伝統板・第二
青年法語『吾等青年何を為すべきか』 - 夕刻版
2017/04/27 (Thu) 18:15:55
”道産子 さま” ありがとうございます。
いつも、貴重な神誌からの真理の言葉の数々を紹介していただき、
まことにありがとうございます。
この度も、前々回及び前回と同様に、「青年法語(吾等青年何を為すべきか)」を
抜き出し、新たなスレッドとして、再掲載させていただきます。
*前回~ 「あなたの運命を形成するもの」 (理想世界誌 昭和42年10月1日号)
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7162032
*前々回~ 「宇宙の神秘を直観して」 (理想世界誌 昭和42年 9/1号より
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7069750
(感謝、合掌! )
・・・
伝統板・第二
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7374384 より
昭和42年11月1日号 「理想世界」誌 輪読のための青年法語
吾等青年何を為すべきか 谷口雅春先生
一日のことば ~ 組織づくりの大切なること
何事でも完全な成績を円滑に挙げるためには
組織づくりということが大切なのである。
松下電器が家電生産業者の中で最高の収益を挙げているのはその販売網の
組織づくりが広く且つ綿密に行われているからである。
資生堂が化粧品業界で最高の売り上げを挙げているのも
組織づくりがたくみであるからである。
人間が猿その他の哺乳動物よりも知能がすぐれ、地球の支配者になって居るのも、
人間に宿る神の生命が“大脳”という複雑精巧なる生理的組織をつくるのに
成功したからである。
数個のトランジスターや、数個のダイオードを単につなぎ合わしただけでは、
それは完全な携帯用ラジオにも電子計算機にもならないのである。
それが精巧なるラジオとなり、テレビとなり、電子計算機となるには、
部品と部品とを適当の順序に配置し、それを完全円滑に連絡せしめる
叡智に導かれた精緻な組織がつくられなければならないのである。
・・・
二日のことば ~ 組織づくりと、魂の救いの問題
教えの内容がいくら立派であっても、教えの布教網の組織づくりが
下手であっては、その教えは伸びないのである。
宗教は、魂の問題であり、魂の救いは個々の人間の問題であり、
外形の組織づくりばかりに狂奔していると、
魂の内的問題がおろそかになるおそれがある。
魂の救いは、個々の“悟り”又は”信心”の問題ではあるけれども、
その個々の人間も教えに触れなければ魂の救いの門に入るわけにはいかない
のであるから、伝道の組織づくりを完全にして誰でも教えに触れ易い
ようにしてあげることが、人を救う道である。
人を救わずして、自分だけ悟ったとか、救われたとか考えるのは、
一種の利己主義であって、そんな人が”救われた”などと
自任しているのは、唯の増上慢に過ぎないのである。
・・・
三日のことば ~ 自分の勉強科目を純粋培養せよ
良き酒類を醸造するには雑菌の入らないところの無菌性の部屋で、
目的とする酒を醸造するための醸造菌だけの充分発育する環境をつくら
なければならないのである。
良き薬品を製造するにも同様なことが言えるであろう。
あなたが勉強して、あなたの心の中に立派な{成果}をつくり出すためには、
その勉学の途中で、自分の注意を外らすような何物も傍らに置かぬがよいのである。
純粋培養ではないけれども”純粋勉強”の状態に自分をおくとき、
その研究科目に対する良質の知識獲得の成果が得られるのである。
書斎を整頓して、目的以外の、心を他に外らすようなものを置かないこと。
部屋が雑然として散らかっていると、心も散乱し易いこと、部屋がキチンと
していれば、心もキチンとして、心が統一して不要な事柄を考えなくなること。
書斎の整頓そのものが勉強の能率をあげ、時間を節約し、
すべてをプログラム通りに進行させることになるのである。
・・・
四日のことば ~ 組織を通して活動すれば、効果が百倍する
組織づくりが完全に行なわれると、各方面へ自分が出張して直接交渉する
ことをしなくても、組織がそれを行ってくれることになるのである。
即ち、自分の力で、組織の末端まで延長して、
末端組織の数だけ倍乗して働くことになるのである。
この自分の力の倍乗法を知らないで、何でも彼でも自分がやらねばならぬと
一所懸命力んでいて、時間が足りず、或る距離以上には足が伸びず、
結局効果があがらないような先輩があるけれども、働きたくて、世話をしたくて
仕方がない人が多勢あるのに、そんな人を動員すれば、熱心に働いてくれるのに、
それを働かせないで自分ばかり忙しいのは、まことに気の毒なことである。
そんな人は、自分は大いに神さまのために尽くしているような恰好でありながら、
他の人が神様の御用を尽くす邪魔していることもあり得るのである。
・・・
五日のことば ~ 協力者を組織化する必要
多勢の人が自分の運動に共鳴し協力してくれていても、その協力者が
完全に統制のとれた組織化となって活動してくれない場合には、
そこに必ずエネルギーの浪費(ロス)が出て来るのである。
思い思いに勝手に協力してくれるためにその仕事が重複したり、する必要のない
ことをして却って全体としての運動を阻害したりすることが起こって来るのである。
ここに一つの運動に大勢協力してくれる場合には
その役割の組織化が必要となってくるのである。
「天は人の上に人を創造(つく)らず人の下に人を創造(つく)らず」
とは民主主義の標語であるけれども、運動を進め仕事を協力してやる場合には
中心的な位置から、更に分割された色々の部門の長(チーフ)が必要であり、
チーフの下に素直に運動してくれるメンバーが必要であり、命令系統がハッキリ
していなければ効率的に仕事の能率をあげ運動を前進さすことはできないのである。
・・・
六日のことば ~ 身辺の雑物を整理して組織化せよ
何でもキチンと組織的に片付ける習慣を若いときからつけておくことは、
将来、事物を組織化する能力を増進することになるのである。
自分の着衣を脱いだところにそのままでダラシなく放っ散らかして
おくような生活習慣をつけてはならない。
室の中がキチンとしていれば、その中にいる人間の心もキチン
として来て、自分が引き締まって勉強もし易くなるのである。
仕事の時間の一割、又は二割は、その仕事をするに必要な道具
や文房具や参考書を探すための時間に費やされるといわれている。
婦人ならば、裁縫仕事をしながら、使った鋏を置く場所を決めていないために、
鋏が布地の下になったり、色々のものの下にまぎれ込んでいて、その鋏を
探すために全仕事をなす時間の二割位の時間を費やしてしまうそうである。
阪急電鉄の社長であり、東宝劇場の創立者であり、東宝歌劇の発案者であった
故小林一三氏は、実業界の今太閤といわれる程の明敏な頭脳の持主であって
東宝系、阪急系の諸事業の基礎をきづいた人であったが、秩序の感覚の
非常にすぐれた人であって、自分の仕事に必要な諸道具、参考書類は、
自分の寝台からすぐ手を延ばせば届く位置においており、それらを取りに
往復する時間を節約するように計画されていたという。
万事がその通りで仕事が綿密に組織化されていたのである。
・・・
七日のことば ~ 幸運と不幸とは自分がつくる
誰にでも一生涯のうちには、大きな濤のうねりのように運命のうねりが
その人を下から押し上げてくれる時期が一度や二度は必ずあるものである。
その運命の波濤にうまく波乗りできるものは、
急速にそして快適に、波の上昇を楽しむことができるのである。
しかし、そのような”運に乗る”ことのできる人は
平常から“波乗り”の訓練のできている人だけである。
平素の訓練のない人は運命の波のうねりに自分の足をすくわれて倒れてしまい、
波に呑まれてついに溺れ死ぬかも知れないのである。
運が好いとか、運が悪いとかいうけれども、それは結局、平素の自己訓練が
してあるか否かにかかってあるのであって、“運”と称する外来の
”何物”かに、自分の生涯が左右されているのではないのである。
・・・
八日のことば ~ あなたは幸運の雲を巻き起こせる
内部に常に蓄積されていた蘊蓄とか学殖とか徳行とかが、
やがてその人の運命としてあらわれるのである。
何も身につけていなかったら、どんな好い機会が来ても、
外にあらわす何ものもない。
外部にあらわれるものは既に内にあったものだけがあらわれるのである。
既に内にないものはあらわれようがないのである。
ふだんに、よく勉学し、教養を積み、自分の能力の進歩を、マラソン選手が
毎日必ず走って脚を鍛えるように、自分の研学の目標を定めて、その方面の能力を
毎日一層鍛えておくのものは、やがて時が来て雲に乗って竜が昇騰するように、
好運の雲を巻き起して見る見るうちに人類の救済者とも
一国の宰相とも一党の総裁ともなるのである。
・・・
九日のことば ~ 片岡秀公丈(ひできみさん)の雄弁を聴く
こないだ、国立大劇場に招かれて、「学生のための歌舞伎の解説」を観にいった。
片岡秀公丈の歌舞伎の由来や舞台の説明や囃子道具の解説は、
私の今まで知らない事を沢山教えてくれて、色々参考になったのである。
背広を着て素顔で舞台に立った秀公丈は素晴らしい雄弁で、聴衆・観客の心を
捉えるコツを心得ていて真面目な解説の中に歌舞伎の声調(こわいろ)を
時々交えて吾々を倦きさせず、擒縦(きんしょう)自在の趣があった。
これだけ自由自在に言葉の力を駆使し得るためには幼い時から
余程の訓練を経て来た結果にちがいないのである。
吾々宗教人も人を救うためには、自己訓練をきびしくして、聴衆を倦きさせないで
真理を説き、悟りに導く言葉の力を鍛えておかなければならないと思った。
吾々は勉強が足りないのではないか。
吾々は自己訓練が足りないのではないか。
レジャーが多すぎ、その時間が自分を研くためにつかわれないで、
ただ詰らない娯楽や呆心に浪費されているのではないか。
・・・
十日のことば ~ 自己訓練の価を払って
国立大劇場の入口で短冊形の印刷物をくれたので、演劇の説明でもあろうか
と思って幕間にポケットから出してそれを読むと、
宝石の原石を差し上げるという広告であった。
さらに読んで行くと、その宝石は磨き方によって宝石の美しい輝きを発揮する
ので、用途によってお好みの形に加工して美しく仕上げて差し上げますから、
その加工賃だけは負担して下さい――という意味が書いてあった。
「なるほど・・・・・」と私は頷いた。
わたし達は、”神の子”として“神の生命”という原石をただで譲り受けている
のである。
しかし原石のままでは”神の子”らしい輝きを発揮することはできないのである。
その本具の光を発揮するためには磨かなければならないのである。
しかし磨くためには、ただで人に委せておいては駄目なので、
値を払わなければならないのである。
それは自分の用途(使命)に従って、努力と勇気と忍耐とをもってする自己訓練
という値をはらうのである。
・・・
十一日のことば ~ あなたも屹度天才である
早く天才を発揮する人もある。
そしてその多くは早く散るのである。
早春に咲き出でた梅も桃も桜も、夏まで咲いていることはないのである。
夏には夏の花が咲く、朝顔の花、竜胆の花、夾竹桃の花などは
夏に長期にわたって私たちの眼を悦ばせてくれるのである。
人それぞれに、その天才を発揮する時期が異なるのである。
一年中美しい花を咲かせない松柏科の植物もある。
それは目立って美しい花を咲かせないけれども、よく風雪に耐え、
酷暑を忍び、亭々と高く聳えて、よく千年の樹齢を保つのである。
植物にも、それぞれ異なる使命と天分とを与えられているが如く、
人間にもそれぞれの天分が異なり、その発達・開花の時期が異なるのであるから、
他の人が早く出世をして幸運をつかんでいることを羨むことは要らないのである。
あなたには、あなたの型に従って適当な時期によき運命の花を開くのである。
・・・
十二日のことば ~ 毎日努力して何らかの進歩をなせ
草木はただ静かに立っているだけのように見えているけれども、
寒冷の霜雪に耐え、酷暑の日照りに鍛えられながら、間断なく自分の
持っている全力を尽くして、水分と栄養を吸い上げ、呼吸作用、
同化作用を行い、できる限りの営みをつづけているのである。
毎日のいとなみ、毎日の努力なしでは植物は生きていることも生長することも
できないのと同じように、人間の魂も、毎日の努力により、進歩して
行かなければ退歩してしまうのである。
生命は生長が止まったら枯死又は衰頽がはじまるのである。
それは生命体の特徴として常に新陳代謝が行なわれねばならないのであるのに、
みずから努力して新しきものを獲得することがなければ、過去にありしものを
使い果すか、過去にありしものが錆びついてしまうかして、
生命体は円滑なるはたらきを失ってしまうのである。
だからあなたは毎日、前進をなし、何らかの進歩を遂げることが必要である。
・・・
十三日のことば ~ 自他のために深切を尽くすこと
神から与えられた能力を使って、そのとき出来るだけの奉仕をせよ。
他の人のためになる奉仕でも、自分のためになる奉仕でも、
どちらでもよいのである。
他の人も神の子であり、自分も神の子である。
自分に深切を尽くすことが他の人のためになり、
他の人に深切を尽くすことが自分のためになるのである。
深切を尽くすとは、親しく狎々しくて”甘やかす”ことではないのである。
自分及び他の人の内部に埋没されている本当に“価値あるもの”(実相)
を引き出すようにすることである。
・・・
十四日のことば ~ やりかけた勉強は徹底的にやれ
何をやっても“人並み”程度では役に立たないのであり、その程度では
役者になっても「その他多勢」の中に入っていて、自分の名前は出ないのである。
人生は何も、自分の名前を出すための道具ではないけれども、
「その他多勢」の中に入れられる位なら、その人としての個性ある
独自の存在感を発揮していないということになるではないか。
何か人より優れた、自分でないと出来ないような
個性ある一芸に練達するように努力せよ。
将棋をやれば名人となれ。相撲をやれば横綱となれ。
英語をやるなら、立派に英語演説でも、会話でも自由自在に話すことができ、
英語の手紙でも、翻訳でも自由自在にできるようになるがよい。
書物を読むなら、自分の選んだ方面の凡ゆる図書を読破する決意をもって
努力を継続するがよい。
中途半端な勉強振りをしていて、一体、この競争の激しい人生に
何ができると思っているのだ。
勉強は徹底的にやるがよい。
何でも徹底的にやったものには価値がある。
・・・
十五日のことば ~ 堅忍不抜にして、よく希望の山嶺に登る
吾らの最大の栄誉は失敗しないということではないのである。
失敗しても失敗しても依然として起ち上る力をもっていることなのである。
そのたび重なる失敗を通して人間は進歩するのである。
それは剣の修行でも野球や庭球の練習でも、囲碁や将棋の勉強でも同じことである。
上段の人、上級の相手に対しては負け続けるのである。
負けること
―――そして負けても起ち上がって再び負けまいとする努力を重ねること―――が
上達のもととなるのである。
負けないのが偉いのではない。
幾度負けても起ち上がる力を失わないのが偉いのである。
天才とは努力の継続である。
・・・
十六日のことば ~ 平和・平和・平和よ、汝は何を人類に与える
平和は“人類の魂”の進歩に必ずしも貢献しないのである。
平和に甘やかされ、あまり平和で何ごともすることもないのでイタズラする
ことだけが退屈をまぎらわす道になってしまったような平和は、
”人類の魂”の進歩にとって却って麻薬の働きをするのである。
八月十七日の『朝日』の“声”欄に二つの投書が続いて載っていた。その一つには、
「世界の数ある国家の中で、徴兵制度のない国家は日本だけである。
日本の若者だけが、自由を最も享楽していると言っても過言ではあるまい」
と大いに徴兵制度のない平和な戦争抛棄の日本国を讃美しているのである。
その戦争抛棄の享受している自由を一体多くの日本の青年たちは
何の目的に使っているのかと問いたい。
盛岡の斎藤権次郎氏が「八月の上旬、上野発青森行きの夜行列車で
・・・・・下車するとき注意されて気がついたのだが、ベルトからおしりに
かけてガムがべったりとくっついている。
脱いでいた靴にも入れようとした形跡があった。」
それは後ろの座席に大学生らしいアベックが二組ふんぞり返ってガムを噛んでいた。
いたずらの犯人はその二組のうちのどちらかだというのだが、平和で金があって、
親の脛をかじりながら、自由をふんだんに享受して、こういうイタズラをする
事がしか知らない人間が殖えるような平和はそれを祝福してよいかどうか
疑問だという意味が書いてあった。反省させる言葉である。
・・・
十七日のことば ~ 終戦時の日本人はもっと清らかな精神をもっていた
その筆者の斎藤権次郎氏は戦争中の思い出を書いて
「ちょうど此の季節になると思い出すのだが、終戦の時、敗残兵として
マニラの東方山中をさまよい歩いた私達の仲間は大部分餓死した。
その行動はすべて清らかで、ある人は臨終の時に背嚢から一にぎりの米を取出して
“これを食べて私の分もお国の再建につくしてください”と言ったし、
ある曹長は増水の川でおぼれかけた部下を助けようと思い、
疲れ果てたわが身を忘れて跳びこみ、水死した」といっているのである。
物資のゆたかさと、レジャーの多さとは、人間を利己的な享楽に導く傾向があり、
物資乏しくて、人間がまさに死なんとするとき、人は互いに
助け合う心を起こし、魂は異常に高揚するのである。
もっとも斎藤氏は「もとより平和と堕落とは異質のものである」
という語で最後を結ぶことを忘れていない。
平和そのものが悪いのではないが、平和とレジャーと所得倍増を
何に使うかということが問題なのである。
・・・
十八日のことば ~ 平和は果たして人間の魂を向上せしめつつあるか
むろん、平和でレジャーがあり、金があるから、
みんなの人間が利己主義になるのではない。
しかし”平和”を熱願する人々の中には、平和は”楽”ができる、
戦争ほどつらくない――というような利己主義といえないまでも、
個人的な享楽主義的要求が平和愛好の理由になっていて、
自分の国家は余所の国の軍隊が護ってくれて、他の国の平和を維持するためにでも、
自分の国の軍隊を危険なところへ派遣するのは御免だというような
甘い考えの人も多いのである。
こんな平和は人間の魂の向上に役立つかどうかを
私は時に考えることがあるのである。
・・・
十九日のことば ~ 大きな体育館ができるのが文化国家ではない
それにどうして国家がレジャーを楽しむ人のために各県に
巨大な体育館を建てたり、野球場をつくったりする費用を援助するのか
私には、随分わからないことが沢山あるのである。
そしてその体育館を利用できるものは、
東京都一千万人の中の二万人にもない位である。
しかも、それで楽しむことの出来る人はレジャーと金とのある金持の息子ばかりで、
貧乏人は運動具もスポーツシャツも求めることはできないのである。
つまり一人の金持の坊ちゃんを遊ばすために
都民五百万人がその費用を税金の形で負担しているのだ。
体育体育といってレジャーをスポーツ競技に利用する会場の建設に莫大なる
国民の税金を浪費していながら、吾々が精神講話をするために体育館を貸してくれ
というと、精神講話は体育に関係ないと、貸してくれない体育館が沢山あるのである。
精神が如何に肉体の健不健に影響を与えるかを知らぬという
精神的無知者が体育館を管理している都市が随分あるのである。
そして精神の教養の乏しさの上に肉体のみ栄養食をすすめて
巨大日本民族をつくるのを厚生省の役目のように思っているから、
精神と肉体精力とのバランスが崩れて性的犯罪は増加するばかりである。
しかも一方に於いて、体重および身長の大なるものほど長寿でないという
統計が出て、栄養食と運動とで肉体を巨大にすることが本当の健康ではない
ということが明らかになりつつあるのである。
九大に普通の“内科”のほかに“心療内科”がつくられたように“体育館”の
ほかに“心育館”を国費で建て、誰でも心育館に出入りして修養につとめる
ことを名誉とする位にならねば、本当に文化国家だなどと
誇らしげに言う資格はないのである。
・・・
二十日のことば ~ 癌も精神的ストレスが原因で起こる
ちょうど私がこんなことを考えている時に誌友の小林信(まこと)氏から
八月十日号の『週刊現代』に癌の原因が精神にあるという記事が
載っているというので同誌を寄贈して来られた。
その中に「タバコを吸わなくても肺癌になる」という題で、去る
七月十二日から十四日まで京都国際会館で開かれた”国際心身医学睡眠学会”の
第三日目に英国グラスゴー大学心身医学研究所長のD・B・キッセン教授が
家庭不和や、仕事上のトラブルから生ずるストレスで肺ガンになるという
日本の学界ではまだあまり認められない学説を統計によって発表したことを
新聞は報じていたので、その紹介を私は十月号のどの雑誌にか書いたことがあるが、
この『週刊現代』はそれについて、慶大医学部神経科心身症センターの
阿部正医博士の診断した胃癌患者で、精神のストレスが発癌の原因と
みとめられる二例を掲げ、更に肺癌だけではなく乳癌などの原因についても
阿部教授は次のようにいっているのである。
「婦人の乳癌についても、同じような精神身体医学的な立場からの研究報告が
リネカー以下七人のアメリカ人研究者によって発表されていますね。
昭和三十八年の事ですが、これも、本人の性格とか、母親などが
原因の一つとして数え上げられているのです。
・・・・・イタリアの学者ジョハジュなども胸部ガンについての
精神身体医学的研究を発表していますし、
アメリカのエバーソンとコレという医者は逆に“ガンの自然退行”
つまり自然治癒の症例報告をしています。
キッセン報告を待つまでもなく、ガンと精神的要素は無関係と
はいえないと思いますよ」(注。胸部癌とは乳癌のことである)
それなら、どうして体育館を精神修養の講話のために使わせないのか、
唯物論の日本の政治がわるいのである。
政府は物質方面から癌の研究をする団体に多額の補助金を出して居ながら、
精神的方面から癌の発生及び治癒についての研究には補助金を出さないのは
勿論、白眼的な態度をとっているのはどういうものか。
日本の政治はもっと、唯心論的要素をその政策面にとり入れなければ、
本当に国家を良くし、国民を向上せしめることができないのである。
青年諸君がみずから政治家となった時に、否、代議士を選挙するときの
選択基準として、もっと唯心論的世界観をもつ人を選んで欲しいと
私は思うのである。
・・・
二十一日のことば ~ 病気を製造しいつつある製薬会社
「人は二人の主に事(つか)えること能わず」とイエスは言っているのである。
その人の世界観又は人生観が唯物論的であるならば、その人の関心をもつ
凡ゆる人生問題が、物質の増減や物質の操作によってのみ
解決できると思うのである。
その人が唯物論者であるならば、病気は、ある物質を人体にプラスしたり、
ある物質で毒素を中和したりすることによってのみ解決することができる
と思うのである。
そして薬剤の広告いよいよ熾烈にして、その広告の言葉が、疲労、肩こり、
夏バテ、神経痛、血管硬化等々・・・・・と病気を、老衰を心に印象して
病気や老衰を精神的に創造しつつあることには気がつかないのである。
いや、それは気がついてはいるかも知れないが、製造業者は、薬ばかりを
製造していては薬が売れないから、一方では病気を恐怖さす言葉の暗示で
病気を製造しておいて、その製造した病気の薬剤を売ろうという訳である。
既に出来てしまった病気には、薬剤で中和したり殺菌したりする必要が
あるから、薬剤の紹介や広告はある範囲に限って必要である。
薬剤の広告は医師にのみ読ませる「薬事新聞」等にのみ掲載を限って、
一般のマスコミにはのせない事が、国民を健康に導く上からは最良の策なのである。
しかし現行の憲法では「表現の自由」が定められているので、薬剤会社の
“広告や言論の自由”を制限することは違憲であるからどうすることも
できないのである。
現行憲法はこの点でも其の欠陥を暴露しつつあるのである。
・・・
二十二日のことば ~ もっと唯心論的政治を行うことだ
健康特別法案の通過については与野党の間で激しい衝突があったが、
みんなこれは物質の問題ではないか。
つまり健保の特別会計の赤字を埋めるために、どこから収入を殖やそうかという
ヤリクリ法案であって、実につまらないことに国会の論議が集中されていたのである。
もっと健保の特別会計の赤字が出ぬようにする根本問題に
何故とり組まないのであるか。
それはタダで医者にかかりたい病人が殖えて、
その治療費を国家の特別会計で負担せねばならぬから赤字が殖える訳だ。
病人が減れば治療費や薬代の負担が減り、赤字はなくなる。
病人を減らすには、製薬会社に薬ばかり製造させて、病気を広告宣伝の暗示で
つくらせないようにすることだ。
そして「タダで診て貰えるから、病気に罹ってもよい」というような
「病気に対する抵抗精神」の消耗を防ぐための抵抗精神の育成に力を注ぐべきだ。
それが幾百万の体育館をつくるよりも国民の健康増進に役立つのである。
実例を見るがよい。
生長の家の誌友の中には、もう三十年間、一度も医者にかかった事がない
という人が随分沢山あるのである。
国民全体がこのようになれば、健保の赤字など忽ち解決するのではないか。
もっと唯心論的政治を行うことだ。
・・・
二十三日のことば ~ 常に伸びる機会がある
住友商事の津田久社長は精神主義の人である。
精神主義の人にとっては唯物論者の景気循環論などに煩わされて、
政府や日銀が金融引き締めの政策をとるから不景気が来て困るだろうと、
取越し苦労をする必要はないのである。
津田さんはこういうのである。
「世間が不況になればうちが伸びる絶好のチャンス。他の商社が社内の
営業金利を上げるようなときがきても、うちは商談によっては逆に営業金利を
下げるなどの積極策をとることもあり得る・・・・・」(八月十九日日経新聞)
津田さんは何の信仰をもっていられる人かは知らないが、
神の智恵に導かれる者にとっては、経済界の変動ごとに
自分の事業の伸びるチャンスがあるのである。
・・・
二十四日のことば ~ 人類委光明化運動を生涯の仕事とせよ
仕事に熱情をもち、仕事を恋人とせよ。
それでこそあなたの仕事は発展するのである。
ミケランジェロに向かって、ある人が「君は何故結婚しないのかと」と
尋ねたら、彼は、
「絵を描くことが私の妻であり、私の作品が私の妻の生んだ子供である」
と答えたということである。
私は、青年諸君に対して、結婚せずに使命のみ邁進せよとはいわないが、
結婚するまでは熱心に人類光明化運動に尽くしていた人が結婚すると
全然その運動から脱落してしまう人が多いのはまことに残念なことだ
といわなければならない。
・・・
二十五日のことば ~ 人間は何のために生まれたか
ある少年が近頃、野球の練習に熱心になって学校の勉強をしなくなった。
父母は心配して、先輩の先生に指導して貰うようにたのんだ。
その少年はその先生を尊敬し、その先生になついていたのである。
或る日その先生は、
「君は近頃非常に野球に熱心のようだが、どうだ、面白いか」とたずねた。
「面白いです。先生、僕は長島のようにホームランを沢山打ちます。」
「毎日練習しているのか。」
「ハイ、毎日々々バッテイングを懸命に勉強しているんです。」
「そうか。そして君は死んだら――誰でも肉体はいつかは死ぬんだが
――神様が”お前は肉体の中にいたとき、毎日何をして来たか“と
君の魂にたずねられたらどう答えるかね。」
「僕は毎日野球をやっていましたと答えます。」
「そうか。神様はその時“お前は毎日擂粉木のような棒ばかり掉っていて、
誰のためにもなることをしなかったのか。
人間が地球世界に生まれて来るのは、
何も棒を掉るのが上手になるためではないよ。
しかしお前はお蔭で棒を掉るのが上手であるから、
これから霊魂の世界で毎日棒を掉らしてやる。
あそこに沢山の材木があるから、毎日薪割りの棒をにぎって、
材木を叩き割ってみんな薪にしなさい。
そうしたら、棒を掉ることも誰かのお役に立つだろう“と仰言るだろう。
君はそれでよいかね。」
先生がそう仰言ったその日から少年は打棒を掉ることを止めて、
学校の勉学に熱心になったということである。
・・・
二十六日のことば ~ 少年時から生涯の理想を定めよ
人生は昔は僅か五十年といわれていたが最近では平均寿命が
男は六十七歳、女は七十二歳に延びて来たということである。
それにしても宇宙の悠久さに比べれば短いものである。
この短い寿命のうちに人類のためになるような何か偉大な仕事を成し遂げよう
と思うならば、自分の天分又は最もすぐれたる才能は何であるかをよく顧みて、
自分の最も得意とする才能で何をすれば、人類のために、或いは国家社会のために、
或いは隣人のためになるかを考えてその方面の勉強に一心に努力するがよい。
傍目(わきめ)をふってフラフラしている間に時間は過ぎ行く。
そして失われた時間は再び拾いもどすことはできないのだ。
一つの事に精神を打ち込んで努力すれば、野球のバットでなくても、
何でも一つの技には通達できるものなのだ。
人類・国家・社会のためになる一つの技に努力を集中するがよい。
・・・
二十七日のことば ~ 神はみずから助くる者を助く
世界ひろしと雖も、自分の努力以外のもので自分を高めあげるものは
何もないのである。
「信仰して神様に祈るがよい」と宗教家は助言するけれども、
その“神さま”というのは、自分の内に宿ってい給うのであって、
“本当の自分”そのものが”神の子”即ち“神の分身”――神なのである。
自分の内に宿り給う神を働かさないでいて、
「神よ、わがために働きたまえ」と祈るのは、矛盾した話ではないか。
・・・
二十八日のことば ~ 使命感に燃えてする仕事は疲れない
使命感に燃えて仕事に熱中しているときには
真夏の酷暑に於いても暑さを感じないのである。
何か紛失物でもしてアクセクして探し回ったりすると
本当に暑さを感じて汗みどろになるものである。
作家の水上勉氏は毎年、真夏には軽井沢ですごしていたが、
今年は文学座の舞台稽古の関係で東京で暮した。
そして毎日自分の作品の舞台稽古の始動に文学座の稽古場に出るのだったが、
今年は殊更に暑熱がきびしかったし、文学座の稽古場には冷房装置などない、
扇風機が三つばかりあるだけだった。
その中で約そ二十人の男女が稽古しているのだ。
人いきれだけでも暑さが一層加わる筈だが、それにも拘らず、
「どういうものか、私は暑さが気にならない。
芝居が、そうさせるのである。熱中すると、たとえてみれば、
心頭を滅却する心境に近いのである」と水上勉氏は書いている。
諸君も、自分の使命と感ずることに熱中するならば、疲れることも暑さも寒さも
気にかからないで、常に健康で能率よき仕事をすることができるのである。
・・・
二十九日のことば ~ 人類光明化運動の脚本と配役
小説や哲学的文章は孤独の書斎からうまれるが、
芝居の脚本を書いても、芝居そのものは孤独ではでき上らない。
「芝居は、演出家、装置家、照明、効果、それに大勢の役者さんの
団結なくては出来上がらない。
つまり、ここには創ることのむずかしさと喜びがついて回る。
稽古場に入ると、その息吹が感じられる。
私の貧弱な作品にたいする役者さんたちの愛情のようなものが、
直接肌に感じられると、私は、演出家と相談して、あそこをああしたらとか、
この台詞は変だから、こんな風に直そうか、とか、観ながら
脚本をふくらませていく・・・・」と水上勉氏は書いている。
それと同じことが我々の人類光明化運動にもいえるのではないだろうか。
私は宇宙の実相は「金波羅華の世界」であり、蓮華蔵世界であり、
中心にスメラミコトがましまして、その御いのちの具体的展開が最も
完全にあらわれている国家が日本国である。
それ故に、この日本国を大日本真理国と呼ぶという哲学的な悟りを、
脚本として書いていく。
本当はその脚本は神様の書かれたもので、私はそれを写したに過ぎない。
すると、その脚本通りに幹部という演出家や、色々の役割を受持つ人たちが
集まって来て、それを立体的に実現するために、
「ここはこうした方が効果的だ」とか
「あそこは、このようにする方が共同作業ができやすいではないか」
という風に相談しながらその脚本に肉がつけられ具体化して行くのである。
そこには役割の分担と組織づくりがどうしても必要である。
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三十日のことば ~ 大東亜戦争の戦死者は犬死ではない
大東亜戦争に、国を護るために散華していった忠勇な日本軍人を
「犬死」という詞をもって人酷評した朝日新聞の八月十五日の“天声人語”に
同調して八月二十八日の朝日には羽仁五郎氏が、再び「犬死という痛切な反省
から出発しなければ戦没者を真実に追悼することはできない」という
嘗ての毎日新聞の言葉を繰り返しているのである。
私は朝日新聞に私の著書の広告を止めた。
こういう左翼思想家に運動費を供給するようなものだからだ。
このような左翼思想家は唯物論者であるから、「敗戦」という現実の
物質的ミジメサだけを見て、その行為の価値を判断しようとするのである。
しかし祖国を護るために自己を空しくして”無“の極限に於いて
自己の生命を自己の理想と一体化した戦死の行為には現象を越え、
比較を絶した無上の価値があるのである。
しかもこの戦争の結果から観察しても、これを巨視的に見れば、
この日本の兵隊の犠牲的行為によって、東南アジアの諸民族及びアフリカの
諸民族が、白人優秀の迷妄から目覚めて起ち上り、民族独立の機運をつかんだ
のであって、これがどうして、何の効果もなかった「犬死だ」などと
いえるのであろうか。
それを犬死などと評するのは、小さく唯物論的に凝り固まった
視野の狭い心の眼で事実を斜めに見るからである。
(紙面に限りがあるので、詳しくは拙書『限りなく日本を愛す』
『我ら日本人として』『日本を築くもの』等を熟読せられたい)
(おわり)