伝統板・第二
ひかりの一日一言24~われ肉体以上のもの - 伝統
2017/03/01 (Wed) 04:22:34
ひかりの一日一言《1日》
《1日 人間は自分の運命を支配する》
人の運命は外から強制されるものではないのである。
人は自分のうちに、強くも弱くもどちらにでもなれる
運命の支配権をもっているのである。
吾々は神の子として一切のものを支配する権利を有するのである。
如何なる外見上(みせかけ)の障害が起こって来ようとも、
それは自分を高め上げ、自分を磨き上げるための
砥石(といし)であり、鑢(やすり)である。
若し鍛造(たんぞう)したままの日本刀が、
外から砥石をもって摩擦せられなかったならば、
自分のうちに明皓々(めいこうこう)と輝く立派なものがあっても
あらわすことが出来なかったにちがいない。
人間もその通りであって、若し何らかの鍛えと磨きがなかったら、
自己内在の力を現わす機会を失ったであろう。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P48) より
・・・
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<感謝合掌 平成29年3月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2017/03/02 (Thu) 04:19:19
《2日 人間は精神以上のもの》
人間は肉体以上のものである。
人間は精神である。
精神力によって肉体を支配することが出来るのである。
しかし人間は精神力以上のものである。
精神にいくら鞭打っても、どうにもならない時が来る。
かかる時に精神力以上のものが呼び出されて来るのである。
ランニングの選手でも、もうこれ以上どうしても走ることができないという時を
更に走っているときに、不思議に内部から生命力が更新して来ることがあるものである。
それは人間のうちには、肉体以上のもの、
更に精神以上のものが宿っているからである。
その精神以上のものを「神」というのである。
人間には神が宿っているのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第32項(P49) より
<感謝合掌 平成29年3月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2017/03/03 (Fri) 04:43:30
《3日 外界を重大視してはならない》
肉体以上のもの、精神以上のもの、内在の霊的力を呼び出してくるとき、
人間は天地の一切のものを支配する力を現わすのである。
どんな障害物も、内在の霊的力(神)を呼び出してきたとき、
もう貴方を妨げるものは何物もないのである。
汝自身を萎縮させてはならないのである。
そのためにはあなたの周囲または外界に起こって来る事柄を、あまり重大に
考え過ぎて自分自身を暗くし萎縮せしめないことが必要である。
外界は、重大と観れば重大化して来るし、その重大さに引っかからず淡々とし
平静に処置しておれば、何の大事にも到らずおさまってしまうものなのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P49~50) より
<感謝合掌 平成29年3月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2017/03/04 (Sat) 03:46:40
《4日 自然の智慧に順応せよ》
日月星辰が常に衝突することなく、調和して運行しているのは、
その全体が一つの法則(又は智慧)によって、支配されているからである。
それと同じく人生に起(おこ)る一切の事物はこの「一つの智慧」に調和しておれば、
日月星辰が互いに衝突しないが如く不調和な状態は起りようがないのである。
すべての物は、自然の《そのまま》に任す時、完全円満であって悪はないのである。
人間は他の動物とちがって自由を与えられているから自主的に、
「自然の智慧」に逆らうことも、順応することも出来るのである。
しかし「自然の智慧」に逆らうことによって、病気や不幸は来たり、
これに順応することによって万事よくなるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P50) より
<感謝合掌 平成29年3月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2017/03/05 (Sun) 03:47:54
《5日 不調和にひっかかるな》
不調和が起こってきても、それに引っかかってはならない。
引っかかれば引っかかる程、問題はもつれて来るのである。
イザヤ書第三十章十五には
「汝ら立ちかえりて静かにせば救いを得、
穏やかにして依りたのまば力をうべしと。
しかれど、汝らこの事を好まざりき。
なんじら返りて云えり、否、われら馬にのりて逃げ去らんと。
この故になんじらなんじら逃げ去らん。
又云えり、われらはやきものに乗らんと。
この故になんじらを追うものはやかるべし」
と書かれている。
心を失ってはやく逃げる姿が病いなのである。
智慧の言葉には
「逃げ出そうと思うな。汝は神の子ではないか」
と示されている。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P50~51) より
<感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2017/03/06 (Mon) 04:21:52
《6日 悪は存在しない》
悪と云うものは存在しないのである。
ものそのものに悪はないけれども処を得ないことが悪なのである。
二と二と掛ければ四となる。
2×2=4は正しいのである。
しかし2×2=6は間違いである。
どこが悪いかというと2も4も6も皆それぞれに善である。
その一つ一つはすべて善であるけれども、4のあるべき位置に6があるから悪いのである。
即ち有るべき処に有るべきものがなく、有るべからざる処に、
有るべからざるものが置かれているという処に悪があるのである。
即ち自然の秩序に従っていないから悪であるのである。
人間は自由を与えられているから、
時として自ら好んで2×2=6と配列してそこに悪を発生せしむるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P51) より
<感謝合掌 平成29年3月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2017/03/07 (Tue) 04:15:26
《7日 自分に属せぬものを得てはならぬ》
盗罪と云うのも姦淫と云うのも、いずれも所を得ないことである。
自分のものでないものを、自分のものの所に置くことがこれらの罪である。
処を得させれば、すべての悪は、消えてしまうのである。
自分に属さぬものを自分に属しめようと思ってはならぬ。
他人(ひと)があなたに属している者を浸した場合には、
浸したものと同等のレベルに降りて、腹を立てたり、恐怖心を起こしたり、
不快になったりしてはいけない。
本来の支配権を心の中に確認すれば、
自分に属する事物は、自ずから自分の中に帰って来るのである。
相手を憎むことなく、
「相手は決して彼自身に属せぬものを奪うような人ではない」と
強く強く思念せよ。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P52) より
<感謝合掌 平成29年3月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2017/03/08 (Wed) 04:44:22
《8日 先ず無限の供給を確認せよ》
神の創造の世界を神に返せよ。
何物も不調和は神の世界には、存在しないのである。
奪うと云うことも奪われると云うことも神の秩序の中には存在しないのである。
若し奪われたならば、奪われたものを取り返そうとは思ってはならないのである。
「神は凡(あら)ゆる供給の本源であるから、必要な全ての者は神の子である自分には
既に与えられているのである」と、心の世界に於いて強く思念せよ。
斯く思念する時は、奪われたその物が返ってくる場合もあるが、
それは返って来ないで、尚一層値(あた)いあるものが返って来ることもあるのである。
奪われるのはそれを持つのに適しなくなったからである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P52~53) より
<感謝合掌 平成29年3月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2017/03/09 (Thu) 03:49:13
《9日 誰かが自分を中傷するとき》
誰かが自分の名誉を毀損したと思う場合に、
それについて憤(いきどお)ってならないのである。
実相に於いては人間の尊厳は「神の子」として
永久に失われるものでないのであるから、
静かに座して
「自分は神の子であるから、
何人(なんぴと)も自分の名誉を奪うことは出来ないのである。
ウソは結局、非実在のことを実在らしく語るものであるから、
実在しないものは消えるほかはないのだ」
と安心して念じておれば、いつの間にか、
ウソに伝えられた不名誉は消え去って
永遠の存在である真実のみが輝き出ることになるのである。
決してウソを告ぐる者に対立して、
その渦巻の中に巻き込まれてはならないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P53) より
<感謝合掌 平成29年3月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2017/03/10 (Fri) 03:42:32
《10日 相手の幸福のために祈れ》
何か問題が起こって来ても、すぐ、「それは何某が悪いのだ」と
その人を呪うような考えを思い浮かべてはならない。
人を呪うような考えを起せば、その呪いの精神波動があなたを中心として
宇宙の中に必ず何等かの攪乱作用をおこすのである。
すると、その派長に合う乱れた精神波動があなたを中心として集まって来る。
それは結局、あなたの不幸を惹起することになるのである。
それよりも、その人を赦す思念をすべきである――
「私はあなたを赦しました。私はあなたを愛しております。
貴方が幸福になるようにいのります」と静かに相手を祝福する言葉を念ずるのである。
すると神の秩序は回復されるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P53~54) より
<感謝合掌 平成29年3月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2017/03/11 (Sat) 04:42:13
《11日 不景気なことを云うな、聴くな》
毎日自分が何を多く考えるかを反省して見よ。
あなたの運命は、あなたが最も多く考えているところの
想念の具象化(かたちにあらわれたもの)である。
毎日「自分は貧乏だ」と考えて金持ちになっている者は一人もないのである。
毎日「自分は身体(からだ)が弱い」と考えていて
身体(からだ)の健康な人はないのである。
想念(こころのおもい)を変化しなければ、
健康も運命も変わるものではないのである。
悲観的な、恐怖を唆(そそ)るような、
不安の起こりがちな言葉を吐くことを止(や)めよ。
病気を語るなかれ。
貧乏を語るなかれ。
不景気なことを語る人があれば、話題を他に転ぜよ。
そして神は無限の幸福の源泉であり、
実相に於いては如何なる悪も存在しないことを心に深く思念せよ。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P54) より
<感謝合掌 平成29年3月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2017/03/12 (Sun) 04:27:45
《12日 健康のためには心を平和に》
健康を欲する者は心を平静にしなければならぬ。
吾々の神経系統及び血液循環系統、消火器系統、呼吸器系統などは、
心によって著しく影響を蒙るものである。
一寸(ちょっと)びっくりすれば心臓がドキドキし、
呼吸(いき)がはずむのを考えても、
精神作用が心臓や肺臓に影響することは明らかである。
心配したときには食事が美味(おいし)くないのは、
心が消化力に影響する証拠である。
だから何事か驚くべき恐怖すべきことが起って来たときには、
その問題を自分で何とかしようと思って焦るよりは、
祈りによって、その問題を神にあずけて、心を平和にし、
其処から思いだされて来ることを正しいと信じて、実行すれば好いのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P55) より
<感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2017/03/13 (Mon) 04:42:52
《13日 不快になった時には》
人生が退屈になって来たとき、心が憂鬱になって来たとき、
その退屈と憂鬱さの中へ溺れてはならないのである。
新しき興味を見出し、その方へ心を一転することが必要である。
心を新たに刺激する善き修養書を読んで、兎も角、心が明るくなる事が必要である。
身体(からだ)のどこかが悪いと思ったときには、神様に訴えることだ。
眼を瞑じ、静かに
「自分の内に宿りたまう神よ。私の心の中に何か間違いがあったらお赦し下さい。
そして中から自然療能によってこれをお癒し下さい。私も亦、私と不調和になって
いる全ての人々を赦します。有り難うございます」
と繰り返し思念して、自己の全存在自己の全存在を神に委せ切るがよい。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P55~56) より
<感謝合掌 平成29年3月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2017/03/14 (Tue) 04:39:14
《14日 悪に対して悪を以てしてはならない》
あらゆる物は神の創造であるから、
すべてその実相(ほんとのすがた)は善である。
もしそこに善があらわれていないならば、それは其の物から
われわれ自身が善を呼び出さないからである。
若し吾々がすべての物から善を呼び出すことに成功するならば、
すべての物は「善」に姿をかえてしまうのである。
善を呼び出す秘密の法は、
「あなたは善である。あなたは神の子であるから、悪であるはずはない。
悪に見えるのは私が心の中に悪を描いて見るからで、誠に申し訳ございません」
と、人に対してでも、物に対してでも、心の中で強く呼びかけることである。
悪に対して、暴力や言葉や威かくで対抗したり、
徒(いたず)らに嘆いてみても何にもならない。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P56) より
<感謝合掌 平成29年3月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2017/03/15 (Wed) 04:13:12
《15日 悪に抗することなかれ》
今の事を有難く受けよ。
今のことを素直に受けよ。
この世の中に無駄なことは何一つないのである。
悪しく見える事は、過去の悪しき想念の力が
形にあらわれて消えて行きつつあるのである。
「悪に抗する心」を起すとき、
吾々は「悪」を実在として身構えするのである。
「悪」を実在として観る心を起すとき、「悪」の外見的存在は、
それを実在と観る心の力によって支えられて、
かえって消えない事になるのである。
相手の「悪」を見ないで、
その悪と見える仮相の奥に存在する「善」を見よ。
「悪」を見て瞞(だま)されないよりも瞞(だま)されてもなお
相手の善を信ずる者は幸福である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P56~57) より
<感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2017/03/16 (Thu) 04:19:12
《16日 巧みな忘却は人生を洗う石鹸なり》
過去の事を思い煩うな、
未来のことを心配するな。
思い煩いと心配とはあなたの神経を病的に刺激し、
つい生理的不調和を惹起(ひきおこ)し或いは抵抗力を弱めて病気に至らしめるのである。
過去は過ぎ去ったのである。思い煩うは愚かなことである。
未来はまだ来たらないのである。心配するのは愚かなことである。
結局、悩む者は、過去を今に持ち来し、未来を今に持ち来し、
今の幸福を想像の中で汚してしまうのであるから、
そんな愚かな事はしないが好い。
「今」を喜べ。
過去を忘れよ。
未来を忘れよ。
この忘却はあなたの人生を清める石鹸の働きをするのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P57) より
<感謝合掌 平成29年3月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2017/03/17 (Fri) 04:11:32
《17日 人の悪しき言葉に乗るな》
怒りは火事のようなものである。
あなたの心を焼きつくし、地獄の焔の中に投げ込み、
ついに身体までも病気にする力をもっているのである。
誰かが不親切な言葉を発したからとて、
それを自分の心の竃(かまど)の中に抛り込んではならないのである。
不親切な言葉は、あなたの心の竃の中で燃える地獄の火の燃料となるのである。
不親切に対して深切をもってし、憎しみに対して愛をもってするのは、
自分の心の中にほり込む燃料に水を注ぐようなものである。
人の告げ口に乗るな。
それは怒りの焔を煽る風のようなものである。
愛語と調和の言葉を雨ふらして、心の火事を消すことである。
常に「平和」を念じて祈れ。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P57~58) より
<感謝合掌 平成29年3月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2017/03/18 (Sat) 04:33:24
《18日 神の愛を貴方を通して放出せよ》
あなたを生かしているのは神の愛である。
心臓が動いているのも、食物が与えられているのも、消化器がそれを吸収するのも、
呼吸器が呼吸をいとなむのもすべて神の愛である。
神の愛をそんなに与えられていながら、自分が少しもそれに報いることなく、
放出することがなかったならば、愛は循環しないことになるのである。
あなた自身を通してすべての人々に
「神の愛」を放出せよ。
「神の愛われに流れ入り給いて、われを通して此の人を祝福し給う」
と遇う人々毎に念ぜよ。
愛念を送れば、愛念が返って来るのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P58) より
<感謝合掌 平成29年3月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2017/03/19 (Sun) 04:14:12
《19日 天地一切のものを祝福せよ》
朝めざめたならば、神想観を行い、
「神の生命われに流れ入りて、わが生命を健かならしめ給う」と念じつつ呼吸を整え、
更に「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、
われを通して天地一切のものを祝福したまう」と云う思念を繰返すことは、
天地一切のものと和解することを如実に実践する上にきわめて善き方法である。
一切の不幸と病いは、自己が天地一切のものと和解していないで、
或る程度又は或る意味に於て敵対状態にあるから生ずるのである。
然るに上記のような思念を行うときには心の中に、
こちらから積極的に天地一切のものと和解する以上に、
天地一切のものを祝福することになるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P59) より
<感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2017/03/20 (Mon) 03:16:24
《20日 愛の想念を手紙に凝めよ》
あなたが手紙をかくときに唯、事務的に書かないで、
「この手紙を通して神が貴方を祝福したまう」と祝福の想念を
ペンに含ませながら書くときは、それを受け取った人の心に愛念を沸き立たせ、
著しくあなたに対する好感を起さしめるものである。
それに反して腹立ちながら書いた手紙は、どんなに丁寧に書いたつもりでも、
何処かに相手を憎む雰囲気が伴っているものであって、
屹度相手を不快にしてしまうのである。
愛の想念は凡ゆるものに調和を惹起し、
憎しみの想念は凡ゆるものに不調和を惹起す。
愛は朗かさを招きよせ、憎しみは暗黒を惹起す。
愛なるかな。愛なるかな。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P59~60) より
<感謝合掌 平成29年3月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2017/03/21 (Tue) 03:13:27
《21日 万物に神の祝福の声をきけ》
何時、いかなる場合、
何が自分を呼びかけて来ても、電話が呼びかけて来ても、
訪問者があらわれて来ても、それに対談する場合には、
「神はこの電話(又は人名)を通して私を祝福したまうのである。
そして神の愛わらに流れ入って私を通して此の人を祝福したまうのである」
と念じつつ対話するが好い。
見るのも、聞くのも、それが花であろうとも、音楽であろうとも、
「神はこの花を通して(又は音楽を通して)私を祝福したまうのである。
有りがとうございます」
と念じつつ、その花を見、音楽を聴くがよいのである。
そして「神の愛われを通してこの花を、この音楽を祝福したまう」
と更に念ずるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P60) より
<感謝合掌 平成29年3月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2017/03/22 (Wed) 04:53:30
《22日 愛は失敗することはない》
神と偕に生くると云うことは、神は愛であるから、
愛を配達する人になると云うことである。
全世界の人類が配達する人になったときこそ地上に天国が生じたときである。
何事を為すにしても、語るにしても、交渉するにしても、
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給う」と愛念を先に送って置いてから為せば、
行く道は平らかとなり、愉快になり、成功多きものとなるのである。
憎しみは失敗することがあっても、愛は失敗することはないのである。
憎しみは争いを起こすが、愛は必ず平和をおこすのである。
吾々は「愛念」を実生活の道具として凡ゆる方面に活用することにしなければならぬ。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P60~61) より
<感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2017/03/23 (Thu) 03:22:06
《23日 本当の生活は霊的自覚より始まる》
「真の人間」としての生活は、「新たに生れ更(かわ)る」時にはじまる。
換言すれば、自己を物質的肉体的存在だと思っていた想念から脱却して、
「人間は年齢に縛られず、外界に支配されず、病まず、死せざる霊的存在であると云う
自覚の更正(うまれかわり)を得たときにはじまるのである。
それまでの生活は奴隷である。
何故なら彼らは何物かに縛られた自覚のうちに生活していたからである。
肉体にとっては年齢は問題になるが、
霊的実在たる自分にとっては、年齢は問題ではないのである。
霊が問題とすべきは、霊の本来性(ほんらいせい)なる無礙自在の特性を、
どの程度まで内部より開発し得たかという問題である。
肉体は「人間」ではなく霊が利用する道具である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P61) より
<感謝合掌 平成29年3月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2017/03/24 (Fri) 03:12:16
《24日 無限供給はこうして得られる》
この世界は神が造ったものであり、神は無限の供給であるから、
真にその実相を知るとき誰かが貧乏にならなければ、
自分が富むことができないというような有限の世界ではないのである。
富は一見「物質的外見」を備えているけれども、
それは神の愛と智慧と生命との表現であるから、
先ずそれを認めるところにあらわれて来るのである。
先ず到るところに存在する神の愛を認めよ。
先ず到るところに存在する神の智慧を認めよ。
そしてその生命(せいめい)に生かされている不思議に目覚めよ。
そしてその愛に感謝せよ。智慧に感謝せよ。生命(せいめい)に感謝せよ。
そして神の愛を行じ、智慧を行い、生命を出して
報恩にいそしむところに富を生ずるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P62) より
<感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2017/03/25 (Sat) 04:47:25
《25日 不調和に対処するには》
何か不調が起って来ても、貴方は決して周章狼狽することはしないのである。
本来不調和と云うものは存在しないことを知っているからである。
不調和は自分の心の風が激しく吹いている時だけに現れている波のようなものである。
自分の心の風が荒れなくなって来たならば、
波がおのずから静まって来るように、事件も平静に帰って来ると云うことになるのである。
自分の心を自分の力で平静に出来ない時には、
その事件を神にまかせれば好いのである。
すべての調和と平和と光との源は神にあるのである。
自力で立騒ぐことをやめよ。
「神の智慧、流れ入りてこの問題を解決し給う」と念じて
神の導きの来るままに事を運ぶが好い。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P62~63) より
<感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2017/03/26 (Sun) 03:21:08
《26日 相手に愛を表現せよ》
調和と平和を持ち来たすには相手に愛を表現すればよいのである。
しかし、あんな利己主義な相手に、どうして愛念を起こすことができようかと
考えるならば、先ずあなたは神に対して愛念を起こすべきである。
神を愛することによって、神の子を愛し得るように振り向けるのである。
「神はこんなに不都合な自分をさえ愛してい給うのであるから、
自分もこの不都合なあの人を赦さねばならぬ」と大決心するのである。
非常な恩を蒙っている恩人の息子ならば、
少々位い悪いことをしても赦してあげられるという気持ちになることである。
どんな者でも赦して愛し得るのが神の愛である。
神を愛するとき神の子(人)を愛し得る。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P63) より
<感謝合掌 平成29年3月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2017/03/27 (Mon) 04:38:12
《27日 与えると受けるとの悦び》
受ける者よりも、与える者の方が幸福である。
与えると云うことには幸福感を伴う。
神の愛は「与えてやまぬ愛」であるから、
与える心の中には神の愛が目覚めて来るのである。
しかし受ける者があるので与える悦びが完了するのである。
だから受ける者を軽蔑してはならぬ。
受ける者を軽蔑したとき、与える悦びは減ってしまうのである。
受ける者を愛し祝福する気持になったとき、与えた悦びは増大するのである。
与える喜びも大切であるが、
何事にても受けるときに真にそれを神の恵みとして感謝するならば、
受けることも大なる悦びに変化して来るのである。
自分が与える悦びばかり固執していて、他に与えさす機会を与えないのは
他の人の魂の進歩を妨げることがある。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P63~64) より
<感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2017/03/28 (Tue) 04:43:30
《28日 受けて感謝 与えて祝福》
与えると受けるとは、両方とも神の愛の出入口である。
与えるは父性愛であり、受けるは母性愛である。
両方ともに感謝が伴うとき、そこに天国が誕生するのである。
今まで受けて来たもの、今、受けつつあるもの、未来に受けんとしつつあるもの
一切に対して感謝せよ。
「有りがとうございます」は母性原理の表現、受ける感謝の表現である。
しかし受ける感謝ばかりでは足りないのである。
受けるは消極的である。
与えるは積極的である。
それは「与える祝福」(吾れ汝に幸福を与う)の父性原理に一段と飛躍するとき、
消極と積極、受動と能動とが整備して人生に本当の天国が生まれるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P64~65) より
<感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2017/03/29 (Wed) 03:49:07
《29日 人間の生命は無量寿である》
日月星辰をつくり、それを適当に配置し、
地球の上に生きとし生ける者を生み出した不思議な知恵、
これを親鸞聖人は「不可思議光」と呼ばれたのである。
正信偈に「南無不可思議光」とあるのは、「南無」は「帰命」という意味であるから、
「わが命は、この不可思議な智慧より生る、私の命ではございません。
あなたの生命(いのち)に帰一いたします」という唱えごとである。
帰命無量寿如来というのも、南無阿弥陀仏という意味も同じことである。
吾らの内には阿弥陀仏の生命(せいめい)が宿っているのである。
阿弥陀仏は無量寿仏であるから、
その生命の宿っている人間も無量寿であり、無限の健康が当然である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P65) より
<感謝合掌 平成29年3月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2017/03/30 (Thu) 03:25:39
《30日 無量寿仏を生きる》
われは無量寿仏の生命(せいめい)を生き、
無量寿仏に生かされているのである。
南無阿弥陀仏と唱えるとき、死んでから極楽へ行く唱えごとだなどと、
阿弥陀仏のいのちを過小評価してはならないのである。
無量寿仏のいのちに帰一するとき、
今此処自分のうちに阿弥陀仏が生きているのである。
吾れ何をか恐れんやである。
真に仏(みほとけ)の寿(いのち)に乗托(まかせきる)して生きるとき、
何処にか不調和や不幸や病気があり得ようや。
全き委せ切りによる心の平和こそ、
難問題に面してそれを解決する正しき智慧をよび出して来る礎である。
真(しん)の心の平和こそ健康の源泉である。
心が平和にならないときは瞑目して「われは阿弥陀仏の生命(せいめい)
に取巻かれている」と繰返し想念せよ。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P65~66) より
<感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《31日》 - 伝統
2017/03/31 (Fri) 03:51:59
《31日 仏子たるを自覚するわが決意》
自分は阿弥陀仏の子であるから、自分の心の内に、決して
光明以外の暗黒なものを吹き込まさないのである。
自分は決して心配や憂うつでわが心を汚すなどということをしないのである。
自分は暗黒を語るどんな言葉をも話さないし、
また、人が暗黒を語る言葉をきかないのである。
自分は、無駄な、ともすれば人の悪い面を語るゴシップに流れる如き対談に
耳を傾けないのである。
いかに仮の姿が悪しくあらわれていようとも、実在はただ、善のみであるから、
われはただ善のみを語るのである。
自分は今より以後、天地一切のものを祝福し、天地一切の生ける者に愛念を送るのである。
だからわれは天地一切のものと調和しているのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第3項(P66) より
<感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>