伝統板・第二 228994

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ひかりの一日一言25~幸福はどうしてくるか

1:伝統 :

2017/04/01 (Sat) 03:40:04

ひかりの一日一言《1日》

《1日 人間智慧を加えず》

人間の幸福というものは人間自身がつくるものではないのである。

人間自身の智慧巧者によって幸福がつくられると思って
色々と人間知恵をはたらかせて工夫することを、

『旧約聖書』の「創世記」に於いては、
アダムとイヴとが「智慧の樹(こ)の果(み)」を食べて
”エデンの楽園”から追放されたという象徴的神話によって
描かれているのである。

幸福というものは、日本語のその語源の「サイハヒ」が
「先(さ)き延(は)へ」とあるのでも判るように、
神の生命(智慧・愛等を含む)が、前方へ延長して来たのが
幸福(さいわい)であるのである。

“エデンの楽園”に人間が生活していた時には

「アダムとイヴとは”裸か“であった」

と聖書に録(しる)されているのは、

”人工を加えず“人間の知恵巧者で徒(いたず)らなる工夫を
加えなかったという意味であるのである。

人間の愚にもつかない智慧を加えずに、
其の儘(まま)、神の計画に随順するとき、
その人は本当に「幸福の世界」(エデンの楽園)に住むことができるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P89) より


           <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2017/04/02 (Sun) 03:40:34


《2日 人生は想念の総決算》

この世界には”原因結果の法則“というものがあるのである。

それは”物質の世界“に於いても、このような原因をつくれば
結果は斯(こ)うあらわれるという”自然の法則“というものがあるのであるが、

吾々が運命を支配する上に重要なのは、物質の世界にある物体の移動(原因)が、
他の物体にこんな結果を及ぼすという物理的な因果関係よりも

”心の世界“にあるもの(原因)が”物質界“にこのような結果となって
あらわれるという因果関係の方なのである。

”心の世界“にあるものとは「想念」即ち「心に想うこと」である。
「心で想うこと」が「形の世界」に結果としてあらわれるのである。

吾々がこの人生に於いて如何なる幸福な生活を送ることを得るか、
悲惨な生活を送らねばならぬかは、吾々が常に何を想念しているか、
一日のうちの大部分の時間に、何を考えているかによって決まるのである。

人間の運命は常に吾々が何をより多く思っているかの総決算が
毎日弾(はじ)き出されている訳である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P90) より

           <感謝合掌 平成29年4月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2017/04/03 (Mon) 04:08:06


《3日 蒔かぬ種子は生えぬ》

この原因結果の法則は、人間が人間の定めた法律の網の目をくぐるように、
原因結果の法則をくぐり抜けて、「悪い事」を想念しながら「善い結果」を
得ようとしても、決してそのような狡い事は許されないのである。

これを仏教では「因果不昧(いんがくらまさず)」と謂うのである。

日本の諺に「蒔かぬ種子(たね)は生えぬ。蒔いた種子は生える」というのはこれである。
そして茄子を蒔いたら、その茄子の種子からは茄子が生え、茄子の実を結ぶのであり、
瓜を蒔いたら、その瓜の種子からは瓜が生え、瓜の実を結ぶのである。

「瓜の蔓(つる)には茄子は生えぬ」という諺がある所以である。

キリストはこの真理を「汝の信ずる如くなれ」という語(ことば)や、
「汝の信仰汝を癒せり」という言葉や「もし芥子種(からしだね)ほどの信だにあらば、
この山に動いて海に入れというとも必ず成らん」という訓(おし)えをもって
示しているのであり、仏教ではこれを「三界唯心」の語(ことば)で 表現しているのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P90~91) より

           <感謝合掌 平成29年4月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2017/04/04 (Tue) 03:30:37

《4日 内を見る力》

人間は自己の内に”無限”を蔵し得る無限の可能性として
それを内に貯えているのである。

五官の感覚は外を見るために発達した器官であるがゆえに、
内を見る力を欠いて、自己の実相の無限力を見る事ができないので、
恐怖心や懐疑の心に満たされるのである。

自己を内観することによってのみ、実相の”無限”を自覚する機会を得るのである。
内観しないものにとっては、実相を観る道は完全にふさがれて、
打ち勝ちがたき鉄壁として「物質の世界」が立っているのである。

多くの人たちは、この「物質の鉄壁」の中にとじ込められ自由を失って、
恰も囚人の如き自由なき生活を送っているのである。

「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり」という啄木の如き嘆きは、
この「物質の鉄壁」を超える事の出来ない人々の嘆きを代表しているのである。

物質の鉄壁は外に向かってそれを打ち破ること事の出来ない壁である。

ただ内観によってのみそれを超え得る。
その内観こそ神想観である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P91~92) より

           <感謝合掌 平成29年4月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2017/04/05 (Wed) 03:27:24


《5日 真空即妙有》

人は自分の想念を如何にもつかによって、
或る人は地獄を人生に創造し、
或る人は天国を人生に創造するのである。

何故(なぜ)そのような事になるかというと、
この宇宙は、物質でつくられたものではなく本来霊的な存在であり、
その”霊”の波動が可視的な物質としてあらわれている部分と、
不可視的な超感覚的な”空間”の如くあらわている部分があるので、

個々の可視的存在が、個々別々に何の関係もなく散在しているかの如く
見えるに過ぎないのである。

真空の如く、単なる”空間”として見えているところにも普遍的な智慧や愛
(相互牽引力・万有引力)がはたらいているので、太陽や遊星との間や、
原子核と陽子との間には空間があるにもかかわらず、
互いに飛び散るということがないのであって、
そこには万有をひとつに結ぶ”霊”が存在するのである。

その”霊”の中に吾等は生活し、行動し、存在を保っているのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P92~93) より

           <感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2017/04/06 (Thu) 03:21:49


《6日 先ず神の国を求めよ》

”真空“は ”何も《ない》”どころか、
”真空“ こそ万物を ”現在ある形“に保っているところの
“智慧”であり、”力“であるのである。

原子を形造っている”原子核“と”電子”との間の存する”真空“が
崩れて仕舞ったら、原子は崩壊してしまうのであり、

太陽と遊星との間を埋めている ”真空”が崩れてしまったら、
太陽と遊星とは、互いに連絡し得ないで、飛び散ってしまうか、
真空の形の崩れるままに太陽と遊星とは密着してしまうかするより仕方がないのである。

兎も角、”真空“は ”何もない空間”でなく、
”霊“という無限の智慧と無限の力が包蔵されており、

その”霊の世界“に於ける”理念“(精神的原型)が形の世界に
時間的順序配列をもって恰(あたか)”も

“フィルムの世界“に既に存在する光景が映画館の銀幕に時間的順序をもって
一コマ一コマ展開して行くような具合にあらわれているのである。

だから吾々が可視的世界(肉眼で見える現象世界)に
幸福や健康や繁栄を実現しようと思ったならば、

先ず不可視の霊的世界に、その幸福や健康や繁栄を
心で描いておかなければならないのである。

現象界の物質的利益の追求よりも
「先ず神の国を求めよ」 とは このことである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P93~94) より

           <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2017/04/07 (Fri) 06:10:44


《7日 はじめにコトバあり》

物質発生以前の宇宙とういものを考えてみると、
其処には無論「物質」なるものは存在しなかったのである。

そこには“霊”がまだ物質的なものと見える如き波動を起していなかったのである。
即ち、“真空”だったのである。しかしそれはただの”カラッポ”ではなく、
”不生”の大生命が確固儼然(かっこげんぜん)として存在していたのである。

不生の大生命が動き出したので所謂る”コトバ”である。
これが「元始(はじめ)にコトバあり、コトバは神と偕に在り、コトバは神なりき」と
『新約聖書』のヨハネ伝に書かれているところの真理である。

但(ただ)しこの“コトバ”と謂うのは、まだ物質発生以前の「元始(はじめ)のコトバ」
であるから、物質的発声器官を通してあらわれて来たコトバではないのである。
発声器官にあらわれる以前のコトバ ―― 即ち想念であったのである。

即ち、”真空”と見えている”不生”の生命が想念によって動的に動き出して
波動を起こしたのであって、これが「神の心うごき出(い)でてコトバとなれば、
一切の現象展開して万物成る」である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P94) より

           <感謝合掌 平成29年4月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2017/04/08 (Sat) 04:03:44


《8日 創造は衝動》

宇宙大生命は“真空”と見えながらカラッポではなくして虚空を埋め、
それ自身が想念を起こすことによって万象が展開してあらわれて来るのである。

「元始めにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき。
よろずの物これによりて成り、成りたるものこれによりて成らざるもの無し」

とヨハネ伝に録(しる)されているのは、このような意味なのである。


“真空”の中にこのような創造力があるのである。
“真空妙有”(しんくうみょうう)が即ち“創造の霊”であるのである。

既に“真空”の中に伏在せる“妙有”が内部から押し出して来るはたらきが
“創造の衝動”としてあらわれて来るのである。

“宇宙の霊”の中にこの衝動があり、それが“真空”と見える実質を、
みずからの“内部の智慧”によって、形ある相(すがた)に設計し、
その“内部の力”によって、その形を維持しているのである。

その“内部の智慧”を混乱に導かず、その“内部の力”を流動しやすいように
維持するとき、その形は崩れない、即ち、肉体に於いては健康を保ち得る
ということになるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P95~96) より

           <感謝合掌 平成29年4月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2017/04/09 (Sun) 06:09:29


《9日 神の創造に協力しよう》

人間に於ては、“創造の霊”(神)が“真空妙有”の世界から
常に“新しき創造の原型”を形の世界に押し出して来て、
常に吾々は何か新しい設計や計画や創造的仕事をなしつつあり、
人体では、それが新陳代謝としてあらわれて来ているのである。

神はその霊の“創造の新しき拠点”として肉体を作り、
その肉体の中に、自己の“霊”を宿らせて、
其処に自己の欲する事物をつくり出す“中心”を創造したのである。

吾らは神の“新しき創造の拠点”として、
即ち神の常に新しき自己表現の“中心者”たるものである。

人間は常に外界に新しき創造をつくり出しつつあり、人体は新陳代謝で、
陳(ふる)きものを追い出して新しき創造をつづけつつあるのである。

自然界では春夏秋冬の遷(うつ)りかわりに、花咲き実り、葉茂り、落葉し、
更に新たな春の装いをつけつつ、植物は常に新しき形にまで生長をつづけるのである。

即ちこの世界は新創造新生長の実現する世界であり、
それを内部から動かしているのは、神なる“創造の霊”なのである。

従って吾らは常に新しき創造をこの世界に為すべきであり、
それによってのみ、神の創造に協力することができるのである。

もし吾々が“新しき創造”を何もしないならば、
それは神の“創造力”の出口たる使命を果たさないのであるから
生命(せいめい)は内部から引退し死に招くに至るのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P96~97) より

           <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2017/04/10 (Mon) 03:27:54


《10日 地上生活学校への入学》

宇宙の本源でありところの大生命界を“海”と考えるならば、
吾々はその海面に浮かび上がった一つ一つの波だとも
考えることができるのである。

併し、波は次の瞬間には消えてしまっているけれども、
人間の生命(せいめい)は須臾(しゅゆ)にして消えるものではないのである。

仏教者の或る人は、肉体を盃にたとえ、
盃に海水を盛ったように肉体に大生命の一部を汲み入れたのが人間であるが、

その盃が壊れると、盃の中の海水は大海原の水と一如になってしまうのと
同じように人間の肉体がこわれると、その人の生命(せいめい)は個性も何も
なくなって、”宇宙の霊”に帰一してしまうという風に説く人があるけれども、
それは間違いである。

善人も悪人も、修行をした人も修行をしない人も、
肉体の死後は、全然、同一の大生命海に融けこんでしまうのだったら、
何のために、吾々は切実に道を求め、魂の向上を願うような衝動が
内部から起こってくるのであろうか。

そのような不合理のことはある筈はないのである。

吾々の肉体は霊魂が地上に於いて或る修行をし、
或る使命を果たすための”法服”又は”作業服”であって、

肉体が人間そのものではないから、
肉体が死滅しても霊魂は個性を失ってしまうことはなく、
また別の肉体を着て地上生活学校に入学してくることになるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P97~98) より

           <感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2017/04/11 (Tue) 04:27:32


《11日 個性の表現》

個性の生命(せいめい)(又は霊魂)は、大生命の夫々(それぞれ)の個性的表現の
中心であるのであるから、その個性的向上又は発展を途中で止めてしまうなどと
いうことはあり得ないのである。

もしそんなことをするならば大生命は自分の個性的発現の《次第に完成し行く出口》
を自分で閉じてしまうようなことになるのである。

大生命がそんな事をする筈はないのである。

吾々は出来るだけ自己の個性を失わず、流行になずまず、自己でなければならない
独特の個性ある表現をすることが、神砂割大生命の意志であるのである。

といって別に奇矯なる服装をし怪奇な行動をせよというのではない。
寧(むし)ろその反対ですらある。
流行の流れの中に沈没してしまう如きは神の意志に反するのである。

嘗て終戦間もなく、英国の文豪プリーストリ氏が日本を訪ねて来た際、
日本固有の風俗がすたれてしまって、外国模倣の住居や服装が氾濫しているのを
見て慨嘆して、

「日本人が幾ら西洋人の生活様式を模倣しても、其処には
西洋人のマガイモノが出来るだけで西洋人にはなり切らない。

マガイモノはホンモノに劣るのである。日本人は日本人でなければできない
独特の文化をこそつくるべきである。そうでないと類似品や贋物(まがいもの)
ばかりで、新しい価値を創造したことにはならない」

ということを講演で述べていたのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P98~99) より

           <感謝合掌 平成29年4月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2017/04/12 (Wed) 04:52:35


《12日 自由意志の条件》

「個性ある表現」を人間が許されているということは、
自由意志が許されていうことに ほかならないのである。

ただそれに制限がある ―― というのは、大生命は全体者であるから、
すべての個性的表現が、いずれも害われることなく
全体が完全に表現されることを望んでいるのは当然である。

だから各自の自由意志は許されているけれども、
他(た)を犯したり、他(た)に迷惑をかけない
という条件に於いて許されているのである。

他(た)に迷惑をかけないところの個性的表現への願いは、それ自体が大生命の
自己表現の出口であるから、彼が何を願い欲しようとも、その背後には
大生命の無限の力が後援していて、その表現をたすけていてくれることを
自覚して信念と勇気とをもって実行すべきである。

模倣や迎合や虚栄や流行に押し流されて個性ある生活をいとなむことが
できない人間があるのは甚だ残念なことである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P99) より

           <感謝合掌 平成29年4月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2017/04/13 (Thu) 04:05:57


《13日 善き想念・悪しき想念》

あなたの人生はあなたの想念の具象化である。
「あなたの想念」と仮にいうけれども、人は自己独特の精神の上に
周囲の人物から色々の想念を感受して「自己の想念」を混成するのである。

幼い時には、両親及びその家族から最も多く想念を感受して、
それを総合して「自己の想念」を混成する。

十三歳以上になると、個性が独立して来て、必ずしも周囲の想念ばかりに
支配されなくなるけれども、依然として両親・家族・人類から
その想念の影響を感受して、全然「無影響」ということはあり得ないのである。

併しながら年を重ねるにしたがって個性的は表現要求は強くなるが、
同時に幼児以来受けて来(きた)った家族及び人類から感受した想念も
その人の潜在意識に固定化して抜きがたき傾向を形づくることにもなる。

その固定化した傾向が、よき想念・明るき想念である場合は、
その人の生涯に善き影響をもちつづけるが、

それが悪しき想念である場合には、その人の生涯に常に悪しき影響を与えつつ、
その人の運命を暗い方法に導いて行くことになるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P100) より

           <感謝合掌 平成29年4月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2017/04/14 (Fri) 03:06:35


《14日 義しいあなたの願い》

あなたが成就しようと欲する事柄にもっと自信を持ちなさい。

本当にあなたの欲する事柄が義しいものである限り、
それは既に実相世界に存在する”存在の秩序”が現実化して
あらわれようとする衝動であるのですから、必ず成就するのです。

何故(なぜ)なら実相世界の”無限の力”がバックとなって、
その事柄を現象世界に推し出そうとしているのだからです。

「義(ただ)しい」という意味は、「秩序の正しさ」をあらわすのです。
この語(ことば)が「君臣の義」などというように使われるのでも判ります。
「義理を立てる」などというのもそれです。

義(ぎ)は宜(ぎ)と同意味で、
時の宜しきにかない、処の宜しきにかなうことです。

現象世界での《自分ばかり》の「都合の好さ」ではないのです。

実相世界には既に無限に完全な秩序があり、
秩序が正しいから大調和の世界なのです。

その実相世界に既に存在する事物が現象世界に実現するための
押し出す”心の催し”が起こるのが義しいあなたの”願い”なのであります。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P100~101) より

           <感謝合掌 平成29年4月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2017/04/15 (Sat) 04:21:24


《15日 「真の願い」を見分ける法》
 
あなたの願いを思いつくだけ沢山紙に書いて御覧なさい。
そしてその一つ一つについて次の4つの基準によって検討して御覧なさい。


(1)私は真にそれを欲しているか、また真にそれが必要であるか。

(2)その願いの成就が自分又は他人の魂の向上に役立つか。
   却って魂の向上の邪魔になるか。

(3)その願いが成就することによって、
    他の人に損害又は迷惑を懸けることにならないか。

(4)その願いが成就することが家庭、社会、国家、人類等に役立つか。


若しあなたの願いが、真に切実に必要なものではなく、
神意それほど切実に欲するものでない場合には、その願いは
「実相の世界に既にあるもの」の現象界への推進(おしだし)ではないのです。

またその願いが成就したら、自分の肉体的満足や本能の満足なっても、
自分又は他の人の魂の向上にならないもの、又は魂の堕落になるようなものは、
それは実相世界の秩序にはない妄想の産物なのです。


またその願いが成就しても都合のよいのは自分だけで、
他(た)の人々や社会、国家、人類に迷惑又は損害を与えるものは、
真に実相世界に存在する秩序ではないのです。

すべて真の願いはそれが成就することによって自己のみならず
直接間接に社会、国家、人類等に役立つものである筈です。

この4つのテストに合格した事柄は、既に実相世界に存在する事柄であるから、
私たちが切にその実現を心に念じ、波長を合わすようにつとめる時、
必ずそれは成就するのである、自信を持ってよい。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P101~102) より

           <感謝合掌 平成29年4月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2017/04/16 (Sun) 03:26:57


《16日 善人は団結して言動せよ。》

社会的、国家的、人類的な大黄な目的に関する願いは、
個人がひとりひとりでやるよりも大きな団体及び組織の力を
利用してやる方が実現の速度も簡易が大きくなるのである。

今までの善人は、あまり温和(おとな)しすぎて黙って控え目にしていて、
悪人の方が団結して言いたい放題なことを主張したり、
群衆行動の圧力でその要求を貫徹しようとしていた嫌いがある。

そんなことでは社会も国家もよくならないのである。
善人はその目的を一つにして大同団結して建設的に協力するとき
速やかに社会も国家もよくなるのである。

人類光明化運動の団体の中における者は、尚一層調和して、
その主たる目的のために常に建設的は言動をなすべきであって、
苟(いやしく)も、破壊的な、内部紛争をかもすような言動を
なしてはならないのである。

内部に相争うものを包容している団体は、寄生中や癌細胞を
内に宿している人体のようなものであって、早晩、瀕死の状態に陥るか、
大手術をして内部の病原を切除しなければならなくなるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P103) より

           <感謝合掌 平成29年4月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2017/04/17 (Mon) 04:32:26


《17日 「悪」を思えば悪が出てくる》

「善き目的」を推進するにあたって、その団体のメンバー相互の争いや、
不調和や、反対論で騒然たる中で功績を挙げて行くことはできないのである。

同じ団体のメンバーでありながら、その団体の中にその同志を嫌悪したり
憎んだり、あしざまに批評する小会をつくって派閥争いをしているような事では、
その団体の善き目的遂行がおくれるばかりである。

内部機構を常に一層よきように改善することは必要であるけれども、
それがその団体の誰かを酷評したり、憎悪したり、排斥したりするような
暗黒な精神に支配されリードされている限り、改善どころか、
それは、却って、「悪」に力をかすことになるのである、

どこまでも「悪」を想えば悪がでて来る
 ―― この真理を知らなければならない。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P104) より

           <感謝合掌 平成29年4月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2017/04/18 (Tue) 04:25:07

《18日 現象人間の欠点には寛容であれ》

団体の幹部、役員、講師たちも、現象の人間としては、
あらゆる点において完全無欠とはいうことはできないのである。

すべての人間は、その実相は既にある”神の子”として
「無限の完全さ」を宿しているのであるけれども、現象的には努力によって
徐々に開顕開かれて行く”最後の完成”をめざしているのである。

だから団体の幹部役員講師たちにも、団体のメンバーから見れば不完全であり、
批判の的になる点は無数にあるのである。

それを内部で指摘し批判し攻撃し合っているのでは内部紛争を起して、
外部に向かう人類光明化の目的を達成すべき力が弱まるばかりである。

幹部といえども普通のメンバー、誌友、信徒たちと同じく、
感謝され、称賛され、美点を見つけてもらい、激励されることによって、
はげまされて実相の完全さがあらわれて来やすくなるのである。

信徒や誌友たちは、教団の幹部の人たちにも現象人間として色々の苦労があり
悩みがあることを察して、欠点を見ないで、実相の完全円満さを念じて、
その円満さの顕れる手伝いをしてあげるべきである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P104~105) より

           <感謝合掌 平成29年4月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2017/04/19 (Wed) 03:35:28


《19日 イエス涙を流し給えり》

幹部に対しても、その不完全さが目についたならば病人に対するが如くせよ。

あなたは病人に対して攻撃を加えるでしょうか。
病人を悪しざま酷評するでしょうか。
そんなことはしないでしょう。

病人に対しては四無量心を起こすべきである。
即ち慈悲喜捨の四つの無量に深き愛念を起こすべきである。

慈とは苦しみを見て苦を除かんと欲する慈念である。
この場合、幹部の労苦を少しでも軽減してあげたいと、その手伝いする心である。

悲とは人の苦しみを見て楽を与えてあげたいと思う悲念である。
若し、幹部役員と、そのメンバーとが対立関係になり、労使的な気持ちで対立するならば、
そのような処には、宗教も信仰もないのである。

苦しんでいる人、重荷を負える人はすべて病人である。

病人に対しては、イエスはどうしたか?

「イエス涙を流し給えり」と『聖書』にある。
同慈、同悲の心が起こったのである。

次には神に祈って「神よ、あなたは常にわが願いを聴き給うことを知る」
といって自分の信念を増強し「死せるに非ず、眠れるなり、起(た)てよ」
と断言しておられるのである。

その時ラザロは健康になって起ったのである。

私たちも幹部役員に向かって、

「実相は死せるに非ず、眠っているだけだ。
素晴らしい神子(かみのこ)だ。
既に完全なのだ」

と念じてあげなければならないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P105~106) より

           <感謝合掌 平成29年4月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2017/04/20 (Thu) 03:55:31


《20日 会議に臨むとき》

どんな団体にせよ、団体の会議に臨む場合には、欠点を論議して
反対党をやっつける為のような気持ちで臨んではならないのである。

調和精神と善意とをもって建設的な意見を平和裡に述べて、
全体を生かし皆なを生かすような気持ちをもって会議を進行させなかったら
良い結果が得られる訳はないのである。

荒々しい攻撃的な語調をもって議論をすれば、結果は必ずよくないのである。
無論、すべてのメンバーが悉(ことごと)く
同一意見をもっている訳のものではない。

しかしその意見を述べる時の気持ちが、平和な、全体愛に満ちた、
調和した気持ちでなければならないのである。

他の意見を打倒しようというような、また自分の意見と異なる者には
「腹が立つ」というような、悪意や憤怒の気持ちを棄てて、

一層高い一層繁栄する観念を導き出そうというような建設的は気持ちをもって
会議を進めるとき、善きアイディアが会議の進行するに従って
思い浮かんで来るようになるのである。

一切の善きものは「和解」の中から生れて来るのである。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」との神示の実践を忘れてはならないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P106~107) より

           <感謝合掌 平成29年4月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/04/21 (Fri) 04:00:06


《21日 先ず自分自身に和解する》

どんな不調和な状態が現在その団体にあろうとも、又その家庭にあろうとも、
又人と人との関係にあろうとも、その団体を祝福し、その幹部及びメンバーに感謝し、
その家庭を祝福し、その家族ひとりひとりに完全に感謝し、

紛争の起こっている相手があるならば、その相手の人を神想観の時に祝福し、
その相手に和解と善意と感謝の愛念を送ることにするならば、
相互の間は不思議に調和を取り戻すことができるのである。
 
原因は環境にあり、又相手側にあると見える時にも
実は自分の心の内にあるのである。

紛争や不調和が起こる原因の一番根底には
「自己嫌悪」が横たわっていることが往々にしてあるのである。

自分自身を嫌悪しているために、
それが他の人に移入されて文句を言いたくなるのである。

吾々はもっと度々神想観をして、
自分自身を祝福し自分自身に感謝し、自分自身に和解しなければならない。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P107~108) より

           <感謝合掌 平成29年4月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2017/04/22 (Sat) 04:12:26


《22日 自分を祝福する》

自他を祝福するとは、
自他の内にやどる「神なるもの」を認めて礼拝することである。

自分も彼もみな神の素晴らしい自己顕現であることをみとめ、
心で讚(ほ)め、喚び出し、その真理を引き出すことである。

先ず自分自身を祝福することなしに、他の人々を本当に祝福することはできない。
吾々は先ず自分自身を祝福し、讚嘆し、
自分自身の神性を引き出さなければならないのである。
その行事が神想観である。

神想観によって自分の実相が”神の子”であり、完全円満であることを観じて、
実相の完全さを祝福し、讚歎した後に、現象的にも自分の生活に一寸でも
善い事をしたことがあれば、それを一々想い出して自分自身を
「お前はこんな善い事をした善い人間である」と讚めてやるのが
よいのである。

それは恰も学童の成績を挙げるために、
その答案の中に一寸でもある「正しい回答」に◎を
つけて讚めて、その内部の能力を引き出してやるが如くである。

「お前はあの人の罪を赦した。お前は神の子で愛ふかく寛大である」
という風に讚めるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P108~109) より

           <感謝合掌 平成29年4月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/04/23 (Sun) 04:01:43


《23日 物心は本来一つ》

すべて吾々が見聞し手で触れることの出来る一切のものは、
吾々の「心」の活動のために存在するのである。

心がそれを感受し、それに対して快不快を感ずる。
心がまた其等のものを動かして、それを以前とは別の形に配列する。

それが創造であり、創作であり、着想であり、発明であり、新機軸であり、
それによって吾々は喜びを感ずる。

すべてのものは心のためにあるのであって、
物そのもののためにあるのではないのである。

そして、「物」が吾々に或る時は喜びの感じを与え、
或る時は不快の感じを与えるのは何故であろうか。

それは「心」と「物」とが全然別物ではなく、本来一つのものが、
波動の相異で、一方は「心」としてあらわれ、
他方は「物」としてあらわれているのだけれども、

本来は「一つ」のものであって、
同じ基盤の上に存在するものであるから相互関係を有するのである。

これを仏教では物心一如というのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P109) より

           <感謝合掌 平成29年4月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2017/04/24 (Mon) 03:52:12


《24日 生命の進化》

吾々の生命は常に一層高き進歩に向かって更新しつつあるのである。

併(しか)し、「低いもの」が如何にして
「一層高きもの」を思い浮かべ得るであろうか。

「一層高きもの」はそれよりも
「低いもの」を考えるのはいと易きことであろう。

しかし「低いもの」には「一層高きもの」を
理解することは出来ない筈である。

現在「低いもの」でありながら「一層高きもの」を理解し得るのは、
その「一層高きもの」に触れることによって、自己の内にあるところの
「一層高きもの」が喚び出されて来る結果だというほかはないのである。


「一層高きもの」に生命(せいめい)が進化し行くのは、
既に「一層高きもの」が生命(せいめい)の内部に宿っており、
それが色々の環境や条件や境遇や経験によって触発されて
輝き発して来るにほかならないのである。

吾々は今与えられている環境・条件・境遇・経験から
逃げ出そうと考えてはならないのである。

それを喜んで受け、それから得られるところの凡てを
経験を通して吸収しなければならない。

それによって吾々は内在する無限の神性を、
一層多く開顕することができるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P110) より

           <感謝合掌 平成29年4月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2017/04/25 (Tue) 03:20:23


《25日 人間は死なない》

人は無限の進歩に対する欲求をもっている。
それは切実なる願いである。

吾々は「存在の根元」を知ろうとし、
「現象の奧」に横たわる法則を発見しようとし、
善を求め、美を追求し、飢え渇く如く進歩と向上とを願って来たのである。

その願いの主体者である個生命なる「自己」が死と共に終焉を迎える
ということは到底不合理であって考えることはできないのである。

肉体は死するであろう。
脳髄は働かなくなる。
脳髄を通して発現していた意識は消える。

しかしそれで吾々の「心」が無くなるのではないのである。
「心」を主体とする「人間」は死んだのではないのである。
ただ肉眼に見える人間の衣服(肉体)がほころびて剥落しただけである。

眼鏡が破れ落ちても魂の眼は見え感ずることができるのである。

肉体の衣服を通して経験して来た色々の知識も知恵も能力も悟りも、
肉体の衣服を脱ぎ肉体の眼鏡をはずしてからも、吾々の魂は引き続いて持っており、
次なる進歩の経験を待ち構えているのである。

吾々は永遠なる存在であり、内に”無限”を蔵しながら、
永遠にその無限を開顕しつつ無限に進歩し行く生命(せいめい)なのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P110~111) より

           <感謝合掌 平成29年4月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2017/04/26 (Wed) 03:23:51


《26日 本当の自由》

吾々は”無限”を求める存在であると同時に”自由”を求める存在である。
何故(なぜ)なら人間は神の自己顕現であり、
本来”無限の自由”を内に蔵するからである。

「自由」を、何か自分を縛る物を破壊することだ、と考える人があるが、
本当の自由は、そのような対立的観念、相対的な物の考え方では
得られるものではないのである。

本当の自由は「絶対者」となることによってのみ得られる。
自分が神の自己顕現であるとの悟りによってのみ得られるのである。

それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。
何故(なぜ)なら吾々は神想観によって自己が神と一体であり、
絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく
自己の心の顕現であると悟ることができるからである。

それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、
何人(なんぴと)も”本当の自由”を求むる限り修しなければならない
修行であって、生易しいものではないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P111~112) より

           <感謝合掌 平成29年4月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2017/04/27 (Thu) 04:56:33


《27日 人生誕生の輝かしい使命》

生命の進化と云うことは、個生命の発現によってのみ可能なのである。

宇宙大生命が如何に荘厳に宇宙に充ち満ちていようとも、
若し「個生命」が発現しなかったなら、
何処にも進化ということは得られないのである。

この事はいみじくも、神には個生命必要だということをあらわしているのである。
まことに神には人間という自意識をもった個生命が必要であり、
それによってのみ「本当の自由」を体験し得給うのである。

若し人間が宇宙に誕生しなかったならば、
どんなに日月星辰(じつげつせいしん)が宇宙を荘厳に運行しようとも、
草木鳥獣が美しき姿をあらわそうとも、それは単に機械的に運行しているか、
本能によって、自由なしに、美しさをあらわしているに過ぎないのである。

宇宙に人間が誕生した事によってのみ、神は神御自身が人間と現れて、
意識的な自由を体験し得給うのである。

人間の使命の偉大なることはこれによっても明らかである。
神は人間なくして生長も進歩も自由も体験することができないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P112~113) より

           <感謝合掌 平成29年4月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2017/04/28 (Fri) 04:51:15


《28日 困難にいどむ》

人間の自由は、彼が環境や境遇の奴隷でなくなったときにのみ得られるのである。

環境がどうだから出来ないとか、
こんな境遇では迚(とて)も思うようにならないとかいうのでは、
環境や境遇の奴隷であって、

自由の主体である“神の子”の自覚を得たものということが
できないのである。

もっと神想観をして絶対者との一体感を深めなさい。

すべての環境・境遇は、
その人が或る能力を発現さすための運動用具のようなものである。

木馬や鉄棒(かなぼう)や平均台や吊環(つりわ)などは
いずれも運動の選手がその能力を発現さすために
是非無くてはならない環境又は境遇であるのである。

運動の選手はみずからそのような環境・境遇の条件をもとめて、それを克服し、
自由に肉体の運動美を発揮するための用具とするのである。

このとき運動選手は主人公であり、自由の主体である。

ところが学校の体操の時間に学生みずからはそんな運動をやりたくないのに課せられて、
嫌々ながら、木馬の練習や鉄棒の練習をやらせられたとしたならば、
学生は強制されたのであり、自由を奪われた訳である。

同じ木馬や鉄棒で運動しながら前者は主人公であり、
後者は自由を奪われた奴隷である。

その相違はどうして生ずるか。

人生の勝者となるものは受動を飜(ひるがえ)して、
能動をすることにあるのである。

常に受動である者は奴隷であり敗者であるが、
能動的にみずから進んで困難にいどむ者は常に勝者であり、主人公であるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P113~114) より

           <感謝合掌 平成29年4月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2017/04/29 (Sat) 04:46:46


《29日 良心の自己処罰》

吾々が進んで他の対して善を為し、愛を行じ、人を救い、人を悟りに導くとき
その人は主人公であり、その行動は“自由”の発露であり、
“自由”の発露であるから喜びを感ずることができるのである。

そしてあなたが施した善は必ず自分に還ってくるのである。
 
MRAの信条の第一に「絶対正直」ということがあるが、
吾々は他を欺(あざむ)けば、それは必ず自分に返って来るのである。
欺きが自分に返って来るならば、他を欺くことその事が自己を欺きつつあるのである。

吾々の潜在意識は一種のテープレコーダーであって、他を欺いて、
顔を拭って涼しい顔を装っていても自分は常に自己の内で鳴り響いているので、
他からその類似のものを引き寄せて自己がまた欺かれることになるのである。

嘘発見機がその人の嘘をグラフに捉え得るように
人間は他を欺いても自己を欺き得ず良心が常に自己を審(さば)いていて
自己処罰して自己を不幸に陥れるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P114~115) より

           <感謝合掌 平成29年4月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2017/04/30 (Sun) 04:48:02

《30日 念(おも)った通りになる》

彼を悪人と審(さば)いたとき、自分が悪人となっているのである。
少なくとも其の審く人の心は地獄の鬼と化しているのである。

雇主は雇人をよく働く人にも、懶(なま)ける人にも、
嘘告(うそつき)にも、正直な人にも、自分の想う形にすることができるのである。

催眠術家が相手に対(むか)って「汝は眠くなる」と念ずれば、相手が眠ってしまうように、
雇主は雇人にたいして「お前は蔭日向(かげひなた)なしに克(よ)く働く」と念ずれば、
その雇人は本当に蔭日向なく忠実に主人のために働くのである。

「どうせ自分が見張りをして居ないと、こいつは懶(なま)けて仕方がない」と
主人公が念ずると、その通り雇人は懶(なま)けるようになる。


親が子供に対するのも同じことである。

「うちの子は中々勉強しないから、勉強するように見張っていなければならない」と
母親が子供のことを思い詰めていると、見張っていても中々
その子供は勉強しないし、

「うちの子供は神の子だからほっておいてもよく勉強する」と
母親が念じていると本当に子供は放っておいてもよく勉強するのである。

心は通ずるものである。

「思う通りにならぬ」場合があるのは「表面の心」は兎も角、
潜在意識の中に「思う通りにならぬ」という念(こころ)が鳴り響いていて
その通りになっているのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P115~116) より

           <感謝合掌 平成29年4月30日 頓首再拝>


<参考Web>

(1)ひかりの一日一言①
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6455552 

(2)ひかりの一日一言②
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6479787

(3)ひかりの一日一言③
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6505650

(4)ひかりの一日一言④
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6527684

(5)ひかりの一日一言⑤
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6558249

(6)ひかりの一日一言⑥
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6584563

(7)ひかりの一日一言⑦
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6618774

(8)ひかりの一日一言⑧
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6651661

(9)ひかりの一日一言⑨
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6681257

(10)ひかりの一日一言⑩
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6711243

(11)ひかりの一日一言⑪
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6745089

(12)ひかりの一日一言⑫
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6778844


<以下は、「幸福を招く365章」より」>

(13)ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439

(14)ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866429

(15)ひかりの一日一言⑮~理想を高く掲げよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898754

(16)ひかりの一日一言⑯~心霊への目覚め
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6929870

(17)ひかりの一日一言⑰~健康への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6962847

(18)ひかりの一日一言⑱~寿福への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6990572

(19)ひかりの一日一言⑲~愛を人生に処方して
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7021791

(20)ひかりの一日一言⑳~祈りを生活に処方して 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7058416

(21)ひかりの一日一言21~あなたも神癒が受けられる 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7097406

(22)ひかりの一日一言22~光に向う我が運命 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7149847

(23)ひかりの一日一言23~正しき想念の使い方 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7190605

(24)ひかりの一日一言24~われ肉体以上のもの
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7274701

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