伝統板・第二

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想念 - 夕刻版

2017/03/05 (Sun) 18:35:20

人間は環境にも遺伝にも支配されない

           *「光明法語」(3月5日)より

人間は環境に支配されると言うが、真の環境は自分自身の想念である。
人間は自己選択の自由に与えられているのであって、如何なる環境からでも、
自分の想念によって其の波長に合うものだけを吸収するのである。

縦には無限の遺伝の中から、自分の想念に合うものだけを表現するのである。
人間の遺伝を遡(さかのぼ)れば神に達するのであるから、吾らは中間の遺伝を無視して、
神に波長を合わせさえしたら、神の完全さが今此処に実現するのである。

神に波長を合わすのが神想観である。

            <感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>

《想念は運命の別名である》 - 伝統

2017/03/22 (Wed) 19:19:25


           *『 生長の家 』(昭和24年11月7日の法語)より

   人は自分自身を信ずる通りの所のものに
   自分自身の運命を決定するのである。

   不安動揺限りなき心の状態では、
   不安動揺限りなき有様が現われて来るほかはないのである。

   吾々は不安を去り、取越苦労を避け、恐怖心を去り、
   如何なる場合にも 唯(ただ)幸福のみが来たるを
   信じて待たなければならないのである。

   信じてまてば 必ず道は開かれるのである。

   現象界に物が実現するためには 必ず時間の要素がいるのである。

   時間の要素を忘れてしまって、今 種を蒔いて置いて、
   翌日芽がでないからといって 神の存在を疑うようではならないのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>

《想念は力であり、注いだ愛は復(かえ)って来る》 - 伝統

2017/04/06 (Thu) 19:29:20


         *『幸福を招く365章』第2項(P42) より

想念は力であり、想念する事物と同じ傾向、または種類のものを受信し、
牽引するものであることは精神科学では公認された法則となっているのである。

あなたの心のタイプを自己反省して御覧(ごらん)なさい。
誰かがあなたに対して過ちをした場合、
あなたはカンカンに憤って怒鳴り散らすでしょうか。

若しそうならば、あなたは非常に攻撃精神の鋭い人です。
では又、あなたは非常に他から攻撃される性質をもっているのです。

これをイエスは「汝ら人を審くこと勿れ。己が審きたる量にて汝も審かれん」と
教えているのです。

あなたが寛大な人であるならば、世間もあなたに対して寛大であるでしょう。
あなたが人に対して愛深ければ、人もあなたに対して愛深いでありましょう。

あなたが或る人に注いだ愛は、その人からは報いられない場合には、
必ず他の人から復(かえ)って来るものであります。

            <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>

《善き想念・悪しき想念》 - 伝統

2017/04/20 (Thu) 19:11:50


         *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P100) より

あなたの人生はあなたの想念の具象化である。
「あなたの想念」と仮にいうけれども、人は自己独特の精神の上に
周囲の人物から色々の想念を感受して「自己の想念」を混成するのである。

幼い時には、両親及びその家族から最も多く想念を感受して、
それを総合して「自己の想念」を混成する。

十三歳以上になると、個性が独立して来て、必ずしも周囲の想念ばかりに
支配されなくなるけれども、依然として両親・家族・人類から
その想念の影響を感受して、全然「無影響」ということはあり得ないのである。

併しながら年を重ねるにしたがって個性的は表現要求は強くなるが、
同時に幼児以来受けて来(きた)った家族及び人類から感受した想念も
その人の潜在意識に固定化して抜きがたき傾向を形づくることにもなる。

その固定化した傾向が、よき想念・明るき想念である場合は、
その人の生涯に善き影響をもちつづけるが、

それが悪しき想念である場合には、その人の生涯に常に悪しき影響を与えつつ、
その人の運命を暗い方法に導いて行くことになるのである。

            <感謝合掌 平成29年4月20日 頓首再拝>

悪に抗すること勿れ - 伝統

2017/04/24 (Mon) 18:11:52


          *「真理」第9巻生活篇(P266)より

心のなかに何か不安な不健全な暗黒な想念感情が起って来た場合、
その不安な不健全な暗黒な想念感情を追い払おうと思って戦っても、
それを容易に追い払うことが出来ないで、
執拗に蜘蛛の網のようにそれがまつわり附いてくる時には、どうすべきか。

その不健全な想念感情と戦うことをやめよ。
「悪に抗すること勿れ」(キリストの山上の垂訓の中の語)
と云う箴言はこの時にも真実なのです。

私たちは、病気であろうと、人間であろうと、事件であろうと、
悪の存在をみとめてそれと戦う必要はないのです。

それよりも必要なのは、よき想念、明るき想念、悦びの感情、積極的な精神
と云うような健全なものを心の中に満たすようにすればよいのです。

その根本は「神の護り」の想念をもって自分の心を満たせば、
その反対のものは逃げ去ってしまうのです。

            <感謝合掌 平成29年4月24日 頓首再拝>

想念は環境及び肉体を支配する - 伝統

2017/04/30 (Sun) 19:01:01


         * 『 生長の家 』(昭和24年1月7日の法語)より

吾々の想念は吾々の周囲に起るところのすべての出来事に影響を与え
それを変化しそれを修正するのある。

黒住教祖(くろずみきょうそ)が
「立ちむかう人の心は鏡なり己が姿をうつしてや見ん」と歌った如く、
周囲におこる事件が自分にとって不調和であるのは自分の心が不調和であるからである。

更に想念は吾々の肉体内部に行われるところの生理作用を変化し
体内を流れる血液及び琳派液(りんぱえき)並びに内分泌液(ないぶんぴえき)等の
性質を変化するのである。

何が変化するかというと、それは諸君自身が変化するのである。
まず自分自身が責任をとらなければならぬ。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12023091.html

            <感謝合掌 平成29年4月30日 頓首再拝>

想念(こころ)を大きく持つ - 伝統

2017/05/11 (Thu) 20:37:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月11日)」より

第一創造の世界=第二創造の世界。
この2つの世界を繋いでいる=(パイプ)は想念(こころ)である。

想念(こころ)は大きくなければ、
第二創造の現象世界に完全な状態はあらわれない。

想念(こころ)は=(パイプ)であるから、
想念(こころ)で力んでみてもなんにもならない。

凝念(ぎょうねん)は生長の家の神想観ではない。
=(パイプ)を大きく持つのが神想観である。

小さなことに興奮しているようなことでは功徳はないのである。

人相ではこの=(パイプ)は眉間にあらわれる。
眉間に剣(ケン)があったり、八の字が寄っていたり、
凹(へこ)んでいるようなことではいかぬ。

            <感謝合掌 平成29年5月11日 頓首再拝>

《想念感情は現実の状態の原因である》 - 伝統

2017/05/13 (Sat) 19:28:11


          *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P304~305)より

   私たちの肉体の状態、そして環境、境遇等ことごとく想念感情の具象化です。
   それは何らかの機会に自分の潜在意識に飛び込んだ想念感情のこともあるし、
   過去からの物の考え方の習慣性であることもあります。

   この潜在意識に蓄えられている「考え方の習慣性」を変化しない限りは、
   自分の肉体の状態も、家庭生活の状態も、勤務先の環境も、
   決して変化するものではないのです。

   私たちが過去の「考え方」の習慣性に支配されている限りは私たちは過去の
   「考え方」の奴隷であって、新しい「自己支配」と云うことは出来ないのです。

   想念(即ち潜在意識中に、どう考えているかと云うこと)が
   私たちの人生を動かしている主要な設計構図であり、
   動力の回転の仕方を変化するものであるのです。

   私たちの想念感情が一変すれば、私たちの境遇も運命も一変するのです。

            <感謝合掌 平成29年5月13日 頓首再拝>

諸君はまず何を想念すべきであろうか - 伝統

2017/05/16 (Tue) 18:19:18


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より抜粋

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、われわれは何を想うか、いかなる感情を起こすか、
何を意志するか、何を言論するか、何を行動するかの自由を持っているのである。
その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、
単なる動物にすら存在しないところのものである。

しからば諸君はまず何を想念すべきであろうか。
悪を想念するならば、悪は現象し来たるであろう。
善を想念するならば、善は現象し来たるであろう。

病気を想念するならば、病気は現象し来たるであろう。
戦争や敵意を想念するならば戦争や敵意は現象し来たるであろう。
平和のみ善意のみ想念するならば平和のみ善意のみが現象し来たるであろう。

(中略)

この世界は有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏の世界であり、
すべて仏心の展開せる世界であって悪は存在しないとの正しき見解の確立である。
すべての人間はすでに成れる仏であって完全なる自由を有するとの正しき人間観の確立である。

かくて正しき世界観人生観立ってのち、われらは想念の自由によって
正しくその真理を思惟しなければならない。
またわれらは言葉の自由によって正しくその真理を表現しなければならない。

もしわれらが正しき世界観、人生観に到着していようとも、
正しく想念せず、正しく善き言葉のみを発しないときには、われらの人生は不幸にみちたもの
となり、われらの住む世界は悲惨憂苦みち満ちたものとなるほかはないのである。

われらの人生が幸福なものとなるか、不幸なものとなるかは、
われらの想念と言葉が何を表現するかによって定(き)まるのである。

人類の霊魂なお稚くして何を想念すべきか、何を言葉に表現すべきかを知らず、
いたずらに敵意ある世界を心に描き、(正見の反対の邪見である)互いに
悪想念と悪感情とをそそり、言葉に敵意を表現するをもって足れりとなす。

その行くところや悲惨なる末路なるべきは、
およそ「心の法則」によって、然らざるをえないのである。

人間の霊魂よ進歩せよ。高級の霊魂は今後の世界の推移をいかに見るか。

われらはここに人生の深き指針として本全集『生命の實相』第九巻・第十巻「霊界篇」を
世に送り、魂の向上の必須要件を説くとともに、
今後の世界の推移を示す指標とするものである。

            <感謝合掌 平成29年5月16日 頓首再拝>

常によき想念をもつこと - 伝統

2017/05/20 (Sat) 19:49:18


          *「女性の幸福365章」(P88)より

永遠の生命(せいめい)の流れの中にあなたの身を投ぜよ。
生命(せいめい)の大海に泳ぎいでよ。
溺れることなき龍宮海に無限の宝を得(う)るがよい。

龍宮海とが「創造の本源世界」―― 創造(うみ)の根底(そこ)である。

あなたの運命はあなた自身の掌中にある。


よき想念を常に持つことにしましょう。
よき想念はよき行動を伴う。
ひとたびのよき行動はひとたびでは終わらないのである。

行動はそれが終わったのちにも蓄積されて習慣となり、
次の行動をひき起こす原動力となり、
それがあなたの将来の運命を決定する。

運命は決して他動的に外部の権威者から
割当てられたものではないのである。

すべて自分が蓄積しておいたところの
過去の想念・行動・習慣・業の具象化であるから、

今後、幸福な運命をもちたいと思うならば、
先ず常に、明るき、楽しき、善き、裕(ゆた)かな、
積極的な想念をもつように心掛けるがよいのである。

よき智慧と、温かき愛情と、敬虔な感情とを
常に持つ者は富める者である。

            <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>

想念を浄めよ、其処には善のみがある - 伝統

2017/05/26 (Fri) 19:09:21


        *「生活と人間の再建」第2章(P27~28)より

吾々は余りにも長期間に亘って、現象界の事実であるところの想念の世界に
「悪の思い」をつぎ込んで来たのである。

吾々は清らかな澄き通った清冽な水のような實相の世界に「悪」の想念の泥を投げ込んで、
それをかき回して、「この水は濁っている」というが如くに
「この世界には悪が満ちている」と呼んできたのである。

それは結局自分の想念の影を見ているのであって、
本当に悪は実在するのではないのである。

水は濁ったように見えても、水そのものは常に純粋なる酸素水素の化合物であって、
濁っているのは水ではなくて泥そのものが濁っているに過ぎないのである。

それと同じく、汚く見えるのは實相が汚いのではなくして、
自分の想念で濁らしたその想念そのものが汚いのに過ぎないのである。

想念を浄めよ。
そうすればこの世界は、純粋の水の如き清らかな實相が
そのままに見えてくるのであって、即ち、天国が地上に実現するのである。

              <感謝合掌 平成29年5月26日 頓首再拝>

想念の法則によって、健康も幸福も築いている - 伝統

2017/05/31 (Wed) 18:37:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月31日)」より

心の法則にせよ、物質の法則にせよ、いずれも反対の方向に働くことができるのである。

同一の力が自動車を前方にも後方にも動かす。
磁気の陽極は惹き、陰極は反撥する。

ある種の想念と感情は建設的創造的であって、友そのほか助けとなる力を呼ぶ。
これとは全然反対の効果を生ずる想念および感情もある。

それは誤解と争いと悪意とを創る。
この種の想念感情を消極的であると言うのである。
破壊的沈滞的で個人の進歩を妨げるからである。

実際失敗する人は、好ましくない状態を作り出す方向に心の法則を働かしているのである。

次に述べる箴言はメンタル・サイエンスの箴言であって
算術の法則と同じに信頼のできる基本的な法則であり、
さっそくあなた自身にも適用されるものなのである。

すなわち「今日貴下(きか)の生活の中にある好ましくないもの、
貴下の健康・幸福・成功を妨ぐるものは、その好ましいものと同様に、あなた自身が心の法則に
働かしめてみずからそれをもたらしたからそこに存るのだ」ということである。

些細な事件、不慮の出来事、損失または利得、結婚したり離婚したり、
その他人生に起こるすべてのことの背後にはある見えざる力があり、
その見えざる力が具象化しつつあるのである。

その見えざる力は実は自分自身が起こした想念の力なのである。

諸君は想念の法則によって動いている宇宙に住んでいて、そこで想念の法則が、
あたかも物理的法則が星の運行を支配するがごとく、
諸君の運命の運行を支配しているのである。

「想念の法則」とは「因果の法則」ともいい、
現在意識すなわち自覚ある心の思想、感情、希望に常に応えてくれる宇宙普遍の心、
阿頼耶識の働きを言うのである。

これは神の働きまたは「真如縁起」ではない。
阿頼耶識の働きである。
次に主観心の説明を試みる。


阿頼耶識は心理学上の潜在意識にほぼ一致するものであるが、もっと広義に用いられる。

夢の状態で活動する心、習慣の背後にある心、タイピストや音楽家の指に
眼があるかのごとく働くその指を通して働く心である。

それはわれらの生命(せいめい)の内部にあって
われわれの身体を母胎にいる間から創造した心である。
そして今もその心は再創造を続けているのである。

阿頼耶識が浄化されてアンマラ識となるとき真如実相の智慧に近づくのである。
それが真如実相の智慧に近づくにしたがい、肉体を創造する力は完全となるのである。

われらの肉体細胞は日々死んでいるのであって、新しい細胞と組織とを創造し、
生活過程で消耗したものと取り換えつつあるのであって、
その再創造が、浄化された阿頼耶識によって導かれるとき、
肉体の再創造は完全となり、健康なる肉体が創造せられる。

これに反して阿頼耶識が浄化されないとき肉体の再創造は不完全となり病気となるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月31日 頓首再拝>

人間は放送局であると同時に受信セットである - 伝統

2017/06/02 (Fri) 20:58:22


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月2日)より

一人一人の人間は各々放送局であると同時に受信セットであるとも言い得る。
各々の放送局である個人は、或は悲しみの念波を放送し、或は怒りの念波を、
或は憂いの念波を放送している。

二十二億の『人間放送局』から別々に放送されるこれらの想念・感情の波は、
類似の波長を起こす受信機(人間)の所に群り集まって想念の集団をなして
具象化するのである。

だから自分が起こした悲しみの波のみが自分の身辺に具象化するだけではなく、
悲しみの念波を起こせば自分以外の悲しみの波も集まって来て具象化する。

        <感謝合掌 平成29年6月2日 頓首再拝>

ハッキリした想念は、感情の根からやがて生まれてくる - 伝統

2017/06/04 (Sun) 18:52:54


《深く感情によい事が来ると信ぜよ》

           *谷口雅春著『幸福を招く365章』第1項(P16) より

想念は動力である。
更に感情は、一層深いところの動力である。

感情の底から、常に「自分は神の子だからよいことが来る、よいことが来る」と信じ、
念じているときに、その感情が根となって、ハッキリした想念があらわれて来る
―― 即ち茎が伸び葉がひらいて来るのである。

その葉が日光を吸収し炭酸ガスを吸収して立派な花咲き果(み)を結ばせるように、
想念は、自分の選択した波動を自己に吸引し吸収し形の世界に
その欲するところのものを実現してくれるのである。

何をハッキリ想念してよいかがわからないときには、ただ感情の底深く
「自分は神の子であるから、よいことが来る、よいことが来る」と
念ずるだけでよいのである。

ハッキリした想念はその感情の根からやがて生まれてくるものである。

              <感謝合掌 平成29年6月4日 頓首再拝>

《想念は”力”である》 - 伝統

2017/06/10 (Sat) 19:44:18


           *『幸福を招く365章』第2項(P24~25) より

わたし達が先ず気がつかなければならないことは
想念は“力”であるということなのです。

単に“力”であるばかりでなく、
運動の方向づけをする知性ある“力”だと云うことなのです。

あなたは度々(たびたび)この事をわたしの著書の中できかされたにちがいありません。
しかも実際この原理を生活に応用しているかというと、必ずしもそうではありません。

あなた達は実際、自分の欲せざる事を心の中に想念することがあります。
事物の暗黒面を考えることがあります。

何か自分の希望しない方向に事物が進んで行きはしないかと
考えて恐怖することがあります。

この考えることが想念でありまして、暗黒を考えるがゆえに、その想念の力で、
事物の進行を暗黒の方へ方向づけることになるのであります。

想念が力であると云うことは、催眠術の実験に於いて「右手はあがる」と
想うだけで「右手が上がる」事実からも証明できます。
「右手を上げよう」と欲しても、「この手は上がらぬ」と想念すれば上がらぬのです。

(中略)

私たちをとりまいている一切の現象界の事物は何一つとして、
其の本源を心に発しないものはないのです。
 
先ず最初に漠然と何かしたい感情が起こります。
つぎにそれがハッキリした想念となり、想念は意欲をおこし、
想念と合した意欲は行動化して、想念した方向に素材を動かし排列します。

自分の想念がその構成の状態を方向づけるものだということを忘れてはなりません。

もっと明るい方向へ、元気溌剌たる方向へ、自分の心を向けましょう。

              <感謝合掌 平成29年6月10日 頓首再拝>

善き友と交り、善き想念を内に蓄える - 伝統

2017/06/21 (Wed) 20:00:49


          *「光明法語」(6月21日)より

見る姿・形は一種の暗示となって吾々の魂の中に投げ込まれるのである。

友だち又は知人の悪しき範例(おてほん)を見ていると、その悪しき姿が自分の潜在意識内の
レコードとなり、縁を得ればその通りの悪しき姿が自分の行為(おこない)に現れてくる。

善き友と交わり、善き友の行為(おこない)を見、善き友の言葉をきく事は、
目に見えぬ無限の宝を内に積むことになるのである。

潜在意識の中にあるよき想念は、無限のよき宝であると云うのは、
其処から無限の善きものが湧き出るからである。

すべて心に入りたる物はやがて形となって顕れて来る。

        <感謝合掌 平成29年6月21日 頓首再拝>

物質と見えるものは想念の具象化である。 - 伝統

2017/06/27 (Tue) 18:37:33


          *「生活と人間の再建」第2章(P28~29)より

20世紀になってからも人類の最大の発見は事物の根底に横たわるものは
単なる物質ではなくして、「想念」であるということの発見である。

新興物理学の進歩の従って物質は結局「無」なるところのエーテルのうずまきに
すぎないということが発見され、かくてそのエーテルを動かしているところの力は、
「形のない知性的エネルギー」であるということが発見されたのであって、

知性的エネルギーとは即ち想念に外(ほか)ならないのであるということが
発見されたのである。

宇宙にみつる一大本源が神であり、すべての天体も鉱物も植物も生物も、
すべてこの「神の一大知性的エネルギー」によって具象化されたものであると
いうことが発見されたのである。

この「知性的エネルギー」が吾々に宿って、
吾々の生命(せいめい)となっているのである。

従って吾々の起こす想念は宇宙にみつる神の想念の一部であり
全体につながっているのであって、吾々の想念が事物を創作するという
力があるということは当然のことなのである。

だから、根本に於いてこの世界の実相が「絶対善」であっても
吾々は想念によって仮りに悪をこの世界に創造して、
それによって自ら苦しむことができるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月27日 頓首再拝>

《想念は”力”である》 - 伝統

2017/07/03 (Mon) 18:41:19


          *『幸福を招く365章』第2項(P24~25) より

わたし達が先ず気がつかなければならないことは
想念は“力”であるということなのです。

単に“力”であるばかりでなく、
運動の方向づけをする知性ある“力”だと云うことなのです。

あなたは度々(たびたび)この事をわたしの著書の中できかされたにちがいありません。
しかも実際この原理を生活に応用しているかというと、必ずしもそうではありません。

あなた達は実際、自分の欲せざる事を心の中に想念することがあります。
事物の暗黒面を考えることがあります。

何か自分の希望しない方向に事物が進んで行きはしないかと考えて恐怖することがあります。
この考えることが想念でありまして、暗黒を考えるがゆえに、その想念の力で、
事物の進行を暗黒の方へ方向づけることになるのであります。

想念が力であると云うことは、催眠術の実験に於いて「右手はあがる」と
想うだけで「右手が上がる」事実からも証明できます。
「右手を上げよう」と欲しても、「この手は上がらぬ」と想念すれば上がらぬのです。

            <感謝合掌 平成29年7月3日 頓首再拝>

《現象は結果に過ぎない》善き想念を描いておれば病気は消える - 伝統

2017/07/04 (Tue) 19:38:22


         *『 生長の家 』(昭和26年5月30日の法語)より

   人は想念する(考える)ところのものとなるのである。
   神は想念することによって宇宙を創造した。

   創造されたる宇宙は結果であって原因ではない。

   しかし結果を目的として想念したのではないのであって、
   想念されたるものを「 観(み)る心 」が
   「 認識の形式 」を通して「 物質宇宙 」として観るのである。

   人もまた想念するところのものを肉体にあらわすが、
   それは肉体にあらわそうと故意(ことさら)に想念しないでも、
   ただ、何の気なしに想念していたことが肉体にあらわれて
   病気となったりするのである。

   病気を治すのはその逆を行けばよいのである。

   病気を治そうと思わないでも善き想念を描いておれば病気は消える。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


            <感謝合掌 平成29年7月4日 頓首再拝>

「人間・神の子」の想念を強める - 伝統

2017/07/10 (Mon) 18:03:05


《読書百遍の意味》

     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P153~154) より

宇宙には、吾々がそれから避けることの出来ない法則があるのである。
それは、原因あれば必ず結果があるという法則である。
それは物質界に於てもそうであるが精神界に於てもそうであるということである。

そして精神界と物質界との連関に於ては、
想うことは物質界に実現する原因となるということである。
一切の文化的産物は人間が「想う」ことによって生み出されたのである。

 
「想うこと」も、その「想い」が強烈でなければ、
それは潜在的に蓄積されたままであるが、

その蓄積が次第に増強されて来るときには、
突如として強烈なる内圧力となって
外界にそれが現れて来ることになるのである。

「読書百遍意おのずから通ず」という諺があるが、

「人間神の子」の思想も、
『生命の實相』を精読すること幾十回を重ねるにしたがって、

「人間神の子」の想念が
潜在意識に愈々多く蓄積されついに爆発的な力となって、
その想念が現象的に具体化することになるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月10日 頓首再拝>

吾々の想念は、「宇宙に満つる想念の普遍的波」の中で動く - 伝統

2017/07/12 (Wed) 19:54:28


          *「光明法語」(7月12日)より

《宇宙は一つの生命体である。》

運動と云うものは「動くもの」とそれがその中で動くところの「媒質」とによって
可能となるのである。例えば魚は水中で動き、鳥は空中で動き、
ラジオの波は空間のエーテルを媒質として動く。

では吾々の想念は何を媒質として動くのであろうか。
吾々の想念は、「宇宙に満つる想念の普遍的波」の中で動くのである。
吾々の想念が全宇宙に伝わらないと云うことはあり得ないのである。

ただ、吾等はそれを自覚することが出来ないに過ぎない。
吾々の想念が或る処へ伝達して無限供給が出て来る原理は其処にある。

            <感謝合掌 平成29年7月12日 頓首再拝>

《泣き面に蜂》 - 伝統

2017/07/15 (Sat) 20:12:45


     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P154~155) より

想念は、その想われている内容が、やがて実現するだけではなく、
「類(るい)をもって集まる」又は「波長の合うものは感応する」という法則によって、
その想われている事柄以外に、その想念に波長の合う番組(出来事)を
次から次へと実現すること、テレビの受像機のようになるのである。

このことを古人は知っていたので「泣き面に蜂」というような諺があるのである。

すなわち、ある悲しい事件が起こって泣いていると、その悲しい事件ではなく、
また別の、併(しか)しその悲しみに波長の合う色々の
「痛い出来事」が引きつづいて襲って来ることになるのである。

だから悲しい事件が見舞って来たときほど
その悲しみの感情から早く脱却しなければならない。

           <感謝合掌 平成29年7月15日 頓首再拝>

《不運の観念を抹殺すること》 - 伝統

2017/07/22 (Sat) 18:33:52


         *『白鳩』(昭和42年12月12日の法語)より

   自分の潜在意識に「私は不幸に生まれついている」という観念が
   いつの日にか固着してしまっているからこそ、
   その観念の具体化として現在の不幸はあるのだから、

   その潜在意識の既成概念に対して、それを打ち破る新しき想念
   又は人生観の戦いが始まらねばならぬのである。


   その戦いには「人間は神の子であって、本来不幸はあり得ない」という
   道理を全巻にわたって納得の行くように書いた書物を毎日讀むがよい。

   私はそのために『生命の實相』全巻を繰返し読むことを勧めるのだ。
   『生命の實相』を読むことによって胃癌の如き難症も消えてしまった
   実例が出て、世界を驚かして、

   それはインチキではないかと疑った人もあったが、
   今では誰もインチキ視する人はない、

   それは精神心体医学的立場から観れば
   必ずあり得ることなのだとわかったからである。


   「言葉」或いは「文章」は
   潜在意識に印象されている観念を変革する力があるのである。

   善き言葉は、善き観念を喚び起し、
   善き想念の繰返しは、それが潜在意識に繰返し印象されて、
   〃悪い運命〃をつくっていた「悪い想念」を中和して、
   悪運の根元を断ち切ることになるのである。


   〃病気が消える〃などということは
   運命好転の一つの面に過ぎないのである。

   潜在意識の内容が光明化すればもっともっと、
   運命のあらゆる面がよくなるので、
   その実例が無数に挙げられているのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

           <感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>

物質の具体的姿は内在の想念に因(よ)る - 伝統

2017/07/26 (Wed) 19:16:09


          *「真理」第9巻生活篇(P207~208)より

すべての物質は「無」の中に起こったエネルギーの旋風であって、
それが物質の素粒子としてあらわれ、数学的秩序によって結合して色々の元素が
出来、更に色々の化学的結合が生ずることがわかったのである。

そしてその結合が滅多矢鱈ではなく素晴らしい数学的秩序によって進行する
ことによって、「無の中に起こったエネルギー」は一種の知性であり智慧であり
想念であることがわかったのである。

想念こそ万物の本源であり、生物の本源であり、新しき微生物の原因であるのである。

化学療法によって微生物を滅殺しても、微生物の発生の根因であるところの
同一「想念」が存在する限りは、また新たに微生物を生ずることになる。

その想念が具象化して或る形の微生物を生じたり、
或る種類の病気を生じたりするのである。

           <感謝合掌 平成29年7月26日 頓首再拝>

汝の凡ゆる瞬間を人類に対する善念で満たすべし   - 伝統

2017/07/30 (Sun) 18:33:18


         *「生活と人間の再建」(P47~49)より

吾々の全生活を、すべての瞬間を、
人類に対する而してすべての事物に対する善念を以て満たすということが、
自分の生活を幸福に築きあげる所の秘訣であるのである。

ゲーテはその秘訣を知っていたかの如く思われる。

ゲーテの『ヘルマンとドロ テーア』の中には
「瞬間のみが、人間の生とその全運命とを捧げる」 と書かれているのであり、
又彼は『イタリア紀行』の中に、

「私の発見した所では真 に賢明な人間のすべては、多かれ少なかれ、或は柔軟の差こそあれ、
次のような意見 に達し、又その意見を固執するものである。即ち、瞬間が万事である」
と書いている のである。


吾々は時々、刻々、瞬々、エンジンのガソリンが爆発して自動車が前進するように、
自分の想念感情が爆発し、それが行動となって自分の運命を前進せしめつつあるのである。

その想念の爆発力は、自分の想念の舵とる方向に
「運命の自動車」を前進せしめつつあるのである。

嘗て奪いし者は奪われる方向に、与えしものは与えられる方向に、
憎みし者は憎まれる方向に、愛せしものは愛される方向に、
与えた力はその等量を以て自分自身に向って反動し来たりつつあるのである。

人間には三つの権利が あるといわれている。
生きる権利、自由である権利、幸福を追求する権利、この三つ の権利が侵害されない時、
人間は生き甲斐を感ずるのである。

生活の創造はこの三つ の権利を隣人から奪わないようにすることから
始まらなければならないのである。

自分は他の人のこれら三つの権利を確保してやるようにつとめる時、
自分自身のこれら 三つの権利も確保せられるのである。

吾々は他の人々からこれら三つの権利を奪うようにすることもできるであろう。
そして一時は勝利者としての快感を味うことができ るかも知れない。
けれどもそれは、自分自身が却って「苦き杯」をなめることなしにはそれはできないのである。

他の人の生活権をおびやかしてはならない。
他の人の 自由をしばってはならない、他の人の幸福を奪ってはならない。
これが自分の生活を 幸福に創造する根本原理であるのである。

           <感謝合掌 平成29年7月30日 頓首再拝>

《愛念は神に感応するための最適の念波である》 - 伝統

2017/08/02 (Wed) 19:24:04


         *「生活と人間の再建」(P65~66)より

神は愛であるから常に愛念を起こすということは
神の霊波を完全に受信するための最も大切な方法のひとつである。

如何に肉体的な生活が大自然の歩調に完全に合う生活を営んでいても、
心の波長が神の霊波と感合しないところの憎みや怒りや嫉妬や悲しみの念を
起こしているならば、宇宙の叡智の無線操縦の波を完全に受けることが出来ないが
ゆえに、

やがては肉体的な機能にも呼称を来(きた)し、生活の行路に於いて、
採るべき時に適当に採るげき処置を知るところの叡智の波を受信し得ず、
従って応変の処置を過って思わぬところに大失敗を来(きた)すような結果とも
なり、結局、その人の人生に何らかの行き詰まりを生ずるようになるのである。

(中略)

叡智は何処(どこ)から来(く)るか。
それは愛を行じ、神想観を行じ、真理の書を読誦し、
神と波長を合わすことによってである。

           <感謝合掌 平成29年8月2日 頓首再拝>

《心は波長の合うもののみを実現する》 - 伝統

2017/08/13 (Sun) 19:38:19


          *『 生長の家 』(昭和25年12月4日の法語)より

   吾々の心はラジオ・セットのように
   同時に異る放送局の波長を受信すれば、
   ハッキリと一方のみを受信することが出来ないのである。

   神からの恩恵の放送をハッキリと受信しようと思ったならば、
   ひたすら神御自身と同じ波長の心を起すことが必要であるのである。

   神は 「 無限の赦(ゆる)し 」 であるから、
   神の恩恵を万福の完全さで受けようと思うならば、

   神と同様に、あらゆる人々に対する憤りや不満足を
   ゆるさなければならないのである。

   想念は 「 事物 」 の実質として宇宙の何処(どこ)にでも
   充ち満ちていること、
   恰(あたか)もエーテルの如(ごと)きものである。

   そして、自分が不満足を想えば不満を現すのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12276837.html

            <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>

《先ず自分自心の念を改造せよ》 - 伝統

2017/08/15 (Tue) 19:28:11


          *『 生長の家 』(昭和25年12月7日の法語)より

   周囲の悪を変化せんとする努力をしばらく止(や)め、
   先ず自分自身の念を改造せよ。
   自分自身の心を改造せよ。

   急ぎ、あわてふためいて、過った方向に努力しても
   効果は少いのである。
   本当の効果は正しい方向に努力した時にのみ上るのである。

   先ず自分の心のうちに平和を確立しなければならない。
   危険が身にせまると思って実行したようなことは、その想念の通り、
   危険を自分の方へ引き寄せるのである。

   先ず 「 此の世界が神の国であり、自分の周囲の人々は
   悉(ことごと)く神の子であり、自分の周囲には悪を犯したり、
   自分にとって不満足な行為をするものは一人もない 」 と

   実相を思念せよ。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12287379.html

            <感謝合掌 平成29年8月15日 頓首再拝>

想念の具象化として、健康にも病気にも顕われる - 伝統

2017/08/20 (Sun) 20:09:15


病原菌は如何にして発生するか

          *「真理」第9巻生活篇(P208~209)より

想念は波動であるから相互に混信し、交錯し、そして同種のものが団結しようと
するから単一の想念だけで具象化するのではない。

色々の要因が加わってそれが具象化するのであるから、
「想念が具象化する」と云っても非常に複雑なものである。

併し、簡単な心理学の実験に於いて、紐を吊るした小さな重錘(おもり)を
指先でつまんで、「左右にふれる」と念じつづければ左右にふれ、
「縦にふれる」と念じつづければ縦にふれるように、

想念が形にあらわれて、「健康」を念ずれば、健康になるように細胞が排列され、
「病気」を念ずれば、病気になるように排列されるのも当然である。

無生物から生物を生じ、今までにない新種の微生物が発生する機構も、
想念の具象化によると言い得るのである。

「健康」の想念は「健康なる微生物」(細胞も微生物である)をつくり、
病的想念は「病源なる微生物」をつくるのである。

            <感謝合掌 平成29年8月20日 頓首再拝>

想念と健康との関連 - 伝統

2017/08/24 (Thu) 19:52:43


          *「真理」第9巻生活篇(P209~210)より

病原体である微生物は現在知られている限りで全部だと云う訳ではないのである。
すべての想念は「無」の中を吹く旋風であって、
その類にしたがっていろいろの微生物をつくるのである。

(中略)

ビールスが自然発生するのは(或いは突発変異によって生ずるのは)
何故であろうか。

ビールスも想念の旋風が具象化したものであるからである。

物質的には原因不明多くの病気が病的想念によって起こっていることは
今や精神身体医学の発達によって明らかにされつつある。

恐怖、憤怒、悲哀、憎悪、嫉妬、不安、羨望等の想念感情が如何に
病気をつくるかは感情を清めることで病気が消える事実で明らかである。

            <感謝合掌 平成29年8月24日 頓首再拝>

想念感情と運命の神秘 - 伝統

2017/08/25 (Fri) 20:12:11


          *「真理」第9巻生活篇(P210~211)より

私たちの想念感情はすべて具象化して、或る微小体をつくる。
それは謂わば想念の素粒子のようなものである。

想念の素粒子は、まだビールス(濾過性病原体)ほどにも大きな結晶体には
なっていないが、その微小体は、素粒子のように微小体であると同時に
波動的性質をもっており、類似の波動と団結して空間を自由にわたりあるいて、
それが病気の原因ともなる。

一旦、想念によって発生したこの微小体は、団結して大きな波となり、
その想念を起こした人のところへ来て、波長が合うがゆえに襲いかかり、
その悪念波によって其の人を病気にかからせ、或いは、
その人の運命を押しつぶしてしまうのである。

だから悪想念によって発生した微小体の集団波動は、単にその人を病気にして
しまうばかりでなく、営業を不振にし、計画を挫折せしめ、家運を衰退
せしめることもあり得るのである。

            <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

《人生は想念の総決算》 - 伝統

2017/08/26 (Sat) 19:08:35


     *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P90) より

この世界には”原因結果の法則“というものがあるのである。

それは”物質の世界“に於いても、このような原因をつくれば
結果は斯(こ)うあらわれるという”自然の法則“というものがあるのであるが、

吾々が運命を支配する上に重要なのは、物質の世界にある物体の移動(原因)が、
他の物体にこんな結果を及ぼすという物理的な因果関係よりも

”心の世界“にあるもの(原因)が”物質界“にこのような結果となって
あらわれるという因果関係の方なのである。

”心の世界“にあるものとは「想念」即ち「心に想うこと」である。
「心で想うこと」が「形の世界」に結果としてあらわれるのである。

吾々がこの人生に於いて如何なる幸福な生活を送ることを得るか、
悲惨な生活を送らねばならぬかは、吾々が常に何を想念しているか、
一日のうちの大部分の時間に、何を考えているかによって決まるのである。

人間の運命は常に吾々が何をより多く思っているかの総決算が
毎日弾(はじ)き出されている訳である。

            <感謝合掌 平成29年8月26日 頓首再拝>

正しき想念を持続して自らの健康と運命とを向上せしめること - 伝統

2017/08/30 (Wed) 18:30:16


        *「青年の書」(P141~142)より

愉快な、楽天的な、平和な、深切な、愛他的な、調和した感情が
諸君の心の中にあるならば、それは健康の因(もと)であり、
同時にそれは諸君の成功の基である。

もし吾々の想念感情が低き世界の何者かにとらわれて、
常にいらいらし、くよくよして悩んでいるならば、
諸君の健康は低いものとなるであろう。

誤れる想念を持ちつつあるということは
常に自分自身を害しつつあるということである。

自分自身の武器をもって自分自身を常に害し続けるものは
狂人とだといわなければならないのである。
しかもこの世にこの種類の人間がいかに多く存在するであろう。
吾々は狂人になってはならないのである。

常に正しき想念を持続して自らの健康と運命とを向上せしめることが
「神の子」たる人間がこの地上に生まれ出てきた使命である。

          <感謝合掌 平成29年8月30日 頓首再拝>

《人間の心の想いは動力である》 - 伝統

2017/08/31 (Thu) 21:05:37


        *『幸福を招く365章』第1項(P5) より

人間の心の思いは動力であるということを知らねばならない。
心に描いたことが形にあらわれるのである。
此の事は何度繰返しても繰返し過ぎるということはない位に重大な真理なのである。

キリストは「先ず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。
その余のものは汝らに加えらるべし」と教えられた。

具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先だって先ず心の世界に、
神の国を描くことが必要なのである。

「もし芥子種ほどの信だにあらばこの山に動いて海に入れ
というといえども必ず成らん」とキリストが言われたのも、
実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、
神の国に在る一切のものがこの世に実現することになるのである。

          <感謝合掌 平成29年8月31日 頓首再拝>

《脳髄は心の波の発信機である》 - 伝統

2017/09/01 (Fri) 17:44:09


      *『幸福を招く365章』第1項(P7) より

心はラジオ波と同じく、生命(せいめい)の波動であるから、
同波長のものが相感応し、相集まって来て、形にあらわれて来ること、
ラジオやテレビジョンによく似ているのである。

従って、自分の周囲に集まって来る人々は、環境、境遇、財福・・・等は
悉く自分の心の波長が引き寄せたものだと云うことが出来るのである。

此処に運命は自分の心で支配し得る原理があるのである。

すべて宇宙に存在する事物は、心に根源があるのですから、
心の波によってそれを引き寄せ具体化することが出来るのである。

脳髄は吾々の生命(せいめい)が「心」の波を発信する機関である。

          <感謝合掌 平成29年9月1日 頓首再拝>

《心の波長はこのように感応する》 - 伝統

2017/09/06 (Wed) 19:42:56


       *『幸福を招く365章』第1項(P7~8) より

吾々の思うことは、脳髄から発射されて四方にひろがり
適当な受信的同波長のところへ往って、感応する。

読心術というのもそれであり、虫の知らせとか人に会った第一印象とか、
何となく虫が好くとかいうのも皆、心の波を五感を通さずして直接感ずるのである。

吾々の心の波は、相手を定めて強力に発射すれば特にその人に強く感ずるのであるが、
(例えば汽車の中で向かせようと思って、「こちらへ向けこちらに向け」と強く思念すれば
必ず、その人はこちらを見ます。)

特に相手を定めない想念は、不定の方向に全体にひろがって行き、
多少とも周囲の人々に影響を与えて、更に同波長の心の人を動かして、
その人を自分の方へ近づけるような働きをするのである。

自分の好むと好まぬとに拘らず
同波長の者が集まって来て、自分の運命を定めるのである。

          <感謝合掌 平成29年9月6日 頓首再拝>

《影の中に生活して 影の姿に驚くな》 - 伝統

2017/09/09 (Sat) 19:41:05


       *『 生長の家 』(昭和26年1月11日の法語)より

   吾々の「 智慧 」が 物質世界の構造を変化し、
   それを自己特有の想念の形に構造して行くことが出来る
   と云うことが出来るならば、

   物質世界は 吾々の「 智慧 」の影であり、
   想念(こころのおもい)の投影だったと云うことがわかるのである。

   自分の想念の影の中に生活し、 
   その影の中に病気や不幸が見えるからとて、
   それを変化し難き客観的実在だと思って恐怖し
   戸惑いしているのは愚かなことである。

   今あらわれている形は
   自分の過去の想念(こころのおもい)の影なのである。

   これから如何なる状態に物質世界を構造するかは、
   これからの自分の想念(こころのおもい)であるのである。

   心の眼を開いて 光明面を見、光明面を想念することによって
   物質世界を光明化させる。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

          <感謝合掌 平成29年9月9日 頓首再拝>

常によき念を送る - 伝統

2017/09/10 (Sun) 17:45:29


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月10日)より

「神の無限の愛われに流れ入り給いて、愛の霊光燦然として輝き給い、
すべての不安、恐怖、憂鬱を雲のごとく散らしめたまうのである。」

常に暇あればかく念じて自分自身の心の中に神の愛をもって満たせ、
もしあなたがたれかに貸し金があったり、店子が家賃を払ってくれなかったり、
商品の決済をしてくれなかったりしたとて、その債務者が不正直で悪意があるとか、
払わぬつもりでいるとか考えてはならないのである。

もしそんな想念を起こしたならば相手はますます不正直になり、誠意がなくなり、
払わぬつもりになるばかりである。

自分に債務のある者を常に善意をもって扱い、善念を送り、愛念を送り、
無限供給の念を送ればその債務は速やかに払われる。

             <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

悪を語らず、愛念を循環させる - 伝統

2017/09/11 (Mon) 19:40:11


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より

人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。

外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。

万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。

われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。

かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。

             <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

《過去に捉(とら)われず 新しき健全なる想念を抱け》 - 伝統

2017/09/12 (Tue) 17:27:04


       *『 生長の家 』(昭和26年1月12日の法語)より

   多くの人たちは、自己の肉体の不健康を征服せんがために、
   常に不健康の姿を心に描き それを何とかしようと思って
   其処(そこ)に心を集中すればするほど、

   想念が細胞の配列状態を指導するがゆえに、
   その病気を見詰める想念が、これから新たに養分を
   補強してつくられる新細胞までも病気の状態に造ってしまうのである。

   旧細胞 旧組織が 如何に病気であろうとも、
   それは やがて死滅して、
   新たなる細胞によって 置き代えられるものである。

   だから旧細胞がどんな状態であろうと、
   そんなことを意に介することは要らないのである。

   新細胞さえ健全に造って置けば やがて健全な細胞のみとなる。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

          <感謝合掌 平成29年9月12日 頓首再拝>

想念感情は同類相(あい)引く - 伝統

2017/09/26 (Tue) 19:41:13


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月26日)より

大生命は流れるが、どんな形に流れさせるか。
大生命は創造するが、どんな形を創造させるかその形を決定し、
創造されるものの姿を決定するのは、自分の感情であり、想念である。

それは類似の波長は共鳴し、相牽(あいひ)くと云う法則に随って、
明るき感情は明るき想念を呼び出し、明るきものを創造せしめる。

暗き感情は暗き想念を呼び迎え、暗きものを創造せしめる。

一瞬時と雖も暗き感情をもつ事は罪悪である。
罪悪とは本来の明るい姿をツツム事である。

           <感謝合掌 平成29年9月26日 頓首再拝>

《深く感情によい事が来ると信ぜよ》 - 伝統

2017/09/27 (Wed) 17:39:04


       *『幸福を招く365章』第1項(P16) より

想念は動力である。
更に感情は、一層深いところの動力である。

感情の底から、常に
「自分は神の子だからよいことが来る、よいことが来る」と信じ、
念じているときに、その感情が根となって、ハッキリした想念があらわれて来る
―― 即ち茎が伸び葉がひらいて来るのである。

その葉が日光を吸収し炭酸ガスを吸収して立派な花咲き果(み)を結ばせるように、
想念は、自分の選択した波動を自己に吸引し吸収し形の世界に
その欲するところのものを実現してくれるのである。

何をハッキリ想念してよいかがわからないときには、ただ感情の底深く
「自分は神の子であるから、よいことが来る、よいことが来る」と
念ずるだけでよいのである。

ハッキリした想念はその感情の根からやがて生まれてくるものである。

           <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>

《想念と現実》 - 伝統

2017/09/29 (Fri) 21:13:39


     *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P223~224) より

「善き樹は善き果実を結ぶ、それゆえに果実を見てその樹の善悪を知れ」と
イエスは教えたが、その人が良き運命にめぐまれないと云うことは、
その人の想念が「本当のもの」でない証拠であると云うことができるのである。

想念は原因であり、現実は結果であるからである。

その人の想念が「本当のもの」でないと云うことは、その人の「本来の姿」即ち
実相から来る想念ではなく、現象にとらわれて実相には存在しないような
「不完全さ」を心に常に描いていると云うことである。

もっとその人自身の想念を実相の明るさに近づけ、人を憎む心や攻撃精神をなくし、
万物と和解して実相そのままの完全な調和した想念にあらしめたとき、

現象界の不完全さは消えてしまい、
実相そのままの完全にして調和した状態が現象界にあらわれて来るのである。


           <感謝合掌 平成29年9月29日 頓首再拝>

人の悪を想い、噂することを慎む - 伝統

2017/10/07 (Sat) 20:45:40


        *『 生長の家 』(昭和26年2月4日の法語)より

   《類は類を招(よ)ぶ》

   人は動(やや)もすれば、
   自分の愛する人に対しては美点のみをみとめて賞賛するし、

   自分の愛しない人に対しては
   欠点のみをみとめて非難しようとするけれども、

   吾々が心に描いた姿は 「 類は類を招ぶ 」 という法則に従って、
   欠点をみつめれば、欠点が集って来るし、
   美点を見つければ美点が集って来るのである。

   そして結局、自分自身の運命に美点が集ってくる者は
   幸福になり、栄えるが、

   自分自身の運命に欠点が集って来る者は不幸になり、衰微するのである。


   想念が創造力をもっていると云うことを知るならば、
   如何なる場合にも、人の悪を思い、且(か)つ噂(うわさ)することを
   慎まなければならぬ。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f02806856da376d61069e20a4f83028a

           <感謝合掌 平成29年10月7日 頓首再拝>

《明るい心象のみ描きましょう》 - 伝統

2017/10/09 (Mon) 20:27:52


        *『幸福を招く365章』第1項(P22~23) より

光明思念によって病気を癒しまたは逆境を順境になおす方法は、

現象は病気であっても
「汝は神の子であって病気はない。逆境はない」と強く想像して、
心に「健康にして幸福」なる状態の心象を描くこと

によって成り立っているのである。

即ちすでに病気であっても、「健康」の想念をある時間持続することによって
健康になるのであるから、その逆もあり得るのである。

すでに健康であっても「病気になりはしないか」
「病気」を心に描くことによって病気があらわれてくるのである。

諸賢に告ぐ、此の新年から、
唯(ただ)、明るい心象のみ、「健康」の想念のみを描きましょう。


           <感謝合掌 平成29年10月9日 頓首再拝>

《棘(とげ)立った想念感情を円満な想念感情に置き換えよ》 - 伝統

2017/10/14 (Sat) 20:17:03


       *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P224) より

健康を得ようと欲するならば、先ず自己批判から始めなければならない。

自己が周囲に対する感情又は想念が棘立ったものであるか、円満なものであるか、
他の人の欠点が目につきすぎて、それを批判し憎むような攻撃精神が多くはないか。

 
棘立った想念感情があるならば
円満な想念感情に置き換えるようにしなければならないし、

攻撃精神があるならば
愛と赦しの想念感情にそれを置きかえなければならない。

イライラした焦燥の感じがあるならば、
心をもっと落ち着けて現象にひっかからないで、
事物の底にある実相の円満完全さを見るようにしなければならない。

欲求不満足の感じがあるならば、「実相に於ては万事満ち足れり」と念じて、
既にあらゆる欲求が満足せしめられている円満なる状態を神想観中に心で観じて
欲求不満足の感を取去るようにしなければならないのである。

           <感謝合掌 平成29年10月14日 頓首再拝>

暗い消極的な念を起こしてはならぬ - 伝統

2017/10/15 (Sun) 20:48:19

       *「栄える生活365章」(P32~33)より


感謝の念の反対の念、即ち不平や憎しみや疑いや恐怖や取越し苦労の思いは、
あなたの折角の祈りの効果を無効にしてしまうののである。

そのような不調和な念(こころ)は、実相世界に既に与えられている恵福に
波長が合わない念(こころ)であるから、折角、神が既に”善きもの”を
ゆたかに与えておられてもそれが現実化して来ないことになるのである。

常に感謝せよ、常に感謝せよ、裕(ゆた)かにして幸福なる天国は
既に《ある》のであって、感謝の念の同調によって
あなたの家庭に現実化するにちがいない。

           <感謝合掌 平成29年10月15日 頓首再拝>

《病気が治らない訳は? 》 - 伝統

2017/10/21 (Sat) 19:59:59


         *『 生長の家 』(昭和26年2月19日の法語)より 

   あなたの病気が治らないのは、
   浮浪者が一ぱい其の部屋につまっていて
   ほかの人が入る余地がない家のように、

   「 健康 」 の観念と全然反対な恐怖観念、罪悪観念、
   憤怒憎悪の感情等が一杯につまっているからである。

   福来友吉(ともきち)博士が云ったように
   「 観念 」 は 「 生物 」 であり、
   観念に描いた通りの形があらわれて来るのであるから、

   不用な観念は悉(ことごと)く自分の心から
   追出してしまうようにするのが好いのである。

   「 若(も)し君が隣人に対してどう云う考え(想念及び感情)を
   もっているかと云うことを正直に告白するならば、
   君の健康状態や、経済状態や、家庭状態を私は言い当てることが出来る 」 と

   ユニティの教祖チャールズ・フィルモアは云っているのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/09c6fba34bce0fa629ed42e8664fd83c

           <感謝合掌 平成29年10月21日 頓首再拝>

《想念は造形的力である》 - 伝統

2017/11/03 (Fri) 17:38:03


       *『 生長の家 』(昭和24年2月14日の法語)より

   想念は造形的力である。

   それは生命の貯蔵庫にある力を
   一定の形を通して
   流出せしめるパイプのような働きをする。

   そのパイプの形の通りに
   宇宙の実質は流れ出て来て、
   これが現象的な形にまで現れて来るのには
   写真の焼付の如く或る時間の経過を要する。

   その時間中一定の想念を把持している所の
   支持的力が意思である。

   神想観をするにも意志の持続的力がなければ、
   一定の想念を、それが実現するまで
   把持することができないのである。

   「 生命 」 の中に起る所の波動は
   「 想念 」 であり、それは無声の言葉である。
   言葉によって、一切のものが 実現に入るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12936434.html

           <感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>

癌腫も筋腫も、想念によって消滅しうる - 伝統

2017/11/25 (Sat) 20:56:54


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月25日)より

われわれが「手を動かそう」と思えば、
その想念のエネルギーが神経系統を伝わって一部の筋肉に収縮運動を起さしめ、
その反対側の筋肉を弛緩せしめて、想念したとおりの運動をそこに起こすのである。

その神経系統を伝わるところの想念のエネルギーなるものは何であろうか。
それは一種の電気的流れであると想定されるのである。

それが電気的流れであるとするならば、
それは確かに「電子」が想念によって発射せられて
神経組織をその「電子」が走るものだと解釈されうるのである。

患者の睡眠中における夢の変化にしたがって、
脳髄より放出される電気的流れに著しい変化が起こるということは、
それを実験機械によって図表的にその変化を記録した人もあるのである。

そうすれば脳髄という機械装置は、電子を放出するところの、
一種のサイクロトン装置であるということができるのである。
それを操る原動力と操縦士とが「想念」という不可思議体である。

むろん、神経伝達によって筋肉を動かす力は、
たんに現在物理学界においてその存在を認められている「電子」
だけではないのである。

もっともっと精妙な種類の素粒子を想念にしたがって
放出するのであろうと信ぜられる。

しかしいずれにせよ、神経伝達されるところのエネルギーの一部には
電子の流れが含まれていることは、想念によって人体の電気的流れが
変化することが電流計によって測定されることによって明らかである。

したがってわれわれの脳髄は、極めて少量の頭蓋骨容積の中に、
人造のサイクロトンよりも精妙なる高級サイクロトンを包容するものだ
と言わなければならないのである。

そして想念が素粒子を支配してあるいは電子をあるいは他の素粒子を、
自由自在に分離したり組み合わせたり、配列したりすることができるものだ
ということがわかるならば、

想念によって、人体に癌腫を発生したり、筋腫を発生したり、
あるいはそれを消滅せしめたりなしうる理由も当然のことだ
と言わなければならないのである。

         <感謝合掌 平成29年11月25日 頓首再拝>

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