伝統板・第二

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ひかりの一日一言26~悦びはどうしてくるか - 伝統

2017/05/01 (Mon) 04:46:12

ひかりの一日一言《1日》

《1日 嫉妬は最大の罪悪》

人の喜びをもって自分の喜びとし、人の苦しみを自分の苦しみとし、
人の苦を除いて、その喜びを増そうと切実に感じ、
それを実践することが本当の慈悲であり、愛である。

これに反することを吾々に為さしめる動機の主(おも)なるものの
一つは嫉妬心である。

他(た)の人が汚れた敝衣(へいい)をまとっていたならば、
自分の着物みずぼらしさが、「それほどでもない」と安心する人がある。

それは「自己愛」が中心であって、他(た)の者は、自分が中心にして
比較上の位置に立たされ、自分が自分をとり巻く人たちよりも優秀なと
云う感じがしない限りは、周囲の人々を貶(おと)したく思い、
ケチをつけたく思い、彼等が自分より不幸になることを願ったりするのである。

嫉妬は人間の罪悪のうち最も大なるものの一つである。
そして、それから無数のいまわしい犯罪や、悪徳や、宗教争いや、
戦争まで起こって来るのである。

嫉妬心を無くするのが凡(あら)ゆる闘争の根源をなくすることになる
といえるのである。

谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P117) より

・・・

<関連>

伝統板・第二「ひかりの一日一言25~幸福はどうしてくるか 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7538235

           <感謝合掌 平成29年5月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2017/05/02 (Tue) 03:52:23

《2日 相対的な比較が嫉妬の根源》

嫉妬心の根源は、その人の生活が、
絶対の立場にいないで、相対の立場にいるからである。

彼らは相対的に比較してみて、自分が彼より劣っていると思うと、
彼を憎む心が起こって来るのである。

「乏しからざるを憂えず、等しからざるを憂う」と云う諺があるが、
現代の労働者の生活は、縄文土器時代の王様の生活よりも、豊かで便利で
色々の享楽(きょうらく)の道具も与えられていながら、

縄文土器時代の王様ほどの歓びも感じられないで、常に収入の少なきを
嘆いているのは、彼等が相対的な比較上の立場にたって、
「等しからざるを憂え」ているからである。


どんなに贅沢な生活を送り得るようになっても、相対的立場に立って
等しからざるを不平に思う限りに於いては、憂えは去らないものなのである。

それらの憂えを去るためには、人は絶対的立場に立って、自己のうちに
比較を絶した超越者が宿っており、他(た)の人の真似の出来ない個性美を
その超越者が自分の上に実現しつつあるのだと云うことを深く自覚するより
ほかに道はないのである。

絶対者の自覚 ―― それは宗教の問題である。
宗教的さとりのみが人間を絶対者の自覚に入(い)らしめ、
永遠に争闘を根絶する力があるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P118) より

           <感謝合掌 平成29年5月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2017/05/03 (Wed) 03:37:47


《3日 すべての人間は「王」である》

自己に宿る絶対者、自己に宿る超越者、自己の宿る普遍者、自己に宿る無限者、
有限の内に宿る無限なる者、相対者の如くあらわれている絶対者、
現象のあらわれている奥にある超越者、今このままに久遠なる者、
有限即無限、個性即普遍

――それが私であり、あなたであり、一切の人々である。
それを自覚するとき相互礼拝が自然に行われるようになるのである。

自己を単に物質的存在たる肉体だと観る限りに於て、
人間は「制約」から超越することはできない。
即ち自由を完全に享受することができないのである。

その制約から超越して自由を得るためには、「真理は汝を自由ならしめん」と
イエスが言ったように、真理を知らなければならないのである。

「真理とは何ぞや」とピラトがイエスに訊いたとき、
イエスは黙然として答えなかったが、

ピラトが再び「汝は王なるか」と訊いたときに、
イエスは、「汝が言えるが如し」と答えているのである。

王とは「神聖にして犯すべかざる絶対者だ」と云う意味である。

すべての人間は法制上では王ではないけれども、
宗教的意味に於ては王であり、絶対の自由者であるのである。
これが真理なのである。

この真理を知るとき何人も本当の自由を得るのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P119) より

           <感謝合掌 平成29年5月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2017/05/04 (Thu) 04:35:50


《4日 神の寶はあなたに譲渡済みである》

吾々の幸福は決して、自己以外の外界の存在によって規制せられたり、
支配せられたりするものではないのである。
自己の許さない不幸も悪も吾らに入り来ることはできないのである。

神は常にあなたと偕にあり、神の有(も)ち給えるあらゆる善きもの、
美しきもの、裕(ゆた)かなるもの、好ましきものは、
悉くあなたに譲られているのである。

神の登記所に於ては、既に神の有(も)ち給えるあらゆる“善きもの”の、
あなたへの譲渡手続きが完了しているのである。

譲渡手続きが完了していても、それを譲り受ける者が、
譲り渡されたことを自覚しなかったら、それは現実にならないのである。

 
多くの人は、自分が神の子であり、神の有(も)ちたまえる凡(あら)ゆる
“善きもの”が譲り渡されて、既に“自己のもの”となっていることを知らないから、
それを利用することができないのである。

その譲渡が既に完了していることを悟らせる聖業をするのが
生長の家の信徒の使命であり仕事である。

併し譲渡が完了していることを知らされても、
実際に譲渡されたものを生活に応用しない限りは、
名儀だけのことであって、何の役にも立たないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P120) より

           <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2017/05/05 (Fri) 03:25:56


《5日 無限宝庫の扉を開く鍵》

真理は生活に応用するとき、力を発揮するのである。

応用しない真理は、名儀だけ自分に書き換えられたが、
実際に耕しているのは別の人であるところの
「不在地主」みたいなものである。

「不在地主」は、やがて、その所有権を行使する権利すらも
剥奪される時が来るのである。

だから、“神の子“たるものは、”神の父“から譲り受けた資産を
無駄に遊ばせないで、今直ぐにその資産なる「無限力」を実践に移すべきである。

 
神から譲られた資産の「無限力」と称する宝庫の扉を開く鍵は「信」である。

イエスは「汝ら祈りて求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを得ん」
と教えているのはそのためである。

また弟子が病人を癒す事に失敗して帰って来たとき、イエスは、
「その病気が重かったのだから止むを得ない」とはいわずに、
「汝等、信仰うすき者よ」と歎(なげ)いているのである。

要するに「信」の鍵によって「無限宝庫」の扉をひらくか開かないかの相違である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P121) より

           <感謝合掌 平成29年5月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2017/05/06 (Sat) 04:39:17


《6日 天の網は漏らさない》

あなたの魂の底ふかく欲するところのものをあなたは必ず得ることができるのである。
あなたはその深く欲する事物を「既に受けたり」と信じて感謝するがよいのである。

しかしその深く欲する事物が、それが成就することによって他の人を陥れたり、
他の人の損失に於てそれが成就するような事情(ことがら)を祈っては、
それは決して聞かれないか、

或いは自分の念力の強さで一時きかれたように見えても、
それは神が与えたまうたものではなく、自分の念力の強さで、
“強奪”したものであるから、“奪うものは奪われる”の心の法則にしたがって、

それは結局自分にとって不幸な結果を齎(もたら)し、“奪ったもの”
に利子をつけて返却せしめられるような結果となるのである。

天の網は疎(まばら)なように見えても、
決して原因結果の法則から漏らし給うことはないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P121~122) より

           <感謝合掌 平成29年5月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2017/05/07 (Sun) 03:53:30


《7日 信念は継続せねばならない》

祈りの成就に対して必要なことは、「必ず成就する」「既に受けたり」と云う深い信念が
必要であると同時に、その信念が“一時的”のものではなく、「成就」が現象化するまで、
すこしも変わらずにその信念を永続しなければならないのである。

祈りの時間の十数分間だけ、「既に成就しました、有難うございます」と念じても、
その祈った事物が現象化しつつある途中の時間に於て、
「まだあの事は出て来ないがな。駄目かな」などと考えては、

「既に成就しました」と前(さき)に念じた事を
みずから打ち消しているようなものである。

従って前(さき)に折角祈ったことが実現しないのも無理がないのである。

一旦、或る事柄の成就を祈ったならば、それが成就するまでは
「すでに成就している光景」を常に心に描きつづけて、
その反対の「不安の念」を一切起こさぬようにするがよいのである。

無論、他(た)の仕事をしている最中に、そんな「光景」を現在意識の念に描きつづける
ことはできないが、「必ず成る」と云う深い「期待の念」を崩さずにさえいるならば、
潜在意識は、前(さき)に祈った時の「必ず成る」と云う念を持続しているのだから
差支(さしつか)えないのである。

暇あるときに其の問題に就いて思い出したならば、
「ありがとうございます」と神に感謝の言葉を心に唱えて、
「既にそれを受けたり」と云う感銘を深めるようにするがよいのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P122~123) より

           <感謝合掌 平成29年5月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2017/05/08 (Mon) 04:28:44


《8日 天国に入る心境》

神は愛深き吾等の父であり、吾等が幸福であるために必要なもの、
また、吾等が使命遂行に必要なものは必ず与え給うに
吝(やぶさ)かではないと云う事を深く信じて

常に心を平和に、常に神に感謝することが、
あなたの幸福生活には是非必要なのである。

幼児(おさなご)が
「母は必ず私の生活に必要な“充分な母乳”を与え給うにちがいない」
と信じて安心し切っているのと同じような心境になることが、

イエスの教えた
「凡(およ)そ天国に入(い)る者は幼児の如きものである」と云う
“天国に入(い)る心境”なのである。

この場合の「天国に入(い)る」とはエデンの楽園のような
欲する事物が悉く自由になる環境に入(はい)ることである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P123~124) より

           <感謝合掌 平成29年5月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2017/05/09 (Tue) 04:30:48


《9日 不正は永続しない》

人は自分で掘った穴に墜落して苦しみながら、恰もその穴を他の人が仕掛けて
その穴に陥(おとしい)れたかの如く思って人を恨んだり、憎んだりし勝ちである。

他(た)を呪い、他を陥れ、それによって自分が教勢を拡張したり、
自分が利益を得ようと思うならば、それは不自然に、自分の指先で天秤の一方を押さえて
目盛りを不正に誤魔化しておいても、その指先を放してしまえば、

元の正しい目盛りに帰るようなもので、自然は永遠には不正を許さず、
不正に獲得したものは、やがて自壊作用を起こして
恢復(かいふく)されることになるのである。

 
自分で自分を縛る縄をつくってはならない。

自己限定をやめるがよい、そして自分が他(た)の人を陥れたり、
悪評をたてたりして、他の人のものを奪わなければ、
自分の領域が拡大しないなどと考えないがよい。

他(た)を生かし、他を救うことによって、
その平衡作用として自分も生きて来るような生活を営むべきである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P124) より

           <感謝合掌 平成29年5月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2017/05/10 (Wed) 03:41:21


《10日 あなたの不幸は出尽くした》

悲しみを棄てよ。怒りを棄てよ。憎しみを棄てよ。
そこから天国浄土が実現するであろう。

よくよく考えて見るならば、
真に悲しむべき事は一度もこの世界に起こったこともなければ、
これからも起こらないであろう。

あの戦争の犠牲者となって霊界に逝(おもむ)いた人たちも、
本当はその霊魂は生き通しであって、決して死んではいないものであるから、
現象界は“想像の影”の世界にすぎないのであって、

実在 ―― 即ち「本当に在るもの」は、
未だ嘗て無くなりはしないし、無くなるものは、
“本来無いもの”ばかりであるからである。

もし悲しみや、怒りや、憎しみを起こすならば、
その人は事物の暗い面のみを想像し、
必要以上に、不幸や悪を拡大して見、

みずから好んで自分の想像がつくり出した暗い
煙の中に窒息してしまうことになるであろう。

不幸は想像することによって増大し、
悲しみは“類は友を招(よ)ぶ”ことによって
続々その数を加えて来るのであろう。

不幸が起こったときには、これで不幸は出尽くしたと思うのがよい。
悲しみが起ったら、これで悲しみは出尽くしたと思うがよい。

そしてみずからを祝福し、みずからを歓喜せよ。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P125) より

           <感謝合掌 平成29年5月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2017/05/11 (Thu) 03:09:17


《11日 必勝の力》

悲しみの来(きた)るとき、孤独感におそわれたとき、心を神に振り向けよ。
神はつねにあなたの愛人であり、最も愛ふかき慰め手であるのである。

実際、変化常なき現象界の出来事に振り廻されて
一喜一憂しているような状態に於ては、
本当に魂の休まる時は来ないのである。

魂の本当の平和は、移り変わらないもの、永遠に信頼できるものに倚り頼り、
母の手にまかせ切った赤ん坊のような心持になった時にのみ得られるのである。

野球の打者が“三度振り”をしたからとて、相手の投手が悪いのでも、
野球の開催者が悪いのでもないのである。

自分が人生で面白くない点数しかあげ得ないからとて、
人生そのものを呪ったり、対人関係を呪ったりする理由は
決してないのである。

自分をさえ研けば、点数を沢山あげることも出来るし、
人生の勝者となることが出来るのである。

弱い相手とのみ試合して「勝てる」と自負していて、
強い相手と試合して零敗するようでは何の価値もないのである。

強敵と常に試合し、困難と常に打ち闘うことによってその人は、
如何なる相手とも互角に立ち向かう力が養われるのである。

そして困難に立ち向うとき、自己の内に宿る“常に敵二倍力”の神を
呼ぶことを忘れてはならない。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P126) より

           <感謝合掌 平成29年5月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2017/05/12 (Fri) 03:50:02


《12日 真珠は深海の底にある》

悲しみの奥には聖地がある。
悲しみに溺るること勿れ。
悲しみの彼方に見ゆる聖地に希望をもてよ。

高価なるダイヤモンドは地殻の底に深く秘められ、
高貴なる真珠は深海の底に貝殻をもって秘められている。

外の地殻や貝殻を見て、その奥に秘められてある
高貴な宝を見失ってはならないのである。

今ある困難は最後の「光輝」を発見するための
坑内掘削工事だと見ればよいのである。

 
すべての悩みを神からの神罰又は仏陀からの仏罰だ
と考えてはならないものである。

通行すべからざる車道を人間が通行したために
トラックに撥ねられて死傷するのは神罰でも仏罰でもない、
法則に違反し、法則に触れたからである。

これは交通条例と云う法則に違反し、人間が歩くべからざる道を歩いたために
肉体と云う柔らかい物質がトラックと云う鋼鉄車に衝突すれば、
柔らかい物質の方がくだけると云う物質の法則に触れたのである。


それと同じく“心の法則”と云うものがあり、
その“心の法則”に違反して触れると法則によって傷つくのである。

その傷つきによって今後、法則に触れないようにすれば、
幸福と健康との聖地を見出すのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P127) より

           <感謝合掌 平成29年5月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2017/05/13 (Sat) 03:08:25


《13日 苦痛を迎える5つの態度》

苦痛がやって来たときに、それを迎える受け方に5種類ある。

(1)苦痛に対して恐怖し、悲鳴をあげて逃げ出そうとする受け方である。

   これでは苦痛は軽減せず、恐怖すればするほど、
   その苦痛は吾々を追っかけて来て益々苦痛の種が殖えて来るのである。

(2)次には苦痛を意志の力によって忍耐する克己的(こっきてき)方法である。

   苦痛と戦うことによってその人の意志の力は鍛錬し増加する。
   克己主義(ストイズム)がこれである。

(3)苦痛を本来無きものとして、苦痛あるがままに、
   「自己」を「苦痛」そのものから遊離して、第三者として「苦痛」を傍観し、
   「苦痛」に対して無関心となり、苦痛を超える方法である。

(4)すべては自己の心の所現であると観じ、苦痛があらわれて来たときに、
   自分の「どの想い」が間違いであったかを反省して、その間違った想いを改めて
   良き想いに更(か)えることによって苦痛を消除する方法である。

(5)ひたすら実相の完全さを観て、実相そのままの完全さに成り切り、
   自然に不完全さが消えて、苦痛も消滅し、天国浄土的状態が現実化する方法である。

 
この最後の(5)が生長の家の“縦の真理”であり、
(4)の解決方法が生長の家の“横の真理”である、

その方法を実践する途上に於て、(3)の「苦痛本来なし」の否定によって、
自己を苦痛から引き離す方法が用いられるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P128~129) より

           <感謝合掌 平成29年5月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2017/05/14 (Sun) 03:16:03


《14日 自分で自分を限るなかれ》

人間は神の子であり、神の全能の力を受けたる後継者(あとつぎもの)であるから、
何でも、善きこと、正しき事であったら成就し得ないと云うことはあり得ないのである。

しかし、それでも成就し得ないものがるのは、それは自己が自分を限るからである。
即ち自己限定がなければ、その程度に随って驚くべき奇蹟をさえ実現する力が
人間には宿っているのである。

しかし、人間が”神の子”として与えられている無限力は、
”父なる神”又は”創造の親様”なる神との関係に於て、
”神の子”として”神の後継者”として与えられているのであるから、
”神”とのつながりに於てそれは実現するのである。

だから、神を無視して、自分を「肉体の子」であると誤認している限りに於て、
その、無限力はあらわれて来なくなるのである。

吾々は「人間・神の子」の真理を教えられながら、依然として潜在意識の底には、
「人間は物質的存在である、肉体が人間である」と云う考えが
なかなか抜がたいものであるからそれが自己限定となって、
霊的実在たる無限力を発揮する力が限られ縮小するのである。
 

谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P129~130) より

           <感謝合掌 平成29年5月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2017/05/15 (Mon) 03:20:26


《15日 愛は他(た)と共に自己をも癒す》

『愛は凡て癒す』と云う谷口清超氏の著書の中には無数の奇跡的治癒が書かれているが、
ブラザー・マンデス師の著書の中にも次のような愛の奇蹟が書かれている。
  
或る婦人が慢性の頭痛と、中耳炎とで悩んでいたが色々の医療を受けても治らなかった。
この婦人がマンデス師の説教会にやって来て、その由を訴えたのである。
そして「自分の心が完全になるまでこの病気は治らないでしょうか」とたずねた。

マンデス師は「自分の心が完全になるまで、神の救いが来ないのであれば、
すべての人間は永遠に神の救いを待ちのぞむばかりで救われる事はないでしょう」
と答えた。

そして

「今あなたが自分の事を忘れて人を愛そう、
人を癒してあげたいと云う愛の心を起こしたら、
神のすべてを癒し給う愛の力が流れ入ってあなたは癒されてしまうのである。

さあ、私が神の癒す力の仲立ちになってあげましょう。
あなたは自分の病気を治そうと云う考えを捨て、自分の病気を忘れて、
他の人を癒してあげようと思う心になって、他の病人に手を触れてあげなさい」

と言った。

そしてマンデス師は、その頭と耳とが慢性的に悪い病人の手を握り、
握られた彼は脊椎と臀部の痛む病人に手を按(あん)して、
「神の癒す力、われを媒介としてこの人に流れ入り癒し給う」と念ぜしめたのである。

すると、脊椎と臀部の神経痛の患者は忽ち治ると同時に、
それを癒そうと愛の思いを起こした人の慢性の耳及び頭の病気も
治ってしまったのであった。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P130~131) より

           <感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2017/05/16 (Tue) 04:48:52


《16日 祈り合いの神想観》

眼底の網膜剥離で、自分のために読書するのだったら、
10分間と継続して読書できない人が他の人の腎臓炎を治してあげたい
と思って幾時間もその腎臓炎の患者の枕頭で『生命の實相』を
読んであげたら、その腎臓炎の患者も症状が非常によくなったが、

自分の網膜剥離も軽快して少しも痛まなくなった
と云う体験談を発表された誌友があった。

生長の家本部の飛田給練成道場に於ける「祈り合いの神想観」と云うのは、
互いに相向かい合って自分の病気(その他の不幸)や自分のことは全然忘れて、
互いに相手が神の愛によって既に完全に癒されていることを観ずる神想観であって、

それが驚くべき奇跡的効験をあげつつあるのも、
「自己」を忘れて他(た)を救おうと云う「愛」そのものになったとき、
神の愛は完全に流通するものだと云う実証である。

天理教で、悪因縁を断ち切って完全に業から解放されるためには、
「わが身わすれて日の寄進」と教えているのも正しい事である。

寄進と云うのは必ずしも労働奉仕ばかりではない。
寄進と云うのは布施行と同じことである。
報いもとめず唯与えることである。

「祈り」を与えるのも偉大なる布施であり寄進である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P131~132) より

           <感謝合掌 平成29年5月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2017/05/17 (Wed) 03:33:40


《17日 愛他心は自己の病を癒す》

九州の鹿児島だか宮崎だかの講習会で、こんな体験談を述べた人があった。

一所懸命、自分の結核を治したいと思って神想観と祈りとを続けていたが、
中々治らなかった。
或る日、彼は神誌を読んでいるうちにふと気がついたのであった。

「自分は自分の病気を治すことばかりを念じて神想観をしていたが、
それは一種の利己心の表現でしかなかった。
利己心を去ったとき、其処に神の救いがあらわれるのである」

そう考えてこの人は、もう自分の肺結核を治そうと云う考えを棄ててしまった。

そうして神想観をするときには主として”世界平和の祈り”を念じたのであった。――

「神の無限の愛、われに流れ入り給いて、われに於いて愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い、全(すべ)ての人類の心に
愛と平和の思いを以って満たし給うのである。」

この祈りを毎日つづけていたが、或る日ふと気がついて見ると
肺結核が完全に癒されているらしいので、医師にレントゲン検査をして貰ったが、
結核の痕跡は全然消えてしまっていたのであった。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P132~133) より

           <感謝合掌 平成29年5月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2017/05/18 (Thu) 03:27:44


《18日 主権を神に返せ》

神に完全に無条件降伏せよ。
神はすべての癒す力を持ち給うのである。

神は戦争に於ける占領軍のように、
こちらに抵抗の心があるのに無理に暴力をもって
進駐して来られる云うことはないのである。

神は一切のものの生みの親として、また創造(つく)り主として、
吾等の人事に潜在主権をもち給うのである。

しかし、吾々自身が「我」の仮主権を握って頑張っている限りは、
その仮主権を排除してまで、神の潜在主権を実行に移し給うことはないのである。

神の全能の完全なる機能を、わが身体及び人事、事業等に於て実現しようと思ったならば、
完全に神に主権を返還して、神の叡智によって、自分の一挙手一投足を
支配せしめるようにしなければならないのである。

神に主権を返還するなどと言えば、
自分以外の「神」に自分の主権を奪われるかのように錯覚する人があるかも知れぬが、
「神」と云うのは、自己の霊なる“本当の自分”なのである。

“肉体の自我”の主権を“霊の自我”の主権に譲り渡すことなのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P133) より

           <感謝合掌 平成29年5月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2017/05/19 (Fri) 04:38:32

《19日 勇敢に困難と取り組め》

人生には一面、色々の苦痛や困難がある。

それを苦痛とし困難として受け取るかどうかは
その人自身の“受け方”(精神的受け方)によるのである。

それらの苦痛や困難があるということは、恰も学校で学ぶ過程に於て
色々の学科があるのと同じことである。

勉強家は、その困難な学科を学習し、
問題を解いて行くことに却って喜びを感じるが、
或る学生はそれを困難として苦痛として感ずるのである。

私たちは人生の色々の学科を学ぶべく色々の問題にぶつかるのであるが、
それを困難として苦痛として受け取らずに、喜びとし、楽しみとして
受け取らなければならないのである。

若しあなたに何らかの困難な問題が起こって来たならば、
それを回避し、それから逃げだそうなどと考えてはならない。

たとい一時その問題から逃げ出しても、
それはあなたの魂の進歩について必要な学習であるから、
再びそれに類似の問題を課せられることになるのである。

だから人生の問題については進んで勇敢に取り組んで解決するようにするがよい。
その人の魂がその学科を卒業し得た心境に到達したとき、
その問題はあなたの人生から消え去るのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P134) より

           <感謝合掌 平成29年5月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2017/05/20 (Sat) 04:02:02


《20日 自己をごまかすなかれ》

人間のみが地上に於ける自己反省の能力をもっている唯一の生物であって
人を批判し、反省し、分析し、改造遷善し得るすぐれたる精神を
そなえているのである。

それにも拘わらず、人間ほど自分自身の欠点を知らないものも少ない
と言ってよいほど、自分自身のことに気がつかないのである。

他人(ひと)のことだったら、自分のことよりもよく解って、
色々批評したり、悪口を叩いたりする。何故だろうか。

まともに自分の欠点を見たくないので、自分を誤魔化そうとするのである。

自分の顔に白粉(おしろい)を塗って素地を見えぬようにして、
白粉を塗った表面から、自分を鏡に映してみて、「自分は美しいな」と暫し、
自分の美粧(びしょう)した顔に見惚(みと)れたいようなものなのである。

そこで摂理が自分の心の姿を、自分の病気や、周囲の人々の風当たりや、
形にあらわれる姿に見せてくれて自己反省せしめ、改過遷善(かいかせんぜん)が
行われやすいようにしていて下さるのである。

環境を見、周囲を見、自己の肉体の状態を観て心を改める者は幸いなるかな。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P135) より

           <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2017/05/21 (Sun) 04:52:20


《21日 機嫌の悪さは人に感染する》

御機嫌が悪いということは自分だけの問題であり、その時の生理作用であり、
頭の具合によるのであり、他の人の関する事ではないし、それは何も重大な事柄ではない
と考えている人もあるけれども、これは非常に重大な問題なのである。

人間は1個の精神ラジオ・セット又は生きたテレビ・セットとして
自分の気分に波長の合ったものを受信し受像して、
それを自己の運命として、具体化するものだからである。

機嫌の悪さは、単にその人一個を不幸に突き落すだけではなく、
その人に触れる殆どすべての人に、その不機嫌を感染させ、
他の人々をも不幸の運命に巻き込むことになるのである。

だから、“機嫌の悪さ”は単なる自己虐待であるばかりでなく、
他の人々をも不幸に陥れる罪悪であり、それを感染させて行くとき、
大なる戦争さえも起こりかねないのである。

世界の人々がフルシチョフのご機嫌がよかったとか、
悪かったとかで一喜一憂しているのもそのためである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P136) より

           <感謝合掌 平成29年5月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2017/05/22 (Mon) 03:14:19


《22日 機嫌の善さは万人を明るくする》

「愛はよく耐え忍ぶ」と云うことは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、
その影響がどんなに多くの人々に破壊的結果をもたらすかを知っているからである。

御機嫌がよいと云うことはその人の心が明るいことであり、
心が明るい時には、その人のもって生まれた智能がいつもよりよく働くから、
よき考えが浮かび、よき仕事ができるということになるのである。

心明るき時には、不幸や災難の波長を受信することはないのである。

心明るき時には肩が凝らない。
筋肉が無理な緊張をしない。
人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。

常に平和で、何事も善意に受けることができるのである。
新しき智慧が湧き出で、新しき勇気を生じ、どんな逆境をも好転させる
不思議なるインスピレーションを受けることができる。

次の如く念ぜよ。

 「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。
 それゆえ私は常に心が明るくて、何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。
 自分自身が光であるから暗(やみ)闇が近づいても
 それを光に変えてしまうことができるのである。」


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P136~137) より

           <感謝合掌 平成29年5月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2017/05/23 (Tue) 03:51:46


《23日 殻がわれて雛が生れる》

人が過ちを犯したときに、その人を“愚か者”または“悪人”と思ってはならない。
神の造り給うた世界には“愚か者”も“悪人”もいないのである。

唯、彼等の実相があらわれていないだけである。
彼の実相の完全さがあらわれるように、神想観又は祈りによって、
彼の「完全なる実相」を心に描き、すでに彼が完全であることを
心に念ずるがよいのである。

「彼も神の子である。彼の実相は完全なのである。
現象はどのように見えていても、それは卵の殻がわれて、中から
鶏の雛が生れて来るように、完全なる実相があらわれて来つつあるのである」

と念じて、その人を祝福するがよい。

雛が現象界にあらわれて来るためには、卵と殻がわれなければならないのである。
それと同じく実相の完全な姿があらわられる過程としては、現象的には破壊的に
見えることが人間の行動にも、世界の運命にもあらわれて来るであろう。

併し喜び歓べ、それは幸福を生み出す卵の殻が破れつつあるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P137~138) より

           <感謝合掌 平成29年5月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2017/05/24 (Wed) 04:27:39


《24日 仕事に立ち向かうときの構え》

仕事をする時には、

(1)先ず心を明るくし、
(2)希望をもち、
(3)必ずよいインスピレーションが来ると信じ、

(4)今までの神の導きに対して感謝してから、
(5)神の導きがあるように祈りをし、
(6)祈って心が落ち着いた時に想を練り、計画すると、神の智慧の導きがある。

(7)その計画にしたがって撓(たゆ)みなく努力を続ける

―― この7つの箇条を一つでも欠いたら、
事業成就の鎖の円環の一つが欠けることになって効果が薄いのである。
 
仕事と云うものを、結果としての成績や利潤を
挙げるためのみの目的のものだと思ってはならない。

事業は、成績も利潤も大切であるが、もっと必要なのは、
その仕事を遂行する心構えと、その進行中に起る色々の具体的な問題に
対応する時に於ける心の練磨による魂の向上こそ重要なのである。

仕事の進行中に起こる問題の処理の仕方で、魂が却って堕落する人もあるし、
それによって大いに心が練れて、魂が向上する人もある。

仕事というものを単に唯物論的に利潤目的のものと考えてはならない。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P138~139) より

           <感謝合掌 平成29年5月24日 頓首再拝

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2017/05/25 (Thu) 03:14:39

《25日 相手が昂奮(こうふん)しているとき》

こちらは何の悪気もなく言った言葉や、した行為に対して、
相手が非常に昂奮して呶鳴りつけたり、罵倒したりすることがあるならば、
相手の「完全な実相」を観て、その激しく昂奮している“悪い姿”に
こちらの心を引っかからせてはならない。

人には“虫の居どころ”と云うものがあり、何らかの悩みがあって
神経が過敏になっているのであろうから、相手をもっと
同情してあげる心になることが必要である。

相手が昂奮して罵っていても、

「神様、この人は屹度何か思いあまったなやみがあるに違いありません。
どうぞその悩みを取り除いて実相の完全な姿があらわれてまいりますように」

と祈ってあげるがよい。
これが相手の「完全な実相」を引き出す力になるのである。

相手の昂奮は、時には自分が、「相手を憎む念(こころ)」をもっている
其の念の反映であることもあるのであるから、こちらが相手を祝福し、
相手の幸福を祈る心になる事によって、

相手の昂奮が静まり、敵と見えたものが味方ともなるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P139~140) より

           <感謝合掌 平成29年5月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2017/05/26 (Fri) 03:30:00

《26日 問題を神にゆだねよ》

如何なる問題が起こって来ても、
常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要である。
どんな問題でも、《神なら》解決できるのである。

自分の「我」の力で解決しようと思うから、
解決の方法を失ってどうすることもできないような事になるのである。
問題を神に振り向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。

そのためには、

「神は全知全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神様あなたに委ねます」

と繰り返し繰り返し、心に念して祈り、その問題を神に委ねるがよい。
徹底的に神に解決をゆだねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うのである。

それは自分に好い考えが思い浮かんで来ることもあれば、
誰か、思いがけないところから、
援助の手を差しのべる人が出てくることもあるのである。

充分祈った後に、誰かがその問題解決について案を示してくれるならば
素直にそれに従うがよい。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P140) より

           <感謝合掌 平成29年5月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2017/05/27 (Sat) 04:07:12


《27日 相手の攻撃は自分の鏡》

「与えよ、さらば与えられん」と「ルカ伝」に教えられている
心の法則は常に働いているのである。

金銭を与えるだけではなく、
他(た)の人に対して信頼を与えれば、信頼が与え返されるのである。

愛を与えれば愛が与え返される。
賞讃を与えれば賞讃が与え返される。

他(た)の人の攻撃の言葉に対して、攻撃を与え返したのでは、
攻撃と争闘とは更にひどくなるだけである。

憎しみに対して、愛を与え、
批判に対して感謝を与える雅量をあらわすのが本当の“神の子”である。

もっとも攻撃の手ひどい相手ほど、自分にとってよき反省を
与えてくれる諫言(かんげん)であるのである。

 
自分の眼が自分自身の眼を見ることができない、
自分の眼を見ようと思ったならば鏡に向かって相対しなければならない。

自分を非難し、攻撃する人は自分の鏡となって、
自分の欠点に照明を与えていて下さる人である。

時には微細なとるに足りない自分の
欠点を顕微鏡的に拡大して下さる親切な相手もある。

素直にそれを忠言として受けることによって、あなたの魂の進歩があるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P141) より

           <感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2017/05/28 (Sun) 04:18:07


《28日 肉体は想念感情の象徴》

メニンジャー博士の『こわれたパーソナリティ』と云う本の訳書が、
日本教文社から発行された。
これは、性格の破壊されたような人々の精神と症状の分析である。

その中に、

「咽頭痛は、一種の炎症、特に細菌性の炎症によるのが常である。
そしてこのことは、周知の事実である。

しかし、この種の炎症にかかりにくいある婦人が、友達の性格の悪口(あっこう)を
言うという事件のあった直後や、親類の者が石炭酸を嚥下した直後に、あるいは、
フェラチオの経験をもった直後に、激しい咽頭痛を生ずる場合には

精神分析的な研究が実証しているような一定の因果関係を推測するに足る
理由が認められるのである」

と云うような事が書かれてある。


生長の家で、人に対して「痛い言葉」を吐く者は、口腔又は咽喉又は肛門等の
痛む病気に罹ると云うことを説いているのを、
精神分析専門家が証明したことになるのである。

すべて肉体は、その人の抱く想念感情の象徴としてあらわれるのだと云うことを
頭に置いて、メニンジャーの此の書を読めば大いに参考になる。

メニンジャーは、余りにすべての症状を抑圧された性的感情の象徴として
解決し過ぎたきらいはあるが、一応 心身相関現象の研究にはなるのである。

谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P142) より

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第三「心身の癒やし (1999)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=399

(2)光明掲示板・伝統・第一「肉体はこころの影」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=37

(3)伝統板・第二「肉体はこころの影①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6475329

(4)伝統板・第二「肉体はこころの影②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6922616

           <感謝合掌 平成29年5月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2017/05/29 (Mon) 03:59:36


《29日 女は女らしく》

私は結婚生活に於て妻が夫の上に支配権をもっている場合、往々にして
その子宮が疾患にかかり、あるいは潰瘍を起こし、腐爛し、あるいは子宮癌を
引き起こすことがあるとして、

妻が夫に従順に従う心になるように指導して治った実例を述べたことがあり、
子宮は「女性なるもの」の象徴であり、子宮に於ける此等の女性疾患は
「女性なるもの」の拒否(女らしさの拒否)の精神が肉体に具象化したのであるとして、

女らしさを恢復し、夫に対して真に従順の徳を発揮することによって、
90パーセント腐爛して切除のほかなしと医師から診断された子宮が
健康を恢復した症例をも挙げておいたのであるが、

メニンジャ―博士は「“女であること”の拒否」によって、不感症、悪阻(つわり)、
月経障害、子宮出血が生ずることを述べ
(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』185頁)

更に「何人かの権威者たちは、子宮脱や膀胱脱、繊維性筋腫すらも、
精神的性欲の障害の身体的な結果であるという証拠を報告しています。

そのような精神性欲の障害とは……〈女であること〉の拒否するものであります」と
追加して書いているのである。

「女は女らしくあらねばならぬ」と云うことは決して単なる封建時代の因習でなく、
最新の精神分析学が証明するところなのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P143) より

           <感謝合掌 平成29年5月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2017/05/30 (Tue) 04:33:32


《30日 自分を赦すこと》

私は『幸福を招く365章』の本の中に、「自分を赦すこと」が大切である
と云うことを書いて置いたが人類の不幸及び災禍を絶滅するためには、
人間自身の“自己処罰”を無くしなければならないのである。

その“自己処罰”は自分を赦さないところから生ずるのである。

メニンジャ―博士は「数多くの病気は ―― 通常、器質的と呼ばれるものも、
機能的と呼ばれるものも ―― 慢性で間接的な自殺という自己破壊の多様な形態と
みなすことができるが、このような意見をのべることは、おそらく、
理論を拡張しすぎることにはならないであろう」と述べているのである。
              (メ博士著『こわれたパーソナリテイ』275頁)

兎も角、人間は“神の子”であり、本来完全であり、神と同じく“無限の力”を
自己の内に有(も)っているのであるから、自己が許さない限りは、
どんな災害も受けることができないのであり、

若し、全能なる者が災害を受けるとしたら、
自己が自己を処罰する場合だけだと言い得るのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P144) より

・・・

*《自分を赦すこと》の冒頭のご文書

「私は『幸福を招く365章』の本の中に、
「自分を赦すこと」が大切であると云うことを書いて置いた」は、

「幸福を招く365章」(P160~162)《自分の罪を赦しなさい》

と思われます。

以下に、その部分を紹介させていただきます。


《自分の罪を赦しなさい》

すべての不安は、神と離れた感じから起こるのである。
だから「神と一体である」という自覚を呼び起こすあらゆる方法はすべて、
不安を解消し、健康を増進する目的に適うのである。

神と離れていると云う感じは、「罪がある」という自覚からくるのであるから、
「罪がゆるされた」と云う感じを与える方法は
不安を解消し健康を増進する目的に敵うのである。

だからイエスは「汝の罪赦されたり」と云う語(ことば)で
人々の病気を治しているのある。

病気の人は自分が自分の罪を赦せばよいのである。
イエスは「審判(さばき)は子(人間)にゆだねられたり」云っている。
自分を罰するのも自分であれば、自分の罪を宥(ゆる)すのも実は自分であるのである。

「神がわが罪を赦したまいて、その愛の慈手(みて)をもて抱きたまう、
我はすでに癒されたり」
と念ずるのは、自己責罰を自分で赦すよき方法である。

メニンジャー博士はその著「おのれに背くもの」
(日本教文社発行、下巻の(焦点的自殺)の項)
の中で咳が他を憎んで毛嫌いする心から起こると云うことを書いているのであるが

1951年1月21日発行のウイ-クリ-・ユニティ誌に於いても
スティヴンス・ハットフィ-ルド氏が
「正しく思え、正しくあれ」(Think right Be right)の中で
同じような実例を挙げている

――或る婦人が自分の甥を貰って実子のように育てていたのである。

甥は戦争のため入隊したが或る日休暇で一人の友人と共に帰って来た。
海軍の服装をつけているためにその年齢では出入出来ない遊び場に出入するようになった。
酒場で出入りして酒を飲む、パチンコをやる、ダンス、賭博と
ある限りの歓楽を尽くすのである。

養母がどんなに説得してもきかなかった。
その時20年間影をひそめていた気管支炎が再発して重体に陥った・・・・・・。

この種の家庭に於ける精神的葛藤が病気を起こすことは数知れずである。
殆ど病気の大部分がそれであると云うことが出来る。

吾々の肉体は、吾々の抱懐する想念感情と同じような種類の形につくられる。
家族の誰かに対していだいている怒りをゆるすことは、
自分の心を縛っていた縛りをほどいてしまうことになるのである。

身体が硬直したり、不自由になったりする病気は
人を赦さないことから起こっている場合が多いのである。

だから人を審判(さば)いてはならないのである。

たとい相手が悪くとも、相手が悪いからとて、こちらが心を硬(こわ)ばらせば、
自分の肉体の組織が硬ばることになるのである。

狭心症や血管の硬化や、喘息や、組織を狭窄(きょうさく)せしめる病気は
人をゆるさない心から起こることが多いのである。

(以上)

           <感謝合掌 平成29年5月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2017/05/31 (Wed) 04:43:38

《31日 他人を赦すこと》

自己が災害を受けないために、自己を赦そうと思っても、
自己が他を害そうと云う悪念が現に動いている限りに於ては、
自己の潜在意識の奥底にある“良心”が自己を処罰するに至って、
やっぱり災害を受ける事をまぬがれることはできないのである。

メニンジャ―博士は次のような実例を掲げている。――
 
「もっと劇的でさえあるような別の実例が、最近私の注意を惹いた。
私は新聞である男のことを読んだが、この男は、自分の鶏を盗もうとする奴を
自動的に鉄砲が射(う)つような、泥棒よけのわなをしかけていたが、
彼自身このことを忘れてしまって一番先に鶏小屋に入り込み、
自分自身のしかけた鉄砲で殺されてしまったのである。

私は、これこそ自分で自分に行(おこな)った死刑の見事な実例だと思う。

・・・二ヶ月ほどして私は、自分の自動車を守ろうと、
自分のガレージにわなをしかけていた男の別の実例を見つけた。

彼は、一月(ひとつき)ばかりの旅行に出たが、
戻って来た時、自分自身のしかけた泥棒よけの
わなで殺されてしまったのである。

私はこの切抜(きりぬき)をもとっておいたが、
更にもっと沢山の実例を探し始めた。

1年ほどのうちに私は、他の男を殺すためにしかけたわなに、
自分自身がひっかかった5人の男の実例を手に入れた。

私には、これらの事故が単なる偶然の一致ということだけで
説明できるとは考えられない。

自分でしかけた死のわなに自分がひっかかるような男には、
一種の(無意識的な)罪悪感、おそらくは他人(泥棒)を殺そうと
願ったことから生じた罪悪感という要素が存在していたにちがいない。」
(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』279頁)

以上のような実例によってわかることは、自分を害しようと思う者や、
自分から何かを奪おうとしている者さえも、
吾々は赦さねばならないと云うことである。

相手を憎んで相手を害しようと思うならば自分が害される事になるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P144~146) より

           <感謝合掌 平成29年5月31日 頓首再拝>


<参考Web>

(1)ひかりの一日一言①
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6455552 

(2)ひかりの一日一言②
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6479787

(3)ひかりの一日一言③
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6505650

(4)ひかりの一日一言④
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6527684

(5)ひかりの一日一言⑤
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6558249

(6)ひかりの一日一言⑥
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6584563

(7)ひかりの一日一言⑦
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6618774

(8)ひかりの一日一言⑧
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6651661

(9)ひかりの一日一言⑨
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6681257

(10)ひかりの一日一言⑩
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6711243

(11)ひかりの一日一言⑪
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6745089

(12)ひかりの一日一言⑫
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6778844


<以下は、「幸福を招く365章」より」>

(13)ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439

(14)ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866429

(15)ひかりの一日一言⑮~理想を高く掲げよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898754

(16)ひかりの一日一言⑯~心霊への目覚め
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6929870

(17)ひかりの一日一言⑰~健康への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6962847

(18)ひかりの一日一言⑱~寿福への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6990572

(19)ひかりの一日一言⑲~愛を人生に処方して
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7021791

(20)ひかりの一日一言⑳~祈りを生活に処方して 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7058416

(21)ひかりの一日一言21~あなたも神癒が受けられる 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7097406

(22)ひかりの一日一言22~光に向う我が運命 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7149847

(23)ひかりの一日一言23~正しき想念の使い方 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7190605

(24)ひかりの一日一言24~われ肉体以上のもの
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7274701


<以下は、「生活の智慧365章」より」>

(25)ひかりの一日一言25~幸福はどうしてくるか
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7538235


光明日訓(平成28年版)
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7538248

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