伝統板・第二

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無限の富を汲みだす③ - 伝統

2017/04/06 (Thu) 03:31:36

《神からの無限の供給》

          *『幸福を招く365章』第2項(P29) より

神からの無限供給と云うものは単なる富の無限の堆積ではないのである。
若し世界の富の無限の堆積を私自身に背負わされたならば、
私は完全に押しつぶされてしまうだろう。

神からの富の無限供給と云うものは必要な供給が必要に従って可不及なく湧き出てくる
泉のようなものであり、用の済んだ水は流れ去るのである。

だから若しその人が真に神の無限供給を悟るならば、
過剰の富を蓄積して置こうというような愚かな貪欲はなくなってしまうのである。

必要なものが必要に従って神から与えられるのに、
必要で無い時に必要で無いものを蓄積してその管理に心や身体を煩わす必要はないのである。

実際真理を悟ならば「自分に内在する神」が「普遍の神」と眼に見えない世界で交流しており、
普遍的富を必要に応じて「自分に内在する神」が不可視の交流網を通じて
引き寄せて下さるのである。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6824314


            <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>

《神は豊かに恵みたまう》 - 伝統

2017/04/18 (Tue) 04:31:39


          *「光明法語」(4月18日)より

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、
ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ
太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわない
と云うことはないのである。

            <感謝合掌 平成29年4月18日 頓首再拝>

《神よりの豊かなる生活》 - 伝統

2017/04/19 (Wed) 03:39:09


          *「光明法語」(4月19日)より

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

            <感謝合掌 平成29年4月19日 頓首再拝>

貧しさと豊かさ - 伝統

2017/05/04 (Thu) 04:44:43


         *『 生長の家 』(昭和24年12月4日~9日の法語)より

《四日の法語  貧乏になる心的原因》

人間は神の子であるから、自由自在であり、
貧乏などになるべき筈(はず)のものではないのである。

それだのに何故(なぜ)貧乏になるかと云うと、自分で自分を限るのである。

自分で自分を限るのに二種あり、
第一は自分は貧乏の運命をもっている、迚(とて)も金持などになれないものだ
と云う劣等感である。

その次には、清貧礼讃(らいさん)の気持であって、
富んだものは一種の搾取であり、神から喜ばれないものであり、
天国へ行く妨げになると云うような考えである。

然し神の子であり、神の最高実現であるところの人間が
富んで悪いと云う理由はないのである。

                  ・・・

《五日の法語  人間を立派に飾ることは立派な神殿を作るのと同じだ》

神を立派な神殿をきずいて祭り、仏を立派な仏閣に安置してまつるのが
宗教的行事だとして尊ばるべきことであるならば、

神の自己実現であり、生ける神である人間をどれほど立派に飾り過ぎても悪い
と云う筈はないのである。

立派な神殿を造ったり、立派な仏閣をきずいたりすることが、
仏を供養し塔廟(とうびょう)を建立する功徳になるならば、
人間自身を立派に飾り、供養することも同様の功徳があると云わなければならぬ。

それだのに多くの人間は立派に飾ることを功徳なる行為だ
と思わないのは間違いだと云わなければならぬ。

                  ・・・

《六日の法語  物質有限観を維持する限り貧乏は美徳である》

この世界を物質で出来ていると云うような唯物論的世界観をもっている限りは、
物質と云うものは有限であるから、一人が多く富めば、残りは少くなり、
多くの人の頒(わ)け前が減ってしまう。

従って物質有限観の唯物論的人生観をもっている限りは、
自分が富むだけ他の人類から搾取していることになる。

従って唯物論をもっている限り、聖者は自己を出来るだけ所要物質乏しく
最低限度の生活を維持しようとしたのは当然のことである。

併(しか)しながら、物質は必ずしも有限ではないのである。
心を変えることによって作物の収量でも殖えて来る。

                  ・・・

《七日の法語  果樹は豊かに実ることが美徳である》

或る果樹園の果樹が大いにみのったからと云って、
隣りの果樹園の貧弱な果樹から決して奪ったと云う訳ではない。

それは天の恵み、地の恵みをより多く受け、吸収することが出来たからである。

これは横取り即ち搾取では決してないのである。
横取りは悪いけれども竪(たて)取りは決して悪いことはないのである。


吾々は良き 「 受け手 」 となることが必要である。

そして竪から神の豊かなる恵みを受けるようにならなければならない。
自分が貧しくなることが美徳ではない。

果樹はゆたかに実ることが美徳である。

                  ・・・

《八日の法語  貧しい人は却って人に厄介をかける》

豊かに実りたる果樹は人類に、より多く与えることが出来、
人生を豊かにうるおすことが出来るが、
貧しくて実らない果樹は人類に何も与えることが出来ない。

農人の世話をかけるばかりである。

これと同じく豊かなる富を実らせた人間は、人類に貢献することが出来るが、
貧しき者は人類に厄介をかけるばかりなのである。

何故人間が貧しくなるかと云うと、
その人間は他から搾取されたと思っているかも知れないが、
善き考えが浮かばなかったことが原因である。

善いと思ってしたことが失敗に帰したのである。

                  ・・・

《九日の法語  豊かなるべき者が豊かでないのは盗罪である》

人類に益を与える良い考えが富に変化するのである。
富の本質は「好(よ)い考え」である。

好い考えを考えついて人類に益した者が富むのであって、
泥棒が千万長者になったためしはないのである。

だから「善き考え」を起した者が富んでも、それは人類を益した功績として
豊かにむくいられるのは当然であるのである。

豊かに実るべき蜜柑(みかん)の木が豊かに実らないことは、
人類からそれだけ富を奪っていることになるのであって、
貧しいということは、時として人類から奪う盗罪となることがあるのである。


http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>

《富とは「生命(いのち)」を与えること》 - 伝統

2017/05/16 (Tue) 04:55:28


          *「光明法語」(5月16日)より

富を獲得するためには何か不正なことを行なわないと得られない
と思うのは間違いである。
また富と云うものが神のみ心にかなわぬものだと考えるのも間違いである。

富と云うものは神の「生命(いのち)さきはえ」が現象界に具現化したものであるから、
人間自身も生命(いのち)を出して与えた程度に従って得られるのである。

与えれば与えるほど、換言すれば多くの人々に役に立つ働きをし、
多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。

            <感謝合掌 平成29年5月16日 頓首再拝>

《富む事は罪悪ではない》 - 伝統

2017/05/22 (Mon) 03:24:01


          *「光明法語」(5月22日)より

若し諸君が富もうと思うならば、
富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
若し潜在意識が「富」を「避くべき罪悪」であると信じているならば、
潜在意識に諸君はする事なす事、貧乏になるような行動をすることになるのである。

神は決してケチを喜び給うような方ではない事は、
地球と云う箱庭に太平洋と云う池をつくり、富士山と云う築山をきずいて、
その美しさを賞(め)でたまう事実を見てもわかるのである。

神の計画は大仕掛である。
人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。
大なる計画は人を引着ける。

            <感謝合掌 平成29年5月22日 頓首再拝>

《富を獲得する第一条件》 - 伝統

2017/05/23 (Tue) 03:55:54


          *「光明法語」(5月23日)より

富とは「金」のことではない。
封鎖されれば使えなくなるような「金」や紙幣は真の富ではない。

富とは「価値」である。「値打」である。
値打の中には色々の善き考え、身体(からだ)の健康、人格の魅力、
日常生活の快適や豊富さ、享受力の豊かさ、創造力の豊かさなどと云うものが
含まれている。

兎も角、諸君がこれらの富を得んとすれば、
それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
自分が神の子であるから此等のものは必ず得られると云うことに確信を有(も)ち、
且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年5月23日 頓首再拝>

《富は「善き考え」の具象化》 - 伝統

2017/05/24 (Wed) 04:33:29


          *「光明法語」(5月24日)より

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年5月24日 頓首再拝>

《既に与えられているものを完全に利用せよ》 - 伝統

2017/05/25 (Thu) 03:21:30


          *「光明法語」(5月25日)より

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

            <感謝合掌 平成29年5月25日 頓首再拝>

人間は神の子、減らない生命と財とを与えられている - 伝統

2017/06/07 (Wed) 04:39:06


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月7日 頓首再拝>

真の無限供給の循環 - 伝統

2017/06/21 (Wed) 03:54:55


          *「光明道中記」(6月21日)より

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。(『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。
その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ吾等は祈るべきである。

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア
―― などと利己的なことを考えながら神から無限供給が来ると思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとはただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

            <感謝合掌 平成29年6月21日 頓首再拝>

《貧乏を招く種々の感情》 - 伝統

2017/07/07 (Fri) 04:55:31


          *『 生長の家 』(昭和25年12月10日の法語)より

   貧しいと云う感情よりも、富めりと云う感情の方が
   一層速やかに富を引き寄せるのである。

   富豪の息子で、「 富めり 」 と云う感情をもっているのに
   みだりに浪費して貧しくなるものがあるのは、
   彼は父の富を憎んでいるからである。

   富想が貧をもたらすのではなく、
   富に対する 「 憎しみ 」 が貧をもたらしたのである。

   如何なる病いも貧乏もその他(ほか)如何なる不幸も、
   人間自身がその存在に迎合する何らかの心的態度をもって
   いなければ、人間に近づいて来ることは出来ない。

   富者に対する憤慨や、清貧に対する誤れる情熱や、
   同情をもとめる心や、苦しみが魂を浄化すると云う考えなどは
   貧の原因である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12299184.html

            <感謝合掌 平成29年7月7日 頓首再拝>

《先ず無限の供給を確認せよ》 - 伝統

2017/07/21 (Fri) 04:06:50


          *『幸福を招く365章』第3項(P52~53) より

神の創造の世界を神に返せよ。
何物も不調和は神の世界には、存在しないのである。
奪うと云うことも奪われると云うことも神の秩序の中には存在しないのである。

若し奪われたならば、奪われたものを取り返そうとは思ってはならないのである。

「神は凡(あら)ゆる供給の本源であるから、必要な全ての者は神の子である自分には
既に与えられているのである」と、心の世界に於いて強く思念せよ。

斯く思念する時は、奪われたその物が返ってくる場合もあるが、
それは返って来ないで、尚一層値(あた)いあるものが返って来ることもあるのである。

奪われるのはそれを持つのに適しなくなったからである。

            <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝>

お金の稚魚を放流しましょう - 伝統

2017/08/07 (Mon) 04:34:29


        *「あの世のひみつ」美鈴・著(P194~196)より

この世は物質があるからこそ多くを学べる、物質界。
私たちが、この物質界で生活していく為に必要な物の代表選手は、
「お金」ではないでしょうか。

そして、このお金を、どのように稼いで、使い、貯めていくか・・・
これらを学ぶことも、大切な私達の「宿命」課題でもあるのです。

何となく・・・で扱うか、美しく「生かして」扱うかで、大きな違いが出てきます。

(中略)

お金は、高いエネルギーや波長に集まります。
そして、ポジティブな「念」が、お金を引き寄せてくれるのです。

私は、財布からお金を出して、物を購入する際、10円でも100円でも
「私を生かしてくれてありがとう。これからたくさんの人を助けて、
また返ってきてね」 と、念を込めて出しています。

一生懸命汗水流して働いた分の報酬であり、カルマで、そのときの波長と縁があって
私のもとに流れて来てくれた、大切なお金です。

その大切なお金で、学ばせていただき、命を満たしてもらっているのですから、
お金を通して、会社と一生懸命がんばった自分に敬意を払いながら、
お財布から出すのは自然なことです。

(中略)

身体にたとえれば、お金は血液のようなものです。
常にきれいにサラサラ循環させなければなりません。

給料でも、100%自分のために使うのではなく、その中から少しでも誰かのため、
地球のために「生き金」となるよう、元気な稚魚を放流しましょう。

そのポジティブな念に引き寄せられるように、高い波長のご縁を連れて、
100円が千円へと、脂を乗せて帰ってきます。

(中略)

入ってきたら、まず感謝をし、生きた稚魚を川へ放流するように心がけましょう。

「たくさんの人を助けて、たっぷり脂を乗せて、仲間を連れて戻ってくるのよ楽♪」と、
念を込めて・・・

            <感謝合掌 平成29年8月7日 頓首再拝>

《現象の奥にある実相の富》 - 伝統

2017/08/23 (Wed) 04:52:41


    *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P179~180) より

人生の目的は富を得ることでもなければ、
名声を羸(か)ち得ることでもないのである。

人生の目的は最高の神の自己実現として、
人格を神格にまで高めることである。

現象にあらわれている富を求めることは却って「実相の無限の富」を忘却させて、
自己に与えられている富を縮小することになるのである。

神が与えたまう富は、霊的なものであって、
物質的な富は、ただその影に過ぎないのである。

 
神は霊であり給う。
それゆえに神は霊の賜(たまもの)を与えたまう。
即ち、愛を与えたまい、智慧を与えたまい、生命(せいめい)を与えたまうのである。

それを感謝し受け且つ働かすとき、波長が合って、
それがテレビの画面に映像があらわれるように、
物質界の富としてあらわれて来るのである。

現象の有限の富だけを握って、
其のために現象の背後にある「実相の富」を見失ってはならない。

            <感謝合掌 平成29年8月23日 頓首再拝>

「お蔭」の考えが、神の無限供給につながる - 伝統

2017/09/05 (Tue) 04:47:15


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P74<9月5日>)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、
「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、
どちらの側も「欠乏」という観念から抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、この欠乏の感じを
「お蔭」(神からの供給)の考えに転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは
「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、

債務者の方からが、
「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。
神の無限の供給が種子(たね)になっていよいよますます幸福がやって来る、
ありがとうございます」

と考えるがよい。

             <感謝合掌 平成29年9月5日 頓首再拝>

責める心ではなく、「豊富」を念じる - 伝統

2017/09/06 (Wed) 04:30:41


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P74<9月6日>)より

相手が債務を履行しないことを責める心、
払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、

「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という
「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方
が、実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、
「神」はいたるところに充ち満ちていたまうのであり、
そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、
「損」を心に描くことなく、自分に「損」をかけたと思う人に対しては、

特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。

             <感謝合掌 平成29年9月6日 頓首再拝>

富の道 - 伝統

2017/09/12 (Tue) 04:32:39


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

             <感謝合掌 平成29年9月12日 頓首再拝>

恵みに報謝する働きをする - 伝統

2017/09/13 (Wed) 04:46:40


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、
「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」とかの
観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、そこには債権者も債務者もないのである。

そこは、ただ恵まれている世界である。
その恵みに報謝する働きをしておれば必要なものはことごとくやって来るのである。

             <感謝合掌 平成29年9月13日 頓首再拝>

余った物を粗末にしてはならない - 伝統

2017/09/17 (Sun) 04:40:45


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月17日)より

宇宙の終始一貫せる法則の中には、因果応報の法則がある。
原因あれば必ず結果があるという法則である。

いかに狡猾に原因だけを造っておいて、結果だけをのがれようと試みても、
結果は早いか遅いか、あるいは他の形態をもってするか、
いずれにせよその人に報いてくるのである。

イエスが5つのパンと小さき肴(さかな)2つを5千人に分け与えて
なお12の籃(かご)にパンの余りが残っていたという奇跡が行なわれたときに、
なぜそのような奇跡があらわれたのであろうか。

それは愛のゆえに分け与えたこと、
そして「廃(すた)るものなきよう擘(さ)きたる余りを集めよ」
というイエスの教えを実行したからである。

無限供給を念じさえするならば、物の余りを粗末にしてもさしつかえない
と思うのはまちがいである。

             <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

富は有益に使う - 伝統

2017/09/20 (Wed) 04:56:23


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

             <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

《神は 人を貧乏ならしめ給(たま)わず》 - 伝統

2017/10/06 (Fri) 03:26:37


          *『 生長の家 』(昭和26年1月15日の法語)より

   諸君の生命が 地球を作り、太陽を作り、
   無数の星辰(せいしん)を造ったところの偉大なる生命と
   「 一つ 」 であることを自覚するならば、
   諸君が 病気や貧乏に嘆くことは 要らないのである。

   宇宙大生命は 無尽蔵の供給源であるから、
   必要のときに 必要なるものを 供給することが 出来るのである。

   しかしその供給の本源力は 神の智慧であるから、
   若し 吾々が 神の智慧と波長が合わなければ
   神の供給が閉ざされたように見えるのである。

   神の供給の放送がないのではない。
   その供給の放送を受信する波長が 自分に起らないのである。

   若し 完全に波長を合わして 受信することが出来たならば、
   必ず無限供給ゆたかに 溢(あふ)れるのである。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

             <感謝合掌 平成29年10月6日 頓首再拝>

《富想を養わねばならぬ》 - 伝統

2017/10/23 (Mon) 06:13:53


          *『 生長の家 』(昭和26年1月16日の法語)より

   吾々が富むために必要なことは
   人間は 神の最高の自己表現であり、
   神は 無限の供給源であるから、

   人間が貧乏になる筈(はず)はない
   と云う真理を 充分自覚することである。

   神は 理念によって一切のものを造ったのであるから、
   一切の存在は 吾々の理念に相感応することを知らねばならない。

   「 併し、それは理論であって、実際は 私は現に貧乏である。私には金がない。
   融通をしてくれる人もない。私は素寒貧(すかんぴん)だ 」 と考える。

   そう考えるから、貧乏の波長ばかりが起るのである。


   従って 受信される波長は 貧乏の波長ばかり、
   話しかけてくれる人は 貧乏人ばかり、
   そして いつまでも融通がつかないのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

             <感謝合掌 平成29年10月23日 頓首再拝>

真の「儲け」 - 伝統

2017/11/04 (Sat) 03:35:48


          *「光明道中記」(11月4日福徳円満の日)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                           (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、近来、資本主義の爛熟期に到達するに
及んで「設け」ずして、金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

          <感謝合掌 平成29年11月4日 頓首再拝>

生命の《いとなみ》が「設け」、そして付随して「儲け」が生ずる - 伝統

2017/11/05 (Sun) 03:41:50


          *「光明道中記」(11月5日無限供給を受くる日)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。(『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、宇宙がそのまま自分のものとなるのである。
手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、
金魚が陸(おか)から水盤の中へ跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 平成29年11月5日 頓首再拝>

《金儲けに狂奔(きょうほん)して生命を縮めるな》 - 伝統

2017/11/06 (Mon) 04:17:45


        *『 生長の家 』(昭和24年3月12日の法語)より 

   吾々は大自然から「生命力」というすばらしい金鉱を頂いているのである。
   その金の純分は至極(しごく)豊富である。

   然しそれを完全に分析し出して採取し利用することができなければ、
   折角(せっかく)頂いた生命力の金鉱も
   無駄にすてることだといわなければならないのである。

   こういうことを称して自然の法則を破るというのである。

   吾々の生命力の尊さは、
   到底(とうてい)金銭を以て償うことはできないのである。

   金もうけに狂奔して健康を犠牲にし、
   肉体を完全に健康に守る所の法則を破って省みないという人が多いのは
   まことに残念なことである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a57e6da6e05bc0cc5356a5baad19975c

          <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>

神の無限供給について - 伝統

2017/11/11 (Sat) 03:14:51


       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、平和と調和をもたらす為に必要なるもの」
であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、ラジオ・セットや蓄音機のような
生活必需品でなくとも与えられるのである。

          <感謝合掌 平成29年11月11日 頓首再拝>

《貧乏を駆逐するための想念》 - 伝統

2017/11/27 (Mon) 03:41:07


          *『 生長の家 』(昭和26年1月17日の法語)より

   現象が如何にあろうとも、
   貧乏だと云う観念を心の中より吹き祓(はら)え。

   貧乏の状態を如何に非存在だと思おうとしても、
   それを非存在だと否定しきることが出来ない時は、次の如く思念せよ。

   「 貧乏よ。汝(なんじ)が如何に実在するが如く
   仮面をかぶって出て来ても、
   私はお前の瞞(だま)かしには乗らないぞ。

   必ずや、汝が非実在であると云う真相は暴露して、
   今に実相の富有さがあらわれて来るぞ。」

   そして 「 自分は既に富んでいるのである。神は無限の富者であり、
   自分は神の子であるから 無限の富は 実相に於いても 現象に於いても
   既に与えられているのである。
   私は既に富んでいるのだ。有難うございます 」 と常に念ぜよ。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

             <感謝合掌 平成29年11月27日 頓首再拝>

今既に与えられているものに感謝する - 伝統

2017/12/13 (Wed) 04:53:34


         *『無限供給の鍵』(P29~31)より

イエスがいかにしてこの五つのパンを五千人に分かつことが出来たかという
最も根本的な鍵は、先ずイエスが神想観をして、今手もとに与えられている
五つのパンに感謝して、天に謝したという事であります。

このように無限供給をうける鍵は、今、ここに、自分の手の中にある
という事を知らなければならないのです。
即ち、今既に与えられているものに感謝しなければならない。

未だ与えられざるものを求めるばかりの我利我利亡者の如き心をすてて、
今既に与えられている神の御恵を探し出して感謝する事であります。

そうしてその神の御恵みは、凡ゆるところに行きわたり、
凡ゆる範囲にわたって完璧であるという事を神想観によって観るのであります。

吾々はいかなる不況の時代に処しても、又貧窮に見舞われても、
決して失望落胆してはならないのであります。
吾々は神は無限供給であるという信仰を堅持するのです。

そして吾々の既にもてるものを、
言葉によって幾層倍にでも増殖することが出来るのであります。

イエスは「我が言葉は霊なり生命なり」と言っておられるが、
凡ゆる言葉には霊的生命があるのです。

であるから、言葉には充分注意しなければならないのです。
いやしくも退嬰的な悲観的な言葉は断じて使わないようにすることであります。

             <感謝合掌 平成29年12月13日 頓首再拝>

《富とは貨幣のみではない》 - 伝統

2017/12/16 (Sat) 03:48:45


        *「光明法語」(12月16日)より

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

             <感謝合掌 平成29年12月16日 頓首再拝>

富は入用の程度で満足すること - 伝統

2017/12/25 (Mon) 04:44:02


           *「光明道中記」(12月25日必ず一人を救う日)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                         (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。


             <感謝合掌 平成29年12月25日 頓首再拝>

富へのこだわりは、神の「無限供給」を妨げる - 伝統

2017/12/26 (Tue) 04:08:54


           *「光明道中記」(12月26日愛念雲の如く湧く日)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、自働的にそれが富自身を
追求するようになる時、それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、「
富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

             <感謝合掌 平成29年12月26日 頓首再拝>

冥加(みょうが)のある「富」 - 伝統

2017/12/27 (Wed) 03:18:09


           *「光明道中記」(12月27日無限供給の日)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

             <感謝合掌 平成29年12月27日 頓首再拝>

富を作るためには、できるだけ大勢の人のためになることが必要なのです。 - 伝統

2018/01/14 (Sun) 03:44:54


          *『生命の實相』第8巻観行篇(P124~125)より

人間に与えられる供給が、神の愛の具象化であるということがわかりますと、
われわれは愛を与える生活をすることによってのみ、神の愛の波長に適合して、
そこに無限供給の世界が実現して来るのであります。


大体「富」というものはたんに物質の分量が多いということではないのであります。
「富む」というのは「《人のためになる働き》をする何か」が多い
ということであります。

《人のためになる働き》をするのが「愛」であって、
愛を実践すればそれが「富」に変わるのであります。

今までにも多くの「富」をこしらえた人たちは、
多くの人々のためになる働きをした人ばかりであります。

「人のためになる働き」も、少しの人のためになる働きだけでは
少しの「富」しかできないのであります。

十人のためになる働きをいたしますと、十人から喜ばれて、
直接なり間接なりに、その十人からのお礼が自分にまわって来、
それがおのずから富になってくるのであります。

しかしただたんに十人ぐらいのためになっているのでは、
一人の人から1万円ずつお礼が循環して来ても、
十万円しか富ができないのであります。

だから富を作るためにはぜひとも、
《できるだけ大勢の人のためになる》ということが必要なのであります。

             <感謝合掌 平成30年1月14日 頓首再拝>

富と幸福 - 伝統

2018/01/23 (Tue) 04:10:53


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月23日)より

心の平和を得ることが幸福の本である。
心が平和を得なければ億兆の富といえどもなんの幸福をもわれわれにもたらしえない。
それはかえってわれわれの生活を掻きみだし、われわれを地獄へ突き落とす重荷となる。

幸福は富の有無ではない。
しかしわれわれは富を排斥するのではない。

富に捉えられずして富を善事に駆使しうる者は
富ますます多くして世のためになることますます多くなるであろうが、
多く人の場合は「富」を得るときそれに捉えられる。

俗人は「富」をもてば増殖したくなるであろうし、
それが奪われざらんことを欲して守りたくなるであろう。

ここに、人が現象に捉えられて、自己の内にすでにある「無限の富」を
忘れがちとなる危険がひそんでいるのである。

多くの富豪の家庭にはおもしろくないことが潜んでいる。
誰でも必要以上に富をもつことは人生に不要な重荷を背負い込んだことになる。

無限供給というのは飽食の意味ではなく、
必要なだけ食膳に上(のぼ)るということである。

このことは食物に限らず「金(かね)」でも同じことである。

            <感謝合掌 平成30年1月23日 頓首再拝>

《富の原則は 「 与える 」 にある》 - 伝統

2018/02/05 (Mon) 04:07:09


       *『 生長の家 』(昭和25年1月23日の法語)より

   富の原則は、物質を追求することによって得られるのではない。
   生命を捧(ささ)げることによって得られるのである。

   捧げられたる生命の影が 富なのである。

   「 正しく与えることが 豊かなる富を得る鍵(かぎ) 」であると
   チャールス・フイルモアは いっているのである。

   「 与えよ されば与えられん 」 というのが
   無限供給の黄金律であるのである。
    ( 「 人間救いの原理 」 第二章参照 )


   然し与えると云っても 正しく与えないものは
   豊かに恵まれるということはないのである。

   金でも労力でも 正しい与え方があるのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/168cd6b3063806e70be20617fd700587

            <感謝合掌 平成30年2月5日 頓首再拝>

《繁栄の根源は人類に幸福を与えるにある》 - 伝統

2018/02/18 (Sun) 03:53:11


           *「光明法語」(2月18日)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。

しかしロックフェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。

            <感謝合掌 平成30年2月18日 頓首再拝>

《人のためになる事が富の本源》 - 伝統

2018/02/25 (Sun) 03:49:52


           *「光明法語」(2月25日)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。
人のためになることを余計すればするほど、その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもで、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

            <感謝合掌 平成30年2月25日 頓首再拝>

貧しさの理由 - 伝統

2018/03/11 (Sun) 04:21:31


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月11日)」より

すでにあるのに、多くの人が貧しいのは、第一家庭の調和を欠いていること。
祖先の祭祀(さいし)が足りないので祖先の守護の足りないこと。

家族の不調和と祖先の祭祀の不足とで、その人が外に出ても自分の身辺に漂うている
雰囲気が刺々(とげとげ)しくて、他から好意を持たれないことなどである。

            <感謝合掌 平成30年3月11日 頓首再拝>

無限供給の宝はあなたの足下にある - 伝統

2018/03/20 (Tue) 04:09:18


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 平成30年3月20日 頓首再拝>

《無限の宝庫を開く鍵》 - 伝統

2018/04/11 (Wed) 03:48:52


      *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P180) より

愛行をもって「実相の無限の富」の宝庫の扉をひらくために鍵とせよ。

利己心をもって「現象有限の富」を得ようとするならば、
それは 「有限」を互いに取り分多く分配しようとするのであるから、
其処に必ず無理が出て来て争いや戦いを生ずるのである。

誰がどんなに使っても減らないところの富と云うものが実相世界にはあるのである。
実相の富は無限であるから、其処から幾ら富を引き出して来ても、
其処には尚、無限の富が残っているのである。

徳を積まないで、現象の富のみを積もうと考えてはならない。
背後の「徳」を失っている現象の富は吾々に生活の豊かさと安全とを
保障するように見えながら実は色々の心労を齎(もたら)すのである。

それは権力を保障するように見えながら嫉妬羨望と勢力争いとを生ずる。
それは幸福を保障するように見えながら不幸を招来し、
永遠を約束しながら須臾(しゆゆ)して消えるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月11日 頓首再拝>

《神は豊かに恵みたまう》 - 伝統

2018/04/18 (Wed) 03:32:43


         *「光明法語」(4月18日)より

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわないと云うことは
ないのである。

            <感謝合掌 平成30年4月18日 頓首再拝>

《神よりの豊かなる生活》 - 伝統

2018/04/19 (Thu) 02:42:00


         *「光明法語」(4月19日)より

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

            <感謝合掌 平成30年4月19日 頓首再拝>

富裕も貧乏もみな心の中にある。 - 伝統

2018/05/12 (Sat) 03:51:52


       *『幸福生活への招待20章』第8章(P90)より

真の裕(ゆた)かさというものは心の中にあるのである。

如何に多くの数量の物質又は貨幣をもっていようとも、
尚欠乏しているという”不足”の感じをもっている者は、
依然として貧乏人である。

多く持っても、(富がゆたかに)有っても、尚渇くようにほしがる人間を
仏教では、〝餓鬼道〟に堕ちたと言うのである。

真の意味の富者は、

神が一切の供給の本源であり、その本源は無限であるから、
私たちが心の(波の)波長をその本源に同調させるならば、
必要に随って必要な供給がその無尽蔵の本源から供給されるものである
ことを知り、

それを単に知るだけでなく、
それを瞑想すると同時にそれを実行に移して、
その真理を実証しつつある者でなければならないのである。

私たちが供給の現象的な有限のみを見て、
「供給は有限である」と想うならば、私たちは自分自身の想念によって
無尽蔵の本源からの供給を阻みつつあるのだと言わなければならない。

            <感謝合掌 平成30年5月12日 頓首再拝>

《富とは「生命(いのち)」を与えること》 - 伝統

2018/05/16 (Wed) 03:11:49


         *「光明法語」(5月16日)より

富を獲得するためには
何か不正なことを行なわないと得られないと思うのは間違いである。

また富と云うものが神のみ心にかなわぬものだと考えるのも間違いである。

富と云うものは神の「生命(いのち)さきはえ」が
現象界に具現化したものであるから、
人間自身も生命(いのち)を出して与えた程度に従って得られるのである。

与えれば与えるほど、換言すれば多くの人々に役に立つ働きをし、
多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。

            <感謝合掌 平成30年5月16日 頓首再拝>

《最大多数の最大幸福に奉仕せよ》 - 伝統

2018/05/17 (Thu) 03:50:11


         *「光明法語」(5月17日)より

「亀の子たわし」を新案して全日本の台所の清潔に貢献した者は百万長者となり、
「わかもと」を新案して人類にビタミンB資源を出来るだけ広く供給する試みを
考案した者は千万長者と成る。

何でも最大多数の人類に貢献した者はその報いを得るのである。

真理を最も平易なる言葉で述べ、一千万人に生老病死を解脱する道を教えた
『生命の實相』の著者が千万長者にならないのは、まだ彼が、清貧に執する気持ちがあり、
宗教家と云うものは富んではならないという通念に縛せられているからである。

            <感謝合掌 平成30年5月17日 頓首再拝>

《富む事は罪悪ではない》 - 伝統

2018/05/22 (Tue) 04:32:42


         *「光明法語」(5月22日)より

若し諸君が富もうと思うならば、
富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
若し潜在意識が「富」を「避くべき罪悪」であると信じているならば、
潜在意識に諸君はする事なす事、貧乏になるような行動をすることになるのである。

神は決してケチを喜び給うような方ではない事は、
地球と云う箱庭に太平洋と云う池をつくり、富士山と云う築山をきずいて、
その美しさを賞(め)でたまう事実を見てもわかるのである。

神の計画は大仕掛である。
人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。
大なる計画は人を引着ける。

            <感謝合掌 平成30年5月22日 頓首再拝>

《富を獲得する第一条件》 - 伝統

2018/05/23 (Wed) 04:28:09


         *「光明法語」(5月23日)より

富とは「金」のことではない。
封鎖されれば使えなくなるような「金」や紙幣は真の富ではない。

富とは「価値」である。「値打」である。
値打の中には色々の善き考え、身体(からだ)の健康、人格の魅力、
日常生活の快適や豊富さ、享受力の豊かさ、創造力の豊かさなどと云うものが
含まれている。

兎も角、諸君がこれらの富を得んとすれば、
それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
自分が神の子であるから此等のものは必ず得られると云うことに確信を有(も)ち、
且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。

            <感謝合掌 平成30年5月23日 頓首再拝>

《富は「善き考え」の具象化》 - 伝統

2018/05/24 (Thu) 04:02:06


         *「光明法語」(5月24日)より

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

            <感謝合掌 平成30年5月24日 頓首再拝>

《既に与えられているものを完全に利用せよ》 - 伝統

2018/05/25 (Fri) 04:23:10


         *「光明法語」(5月25日)より

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

            <感謝合掌 平成30年5月25日 頓首再拝>

Re: 無限の富を汲みだす③ - dcrmfllydcMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:46

伝統板・第二
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