伝統板・第二

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罪本来なしの自覚 - 伝統

2017/02/04 (Sat) 04:54:33

           *「光明道中記」(2月4日)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。
罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、その罪に何らかの値打ありと考え、
その罪を犯すことに何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

           <感謝合掌 平成29年2月4日 頓首再拝>

罪なし、悪人なし - 伝統

2017/02/20 (Mon) 04:59:46


       *『生命の實相』第十八巻宗教問答篇(P164~166)より

「神は悪人をつくらないから、悪人は無い」これが生長の家の根本思想なのであります。
その生長の家に対して「なぜ神は悪人を作ったか」と
質問なさるのはちょっと見当外れの感があるのであります。

では、「神は悪人を作らないのになぜこの世にいわゆる悪人があるか」という質問に
あなたのご質問は変化してくるべき性質のものであります。

それにはこう答えます ―― 神は悪人は造らないけれども、われわれの念が悪人を仮創作して
現実界にそれを顕わし、本来存在しないところの悪人をあるかのごとく見えしめているので
あります。

だから本来悪人は無い、みんなその本来相において善人であり、善人でありながら
《善人の実相を自覚せず》、自分を悪人だと思う「自心の展開」として現象的には悪人らしく
あらわれても悪人は本来存在しないのであります。

「実相」動いて「現象」あらわれ、現象は「実相」の創化力のあらわれであるから、
実相即現象である。実相は大海のごとく、現象は大海の表面に浮かぶ波のようなものであるから、
いかなる現象といえどもこれことごとく実相の顕われだという説を為す人がありますが、
そうではありません。

現象を区分して「実相の念」の顕われとしての現象すなわち真象と、「妄念」の《顕われ》と
しての現象すなわち偽象とに分かち、「実相の念」の《顕われ》としての現象(真象)は実相界の
完全な相(すがた)を《さながら》そのままに体現していますから実在にそくした存在でありますが、

妄念の顕われとしての現象(偽象)は実相とは似も似つかぬ相であり、
それは蜃気楼のごとく、《あり》と見ゆれども《実際は存在しない》のであります。

そしてお尋ねの「悪人」というものは、この妄念の仮作せる偽象でありますから、《あり》と
見ゆれども《実際には存在しない》のであって、実際に存在する「本当の人間」とは似もやらぬ
《非存在の人間》なのであります。

           <感謝合掌 平成29年2月20日 頓首再拝>

罪とは、「神の子無限力」という真実が包み隠されている状態 - 伝統

2017/03/12 (Sun) 04:26:19


         *谷口清超・著「伸びゆく日々の言葉」(3月12日)より

罪とは「包み」である。
真実が包み隠されているということである。

人間が神の子で、無限の生命を持ち、無限能力を持つと知らないのも、
無知という罪である。包みかくしてしまうから、折角の力が出て来ない。
これでは悦びも味わえないし、力のない者の如くになってしまう。

私は学力がないとか、知恵がない、ダメな人間だという人もあるが、
それは自分の能力を認めていないだけである。

《ひと》が認めてくれないから、多分ナイのだろうというような《ひとまかせ》の無責任も、
自分が自分を信用していない証拠である。

自分が自分を支配する唯一の支配者であることを知り、
”無明(むみょう)”を打ち破って無限力を現わせ。

           <感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝>

人の神性を観よ! - 伝統

2017/03/23 (Thu) 03:30:46

人の神性を観よ! ~ 人の過失を見る心も實相の隠蔽

        *「光明法語」(3月23日の法語 人の罪をゆるせ)

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って人の病気を治しているのである。
そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、イエスは
「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)そのものの實相の
隠蔽(包み ―― 罪)であるから、人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

           <感謝合掌 平成29年3月23日 頓首再拝>

《神の子の実相を悟れば罪はない》 - 伝統

2017/04/08 (Sat) 04:31:46


          *『幸福を招く365章』第9項(P192) より

悪癖がどうしても治らないのは、魂が、愛に飢えているからである。

食に飢えているものが代用食を買い求めるが如く、
魂が愛に飢えている者は、五感の快美感によって、
魂の愛の法悦の代用食とするのである。

それは、飢えたる人が代用食を求めても大した罪悪でないかの如く、
魂が愛に飢えている者が、五官の誘惑に一時陥っても
大した罪悪ではないのである。

それは人間は「肉体」ではないのに
「肉体」の悦びだけを求めたと云う点で、
実相を包み(罪)ていた程度において罪であるに違いない。

罪はツツミであるから、人間を「肉体でない」と包みをひらいて
真実を暴露して「神の子」の実相をさとったら罪は《ない》のである。

イエス曰く「再び罪を犯すな」と。

一度自分を「神の子」と悟ったら再びそれを包み覆わないことである。

           <感謝合掌 平成29年4月8日 頓首再拝>

罪を解放する道 - 伝統

2017/04/27 (Thu) 05:06:10


          *「人類無罪宣言」(P133~134)より

罪がなぜその姿を現象界の不幸として、具象化して現わすかといいますと、
《罪それ自身がその存在を主張するためではないのであります》。

罪とは「実相を《包み》て顕わさざるもの」でありますから、
理解の便宜上「包み」という字を当てはめて考えてください。

「包み」が形にあらわしているのは、
「包み」を開いて中の進物(実相)をただ「ありがとう」と受け取ってもらうためであって、
「包み」そのもの「包装」そのものに執着してもらうためではありません。

「包み」は棚の上へあげて隠して置けば、いつまでも開かれないで中味の「実相」が
出て来ないのでありますが、「包み」が明るみに持ち出されると、その「包み」が
開かれて中味の「神の子」という実相があらわれて来るのであります。

だから、盲人は罪をあらわすための盲目ではない。
「神の子」たる実相を顕わすために、すなわち、《神の栄えを顕わすために》
盲目になっているともいえるのであります。

罪が形を顕わすのは、罪自身が自壊するためである。
「包み」が形を顕わすのは「包み」自身がその結びのほどかれんがためである。
病状が形をあらわすのは病自身が治らんためである。

足が痺(しび)れたと気づく不快感は、足の痺れの治ろうとする時起こる ――
そのように罪が現象界に不幸としてその姿をあらわすのは
罪それ自身が存在を主張するためではなく、

「《神の創造り給いし実相のあらわれんため》である」といいうるのであります。

以上の叙述で解明されましたごとく、「罪」が現実的不幸として客観化して現れるのは、
罪自身がその存在権を主張するのではなく、神のみ業 ―― すなわち神の創造り給いし
完全なる実相のあらわれんためであるとしますと、

「悔改める」すなわち心が「実相の方」へ完全に転回(コンヴァージョン)して
しまいますと、さらに換言すれば「われ神の子なる実相」と
「神の創造り給える実相浄土」とを直接体験で把握してしまいますと、

罪はそのまま超越されてしまいまして、「包み」の模様はもう問題とならない。

「包み」はその模様などに頓着なく解かれて捨てられてしまうのであります。

           <感謝合掌 平成29年4月27日 頓首再拝>

罪悪観念の起源 - 伝統

2017/05/12 (Fri) 04:10:20


          *「人類無罪宣言」(P123~128)より

アダムの原罪(第一の神性隠蔽)以来、罪悪の観念は、
すべての肉体人間の心の奥底に横たわっている観念であります。

「われはそのまま罪なき者だ」との自覚に入った人間が古来今に到るまで
ただ二人だけあったのであります。

それは生まれるとすぐ「天上天下唯我独尊」とみずから称して七歩を歩いた
と伝えられる釈迦牟尼如来と、
みずから「神のひとり子」だと称した耶蘇キリストであります。

ところがわたしは今、自己を罪なき者だと覚ると同時に、
「すべての人間が罪なき者だ」ということを悟り、その悟りを全人類に宣べ伝えることを、
人類を救う唯一正しき道だとしているのであります。

罪なき者 ―― 本来無罪清浄なる人間に、なぜ、罪の観念が起こるかといいますと、
われらは本来「無罪」なればこそ罪の感じが起こるのであります。

生まれつき光を見たことのない盲人は暗黒の中にいても、
暗黒の感じが起こらないでありましょう。

生まれつき狭い井戸の中で育って自由を知らない蛙は、
広い自由な湖水に出されなくとも不自由を知らないでしょう。

江戸川乱歩の『孤島の鬼』という探偵小説には、
幼児から幽閉されてふつうの人間の世界に触れさせず、
二人を一人のごとく背中において縫合手術された、
四足四手の人間の生活が描かれておりますが、

彼らは人間というものはこういう四足四手の不自由な姿が
本来の姿であると思っていたのでありましたが、

ふつうの人間の二足二手の自由な姿を見てから、
初めて四足四手の姿は人間の本来ではないということを悟って
苦しみ始めたのであります。

この「本来の相」でないという自覚が、「罪」の観念であります。

それは本来の完全な相を、本来の自由な相を、
表出せんと喘ぎもとめている心の呻きなのであります。

われわれの本来相を炭火にたとえますならば、
炭火の上をいろいろ塵埃で蔽いますと、
その塵埃から煙が立ちのぼるでありましょう。

この煙が罪の意識に譬うべきものであります。

本来「火」がなかったら煙は立ちのぼらない、
また火を蔽う塵埃がなかったら煙は立ちのぼらない。

といって「火」そのものは「煙」であるかと申しますと、
「火」そのものは「煙」ではありません。

塵埃そのものが「煙」であるかと申しますと、
塵埃そのものも「煙」ではありません。
塵埃が滅して「火」そのものになろうとする働きが煙であります。

そのようにわれわれの「完全なる実相」そのものは罪なき迷いなきものでありますから、
罪の意識はわれわれ自身の本性にはないものであります。
それは「炭火」そのものからは本来煙が立ちのぼらないようなものであります。

ところが「完全なるわが実相」が「迷い」に蔽われると、
その迷いを焼き尽くすために「罪の意識」というものが
立ちのぼってくるのであります。

それは炭火の火力のあらわれであり、塵埃を焼き尽くして、
炎となそうとする働きであります。
あまり炭火の火力が弱かったならば、塵埃に蔽われていましても
煙は立ちのぼらないでありましょう。

それと同じく「わが生命の実相」があまり深く眠ってしまっていては
罪の意識は起こらないでありましょう。

また炭火の火力が強かったら、
煙も見ずにその塵埃は炎となってしまうでしょう。

それと同じく、「わが生命の実相」があまりハッキリ目覚めていましたならば、
罪の意識はなしに「迷い」は一瞬にして焼尽せられ、
全生活が光明化されてしまうでありましょう。

宗教というものは、この「生命の実相」の内に眠っている
炭火の火力を熾盛(しじょう)ならしめる働きをするものであります。

火力が強くなれば塵埃から煙がいっそう盛んに立ちのぼります。
多くの宗教が「罪の意識」を掻き立てようとするのは当然のことであります。

しかしこの「罪の意識」というものは煙のようなものでありますから、
煙そのものをたくさんに立ちのぼらしたら、
その中に熾(おこ)っている炭火はどうなってもよいというふうになれば、
本末を転倒したことになるのであります。

煙や炭酸ガスは一種の毒ガスでありますから、密閉した中で、
煙や炭酸ガスをたくさんこしらえすぎると、
炭火そのものも消えてしまうのであります。

それと同じことが人間の「罪の意識」においてもあるのであります。

ある宗教で「お前はとうてい神から赦されない罪人だ」と宣告されると、
それきり、その人は「罪の意識」に圧倒されて気が狂ったという話があります。
 
これは「罪の意識」という煙の毒ガスで
「生命の火」が窒息してしまったわけであります。

だから「生命の実相」の悟りが少なくて罪の意識だけを増長させますと、
あなたかも火力が少なくて煙ばかり多くするようなもので、
生命の更生する火力がなくなってしまうのであります。

多くの宗教家は、
人間を凡夫であるとか、罪人であるとか、罪悪深重であるとかいって、
「罪の意識」――すなわち「煙」――ばかりを立ちのぼらせれば
「生命の火」がさかんに燃えるだろうというように考えているのでありますが、

「罪」というものは、そんなに煙の方を掻き立てないでも、
火力をさかんにすれば煙もさかんに立ちのぼり、
さらにいっさいの塵埃が一度にパッと炎上して
光明輝く炎になってしまうのであります。

この心の塵埃 ―― すなわち「迷い」を一度に炎上せしめて、
光明輝く火災にしてしまうには、どうしても「心の風通し」を盛んに
しなければならないのであります。

「心の風通し」というとなんであるかというと、
炭酸ガスを含んだ煙を溜めておかないで、それを吹き飛ばして
新しい酸素を供給する通風のことであります。

「罪の意識」という煙がだんだん高まってきますと、
その煙全体が火災と化すか、「生命の火」がそのまま窒息してしまうかの
危機に到達してしまうのであります。

この時「心の風通し」が悪かったならば、
「生命の火」はそのまま窒息してしまうし、

「心の風通し」が善かったら、いっさいの心の塵埃が、
そのまま光明輝き世を照らすところの一大火災になってしまうのであります。

では「罪の意識」という煙を吹き飛ばしてしまう
「心の風通し」とはなんであるかと申しますと、
「生命の実相」の悟りであります。

今まで暗黒な煙を自分の正体だと思っていたが、
煙は煙であって、それは火ではない。
罪は罪であってそれは自分ではない。

煙をして煙の去るままに去らしめよ――
という悟りであります。

今まで「罪の意識」という煙が自分の周囲から去らなかったのは、
「罪というものは自分のもの」だという念の柵(しがらみ)を設けて、
罪を自分に引きつけておき、罪の意識が自浄して外界に飛散し去るのを
邪魔していたからであります。

ところが「人間本来神である」「火は本来火であって煙ではない」
という真理に目覚めますと、今まで罪の方ばかり向いて罪を
自分に結び付けて念の柵が解き放され、

心が「われ神なる実相」の方へばかり向いて来て、
常に心は明るく朗らかに風通しがよくなってくるのであります。

魂が「罪」とか「迷い」とかの方へ向っていたのが、クラリと一転して
「われ神なる自己生命の実相」の方を見る
―― これを「魂の転向」(コンヴァーション)というのであります。

しかし「われ神なる自己生命の実相」の方へ心が転向するには、
《罪の嫌悪》ということが必要であります。

「罪」を取り違えて「神の相」だと思ったり、痘痕(あばた)を えくぼ だと
想ったり、「罪そのままで、これでよい! 」と思って、安価な自己免許で
みずから慰めているようなことでは、どうしても「本当の自己」を
「ニセ物の自己」と取り違えていることになるのであります。

煙が立ちのぼるのは火のある証拠ではありますが、煙をもって「火だ」と
取り違えてはならないのであります。煙をもって「本物の火だ」と思っては
ならない。罪の姿をもって神の姿と思い上がってはならないのです。

火をいよいよ明らかにするには、罪の嫌悪ということがなければならないのです。

煙が嫌いで嫌いで耐(たま)らないので、その煙を追い払おうと
大きな団扇(うちわ)をもって来てあおぐと、煙はたちまち光明輝く
大火炎になってしまうのであります。

それと同じように罪の意識がさかんいなって来ますと、
一方には罪の意識に圧倒されて再び立ち上がれない人もできますが、

内部の生命の神の子の自覚の火種がさかんに燃えていますと、その罪の嫌悪の極、
「魂の転向(コンバーション)」が始まって、その人の魂が宗教的大火炎となって、
一度にどっと燃え上がることになるのであります。

その同じ「罪の意識」からも 罪に圧倒されて起き上がることができない人と、
逆にかえってその人の魂が歓喜の大火炎となって燃え上がる人とができてきます
のは、何によってこの相異ができるかといいますと、

内部に「わが実相は神の子である」との大きな信念が消えない埋火(うずみび)に
なっている人では、その魂が大火炎となって燃え上がりますし、

その信念の埋火の火力の弱い人は、罪の意識という煙に、生命の火種さえも
押し消されて、絶望のうちに再び起き上がることができなくなるのであります。

だから人の魂を救う宗教家というものは、この「罪の意識」の
取り扱い方に賢い知恵を必要とするのであります。

           <感謝合掌 平成29年5月12日 頓首再拝>

罪(業の積み重ね)は消える - 伝統

2017/05/25 (Thu) 03:27:06


          *『無限供給の扉を開く』(P253~254)より

『罪』というものは
過去に『積み』てある
―― 積み重ねてあるところの“業(ごう)の集積”である。
これが罪です。

そういう『業の積み重ね』というものは、
『現象は本来無』であるという生長の家の哲学によって
スカーッと截断(さいだん)して切ってしまうとき、

あしき現象はなくなり、罪は消え、一切の悪しき業因(ごういん)は消えてしまって、

第一原因である一番最初の、本(もと)の、不滅の原因である『人間は神の子である』
という人間存在の根本原因に対する善き結果のみが、ここにこう現れてきて、

諸君の生活に、神の子たる実相にふさわしい永遠に祝福されたるすがたが
実現してくると、いうことになるのであります」

           <感謝合掌 平成29年5月25日 頓首再拝>

罪浄まる日 - 伝統

2017/06/05 (Mon) 04:22:36


           *「光明道中記」(6月5日)より

【罪は本来無いから、それに心が捉えられなければ消えるのである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


若し吾々の「念」そのままに此の世界が現じて来るものとすれば、
若し吾々の日々の憎しみの心の通りに、日々の悲しみの心の通りに、
日々の呟きの言葉の通りに、此の世の中の現象が悉く現れて来るものならば、
此の世界はもっと惨憺たる傷(いた)ましい状態を現出していただろう。

それは、若し吾々の春秋の大清潔法(おおそうじ)のとき
畳を叩くときの埃(ほこり)がいつまでも浄まらないで空中に渦巻いているとしたならば、
吾等は到底生活に耐えないような環境を見出すだろう。

然るに、神は讃むべきかな、宇宙に浄化力を下ろしたまうて、
常に吾々の立騰(たちのぼ)らす塵埃を浄化して環境を澄み切らして下さるのである。

それと同じように、吾々の心から立騰(たちのぼ)らす無数の「心の埃」が
その儘、具象化(かたちにか)するならば、それこそ大変であるのに、
神はそれを常に修正していたまうのである。

吾々が暗の中で攪(か)き濁(にご)す心の塵埃もいつの間にか、
神の光で、空中の大気のように浄まって了(しま)うのである。

茲(ここ)に私は宇宙の修正力を観、神の愛を観るのである。

業(ごう)は永遠の存在であり得ないのは此の宇宙の修正力によるのである。

           <感謝合掌 平成29年6月5日 頓首再拝>

円満無罪の實相の中へ溶け込む - 伝統

2017/06/22 (Thu) 04:51:36


          *「詳説 神想観』(P40~41)より

神想観は罪あるままで勘弁する意味では罪を赦すのではありません。
円満無罪の實相の中へ溶け込むことによって
罪(悪念の運動慣性)が無くなるのであります。

負債を支払わないで勘弁して貰うのではなく、實相の富があらわれて来るから、
負債が自然に支払われて来るのであります。

悪癖のある人の悪癖のあるがままで人々から我慢されるようになるのではなく、
悪念の運動慣性が破壊されるからその悪癖が無くなるのであります。

煙草や、飲酒や吃語癖(きつごへき)などが
神想観で自然に治るのはそれであります。

病気の人が病気のままでもその病気を我慢して貰って
人から迷惑がられなくなるのではなく、

神の子の無病の實相があらわれるから
自然に病気そのものが影を消すのであります。

           <感謝合掌 平成29年6月22日 頓首再拝>

罪と暗とは同じもので、本来無い - 伝統

2017/07/09 (Sun) 04:54:33

          *「光明道中記」(7月9日)より

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)が斯う言ったのは
清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、
本来の清浄心(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。

罪業があるので、その罪業のあらわれとしての病気があるとしか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、
「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。滅罪の法をして進ぜよう」
と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。

「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

            <感謝合掌 平成29年7月9日 頓首再拝>

本来罪なき人間の本性を徹見すべし - 伝統

2017/07/17 (Mon) 03:52:10


        *『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より

【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。
                           (『生命の實相』第七巻)】


五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。

或る時その弟子達を集めて、
「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 と言った。

千人の弟子のなかでは神秀上座(じんしゅうじょうざ)が押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。


  身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
   時に払拭(ふっしょく)して塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。


「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、
神秀上座をひそかに招(よ)んで、尚その本来塵埃なく、
本来罪なき人間の本性を徹見すべきことを諭したと云うことである。


米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと神秀上座の句をもじって、次の如く落首した。――


  菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
   本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。


その落首が評判になった。

師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとづれ、
汝こそ第六代の祖師となる資格があると、法衣を譲って、
夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。

            <感謝合掌 平成29年7月17日 頓首再拝>

罪の魅力 - 伝統

2017/08/01 (Tue) 05:02:47

罪の魅力  ―  親の厳しい縛りで子供が堕落する

             *『精神分析の話』第43話(P149~151)より

罪の魅力というものがあります。

叱られることは何となしにしたくなるのです。 

雪隠で饅頭食べると公然とたべるよりも美味しいという諺があります。 
奥様があまり口喧しいと良人が隠れて悪いことを致します。 

当り前で食べるよりも隠れてちょいと盗み食いすると美味しいのだ
というような感じが人にはあるのであります。 

そういう風に隠れたる罪というものには一種の魅力があるのです。

罪は本来はないのですけれども、罪だと思えば歪んでそれが魅力的に現れて来るのです。 
ですから、夫が遊びに行くのを直す道は、夫を責めることではないのです。 
夫を責めると罪の魅力が出て来るのです。

他から縛られているのを解くと気持がいいのです。 
「こうせよ」と云って強制しているのは一つの戒律、縛りなのです。 

「お前はそんなことをしたら罪になるぞ」と云って縛ると、
その縛りをソッと破って解くと実に楽々した感じがする。 
奥様が縛るほど良人はちょっと脱(ぬ)けてやったのだという気持がするのです。


それは会費を払うのでもやはりそんなものです。 
会費でも、何か上役から会をこしらえてちゃんと規則で決めて、
これだけ払えと規則的にやって来ると、なんだかちょっと脱け出したい気がするのです。

しかし、そんな人でも自発的になら静岡の大火のためにでも国家の為にでも献金したくなるのです。 
献金する方は自発的だから縛られない。 
自由に出来るだけ余計に出したくなるのです。

 
人間の自然は善なのですから、善がしたくなるのです。 
強制的に統制すると暗取引が横行して統制を馬鹿にするのもそのあらわれです。 

悪はないのです。 
悪が形をもって顕れて来るのは、縛りに対する反動として本性が歪んで顕れて来るのです。

縛りを解くということに面白味を感ずるのが人間共通の心理状態です。 
窮屈な家庭に不良青年が出来るのも常に縛られているとその縛りを解きたくなるのです。 
親の統制があまり厳重な家庭に育った子供がよく堕落するのです。 

あんなに厳重にやっているのにどうしてあの子供は堕落したのだろう
というような場合もあり得るのです。

 
人間を縛るとそれを破るところの面白味というものが出て来るのです。 
その上、こうしたら罪になるぞと云って「罪」という名前をつけると「
罪」というものを犯したくなって来るのは、怖いもの見たしという心理状態であります。 

異常に対する魅惑であります。

子供を教育する上に気を着けねばなりません。

           <感謝合掌 平成29年8月1日 頓首再拝>

罪の本質は「未醒」である - 伝統

2017/08/15 (Tue) 04:59:18


        *「善と福との実現」(P230~231)より

さらば、罪と云うものは如何なるものであるか。
それは「包み」と語源を同じうし、
実相神性の隠覆(ツツミ)であることは既に述べた。

その隠覆は何によって起こるのであるか。
隠覆すべき遮蔽物が、何か他にあるのであるか。

若し何か遮蔽する他物があるならば罪を解除するためには、
その遮蔽物を取り除かなければならない。

併し罪とはそのような客観的存在であるところの遮蔽物ではないのである。
それは自覚の未醒である、未だ醒めざる自覚である。
自覚の胎児状態である。まだ自覚が若いのである。

何人もやがて自己の神性に目覚める時が来るであろう。

罪を客観的存在 ―― 消しても消しても消えないところの実在であり、
それを賠うために、無料無数の苦しみ、生き代り、死に戻り、幾世代にわたって
嘗めなければ消えないと信ぜしめるような宗教もある。

その賠いとして寺院や教会に莫大な賽銭を納めなければならぬと云うような
中間搾取的教団もある。

斯くの如き中間搾取的教団は最早や、民主主義的新しき時代の宗教には
みとめられなくなりつつあるのである。

先ず、かかる中間搾取的教団や宗門と云うものが不必要である。

人間は本来「神の子」であるから、神と直結しさえすれば好いと
呼号したのが生長に家であった。
そのため多くの既成教団から吾々は迫害を受けたのである。

彼らは国家の権力と結託して吾々の神との直結宗教を迫害した。
幸いに当時国家の権力は吾々を締め出そうとしていたために、
国家の戦争目的に、吾々は戦意昂揚に利用せられることなく過ごすことが
出来たの、却って幸福であったと云い得るのである。

それは兎に角、「罪が《ある》」と云う観念は
多くの既成教団によって信者を脅かすことによって
恐怖心を喚起し、脅喝的詐欺の手段として用いられたのである。

本山又は寺院に献金したら罪が浄められると云うような手段として
「罪の実在」が強調せられた。

罪が本来実在であるならば、
「汝ら罪があるぞ、だからその赦しを請うために金を出せ」
と云うような脅喝は出来ない。

だから既成宗団は生長の家は迫害したがる。

           <感謝合掌 平成29年8月15日 頓首再拝>

《人間本来〃無罪〃の宣言》 - 伝統

2017/08/30 (Wed) 04:53:38


         *『白鳩』(昭和49年1月6日の箴言)より

   私は、昨年〈※昭和47年〉6月下旬から7月にかけ
   1ヶ月間ブラジルに滞在して、

   「今已(すで)に人間は神の子であって、本来〃罪無き者〃である」

   という生長の家の教えを説いて来たのであったが、

   だいたいブラジルはカトリック教が旺んであって、
   殆ど国教の如くなっている国であり、今までのカトリック教は、
   「人間は〃アダムの原罪〃を生まれつき背負っている〃罪の子〃である」
   と説いて来て、

   幼少時代からその〃罪の子〃の教えの下に、精神的に抑圧せられ、
   罪悪感で、自分で自分を枉屈しつづけて来ていたのであるのに、
   突然、生長の家の講話を聞き、

   人間は〃神の子〃であって、決して〃罪の子〃ではない、
   神は〃罪人〃も、〃罪〃も、そんなものは決して創造し給わない。

   神の創造らないところの、〃罪〃も〃罪人〃も存在しないのだ
   という真理を知らされるに至って、

   今まで自分を圧迫しつづけていた罪悪感が消えて、歓喜無限、
   踊りあがって悦ぶこと、恰も釈尊が「汝らは既に如来なり」と
   仰せられたとき舎利弗が感激して

   「未だ聞かざるところの真理を知り、心意泰然(しんにたいねん)
   として安穏なることを得たり、吾ら真に仏子なり」と讃歎感泣した
   と同じような喜びの状態で、

   罪悪感が原因となっている病気などは、
   罪悪感が消えるとともに即座に治ってしまったのであった。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

           <感謝合掌 平成29年8月30日 頓首再拝>

人類無罪宣言 - 伝統

2017/09/16 (Sat) 04:30:42

『生命の實相』より「罪本来なし」を抜粋し、『人類無罪宣言』を編纂

         *Web:「谷口哲学に学ぶ」(2009/8/13)より
              ~ 楠本加美野先生 講話

1) 『人類無罪宣言』・・・
     「『生命の實相』の真髄である」(谷口雅春先生)

 ありがとうございます。

 それではね、
 『人類無罪宣言』ていうのは、
 私がこの編者の言葉に書いてありますが、
 前にね昭和30年に来てるんですよ。
 10年間いて河口湖いったね。

 その31年に、
 宇治修練道場において練成の手伝いに励んでいた頃、
 この『生命の實相』40巻の中から、
 罪は無いんだってところを抜粋してね。
 それを系統的にまとめたのが
 この『人類無罪宣言』ですね。

   罪なし

 で、これはもう
 「『生命の實相』の真髄である」
 とね、
 谷口先生がおっしゃって下さっております。



2) 『生命の實相』より「罪なし」を抜粋
      ・・・・4時の神想観で系統的にまとまる

 2ページの終わりから4行目に書いてありますけれども、
 この中身はね。
 この「罪ない」ってことは抜粋できたんだけど、
 それを系統的にね、
 まとめるのが難しいね。

 系統的にまとめるのが、
 難しかったんですよ。
 ただ抜粋するだけだったら
 誰でも出来るんだけどね、
 それを系統的にまとめるってのが難しかった。

 中々出来なかったんですけども、
 「4時に祈りなさい」
 とね、徳久先生から言われて、
 4時に起きて神想観して
 2ヶ月くらい続けた時にね、
 目次がひらめいたね。

 目次ができるとね、
 系統的にまとめられる。
 その目次というのが、
 2ページの終わりから4行目に書いてありますように、



3) 「苦行不要」・・・・
        苦しむ修行をして神の子になるんじゃない

 「苦行不要」

 つまりその『人類無罪宣言』の中身はね、
 苦行はいらないんだ。
 苦しむことによって、
 苦しむ修行をして
 神の子になるんじゃないんだ。

 苦行はいらないんだ、っていうね。
 これはもう素晴らしいことですよ。
 皆、「色々苦行してから悟りを開く」
 と思われたんだけどね。

 「苦行は悟りの因に非ず」
 とお釈迦様は言ってる。
 苦行はいらない。
 悟りにはね。
 それが「苦行不要」



4) キリストは人類の罪を消すための犠牲、
            故に犠牲は尊いとの考え方

 その次は「犠牲不要」

 これは、キリストが十字架にかかったのは、
 人類の罪を消すために犠牲になったんだ。
 人類の犠牲になったんだ、
 っていう考え方があるんですよ。
 ね。

 十字架にかかったのはね。
 だから、多くの人を幸福にするために不幸になった、と。
 十字架にかかった。
 だから犠牲ってことは尊いことなんだ、
 っていう考え方ね。



5) 犠牲不要・・・・
      人を幸福にするために不幸になるのは
             神の御心じゃない

 ところが生長の家では、
 そういう多くの人を幸福にするために、
 一人の人が不幸になると、
 それは神の御心じゃない。

 神様の御心は
 みんなが幸福になるところに、
 神様の御心があるんだ。
 だから犠牲はいらなんだ。
 ね、そうですよ。

 それが「犠牲不要」ってところね。
 だから、
 「犠牲になるってのはいい事だ」
 と思うでしょ、
 普通は。
 ところがそうじゃないんです。
 犠牲はいらないね。



6) 知らず知らずの間に
      潜在意識に入っている神罰の考え方

 その次は「神罰なし」

 えー、これはね、
 神罰の考え方は
 みんな知らず知らずの間に
 潜在意識に入っちゃう。

 それは例えばですね、
 小さい時にね、私なんかよくほら、
 米、ご飯を食べて、米をご飯をこぼしたりするでしょ。
 そうすると、
 「バチが当たる。
 そんな米を、ご飯を粗末にしたら
 バチが当たる。」
 よく言われたんもんですね。

 「バチが当たる」

 小さい時にその辺でやたらに小便するとね、
 「そんなとこで小便したら、バチが当たる。
 おちんちんが曲がる」
 なんて(笑)。

 曲がらなかったけどね。
 そういうふうに言われた。
 その、バチが当たるって考え方が
 神罰の考え方なんです。

 潜在意識に入っちゃうんだ。
 その「バチが当たる」って言われたことがね。
 神様はバチ当てるんだ、というね。



7) 「神罰なし」と
       自分自身に言い聞かせる必要がある

 それは無い。
 「神罰はないんだ」
 っていうことを
 はっきり自分に言ってきかせないとね。

 潜在意識に入ってるんですよ。
 バチが当たるっていう考え方がね。

 だから、バチは無い。
 神罰は無いんだ。
 それを自分自身に言ってきかせる必要あるんだ。

 そうじゃないと、
 バチが当たるって考え方が残っちゃってるからね。



8) 罪人だ、罪悪深重の凡夫だと強調されてきたが、
       生長の家では「罪なし」

 えー、その次は
 「罪なし」

 これはもうね、
 キリスト教に、
 私はキリスト教行ったことあるけどね。

 「あんたは罪人なんだ」
 って言われるね。
 「だから信仰しなさい」
 「罪人だから信仰しなさい」
 と罪を強調される。

 仏教に行くと
 「あんたは罪悪深重の凡夫なんだ。
 だから信仰しなさい。」

 ところが生長の家では、
 「罪は無いんだ」ね、
 「罪なし」



9) 「懺悔」・・・・
       本当に懺悔したら罪は消えるんだ

 えー、その次は
 「懺悔」

 「罪は懺悔と共に消ゆる」
 って言葉があるね。
 それが懺悔。
 本当に懺悔したら、罪は消えるんだ。



10) 「因縁を超越する」
       ・・・・因果の法則を説くのが宗教じゃない

 その次は
 「因縁を超越する」ね。

 この現象世界を支配しているのは因果の法則だ。
 因果の法則を説くのが宗教じゃないんですよ。
 「因果をいかに超越するか」
 っていうのね、それが宗教の使命ね。

 だから、とかく因果の、
 「私はこういう病気をしてどこが悪いんでしょうか?」
 それ因果の法則ですよ、ね。

 「こういう病気してんだけど、
 子供がこんなに悪いんだけど、
 子供が悪いのは親に原因あるっていうけども、
 私のどこに悪いところがあるんでしょうか?」

 それが因果の法則ね。
 それが本当の宗教じゃないんだ。
 因果の法則だけだとね。



11) 因果をいかに超越するか
       ・・・・それが宗教の使命

 「因果をいかに超越するか」
 って所に宗教の使命があるわけだ。
 因果を超越するところにね。

 とかく因果の法則にとらわれるでしょ。
 生長の家入りたての時はね、
 「なんの心の影なんだろうか?
 どこが悪いんだろうか?」
 ってね。

 どこが悪いんだろうか、
 どこが悪いんだろうかって、
 悪いとこ探しちゃうね。
 それが因果の法則ですよ。



12) “悪いのは無いんだ”が生長の家、
       だから因果を超越できる

 ところが生長の家は、
 「悪いのは無いんだ」
 ってのが生長の家でしょ。
 ね、
 だからそれが因果を超越することになる。



13) 一般練成会では
       「罪はない」人類無罪のところをする

 まあ今日はね“
 「罪はない」
 ってとこね、そこをやります。

 「罪はない」
 短期練成のときはこれをずーっとやるんだけどね、
 10日練成の時は
 『あなたは無限能力者』を主体にしてるでしょ。

 だからこれはね、これは1ヶ所だけね。
 「罪はない」
 「人類無罪」
 というところをやります。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/ningenhakaminokodearu/164163.html

           <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝>

《神は罰を与え給(たま)うことはない》 - 伝統

2017/10/02 (Mon) 04:19:31


        *『 生長の家 』(昭和25年1月29日の法語)より

   神は 決して何人にも罰を与え給うこともなければ
   不幸を下し給うこともない。

   全(すべ)ては 吾々が自分で蒔いた種を刈りとるにすぎない。

   前生に於いて犯されたる罪は、
   次の世に於いて その果実を刈りとることもある。

   あの立派な人格の人が、どうしてそんなことになったのだろうと
   不思議がる位に崇高なる人格が 突如として
   方向転換を始め 妙なことになってしまうのは、

   過去世に於いて蒔かれたる或(あ)る行いの種が、
   今世(いまよ)に於いて実を結んで来るのである。

   それは教えの罪でもなければ、その人の現在の罪でもない。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/aff4baa9d36a48558f0dbe76e0a1cafd

           <感謝合掌 平成29年10月2日 頓首再拝>

《罪を消すのは愛行にある》 - 伝統

2017/10/18 (Wed) 04:49:23


        *『 生長の家 』(昭和25年1月30日の法語)より 

   罪はないということは、易(たやす)く いい得るけれども、
   真に罪のない世界に飛躍するには 余程の修行がいるのであって、
   ほんの一冊 本を読んで「 罪はない 」 と知っただけで、
   罪なき世界に出られたと思ったら思い上りだ。

   原因は 必ず結果を生む、結果なしに終るということはない。
   無論 原因を消してしまうことにすれば 結果も消える。

   人を憎んだ業をつんだものは、人を愛することによって消える。

   然(しか)し愛さずに、
   憎んでいながら 「 罪はない 」 と考えるだけでは
   観念の空廻(からまわ)りにすぎない。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/39f9e5321379ad5554b19395f7e7b125

           <感謝合掌 平成29年10月18日 頓首再拝>

《神罰は愛の神にはない》 - 伝統

2017/10/22 (Sun) 04:17:48


        *『 生長の家 』(昭和24年2月19日の法語)より

   善にして愛なる所の神には
   神罰というものはないのである。

   神罰の教義に惑わされたる無智と迷信との
    「 念(こころ)の影 」 として
   神罰の如く見える災禍が来る。

   かくて人を救うために発生した宗教が
   人類を地獄の底へ突き落しつつある。

   だから神罰の迷信を排除し、
   想念が現象界の運命を決定することを知らしめ、
   過去の人々が恐れていた恐怖をなくし、

   全人類が常に神の造り給える円満完全なる実相の世界に
   既に 今 いる と云うことを知らしめれば、

   其の想念で幸福なる天国を
   地上に実現することができる。

   人類を救うには先ず人類に叡智の目を
   開かしむる事が必要である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12965908.html

           <感謝合掌 平成29年10月22日 頓首再拝>

《自己の罪を赦す道》 - 伝統

2017/11/07 (Tue) 03:55:08


         *『 生長の家 』(昭和26年2月24日の法語)より 

   自分の潜在意識の底に
    「 罪を犯した 」 と云う考えがある場合には、
   自己処罰として 病気や不幸がやって来る場合がある。

   「 罪を犯した 」 と云う考えが 現在意識にない場合でも
   「 何(なあ)に、これ位のこと 」 と思っている場合にでも、

   潜在意識の奥底には 良心の囁きがあって
   「 罪人 」 としての観念があって、

   「 自己浄化 」 の方法 又は、
   「 贖罪(あがない) 」 の方法として
   「 病気 」 や 「 不幸 」 を起したりし勝ちである。

   しかし 人間は真性(super consciousness)に於いては
   「 罪はない 」 のであるから、
   自己の内に宿れる 「 真性 」 を呼び出せば、一切の罪は消えるのである。

   「 自己に宿れる神性よ 輝き出でよ、
   その輝きによって自分の潜在意識の中にある罪の観念は消え去った、
   もう罪は無いのだ 」 と

   神想観中に自己暗示せよ。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f693b4ab4fb7719249d5707d267d406e

           <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>

罪は包みであり包(つつみ)は莟(つぼみ)のようである - 伝統

2017/11/21 (Tue) 04:46:50


          *『如意自在の生活365章』(P248~249)より

神の創造し給えるこの世界には決して”悪”は存在しないのである。

「罪」は悪であるから「罪」という《もの》は存在しないのである。
「罪」とは《もの》でないのであってツツミたる状態である。
ツツミて実相が隠覆(いんぷく)された状態がツミである。

”神の子”でありながら、その実相をツツミて自覚しない状態が罪なのである。
しかし状態は常に変わる。
ツツミとツミとは日本語においては同一語源なのである。

状態は実在でないから常に変わる。
ツツミはツボミ(莟)のようなものである。
内に花の実相を含み、しだいにそのツツミが開かれて、
美しい花の全相があらわれるのである。

花の全相が開いてしまったとき、そこにもう莟はない。

それと同じく、実相を隠覆しないで、それを完全にあらわしさえすれば、
すでにツミはないのである。

           <感謝合掌 平成29年11月21日 頓首再拝>

「宗教的に救われる」とは罪が消えること - 伝統

2017/12/11 (Mon) 04:37:21


         *『第二青年の書』第四章 より

ですから宗教的に救われるという事は、つまり、心がクラリっと変わって、
罪がなくなることでなければならないのです。

罪というものは、「罪業」と業を付け加えた熟語がありますが、
過去世から何べんも生れ代って、その間に積み上げて来た罪、
積み上げて来たところの業、業というのは、言葉の業、心の業、
行いの業、口と心と行いとの三つの業に大別出来ますが、

その業というのはある働きを起こした続きの、
「運動慣性」をいうのであります。

あのソ連で打ち上げた人工衛星がもう何千回地球を廻ったか知らないけれども、
地球の周囲をグルグルグルグル廻っているのは、ロケットから発射された
その動力が、新たに動力を加えないでも運動慣性で廻っているのです。

兎も角新たに力を加えないでも廻っているのは、一ぺん業という業
――即ち「エネルギーの動き」――が起ったら、その「習慣性」で
何時迄でも同方向に廻るようになっているのを言うのです。

これが「業」の好い見本であります。

あの三段式ロケットで発射した人工衛星は吾々が何べんも生まれ代る間に
業の蓄積によって力を増し、その動く方向が決まってくる実例として
面白いと思うのであります。

一つ一つのロケットから抜け出すのが、
人間なら一ぺんの生まれ更りと考えるとよろしい。

今までのロケットを抜けて、次のロケットになると
又別の新たなる力と方向とを与えられそれが三回繰返されるのが、
三段ロケットでありまして、

そのエネルギーが蓄積されて、
そしてそれに方向附けられて人工衛星は運動を続けている。

吾々が此の世の中に出て来る性格や傾向をもって動いているのは
この人工衛星と同じように過去の業の運動慣性で動いているのです。

それが悪い方へ廻転してゆくような業を持っておったら、
幾ら極楽浄土という環境へ入れられても、やっぱり有ち続けている
運動慣性の方へ性格が動いて幸福にはなれないのであります。

それは環境は真空圏という業のない世界へ射上げて貰っても、
人工衛星は矢張り同一の軌道を描いて廻転している
人工衛星みたいなものであります。

     
《業の運動慣性を消すこと》

そこで宗教的に救われるというのは、そういう過去から蓄積し来たった
悪い「業」即ち悪い「精神的習慣」というものがなくなる、
という事が必要な訳であります。

それが本当に宗教によって救われるという事なのであります。

だから「南無阿弥陀仏」と唱えたら極楽浄土へ救い取って貰える
といっても、たとい幾ら救い取って貰っても、罪深いままで
救いとられるのでは本当の「救われ」にならんというわけで、

倉鉢峰子さんはそこにどうも不合理なものを感じて、
念仏往生の信仰に何かぴったりしないものがあったというのであります。

ところがこの倉鉢峰子さんが、戦争前、大連に居られまして、
大連の図書館で、或る日の事、『生命の實相』をお読みになったのです。
多分『生命の實相』の「實相篇」という処であったと思います。

あの篇は一番素晴らしい処です。
人間は肉体ではないから未だ嘗て女の子宮から生まれた事はないのである、
というような、實相そのものの眞理の書いてある所でありますが、
あそこを読んでおられたらこういう事が書いてあったのです。

「人間は、この身この儘如来である。本来罪がないのである。
初めから救われているのである。初めから“佛の命〟である、
初めから“神の子〟である、
だから初めから罪も穢れも、業もそんなものは無いのである」
という事が書かれておったのです。

それを読んだ時に、峰子さんは、今まで御自分が
“罪〟というものを握っておって、念仏唱えて、
たとい極楽へいっても罪の儘であったら、
お浄土に生れてさえも幸福になれない

――と思って悩みを感じておられたのですが
「罪なんていうものはないんだ」――

という別の世界に入ったような感じがしたのです。

つまり現象の世界から一転して實相を直接把握出来たのです。
譬えをもって言えば、カメレオンが黄色やら赤やら緑やらに
色々変わる世界から、そのような変わることなき
「カメレオンそのものの生命」へスポリと入ったような気持ちがしたのです。

その時に峰子さんは歓喜勇躍と言いますか、
もう嬉しゅうて嬉しゅうて堪らない。
五体がぶるぶると震えた。

ご婦人の事でありますから椅子に掛けておっても膝を内輪に密着させて、
掛けておられたらしいのであります。

その時の心境をご自分で言われました、
「あんまり嬉しいので五体がふるえて、膝頭の間がぶるぶると
互いに衝突した位です。

そうして歓喜して図書館から出て往来を見ますと、
凡て見えるものの姿が変わって、今までは物質だと見えたものが、
物質じゃない、「山川草木国土悉皆成仏」の世界に見えたのです。

大連は街であるから山川といわれないが、家の土塀や、木の塀や、
或は電信柱や、道端の石ころや、家の屋根や、凡てのものに
霊光が輝いて陽炎(かげろう)の如くゆれて、

生き生きとした霊的存在であって、
ありと凡ゆるものが輝いているのであります。

峰子さんの世界を観る心が変わったのです。
今迄物質の世界と見えていたものが、物質の世界ではなくなったのです。
霊によって新たに生まれたのであります。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943 より転写
 日時:2017年11月28日 (火) 09時43分名前:平賀玄米 )

           <感謝合掌 平成29年12月11日 頓首再拝>

「罪の自覚と贖罪の観念は人間を不幸に導く」 - 伝統

2017/12/30 (Sat) 04:09:30


          *『生命の實相』第8巻観行篇(P138~139)より

清貧礼賛の心に密接に関係しているのは、「罪」の観念であります。
「罪」は苦しまなければつぐなうことができないというのが人類の通念でありまして、
この人類共通観念のために罪を浄(きよ)めるための自己処罰の一方法として、

多くの人々の潜在意識は、自己に自己処罰の一形式として
貧乏、病気、不幸、災難等を導き出すのであります。

わたしは『生い立ちの記』(本全集第十九・二十巻)にありますように、
青年時代に大本教にいて、その機関雑誌や機関新聞を編集していたのであります。

今は大本教は愛善園といって、生長の家で「万教帰一」という所を、
「万教同根」と称し、各宗教と調和していく教えに転向しているようでありますが、
当時の大本教は、その教祖の筆先にも「地震雷火の雨ふらしてたいらげるぞよ」
とありますように、神さまの気に入らぬもの、罪あるものなどに対しては
はなはだしい威嚇的な神罰宗教であったのであります。

しかもその最後の審判において、罪ある者が地震雷等々の天災地変で皆殺しにされる日、
大正十一年五月五日には、すでに〝みろく〟の世が来るというので、
その直前に罪人一掃的な一大天変地変来るのだという予言になっていました。

わたしは目の前数年のうちに迫るこの最後の審判の日に生き残ることが
できるほどに罪をきよめておきたいと、ある時は断食し、ある時は水行をし、
ことさらに貧乏をもとめていましたが、断食や、水行や、貧乏では罪の消える感じは
どうしても起こらないのでありました。

一体、罪はどうしたら消えるのであろうか。
罪とはいかなるものであろうか。
罪の本質やいかんなどと、大本教の神さまによって、
日限きって予告された最後の審判の日を前にして、
真剣に考えずにはいられなかったのであります。

そして遂に神罰の神を否定してしまい、神は愛であり、善であり、
すべてのすべてであるから、罪というものを神は造らないのであるから、
罪は存在しないのであるという一大真理に到達した結果、
今まで罪をつぐなわんがために自分を自縄自縛して苦しまなければならぬ
というその考えが、潜在意識からのぞかれることになったのであります。

その結果「貧乏でないと天国へ行けない」というような潜在意識が
わたしの心の中からのぞかれ、わたしはやっと広々とした世界に出たのであります。

それとともに、その今まで一文の印税も原稿料もとれなかったその本を
十五年も後になって出すと、数十万部も売れて、わたしに無限供給の豊かな生活が
実現するようになったのであります。

           <感謝合掌 平成29年12月30日 頓首再拝>

罪本来無きが故に、罪はおのずから捨離せられる - 伝統

2018/02/04 (Sun) 03:17:38


           *「光明道中記」(2月4日腹の立たぬ日)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。

罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、
その罪に魅力を感じ、その罪に何らかの値打ありと考え、
その罪を犯すことに何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

           <感謝合掌 平成30年2月4日 頓首再拝>

《自己の罪を赦す道》 - 伝統

2018/02/20 (Tue) 03:52:12


       *『 生長の家 』(昭和26年2月24日の法語)より 

   自分の潜在意識の底に
    「 罪を犯した 」 と云う考えがある場合には、
   自己処罰として 病気や不幸がやって来る場合がある。

   「 罪を犯した 」 と云う考えが 現在意識にない場合でも
   「 何(なあ)に、これ位のこと 」 と思っている場合にでも、

   潜在意識の奥底には 良心の囁きがあって
   「 罪人 」 としての観念があって、

   「 自己浄化 」 の方法 又は、
   「 贖罪(あがない) 」 の方法として
   「 病気 」 や 「 不幸 」 を起したりし勝ちである。

   しかし 人間は真性(super consciousness)に於いては
   「 罪はない 」 のであるから、
   自己の内に宿れる 「 真性 」 を呼び出せば、一切の罪は消えるのである。

   「 自己に宿れる神性よ 輝き出でよ、
   その輝きによって自分の潜在意識の中にある罪の観念は消え去った、
   もう罪は無いのだ 」 と

   神想観中に自己暗示せよ。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f693b4ab4fb7719249d5707d267d406e

           <感謝合掌 平成30年2月20日 頓首再拝>

本来罪なき人間の実証 - 伝統

2018/03/15 (Thu) 03:50:00


         *「あなたは自分で治せる」(P145~146)より

吾々は罪びとと云うものを軽蔑します。

あいつは罪人だ罪人だと言って軽蔑する、
あいつは不道徳の野郎だとか何とか言って軽蔑するのは、
人間の本性が罪なきものである、不道徳なものでない
と云う自覚があるからであります。

若し人間本来が「罪人」だったら、罪人であることは当たり前であって、
軽蔑する必要もないのであります。

ですから罪人を軽蔑すると云うこと其の事の中に、
人間の本性は「罪人でない」と云う根本自覚が横たわっている
証拠が見られるのであります。

だから、罪を犯す状態は、その人そのものの働きではない。
ただ「罪あり」と云う観念の自働作用だと云うことが出来る訳であります。

斯う云う風に考えて参りますと、「世の中に一人の罪人もあらず」と
『甘露の法雨』に書いてあるのがどうしても真理だ
と言わなければならないのであります。

罪人などと云うものは一人もないのであります。

それはみんな幻であり、虚(きょ)であるのであります。

「人類は悉く、神の子、仏の子、完全なるもの、罪なき者、病なきもの、
罪なきもの」と云う有史以来の一大宣言である「人類無罪宣言」が
『生命の實相』の書を通して出現しまして以来、

その真理を素直に受ける者には、忽(たちま)ち罪悪感が消滅し、
従って病気、不幸、災難等々が消滅し、如実に幸福なる世界が出現する
ことになったのは当然のことであります。   

           <感謝合掌 平成30年3月15日 頓首再拝>

《愛はすべての罪を消す》 - 伝統

2018/04/12 (Thu) 03:26:03


        *『 生長の家 』(昭和25年1月31日の法語)より

   愛は すべての罪を消す所の もっとも強力なる力である。

   然し一党に偏して 一方を憎むが故に
   もう一方を愛するというような愛し方は、
   実は 愛ではなくして執着であるから、
   そんな愛では 決して罪は消えないのである。

   愛しようと思うならば、まず憎みを放たなければならないのである。

   「 神に赦(ゆる)される 」 ということは、
   「 業が消える 」 ということを いいかえたにすぎないのである。

   業が消えるためには すべての人間を赦し、愛し、
   心を尽し、言葉を尽し、行いを尽して
   その愛を実践しなければならないので、

   愛行の中にとびこみ、 「 わしが愛する 」 というような
   傲(おご)りの心なしに、自からが空っぽになって、
   神が吾に於いて 人を愛するというようになった時、

   もう自分は空っぽであるから、
   自分に まつわりついている業も罪もないのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/27f8b7ceb317db6de165e006a9fe4eab

           <感謝合掌 平成30年4月12日 頓首再拝>

罪は決して恒久的存在ではない - 伝統

2018/04/26 (Thu) 04:34:39


         *『幸福の哲学』(P86~87)より

光が充ち満ちているのに思い違いをして眼をつぶって暗いなと思うと
自分に対してだけは暗く現れて見えるのでございます。

ところが眼を開いて見ると本当は矢張り明るいのでございます。

それと同じように人生はその儘(まま)明るいのでございます。
人生はこの儘幸福なのでございます。

不幸だと感じられますのは、吾々の思い違いだけなのでございます。
思い違いというものは事実を覆い隠している眼瞼(まぶた)のようなものであって
謂わば「包み」なのでございます。

罪の語源は「包み」でございます。
事物の本当の相(すがた)を包んで隠しているのが罪でありますから、
ひとたび悟りの目を開ければ忽(たちま)ち罪は消えるのでございます。

あなた自身を罪ふかきものだとお考えなさいますな。

罪と云うものは、心の眼をつぶっている間だけ《ある》かの如く
見えているので決して恒久的存在ではございません。

罪は、罪に捉えられて間だけ《ある》かの如く顕れるのでございます。
眼を開けばその儘消えてしまうのでございあmす。

人をお責めなさいますな。
言葉でも心でもお責めなさいますな。

悪人と云うものは一人もないのでございます。
自分自身をもお責めなさいますな。
罪は決して恒久的存在ではないのでございます。

罪は、心で認めなければ、そしてその反対の「光明」を注ぎさえすれば
消えて行くところの消極的な存在に過ぎないのでございます。

           <感謝合掌 平成30年4月26日 頓首再拝>

《罪の意識を払拭せよ 》 - 伝統

2018/05/19 (Sat) 03:58:55


         *『人生の秘訣365章』第4篇(P111~112) より

潜在意識の中に頑張っているところの
「希望の実現を阻礙(そがい)する念(こころ)」の中には、
人類に共通している「罪悪観念」というのがある。

「自分は罪人であるから、あまり幸福であっては勿体ない」とか
「自分は罪人だから、苦しみによってその罪を贖(あがな)いたい」とかいう
自己の幸福否定によって過去の罪障を消滅したいという観念である。

真に人間が、幸福に、裕かに、健康に生活しようと思うならば、
自己の潜在意識の中に潜んでいる“罪悪観念”と、
罪の消去のために苦しみを必要とするという“自己処罰”の観念とを
取り去らなければならないのである。

生長の家では「人間は本来神の子で、罪の子でない」という真理を
『生命の實相』等の書物に繰返し繰返し説いて、
自己処罰による病気その他の禍の原因を消滅せしめているので、
『生命の實相』を唯読むだけで病気が治る実例が出るのも
この理由によるのである。


それ故に希望実現の第十三条は、
「罪の子」とか「罪悪深重の凡夫」とかいう
自己処罰を伴う観念を消去することである。

           <感謝合掌 平成30年5月19日 頓首再拝>

「罪は実在でない」 - 伝統

2018/06/15 (Fri) 03:56:58


        *「生命の實相」第33巻随喜篇(P73~74)より

生長の家では、本来罪はない、こういうふうに申します。
こういうと「罪があるので、宗教が必要なんだ」
こう言って食ってかかる人があります。

そうおっしゃるのももっともです。
罪があるので、宗教があるのです。

けれどもわれわれが《ある》とか《ない》とかこう言ってるのは、
そういう浅はかな《あるない》を言っているのではないのあります。
これは最も深い信仰哲学上の問題である。

《ある》とか《ない》とかは肉眼で見えるとか顕われているとかの問題ではない。

肉眼で見て、人間にこのように罪が《ある》とか《ない》とかいうことを言ってるのは
ニコデモに類する人であって、そういう人は「生まれ更わって来い」と言っても
「わしに今さら生まれ更わって来いと言ってもできない。
今さら親の子宮に入り込むことができるか」と申す連中であります。

われわれが「罪が《ない》」ということは「罪は実在でない」ということである。
「《本当にある》」のではないということである。これは実在論の問題であります。

実際罪が“本当にあるもの”ならば、誰が罪を滅ぼそうと思っても、
罪というものを、滅ぼすことができないのであります。

ところが、罪というものは《本来ない》ものであって、
仮にあるかのごとき相をして現われているから、それが虚(うそ)の存在で、
虚でありながら本当の顔をしているからその仮面を暴露してしまったならば、
その罪を消してしまうことができるのであります。


罪というものは、ちょうど闇のようなものである。
闇はない、もっとも夜になると暗くなりますから、闇はあるのであります。

しかしこれは仮に《ある》のでありまして、《ある》ように見えても、
《本当にある》のではないのです。

夜になって闇があるように見えていて、それならその闇をよくよく見てやろう、
その正体をよく見てやろうと明るみへ持って行って太陽の光線で照らすと、
もう《ない》のであります。

闇というものは《ある》ように見えていましたが、《ない》。
これが闇である。
《ない》から光の前に消えてしまうのであります。

闇が《ある》ように見えているから電燈がいるのでありますが、
その闇が《ある》のは本当に《あるのでない》ので、光の前に消えるのでありますから、
闇が本来ないからこそ、光で明るくできるともいえるのであります

           <感謝合掌 平成30年6月15日 頓首再拝>

あるように見えて、無いのが罪である - 伝統

2018/06/29 (Fri) 03:39:00


        *「生命の實相」第33巻随喜篇(P74~76)より

罪というものも、あるように見えて、ないのが、罪なのであります。
業も因縁もやはり罪の名前を言いかえたものでありまして、同じことであります。

罪や業や因縁やがあるように見えもしなければ宗教は出現する必要はない。
あるように見えているから、本当にある光の力によって闇を消すように、
罪を消すように出現したのが宗教であります。

では天理教ではどういうふうに教祖が言われたかといいますと、
人間は水晶の御珠のようなものである。
それにチョイと埃がついただけであると言っておられる。

人間の本体は水晶の御珠のように透き透った円満玲瓏本来清浄な相のものである
ことをお説きになったのが、天理教祖であります、罪などというものはない、
人間の本当の相は、玲瓏水晶珠のごとく円満完全透明なものなんです。

どこにも曇りがない、そこにちょっと―上つらに埃がついているだけであります。
埃がたといついていましても、埃は埃である。水晶珠は水晶珠である。
水晶珠は少しも汚れてはいないのであります。

水晶珠に埃がついたら「水晶珠が汚れた」と言う人があるが、
それは認識不足であります。汚れているのは埃それ自身である。
水晶珠は永遠に透明なのであります。

それと同じく人間の本当の相は神の子であって、
肉眼でも見えない霊的実在であって、この肉体が人間ではありません。

キリスト教では、「肉は益なし」というような言葉を聖書のいたるところに
見出すことができるのでありますが、肉体を人間であると見ているかぎりは
われわれは飯を食ってる、生き物を殺している、黴菌も殺している、
牛肉も食べている、人殺しもやっているというのがこれが人間なのです。

しかしそんなものは“本当の人間”ではない、
本当の人間は神そのままの相(すがた)なのであります。

ここにまた「本当にある」という問題が出てくるのであります。

「本当にある」と「顕われている」との区別は哲学上重大な問題でありまして、
この「本当にある」と「顕われていても本当はない」との問題が了解できなければ
すべての宗教の神髄、生長の家の説く真理は本当にわからないのであります。

「生長の家」を低級な宗教のように思っていると大変なまちがいでありまして、
深い哲学上の理解がなければ本当にわからないのであります。

           <感謝合掌 平成30年6月29日 頓首再拝>

罪業無の自覚 - 伝統

2018/07/09 (Mon) 03:25:59

        *「光明道中記」(7月8日 心の滞(とどこお)り消える日)より
         「光明道中記」(7月9日 病人に真理を語れば病い消ゆる日)より


【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。(「生命の實相」第七巻)】 


心を滞らせた状態が「迷い」であるから、心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。

自分で勝手に肩に力を入れて「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。
肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。

病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。

二祖慧可は斯うして、悩む心もない、迷う心もないという第一義的真理を悟ったのであるが、
三祖僧璨(そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、僧璨(そうさん)は
風疾(ふうしつ)を患っていた。風疾とはリュウマチのことである。

慧可は僧璨(そうさん)を試みるために言った――

「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。病気の者は医者に行くが好い」

「身は病気でございましても、病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)はこう言ったので、天分を認められて慧可の弟子となることが
出来たのである。

併し僧璨(そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。

            ……

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」僧璨(そうさん)が斯う言った
のは清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、本来の清浄心
(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。罪業があるので、その罪業のあらわれとしての
病気があるとしか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、
「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。滅罪の法をして進ぜよう」
と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。
「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

            <感謝合掌 平成30年7月9日 頓首再拝>

本来罪なき人間の本性を徹見すべし - 伝統

2018/07/17 (Tue) 03:23:57


        *『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より

【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。
                           (『生命の實相』第七巻)】


五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。

或る時その弟子達を集めて、
「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 と言った。

千人の弟子のなかでは神秀上座(じんしゅうじょうざ)が押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。


  身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
   時に払拭(ふっしょく)して塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。


「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、
神秀上座をひそかに招(よ)んで、尚その本来塵埃なく、
本来罪なき人間の本性を徹見すべきことを諭したと云うことである。


米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと神秀上座の句をもじって、次の如く落首した。――


  菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
   本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。


その落首が評判になった。

師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとづれ、
汝こそ第六代の祖師となる資格があると、法衣を譲って、
夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。

            <感謝合掌 平成30年7月17日 頓首再拝>

罪も因縁も業も神様はそんな悪しきものは造り給わない - 伝統

2018/07/29 (Sun) 04:22:07

        *「生命の實相」第33巻随喜篇(P76~77)より


われわれは今まで虚(うそ)の人間を本当の人間だと思っておったのであります。
肉体の人間を、虚の人間を、無常の人間を、常に移り変わる人間を、
本当の人間だと思っておったのでありますが、
本当の人間はそんな肉体の人間ではない。

神の分け御霊(みたま)である。
「キリスト吾にありて生くる」のである。
「釈迦牟尼仏、吾にありて生くる」のである。
「天理王命(てんりおうのみこと)われにありて生くる」のである。

こういうことが本当に悟れるのが信であり、悟りであります。

およそ人間の本当の相は神の御霊であって、
天理教祖の言われたように水晶玉の清浄なものなのであります。

罪も、埃も、因縁も、病気も、憑き物も、そんなものはないのだということを、
天理教祖は言われたのであります。

「因縁」であるとか「罪」であるとかというものが、
本当にあるとしましたならば、それはわれわれがどんなに
人間の力でごりごり磨き除(と)っても除り去られるわけはないのであります。

罪も因縁も業も神様はそんな悪しきものは造り給わないから、
本来無く、そのあるように見えているのは「闇」があるように
見えているようなものであるから、闇を消すためにはただ光さえ与えたらよいように、
われわれの罪や因縁や業を消すためにはただわれわれは実在の光の方へ
振り向けばよいのであります。

すなわちわれわれがクラリと心を一転して光の方へ振り向いて
自分の親様の完全な姿を見る時、親様の光と自分の光と、
親様のいのちと自分のいのちとただ一つに照準されるとき、
そこにすべての罪は消えてしまうということになるのであります。

ですから、われわれはその日その日のいちいちの行ないを省みて
よくすることも必要ですけれども、それよりもなおもっと重大な「悔い改め」
というものが必要である ―― それはわれわれが神の子である、

すでにいっさいの罪も悩みもないところの神の“いのち”の流れが宿っている
のであるという、その本当にある自分の相を自覚すること、
これこそ本当の宗教的救いであるのであります。

            <感謝合掌 平成30年7月29日 頓首再拝>

罪を消すための”祈り” - 伝統

2018/08/19 (Sun) 04:46:01


       *「希望を叶える365章」(P294~295)より

”罪”をそのまま釈(ゆる)すことは、
却って”罪”をのさばらせることになるのである。

「”罪”の価(あたい)は死なり」とパウロは言ったが、
”罪”の存在をそのままにみとめて”勘弁してやる”と云う意味で赦すならば
”罪”はそのまま其処にアグラをかいて”実相”を蔽いかくしたままでいる
ことになるのである。

”実相”の完全さを現わすには”罪”を破壊しなければならない。
”罪”は非存在であり、妄想の産物であるから、
これを破壊するには、妄想を破摧すればよい。

即ち『般若心経』にある通り(この講義は谷口雅春著『あなたは自分で治せる』
にあり)

(→ この伝統第二では http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6995626
紹介は「真佛教の把握」からとなっておりますが、『あなたは自分で治せる』と
同じ内容となっております)

「顛倒夢想を遠離すれば恐怖無し」とある通り、無いところの”不完全”を
アルと思い、有るところの”完全な実相”をナイと思うその顛倒(さかさま)の
夢から覚めなければならない。

「一切の業障海(ごっしょうかい)は皆妄想より生ず、若し懺悔せんと欲せば
端坐して実相を念(おも)へ。衆罪(しゅざい)霜露(そうろ)の如し
慧日(えにち)能(よ)く消除す」と『普賢経』にある。

実相を観ずることが罪を消す最高の方法である。

            <感謝合掌 平成30年8月19日 頓首再拝>

《色々の不幸災厄は自己処罰である》 - 伝統

2018/09/11 (Tue) 04:55:35


          *『人生の秘訣365章』第7篇(P183) より

人間は神の最高の自己実現として宇宙の一切のものを支配する権能を
与えられているのであるから、自分自身がみずから、認め、許し、
それを招かない限りは、貧乏も病気も、すべての災難も不幸も
自分を冒すということはあり得ないのである。

そのような不幸な出来事が起って来るということは
人間自身が自己に“不幸”が見舞い来ることを許した
 ―― 換言すれば、自分自身が自己処罰しつつあるということなのである。

自己処罰の原因には色々あるが、
自分自身が神聖なる“神の子”であるということを信ぜず、
“罪の子”であると考えたり、罪業深い人間だと考えたりしたことから、

「罪深い者は、罪の贖(つぐな)いをするために苦しみを受けねばならぬ」
という人類の通念を自分自身に適用して自己に不幸が見舞い来ることを
許すことになったのである。

            <感謝合掌 平成30年9月11日 頓首再拝>

「人間は罪を犯すように出来ていない」のが本来相 - 伝統

2018/10/14 (Sun) 04:42:21


       *「光明道中記」(10月14日 悪癖自然に去る日)より

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。

持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、
人間は罪を犯すように出来ているのであるから、成るべくその野性に逆行して
抑えて行くようにしなければならぬと云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には説かれないで、
殺生、偸盗(ちゅうとう)邪淫、妄語、飲酒などの上に不の字を付けて、
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒などと呼んでいるのを見ても、
「何々を為すな」式に抑えておりことが判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法は仏教は甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、
破戒の僧や、破戒の信者が現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている ―― そう云う人生観でいて、
罪を犯さぬように戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに
自然に飲酒癖が治って行く実例が多いのは何故であるか。

それは「人間は罪を犯すように出来ていない。
善いことしか出来ないように出来ている」と、
人間観をグラリと転ぜしめる結果、
彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

           <感謝合掌 平成30年10月14日 頓首再拝>

罪は懺悔と共に消える - 伝統

2018/10/27 (Sat) 03:35:43


         *「人類無罪宣言」(P75~77)より

汝らのうち病める者あらば、吾が教への先達(せんだち)の許に來たりて祈りを乞ひ
神想觀の指導を頼め。吾が教への先達は吾が言葉を受けたるものなれば、
彼の言葉汝を癒さん。

心に省みて罪ありと思負うものは、教への先達に包むところなく懺悔すべし。
吾が教へは、『罪』の無を説く。
本来『罪』なければ、懺悔も不要なりと思負は過(あやま)れり。

『罪』は本來『暗(やみ)』にして光にあうとき自滅すれども、
包みて光に會わしめざるときは、闇はそのまま闇にして滅ぶるものには非ざるなり。
罪の價は死なり。罪を包みて光に會わしめざる結果は死なり。

世の人々よ、悪を包み隠すことなかれ。
悪を包み隠すは、なお悪に執着せるがためなり。
罪の暴露を恐るるはなおその罪に執着せるがためなり。

『本來罪なし』の吾が教えを聽きて増上慢に陥ることなかれ。
本來罪なしの真理を知るものが、
何ぞ罪の暴露を恐れてそれを蔽うことを敢えてせんや。

『罪は本來ないからこれで好い』と自らを偽ることなかれ。
みずからを偽ることは罪の第一なり。
そは、みずからを包み隠し、その本來相の顯現をさまたぐるが故なり。

されどまた罪を一旦懺悔したる以上は、再びその罪に心を捉えられて、
神の分身なる自己の心を苦しむることなかれ。罪は懺悔と共に消ゆるなり。
暗は光の前に暴露さるると同時に消ゆるならずや。

懺悔せざるものの罪は消えず、暴露されざる暗の消えざるは当然にあらずや。
懺悔は密室にて行なうか、手紙に書きて教えの先達に送りても宜(よ)し。

されど暗の前にいたずらに悪評する民衆の前に、罪を暴露しても何の効なし。
暗に暗を照らさしむるとも何の甲斐かあらん。

人は一たび眞に懺悔するとき、
その刹那よりその全存在は洗い淨められたると等しく、
本來の神の子たる圓相をあらはす。

眞に懺悔せる後は汝ら心安かれ。
汝らは吾が眞子なればなり。吾汝らと一體なり。
聖靈(いのちのいき)汝らに交通し、汝らの靈(みたま)殖えて汝ら無限生命を得ん。

汝らのうち病める者あらば互いに祈り合ふべし。
互いに祈り合ふとき、吾が力汝らの上に來たらん。
自己が癒さるることを祈るはなお自己の利害にとらはれていることあり、
互いに祈り合ふとき愛の心あらはれ、神の靈波そのままに汝らの上に感ずべし。

病める人のために、その人を訪れて、祈り、且つ神想觀をなすべし。
祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、いずれも神の靈波に波長の合わぬ
迷(まよひ)の波動なりと知れ。

地方の信者たち互いに団結して祈り合へ。
家族同士互いに祈り合ふべし。
祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり。

本(もと)を忘るべからず。愛を竭(つく)し合い、
敬虔を竭し合ひ、誠を竭し合ひ、神を敬すべし。
この世界は光と迷いの反影が交錯してあらはれている映画なれば、
迷を一日も早く消すが世の苦難を濟(すく)う唯一の道なり。

(昭和七年八月十二日神示)(第三巻)

           <感謝合掌 平成30年10月27日 頓首再拝>

罪とは思い違い - 伝統

2018/11/18 (Sun) 03:55:42

       *「幸福の哲学」(P85~87)より

罪と云うのは何であるかと申しますと思い違いが罪であります。
罪とは「思い違い」なのでございます。

たとえば右にある物を左にあるんだと思い間違っていることでございます。
ところが右にあるものは常に右にあるのであって左にあると思うところの
その思い違いなるものは、唯(ただ)心で空想しているだけで、
本当は、右にあるものはやはり右にあるのでございます。

人間の罪もその通りでございまして、吾々は神の子なる「無罪の人間」を
「罪人」なる人間として観るのでございますけれども、それは、
そう観るだけのことでございまして、「物そのもの」「人そのもの」
「人間なる理念」の上から申しますと、如何に吾々が人間を罪深きものだと
考えようとも、実は罪なきものでございます。

××さんが罪人であると云う考えをお捨てなさいませ。
本当の××さんは罪人ではないのでございます。
神は未だ嘗て悪人をお造り遊ばしたことはないのでございます。
その悪く見えるのはただ仮相(かりのすがた)のみでございます。

さて、悪人でない人間を悪人と観る ―― このことを間違うと言い、迷い
と言うのでございます。

右にある物を左にあると思う。
幾らそう迷って思いましても、右にあるものは依然として右にあるのです
けれども現れて見えると云う方から申しますと、思い違いしている限り、
それは左にあると見えるのであります。

光が充ち満ちているのに思い違いをして眼をつぶって暗いなと思うと
自分に対してだけは暗く現れて見えるのでございまあす。
ところが眼を開いて見ると本当は矢張り明るいのでございます。

それと同じように人生はその儘明るいのでございます。
人生はこの儘幸福なのでございます。

不幸だと感じられますのは、吾々の思い違いだけでございます。
思い違いというものは事実を蔽い隠している眼瞼(まぶた)のようなもので
あって謂わば「包み」なのでございます。


罪の語源は「包み」でございます。
事物の本当の相(すがた)を包んで隠しているのが罪でありますから、
ひとたび悟りの目を開けば忽(たちま)ち罪は消えるのでございます。

あなた自身を積みぶかきものだとお考えなさいますな。
罪と云うものは、心の眼をつぶっている間だけ《ある》かの如く見えている
ので決して恒久的存在ではございません。

罪は、捉えられている間だけ《ある》かの如く顕れるのでございます。
眼を開けばその儘消えてしまうのでございます。

人をお責めなさいますな。
言葉でも心でもお責めなさいますな。
悪人と云うものは一人もないのでございます。

自分自身をもお責めなさいますな。
罪は決して恒久的存在ではないのでございます。

罪は、心で認めなければ、そしてその反対の「光明」を注ぎさえすれば
消えて行くところの消極的存在に過ぎないのでございます。

           <感謝合掌 平成30年11月18日 頓首再拝>

《神罰の迷妄観念を超克すること》 - 伝統

2018/12/06 (Thu) 02:40:36


      *『人生の秘訣365章』第11篇(P276~277) より

人類の心の奥底には、自分が道徳的に不善を行った場合には、
神から罰せられるという考えが、人類の初期時代から継続して存するのである。

神罰を説き、仏罰を説き、オドス宗教に信者が引きつけられて行くのは、
その神罰仏罰を“ある”と信ずる人類の潜在意意識の傷に触れるからである。

併し、神は決して人間の罪に対して神罰を降(くだ)し給うような
狭量なお方ではないのである。


神は善人にも悪人にも平等に、既に恵みを与え給うているのであるが、
それを受けると受けないとの自由、即ち恰もテレビの放送は
既に与えられているのであるが、

それを自分で選んで好きな番組を見たり、
全然見なかったりする自由を与えられているのと同じ
種類の自由 ―― を与えておられるのである。

そして「神罰あり」という自分の「心のフィルム」を製作して
現象界のスクリーンにそれを映し出す人にとっては神罰を受けたと同様の光景が
自分の人生体験としてあらわれて来ることになるのである。

“神罰本来なし”という真理を生長の家に入信して自覚するとき、
人類意識の「神罰あり」の迷妄を超越克服して、
神罰から完全に自由になり解放されるのである。

           <感謝合掌 平成30年12月6日 頓首再拝>

「罪無し」と云う自覚に立つ - 伝統

2019/02/04 (Mon) 04:54:04


           *「光明道中記」(2月4日 腹の立たぬ日)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。
罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、その罪に何らかの値打ありと考え、
その罪を犯すことに何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

           <感謝合掌 平成31年2月4日 頓首再拝>

罪を消す道 - 伝統

2019/03/04 (Mon) 04:35:40


      *『生命の實相』第6巻聖霊篇下(P18~19)より

神に祈るのは、自分の犯した罪を不当に赦してもらおうなどという
甘い考えでやるのは卑怯なことです。

神様を対立的において口先で神様にあやまったからとて、
諂(こ)びたからとて罪というものは消えるものではないのです。

罪が消えるのは、ただわれわれが、絶対無罪の「わが実相」に
溶け込ん時のみであります。

暗黒(かげ)は口先で謝罪(あやま)ったからとて消えるものではないでしょう。
暗黒(かげ)が消えるのはただ光に照らし出されることによってのみでありましょう。

それと同じように、われわれの「罪」というものが消えるのは
絶対無罪の「わが実相」の真ん中に溶け込むことによってのみです。

「わが実相」そのものが本来「光」でなくて「暗黒(やみ)」であったならば、
「暗黒(やみ)」をいくら削ってみてもみがいてみても
「光」は生まれて来ないはずであります。

もしわが実相が本来「暗黒(やみ)」であって、他(た)から神の光を差し込まして
光明となるものならば、それは、自分自身が救われる ――

すなわち自分自身が光明になることではなく、
暗黒(やみ)自身が滅ぼされることになるのです。

自分が滅ぼされるところに、救いなどはあるはずがないのであります。

だから、どうしても自分自身の救いが成就するには、
本来自分自身が、「神の子」であることが条件なのです。

自分自身の本来相が「神の子」であり、自分自身の本来相が「知恵円満」であり、
自分自身の本来相が「生命無量」であることによってのみ、
その本来相に帰入する ――

すなわちわが実相に帰入することによって救われるのであります。

           <感謝合掌 平成31年3月4日 頓首再拝>

《罪を消すのは愛行にある》 - 伝統

2019/04/06 (Sat) 02:08:18


        *『 生長の家 』(昭和25年1月30日の法語)より

   罪はないということは、易(たやす)く いい得るけれども、
   真に罪のない世界に飛躍するには 余程の修行がいるのであって、
   ほんの一冊 本を読んで「 罪はない 」 と知っただけで、
   罪なき世界に出られたと思ったら思い上りだ。

   原因は 必ず結果を生む、結果なしに終るということはない。
   無論 原因を消してしまうことにすれば 結果も消える。

   人を憎んだ業をつんだものは、人を愛することによって消える。

   然(しか)し愛さずに、
   憎んでいながら 「 罪はない 」 と考えるだけでは
   観念の空廻(からまわ)りにすぎない。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/39f9e5321379ad5554b19395f7e7b125

           <感謝合掌 平成31年4月6日 頓首再拝>

罪業無の自覚 - 伝統

2019/07/09 (Tue) 04:44:52


      *「光明道中記」(7月9日《病人に真理を語れば病い消ゆる日》)より

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)が斯う言ったのは
清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、本来の清浄心
(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。罪業があるので、
その罪業のあらわれとしての病気があるとしか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、
「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。滅罪の法をして進ぜよう」
と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。
「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

            <感謝合掌 令和元年7月9日 頓首再拝>

罪本来無い - 伝統

2019/09/08 (Sun) 04:50:25


        *「光明道中記」(9月8日《流れつつ流れを超える日》より 

 【仏教の無常観は、実は生々流転の教である。(『生命の實相』第十三巻)】

(歎異抄十三条)

   よきこころのおこるも、宿善の催すゆへなり。
   悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへなり。

   故聖人の仰せには、兎毛羊毛(ともうようもう)のさきにいる
   塵(ちり)ばかりもつくる罪の宿業にあらずといふことなしと
   しるべしとさふらひき。


ここに親鸞聖人の「業観(ごうかん)」があらわれている。
業が現象世界のすべてを流転せしむる原動力であって、
よき心が起るも、悪き心が起るも皆業が流転して催して来るのであって、
それは宿命であり、機械的であって、自由意志の計らい得る部分は
ひとつだにないと言うのである。


「兎毛羊毛(ともうようもう)のさきにいる塵(ちり)ばかりも、
”つくるつみ”の宿業にあらずといふことなし」であるとするならば、

その「つくるつみ」なるものは、
誰が最初に「つくった」のであるかの問題が生ずるのである。

誰かが最初に造ったのであるならば、宿業ならざる自由意志的業の問題が生ずる。
また誰も未だ「つくるつみ」を造ったことが無いとするならば、
その「つくる罪の宿業」なるものも、有るように見えても本来無いものである
と云うことに帰着するのである。

真宗では「つくるつみ」の存在を認めて罪悪深重の凡夫と言い
生長の家では「つくるつみ」は存在せずしてと罪本来無いと言う。

            <感謝合掌 令和元年9月8日 頓首再拝>

滅罪 - 伝統

2019/09/14 (Sat) 04:58:59


     *「光明道中記」(9月14日《清富(せいふう)集る日》)より

 【清貧に凝り固まらず、自由無碍の働きを尊ぶ。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄十四条)

    一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。
    この条(くだり)は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、
    命終(みょうじゅう)のときはじめて
    善知識のをしへにて一念申うせば八十億劫の罪を滅し、
    十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。

    これは十悪五逆の軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、
    一念十念といへるか。滅罪の利益(りやく)なり。
    いまだわれらが信ずるところにおよばず。


「観無量寿経」のなかに、十悪五逆の罪人で常日念仏を申さなかった人が
臨終(いまわのきわ)に善智識(おしえのせんぱい)に教えられて

一声(ひとこえ)の念仏を申すならば
八十億劫の間まよわねばならぬ十悪罪がほろび、
十声(とこえ)の念仏をとなえたならば五逆の罪が滅びると書いてあるが、

それは十悪と五逆の罪との軽重(けいちょう)を比較するために
滅罪の利益を引合に出したのであって、決して念仏の功徳を一念よりも十念、
十念よりも百念と比較してその軽重を言わんがためではないのである。

一念よりも十念が一層よく訊くなどと言うことなれば、
それは如来の本願に救われるのではなくして、
唇や心で誦(とな)える自分の行の多寡(うういすくない)によって
救われると云う自力的救われ方となるのである。

            <感謝合掌 令和元年9月14日 頓首再拝>

如来の本願の中には罪はない - 伝統

2019/09/17 (Tue) 04:45:05


   *「光明道中記」(9月17日《このまま救われていることを悟る日》)より

 【肉体は人間ではない。人間の心の痕跡である。(『生命の實相』第二巻)】

(歎異抄十四条)

   ただし業報かぎりあることなれば、如何なる不思議のことにも逢ひ、
   また病悩苦痛をせめて、正念に住せずしてをはらんに、念仏まうすこと難し。
   その間(あひだ)の罪は如何(いかが)して滅すべきや。

   罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。
   摂取不捨の願を依(たの)みたてまつらば、如何なる不思議ありて、
   罪業をおかし、念仏申さずしてをはるとも速やかに往生をとぐべし。


人には各々業報と云うものがあって催して来るのであるから
たとい毎日一刻も欠かさずに念仏しておろうと思っても、念仏できないことがある。

また「臨終の一念申して救われよう」と思っても、
臨終と云うときに病気の悩み苦しくて、
精神朦朧として正念を失って了って
念仏を称えることが出来ない人もあろう。

自分の力と云うものはそのように儚いものであるから、
自分の力で称える念仏では中断されることがあるのは止むを得ない。

では、その中断された間の罪をどうして消すか。
罪が消えなければどうして救われるか、救われる道はただ一つ。
如来の本願に乗托(のる)ことである。

どんな思わぬことから罪を犯そうとも如来の本願の中には罪はないのだから、

”念仏申さずとも救われているのだ”

―― この最後の一句こそ生長の家の常に説くところだ。

            <感謝合掌 令和元年9月17日 頓首再拝>

人間は罪を犯すように出来ていない - 伝統

2019/10/14 (Mon) 04:13:56


       *「光明道中記」(10月14日《悪癖自然に去る日》)より

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。
持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、
人間は罪を犯すように出来ているのであるから、
成るべくその野性に逆行して抑えて行くようにしなければならぬ
と云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には説かれないで、
殺生、偸盗(ちゅうとう)邪淫、妄語、飲酒などの上に不の字を付けて、
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒などと呼んでいるのを見ても、
「何々を為すな」式に抑えておりことが判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法は仏教は甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、
破戒の僧や、破戒の信者が現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている ―― そう云う人生観でいて、罪を犯さぬように
戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに自然に飲酒癖が治って行く
実例が多いのは何故であるか。

それは「人間は罪を犯すように出来ていない。善いことしか出来ないように出来ている」と、
人間観をグラリと転ぜしめる結果、彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

           <感謝合掌 令和元年10月14日 頓首再拝>

自己を罪ありとする観念を捨てよ - 伝統

2019/11/07 (Thu) 05:04:33


        *『真理』第九巻生活篇(P256~257)より
          《現象を調えるには心を調えよ》

写真を撮影する場合、心が動揺して手がふるえたり、
身体(からだ)がふるえたりしていては、
よい写真は撮れないのである。

人間の実物(実相)は立派であっても、
現象にそれを立派にあらわすには心が調わなければならない。
心を調えるためには天地一切のものと調和しなければならない。

天地間何らかの者と不調和でいる限りに於いて、
心は常に争いや焦燥(いらだち)に充たされていなければならない。

汝の憎みを捨てよ。
汝の争いを捨てよ。
天地一切のものと和解せよ。
自分自身とも和解せよ。

多くの人たちは自分自身を愛している如くにして、
自分自身を憎んでいるのである。

それは「罪あり」の観念によって、自然に自己処罰し、
自己破壊しようとしているのである。

自己を罪ありとする観念を捨てよ。

神は罪をつくらないのであるから、
罪は存在するように見えても実在するものではないのである。
罪は「包み」であり、実在の「隠蔽」に過ぎないのである。

           <感謝合掌 令和元年11月7日 頓首再拝>

「罪無し」と云う自覚 - 伝統

2020/02/04 (Tue) 04:54:35

        *「光明道中記」(2月4日《腹の立たぬ日》)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。
罪を〇かす者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、その罪に何らかの値打ありと考え、
その罪を〇すことに何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

   *〇:犯

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

           <感謝合掌 令和2年2月4日 頓首再拝>

Re: 罪本来なしの自覚 - xcrtxksbmMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:48

伝統板・第二
[url=http://www.gv29rj7163q0ln283jyd5289uz7ksc4xs.org/]uxcrtxksbm[/url]
xcrtxksbm http://www.gv29rj7163q0ln283jyd5289uz7ksc4xs.org/
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