伝統板・第二

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常楽への道~吉田国太郎② - 伝統

2017/02/22 (Wed) 04:13:36

         *伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎」からの継続です。
           → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6620484


仏心を語る3~その1 

           *「常樂への道」(P80~81)より

或る日勤め先の会社の方に相当大きな交渉事があって
村瀬さんにそれがふりあてられたのであります。

村瀬さんには、それはどう考えても巧くゆく見込みが無い。
此の頃全てがとんとん拍子に行ってはいるが、
こればかりはどうも駄目らしいと考えたのであります。

然し此の世界はどう考えても駄目な処が通れるから面白いのであります。

考えて「成る程」と頷ける処だけが通れるのでは此の世の中は面白くない。

考えは行き詰まっても生命(せいめい)の方は行き詰まらない。
此の世の中は行き詰まりそうで行き詰まらない。
面白い世界だと思います。

行き詰まる人は必ず考えで行き詰まっているのです。

此の間も大垣の集まりで一人の方が質問されておりました。

「自分は此処から名古屋迄勤めに出ているが、妻に死なれて了(しま)い
子供が大垣で女学校へ行っているが名古屋へ伴(つ)れて行く訳にはゆかず、
と云ってこの儘では困るし」と云う意味なのですが、

「名古屋へ」どうして伴(つ)れて行けないのですか」と訊きますと
「学校がありますので」と申すのです。

「学校の事なれば転校手続きを願えばよいのではありませんか」と申しますと
「今は出来ないのです」と云うのです。

「出来るかどうか当たってみたのですか」と訊(たづ)ねますと
「それはやってみても駄目でしょう」と云う様な事を申されます。

私は此の話を実に面白いと思います。

行き詰まるべきものが、出てくるかどうかも解らないのです。
唯(ただ)自分の心で自分の考えで躓いて前進することが出来ないでいるのです。
人生に行き詰まる人は大抵これであります。

人生に行き詰まるのではなく、考えで勝手に行き詰まっているのです。

          <感謝合掌 平成29年2月22日 頓首再拝>

仏心を語る3~その2 - 伝統

2017/03/05 (Sun) 03:45:47


           *「常樂への道」(P81~84)より

過去の私も実は行き詰まってぎりぎりにおいこめられていたので御座います。
医界難治の重病の中で、父に死なれて、家族を遺されて、貯えも無くなり、
段々人も去って了って、死にたいと思っても後(あと)の事を考えると、
その心も使いきれず、全く八方ふさがりでありました。

然し私は今こうして元気で生きています。
それから何年かの月日が経っております。
八方ふさがりだと思ったのは自分が勝手にそう思っていたのでした。

本当は何処(どこ)か開いている処があったので
今こうして生きていられるのであります。

或る日私は暦(こよみ)をみていてしみじみ知らされる処がありました。
八方ふさがりの歴(こよみ)をじっとみていた時、
八方ふさがりでもなお《上》があいていると云うことに気がついたのであります。

《上》迄ふさがっている暦(こよみ)はないのであります。
私達は《上》へ出ればよいのです。

《上》へのぼればよいのです。
《上》を生きればよいのであります。
《上》は、いつでもあいているのであります。

これが有難いのであります。

《上》と云っても空間的な《上》ではありません。
空間的なひろがりは本来無く心の影にすぎないのでありますから、
空間的な《上》だと思うとつまづくのであります。

無の世界に転落するのであります。

時間空間を超えた《上》であります。
実相と云う事であります。
いつでも『今』此処で誰でも《上》があいているのであります。

こうなってきますと難しいことはないのであります。
今神を生き 道を生きさえすれば此の世界は必ず通れる世界なのであります。
無限向上の一路がこれなのであります。

あべこべに神を生きないで、道を失っている時には、
開(あ)いていない行き詰まりの方へ向いているのでありますから、
その人の人生はすらすらと行かないのであります。

これが人生の不幸、人生の混乱の因(もと)であります。

二階から下の庭へおりるのも、一寸(ちょっと)考えると窓から下へ
飛び下(お)りることが最短距離であり、時間的には一番早い様に
考えるのであります。

然しそれは人間の計算の上からそう出てくるだけでありまして、
事実として触れた時にはその通り出てくるかどうかは問題であります。

事実はどうなると申しますと、とびおりたならば大抵足の骨を折るのであります。

それから病院へでもいって治療に1か月位費やしまして
目的の処に到ります迄には随分と永い日数を要するわけであります。
距離の上から云っても病院をずっとまわってからとなりますと随分遠距離になります。

近いわけが遠いのであります。

その原因は何処にあったかと申しますと、道でない処を通ったからであります。

(中略)

これ迄人は、ともすれば全てを算盤(そろばん)で行こうとしていたのであります。
人智で考えた長距離ばかりを行こうとしていたのでありまして、
これは非常に危険をはらんだ生活であります。

どうか私達は道(みち)を愛して行きたいのであります。
この道こそ、私が先ほど申しました開(あ)いている、
八方ふさがりの時にも開(あ)いていると云った《上》と一つ事であります。

          <感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>

仏心を語る3~その3 - 伝統

2017/03/21 (Tue) 03:10:12

           *「常樂への道」(P84~85)より

愛するとは自分を投げ出すことであります。
相手の為に自分を投げ出すことであります。

そして相手と一つになって相手を自分に生きて行くことであります。
相手の呼ぶ声に答えて無我になってそのままを生きて行くことであります。

道を愛するとは、道の前に己を投げ出して道そのまま此処に生きて行くことであります。
此処に喜びを感じ真剣を出したいのでありまます。
これが生長の家で説く神の子を今生きると云うことと一つであります。

今神の心を生きる、他(ほか)に何も考える必要はないのであります。
神の子を今此処に生きる、これで世界はひらくのであります。
神の子の自覚を以って、いつでも今を生かす。

これが生長の家のモットーであります。

不幸の形はどんなでもかまいません。
行き詰まりの形はどんなでもかまいません。

其処を通り抜けたい人は ―― 病気の中で健康をねがっている人、
経済苦の中からのがれようと焦っている人 ―― 道は一つであります。

今此処に神の子を生きる、これ一つであります。

『天地一切と和解せよ』あの神示をよくよく噛みしめ味わいまして
今の中にこの心を誠こめて生かしこんで行くのであります。

これが上に出た生活であります。


村瀬さんも、その交渉事が最初予想した通り巧くすすまないもので
又の御縁を拝んで 『色々有難う御座いました、失礼致します』と
立ちかけました時、

云おうともしなかったのに 『誰か病人でおこまりの方はありませんか』
と云う言葉を出してしまったのであります。

丁度その時、相手方の中に一人身体(からだ)の具合の悪い方がおられ、
求められてその方に真理を諄々説いた事が機縁となって、相手方の心が
動く事になり、其の交渉事がこちらの思うとおりにはこばれて行ったのであります。

此処が大変面白い処だと思うのであります。

こんな交渉の仕方と云うものは人間智慧であれこれと考えて準備しておく
やり方では手のとどかない範囲のものであります。
これが神のみちびき、道のはからいと云うものであります。

先程階段の例で申しました道、その道そのものは決して形ではないのであります。
道は道であって形ではない。千変万化自由自在にその時その処にふさわしい形を
現すことが出来る道であります。

神の子の自覚をふかめ、光明一元の自覚をふかめ、今此処で上があいていいる
自覚をふかめて、その日その時、その事を大切に大切に生きて行きます時、
此の世界は何時でも其の扉をひらいて私達を通してくれるのであります。

此処に此の世を極楽に渡る鍵があるのであります。

          <感謝合掌 平成29年3月21日 頓首再拝>

仏心を語る4~その1 - 伝統

2017/04/07 (Fri) 06:07:30

           *「常樂への道」(P85~88)より

那加に神戸(かんべ)定雄さんと云われます方がありました。
この人は、かつて非常に心の安定を失いまして身の置きどころを定まらず
西に東に転々とした生活をしていた人であります。


神戸をおわれ此の那加へ落ち着きましたのですが、それは形だけのことであり、
お正月になっても屠蘇一つ飲めず着る着物もなく、子供にネルの単衣(ひとえ)を
きせ、自分達夫婦はどてらを着て過ごした正月もあった様な有様だったのであります。

一人の子供が激しい熱を出して医者が手をはなしてしまったと云うことが動機で、
生長の家に触れられ、或る日聖経『天使の言葉』を読誦致しておりました時
『わが来たれるは物の為ではない。霊の為である』この一句が
神戸(かんべ)さんの心に革命を起こしたのであります。

此の時神戸さんは何とも言い表し様の無いショックをうけまして、
泣けて泣けて仕方がなかったそうであります。

神戸さんと云われます方は、生れ落ちて此の方この時まで
物の匂いを嗅いだことの無い方でありました。
嗅覚が働かないのであります。

耳も右でしたか左でしたかが聾(つんぼ)なのであります。

その夜はそのままぐっすりと寝てしまいまして、翌朝眼をさましますと、
何とも云えない匂いがするのであります。

それは奥さんが朝飯(あさめし)の仕度(したく)に海苔(のり)を焼いている、
其の海苔の匂いだったのであります。

会社へ行く為に家を出ますと青い空の下に菜種の花が奇麗に咲いている。
それが皆な香り高い匂いを放っているのであります。

便所の側(そば)を通ると大便の匂いがする。

こんな事迄が神戸さんには、珍しい事であり、有難い事に思えるのです。

耳もいつの間に治ったのか、あやまって聞こえない方の耳で電話をきいて
了(しま)った処が、其の耳がちゃんときこえる様(よう)になっている
のであります。

子供さんの病気も治って了(しま)っているのであります。

心が変われば外界が悉く変わるのであります。

『三界は唯心の所現』とは実に切実な真理でございます。

子供に病気がない有難さ、耳が聞こえる有難さ、菜種の匂い大便の匂いの
嗅(か)げる有難さ。

総じてもって当たり前の中にこもる有難さ。

そんなこと当たり前だと軽くすべってしまう人には
神の国の喜びは何時(いつ)になっても味わえないのであります。

私達は此の世界を平面的に浅く渡らず、
縦に深く突っ込まなければ人生は味気ないのであります。
縦に深く突っ込んでみると、当たり前のその処に神の生命(せいめい)が
生きていたのです。

然し吾々は何と云っても心だけのものでありますから、心が深まり
心が神にかえらねば此のことは現実の問題となって来ないのであります。

唯(ただ)単に努力だけでは行ききれないのであります。
心をひらかずして唯単に努力で行こうとする人は禍(わざわい)であります。
単なる努力主義は必ず行き詰まりを来すのであります。

一つの生活を有難いと思える人、当たり前だと思う人、不平不満に思う人、
生きがいを感ずる人、感じられない人、同じ一つの生活を
どの様(よう)にでも無数に思う様(よう)はあるのであります。

心でどう見られるかと云うこと、心の感じ方、此処に私達の生活の内容が
あるのだと云うことを考えてみたいのであります。

一杯の御飯の有難さを今の何千倍かの有難さに変えることが出来ましたならば、
其処に物をかき集めなくとも極楽があるのです。

吾々の心のうちに此の世界を喜び噛みしめられる心がわいて来ませなんだら、
どんなに物をかき集めても其処は喜べない生活、不平不満のみちている
地獄の世界であります。

ともかく神戸さんの心を急転回させたのは

『わが来れるは物の為ではない霊の為である』

と云う言葉でした。

此の自覚こそ私達が幸福生活を生きる為の鍵であります。

人間は決して此の地上に飯(めし)を食う為に生まれてきたのでもなければ、
富をかき集める為に生まれて来たのでもない、

神の生命(せいめい)を、其のよろしさを此の地上に花咲き現す為に
此処に今(いま)生きているのであります。

愛しあい、扶(たす)けあい、生かしあい、
これが御心(みこころ)の世界であります。

それを生きる為に私達は此処にいるのであります。

          <感謝合掌 平成29年4月7日 頓首再拝>

仏心を語る4~その2 - 伝統

2017/04/25 (Tue) 03:16:33


           *「常樂への道」(P88~90)より

生長の家は物質無しと説きます。

此の世界に一物(もつ)の存在をもみとめず此処天国と観るのであります。
此の世界を霊の海であると観、自分自身を霊性であると観、
われを生かすものを霊であると観、わが来れるも霊であると観るのであります。

渾(すべ)てに於いて神一元であります。

神戸さんには然(しか)し未(ま)だ何処(どこ)かに悟りきれない処が残って
おりまして、名古屋に於ける生長の家の誌友会の会合へ、その心の縺(もつ)れ
 ―― 自分でどれと云ってとらえどころの無い心の縺(もつ)れ ―― を
解きほぐす為に、わざわざ出かけて行かれたのであります。

其の時恩師は壇上に立って頭を低く垂れて聴衆に対(むか)って
『皆さんよくいらっしゃいました』と云われましたそうです。

その言葉の響きに触れられました時、神戸さんのそのとらえどころの無い
心の縺れが何処かへ消し飛んでしまったのであります。

神戸さんは、すがすがしい喜びのうちに心がどっしりと静かに落ち着いてくる
のが感じられた、と手紙で被仰(おっしゃ)ってまいりました。

これは全く素晴らしいことだと思うのであります。
これが悟りであります。

形にふれて形をこえ、言葉をきいて言葉をきかず、
その生命(せいめい)につつまれたのであります。
その生命(せいめい)に直参したのであります。

誠にも霊と霊との交通だったのであります。

その後(ご)此の神戸さんが、
肺結核三期と云われ、結核を恐れる家人によって隔離室へ隔離されていた少年を
一日のうちに起(た)ちあがらせ、三日の後(のち)には号令をかけて
誌友会へ伴(つ)れ出して体験談をさせたと云うような話もございます。


病気を治すのではない。
私達は霊の人としての自覚で起(た)ち上がるのであります。
霊の人となるとは自分の生命の実相に目ざめることであります。

これが下(した)に愚図愚図躓かず、《上》をひらいて上に出ることであります。
《上》へあがれば其処は八方正面であり、八方正面であるから必ず通れる道が
あるのであります。

すべてのお蔭は霊性の自覚によって与えられたのでありまして、
決して物によって助けられたのではないのであります。

(十四・八)

          <感謝合掌 平成29年4月25日 頓首再拝>

信のみの世界1~その1 - 伝統

2017/05/09 (Tue) 04:26:58


           *「常樂への道」(P91~92)より

或る日の記 ―― 

浅く坐って無事平穏であるよりは、苦しみつつ、悩みつつ、惑いつつでも、
より深くおれる人間になりたい。
私の日頃の念願である。

恐ろしいもののうちで一番恐ろしいもの。
自分の本然が願(ねがい)が晦(くら)まされて、空(むな)しいものに
値打ちを感じ、あらぬものに願(ねがい)をこめて生きて行く心。

それにまして恐ろしいもの。
自分の本然の願(ねがい)を探(たず)ねる心も無く、本然の願(ねがい)に
帰ろうとする真摯な心も無く、空(むな)しきものの世界に生きる吾(わ)が姿に、
鞭一つ当てず、歯がみ一つせず、平然とした顔をして渡って行く感じの鈍い心。

冬近い落漠(らくばく)とした秋風(しゅうふう)の中に身をさらしながら、
春を夢みて、のびやかな世界を描(えが)いている様な甘い心。

自分の本然の願(ねがい)の生きておらぬ処には自分はおらず、
自分の本然の願(ねがい)の生きておらぬ処には自分が死んでいる。

生きる為には、深くある為には、平安である為には、
唯(ただ)一筋に本然の願(ねがい)を尊び、
本然の願(ねがい)を生かしきって行くこと。

自分の本然の願(ねがい)がはっきりと見出せでいるか、いつしか晦まされて、
すりかえられて、偽物(にせもの)にかわっていることはなかろうか。

霊の為に生きる生命(せいめい)の願(ねがい)が何時(いつ)しか失われて、
物についた喜びにひきずられて行く、うらぶれた惨めな心に堕ちてはいないか。

神であろうとする願(ねがい)が地を払って、唯(ただ)単に形の平安を願い、
得られないと云っては嘆き、得られたと云っては其の中で陶然(とうぜん)として
酔わされ、平然として安(やす)まっている心はないか。

いずれにしても、空(むな)しきものの世界を彷徨(さまよ)い歩いている
流浪の人にすぎないではないか。

浅くいて平安である生活、地についた平安である生活よりは、
平安をもぎとられ、苦しみに突き落とされ、惑いつつ、縺(もつ)れつつでも
深く深くおれる人間になりたい。

底の底を突き切って、恩師が語られる其の儘の、
正しい意味での神の子でありたい。

          <感謝合掌 平成29年5月9日 頓首再拝>

信のみの世界1~その2 - 伝統

2017/05/22 (Mon) 03:11:38


           *「常樂への道」(P92~94)より

未(ま)だそんな処に何かが残っていたのか、
と云う声を心のうちに聴く日がある。

ハイ、と答えるより仕方が無い自分である。
消えたと思ったものが時折り頭を擡(もた)げ
驚かされることのある自分である。

未だそんな処を歩いているのか、早く来い、と呼ぶ声もする。
こんな声を心の中に感ずる時、道を晦まして浅くとぼうとして、
思わずひやりとする事もある。

此処だ、此処だ、と云う声が聞こえる日もある。
はっきりと見えもする。
はっきりとわかりもする。

然し唯(ただ)それだけであったならば、力みが消え、昂奮が消え、
観念が静まり、自分自身のありのままを静かにふりかえって見た時に、
何と空虚な思いではなかろうか。

余りの侘しさに、吾が身を砕いて捨てたくなる様な
涙の日も出てくることであろう。


みえもする。わかりもする。
浅く走って行こうとすれば、すぐにも行ける近さである。
何の労することもなく、懐(ふぉところ)手しながらに
楽々と行ける処でもある。

然しそれは、何と危ないことであろうか。
そんな行き方をして安まっている心があったならば、
生命(せいめい)の無い形骸を抱いて、其処は前に同じ地獄の世界でしかない。

極めなければならないものを極めつくさず、
砕かれなければならいものが砕かれきらず、総じて、
通らなければならない処を通り終えずして、次の世界のものを受け取って
吾がもの顔にふりまわしていることは、何と危険なことではなかろうか。

自分の自覚の居るところをはっきりと整理しきれずに、其処を其の儘に晦まして
先へ走ろうとする心は、何と危険なことではなかろうか。

しかし、それを敢えてなそうと思えば楽々となし得る様に、
先の先迄の知らされている場合には、ことさら何と危険なことではなかろうか。

此処に救いの光にふれて地獄へ堕ちる危険がある。
此処で走りすぎないこと。
現実に忠実であること。

逃げず、晦まさず、有耶無耶にせず、なおざりにせず。
しっかり見極め、しっかりと整理し尽くせて、自(みの)ずからなる力に
押されて先へ出て行くこと。

飛躍と云うことは、決して、軽くはねて跳ぶことではない。
今心にあるものを晦まして最後の世界へ跳ぶことではない。
わしがの力で跳ぶことでもない。

若しそんな跳び方であったならば決して跳べる世界ではない。
何度とんでもとべるものでもない。

それは、頭だけが、観念だけが、宙を走って飛んだのであって、
自分自身が元の儘におき忘れられている。
自分は飛ばず、夢だけが千里の遠きに飛んで行ったにすぎない。

栄えは決して我(が)の力からは生まれず、
全て天よりの賜物であると諭されている。
飛躍も亦自ずからなる天よりの賜物である。

現実を晦まさず、浅く走らず、身を致し、心を致し、生命(せいめい)を致し、
真剣以って現実を極めきって行くところの励みの中に、時到れば、
自ずから天より下る賜物である。


走らないこと。
真剣であること。

今日深くうたれた言葉である。

          <感謝合掌 平成29年5月22日 頓首再拝>

信のみの世界1~その3 - 伝統

2017/06/06 (Tue) 04:13:18

           *「常樂への道」(P94~96)より

信仰は、観念の肯(うなづ)きや借り物であっては何の得(う)るところがあろう。

其の値打は空(くう)の空(くう)にすぎず、至らざるを至ったと思って
地獄へ堕ちなければ、勿怪(もっけ)の幸(さいわい)である。 
若しこれだけでこと済むなれば、これは又、何と簡単なことであろうか。 

そんなことで、ゆるされるなれば、多くの先人はあんなにも烈しい
身を削る様な苦しみは嘗(な)めなかったであろう。 
心、物真似の玄人(くろうと)に迄達すればこと足りるであろう。 

苦難礼讃は迷いであると諭されている。 

だから私は苦難礼讃の心で云っているのではない。 
と云って受けて極めなければならないものを晦(くら)まして、
観念だけで浅くすべって走り出すことは宥(ゆる)されないことに違いない。 

書けもする、語れもするであろうが、それには根が無い、生命(せいめい)が無い、
実に生きて動く力が無い、空事(そらごと)虚事(たわごと)の言葉と共に
河へ流して捨てねばならぬものでしかない。 

受けねばならなぬものは受け、極めなければならないものは極めて行かなければ、
決して道は開いて行かないものである。 

実感は生れて来ないものである。 
実感に迄掘り当ててこそ正しく生命(せいめい)の目覚めである。 
信仰では実感と云うことが宝である。

信仰とは上から浅くかぶった迄では駄目である。

やはり吾れと吾が身を投げ出して、其処に生み出して行った答でなければ駄目である。
生命(せいめい)が砕かれて獲得した答でなければ駄目である。

『唯信ずる』と云っても、唯信ずると云うことを、自分が砕かれて
生命(せいめい)と引換えにうけとったのでなければ権威も無く救いも無い。

『自分は、唯信ずる』では空しいであろう。
その『自分は』が消え、自分は、と引換に、《唯信ずる》だけが生まれた
のでなければ値打は零(ぜろ)である。

此処の道程が各自銘々に与えられた修行であって、借物でゆかず、
他(た)にたのむわけにもゆかない処である。

此処の境地迄到らず、本当にそれ一つになり切りかたの鈍い時、
身を挺して生命(せいめい)で受けず、唯借物である時、《私は》があって、
唯信ずるがついている時、神の言葉が己れのすべてとならず、
時折頭をもたげて驚かすものが何処(どこ)かにひそんでかくれているものである。

『生命の實相』で諭されていること、
これは絶対真理であり、私の生命(せいめい)である。


この絶対真理が借物に終らず、本当に自分自身の血肉(けつにく)をつくり出す
生きた現実の力となる為には、恩師が云われるままの其の侭の
正しい意味での神の子である為には、

晦(くら)まさず、投げやりにならず、御座(おざ)なりにならず、
観念だけで坐りこまず、泣事を云って悲鳴をあげず、
自分で答を出し、諸々の世界を通過して行かねばならない。

毎日毎日の自分の生活を、此の諸々の世界と一つにして生きて行きたい。
未(ま)だ未(ま)だ極めなければならない事の多い私には、
色々な事が群がり起こって来るであろう。

それが其の儘、偽物(にせもの)をはいで本物が生まれる助けの道程であると
思えばうれしい心が動く。

然し、これらのはげみは何時(いつ)でも、神に祈り仏に願いつつ、
神であります様に、御心であります様に、
の心の中からでなければならないのである。

(初出は、『行』誌 昭和14年9月号)

          <感謝合掌 平成29年6月6日 頓首再拝>

信のみの世界1~その4 - 伝統

2017/06/23 (Fri) 03:54:29


           *「常樂への道」(P97~98)より

或る日の記 ―― 

行き詰まりが来た時、ふりかえってみなければならないこと、
それは決して外ではない。

外は空(むな)しい、何時(いつ)でも其処は空無である。
空無であるから何も無い。

これが原因だ、と思ってとらえたとて、それは錯覚であって嘘である。
何時(いつ)までも此処を逍遥(さまよ)い歩く愚(ぐ)を繰り返さないこと。
三界唯心を思い出すこと。外の躓きは内の躓きであることを思い出すこと。

唯(ただ)神の子である時、形を放し切っている時、持ち物を捨て切っている時、
何時(いつ)如何なる処におかれても、此の世は行き詰まりの無い世界である。
無限生長の世界である。

これが万人に与えられた福音である。

生長の家はこれを説く。

形と云い、持ち物と云っても、目にみえる物質のことばかりではない。
心の形こそ、心の持ち物こそ、吾等を躓かせる形であり、物(もの)である。

こうして持ち物がつかえるのである。
そうして通れない世界が出て来るのである。

狭き門より入(い)れ、亡(ほろ)びに到る道は広く、栄えに到る道は狭し、
之(これ)はイエス・キリストの諭(さと)しであった。

只(ただ)神の子であり、天を仰いで祝福して置かれた今を生き切っている時、
開(あ)かずの扉を通り越し、無孔(むこう)の孔(あな)を通り抜けることが
出来るのである。

これは恩師の諭しである。

『今』の一点は目にこそ見えね、開(あ)け放しの窓を四面にめぐらしている
部屋よりも、まだ四方が開(あ)いているのである。

固く閉ざされた鉄の扉の中へととじこめられてあろうとも、
山なす困難の中におかれてあろうとも、《今》は何時(いつ)でも
上下左右四方八方開けっ放しである。

《今》は何時(いつ)でも開いている。

全ての持ち物を捨てて、唯(ただ)神の子の直心(じきしん)にかえり、
今の一点を押して行く時、此処に生長の家の生活に生きる。

諸々の持ち物の喜びを、己の喜びと間違えて生きて行く生活。
持ち物をふりまわし、持ち物にひきまわされて生きて行く生活は、
次第次第に己の生活を枯らして行く。

喜びつつ、地獄へ堕ちて行く人の生活である。

『今』は何時(いつ)でも開いている。
持ち物が捨たり、只(ただ)神の子で何時(いつ)も此処を
押して行ける様に祈ること切(せつ)である。

          <感謝合掌 平成29年6月23日 頓首再拝>

信のみの世界1~その5 - 伝統

2017/07/10 (Mon) 04:02:55


           *「常樂への道」(P98~99)より

或る日の記 ―― 

此の儘でよいと云う感じと、もっとよくしなければならない
と云う願いとが、矛盾を感ぜずに二つ同時に生きて来る。

両方ともに尊いものである様な思いがする。

日(ひ)によれば或る時は、此の儘でよいと云う思いの深い日があり、
或る時は、もっとよくなければいけないと云う心の強い日があって、
波の如くうねっているが、はなれて遠く眺める時、

二つが一つに溶けている感じであり
一つ処から二つの異なったものが生まれて来る感じである。

正反対の様に見える此の二つは、やはり一つものであったのであり、
同じ救いの異なる光であったのだと今日(きょう)気がついたことである。

          <感謝合掌 平成29年7月10日 頓首再拝>

信のみの世界2 - 伝統

2017/07/23 (Sun) 03:44:37


           *「常樂への道」(P99~100)より

人生は自分で出しただけが与えられる世界である。

他(た)を責めれば自分も亦責められる。
他(た)を責め他(た)を裁きながら、自分だけ宥(ゆる)されよう愛されようと
思っても、此の世の法則はそれを宥(ゆる)さない。

自分が宥(ゆる)される為には、他(た)を宥(ゆる)さなければならない。
自分が愛される為には、他(た)を愛さなければならない。
宥(ゆる)す者だけが宥(ゆる)され、愛する者だけが愛されるのである。

宥(ゆる)しは宥(ゆる)しを呼び、裁きは裁きを招く。
七度(たび)を七十度(たび)宥(ゆる)せ、これはキリストの言葉であった。
七つは完成の響きであると知らされている。

罪無き者として相手を拝むことこそキリストの諭(さと)しの真髄でありましょう。

ともあれ、人生は自分の心以上のものではないのである。

拝む心が拝まれる心であり、生かす心が生かされる心である。

神は神にのみこたえ、仏は仏にのみこたえる。
自分の内から極楽が出なければ、此の世の極楽はわかる筈がない。

          <感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>

信のみの世界3 - 伝統

2017/08/09 (Wed) 03:58:59


           *「常樂への道」(P100~101)より

茶の間の動きと神前の動きに溝がありません様に、一つの心、一つの動きが、
神前と茶の間とへ出て行くことが出来る様に。
別々の二つの心でない様に。

時折祈らされることである。

《此処を》大切に生きて行きたい。

心が二つも三つも四つもある様では情けない。
こんな人は他(ひと)に蔑(あげす)まされても仕方がない。

何時(いつ)も神の心(こころ)誠(まこと)の心で貫いて生きる人間でありたい。
魂を麻痺させないこと、これが大変大切だと思うのである。

魂の私語(ささやき)は何時(いつ)も大切に生かす様にしなければならない。
どんなことがあっても、決してそれを殺す様なことをしてはならない。

殺しつけると折角の魂の私語(ささやき)がにぶらされてしまうのか、
段々と聞こえない様になってくる。

これは大変危険なことである。
眼(まなこ)ひしがれて巷(ちまた)を逍遥(さまよ)う様な危険である。

奥底からの魂の私語(ささやき)、良心の私語(ささやき)は、
其の時の自分に与えられた唯一筋(ただひとすじ)の、
他(た)にかけがえの無い処の、神より与えられた光りの道なのである。

これにたよる者は平安の世界へあげられる。
然(しか)しこれを逃(にが)しこれを生かさない者は
其の身混乱の世界に堕(だ)し、悲しみ心をふさぎ、
やがて亡びに到るより仕方がない。

          <感謝合掌 平成29年8月9日 頓首再拝>

信のみの世界4 - 伝統

2017/08/24 (Thu) 04:42:50


           *「常樂への道」(P101~102)より

『エホバ神土の塵を以って人を造り、生気(いのちのいき)を其の鼻に
吹き入れたまへり。人即ち生霊(いけるもの)となるぬ』と
創世記に書かれているが、これは仏教の無明縁起説を擬人化したのである。

此の世界には土の塵で人間を創造(つく)る神もいなければ、
土地の塵にて造られた人間もいない。

創世記の此の一章は、人間の《最初の夢》、錯覚状態を象徴化しての表現にすぎない。
人間は神の子であり霊的実在であるのに、其の本値(ほんめ)を見失い、
影を、物質を、肉体を、其れ等虚(むな)しきものを自分自身の本体であると
思い違いしたことの一つの表現にすぎない。

その点生長の家はクリスチャン・サイエンスと同様の見解を有(も)つのである。

思い違いの心が放下されて行く時、『物質無し』が説かれ『人間は肉体に非ず』が
説かれ、神一元の真理が説かれ、人間は霊的実在であるの真理が説かれて行く時、
最早其処には無明(むみょう)も無ければ、無明が造ったと云う肉体人間もいない。

2つ共に真理の光に照破されて、無の世界、非存在の世界へ追いやられたのである。

敵は外にはない、内である。
然し一度(ひとたび)実相がひらかれた時最早地に堕ちて影もない。
吾等の前に今此の世は光明一元であり、生命(せいめい)円満至美至妙なる
生命(せいめい)ろ、其の御子(みこ)と、只それだけの世界である。

生長の家が出現して、無明(むみょう)と無明がつくったと云う
物質的存在は既に無に帰したのである。


無いものをあると思うのが迷いである。
無いものをあるかの如くに取り扱ってはならない。
生きていないものを生きている様に取り扱ってはならない。

無いと殺しおえている心が牢乎(ろうこ)としているかどうか。
死んでいるものを、存在するかの如く扱って殺しにかかれば、
其の姿が、既に、打ち負かされている姿である。

此処に錯覚はなかろうか。
心すべきことである。

(一四・八)

          <感謝合掌 平成29年8月24日 頓首再拝>

「往相精進の境を超えて」~その1 - 伝統

2017/09/08 (Fri) 04:51:32


           *「常樂への道」(P103~104)より

或る日の記 ――

神と云うもの、真理と云うものを、自分みずからよりも髙き存在として発見し、
自分自身を、低きもの醜きものとみなし、努力に努力を重ね、励みに
励みをかけて、やがて、己を神の如く完きもの、淸きものに高めなして行かうと
する歩み方は、

此の人生を最も価値深く生きて行こうとする人々の心を強く打つものであり、
此処に何か求道者にとつての最髙価値がこめられてあるやうに
思われ勝ちでもあつた。

精進と云う言葉が、神の如く完かれとの励みが、
どんなにか私達にとつて髙いものに拜まれて来たことであつたろうか。

然しそれは決して吾々にとつて最髙のものではあり得ないことを
悟れなければならないのである。

或る道程に於ては私達に対して、此の行き方も或る種の価値を生み出しはする
であらうが、それはやがて一度は捨てて葬られなければならないものであり、
私達自身捨てて葬れる人間に迄高昇しなければならないのである。

『人新たに生れずば神の国を見ること能はず』
これはイエス・キリストの言葉であつた。

こと改めてキリストの言葉を此処に挙げる迄もなく、
此の行き方が決して人間をして神の高さに迄高めあげ得ないこと、
天国と自分とを遂に一枚のものとなし得ないことは、

濁りを清め浄めて行くこと、足らぎるを充たし満たして行くこと、
総じて励みによつて完からんとする行き方に、
己を捧げた経験を踏んだ人々には誰にも頷けることに違いないのである。

遂に永遠に「神の国に住し神の国の喜びを身に受けることは出来ず、
それを最高理想として翹望(ぎょうぼう)し、その如くに完からんとする
励みの中に微かなる慰安を味うのみにすぎない。

かうした信仰の世界に渋滞いる人が余りにも多く充満しているのではなかろうか。

彼等は皆異口同音に云う、紙一重なのだけれども、手がとどきそうなのだけれども、
ほんのもう一寸なのだけれども、と云う樣な言葉を。

そして又しても、励みに励み努めに努めて己の醜さを殺して行こうとする。

其の姿は凄惨なまでの傷(いた)ましさである。

これは「煩悩断じて菩提を得」と答えて、
達磨大師から「汝は我が肉を得たり」と賞められる底の人であらう。

『生長の家』からは遙かに遠い世界でしかない。

          <感謝合掌 平成29年9月8日 頓首再拝>

「往相精進の境を超えて」~その2 - 伝統

2017/09/28 (Thu) 04:05:35


           *「常樂への道」(P104~108)より

又自分の今ある生活、今の惱み苦しみを救おに到る道程とみなし、
これで良くなるのである、これが結構なのである、必ずよくなる、
必ず助かるなどと、段々と助けられて行き、助かつて行きつつある姿に見返し、
こんなにも今現に助けずにはおかない力が働いているではないか、
これが神である、これが救いである。

煩(わずらう)うこともない、悩むこともない、
素直にまかせきつて生きれば好いではないか。
という助かり方は、私達の先を歩いて行つた多くの先人の方々によつて
尋ね当てられた魂の憩いの世界であつた。

樣々な苦惱の中に身を擦り減し人生の歩みに疲れ果てた人々にとつては、
こうした救いも一種の魂の慰安とはなり得るであらう。

然しこれも亦如何に低位な救いに過ぎないであらうか。

これは未だ救いの光と自分とが一枚の存在ではなく、
無明(むみょう)の自分を光明が照らして呉れているやうな姿であり
助けられる事にきまつてはいるが、それは未来のことであって、
今はまだ助かつていない自分であり、暗の中から光を拜んでゐる姿である。

今迄私達に與へられた信仰は全て此の種のものに過ぎなかった。
無明が光を拜んでいる姿。罪の子が神に縋(すが)っている姿。
足らぎるものが完きを願つている姿。

これも亦明かに光明一元ではなく、明暗混淆の世界であるに過ぎず、
生長の家の敎えの外である。

此の種の信仰 ―― 自分が悩みの塊として悩みの世界に住み、
自分の現実の外に神を認め、光を認めて、その神の救いが己の悩みの世界に
恵み与えられ、悩みの世界が消えて光の世界に変貌することを願つているやうな
信仰がどんなにか氾濫していることであろう。

深く神を崇め高い信仰に達していると云われている樣な人々にも、
此の種の種類の信仰に墮ちてゐる人がどんなにか多いことであらう。
正しくはこれは信仰の墮落である。

接待の神、絶対の神と拝しながらも、絶対の神以外に其の神に助けられる事を哀号し、
或ひは又励んで其の神に迄到らうとしている自分があるような鈍い信仰ではなからうか。

例へば学者学生が学問の世界で捻りまわしている絶対というものには、
得てしてこんな絶対がある。学者の自分が此処におって、絶対という言葉を
文字の上で転がしているような姿である。

これでは絶対は夢で事実は相対でしかない。
信仰がこうした姿に墮ちたならば、遂に救われ得ないことである。
神以外にはみ出している自分、その自分の力での励みは空しい。

神ならざる力、《わしが》の力での励みは空しい。
生長の家では何時(いち)でも今此此処に救の光があると云う。
自分とその光とは一枚であつて、離れていないと云う。

その実の相(すがた)は今此処にあれども、然しそれは又遂に永遠に、
相対自力にたった努力精進と云う世界からはキャッチし得ない世界である。

自力の行者、努力精進の行者ヨハネは遂に躓いて地に堕ち、
艱難修行は悟りの因に非ずと悟つた釈迦は天に生れたのである。

私達の求道の道程に於いても、一度は、此処の処を
はつきりと整理しなければならない時が来るのである。

そしてこれは又是非一度は通過しなければならない関門であり大切なことである。
もう一歩なのだけれども、紙一重なのだけれども、よく判りはするのだけれども、
その境(きょう)に渋滞して徒らに近くして遠い嘆きを嘆かなければならない世界を
超える為には、《私が》の力によつての励みの渾てを、
一度はは撥無しなければならないのである。

神に真理に相対するところの心が、己の励みによつて、神の完きに到らうとはげむ。
そんな心の上に咲く誤れる誠実、誤れる謙虚、これら全てを捨てなければならない。

然し、神のみ唯一の実在、この真理に盲目となり、自分に対する
そんな悪しき存在があると思って、その存在を殺しにかかつたならば、
それは既に無いものに転ぜられている迷である。

真実の自分に仇する悪しきものが存在するとの迷いは烈しい力で
私達の心に喰い入っている。そして兎もすれば、悪さを殺そうとする迷いの世界へ
顛落しようとし勝ちである。

完(まった)くありたい、神の御前に恥じない人間でありたい
との心旺(こころさか)んなる日、此処が大きな躓きとなることがある。

現象は無いと云うこと。

不完全は無いと云うこと。

何を措いても此処の悟りが牢固(ろうこ)として動かないこと。
此の世の真意実相にはっきりと目覚めること。

完全のみがあり、それ以外は天地間に一物の存在も無いことを悟ること。
肯くこと。信ずること。素直にハイと受けること。其処が道である。
わしがの無い世界への生れ更りである。

《私が》が撥無され、神の子が神の力で信ずる信仰であること。
此処まで来なければ、神をキャッチしたように感じられてもそれは空しいことであり、
自分が救われていないのであり、救われたと云う実感も生れては来ないのである。

一度自分と云うものが消えてしまつた人は生活ぐるみ渾てが光っている。

語るも真理。語らぬも真理。真理でないものは何もない。
渾てが渾てみんな真理ばかりである。

『私はラッパであつて何も知らない。』との恩師の信仰。
『識(し)らず』と云って立ち去った達磨大師の信仰。

神の御光唯一つ生きている世界が此処にある。
わしがの無い信仰が此処にある。

神が神の言葉を語り、絶対が絶対を語る世界が此処にある。
『総じてもつて存知せぎるなり』と無に消えた親鸞聖人の構へた
南無阿彌陀佛が此処にある。

現象無しに徹しきつて唯実相あるのみに生れ出た、生長の家の信仰は此処に立つ。

目を閉じて噛みしめると、言葉することの出来ない、心のうちに入り切れない、
深く広く髙い響きが感ぜられる。矢張り無限と云う感じである。

          <感謝合掌 平成29年9月28日 頓首再拝>

「往相精進の境を超えて」~その3 - 伝統

2017/10/12 (Thu) 04:09:13


           *「常樂への道」(P108~109)より


《現象は無い》。

此の言葉が再び新たに身に沁みて痛い今日である。

無の一字。
此処をよく通過出来ることこそ、道を求むる者の前におかれた関門であつた。

されば仏教は無字を超えることに生命(せいめい)を宿し、
キリストは窄(せま)き門を説き、
生長の家は現象本来無を説くのである。

よく此の関門を超えて、しかる後(のち)に発見する神の世界であり、
神の子でなければ其処に権威もなければ光も無い。

此処に鈍さが残る時、其処が躓きの因である。地獄の始りである。
この地獄は決して励みとか、努力とか、淸めあげとか、神の御前に誠実にとか、
かうしたことばかりでは消えることのない地獄である。

現象が発無されなければ地獄は消えない。
現象を発無する時、私達は今の此処に天国を発見する。
現象に心が執する時、天国は永遠の彼方に離れ去る。

現象に転ぜられると云うこと、これが一番恐ろしいことである。

          <感謝合掌 平成29年10月12日 頓首再拝>

「往相精進の境を超えて」~その4 - 伝統

2017/10/28 (Sat) 04:46:17

           *「常樂への道」(P109~110)より

現象に立っての努力は空しい。
現象と実相と二つの世界に心またがりながら、
現象の足りなさを嘆いての努力も空しい。

それは恰も、神をいと高きものとし、己を醜く低きものとして、
神に到る励みを励んで行く愚に等しい。

現象は元々そして今も無いものである。
如何樣な姿に現われてもおれ、それは無の一字に尽きるものでしかない。

生き切れていない自分も無く、況んや、両者の間に横たわる溝も本來無いのに、
何時しか無いものの変転に心拉(こころらっ)し去られていた愚かさ。

無いものには整ったもなければ整わないもない。

無いものは無いのである。

如何にともあれ、現象は無いのである。

何故(なにゆえ)此の空しいものに、
実在の衣裳を着せて、実相の前へ曝そうとしたのか。

総じて現象を捉えて、どうしたならば実相の完全なる如く
此処も亦全くありうるであろうかと足掻(あが)いていた愚かさ。
何故(なにゆえ)こんな解り切つたことに足を掬(さら)われようと
していたのであろうか。

最近神に誠実でありたいとの心強く、実相が開かるれば現象は整うのである。
此処がより好く整うことは神が生きて動くことである。
整うべきであり整えるべきである。

どうか完全でありたい、神でありたい。

此の真摯な心の前での躓きであつた爲に躓きを躓きと悟れず、
寧ろ尊い一歩の前進であるように考え違えていたことに気がついたのである。

ことさら深く落ちる危險が此処にあった。
神への誠実という美(うる)わしい心を抱いて
私は地獄へ顛落しようとしていたのであつた。

今の此の現実を神らしく生きねば、
吾と吾が身を神の子であるとは云い得ないのである。

今此処にある姿を晦まさず、淺く滑らず
はっきりと受けて其処を割り切りつつ進んで行く、
此処から実相と現実とが一つになる。

これは一見尤もらしくはあるが、
然し、これは神の子が尤もであると肯くのでなく、
肉体人間の意識に尤もだと肯かれるにすぎないものである。

これは余りにも大いなる錯覚であつた、と気が着き得た今日の安けさ。

断崖絶壁で辛うじて身を躱(かわ)し得たような安らかさである。

          <感謝合掌 平成29年10月28日 頓首再拝>

「往相精進の境を超えて」~その5 - 伝統

2017/11/13 (Mon) 03:47:48

           *「常樂への道」(P110~112)より

實相の完全と現象の不完全と、両者の間の溝に落ちて良心の痛みに追われ、
幾ら辛くとも此処は晦さず、正直にうけて其処に自分らしい道を発見しなければならない。

其の時こそ信仰がよりはつきりと確立し、両者を隔てる溝も消えることになるのだ。
今日から其途(そのみち)を踏み出そう、これは悲しむべき事ではなく
道を求むる者にとっての光栄ある苦悩であるなどと決意した或る日、
恩師の御講義が余りにも烈(さげ)しい痛さで私の心を叩いたのである。

それは恰も八つ裂きにでもあったような感じであり、踏んで踏んで踏み抜かれ、
叩いて叩いて叩き拔かれて、粉々にされて吹いて飛ばされてしまった様な感じであった。

自分でよしと許していたものを一つ残らず全部奪ってかなぐり捨てられ、
そしてず―っとと向うへ行かれてしまったような感じであつた。
呆然とした中で淋しい心が湧いて来た。

こんな心の三日日、私は『生長の家』誌の八月号を披いて目をうつしていた。
八月六日、娑婆即寂光土と悟る日の一節

『けれども生長の家は世界に何ら非道なことは存在しないと云うのである。
それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少くとも存在する限りは、
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於いて、それは如何に存在するように
見えようとも、それは「非道」印ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないとするのである』

此処を読んだ時、私は何かしらハッとした。

今自分の捉えているところのもの、今自分の立っている世界、今自分の辿ろうとしている道、
それ等全てをひっくるめて『無』と一喝激しく叩かれたような感じであつた。

《完全のみがある》。《そして不完全は無い》。
何かしらハッと心でうけとめ得た感じであった。
それはこちらで握って居なくとも決して落ちることのないような感じである。
うけたと云うよりは内から開いた様な感じであった。

          <感謝合掌 平成29年11月13日 頓首再拝>

「往相精進の境を超えて」~その6 - 伝統

2017/12/02 (Sat) 03:04:16


           *「常樂への道」(P112~114)より

完全のみがある、そして不完全は無い。
自分が整えようとかかつていた其の整えきれない自分はない。

今私が尤(もっと)もらしく、
『今の現実を晦まさず、其処を忠実に生き、
現実から浅く走らずはつきりときわめ切つて』
などと云つている、其の今は『永遠の今』ではなく現象の今に過ぎず、
此の現実、此の現実と云つている現実は、実相の現実ではなく
現象の現実で本来無いものではなかったか。

『永遠の今』が現象の今にすりかえられ、実相の現実が現象の現実にすりかえられ、
何時しか地に墮ちようとしていたのである。

生長の家を現実逃避ではないかなどと反発したり、
無理に目を閉じて今現にある苦しみを見まいとして力んで居るのではないか
などと理窟を云つたり、全てをもっと公平にもっと冷靜に、あるが儘の其の儘を
受け容れなければならない、などと云ったりする人が出て来たりするのも、
本来空しきものに過ぎない現象の現実を〝あるある〟と迷って居るからこそであった。


実相と現象との関係などと愚かにも考えた日もあった。
たった今迄その心が残つて居た。
然しこれは何と愚かしいことの沙汰ではなかったか。

実相独在で現象は無いのに、どうして両者の側に関係などがあり得るだらうか。
関係などと考える間は未だそれは現象無しが悟り切れていないのである。
現象が死に切らずふらふらしているから両者の関係などと躓くのである。

魂が目を覚ますこと。
現象が死に切って、其処へ実相が生れ出づること。
完全のみがある、そして不完全はない。
善のみがある、そして善でないものは無い。

清めあげなければならない自分は無く、
励みに依つて完全にしなければならない自分も無く、
実相の完全さをみて未だ到り得ないことを歎かなければならない自分もなく、
今あるようにみえている不完全なものは幾らあるように見えても全てなく、

そして今既に始めから完全なる神と通ずる自分のみが此処にあり、
それ以外は何も無く、吾らは始めから成仏して居ると諭されて居たのであり、
神一元、仏一元で、それ以外は無いのであると知らされて居たのであつた。

これを悟ることによってのみ吾等は神であり、仏であり、完全であり、
清くあり高くあり得るのであつて、それ以外には道は無いのである。

悟ること。新たに生れること。
誠にも、人新たに生れずば神の国を見ること能わず、である。

『煩悩本来無し、唯菩提あるのみ、現象本来無し、唯実相あるのみ』
これ以外無いのが真理であり、これ以外無いのが生長の家である。
天地崩るるとも此処以外に心走らない人間であること。

『身は是れ菩提の樹、心は明鏡の台の如し。時に払拭して塵埃を惹かしむること莫れ』
と示した神秀上座の心と、

『菩提は本樹無し、明鏡亦た台にあらず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん。』
と示した慧能禅師の心と。

慧能は心安穏とし神秀は心苦しみに覆われいゐたことであろう。

神のみあること。完全のみあること。
そして、それ以外には遂に一物の存在も無いこと。
今から完全にして行く自分はないこと。

今完全であり、それだけであって其れ以外は無いこと。
此の自覚にかえる時、其処が其の儘道であり神の子である。
そして誰もが今此の儘で《それ》なのであつた。

『《其の儘》でよいのである。人間は《其の儘》で完全である。
人間の《其の儘》が神である。』

の恩師の御言葉が新たなる響きをもって身に沁みる今日(きょう)である。(十四・九)

          <感謝合掌 平成29年12月2日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その1 - 伝統

2017/12/23 (Sat) 03:19:20


           *「常樂への道」(P115~116)より

高く上(のぼ)って墜落し、力が出て来てかえってその為に何時の間にか
地獄に堕ちていることがあります。

これは大変危険なことであり、私達お互いに道を求める者の
一番注意しなければならない処ではないかと思うのであります。

これは唯単に堕ちまいとすること、溺れまいとする注意からだけであっては
ふせぎとめられるものではなく、そんな心の警戒を裏切ってやはり墜落して
しまうことが往々にしてあります。

又そんな心にばかりたよっていたいたならば自分と云う
段々と委縮してしまいます。

溺れたり堕ちたりするのは中心の自覚が無くなって、
《自分》と云うものが知らぬ間に顔を出してくるからであります。
自分がした、自分がよくなれたと云う様に《自分》が出てくるからであります。

自分がしたと云うかわりに神がなしたと思い、自分がよくなったと思うかわりに
神がよくして下されたと感謝すると云う風に、吾が業(わざ)は吾がなすに非ず
天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の力である、

全てお影様である、有難い、自分が偉いのではない、自分が偉くなったのではない、
と云う根本自覚がしっかりしていて、《わしが》の心が死んで何時(いつ)でも
神を忘れないならば堕ちる事もなく辷(すべ)ることも無いに違いないのであります。

此処がしっかりしておれば何時も神と倶(とも)でありますから、適当な時に
適当な働きをさせて戴けて自分と云うものを一番深く一番切に生かしつつ
すすめるものであります。

          <感謝合掌 平成29年12月23日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その2 - 伝統

2018/01/08 (Mon) 03:28:20

           *「常樂への道」(P116~118)より

何処かの町で思念の力の大変強い人にお目にかかりましたが。
此の方は何でもかんでも思念をして相手の病気を治してあげさえすれば、
それが救いであると思って盛んに自分の思念の力を、処かまわず相手かまわず
ふりまいて歩いておられる様でありましたが、
其処に躓きがあるわけなのであります。

何によらず自分の能力と云うものに誇りを感じ、本来無い処の不実の自分が
生まれており、自分が拡大して行くことが反面に自分の誇りをふとらして
行く様(よう)であったならば危険この上ない事なのであります。

誇りと云うものをふとらせずに自己拡大が行なわれててこそ
正しい生長でありますし、その為には何時(いつ)も、

吾が生くるは吾が力ならず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の
生命(いのち)、吾が業(わざ)が吾がなすに非ず天地(あめつち)を貫きて
生くる祖神(みおや)の力。

此処を祈って誇るべき自分の手柄と云うものは何も無い事を自覚し、
渾(すべ)てを神にかえして神に感謝できる根本自覚が大切なのであります。

感謝して神に連なると云うことを忘れる処から亡びが起こるのでありまして、
自分の力に自分が溺らされて行く様(よう)な風(ふう)になりますのも
皆此処からであります。

私は此の頃(ごろ)になって、やっと《はっきり》して来たのでありますが、
神に連なるのにも色々連なり方はありましょうが、
感謝して連なるのでなければ駄目だと云うことであります。

神はまず感謝すべきものだったのであります。
渾(すべ)ての栄えに自分を高しとせず、其処に何時(いつ)も
神をみて感謝すべきだったのであります。

願いで連なる、理で連なる、それもよろしいでしょうが、
一番奥に感謝で何時(いつ)も絶えず深く切に連なっている処がなければ、

自分が神に生かされていると云う心が生まれて来ないと云うことが
はっきりとして参りまして、神は感謝すべきものだと思わされておるので
あります。

病気の人を見れば一日も早くその病気さえとってしまえばよい、思念をして
其の病気を治してしまえばよいと思っている方にお目にかかったと
申し上げましたが、本当の救いは無暗に形の救いを与えるのではない。

形の救いが唯単にそれだけであったならば何にもならないことであります。
形の救いは与えてやることがよいこともあれば、
与えてやらないことがよいこともある。

それは時と場合によることでありまして、其処には智慧と云うものを
働かせなければ救いながら亡(ほろ)ぼしていると云う様な事になりますが、
光を与える、生命(せいめい)を与えると云う事は何時(いつ)如何なる時
にでも間違いは無いのであります。

生長の家の根本は此処にあるのでありまして、病気の人に対しても
病気を治して差し上げるのではなく、内にある光を開いてあげるのであります。

生長の家で神に目覚めると云うことは、自分の中(うち)に光があると云うことに
気づかせて貰って、其の光によって、其の日其の時を通らして戴き、
其の度(たび)毎に自分がしっかりしてまいり、住む世界の味が深まって行き、
此処から私達の本当の、正しい、すぐなる生長と云うものが約束されてまいる
のであります。

          <感謝合掌 平成30年1月8日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その3 - 伝統

2018/01/24 (Wed) 03:18:09

           *「常樂への道」(P118~119)より

信仰とは自分が宇宙とひとつである自覚をとりもどすことであり、
神の中に新たに生まれることであると諭されております。

そして其処から片寄りの無い、平衡のとれた動きが生まれてくるように
なることだと申されております。

愛ばかりが勝っても、それは信仰として満点ではなく、
智慧ばかり勝っても満点ではない。

色々の方々の信仰の話をして戴く時に愛ばかりに非常に溺れている話が御座います。
そうかと思うと智慧の方ばかりが非常に強調されている話があります。

ところが本当の信仰の値打ちと云うものは、智慧と愛との十字に組み合わされている
処から生まれて来る処に、本当の信仰としての光が宿っているのであります。

『生命の實相』をお読み下さいました方々から色々な御感想を戴きますが、
智慧のすぐれている方はやはり自分らしくその様におとりになっております。
愛の心の深い方は何か非常に柔らかいものが入っている様に
感じられるらしいのであります。

それは各自自分の心の影としてその様におうけとりになられるのでありますが、
キリストの言葉がそうであり、釈迦の言葉がそうでありました様に、
此の『生命の實相』は愛と智慧の十字の中心、言葉をかえれば誠であります。

その誠から生まれて来ております処に全ての人々から拍手して迎えられ、
全ての人を救いとる力があるのであります。

          <感謝合掌 平成30年1月24日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その4 - 伝統

2018/02/11 (Sun) 04:41:53


           *「常樂への道」(P119~120)より

無門関第五則に香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)と云うのが御座居ます。

『人の樹(じゅ)に上(のぼ)るが如く、
口に樹枝(じゅし)を啣(ふく)み、手に枝(えだ)を攀(よ)じず、
脚(あし)樹を踏まず、樹下(じゅげ)に人あって西来意(せいらいい)を問わば、
對(こた)へずんば即ち他’た)の所問(しょもん)に違(そむ)く、
若(も)し對へなば又喪身失命(そうしんしつみょう)せん。
正恁麼(しょういんも)の時、作麼生(そもさん)か對えん。』

と云うのであります。

口で枝にぶらさがり、手は枝にふれておらず、空(くう)にあずけられ
脚下は千仭の谷、其処へ問(とい)をかけられて返事を要求され、
返事を送れば枝から身体(からだ)がはなれて千仭の谷へ身を落として
死ぬより他(ほか)に無い。

返事をしなければ礼を欠く。
礼を欠くとは道を失う事で、道を失ったならば
道こそ自分の生命(せいめい)なのであるから、自分はもはや生きていない。

どちらにしても死ぬより他(ほか)に無い。
絶体絶命通るに道(みち)無し、其処をそう通るか、
さあ答えろと云うのであります。

お互い人生を渡って行く時にこうした公案は
何度か自分の前に提出されてくるのであります。

或いは、現代の世界ではどうしても治る道の無い病気の姿で、
或いは最早何処(どこ)にもきり開く道の無い経済難の姿で、
或いは最早家庭を破壊するより他(ほか)に満ちの無い烈(はげ)しい
三角関係の姿で、

其の他色々な姿をもって私達の前へ
この香厳上樹の公案が提出されてくるのであります。

そして私達は自分で答えを書いただけ、それだけの生活を送るのであります。

此処に私達の生活がどの様に切り開かれて行くかと云うことは、
悟りの程度、心の開き具合によって定(さだ)められるのでありまして、
悟りの問題と実生活とがどんなに深い関係にあるかと云うこともわかるのであります。

          <感謝合掌 平成30年2月11日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その5 - 伝統

2018/02/27 (Tue) 03:29:29


           *「常樂への道」(P120~121)より

行き詰まりと云うものは人間智慧が行き詰まるのでありまして神は行き詰まらない。
それが生長の家の根本心理であります。

神の子に行き詰まりは無い。
行き詰まりと云うものは何処にも無いと云うのであります。

そうしますと此の公案の中にも行き詰まらない道が開かれているのでありまして、
それが見出せるか見出せないか、又その様に見出して行くか、其処に各人それぞれの
悟りの程度と云うものがあるのでありまして、

必ずしも先人が通った解答を通らなければならないと云う事は無く、
もっとすぐれたよい道が発見されればそれに越したことは無いわけであります。

恩師はどんな具合に其処を通られましたかと云いますと、今迄誰も通らなかった
処に道を見出して通られたのであります。

『手があいている、手でぶら下がって返事をしたらよい』
こんな風に通られたのでありますが、私はこの御法語を何とも云えず
深い感銘と共に拝聴したのであります。

ここに気がつけば、返事も出来る、谷底にも落ちず、
絶対絶命などは一場の夢にすぎなくなります。

絶対絶命は《ある》と思う者にだけあり、
心が光明一元に目覚めておらぬ人にのみ仮存在としてあるのでありまして、
本当は無いのであります。

手でぶら下がって返事したらよいと云うことは、
今あいている処を『今』生かしたらよい、
『今』を生かせば其れが既に道であって其処に救いがある、
絶体絶命と云う困難もこれで消えて了(しま)う。

『今』を生かせ、と云う諭しであると思ってうかがったのであります。

この手が見える様になる為には、其の場にのぞんで何処だ何処だと云って
心を労しただけでは見えないのでありまして、自分と云うものを捨て、
利己の為に生きず、

全ての栄えを神に帰(き)して感謝して何時(いつ)も神につながっていること、
ますます深く光明一元、行き詰まりは無い、今此処に道があると云う悟りを
日毎真剣に深めてまいりますことが大切なことと噛みしめうけいれたのであります。

また暗い方を見るな明るい方を見ろ、と云う事を『生命の實相』で拝読いたしまして、
それ迄は浅い意味に伺っていたのでありますが、明るい方を見ろと云う
此の簡単な言葉の中に、此処の公案を通過した深さが宿っていたことに
初めて気をつかせて頂きました。

何でもない様なやさしい言葉の中に深いものが入っている、
此処が『生命の實相』の有難さであり、『今』を生かせ、と云う
深く切なる諭(さと)しが此の言葉の中に教えて下さってあったのであります。

          <感謝合掌 平成30年2月27日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その6 - 伝統

2018/03/17 (Sat) 03:13:32

           *「常樂への道」(P122)より

先達(せんだつ)て金沢へまいります汽車の中で
『生命の實相』の霊界通信の辺りを読んでおりますと、
幽霊がこんな壁の処を入って来るということが書いてありました。

人間が行き詰まる処も幽霊なら行き詰まらないのだなあと思いつつ
其処の一節を読んだのであります。

現象人間は縦横厚みの3次元拡がりの世界に住んでいますが、
幽霊は4次元拡がりの世界に住んでいてもう一つ隙間を残しているので、
其処を通って出て来るのだそうであります。

そう云う処から想像してみても、神は無限次元にいます存在でありますから、
神の子と云うものになったならば行き詰まることは無いことになります。

元来(もともと)神の子は無限の自由を内に与えられておりまして、
行き詰まると云うものは無いのでありますのに、
此の自覚を失って、心が閉ざされ心が行き詰まる、
此の為に行き詰まりが形の世界に現れて来るのであります。

形は心の投影(かげ)でありますから、形が行き詰まった様に見えるのは
実は心が行き詰まっているのであります。

形は心が歩いた影(かげ)でありますから、形だけ行き詰まって
心は行き詰まっておらぬと云うことは必ず無いのであります。

行き詰まりがあり、悩みがありますのは、
目前の問題のその事の中に原因があるのではなくて、
心が閉ざされて暗(やみ)にかまけてしまっているのであります。

肉体も現象も吾が心の影でありますから、
私達の心の世界で行き詰まりと云うものが消えてしまった時に、
形の世界、此の世の暮らし向きからも行き詰まりが消えて了(しま)うのは
当然のことであります。

          <感謝合掌 平成30年3月17日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その7 - 伝統

2018/04/09 (Mon) 03:19:39

           *「常樂への道」(P123~124)より

以前私が病苦の中で田舎へ籠(こも)り、希望も段々少なくなり、
心も可成りへとへとに疲れ、未来のことを考えると悲しいばかりであった頃に、
側(そば)にあった暦(こよみ)を手にして見るともなしに見ておりますと、
その中に八方ふさがりと云うのがありました。

八方ふさがりだと云うと皆何(なん)となし心を暗くして、今年は駄目だなどと
云っている様(よう)でありますが、八方ふさがりで出る隙が無いと思うのは
大きな嘘でありまして、上をみたら其処が開(あ)いているのであります。
一切の悩みはこの《上》を見失う処から生じているのであります。

つまり神様であります。

いまその当時の暦(こよみ)のことを思い出しますと
何となし思い新たなるものはあります。

此の世の中はやはり開いているのであります。
私達は何処も開いておらなくとも《上》さえ開いておればよいのであります。

横ひろがりは物質の世界で本来無い世界でありますから、
其処を尋ね歩いている間は行き詰まるより仕方が無いのであります。

吾々はまず《上》へあがらなければならない、《上》は何時でも開いている。
そして何処にいても其処に《上》があると云う事を『生命の實相』には
説かれております。

《上》は天であり神であります。

香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)では手に《上》があいていたのであります。
そして其処に目をとめた人は千仭の谷へも落ちず、西来意(さいらいい)の答も
出来其処に坦々とした平安なる世界が来たのであります。

生長の家では神の子の自覚をもって行く時、八方行き詰まっている時でも
尚《上》がひとつ開(あ)いていると云う処に私達の救いがあるのでありまして、
此処へ何時でも連なって生きる処に平安と幸福が生まれてくるのであります。

          <感謝合掌 平成30年4月9日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その8 - 伝統

2018/04/27 (Fri) 03:14:28

           *「常樂への道」(P124~126)より

金沢は此の度で二度目でありまして、古い誌友の方にもお目にかかって
懐かしいお話も伺ってまいりました。

此の金沢で八方詰まり、助かるに道が無いと云う人にも、やはり《上》は
開いており行き詰まりが消えた体験談が御座いました。

相安さんと被仰る方で若い奥さんでありますが、肺の病が医学的には
どうにも治らない処迄亢進しまして、
すっかり家族の人達もあきらめていたのであります。

其の話をきかれました相愛会の渋谷さんが、始めは無理すすめ位にして
こちらから押しかけて行って話をしたのだそうであります。

そんな訳ですから始めのうちは疑いの方が大部分で、『本読んで病気が
治るのですか』と言葉からして如何にも切り口上(こうじょう)な
投げやりな きき方をしていたそうですが、二三度まいりますうちに、
それでは本人に読ませてみようかと云う心が動いてきはじめたのであります。

その頃病人の方(かた)は何処かに別居していて渋谷さんが訪ねて行かれた
処にはおらず家族の人達に話をしたのであります。

其の時渋谷さんは『甘露の法雨』を渡しまして、これを病人の処へ持って
行かれて『5回続けて誦(よ)み、話が心にしみ通ったら治りますよ』
こんなことを申したのであります。

お父さんは『そうですか』と云って、『お前このお経を5回誦んで心に
染みたらその病気治るそうやから誦んで御覧』と云ってお嫁さんに
渡されたのです。

お嫁さんは素直に聖経をよまれたのですが心臓の鼓動が自分の耳へ
ピンピン響く位に烈しく衰弱していたので、途中で息が切れる、
疲れがくる、5回誦むのに丁度5時間かから、誦み終わった最後に、

静かに招神歌(かみよびうた)を唱えていると、何とも云えぬすがすがしい
非常に楽な気持ちになりまして其の儘ぐっすり眠ってしまい、目が覚めて
みると熱がすっかり下がってしまっていたそうであります。

私が丁度金沢へ参りました日に、『先生一寸でよいから行ってあげてください、
家族の人達がまだ迚(とて)も心配しているから』と云うのです。
ご主人にお目にかかると、『まるで夢です』と云うのです。

『よくなったのが夢ではなくて今迄が夢だったのですよ、病気の方が夢
だったのですよ、今夢がさめてきたんですよ』などと申し上げまして、

(中略~退院したい旨医者へ伝えましたが、
    医者の方へから許可が出ませんでした。その後、
    隣の患者さんがやかましいから何とかしてくれという苦情が
    出て、医者の方から退院して欲しいと云われた)

出たいけれども出られないで困っていた、其の希望を向うから
かなえてくれたのでありました。

『こんな有難いことは無い、これが神様のお計らいだろう、やっぱり
神様には困ると云うことはない、全てが巧く行くものだ』と云って
おられたのであります。

其の日は丁度お導きした渋谷さんご夫婦とも御一緒の誕生日で私達も
白鳩会の幹部の方々と一緒に赤飯のご馳走にあづかったお目出たい日
であり、愈々家へ帰るという翌日は、その町の祭礼にあたっておりまして、
何と此の世は有難いばかりの世界なのだろう、心さえ変わればそれが
ちゃんと此処に現れてくるのであると云う体験を伺ったのであります。

これは人間の世界では行き詰まっても神の世界では行き詰まりはなく、
何処に居ても何があっても、其処に上が開いて神の救いが待っている。

この《上》に目覚めて《上》へ抜け出る人には何時でも助けが与えられる
のでありまして、この方も『甘露法雨』によって《上》が開かれ、
其処から治す聖霊が天下って癒されたと云うわけであります。

          <感謝合掌 平成30年4月27日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その9 - 伝統

2018/05/22 (Tue) 04:14:19

           *「常樂への道」(P126~128)より

相安さんの処へ伺いましたら、こう云うことを質問されました。

『迚(とて)も眠くて仕方が無い』と云われるのであります。

『こんなに眠くては悪いと思うのですが、どうしたならば眠くなくなるでしょうか。
こんなに眠くては家へ帰って困ります、其の儘にしておいたらば
10時間でも20時間でも寝ています。これでは家へかえっても困ります。
どうしたら治りましょう』 と繰り返すのです。

そこで私は『「甘露の法雨」をお誦(よ)みになり、それも5回誦(よ)むのに
5時間もかかったと云う様な生命(いのち)を投げ出した様な誦(よ)み方を
して招神歌(かみよびうた)を唱え、自ずからに眠くなり自ずからに目が
あいてみると、何時(いち)の間にか熱が下がって症状が消えていた、

斯(こ)うした云わば神催しの上(うえ)にのり、其処から又自然と眠くなって
来たものを、善いの悪いの云うのが第一間違っているのです。

それは善とか悪とか、相対的な処からみるべき性質のものではないのでありまして、
それはそのまま善悪を超えているのでありまして、有難く受け容れれば
それでよい訳なのであります。

ひとつの尺度を以って其処からのぞいている限りには、
それにかなわないものは全て悪くみえるより仕方が無い。

神催しによって自然と与えられているものでも、
あんまり眠るのは悪いと云う考えからのぞいている限りには、
其の儘善である姿が見えて来ないのであります。

あんた、そんなことを考える隙(ひま)があったら神想観をなさい。
そしてすっかり何もかも全部神に委(ゆだ)ねきった心になって下さい。

内から神が催してくれる、神だけが催してくれると祈って下さい、信じて下さい』

こんなことを申し上げたのであります。

私は善悪以上のものである。
本当に是非善悪を超えたもうひとつの上の世界、其処に私は住んでいるのである。
其処では何時(いつ)も神が無限に大いなる力をもって私を守っていて下さる。

その力が今 私の中にさきはえられて全ての営みをしていてくれるのである。

悪いと云うことはあり得ない。

信じてよいこと、まかせてよいこと、其の儘でよいことの他(ほか)無いのである、
この心を生きる事が本当の信仰生活と云われるものであります。


善悪二つの尺度を持っている信仰は、深めれば深める程批判が多くなり
裁きが満ちて来る様になります。善悪を立て、ひとつの尺度を握り、
ひとつの立場から物を見ている様な処には神は居給わないのであります。

神はそうしたものの無い処にのみ働き給うのであります。
自分自身が神の子として助けられる為に此処の処が心の外へ
放下しきりたいのであります。

私達の生命(せいめい)は元来(もともと)神の生命(せいめい)でありまして
始めから完全に始めから至美至妙に創られておりまして、敢(あえ)て今から
整えなくても其の儘それで宜しいのでありますが、自覚と云うものが此処を
超えられない為に 無い苦しみを苦しまなければならないのであります。

此処に一本の草花が咲いていても、決して善悪の力や思慮分別の力が咲いて
いるのではないのでありまして、其処には善もなければ悪も無い、素直に
生命(せいめい)の営みがあるばかりであります。

花が咲いていると云うことは非常に宗教的であると思うのであります。

          <感謝合掌 平成30年5月22日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その10 - 伝統

2018/06/17 (Sun) 04:13:54


           *「常樂への道」(P128~130)より

かつてこれも病気で田舎に籠っていた頃のことであります。

或る日散歩に疲れた足をひきずりながら埃の多い野道を歩いておりました時に、
やせた固い地面の中から1本の草が元気よく生き生きとはえ出て、奇麗な花を
咲かせているのに気がつきまして、私にこの生命(せいめい)の強さと
美しさが欲しいと思って涙ぐまれて来たことを思い出しましたが、

吾々自身も亦此の世に咲き出でた美しい花であると云うことを
『生命の實相』によって教えられたのであります。

人間は草花(くさばな)よりももっと美しいものだったのであります。

霊を見ずに肉を見ていたから、この美しさが見えなかったのであります。
霊を見れば、今自分の中(うち)に神が開いているのであります。

心臓が動いているのも是非善悪の力で動いているのではない。

もう一つ奥になる天地そのもの響きが心臓の鼓動となって
現れているのであります。
天地が鳴っているのであります。

此の言葉にしてからが、神の言葉、天地の言葉が此処に私の言葉、
皆さんの言葉となっているのでありまして、現実の私達自身に
善悪以上のもの、絶対そのものが生きております。

それが神の子であります。

尋ねれば此の世には善悪は無いのであります。
絶対ばかり、神ばかりであります。

この事を絶えず自分に呼びかけ呼びかけ、
そしてこの信念が動かないものにしたいのであります。

此処の処が生長してまいりました時に、初めて日々の生活を
深い味わいに過ごして行くことが出来るのであります。

善悪の尺度で相手を眺め、又己(おのれ)を動かしてまいります間は、
如何に目の前に幸福が本当に来ようとも、その中(なか)に本当に
魂の安らかさをたのしむことは出来ないのであります。

本当には落ち着ききれないのであります。

私は相安さんに『貴方は今まで余りにも、この善悪の尺度で一切をしばり
すぎていたのです。それが病気の因(もと)であったのです。
今迄は「生命の實相」をお読みにならなかったから無理もないことですが、
今日(きょう)からは、それを本当に捨てることです。そうして神想観を
行ないまして神に乗りまして生きて行(ゆ)かれることです』

などと申し上げたことであります。

          <感謝合掌 平成30年6月17日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その11 - 伝統

2018/07/03 (Tue) 03:10:04


           *「常樂への道」(P130~132)より

『生命の實相』に趙州洗鉢と云う話がのっております。

(公案「趙州洗鉢」
  ~http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.5.htm

或る修行の僧が趙州和尚に悟りのコツを尋ねた処が、朝の粥を喫したら
その鉢を洗って来いと言われた、これが悟りだと云うのであります。

此の話を何故思い出したかと云いますと、
或る町で当たり前の生活が有難いと云う話が出たのであります。

病気したとき病気が治るのが有難いならば、病気をしない当たり前の生活は
もっと有難いのだと云うのでありますが、その有難いと云う自覚が、
今此処に坦々と日常生活が続いている、それが有難いと云われるお気持ちが
現象の方へ浮き上がって形の方へ有難さをもって行っていやしないかと
云うことが問題なのであります。

もしこれだったら現象は崩れるかもしれません。
消えて無くなるかもしれません。
その時には有難さは消えてしまいます。

こうした崩れるかも知れない現象の当たり前から有難さが出て来るのでは、
少なくとも生長の家の有難さではないのであります。

朝の粥をいただければ其の鉢を洗う、これは当たり前であります。
この当たり前と云う事が神であると教えられておりますが、
形は心の影でありますから、形が当たり前に整います為には、
心が当たり前にならなければならないと申されるのであります。

当たり前が有難いのであっても、生命(せいめい)の当たり前の有難さから
形の世界の有難さに墜落してしまったならば嘘であります。

生長の家では何時も物質は無いと申します。
当たり前が有難いと云うのも、
生命(せいめい)の当たり前が有難いのであります。

私達はよく三世を超えてしまうことが大切であります。
有難いと云っても、形についている間は何となく浅い感じが致します。

その有難いのが神の子としての自分が有難いと云うことになりますと
何かしら有難さがしっくりしたものが生まれてくるのであります。


よく恩師は鏡の例でお話し下さいますが、鏡の向こうに映っている顔が
尊いのではなくて、こちらに尊い仏の顔があって其処にそれが
映しとして動いているのである。

鏡の中の顔を通してこちらにある仏の尊さを知る、
水中の月をみて空にかかっている月を知ると云う様に

当たり前の世界、日々朝起きて
一日の生活を送れば夜(よ)に入(い)って臥床(ねどこ)に入(い)る、
その次の日もまた次の日も、この当たり前の生活に続いて行く、
其処に形をこえて生命(せいめい)の当たり前があることを知る。


その当たり前が神であり仏であることを知って、その有難さに心が到る、
此処を朝の粥を喫したら其の鉢を洗えと形の当たり前を指差した言葉の中に
受け取ることが出来なかったならば、私達の悟りは地に堕ちてしまうので
ありますが、此処を本当に自覚して再びふりかえって形の当たり前をながめる。

三世を超えて三世をながめます時に、
其処にも亦神の光が映(えい)じていることに気がつける。

此処に生長の家の生活がある、こう教えられているのであります。

          <感謝合掌 平成30年7月3日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その12 - 伝統

2018/07/15 (Sun) 03:46:02


           *「常樂への道」(P132~133)より

それからもう一つ申し上げさせて戴きます。
これは最近私自身強くうたれたことであります。

解らなくて困っていたことが身につまされて解ってくると云うことは
何とも云えない嬉しいことでありますが、解かったことが自分の血肉になって
溶けて流れず、何時の間にかそれが一つの尺度に変わってしまっていることが
あります。

解ったことが何処へ行ったのかわからない位にとけて消化してしまって
おらなければ値打ちは無いのであります。

それがそのまま、頭や胸やらに固まり様になってつかえている間は
未(ま)だ本当は自分のものになっておらないのであります。

一つ解るとすぐとそれが尺度になって、『こうでなければならない』とやる。
或いは其処に立って他(た)を眺めて、相手を批判する、それのあるなしによって
相手の価値を云為(うんい)する、その時にはものそれにはまらないものは
全(すべ)て価値の無いものに思えてくる。

そんな一人よがり位(くらい)醜いものがありませんが、
此処に堕(お)ちがちであります。

知ったことを尺度にし、そこに立って他(た)を眺める。
そして真理を批判の道具に下(お)ろしてしまう。
これが一番恐ろしい生命(いのち)の躓き心のゆがみとなります。

此処に堕ちて、こうでなければならぬとやったり、他(た)を裁いたりして
おれば自分が地獄へ堕ちて了(しま)うのであります。

裁いた方が地獄へ堕ちる、憎んだ方が地獄へ堕ちる、
このことがいたく心にきたのであります。

『汝等裁く勿れ、裁かれざらん為なり、
己(おの)が量(はか)る秤(はかり)にて己(おのれ)も量られん』
云々と言った、キリストの言葉が胸をついたのであります。

相手が自分を量るのかと思っていた処が、環境は心の影、
自分の他(ひと)を量る行いが自分を量りかえしていたのであります。

自分の今する行いが、やがてめぐって自分にかえってくるのであります。
他(た)を裁くと云うことは、それが自分を裁いていることになります。

結果が其の場で出ずに少し持ちこしになりますので私達はこれが解らずに
いるのであります。この事が何故かいたく心に来たのであります。

こんな心で、ある日恩師のお話を伺っておりました時に、
すぐ目の前にいる恩師が千里の遠きにいる感じがしたのであります。

自分はともすれば一つの立場に立つ、知ったことが、
《ねばならぬ》の尺度になる。

恩師の御言葉は同じ言葉を語りながらも、立場を超え、形を超え、
任運無作、ただ、すらすらと生まれてくる、形が無い、立場が無い、
唯(ただ)其の儘(まま)である。

非常に遠い世界を感じさせられたのであります。

          <感謝合掌 平成30年7月15日 頓首再拝>

当たり前に咲く花~その13 - 伝統

2018/07/27 (Fri) 03:48:02


           *「常樂への道」(P134)より

深さとか、清さとか、全てこうした天的な高い位置というものは、
現象の撥無され具合によって、その生まれる程度が決められて
実現してまいるのであります。

現象無しが深まりませんと、どうしても、人間としても、信仰としても、
その他人生百般の事に濁りがとれないのであります。

現象が消えますと、全てに於いて澄んでまいります。
人間としても澄んでまいります。
住む天地も澄んでまいります。

嫩葉の緑をみても、涼しい風に吹かれても、澄んだ感じが致します。
神が其処にこめあっれている感じであります。

『現象無し』、此処を完全に超えておられる恩師は、此の微風(びふう)を
どんなにかすがすがしいものにうけておられるだろうと考えるのであります。
想像だけは出来る様な感じがするのであります。


心がいらぬ現象的なことで濁らされている時には、
決して人間はよい働きが出来ないのであります。

心が天に昇ってすがすがしく澄みきっている時にこそはじめて
自分は自分らしく価値のある働きが生まれてくるのであります。

そうか私の心が乱れません様にと祈っております。  (十四・九)

(当たり前に咲く花は、ここまでです)

          <感謝合掌 平成30年7月27日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その1 - 伝統

2018/08/21 (Tue) 04:20:06


           *「常樂への道」(P135~136)より

或る日の記 ―― 

当たり前が神であると云うこと。

朝日を拝して思うこと。
恙(つつが)なく昨日(きのう)を送り今朝(けさ)も此処に生きている有難さ。
恙なく今(いま)一食の飯(めし)を戴(いただ)ける有難さ。

総じて当たり前を恙なく迎えることの有難さ。
神仏(かみほとけ)の叡智と慈愛に満ちた深いおはからいに包まれてあればこそ、
其の日其の日一日一日の恙なさ。

形を見れば当たり前の平凡な姿にも、
形を超えれば其処に神が生き無限が響いている。

日が経るだけづつそれにつれて段々と、神をみることが深くなり、
切(せつ)になる自分でありますように。

これが私のもつ一つの願いであり、喜びである。

音楽を聴いても、芝居を観ても、詩歌を詠んでも、
野に出ても、其処に無限を感じ神をみた時だけが私の喜びである。

神をみる以外に私の喜びはない。

此処がもっとより深くみられる様に私が願いをこめて歩んでいる道である。

それにはもっとこまやかな生命(いのち)の響きに
上昇しなければならないのである。

生命(いのち)のリズムの荒い人は神をみることも浅いのである。

然しこまやかになって、壊れやすい心になってしまったならば、
それはやはり軌道を外(そ)れて、生命(いのち)の脱落である。

外からのものによってこぼれることの無い、
それでいてこまやかな心こそ神は生きてあられるのである。

          <感謝合掌 平成30年8月21日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その2 - 伝統

2018/09/13 (Thu) 03:13:52


           *「常樂への道」(P136)より

日が経っても生命(いのち)の目覚めが前と同じ程度であるならば、
日が経つだけずつ自分の心に深まりが出来、浄まりが出来、
神をみることに切実さが加えられて来ていなかったならば
其処に自分は死んでいる。

向上の無い処には生命(いのち)は無い。
いくら深くとも高くとも昨日(きのう)の自分と同じ自分が
此処に生きている様(よう)では、其処には影がおどっている
ばかりで自分は居ない。

自分の居ない処には平安も無い。
神も無い。

蛇が何回でも皮を脱ぐ様に、朝顔の蔓がとどまることなく
何時も新たに伸びて進んでいる様に、
私も何時も新たなる自分を進めて居たい。

新たなる自分が進められている時
生命(いのち)は何時でも形の世界を超えている。

爽やかな天的な喜びに置かれている。

昨日(きのう)の自分を今日も亦生きる様な時、
私の心にはきまって渋滞が感じられ、混乱が生まれて来る。

神に於いて何時でも新たに生まれること。

此処に廓然(かくぜん)とした喜びが開かれる。

          <感謝合掌 平成30年9月13日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その3 - 伝統

2018/09/30 (Sun) 03:01:23


           *「常樂への道」(P137)より

此処に神が居てくれる。
それだけの有難さ。

只それだけに無限を感ずる日。
神様々々と内に神を称(よ)んで涙の出る日。
此の心のある日、私は最早何も云うこともない。

何処でどんな姿に立っていようとも此の儘で有難い心一つである。
心の何処を探(たず)ねても何もないままに只安穏として
満たされているばかりである。

その中から自分でもそれでよしと宥(ゆる)し切れる高いもの、
お蔭を感じて拝まずにはおれない高い生命(いのち)の響きが動いて来る。
此の心のある日私は静かである。
落ち着いて平和である。

牢乎(ろうこ)として安定している。
正しい価値判断と倶(とも)にある。
迷いに対して執(とら)われず低卑に崩れもしない。

この心のある日、私は自分が自分でない様な気がする。
神によって生かされていると云う言葉がしっくりと身に沁みるのも
此の心のある日である。

此の心に失せている日、私は騒々しい人間になっている。
落ち着きが消えている、正しい価値判断を失っている。

外からのものによって動かされやすく、壊れやすくなっている、
平安も無く喜びも無い。
誠にも神を失うことは自分と自分の住む世界の全てを失うことである。


只神が此処に居てくれる有難さ ―― この一つの喜びに心満たされ、
この一つの喜びに安まりきれて、人は初めて人生に役立つ人間であり得るのである。

          <感謝合掌 平成30年9月30日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その4 - 伝統

2018/10/18 (Thu) 03:27:27


           *「常樂への道」(P138)より

或る日の記 ―― 

《今》より他には何も無いのである。

《今》以外にもある様に見えようとも、それは架空の存在でしかない。

現象をみるから《今》以外がある様に思うのだが、現象は無いのである。

無いものは無いとして一切を超えること。
一切を超えれば今、『永遠の今』だけが此処に残される。
一切を超えれば私達の生命(せいめい)は其の儘素直に其の時其の場に
《今》を生きる他(ほか)に道が無いのである。

生命(いのち)は其の時其の場を素直に行ずることによってのみ発現するのである。

《今》だけが尊いものの全てである。
《今》を素直に行ずることだけが生きることの全てなのである。

此処が生命(いのち)の生きる唯一の聖なる道場である。


          <感謝合掌 平成30年10月18日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その5 - 伝統

2018/11/03 (Sat) 03:21:26


           *「常樂への道」(P138)より

『今』が道、『今』が神、『今』が助け一條。
御教えを戴くのも、一人しりぞいて『生命の實相』を繙(ひもと)くのも、
此の『今』に立ち、『今』を生きつつでなかったならば得る処は薄い。

道の話は、やはり自分が道にかえって聴くべきもので、
己が道の外に居て聴くべきものではないと思うのである。

恩師が申される頭で読まず身体(からだ)で読むと云う事は
このことであろうと思うのである。

その時 私達は初めて生命の実相の中に鳴り響いている
神の言葉を聴くことが出来るのである。

仏の言葉にふれながら、内なる生命(いのち)が開かれずに、
第二の心、記憶の世界ばかりふくらんでくることは空しいことである。

          <感謝合掌 平成30年11月3日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その6 - 伝統

2018/11/20 (Tue) 04:07:29

           *「常樂への道」(P139)より

一切の書を火にくべてそれ迄の行き方 ―― 恐らくは観念によるうなずきを
中心としていたのであろう ―― を清算され、大證国師の霊場を清掃する
生活に入った香厳禅師が、掃きはらう箒の先にはめられてコツンと云う響きと
共に小石が竹にはねかえるその響きの中に、永遠の過去から永遠の未来を
こめて鳴り渡る仏の声を聴いたと云うのも、

大證国師自身の中に、永遠の過去から永遠の未来をこめ一切の事物の中に
貫き生きるその同じ生命(せいめい)が目覚めて鳴ってきたからである。

盲人(もうじん)は日月の明るさを知らず、絵心なきものは名画の美を知らず、
内に神が鳴って来なかったならば、神は遍満しておれども何処にも神を見ることは
出来ないののである。

内に神が開けば全宇宙に神が開く。
内に神が鳴ってくれば外にも神が鳴って来る。
神に於いて、《今》に於いて内と外とは一つである。

それであればこの香厳禅師此処に仏が鳴れば、
竹と小石の此処にも仏が鳴るのである。

          <感謝合掌 平成30年11月20日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その7 - 伝統

2018/12/10 (Mon) 04:00:45


           *「常樂への道」(P139~140)より

私は今迄、『行』にこもる値打ちと云うものを
本当には発見出来ていなかった。

『生命の實相』を誠をこめて誦すること、
神想観に生命(せいめい)をこめること、
此の二つのことに発見している程には深い値打ちを発見していなかった。

行はとかく置き忘れ勝ちであった。

今気がついてみれば、これは私の目覚めが平衡を失っていたのである。

聖典を誦することと、神想観を励むことと、
行に力を致すことと、此の三者は較べることの出来ない深い値打ちであり、
此の三者が一つに溶けて進められて行った時に、
私の生命(せいめい)は途絶えることなく、正しい生長の道を進み得る
のであると云うように、ようようとして目が覚めることが出来たのである。

此の三者は全く同じ値打ちであり、価値比較も取捨選択もいらないのである。

はからわれるままに今其処にあるものを拝んで行ずべきものに向かえば行じ、
神想観にむかえば神想観を行ない、聖典に向かえば拝誦すればよい生活である。

          <感謝合掌 平成30年12月10日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その8 - 伝統

2019/01/04 (Fri) 04:49:49


           *「常樂への道」(P140~141)より

今を殺さないことに生命(いのち)がこめられているのである。
把握しなければならないのは此処である。

形によって価値比較をせず、迷いによって崩されず、
本然の願いに立ってその儘に其の日其の時其の場を生かし切って行くのが
生長の家の生活である。

今を全力を尽くして戦いとるのである。

今しなければならないことを、道(みち)からみた時当然かくあるべきことを、
今行いにくいから、力んで行なうと云うことは自我の力みであるから、

力まなくとも内からそれが催して来て自ずからに行なえる様になるのこそ
私の願いなのであるからと云う心に晦まされて『行(ぎょう)』のない
ままで放置して置くと云う事は、今を偽物の催しに占領されていることであり、
業(ごう)の流転の中に沈殿させているのである。

今を業に渡すことは、己を業に渡していることである。

誤れる法爾自然と云う行(ゆ)き方は、
知らずして己を現象流転の世界へ失墜せしめている。

私達は、当然を当然ならしめまいとする偽物をふりはらって
真実の自己を生かして行くことと、自ずからに楽々と真実の自分が生きてくることと、
今を行ずる上に於いては此の二つの間に値打ちの比較を感じてはならないのである。

今をはなれた抽象的観念の上に於いては如何様にでも価値の優劣を
定(さだ)めることは出来るであろうが、全ては今を生かす為に役立つものこそ
其の時の最高価値である。

値打ちは形の比較からはきめられないのである。
今を生かす為に与えられている道は比較を超えて結一最上の道なのである。

神のおはからいに乗托することが救われることであることを悟り、
神想観を行なうことも、聖典を誦(ず)することも、今を素直に生きることも
全て神のおはからいであると解れば、

素直に、はからわれるままに神想観を行い、はからわれるままに聖典を誦(ず)し、
はからわれるままに今を行すればよいのであり、機会は何時でも今であり、
今与えられ、今救いの手が差しのべられているものによって、
おはからいに乗托するのである。

此処では最早取捨選択の余地はない。

素直に乗托すれば神のおはからいは無限の継続である。
其処を其の儘に乗托して行く。

『至道無難(しいどうぶなん)唯(ただ)揀擇(けんじゃく)を嫌ふ』
と云った先哲の深さが段々と拝めてくる様な此の頃である。

          <感謝合掌 平成31年1月4日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その9 - 伝統

2019/01/24 (Thu) 04:20:47


           *「常樂への道」(P141~143)より

(以下については、抜粋です)

或る日の記 ―― 

御教えを戴いて成る程とは思えても、もっと深く切なる心が有難いと云う心が
其処に響いて来なかったならば何の得る処もない。

御教えは有難いと云う心でうけた時のみ光るのである。

理解が出来ても感謝の心が起きねば何にもならないのである。

なる程と思うよりは有難いと思える心が救いの綱である。

          <感謝合掌 平成31年1月24日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その10 - 伝統

2019/02/14 (Thu) 04:48:53


           *「常樂への道」(P144~145)より

(以下については、抜粋です)

或る日の記 ―― 

(1)語る人とならず生きる人となること。

(2)自分が実(じつ)に生きている其処から声が出ること。
   行っている。自分がそこに生きている。
   その生命(せいめい)の響きがこめられて発せられる言葉であること。

   これで初めて語る言葉に実(じつ)がこもり権威が宿る。

   よきラッパの人とはかかる人である。

(3)口で語らず生命(いのち)で語り、
   記憶で語らず生活で語ることこそ大切であり、
   これでなかったならばラッパとは云い得ないのである。

(4)立派なラッパは、吹く神も、鳴る自分も、聴く相手も
   皆が互いに喜びを讃えるのである。

(5)『行』で語り、生活で語り、生命(せいめい)で語らねば
   よきラッパとはなり得ないのである。


          <感謝合掌 平成31年2月14日 頓首再拝>

脚跟下(きゃくこんか)の『今』に生きる~その11 - 伝統

2019/03/06 (Wed) 04:29:58

           *「常樂への道」(P146)より

(以下については、抜粋です)

或る日の記 ―― 

(1)神なる生命(せいめい)が生きてさえいたならば
   日に日に新たなるものである。

   この世は何時でも新たなる驚きである。

(2)真理は無限であるから、己の生命(せいめい)が目覚め、
   生命(せいめい)によってふれる時、幾度(いくたび)ふれても
   其処には何時でもより深い世界を発見し、
   新たなる感激を生きることが出来るのである。

(3)私たちの住む世界には何時でも新たなる驚きが準備されて待っている。
   今日(きょう)は今日(きょう)で明日(あす)は明日(あす)で、
   又その次の日で。

   それは此の世的な聖なるもの全てをつくしてもなお
   及び難く深く切なるものである。

(4)日に日に新たなる世界を発見し、日に日に新たなる驚きをもって
   日々(にちにち)を越えて行くのが生長の家の生活である。
   それだけの値打ちがこめられてあるのが此の世である。

          <感謝合掌 平成31年3月6日 頓首再拝>

その儘のこころ - 伝統

2019/03/30 (Sat) 04:44:53


           *「常樂への道」(P147~148)より


神の言葉は其の儘信ずべきものにきまっており、
其の儘受けるべきものに決まっているのである。

其の儘受けて進むところ、其処が神の子としての道である。

此処に立たねば自分の内に神が立っていないのである。

いらぬ心によって解ったとか解らないとか云って、
弄(いじ)り回すものではないのである。

もっと神の御前(みまえ)に無我でありたい。
只(ただ)一筋に信じまいらする心でありたい。
何時でも神様だけに『ハイ』と答えていたらよい。

神様に『ハイ』と答えておれば私に不幸な無い。

神様に『ハイ』と答える事が神想観である。

神の言葉に『ハイ』と答えている時、私は真(まこと)の神の子であり、
全てのものから赦され、全てのものの上にある時である。

神様に『ハイ』と答える心が晦(くら)まされ、
神様でないものに『ハイ』と答えている時、自分みずからを晦ましたのであり、
自分を罪の手に渡し、業(ごう)の催しに渡し、
地獄の淵へ投げ棄(す)てたのである。

神様に『ハイ』と云わない世界を考えれば恐ろしい極みであるが、
神様に『ハイ』と云う、只それだけで、救われる世界であると云うことに
思いをめぐらせば、此の世は又何と有難い世界であろうか。

自分みずからが神にそむかない人間である為に、今日(きょう)から
神の言葉以外のものに『ハイ』と云わない生活を無限に継続していきたい。

神にそむくと云うことが私にとって、一番息苦しいことである。

神様に『ハイ』と云わず、自分の感じ、自分の理解などに『ハイ』と
云っている間は、御光(みひかり)に触れられないのである。

人間の匂いと云うものが消えただけずつ其処に神が顕れる。

『ソロモンの栄華の極みだにその粧(よそおい)此の花の一つにしかざりき』
天と地と神様と人間との開きである。
ソロモンの栄華に最早や消えて跡形(あとかた)も無い。
然し野の百合の花は永遠を保って、今もなお美しく此処に開いている。

ソロモンの栄華の様(よう)な信仰がある。
野の百合の花の様(よう)な信仰がある。

神様にのみ素直に『ハイ』と答える処から野の百合の花の信仰が生まれる。

自分の心の感じと云うものを中心とせず、
真理の言葉をこそ中心に立てる処に野の百合の花の如く、
そのまま神の生命(せいめい)なる永遠価値のある人生が立つ。

此処に神の子の生活が誕生する。

          <感謝合掌 平成31年3月30日 頓首再拝>

その儘のこころ~その2 - 伝統

2019/04/19 (Fri) 04:09:27


           *「常樂への道」(P149~150)より

(以下については、抜粋です)


(1)神の生命(せいめい)を粗末にしないこと。

(2)今の生命(せいめい)を素直に道にかえして行く処、
    ―― 素直に皇恩に感謝して行く処に、
       素直に父母に感謝して行く処に、・・・
   素直に天地一切に和解して行く処に其処に救いがある。

(3)自分が新しく生かされている。

(4)素直に神の生命(せいめい)を生かしている処、
   それを人呼んで悟りと云う。

   神の生命(せいめい)が晦まされている処、
   人呼んで迷いと云う。

   悟り悟りと求めること、
   地獄に仏を求めるが如きものである。

(5)何が出来なくてもよい。
   天地一切にだけ和解できる人間であれと神の御声が響いている。

(6)神想観によって実相を観じつつ、
   天地一切との和解を生きて行く、
   神を観じつつ神を生きて行く。

   此処に救いが実現する。

(7)創(はじ)めに人間が神から恵まれたものが
   お救いであると想う時、
   拝して只(ただ)有難いと思えるばかりである。

          <感謝合掌 平成31年4月19日 頓首再拝>

その儘のこころ~その3 - 伝統

2019/05/08 (Wed) 03:51:35


           *「常樂への道」(P151~153)より

(以下については、抜粋です)

(1)自分で自分と云うものに酔ってしまうと云うことは
   警戒しなければならないことである。

(2)自分の心の中で自分があがってはいないか、時折、
   第三者の立場に立って冷静な眼を当ててみることは、
   真実自分を完(まっと)うしたい人には大切なことである。

(3)大いなる者の御前(みまえ)では謙虚を保っても、
   小さなものの前に立った時、自分と云うものを立てているような
   心は低い。

(4)自分で自分を気負う処が無く、他(た)に対しても己を高いものに立てず、
   空しさ徹することをすれば神が自分の味方になってくれる。

(5)讃められるのもあげられるのも、神が讃められているのであり。
   実相があげられているのである。

   讃められたら何時も、神にかえしてお蔭様と思える心。
   この心には生命(せいめい)がある。

   讃められた言葉を自分と云うもので受けるから墜落するのである。
   神にかえせば又世界がひらく。


          <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>

その儘のこころ~その4 - 伝統

2019/06/12 (Wed) 04:20:22

           *「常樂への道」(P153~156)より

(以下については、抜粋です)


最早 私の心には物質も無ければ物質無しもない。
無いとか有るとかとりあげたい心も無い。

其処には《御霊さきはへ》と有難く拝んでいる私の生命(せいめい)が
あるばかりである。

沁々(しみじみ)と津々(しんしん)と深い仏の味わいのみが
其処に香っているばかり。

噛みしめれば涙もこぼれる微笑(ほほえみ)も出る。

本物に到れば言葉が無い、議論もない、納得すると云うこともない。
外れていたものが、元の処へぴったりおさまった時のような、
そのぴったりとする感じがする。

あとはほのぼのと有難い感じである。

只 神の生命(せいめい)のみ、仏の御光(みひかり)のみ。


生きとし生けるもの渾(すべ)てのものの創造主(つくりぬし)にましまし、
吾が生命(いのち)の祖親(みおや)にまします父なる神が
吾が生命(いのち)を愛で給いて幸(さきは)え給う御恵(みめぐみ)こそ
わたしたちの戴いている日々(にちにち)の糧(かて)なのであった。

日々(にちにち)の糧(かて)を通(とお)して
吾が生命(いのち)が創造主(つくりぬし)によって
愛でられていたのであった。(一五・一一)

          <感謝合掌 令和元年6月12日 頓首再拝>

新地に生きる~その1 - 伝統

2019/07/05 (Fri) 04:26:27


           *「常樂への道」(P157~158)より

(以下については、抜粋です)

言霊は全てのものの創(はじ)めであり、
尊きもの美しきものの創(はじ)めである。

言霊と云うもの、音(おと)と云うものに新しい驚異と、
祈りつくせない神秘を感ずる如き思いである。

言霊が明日(あす)の自分を開いてくれるのである。
わが内に宿る言霊こそ我が生命(せいめい)である。

その不可思議なる言霊の響(ひびき)にのせた心地にて
『神であります様に、御心であります様に・・・』と、
新玉(あらたま)の神の生命(せいめい)の感謝にそえて、
吾が祈りを祈ってお山を下(くだ)る。

神想観の祈りをおえて夜ふける迄実相をひもとく、
今年の私の出発である。

          <感謝合掌 令和元年7月5日 頓首再拝>

新地に生きる~その2 - 伝統

2019/07/24 (Wed) 03:47:10

新地に生きる~その2

           *「常樂への道」(P159~161)より

(以下については、抜粋です)

何かを捉えていると云うことは自分が地に堕ちていると云うことであり、
神の子が生きて動いていないと云うことである。

全てを捨てて何もなくなれば、人間は浮き上がって天に迄昇るのである。
捨てて空しさに徹すれば天に昇り何かを握れば地に下(くだ)るのが
此の世の定めである。

富や名誉は云わずもがな、過去を、未来を、あの問題を、この問題を、
大なるものを、些末なるものを何処(どこ)かに心渋滞してはいないか。

眼をつぶって一切を捨てるのである。
死ぬ気になって一切を捨てるのである。
全く出直す気になって一切を捨てるのである。

何もかもである。
捨て切って死ぬなら死んでもよいのである。

(中略)

『死〇! 生きる』とは生命の實相の中にも諭されている御言葉である。
死ぬのに理屈も要らない。

   *〇:ね

(中略)

死に切れば今の此処に此の儘に神の御手がのべられている。
目にみえてはっきりとしてくる。
今死にきり、そして何時も新たに死んで行くこと。

誠に新たに生まれるとは、誠に自分が自分で自分に死んで行くことである。
死んで今を尊く押して行くのが生長の家の生活である。
其の儘素直に有難いと死に切って行くのである。


          <感謝合掌 令和元年7月24日 頓首再拝>

新地に生きる~その3 - 伝統

2019/08/14 (Wed) 04:38:41


           *「常樂への道」(P161~162)より

(以下については、抜粋です)

(1)死ぬと云うこと、捨て切ると云うこと、このことの恐ろしいまでの烈しさが、
   暴風の如く吾が身に打ちつけて来た今日(きょう)である。

   生長の家は一度きっぱりと死に切った後(のち)に
   生まれてくる世界である。

(2)純粋に真理の栄(さか)えることを喜べる様(よう)にならなければ
   誠の平安は無い。

   己の栄え故に神を讃え神を拝するのは、
   誠の信仰生活ではない。

(3)真理の御前(みまえ)への捧げものを、真理が栄えるそのことを、
   己(おのれ)自(みず)からの喜びとして、喜び生きる心こそ、
   正しく神の子の誕生である。

(4)己(おのれ)と云うことを立てる心が、
   そのそも亡(ほろ)びの根 悲しみの根なのである。

(5)『神であります様に、御心であります様に、それだけであります様に』
   との祈りこそ、一切の障(さわ)りを除き、永遠の歓喜へ帰る祈りである
   思いの深い今日(きょう)この頃である。

          <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>

新地に生きる~その4 - 伝統

2019/08/26 (Mon) 04:42:37


           *「常樂への道」(P162)より

(1)しまったと思うことがある。
   未だこんなことがと思うことがある。

   然し捉われることなく、躓くことなく、脚下照顧の働きに
   かえして行けば、これも有難いお救いのお光である。

(2)捨てなければならないことは早く捨て去るべきである。
   捨て去れる人間にあっては、至らなさに気がつけると云うことは
   救われると云うことと一つである。

   よく見えて、よく捨てて、よく進める人間でありたい。

(3)捨て去れる人間でありたい。

          <感謝合掌 令和元年8月26日 頓首再拝>

新地に生きる~その5 - 伝統

2019/09/09 (Mon) 03:41:12


           *「常樂への道」(P162~163)より


高く廣く大いなる神の御言葉 ――― 汝等天地一切のものと和解せよ、
との七つの燈台の點燈者の神示。

此處に神がましまし、萬教の真髄がこもる。

天地一切和解とは絶対感謝である。
有無を云はずに無条件感謝である。
其の儘感謝である。

これが甦りの生命である。

神の子となるとは絶對感謝の誕生である。
有難いと云う心の無い處には神は居ない。

絶対感謝の無い悟りは悟りの幽霊であるにすぎない。

天地一切和解とは絶對が誕生することであり、絶對にまみえることである。

          <感謝合掌 令和元年9月9日 頓首再拝>

新地に生きる~その6 - 伝統

2019/09/22 (Sun) 03:26:56


           *「常樂への道」(P163~165)より

此の世は絶対であり絶対の現れであるから、
此の世には創(はじ)めから悪は無いのである。

此の世には神と神の顕れ以外無いと天の声は天下っているのである。
それ以外は何も無いのである。
如実にあるものは絶対感謝に値するものばかりなのである。

(中略)

病気を空無と断ち切り、一切現象空無と断ちきり、じっと心をとどめれば、
病気とみえる処にも健康なる生命(せいめい)の営みが動いている。
それ以外其処に生きて動いているものは無い。

痛みも苦しみもみんなその営みの現れである。
かく拝み かく観ずる時 誰も病気などしている人はない。
其の儘に健康なる人が生きているばかりである。

かく拝み かく観ずる時、娑婆は其の儘寂光土であり、
其の儘が光明一元神一元である。
其処に起こるもろもろの物事は、そのれ其の儘
正法の現成(げんじょう)されて行く大法輪がめぐる響きである。

(中略)

目覚めて観ずるば、此処には神と神現れ以外無いのである。


(中略)

神と神の顕れ、完全と完全の顕れ、実相と実相の顕れ以外何一つない
世界であれば、天地一切に和解する以外に道はな無いのである。
これは人間として至極当然の道であり、
価値の深さよりみれば至高至美至善の道である。

(中略)

此の世の真実に到る時絶対感謝が生まれてくる。
絶対感謝に甦(よみがえ)る時此の世の真実がみえてくる。

甦(よみがえ)りの道が吾等の行ずる神想観である。
神想観は絶対感謝の行であり、此の世の真諦(しんてい)を
あきらめる行でもある。     (一五・ニ) 

          <感謝合掌 令和元年9月22日 頓首再拝>

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