伝統板・第二
ひかりの一日一言23~正しき想念の使い方 - 伝統
2017/02/01 (Wed) 05:01:12
ひかりの一日一言《1日》
《1日 想念は”力”である》
わたし達が先ず気がつかなければならないことは
想念は“力”であるということなのです。
単に“力”であるばかりでなく、
運動の方向づけをする知性ある“力”だと云うことなのです。
あなたは度々(たびたび)この事をわたしの著書の中できかされたにちがいありません。
しかも実際この原理を生活に応用しているかというと、必ずしもそうではありません。
あなた達は実際、自分の欲せざる事を心の中に想念することがあります。
事物の暗黒面を考えることがあります。
何か自分の希望しない方向に事物が進んで行きはしないかと考えて恐怖することがあります。
この考えることが想念でありまして、暗黒を考えるがゆえに、その想念の力で、
事物の進行を暗黒の方へ方向づけることになるのであります。
想念が力であると云うことは、催眠術の実験に於いて「右手はあがる」と
想うだけで「右手が上がる」事実からも証明できます。
「右手を上げよう」と欲しても、「この手は上がらぬ」と想念すれば上がらぬのです。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P24~25) より
・・・
(1)ひかりの一日一言①~⑫ については、次のスレッドの「2016/04/30」に
投稿した記事に表示されているWebアドレスにて確認できます。
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(2)ひかりの一日一言⑬~⑲ については、次のスレッドとそのスレッド内
の「2016/10/01」に投稿した記事に表示されているWebアドレスにて
確認できます。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7021791
(3)ひかりの一日一言⑳ については、次のスレッドで確認できます。
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(4)ひかりの一日一言21 については、次のスレッドで確認できます。
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(5)ひかりの一日一言22 については、次のスレッドで確認できます。
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<感謝合掌 平成29年2月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2017/02/02 (Thu) 04:28:01
《2日 事物の状態は心により決定される》
私たちをとりまいている一切の現象界の事物は何一つとして、
其の本源を心に発しないものはないのです。
先ず最初に漠然と何かしたい感情が起こります。
つぎにそれがハッキリした想念となり、想念は意欲をおこし、
想念と合した意欲は行動化して、想念した方向に素材を動かし排列します。
それは飛行機その他、あらゆる種類の機械の製作にも、
大建築物の建造にも同じであります。
こんなことは誰にも分かりやすいことですが、事業の繁栄の問題や、
人間の運命の問題や、食物の成分が肉体的にいかに並べられて
健不健の肉体を構成するかという問題になると、
自分の想念がその構成の状態を方向づけるものだということを忘れて、
すぐ暗い方向にものを考えたり、もっと病気が悪くなりはしないかと考えたり、
老衰したりしないかと考えたりし勝ちなのです。
もっと明るい方向へ、元気溌剌たる方向へ、自分の心を向けましょう。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P25) より
<感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2017/02/03 (Fri) 04:47:11
《3日 無限の力を引き出すには》
すべて個々の生物の生命は、宇宙普遍の生命の一部分であり、
個々の生命の形態は、宇宙普遍の生命の現われであることは、
下等生物から高等生物に至るまで、その構造の上に一貫した進歩的序列があり、
一貫した部分品の配列方法(幹があり、枝があり、中心があり肢体があるなどのこと)が
あることによって明らかです。
だからすべての人間の生命は宇宙の生命の一部分であり、
したがって、宇宙無限の知恵に私たちの知恵はつながっているのです。
天体の成分や運行の法則を知る智慧が人間にあるのも、天体をつくり出し
それを運行せしめている宇宙の智慧が人間に宿っているからなのです。
それを自覚すると否とによって宇宙の智慧を自分に引出し得る程度が異なってくるのです。
銀行の預金が自分につながることを知らないようなことでは、
預金を引出すことはできないのです。
先ず自分が神の無限につながる事とを自覚して、神の力を引出すことができるのです。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P26) より
<感謝合掌 平成29年2月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2017/02/04 (Sat) 04:42:54
《4日 環境・運命は新陳代謝いたします》
神はその想念をもって宇宙の大体をつくり”神の子”なる人間を造って
万物の霊長として、人間自身の自由意思と自由想念とその行動化によって
人間自身の環境と運命をつくるようにせられたのです。
それが人間の宿命(さだめ)であり同時に自由なのです。
こうして人間は自分で造った環境と運命の中に生活するのです。
そして私達は「類は朋(とも)を呼ぶ」という「類似の波長の牽引の法則」によって、
次から次へと自分の環境と運命の状態を新陳代謝せしめつつあるのです。
自分の想念感情と類似のものを新たに吸引しつつ、
常に環境も運命も新陳代謝するものでありますから、
現在如何なる環境に置かれていようとも、悲観することはないのです。
自分の想念感情を交替せしめることによって、自分の環境・運命も交替せしめ得ます。
常に明るい事を思うように致しましょう。
常に深切な思いを起こすように致しましよう。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P26~27) より
<感謝合掌 平成29年2月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2017/02/05 (Sun) 04:03:33
《5日 私達は人類の想念の中に住む》
私たちは、ラジオの放送波の中に住んでいます。
それと同じように人間精神の中に住んでいるのも事実です。
人間が何か感情や想念の波を起こします。
それは電気的には脳波を起こします。
その波は単に弱電流となって神経組織の中を交流し、
内臓を動かしたり筋肉を収縮せしめたりするだけでなく、
それは精神波動となって宇宙至るところに放送されており、
私たちの周囲には無数の想念感情の放送が充満しているのです。
その放送波を感受し得るからこそ、私たちは“虫の知らせ”が本当であったり、
第一印象が的中したりするのです。
時には遠方にいる近親者が遭難したような場合に、
その光景をアリアリと夢に見ることもあるのです。
私たちは斯うして色々の精神波動を受信します。
突然脳裏にひらめいて来るよきインスピレーションなどは
高き霊界からの精神波動の感受であることもあります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P27~28) より
<感謝合掌 平成29年2月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2017/02/06 (Mon) 04:36:14
《6日 神想観の時の注意》
漠然と無意識・無想念のようなボンヤリとした想念の状態に於ては、
それは放送された精神波動に対して選波作用(どの波長を選ぶかのハタラキ)
がありませんから、浮動する出鱈目の精神波動を感受してそれによって動かされます。
それでは其の人は目的の定まらぬ気の変わり易い浮浪者になってしまいます。
従って、神想観をするときには無意識をするときには無意識、
無想念になって、何も考えなくなるのは良くありません。
必ず実相円満の完全なる世界像と人間像とを心に描いて、
それに精神を集中するようにしなければなりません。
すると、実相界の完全なる波動が自分の「人間受信機」に受信され感応されて、
そこに現実界にも幸福なる完全なる有様が現れて来るようになるのであります。
ハッキリと自分の欲する状態を心で選び取らねばなりません。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P28) より
<感謝合掌 平成29年2月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2017/02/07 (Tue) 04:38:45
《7日 神からの無限の供給》
神からの無限供給と云うものは単なる富の無限の堆積ではないのである。
若し世界の富の無限の堆積を私自身に背負わされたならば、
私は完全に押しつぶされてしまうだろう。
神からの富の無限供給と云うものは必要な供給が必要に従って可不及なく湧き出てくる
泉のようなものであり、用の済んだ水は流れ去るのである。
だから若しその人が真に神の無限供給を悟るならば、
過剰の富を蓄積して置こうというような愚かな貪欲はなくなってしまうのである。
必要なものが必要に従って神から与えられるのに、
必要で無い時に必要で無いものを蓄積してその管理に心や身体を煩わす必要はないのである。
実際真理を悟ならば「自分に内在する神」が「普遍の神」と眼に見えない世界で交流しており、
普遍的富を必要に応じて「自分に内在する神」が不可視の交流網を通じて
引き寄せて下さるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P29) より
<感謝合掌 平成29年2月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2017/02/08 (Wed) 03:33:52
《8日 先ず神の国と神の義を求めよ》
「先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」と
キリストは教えたのである。
そして「神の国とは汝の内にあり」と注釈したもうているのである。
先ず自分の内にある「神」と「神の国」とを知らなければならないのである。
多くの間違った人々の宗教的信仰とゆうものは、外にある神を頼って、
「内にある神」を知らず、依頼心を起こして、神に泣き付くことを以て祈りであると
誤解していたのである。
「自分の内に在る神」を忘れて「外にある神」に泣きつくような卑怯なことを、
神は決して悦び給わないのである。
「内にある神」とは「内なる生命力」であり「内なる智慧」であり「内なる愛」である。
自分の内にある生命力と智慧と愛とを充分認識してそれを働きだすことが、
「先ず神の国を求める」ことであり、それを「神の国の義(秩序)において実践することが
「神の義」を求めることである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P29~30) より
<感謝合掌 平成29年2月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2017/02/09 (Thu) 04:36:56
《9日 本当に人間が成功する要素は》
すべての人間の内には、それを働かせば富となり、必需品の供給となるところの
「愛」と「生命」と「知恵」とが宿っているのである。
誰かがもし富んでいなかったならば、みずから顧みて、
「自分は果して愛を充分はたらかしただろうか」と反省するがよい。
また「自分は十分知恵をはたらかして行き届いて計画したか、単に人まかせにしておいたか」
を反省してみるがよい。
また自分は「生命(いのち)の限りをつくしてそれに従事したか」と反省するがよい。
あらゆることに愛がたらず、行き届いた考慮をせず、計画を緻密にせず、
根かぎり働くことをせず、人か神か誰かが多分よいようにやってくれているであろうと
甘い考えをもつということは、「自己内在の神」をおろそかにすることである。
自分自身を軽んじ、自分を拝まず、自分の尊厳を知らないことである。
そんな人が成功するはずがない。
富は単に蓄積するばかりに用いてはならないのである。
富は自分の能力を殖やし、知識を増進し、愛を実践するために、
自分に使い切れない部分の富を、人類を光明化し救済するために使うべきである。
イザと云うときにと思って蓄積したところの富は、
実際にイザと云うときが来て、消費してしまうように成り勝ちである。
何故(なぜ)なら「イザと云う出来事」を予想する心は、
「イザと云う出来事」を引き寄せる磁石的な力となるからである。
真に自分の能力が以前よりも増大し、知識が増し、
そしてそんな人物が以前にもまして深切に行届いた愛を実践する場合に、
以前よりも物質的収入が減少するという筈(はず)は断じてあり得ないのであるから、
将来の収入減少や、やがて来(きた)る老衰や病気の治療費のために、
富を蓄積して置くなどと云うことは愚かなことである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P30~31) より
<感謝合掌 平成29年2月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2017/02/10 (Fri) 03:21:20
《10日 古き物から新しき物へと移るとき》
多くの人たちは古きものにあまりにも郷愁を感じ過ぎて、
それに固着しているがゆえに進歩はないのである。
新しき更(さら)にすぐれたる方法が発見されれば、
古きものへの郷愁はかなぐり捨てて、
その更にすぐれたる方向へ転向する勇気を持たなければならない。
さらばと云って、むやみに気が変り易いのでも困ったものである。
過去のものを弊履(へいり)の如くぬぎ捨てて、
それが与えてくれた恩恵に少しも感謝しないようなものは
また栄えることができないのである。
新しき物へ移るのは、単に気紛れや便利主義や移り気でやるのではいけないのである。
よく新しき物の組織や構造や能率や長所を検討してみた上で、
”なるほど、この方があらゆる方向において優秀である“とハッキリ見定めてから、
それを利用する場合の”経済的基礎“とにらみ合わせて、新しき物へ移るべきが順序である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P31~32) より
<感謝合掌 平成29年2月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2017/02/11 (Sat) 04:35:00
《11日 神の意志は古き残骸を越えて進む》
人生にも春夏秋冬があるので、人間の生き甲斐が感じられるのである。
春に美しく芽ぐんだ新緑が美しかったからといって、春の葉を冬になっても
捨てないでいたならば新たに来る春の美しい装いは得られないのである。
夏秋を通して古いものが使いちびてくれればこそ、
次の春に芽ぐんでくる新緑の美しさが目立って感じられるのである。
それと同じように古きものが滅びることを嘆いてはならないのである。
生長の家でも戦災で赤坂の道場が焼けたればこそ、
今、原宿に美術建築としての宏壮な生長の家本部の建物が建っているのである。
私は広島の市街が東京都以上に幅員の広い大通りにできているのを見て
おどろいたことがある。
新しきものは過去の残骸を踏み越えて進み行くのである。
それが神のご意志である。
しかし大きくのびるためには、
時として縮小して、力を内に蓄えなければならない時もある。
時として、樹木がそのすべての葉を落してしまうように自壊作用が起こるのを
防ぐことができない時もある。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P32~33) より
<感謝合掌 平成29年2月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2017/02/12 (Sun) 04:23:44
《12日 先ず神の国を求めるとは? 》
すべての生命力と智慧と愛とを退蔵することなく、それを百%今日使いつくすがよいのである。
翌日はもっと新しき生命力と智慧と愛がこんこんと湧き出てくるであろう。
すべてのものの豊かななる供給が神の意志であるから、水垢をためて置くように、
何らかの停滞物で神からの供給を遮断しない限りは、また次の日には一層新しき
生命力と智慧と愛とが前よりもゆたかに流れ入ってくるのである。
神を知ること、神の意志を知ること、神の意志を実践に移すこと、
神とつながる方法を知って、それを実行すること、神は無限であるから、
神と正しく結ばれるならば、無限が流れ入って来て吾らの力は決して尽きないのである。
神は完全であるから神と正しくむすばれるとき、
すべての自分の身辺の出来事が必ず完全に運行するようになる。
これを知るのが「先ず神の国を求めること」になるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P33~34) より
<感謝合掌 平成29年2月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2017/02/13 (Mon) 04:34:51
《13日 神と一体になって仕事をするには》
神と正しく結ばれるならば、その結果は素晴らしいと云うことは理解できたが、
神と正しく結ばれるにはどうしたらよいかと云うことを知らなければならない。
その方法は最も簡単であるし、度々(たびたび)各所で私は書いて来たのであるけれども、
あまり簡単すぎて実行することを直(す)ぐ忘れている人が多いのである。
それは「智慧の言葉」にある通り、
「道を歩いている時にも、机に向かっている時にも、
今如来が、神の子が、歩いている、
今如来が、神の子が、机に向かっている」
と念ずることである。
仕事をする時にも、
「肉体の私が仕事をするのではない、如来がするのである。
神の子が仕事をするのである」
と念じてから仕事をするのである。
自分のはからい心を洗い去って、
神の智慧と愛とが其処に出て仕事をするのである。
その時、疲れる事もなく、あせる事もなく、
自然に流れる智慧が湧いて仕事が順調に進むのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P34) より
<感謝合掌 平成29年2月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2017/02/14 (Tue) 04:26:20
《14日 実相の聖なる秩序に調和すること》
私たちの生活に色々の摩擦や、問題や、病気や、苦痛や、悩みが出て来るのは、
私たちの心の持方が“実相の聖なる秩序”に調和した生活を送っていないからであります。
私たちの心の持ち方が“実相の聖なる秩序”に調和しない限り、
一つの問題を解決したら次の問題がまた出て来、
一つの病気が去ったら次の病気があらわれて来るでしょう。
それは急流を逆に遡って航するようなもので、少し上ったかと思うと押し流され、
少し漕いだと思うと岩に激突して結局はその船が壊(くだ)けてしまうのです。
私たちは神の御心の流れに沿って船をやらねばなりませんし、
実相の波のうねりにうまく乗って船をやらねばなりません。
神の御心に沿い実相の聖なる秩序の波に乗るとき、
人生は坦々たるアスファルト道路を高級車で走るよりも滑らかになり、
一切の事物が調和した状態にあらわれて来るのです。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P34~35) より
<感謝合掌 平成29年2月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2017/02/15 (Wed) 04:21:17
《15日 先ず、神の声をきかなければならぬ》
物質を先に求めてはならない。
物質は心の影である。
心を先に求めてはならない。
心は霊の道具であり、霊的事物が現象化して来るための媒介となるために
「霊」がつくった道具に過ぎないからである。
先ずず「霊」の声をきかなければならない。
「霊」は神である。
私たちは神の声をきかなければならない。
心がそれを欲するからとて、みだりに心の満足を求めてはならない。
心にはいろいろの段階がある。
肉体の要求を代表する心もあれば、霊が自己実現を要求する声としての心もある。
無数の「ニセモノ」の心や「迷いの心」が波動して来たのが、
自分の脳髄受信機に感応してあたかも自分自身の心がそれを求めているかの如き
錯覚を起こすこともある。
そんな迷いの心をイエスはサタンと呼んだのである。
そんなときには「サタンよ去れ!!」とイエスと同じように一喝して、
迷妄から覚めなければならない。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P35~36) より
<感謝合掌 平成29年2月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2017/02/16 (Thu) 04:45:50
《16日 先ず、神を先ず求めよ、然らば……》
神の声を聴くには、“物質的要求”を神の前に差し出して、
「これを得るにはどうしたら宜しいか」と念ずるのでは、
神を先にせず、物質を先にしているから、物事必ず逆転するのである。
一切の物質的な要求をも、心の要求をも悉く放下し去って、ただ空淡々たる心になり切り、
“神と私とは一体である。私は私の全部を神に放(な)げ出したのである。
神よ、み心の如くならしめ給え”と念じなければならない。
これが「先ず神の国と神の義とを求める」ことであり、
「その余のものは汝らに加えらる」(聖書)のである。
物質は先ず神の前にその優位を譲らなければならないのである。
その時、神の霊的供給が却って物質化して、ゆたかにあらわれて来るのである。
こうして物質は自然にゆたかに成るべきであり、
物質はその優位を譲らなければならぬと云っても決して禁欲主義になれと云う事ではない。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P36) より
<感謝合掌 平成29年2月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2017/02/17 (Fri) 04:19:25
《17日 腹を立ててはならぬ》
「人を呪わば穴二つ」という諺がある。
人の墓穴を掘ることは、また自分自身の墓穴を掘ることになっていることである。
人に対して「腹を立て」たら、必ず自分自身を害するのである。
腹を立てたときには、自分の気持ちが悪いでしょう。
それは血液の中に毒素ができたからです。
腹を立てることによって、自分の病気の因(もと)を作り、老衰の原因となる。
血液の中にできる毒素が度重なるからである。
そんなに病気までして、老衰までして腹を立てねばならないでしょうか。
立腹は肉体に害があるばかりでなく、あなたのもっとも大切な魂がそれだけ傷つくのです。
この方が一層大切です。
しかし、心で腹が立ってこらえているのではだめです。
愛を注ぐことによって自然腹の立たぬのが最もよい。
憎むことによって、最も苦しむのは自分自身である。
正しくないものを憎むことは決して正義を回復することにはならないのである。
相手の暗黒面を考え、自分の心を暗くすることによって、
得るところのものは結局、相手を傷つけ、自分を傷つけるだけである。
相手を傷つけ、自分を傷つけることによって、どこに正義があろうか。
憎しみ、怒り、嫉妬、悪口、私行暴露などは、結局、相手を「傷つける念」であるから、
それを自分の心の中に起こすことによって、自分自身が傷つくのである。
誰かが悪をなしたからと云って、自分自身を傷つけ、
苦しめ、病いや老衰の因を作る必要はないのである。
寧(むし)ろ吾々は人の悪に対して、それを消すだけの愛を注ぐべきである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P37~38) より
<感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2017/02/18 (Sat) 04:38:17
《18日 相手を善くするには斯うせよ》
「あいつは悪い、あいつは悪い」と念ずることは、その思念の力によって、
相手の人を益々悪くならせることになるのである。
念ずれば念ずれば念ずる通りに現れるのが心の法則であるからである。
正義によって憤るとゆうことは、「彼は間違っているから、善くしてやりたい」
とゆう希望から成されるのであるから、「彼は本来あんな悪いことをする人間でない。
善い人間である、善い人間である。だから今後は善い事ばかりする」と念じてやるべきである。
彼をよくしてやるのは、説教でなく愛である。
愛とは彼の弱点を憐れんで、舐めるように可愛がることではない。
どんなに不完全に見えようとも、
その奥にある「善」なるものを見出してそれを尊び拝んでやることである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P38) より
<感謝合掌 平成29年2月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2017/02/19 (Sun) 04:06:05
《19日 相手の姿を神愛の表現として拝め》
自分の周囲にあらわれる状態は、すべて自分の想念(こころ)の影なのであるから、
周囲の状態をよくしようと思うならば自分自身の想念をよくするほかに道はないのである。
若しあなたが誰かが不快なことをしたら、それは貴方の性格を強くし、
どんな現象に接しても其の奥にある善を見る力を養い、
愛を深くするために神が与え給うた絶好の機会であるとして、
相手の人の美点を見るように練習するがよいのである。
神の愛が、相手の姿とあらわれて私を訓練し、高め上げ、磨いて下さるのであると信じ、
相手を「酷い」とか「意地悪」であるとか考えないで、
相手を慈悲の権化、神愛の化身として「ありがとうございます」と拝むとき、
相手が真に神愛の表現として優しき姿にあらわれて来るのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P38~39) より
<感謝合掌 平成29年2月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2017/02/20 (Mon) 04:39:40
《20日 人間の自由と神護について》
神は決して、人間の健康を、幸福を単なる偶然の災害の手でこわされるような
危険な状態に置いてはいられないのである。
常に全能の御手をもって護っていられるのであるが、
人間は自由を欲して、神の御手を離れて《ひとり》歩きしようとするのである。
其の場合、神は強いて人間をご自分の愛の手で
強制して安全地帯のみを歩かせようとせられることはないのである。
何故(なぜ)なら安全地帯のみを歩かせているのでは、色々の場面でいかに処理して好いのか、
内部の智慧も引出されて来ないからである。
だから自由を欲する人間には自由にしておいて、自分の智慧と生命力とを鍛錬したまい、
いざと云うときに、その引出された智慧や生命力だけではとても解決出来ないと、
人間が自由意志で神に振向いたときに神の直接干渉が加わるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P39~40) より
<感謝合掌 平成29年2月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2017/02/21 (Tue) 03:24:29
《21日 睡眠中にも霊魂は眠らない》
私達の睡眠中は、眠っているのは肉体だけで、霊魂は眠ってはいないのである。
睡眠中の脳髄も最近の脳波の研究では自動的にある働きをしているのだが、
それを操縦する「霊魂」そのものが霊界又は幽界に出遊しているので、
肉体の側の脳波は、支離滅裂な記憶の変形や複合で自働しているに過ぎないのである。
睡眠と云うものは、霊魂が肉体脳髄をしばらく使わないで、
肉体の自動的調整で消耗個所が回復するような仕組みになっているのである。
だから、自動的にもどけて来る記憶などが、夢の現象とあらわれて来るのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P40) より
<感謝合掌 平成29年2月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2017/02/22 (Wed) 04:16:55
《22日 肉体を霊的目的に使いましょう》
私たちの肉体は肉体そのものために存在するのでなく、
一層高き自我の一層高き目的のために奉仕するためにつくられているのである。
肉体を霊的目的に使用すればするほど肉体はそれに適するようになり、
霊の啓示に鋭敏に感応するようになるのである。
従って皮膚なども肌理(きめ)こまかくなり、清純な、繊細な感じがあらわれて来る
ようになり、体臭なども何となく、香を焚(た)きしめたような馥郁(ふくいく)とした
匂いをもつようになるものである。
そして神想観のとき、又は眠りしなに、自分の知りたいことを教えてもらうように
内在の霊にむかって願って置けば、目覚めた瞬間又は、必要に応じたときに、
自分の知りたいことを知らせてくれる啓示に接することができるようになるものである。
目覚めた瞬間は、脳髄が自働的調整を終って元に復しているので
霊の啓示を印象しやすいのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P40~41) より
<感謝合掌 平成29年2月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2017/02/23 (Thu) 04:28:54
《23日 肉体の浄化に就いて》
私達の肉体が霊化するに従って、動物食や、アルコール飲料や、煙草や、甘味料や、
性的刺激を与えるものなど、肉体の低次の面を刺激する欲望が次第に減じて来るのである。
そして肉体の組織が霊妙になって来るに従い、カロリーの浪費も少なくなり、
肉体が霊的に働いてもエネルギーの消耗は極くわずかとなるから、食糧も次第に少量となり、
脳髄の調整に必要な睡眠も極くわずかですむようになり、しかも却って疲労感が少なくなる。
こうして肉体が浄化されるにつれて、今度は浄化された肉体が霊をして働きやすくならしめ、
霊魂の向上に貢献することできるようになる。
だから、肉体の霊化するのを待たずに、肉体の方から進んで動物食や、酒類や、煙草や、
甘味料や、性的刺激物を遠ざけるように努力すると、その努力によって肉体は普通よりも
一層早く霊化して霊魂の向上に役立つようになるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P41~42) より
<感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2017/02/24 (Fri) 04:04:12
《24日 愛は空(むな)しくはならない》
想念は力であり、想念する事物と同じ傾向、または種類のものを受信し、
牽引するものであることは精神科学では公認された法則となっているのである。
あなたの心のタイプを自己反省して御覧(ごらん)なさい。
誰かがあなたに対して過ちをした場合、あなたはカンカンに憤って怒鳴り散らすでしょうか。
若しそうならば、あなたは非常に攻撃精神の鋭い人です。
では又、あなたは非常に他から攻撃される性質をもっているのです。
これをイエスは「汝ら人を審くこと勿れ。己が審きたる量にて汝も審かれん」と
教えているのです。
あなたが寛大な人であるならば、世間もあなたに対して寛大であるでしょう。
あなたが人に対して愛深ければ、人もあなたに対して愛深いでありましょう。
あなたが或る人に注いだ愛は、その人からは報いられない場合には、
必ず他の人から復(かえ)って来るものであります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P42) より
<感謝合掌 平成29年2月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2017/02/25 (Sat) 04:13:24
《25日 あなたの想念の力を練習なさい》
あなたが想念の力を覚えて、それを使用するに従って、
あなたの想念の力は段々強くなってきます。
あなたの有するどんな力でも練習と努力とによって大いに力を増すことができるのです。
想念の力が如何なるものであるかについて、
先ず手近かなところから実験して御覧になるが宜しい。
それには、若し、家族が感冒(かぜ)を引いた場合などに、
静かにその枕頭に坐して、合掌し(或はその前額部に掌を軽くつけて、
想念の有線伝導のような気持ちになるのも宜しい)
そして次の如く念ずるのです。
「神よ、我を媒介として神の無限の癒すちからを、此(この)○○氏に流し入らし給え」
こう祈ってから、○○氏の額に触れていない方の掌(てのひら)を高く天にかかげ
その掌から神の癒やす力が流れ入り、それが自分の全身を流れて○○氏の額に触れている掌に
伝わり、その掌から患者の全身に神の癒やす力が流れ入り、○○氏の全身に神の癒やす力が
光輝く状態で充ち満ちている有様を観ずるのです。
(念じ方の詳しい事については別箸『神癒への道』参照)
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P43) より
<感謝合掌 平成29年2月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2017/02/26 (Sun) 04:31:39
《26日 信念の力で健康を堅持せよ》
無闇に医薬に頼ってはなりません。
薬剤は効果ある薬剤であればある程副作用も強いのです。
「薬剤は一つの病気を排斥するために、もう一つの病気を拵える」
という西洋の諺がありますが、
この事は、ペニシリンのショック死や、抗生物質を使用して細菌を滅してしまえば
菌交代現象が起って黴(かび)が人類に寄生して困ることがある事実で
最近再認識されました。
病菌を殺す力がある程の薬ならば人体細胞を何らかの程度に傷つけたり、
生命自体の調節力に異状を与えることは当然のことです。
だから特効薬のない場合素人が薬を濫用するのは慎むべき事です。
薬剤に頼る習慣を厭うもうひとつの理由は、物に頼り過ぎると、
自分自身の力が発達せぬからです。
杖をつく中風患者は全治しにくいし、
親の財産に頼っている息子は、独立に生計する力が湧いて来ません。
薬剤に頼りすぎている人は自分の健康力があまり発揮されぬものです。
常に薬剤に頼らない南洋の土人などは、どんな病気でも歯磨粉で治るそうです。
歯磨粉を処方してどんな病気も治る南洋の土人のような実例は、
これは物質がきくのではなく、物質を媒介としても其の人の心に与えられた
「これで治る」と云う暗示で効くのである。
昭和31年12月号の『リーダーズ・ダイジェスト』誌に、
この種の替玉薬が病院に於ける集団実験で文明人の場合に用いてさえも、
本物の薬剤が60%余の治効のあるものなら、単に乳頭や澱粉をかためた替玉薬でも
40%余の治効が実際あったことが発表されていました。
替玉薬が効くのは物質そのものの化学的作用によるのではなく、
心の力によるのでありますから、
医師から薬剤を貰って治る場合、その約40%は薬剤のそのものの力によらず、
心の力によって治っていると言ってもよいのであります。
一旦かかった病気が心の力によって此れ程治る位ならば、
心に「我れ神の子也、病なし」の信念を最初から堅くもてば病気に罹らぬのも
無理はないのであります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P43~45) より
<感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2017/02/27 (Mon) 03:34:29
《27日 精神の進歩も他の進歩も同じこと》
進歩と云うものは最初は極めて徐々に、やがて大きく伸びるようになるものです。
これは植物の苗の生長と同じことであります。
魂の進歩や、精神統一力の進歩も、最初は遅々として、中々伸びないように思われて、
兎もすれば倦怠の念を起してくるようですが、其処を乗り切らなければ物になりません。
其処を乗り切ったとき、其の後は実に大きく急速に伸びて来るようになるのであります。
すべての力はそれを正しく法則に随って使うことによって増大するのです。
法則を無視して無茶に使っては却って力は消耗します。
ピアノの稽古にしても、最初は中々上手に弾けませんが、
その時期を超えると上達は早くなって来ます。
ピアノの稽古も、ピアノを出鱈目に掻き鳴らしているだけでは
何時まで経っても上達しません。
楽譜に随って規律正しく稽古することによって上達するのです。
神想観の上達も同じことです。
人びとの中には、他(た)にすぐれて鋭敏な感受性を具えた人たちがあります。
往々これらの人たちは神経質と云う名でよばれる人たちであります。
他(た)から来る精神波動に非常に感じ易い性質を持っているのです。
中には天候に従って気分が変わるだけではなく、
低気圧が近づくと気象台よりも早く健康に影響を感ずる人もあります。
こう云う神経質の人はその肉体的素質が繊弱で非常に不利な生れ附きだと
思っている人もあるが、神は決して一方的に不利な性質を与えるものではありません。
その鋭敏な感受性を正しき神の啓示の方向にのみ向けることにするならば、
その過敏な感受性は却って其の人の長所となるのです。
常に次のように念じなさい。
「私は神の子である。私は神の子の権威をもって神の子ならざる低次の精神波動に
対して完全に自己を閉ざすのである。
そしていと高き神の啓示に対してのみ鋭敏である。」
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P45~46) より
<感謝合掌 平成29年2月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2017/02/28 (Tue) 03:29:17
《28日 独創の個性ある価値を生み出すには》
すべての善きものは内部から生まれます。
内部から生まれないものはすべて形骸(けいがい)であり、
模倣であり、ニセモノであり価値なきものです。
内部とは自分の生命です。
“自分の生命”とは“神の生命(せいめい)”です。
神の生命は無限内容をもっているのですから、重複を厭(いと)うのです。
模倣には同じものが幾つも出てきますが、
内部生命から出るものには同じものは二度とありません。
すべての行動を内部生命から出すとき独創的なものとなり、
内部生命は普遍生命とつながっていますから、
独創的であると同時に普遍的なものがあり、人類全体の理解と共感とを得るのです。
では内部生命から、独創的なものを生み出そうと思ったならば、
内部生命に深く沈潜して、その無限の中から自己の個性に適する独創のものを
引き出して来なければならないんです。
その沈潜の最良の方法が神想観であります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第2項(P46~47) より
<感謝合掌 平成29年2月28日 頓首再拝>