伝統板・第二

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神の創造 - 伝統

2017/04/01 (Sat) 03:59:12

天地の開くる音を聴く日

           *「光明道中記」(4月1日)より

【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
                           (生命の實相第十一巻)】 
    
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、
何かもう現在には何の関係もない、たとい関係があるにしても、

それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに過ぎないので、
今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。

創造は「今」行なわれているのである。

「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。

一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、
原始(はじめ)であり、終末(おわり)であり、
一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの「一」である。


「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。
何によって。

それは言(ことば)によって、
言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。

「物質」は《無い》 ―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。

併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、而(しか)も
アインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。

          <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>

《神が唯一の創造者である》 - 伝統

2017/04/22 (Sat) 04:26:09


          *『 生長の家 』(昭和40年3月24日の法語)より

   生物学が進歩し、人体の生理活動の機構が分析され、研究され、
   いかに肉体の機構が組み立てられていて、
   それが作動するかが明瞭となり、

   肉体の成分が精密に分析されて、いかなる栄養素が
   如何に組み合わされているかが明らかになったとしても、
   なお 其処(そこ)には 科学ではどうしても説明できない
   或る点に達するのである。


   誰がそのように精巧なる人体機構を案出し、
   どの成分をどのように排列(はいれつ)することによって
   「人間」という驚くべき装置(比喩的に謂う)を発明したのであるか
   ということである。


   その「誰が」を見た人はないのである。
   その発明者を見たことはないのである。

   人体だけではなく、一木(もく)の植物を考えてみても、
   その最初の発生のもとになった「種子(たね)」は
   誰が考案したのであるか。誰が発明したのであるか。

   その発明者が「 神 」 であるのであり、
   「 神 」 が、それを考案したのである。

   「 考案する 」 とは霊の世界に於いて
   「 想念を用いる 」 ということである。

   万物は霊の世界に於いて神の想念によって創造され、
   それが時間空間の「認識の形式」を通して
   現象界に転現して、吾々はそれを見ているのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

          <感謝合掌 平成29年4月22日 頓首再拝>

「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統

2017/05/06 (Sat) 04:43:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より

眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。

第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。

曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。

第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。

思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。

            <感謝合掌 平成29年5月6日 頓首再拝>

《創造は衝動》 - 伝統

2017/05/19 (Fri) 04:52:29


       *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P95~96) より

宇宙大生命は“真空”と見えながらカラッポではなくして虚空を埋め、
それ自身が想念を起こすことによって万象が展開してあらわれて来るのである。

「元始めにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき。
よろずの物これによりて成り、成りたるものこれによりて成らざるもの無し」

とヨハネ伝に録(しる)されているのは、このような意味なのである。


“真空”の中にこのような創造力があるのである。
“真空妙有”(しんくうみょうう)が即ち“創造の霊”であるのである。

既に“真空”の中に伏在せる“妙有”が内部から押し出して来るはたらきが
“創造の衝動”としてあらわれて来るのである。

“宇宙の霊”の中にこの衝動があり、それが“真空”と見える実質を、
みずからの“内部の智慧”によって、形ある相(すがた)に設計し、
その“内部の力”によって、その形を維持しているのである。

その“内部の智慧”を混乱に導かず、その“内部の力”を流動しやすいように
維持するとき、その形は崩れない、即ち、肉体に於いては健康を保ち得る
ということになるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月19日 頓首再拝>

《神の創造に協力しよう》 - 伝統

2017/06/03 (Sat) 04:54:53


      *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P96~97) より

人間に於ては、“創造の霊”(神)が“真空妙有”の世界から
常に“新しき創造の原型”を形の世界に押し出して来て、
常に吾々は何か新しい設計や計画や創造的仕事をなしつつあり、
人体では、それが新陳代謝としてあらわれて来ているのである。

神はその霊の“創造の新しき拠点”として肉体を作り、
その肉体の中に、自己の“霊”を宿らせて、
其処に自己の欲する事物をつくり出す“中心”を創造したのである。

吾らは神の“新しき創造の拠点”として、
即ち神の常に新しき自己表現の“中心者”たるものである。

人間は常に外界に新しき創造をつくり出しつつあり、人体は新陳代謝で、
陳(ふる)きものを追い出して新しき創造をつづけつつあるのである。

自然界では春夏秋冬の遷(うつ)りかわりに、花咲き実り、葉茂り、落葉し、
更に新たな春の装いをつけつつ、植物は常に新しき形にまで生長をつづけるのである。

即ちこの世界は新創造新生長の実現する世界であり、
それを内部から動かしているのは、神なる“創造の霊”なのである。

従って吾らは常に新しき創造をこの世界に為すべきであり、
それによってのみ、神の創造に協力することができるのである。

もし吾々が“新しき創造”を何もしないならば、
それは神の“創造力”の出口たる使命を果たさないのであるから
生命(せいめい)は内部から引退し死に招くに至るのである。

            <感謝合掌 平成29年6月3日 頓首再拝>

私は、神の創造の尖端である - 伝統

2017/06/21 (Wed) 03:58:10


《吾は吾が生活を神の上に築く》

          *『生長の家』(昭和24年11月24日の法語)より

   今日、吾は吾が生活の出発を自分は平和なるものとするのである。

   吾は 吾が生活の出発を喜びの上に置くのである。

   私が 喜べば全世界が喜ぶのである。
   吾 平和となれば全世界が平和となるのである。

   まず何よりも自分が浄(きよ)まることが必要なのである。

   私は宇宙の中心である。
   神がその創造の出口を造り給うた
   その創造の尖端(せんたん)である。

   私は今より後(のち)如何(いか)なるものをも恐れないのである。

   神の無限の力と、無限の智慧と、無限の健康とが
   今 私に集中しているのである。

   自分の判断は 常に正しくして
   過(あやま)つということは決してないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年6月21日 頓首再拝>

神は万物を創造し、神の子・人間も創造の力を有する - 伝統

2017/07/07 (Fri) 04:57:26


     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P171~172) より

《想念は万物の創造者》

原子は無論肉眼には見えないし、
顕微鏡下にも殆ど見えないほどの微小なるものである。

この極小の中に驚くべきエネルギーが詰め込まれていて、
そのエネルギーの扉を開くとき巨大な動力又は爆発力を得ることができる事は
既に何人もよく知る通りである。

単に物質の微小体だと思われていたところのものが、
実は“原子の扉”を開いてみるとき、原子全体が驚くべきエネルギーの宝庫であり、
物質とは実はエネルギーの圧縮された塊であったことが判るのである。

宇宙は実にエネルギーが法則によって、無相より無限の相(すがた)に
色々と姿を変えてあらわれているものであることが判明したのである。

 
神はどんな微小体にも秘められている此の無限に巨大なるエネルギーをば、
如何なる手段によって変形して、この宇宙を、天体を、万物を造ったのであろうか。

宇宙の最始元には如何なる物資的道具も機械も無いのである。

神はただ“心”によって創造するほかに方法をもたなかった。
即ち神の“心”は唯“想念”することによって万物を創造したのである。

・・・

《全ては想念の具象化》

人間は神の生命(せいめい)を宿し生まれた。
(実は神のほかに生命の根源は無いのだが)そして神の生命(せいめい)は
心に想念を思い浮かべることによって万物を創造したのである。

そうすれば神の生命(せいめい)を宿し生まれた人間もまた
想念によって万物を創造することが出来る筈である。

実際一切の発明も、設計も、機械も、建築も、文学も、美術も、彫刻も、政治も、
戦争も、平和も、悉く、もとは想念として心に浮かべられたものが具体化したのである。

では、あなたの想念に暗黒なことを描くな。
あなたの”想念”に唯光明のみを描けよ。
あなたは神の如く、“想念”によって万物を造る。

殊更(ことさら)に“想念”に暗黒を描いて
暗黒なるものを造る必要はないではないか。

あなたは“想う”という過程を通して、
常に間断なく“何ものか”(あなたの想うもの)を形の世界に
あらわすべくその要素を引き寄せつつあるのである。

あなたの“心”はラジオ波のように宇宙に広がる。
そして肉眼に見えない処のものを動かして引き寄せつつあるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月7日 頓首再拝>

観念と創造 - 伝統

2017/07/28 (Fri) 03:16:24


          *「光明法語」(7月28日)より

観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。

「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。

宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。

されば一切のものは観念の創造であると云える。

            <感謝合掌 平成29年7月28日 頓首再拝>

物質は、霊が自己表現の道具として創造したもの - 伝統

2017/08/13 (Sun) 04:51:25


        *「光明法語」(8月12日~13日)より

八月十二日の法語  創造は分化と綜合

神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。

陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。

画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして何もそれ妨げるものがなければ、
「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あってはじめて絵をかき得るのである。

摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。

しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する。

・・・

八月十三日の法語 霊と物質との関係

物質は、霊が自己表現の道具として、自己を制約する「自己限定」のものとして
創造したところのものである。

物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。

併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。

人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。

            <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>

《神の智慧によって創造せられたる世界の予定調和》 - 伝統

2017/08/27 (Sun) 04:37:46


         *『白鳩』(昭和49年1月8日の箴言)より

   神は万物及び一切の生きとし生けるものを
   〃唯一の神の生命〃を素材として造られたのである。

   その素材を如何に配置し排列し構造するかは、
   〃神の唯一の智慧〃によって設計せられたのである。

    それゆえに『信仰の科学』には次のように書かれているのである。

   『全宇宙はちょうど人間がそうであるように、
   一つの智慧によって統率せられ、そして宇宙の各構成要素は、
   あたかも人体の左右の両脚がたがいに衝突せぬように、
   また両腕がたがいに喧嘩せぬように、

   全て大調和のうちに動いているということを認めるならば、
   宇宙の全機構は全体として大調和のうちに活動出来るものである
   ことがきわめて自然に推論できるのである。

   宇宙が全体として外見上いかに互に衝突する矛盾を孕んでいる
   ように見えようとも、〃調和〃という言葉のもつ真の意味に於て、
   そこには完全なる調和が存在するにちがいないのである』

   そのような、一切の万物、生物が〃完全なる調和〃にあるのが、
   神の創造せる世界の〃実の相(すがた)〃なのである。

   これを「実相」とわれわれは呼んでいるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

            <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>

大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発である - 伝統

2017/09/10 (Sun) 04:29:18


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月10日)より

無限の生長と前進

かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。

それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。

大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。

           <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

新しきものを創造すべく努力しなければならない - 伝統

2017/09/12 (Tue) 04:30:36


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月12日)より

沈滞と頽廃との原因

大生命の援護(バック)を受けられないものは、新しい生命の補給を大生命(神)から
受ける事ができない。かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、
事業に挫折したりして自己の運命の進展をみずから停止する事になる。

自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。

若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に大生命が吾々を助けるであろう。

           <感謝合掌 平成29年9月12日 頓首再拝>

創造は生命の純粋律動で行われる - 伝統

2017/09/17 (Sun) 04:38:52


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月17日)より

生命の純粋律動

生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。

しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。

それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。

創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。

           <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

歓喜の創造 - 伝統

2017/09/19 (Tue) 04:38:15


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月19日)より

歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。

喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。

イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と
歓喜して世界を創造したのである。

イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と
歓喜して世界を創造したのである。

喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。

           <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

創造の最初に感情あり - 伝統

2017/09/20 (Wed) 04:48:11


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月20日)より

最初に感情が動いて、軈(やが)てハッキリした行動又は構図の
設計的なものが心に浮ぶ、それが想念である。

たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。

即ちハッキリした形に思い浮び、それが行動を指導することになるのである。

腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。

           <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる - 伝統

2017/09/21 (Thu) 03:48:31


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月21日)より

良き芸術、良き科学

愛は生命の純粋感情であるから、真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。
愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。

真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、如何なる知的な作業も可能ならしめる。

想念も実は愛の産物であり、愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。

愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。

           <感謝合掌 平成29年9月21日 頓首再拝>

自己創造原理 - 伝統

2017/10/04 (Wed) 04:56:52


       *『 生長の家 』(昭和24年2月1日の法語)より

《霊とは自覚原理である》


   神は霊である。
   そして神の子なる人間も霊である。

   霊とは意識すなわち心のはたらきがあるところの
   眼に見えざる霊妙なる存在を呼んで云うのである。

   これを称して 「 自覚原理 」 と呼ぶことも出来る。

   原理と云うものは一定の根本原則として、
   一切のもののあり方を定めているところのものであるが、
   それだけでは唯 機械的な法則のような感じがする。

   ところが霊はそれに自覚を伴っている。
   みずから“ある”ことを自覚している原理であり、
   みずから計画し設計するところの原理である。

   だからそれを 「 自己創造原理 」 とも呼ぶことが出来る。

   https://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12879012.html

           <感謝合掌 平成29年10月4日 頓首再拝>

《絶対者としての霊》 - 伝統

2017/10/20 (Fri) 03:36:08


       *『 生長の家 』(昭和24年2月2日の法語)より

   自己創造原理であるところの霊は、
   みずから形をもたず、形がないから、
   互いに分離分割するところの仕切りがない。

   従って 全体が一つである。

   全体が一つであるから対立がない。
   みんな一つであり、
   一つで全体であるからそのほかのものはない。

   これを称して「絶対」と云うのである。
   また唯一神とも云うのである。

   形なきものが形あるものに顕れる唯一の方法は、
   みずからの 振動 又は 波動によってである。

   例えば 形なきエーテルが
   形ある 光 又は 電磁波に顕れるためには
   波動となるが如くにである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12882363.html

           <感謝合掌 平成29年10月20日 頓首再拝>

《自覚原理なる神は》 - 伝統

2017/11/04 (Sat) 03:42:34


       *『 生長の家 』(昭和24年2月3日の法語)より

   霊の振動又は波動をコトバと云う。

   霊は 振動又は波動によって
   自己を表現するのである。

   人間が 動作又はコトバによって
   自己を表現するが如くにである。

   自己表現は 自覚原理の表現意志によって行われる。
   意思がなければ動くと云うことはあり得ないのである。

   自覚原理なるところの霊は、
   一個の 「 自由意志 」 であると云うことも出来る。

   「 自由 」 が 「 自覚原理 」 の本質である。

   それは 絶対者であり、
   他より何等(なんら)の束縛も制約も受けないのであるから
   「 自由 」 であるほかはないと云うことが出来る。



    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12887805.html

           <感謝合掌 平成29年11月4日 頓首再拝>

《此処(ここ)に生きているのは神が生きている事である》 - 伝統

2017/11/19 (Sun) 04:58:30


        *『 生長の家 』(昭和24年2月6日の法語)より

   「 我れあり 」 の絶対者 ( 神 ) の自覚が一切の創造の本源である。

   その 「 我れあり 」 の自覚が、人間に宿って人間自身の存在自覚となる。

   だから 「 我れあり 」 と我らが自覚するのは
   畢竟(ひっきょう)我れの内に神が宿っていることを自覚することである。

   「 ここに生きている自分は神である 」 と云うことである。

   我れあるがゆえに、
   我れは 「 我を表現する 」 のである。

   表現することは
   創造することである。

   創造は徹頭徹尾、自己を表現するのであって、
   創造とは 或る材料に働きかけて
   何物かを製造又は制作するのではない。

   自己が 「 自己 」 より創造するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12900742.html

           <感謝合掌 平成29年11月19日 頓首再拝>

《自己限定による自己創造》 - 伝統

2017/12/08 (Fri) 04:06:24


         *『 生長の家 』(昭和24年2月7日の法語)より

   神なる霊が 「 自己 」 より一切を創造するとき、
   画筆と画布とに於けるが如く、
   抵抗によって自己を表現しなければならない。

   抵抗のない空中には
   絵をかくことが出来ないのと同様である。

   しかし絶対者なる神には
   何等の抵抗をもあり得ない。

   そこで自己を表現するために必要なる抵抗は、
   自己みずから創造しなければならない。

   自己表現は
   必然的に自己限定を行わしめる。

   「唯一」なるものを、
   能動者と受動者にわけなければならない。

   能動者を陽と云い、
   受動者を陰と云う。

   唯一者なる霊は、自己を限定して、陰陽に分って
   それを結び合わすことによって事物を創造すること
   恰も画筆と画布とが結び合うことによって
   表現が完成するが如くである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12906340.html

           <感謝合掌 平成29年12月8日 頓首再拝>

《自己秩序が生命の特徴である》 - 伝統

2017/12/25 (Mon) 04:46:40


        *『 生長の家 』(昭和24年2月8日の法語)より

   自己創造は 自己限定によって行われるが、
   その限定は 他から限定されるのではなく
   自分で自分を限定するのである。

   だから自己限定は 自己統制だと言い得る。

   霊の一つの特徴は自己統制力をもっていると云うことである。

   自己統制は 自己秩序だとも云い得る。

   自己秩序によって
   生物は生まれるのである。

   自己秩序が崩れたとき
   生物は崩壊して、
   一段低い秩序の 「 無機物 」 に転落する。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12909834.html

           <感謝合掌 平成29年12月25日 頓首再拝>

神の「世界および人間創造」 - 伝統

2018/03/01 (Thu) 04:44:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より

啓示 ――

人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。

神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。

神が万物を言葉によって創造したように、
人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。

第一の創造は神の「世界および人間創造」である。

神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。

「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。

しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」
「創世記」第一章の神の宣言にあらわれている。

神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。

人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。

人間に病気はない。

            <感謝合掌 平成30年3月1日 頓首再拝>

第二の創造 - 伝統

2018/03/02 (Fri) 04:41:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より

啓示の第二 ――

人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。

人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ―― 
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。

エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。

かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。

しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。

神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」
とある以上は、すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。

エデンの楽園のほかに国土はない。

このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。

実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。

そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。

もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。

では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
 ―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。

そしたら「誰が?」エデンの楽園から
エデンの楽園以外の「どこへ?」逐い出されたのであるか。

誰が? どこへ? 

答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。

            <感謝合掌 平成30年3月2日 頓首再拝>

創造は「今」行なわれている - 伝統

2018/04/01 (Sun) 03:34:14


         *「光明道中記」(4月1日 天地の開くる音を聴く日)より

【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
                      (生命の實相第十一巻)】 
    
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、

何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、
何かもう現在には何の関係もない、たとい関係があるにしても、
それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに
過ぎないので、今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。

創造は「今」行なわれているのである。

「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。

一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、
原始(はじめ)であり、終末(おわり)であり、
一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの「一」である。


「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。

何によって。それは言(ことば)によって、
言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。

「物質」は《無い》 ―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。

併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり
、而(しか)もアインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。

          <感謝合掌 平成30年4月1日 頓首再拝>

神が宇宙を造る方法 - 伝統

2018/04/26 (Thu) 04:41:28


      *「真理」第9巻生活編(35~36)より

「心」が宇宙を造ったとか、天地を創造したとか云う場合の「心」とは
脳髄の作用として出て来る「第二次的心」のことではありません。

「天地創造の心は脳髄の産物だから、物質が先で心が後(あと)だ」
などと言えば笑われます。

天地を創造した「心」と云うのは脳髄の生ずる以前の「心」であって、
普遍的宇宙霊の意識波動のことである。

その波動が、波動自身で或る条件(素粒子を始め、それを複合した諸状態)
をつくり出し、恰もテレビ放送の波がテレビ・セットの条件によって
形ある姿をあらわすように、天地をつくり出したのであります。

宇宙霊は時空を超越して時間空間をあらわし、
其処に万象をあらわすところの普遍の智慧を内在せしめているのであります。

その宇宙霊が物をあらわすために、「想念」と云う道具を使うのであります。
想念こそ万物を造るものでありまして、心に想った通りのものが表れます。

だから吾々は常に善いことのみを思うようにしなければなりません。

          <感謝合掌 平成30年4月26日 頓首再拝>

「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統

2018/05/06 (Sun) 03:49:45

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より

眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。

第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。

曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。

第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。

思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。

            <感謝合掌 平成30年5月6日 頓首再拝>

ただあるもの(実在)は第一創造の完全世界ばかり - 伝統

2018/05/14 (Mon) 03:37:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。

したがって「因縁の法則」とは
すでに与えられたるものからマイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。

もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

            <感謝合掌 平成30年5月14日 頓首再拝>

《神ははじめに想念にて創造し給えり》 - 伝統

2018/06/07 (Thu) 04:10:30


         *『人生の秘訣365章』第5篇(P117~118) より

人間は何よりも先ず「心的存在」であるということである。

自分の「心」によって行動し、他の人々に影響を興え、環境を改造し、
その結果、自己の運命をも、全面的に自分の「想念」を
支配することによって、改造することができるのである。


自己の運命を改造するには自分の「想念」を改造しなければならない。
「想念」を聖書の中では「コトバ」と云う語(ご)であらわしているのである。

「太初に言あり、・・・・・・言(ことば)は神なりき。
・・・萬づのものこれに由りて成り」
と聖書の「ヨハネ伝」には示されているのであるが、

宇宙創造の最始原には咽喉(のど)も声帯もある訳はないのであるから、
その「言(ことば)」と云うのは発生音ではないのであって、
「想念」のことである。

神が宇宙創造につかわれたところの“言(ことば)”とは「想念」である。

神は「想う」こと及び、「念ずる」ことによって
一切をお創造(つく)りになったのである。

だから、神の生命(せいめい)を宿し生れた人間も、
常に「想う」こと「念ずる」ことによって、
自己の運命を変化するのである。

            <感謝合掌 平成30年6月7日 頓首再拝>

《すべての創造は神より発する》 - 伝統

2018/06/28 (Thu) 03:57:11


          *「神真理を告げ給う」(P158)
            ~「“神”と“人間・神の子”の意義について」より

神は最高の力であり、最大の力であり、神の力よりも優れたる力は存在しない
のであると、普通考えられているけれども、神はそれ以上のものである。

あらゆる力より優れているどころか、神のみが唯一の真実の力であって、
あらゆる力は神より出でたるものである。

それ故に、すべての真実の力は、神より発した神の一部分である。
すべての創造は神より発したのである。

            <感謝合掌 平成30年6月28日 頓首再拝>

一切のものは観念の創造である - 伝統

2018/07/28 (Sat) 03:33:49


         *「光明法語」(7月28日 観念と創造)より

観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。

「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。

宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。

されば一切のものは観念の創造であると云える。

            <感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>

創造は分化と綜合によって行われる - 伝統

2018/08/12 (Sun) 03:20:33


       *「光明法語」(8月12日)より

神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。

陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。

画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして何もそれ妨げるものがなければ、
「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あって
はじめて絵をかき得るのである。

摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。

しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する。

            <感謝合掌 平成30年8月12日 頓首再拝>

神は「一」より、無数の配合(コンビネーション)を作った - 伝統

2018/08/18 (Sat) 03:24:45


       *「光明法語」(8月18日 人間性の無限の味)より

神は「一」より凡ゆる変化差別を生ぜんが為に「一」より陽陰、愛と智慧を分化し、
それを結び合わせて無数の配合(コンビネーション)を作ったのである。

「一」より二生じ、二より四生じ、四より八生じ、八より十六生じ、
十六より三十二を生じ、三十二より六十四生ず・・・・・・・・・・

かくの如くして無限に一切のものは発展するが故に、
全ての人間も単に「愛に強き人」とか「義に強き人」とか概括して言うことは出来ない。

愛の強き人のうちにも、不思議に「義に強き人」もあり、
その人間味はまことに掬(きく)すべき哉(かな)。

            <感謝合掌 平成30年8月18日 頓首再拝>

創造は、大生命の歓喜の爆発である - 伝統

2018/09/10 (Mon) 04:38:24


    *「光明法語」(9月10日の法語 無限の生長と前進)より

かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。

それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。

大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。

           <感謝合掌 平成30年9月10日 頓首再拝>

新しきものの創造 - 伝統

2018/09/11 (Tue) 04:49:21


           *「光明法語」(9月11日)より

汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。
それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。

大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。

吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。

新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、
大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。

           <感謝合掌 平成30年9月11日 頓首再拝>

新しき創造を行なう者は、大生命の援護(バック)を受ける - 伝統

2018/09/12 (Wed) 03:12:46


    *「光明法語」(9月12日の法語 沈滞と頽廃との原因)より

大生命の援護(バック)を受けられないものは、
新しい生命の補給を大生命(神)から受ける事ができない。

かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、事業に挫折したりして
自己の運命の進展をみずから停止する事になる。

自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。

若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に大生命が吾々を助けるであろう。

           <感謝合掌 平成30年9月12日 頓首再拝>

創造は感情によって行なわれる - 伝統

2018/09/17 (Mon) 03:43:16


    *「光明法語」(9月17日の法語 生命の純粋律動)より

生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。

しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。

それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。

創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。

           <感謝合掌 平成30年9月17日 頓首再拝>

歓喜の創造 - 伝統

2018/09/19 (Wed) 04:13:22


        *「光明法語」(9月19日)より

歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。

喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。

イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と
歓喜して世界を創造したのである。

イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と
歓喜して世界を創造したのである。

喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。

           <感謝合掌 平成30年9月19日 頓首再拝>

創造の最初に感情あり - 伝統

2018/09/20 (Thu) 02:39:23


       *「光明法語」(9月20日の法語)より

最初に感情が動いて、
軈(やが)てハッキリした行動又は構図の設計的なものが心に浮ぶ、
それが想念である。

たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。

即ちハッキリした形に思い浮び、
それが行動を指導することになるのである。

腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。

           <感謝合掌 平成30年9月20日 頓首再拝>

《神は歓喜をもって天地万物を創造せられた》 - 伝統

2018/10/09 (Tue) 04:26:58


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P210~211) より

神は常に厳かな鹿爪らしい顔をしているのだなどと考えてはならないのである。
神は検事でもなければ、裁判官でもないのである。

私たちは、神想観のときに神のつくり給える實相世界を心に描いて念ずる。
その時に、私たちは、

神の無限の智慧の海
神の無限 の 愛の海
神の無限の生命の海
神の無限の供給の海
神の無限の歓びの海
神の無限の調和の海

という風に念ずるのである。

特に注目しなければならないのは、
神は“歓喜”であって、神は實相世界(エデンの楽園)を
歓喜に満ちた楽園としてお造りになったのであるということである。

人間が楽し過ぎたら神は人間に怒り給うなどということはないのである。

「法華経」にも、實相世界の光景を、
「諸天天鼓を撃ち、諸々の伎楽をなす」という風に書かれているのである。

如何にも神は實相の世界を歓喜をもって創造せられたのであるということが、
「創世記」と「法華経」の一致によっても理解できるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

神の創造 - 伝統

2018/11/01 (Thu) 04:46:18


          *「神真理を告げ給う」(P158~163)
            ~「“神”と“人間・神の子”の意義について」より

《すべての創造は神より発する》

神は最高の力であり、最大の力であり、神の力よりも優れたる力は存在しない
のであると、普通考えられているけれども、神はそれ以上のものである。

あらゆる力より優れているどころか、神のみが唯一の真実の力であって、
あらゆる力は神より出でたるものである。

それ故に、すべての真実の力は、神より発した神の一部分である。
すべての創造は神より発したのである。


《創造の本源についての2つの説》

神が宇宙を創造したという場合、神がその創造されたる”形あるもの”の
材料又は材質は何処(どこ)から得て来たものであろうか。


神は宇宙の一切のものを“無”から創造したという説もあるし、
神は宇宙の一切のものを、自分自身のアイディアをその材料または
材質として創造したという説もある。


《あなたが信ずる神は”絶対者”でなければならぬ》

神が宇宙を創造するのに、何かの材料をもって、例えば素粒子とか、
水素原子とか、中性子とかというものを材料としてそれを組み立てて
宇宙を創造したというのであれば、宇宙の最初に、神が創造しないところの、
神以外の材料又は材質が存在したということになるのである。

そして、それは神なる絶対者以外に、何ものか”材料”となるべきものが
存在したということになるのであるから、そんな”神”は既に”絶対者”という
資格がない ―― 即ち、“創造する者”とその“素材となる物”とが
相対(あいたい)する別個のものとなるから、

そんな”神”は絶対者ではなくて、”相対者”だということになるのである。
相対者は“相対するもの”との関係に於いて、それ自身の働きが制約される
ことになるので、全能者ということは出来なくなるのである。

もし吾々が全能者でないところの神を信ずるならば、そんな神がわれわれ人間と
根本的に救済する力があり給うか疑問になる訳であって、
そんな神を信ずる限り、不動の堅信も、揺るがない安心も得ることは
不可能である。

それゆえに、われわれは、何かの材料をつかって宇宙をつくり給うたという
ような神に絶対の信頼をもって全托することは、できなくなるのである。


《『心』は宇宙に満つる実質》

われわれの信ずる神は次のような神であるとということを生長の家の聖経
『甘露の法雨』は次の如く説いているのである。 ―― 


   神こそ渾(すべ)ての渾(すべ)て、
   神は渾(すべ)てにましまして絶対なるが故に、
   神の外(そと)にあるものなし。

   神は実在のすべてを蔽う。
   存在するものにして
   神によって造られざるものなし。

   神が一切のものを造りたまうや

   (中略~粘土を用い給わず木材を用い給わず、槌を用いたまわず、
       鑿(のみ)を用いたまわず)

   如何なる道具も材料も用い給わず、
   ただ『心』をもって造りたまう。

   『心』はすべての造り主、
   『心』は宇宙に満つる実質、
   『心』こそ「全能」の神にして遍在したまう。



《絶対者の実現としての人間》

「無」よりして一切を生ず」とか「無一物無尽蔵」とかいう語(ことば)がある。
この場合の”無”とか”無一物”とかいうのは、”有無相対の無”ではないのである。
それは”絶対無”とでも言うべき”無”なのである。

その中に一切が含まれている”無”である。
その中に一切が含まれている”無”とは、現象の有無相対を超えた
”絶対者”そのものである。

絶対者は”空間”に規制せられないから絶対者は偏在である。
絶対者なる神は遍在であるから、どこにも在(まし)ましてすべての人間の内(うち)
に”仏性”として、また”内在のキリスト”として宿ってい給うのである。

宿っているよりも、その“仏性”又は“内在のキリスト”こそ本当の自分なのである。
人間は絶対者の”個性的顕現”である、“絶対即個”の実現である。


《万物は神の想念を原型として生ずる》

神が天地一切のものを創造せられたのは、
”有無相対”の”無”を材料として創造せられたのではない。

人間に宿る論理は「”本当に何もない”ところの無よりして何かが生ずる」
ということを拒絶するのである。

何かがそこから生じた”源(みなもと)”となった”無”は、
人間の五官認識の目から見た場合にその存在を見ることが出来なかった
というに過ぎない。

それは種子の中に既にある”花の形”みたいなものである。
朝顔の種の中には、既に朝顔の“花の原型”がある。

成長の途中で肥料等の成分の混合によって生成された”花の形”でないからこそ、
どんなに土壌をとりかえ、肥料を取り換えても、その植物の生命(せいめい)が
花を咲かす生命力がある限りに於いて、

花の大小は栄養の完不全で異なるにしても、
朝顔の花という“個性ある形相(かたちすがた)”は、
種子の中の“理念”として既存のものであるから、”朝顔の花”という
“個性ある形相(かたちすがた)”を保つ花を咲かせるのである。


すべて“自然発生”の形のあるものは、有無相対の“無”より生じたのではなく、
肉眼では“無”と見えるその奧にある霊的原型(理念・アイディア)の自己顕現である
のである。

            <感謝合掌 平成30年11月1日 頓首再拝>

<想念は創造する> - 伝統

2018/11/19 (Mon) 03:30:15


        *『人生の秘訣365章』第7篇(P174) より

神は全宇宙の創造者である。
宇宙がまだつくられなかった以前には、そこには物質はないのである。

それは非物質の世界である。
非物質なるところの創造者とは、“霊”なる創造者である。

“霊”とは広義に於ける“心”とか“意識”とかいってもよい。
“霊”又は“心”が動き出すときに、それは“物質的エネルギー”ではないから、
「想う」という“動き方”をするより仕方がないのである。

神は「想う」という方法によってこの世界を創造したのである。
「想う」とは心の中に於いてコトバを発することである。

或る人が、誰かを「愛する」と想うならば、
彼は心の中で「私は彼を愛する」というコトバを想い浮かべているのである。

彼が「今日は快晴だな」と想えば、彼は心の中で「今日は快晴だな」
というコトバを暗黙のうち唱えているのである。

それゆえ、「想念が創造者である」ということは、
「コトバが創造者である」ということと同意義である。

 (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=55 )

           <感謝合掌 平成30年11月19日 頓首再拝>

神が一切のものを創造り給うたのは、心によってである - 伝統

2018/12/10 (Mon) 04:21:41


想像力を駆使して善き事を実現せよ

         *『人生の秘訣365章』(P84)より

物質がまだ何も無い最始源において、
神が一切のものを創造り給うたのは、心によってである。

物質の模型は未だ存在しないのであるから、
先ず一切のものを造るには、「心で想う」という方法しかないのである。

而も、未だ形の世界に存在しないものを「心で想う」のは
想像力に頼るほかはないのである。

つまり想像力は創造力である。

神はその同じ想像力を人間に授け給うて、
自己の欲する事物を現実界に造り出すことを得さしめ給うたのである。

如何なる悲観的状態が眼の前に現れていようとも、
創造力によって、善き事を心に思い浮かべて想像し、
その実現を固く信じて、常に神想観して、

自分に内から催して来る通りに行動するならば、
自然に適時に適所に適当なる方法を講ずることが出来て、
自分の希望が実現することが出来るようになるのである。

 (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=78 )

         <感謝合掌 平成30年12月10日 頓首再拝>

神の霊が力となり、万物を生ず - 伝統

2019/01/05 (Sat) 04:48:54


           *「光明道中記」(1月5日 万物皆霊を知る日)より

【エーテルとは「無」を「有(う)」として仮に名づけた別名である。
                       (「生命の實相」第十一巻)】

人は無限の力を有する。
有すれども自覚せざれば使うことが出来ないのである。
自覚によって展開するのが人間の無限力なのである。

それを展開して引き出すのが教育である。

凡(およ)そ力と云うものは「霊」より来る。
「物」には力と云うものはあり得ないのである。

エーテルの大海中に、換言すれば「無」の深海中に、ただの「無」ではなくして、
そこに動き始むる力があった。それが神の霊である。

「神の霊水の面(おもて)を蔽(おお)いたりき。
神光あれと言い給いければ光ありき」である。

エーテルの大海中に「霊の振動」が起る ―― 即ちコトバ起れば、
宇宙電気となり、大火焔の渦巻(うずまき)を生じ、星雲を生じ、
万物を生じ、万物を支配する者としての理念が形に顕現して人間と成る。

エーテルの大海に、真空の海原に、「無」の深海に大動乱を起して、
万物を生じたものは霊である。霊のほかに力はない。
凡そ力と云うものは霊より来る。

物質のエネルギーと云うものは要するに、
霊の力の第二次第三次の反影(リフレクション)である。

吾々は物質の力を使わないのではない。
物質と見えるものも霊の力であるが、より多く本源に汲む者は勝利する。

            <感謝合掌 平成31年1月5日 頓首再拝>

神の創造は、完全であり、善である - 伝統

2019/03/01 (Fri) 04:39:07


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より

啓示 ――

人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。

神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。

第一の創造は神の「世界および人間創造」である。

神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。

「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。

しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」「創世記」第一章の神の宣言に
あらわれている。

神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。

人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。

人間に病気はない。

            <感謝合掌 平成31年3月1日 頓首再拝>

すべてのもの言(ことば)によって、「今」創造られつつある - 伝統

2019/04/01 (Mon) 03:42:24


      *「光明道中記」(4月1日 天地の開くる音を聴く日)より

【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
                           (生命の實相第十一巻)】 
    
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、何かもう現在には何の関係もない、

たとい関係があるにしても、それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに
過ぎないので、今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。

創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。

一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、原始(はじめ)であり、
終末(おわり)であり、一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの
「一」である。


「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。何によって。
それは言(ことば)によって、言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。

「物質」は《無い》 ―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。

併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、而(しか)も
アインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。

            <感謝合掌 平成31年4月1日 頓首再拝>

《神は想念によって万物を創造する》 - 伝統

2019/04/20 (Sat) 00:49:00


         *『人生の秘訣365章』第3篇(P69) より

神は“心”であり、“コトバ”である。

「神は心をもちたまう」のではなく、
神は“心”そのものであり、普遍的叡智なのである。

聖経には
「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」とある。

“心”が動けば、それは物体が動くのではなく、
“心”が動くのであるから、“想念”となるのである。

「想念」の別名がコトバである。

想念は万物をつくるのである。
声帯より出でる発声音は、
想念のコトバが、発声のコトバとして顕されたものである。

            <感謝合掌 平成31年4月20日 頓首再拝>

個性ある創造 - 伝統

2019/05/01 (Wed) 04:35:29

         *『人生の秘訣365章』第12篇(P290~291) より
           ~《人間の主体なるもの》

胃袋の中に入れられた食物は粥(かゆ)状にまで消化され、
更に腸内に進行して消化が完全に行われるが、消化するに従って、
単にそれが粥状になるだけではなく次なる発展があるのである。

その栄養分と糟粕(かす)とが選(え)り分けられて、栄養物だけが吸収せられて、
それが個性ある人間の肉体になるのである。

谷口の食した食物は、谷口特有の個性ある体質の肉体となり、
個性ある血液型の血液や唾液その他のホルモンとなり、
個性ある特徴ある容貌の肉体となる。

牛肉を食しても牛の顔にはならず、鶏肉を食しても鶏(とり)の顔にはならず、
谷口特有の個性ある顔の姿に、その食品の物質分子が整列せしめられ、
形成せられるのである。

谷口以外の人が食べれば、その食品は決して谷口の顔にはならないのである。

其処には個性ある創造が行われる。
同一成分の物質でも、同一普遍の化学変化に終始することなく、
異なる個性ある創造が行われる。

この個性ある創造をいとなむところの“生命(せいめい)” ―― 
それは肉眼には見えないから、それは霊的存在であって、
肉体の奥にある人間の主体なるもの ―― “神の子”なのである。

            <感謝合掌 令和元年5月1日 頓首再拝>

「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統

2019/05/06 (Mon) 03:17:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より

眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。

第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。

曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。

第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。

思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。

           <感謝合掌 令和元年5月6日 頓首再拝>

ただあるもの(実在)は第一創造の完全世界ばかり - 伝統

2019/05/14 (Tue) 03:49:04


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

           <感謝合掌 令和元年5月14日 頓首再拝>

Re: 神の創造 - zsekxrzbewMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:09:36

伝統板・第二
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