伝統板・第二

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和 ② - 夕刻版

2017/03/30 (Thu) 18:58:35

調和の中(なか)に万物が育つ

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。


<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「「和」 (8455)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1588 

(2)伝統板・第二「和」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6612800

            <感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>

生長の家の食事(和解の神示) - 伝統

2017/04/01 (Sat) 18:24:41


聖書に吾らが祭壇に対して供物(そなえもの)を献ずるに当っては、
先ず兄弟と仲直りしなければならないと云うことが書いてある。

吾らが食事をとるに当っても矢張りこれと同じことをしなければならないのである。
何故なら食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるからである。

一椀を手にしては是れ今迄過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって許されんがための供物であると思いて食せよ。

二椀を手にしては是れすべての人の罪が
神によりて許されんがための供物であると念(おも)いて食せよ。

三椀を手にしては是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を
犯さざらんがための供物と思いて食せよ。

しかして一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪を
この水の如く吾が心より洗い流して心にとどめざらんがための
象徴(しるし)と思いて飲め。

もし病人にして医薬を服用する者あらんにはそれを四口に分けて飲み、
この同じ想念をなして飲めば病必ず速に癒えるのである。

すべての他の人の罪を恕(ゆる)すは、
吾らの過ちをも亦大生命なる神より恕されんがためである。

若し吾等が心を閉じて他を恕さなければ、大生命の癒能(ゆるすちから)もまた
閉ざされて吾等に流れ入ることは出来ないのである。

   (昭和五年十一月四日神示)


「大調和の神示」と「生長の家の食事の神示」には、共通した内容の文言があります、


「生長の家の食事の神示」では、冒頭に

「聖書に吾らが祭壇に対して供物を献ずるに当っては、
先ず兄弟と仲直りしなければならないと言うことが書いてある」

とあります。


そして、「大調和の神示」には、

「われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、
先ず先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」

とあります。

これは、新約聖書の『マタイによる福音書』の記述に
触れた教えですが、「汝の兄弟」とは、「天地一切もの」です。

・・・

先代の掲示板に於いて、

現在は『生長の家の食事』ですが、
昭和24年4月の『生長の家』誌において『和解の神示』として書かれてあります。

とありました。(日時:2012年11月08日 (木) 14時46分、名前:童子 )

            <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>

《平和と調和の神》 - 伝統

2017/04/04 (Tue) 18:40:26


            *「光明法語」(4月4日)より

ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。
神は平和にして調和の智慧なるかな。

空間にかかるすべての星々が、神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、調和して運行するかな。

神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちてすべてのものを
調和と平和に導き給うことをわれは知るがゆえに、わが行く限り、見渡す限り、
何処にも調和満ちて不調和と云うことはないのである。

            <感謝合掌 平成29年4月4日 頓首再拝>

《争いを捨てる日》 - 伝統

2017/05/04 (Thu) 18:03:18


         *「光明道中記」(5月4日)より

【喘息はイキが激しく擦れ合う病気にて、スレ合う心、争う心、呪う心の象徴である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

子供は親を模倣するものである。
その模倣は親の表面の生活の模倣と、親の内面の感情と両方がある。

親が愉快に喋らない習慣の家庭に育った子供は、憂鬱で陰気臭くて明朗さがない。
両親が感情(いき)の奥で衝突した生活を送っている家庭の子供は、時として蓄膿症で
あり、アデノイドがあり、或は20歳までに肺結核で斃(たお)れる傾向がある。

それは子供の模倣性だと考えられないこともない。
それは両親の「感情(いき)の奥」の葛藤を、
呼吸(いき)の奥であるところの鼻の奥や肺臓の奥に具象化する。

この意味に於て子供の肉体は親の念の具象化の舞台である。

親の悲しみの念が反映して子供が寝小便することもある。

子供が口を開いて眠っている時には
両親はこれによって呼吸(いき)の奥に故障があることを発見し、
これによって自分たち夫婦の精神の奥に葛藤があることを反省し、
それを是正すべきである。

両親が感情上の葛藤を経験しながら、その子供が呼吸器を患っているから治して欲しいと
訴えても、感情上の葛藤そのものが、呼吸器病の内面的本質であるから治る筈がない。

            <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>

《先ず自分自身に和解する》 - 伝統

2017/05/06 (Sat) 18:04:18


     *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P107~108) より

どんな不調和な状態が現在その団体にあろうとも、又その家庭にあろうとも、
又人と人との関係にあろうとも、その団体を祝福し、その幹部及びメンバーに感謝し、
その家庭を祝福し、その家族ひとりひとりに完全に感謝し、

紛争の起こっている相手があるならば、その相手の人を神想観の時に祝福し、
その相手に和解と善意と感謝の愛念を送ることにするならば、
相互の間は不思議に調和を取り戻すことができるのである。
 
原因は環境にあり、又相手側にあると見える時にも
実は自分の心の内にあるのである。

紛争や不調和が起こる原因の一番根底には
「自己嫌悪」が横たわっていることが往々にしてあるのである。

自分自身を嫌悪しているために、
それが他の人に移入されて文句を言いたくなるのである。

吾々はもっと度々神想観をして、
自分自身を祝福し自分自身に感謝し、自分自身に和解しなければならない。

            <感謝合掌 平成29年5月6日 頓首再拝>

仲良しは栄えること - 伝統

2017/05/09 (Tue) 21:26:47


      *「神様が見てござる」 北尾巳代次・著(第4編繁栄は貴方の手で)より

商人が腹を立てたのではその仕事が死んでしまいます。

事業が旨く行かぬ時や健康が思わしくない時は、
特に心の安静を得ることが第一です。

つまらぬ夫婦喧嘩や、社内のゴチャゴチャが
思わぬ大事を引起すことがありますから、
常に注意して和解に努めなければなりません。

繁栄の根本は仲良しにあります。

出光興産の出光佐三社長は、
事業は人間尊重と人の和にあると書いていらっしゃいますが、
ほんとにそうですね。

店主が店員の人格を尊重する、店員が店主の手腕を信頼する。
店員同士が互いに互譲互助の精神で仕事する。

考えるだけでも素晴しいことではありませんか。
物を買いに行った時に嫌な雰囲気を感ずる店がありますが、
そういう不調和が店をさびれさすことになるのであります。

            <感謝合掌 平成29年5月9日 頓首再拝>

「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。 - 伝統

2017/05/17 (Wed) 18:46:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より

おかげが無いという人々よ。まずすべての人々と和せよ。
他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。そして再び罪を犯すことなかれ。
罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。

「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。

現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。
神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと「そのまま受ける心」が「和」なのである。
いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。

調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。
なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。

            <感謝合掌 平成29年5月17日 頓首再拝>

【争うと運が悪くなる】 - 伝統

2017/05/19 (Fri) 18:39:19


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年04月20日)」より

   (弁護士、西中務氏の心に響く言葉より…)

   私は半世紀近く弁護士をして、本当に大勢の人々の人生を見せてもらいました。
   民事、刑事の仕事の全てを合わせれば、依頼者はのべ1万人を超えるでしょう。

   1万人もの人生を見てきた私にはわかるのですが、
   世の中には、確かに運の良い人と悪い人がいます。

   例えば、運の悪い人は、同じようなトラブルに何度も見舞われます。


   《良い人と付き合う》

   運を良くするコツの一つは、これです。

   弁護士をして、大勢の人々を見ていて気づいたのは、
   「良い人の周囲には良い人ばかり」なのに、
   「悪い人の周りには悪い人ばかり」という不思議な事実です。

   裁判の依頼者でも相手方もそうですが、しょっちゅう争い事を起こしている人には、
   他人を陥れたり傷つけたりしても自分が得をしたい「悪い人」がよくいます。

   そんな人の関係者を調べてみると、やはり同じようなタイプの「悪い人」ばかりが、
   ぞろぞろと出てくるものなのです。

   運を良くしたいのなら良い人と付き合う。

   これが、弁護士の経験則です。



   《争うと運が悪くなる》

   つくづく感じるのは、「争っていいことは何もない」ということです。
   たとえ、訴訟に勝って大金を手に入れたところで、運を悪くしては何もなりません。
   実際、争いで手に入れたお金はすぐに失うことになります。

   意外かもしれませんが、「争わないほうがいい」とは、弁護士の基本です。

   離婚にせよ、倒産処理や遺産相続にせよ、争い事が起こって裁判になれば
   弁護士はより大きな報酬がもらえます。

   争いを避けてしまえば、もらえるのはせいぜい相談料くらいで、
   さほど利益にはなりません。

   だから、弁護士は依頼者が争うように仕向けていると思われがちのようですが、
   それは事実とは違います。

   裁判は依頼者にとって最も不利な決着だと言っているだけなのです。

   裁判が不利な決着なのは、勝っても負けても恨みが残るからです。

   不思議なことに、裁判で勝った後に不幸になる人が珍しくありません。
   勝訴を勝ち取った後に会社が倒産したり、不渡り手形をつかまされたり、
   経営者が交通事故にあったりする例を数々見てきました。

   きっと恨みを買ったために、運が落ちてしまったのでしょう。

   争いは恨みを残し、運を落としてしまう。

   どうか、決して忘れないでいてほしいものです。

         <『「運の良くなる生き方」』東洋経済新報社>

              ・・・

孫子の兵法の中の有名な言葉がある。

「百戦百勝は、善の善なる者に非るなり。
戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」

百回戦って百回勝つのが最善の方法とは言えない。

戦わずして、勝利を得るのが最善の方法だ。


全戦全勝で勝ったとしても、必ず双方に被害は出る。

そして、負けたほうに恨みが残る。

だからこそ、知恵の限りを尽くし、争いにならないようにすることこそが最上の方策。


善き人と付き合い、争いをさける人生でありたい。

            <感謝合掌 平成29年5月19日 頓首再拝>

「和」のあるところに害はない - 伝統

2017/05/23 (Tue) 19:13:06


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より

一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。

火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。

「和」のあるところに害はない。

いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。

胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、胃腸病になるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月23日 頓首再拝>

心やわらかになる日 - 伝統

2017/06/06 (Tue) 18:57:57


           *「光明道中記」(6月6日)より

【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
 
柔かい心で一切を受け容れること。

上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。

一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。

弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。

柔かくなること。 
調和ある心を為すこと。 
調和ある動作をすること。

先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。

而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。

柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。

調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。
弾ね返す力がなければならない。

            <感謝合掌 平成29年6月6日 頓首再拝>

《争闘の世界観を捨てよ》 - 伝統

2017/07/21 (Fri) 19:31:45


           *「光明法語」(7月19日~21日)より

《霊は物質を支配す》

生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。

ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。

実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。

・・・

《黴菌の使命》 

黴菌にまけると思う人があるが、黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。

だいたい黴菌は植物であるが、植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)
かわりに、播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。

それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。

・・・

《争闘の世界観を捨てよ》

かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。

人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。

            <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝>

《天地一切のものと和解すること》 - 伝統

2017/07/27 (Thu) 18:29:14


         *『 生長の家 』(昭和24年12月17日の法語)より

   天地一切のものと和解するということには、
   神のみこころと和解していなければならぬと云うことが含まれている。

   神のみこころにかなわないようなことを幾ら祈ってもかなえられないし、
   或る程度まで人間の努力によって目的を達しても、
   それは結局くだけてしまうことになるのである。

   神のみこころと和解するには神と対立があってはならない
   と云うことが含まれている。

   神への無条件降伏と云うことが何よりも必要である。

   神への無条件降伏と云うことは、何でも与えられるものに
   其儘(そのまま)素直にハイと従うことである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成29年7月27日 頓首再拝>

《天地一切のものに感謝し和解すること》 - 伝統

2017/08/10 (Thu) 19:31:23

   
       *『 生長の家 』(昭和44年12月23日の法語)より

   “神癒の力”は常に宇宙に充ち満ちているのである。
   何故なら、神は、何時でも、何処にも、到る処に、
   常にいますからである。

   それはラジオの放送が常にあるようなものである。
   しかし常にあるラジオ放送も、こちらがスイッチを入れて、
   波長を合わすまでは、それを受信することはできないのである。

   あなたが神に祈ることは、受信セットにスイッチを入れたことに当る。

   しかしスイッチを入れただけで、波長を合わせねば、
   神癒の霊波の放送を受けとることはできないのである。

   神癒の霊波を受信するためには、
   あなたの心の波長を調整する必要があるのである。

   その調整の道が天地一切のものと和解することである。
   天地一切のものに感謝することである。

   誰かを恨んだり、憎んだり、不平に思ったりしていたならば、
   そのことに対してお詫びの心を起して、
   新たにその相手の人に感謝の念を起し、
   感謝の言葉を心の中で繰り返すがよい。

   あなたが相手の人に感謝の念を起していることを
   相手が知っておろうと、知らないでいようと
   そんなことはどうでもよい。

   あなた自身の心の波長の問題である。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/58811a44dbaacb809ccd19be36f0b3a3
   
            <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

世界の平和は、心の王国を征服することから始まる - 伝統

2017/08/14 (Mon) 18:40:40


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月14日>(P51)より

世界を征服することは偉大であるが、
まず自分の心の王国を征服することはいっそう偉大である。
ます自分の心の王国を征服し、自分の心に真理を実現すれば、
一家に平和は来たり、一家に平和来たれば近隣相和す。

近隣相和せば、一町一村に平和来たり、
一町一村に平和来たれば、一群一県に真理来たる。
一群一県に真理来たれば、国家はじめて正法に立脚し、

国家正法に立脚すれば四隣の国おのずから相和し、
四隣の国おのずから相和せば、もって世界の平和を招くに足るのである。

      <感謝合掌 平成29年8月14日 頓首再拝>

《いのち》の本当の相(すがた)を見ることが本当の和解 - 伝統

2017/08/17 (Thu) 20:17:38


         *『善き人生の創造』第4章(P74~75)より

《いのち》の本当のすがたを見た時に、
それはどんな姿をあらわしていましても、
実に尊いものだと云うことが分るのであります。

そう云う《いのち》の尊さを見ないで

「あのお爺さん、お婆さんは厄介者だけれども已むを得ず
世話して上げよう、目上の人だから逆うわけにも行かないから」

と云うように、

その生命(せいめい)の尊さを見ないで深切をつくしても、
それでは「生命を礼拝し」と云う七つの宣言の第一ヶ條にそむく訳でありまして、
それでは本当の和解になっていないのであります。

「本当に和解する」と云うのは、そう云う役に立たぬけれど、
已むを得ずに逆わずにおりましょう、
と云うような自分の心を怺えながらする和解じゃないのであって、

その人の《いのち》の本当の相(すがた)を見ることが本当の和解であります。

そうして、生きとし生けるものの生命(せいめい)の実相(ほんとのすがた)を
見るようになれた時にみんな自から拝めるようになるのであります。

その本(もと)を、ハッキリとさせて、いのちの正味を、實相を、
見極めないでいながらいて、そして互に「人類よ拝みあえよ」と云っても、
それは礼拝の本(もと)が定まっていないからどこかに無理があるのです。

拝みたくないけれども堪えて止むを得ず拝んでいるというようなことでは、
堪えて我慢して感謝しているようなことでは、本当に和解が出来ていない。

そこで先ず《いのち》の本当の相(すがた)を知らなければならない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ、
天地一切のものとの和解が成立する時天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することが出来ぬ」

と云うその「和解」とは《いのち》の實相を礼拝して和解することであります。


<参考Web:『善き人生の創造』(各章へのアドレス含む)
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6525527 >

      <感謝合掌 平成29年8月17日 頓首再拝>

調和の念と黴菌 - 伝統

2017/08/21 (Mon) 18:11:17


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月21日>(P59)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって
毒性を現わすことも、毒性を現わさないこともある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいることがある」
とルネ・アランデイ博士は言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。

長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
支那軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、
味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、
戦場にいてさえも「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、無恐怖の念と、
心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。
また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

      <感謝合掌 平成29年8月21日 頓首再拝>

和解の真理の応用 - 伝統

2017/08/28 (Mon) 18:50:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月28日>(P65)より

若い娘さんがお嫁に行って、その家庭がおもしろからぬ場合に、
なんとかしてその婚家先から逃げ出そうという思いを起こすと、
病気になったりすることがある。

病気になったら実家に帰れると思うと潜在意識が
その目的を達成させるために肉体を病気にならせるのである。

嫁が、そういうふうに逃げ出そうと思っているかぎりは本当の真心を尽すことが
できないから、舅、姑から見ても百パーセントその嫁が真心を尽している
というように見えないから、舅姑の方でも不満足である。
そこでどうしても嫁に対して冷たく当たるということになる。

そして嫁と岳父母(しゅうとたち)との間に仕切りができたようになる。
けれども逃げ出すことができない。
逃げ出すことができないのを逃げ出すために病気にでもなるほかしかたがない。
そこで潜在意識が病気をつくるのである。


夫婦間の仲がわるいために病気になれば、
胸の病気か、泌尿器生殖器の病気となって現われる。
岳父母(しゅうとたち)を憎んだり、自分をこんな家へ嫁がせたのは父母が悪いと、
父母を恨んだりすると脊椎カリエスになったり、頭の病気になったりする。

こうしてその人を精神分析しただけでは病気は治らない。
本人を説得して、本人の不平や憎みを捨てさせねばならぬ。

「ここがわたしの家である。どんな苦しみであろうがどんな悪いところであろうが
わたしの家である。わたしが受けてそれを改善してゆくしか道がないのである」

そう思って、受くべきものを受けてしまう心境にならせたときに、
そしてそれを感謝の念に変えしめた時に苦しみというものが消えてしまうのである。

これが和解の真理の応用である。
和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解しているのじゃ足りない
のであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。

痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、下痢来たれば下痢に礼し、
いかなる症状をも敵と思わず、自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。
―― この心境に導くとき、病が消える。カリエスが消え、癌が消える。

精神分析は、分析の仕荒(しあ)らしだけではいかぬのである。
最後は「天地一切のものに和解し、感謝せよ」という宗教的心境にまで
誘導することが必要なのである。

神経性心悸亢進症などは心臓の動悸を恐怖していたのを、一転して
「心臓が動悸しているので血が循(めぐ)っているのである。ありがとうございます」
と感謝の言葉を唱えさせるだけで、治ってしまった実例がある。


以前樺太の敷香(しすか)町の巡査をしていた星平治という人のごときは
札幌医大で両腎臓が結核に冒されているから治療の道なしと宣言せられたのを、

腎臓の疼痛ごとに「自然療能博士が治してくださる信号だ。ありがとうございます」
とその疼痛に感謝し妻に和解するように指導しただけで治ってしまい、
戦争中召集されて満州へ3年も従軍していてなんら病気が再発しなかったと
報告せられた実例もある。

腎臓の病気も夫婦の心的葛藤から来るのであるから、
それを調和させたとき治った実例は多い。

           <感謝合掌 平成29年8月28日 頓首再拝>

いっさいの不調和は心の世界にある - 伝統

2017/09/04 (Mon) 17:46:43


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P73<9月4日>)より

誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。

実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。

どこにも自分を害した者もないのである。

いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)はまず
心の世界で克服しなければならないのである。

心の世界でそれを消滅するとき、
損をかけた人も、損をかけられた状態もなくなるのである。

             <感謝合掌 平成25年9月4日 頓首再拝>

無限の健康調和 - 伝統

2017/10/02 (Mon) 18:37:46


    *「光明法語」(10月の法語 神の国の義(ただ)しきを観る 10月2日)より  

各々の細胞がその個性を発揮しながら完全なる協力を遂げているとき
人体の健康は最も完全に実現するのである。

完全なる協力は 「本来一」 の自覚より生ずる。
人間の健康も先ず人間同士が完全に 「一」 である自覚をもって互いに相結ばれ、
人間相互にその感情が調和している時にのみ真に実現し得るのである。

人間同士の感情が争っているときには、肉体は心の影であるから、
心の乱れている限り真に無限の健康は発揮されようはないのである。

汝ら互いに調和せよ。

             <感謝合掌 平成29年10月2日 頓首再拝>

《万物はあなたの味方である》 - 伝統

2017/10/12 (Thu) 20:16:43


      *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P225) より

あなたの中には既に完全なる実相があるのである。
あなたの実相は神であり、神聖である。

あなたの実相は神と偕にあるがゆえに、未だ嘗て生れざる不生の存在である。
不生の存在であるがゆえに無始無終の存在であり決して死せざるものである。

 
あなたの実相は神であり、普遍の神と一体であるがゆえに、
あなたの実相は万物と調和しているのである。

あなたの実相は万物と調和しているがゆえに、
万物はすべてあなたの味方である。

万物すべて味方である実相をあなたが悟るならば
何らあなたにとって恐怖すべきことはないのである。
恐怖すべき事がないゆえにあなたの心は平和である。

心が平和であるがゆえに、正しい智慧が湧き出て来て、
時に随い、場所に応じて適当な行動をとることができるようになり、
凡(あら)ゆることが好都合に行くようになるのである。

             <感謝合掌 平成29年10月12日 頓首再拝>

和解した時本当に不死身の力が出て来る - 伝統

2017/10/16 (Mon) 20:34:56


      *「光明道中記(その身まったし)」
          (10月16日誰も赦した、憎む人のない日)より

【実在すなわち光明、これを不可思議光と言い、如来自在と言う。
                       (『生命の實相』第十一巻)】

   善し悪しやにくや可愛いと思わねば世界がまるでわがもの

誰の歌か知らぬがなかなか好い歌である。
生長の家の教は「天地一切のものと和解せよ」との教えである。
さてその和解はどうしたら出来るのか、答えて曰く、総感謝であると。

そんなに和解していたら戦争は出来ぬではありませぬかと質問されたこともあった。
和解した時本当に不死身の力が出て来る。

こんな話がある。

戦争のときに敵の間諜を捕えたが、軍の掟で斬らねばならぬ。
そう云う時にその間諜が平然として微笑したり、平然として合掌していたりすると
どうしても斬ることが出来ぬ。

そこで何か侮辱を与えて間諜を怒らせる
 ―― 憤ると云うことは「斬る心」を起すことである。
間諜が憤って「斬る心」を起して憎らしそうな顔をした時に思い切ってバッサリ斬れる。
斬られるのは、「斬る心」を起したからである。

無心の小児は斬ることが出来ぬ。
愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得るのである。

キリストも
「此の幼児(おさなご)の如きものならずば神の国に入ること能わず」と言ったし、

白隠禅師も
「是非憎愛総に拈抛(ねんほう)すれば、汝に許す生身(いきみ)の観自在」と
言ったが、愛憎に心が捉われるから地獄が現出するのである。

           <感謝合掌 平成29年10月16日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解がある - 伝統

2017/10/22 (Sun) 20:48:39


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(「円満具足」10月22日)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは天地一切のものが、すべて覚体であるという
前提があってのことである。覚体でなければ、和解のしようがない。ただその機械的暴力に
従うか、それを利用するか、征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月22日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統

2017/10/30 (Mon) 19:02:18


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月30日)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 平成29年10月30日 頓首再拝>

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる - 伝統

2017/11/11 (Sat) 18:43:20


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。 
                   (「イザヤ書」第三十章十五~十六節)


これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。

多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。



ヨブは 「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。


多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。

「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。



なんじ知れ 「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて
恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。

「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。


わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析して
かく導いたら治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。

         <感謝合掌 平成29年11月11日 頓首再拝>

「争いではない」と知ること - 伝統

2017/12/09 (Sat) 18:36:33


           *「光明道中記」(12月9日近くに深切を尽す日)より抜粋

【我(が)を立て通して他(ひと)に喜んで貰えなかった時の魂の淋しさを想像せよ。
                           (『生命の實相』第四巻)】

兄弟と云うものはよく喧嘩をするものである。
尤も他人とでも喧嘩をする人間はあるが、兄弟喧嘩ほど頻繁にやるものではない。
親しい筈の夫婦などよく喧嘩する。

毎日の宗教新聞を読んでいると、大抵宗教界の内紛が載せられていないことがない。
まことに一見鼻もちならぬ気持ちがするのであるが、これがやはり本当は互に親しい
からなのである。

同級生のなかでも、首席になる者とピリ滓(かす)になるものとは互に争わないが、
同一点数位の者同士は大いに競い、大いに争うのである。

仲が好い者、同点数に近い者、そうした人たちが争うのである。
争いのように見えていて、本当は争っているのではない。
近似を自覚しての動きだと云うことを知らねばならない。

そして、「争いではない」と知ったときに、形の上での争いは消えて了うのである。

         <感謝合掌 平成29年12月9日 頓首再拝>

旅立つ前の和解 - 伝統

2017/12/11 (Mon) 21:18:09


      *『致知』2017年10月号「人生を照らす言葉」(P112)より
        ~鈴木 秀子(国際コミュニオン学会名誉会長)

私は長いこと、亡くなる方の心に寄り添ってきました。

枕元でお祈りをし、

「いま、何かしたいことがありますか」

とお尋ねすると、

心にしこりの残る人は、皆さん

「あの人ともう一度仲直りをしたい」

とおっしゃいます。


魂の深いところでは
誰もが皆と繋がっていたいと願っているからです。
 
ある教え子の家庭の話ですが、
遺産相続を巡って奥さんとそのお姉さんが喧嘩をし、
30年間、お互いに顔を合わせることなく憎み続けていました。

ある時、奥さんは病に倒れ、余命数日という状態になりました。

見舞った私に細い声で

「姉さんともう一度、仲直りがしたい」

と言います。


しかし、家族は
「この場に及んで嫌な思いはさせたくない」
と大反対でした。
 
聞くと、お姉さんは、1時間以内の所に住んでいるといいます。

「これは会わせてあげなくてはいけない」

と思った私は

「すぐに呼んでください。
私が傍についていますから大丈夫です」

と家族を説得して、
お姉さんに来ていただくように連絡を取ってもらいました。

そこで驚くようなことが起きました。

病室に来たお姉さんは、妹の名前を呼んだかと思うと、
飛びつくようにベッドに駆け寄り、

奥さんもそれまでの重篤な状態が嘘のように体を起こして、

思いっきり抱き合ったのです。

「ごめんなさい、私が悪かった」

「こちらこそ、ごめんなさい」

そう言いながら滂沱の涙を流し、積年の恨みを消し去っていったのです。

奥さんは間もなくして亡くなりましたが、
いまでも忘れることのできない光景です。
 
生前、このような
「仲良し時間」を持つことは、
幸せな人生を送る上でとても大事です。

中には遠くにいて会えなかったり、
既に亡くなっていて時間を共有できない場合もあるでしょう。

そういう時でも、相手をイメージしながら
心からのお詫びと感謝の気持ちを送ることで、
恨みや憎しみを消すことができます。

(《人間力メルマガ》 2017.9.10 からの紹介)

             <感謝合掌 平成29年12月11日 頓首再拝>

「感謝によって一切のものと和解せよ」 - 伝統

2017/12/20 (Wed) 19:56:23


        *『栄える生活365章』(P29~30)より

「汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ・・・・
怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合ったとき本当の和解が成立する・・ 」(『甘露の法雨』の巻頭)

このように神は教えていられるのである。

感謝の念こそ、天地一切のものと和解する最善の魂のひびきであり、
既に受けたものに対する最も素直なる応答であり、これから将にきたらんとして、
“実相の世界”に既に準備されている善きものを“現象の世界”に受像するための
魂のひびきの同調であるのである。

             <感謝合掌 平成29年12月20日 頓首再拝>

調和すること - 伝統

2017/12/23 (Sat) 20:28:20


           *「光明道中記」(12月23日明朗歓喜の日)より

【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。(『生命の實相』第四巻)】

人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。

心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。

心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。

失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、調和の心と、強さの心とである。

では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、吾々は神と調和することが出来るのである。

神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。

             <感謝合掌 平成29年12月23日 頓首再拝>

争わないこと - 伝統

2018/01/12 (Fri) 18:50:49


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。

われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。

真空を超えてさらに高く?翔(こうしょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。

わたしはこれをこう考える ―― と言うときわたしは一つの立場に立つ。
一つの立場に立つかぎり、
「彼はこう考える」という立場をも許してやらねばならぬ。

球体の眼球(がんきゅう)を有するわれわれは、
穹窿(あおぞら<きゅうきゅう>)は
球状であって宇宙も球状であると考える。

しかしその考えをわれわれがもし三角ガラスの眼を
もった人種に強(し)いるならばまちがいである。

宗派を立ててはならぬ。偏狭がいっさいの争いの因(もと)である。
神のうちには争いはない。神はいっさの争いを、いっさいの背反を包容している。
釈迦が未(いま)だかつて何々宗という仏教を説いたことはなかったのである。

何々宗という多数の宗派は釈迦滅後に生じたのであって、
いっさいの背反を包容する超越的立場が失われたときに生じたのである。
だから釈迦は宗派争いをしたことはない。
ただ後世の仏徒 ―― いな反仏徒が宗派争いをするのである。

宗派ばかりではない。
個人の生活でも争いができるのは、
おおむね超越的立場から墜落した者の挑戦から来るのである。

            <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>

すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる - 伝統

2018/01/14 (Sun) 18:06:52


           *「光明道中記」(1月14日微笑を楽しむ日)より

【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
                         (『生命の實相』第一巻)】

優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。

赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。眼の光が澄むようにならなければ、
その人はまだ本物ではないのである。

澄んだ中にも色々の光がある。その光が色々の内容を語っている。
智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、慈愛に輝いている眼、みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。

争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。

世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。

やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。

人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。

            <感謝合掌 平成30年1月14日 頓首再拝>

すべての人と仲よく - 伝統

2018/01/27 (Sat) 18:00:10


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月27日)より

《ひとり》になる時間を持つことは大切である。
その時間は静かに自分の 魂 に対座する時間である。

しかし、《ひとり》になる時間ばかりに耽(ふけ)る者は独善主義に陥りやすい。
人は自他一体の生命(せいめい)であるから、互いに扶(たす)け合い、語り合い、
讃(ほ)め合い、勇気を付け合う時間も必要である。

孤独は《ひとつ》の徳であるが全部の徳ではない。
他人と仲の悪い孤独は悪徳でさえある。
さらに家族と仲が悪いにいたっては度すべからざる罪人(ざいにん)である。

すべての人と仲よく交わることの中に 魂 の生長があり、家庭の和楽があり、
人間らしい歓びがあるのである。

            <感謝合掌 平成30年1月27日 頓首再拝>

赦し、仲よく、日の丸の心を持つ - 伝統

2018/02/03 (Sat) 18:48:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。
失われた一匹の羊が帰って来ることは、
亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるよりも嬉しいとイエスは言った。

仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。

争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。

『生命の實相』の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」
とある一句を忘れていて病気が治らないとかこっている人はないか。

あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神は《まこと》である。《まこと》は円相である。
《まこと》とは《○(まる)こと》である。○(まる)は和解のしるしである。

まんまるい、まんまるい、あのお月様のような心こそすべての病を治す心である。

なんじの心の中の羊をしらべてみることが大切である。
亡(うしな)われたる羊はないか。
あなたを憎んで去った人はなかったか。

誤解があったならば誤解を互いにほどくこと。
憎んでいたならば赦すこと。
恨んでいたならば恨みを解(と)くこと。

心の思いと、物の負債とにかかわらず、
借りものがあったら利息をつけて返すこと。

神の前に出て、もう誰とも仲の悪い人はございません。
争っている人はございません。
すべての憎みと恨みとは完全に水に流しました。

もう誰にも負債はありませんと、
おおらかな気持ちで言いうるようになれない人は、
まだ心に病のある人である。

人の世に生活して、それほどの心になれる人は少ないにしても、
それほどの心になれないかぎりわたしたちは神の前にいと小さなる者である。

もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、
わたしたちは人を責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。

わたしたちは人を赦すほかに仕方がないのである。

ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。
ただ人と仲よしになったときのみ
わたしたちは神と仲よしになることができるのである。

仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、
人と仲が悪くなれるものではない。

人が人と仲よしになれないのは、幸福というものはただ
「心の愉快である」ことだというかくも平明な真理に眼を閉じていて、
幸福というものがなんじの心の愉快にあるのでなく、

物の多いということにあると考えたり、
虚栄、虚名が多いということにあると考えたりして、
物と、虚栄、虚名を断じて放すまいとして傲然として構えているからである。


傲慢ということはかかる心持を云うのである。
謙虚、《へりくだり》の心持は正直に事物をまともに見る心である。
まちがっていたと気づいたら素直にあやまれる心である。

放たねばならぬ物は素直に放つ心である。
本来ありもせぬ栄えとか虚名とかを、
あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
 
無邪気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、
こちらに隔(へだ)て心があるからである。

隔てのない心。角のない心。仲のよい心。
○(まる)い心。○(まる)はいっさいを包んでいる。
隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。

            <感謝合掌 平成30年2月3日 頓首再拝>

人・時・処の三相応(=大調和) - 伝統

2018/02/07 (Wed) 18:05:36


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月7日)」より

才能ということは一つの資格であるがすべてではない。
智恵と力とがいくら多くあっても人望を集めえない者は
《天の時》を得ることができない。

天の時は人望から来るのである。
人望は人の和すなわち調和から来る。

なんの働きもないのに出世しているような人を見ると、
才能があって出世しえない者は嫉妬羨望して不平に思いがちであるが、
働きというものは眼に見える才能的な、また技術的な働きばかりではない。

何をしなくとも大いに働いている人がある。
「無為にして化す」という言葉にあてはまる人はそんな人である。
あの人がいてくれるので、ただいてくれるだけでこの団体に重みがある
というような人はそういう人である。

才能ある人はこの種の「無為にして化す」る人を
羨(うらや)んで不平に思ってはならない。
唯物論の人は物質的働きしか見えないから
無為人(むいじん)に対して反抗しがちである。

無為人とは何もしない人ではない。そのままで大いに為している人である。
一家の心柱(しんばしら)であり礎石(そせき)である。

諸々の機械が滑らかに実に複雑な働きをなしうるのは、
工場の礎(いしずえ)と柱とがしっかりしているからである。
礎(いしずえ)と柱(はしら)とは無為人である。

礎と柱とは平均がとれ重心がとれていなければならない。
言い換えれば全体と調和していなければならない。
調和が生活の重心である。

才能がありあまるほどありながら、出世しない人は、
周囲と調和しない人か、不平の人か、長上のものに親しく近づいて行くことを
おべっかつかいとまちがえられることを惧(おそ)れて、
長上に近づくことを潔(いさぎよ)しとしない人か、
下の人には深切であるが上の人には恭(うやうや)しくない人かである。

栄えるためには人(ひと)・時(とき)・処(ところ)の
三相応が備わらなければならない。
人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和してゆかなければならない。

下剋上は花々しいように、あるいは潔(いさぎよ)いように思いちがえられて
若い青年たちに歓迎せられやすいが、それは人時処(じんじしょ)の
三相応を破るものであり、大調和を毀すものである。

一時効果を収めるように見えても永遠の栄えは下剋上からは来ないのである。
ドイツやイタリヤの共産革命が中途で破れたのは下剋上の革命であるからである。
ヒットラーもムッソリーニも下剋上の反動に乗ったために一時栄えたのだ。

下剋上は必ず反動が来るものである。
ソビエトにおいてすら下剋上には反動が来ている。
ロシア革命当初の元勲はすべて放逐か、国外逃亡か、銃殺されてしまっている。

ものは落ちつくところへ落ちつかせるしか仕方がない。
無理に上へあがっても結局は落ちるばかりであり、
落ちるまでは不安なばかりである。

雲雀(ひばり)は空にあって楽しく囀(さえず)り、
すずむしは草場の下にあって楽しく啼く。
すずむしを蒼空で囀(さえず)らせようと思っても無駄である。

            <感謝合掌 平成30年2月7日 頓首再拝>

《平和と調和の神》 - 伝統

2018/04/04 (Wed) 18:30:18


          *「光明法語」(4月4日)より

ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。神は平和にして調和の智慧なるかな。

空間にかかるすべての星々が、神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、調和して運行するかな。

神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちてすべてのものを調和と平和に導き給うことを
われは知るがゆえに、わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。

            <感謝合掌 平成30年4月4日 頓首再拝>

すべての時を通して、調和があらわれる - 伝統

2018/04/29 (Sun) 19:09:46


         *「人間救いの原理」より

實相を悟ったところの人々は、
彼自身は霊的存在であり、霊なる宇宙の中に住んでおり、
その霊なる宇宙は霊的法則によって支配せられており、

而して彼らは霊的力に依って
支配せられているのであると云う事を知っているのであります。

まことにも、かかる人にとっては総ての神の力と、
實相宇宙の総ての資源は彼等の背後に既にあるのであります。
何の恐れることがありましょう。

この眞理をただ悟ることの出来る所の人々は、如何なる混乱、
又は不調和が一時周囲に起こって来たように見えようとも、
實相は完全であると云うことを知って動揺することはないのであります。

この様な人は現象に於いて不調和の世界に取り囲まれていましても、
而も尚不調和の世界に属するものではありません。

かかる人の人生の一歩一歩には深き神の守りがあるのであります。

必要に従ってなくてならぬものは供給せられ、
総ての時を通じてそこに調和が現れるのであります。

「神の国の正しきのみが實在の世界なのであります。
その調和の中に、神の子達は、何れもその処を得、その時を得て正しき生活を営み、
それを完全に為し遂げている」

と故ラウンス氏がいみじくも言った如き状態が、實在の世界であります。

それは實在の世界の實相を瞑想によって深く思念することによって得られるのであります。


(尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑧ (7826)
日時:2017年10月11日 (水) 18時26分名前:平賀玄米
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785 より転写)

            <感謝合掌 平成30年4月29日 頓首再拝>

害心を持つものは本来無い - 伝統

2018/05/22 (Tue) 18:39:57


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より

すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。

一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。

もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。

            <感謝合掌 平成30年5月22日 頓首再拝>

「和」のあるところに害はない - 伝統

2018/05/23 (Wed) 17:27:18


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より

一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。

火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。

「和」のあるところに害はない。

いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。

胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、胃腸病になるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月23日 頓首再拝>

調和ある動作をする - 伝統

2018/06/06 (Wed) 19:48:10


         *「光明道中記」(6月6日 心やわらかになる日)より

【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
 
柔かい心で一切を受け容れること。

上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。

一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。

弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。

先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。

而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。

柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。

調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。弾ね返す力がなければならない。

            <感謝合掌 平成30年6月6日 頓首再拝>

神との和解 - 伝統

2018/07/13 (Fri) 19:05:39


        *「光明法語」(7月13日 生命の本源は神)より

吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。

先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。

神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。

されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。

神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。

            <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>

一切調和の世界観をもった時、本来相が現れる - 伝統

2018/07/21 (Sat) 21:17:15


          *「光明法語」(7月19日~21日)より

七月十九日の法語 霊は物質を支配す

生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。

ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。

実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。

・・・

七月ニ十日の法語 黴菌の使命

黴菌にまけると思う人があるが、黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。

だいたい黴菌は植物であるが、植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)
かわりに、播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。

それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。

・・・

七月ニ十一日の法語 争闘の世界観を捨てよ

かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。

人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。

            <感謝合掌 平成30年7月21日 頓首再拝>

テロリスト - 伝統

2018/08/14 (Tue) 19:17:26


      *「フリーエネルギー版 宇宙にたった1つの神様の仕組み」
        飯島秀行・著(P105~106)より

世界中でテロが横行しています。

テロリストとは、どういう人ですか、と問われたら、どの様に答えますか?

悪い人だ、人殺しだ、と答える人が多いと思います。

我々から見れば、不当な集団であり、彼らから見れば正当な集団なのです。

テロとは、政府等に不満を持ち、自分らを正当化する集団だと思います。

政府から見れば悪党の集団だし、テロリストから見れば、お前たちの自由には、
させない、とお互い自己主張します。

自我意識同士がぶつかるわけですから、埒(らち)があきません。

挙句(あげく)の果てには、お互い武器を持って殺し合いします。醜い姿です。

喧嘩(けんか)の原因は全て自我意識です。自分が正しいのだ、と自己主張します。

一国を預かる国の代表は、真理を理解していなければなりません。政府の人達
が真理を理解しているなら、争いもなく国益に繋がるのです。

自我意識では絶対に終結を迎える事はありません。どちらかが皆殺しに成らない
限り不可能です。

自我意識が有る限り、世界の平和は訪れません。

テロを無くすには、真理を持ってくる以外ありません。

真理が必要なのは、テロリストだけではなく、
国家、国民、世界の人々すべての、人間にいえる事です。

            <感謝合掌 平成30年8月14日 頓首再拝>

調和の念と黴菌 - 伝統

2018/08/21 (Tue) 18:30:00


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいることがある」
とルネ・アランデイ博士は言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。

長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
支那軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、
味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、
戦場にいてさえも「天地一切のものとの調和」を念じ、
心に病を思わず、全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、無恐怖の念と、
心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。

また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

        <感謝合掌 平成30年8月21日 頓首再拝>

念仏を申す教えで、攻撃し合うなどは浅猿(あさま)しいこと - 伝統

2018/08/22 (Wed) 19:26:28


   *「光明道中記」(8月22日 争い悉く解くる日)より

【宗教とは教祖が計画的に拵えたものではない。(『生命の實相』第十四巻)】

(歎異抄第六条)

   専修念仏のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、
   もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、
   わがはからひにて、ひとに念仏をもうさせさふらばこそ、弟子にてもさふらはめ、
   ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて、念仏まうしさふらふひとを、
   わが弟子とまうすこと、きはめて荒涼のことなり。

専修念仏すなわち専ら念仏を修めて救われるようと云う教の宗派にいながら、
あれは親鸞の教派、あれは××の教派が異(ちが)うから救われないなど
と言う者があるが以ての外である。

親鸞の開いた教派などと云うものは一つもないし、
親鸞の弟子などと云うものも一人もない。

念仏を申すようになるも、念仏宗を開くのも自力でそう云うことが出来るのではなく、
仏の本願力(他力)が廻向(まわりまわ)って
自分の中に催(もよお)して来たのであるから、

自分が開山ではなく、
また自分の教に共鳴して念仏を申すようになった人も自分の弟子ではない。

それに何ぞや、自分自身を開山のように思い、
一緒に念仏する人を自分の弟子のように思い、
他の教には仏の慈悲が催しているのだとは考えないで攻撃し合うなどは
浅猿(あさま)しいことだと親鸞聖人は仰せられたのである。

       <感謝合掌 平成30年8月22日 頓首再拝>

生かし合いがあるばかり - 伝統

2018/10/03 (Wed) 18:29:23


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月3日 却下(あしもと)を見る日)より

【成功とは金でも名でもない。生命が向上進歩することだ。(『生命の實相』第十一巻)】

吾々は人生観を根本的に変えなければならないのである。人生観が万事である。

奪わなければ偉大になることが出来ないと思っている者の世界は呪われている。
彼は根本的に「人生」と和解していないからである。

ダーウィンの進化論はユダヤ人が人間を「神」の自覚から墜落せしめ、世界を混乱に陥れる
ために発明した学説だと言う人もあるが、ダーウィンの進化論で人類に最大の衝動を与えた
のは生存競争の概念であり、「生物は他を殺さなければ生きられない」との理論である。

生物の相互扶助の概念もないことはないが、著しくそれが圧縮(おしちぢ)められた。

すべての生物の生命は、神なる大生命から生れたものであるから、自然そのままの、
換言すれば、神の叡智の構図そのままに生活している時には殺し合いはないのである。

そこには生かし合いがあるばかりである。
この状態を”エデンの楽園”と象徴的に名づけるのである。

魚族の如きは多数の産卵をしてそれが孵化して稚魚になる数も大変なものである。
その稚魚は親魚及び他の大魚の餌となって食されてしまう。

それは、一見殺し合いのようであるけれども、
魚族には一尾一尾は人体の細胞の如く個性霊魂はないのである。
魚族としての全体の種族生命に融合包含されているのである。

           <感謝合掌 平成30年10月3日 頓首再拝>

和解した時本当に不死身の力が出て来る - 伝統

2018/10/16 (Tue) 17:10:49


    *「光明道中記」(10月16日 誰も赦した、憎む人のない日)より

【実在すなわち光明、これを不可思議光と言い、如来自在と言う。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

   善し悪しやにくや可愛いと思わねば世界がまるでわがもの

誰の歌か知らぬがなかなか好い歌である。
生長の家の教は「天地一切のものと和解せよ」との教えである。
さてその和解はどうしたら出来るのか、答えて曰く、総感謝であると。

そんなに和解していたら戦争は出来ぬではありませぬかと質問されたこともあった。
和解した時本当に不死身の力が出て来る。

こんな話がある。

戦争のときに敵の間諜を捕えたが、軍の掟で斬らねばならぬ。
そう云う時にその間諜が平然として微笑したり、平然として合掌していたりすると
どうしても斬ることが出来ぬ。

そこで何か侮辱を与えて間諜を怒らせる
 ―― 憤ると云うことは「斬る心」を起すことである。
間諜が憤って「斬る心」を起して憎らしそうな顔をした時に思い切ってバッサリ斬れる。
斬られるのは、「斬る心」を起したからである。

無心の小児は斬ることが出来ぬ。
愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得るのである。

キリストも「此の幼児(おさなご)の如きものならずば神の国に入ること能わず」
と言ったし、

白隠禅師も「是非憎愛総に拈抛(ねんほう)すれば、汝に許す生身(いきみ)の観自在」
と言ったが、愛憎に心が捉われるから地獄が現出するのである。

           <感謝合掌 平成30年10月16日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解がある - 伝統

2018/10/22 (Mon) 18:40:48


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月22日>(P106)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、きっと、
岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは
天地一切のものが、すべて覚体であるという前提があってのことである。
覚体でなければ、和解のしようがない。

ただその機械的暴力に従うか、それを利用するか、
征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月22日 頓首再拝>

争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである - 伝統

2018/10/24 (Wed) 17:17:23


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月24日>(P107)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、あれは真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月24日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統

2018/10/30 (Tue) 19:02:29


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月30日>(P115)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>

近くに深切を尽す - 伝統

2018/12/09 (Sun) 19:13:43


           *「光明道中記」(12月9日 近くに深切を尽す日)より

【我(が)を立て通して他(ひと)に喜んで貰えなかった時の
魂の淋しさを想像せよ。     (『生命の實相』第四巻)】


支那事変の原因は色々あるであろうが、
日本が満州に進出して急発展する民族的嫉妬もその原因の一つである。
日本人が白人種であったら急発展しても中国人民は今まで白人が
中国大陸に進出しても反抗しなかったと同じようだったと思う。

一面から言うと、日中互に争ったと云うのは同族と云う自覚があるからである。

兄弟と云うものはよく喧嘩をするものである。
尤も他人とでも喧嘩をする人間はあるが、
兄弟喧嘩ほど頻繁にやるものではない。
親しい筈の夫婦などよく喧嘩する。

毎日の宗教新聞を読んでいると、大抵宗教界の内紛が載せられていないことがない。
まことに一見鼻もちならぬ気持ちがするのであるが、
これがやはり本当は互に親しいからなのである。

同級生のなかでも、首席になる者とピリ滓(かす)になるものとは互に争わないが、
同一点数位の者同士は大いに競い、大いに争うのである。

仲が好い者、同点数に近い者、そうした人たちが争うのである。

争いのように見えていて、本当は争っているのではない。
近似を自覚しての動きだと云うことを知らねばならない。

そして、「争いではない」と知ったときに、形の上での争いは消えて了うのである。

           <感謝合掌 平成30年12月9日 頓首再拝>

《争いの念が多少ともあれば和解せよ》 - 伝統

2018/12/12 (Wed) 20:05:02


       *『人生の秘訣365章』第8篇(P199) より

祈りが成就しないのは、隣人(家族、知人、上役、下役、同僚等)と
不調和又は争いの感情がまだ多少残っているためであることがある。

そのために、既に神は「頼まないでもお陰はやってある」と仰せられているのに、
その恵みを受像することができないで、テレビの画面が波になって流れて
しまうように、お蔭が流れてしまって実現しないのである。

祈りが成就しないのを歎く前に、先ず自分自身を反省してみて、
誰かと不調和の感情をもっているならばそのような感情を調和の感情に変え、
更に感謝の感情に変え、相手の人ともよく談合して旧交を深く温めるがよい。

これによって、神の恵みに波長を合わす妨げとなっていた雑音が消えてしまい、
神の恵みをハッキリ受像し得るようになれるのである。

           <感謝合掌 平成30年12月12日 頓首再拝>

Re: 和 ② - vdfybiegrMail URL

2020/08/29 (Sat) 22:00:50

伝統板・第二
vdfybiegr http://www.g4xc567q3959v49r8tvul6c8c7m90pgts.org/
[url=http://www.g4xc567q3959v49r8tvul6c8c7m90pgts.org/]uvdfybiegr[/url]
<a href="http://www.g4xc567q3959v49r8tvul6c8c7m90pgts.org/">avdfybiegr</a>

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