伝統板・第二

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徳② - 伝統

2017/04/01 (Sat) 12:37:36

     *伝統板・第二「徳」(日曜版)からの継続です。
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6510446


《徳は鉄牢(てつろう)よりも強し》

          *メルマガ「人の心に灯をともす(2011-10-27)」より

   (井原隆一氏の心に響く言葉より…)

   徳のない者は経営者としての資格がない。

   経済社会のつながりの凡(すべ)ては「信」によって結ばれ、
   組織内の人々は「敬」(己を慎み人を敬う)によって結ばれているからである。

   いかに能力・財力があり、権力があっても、
   人格に劣る徳のない人間に心から従うものはない。

   一時は権力・財力につられて従うにしても、いずれは去り行くものである。
   長期にわたって従ったとしても、本心は「心ならずも」ということであって
   心服のそれではない。

   古今東西、徳に反する者が、国、事業を長らえたものはない。
   個人にして有終の美を飾るものもない。

   王 遵(おう じゅん)の詩に、

   「徳は鉄牢(てつろう)よりも強し」がある。

   秦は万里の長城を築いて、鉄の牢屋のように
   匈奴(きょうど)を閉じ込めてしまったので、
   こちらに入ってこなくなった。

   このように延々雲に連なるような長城も、

   理想の帝王と言われた堯帝(ぎょうてい)が
   土階三段の低い宮殿によって立派に太平の世を築いたことにくらべると、
   まったく比較にもならない愚かなことであった。

   中国古代の名君、堯帝は治世よろしきをえたため、
   武力に頼ることなく50年間も治めたが背く者もなかった。


   現代でもトップが徳を失うようなことになれば、
   表面威権は行われているようにみえるが、
   部門内の人々の心は乱れ、ついには反抗心が士気の低下となって
   会社を窮地に追いこむ。

   かりに、利につられて部下が協力しているとしても、
   外部の信用を失って四面楚歌(しめんそか)の苦境に立たされる。

   企業マンとして利を追うのは当然であるが、
   人間として踏むべき道を踏み外してよいということではない。

   孔子も「利を追うときは義を思え」と教えている。

            <『社長の帝王学』日本経営合理化協会>

               ・・・

徳を高めるとは、自らを律し、人の幸せを考えて日々行動すること。
自分の利を忘れ、人の喜びの種まきをすることでもある。

徳には、「陽徳」と「陰徳」がある。

陽徳とは、人に知られるように公然とあからさまに行う徳のこと。
陰徳とは、人に知られないように、密かに目立たないように行う徳のこと。

陽徳を行う人は、損得で動く人。
陰徳を行う人は、見返りを求めずに、ただ人のために動く人。

陽徳は、一時的に大きく賞賛されてそれで消滅してしまうが、
陰徳は、深く密かに積み立てられる。


トップであろうと市井の人であろうと、徳積みは、人間にとって最も大切なこと。

「徳は鉄牢よりも強し」

徳を高め、自らの人生を切り拓(ひら)きたい。

           <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>

「陰徳を積む」 - 伝統

2017/04/15 (Sat) 12:37:25


        *『世界が称賛する日本の経営』伊勢 雅臣・著(P152)より

「陰徳を積め」とは、善次郎が子供の時から、
父親から叩き込まれた精神であった。

人に知られることがなくとも、
世のため人のためになることを黙々と実践しなさい、というのである。


富山の下級武士の家に生まれた善次郎は、
子供の時から農作業や野菜の行商で家を助けたが、
安政五(一八五八)年、二十歳にして江戸に出て、両替商で奉公を始めた。


店の土間に店員たちの履き物が無造作に脱ぎ捨てられていると、
誰が見ていなくとも、その乱雑になった履き物をそっと揃えた。

紙くずなどが落ちていたら、拾って屑籠に入れた。

父の「陰徳を積む」の教えが身にしみ込んでいたのだ。

そんな善次郎を主人はきちんと見てくれていた。


25歳の時に独立して、両替商兼乾物屋の「安田屋」を始めた。

毎朝4時、近所がまだ寝静まっているうちに起きて、
向こう三軒両隣の家の前を掃き清め、水を撒いた。

乾物を売るにしても、良いものから売った。
古い物が売れ残っても、それは自分の損とした。

そうした姿勢が客の心をつかみ、
店はしだいに繁盛し、利益が出るようになっていた。


自分の利益ばかり考えていると利益は逃げていってしまうが、
陰徳を積んでいると、

勝手に利益が向こうからやってくるという商売繁盛の秘訣を、
善次郎はすでに身につけていたのである。

・・・

<関連Web:伝統板・第二「日本の国柄、日本的経営」
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7545189 >

           <感謝合掌 平成29年4月15日 頓首再拝>

【耆(ろう)に学ぶ】 - 伝統

2017/04/22 (Sat) 13:00:18


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年04月09日)」より

   (清水克衛氏の心に響く言葉より…)

   「耆」という漢字を知っていますか?

   「キ」や「シ」と読み、「おいる」「老人」といった意味があるようです。

   「老」に「旨」と書いて「耆」。

   うまいですよね。


   老というと最近ではすっかり良くないイメージが付いてしまっていますね。
   「老害」とか「老醜」なんていう言葉もありますが、
   とにかく、弱い、醜い、厄介者といったレッテルを貼られてしまっています。

   ところが本来、、老は「知恵者」であるとか「徳の高い人」という意味なんです。


   江戸時代には「老中」とか「大老」とか「家老」とか、
   ものすごく高い地位の人を呼ぶのにこの漢字を使っていました。

   経験に裏打ちされたうまい知恵がある。

   その知恵で人が進む道を示してくれる。

   それが「老」であり、「耆」なんです。


   「耆老(きろう)」という言葉がありますが、
   これなんてまさに「徳の高い老人」という意味です。

   この頃は「アンチエイジング」だなんていう言葉もあるそうですが、
   それじゃあまるで、まったく自分を高めたくないみたいじゃないですか。

   日本はこれから超高齢化社会になります。
   少子高齢化は大きな社会問題になっています。

   だが、待てよ。
   逆から考えたら、これってものすごいチャンスですよね。

   若い人たちは知恵者である年長者に囲まれるんです。
   学ぶ機会がどんどん増えます。


   人間は逆立ちしたって、必ず老いるのです。
   当たり前のことです。

   ところが多くの方はそれを考えたくないのか、忘れちゃっているのか。
   そのどちらかに見えてしまいます。

   しっかりと、そのことを意識したとき、
   老害と呼ばれるような生き様は嫌ですよね。

   シワよりも今から気にしなくてはいけないのは、目です。

   「心眼」と言われるような眼を持つことにこだわらなきゃ
   生きている意味がありません。

   『耆(ろう)に学ぶ』

   そう。いまこそ、耆に学ぶときです。

           <『耆に学ぶ』エイチエス株式会社>

             ・・・

タレントの高田純次氏の名言がある。

『歳とってやっちゃいけないことは「説教」と「昔話」と「自慢話」』


本来なら、尊敬されるべきはずの年配者が嫌われるのは、
この「説教」と「昔話」と「自慢話」があるから。

だからこそ、この年寄の繰り言ともいうべき
「説教」と「昔話」と「自慢話」をしない人が光る。


中国明代の儒学者である呂新吾(ろしんご)が
名著『呻吟語』で語っている言葉がある。

それが、「 深沈厚重(しんちんこうじゅう)」

深沈厚重 とは、どっしりと落ち着いて深みのある人物のこと。

細かいことにこだわらない豪放な人物は第二等であり、

頭が切れて弁の立つ人物は第三等だと言っている。


耆老の人とは、尊敬される老人のことを言うが、それがまさに「深沈厚重」。

           <感謝合掌 平成29年4月22日 頓首再拝>

【徳を積む生き方】 - 伝統

2017/04/29 (Sat) 18:30:24


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年07月31日)」より

   (中井耀香氏の心に響く言葉より…)

   生まれながらに幸せに生きる人と、不幸せな境遇の人がいます。
   生まれながらに持っている運は、人によって違います。

   この運の差はどこで起こっているのでしょうか。


   この運は、ご先祖様が生前に積んだ「徳」であり、
   それが私たちに反映されているのです。

   ご先祖様がたくさん徳を積んでいれば、
   その分だけ私たちの持つ運はよくなります。

   あなたの周りには、性格は自分勝手で人に与えることをせず、
   冷たい態度をとる人なのに、なぜか人が集まってきたり、
   お金に不自由せず、大きな家で暮らしている人がいたりしませんか。

   なんて不平等なんだろう、と思うかもしれませんが、
   こういう人は、ご先祖様が昔に積んでくれた徳によって、
   幸せに暮らせているのです。


   しかしながら、この徳は生きていくうちに不徳を積むと、
   どんどん使われ、減っていきます。

   そこで、自分でコツコツ徳を積んで、運をよくしていく必要があるのです。

   ご先祖様が積んでくださった徳が大きいと、
   その人の行いが悪くても、お金や人が集まってきたりして、
   どうにか生きていくことができますが、

   自分で徳を積んでいかないと、不徳のみを積むことになり、
   見えないところでその徳はどんどん減っていきます。

   そして50歳を過ぎてきますと、ご先祖様からいただいた徳は
   どんなに多くても底をついてしまい、自分で徳を積んでこなかった人は、
   惨めな人生に転落することになります。

   これを私は「徳切れ」と呼んでいます。

   50歳から先は自分がそれまで積んできた徳が、人生に反映されるのです。


   徳を積むことは決して難しいことではありません。

   ちょっとした心がけでいいのです。

   たとえば次のようなことです。


   ●会社や飲食店の洗面台についた髪の毛や水滴をティッシュで拭き取る

   ●会社の床に落ちた紙クズを拾う

   ●会社のホワイトボードをきれいにする

   ●お年寄りや子ども連れの人に席を譲る

   ●ベビーカーに大きな荷物を持ったお母さんのお手伝いをする

   ●落とし物を届ける


   など、無理のない範囲でできる、「小さな親切」を心がけるのです。
   
   大切なのは、人が見ている、いないにかかわらず、
   見知らぬだれかが心地よく過ごせるように行動することです。

   これを「陰徳」といいます。

   神様は陰徳を積んだ人を誰よりも愛します。


   陰徳には、人を許すことも含まれます。

   難しいことですが、カチンとくるようなことを言われても、
   聞き流して根にもたない寛容な心を持つようにすることです。

   人のプライバシーを侵さない、自分だけかわいがられたいなどという、
   よこしまな気持ちを持たないことも、陰徳につながります。

   つまり、自分のためだけでなく、
   人のために役に立つような生き方・考え方をすれば、
   おのずと陰徳を積むことになるのです。

        <『すごい「お清め」』KADOKAWA>

                 ・・・

「陰徳陽報(いんとくようほう)」(淮南子・人間訓)

という言葉がある。

「陰徳あれば必ず陽報あり」というが、
人知れずよい行いをする(陰徳を積む)者には、必ずよい報いがあるということ。


しかしながら、陽報を求めてする陰徳は陰徳とは言わない。

こんな話がある。

1500年以上前のこと、達磨大師は王宮に招かれ、国王である武帝から質問された。

「私はこれまでたくさんの寺院を建立したり、寄進をしてきた。
果たして私にはどんな功徳があるのか?」

達磨大師はひとこと「無功徳(功徳はない)」と答えたという。

良い報いを期待して行う善行は善行とは言わないからだ。


徳を積む生き方を目ざしたい。

           <感謝合掌 平成29年4月29日 頓首再拝>

大学の道は明徳にあり(偽ものにならぬため) - 伝統

2017/05/20 (Sat) 12:08:51


         *Web:世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」
              (2008/1/18)より


「大学」を素読する・・・伊與田 覚先生著

(今日から、宮司は大学の素読に入る)

「明 明 徳」(めいめいとく)
大学の道は、明徳を明らかにするにある。
明徳とは、「自己の確立」である。

即ち人物を修め、自己を修めることによって持っている能力を発揮することが
「明徳」を明らかにすることである。

そのためには、「自己の哲学を確立」して、
どんな時でも微動だにしない信念がなければならない。

格物と致知(偽ものにならぬため)

大学の道は明徳にあり

大学の道は、明徳を明らかににするに在り。

民に親しむに在り。

至善に止まるに在り



(解 釈)

「知徳」の備わった立派な人物と成る為には
明徳(自己の確立)を発現するところにある。

その明徳が発現されると、おのずから、通じる心一体感が生じる。

誰とも親しむようになり

判断も正しくなります。


「明徳を天下に明らかにせんとするものは・・・」まず

◎ その国を治む・・・・・・・「治国」(ちこく)
  「その国を治めンとするものは・・・・・・・・」まず


◎ その家を斎(ととの)う・・「斎家」(さいか)
  「その家を斎(ととの)えんとするものは・・・・」まず


◎ その身を修む・・・・・・・・「修身」(しゅうしん)
  「その身を修めんとするものは・・・・・・・・・・」まず


◎ その心を正す・・・・・・・・・「正心」(しょうしん)
  「その心を正さんとするものは・・・・・・・・・・」まず

◎ その意を誠にす・・・・・・・・・「誠意」(せいい)
  「その意を誠にせんとするものは・・・・・・・・・」まず


◎ その知を致す・・・・・・・・・・「致知」(ちち)
  「その知を致すものは・・・・・・・・・・・・・・・」まず

◎ その物を格(ただ)す・・・・・・「格物」(かくぶつ)


物を格して、しかる後「知至り」しかる後「意誠なり」
意誠にしてしかる後「心正し」しかる後「身修る」
身修まリてしかる後「家斎う」しかる後「国治る」
国治まリてしかる後「天下平らかなり」

 
大人になるための学。それが『大学』である。
体が大きい人とか、成年に達した人のことではない。
徳の高い立派な人を大人というのである。

『大学』は、中江藤樹が聖賢の道を志すきっかけになった書であり、
二宮尊徳が薪を背負いながら読み続けた書でもある。

本書は、著者が『大学』を素読用に墨書したもの。
今年で満九十一歳を迎えるとは思えない凛とした筆跡に、
古典を学び続けて八十年以上の深甚な人格が感じられる。

著者は言う。「読書百遍で繰り返し繰り返し続けることによって、
自ら自分の血となり肉となるのです」と。

修身、斉家、治国、平天下。

根本は素読によって、古典の叡智を体に染み込ませ、己を正しくすることにある。

全ての学問の基礎は「大学」にある。
私が尊敬する王陽明も中江藤樹先生も初学として、「大学」から教えを学んだ。

皇室から政治家、経済界の人々も「偽」から「信」になるために
身を修めねば日本は滅んでしまう。

  (http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/51468212.html )

           <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>

徳について・・・(若者のためのベーシック講座) - 伝統

2017/06/24 (Sat) 13:07:01

         *「2万人の人生を変えた23通の手紙」
            立花大敬・著(P76~82)より抜粋

「徳」というものは少しずつ積み重ねて、何十年もたってようやく目に見えて
効力が発揮できるようになるものなので、特に若い人は、未来の自分のために
投資だと思って徳を積むことを心がけてほしいと思います。

さて、では「徳」とはなんなのでしょうか。
「徳」はインドのサンスクリッド語の「グナ」という言葉を訳したものだそうです。

「グナ」とは「心のエネルギー」のことで、
「高徳」とは心のエネルギーが高い(あるいは多い)こと、
「薄徳」とは心のエネルギーが少ないこと、
「不徳」とは心にマイナスエネルギーがあることです。

(中略~要約すると
 ①「徳が高い」人には、まわりの人は引きつけられ、その人の意見に従い行動します。
 ②「徳の薄い」人には、まわりの人はなかなか振り向いてくれず、いい意見を述べても
   共鳴してくれないし、協力してくれません。
 ③「不徳」の人には、まわりの人は怒り、反発してしまいます。)

「徳を積む」とは「心のエネルギーを増やすこと」なのです。
「心のエネルギーの大小」は、その人の心が届く領域の狭い・広いに比例します。

(中略)

狭い心の人は心が狭いので使用可能なエネルギーは小さく、
思い通りの人生を生きることが難しい。

広い心の人は心が広いから使用できるエネルギーが大きくなり、
思いのままの人生を送ることができます。

ですから、「徳を積む」ためには狭い心を広い心に変える努力をすればいいわけです。
心(眼)が届く範囲を少しずつ広くしていけばいいのです。

(中略~徳を積む行動例、老人に席を譲る、掃除をする・・・)

人やモノに心を届かせ、積極的に手を差し伸べていけば、
必ず相手の人やモノが身内になり、味方になってくれます。

これが徳を積むということで、
徳を積めば積むほど味方が増え、サポーターが増えるのです。

           <感謝合掌 平成29年6月24日 頓首再拝>

《『徳』を失った『富』は必ず消える》 - 伝統

2017/07/01 (Sat) 14:08:02


         *『 生長の家 』(昭和33年9月5日の法語)より

   愛行をもって『實相無限の富』の宝庫の扉をひらくための鍵とせよ。
   利己心をもって『現象有限の富』を得ようとするならば、
   それは『有限』を互いに取分多く分配しようとするのであるから、
   其処に必ず無理が出て来て争いや戦いを生ずるのである。

   誰がどんなに使っても減らないところの富
   と云うものが實相世界にはあるのである。

   實相の富は無限であるから、其処から幾ら富を引き出して来ても、
   其処には尚、無限の富が残っているのである。

   徳を積まないでいて、現象の富のみを積もうと考えてはならない。
   背後の『徳』を失っている現象の富は吾々に生活の豊かさと安全とを
   保証するように見えながら実は色々の心労を齎すのである。

   それは権力を保証するように見えながら嫉妬羨望と勢力争いとを生ずる。
   それは幸福を保証するように見えながら不幸を招来し、
   永遠を約束しながら須臾にして消えるのである。

           <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>

【いちばん簡単な徳を積む方法】 - 伝統

2017/07/08 (Sat) 12:35:34


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年03月06日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   人から「こんなラッキーなことがあったよ」という話を聞いたときに、
   人間には2つの反応があります。

   1つは嫉妬(しっと)。

   もう1つは「よかったね」といっしょになって喜び、祝福してあげること。


   釈迦が残した言葉に、「随喜功徳(ずいきくどく)」というものがあります。
   人の幸せを喜んであげるだけで、徳を積んだことになるのだそうです。
   おそらく、仏教の修業の中でいちばん簡単な徳積みです。

   ということは、自分のまわりに「今日はこんな楽しいことがあってね」
   という話ばかりしている友人をたくさん持っている人は、
   ただひたすらに「よかったね」と言っているだけで、
   功徳を積み重ねていけるのですね。


   「小林正観と行く国内・海外ツアー」というものが年に何回かあるのですが、
   その参加者はすでに私の講演会を聞いたリ、本を読んだりしているかただけ
   なので、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言う人が1人もいない。

   日常の中に、ただ喜びだけを見つける人たちです。

   旅行の間、みんなで集まると、「こんなすてきな景色を見た」
   「こんなおもしろいことがあった」という会話しかない。

   40~50人の集団で行き当たりばったりの旅行なので、
   ときには思いどおりにならないことや、予定外のことが起こります。

   でも誰も文句を言わないし、むしろ
   「予定どおりにいかなかったおかげで、かえっておもしろい体験ができた」
   という話になります。


   そういうよき仲間と行動していることは、
   「よかったね」と喜びあうことの連続。

   それだけで猛烈に徳を積んでいるわけですから、
   こんなにすばらしいことはないのです。


   そう考えると、よい旅とは、どこへ行くかではなく、
   誰と行くかによって決まるとわかります。

   よき仲間に囲まれていれば、どこへ行っても楽しいし、
   また同時に、特別にどこかへ行かなくても楽しい。


   「旅」を「人生」に置き換えても同じことです。

   喜びあえる人間関係に囲まれて人生を歩んでいけるなら、
   台所でタクアンを切っているだけで、
   じゅうぶんに幸せを感じられるようになります。

           <『神様を味方にする法則』マキノ出版>

             ・・・

ほんとうに気のあうよき仲間とは、
うまくいかなかったことや、思いどおりにならなかったことまでが面白い。

だが、そうでない人は、いいときはいいが、
予定通りにいかなかったり、思いどおりにならないような
ハプニングがあったりすると途端に不機嫌になる。


共に、喜んだり、面白がったり、驚いたリ、
大騒ぎしたり、ふざけたりできる仲間は最高だ。

それが喜びあえる人間関係。


いちばん簡単な徳を積む方法は…

嫉妬の反対の、「よかったね」と喜び、祝福してあげること。


「よい旅とは、どこへ行くかではなく、誰と行くかによって決まる」

人の幸せを心から喜び祝福する人でありたい。

           <感謝合掌 平成29年7月8日 頓首再拝>

挨拶行は、徳を高める - 伝統

2017/07/25 (Tue) 04:16:20

挨拶について(挨拶行は、徳を高める)

         *「2万人の人生を変えた23通の手紙」
            立花大敬・著(P83~88)より抜粋

サッカー元日本代表監督の岡田武史さんの母校の早稲田大学での
講演の記録の一節に挨拶することの意味が語られていて、

「なるほど!」と思いました。

それによりますと、

「挨拶とは、僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを
認めていますよ、許しているんですよ」

という相手に対する合図だというのです。

ということは、もし出会った人に挨拶しないということは、

「僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを
認めていませんよ、許していませんよ」

という合図になるのですね。

だから挨拶しないということは相手に対してとても失礼にあたるし、
挨拶されない人もとても腹が立つわけなのです。


Aさんがクラスのすべての人に挨拶をしないとすれば、ついにはクラスの
すべての人が、Aさんがクラスに存在することを認めなくなる、許さなくなる、
ということになってしまいます。

Aさんが困っていても無視する(無視とは「い無いものと視なす」ということ)
意見を主張しても誰も賛成、協力しない、そのような状態になってしまいます。


一方、Aさんの態度に腹を立ててBさんがAさんに挨拶をしないということに
なれば、Bさんの世界(心)のなかにAさんがいなくなります。
その分、Bさんの世界(心)は狭くなったのです。

心が狭くなると「徳」が減るのでしたね。
無視する人が増えるほど「徳」はどんどん減ってしまいます。


あるお教(法華経)に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という方が登場します。

昔々、常不軽というあまり頭のよくないお坊さんがいました。

師匠は、あいつには難しいお教は理解できないだろうと、

「常不軽や、みんな仏様なんだよ。
Aさんも、Bさんも、犬も猫も、山も川も・・・
みんな仏様なんだから、丁寧に礼拝しなさい」

と教えました。

常不軽さんは、頭は悪いけれど、まじめで忍耐強い人だったので、
それから毎日、一日中、町のなかや、山林や・・・をひたすら礼拝して歩き回りました。

犬に出会うと、

「あなたは仏様です」

と犬を礼拝し、人に会えば、

「あなたは仏様です」

と、その人を礼拝します。

犬も人も気味悪がって逃げていったり、腹を立てて杖で打ったり、
子どもがバカにして石を投げたりしました。

それでも常不軽さんはめげることなく礼拝行を続けました。

こういう昔話をして、お釈迦様が弟子たちに言います。

「君たち、じつはこの常不軽こそ私の過去世(かこぜ)であったのだよ。
このようにして私はすべての人やモノをひたらすら礼拝して回り、
すべての人やモノを許し、仏として認める努力をしたことによって、

今、こうして君たちをはじめ、
多くの人やモノたちから仏として認められる存在となれたのだよ」

どうですか。
すべての人とモノを許し、仏として認める努力を続けた常不軽さんが結局、
すべての人とモノから仏として認められるようになれたのですね。


ちなみに、この常不軽さんの「礼拝して回る行」をもとにして
比叡山延暦寺の「回峰行(かいほうぎょう)」が始められ、
現在でも行じられています。


さて、BさんがAさんに挨拶します。
Aさんは挨拶しませんでした。
それに対して腹を立てて、もうAさんに挨拶しないとしたら、
これはBさんの負けですね。


挨拶とは商売のようにギブ・アンド・テイクのものなのでしょうか。
見返りを求めてしているものなのでしょうか。

そうではないのですね。

常不軽さんの例でわかるように、
好きな人も、嫌いな人も、みんな自分の世界(心)の内側に存在することを許し、
認めることができる。

挨拶はそんな器の大きな人物(徳の高い人)になるための、
とてもいい練習なのです。

自分がした挨拶に反応があってもなくても、
それは問題ではないのです。

すべての人を許し、認めることができる。

私がそんな大きな人物となれますようにと祈りを込めてする「挨拶行」なのです。

           <感謝合掌 平成29年7月25日 頓首再拝>

『中』の徳を得る - 伝統

2017/08/05 (Sat) 13:33:59

《『中』の徳を得る日》

         *「生長の家」(昭和16年10月8日の法語)より

   一切の徳は『中』に発する。
   『中』は天之御中主神の『御中主』の理念に発する。
 
   中にして主なのである。
   中にして主なるが故に、あまねく一切のところに現じて
   庸(つね)の道となるのである。

   平常心是れ道である。
   庸(つね)を失うところに、心乱れ、
   心乱れるところに百禍生ずる。

   『剣は人を殺さず、人又人を殺す。剣術を学んで、
   其の心術を学ばずんば、世話に云へる仏作って
   眼(まなこ)を入れずと云ふに異ならず』

   と山内蓮心翁も云う。

   人を傷つけるは剣にあらず、人の心みづからにあるのである。

   又曰く、『心を離れて身(しん)なし、身を離れて心なし
   と云へり。心の外に平法なく、平法の外に心なし』と。


   すなわち心が『中』を得るときには盡十方そのまま味方となりて、
   『和』を成ずるのである。盡十方がことごとく我が心となるのである。

   盡十方がわが心となるとは、心が一箇所にとらえられぬことであり、
   宮本武蔵の所謂る無構の構えである。

   寂然不動にして一箇所に片寄らぬのである。
   一箇所に片寄らずして中を得ているから、相手の動きにつれて
   千変万化し得ること影の形に添うが如きである。

   『無敵は是寂然。不動にして静かなる時は無量無辺に通じ、
   動いて万物に応ぜぬと云う事なし。
   形に影の従ふが如く響の声に応ずるが如し。是無敵の厳明也』

   と山内翁は云っている。謂い得て妙である。


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           <感謝合掌 平成29年8月5日 頓首再拝>

《天の倉に貯えられた徳》 - 伝統

2017/08/21 (Mon) 04:48:58


        *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P178~179) より
 
人の富を、その外形的な数量的な物質や貨幣の量によって
はかってはならないのである。

真理を知ったところの人は、全ての富は物質の量ではなくて、
天の倉に貯えられたる霊的なる「徳」であり、その眼に見えざる「徳」が
必要に応じて物質的な富として形をかえて現象界にあらわれて来るものだ
と云うことを知っているのである。

 
人間は神の最高の自己実現としてつくられたものであるから、
神が人間を貧しくつくるようなことをしたまう筈はないのである。

神は人間を自己の最高実現として、最高の「徳」を実現することを
目的としていられるのであるから、

「徳」を行じ「徳」を実現するとき、
おのずから経済的にも豊かに「其の実相の富」を
此の世に実現することができるようになっているのである。

           <感謝合掌 平成29年8月21日 頓首再拝>

挨拶が育てる「もとめない心」 - 伝統

2017/08/26 (Sat) 12:22:42


(前々々回記事「挨拶行は、徳を高める<2017/07/25>」に関連して)

         *「2万人の人生を変えた23通の手紙」
            立花大敬・著(P88~92)より抜粋


師が自分を呼びました。

「ハイ」と答えます。

その後、なにか用事を言いつけられたり教えを示したりするのかと思ったら
なにもありません。

そんなとき、あなたならどう思いますか。
私なら「用事もないのに呼ぶなよ」と心のなかで思うかもしれません。

1回だけならそれですむかもしれませんが、
何度も何度も呼ばれて、その「ハイ」という返事に相手が無反応だ
ということになったら、ついに仏の顔も三度で、腹を立ててしまったことでしょう。

でも、応真さんのように挨拶(呼びかけと応答)の本質は見返りを求めず、
損得の勘定のない「ただする行為」だとわかっていれば腹が立つことはありません。

何万回裏切られても、ひたすら「ハイ」「ハイ」と応答し続けていくだけのことです。

           <感謝合掌 平成29年8月26日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2017/08/31 (Thu) 03:58:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月31日>(P68)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

          <感謝合掌 平成29年8月31日 頓首再拝>

徳を積めば人は集まる - 伝統

2017/09/19 (Tue) 04:30:25


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2010-09-17)」より

   (井原隆一(りゅういち)氏の心に響く言葉より…)

   「林深ければ則(すなわ)ち鳥棲(す)み、水広ければ則ち魚遊ぶ。
   仁義積めば則ち物自(おのずか)ら之(これ)に帰(き)す」

   これは、『貞観政要(じょうがんせいよう)』にある言葉だが、
   要するに、林が深ければ鳥が多く棲みつくし、川が広ければ魚が多くそこに泳ぐ。

   同じように、仁義の徳をつみ施せば、人は自らついてくるという意味で、
   唐の名君太宗(たいそう)の言にふさわしい。


   太宗は中国史上まれにみる英主(えいしゅ)といわれている。

   ある臣が、「法律を重くして盗賊がでないようにしていただきたい」と願いでた。
 
   太宗は、

   「盗賊が起こるのは民が生活に困るからである。
   自ら奢侈(しゃし)を慎(つつし)み、冗費(じょうひ)をはぶき、
   夫役(ふえき)を軽くし、潔白な役人を用いれば、
   民は衣食も足り、自然に盗みなどしなくなる。
   なんで法律を重くする必要があろう」

   と答えた。

   このように政治に心を用いたので、数年のうちに民も豊かになり、
   路に落ちたものを私(わたくし)する者もなくなり、
   盗賊もでなくなったので行商する人も安心して野宿するようになったという。

          <『人の用い方』日本経営合理化協会出版局>

                ・・・

中国の英君太宗は、法律を重くするのではなく、政治に携わる者すべてが自らを律し、
身を慎むことにより、無駄な出費をなくして民を豊かにすることこそ、
盗賊を少なくする真の道だと言った。

しかしながら、この話を聞くと、到底そのようなきれいごとでは
犯罪は少なくはならないだろう、と思ってしまう。

そして、多くは犯罪防止の手っ取り早い方法、すなわち法律を重くし、
恐怖と圧力による方法を選ぶ。
これは、「覇道(はどう)」であり、覇者の方法である。

「覇道」とは逆の道が、「王道」。
「王道」とは本質を見据え、芯(しん)から変革する、徳の道だ。

覇道とは、労少なくして益多い道。
王道とは、労多くして益少ない道。

まさに今でも、多くの企業が悩んでいるサブプライム・ローンに端を発した大不況は、
デリバティブという極めて自己中心的な覇道を行った結果だ。

効率を最重要視し、最も短い期間で、最大の利益を狙うことは、
覇道という地獄の道を選択することになる。

無駄も多いが、あえて困難な道、利他の道を往くことに、人生の妙味がある。

むやみに自分を大きく見せずとも、徳という魅力があれば、人は自然と集まってくる。

          <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

明るさの善徳 - 伝統

2017/09/27 (Wed) 04:38:24


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月27日)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。

あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事は
すべての善を悉く覆して反対効果に変じてしまう程の
力をもっているものなのである。

心に明るさを持つと云う事は、大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。
心が暗いと云う事は、大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

           <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>

徳とは無類の明るさのことである - 伝統

2017/10/16 (Mon) 03:32:29


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2009.8.31)」より

   安岡正篤先生は
   「徳とは無類の明るさのことである」と言われた。

   知識や技術は徳ではない。
   明るく、人好きで、世話好きで、人に尽くすことができる人こそ、
   徳のある人なのである。

   ゆえに徳のある人は元気がいい。

   「真剣」と「深刻」とは違う
   悲劇の主人公のような生き方は真剣とは言わない。

   真剣というのは、もっと軽いものである。
   真剣になればなるほど軽くなれる。

   「軽さ」の頭に「あ」をつければ「明るさ」になる。

   真剣な人は「明るい人」である。
   眉間に皺を寄せて深刻に生きている人は
   実は一番真剣に生きていないのではないか

               (行徳哲男)

           ・・・

昔、スポーツの練習中、「白い歯を見せるな」と怒られたことがある。
笑いながら、練習していると、真剣にやっていないと見なされたからだ。


かつて、金メダルを9個も取った陸上のカール・ルイスは
コーチに、「50m過ぎたところから笑え」という指導を受けた。
笑うと緊張が緩み、筋肉が柔らかくなり、リラックスできる。

話方や態度が、軽くて、明るいと、チャラチャラしていると言われやすい。
しかし…
人を見るときはどこに視点を置くかが大事だ。

一見、真剣そうだが、深刻な態度に惑わされるか
軽くて、いい加減そうに見えるが、行動は真剣で真摯か
人は実際の行動をみればわかる

無類に明るくて、人好きで世話好き
人に喜んでもらうことが大好き
世のため人のために尽くす人

そして、こだわらない飄々とした軽さ
それが、徳のある人だ

           <感謝合掌 平成29年10月16日 頓首再拝>

実際生活上最も必要な3つの徳 - 伝統

2017/10/29 (Sun) 04:07:43


        *「生命の實相」第14巻教育篇(P194)より

「生長の家」では信と愛と讃嘆との3つを
実際生活上最も必要な徳であるとするのである。

信と愛とは「心の徳」だ。
讃嘆は「心の徳」を外にあらわして現実的の力とする言葉の力であるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月29日 頓首再拝>

空の徳を生きる日 - 伝統

2017/11/30 (Thu) 04:30:38


          *「光明道中記」(11月30日)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。(『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。
中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、形のみを集めんとするものは、
飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、
「物」が《いのち》に還元する時にハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、
物質が波に還元する時電波となるが如きである。

          <感謝合掌 平成25年11月30日 頓首再拝>

【「徳」で治める】 - 伝統

2018/01/15 (Mon) 04:27:13


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年01月13日)より

   (稲盛和夫氏の心に響く言葉より…)

   企業経営において、長く繁栄を続ける企業をつくりあげていこうとするなら、
   「徳」で治めていくしか道はないと私は考えています。

   欧米の多くの企業では一般に、覇道つまり「力」による企業統治を進めています。

   例えば、資本の論理をもって人事権や任命権をふりかざしたり、
   または金銭的なインセンティブ(誘因)をもって、
   従業員をコントロールしようとしたりするのです。

   しかし、権力によって人間を管理し、または金銭によって
   人間の欲望をそそるような経営が、長続きするはずはありません。

   一時的に成功を収めることができたとしても、
   いつか人心の離反を招き、必ず破滅に至るはずです。

   企業経営とは永遠に繁栄を目指すものでなければならず、
   それには「徳」に基づく経営を進めるしか方法はないのです。

   実際に、経営者の人格が高まるにつれ、企業は成長発展していきます。
   私はそれを、「経営はトップの器で決まる」と表現しています。

   会社を立派にしていこうと思っても、
   「蟹(かに)は自分の甲羅に似せて穴を掘る」というように、
   経営者の人間性、いわば人としての器の大きさにしか企業はならないものなのです。


   例えば、小さな企業の経営で成功を収めた経営者が、
   企業が大きくなるにつれ、経営の舵(かじ)取りがうまくとれなくなってしまい、
   会社をつぶしてしまうということがよくあります。

   それは、組織が大きくなっていくにつれ、
   その経営者が自分の器を大きくすることができなかったからです。

   企業を発展させていこうとするなら、まずは経営者が人間としての器、
   言い換えれば、自分の人間性、哲学、考え方、人格というものを、
   絶えず向上させていくよう、努力を重ねていくことが求められるのです。

   しかし近年、日本ではそのようなことを理解する経営者が少なくなっています。

   少しばかり事業で成功を収めただけで、謙虚さを失い、
   傲岸不遜(ごうがんふそん)に振る舞い、私利私欲の追求に走ることで、
   せっかく手にした成功を失ってしまう経営者が続いているのです。


   いまこそ賢人、聖人たちの知恵に学び、
   「徳」ということの大切さを改めて理解することが大切です。

   そうすることが、単に一つの集団の発展を導くのみならず、
   荒(すさ)みいく日本社会の再生にあたっても、
   大きな貢献を果たすのではないでしょうか。

        <『「成功」と「失敗」の法則』致知出版社>

               ・・・

『安岡正篤先生は「徳とは無類の明るさのことである」と言われた。

知識や技術は徳ではない。
明るく、人好きで、世話好きで、人に尽くすことができる人こそ、
徳のある人なのである』(行徳哲男)


徳とは、相対したとき、自然と頭が下がるような人のことをいう。

利他の心を持ち、けっして偉ぶらず、謙虚で、人から好かれる人。

それが、無類の明るさ。


徳を身につけたい。

          <感謝合掌 平成30年1月15日 頓首再拝>

お蔭のない善行を喜びましょう - 伝統

2018/01/29 (Mon) 03:54:57


          *「真理」第9巻生活篇(P133)より

常に深切であれ。

金光教祖はこれを「実意丁寧」と教えられた。
実相からあらわれる真心を丁寧に実践することである。

深切を親切と書いて親しく狎々(なれなれ)しいことのように解している者があるが、
深切とは、実相の魂の底深くから切(せつ)に催してくるところの真心を言うのである。

何事をするのでも、実相の底から切に深く催して来ることを
実践するようにしなければならない。

深切はまた実相から催うしてくるところの深い愛である。
神は愛である。
愛念の深い者にはまた智慧も催してくるのである。

お蔭があらわれないからとて気短(きみじ)なことを考えてはならない。
若し人に深切を施してお蔭があらわれなかったならば、
それこそ悦(よろこ)べ歓(よろこ)べである。

お蔭がすでに形にあらわれた善行は、も早(は)や天の倉から引き出されたる徳である。
お蔭があらわれていない徳であってこそ、それは天の倉に貯えられたる徳である。

          <感謝合掌 平成30年1月29日 頓首再拝>

天の倉に徳を積む - 伝統

2018/02/22 (Thu) 03:26:02


           *「光明道中記」(2月22日 天の倉に貯える日)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。(「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、天の倉に貯えられたる善行である。
すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と言われるほどの不幸不運な人ならば、
その人は天の倉に貯えられたる自分の資本(福田)が少しもないことを現しているのであるから、
その人が自己の運命を改善しようと思うならば、先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が
資本を積むが如く、福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、
善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、
その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

          <感謝合掌 平成30年2月22日 頓首再拝>

老子の「五つの徳」 - 伝統

2018/03/08 (Thu) 04:27:57


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2010-11-17)より

   (臨済宗の藤原東演(とうえん)師の心に響く言葉より…)

   老子(ろうし)は「徳」を五つに要約しているという。

   第一、美ならず(虚飾の美しさを誇らない)

   第二、弁ならず(口達者にならない)

   第三、博ならず(知識をひけらかさない)

   第四、積まず(損得ばかりにこだわらない、欲をかかない)

   第五、争わず(何事も控えめに、柔軟に受け止める)

   この五つの「徳」を養うには、
   己を虚(むな)しくして「虚」の心を取り戻すしかあるまい。

   不器用にしか生きられない人は、自分の無力をより感じるから、
   「虚」の心の大切さに気づくはずである。

   政治の世界、経済の世界、学問の世界であれ、
   今日、要領よく生きるのをよしとする人がどんどん増え続けているようだ。

   しかし果たして老子の五つの「徳」を忘れて、見せかけの美しさを装い、
   饒舌(じょうぜつ)で情報も多く得ることができ、
   なにごとも器用に応じることができる人は
   本当に幸福と感じることができるのであろうか と思ってしまう。

         <『人生、「不器用」に生きるのがいい』祥伝社黄金文庫 >

             ・・・

老子(ろうし)は、春秋戦国時代の哲学者で、道教の創始者と言われるが、
実在の人物ではないとも言われている。


徳は五つに要約されると老子はいう。

第一『美ならず』とは、「美言は信(しん)ならず」といい、
飾った言葉は、真実味が薄い。
訥々(とつとつ)とした誠意ある物言いの方が相手の胸をうつ。

第二『弁ならず』とは、「善なる者は弁(べん)ぜず」といい、
善人は議論しないし、言葉で打ち負かそうとしない。
口先だけの評論家もダメだ。

第三『博ならず』とは、「知る者は博(ひろ)からず」といい、
エセの知識人は、本当の深いところを知らない。
ただ浅くて薄っぺらな知識が多くあるだけだ。

第四『積まず』とは、「聖人は積まず」といい、
よくできた人物は何事もため込まないで、人に分け与える。与えれば与えられる。

第五『争わず』とは、「聖人の道は、為(な)して争わず」といい、
聖人は人のために働き、決して功を自分のものにしない。


『潜行密用(せんぎょうみつよう)は、愚(ぐ)の如く魯(ろ)の如し』という禅語がある。
人に知られず、密かにやる善行や修行は、まるで愚(おろ)か者で、
頭の動きの鈍い者のようにも見えるが、それでいいのだ、という意。

自分で才能があると思っている人間はえてして、自分を飾り、
偉そうに議論をし、知識をひけらかし、物も情報もため込み、自分の損得だけで動く。
すなわち、ちょっとばかり目先のきく、小器用(こきよう)な人間のことだ。

不器用な人間は、まるで「愚の如く魯の如し」。
不器用でもいい、一歩ずつコツコツと、謙虚な努力を積み重ねたい。

          <感謝合掌 平成30年3月8日 頓首再拝>

《其の徳を包む日》 - 伝統

2018/04/07 (Sat) 03:55:13


          *「生長の家」(昭和16年11月10日の法語)より

   『進道は退くが如し』 である。

   私が最近みずから進んで5雑誌を廃刊したのも、
   折角そだてて来たこれらの雑誌が惜しくないことはない。
  
   けれども退くべき時に退くのが却って、進むことなのである。

   秋が来て木の葉が凋落する。
   
   それは一見退くがが如しであるが、
   その時一層その木は堅緻になり、
   やがて春来るときに大いに伸びる力を内部に養われる。

   みずから卑きにつくこと水の如くにして、
   はじめて洪水の如く、
   時来れば偉大なる力を発揮し得る。

   上徳は谷の如くにして一切の流れを自己に集めて大となる。
   これ低きにつく徳である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295

          <感謝合掌 平成30年4月7日 頓首再拝>

【花は香り、人は人柄】 - 伝統

2018/04/22 (Sun) 03:33:46

      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年04月13日)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   6人の先哲の語録編纂(へんさん)を終えて、
   しみじみと湧(わ)き上がってくる感興(かんきょう)がある。

   6人の人生の達人の言葉は、煎(せん)じ詰めれば 一に帰する という思いである。

   その一とは何か。

   それは、

   「花は香り 人は人柄」

   ということである。

   見た目にいくら華やかで艶(つや)やかでも、
   造花には真に人を引きつける魅力はない。

   人もまたいくら実力があっても、傲慢で鼻持ちならない人に人間的魅力はない。

   まず自分を創(つく)ること。

   自分という人間を立派に仕上げること。

   そして、徳の香る人になること・・・6人の先哲が
   その生涯を通して語っていることは、その一点に凝縮される。

   これこそ人生で一番大事な法則、これを遵守(じゅんしゅ)すれば
   人生は大丈夫という原則、すなわち人生の大則であろう。

   では、どうすれば自分を創ることができるのか。

   6人の先哲が言っていることは、概(おおむ)ね次の3つに集約されると思う。

   (1)一つは、人生に対して覚悟を決めること。

      覚悟を決めない限り、真の人生は始まらない。

      先哲は繰り返しこのことを説いている。

      沖縄の漁師が言ったという。

      「遠洋の漁場に出ようと決めると、
      風が起き、帆がざわめき、波が立ってくる。
      だが、まだ覚悟が決まらない船には風が起きんのよ」

      人生もまた然(しか)りである。

   (2)二つは、傲慢になるな、謙敬(謙虚で、敬い、慎むこと)であれ、
      と教える。

      不遇の時には謙虚だった人が、うまくいきだすと傲慢になる。

      人間の通弊(つうへい)である。

      だが、傲慢になった時、天はその人の足をすくう。

      その事例は数限りない。

   (3)三つは、誠実であれ、ということ。

      誠実は古来聖賢がもっとも大事にした人間最高の徳目である。


   あえてもう一つ付け加えれば、「久」であろう。

   久しく続けることで、人生の大則は揺るぎないものになる。

        <『小さな人生論 3』致知出版社>

              ・・・

「あらゆるビジネスはリスクを伴う。
打ちのめされる覚悟をしておけ。
冒険なくして成功がやってくることは滅多にない」(リチャード・ブランソン )

物事が動きださないときは、覚悟が決まっていないとき。

もし失敗して、打ちのめされても仕方なし、
と肚が決まっていないときは、行動できない。


香りとは余韻だ。

人の魅力もまた余韻にある。

またあの人に会いたいと思わせる、長く続く余韻だ。


徳の香る人を目指したい。

          <感謝合掌 平成30年4月22日 頓首再拝>

【「徳」を積む方法とは、相手のラッキーを一緒に喜んであげること】 - 伝統

2018/05/11 (Fri) 03:32:15


         *「ありがとうの奇跡」小林正観・著(P52~55)より

人から「こんなラッキーなことがあったよ」という話を聞いたときに、
聞いた側の人間には「2つの反応」があります。

ひとつは、嫉妬したり、妬んだりすること。

もうひとつは「よかったね」と一緒になって喜び、祝福してあげられること。



お釈迦様は 「随喜功徳(ずいきくどく)」 という教えを残しています。

「随喜」とは、「心の底から喜ぶ」「心の底から嬉しいと思う」こと。
「功徳」とは、徳を積むこと(善行を重ねること)です。

つまり、「随喜功徳」とは、
人の喜びや幸せを一緒に喜んであげるだけで、自分が徳を積むことになる
という意味です。

《ということは、「今日は、こんな楽しいことあった」という話を聞いたら、
ただひたすら「よかったね」と言っているだけで、「徳」を積み重ねていけるわけです。》

さらに、他人の幸せを「我がことのように喜ぶ」ようにすると、
嫉妬心を克服することもできます。

「小林正観と行く国内ツアー・海外ツアー」というものを、年に何回か行っておりました。

その参加者は、すでに私の講演会を聞いたり、
本を読んだりしてくださっている方々だけなので、
旅行中、「不平不満・グチ・泣き言・悪口・文句」を言う人が、ひとりもいません。

旅行の間は、「こんな素敵な景色を見た」「こんな面白いことがあった」
という楽しい会話ばかり。

日常の中に喜びを見つける訓練をしている「よき仲間たち」です。


いつも、ほとんど、行き当たりばったりの旅行なので、
ときには思い通りにならないことや、予定外のことも起きます。

しかし、誰も文句を言わないし、むしろ「予定通りにいかなかったおかげで、
かえって面白い体験ができた」と肯定的にとらえています。

添乗員さんに対して威張りたがる人や、自分勝手な行動をする人、
飛行機の時間が遅れると苦情を言う人も、ひとりもいません。


「よき仲間」との旅行は「よかったね」と喜び合うことの連続です。

すると、それだけで「徳」を積んでいるわけですから、
こんなに、素晴らしいことはありません。

《そう考えると、「よい旅」とは、どこへ行くかではなく、
「誰と行くか」によって決まることがわかります。》


「よき仲間」に囲まれていれば、どこへ行っても楽しいし、
また同時に「特別にどこかへ行かなくても楽しい」のです。

どこかへ行くから楽しい、のではなくて「どんなところでも楽しい」のです。


「人生」も旅と一緒ですから、これは「旅」を「人生」に置き換えても、
まったく同じことがいえます。

「喜び合える人間関係(よき仲間)に囲まれて人生を歩んでいける」ならば、
淡々と過ぎる普通の日常であっても、充分に幸せを感じられるのではないでしょうか?

          <感謝合掌 平成30年5月11日 頓首再拝>

徳を積む生き方 - 伝統

2018/06/06 (Wed) 03:05:34


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016-07-31)より

   (中井耀香氏の心に響く言葉より…)

   生まれながらに幸せに生きる人と、不幸せな境遇の人がいます。

   生まれながらに持っている運は、人によって違います。

   この運の差はどこで起こっているのでしょうか。


   この運は、ご先祖様が生前に積んだ「徳」であり、
   それが私たちに反映されているのです。

   ご先祖様がたくさん徳を積んでいれば、
   その分だけ私たちの持つ運はよくなります。

   あなたの周りには、性格は自分勝手で人に与えることをせず、
   冷たい態度をとる人なのに、なぜか人が集まってきたり、
   お金に不自由せず、大きな家で暮らしている人がいたりしませんか。

   なんて不平等なんだろう、と思うかもしれませんが、
   こういう人は、ご先祖様が昔に積んでくれた徳によって、
   幸せに暮らせているのです。


   しかしながら、この徳は生きていくうちに不徳を積むと、
   どんどん使われ、減っていきます。

   そこで、自分でコツコツ徳を積んで、運をよくしていく必要があるのです。

   ご先祖様が積んでくださった徳が大きいと、
   その人の行いが悪くても、お金や人が集まってきたりして、
   どうにか生きていくことができますが、

   自分で徳を積んでいかないと、不徳のみを積むことになり、
   見えないところでその徳はどんどん減っていきます。

   そして50歳を過ぎてきますと、ご先祖様からいただいた徳は
   どんなに多くても底をついてしまい、
   自分で徳を積んでこなかった人は、惨めな人生に転落することになります。

   これを私は「徳切れ」と呼んでいます。

   50歳から先は自分がそれまで積んできた徳が、人生に反映されるのです。


   徳を積むことは決して難しいことではありません。

   ちょっとした心がけでいいのです。

   たとえば次のようなことです。


   ●会社や飲食店の洗面台についた髪の毛や水滴をティッシュで拭き取る
   ●会社の床に落ちた紙クズを拾う
   ●会社のホワイトボードをきれいにする

   ●お年寄りや子ども連れの人に席を譲る
   ●ベビーカーに大きな荷物を持ったお母さんのお手伝いをする

   ●落とし物を届ける


   など、無理のない範囲でできる、「小さな親切」を心がけるのです。

   大切なのは、人が見ている、いないにかかわらず、
   見知らぬだれかが心地よく過ごせるように行動することです。

   これを「陰徳」といいます。

   神様は陰徳を積んだ人を誰よりも愛します。


   陰徳には、人を許すことも含まれます。

   難しいことですが、カチンとくるようなことを言われても、
   聞き流して根にもたない寛容な心を持つようにすることです。

   人のプライバシーを侵さない、自分だけかわいがられたいなどという、
   よこしまな気持ちを持たないことも、陰徳につながります。

   つまり、自分のためだけでなく、人のために役に立つような
   生き方・考え方をすれば、おのずと陰徳を積むことになるのです。

    <『神様があなたのそばにやってくる すごい「お清め」』KADOKAWA>

             ・・・

「陰徳陽報(いんとくようほう)」(淮南子・人間訓)

という言葉がある。

「陰徳あれば必ず陽報あり」というが、
人知れずよい行いをする(陰徳を積む)者には、必ずよい報いがあるということ。


しかしながら、陽報を求めてする陰徳は陰徳とは言わない。

こんな話がある。

1500年以上前のこと、達磨大師は王宮に招かれ、国王である武帝から質問された。

「私はこれまでたくさんの寺院を建立したり、寄進をしてきた。
果たして私にはどんな功徳があるのか? 」

達磨大師はひとこと「無功徳(功徳はない)」と答えたという。

良い報いを期待して行う善行は善行とは言わないからだ。


徳を積む生き方を目ざしたい。

          <感謝合掌 平成30年6月6日 頓首再拝>

徳を積み、心を高めることが最大の幸せ - 伝統

2018/06/26 (Tue) 03:26:01


         *「けっきょく、お金は幻です。」
           竹田和平・著(P174~178)より抜粋

(1)人間の価値を保証するものは何か。
   何が価値をつくり出しているのか。
   それが「徳」なのです。

(2)お金で信用は買えませんが、信用でお金はつくれます。
   同様に、お金で徳は買えませんが、徳のあるひとはおそらく、
   一生お金に困ることはないでしょう。

   心の富とは、つまり徳のことなのです。

(3)私のいう徳とはけっしてむずかしいものではありません。

  ①赤ちゃんがにっこり笑って母親を喜ばせる。
   そこにもう徳が生まれているのです。

  ②相手を喜ばせること。
   それも徳のひとつなのです。

   つまり、「真心をもって、人が喜ぶことをする」ことです。

  ③相手の喜ぶ言葉をかける。
   相手にほほ笑みかける。

   そのときもう、人は得をひとつ積んでいるのです。

  ④儒教では五徳といって、「仁、義、礼、知、信」を
   徳の大切な要素と考えています。
   これも実践しなければ一文の価値もありません。

   逆に、ごく小さな、ささいな徳行であっても、
   それを実行すれば、すなわち積徳となるのです。

  ⑤平易な行いから徳の種は蒔かれ、その芽は伸びていくのです。

   あなたりまえのことをしっかりこなす。
   自分のためより人のためを少しだけ優先する。
   「ありがとう」という感謝の心を忘れない。

   わずかなことで満足する。
   何ごともわくわくと楽しむ。
   明るく前向きに振る舞う。

   欲張らない。
   いばらない。
   あせらない。

   怒らない。
   驕らない・・・。

(4)ふだんの暮らしの中で徳を重ね、心を高めていくことは、
   天の意に則した、人間の生きる最大の目的であり、
   最高の幸福であると思うのです。

          <感謝合掌 平成30年6月26日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2018/08/31 (Fri) 03:28:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月31日)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

          <感謝合掌 平成30年8月31日 頓首再拝>

明るさの善徳 - 伝統

2018/09/27 (Thu) 04:50:52


        *「光明法語」(9月27日)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。

あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事はすべての善を悉く覆して
反対効果に変じてしまう程の力をもっているものなのである。

心に明るさを持つと云う事は、大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。
心が暗いと云う事は、大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

           <感謝合掌 平成30年9月27日 頓首再拝>

吾れ大地の如くならん - 伝統

2018/11/26 (Mon) 03:18:57

          *「光明道中記」(11月26日 寛容の精神湧き出ずる日)より

【寛容、雅量の徳は潔癖の徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。
すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉くもっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、
冬には葉を枯らし、風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

          <感謝合掌 平成30年11月26日 頓首再拝>

心、水の如く柔らかく - 伝統

2018/11/29 (Thu) 04:58:08


          *「光明道中記」(11月29日 心、水の如く柔らかくなる日)より

【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。(『百事如意』)】


生きているものは温い。

あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。

調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、程よく温かいところに生命は大きく顕れる。

天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。

自然は《ひとり》高からんとする者を崩して低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。
だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。

水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。

水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。

水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。

          <感謝合掌 平成30年11月29日 頓首再拝>

空の徳を生きる - 伝統

2018/11/30 (Fri) 04:39:19


          *「光明道中記」(11月30日 空の徳を生きる日)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。
                    (『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。
中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、
形のみを集めんとするものは、飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、
「物」が《いのち》に還元する時にハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、
物質が波に還元する時電波となるが如きである。

          <感謝合掌 平成30年11月30日 頓首再拝>

人から愛される徳を積む(本田宗一郎) - 伝統

2018/12/17 (Mon) 04:14:38


      *ブログ「心の糧・感謝の心で」(2018-12-4)より

人間にとって大事なことは、
学歴とかそんなものではない。

他人から愛され、
協力してもらえるような
徳を積むことではないだろうか。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

本田宗一郎
(1906~91)
本田技研工業創業者

創業以来、本田宗一郎とよきパートナーだった藤沢武夫は、
本田とつきあいを始めたころ、本田の人間的な魅力に
「電気のようなショック」を受けたことがあるそうです。

つぎのような面白いエピソードがあります。

あるとき、本田は藤沢らと浜松の料亭に外人を招待して
酒を飲んで騒いだことがありました。

外人は酔いつぶれて一人で先に寝たまではいいのですが、
夜中に胃の中ものを戻してしまいました。

それを女中さんが洗面器に受けて、便所へこぼして捨てました。

翌朝、その外人は自分の入れ歯がなくなったと大騒ぎ。

さあ、困りました。

昔の汲み取り式の便所ですから、便壷のなかをさがせば入れ歯はあるはずです。
しかし、場所が場所だけに誰もが顔を見合わせました。

と、そのとき、本田は裸になって便壷のなかにドボンと入り、
そうっとなかを手さぐりし、入れ歯を探し出したのです。

しかも本田はその入れ歯をきれいに洗った消毒し、自分の口に当てながら、
「だいじょうぶ。もう臭わないよ」
と言い、再び消毒して外人に渡しました。

外人はもちろんのこと、藤沢など
その場に居合わせたものはみな眼をむいて驚いたそうです。

このように本田宗一郎は、人を引き付ける魅力に富んでいました。

「人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。
 他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。
そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか」

            上之郷利明『本田宗一郎の3分間スピーチ』より

  (https://lucky.t-nakai.work/2018/12/04/story-9/

          <感謝合掌 平成30年12月17日 頓首再拝>

幸福をつくる13の徳(フランクリン) - 伝統

2019/01/29 (Tue) 03:23:56


         *Web:今日も良いことがあるように(作家・中井俊已)より


真の幸福は、徳のある人に存在する

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

ベンジャミン・フランクリン
(1706~90)
実業家・政治家・科学者・哲学者

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

フランクリンは、人間が自分の人格を磨き、
人間として成長し、他人や社会に役立つことで
自分も幸福になれると信じていました。

そのために考えたのが、13の徳を身に付けることでした。
13の徳とは、次のようなものです。

(1)節制

   頭や体が鈍くなるほど食べないこと。
   はめをはずすほどお酒を飲まないこと。

(2)沈黙

   他人あるいは自分に利益にならないことは話さないこと。
   よけいな無駄話はしないこと。

(3)規律

   自分の持ち物はすべて置き場所を決めておくこと。
   仕事は、それぞれ時間を決めて行うこと。

(4)決断

   なすべきことをやろうと決心すること。
   決心したことは、必ずやり遂げること。

(5)節約

   他人や自分の役立つことのみにお金を使うこと。
   すなわち、無駄遣いはしないこと。

(6)勤勉

   時間を無駄にしないこと。
   いつも有益なことに時間を使うこと。

(7)誠実

   だまして人に害を与えないこと。
   清く正しく行動すること。口にする言葉も同じ。

(8)正義

   不正なことを行い、あるいは自分の義務を怠り、
   他人に損害を与えないこと。

(9)中庸

   何事も極端ではないこと。

(10)清潔

   身体、衣服、住居を不潔にしないこと。

(11)冷静

   つまらないこと、ありがちな事故、避けられない事故などに
   心を取り乱さないこと。

(12)純潔

   性におぼれ、なまけものになったり、
   自分や他人の平和な生活を乱したり、
   信用をなくしたりしないこと。

(13)謙譲

   イエスとソクラテスを見習うこと。

           (『若き商人への手紙』より)


これらの徳を自ら身に付けることで、
フランクリンは幸福になり、仕事に成功しました。
そして、若い人にもこれらの徳を身に付けるように薦めたのです。

徳は行いや心の習慣ですから、
繰り返し繰り返し行動することが必要です。

フランクリンは、毎週1つずつ
これらの徳を獲得するように努力したそうです。

私も自分に欠けている徳を獲得するように努力していこうと思っています。


    ★徳を獲得して自分も人も幸福にできるようになろう。

    ( https://lucky.t-nakai.work/2018/12/27/custom-4/ )

          <感謝合掌 平成30年1月29日 頓首再拝>

【挨拶は器の大きな人物(徳の高い人)になるための、とてもいい練習】 - 伝統

2019/03/11 (Mon) 04:29:31


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年02月25日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   『中陰の花』で芥川賞を受賞された玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんは、
   臨済宗のお寺の僧侶でもあります。

   その宗久さんが、天竜寺で修行をしていたときの話です。

   毎朝宗久さんが廊下の拭き掃除をしていると、
   庭先から「おはようございます」と、にこやかな笑顔で挨拶をされる
   作務衣(さむえ)姿の方がおられました。


   宗久さんは、当初はこの方がいったい何者なのかわからず、
   ただ、毎朝爽やかな笑顔で挨拶されるので、
   とても感じのいい人だとは思っていたそうです。

   後でわかったのですが、この方が天竜寺の貫長(かんちょう・最高位の方)でした。


   この貫長さんは、毎朝決まった時間に天竜寺近くを散歩されていたそうです。

   そのときに毎日出会う人がいました。

   その人に対して、貫長さんは毎日同じように
   「おはようございます」と挨拶をして会釈をなさいました。


   しかし、声をかけられた人は、
   無視をして一切返事をすることがなかったといいます。

   しかし貫長さんは、相手の笑顔や挨拶が返って来ようが来るまいが関係なく、
   毎朝笑顔で「おはようございます」と言い続けたのだそうです。

   3年経ったある日のこと。

   いつものように「おはようございます」と笑顔で挨拶した貫長さんに対して、
   その人はついに「おはようございます」と声を発しました。

   そして、言い終わった後に、

   「ごめんなさいっ」と、がばっとひれ伏したというのです。


   この人の心の中に何があったのか推測するすべはありません。

   推測することも無意味なことでしょう。

   何があったのかということは大した問題ではなく、
   大切なのは、かたくなに挨拶を拒み続け、視線を交わすことさえしなかった人に対して、
   1ヵ月や2ヵ月ではなく、3月年もの間、笑顔で「おはようございます」と
   言い続けた人が世の中にいる、という事実です。

   その結果として、そのかたくなに人を拒み続けた人が、
   ついに心を開き、涙ながらに「ごめんなさい」と謝ったというのです。


   貫長さんは、返事をしなかったことを責めていたわけではありません。

   ただ自らの生き方として、相手がどういう態度であろうと関係なく
   「おはようございます」と言い続けた、ということに徹した、
   ということだと思います。

   「これほど自分が挨拶をしているのに、返事をしないとは何事だ」
   と言うのは簡単でしょうし、一般的な反応かもしれません。

   しかし、それは挨拶している意味がありません。

   挨拶をすることで結局ケンカを売っているのでは、何にもならないでしょう。


   その人に「おはようございます」と声をかけることは、
   貫長さんの側からすると「自分の勝手」ということであったのかもしれません。

   自分が行として、ただそのように毎日を送り、そういうことに徹し、
   相手がどのような反応であろうと関係なくそのように生きる、
   という姿であったのでしょう。

   宗久さんが語る貫長さんの姿は、とても爽やかで、清々しいものでした。

         <『すべてを味方すべてが味方』三笠書房>

              ・・・

立花大敬さんの「挨拶行」という話がある。

『「挨拶とは、僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを
認めていますよ、許しているんですよ」という相手に対する合図だというのです。

ということは、もし出会った人に挨拶しないということは、
「僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを認めていませんよ、
許していませんよ」という合図になるのですね。

だから挨拶しないということは相手に対してとても失礼にあたるし、
挨拶されない人もとても腹が立つわけなのです。

AさんがBさんに挨拶しないとします。
BさんはAさんに挨拶しても全然挨拶が返ってこないものですから、
次第にAさんに挨拶しなくなります。


これを先ほどの「認める、認めない」の議論を元に考えますと、
Bさんは次第に「自分の世界(心)にAさんが存在することを認めなくなる、
許さなくなる」ということですね。


挨拶とはギブ・アンド・テイクのものなのでしょうか。

見返りを求めてしているものなのでしょうか。

そうではないのですね。

好きな人も、嫌いな人も、みんな
自分の世界(心)の内側に存在することを許し、認めることができる。

挨拶はそんな器の大きな人物(徳の高い人)になるための、とてもいい練習なのです。

自分がした挨拶に反応があってもなくても、それは問題ではないのです。

すべての人を許し、認めることができる。

私がそんな大きな人物となれますようにと祈りを込めてする「挨拶行」なのです』
(2万人の人生を変えた23通の手紙 夢をかなえる「いちばん簡単な考え方」)より


多くの人は、誰かに何回か挨拶をして、挨拶が返ってこないと、
その人には二度とあいさつをしなくなる。

また、自分より年下や、役職が下だったりする人から、
「相手から先に挨拶がなかった」、と腹を立てる人もいる。

いずれも、高慢の種が芽生え始めたあらわれだ。


相手から挨拶が返って来ようが来るまえが、修業として挨拶をし続けるのが「挨拶行」。

挨拶は器の大きな人物(徳の高い人)になるための、とてもいい練習。

          <感謝合掌 平成31年3月11日 頓首再拝>

女が徳のある顔相になるためには - 伝統

2019/05/25 (Sat) 03:26:27


女が徳のある、いいシワのある顔相になるためには、
本当にとことん自分のエネルギーを使い果たさないと

      *「一切なりゆき」樹木希林・著(P148)より

いい顔をしたおじいさんは多いが、いい顔したおばあさんが少ないですね。

そこが、やっぱり、女の許容量の狭さなんだろうと思うんですね。

女が徳のある、いいシワのある顔相になるためには、
本当にとことん自分のエネルギーを使い果たさないと。

そこまでいかないとアカが取れないという、女の体質なんじゃないかと思うんですよ。

         <感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2019/08/31 (Sat) 02:39:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月31日)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

        <感謝合掌 令和元年8月31日 頓首再拝>

「運と徳」の高め方 - 伝統

2019/09/15 (Sun) 02:41:28


         *メルマガ「人間力」(2019.7.31)より

東洋思想に基づくリーダーシップ論の第一人者として知られる田口佳史さんと、
イメージトレーニング研究・指導のパイオニアである西田文郎さん。

それぞれの道を究めてきたお二人が語り合う、
松下幸之助に学んだ「運と徳」を高めるヒントーー。

           ・・・

(田口)

今回の運と徳というテーマに関して、
私に教えを授けてくれたのが松下幸之助なんです。

ある時、PHP研究所の岩井虔さんから、
「商道コースという研修の講師になりませんか」
と言っていただいたんですね。

ちょうど仕事があまり来ない苦難の最中だったので、すぐに飛びついた。

それで打ち合わせの時に、
「ところで、前の講師はどなたですか」と聞いたら、
「松下幸之助です」と。

それは荷が重いなと思って一瞬怯んだんですけど、
「次は20代か30代の若い人に」という
松下幸之助の強い意向があったらしいんです。


そういうご縁があって、35歳で初めて経営の神様にお目にかかった時に、

「経営者の条件とは何ですか」

って聞いたら、

真っ先に「運が強いことや」と。


矢継ぎ早に、「運を強くするにはどうしたらいいですか」と
聞いたわけです。

そうしたら、「徳を積むことしかない」と。

これが運と徳の関係に触れた最初でした。



(西田) 

松下幸之助の薫陶を受けられたこと自体が、
田口先生の運の強さの表れですよ。


(田口) 

また、徳についてはこうもおっしゃっていましたね。

「徳というのはAさんに掛けて、Aさんから返ってきたことは一回もない。
だからと言って、Aさんに徳を掛けなくていいかというとそうではない。

どこから返ってくるか分からないから、
会う人それぞれに徳を掛けなきゃいけない」。


じゃあ徳って何かということですが、
私なりに東洋思想を学んで規定したのは、
自己の最善を他者に尽くし切ることです。

先ほど述べた道元のように、

丁寧に心を込めて一人ひとりに接していけば、ありがとうと感謝され、
自分が病に臥せたり仕事がうまくいかずに腐っていたりする時に、
見返りなく手を差し伸べてくれる。

そういう感謝の人間関係で結ばれた人が周囲に何人いますかと。


『論語』に「徳は孤ならず、必ず隣有り」とありますけど、
やっぱり人間は一人では生きていけない。
他者の応援が必要です。
それには徳を掛けることが不可欠なんです。


(西田) 

徳を積んでいると、自ずと幸運も舞い込んできますからね。

(本記事は月刊誌『致知』
2019年4月号「運と徳」から一部抜粋・編集したものです。)

        <感謝合掌 令和元年9月15日 頓首再拝>

「徳」は決して「自己犠牲」を必要としない - 伝統

2019/10/31 (Thu) 04:57:44


         *『真理』第9巻生活篇(P320~321)より

「徳」とは自己犠牲を必要とするものだというような考えが、
あなたの潜在意識の何処かにありますと、
個人の潜在意識は宇宙の潜在意識につながっており、

自分の願望するところのものを宇宙意識に伝え、宇宙意識は一切の所に遍満していて、
その願望にふさわしきものを、その人のところへ持って来てくれますから、
自己犠牲を必要とするような事件がその人の身辺に集まって来てその人は不幸になるのです。

「徳」と「福」とは両立しないという潜在意識の観念を打ち破らなければなりません。

そのためには『生命の實相』を繰り返し繰り返し読んで、
「神の国」即ち「実相世界」には犠牲がない、

従って「実相世界の秩序」があらわれたら現象世界にも犠牲がなくなり、
共存共栄の世界があらわれて来るものだということを
潜在意識の底の底までも徹底せしめることが必要なのです。

           <感謝合掌 令和元年10月31日 頓首再拝>

空の徳 - 伝統

2019/11/30 (Sat) 04:54:23


      *「光明道中記」(11月30日《空の徳を生きる日 》)より抜粋

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。
                      (『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。
中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、形のみを集めんとするものは、
飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

           <感謝合掌 令和元年11月30日 頓首再拝>

《「徳」は一切の富の源泉である》 - 伝統

2020/06/20 (Sat) 04:57:33


          *『 生長の家 』(昭和29年5月20日の法語)より

   吾々の「徳」がそこに整うたとき、
   その「徳」に値するものが既にそこに成就せられているのである。

   だから外形の「富」を求めるよりも、
   「富」にふさわしい「徳」を積むことこそ先づ第一である。

   「徳」が整えばその余のものは一切おのずから加えられるのである。

   この事をキリストは、
   「先ず神の国と神の義を求めよ、その余のものは汝らに加えられるべし」
   と教えてのである。

   若し何か高価なものを、それを得るだけの「徳」を備えていないのものが得た
   とするならば、それは「借り越し」になっているのであるから、

   やがて其の得たと思っていた「富」も土崩瓦解して「無」に帰してしまうのである。

   「徳」を積む事を先づ心掛けて、「富」を先に心掛けてはならない。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2313

           <感謝合掌 令和2年6月20日 頓首再拝>

《お蔭のない善行を喜びましょう》 - 伝統

2020/07/11 (Sat) 04:44:00


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P133)より

常に深切であれ。

金光教祖はこれを「実意丁寧」と教えられた。
実相からあらわれる真心を丁寧に実践することである。

深切を親切と書いて親しく狎々(なれなれ)しいことのように解している者があるが、
深切とは、実相の魂の底深くから切(せつ)に催してくるところの真心を言うのである。

何事をするのでも、実相の底から切に深く催して来ることを
実践するようにしなければならない。

深切はまた実相から催うしてくるところの深い愛である。
神は愛である。
愛念の深い者にはまた智慧も催してくるのである。

お蔭があらわれないからとて気短(きみじ)なことを考えてはならない。
若し人に深切を施してお蔭があらわれなかったならば、
それこそ悦(よろこ)べ歓(よろこ)べである。

お蔭がすでに形にあらわれた善行は、も早(は)や天の倉から引き出されたる徳である。
お蔭があらわれていない徳であってこそ、それは天の倉に貯えられたる徳である。

           <感謝合掌 令和2年7月11日 頓首再拝>

Re: 徳② - epdqyeqswMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:30

伝統板・第二
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