我々の研究です。

ハーバード成人発達研究は 、上最も長期に渡って成人を追跡した研究です。
75年間724人の男性を追跡し、休むことなく、
仕事や家庭生活、健康などを記録しました。

勿論 その期間中、我々は 彼らの人生がどう展開するかは、知る由もありませんでした。

この様な研究は非常に稀です。
こんな計画は10年もしない内に、頓挫してしまいます。

あまりに多くの人が途中で、プロジェクトを降りてしまう、
研究の資金が不足して来る、
研究者達が他の事で忙しくなったり、亡くなってしまう、

などが原因で、進行が止まってしまうからです。

我々の場合は運が良かった事もあり、数世代の研究者達の 根気強さのお陰で、
この研究は生き残りました。

元の724人の内の約60人が、未だ健在で、今も研究に参加しています。
その殆どが90歳代です。

新しく研究に、2千人以上の彼らの子供達にも 参加してもらっています。
私は4代目の研究責任者です。

1938年以来、男性の2グループを追跡しています。
1番目のグループは研究が始まった時、ハーバード大学の2年生で、
第2次世界大戦中に大学を卒業し、殆どが戦争に行きました。

2番目のグループには、ボストンの極貧環境で育った少年達が、
この研究の為に選ばれました。
1930年代のボストンで、最も問題の多い貧困家庭出身の人達だからという理由からです。
水道設備もないような安アパートに 彼らの殆どが住んでいました。

研究が始まるとすぐ 10代の彼らをインタビューし、健康診断を受けさせました。
我々は彼らの家に行き、ご両親達もインタビューしました。

その少年達が今大人になり、様々な人生を歩んでいます。
工場労働者や弁護士 レンガ職人や医師になったり、
1人はアメリカの大統領になりました。

中にはアル中になった人や 統合失調症になった人もいます。
この様に社会の底辺から這い上がり、ずっと上まで登り詰めた人もいる一方、
それとは反対の方向に人生を 辿って行った人もいるのです。


この研究の創始者達は 思いもしなかった事でしょう。
75年後、今日ここに私が立って、研究は未だに続いている事を。
こうして話しているなんて。

1年おきに我々の仕事熱心な 忍耐強い研究スタッフが、参加者に電話をし、
彼らの生活に関しての 質問表を送っても良いかと訊ねると、

ボストンスラム街の 男性の多くはこう問い返します。
「なぜ俺を研究し続けたいんだ? 俺の生活は面白くもないだろう」

ハーバード群からは 決して出ない質問です。

(笑)

彼らの生活をしっかり把握する為、質問表を送るだけが仕事ではありません。
参加者の居間でインタビューしたり、彼らの医者から医療記録も手に入れます。
血液検査をし脳画像を撮り、子供達からも話を聞き、
彼らが妻と最も気がかりな事に関して 話し合っている所を撮影します。

約10年前、参加者の妻達にも研究参加をとお願いすると、
彼女等の多くは、こう言いました。
「そう言ってくれるのを待ってたわ」と。

(笑)

これから分かった事は、彼らの人生から得た 何万ページにもなる情報から、
分かった事は何でしょう?

それは富でも名声でも無我夢中で働く事でもなく、
75年に渡る研究から はっきりと分かった事は、
私たちを健康に幸福にするのは、良い人間関係に尽きるという事です。

これから人間関係に関して、3つの大きな教訓がありました。

(1)第一に周りとの繋がりは、健康に本当に良いという事。
   孤独は命取りで、家族 友達 コミュニティと よく繋がっている人程
   幸せで、身体的に健康で、繋がりの少ない人より長生きする
   という事が 分かりました。

   孤独は害となるという研究結果が出たのです。

   孤立化を甘んじて受け、生活している人は あまり幸せに感じていないのです。

   中年になり健康の衰えは早く、脳機能の減退も早期に始まり、
   孤独でない人より 寿命は短くなります。

   悲しい現実ですが、これから先 いつでも
   アメリカ人の2割以上は 孤独だと回答するでしょう。

   しかし 群衆の中や 結婚生活の中でも孤独を感じることはあります。
   つまり、ここで重大な事は、友人の数だけがものをいうのではなく、
   生涯を共にする相手の 有無でもないのです。

(2)重要なのは、身近な人達との関係の質なのです。

   争いの真っただ中で暮らすのは、健康に悪い事が分かっています。
   例えば愛情が薄い、喧嘩の多い結婚は、健康に悪影響を及ぼし、
   恐らく離婚より悪いでしょう。

   愛情のある 良い関係は 人を保護します。

   我々は参加者全員を追跡し、彼らが80代になった時、
   中年の彼らを振り返り、誰が健康で幸せな80代になったか
   予測してみたかったのです。

   彼らが50才の頃に得た 彼らのデータを全て集めてみると、
   中年のコレステロール値等とは 関連性はなく、

   どの様な老年を迎えるかは、当時の人間関係の満足度で
   予測される事が分かりました。

   50才で最も幸せな人間関係にいた人が、
   80才になっても一番健康だったのです。

   親密な良い関係が クッションとなり、加齢過程での様々な問題を
   和らげてくれてるようです。

   中でも特にパートナー共に 幸福だと感じていた人達は、
   80代になり、身体的苦痛があっても、精神的に幸福だ
   という報告が出ています。

   しかし不幸な関係にある人達は、身体的苦痛がある日には、
   精神的苦痛でその身体的苦痛が 更に増幅されていました。

(3)人間関係と健康に関して 分かった3つ目の大きな事は、
   良い関係は身体の健康だけでなく、脳をも守ってくれるという事です。

   堅固な良い関係をしっかりと、80代にまで持ち続ける人は、
   その関係に守られています。

   そういう関係にいる人 ―― 何かあった時 本当に頼れる人がいる、
   と感じている人の記憶は はっきりしています。

   一方 パートナーには 全く頼れない、と感じている人には
   記憶障害が早期に現れ始めます。

   良い人間関係といっても、波風がない訳ではありません。
   ある80代のカップルは、明けても暮れても小言を言い合っている
   かも知れませんが、お互い頼り合える と感じている限り、
   彼らが苦難に遭遇した時、口論しても後々まで残る、という事はありませんでした。


この教え ―― 親密で良い関係は 包括的に 私たちに益となっているという教えは、
今に分かった事ではありませんね。
何故そんな関係は築き難く、無視され易いのでしょう。

誰もそうですが、私たちは手っ取り早く、手に入れられる生活を
快適に維持してくれるものが 大好きです。

人間関係は複雑に込み入っています。
家族や友達との関係をうまく 維持して行くのは至難の業です。
その地道な努力は地味で、その上その仕事は 死ぬまで続きます。

75年間に渡る研究で、定年退職後 一番幸福な人は、
仕事仲間に代わる新しい仲間を 自ら進んで作った人達です。

最近の調査での 新世紀世代のように、この研究の参加者の多くは、
彼らが青年期に入った時、名声や富や業績が 良い生活をするには 必要なものだと、
本当に信じていましたが、

75年もの間、我々の研究で 繰り返し繰り返し示されたのは、
最も幸せに過ごして来た人は、人間関係に頼った人々だという事した。

それは家族、友達や、コミュニティだったり様々です


あなたはどうですか?
今 あなたが25才、40才、60才なら、
あなたが人間関係に頼るとは どういう事なのかでしょうか?


あなたに出来る事は、実際 無限にあります。
テレビやPCの前の時間を 人と過ごす時間に充てる。
新鮮さを失った関係を活気づける為、何か新しい事をパートナーとする。
長い散歩とかデートなどです。

また何年も話していない家族に 連絡を取るのも1つの方法です。
よくある家族の いざこざは、遺恨を抱く人々に ひどい悪影響を及ぼすからです。


最後にマーク・トウェインの言葉を 引用して終わります。
1世紀以上むかし、彼は人生を振り返り、こう書きました。

「かくも短い人生に、諍い、謝罪し、傷心し、責任を追及している時間などない。
愛し合う為の時間しかない。 それが例え一瞬にすぎなくとも」

良い人生は良い人間関係で築かれます。

ありがとうございました

(拍手)

    (http://digitalcast.jp/v/23938/

             <感謝合掌 平成29年6月4日 頓首再拝>
24:伝統 :

2017/06/05 (Mon) 19:27:27


         *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P125) より


悲しみを棄てよ。怒りを棄てよ。憎しみを棄てよ。
そこから天国浄土が実現するであろう。

よくよく考えて見るならば、
真に悲しむべき事は一度もこの世界に起こったこともなければ、
これからも起こらないであろう。

あの戦争の犠牲者となって霊界に逝(おもむ)いた人たちも、
本当はその霊魂は生き通しであって、決して死んではいないものであるから、
現象界は“想像の影”の世界にすぎないのであって、

実在 ―― 即ち「本当に在るもの」は、
未だ嘗て無くなりはしないし、無くなるものは、
“本来無いもの”ばかりであるからである。

もし悲しみや、怒りや、憎しみを起こすならば、
その人は事物の暗い面のみを想像し、
必要以上に、不幸や悪を拡大して見、

みずから好んで自分の想像がつくり出した暗い
煙の中に窒息してしまうことになるであろう。

不幸は想像することによって増大し、
悲しみは“類は友を招(よ)ぶ”ことによって
続々その数を加えて来るのであろう。

不幸が起こったときには、これで不幸は出尽くしたと思うのがよい。
悲しみが起ったら、これで悲しみは出尽くしたと思うがよい。

そしてみずからを祝福し、みずからを歓喜せよ。

             <感謝合掌 平成29年6月5日 頓首再拝>
25:伝統 :

2017/06/06 (Tue) 18:55:53


        *『 生長の家 』(昭和24年12月22日の法語)より

   人間が幸福になり、無病健康になろうと思えば、
   不幸や病気を口実にする心を捨てなければならない。

   不幸や病気を口実にして人から憐(あわれ)まれようと思うと、
   潜在意識が不幸の運命のところへ自分を引着けて行き、
   そして人から憐まれたい目的を達するのである。

   病気を口実にして会社を休みたいと思うならば
   その人は病気にかかるであろう。

   多くの人は病気をもって他から同情されたいと思って
   病気になっているのである。

   だからその証拠に自分の病気を人に訴えたくて仕方がないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

             <感謝合掌 平成29年6月6日 頓首再拝>
26:伝統 :

2017/06/07 (Wed) 19:21:37


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月7日)より

神は吾々の親様である。
神が吾々に不幸を強要したまうことはあり得ないのである。

神は吾々神の子に幸福を与えたくて仕方がないのである。

幸福が来ないのは親が与えたまわないのではなく、
『法華経』の長者窮子の譬えにあるように
神の子みずから親のみ許(もと)をはなれて神
の賜(たまもの)から逃げ出しているのである。

先ず自身が神の子であると知ることが
貧窮の子が長者の父のみ許(もと)に到ることにあたるのである。

そして自分の本来の位置を自覚して人間を、
不幸になるよう定められているような下らないものだと思わぬことである。

             <感謝合掌 平成29年6月7日 頓首再拝>
27:伝統 :

2017/06/09 (Fri) 19:52:09


          *『生長の家』(昭和25年8月14日の法語)より

   人間が健康や幸福を欲するのは、
   健康や幸福が人間の本来の相(すがた)であるからである。

   本来の相が病気であるならば、病気に対して何の矛盾をも感ぜず、
   病気から免れようとは思わないであろう。

   本来の相とは、神がつくった其の儘の相を指すのである。

   本来の相が健康だと云うことは、
   神の造った本当の相が健康なのであって、
   神の意志は人間が健康であると云うことなのである。

   然(しか)らば、神が人の罪に対して罰を与えて
   病気にしたり不幸にしたりするなどと云うことも
   あり得ない筈(はず)なのである。

   神罰の観念を捨てよ。
   汝(なんじ)が病気であったり不幸であるのは
   神罰ではないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

             <感謝合掌 平成29年6月9日 頓首再拝>
28:伝統 :

2017/06/10 (Sat) 19:41:00


       *Web:MAG2NEWS(2017.04.21)より
               ~ ハーバード大講師がTEDで明かした意外な方法

(1)人の幸せは環境に左右されない

  ①「人の幸せは環境によって決まる」と思われがちですが、
   実際に環境が影響するのは、幸せの10%で、
   残りの90%はその人が世界をどう見るかによります。

  ②自分が幸せかどうかは環境が決めるのではなく、
   環境を自分の脳がどう捉えるかで決まってくるのです。

(2)幸せだと成功する

  ①必死にやれば成功できる、成功すれば幸せになれる、
   幸せになるには成功しなくてはならない、こうした考え方は逆です。

   なぜなら、成功する度に脳がゴールを設定し直すからです。
   幸せが成功の向こう側にあるなら、脳は到達できません。
   「成功すれば幸せになる」と言う考えに囚われているからです。

  ②でも、脳は、その考えとは逆の働き方をします。
   幸せな気分だと脳は良く機能するのです。

   思考力や生産性も上がることが証明されています。

   ポジティブな状態の脳はネガティブなときより生産性が31%も高くなるのです。

(3)脳を前向きに、幸せにする5つの訓練法

  ①毎日感謝していることを3つ書く。
   これを3週間続けるとポジティブに捉えようとする考え方が身につきます。

  ②ポジティブな体験を日記に書く。
   日記に書くことにより、脳が追体験をします。

  ③運動する。
   運動をして行動が大切だと脳に教えます。

  ④瞑想する。
   複数の作業をこなそうとして発生する問題を瞑想して克服します。

  ⑤意識して親切な行動をとる。
   誰かに感謝のメールや手紙を書くというのもいいでしょう。

   (http://www.mag2.com/p/news/247060

             <感謝合掌 平成29年6月10日 頓首再拝>
29:伝統 :

2017/06/11 (Sun) 20:08:29


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月11日)より

金(かね)が幾億万円自分の前に積み上げられたとて、
それを使うことができなければ自分が幸福だというわけではない。
そこでわれらは、金を使うことができるので幸福だと考える。

では魔法使いが一瞬目の前に幾億万円の金をあらわして、次の瞬間その幾億万円を眼界から
消し去って「もうお前は金を使ってしまった。お前は金を使ったから幸福だろう」と宣告しても
われらは幸福になれる訳ではない。

そこで「それが幸福でないのは、その金を自分で使わないからだ」とわれわらは考えるであろう。

では、自分で金を使うことが幸福であろうか。
金を自分で使うのが幸福であるならば、なぜ金持はその金を召使や他の人に対して
自分が坐っていて必要な品物を買わせているのであろう。

なんでも自分で買物に出かけなければ幸福でありえないというならば、
金持はその多くの金を消費するために、毎日自分で多数の商家を訪問して歩かねば幸福に
なりえないであろう。しかしそんなことをしている金持も幸福者も一人もない。

そこでこんなことがわかる。
金はたくさん持っているということが幸福ではなく、それを使うということが幸福でもなく、
自分が使うということが幸福でもない。

金というものは持っていても使っても幸福になんの関係もないものなのである。
ただ金はわれわれに、また他々(ひとびと)に、働きの動機を与える。
金はわれわれを、そして人々を働かせる媒介となるものなのである。

その「働き」または「働かせ」の感じが幸福であるのを錯覚して
「金が幸福を与える」と誤想しているのである。

働き ―― 活動 ―― のみが人間の本当の幸福なのである。
猟師は獲物をことごとく自分が食べるのではない。
猟師は猟(りょう)をすること、その働きのみが楽しいのである。

人を救うことそのことが楽しいのである。
救った結果収入がないとかあるとかいうことは問題ではない。

多くの生長の家の誌友たちが自分で自動車賃などを費やして、
人々を救(たす)けてあげているのは涙ぐましい立派な行ないであるが、
それはその人の中に宿っている「神」が働いているのである。

「神」は「生命(せいめい)」であり「働き」である。
働くもののみが幸福であり、健康であり、活々(いきいき)してくるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月11日 頓首再拝>
30:伝統 :

2017/06/12 (Mon) 18:43:06


「ダイヤモンド」と「コップ一杯の水」あなたはどちらが大切ですか?

           *「上気元」斎藤一人・著(P74~77)より

ここでちょっと質問です。

「ダイヤモンド」と「コップ一杯の水」、あなたはどちらが大切だと思いますか?

「コップ一杯の水」と答えたあなた。

なぜ、「コップ一杯の水」の方が大切だと思うのでしょうか?

「もし砂漠に行ったら、ダイヤモンドがあっても、
水がなきゃ死んじゃうかもしれないから…」
と思っているでしょう。


その考え方なんです、不幸になっちゃうのは…。

日本に砂漠はありません。
せいぜい鳥取の砂丘くらいです(笑)

でも、鳥取の砂丘にはお土産屋さんがいっぱいあって、
水に困るようなことは絶対にありません。

もしサハラ砂漠に行くことになったとしても、
砂漠の真ん中に、オレたちが行くことなんかないんです。
せいぜい砂漠のばじっこで、写真でも撮って帰ってくるのがオチでしょう(笑)

砂漠がない日本で、なぜ砂漠のことを考えるのでしょう。
日本っていう国は、水は山ほどあるんです。

もし自分の水がなくなったとしても、誰かの家に行って、
「すいません、水一杯頂けませんか? 」って言えば、
まちがいなくもらえるでしょう。


なぜ、最悪のことを考えるのでしょう。
わかりますか?


「ありえないことを想像する」

それが不幸の元なんです。


「ダイヤモンド」と答えた人は、不幸な想定をせずに、素直に答えた人です。
余計な心配をせずに、常に「幸せなこと」を考えている人は、幸せになれるんです。

ありもしないことを想像するのはやめましょう。
不幸っていうのは、考えれば、考えるほど、どんなことでも想定できるんです。

            <感謝合掌 平成29年6月12日 頓首再拝>
31:伝統 :

2017/06/13 (Tue) 19:50:30


          *『生長の家』(昭和25年8月15日の法語)より

   何が人間を不幸にし不健康にするかと云うと、
   無智がするのである。

   それは真理を知らぬからである。

   神が与えたところの幸福である権利、健康である権利に目覚めず
   人間は肉体であるから病気になるほかはないと思い、
   人間は罪が深いから不幸になるほか仕方がないと思っているからである。

   本来人間には罪がないのである。
   神様は罪をつくらないからである。

   本当の罪とは、ツツミが語源であって
   本来 健康であり幸福である真理を包み隠しているからである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

            <感謝合掌 平成29年6月13日 頓首再拝>
32:伝統 :

2017/06/14 (Wed) 19:55:23

健康のありがたみ、親の七光りのありがたみを持っている人は、それが、なかなかわからない

           *「上気元」斎藤一人・著(P78~81)より

いまの自分の状況や、いま自分に起こること、
何でも「幸せ、幸せ」って言っていれば、「最高に幸せ」になるんです。

それをやり続けていつ人間には、次から次へと幸せがきちゃうんです。

でも不幸な人は、「こんなに幸せでいいのかしら・・・」
とか、いまある幸せすら喜べないんです。

たとえば健康な人は、健康なありがたみが、なかなかわかりません。

だから病気になって初めて「健康のありがたみがわかった・・・」としみじみ言うんです。

親がお金持ちだったり、有名だったりする人は、「親の七光りはイヤだ」って言います。
「親の七光り」でも「八光り」でもいいんです。
自分がいま持っているものを「幸せだ、幸せだ」と言って、感謝する。
そうすると、さらなる幸せが必ずくるんです。

「親の七光り」も利用できない人が、一番困るんですよ。

日本に生まれただけで幸せなんです。
日本って、ホームレスの人でも太っているくらい、豊かな国なんです。
これがどっかの将軍様の国に生まれていたら、大変ですよ。

まずは、いまの状況の中から、幸せを探すことです。
そうすると、次から次へと、幸せは波動によって連鎖するんです。

だから「幸せな人間」は、次も幸せを呼び寄せて、さらに幸せを呼び寄せる。

幸せがあるのに、「不幸だ、不幸だ・・・」って言ってると、
ろくでもないことを引き寄せるんです。

不幸せは、不幸せしか、招かないんです。

            <感謝合掌 平成29年6月14日 頓首再拝>
33:伝統 :

2017/06/16 (Fri) 18:18:51


          *『生活の智慧365章』(P195)より

あなたの受くべき運命を「最高」のものとして想像せよ。
而してその「最高なるもの」が自己に近づきつつあると信ぜよ。

毎日毎日自分は一層幸福になり、一層健康になり、
一層繁栄に向かいつつあるのだと信ぜよ。

この明るい精神の根本的態度があなたを今よりもいっそう幸福に健康に繁栄に導く、
精神的導火線を築くことになるのである。

毎日毎日神の最高の智慧が自分をみちびくのであると信ぜよ、
かく信ずることによってあなたの精神は一層多く神の智慧に波長が合い、
神の智慧を一層完全に受信することができるのである。

神と自己との分離を想像してはならない。
つねに神とつながり、神に護られている自覚を持っていなければならない。

自分自身を自分の想念によって自己縮小してはならない。
常に「自分は神の子である」と云うことを黙念して自覚を強め、
もって、自己強化をはかるべきである。

            <感謝合掌 平成29年6月16日 頓首再拝>
34:伝統 :

2017/06/17 (Sat) 20:18:07


         *『生命の實相』第20巻聖詩篇(P187~188)より

君は絶えず暗黒を撒いて歩く不快な人間を見たことはないか、
君は眉をひそめた悲しい表情の人々に接したことはないか、
君は表情が、どんなに伝染力の強いものかを経験したことはないか。

悲しい表情をした人間は悲しみを撒いて歩く、
不快な表情をした人間は不快を撒いて歩く、
それは黴菌を撒いて歩くよりも尚大きな罪悪である。


また君は絶えず光明を撒いて歩く愉快な人間を見たことはないか。
君は絶えずその唇に幸福な微笑をだだよわし
逢う人毎に幸福をうつして歩く人間を見たことはないか。
君は表情がどんなに伝染力の強いものかを経験したことはないか。


君は与えるものがないことを嘆いてはならない。
君は与えるものがなくとも幸福な表情を与えることが出来るのだ。

子供の顔を見るとき、良人の顔を見るとき
妻の顔を見るとき、兄弟の顔を見るとき
姉妹の顔を見るとき、八百屋に挨拶するとき
風呂場で知った人に遇うとき
君が幸福な表情さえすれば君は幸福を与えて歩く。


幸福な表情をした人間は、幸福を撒いて歩く。
愉快な表情をした人間は、愉快を撒いて歩く
それは物を与えるよりも一層好い贈り物であるのだ!

            <感謝合掌 平成29年6月17日 頓首再拝>
35:伝統 :

2017/06/19 (Mon) 19:10:39


           *「上気元」斎藤一人・著(P81~84)より

「不幸な人」は、普段やっていることを、何かひとつでもやめればいいんです。

般若心経では「この世のすべてのものには、構成要素がある」と言っています。

そのとおりで、不幸は人が今の状態になっているからには、
不幸の構成要素が必ずあるんです。
「不幸な人」は、不幸な構成要素をひとつでも変えればいいんです。

たとえば「缶コーヒー」は、缶と水とコーヒー豆と、砂糖とミルクでできていますよね。
でも、缶コーヒーから、缶を取ったら、缶コーヒーじゃありません(笑)。
ただのコーヒーになりますね。

常に暗いことを考え、暗い発言をしているから、
「僕、いま不幸なんです・・・」っていう状態になっているんです。

だから、いま自分を不幸にしていることを、何かひとつやめればいい。

不幸なことを考えそうになったら、
なんでもいいから笑えることを考えるようにするとか。

不幸なことを言いそうになったら、
ぐっとこらえて「天国言葉」を言うようにするとか。

不幸の構成要素を、ひとつでも減らすんです。

それをやらないで、「僕、ずっと不幸なんです・・・」って言っていても、
何も変わりません。

人は、あなたを幸せにしてくれないの。

幸せになりたかったら、自分がやっていることを変えるしかないんです。

            <感謝合掌 平成29年6月19日 頓首再拝>
36:伝統 :

2017/06/20 (Tue) 18:30:40

           *「如意自在の生活365章」(P80~81)より

神はあなたに既に幸福を与え給うているのである。

それが現象界にあらわれると、あらわれないとは、
あなた自身の“心”が、
その既に与えられている祝福に同調するか否かの問題である。

つまり、あなたの心境の問題である。

既に与えられている幸福を現実化するか否かは、
既にビデオテープに録画されている光景を
テレビセットに上映するか否かの問題である。

上映とは“与える実践”である。

神から既に“与えられているもの”を受けとるには、
こちらが先ず人に“与える”という実践をするとき、
“神の与え給う心”と”人間が人に与える心”とが
同調して波長が合うということになるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月20日 頓首再拝>
37:伝統 :

2017/06/24 (Sat) 18:42:40


           *「如意自在の生活365章」(P81~82)より

あなたは、誰か自分以外の人が享受している幸福と、
自分が今享受している幸福とを比較して見て、自分の方が一層幸福だと
かんがえて傲慢になったり、彼の方が一層幸福だと考えて卑屈になったり、
羨ましく思ったりしてはならないのである。

卑屈になったり羨ましく思ったりするのは、”暗黒の感情”であるから、
神から供給される幸(さきは)えが現実化する通路を”暗黒の感情”で
閉ざしてしまうことになるのである。

幸福は神から来るものであり、神は絶対者であるから、
それから先生(さきは)えられて延長して来る幸福は、これまた絶対者の
自己延長であるから、他(ひと)の幸福と、自分の幸福とを相対的に
比較すべきものではないのである。

            <感謝合掌 平成29年6月24日 頓首再拝>
38:伝統 :

2017/06/25 (Sun) 18:30:41


           *「如意自在の生活365章」(P82)より

『観無量寿経』には「仏心とは四無量心是なり」とあるが、
四無量心とは”慈悲喜捨”の四徳である。

「慈」とは、人の苦しみを見て可哀相に思い、
その人をいたわり慈(いつく)しむ心である。

「悲」とは、人の悲苦を見て悲しみ喜びに変え、
苦しみを除いて楽を与えてやりたいと思い、それを実践する心である。

「喜」とは、人の喜ぶのを見て、それを自分の喜びとして喜べる心である。
これは誰でも容易にできることのようであるが、比較心のある人には
なかなかできにくいのである。

自分は30万円儲かっているのに、友人は百万円儲けたのを見ると、
自分は差し引き70万円損したようにも思う心である。

            <感謝合掌 平成29年6月25日 頓首再拝>
39:伝統 :

2017/06/26 (Mon) 19:58:54

       
           *「如意自在の生活365章」(P82~83)より

各人の幸福は、人それぞれの個性が異なり、絶対者の個性化であるから、
その幸福にも人それぞれに個性があり、しかもその人独特の個性ある幸福であり、
絶対者の延長として先生えられた幸福であるから、幸福それ自体、絶対性をもっていて、
相対的に他の人の幸福と比較し得べきものではないのである。

だから陶芸家となって日夜、陶土をいじり、窯をつくって楽しむことが
無上の幸福である人も出て来るし、

彫刻家となって、毎日、原木に立ち向かって鑿を揮うことが
至上の幸福だと感ずる人もあるし、

死の危険を賭してまでヒマラヤの氷壁をのぼる登山家もあるし、
真裸で土俵の上で力を競う相撲とりになりたくて特にその弟子入りを志願する青年もある

・・・色々書けば限りがないので、この位にしておくが、
みんなおのおの異なる幸福の天国をもっているのである。

各人にとっては、それは絶対価値の幸福であって、
他の人の幸福と比較しても甲乙の点数をつけようがないのである。

            <感謝合掌 平成29年6月26日 頓首再拝>
40:伝統 :

2017/07/01 (Sat) 18:23:49


        *『 生長の家 』(昭和23年9月17日の法語)より

   人間が幸福になる為には
   先ず第一に幸福の心の波を起す事である。

   幸福に実際なってから、
   幸福な心を起そうと思っても駄目である。

   「 幸福 」 を A K(編注:現在のNHK東京第一放送局)の
   放送に譬えて見れば好い。

   A K の放送を聴こうと思ったら、先ずラジオ・セットに
    A K の波長に合う波長を起して置かねばならぬ。

   A K の放送が聞えて来たら、
   その時に A K の波長に合わしたら好いと思って、
   常には A K の波長を起さぬようにしておれば
   永遠に A K の放送は聞えぬ。

   こちらが 「 幸福 」 の波長を起した時、
   いつでも幸福放送局の波長を受ける事が出来るのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>
41:伝統 :

2017/07/05 (Wed) 19:43:41


         *「『ありがとう』で運は開ける」中井俊巳・著(P174~175)より

   自分のことを考えすぎると幸せになれない。

   他の人が喜ぶことを考える、
   それが幸せのコツ


どんなサービス業でも、
お客様が喜ぶことをまず考えます。

お客様が何を望んでいるのか、
お客様が何をしてほしいのか、
お客様の気持ちに立って行動できる人が、
お客様を喜ばせることができます。

お客様の喜びがいつのまにか自分の喜びになります。

そういう姿勢があれば、人間関係でもうまくいくのです。

            <感謝合掌 平成29年7月5日 頓首再拝>
42:伝統 :

2017/07/09 (Sun) 19:30:20


        *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P155) より

悲しみの感情から脱却すると云うことと、
悲しみの感情をこらえて内部へ押し込んでしまうこととは異なるのである。

こらえて内部へ押し込んでしまった感情は、それが消えないで、
所謂る「抑圧感情」と称せられるところのものとなって、
それがある程度以上蓄積されると

具象化して病気を引き起こす原因となるのである。

そこで悲しみの感情は、単にこらえて押し込むだけではなく、
その感情を他(た)の方向へ誘導し光明化したものとしなければならない。

即ち不幸が起こって来たときに、

「この不幸は不幸ではないのであって、幸福に到達するための途中の踏み石である」

と思い返すか、

「この不幸は過去の業が形にあらわれて消え行く姿である。
過去の業が消えたあとには幸福が来るほかはないから有り難いのである」

と念ずるがよいのである。

            <感謝合掌 平成29年7月9日 頓首再拝>
43:伝統 :

2017/07/10 (Mon) 17:55:45


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年07月10日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   天国度100というのは、自分がいかに恵まれていて、
   自分がどれほど幸せな日々を生きているか、ということ。

   人生をどれだけ楽しんでいるか、ということ。

   そこに気がついたら天国度が100になります。


   不平・不満、愚痴、泣き言、悪口、文句が無くなったら天国度が100。

   天国度が50というのは、50%の現象は受け入れているけれど、
   残り50%は気に入らない、と言っていること。

   天国度30の人の場合は、30%は受け入れているけれども、
   70%は気に入らない状態です。

   天国度がマイナス10の人がいる。
   ありとあらゆることが気に入らなくて、さらにこの100の気に入らない
   ことのうち、十分の一は憎しみになっていることを言います。

   天国度マイナス10を地獄度10といいます(私が名付けました)。


   恨み憎しみというのが継続状態で続いている状態を地獄度と名付けました。
   地獄度100の状態は、人を恨んだり憎んだりというのを
   さらに突き抜けてしまいます。

   それはどういう状態かというと、孤独地獄。

   話し相手がいない。
   友人がいない。
   仲間が誰もいない状態。

   孤独がいちばん奥にある、最高に悲しくて辛い状態です。


   では、地獄度100の状態がわかったら、今度はそれの180度対極にある、
   天国度100の状態が想像できるでしょう。

   もう一度言います。

   「良き仲間に囲まれていること」。

   良き仲間とは、同じ方向を向いていて、同じ価値観で生きている人のこと。
   同じ話題を笑顔で話せる人を良き仲間といいます。

   私たちの場合は、「喜ばれるように生きている人」のこと。
   その前段階で、「不平不満」を口にせず、「感謝」をいつもしている人のこと。


   年収何億ももらっている、大会社の社長がいるとしましょう。

   その人が幸せかどうかは、この人に良い友人がいるかどうか、です。


   天国度100の状態とは、
   良き仲間と共に、同じ方向を目指して歩んでいられること。

   それは成功哲学とか、自己啓発とは違います。

   達成目標、努力目標というのは、自分だけの問題であって、
   それはもしかすると、いい仲間がいないので、
   寂しいからそこを目指しているのかもしれません。

   天国度が100というのは、同じ方向を向いている
   同じ価値観の仲間に囲まれて生きていることです。

         <『「人生を楽しむ」ための30法則』講談社>

              ・・・

良き仲間には、もちろん、家族や会社の仲間もはいる。

家族にしても、会社にしても、同じ方向、同じ価値観の人たちばかりなら、
毎日和気あいあいと、なごやかで、笑いが絶えない場となる。


京セラの稲盛和夫氏に、人生の方程式という言葉ある。

人生(人生・仕事の結果)=考え方×熱意×能力


「考え方」とは、方向性のことだ。

たとえば、札幌に行こうと思っているのに、
博多行きの新幹線や飛行機に乗ってしまったら、
熱意や能力があればあるほど、どんどん違う方向に行ってしまう。

他人を喜ばせることをせず、
自分の得になることばかり考えていたら人は皆離れていく。


天国度100の生き方をめざしたい。

            <感謝合掌 平成29年7月10日 頓首再拝>
44:伝統 :

2017/07/14 (Fri) 20:03:35


       *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P156) より

不幸が来るごとに、これで過去の業が消滅し、今後好転の運命を刻む自分になった
のであり、謂わば、この不幸は、幸福への曲がり角だと観ずることができれば、
どんな不幸がやって来ても、失望落胆することはなくなる筈である。

このように考えを転ずることに成功するならば、
どんな不幸や困難がやって来ても、もう大丈夫である。

 
これは悲しみの感情を抑圧することではなく、
その感情を方向をかえて光明の方へ誘導するのであるから、
もう悲しみが悲しみではなく、悲しみが光明に変質してしまっているのであるから、
それは将来、不幸を現象化する原因が消えたことになっているのである。

だから黒住教祖は「難有り、有り難し」という風に漢字をまじえて
解り易く説明されているのである。

           <感謝合掌 平成29年7月14日 頓首再拝>
45:伝統 :

2017/07/16 (Sun) 19:32:57


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年07月13日)」より

   (浜松医科大学名誉教授、高田明和氏の心に響く言葉より…)

   ブッダは「嫉妬することで満足することがないから、明らかな智慧(ちえ)をもって
   満足するほうが優れている。明らかな智慧をもって満足している人を、
   嫉妬が支配することはできない」と述べておられます。


   もしあなたが「足(た)る」を知る、つまり自分のもっているものの大切さを知り、
   ひとをうらやんでも意味がないという智慧をもつなら、
   もはや嫉妬があなたを支配することはないと語っているのです。

   「足るを知る」ということは、
   「いま自分のもっているものを大切にせよ」ということです。

   もともと「足るを知る」という言葉は老子(ろうし)の
   「足るを知れば辱(はずかし)められず」から来ています。

   そして「足るを知れば辱められず」に続けて
   「止まるを知れば殆(あや)うからず(限度を知れば危険はさけられる)、
   もって長久なるべし」と語っています。


   老子はこの説明として「名誉と身体とどちらが大切か、健康と財産はどちらが大切か、
   得ることと失うことはどちらが苦しいか、ひどく欲しいものがあれば、
   大いに散財する、たくさん持てばたくさん失う」といっているのです。

   他人が何かをもっていても、それは健康に比べれば意味がない、
   もっているものは必ず失うようになるのだ、だからうらやんでも仕方がない
   といっているのです。


   連合艦隊司令長官を経て、昭和天皇の侍従長として二・二六事件の際に
   あわや一命を落とすばかりの経験をし、天皇に請われて終戦時の総理大臣になった
   鈴木貫太郎(かんたろう)大将の座右の銘は「足るを知る者は富む」でした。

   あれほどの名声地位をもつ鈴木貫太郎大将がこれを座右の銘にしていた
   ということに深い感慨を覚えます。


   堀口大学という詩人がいます。

   芸術院会員で文化勲章をもらい、功成り名遂げたこの詩人に
   「座右銘」という詩があります。


   「暮らしは分が大事です
   気楽が何より薬です
   そねむ心は自分より以外のものは傷つけぬ」

   人をそねみ、うらやんでも、結局うらやむ自分が傷つくのだという詩です。

   これはほんとうにわたしたちの心を動かす詩です。

   さらに「気楽が何より薬です」という言葉には
   「気楽になることが人生の目的だ」という意味も含まれているように思えます。


   江戸時代の禅僧で書画をよくして博多の仙(せん)がい和尚は
   「寡欲(かよく)なれば即ち心おのずから安らかなり」と書いています。

   つまり自分のもっているものに満足し、多くを望まない、うらやまない、
   他人のもっているものを欲しがらないということを実践すれば、
   心は自然に楽になると教えているのです。

            <『人生の目的は「心が楽になること」』新講社>

              ・・・

「皆さぁ、自分が賢いとか、できる人間だとか思っちゃダメだよ。
私も含めて、皆バカなんだから早くバカに気付かないと。
バカだってわかれば人間慎重になるから」(所ジョージ)


自分は大(たい)した者じゃない、と思うことができるなら、
分をわきまえることができる。

分をわきまえるとは、「身の程(ほど)を知る」ことであり
「背伸びしない」、「我を張らない」ことであるが、
それが「足るを知る」ことにつながる。

また、自分に良い意味でのプライドや誇りを持つことは大事だが、
それが前面に出てしまい、鼻につくようになったら人から嫌われる。


「さらに、もっともっと欲しい」と、
足るを知らない人や欲深い人は、不平不満や文句が多い。

「足るを知る者は富む」

人と比較をせず、今ある幸福に気づきたい。

           <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>
46:伝統 :

2017/07/17 (Mon) 18:34:36


      *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P156~157) より

若しあなたに「どんな幸福の扉でも開く鍵があるのですが、
あなたはそれを欲しくありませんか」と言われるならば屹度あなたは
「本当にそんなものがあるならば、それを得たいものだ」と思われるでしょう。

その鍵は決して金属でできているものでも、
楠(くすのき)や檜(ひのき)の板で出来ているものではありません。
そんな物質で出来ているものは結局はこわれるものであります。

虫食い錆びくさるものに幸福を求めてはならないと教えられました。

その鍵は“霊的なもの”で出来ているのです。
そして他物(たぶつ)にそれを求めても得られるものではなく、
自分自身の内にその鍵があるのです。

その鍵を『生命の実相』と呼ぶのです。

それは必ずしも書籍の名前ではありません。
『生命の實相』の本はその鍵の在所(ありか)を示した本ですから
そのように名づけたのです。

その鍵はすべての人が自己の内にもっている万人具有の鍵であります。
人間の生命(せいめい)のうちには「無限」が宿っているのです。
その無限に気がついたとき、その人はその鍵を発見したのです。

自分自身の生命のうちに「無限」が宿っている、何という素晴らしい事でしょう。

           <感謝合掌 平成29年7月17日 頓首再拝>
47:伝統 :

2017/07/19 (Wed) 20:14:16


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年06月20日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   人間の「喜び」や「幸せ」というものは、
   どうも3つのかたちをとるのではないかと、私は思ってきました。

   過去、自分に起きたことを全て「受け入れる」こと。
   それが全部自分に必要だったと思うこと。
   そう思うことで、その一つ一つのこと全て、感謝の対象になります。

   これが第1ステップである「幸せ」です。


   第2のステップは、その全ての過去を受け入れた延長線上にあるのですが、
   現在の全てを受け入れることです。

   現在の自分を取り巻いている状況を全て受け入れて、
   それに「感謝する」ことです。

   過去の全てを受け入れるのと同じように、全てを受け入れるというのは、
   「それがなければ、現在の自分がないのだ」と思い定めることです。

   そうすると、全てが感謝の対象になってきます。

   それは全て「喜び」になり「幸せ」になり、感謝の対象になるのです。


   3つ目の「幸せ」というのは、
   「自分の存在が『感謝される』」という「喜び」です。

   自分の存在が(自分がこの世に生まれたことが)、
   感謝され、喜ばれるという「幸せ」を一度味わってしまうと、
   “至上の喜び”です。

   もう引き返すことはできません。

   この「喜び」や「幸せ」を味わうと、
   何回も何十回もそれを味わってみたくなります。

   この「喜び」は、三次元的な「喜び」とは全く異質なもので、
   「魂がうち震えるほどの喜び」です。

        <『宇宙を貫く幸せの法則』致知出版社>

             ・・・

小林正観さんはこう語る。

「一番つまらないというか、面倒くさい、
ゴツゴツした岩に乗り上げながら生きていく人生の人というのは、
全部一行ごとに『そこでくよくよする』というのを入れ込んでいるんです。

これが一番大変な、面倒くさい人生の人。

百歳を超えて長寿の人というのが必ずインタビューで聞かれるのは、

『長寿の秘訣はなんですか』という質問です。

そして、その答えに必ず入っているのが『くよくよしないこと』です。

長命で気楽に長生きするために絶対的に必要なのは、
『くよくよしないこと』なんですね」


人生をくよくよしないで生きるには、
過去に起きたことも、現在起きていることも、今の自分に必要なこと、
と全てを「受け入れる」こと。

くよくよする人は、

「ああすればよかった」
「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」
「なんであんなことを決めちゃったんだろう」

と、思い悩み、負の感情をいつまでも引きずってしまう。

しかし、「全ては自分にとって必要なこと」、「それがあるから今の自分がある」、
と肚を決めてしまえば、それら全ては感謝の対象になる。

くよくよしない人生をおくりたい。

           <感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝>
48:伝統 :

2017/07/20 (Thu) 17:37:57


       *『幸せのメカニズム』(実践・幸福学入門)前野隆司・著 より

(1)人はフォーカシング・イルージョン(間違った事に焦点を当てる事)しやすい。
   目先の利益を追い求める。


(2)年収7万5千ドル以上になると、年収と感情的幸福は相関しない。
   経済成長と幸福とは必ずしも結びつかない。


(3)マズローの欲求5段階説
   生理的欲求、安全欲求、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求。
   人間は低い欲求が満たされて初めて上位の欲求を満たしたいと思うようになる。


(4)近代から現代に至る時代に目指してきた方向が間違っていたのではないか?
   フォーカシング・イルージョン(間違った事に焦点を当てる事)だったのではないか?


(5)地位財(周囲との比較により満足を得るもの。所得、社会的地位、物的財など)と
   非地位財(他人との相対比較とは関係なく幸せが得られるもの。
   健康、自主性、社会への帰属意識、良質な環境、自由、愛情など)。

   地位財は個人の進化・生存競争のために重要だが、幸福の持続性は低い。

   非地位財は個人の安心・安全な生活のために重要で、幸福の持続性は高い。


(6)快楽のランニングマシン:人はついつい、幸福の持続性の低い地位財を
   目指してしまいがちだが、どこまで走ってもゴールにはたどりつけない。

   まさにフォーカシング・イルージョン(間違った事に焦点を当てる事)である。


(7)近代から現代にかけて西洋的な進歩主義が、
   競争と快楽の追求を強調しすぎる社会を作ってしまった。

   フォーカシング・イルージョン(間違った事に焦点を当てる事)が起きてしまった。

   地位財と非地位財のバランスをとる生き方が望ましい。


(8)日本人の幸福感に影響すると思う3大要素:健康、家族関係、家計状況。


(9)ピークエンドの法則:
   苦痛、快楽の評価は、その活動のピーク(絶頂)と終わった時の程度で決まり、
   続いた期間は無視される。

   「終わり良ければ全て良し。」勝算がないと解ったら早めに撤退するという事も
   大切だが、方向性さえ間違っていなければ、あきらめず、逃避せず、最後の成功まで
   やり遂げる方がよい。


(10)プロスペクト理論:
   人が感じる価値の大きさは客観的な数値に比例しない。

   この為、人はいいことの時にはリスクを回避して確実な利益を選ぶ傾向があり、
   悪いことの場合はギャンブルしてリスクテーカーになりがちである。

   人は自分の幸せについての判断を間違ってしまいがちである。


(11)幸せは間接的にやってくる。
   一見、幸せとは違う別のアクションをした結果として、
   まるで突然のご褒美のように、幸せはやってくる。

   逆説的に言うと、幸せになりたかったら、
   幸せになる事を直接的に目指してはならない。

           <感謝合掌 平成29年7月20日 頓首再拝>
49:伝統 :

2017/07/23 (Sun) 19:49:53


     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P157~158) より

自己の内に「幸福を開く鍵」が宿っていることを知っても、
その鍵をどのように使えば本当に「幸福の扉」が開くか、その使い道を知らなければ、
鍵はありと知りながらも、その扉を開くことができないでしょう。

その鍵を動かす力は“コトバの力”によるものです。

その力をどちらへ回転するか、どの方向へ向けて動かすかによって、
どのような大きな幸福がおとずれるか、小さな幸福しか与えられないかの
相違がでて来るのである。

時には“コトバの力”を逆回転させると、
そこから不幸が飛び出して来ることもあります。

“コトバの力”は双刃(もろは)の剣(つるぎ)であり、
自己が間違えば自己が斬られ、敵が間違えば敵が斬られるのです。

それは十字であり、×(ななめ)となる時は「必殺」であり、
正しく構えるとき「復活」である。

“コトバの力”を順に廻すということは、
人を称(ほ)め讃(たた)える称賛の言葉を使うことであり、
自己の受けたる恩恵を感謝する言葉を使うことである。

称讃と感謝の方向に鍵を廻転する事が大切である。

           <感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>
50:伝統 :

2017/07/29 (Sat) 18:23:28


            *『幸福をひらく鍵』(P41)より

巨億の富を持ちながら、その富を失うまいとして
日夜戦々恐々として心を労している人もあれば、

「焚(た)くほどに風がもて来る落葉(おちば)かな」の俳句のように、
貧しく見えるけれども必要に応じて必要なものを与えられて
少しも心を労しない幸福者(こうふくもの)もあるのである。

どちらが幸福かは考えて見ればわかる。


常に健康を想い、幸福を想い、繁栄を想うならば、ついに幸福を創造しつつある
強力なる創造力をその方向に発動させ、具体的に健康・幸福・繁栄を
もたらすことになるのである。

想念は、宇宙の創造力を爆発させる引き金である。
単に引き金ではなく、その発射の方向がどちらへ向くかを定(さだ)める
照準の働きをもするのである。

           <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

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