伝統板・第二

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二宮翁逸話② - 夕刻版

2017/02/12 (Sun) 17:42:38

         *伝統板・第二「二宮翁逸話」からの継続です。
           → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7152207

「二宮翁逸話」~その41

38 二宮総本家の回復

翁幼少の時栢山村に14軒ほど一族の者があって、
その総本家は二宮伊右衛門というて随分身代のよかった家であったが、
当時落はくしてヤブだけ残って、あとは一切他人のものとなっておったので、

翁は己れの家を起こすとともに総本家をも起こさねばならぬというので、
そのヤブを2朱で売られて、それを資本として
少しでも遊金のあった時は総本家再興の資本に加えられ、
そうして遂に総本家を興されたのである。

今二宮長太郎氏の住んでおられる家がすなわちその家であって、
あの家も翁自ら建てられたのであるという。

翁のいかに情義に厚きかはこれによって見ても明らかである。

          <感謝合掌 平成29年2月12日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その42 - 伝統

2017/02/13 (Mon) 18:34:21


39 翁の哲学

翁は一切の原理を円体と見たるが故に、
仏法のいわゆる円相を元として道理を割り出したのである。

円形の中に一を引いて上を富とし下を貧とする。

しかし元は一つで人間社会に貧富というものが原始(はじめ)からあったものではない、
貧富は元来人間の作るところの堯(わざ)であるから、
正直にして働けば富有となり、不正直にして遊惰(なまけ)れば貧乏となる。

故に翁は次のごとく金言を作りて弟子に示された。


貧 遊楽分外に進めば勤苦分内に退く 則ち貧賤その中にあり

富 遊楽分内に退かば勤苦分外に進む 則ち富貴その中にあり

 
それ故に円相の道理はすべての仕法に用いられたものとみえて、
細川侯の臣中村玄順が主家の仕法を二宮翁に依頼せし時に、
翁はやはりこの一円相をもって貧富盛衰の理を説かれた。

「報徳記」によれば
 
中村玄順租税の簿を持ち、桜町に至り、両君大悦の旨を陳述す。
是に於て先生筆算者を集め、夜以て日に継(つ)ぎ、既往の租税を調べ、
豊凶平均の度を立て其の中を執り、国家衰時の天分を明かにし、

盛衰存亡の理を弁(べん)じ、度外の財を生じ、廃地を開き、
民を愛撫し、上下の艱難を除き、永安の道を明かにするに円相の図を以てして、
国家の安危一目了然たらしむ。
うんぬんとあり。

円相は元来無一物の体である。
いわば無より有を生ずるのである。

翁は円相の哲理を万事万物に応用されたのである。

故に、翁の【報徳為政鑑】なる小田原に仕法帳を見ると、矢張り円相原則として
種々の事柄が割り出されている。

(以下略 ~*国立国会図書館デジタルコレクション - 二宮翁逸話
       → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758832
       コマ番号 47.48、49 にて確認できます )

          <感謝合掌 平成29年2月13日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その43 - 伝統

2017/02/14 (Tue) 18:08:16


40 翁と参詣者の菅笠(すげがさ)

当時用いられた菅笠は絹糸で縫ったもので
たまたま翁はこの菅笠を持った者と道連れとなった。

おりがら雨が降り出して来たら、
かの参詣者は笠を脱いで袖をもって頭を覆ったので、
翁の言われるのに、

「おまえ急いでもダメである。向こうに行くもやはり雨は降っておる。
笠はかぶるためか飾りのためか」と念を押されたので、
その連中は大いに閉口したということである。

          <感謝合掌 平成29年2月14日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その44 - 伝統

2017/02/15 (Wed) 18:12:53


41 負債は神棚に張り付けよ

人は負債ができると人情として隠すものである。
ゆえに負債がだんだん嵩むのである。

翁はしばしば

「負債のできたときは大神宮の神棚へその負債の総額を書いて張り付けて置け、
これ負債を減却する方法である」と言われたという。

人の意表に出るのは、翁の翁たる所以である。


          <感謝合掌 平成29年2月15日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その45 - 伝統

2017/02/16 (Thu) 18:00:53


42 惰農を戒む(漢詩3首)

*国立国会図書館デジタルコレクション - 二宮翁逸話
       → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758832
       コマ番号 50 にて確認できます )


          <感謝合掌 平成29年2月16日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その46 - 伝統

2017/02/23 (Thu) 19:26:52

43 二宮翁と貝原益軒の捉え方の酷似点(要点のみ)

(1)貝原益軒『天下のあらゆる民は、我と同じく天地の子なれば、みな我が兄弟なれば、
   もっと愛すべきこと言うにおよばず。』

   二宮翁『昨日より知らぬあしたのなつかしや もとの父母ましませばこそ』

(2)貝原益軒『天地は別に業なし、万物を生み出し養うを以って業とせり』

   二宮翁『夫れ我道の尊む増殖の道は直ちに天地の化育を賛成するの大道にして云々』

(3)貝原益軒『聖人の教えは天地の道を本として立つ』

   二宮翁『天地は活ける書籍である』

(4)貝原益軒『天地の我に財禄を多く与えて富貴にし給うは、必ず我一人のため
   に恵み給うにあらず、我(わが)力を以って貧なるものに財を施しめぐらさん
   為に、我に多くの財禄を与え給う理なれば、・・・』

   二宮翁『夫れ譲るは人道なり、譲るは富者の道なり。』

(5)貝原益軒『富貴にして施さざるは天の御心に背く』

   二宮翁『報徳は百行の基であるから天に報ゆるの精神を以って貧者弱者に推譲せよ』


言い方は異なるが其の精神は一つである。
益軒先生の思想と二宮翁の思想とは余程似ている点が多い。

偉人は何れの世に於いても同じようなることを言うものと見える。

               ・・・

全文は、国立国会図書館デジタルコレクション - 二宮翁逸話
       → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758832
       コマ番号 50~53 にて確認できます )

          <感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その47 - 伝統

2017/02/24 (Fri) 19:02:43


44 聖人もそう言うておるか

翁は常に儒者二人を左右に置いて経書を講ぜしめた。

で思い合わせる節があると
「聖人もそう言うておるか」
としばしば言われた。

これによりて観るに、
翁の考えしことと聖人の考えとがよく符合したものと見える。

して見ると翁の思想は聖人に依りて初めて植付けられたものでなく、
天分の多きよりして聖人の考えと同じことを考えたものと見ゆる。

其れもその筈(はず)で天地万物の本源は
同一の存在物よりして出て来たるものであるから、
人は互いは同根より生まれ出でたのである。

況(いわん)や聖人に於いておやである。

          <感謝合掌 平成29年2月24日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その48 - 伝統

2017/02/25 (Sat) 18:45:10


45 「365字」の格言

翁がまだ幼少の折りの事である。
居村善栄寺の和尚が村童を集めて寺子屋を開いておった。

翁は他人の家に奉公するくらいの身分であるから、
なかなか寺子屋に行って手習いをすることはできない。

しかし近所のことであるから雨天の時などはしばしば善栄寺に行って
村童の習字やソロバンや読書などされるのを見聞きされた。

ところがある日一人の村童が新しい草紙を持ってきたのを見て、
おれに一つこの草紙へ何か書かせてくれというと村童はそれをゆるした。

すると翁はやおら筆を起こしてこう書かれた。

「一日に一字づつ習えば一年には365字となるぞこの小僧」と。

翁の主義は小を積んで大を成すというのである。

かの「百万石の米といえども粒の大なるにあらず、小積もって大となるなり」
というがごときも12,3歳の時草紙に戯れ書きをした時も同じ意味で
首尾一貫するのは翁の面目を発揮する点において見過ごすことのできないところである。

ことに翁が小事をやかましくいわれたことは
農業部落の百姓を教えることについてはやむを得ないことで、
百姓が小さい事を忘れて大まかになる時は一日も立ちゆくものではない。

ただにこれは農業のみならず人間万事に応用して誤らないのである。

          <感謝合掌 平成29年2月25日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その49 - 伝統

2017/02/26 (Sun) 19:32:08


46 翁と下館及び青木村付近の仕法

石川遠江守(とうとうみのかみ)は下館の城主で高2万石を領された。
ところがこの2万石の大名が天保年間に3万石の負債をこしらえた。
そこで家老衣笠兵太夫を桜町の陣屋に遣わして仕法の歎願をさせた。

翁が石川家のために大いに尽力されたそのことは「報徳記」にも明らかである。

また青木村の仕法のことは小田又蔵の書いた「報徳本教青木村興復記」にも明らかである。
青木村のみならず、灰塚、谷中、下岡崎、蕨の4ヶ村もまた翁の恩沢をこうむったのである。

桜町から灰塚または青木村付近までは約3里の道のりであるが、
翁は未明に桜町の陣屋を出て朝早く灰塚に着された。

翁の通われたことはおよそ3年であったが、滅多に泊まられたことはなかったという。
翁は時を惜しんで朝は湯をかけて飯を食われ、
また道を行くには口癖のように道歌をうたわれた。

田所八郎平翁は茨城県真壁郡灰塚の人で、
25,6歳から20年も二宮翁に随身して開墾などに従事された人であって、
今年88歳の高齢でありながらなお矍鑠(かくしゃく)として
その近傍に報徳の結社をして歩いておられる。

以上の話は田所翁の余に語られた所である。

なお田所翁の語られたところに依れば真岡辺の道路は
翁が率先して築造されたので今日の道路の造り方と大差ないということである。

翁の道の造り方は細く長くして道と溝とは必ずともに造られた。

また酒も少しは飲まれたが灰塚辺ではチビチビ長く飲まれたことは一度もなかった。
一合のとっくりでグッと飲まれたというがこれは時間を省くためであるということである。

当時はや既に翁は「時は金である」ことを知られたものとみえる。

また二宮翁の言葉に

「推譲は徳の司(つかさ)であるとともに善の王である。悪の最も大なるものは略奪なり」
と常に教えられたことを記憶していると田所翁は予に話された。

          <感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その50 - 伝統

2017/02/27 (Mon) 18:26:32


47 火傷(やけど)のきず

東海道平塚の停車場を去ること2里ばかりのところに金目村大字片岡というのがあります。
この村の大澤という豪農から出た人で福住正兄(ふくずみまさえ)という方が、
「二宮翁夜話」を書いたのであるが、
この方は二宮翁の高弟の一人でよく翁の精神を了解した人である。

この人が二宮翁の客に話したりあるいは自分が供をして行った時に、
翁の話されたることなどをヤスリをたたいてそれを細くし、
これを美濃紙へ書いて置いた原稿がある。

その前後の一番よいところを集めたのがすなわちかの「二宮翁夜話」
という趣味のある書物であります。

さてこの福住翁の実家なる大澤氏の近傍に二宮翁の教えを奉じておった人で
火災にかかった人があった。

ある時二宮翁が金目村に参られて用事もすみ、そこを出立する時分に
その近傍の人達が送っていった。
ところが今日は某(それがし)が見えぬが彼はどうしたと言われて、
彼は火災にかかりましてその後始末のために参りませぬという。

とすでに7,8丁も踏み出されたのに「そは気の毒だから見舞いに行ってやろう」
と言われて引き返してその家を訪われた。

ところが、某(それがし)の家では立派な普請ができあがっておって二宮翁を奥に請じた。

二宮翁は定めて喜ばれてお前の家も火災にかかって気の毒であった。
がそれでも早く立派な普請ができて誠に結構だと挨拶されると思いの外、
「どうもこれは火傷のあとが早く癒えたで用心しないとまた膿んで来るぞ」
と言ってそこを立ち去られたという話がある。

これは何か意味のありそうな言葉であると思う。


世間の例を見ると事業を行なってゆく上に於いて物の順序が立って
能く運んで行く時は非常に拡張する。

拡張せないでも困るが拡張し過ぎると更に困ることが多い。

金が儲かりだすと段々運転し出して実力を越えて拡張する、
その証拠には日清戦争の後に非常に事業熱が起こって、株が暴落した。
又日露戦争の後にもたくさんの会社が出来た。

所が今日(こんにち)では株が非情に暴落して実業上に恐惶を来している。

二宮翁の『火傷の痕が早く癒(なお)ったで用心せないと
復(ま)た膿(う)んで来るぞ』と言われたのは
斯う云う急激なる膨張を戒められた教訓とも解されるのである。

          <感謝合掌 平成29年2月27日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その51 - 伝統

2017/02/28 (Tue) 19:26:23


48 翁まずお初穂を捧ぐ

神奈川県中郡土沢村の小字に枇杷(びわ)というところがある。

そこに原小太郎というその辺での豪農があるが、
この原という人はそこの報徳社の社長をしており、
その一家はまた楠公(なんこう)の一族が勤王を唱えたように
こぞって報徳を唱え実践躬行につとめておるのである。

この家の老婆いわ子刀自(とじ)はもう81歳になる人であるが、
二宮翁にかわいがられた人であるということを聞いたから、
余は二宮翁の肖像を色々持ち行きていづれが一番よく似ているかを尋ねたことがある。

このおばあさんは福住正兄翁の令妹であって非常に丈夫で物覚えのよい方であるから
種々のことを話された。

その時余は何か二宮先生のことについて頭に残っておることはありませんかと尋ねたら、

「さようです。私が12,3歳の頃でした。
二宮先生がおいでになる時はいつも草鞋をはいて来られるのでまず縁側に腰をかけ、
それから足を洗って上がられるのが常でありました。

それで私の家ではその上がられる前に饅頭とか菓子とかを縁側へ持っていって
さぞお疲れでしょうと言って出すのですが、これが私の役になっておりました。

すると先生は私にきっと何か取ってくだされるのです。
だから先生が来られると聞くと、私は慌てて逃げ込んで
奥の間の障子の間から隙見をしたものです。

すると先生は障子の蔭に私を見られて「ちょっと来い」と呼ばれるのである。

私はただ恥ずかしいので逃げようとすると
親が無理に引っ張って先生の前に連れて行く。

そうすると先生はご自身が召し上がる前に
『これはお初穂だからお前にあげる』
と言っていつでも下さったものです」と。

思うに是は二宮翁としては余程披り処のある遣り方である。
アメリカなどでは「サンクスギブイング、デー」という御祭りをする。
是は何かというと感謝のお祭りである。

天地の恩恵(めぐみ)に依って収穫することが出来たので、
その神に対して御礼の祭りをする、それを「サンクスギブイング、デー」
と申して、貧乏人に至る迄七面鳥を一切れでも食べて祝うことになって居ります。

其れと同じように二宮翁のもつまり天地の神に感謝するという意味で
無邪気なる云わば神に近い少女に先ず御初穂を与えたのである。

此の一事に限らず二宮翁は始終報徳という観念があった。
天地の恵みに報ゆる為には何か仕事をせなくてはならぬ。

社会に対して何か譲らねばならぬというので金を持っている者は金を出し、
力を持っている者は力を出し、智識を持っている者は智識を出して、
世の中の不足を補い、其の余れる所を譲って欠けたる処を補うて行く
ということを考えられた。

それも損得という問題からこないで天地の恩恵(めぐみ)に報いるという
高尚なる観念に基づいているのである。

子孫に菓子を遣るにもいうことを利かそうなどの卑しいかんがえでなくて、
報徳の徴(しるし)に御初穂として子供に遣られたのである。

故に二宮翁から見た少女は神聖にして神に近い者である。

斯ういう風に何事も報徳の趣旨に基づいて始終やられたということである。
つまり子供に物を与えることにまで報徳を実行されたのである。

          <感謝合掌 平成29年2月28日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その52 - 伝統

2017/03/01 (Wed) 18:56:23


49 品川子爵轟村を訪う

轟村は日光今市を去る約1里半ほどのところにある。
その村に狐塚五郎作という人があって、二宮翁在世の時はよく報徳の教えを守り、
それがために今日轟村は当時の金を積みたくわえて村の基本財産にしておる
ということである。

かの大臣中の精神家といわれた故(もと)の品川子爵はかってこの土地を訪われ、
報徳の由来を聞きただしその主義の徹底しておることを大いに感じられて
左の歌を詠まれたということである。

 日に五文夜は一把の縄をもて 積みたくわえし恵み忘るな

是はいかにも貴(とうと)き道歌である。

これについての余の感ずることは先輩の感化と云うことである。

(略)

若し先駆者が行ないを慎み、進んで公益を図るなど、よき手本を示すならば
移り易い青年は草の風に靡(なび)く如く必ず其の足跡を慕うて行くであろう。

品川子爵が地方の有志者に与えた感化の偉大であったことは、
余が町村を視察して大いに感じた所である。

たとえば静岡県の金原明善、高林維兵衛、西ヶ谷可吉の諸子に於ける。
三重県室山の伊藤小左衛門氏に於ける。
京都の川島甚兵衛氏に於ける。
丹波の波多野鶴吉氏に於けるがごとくその感化が甚だ少なくないのである。

伊藤小左衛門氏は有名な製糸家であるが、その家の奥座敷には

 恨むなよ君がつくせし真心は
  今日白糸にあらわれにけり

という額が子爵の肉筆でありありと書かれてある。

また川島甚兵衛氏の奥の間には

 至誠無息

という大いなる額面が子爵によりて揮毫され、
見る者をしてそぞろに襟を正させるのである。

このほか子爵と交わりをただしたるものは大小広狭の差こそあれ
感化を受けないものはないのである。
これによりて見るも先輩の後輩に及ぼす感化は偉大なものがある。

善き感化を与うれば善き跡を残し、悪しき感化を与うれば悪しき跡を残すのである。
だから世の先輩たるものは大いに考えねばならぬことと思う。

          <感謝合掌 平成29年3月1日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その53 - 伝統

2017/03/02 (Thu) 18:47:22


50 日光における翁の事業

翁の門人である大槻吉直(おおつきよしなお)君が調査した
日光神領地の翁の仕法は創業の時から翁の嗣子である弥太郎氏がうけ継いで
専らこれを経営されたので、幕府が大政を返上し、仕法が廃止された時に至るまで
15年間の成績は実に次のごとくである。

日光御神領地は都賀(つが)、河内(こうち)、塩谷(えんや)、安蘇(あそ)の
4郡にまたがりて村数が89ヶ村、石高が20,965石、反別(たんべつ)が
4,064町歩(ちょうぶ)、内荒蕪地が934町歩である。

その成績を見ると翁の仕法をされた当時から廃止になった時までに
荒蕪地の開墾落成反別438町歩余、新開地反別25町歩余、杉檜の植栽反別20町歩余
合計反別483町歩余、

杉檜の植栽数7万本余、土切堤防延長1,545間、枠146組、堰12ヶ所、
新用悪水堀長さ29,485間、古堀浚渫23,310間、掛樋(かけひ)7ヶ所、
水門7ヶ所、溜池5ヶ所、橋30ヶ所、新道路延長1,751間、
道路修繕7,610間、潰式取立家(つぶれいえとりたてや)給与9戸、
出精人賞与894人、貧民救助875人、無利息年賦貸付数5,128人であって
なおこのほかに屋根替、馬屋、灰小屋等を給与し、また家屋の修繕等をもされた。

一切の費用は16,405両2分永55文9厘であったそうであるが、
翁の晩年の事業としては僅かに3年に過ぎなかったが、
日光御神領地の仕法もまた実に大いなる功績を残しておるのである。

          <感謝合掌 平成29年3月2日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その54 - 伝統

2017/03/03 (Fri) 18:10:40


51 翁の富田高慶観

翁が相馬の仕法をされた時、ある人に言われたことがある。
「相馬の仕法は必ずできると信ずる。
というのは相馬に富田高慶がおるからである。

徳利(とくり)の中は何が入っているか分からないが、
酒でも酢でも一滴なめてみるとこの徳利には何が入っておるかが分かる。

相馬の仕法についてもそのようなもので、一滴富田をなめてみると
相馬という徳利の中は自ずから分かるのである」と。

達人よく達観するとはこのことを言うたのであろう。

          <感謝合掌 平成29年3月3日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その55 - 伝統

2017/03/04 (Sat) 18:13:42


52 翁、桜町へ赴任の朝

文政6年翁が野州桜町に出立の朝は
ただ弟の三郎左衛門のみが3才になる翁の一子弥太郎を背負うて
国府津(こうづ)まで見送った。

翁は途中で「どこまで行くも同じであるからー帰れ」というて
三郎左衛門の背中から弥太郎を受け取り、自ら背負うて
妻女歌子を連れ5日の行程で桜町に到着されたということである。

彼(か)の後世まで至難の改革と伝えられている事業を成就せられた翁が
赴任の時は見送る者は弟、三郎左衛門のみであったということを追想すると、
前途遼遠である事業を控えて出立された翁の心事はいかに淋しかったことであろう。

(以下略)

          <感謝合掌 平成29年3月4日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その56 - 伝統

2017/03/05 (Sun) 18:30:44


53 翁幼時の公共心

翁は12,3歳の頃、ある農家に雇われたことがある。
一カ年ばかりそこにおって雇い人交代の際、暇を請うて帰宅された。

その時主人が袷(あわせ)一枚と銭200文とをくれたので、
翁はかたじけなくこれを推し戴き恩を謝して主家を出られた。

然るに道のさほどにも遠からざるに翁の帰りが遅いので
母親は大層待ちあぐんでおられたところへ日没頃ヒョッコリ翁は帰宅されたので、
母親が帰宅の遅かったわけを聞くと、

「暇を取る時に主人から袷一枚と銭200文とをもらって帰る途中、
松の苗木を売る者に逢った。
ところがその商人の言うに今日(こんにち)は日没(ひぐれ)近くになるまでも
買う人がなくてはなはだ困っておる。

ドーカ買うてはくれまいかと言うから、主人より戴いた200文でその松苗を求め、
年々蒙る水害を防ぐためにこれを堤防に植えるがよかろうと思いて
酒匂川の端(ふち)に植えて来たのでそれがため大層遅れました」

と言われたので、母親は感涙にむせんで我が子の善行を喜ばれたということである。

今日ではこの松の苗木が生長して堤防の固めともなり、
栢山村の景色(けいしょく)を添える並木ともなっておる。

後年、国家民人のために献身的の働きをされた翁の幼時は
すでに普通一般の人々と違うところがある。

          <感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その57 - 伝統

2017/03/06 (Mon) 18:32:11


54 大久保公の文学趣味

余は先年二宮翁50年紀年会について、
ぜひ大久保公のことをも世に紹介したいと思うて、
麻布の大久保子爵邸を尋ね、特別の許しを得て忠真公の遺物を調べた。

その時に公の自ら書かれた随筆さては歌集などを渉猟したが、
数多き詩歌の中にこういうのがあった。
これは翁にちなんでここに記しておく。



◎ 人の足跡につき

 直(す)ぐなるもまた曲がれるも我からの 跡恥ずかしき雪の中道


◎ 推譲を歌うて

 豊かなる国の姿を何に見む 畦(あぜ)を譲れる道なかりせば

それから面白いのは二宮翁に書をかいて与えられた、その通りが手帳に記してある。
一体大久保公はよほど恪謹(かくきん)にして綿密なる人であったと見えて、
他人に書いて与えたものは詩歌であろうが、文章であろうが、書であろうが、
必ずその通りを手帳に控えて何年何月なにがしに遣わすということが書いてある。

なかんずく翁に与えたのにこういうのがある。

早川茂右衛門をもって野州陣屋二宮金治郎え遣(つかわす)

 誠者天之道也(誠は天の道なり)誠之者天之道也(これを誠にするは天の道なり)
 誠者不勉而中不思而得
   天保六年乙未槐夏  中庸印

(中略)
 
公の手帳の中にはいろいろ格言のようなものが書いてある。
これは公の随感録とでもいうべきであろう。

1 古人には絶えて及ばずと思うべからず。
  言行総ての事己が心中にあることなり。
  とても及び難きというて限れるは上達の道を塞ぎ、天受の質よりも劣るなり。
  舜何人ぞや、舜も人我も人なりという所に心を付けて励むべし。
  それにても並々少し立ち上がりたるものよりも油断すれば劣るなり。

2 才器は年頃に伸ぶる時節あり。
  其の時縮まぬように突き放して大概のことは許して為させねば伸びざるなり、大切の所なり。

3 諸侯などはなおさら多くはただ温厚柔順にのみ仕立つるようにばかりなるなり。
  之(これ)に依って才器は格別に暢(の)ぶること少なし。
  気儘我儘になるを厭うに聞こゆれども、才器の屈暢(くつよう)とは別なり。
  尤(もっと)も其の性質をよく見て仕立ねばまた人の言を容れず或いは放蕩怠惰にのみ流るるなり。

4 師友の教戒と諌めをいるること絶えれば種々の破れ生ず、況(いわん)や国家を治むるをや。

5 国初(こくしょ)は気質を尊む、治久しきに至っては、形容を尊む。

6 物事にその善悪巧拙を評するな、其の至当を鑑定することは難きこと勿論なり。
  先ずは浅き所に己が意に適うと、適わざるとをもって言うこと多きものなり、
  公正の論にあらざれば其の実を得ず。

7 人は壮年までは守り慎みもあり、稍(やや)初老後は守り慎み薄くなるものなり。
  晩節の全きこと古人も難しとす。
  況(いわ)んや財貨色欲の慎み最も怠るまじきことなり。

公の御老中の時は御老中の首座は沼津侯水野出羽守であったが、
この人は最も心の良くない人であって、大久保公とは常に何かにつけて反対の傾きがあった。
けれども大久保公も長官のことであるので、余ほど遠慮して自分の意見を貫くことができなかった。

或る時その圧制を受けるのを快よく思わないで斯ういう歌を詠まれたことがある。

 世につれて靡(なび)きはすれどなびき藻の なびきやはせじ底のこころは

これでもって公の心事を察するに足るのである。

(以下、長文のため、略
 ~*国立国会図書館デジタルコレクション - 二宮翁逸話
       → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758832
   コマ番号 65~67で確認できます)

          <感謝合掌 平成29年3月6日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その58 - 伝統

2017/03/07 (Tue) 18:24:22


55 大学の料理

翁が浦賀の人宮原瀛州(えいしゅう)外数人にあてて送った手紙は随分長文であるが、
その追って書きがなかなか面白い。

其の意味は大学は店晒(たなざら)しで人々が読まない。

また大学そのものは骨も大きく肉もたくさんであるから
世人がこれを咀嚼するのによほど困るのであるから、
余は世の人々がこれを咀嚼しうるようにしてやるといって
大学の奥深い意義を31文字にして読まれたものがすなわち左に掲げる歌である。

歌を紹介する前にその歌についておる書簡の一部を示そう。

  追って申し上げ候近代世上一統華美柔弱に相(あい)流れ、
  古人の金言などのかたき物をよくかみしめ深く味わうもの鮮(すく)なし。

  さて其の元を案ずるに今眼前その表前後の海底より釣り出(いだ)し候大魚は
  勿論(もちろん)小魚といえども、切り刻み煮炊きいたし候て
  日用食物人命の助けとも相(あい)成るべく候。

  況(いわん)や千載の昔し、異国より来たり候大学論語抔(など)は
  天下国家を治むるの大徳備わり居(おり)候えども肉も多く身も多し。

  定めて大いなる骨も可(これ)有(ある)之(べく)候に付(つき)中々(なかなか)
  以(も)って諸人もてはやすのみにして、 丸呑みには相成兼(あいなりなね)、
  年久しく店ざらし同様に相成(あいなり)居(おり)候古もの、
  一両句見付つけこけをふき、皮をはぎ、筋も骨もとり、

  平生日用に人々相(あい)用い候平仮名なにて賤の女(しずのめ)賤の男(しずのお)が
  「臼挽き歌」同様、或(あるい)は老人(としより)または小児(こども)にも呑込(のみこ)み
  しやすくしたて、お試しのため少々差し遣わし申し候につき御賞味くださるべく候。

  其の外神儒仏の三昧(さんまい)、悟道、即席料理などもこれまた数年天地の間に
  借地(しゃくち)仕(つかまつ)り人様の厚き御世話を蒙り渡世つかまつり居(おり)候間、
  右報徳の為(ため)御望み次第案外御安く差し上げ申すべく候につき、

  早々御越し御求め御施し被下(くだされ)候わば御地三崎辺この節不漁のよし
  窮民の一助にも相成(あいなる)べく候。以上


    別紙

【在明明徳】 明徳を明らかにするに在り

 豊(とよ)あしのふか野が原を田となして
   米を作りてくらふ楽しさ


【在親民】 民を親(あらた)にするに在り

 田を開き米を作りて施せば
   命あるもの皆ふくすらん


【在止於至善】 至善に止まるに在り

 田を作り食を求めて譲りなば
   いく代(よ)ふるともこれに止まる


【学而時習之。不亦説乎】 学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや。
【有朋自遠方来。不亦楽乎】 朋友遠方より来たる有りまた楽しからずや

 蒔きうえて時々に草刈り耕せば
   しだいしだいにたのしかるらん


【人不知而不慍。不亦君子乎】 人知らずしていからず。また君子ならずや

 姿こそ深山がくれに苔むせど
   谷うち越えて見ゆる桜木


【至誠之道、可以前知】 至誠の道はもって前知すべし。
【國家将興、必有禎祥】 国家まさに興らんとすれば、必ず禎祥あり。
【見乎蓍亀、動乎四體】 シ亀に見(あらわ)れ、四体に動く。
【故至誠如神】     故に至誠は神のごとし。

 北山は冬気にとじて雪降れど
   ほころびにけり前の川柳(かわやぎ)


湯(とう)の盤の銘にいわく。
【苟日新、日日新、又日新】まことに日に新たに日に日に新たなり。また日に新たなり。

 いにしえの白きをおもひ洗濯の
   かへすがえすも返す返すも


【温故而知新】 ふるきをたずねて新しきを知る

 ふる道に積もる木の葉をかきわけて
   天照神の足跡を見ん


【色不異空。空不異識。色即是空。空即是色。受相行識。亦復如是】
 色は空に異ならず。空は色に異ならず。色即是空。空即是色。
 相行識を受け、またまたかくのごとし。

 春は花秋は紅葉と夢うつつ
   寝ても覚めてもあり明けの月


【天何言哉、四時行焉、百物生焉、天何言哉。】
 天何をか言わん。四時行わる。百物生ずる。天何をか言わん。

 音もなく臭(か)もなく常に天地(あめつち)は
   書かざる経をくり返しつつ


【雖非正直、一旦依怙、終蒙日月之憐、】
正直は一旦の依怙(えこ)にあらずといえども、
終(つい)には日月の憐れみを蒙る

 丹誠は誰しらずともおのずから
  秋の実りのまさるかずかず


【心誠求之、雖不中不遠矣。未有学養子、而后嫁者也】
赤子を保つがごとく心誠にこれを求むれば。
中らずといえども遠からず。
未だ子を養うことを學んで后嫁する者有らざるなり

 己が子を恵む心を法(のり)とせば
   学ばずとても道に至らん


とにかく翁の胃の腑は恐ろしい消化力で、孔子であれ、釈迦であれ、
翁の胃袋のうちに入るとことごとく消化して出るのである。
学問を丸のみにする学者とは同日に論ぜられない。

          <感謝合掌 平成29年3月7日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その59 - 伝統

2017/03/08 (Wed) 18:33:06


56 俸給よりは荒蕪地を望む

翁が幕府に召抱えられた時に幕府が一向仕事を与えてくれないので、
翁は種々苦心してしばしば建白をした。

その建白の一つに俸給を返上して荒蕪地を下賜せられむことを願うたということがある。

これは翁のせられるようなことであって、

「豊(とよ)あしのふか野が原を田となして 米を作りてくらふ楽しさ」

という歌を思い合わせて見れば、どこにか奥ゆかしいところがある。

          <感謝合掌 平成29年3月8日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その60 - 伝統

2017/03/09 (Thu) 17:55:36


57 翁と大道

これも浦賀の人宮原瀛州(えいしゅう)外2人にあてた手紙の中の言葉であるが、
なかなか面白い節があるから書き抜いてみよう。

神代より天祖天孫代々(よよ)御丹誠をもって豊葦原の瑞穂の国を
安国(やすくに)と平らげたまいしより、

この道盛んなるときは富豊(ゆたか)なり。

この道衰え怠るときは窮す。

諸々平常日用あい営みおり候えどもその理に暗し。
然りといえども銘々よく耕し草切るときはその実り多く、
粗作なるときは実り眼前に少なし。

これ皆有用の財宝は土地と金力との二つよりして、国家を潤沢するものなり。
もって土地の貴きゆえんを知るべし。

本来異国は異国の財宝をもって興(お)き、
我が朝は我が朝の恩沢をもって、
このごとく開け、有難き申すも畏れ多し。

然れば道の御丹誠を知ることは、今の艱難をもってせずんばあるべからず。

          <感謝合掌 平成29年3月9日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その61 - 伝統

2017/03/10 (Fri) 19:40:10


58 翁と大久保公

明君としては大久保公もえらかったが、事業家としては二宮翁もえらかったのである。

翁が如何に大困難に堪え忍び、盤根錯節を切り抜けて
後世仰ぐべく大事業を成したかというに、

全く大久保公と二宮翁の互いに
あい信じあいよりたる力の大いなりしによることである。

其の証拠には翁の言わるるよう
「信あれば即ち民任すという言葉があるが、
子女の慈母に於けるも亦かくの如きもので、
如何ほど大切なる物でも子女は慈母に疑いなくして之れを預ける。

是れ慈母のまことが子女に通ずるがゆえである。

余が先君大久保公に於けるも亦同じであるといい、
且つこういうことを書き添えてある。

「余が桜町仕法の委任は心組みの次第一々申し立つるに及ばず、
年々の出納も計算するに及ばず、10カ年の間任せおくものなりとあり、
是れ余が身を委ねて桜町に来たりし所以(ゆえん)なり」

といわれておる。

信用の力が人を動かすにおいて大いなる力を有しておることは
実に測り知ることの出来ないものがある。

          <感謝合掌 平成29年3月10日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その62 - 伝統

2017/03/11 (Sat) 18:28:42


59 翁と道祖神

小田原付近には妙な習慣があって、正月4日にお飾りを下ろして
これを道祖神のところへ持っていく。

それは誰が持っていくかというと、子ども達が持っていくのである。
そうしてそのお飾りを水に浸して道の真ん中に引っ張って、
通行人に対して金をくれ、くれなければここを通さぬというのである。

これは維新前からのかの地方における習慣であった。

翁幼少の折節も正月4日にこのお飾りを路上に引っ張っておった時、
一人の侍が通りかかると、翁はそれを張りつめて金を出さぬとここは通さぬ
といわんばかりに力んでいた。

するとその侍が非常に怒りて「通さなければひと打ちに致すぞ」といったので、
外の子ども達はいずれもその権幕におじ恐れて逃げてしまったが、翁一人は居残って、

「道祖神がある以上はこれを弛めるわけにはいかない。
もし斬るならば道祖神を斬れといって頑張ったということである。

之(これ)をもってみても如何に翁が幼少の時から大胆であったかが分かる。

道祖神は路傍の神様で石を以って高さ2尺位に作ってあるので、語り部の言い伝えに
よると、道祖神は伊弉諾伊弉冉尊であって、子孫繁殖の神であるから、
子供を愛し給うこと限りないのである。

故に正月などには道祖神の辺(あたり)に子供等が集まってその石神様を蹴ったり
踏んだりしても、子供等に対して決して怒らないということである。

この辺の習慣として15歳以下の子供等は道祖神の所に集まっていたずらをして
居るのである。子供等の遊びとしては是が一番の楽しみであって、今も正月の
四日より十四日頃まで、道祖神の傍に小屋を造って、太鼓を叩いて騒いで居る。

(中略)

二宮翁の句に其の光景を写したものがある。

   さぎちやうや野に惜しげなく人の声

之(これ)は年に一度道祖神の所へ集まって金を取るのは何のためかというと、
子供等が其の金で汁粉を拵えて食べたり、食物とお神酒とを供えて通行の人に
施すのである。

二宮翁の道祖神に関する話は翁の弟三郎左衛門の話として
今なお栢山に言い伝える談話である。

          <感謝合掌 平成29年3月11日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その63 - 伝統

2017/03/12 (Sun) 19:00:25


60 翁と金瑞和尚

翁が20歳前後の時居村善栄寺(曹洞宗)に行って金瑞和尚と問答したことがある。

ある時歌のようなものを詠んで問いかけたところが
和尚すこぶる返事に窮したということである。

その問は

 寺方(てらかた)はお経ばかりと思ひしに又神もあり仏もある


こういうようなことをして時々和尚を困らせということであるが、
ある時和尚が二宮翁に

「金治郎ぐらいの者は50人ぐらい来ても何でもない」といったところが、

翁の答えに、

「和尚ごときの者は幾人来ても差し支えない」と言うたということである。

(翁の弟三郎左衛門断片)

          <感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その64 - 伝統

2017/03/13 (Mon) 18:32:46


61 根っこの藤助、もっこの藤蔵

経済は物にばかりなくして、おおいに人の上にもあることを考え、
適材を適所に置くことについては、翁のごときは最も長じておられた。

人物経済ということには、翁のやり口がいろいろある。

その一例を挙ぐれば翁の桜町3か村を回復せらるる時、
その陣屋のうちには学者もおれば僧侶もおり、大名もおれば百姓もおり。
当時桜町陣屋の光景は雑然として異彩を放ちたる集合団体で、
多数の人が翁を中心として回転しておった。

その中に「根っこの藤助」、「もっこの藤蔵」というものがあった。
藤助は木の根を掘ることが長所で「報徳記」を見ると
翁は藤助が朝から晩まで少しの変わりなく、正直に「根っこ」を掘るのを見て
ほめ言葉に15両を添えて慰謝された。

藤蔵もまた藤助と同じく開墾に必要なるもっこを造ることに
妙を得たるがゆえに翁の御目鏡(おめがね)に止まった。
ゆえに人呼んで「もっこの藤蔵」といっておった。

この話は竹松村の者で野州桜町にいって翁の開墾事業に
用役された木山某がしばしば二宮兵三郎氏方へ来たりて、
冬の夜物語などにしたそうである。

翁の桜町に居られた時は『根っこの藤助』『もっこの藤蔵』と云ったら
桜町付近では評判者であった。

之(これ)によりて見ると翁は中々人を使うことに妙を得ておられた。
濫(みだ)りに人を棄(す)てないのが、翁の翁たる所以であろう。

桜町の恢復せられたのも決して偶然でないことが分る。

          <感謝合掌 平成29年3月13日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その65 - 伝統

2017/03/14 (Tue) 19:47:12


62 翁と不退堂

今日でもなお報徳に因(ちなみ)ある所へ行くと、
どこにでも不退堂の書いた報徳訓のない所はないが、

元この不退堂という男は京都の北面の武士ですこぶる書をよくかいた人であったが、
翁のことを聞いてわざわざ野州桜町に行って面会を求めた。

ところが翁は例のごとく面会を謝絶したので、
不退堂7日の間食わず飲まずに翁の門前に座ったまま動かなかったということである。

そうして7日目に初めて面会を許された。

その時、翁の言わるるに
「お前は学者であるそうだが、茄子という字を知っておるか」

不退堂いわく、
「心得ております」

翁のいわく
「心得ておるなら書いて見よ」
不退堂筆をとりて茄子という字を書いた。

すると翁は「茄子が先にできたか字が先か」
と不退堂この一言に痛く打たれたという。

不退堂の考えでは二宮翁に面会したならば
一議論吹っかけて翁を困らせてやろうという考えであったが、
この問いによってたちまち鼻先を砕かれ、初対面で翁の軍門に降伏したということである。

(剣持広吉氏談)

          <感謝合掌 平成29年3月14日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その66 - 伝統

2017/03/15 (Wed) 17:27:11


63 弟、三郎左衛門の無心

栢山の隣村に金手村という所がある。
その村に郡司といって翁の弟、三郎左衛門と懇意の者があった。

郡司年末に際して三郎左衛門に報徳金百両を拝借したいから、
野州の兄さんのところへ行ってくれないかと頼んだ。
三郎左衛門は世話好きの男であるので、郡司を連れて翁のところへ行った。

ところが翁が言われるのに今頃来ては貸せる金は一文もない、暮れに一切始末した。
しかしはるばる郡司を連れて来たのであるからここにあるだけ貸してやる
というて80両を出された。

そこで早速帰ろうとしたが、なにぶん大金のことであるから
途中が心配でたまらないので三郎左衛門困っておった。

すると翁が言われるのに「心配するには及ばぬ。無難に帰れるようにしてやる」
と言って笈ずりのようなものを背中に縫いつけ、「これは大久保加賀守の使者である」
ということを書いてやられた。

これで三郎左衛門は無事に帰村したということである。
さて帰村して見たところが百両なければならないのに
80両よりないから20両不足するわけである。

そこで三郎左衛門は郡司に対して気の毒の余り自分の田地一反六畝(せ)余りを
同村の二宮三左衛門のところへ質に入れ、そうして20両を加えて百両となし、
郡司に貸してやった。

すると家族の者はそれほどにするには及ぶまいと言うて苦情を漏らした。

その後三郎左衛門用事あって翁のおられる野州へ行ったところが、
翁の言われるのにかって80両貸してやったが20両足らないところはどうした
と問われたので、三郎左衛門は正直に気の毒であったから、
翁は多くの門弟のおる中で涙を流して
「それは貴様としては過ぎた行為である。それで貴様も人間の仲間入りができた」
といって喜ばれたということである。

後、三郎左衛門は、
「兄貴が自分をほめてくれたことは、これが生涯にタッタ一遍であった」
と一つ話にしたということである。(三郎左衛門の孫兵三郎氏談)

          <感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その67 - 伝統

2017/03/16 (Thu) 18:39:37


65 翁の下婢(かひ)待遇法

翁の感化はなかなかえらいもので下女に至るまで感化されたという話である。

小田原辺では一に服部、二に里見、三に渡辺といって、
随分下女下男が奉公するにはむずかしい家々であった。

どういうふうに難しかったかというと、もし器物でも壊した日には
村役人を呼びつけてやかましく言ってなぜこういう者を世話したかと厳談に及ぶ。

もし器物を壊してこれを隠しておき後で知れると、
村役人に対してはかくのごとき者を世話するから、かかる始末である、
よって汝に賠償をさせる。

汝が周旋したる者は不正直者であるからただいま暇を遣わすによって
他に適当の者を見いだして直ちに連れ来たれと厳命を下す。

上のごとく3家はなかなかむずかしかったが、
とりわけむつかしかったのは服部家であった。

ゆえに二宮翁はこういうむずかしい家をえらんで行かれたかと思われる節がある。

そこで翁は下女下男を取り扱われるのに、
服部家がかくのごとくむずかしい家であったので、
下女下男に対してはたとえ器物を壊したとするも正直に申し出さえすれば
多少の褒美はやられたので、

後には子守が器物を壊しても
下女下男が責任をかぶって私が壊しましたというて
罪を引き受くるに至ったということである。

          <感謝合掌 平成29年3月16日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その68 - 伝統

2017/03/17 (Fri) 19:05:38


66 翁下女より鍋炭を買う

服部家に行かれた時、改革の第一着手として鍋炭を下女から買われた。
それは一升溜まればなにほどと価(あたい)を定め買うてやったのである。

これは鍋の底に炭が溜まると薪(まき)が余計に要(い)るから
倹約するために鍋炭の必要を唱えて下女から買われたのである。

また飯を焚くのは一升なんぼの薪(まき)で焚けと定めてあった。
そうして残した薪は価格を定めて買うてやられた。

そういうふうであるからなるべく薪を使うまいというので、
下女は庭の隅々までいやしくも燃料になる物があれば拾い集めて焚くこととし、
薪はなるべく残すようにした。

こういうふうでやられたから、万事が経済的にいったのみならず、
屋敷のうちは自ずから清潔になったということである。

また翁は下女下男の日用品物を彼らが買いに出ることができないので、
たとえば元結い、紙、油にしても以前上等の物を買ったものには中等のものを、
中等の物を買った者には下等の物を買うて与えるというふうにせられた。

そうして年期が明けて暇を取らせる時に
翁はお前の預かり物があるというてこれまで倹約して溜めておいて金を与えられたので
雇い人どもはおおいに翁を徳として喜んで服部家を出たということである。

          <感謝合掌 平成29年3月17日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その69 - 伝統

2017/03/18 (Sat) 18:14:48


67 翁賭博者を改心せしむ

翁が真岡の東郷陣屋におられた時、名代のばくち打ちがあった。
その妻は始終美服まとうて何事もなさずに暮らし、
子分は百有余人もあって盛んに賭博をやっておった。

ある日のこと翁はその妻女に向かい、どうか俺に糸を紡いでくれ、
賃金は2倍を与えると言われたところが、私は賃仕事などはいたしませぬと答えた。

翁、しいてそう言わずに紡いでくれというて賃仕事を勧めてさせられたことがある。

ところが塵積もれば山となる譬えにもれず、
ついにその賃金から50両の金を貯蓄するにいたった。

そこでばくち打ちはさて考えるよう、
翁がかく妻に命ぜられるのは糸を必要とされるのではない、
わが非行を改めさせんとて妻に貯蓄をなさしむるのであると、
ついに妻女の働きによってばくち打ちをやめて改心するに至ったということである。

当時翁が難村を復旧するに当たりて最も困られたのは博奕である。
之は小田又蔵の著述に係る「青木村報徳記」を読んで見ても其のことが分るのである。

又富田高慶の「報徳記」を見ても其のことが所々に記(しる)してある。
其の言葉に

「抑々博奕なる者は冨家と雖(いえど)も祖全伝来の家株を傾覆(けいふく)するに至る。
況(いわ)んや貧人にして此の悪業を為す其の亡滅迅速ならざるを得ず」
(報徳記百頁)とある。

思うに賭博は農村を難渋ならしめる主(おも)な原因のひとつである。
それ故に難村を回復せんとするには必ず賭博を止めるようにせねばならんのである。

人間が怠惰(なま)けて来ると酒を飲むようになり、酒を飲むようになると女に
手を出すようになり、従って賭博にも手を出すようになる。
そうして其のつまりは色々悪事をも働くようになる。

故に翁は難村を改良するには風俗改良のひとつとして賭博のことを
やかましく言われたのである。

之(これ)は今でも思い合すると興味の尽きざる教訓が存するのである。

          <感謝合掌 平成29年3月18日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その70 - 伝統

2017/03/19 (Sun) 18:50:40


68 二宮家に奉事したる老媼の懐旧談

(長文のため、以下に、老媼の懐旧談から抜粋し、紹介致します)

(1)二宮様の奥様歌子さんという人はナカナカきかない気の御方でありまして、
   随分やかましい方でありました。

   小田原の方から名主の娘などが奉公に来ましたが、
   奥様がやかましいので10日と居付いた者はありませぬ。

(2)二宮家ではお嬢様の御教育はナカナカ行き届いたものでありました。
   手習いや歌の先生を招かれまして御教育をなさったのであります。
   そうして二宮様は余程お嬢様をお可愛がりになったのであります。

(3)私が二宮様に付いて感じましたのは其の気根のお強かったことであります。
   朝は大変早くお起きになりまして行燈の下で氷のようになっているお飯に
   湯をかけて召し上がって御外出になりました。

   時には徹夜で旅をされたこともあります。
   そうして疲れると路傍でも宮の内でも構わず寒中でもお寝みになりました。

   それで随行の者は外に辛いことはないが、野の中でも山の中でも構わず
   疲れると寝られるには困ると言ったそうであります。

(4)先生はナカナカやかましい方でありましたから塾の方は皆怖がって居りました。
   そんならといって別に小言を仰るでもございませんでしたが、
   何だか皆怖がっておりました。

(5)冗談は言われなかったように覚えております。
   家にいりゃっしゃる時はいつでも帳面を調べておいででした。

(6)お嬢さんは二十八で富田さんへお嫁入りになりました。
   お嬢さんは私を大変お慕いになり、相馬へ行く時も是非《うめ》を
   連れて行きたいと仰いまして、お供をしたのであります。

   お嬢様はご懐妊になりましたが、中村は片田舎のため、良い産婆などが
   おられないため、二宮家に戻られました。
   ところがお悼わしいことに、産後間もなく亡くなられたのです。

   そのとき、先生は日光に方においでになりまして、
   葬式にも戻れなかったのであります。(現地で病気?)

(7)私が今でも忘れることの出来ないのは先生の怒られた時は
   面相が常とは全く変わって
   其の怖ろしさは何とも申し上げようがないほどでありました。

   又それと反対に笑われるときは、さもうれしそうに笑われました。
   眼尻が下がって其の笑い方はなんともいえない気持ちのよい笑い方を
   なさいました。


詳細は、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758832
コマ番号 77~80 に詳細を確認できます。

          <感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その71 - 伝統

2017/03/20 (Mon) 17:38:47


69 余の桜町訪問

前述べたるがごとく余は梅子刀自(とじ)を訪問したる翌日
県庁の人とともに車を駆って桜町を訪問した。

宇都宮から桜町までは、約6里の道のりであって、
その間は松の並木と気持ちよき松林を左右に見つつ
腕車は愉快に県道をなめらかに走った。

宇都宮と桜町の間には鬼怒川という流れがあって川幅はすこぶる広いが
川床をあらわしたる河原がすこぶる多い。

ただわずかの部分に早瀬があってその瀬ははなはだ強く、
そのところに『渡し』があってその『渡し』を渡って約一里も行くと、真岡町がある。

真岡は桜町をさる約1里の手前であって、芳賀郡役所はこの所にあるが
郡役所をさることおおよそ半里ほどの所である。

昔真岡は御領代官の住んでおった所で、維新の際には真岡県の置かれた所である。

余は東郷において翁の事蹟をたずねたが、もっか東郷は90戸ばかりの小部落である。
余はまず郡役所を訪ね郡長に逢って郡政の模様を聞き、
また翁のことを調べておられる小学校長にも面会していろいろ聴きただしたが、
別に珍しいこともなかった。

それから郡役所を12時前に辞して1里の道をまた腕車で桜町に行ったが、
現今の桜町は人気至ってよく村がらも比較的善良で、貧富の度合いが平均して
困窮者は少ないということである。

二宮翁の行かれた時は戸数減じて450戸の所が約百4,50戸になったということで、
狐やタヌキや猪が民家に巣を組んでおったというような荒りょう極まったる所であったが、
今日の桜町には二宮翁の遺沢が及んでおるのを見て
ついに偉人の事業の空しからざることを知るに至って感慨極まったのである。

桜町は今芳賀郡物部村大字物井となっておるが、ここに村役場があって
約10丁も行った所に例の有名なる宇津家の陣屋の遺跡がある。
そこには陣屋の一部分が残っておるのである。

村長の案内で10丁ばかり村道を歩いて桜町陣屋に到着した。
すると小学校長報徳社員を始め二宮先生の恩顧を受けたという老媼など、
約45,6人も集まって余を歓迎されたのである。

陣屋に在る所はすこぶる景色のよい所で陣屋の一部分は現に残っておるが、
二宮翁が宇津家の居室(いま)として残されて置いたところの戸棚の扉などに
肉太に報徳訓が書いてある。

多分それは二宮翁の書記として名高かりし不退堂先生の書かれたものであろう。
いかにもそれを見ると当時の面影は偲ばれてなんとなく森厳なる念が起こるのである。

その陣屋の前に報徳記念碑が建てられている。
これは明治18年3月岡田良一郎翁その他諸氏の尽力で建設(たて)られたのであるが、
めぐらすに土塀をもってしておる。

段々古老に聴いて見ると、これは陣屋の前に松原があって松の大木が並木をなして
規則正しく神立しそびえ、かつ、土手と松原の間は馬場のようになっておりて
すこぶる景色がよかったということである。

また陣屋の入口の右方は杉林になっておって
それは翁の植えられたもので大木になってあったというが、
ちょうど余の行った当時は一層の景色を添えたそうだが、
それを畑にせんとて開墾をしておったのを見た。

それから陣屋の脇に二宮神社がある。

その社内に掲げられてある額の中にいろいろの人の発句が数多く奉納されてあるが、
それは明治38年11月16日奉納としるしてある。
そのうちにはこういうのがあった。

 年嵩むほど世に知つつ桜かな

 星移り世は変われどもけふの月

 報徳の道はくもらじけふの月

 名月にゆずらぬ徳の光りかな

 
また古老から聴くといといろ面白い話がある。
翁が物井村の中央に新しい堀割を造られた。
堀割には五行川から水を引いて灌漑用水としてある。

その堀割の高低が誠に都合よくできておるから今に至りても
余り泥などが溜まらないということである。

また現今小学校のある辺りを三の宮というておるが、
そこに翁の時分松の大木を倒して堰を造った。

これは大きすぎてその木が動かなかったので堀に渡して
その下を堰止め水の力をもって浮かせるようにしたということである。

また翁が石橋をかけられた話がある。
大いなる石が小川の中に落ちてその上に土が覆われて橋が渡されなかったので、
寒中人夫を出だしてこの橋を普請することになったところが寒中のことであるから、
人夫が寒がって誰一人水中に入る者がなかったので、

翁は例のごとく怒気を発してその人夫の一人を川中に突き落として、
「汝らの寒がるのは働かないからである。薄着となって働けば汗が出て自ずから温かくなる、
サア働け」と言うて大いに叱責されたその声に励まされて一同元気を出だして
難なく橋をかけたということである。

当時桜町と呼びし所は芳賀郡の物井、横田、東沼の3か村であったが、翁の起業地は横田である。
横田は83戸の村であったが、翁の来られた時は衰退して15,6戸ほどになっておった。
それがだんだん増殖して今日では56戸になったということである。

余は桜町の青年報徳会及び報徳社の人々に向かって一場の講話をしたが、
その意味は、ここは報徳の出発点である。

そうして日本全国に広まり、今なおその余徳を慕うて町村の回復については
二宮翁の主義とその偉業を実際に応用せんとしておる者が各地にあるのである。

ここはその源であるから、ここにおいて報徳のこころがふるわなければ
はなはだ影響も薄いことであるから、諸君は一生懸命に翁の遺徳を慕うて、
それを実行して桜町はすなわち模範村であるといわれるようにならなければならぬ
というようなことを段々話した。

それから二宮翁に随従しておった、70もしくは79歳というような老人から
いろいろ話を聴いて今昔の感にたえなかったのである。

左の一文は天保の当時二宮翁が桜町に施行した報徳仕法の書類であるから
桜町に因みて茲(ここ)に掲載しよう。

(以下略~http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758832
   コマ番号86~90)


          <感謝合掌 平成29年3月20日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その72 - 伝統

2017/03/21 (Tue) 17:52:29


70 天保の飢饉

天保の飢饉は関八州はもちろん奥羽地方に至るまで凶作で人畜も数限りなく死んだが、
老人の言うところによると桜町にはさらに一人の飢渇を感じた者がなかったということである。

それは平常二宮翁がヒエを貯蔵して飢饉に備えられたからである。

またその当時烏山の飢饉を救わんがために穀物を送り出したが、
桜町から烏山までは約14,5里の長程にかかわらず、
人馬らくえきとして続いたということで、

これは桜町始まって以来の盛事で前代未聞であったが、
おそらくは翁の以後にもとてもないことであろう。

          <感謝合掌 平成29年3月21日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その73 - 伝統

2017/03/22 (Wed) 19:15:19


71 翁の一にらみ

翁は100有余名の門下生に恐れられかつ敬われたのみならず、
使役せる農夫傭夫に至るまでも翁が巡回されると皆かたちを改めて精励したという。

翁が開墾地で一にらみすると多くの労役者はその鍬の働かせ方を違わせたということである。
ナポレオンの兵士を指揮するのと同じ感じがする。

          <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その74 - 伝統

2017/03/23 (Thu) 19:01:54


72 翁怒って農夫を鞭撻す

翁が川副氏の知行所を仕法された時に新吉というなまけ者があって、
金は使うが少しも働かないので、ある時翁がその者を鞭でもって打たれた。

ところがある医者で翁を尊敬しておった人が翁に向かって
「先生それはあまり残酷ではございませぬか」といわれたのに翁は答えて

「民の親国の病に灸据えて泣くともままよ命ち長かれ
という歌がある。
かやつがまじめな人間となるためには鞭打ってもよいではないか」
といわれたという話がある。

これと思合することは同志社故(もと)の総長であった新島襄先生が幼年の折
父君の是水(じすい)というかたが折檻されたる時、
父君が詠まれたという歌がある。それは

   憎んでは打たぬものなり笠の雪


又西洋の諺(ことわざ)にも

   「鞭の傍には林檎を置くべし」

ということがあるが、

教育は寛厳並行なわれなくては全うされるものではない。

翁も此の意味を以って新吉を打たれたものと見える。

          <感謝合掌 平成29年3月23日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その75 - 伝統

2017/03/24 (Fri) 19:27:04


73 翁済世のために席温かならず

翁が朝早く起き夜遅くまで精励されたというのは珍しい話ではないが、
余り朝は早く夜は遅いので弥太郎氏は親の顔を見ないほどであったということである。

また翁も東奔西走せられたので子どもの育つをも知らなかったといわれたということである。

これをもって見るも翁は非常に精勤せられたものと見える。

          <感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その76 - 伝統

2017/03/25 (Sat) 18:07:23


74 猪子狩(ししがり)の中止

某古老の談によると桜町の一村横田村のごときは
猪(しし)が多く出て野荒らしをしたので、
一夜に21頭も殺したことがあるという。

そういうふうに野獣に荒らされるので、
翁は鉄砲を物井に3挺、横田に1挺、東沼に2挺配付された。

これは殺すというよりも野獣を脅かすためであったというが、
もっていかに当時桜町三村が荒廃しておったかが分かる。

陣屋の前に「桜え稲荷」というのがあって、
そこに猪(しし)が子を産んでおったのを部下のものが見いだして
前夜集まって翌朝石をなげて撲殺しようと協議をしておったところが、

夜間巡回の節、翁これを立ち聞きされて、知らぬ顔をして自分の部屋に戻られ、
万兵衛という者を呼んで言われるには、

「明日石をなげて猪(しし)を殺すというような噂があるが、
それは危ないからケガのないようにしてくれ。

また猪(しし)を追い払うには、ドンドン開墾するに限る、
開墾しさえすれば猪(しし)は自ずから逃げ去るのである、
めったに危険をおかして大切の身体を痛めるな」

といわれたので、猪狩(ししがり)は中止になったということである。

          <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その77 - 伝統

2017/03/26 (Sun) 18:12:27


75 翁、移住者のために住宅を建つ

桜町は当時戸数減少して、いかに村を興そうとしても人間がいないので興復ができない。

ゆえに翁は移住者を募集のため、越後の高田辺にまで行かれた。
そうして移住者に与えるために上・中・下の三段に別ちて家屋を建築され
移住者が到着する以前には悉皆家屋ができあがっておったということである。

これによりて見ると桜町の荒廃のはなはだしいことが分かる。

          <感謝合掌 平成29年3月26日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その78 - 伝統

2017/03/27 (Mon) 18:25:58


76 強欲者損をする

某(それがし)という者、大いなる家を持っておったが、
翁が家を建ててくれるというのでわざわざその家を倒して
翁に乞うて新しい家を造ってもらった。

ところがその新築の家は小さすぎるというので、
今少し大きい家を造ってくださいと頼んだら、翁が

「なぜか」

と反問された。

すると某が言うには、
「私には息子嫁がたくさんありますから今の家では狭くて困ります」と。

翁はしからば嫁にやればよいではないか」
と言われてその要求に応じられなかったので、強欲者が損をしたということである。

この話は一時桜町界隈で評判の高かった話である。

          <感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その79 - 伝統

2017/03/28 (Tue) 18:59:02


77 翁、成田山に籠もる

ある時、翁は飄然として桜町を去られてしばらくその行く所を知らせなかった。

しばらくすると成田山に籠もっておられるということが分かったので、
桜町から万兵衛、惣兵衛、善兵衛の3人が迎えに行った。

見ると翁は無言の行をしておられるので、
迎えに行った者が翁は弱ってものが言えないのであろうと早合点をして
翁を助けるつもりで翁の肩に手をかけたところが杖をもって痛く打たれたという話がある。

          <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その80 - 伝統

2017/03/29 (Wed) 18:08:06


78 翁の実物教授

翁は事件の起こらないときは
決して理解がましいことや教訓がましいことは言われなかった。

これは一個人においてもまた難村興復の事においても同じことであった。

この事件が起こるやその事件をとらえて自己の所懐を述べじゅんじゅんとして
天地の道理まで説かれた。

翁の教訓に勢力があったのはこの故であろう。
このへんはペスタロッチに酷似しておるところがある。

          <感謝合掌 平成29年3月29日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その81 - 伝統

2017/03/30 (Thu) 18:25:27


79 二宮翁富田高慶に貢ぐ

富田高慶が、翁の志を受けて相馬の仕法をする時に
藩主は150石をもって高慶を抱えようとしたが、翁は高慶に向かって、

「決して俸禄を受けるな。
もし俸禄を受けるようになると報徳の主義を実行することが難しいから、
要るだけは俺が送ってやる」と言ってしばらくの間、高慶に貢がれた。

そうしてなお言われるに、

「荒地を興してそれから生活の道の立つようにして行け」

とけだし翁の心、
自己の力で生活すれば他人の干渉はおのずから少ない訳であるというのであろう。

熊沢蕃山、堀平太左衛門のごとき人々が

「禄を受けて奉公すれば終わりを全うすることが難しい」と言ったのも
けだし同一の意味であろう。

          <感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その82 - 伝統

2017/03/31 (Fri) 17:54:04


80 二宮翁と柴田順作

柴田順作氏は静岡県庵原(えはら)郡の人で
報徳を信奉して庵原村付近に報徳の種子(たね)を蒔き、
こんにち庵原村のごとき良村を作りたてる下ごしらえをなせし事については
非常の功績のある人で、

柴田氏は二宮翁より教えを聴いて庵原郡に帰りて報徳の道を説き、
ついに庵原村字杉山の徳望片平信明氏に報徳の趣旨を伝え、
しかして片平信明氏はただにその付近に報徳の種子(たね)を播いたのみならず
稲取の前村長田村又吉氏にもこれを伝えた。

しかして稲取村は報徳の主義を根拠として村政の改革を行い、
今では良村の一として数えられるようになった。

また庵原村にある東報徳社長西ヶ谷可吉氏もやはり柴田順作、片平信明の両氏から
報徳の道を聴いて、後世にまで感化をのこす人となったのである。

なお順作氏の報徳に入った道行がよほど教訓的である。

この人はかの辺りの高持(たかもち)であって約800石を有しており、
また有金も少なくないので、一時は5万両も持っておったということである。

一体駿州は製紙業が盛んで、柴田家の先祖もこの製紙の事業に勤勉努力して
身代を造ったので、順作氏はちょうど3代目に当たる。

かように父祖の勤勉でせっかく造り上げられたこの身代がどうしてつぶれるようになったか、
順作氏が破産をした行経を尋ねると今で言う米相場に手を出した結果である。
そこで親類が打ち寄っていかにしてこれを仕法すべきかと協議をした。

ところが前にも言うがごとき大家であるから、
証文を取って貸した金ばかりでも約800両ばかりあったが、ナカナカ取れない。

で「御鉢判」今の(命令書のごときもの)をもって取りに行けば必ず取れるに相違ないという、
親類一同もこれに同意してこの方法で旧貸金を取り立てようとしたのである。

ところがかって静岡の江川町の旧家に黒金屋という家があり、
この家が身代限りをしようといた時、「御鉢判」をもって昔の貸し金を取り立てた。

しかるに負債者の一人に子どもをもっている老人の家があって、
「御鉢判」をもって厳談に及ばれたので一日延期してくれと願っておいて
ついにその老人が井戸に投身して死んだという話がある。

そこで今、自分が失敗して旧貸金を「御鉢判」で取り立てることになると、
その人数が180人ばかりあるので、このうちには2人3人は自殺するのがあるであろう。

自分は仏教信者であるから、そういう無慈悲の事をするに忍びないというので、
この事を実行するのに躊躇をしたが、自分がせっかく親類のきめてくれたことを
水泡に帰せしむるので済まないからというので、

親類へはしばらくその実行を延期してもらって、
伊豆に入湯に行くという名義で竈新田の小林平兵衛を訪れた。

ところが平兵衛は熱心なる二宮翁崇拝家であって心学道話の先生であったから、

「お前がそれほど失敗したのなら俺が二宮翁の所へ連れて行って、
仕法の道を聴かせてやろう、それには明日行こう」

と言うたところが、順作が、

「それは困る。明日というても野州表までは日数もかかることであるから
そう速急のことにはいかない」

と言ったら、平兵衛が言うには、

「お前は仕法をするのに親族の説に従うのか、俺の説に従うのか、
今日の場合一大決心を要さなくてはならない。
お前は庵原(えはら)で死んで俺の家で生きよ」

と言いつつ、徹宵じゅんじゅんと説諭された。

しかしてその翌朝出発して急速に二宮翁のもとに行こうということになると、順作が
「どうか今一遍宅へ手紙が出したいから暫く待ってくれ」
と頼むと、平兵衛が言うよう

「俺の家で生き返った者が家へ手紙を出す必要はない。直ちに行こう」
と言うので野州まで引っ張られた。
その途中で二人は相州伊勢原の加藤宗兵衛の家へ立ち寄った。

加藤宗兵衛はまた熱心なる報徳主義の人であって、
何が原因かは知らないがこの人も身代を蕩尽して無一物となった時、
二宮翁に説諭されて当時は牛飼いをしておったのである。

この男が牛をひいて野に行く途中、
平兵衛順作の二人が伊勢原の入り口で出会ったのである。

そこでその夜はこの男の家に一泊して翌早朝出立して野州に行って、
平兵衛が二宮翁に順作を紹介したところが、二宮翁が平兵衛に向かって、

「お前はなぜこういう迷い者を連れて来たか」

と言われ、平兵衛は非常に叱られた。そうして翁は

「かくのごとき迷い者に会うことはできない」と言うて面会を謝絶された。

それから順作は21日の間、翁に会うことができないので、
隣の垣根から二宮翁がその辺の百姓に説得されるところを立ち聞きをして
その間に非常に感服したのである。

そうして21日目に初めて翁に面会することを許された。
その時、翁は順作に向かって

「お前それほど立派な家であったに、どうしてそういうふうに零落したのか、
またこの場合どういうふうに、仕法をする積もりか」

と一応意見を聞かれたので、その次第をつまびらかに述べたところが、
翁の言われるのに、

「それほどの大家であればお前の先祖がみごと家を繁栄ならしめた原因があるであろう、
何かお前の家に宝物として秘蔵しておる物はないか」と言われたので、順作が

「ハイございます、紙を買出しに行くために用いました背負い縄がございまして、
これが家を栄えしめたものですからそれを桐の箱に納めて秘蔵してあります」

と答えると、二宮翁は

「それあらばお前は祖先の足跡を踏んでゆかなければなるまい。
そういう背負い縄を秘蔵しないでそれを取り出して毎日働くべきである。
使用すべきものを宝物としてしまっておくものだから今日のような大失敗を来たしたのである。
早く帰ってどこまでも背負い縄をもって稼げ」

と言われて、

『古道に積もる木の葉をかき分けて天照神のあしあとを見む』

という歌を詠んで聴かされ、かつ帰国するの旅費として2両2分の金を与え、
なお言葉をついで

「直ちに帰国し先祖の足跡を踏んで働け」
とさとされた。

しかしてその時与えられた今一つの教訓は

「貸し金を取り立てようということはこの際もっての外のことである。
そういうやり方は春収穫すべきものを冬の間に取らんとするのと同じことである。

たとえば畑の中にある芋種を掘り出して食うようなもので、
親芋を取ってしまえば子はできない。
そういうことは全く止して一途に先祖の足跡を踏んで稼げ」

と言われた。

そこで順作はつらつら思うのにいったん国へ帰らば決心が崩れるに相違ないというので、
二宮翁の台所におる浦賀の宮原エイ州の助手になって、
翁には内緒で3年の間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。

そうしてついには翁の黙許を得て時々その給仕に出たことがある。
である時、翁の言われるのに、

「お前はこういう人間だからいかない」

と言うて香の物の切れかかったのをハシではさんで

「この通り全く切れていない。
切るならばシッカリ切るがよし切らぬならば切らぬがよし、
切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりしておるから失敗するのである」

と言われたことがある。

その後順作は当時のことを思い出しては

「あの時ぐらいつらかったことはなかった」と一つ話しにしたということである。

          <感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>

「二宮翁逸話」~その83 - 伝統

2017/04/01 (Sat) 18:18:29


64 翁の死

翁は安政3年10月20日巳の刻すなわち今の午後11時頃
野州今市の官舎において瞑目された。

翁の危篤なることが栢山にある弟、三郎左衛門に通達せらるや、
そうこう行李(こうり)を整え昼夜兼行で今市に行った。

すると翁はほとんど切れそうである呼吸を
三郎左衛門が到着するまでは引き取らなかったということである。

やがて三郎左衛門の到着せしことを耳にするや直ちに瞑目されたということである。

(「二宮翁逸話」おわり)

          <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>

Re: 二宮翁逸話② - 平賀玄米

2017/04/06 (Thu) 14:29:01


伝統様、有難うございます

二宮翁逸話② おわり迄拝読させて頂きました。心から感謝申し上げます。
二年以上の長きにわたり、偉大なる二宮尊徳翁の生涯を投稿をして頂き、その間、折に触れて、小生の投稿した、武者小路実篤著「伝記 二宮尊徳」をも紹介して下さり、忝く思っております。本当に有難うございます。

正直なところ、「二宮翁夜話」は読んだ事があったのですが、「二宮翁逸話」の方は存じませんでした。なので、掲載は「二宮翁夜話」でおわりかと思っておりましたところ、「二宮翁逸話」まで続けて下さり、これは伝統様が、私一人の為に(勿論、そうではないのでしょうが)掲載していて下さるのだと思って、有難く拝読させて頂いた次第です。

これにて『二宮尊徳翁』のシリーズは全巻の終りなのか、まだ続くものかは存じませんが、いずれにしても、二年以上の長きにわたった伝統様のご尽力には二宮尊徳翁の伝記を書いた武者小路実篤さんも、さぞ満足し、感謝しておられる事と思います。

小生も、尊徳翁のその不惜身命の生涯を心に刻み、伝統様のご愛念に報いるべく、微力ながらこれからも精進努力して参りたいと改めて思った次第でございます。

有難うございました。平賀玄米 合掌再拝。

”平賀玄米 さま” ありがとうございます。 - 伝統

2017/04/06 (Thu) 19:12:20

”平賀玄米 さま”、ご丁寧な感想をいただき、感謝申し上げます。

当初、私は、二宮尊徳翁のことは、表面的で浅い知識しか持っていませんでしたが、

”平賀玄米 さま”の光明掲示板・第三での「傳記 二宮尊徳」を紹介を
いただき、私にとって時機到来となり、興味が湧き、深堀りをさせていただき、
ここまで至りました。

             ・・・

<光明掲示板・第三「傳記 二宮尊徳」>

 <傳記 二宮尊徳 ①>
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=264

 <傳記 二宮尊徳 ②>
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=341

 <傳記 二宮尊徳 ③>
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=483

 <傳記 二宮尊徳 あとがき>
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=546

             ・・・

もちろん、ここまで続けてこれたのは、常に”平賀玄米 さま”の思いが頭に
ありましたし、自分のためでもありました。

二宮尊徳翁に関した情報は、まだまだ多くの方々が残しておられておりますので、
それらを紐解きながら、続けていければよいかなと考えております。

その端緒を開くために、「二宮尊徳・一日一語」の紹介を開始いたしました。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7539379

その中において、編集者の寺田 一清氏は、数々の二宮尊徳翁に関する
書物から引用を行なっておりますので、次へのヒントがあるように感じております。



”平賀玄米 さま”には、
いつもタイミングよく、ご感想をいただき、
勇気づけられ、感謝いたしております。

今後も、ご感想をいただければと、心ひそかに願っております。


P,S
「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」での
ご投稿「<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)」では、
数々の光明思想家と生長の家との関わりの学びを深める機会を与えていただき、
感謝申し上げます。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=353

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=550

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=807

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=992

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1265

(合掌)

Re: 二宮翁逸話② - 平賀玄米

2017/04/08 (Sat) 10:58:41

伝統様 有難うございます。

いつも変わらぬご愛念を賜り、感謝あるのみでございます。
伝統様には、尊徳翁の懐の深さと、温かさを感じております。
何卒、今後とも宜しくお願い申し上げます。
                  玄米 合掌再拝。

二宮尊徳翁の戒名 - 伝統

2017/04/09 (Sun) 18:31:30

”平賀玄米 さま” ありがとうございます。

重ねてのご投稿に、心よりお礼申し上げます。

(合掌、再拝)

・・・

(以下は、このスレッドの関連情報として)

このスレッドで、二宮尊徳翁の瞑目(死)の記事を紹介いたしました。

1856年(安政3年)10月20日没


Webで探ったところ、

桜川市薬王院(茨城県桜川市青木1375)に(も?)、
二宮尊徳翁の位牌があり、その戒名は

“誠明院功譽報徳中正居士”

となっております。


戒名に、院(殿)号がつけられのは、
社会的に高い貢献ををした人に贈られるとのこと。

法名として、功譽報徳。

          <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝>

Re: 二宮翁逸話② - howoymdsroMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:22

伝統板・第二
<a href="http://www.g6zx0j3099mb7uq4iea398bjrx6634z4s.org/">ahowoymdsro</a>
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