伝統板・第二 205239

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神の創造

1:伝統 :

2017/04/01 (Sat) 03:59:12

天地の開くる音を聴く日

           *「光明道中記」(4月1日)より

【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
                           (生命の實相第十一巻)】 
    
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、
何かもう現在には何の関係もない、たとい関係があるにしても、

それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに過ぎないので、
今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。

創造は「今」行なわれているのである。

「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。

一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、
原始(はじめ)であり、終末(おわり)であり、
一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの「一」である。


「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。
何によって。

それは言(ことば)によって、
言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。

「物質」は《無い》 ―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。

併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、而(しか)も
アインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。

          <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2017/04/22 (Sat) 04:26:09


          *『 生長の家 』(昭和40年3月24日の法語)より

   生物学が進歩し、人体の生理活動の機構が分析され、研究され、
   いかに肉体の機構が組み立てられていて、
   それが作動するかが明瞭となり、

   肉体の成分が精密に分析されて、いかなる栄養素が
   如何に組み合わされているかが明らかになったとしても、
   なお 其処(そこ)には 科学ではどうしても説明できない
   或る点に達するのである。


   誰がそのように精巧なる人体機構を案出し、
   どの成分をどのように排列(はいれつ)することによって
   「人間」という驚くべき装置(比喩的に謂う)を発明したのであるか
   ということである。


   その「誰が」を見た人はないのである。
   その発明者を見たことはないのである。

   人体だけではなく、一木(もく)の植物を考えてみても、
   その最初の発生のもとになった「種子(たね)」は
   誰が考案したのであるか。誰が発明したのであるか。

   その発明者が「 神 」 であるのであり、
   「 神 」 が、それを考案したのである。

   「 考案する 」 とは霊の世界に於いて
   「 想念を用いる 」 ということである。

   万物は霊の世界に於いて神の想念によって創造され、
   それが時間空間の「認識の形式」を通して
   現象界に転現して、吾々はそれを見ているのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

          <感謝合掌 平成29年4月22日 頓首再拝>
3:伝統 :

2017/05/06 (Sat) 04:43:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より

眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。

第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。

曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。

第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。

思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。

            <感謝合掌 平成29年5月6日 頓首再拝>
4:伝統 :

2017/05/19 (Fri) 04:52:29


       *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P95~96) より

宇宙大生命は“真空”と見えながらカラッポではなくして虚空を埋め、
それ自身が想念を起こすことによって万象が展開してあらわれて来るのである。

「元始めにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき。
よろずの物これによりて成り、成りたるものこれによりて成らざるもの無し」

とヨハネ伝に録(しる)されているのは、このような意味なのである。


“真空”の中にこのような創造力があるのである。
“真空妙有”(しんくうみょうう)が即ち“創造の霊”であるのである。

既に“真空”の中に伏在せる“妙有”が内部から押し出して来るはたらきが
“創造の衝動”としてあらわれて来るのである。

“宇宙の霊”の中にこの衝動があり、それが“真空”と見える実質を、
みずからの“内部の智慧”によって、形ある相(すがた)に設計し、
その“内部の力”によって、その形を維持しているのである。

その“内部の智慧”を混乱に導かず、その“内部の力”を流動しやすいように
維持するとき、その形は崩れない、即ち、肉体に於いては健康を保ち得る
ということになるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月19日 頓首再拝>
5:伝統 :

2017/06/03 (Sat) 04:54:53


      *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P96~97) より

人間に於ては、“創造の霊”(神)が“真空妙有”の世界から
常に“新しき創造の原型”を形の世界に押し出して来て、
常に吾々は何か新しい設計や計画や創造的仕事をなしつつあり、
人体では、それが新陳代謝としてあらわれて来ているのである。

神はその霊の“創造の新しき拠点”として肉体を作り、
その肉体の中に、自己の“霊”を宿らせて、
其処に自己の欲する事物をつくり出す“中心”を創造したのである。

吾らは神の“新しき創造の拠点”として、
即ち神の常に新しき自己表現の“中心者”たるものである。

人間は常に外界に新しき創造をつくり出しつつあり、人体は新陳代謝で、
陳(ふる)きものを追い出して新しき創造をつづけつつあるのである。

自然界では春夏秋冬の遷(うつ)りかわりに、花咲き実り、葉茂り、落葉し、
更に新たな春の装いをつけつつ、植物は常に新しき形にまで生長をつづけるのである。

即ちこの世界は新創造新生長の実現する世界であり、
それを内部から動かしているのは、神なる“創造の霊”なのである。

従って吾らは常に新しき創造をこの世界に為すべきであり、
それによってのみ、神の創造に協力することができるのである。

もし吾々が“新しき創造”を何もしないならば、
それは神の“創造力”の出口たる使命を果たさないのであるから
生命(せいめい)は内部から引退し死に招くに至るのである。

            <感謝合掌 平成29年6月3日 頓首再拝>
6:伝統 :

2017/06/21 (Wed) 03:58:10


《吾は吾が生活を神の上に築く》

          *『生長の家』(昭和24年11月24日の法語)より

   今日、吾は吾が生活の出発を自分は平和なるものとするのである。

   吾は 吾が生活の出発を喜びの上に置くのである。

   私が 喜べば全世界が喜ぶのである。
   吾 平和となれば全世界が平和となるのである。

   まず何よりも自分が浄(きよ)まることが必要なのである。

   私は宇宙の中心である。
   神がその創造の出口を造り給うた
   その創造の尖端(せんたん)である。

   私は今より後(のち)如何(いか)なるものをも恐れないのである。

   神の無限の力と、無限の智慧と、無限の健康とが
   今 私に集中しているのである。

   自分の判断は 常に正しくして
   過(あやま)つということは決してないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年6月21日 頓首再拝>
7:伝統 :

2017/07/07 (Fri) 04:57:26


     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P171~172) より

《想念は万物の創造者》

原子は無論肉眼には見えないし、
顕微鏡下にも殆ど見えないほどの微小なるものである。

この極小の中に驚くべきエネルギーが詰め込まれていて、
そのエネルギーの扉を開くとき巨大な動力又は爆発力を得ることができる事は
既に何人もよく知る通りである。

単に物質の微小体だと思われていたところのものが、
実は“原子の扉”を開いてみるとき、原子全体が驚くべきエネルギーの宝庫であり、
物質とは実はエネルギーの圧縮された塊であったことが判るのである。

宇宙は実にエネルギーが法則によって、無相より無限の相(すがた)に
色々と姿を変えてあらわれているものであることが判明したのである。

 
神はどんな微小体にも秘められている此の無限に巨大なるエネルギーをば、
如何なる手段によって変形して、この宇宙を、天体を、万物を造ったのであろうか。

宇宙の最始元には如何なる物資的道具も機械も無いのである。

神はただ“心”によって創造するほかに方法をもたなかった。
即ち神の“心”は唯“想念”することによって万物を創造したのである。

・・・

《全ては想念の具象化》

人間は神の生命(せいめい)を宿し生まれた。
(実は神のほかに生命の根源は無いのだが)そして神の生命(せいめい)は
心に想念を思い浮かべることによって万物を創造したのである。

そうすれば神の生命(せいめい)を宿し生まれた人間もまた
想念によって万物を創造することが出来る筈である。

実際一切の発明も、設計も、機械も、建築も、文学も、美術も、彫刻も、政治も、
戦争も、平和も、悉く、もとは想念として心に浮かべられたものが具体化したのである。

では、あなたの想念に暗黒なことを描くな。
あなたの”想念”に唯光明のみを描けよ。
あなたは神の如く、“想念”によって万物を造る。

殊更(ことさら)に“想念”に暗黒を描いて
暗黒なるものを造る必要はないではないか。

あなたは“想う”という過程を通して、
常に間断なく“何ものか”(あなたの想うもの)を形の世界に
あらわすべくその要素を引き寄せつつあるのである。

あなたの“心”はラジオ波のように宇宙に広がる。
そして肉眼に見えない処のものを動かして引き寄せつつあるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2017/07/28 (Fri) 03:16:24


          *「光明法語」(7月28日)より

観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。

「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。

宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。

されば一切のものは観念の創造であると云える。

            <感謝合掌 平成29年7月28日 頓首再拝>
9:伝統 :

2017/08/13 (Sun) 04:51:25


        *「光明法語」(8月12日~13日)より

八月十二日の法語  創造は分化と綜合

神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。

陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。

画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして何もそれ妨げるものがなければ、
「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あってはじめて絵をかき得るのである。

摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。

しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する。

・・・

八月十三日の法語 霊と物質との関係

物質は、霊が自己表現の道具として、自己を制約する「自己限定」のものとして
創造したところのものである。

物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。

併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。

人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。

            <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>
10:伝統 :

2017/08/27 (Sun) 04:37:46


         *『白鳩』(昭和49年1月8日の箴言)より

   神は万物及び一切の生きとし生けるものを
   〃唯一の神の生命〃を素材として造られたのである。

   その素材を如何に配置し排列し構造するかは、
   〃神の唯一の智慧〃によって設計せられたのである。

    それゆえに『信仰の科学』には次のように書かれているのである。

   『全宇宙はちょうど人間がそうであるように、
   一つの智慧によって統率せられ、そして宇宙の各構成要素は、
   あたかも人体の左右の両脚がたがいに衝突せぬように、
   また両腕がたがいに喧嘩せぬように、

   全て大調和のうちに動いているということを認めるならば、
   宇宙の全機構は全体として大調和のうちに活動出来るものである
   ことがきわめて自然に推論できるのである。

   宇宙が全体として外見上いかに互に衝突する矛盾を孕んでいる
   ように見えようとも、〃調和〃という言葉のもつ真の意味に於て、
   そこには完全なる調和が存在するにちがいないのである』

   そのような、一切の万物、生物が〃完全なる調和〃にあるのが、
   神の創造せる世界の〃実の相(すがた)〃なのである。

   これを「実相」とわれわれは呼んでいるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

            <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>
11:伝統 :

2017/09/10 (Sun) 04:29:18


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月10日)より

無限の生長と前進

かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。

それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。

大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。

           <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>
12:伝統 :

2017/09/12 (Tue) 04:30:36


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月12日)より

沈滞と頽廃との原因

大生命の援護(バック)を受けられないものは、新しい生命の補給を大生命(神)から
受ける事ができない。かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、
事業に挫折したりして自己の運命の進展をみずから停止する事になる。

自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。

若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に大生命が吾々を助けるであろう。

           <感謝合掌 平成29年9月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2017/09/17 (Sun) 04:38:52


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月17日)より

生命の純粋律動

生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。

しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。

それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。

創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。

           <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>
14:伝統 :

2017/09/19 (Tue) 04:38:15


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月19日)より

歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。

喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。

イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と
歓喜して世界を創造したのである。

イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と
歓喜して世界を創造したのである。

喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。

           <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>
15:伝統 :

2017/09/20 (Wed) 04:48:11


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月20日)より

最初に感情が動いて、軈(やが)てハッキリした行動又は構図の
設計的なものが心に浮ぶ、それが想念である。

たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。

即ちハッキリした形に思い浮び、それが行動を指導することになるのである。

腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。

           <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

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