伝統板・第二

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江戸時代後期の天皇の権威を確立した2代の天皇 - 夕刻版

2017/03/15 (Wed) 17:41:53

江戸時代後期の天皇の権威を確立した2代の天皇(光格天皇、孝明天皇)


《光格天皇(第119代) ~明治維新の基を築いた62年の治世》

        *Web:Japan On the Globe( H19.07.01)より

 その62年の治世で皇室の権威は著しく向上し、尊皇攘夷運動の核となりえた。

(1)御所を廻る数万の人々

   それは、天明7(1787)年6月7日に始まった。
   京都の御所の築地塀の周りを廻る人々が現れた。

   ある記録によれば、どこからか老人が来て、御所の周囲12町(1300メートル)を廻る
   「御千度(おせんど)」をしたのが、発端だという。

   7日には50人ほどの程度であったが、次第に数を増し10日には1万人もの
   老若男女が集まって塀の周りを廻った。その人数は、18日前後の数日間に
   ピークを迎え、1日7万人に達したという。

   人々は南門にたどり着くと、その少し低くなった柵の垣根から、
   銭を南門前面の敷石に投げ入れ、その向こうにある紫宸殿(ししんでん、御所の正殿)
   に向けて手を合わせた。現代の初詣と同じ光景である。

   この「御所御千度参り」に集まったのは京都の人だけではなかった。
   噂は大阪や近国にまたたく間に広まり、大阪から伏見までの淀川を行く船の業者は、
   運賃を半額にした「施行船」を仕立てて、客を運んだ。

   沿道では参拝者に茶や酒、食事が振る舞われた。

   暑さの厳しい頃なので、御所では築地塀の周囲の溝に、冷たい湧き水を流して、
   手や顔を洗えるようにした。

   後桜町上皇は、3万個のりんごを配らせたが、昼前になくなってしまったという。

   隣接する有栖川宮家、一条家、九条家、鷹司家は、茶や握り飯を配った。

   菓子や、酒、トコロテン、瓜などを売る露天商が5百人ほども出た。

   (次に続く)

・・・

<参考Web:産経デジタル(2017.1.10)
       ~光格天皇の「あるべき天皇像」を模索した姿
      http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/170110/plt17011008000002-n1.html

       光格天皇(1771~1840年) 第119代天皇。
       現在の天皇家の祖にあたる。後桃園天皇の崩御に伴い、
       9歳で傍系の閑院宮家から即位。

       幕府と衝突しながら中世以来絶えていた神事の再興や朝権の回復に努め、
       「天皇」の称号を約900年ぶりに復活させた。

       1779年から1817年まで約39年天皇に在位し、
       仁孝天皇(第120代)に譲位後は上皇として23年君臨した。


           <感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝>

《光格天皇(第119代)》~その2 - 伝統

2017/03/16 (Thu) 18:48:37


(2)幕府の威光は地に落ちた

   人々は御所、すなわち天皇に何を祈ったのか。

   当時の資料では「飢渇困窮につき祈誓」「米穀不自由につき」
   「米穀段々高値になり」などと記している。

   天明の飢饉で米価が高騰し、差し迫った生活苦からの救済と、
   五穀豊作を祈願したのである。

   米価が高騰し、餓死者まで出るという困難な事態に、
   人々は、幕府の京都所司代や京都町奉行所に繰り返し嘆願した。
   ところが、これらの役所はいっこうに救済策をとらなかった。

   前月5月には、怒った大坂の町民が数十軒の米穀商人の家を襲った。
   堺、播磨、紀伊でも同様の打ち壊しが起こった。

   そして5月19日から5日間、将軍のお膝元の江戸でも数百人が
   鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし竹槍で武装して、騒擾を起こした。

   江戸時代で最悪と言われる天明の大飢饉だが、
   いずれの地においても、幕府は有効な施策をとっていなかった。

   幕府の威光は地に落ちた。

   もはや幕府に頼んでも埒(らち)が明かないと悟った人々は、
   御所千度参りという形で、天皇に救済を訴えたのである。


(3)光格天皇の幕府への前例なき申し入れ

   光格天皇は、これを見て、すぐさま行動に移った。
   御所御千度参りが数万人の規模に達した6月12日、関白・鷹司輔平を通じて、
   対幕府の窓口である武家伝奏に、幕府方の京都所司代に対して窮民救済に関する
   申し入れをするよう、命じた。

 世上困窮し、飢渇死亡の者数多これあるのよし、
     内院(天皇と上皇)ははなはだ不憫に思し召され、、、

 賑給(しんごう、古代の朝廷が毎年5月に全国の貧窮民に米や塩を賜った儀式)
   などはできないか、関東から救い米を差し出して貧窮を救うことはできないか、
   との申し入れであった。

   朝廷が江戸幕府の政治に口を出す、などという事は、それ以前には
   まったく前例がなく、まさに前代未聞の申し入れであった。

 江戸の幕府は、申し入れ以前から米500石(7.5トン)を救済手当てに
   使っても構わないと京都所司代に指示を出していたが、朝廷からの申し入れを受けて、
   さらに千石(15トン)の救い米放出を命じ、これを朝廷に報告した。


   この年の11月に挙行された大嘗祭では、光格天皇の
   次の御製(お歌)が世上に流布し、評判となった。

身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ

(自分のことで何も祈ることはない。
     朝な夕なに民安くあれと思うばかりである)


   飢饉に対して手をこまねいて民の打ち壊しに見舞われた将軍と、
   ひたすらに万民の安寧を祈り、幕府に救済を命ずる天皇と、
   鮮烈なコントラストが万民の目の前に明らかになった。

 後に明治維新として結実する尊皇倒幕の大きなうねりは、ここから始まった。


   (次に続く)

<参考として、Web「その日、歴史が動いた(光格天皇)」
      ( http://bushoojapan.com/tomorrow/2013/11/17/9771#i)>

           <感謝合掌 平成29年3月16日 頓首再拝>

《光格天皇(第119代)》~その3 - 伝統

2017/03/17 (Fri) 19:10:40



(4)青天の霹靂の即位

   光格天皇は9歳という幼少で、閑院宮家という傍系から、
   は からずも皇位についた方だった。

   閑院宮家は宝永7(1710)年に新井白石の意見により、
   皇位継嗣の安定のために創設された宮家であった。

   東山天皇(第113代)の第6王子直仁親王が初代であり、
   その3代目の第6王子が佑宮(さちのみや)、後の光格天皇であった。

   そもそも傍系宮家のそのまた第6王子では、皇位につく可能性は
   ほとんどないため、わずか2歳にして、いずれ出家し聖護院門跡を
   継ぐことが予定されていた。

   佑宮が9歳の時に、運命は急転した。

   当時の後桃園天皇(第118代)が、病気のために急逝してしまった。
   わずか22歳の若さであり、子供もその年に生まれた女子しかいなかった。

   朝廷は幕府と秘密裏に交渉して、佑宮を後継とした。
   後桃園天皇の死から一月も経たないうちに、
   佑宮は御所に連れてこられ、新天皇となった。

   まさに青天の霹靂の即位であった。

   傍系から幼少にして皇統を継いだために、朝廷や幕府の中には、
   光格天皇を軽んじる向きがあったという。

   それを案じたのか、先々代の後桜町院(*)は天皇に学問を熱心にするよう勧めた。

     *後桜町天皇(女帝、第117代)。
      先代・後桃園天皇の伯母にあたる。
      後桃園天皇は父・桃園天皇が亡くなった時、まだ5歳だったため、
      成長するまでの中継ぎとして皇位についた。
      
   光格天皇もその期待に応え、熱心に学問に励んだ。

   傍系として軽んぜられている、という事を幼少ながら感じ取っていたのであろう。
   理想的な天皇像を追い求め、それを立派に演じよう、という志をお持ちだったようだ。


   御所御千度参りが起きた天明7(1787)年には、光格天皇は数え17歳となったいた。
   関白として九条尚実がいたが、老齢にして数年前から病気となっていた。

   この頃には、近臣の補弼を得ながら、自ら朝廷の中心となって、
   政務を取り仕切っていたようである。

   この点も、ここ数代の天皇とは異なっていた。

           <感謝合掌 平成29年3月17日 頓首再拝>

《光格天皇(第119代)》~その4 - 伝統

2017/03/18 (Sat) 18:39:42


(5)天下万民への慈悲仁恵のみ

   寛政11(1799)年、後桜町上皇から与えられた教訓への返書に、
   光格天皇は次のように書いている。


      仰せの通り、身の欲なく、天下万民をのみ、慈悲仁恵に存じ候事、
      人君なる物(者)の第一のおしえ、論語をはじめ、あらゆる書物に、
      皆々この道理を書きのべ候事、
      すなわち仰せと少しのちがいなき事、

      さてさて忝なく存じまいらせ候、なお更心中に右のことども
      しばしも忘れおこたらず、仁恵を重んじ候はば、神明冥加にもかない、
      いよいよ天下泰平と畏(かしこまり)々々々入りまいらせ候・・・


      (仰せの通り、自身の欲なく、天下万民への慈悲仁恵のみを思うことは、
      君主たる者の第一の教えであると、論語をはじめ、あらゆる書物に、
      みなこの道理が書かれていることは、
      仰せと少しの違いもなく、さても有り難く存じます。

      さらに心中にこの事をしばしも忘れ怠ることなく、
      民への 仁恵を重んずれば、神のご加護も得られて、
      いよいよ天下泰平と、つつしんで承りました)



   無私の心で、ひたすらに天下万民の幸福を祈ることが、皇室の伝統であり、
   光格天皇は学問を通じて、それを強く意識していた。

   「身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ」という御製も、
   ここから出たものである。

           <感謝合掌 平成29年3月18日 頓首再拝>

《光格天皇(第119代)》~その5 - 伝統

2017/03/19 (Sun) 18:54:32


(6)ロシア軍艦の来襲

   天明の飢饉による各地での打ち壊しとともに、
   幕府の権威をさらに失墜させた事件が起きた。
   文化3(1806)年のロシア軍艦の北辺からの攻撃であった。

   寛政4(1792)年に来日したロシア使節ラックスマンに対して、
   幕府は通商許可をほのめかしていたが、

   文化元(1803)年に来訪した使節レザノフには、全面的な拒否回答を行った。

   これに怒って、ロシア軍艦が文化3年9月に樺太、
   翌年4月に樺太と択捉(エトロフ)、5月に利尻の日本側施設、船舶を攻撃し、
   幕府は東北諸大名に蝦夷地出兵を命ずるなど、軍事的緊張が一気に高まった。

   江戸ではロシア軍が東海地方から上陸するとか、
   すでに東北地方に侵入した、との噂が立っていた。

   また、外国との戦争で、わが国開闢以来の敗北を喫したことは、
   日本国の大恥だと、幕府を批判する言動も登場した。

   ロシアとの本格的な戦争に備え、幕府は諸大名に
   大規模な軍事動員を覚悟しなければならない情勢となった。

   そのための布石であろう、幕府は進んで朝廷にこの事件を報告した。

   いざという時には、朝廷の権威を借りて、
   国家一丸となって戦う体制を作ろう
   と考えていたのかも知れない。

   幕府が外国とのやりとりを朝廷に報告するのは、これが初めての事であった。
   それだけ幕府も自信を無くしていたのであろう。

   そしてこの先例が根拠となって、後に幕府が外国と条約を結ぶ場合は、
   朝廷の勅許がいる、との考え方が広まっていく。


(7)危機に立ちあがる天皇

   この時期に、光格天皇は石清水八幡宮と加茂神社の臨時祭再興に熱意を燃やしていた。
   この二社は、伊勢神宮に継ぐ崇敬を朝廷から受けていた。

   石清水臨時祭は、天慶5(942)年に平将門・藤原純友の乱平定の御礼として
   始められたが、永享4 (1432)年に中絶されたままであった。

   加茂神社は皇城鎮護の神を祀り、国家の重大事には、
   かならず皇室から奉幣、御祈願があった。しかし、こちらの臨時祭も
   応仁の乱(1467-1477)後に中断していた。

   光格天皇は早くから、両社の臨時祭再興を願っていたが、
   ロ シア軍艦の襲撃のあった文化3年から幕府との交渉を本格化させた。

   開催費用がネックとなったが、幕府の老中は「禁中格別の御懇願」と
   光格天皇の熱意を受けとめた。

   その結果、文化10(1813)年3月、石清水臨時祭が約380年ぶりに挙行され、
   翌年11月には加茂神社臨時祭も約350年ぶりに再興された。

   この石清水八幡宮と加茂神社には、幕末に次々代の孝明天皇が
   将軍家茂を同道して、攘夷祈願のため行幸されている。

   こうした国家護持祈願に立つ天皇の姿は、
   危機の中で国を支えているのは皇室である、
   と改めて人々に印象づけたであろう。

           <感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝>

《光格天皇(第119代)》~その6 - 伝統

2017/03/20 (Mon) 17:41:37


(6)国土と国民は天皇が将軍に預けたもの

   こうして、内憂外患に十分対応できない幕府の威光が低下する一方、
   光格天皇の努力により朝廷の権威は徐々に輝きを増していった。

   この傾向を学問的にも定着させたのが「大政委任論」の登場だった。

   本居宣長は天明7(1787)年に執筆した『玉くしげ』の中で、
   「天下の御政(みまつりごと)」は朝廷の「御任(みよさし)」
   により代々の将軍が行う、

   すなわち国土と国民は天皇が将軍に預けたものであって、将軍の私有物ではない、
   と主張した。

   大坂の儒者・中井竹山、後期水戸学の祖・藤田幽谷も、同様の論を展開した。


   学者・思想家だけでなく、老中首座・松平定信は、天明8 (1788)年に
   当時16歳の将軍・徳川家斉に対して「将軍家御心得十五カ条」を書いて、
   同様の主張をしている。


      六十余州は禁廷(朝廷・天皇の意)より御預かり遊ばされ候事に御座候えば、
      かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候。

      (日本全国は朝廷よりお預かりしたものであり、
      かりそめにも将軍自身の所有と考えてはならない)

   若き将軍への戒めとして、大政委任論が説かれている。

   しかし、この論は、委任された大政を幕府がしっかり果たせない場合には、
   それを朝廷に奉還すべき、という主張に発展する。

   幕末の「大政奉還」論がここに兆していた。

           <感謝合掌 平成29年3月20日 頓首再拝>

《光格天皇(第119代)》~その7 - 伝統

2017/03/21 (Tue) 18:01:03


(9)約900年ぶりの「天皇」号復活

   天保11(1840)年11月、光格天皇は在位39年、院政23年という
   異例の長きにわたった70歳の生涯を終えた。

   この間に、天皇の権威は大きく向上した。

   「光格天皇」との称号は、崩御後に贈られたものである。
   これは当時の人々を驚かせた。

   江戸時代、天皇のことは通常「主上」「禁裏」などと称し、
   そもそも「天皇」とは馴染みのない呼称だった。

   また第63代の「冷泉院」から先代の「後桃園院」まで
   「院」をつけるのが通常であり、「天皇」号の復活は、
   57代約900年ぶりのことであった。

   皇室伝統の復活に捧げられた光格天皇の御生涯を飾るにふさわしい称号であった。

   日本近世史を専門とする藤田覚・東京大学文学部教授は、もし江戸時代中期に
   ペリーの黒船がやってきたならば、そもそも幕府が条約勅許を朝廷に求めることも
   なかったろうし、外様大名や志士たちが攘夷倒幕のために、尊皇を持ち出すことも
   なかったろう、と述べている。

   光格天皇以前の朝廷は、それに相応しい政治的権威を
   身につけていなかったからである。

   その場合、攘夷倒幕運動のエネルギーを「尊皇」のもとに結集できず、
   幕府と外様大名の間で長く内戦が続き、日本が植民地化されていた可能性が高い、
   と藤田教授は指摘している。
          [藤田覚『幕末の天皇』★★、講談社選書メチエ、H6,p5]


   光格天皇の孫にあたる孝明天皇が、幕末に尊皇攘夷のエネルギーを結集し、
   曾孫にあたる明治天皇が、王政復古の旗印のもと近代国家建設の中心となった。

   9歳から70歳まで「朝な夕な民安かれ」と祈り続けた光格天皇が、
   その基を作られたのである。
   (http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog503.html



<参考Web:陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前
       → http://www.sankei.com/life/news/170124/lif1701240001-n1.html >

   (以上で、光格天皇の項を終えます。
    次回は、孝明天皇の項を紹介してまいります)

           <感謝合掌 平成29年3月21日 頓首再拝>

《仁孝(にんこう)天皇(第120代)》 - 伝統

2017/03/22 (Wed) 19:23:19


光格天皇(第119代)→ 仁孝天皇(第120代)→ 孝明天皇(第121代)


仁孝(にんこう)天皇(1800年~1846年)

1800年(寛政12年)。

仁孝天皇は光格天皇の子どもとして誕生。

18歳で光格天皇の譲位を受けて天皇となります。

仁孝天皇は父の意志を継ぎ、儀式の復興に力を注ぎます。

また、皇族や公家の教育機関設置として、御所の建春門外に学習所を設置。

学習所では主に和漢の学問が講じられ、次第に尊王論者が集まるようになりました。



1846年(弘化3年)。

仁孝天皇が47歳で崩御。、
第四皇子の統仁親王(おさひとしんのう)が天皇に即位。(孝明天皇)

           <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>

《孝明天皇(第121代)》~その1 - 伝統

2017/03/24 (Fri) 19:32:55

澄ましえぬ水にわが身は沈むとも ~ 孝明天皇(第121代)の闘い

        *Web:Japan On the Globe( H29.03.12)より

《孝明天皇(第121代)》~その1

 幕末の危機に、孝明天皇は一身を省みず、
 国内の一致結束と国家の独立維持のために闘った。

(1)「孝明天皇が攘夷にあそこまでこだわらなかったら」

   幕末・維新前夜、開国か攘夷かを巡って国論が割れ、混乱した時代に、
   明治天皇の父君である孝明天皇の果たした役割が改めて評価され始めている。

   「孝明天皇が攘夷にあそこまでこだわらなかったら、
   日本の幕末史はまったく違ったものになったと考えられる」とは、
   幕末史の研究家・家近良樹・大阪経済大学助教授の言である。
           [家近良樹『孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点』, p27]

 
   近世史を専門とする藤田覚・東京大学名誉教授は、
   さらに具体的に、次のように指摘している。


      もし、江戸幕府が求めたとおりに通商条約の締結を勅許していたならば、
      その後の日本はかなり異なった道を歩んだのではなかろうか。

      たとえば、反幕府運動、攘夷運動の高揚による幕府の崩壊とともに、
      幕府と一体化した天皇・朝廷もともに倒れ、その千数百年の歴史に
      ピリオドを打つという事態も想定される。

      また、外圧に屈伏した幕府・朝廷に対する反幕府反朝廷運動と、
      攘夷運動の膨大なエネルギーの結集核が不在のため、
      長期に内戦状態が続き、植民地化の可能性はより高かったのではないか。
              [藤田覚『幕末の天皇』★★★、講談社学術文庫, 52]

   本編ではこうした「異なった道」を身をもって防いだ
   孝明天皇の闘いの様を辿ってみよう。

   (次に続く)

           <感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>

《孝明天皇(第121代)》~その2 - 伝統

2017/03/25 (Sat) 18:13:08


(2)揺らぐ幕府の権威、高まる朝廷への期待

   江戸時代、京都の御所でひっそりと民の安寧を神に祈っていた皇室で、
   最初に幕府の政治に口を挟んだのが孝明天皇の祖父・光格天皇だった。

   天明7(1787)年の大飢饉の際に米価が高騰したが、幕府の無策により、
   お膝元の江戸でも民が打ち壊し(暴動)を起こした。

   幕府に愛想を尽かした民は皇室に助けを求めた。
   困窮した人々が神社で祈るような気持で、御所の周囲を回り始めたのである。
   その数、一日数万人に及んだ。

   光格天皇は、古代の朝廷が全国の窮民に米や塩を送った例をあげて、
   幕府に救済措置がとれないか、と打診した。
   朝廷が幕府の政治に口を挟むということは前例がなく、まさに前代未聞の事だった。

   幕府は計画していた救助策に、さらに千石(15トン)の救い米供出を決定し、
   朝廷に報告した。

   文化3(1806)年、4年には、ロシア軍艦が樺太、択捉(エトロフ)島の
   日本人居留地を襲った。江戸では、ロシア軍がすでに東北地方を侵略した、
   との噂まで流されていた。

   うち続く内憂外患に幕府の権威が落ちる一方で、
   本居宣長の国学や藤田幽谷の水戸学などで、幕府の統治権は
   天皇より委任されたものという考え方が広まっていた。

   幕府は人心統一のために、ますます朝廷の権威に頼らざるを得なくなっていった。

(3)「衆議公論」

   嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船艦隊が来航し、通商を求めた。
   幕府は朝廷に報告するとともに、諸大名にも意見を求めた。

   この時は、孝明天皇は
   「人心動揺により国内が混乱し、国体を辱めることのないように」という叡慮を伝えた。

   天皇は、アメリカ船に水や燃料を提供する人道的な措置であれば
   「神国日本を汚すことにはならない」と考えており、
   それに沿って幕府は翌年、ペリーと日米和親条約を結んだ。

   安政3(1856)年に着任したアメリカ総領事ハリスは、
   幕府に通商条約を結ぶことを提案した。

   これは本格的な貿易を始めることとなるので、幕府は諸大名を集めて説得に努めたが、
   大名の中からは、朝廷の勅許(許可)を求めるべき、という意見が出た。

   この時点では、幕府は勅許を得て、それによって諸大名の異論も封じることが
   できると考えていた。当時、朝廷の実力者として30数年間、君臨していた
   太閤・鷹司政通が開国論者であったからだ。

   70歳の政通に対して、孝明天皇はわずか28歳、祖父と孫ほどの違いがあった。
   幕府は政通に工作して、孝明天皇の意思に関係なく、
   「幕府に一任」の勅許を出させようとした。

   しかし、孝明天皇は、太閤に遠慮することなく、
   公家が自由に意見を言えるようにすべし、とした。

   まさに日本の政治伝統の「衆議公論」を唱えたのである。
   公家たちは政通の専横を排し、

   「人心の折り合い(国内の合意)が重要なので、諸大名に意見書を提出させ、
   天皇のご覧に入れるよう」との多数意見でまとまった。

   (次に続く)

           <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>

《孝明天皇(第121代)》~その3 - 伝統

2017/03/27 (Mon) 18:31:20


(4)「わが国を侵略しようとするもの」

   政通は御所に乗り込み、この決定を覆そうとしたが、天皇の意思は変わらなかった。
   天皇の考えは、後に書かれた次のような宸翰(天皇の自筆の文書)に示されている。


      通商条約は、表面上は友好をうたっているが、じつはわが国を侵略しよう
      とするものなので、誰が何と言おうと許しがたい。

      条約を締結しなければ外国と戦争になるだろう、
      しかし平和に慣れたわが国の軍備は弱体化し、まことに「絶対絶命の期」である、

      「夷」(諸外国)を成敗できないのでは、「征夷大将軍」の官職名に
      ふさわしくなく、嘆かわしいことである。


   欧米諸国が通商を求めるのは、「わが国を侵略しようとするもの」というのも、
   当時の東アジア諸国が次々と植民地化されている情勢を眺めれば、一目瞭然であった。

   1842年には清国がイギリスとのアヘン戦争に負けて、香港を奪われていた。
   清国はイギリス商人が売り込むインドのアヘンが麻薬中毒患者を激増させ、
   貿易収支を悪化させているので、これを禁止しようとしたのを、
   イギリス艦隊が強引にねじ伏せたのだった。

   その砲艦外交は、日本の朝野に衝撃を与えていた。


   米国との通商を拒否したら戦争になるというのは、ペリーの国書から明らかであった。

   そこには、通商拒否は「天理に背く」ことで、
   「干伐(戦争)を持って、天理に背くの罪を糺(ただ)」さんとする、
   という文言があった。

   そして戦争になればアメリカが勝つので、降伏の際はこれを押し立てよ、
   と白旗まで送っていたのである。


   今日の文明化した欧米諸国を思い描いて、
   「攘夷」とは文明国との自由貿易を拒否した頑迷な封建思想と
   考えては正確ではない。

   当時の欧米諸国は、チベット、ウイグルを占領・搾取している今日のシナと
   同様の侵略国家であった。

   「攘夷」とはその侵略と戦って、国家の独立を守ろうとする考えである。


   他方の開国派は、戦争になったら負けて植民地となってしまうから、
   ここはひとまず相手の要求に屈して、当面の窮状を凌(しの)ごうという妥協派だった。

           <感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>

《孝明天皇(第121代)》~その4 - 伝統

2017/03/29 (Wed) 18:15:33


(5)国内一致協力して、独立保全を。

   彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)が幕府大老に就任すると、
   天皇の詔勅も一部大名の異論も無視して、日米通商条約に調印してしまった。

   それを批判する前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)、
   尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)らを、親藩にも関わらず、
   処罰し、謹慎を命じた。

   井伊の専横の処置に、天皇は激怒し、
   次のような「御趣意書」(「戊午の密勅」)を幕府に送った。


      「皇国重大の儀」である通商条約に調印してから報告したのは、
      3月20日の勅答に背いた軽率な措置であり「不審」だ。

      朝廷と幕府の不一致は国内の治乱に関わるので、
      「公武御実情を尽くされ、御合体」、すなわち公武合体が
      永久に続くようにと思う、

      徳川斉昭らを処罰したようだが、難局にあたって
      徳川家を扶翼する家を処罰するのはどうか、心配である、

      大老、老中をはじめ、御三家から諸大名に至るまで群議をつくし、
      国内が治まり、公武合体が永久に続くよう、徳川家を「扶助」し、
      外国の侮りを受けないようにすべきだ。


   侵略の危機に際して、「群議をつくし」、国内が朝廷も幕府も公家、大名に至るまで、
   一致協力してあたるべきだ、というのが、孝明天皇の願いであった。

   勅許なきままの条約締結は「違勅」だとして、幕府への非難の声が高まった。

   井伊直弼は、それを弾圧するために公家や諸大名を謹慎させたり、
   吉田松陰、橋本左内などの多くの志士を処刑した。

   安政の大獄である。

   井伊の強権政治に怒った水戸藩の浪士たちは、井伊を江戸城の桜田門外で殺害した。

   大老までが暗殺された事で、幕府の権威は地に落ち、幕府を見限って、
   朝廷を中心に外国の侵略に立ち向かうべきだという尊皇攘夷の声が盛りあがっていく。

           <感謝合掌 平成29年3月29日 頓首再拝>

《孝明天皇(第121代)》~その5 - 伝統

2017/03/31 (Fri) 17:59:40


(6)「小攘夷」か、「大攘夷」か

   孝明天皇が単純な攘夷論者ではなかった事は、いくつかの点からも窺える。

   上述の「御趣意書」での天皇の怒りに対して、

   幕府は「拒絶できないからやむなく条約を結んだまでで、
   軍事力が整えば、鎖国に戻すのでそれまでは猶予して欲しい」と弁解した。

   天皇は、この弁解に対して、「心中氷解」した、と答え、
   天皇の妹・和宮の将軍家茂への降嫁(こうか)を幕府側が願い出ると、
   いやがる和宮を苦労して説得して、それを受け入れた。

   後の島津久光に意見を問う密勅では、
   「年久しきの治世、武備不充実に候ては無理の戦争に相成り、
   真実皇国の為とも存ぜられず」と、
   現在の軍備状態で攘夷戦争をすることに疑念を表明している。

   さらに長州藩主・毛利慶近の命を受けた藩士長井雅楽(うた)が
   「航海遠略策」をもって、京都に乗り込んできた際のこと。
   この策は積極的に外国と通商航海して国力を高め、独立維持を図るべきとした。

   孝明天皇はこれを賞したという。

   この三点を考えれば、孝明天皇の願いは、
   あくまで日本の独立維持にあったという事が分かる。

   開国せずにすぐに外国の侵略と戦うことを「小攘夷」、
   開国して貿易によって富国強兵を実現し、独立を全うする道を「大攘夷」という。

   開国してからの攘夷なので、「開国攘夷」と言っても良いだろう。

   吉田松陰も『対策一道』に同様の考え方を説いている。

   長州は下関での英仏蘭米の四カ国艦隊との戦闘、薩摩は薩英戦争を経験した後、
   「小攘夷」路線は無理だと考え「大攘夷」路線に転換した。

   両藩が中心となって倒幕を果たした後は、
   明治新政府として「大攘夷」路線を追求していく。

   それによって、明治日本は独立を保全することができた。

   孝明天皇の国家独立への願いは、
   「大攘夷」によって実現したと言って良いだろう。

           <感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>

《孝明天皇(第121代)》~その6 - 伝統

2017/04/02 (Sun) 19:10:59


(7)「天(あめ)がした人といふ人こゝろあはせ」

   孝明天皇のもう一つの願いは国民の一致結束であった。
   朝廷と幕府と諸大名、すなわち日本国内が一体となって国難に当たるべきだと考えた。

   【 天(あめ)がした人といふ人こゝろあはせよろづのことにおもふどちなれ 】

        (天下の人という人が心合わせ、万事を共に考える仲間であれ)

 
   元治元(1864)年の御製である。
   この年は、長州兵が上洛して、京都守護職・松平容保率いる会津勢と
   京都市中で市街戦を繰り広げている。

   そもそも、こうした武力闘争は井伊直弼による
   安政の大獄での尊王攘夷派の弾圧に端を発し、

   それに対する桜田門外の変での直弼暗殺と京都での尊王攘夷派のテロ、
   それを抑えるための新撰組の戦い、と応酬が続いていた。


   「人といふ人こゝろあはせ」との天皇の祈り虚しく、
   こうした力と力の戦いが繰り広げられていた。

   明るい希望の歌ではなく、絶望に近い呼びかけなのである。

           <感謝合掌 平成29年4月2日 頓首再拝>

《孝明天皇(第121代)》~その7 - 伝統

2017/04/05 (Wed) 18:44:30


(8)「澄ましえぬ水にわが身は沈むとも」

   幕府が諸大名からも見離されるようになっても、
   あくまで国内一致団結の理想から公武合体の信念を曲げない孝明天皇は、
   倒幕を目指す過激な尊王攘夷派からは抵抗勢力とみなされるようになっていた。

   そうした矢先、慶應2(1866)年12月25日、
   孝明天皇は痘瘡(天然痘)で、突然、崩御された。

   当時から何者かによる毒殺説が流されたが、
   今日では末期の症状などから、天然痘による病死である事が通説となっている。

 
     澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ國民(くにたみ)

        (淀んだ水にわが身は沈むとも千万の国民を汚してはならない)

 
   御詠年月は分かっていないが、この御製から国民の安寧を祈る
   孝明天皇の生涯の志を窺うことができる。

   孝明天皇が自身の安楽のみを考えていたら、幕府の通商条約を黙認していたろう。
   それでは攘夷のエネルギーは燃え上がらず、わが国は上海のように
   外国人商人が闊歩する半植民地状態に陥ったかも知れない。

   あるいは攘夷のエネルギーが燃え上がっても、
   それを結集する旗印がないために、幕府方や外国人へのテロが頻発し、
   政治の混乱が続いたろう。

   幕府の権威が地に落ちた後では、
   孝明天皇は尊王攘夷派の御神輿にのっかっていく道もあった。

   しかし、それによって倒幕の戦いが早まったのでは、
   幕府のエネルギーが残っていただけに、内乱状態が続いて、
   外国勢力に付け入る隙を与えただろう。

   天皇が幕府を見捨てなかった事で、慶喜が最後の将軍となって、
   大政奉還までたどり着けたのである。

   こうして歴史的な役割を果たされた孝明天皇を、絶妙のタイミングで天は召された。

   その後を継いだ明治天皇を中心に、国民が一丸となって「開国攘夷」を展開し、
   孝明天皇の遺志が実現されていくのである。


(以上で、孝明天皇(第121代)の項の紹介を終えます)

           <感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>

200年前の光格上皇が「2019年」に伝えた遺産 - 伝統

2019/04/30 (Tue) 19:21:25


       *Web:日本経済新聞(2019/4/26)より

4月30日に今上陛下は退位され、約200年ぶりに上皇が誕生する。

江戸後期の光格上皇(1771~1840年、天皇在位は1780~1817年)以来のことだ。

光格上皇は、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、平成と続く皇室の直系の先祖。

朝廷の儀式や神事を数多く再興させるなどして、近代天皇制度の礎を築いた名君主だ。
2019年の今日まで続いている光格上皇の遺産は多い。
今上陛下と似通う点も少なくないという。

日本近世史研究の藤田覚・東大名誉教授に聞いた。


《傍流からの即位、天皇の権威向上に努める》

光格上皇は1780年、傍系の閑院宮家から9歳で即位した。
本来ならば出家する予定だったが、先代の後桃園天皇が22歳で急逝し、
直系の皇族は幼い皇女しか残されていなかったためだ。

閑院宮家は、光格上皇の6代目前にあたる東山天皇の第6皇子が創設した宮家で、
藤田教授は「後桃園天皇は、光格上皇にとって又いとこの子供にあたる」と説明する。

現代感覚でいえば限りなく他人に近い、遠い親戚だったわけだ。
いかに緊急避難的な即位だったか当時の事情がうかがえる。

 
この幼い君主を学問好きになるよう熱心に養育したのが
「後桜町上皇(当時)や光格上皇の父と兄ら周囲の皇族だった」と藤田氏。

傍流意識と皇統意識を併せ持ったことが、光格上皇の生涯を貫くバックボーンとなった。

光格上皇は廃絶されていたものを再興し、
当時行われていても略式であったものを古い形式に復古するなど、
さまざまな朝廷の儀式や神事を改革した。

文字通り朝廷の「ルネサンス(再生)」を進めて権威を高めたわけだ。

藤田氏は「簡素化されていた新嘗祭(にいなめさい)を古来の形に戻し、
石清水八幡宮・賀茂神社の臨時祭を復活させるなど、
光格上皇の手掛けたものは、正直数え切れない」と話す。

その代表的なひとつが、現在の京都御所だと藤田氏は指摘する。

徳川期の御所は、戦国時代での荒廃もあって随分手狭なものになっていたという。
光格上皇は火事で被災した後に再建する機会をとらえ、
ある公家の平安期大内裏の研究を生かして紫宸殿や清涼殿などの
中心施設を平安時代と同じようなものに拡充した。


《ソフトパワーを駆使して幕府と交渉》

再建資金を提供する徳川幕府は「寛政の改革」で財政再建の真っ最中だった。
藤田氏は「老中の松平定信は頑強に抵抗したものの、最後は朝廷が押し切った」としている。

光格上皇は現代でいえばソフトパワー活用の名手だったといえる。
伝統的な権威を駆使し、現実政治の中で成果を獲得していく手腕が際立った。


幕府も「征夷大将軍」の任命が朝廷からなされる以上、
天皇の権威が高まれば将軍の権威も高まるという関係にあった。

藤田氏は「豊臣秀吉も徳川家康も実力で天下を取った。
しかし政権の正統性を維持するには、朝廷の権威を借りなければなかなかった」と指摘する。

光格上皇は公武協調の中、時には幕府と対立し厳しい交渉も続けるなどして、
天皇の権威を高めていったという。

在世中には実現しなかったが、
現在の学習院につながる学習所の創設も光格上皇の構想だったという。

「公家の教育振興は生涯をかけて取り組んだ課題だった」と藤田氏。


《今上天皇と光格上皇とのの共通点》

ただ光格上皇の業績の中で、今日にまで最も大きな影響を及ぼしているのは
「天皇号」の再興だろう。

徳川時代の天皇は在位中に「主上」「禁裏」と呼ばれ、死後は「院」を付けて呼ばれていた。
当時ならば昭和天皇は「昭和院」となる。

 
光格上皇は「天皇号」を57代・約900年ぶりに復活させた。

藤田氏は「天皇号の復活で幕府からも、それに抵抗する側からも依存されるにふさわしい
超越した権威を次代に残した」と位置づける。

幕末政治史に直孫の孝明天皇と朝廷が重要な役割を果たしたのは、
光格上皇の遺産のおかげが大きいとしている。

 
今上陛下と光格上皇には、似通った面も少なくない。
光格天皇は37年間の在位の後に、実際に譲位する2年半前に意志を明らかにし、
仁孝天皇へのバトンタッチを慎重に進めた。

今上陛下は在位30年。ビデオメッセージで退位のお気持ちを表明したのは2016年の8月だ。


今上陛下が、東日本大震災など大災害の被災地へ慰問を欠かさず
「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」ことを重んじてこられたことは、
人々の記憶から去ることはないだろう。

光格上皇も「天明の大飢饉(ききん)」の際に、
飢餓に苦しむ民への米の放出を幕府に申し入れ、実現させた。

天皇の政治的関与はあってはならないとされた江戸時代にあって異例中の異例の行動だった。


藤田氏は「最大の共通点は皇室のあり方を自ら模索し、求めていった点だ」と指摘する。

藤田氏は「光格上皇は、『天皇はどうあるべきか』について試行錯誤を繰り返しながら、
探究せざるをえなかった」と話す。

傍流出身だけに、即位以前に帝王教育を受ける機会がなかったためだ。

「象徴天皇として即位した初の天皇である今上陛下も、30年間かけて
『あるべき象徴天皇像』を手作りで完成してこられたのだと思う」と藤田氏。

 
満を持して譲位した光格天皇は、
中世の白河上皇や鳥羽上皇のように積極的な「院政」を敷くことはなかった。

しかし当時の仁孝天皇は「光格上皇は在位が長く、さまざまな事柄に精通していたので、
こちらから意見を求めると詳しく仰ってくれた」と感謝の言葉を残している。

  ( https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4416284024042019000000 )

            <感謝合掌 平成31年4月30日 頓首再拝>

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