伝統板・第二

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祈り(2) - 伝統

2017/04/08 (Sat) 04:10:25


   *伝統板・第二「祈り」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818447


《祈りとは人格的交わりである》

          *「光明法語」(4月8日)より

祈りと云うものは必ずしも結果をもとめて祈るものではないのである。
祈りは「神」と「神の子」との人格的交わりである。

神から与えられた生命であるところの「神の子」なる人格は、
親なるところの神に心を転回して、神と人格的に交わる時間を持つことは
是非共必要なところの行事である。

それ自身が荘厳きわまりなき処の行事であって、
結果があるとか無いとかの問題ではなく、直接的にそれ自身が目的である。

神から生れた人間にとっては、神へ生命(いのち)を転回し振り向けることは、
唯嬉しい行事である。



・・・

<関連Web>

(1)本流宣言掲示板「人は何のために「祈る」のか (4612)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=965

(2)光明掲示板・第二「「不断念仏」「平生業成」」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2014

            <感謝合掌 平成29年4月8日 頓首再拝>

《すべての物に感謝する祈り》 - 伝統

2017/04/09 (Sun) 06:13:31


          *「光明法語」(4月9日)より

また神はすべてのものの内にましますが故に、すべてのものに感謝し、
それを讃(ほ)めたたえることは偉大なる祈りである。

神に感謝しても万物に感謝しえないものは、
真に全く神に感謝しているのではないのである。

ただ神に対する祈りは、神の表現である「万物」に対する祈りよりも、
尚一層直接的であると言い得るのである。

されば吾々は毎日或る一定の時間は神に対して
心を完全に振り向ける祈り(神想観)を行事なければならぬ。

それと共に神の表現である万物に感謝しなければならぬのである。

            <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝>

《喜悦の祈り》 - 伝統

2017/04/10 (Mon) 03:47:38


          *「光明法語」(4月10日)より

神に祈るときは喜びの感情を以って祈るべきである。
神に対して泣きついてはならない。

若し、久し振りに逢った実子が其の親に対して、自己の不幸を嘆き訴えたならば、
その親は実際好い気持ちがするであろうか。
またかかる実子は親孝行だと云えるだろうか。

親に会ったとき、唯会うだけで嬉しい感情に満たされるのが
親孝行の子供ではないであろうか。

神に対して泣き言を訴えるな。
私は幸福です。健康です。豊かに暮らしていますと言え。

これが本当の親孝行の「神の子」の祈りである。

            <感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>

《明るき心にて祈るが好い》 - 伝統

2017/04/11 (Tue) 04:30:08

          *「光明法語」(4月11日)より

祈りをする時には茶断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
祈りは親に会う時であるから憔悴したる如き顔付をして見せるな。

寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂(あぶら)を塗り、
髪を梳(くしけず)って元気な顔をして祈るべきである。
全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。

併し酒は飲まぬ方が好い。
酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから
一時の心の暗さを誤魔化すのであって、次が乱れて来る。

生活に節度がなくなり、
節度がない事を豪傑ぶって自慢にするようになる。

            <感謝合掌 平成29年4月11日 頓首再拝>

《祈りは必ず成就する》 - 伝統

2017/04/12 (Wed) 04:55:13


          *「光明法語」(4月12日)より

吾々の祈りは必ず成就する。それは間違いのなきことである。
併しながらその祈りとは、数分間、神社または祭壇でとなえることのみが
祈りではないである。

祈りと云うのは生命(いのち)の宣言(のりごと)である。
生命の奥深くで、念じていること、唱えていること、呟いていることは
悉く”いのり”である。

だから、不幸を呟いている者は不幸が来るように祈っているのである。
病気を呟いている者や、常に人に苦痛を訴えている者は病気や苦痛が来るように
訴えているのと同じことである。

            <感謝合掌 平成29年4月12日 頓首再拝>

《常に感謝する祈り》 - 伝統

2017/04/13 (Thu) 04:07:50


          *「光明法語」(4月13日)より

常に間断なく善き事を考えている者のみが善き事を来る様に祈っている事になるのである。
常に間断なく善き事を考えている者とは、常に今ある状態を不平に思わず、
既に「實相の完全な相(すがた)」があるとして感謝している者の事である。

常に感謝している者は、常に善き事を祈っていることになる。

併し、単に今ある状態に甘んじている者は、それ以上の状態を祈っているのではないから、
其れ以上の結構な事物は現れて来ないだろう。

「實相無限の善」を今ありと感謝する者ののみが無限に改善し
生長する善き事を得るのである。

            <感謝合掌 平成29年4月13日 頓首再拝>

《本性に合致する祈り》 - 伝統

2017/04/16 (Sun) 03:30:28


          *「光明法語」(4月14日~16日)より

《4月14日の法語 先ず真に自己が何を求めているか》

先ず真に自己が何を求めているか、自分の求めが曖昧であってはならない。
Aの土地の仕事もしたいし、Bの土地にも帰りたいし、自分自身の要求が二個に分裂し
ながらBの地に借家を求めるべく祈ってもかかる祈りは成就しない。

神に求めるには吾が求むる事物が何であるかを知らなければならない。
現在意識(自分が気がついている心)が求めている物と、
潜在意識(自分に気がついていない心)の求むる物とが食違っていてはならないのである。

現在意識の求めが実現しないのは潜在意識の求めが反対であるからだ。

・・・

《4月15日の法語 潜在意識を浄(きよ)めるには》

日本は現在意識では勝つように祈り乍ら、
潜在意識では、「靖国神社で会おう」というように祈っていた。
又みずから「水漬く屍(しかばね)」「草生(む)す屍」になる様に祈っていた。

現在意識で「成功」を願い乍ら、
潜在意識には「失敗して、死して靖国神社に祀られる」様に
祈っていたわけだから、その祈りは成就して負けたのである。

必ず「成功」を実現せんと欲するならば現在意識・潜在意識共に、
「成功」を念願しなければならぬ。

その為には神想観して潜在意識の底までも「吾神の子なり必ず成功する」
との念を深く印象せねばならぬ。

・・・

《4月16日の法語 本性に合致する祈り》

祈りが成就しないのは、その祈りが其の人の本性に合致しない場合か、
その祈りがまだ実を結ぶ時期に達していない場合かである。

若し吾々が自分の本性に合致しない祈りを、
たとえば「大和の国」なる日本が「戦力によって勝たしめ給え」と云うような
祈りを行なうとも其の祈りは成就しないことになるのである。

朝顔は美しき朝顔の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきであり、
梅の樹は美しき梅の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきである。
其の他の花を咲かしめたまえと祈っても成就するものではない。

            <感謝合掌 平成29年4月16日 頓首再拝>

《時期に適する祈り》 - 伝統

2017/04/17 (Mon) 04:36:05


          *「光明法語」(4月17日)より

時期に適しない祈りは成就しないが、その祈りを持ちつづけるならば、
時期が来たときになって自然成就するのである。
急いではならない。

寒中に朝顔の花を咲かしめ給えと祈るような祈りは成就しないが、
温室で咲かせても貧弱な花しか咲かないのである。
何事も時期が来ると云うことが必要である。

時期にの乗ると云うことは神のみこころに乗ると云うことである。
「みこころの儘に適当な時期に、適当な場所に、適当な何々を与えたまえ」と
云うような祈りこそ最も謙遜な祈りである。

            <感謝合掌 平成29年4月17日 頓首再拝>

《祈りの成就には時の要素が要る》 - 伝統

2017/05/04 (Thu) 04:42:59


         *「光明法語」(5月4日)より

祈りが成就するには「時」の要素がいるのである。
今日(きょう)、種子(たね)を蒔いたからとて
明日必ず芽が出ると云う訳のものではない。

「時」の要素を忘れてしまって、今日の種子が明日ただちに芽が出ないからとて、
種子を掘り返してしまうようでは駄目である。
必ず神(法則)はその種蒔(たねまき)に応えたまうと云う確信が必要なのである。

何事も急いではならないのである。
時が解決して呉れるのである。

「果報は寝て待て」と云う言葉があるが、信じて待てば、
種子を蒔いて置きさえすれば必ず発芽するのである。

            <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>

《電源に結びついても直ぐには熱くならぬ》 - 伝統

2017/05/06 (Sat) 04:45:04


         *「光明法語」(5月6日)より

電気鏝(こて)を温めるのでも、
スイッチを入れたからとて急に一ぺんに加熱する訳ではない。
スイッチを入れることは電源につながることに過ぎない。
と同時に電流は流れ入って来るが鏝は必ずしもすぐに温かくはならない。

鏝が温かくならないのは電流が来ないからではなく、
時間の要素が足りないからだ。

祈りと云うことは「神」と云う無限供給の電源とつながることではあるが、
その電源につながっても、その瞬間に欲する物が出るとは限らない。

鏝が温まるのを待つと同じに、
祈りに於いても結果が現れるまで待つ忍耐が必要である。

            <感謝合掌 平成29年5月6日 頓首再拝>

《不景気を心に思うな》 - 伝統

2017/05/14 (Sun) 03:21:52


         *「光明法語」(5月14日)より

祈りというものが短時間の言葉で神に所謂(いわゆ)る「祈り」を捧げるものであると
思うのは間違いである。

「祈り」と云うのは魂の底ふかくその人が生命で宣(の)べているところのもの
であるから、今朝(けさ)「神の無限供給が自分に流れ入る」と念じながら、
ラジオ放送や新聞記事で世間の経済恐怖をきいて、

「こんなに不景気になってはたまらない」などと考え、
または人と人との噂話に不景気や物質の不足を話しているようなことでは、
それは「不景気」や「物質不足」を祈り顕わしているようなものである。

            <感謝合掌 平成29年5月14日 頓首再拝>

《不断の祈り》 - 伝統

2017/05/15 (Mon) 03:28:11


         *「光明法語」(5月15日)より

「常の祈り」が大切である。
所謂る「不断念仏」「平生業成(へいじょうごうじょう)」である。
平生(へいぜい)の祈りの業(ごう)が成就して、現象界に現れるのである。

朝起きれば、「寝ている間にも呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、
夜中自分の生命を護り給うた神よ、有難うございます」と神に感謝し、
「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と感謝して起きるのである。

今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが与えられると
云うことはあり得ない。

感謝することによってのみ、今与えられたものの充分の価値が享受出来る。

            <感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝>

《仕事をなす時の祈り》 - 伝統

2017/05/18 (Thu) 03:32:30


         *「光明法語」(5月18日)より

「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。
仕事のあいまに、「仕事が祈りである、祈りが仕事である」と念ぜよ。

かくすれば仕事の質が上がり、量が殖え、新しき智慧が発現し、
仕事に新生面がひらかれるのである。
思わぬ間違いが発見され故障に到らずにすむのである。

「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えである」と念ぜよ。
かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

            <感謝合掌 平成29年5月18日 頓首再拝>

《飲食をなす時の祈り》 - 伝統

2017/05/19 (Fri) 04:46:26


         *「光明法語」(5月19日)より 

食事のときには、「神の生命と愛とが食物の形となって吾に栄養を与え、
我が生活をして神の光栄をあらわさし給う」と念じて食せよ。

飲料をとるときには「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、
再びかかる罪を繰返すことなきしるしとして之を飲む」と念じて飲むが好いのである。

不平や不快や憤り恐怖を感じながら食物をとることは唾液の中に毒素をつくり、
それを服(の)んでいると同じである。

食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。

            <感謝合掌 平成29年5月19日 頓首再拝>

《誘惑に打ち勝つための祈り》 - 伝統

2017/06/02 (Fri) 04:53:54


           *『 生長の家 』(昭和46年10月22日の法語)より

   「 我らを嘗試(こころみ)に遇わせず、悪より救い出し給え 」
   という “ 主の祈り ” の最後の句は何を意味するのであろうか。

   嘗試(こころみ)とは “ 悪への誘惑 ” である。

   吾々は肉体的快楽を目の前に置かれるとき、
   肉体の快楽に心を奪われて、
   心が神に向うことが妨げられるのである。

   そういう時に、肉体の自分の力で、その誘惑から
   遠ざかろうとしても、どうしても遠ざかることができず、
   蛇ににらまれた蛙(かえる)のように、その誘惑体に近づいて行き、

   ついに、どうにもならないで、誘惑に負けて悪を犯すことが
   肉体的人間には随分あるものである。

   そんな時に、自力(じりき)の力をもって
   誘惑から遠ざかろうとしても、
   どうしてもそれが不可能である。

   そんな時に、神に祈って神の他力(たりき)のめぐり来りによって、
   誘惑に抵抗することが出来るのである。

   神は、吾らが求むる時、何物でも与え給うのである。
   それは物質的なものを求めて与えられるだけではなく、
   精神的なもの、人を赦す力、煩悩的欲望に打ち勝つ力等
   ・・・如何(いか)なるものでも、

   本当に神に心を振り向けて求むれば、必ず与えられるのである。

   何故なら吾らの求むるものは、
   求むるに先立って既に与えられているのであるから、

   私たちの心がその方へ振り向きさえすれば、
   それを受取ることができるのであるからである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

            <感謝合掌 平成29年6月2日 頓首再拝>

祈りに始まり祈りに終る日 - 伝統

2017/06/08 (Thu) 04:19:33


           *「光明道中記」(6月8日)より

【祈りに始まり祈りに終るとき、心の中に滞(とどこお)りがなくなり
自由自在の境涯になる。           (『生命の實相』第一巻)】 
  
神様、あなたは全ての渾(すべ)てでいらっしゃいます。
あなたは一切のところに充ち満ちていらっしゃいます。

あなたは智慧でいらっしゃいます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
あなたは生命でいらっしゃいます。

あなたのお造りになった世界には罪も病も死も一切の不幸も争いもないのでございます。

其処には既に、日本天皇陛下に中心帰一せる天国浄土が実現しているのでございます。

神意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え。
実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ。
中心帰一の天国を地上にも来(きた)らしめ給え。

みこころの実現するための道具として私をお使い下さい。
間違いなくみこころを行ずることが出来ますようにあなたの智慧を私に流れ入らしめ給え。
私をお導き下さい。

どれだけ働いても労(つか)れませねようにあなたの生命を私に注いで下さい。
すべての人々を赦し、赦すだけではなく、
すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。

自壊作用なくして理想世界が実現しますように。

すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。

            <感謝合掌 平成29年6月8日 頓首再拝>

正しく祈る日 - 伝統

2017/06/17 (Sat) 04:42:47


         *「光明道中記」(6月17日)より

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、却(かえ)って魂の平和を失う。
                           (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、使い方によっては又悪ともなるのである。
「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

            <感謝合掌 平成29年6月17日 頓首再拝>

《祈りの成否を支配する信仰の強弱》 - 伝統

2017/07/05 (Wed) 04:51:49


          *『 生長の家 』(昭和46年10月27日の法語)より

   祈りを成就せしめんが為には、既にその成就せる光景を
   強き “ 信 ” をもって 心に瞑視することが必要なのである。

   聖書の他の一節には、イエスがラザロを復活せしめた時に、
   イエスは 「 死せるに非ず 眠れるなり 」 といっているのである。

   「 死んでしまっている 」 という観念が伴えば
   「 生きる 」 という事実は出て来ないのである。

   すべての祈りの成否は 信仰の力の強弱によるのである。

   だからイエスは、弟子たちが治病伝道に出掛けて往(い)って失敗した時に

   「 その病気が重かったからだ 」 とは言わないで、
   「 汝ら信仰薄き者よ 」 と歎いていられるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32


            <感謝合掌 平成29年7月5日 頓首再拝>

祈りの意義について - 伝統

2017/07/20 (Thu) 03:30:14


          *『実相と現象』(P114~116)より

「祈り」といいますと、普通の宗教では、たいてい神に懇願する意味につかわれています。

神様にかきくどき、泣き付いて、
「私は貧乏で困っているのであります。どうぞ神様、何とか今日の食事を与えたまえ。」
という様な祈りをしたり、

「私は病気で困っているのです。神様お慈悲がありましたら、この病苦からお救い下さいませ。」
と縋(すが)り付き泣き付くのが、いわゆる「祈り」だと思われていたのであります。

 
けれども、生長の家の祈りは、神様のおこしらえになった世界には、
神は全能であり、全智であり、無限の智慧であり、無限の愛である ―― 

その神様が設計せられてお創りになった世界は完全であって
「悪いもの」など本来無いのですから、
「悪いものを直して下さい」というようには祈らないのであります。

創世記の第一章には、
「神その造りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき」と、
このように書かれているのでありまして、

神様御自身が自分の造った一切のものを点検なさいまして、
「すべて善し、悪いものは無い」と宣言なさった。

それに対して「悪いものがあるから、神様どうぞお慈悲でこれをお直し下さいませ」
と頼むというのは、ちょっと矛盾しているではありませんか。

ですから、生長の家の祈りというものは、そういう「悪いもの」があると認めて、
それをなんとか「神様のお慈悲で、善い状態に改善して下さい。」というような祈りではない
のであります。

「神様のおこしらえになった一切のものは善である」ということを、
生命(いのち)の底から宣言する。

「命宣(いのり)」というのが「祈り」である。
「イノリ」の「イ」は命という意味であります。
「ノリ」というのは「宣(の)り」即ち「宣べる」ということでありまして、
吾々は命の底深く「すでに完全な姿がある」ということを宣言する。

そしてそれを確認するのです。
それが本当の祈りであります。

そしてその想念を心の想いの世界にそれを確認した時に、
それが現れてくるということになるのであります。

            <感謝合掌 平成29年7月20日 頓首再拝>

《祈りは心を平和にする》 - 伝統

2017/08/03 (Thu) 04:45:27


       *『 生長の家 』(昭和25年11月17日の法語)より

   先ず心の平和である。
   祈りて神に全託するとき 最初の心の平和が回復する。

   そして 「 心の激動 」 と云う絶縁体が取除かれ、
   内在無限のよき知慧が開かれ、
   内在無限の自然癒能が湧出(ゆうしゅつ)する。

   祈りは 一心不乱でなければならないが、
   心に力みがあってはならぬ。

   濡(ぬ)れ手拭(タオル)が手拭かけに全身を
   よりかからせているように神に完全によりかかり、
   まかせ切る心境にならねばならない。

   幸福と健康と成功との最初の基礎工事は心の平和である。

   山口市で講習会があったとき、
   胃癌で毎日バケツ一杯の食事を吐き出して、
   辛うじて一碗(わん)位が胃中に収まっていた胃癌の患者が、
   
   この全託の気持になったとき吐き気がとまって
   胃癌が全治した体験談があった。

            <感謝合掌 平成29年8月3日 頓首再拝>

《繁栄をもたらす夜の思念》 - 伝統

2017/08/17 (Thu) 04:45:52


        *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P187) より

「今日(こんにち)一日の仕事を神の智慧によって導き給え」

毎朝ささげられるこの祈りは、其の日の最初から自分のなすべき仕事を
神にあづけて、自己解放を遂げるために適当な祈りである。

そしてその祈りにつづいて

「神はわが内に宿り給うて、
今日(こんにち)わが為すべき事を教えたまうのである」

とその祈り成就の黙念をするのである。

そして仕事に出かけて、夜眠るとき又は、夜の神想観の時に、

「今日(きょう)一日の仕事を神の智慧によって導きたまうて
有りがとうございます。今夜の眠りをやすらかに護りたまいて、
明日(あす)また神の仕事をさせて頂く力を内に恢復せしめ給え」

と祈ってから眠るのである。

この祈りを続けるとき、自分で力むことがなくなり、
神から智慧と力とが流れ入る心のパイプが開放される結果、
事業も順調に行くようになるのである。

            <感謝合掌 平成29年8月17日 頓首再拝>

祈りと健康の関係 - 伝統

2017/08/29 (Tue) 04:46:42


         *「光明法語」(8月29日)より

カレル博士は肉体に解剖的な結果を引起すところの精神状態の一種として
「祈り」の精神状態を指摘している。

博士は「それは哲学者や科学者には分かりもしないし、達することも出来ないが、
心の純真な人は、神をまるで太陽の熱や、友達の如く容易く感ずることが出来る」
と言っている。

特に博士が指摘した健康を改善する祈りは
「先ず全く捨我、捨我なき状態たる事を要する」。

自分の病気を癒し給えると祈るよりも
他の人々の為に祷る祈りが効果を現すのである。

            <感謝合掌 平成29年8月29日 頓首再拝>

吾の祈りは神に通ず - 伝統

2017/08/30 (Wed) 04:48:33


         *「光明法語」(8月30日)より

カレル博士は言う、

「総じて祈る人は、自己が治癒することを願うものではない。
祈る人は他の人々の為に祈る。
この種の祈りは、その条件として自分を放擲(ほうてき)すること、
即ち一種の禁欲、没我の高い精神を要する。

謙遜な人々、無知な人々、貧しき人々は、富める人々や、知識ある人々よりも、
その可能性が一層ある。祷(いの)りが時として奇跡を起こすのは斯う云う訳である」と。

自分の病気の癒える事を常に念ずる者は病いを心の描くから却って癒えないのである。

            <感謝合掌 平成29年8月30日 頓首再拝>

《神の 御(み)心以外を求めてはならぬ》 - 伝統

2017/09/12 (Tue) 04:35:50


        *『 生長の家 』(昭和25年1月14日の法語)より

   もし吾々が、神の み心(義ただしさ)の以外のものを求めて、
   個人的な欲望を祈願するならば、
   神は これにこたえることはできない。

   傘屋は 「 この傘が売れますように どうぞ雨を降らせ給え 」
   と祈るとする。

   百姓は 「 今 稲作に必要でございますから どうぞ快晴を与え給え 」
   と祈るとする。

   こんな自分にとってばかり都合のいい祈りをせられた場合に
   神さまは どちらの祈りをかなえてやったらよいとお考えになるか。


   一方を立てれば 一方は立たぬ。
   結局 かかる祈りに神様がおこたえにならないのは 当然のことである。

   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9939fd96224a57782f3477ac6aeb7720

            <感謝合掌 平成29年9月12日 頓首再拝>

《全(すべ)ての人に善き事を祈れ》 - 伝統

2017/09/13 (Wed) 04:48:48


        *『 生長の家 』(昭和25年1月15日の法語)より

   「 汝、心を尽し、精神を尽し、思いを尽して 汝の神を愛すべし。
   これ第一の誡(いまし)めなり 」 とキリストは教え給うた。

   吾々は 何か自分のものを求めるよりも、
   神を求めることによって、すべてのものを得ることができるのだ。

   神は すべてのすべてであるからである。

   自分にとって都合のいい日に 快晴を与え給え と祈るよりも、
   「 すべての人に都合のよいような天候を与え給え 」 と
   祈る方が 本当の祈りなのである。

   神の み心が実現したら、
   すべての人に都合のいい世界が実現するのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/287c0509023ba62e9563daa913be92de

            <感謝合掌 平成29年9月13日 頓首再拝>

《人を強制する事を祈るな》 - 伝統

2017/09/14 (Thu) 04:36:02


        *『 生長の家 』(昭和25年1月16日の法語)より

   吾々は、他の人の自由を束縛したり、
   人それぞれの事件に こちらの考えを強制して
   それを変化せしめようなどと祈ってはならないのである。

   「 あの人が神の み心を理解し、神の計画し給いし
   その完全なる姿に於いて生きますように 」
   と祈ることは いいのである。

   自分の思いを 他の人に強制 してはならないのである。

   彼が神に造られたるままの 「 本当の彼自身 」 であり得るように
   祈ってやれば、彼の本当の相(すがた)(善)が実現するのである。

   「 彼が神の子の完全な姿を現わしますように
   神の愛は 完全に彼をとりまいて彼を守っている 」 と念ぜよ。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8218b6ff59610342c2ab0b1986640d44

            <感謝合掌 平成29年9月14日 頓首再拝>

《神は霊であるから霊を求むるべきである》 - 伝統

2017/09/16 (Sat) 04:41:37


        *『 生長の家 』(昭和25年1月18日の法語)より

   祈りの効果は、その祈りによって、
   物質的な何ものかが 与えられるということではなく

   神の智慧を与えられ、神の愛を与えられ、
   神の力を与えられるということが
   祈りの最大の効果であるのである。


   神の世界に於(お)いては、 「 物質 」 は存在しないのであるから、
   「 物質 」 を求めることは、存在しないものを求めるにすぎないのである。

   それよりも必要なのは、神は霊であるから
   その霊なる生命と、智慧と、愛とを求めることであるのである。

   神の生命を得た時に 健康になるのは当然のことである。
   ( 新著 「 祈りの科学 」 参照 )。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d57028029d52676c48b4010b208cfab6

            <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝>

《敵意を以(もっ)て祈ることは成就せぬ》 - 伝統

2017/09/18 (Mon) 04:42:16


        *『 生長の家 』(昭和25年1月19日の法語)より

   自分に悪意をいだいているもの、反対する者等(ら)に対して、
   彼等を罰し給えと祈ることは、
   決して叶(かな)えられる祈りではないのである。

   もし相手の悪意をなくし、敵対行為をしずめてしまおうと思うならば、
   「 彼を罰 し給え 」 と祈るよりも、

   「 この問題を神さま あなたに委(ゆだ)ねます。
   吾が意志をなそうとするのではございません。
   彼があなたに造られたる そのままの姿に
   み心の通りにならしめて下さいませ 」 と

   すっかり相手に対する 執着と憎みと敵意をはなして、
   神に委せてしまうことである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0a3b37ba7900d38756f65de991880bdc

            <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

《平和を祈るための言葉》 - 伝統

2017/10/04 (Wed) 04:58:38


      *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P198~199) より

「われは神と一体である。われのみならず全人類は神と一体である。
それゆえに全人類は神に於て完全に平和であり、争いの心はないのである。

神は全人類の父でありたまい、すべての民族を平和に護りたまうのである。
或る民族が他の民族の領土を侵さなければ、
その民族が幸福になれないなどと云うことはないのである。

この真理をさとるとき、世界に平和は来(く)るのである。
われは全人類にこの真理を放送するのである。
全人類はこの真理の念送を今受信しつつあるのである。

トランプ氏もウラジミール・プーチン氏も習近平氏もキム・ジョンウン氏も
安倍晋三氏も、世界各国の指導者も、
すべての人類がこの真理をさとりつつあるのである。

神の愛がすべての人類に降りそそがれ、神の平和が地上にあまねく臨む。

すでにみこころは天になるが如く地にも実現したのである。

今より後(のち)、人類に戦いがあることなく、悲しみあることなく、
地の万民は天の父を仰ぎみて讃歎するのである。」


(*各国首脳の名前を現在に合わせて原文から変更しています)

            <感謝合掌 平成29年10月4日 頓首再拝>

正しい祈り - 伝統

2017/10/10 (Tue) 05:00:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月10日>(P97)より

祈る場合に、まずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。
正しいということを窮屈な意味にとってはならない。

(1)その求めるものは建設的なことであるか。
   破壊的なことは正しい願いではない。

(2)だれかを豊かにすることであるか。
   (だれかを乏しくならせることは正しい願いではない)

(3)だれかを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。

(4)この世に混乱を起こしたり、
   だれかの感情を掻き乱したりするものではないか。

これらの自己反省してみて、
それのテストに及第するものであれば、祈ってよいのである。

そしてその祈りの言葉は、宇宙的な創造力によってバックされ
実現の途上にあると信じてよいのである。

           <感謝合掌 平成29年10月10日 頓首再拝>

祈りの2つの種類 - 伝統

2017/10/12 (Thu) 04:15:49


          *「光明法語(10月12日~13日)」より

祈りには2つの種類がある。
自力的な祈りと他力的な祈りと。
基督教的に云えば洗礼のヨハネ式祈りとイエス式祈りのとの区別である。

山伏的な修験者的な行(ぎょう)により天国(又は幸福)を地上に来(きた)そうとする
自力の行は断食水行野蜜を食(くら)いて粗衣粗食をした洗礼のヨハネによく顕れている。

仏教でも聖道門の行者は自力的精進によって仏陀(さとり)の境地に達しようとした。
併し法然や親鸞やイエスは、仏の本願力又は神の恩寵によって
「与えられた天国」を受けようとした。

・・・

相対的祈りと絶対的祈り

洗礼のヨハネ的祈りは、彼が祈ってやろうと云う相手に対して思念を集中し、
その思念の力によって相手の悩みを撃退しようとする方法である。
これは自分の思念と相手の悩みとが対立的になるのである。

「悩み」は無いのではなくして、「悩み」を「ある」として認め、
それに対抗する光明の念を念送する事によって相手の悩みを抹殺するのである。

イエス的な祈りの方法は、相手の悩みも病いも見ないのである。
ただ、神の国の義(ただ)しきとを観るのである。
観るのも自分が見るのではなくて自己に宿る神が観るのである。

            <感謝合掌 平成29年10月12日 頓首再拝>

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道 - 伝統

2017/10/13 (Fri) 03:10:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月12日~13日)より

宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。

どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)ってもしばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、それを浄(きよ)らかな澄みきった
海水に変化する力、皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちている
のである。

しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。

それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。

              ・・・

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。

祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。

それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。

だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、
必ずしも完全に効果を挙げることができないのである。

キリストが「もし芥子種ほどの信だにあればこの山に動いて海に入(い)れと言うと
いえども必ず成らん」といった所以である。

           <感謝合掌 平成29年10月13日 頓首再拝>

祈りの効果は、自分の心の調節いかんにある - 伝統

2017/10/14 (Sat) 03:42:54


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P100)より

ラジオが鳴り出すのは、ラジオ・セットそのものの中の機構の調節によるがごとく、
祈りが効果をあらわすのも、自分の心の調節いかんにあるのである。

われわれがラジオ・セットの調節を誤って、ラジオが鳴り出さないときにも、
放送局の放送はプログラムのとおりに《ある》と同じように、

われわれの心の調節を誤って、神の恵みが現実世界にあらわれてこない時にも、
依然として神の恵みは、宇宙に充つることあたかもラジオ波(なみ)のようにである。

祈らないでも神の恵みは充ち満ちているが、本当の祈りによって
その心境になったとき現実世界に、その恵みがテレビジョン化して現われてくるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月14日 頓首再拝>

祈りが成就するには - 伝統

2017/10/28 (Sat) 04:53:25


           *「幸福を招く365章」(P186~187)より

祈りの成就する契機となる一点がある。
それは、神われとともにあるとの確信を得たる瞬間である。

しかし祈ってばかりいるのでは役に立たぬのである。
「主よ、主よという者必ずしも天国に入るに非ず」とイエスも教えている。

神の御心を行ずる者のみが天国に入るのである。

どんなに小さな事であっても
今与えられている幸福(一杯の水でも、空気でも、食物でも)に感謝せよ。

そして今あなたのいる立場においてできるだけの力をつくして
隣人に奉仕するのである。

その奉仕する仕事が自分の求める仕事に何の関係がなくとも、
そんなことは問題ないのである。

自己が奉仕するとき、奉仕は愛であるから、神の道が開かれるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月28日 頓首再拝>

祈りは通じる - 伝統

2017/11/06 (Mon) 04:06:20

      *Web:「ツキを呼ぶ感謝のことのはブログ(2008年8月5日)」より

元カリフォルニア大学の心臓病専門の教授であったランドルフ・ビルド氏は、
祈りが病気を癒すのか実験をした。
 
自分の病院の心臓病の患者をAとBに分ける。
コンピュータを使いランダムに分け、その分類は医師も看護婦も患者も知らないようにする。
 
Aは祈ってもらうグループ、Bは祈りを受けないグループとした。

祈り手は宗派にかかわらず募集し、患者の名前、症状を教え、
毎日その人のために祈るよう依頼した。
 
そして、祈り方はその人に任せた。

その結果は次のようなものであった。

 ①AはBに比べて抗生物質が必要であった人が5分の1だった。

 ②Aでは心臓病のため肺気腫になった人がBの3分の1だった。

 ③Aには、のどに管を入れることが必要になった人はいなかったが、Bには12名いた。

この実験から、祈りは病気を癒すことがわかった。
 
また、宗教や宗派でその有効性が変わるわけでなく、
「想い」が身体を超えて相手の病気を癒すことが明らかになった。

祈りは確実に通じるのである。


            <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>

「声」と「コトバ」 - 伝統

2017/11/15 (Wed) 04:43:31


       *「光明法語」(11月15日の法語)より

祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。
自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。
曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。

人と人とは個々に孤立していて、
神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。
互いに呼び交わす声は、声にとどまり、
互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。

互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって
他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年11月15日 頓首再拝>

《精神の同志を結集しよう》 - 伝統

2017/12/03 (Sun) 04:55:50


    *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P199~200) より

私たち真理の使徒は、大衆が心につかんでいるところの
「悪」をありとして雷同的にみとめてならない。 

大衆が心につかんでいるものが如何なるものであるかを知ることは、
医者が患者に対して聴診器を当てるように現状把握として
一応それを病気の兆候としてみとめねばならない。

人類の争闘精神の具象化現象として世界は戦争の危機に近づきつつある ――
と云うのは、現象の事実を聴診して所在を明らかにし、
その争闘精神を中和するために吾らが総力を結集すべき必要が
どれほどあるかを明らかにするためには現状把握をせねばならぬ。


しかし戦争の危機を、それが実現するまでに
精神の世界から抑制するのは宗教人のつとめである。

三界は唯心の現れであるから、若し、戦争を惹き起す闘争精神の量より
戦争を抑制する精神的力の結集が足りなければ、戦争の仮相的顕現を抑制することが
できないことになるから吾らは多くの同志を得たいのである。

されば現状の危機を把握した後(のち)は心を清めて
「平和を祈るための言葉」にあるが如く祈りましょう。

             ・・・

《平和を祈るための言葉》

    *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P198~1999) より  

「われは神と一体である。われのみならず全人類は神と一体である。
それゆえに全人類は神に於て完全に平和であり、争いの心はないのである。

神は全人類の父でありたまい、すべての民族を平和に護りたまうのである。
或る民族が他の民族の領土を侵さなければ、
その民族が幸福になれないなどと云うことはないのである。

この真理をさとるとき、世界に平和は来(く)るのである。
われは全人類にこの真理を放送するのである。
全人類はこの真理の念送を今受信しつつあるのである。

トランプ氏もウラジミール・プーチン氏も習近平氏もキム・ジョンウン氏も
安倍晋三氏も、世界各国の指導者も、
すべての人類がこの真理をさとりつつあるのである。

神の愛がすべての人類に降りそそがれ、神の平和が地上にあまねく臨む。

すでにみこころは天になるが如く地にも実現したのである。

今より後(のち)、人類に戦いがあることなく、悲しみあることなく、
地の万民は天の父を仰ぎみて讃歎するのである。」


(*各国首脳の名前を現在に合わせて原文から変更しています)

            <感謝合掌 平成29年12月3日 頓首再拝>

神と《とも》に祈る - 伝統

2017/12/08 (Fri) 03:50:07


         *「光明法語」(12月8日)より

神よ、生きとし生ける者を生かし給える吾等の《みおや》なる神よ。
わたし自身の本来のものでない願いを、わが胸より去らしめ給え、わが心を浄め給え。
わが魂の切なる願いのみを願うことが出来る様になりますように    <今日の祈り>

自分が真に何をもとめているかを知らない人が随分多いのである。
そして自分のものでないものを憧れ求め、それが成就しないからとて嘆き悲しみ、
それが成就したからとて図に乗って悪く働く。ああ迷える人々よ。

            <感謝合掌 平成29年12月8日 頓首再拝>

感謝する祈り - 伝統

2017/12/25 (Mon) 04:49:44


       *『新講「甘露の法雨」解釈』(P47)より

「祈り」という事は、祈っているうちに、
心が神に向うものですから、心が清まってくる。
雑念がなくなり、自然と「神と一体」の心境になり易い。

しかし、従来の懇願的な神様に泣き附くような祈り方をして、
神様に憐みの念を起させてそして無理矢理に助けて貰おう
というような祈りでは、自分の「不幸」や「病気」の存在
を強く思い浮べて泣きつくのですから、

「強く思うものが形にあらわれる」という法則によって、
かえって「不幸」や「病気」が消えないのであって、

自分の心境が神様の愛に、うまくぴったり乗るように、
波長が合うようにならしめるように、
「既にある恵み」を“感謝する祈り”をする方が
その祈りが成就するのであります。

だからキリストは「汝ら祈りて何事にても求むるとき
既にそれを受けたりと信ぜよ、求むるものは与えらるべし」
と教えられたのであります。

どんな人にも一様に、既に与えておられるのが「愛の神様」であり、
しかも、法則に合わなければ、その恵みが現実化しないのであります。

            <感謝合掌 平成29年12月25日 頓首再拝>

《神は公平な存在である》 - 伝統

2018/01/11 (Thu) 04:22:01


       *『 生長の家 』(昭和25年1月5日の法語)より

   願わくは 神よ、あなたの目を開き、耳を開きて
   吾が祈りに心を傾け給え  ―― 

   これを十回ばかり繰返して 一心不乱に神に心を集中するのは、
   よき祈りであると同時に一種の精神統一法である。

   然(しか)し何を 吾々は 如何(いか)に祈るべきか
   ということは大切なことなのである。

   私はこれを 「 祈りの科学 」 の中に詳しく書いたつもりであるが、
   まず第一に知らなければならないのは
   神は決して吾々の頼み込みや、泣きつきや、賽銭(さいせん)に
   よって動かされ給うような偏頗(へんぱ)な存在ではない
   ということである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/02290f48d5de56fac7b2be28b7359247

            <感謝合掌 平成30年1月11日 頓首再拝>

《最も効果ある祈り方》 - 伝統

2018/01/27 (Sat) 04:14:55


         *『 生長の家 』(昭和26年2月8日の法語)より

   神の最高実現としての人間の使命は、
   神が心に描かれた 「 完全人間 」 の像を
   地上に実現することなのである。

   それを実現するためには
   先ず 「 人間の使命が神の 『 完全人間 』 の理想を実現するに
   あるのだ 」 と云うことを自覚しなければならない。

   人は自覚しただけのものを実現し得るのである。

   しかし自覚が頭脳の表面だけではその実現力は弱いのである。

   然らば此の自覚を深めるには祈ること、
   又は神想観を行うことが必要である。

   祈る場合には 「 神よ、この自覚を深め給え 」 では弱いのである。

   「 神よ、われを神の最高実現として凡ゆる点に
   完全に創造(つく)りたまいし事を感謝します。」 と祈るべきである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/be71f2d324d82e16c2d5f42f267f2359

            <感謝合掌 平成30年1月27日 頓首再拝>

《吾れ祈れば天地こたう》 - 伝統

2018/02/13 (Tue) 03:23:17


       *『 生長の家 』(昭和24年11月14日の法語)より

   神の霊は宇宙一ぱいにみちみちているのである。
   自分の上にも、下にも、右にも、左にも、前にも、後ろにも、
   あらゆる所にみちみちている。

   私は ただそれに対して呼びかければいいのである。
   その呼びかけが言葉の力であるのである。

   吾祈れば 天地応(こた)え、吾動けば 宇宙動くのである。
   自分の祈りは今 神の御意志と完全に調和しているのである。

   だから 神の祝福の波は、自分の祈りに波長が合うが故に、
   神は 常に自分にとって一番よきものを実現させて下さるのである。

   自分はそれに対して今 深い深い信仰をもっているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成30年2月13日 頓首再拝>

祈りは遺伝子を「活性化」する - 伝統

2018/02/28 (Wed) 04:11:26


        *Web:産経ニュース(2018.1.11 )より

祈りは遺伝子を「活性化」する~慈悲の心が免疫機能の強化につながる 
筑波大学名誉教授・村上和雄


最近、米国を中心に、祈りや瞑想(めいそう)と、
健康との関連についての研究が増えている。

こうした研究のなかでは、ヨガ瞑想やマインドフルネス瞑想が、
ストレスによる免疫機能低下の改善を促したり、抑鬱からの回復効果を
もたらしたりすることを実証している。


《本質にある大自然との一体感》

私はこれまでダライ・ラマ14世と『仏教と科学との対話』というテーマで、
何度も話し合う機会があった。
法王は30年以上にわたり、この対話を続けている。

そのなかで、『仏教は心のサイエンスである』と言い、
常に最先端科学から素直に学ぶ姿勢を示している。

法王は、拙著『 The Divine Code of Life
(『生命の暗号』の英訳本)』に次のような推薦文を書いてくれた。

『21世紀の人類が直面する課題は、科学だけでも宗教だけでも解決しない。
宗教がもたらす人間性の深い理解と、現代科学の知見を融合して
苦難を克服しなければならない。
村上和雄博士の重要な研究が、私たちの目標に近づけてくれる』


先に述べたマインドフルネス瞑想の研究では、宗教的要素を取り除いた瞑想様式にしている。
しかしわれわれは「宗教的な祈りや瞑想」をそのまま研究対象にした。

なぜなら「祈りや瞑想」は単なるリラクセーションや集中力アップの手段ではなく、
大自然と調和した一体感や神仏との合一体験などの意識状態の変性を伴うものであり、
そこに「祈りや瞑想」の本質があると考えたからである。


《僧侶は身心の感受性が強い》

まず、祈りや瞑想が身心にどのような影響を及ぼしているかを調べるため、
日常的に祈りや瞑想を実践している高野山真言宗僧侶における
遺伝子発現の活性化(オン・オフ)の検討を行った。

すべての生き物は、生命活動に必要な遺伝情報を、
DNA(デオキシリボ核酸)という化学物質の配列(塩基配列)として暗号化している。
この遺伝情報を遺伝子という。

時間や環境の変化に応じて必要な遺伝情報を取り出す仕組みとして、
遺伝子の発現をスイッチのようにオン・オフしながら調節している。

すなわち、「オン」とは遺伝子の発現が活性化している状態、
「オフ」とは遺伝子の発現が弱まる、あるいは停止した状態である。


この調節にはさまざまな要因が関与し、
いわゆる「心」の状態も「オン・オフ」に影響することが知られている。

われわれはこれまでに「笑い」によって、
2型糖尿病患者の食後血糖値の上昇が有意に抑えられること、
免疫系の活性が適正化することなどを報告してきた。

 
今回、「僧侶型オン遺伝子」として見いだされた遺伝子はいずれも
I型インターフェロン関連遺伝子であった。

I型インターフェロンはウイルスの増殖を抑えたり、
感染した細胞を除去したりすることによって、
ウイルスから身体を守っているタンパク質である。

僧侶群におけるこの特徴は、僧侶になるための修行か、
あるいは日常の行において獲得・維持された資質であると考えられる。
すなわち、僧侶では自然免疫系が全体に活性化していると考えられる。

一方で、僧侶は他人の感情や行動に対する共感の度合いが高かった。
これは、僧侶の心理的な感受性の強さの表れといえる。

本研究で最も興味深い結果とは、
共感性と僧侶型遺伝子に一定の関連が見いだされたことである。

僧侶における自然免疫系の活性化は、
僧侶の身体的な感受性の強さの表れの一つとして捉えることもできる。

ここから、共感という心理的な感受性と、
自然免疫機能という身体的な感受性に共通の基盤があることが推測される。

これは、身心の関連を考える上で大変興味深い結果であり、
宗教性や祈りがそのような身心基盤の成立に関わっていることが推察されるのである。


《慈悲の心が免疫を強化する》

真言宗の開祖、空海の言葉に
『菩薩の用心は、みな慈悲をもって本(もとい)とし利他をもって先とす』
(秘蔵寶鑰(ほうやく)巻中)とある。

これは「菩薩は慈悲の心で他の者の幸せを優先する」という意味であろう。
人の悲しみや喜びをわがことのように感じ、利他の心を持つことは、高い共感性に通ずる。

空海の言葉を日々胸に刻む僧侶たちが、
行(瞑想や祈り)によって共感性や慈悲の心を育むことで、
免疫機能の強化に繋(つな)がったのではないかと考えている。

日々の生活の中で行じられた祈りや瞑想が、ある心理状態を作り、
その状態が積み重なることで、遺伝子を介して体に影響を及ぼしたのではないかと推察される。

ここでは喜怒哀楽の「心」よりも深い、
「魂」とよばれるものがこのメカニズムに関わっているのかもしれない。

臨床心理学者で文化庁長官だった河合隼雄さんが、
私に「心と遺伝子の研究も面白いがもっと面白いものがある。それは魂と遺伝子の研究や」
と言ってくれた言葉をあらためて思い出している。

   (http://www.sankei.com/column/news/180111/clm1801110005-n1.html )

            <感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>

《諸君の祈りは成長しつつある》 - 伝統

2018/03/16 (Fri) 03:23:12


         *『 生長の家 』(昭和24年12月14日の法語)より

   諸君の祈りがまだ実現しないからと云って、
   諸君が播いた 「 願い 」 の種は
   発芽していないのではないのである。

   それは既に発芽しているのであるけれども、
   まだ、生長の途上にあるのである。

   大樹の種子ほど発芽も生長もおそいのである。

   小さな物品を求めてそれが得られたと云うような小さな祈りは
   それが容易に完成を見るのであるけれども、

   人生における大きな自己の全生涯に関するような祈りは、
   生涯を通じてそれは実現の途上にあるのであるから、
   急ぐことは要らないのである。

   人類光明化の如き大事業はそれである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成30年3月16日 頓首再拝>

徒らに祈りを反復するな - 伝統

2018/03/25 (Sun) 04:02:50


           *「光明法語」(3月25日)より

イエスは『祈るとき、徒(いたず)らに言(ことば)を反覆すな。
彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり』と教えている。

これは言を反覆してはいけないと云う意味ではない。
『徒らに反覆』しては役には立たぬのである。
言葉多く執濃(しつこ)くからみつくように懇請するから神がききたもうと思うのは
間違いである。

念佛三萬遍でも好いし、臨終の一念佛でも好い。

ただ言葉多きがゆえにきかれると思うのは、
言葉少なければきかれぬと云う恐怖心が内在する現れとも言える。

思念の言葉を反覆するのは、自分の心の波長を調整する為である。

            <感謝合掌 平成30年3月25日 頓首再拝>

われ祈れば天地応(こた)える - 伝統

2018/04/01 (Sun) 03:30:31


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月1日)」より

なんという歓びであろう。
自分の棲んでいる宇宙には、
自分の意志に反対する意志は一つとして存在しないのである。
 
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、
宇宙は神の支配下にあるからである。

われ祈れば天地応(こた)える。

神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、
すべての必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうからである。

            <感謝合掌 平成30年4月1日 頓首再拝>

《祈りとは人格的交わりである》 - 伝統

2018/04/08 (Sun) 03:32:53


            *「光明法語」(4月8日)より

祈りと云うものは必ずしも結果をもとめて祈るものではないのである。
祈りは「神」と「神の子」との人格的交わりである。

神から与えられた生命であるところの「神の子」なる人格は、
親なるところの神に心を転回して、神と人格的に交わる時間を持つことは
是非共必要なところの行事である。

それ自身が荘厳きわまりなき処の行事であって、
結果があるとか無いとかの問題ではなく、直接的にそれ自身が目的である。

神から生れた人間にとっては、神へ生命(いのち)を転回し振り向けることは、
唯嬉しい行事である。

            <感謝合掌 平成30年4月8日 頓首再拝>

《祈りをする時、酒は飲まぬ方が好い》 - 伝統

2018/04/11 (Wed) 03:44:09


         *「光明法語」(4月11日)より

祈りをする時には茶断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
祈りは親に会う時であるから憔悴したる如き顔付をして見せるな。

寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂(あぶら)を塗り、
髪を梳(くしけず)って元気な顔をして祈るべきである。
全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。

併し酒は飲まぬ方が好い。
酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから
一時の心の暗さを誤魔化すのであって、次が乱れて来る。

生活に節度がなくなり、
節度がない事を豪傑ぶって自慢にするようになる。

            <感謝合掌 平成30年4月11日 頓首再拝>

《祈りは必ず成就する》 - 伝統

2018/04/12 (Thu) 03:21:11


         *「光明法語」(4月12日)より

吾々の祈りは必ず成就する。それは間違いのなきことである。
併しながらその祈りとは、数分間、神社または祭壇でとなえることのみが
祈りではないである。

祈りと云うのは生命(いのち)の宣言(のりごと)である。
生命の奥深くで、念じていること、唱えていること、呟いていることは
悉く”いのり”である。

だから、不幸を呟いている者は不幸が来るように祈っているのである。
病気を呟いている者や、常に人に苦痛を訴えている者は病気や苦痛が来るように
訴えているのと同じことである。

            <感謝合掌 平成30年4月12日 頓首再拝>

《本性に合致する祈り》 - 伝統

2018/04/16 (Mon) 03:30:34


         *「光明法語」(4月16日)より

祈りが成就しないのは、その祈りが其の人の本性に合致しない場合か、
その祈りがまだ実を結ぶ時期に達していない場合かである。

若し吾々が自分の本性に合致しない祈りを、
たとえば「大和の国」なる日本が「戦力によって勝たしめ給え」と云うような
祈りを行なうとも其の祈りは成就しないことになるのである。

朝顔は美しき朝顔の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきであり、
梅の樹は美しき梅の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきである。
其の他の花を咲かしめたまえと祈っても成就するものではない。

            <感謝合掌 平成30年4月16日 頓首再拝>

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