伝統板・第二

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人間は死なない② - 夕刻版

2017/01/31 (Tue) 19:13:54

   *伝統板・第二「人間は死なない①」からの継続です。
    (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6760169 )

霊界 が存在する この崇高な 事実 を見よ!

      *「生命の實相」第10巻霊界篇下、扉の内側より

この世の中には合理的御・科学的にどうしても割り切れない問題があります。

突然ある人が神ガカリとなり、日常の問題
 ―― スポーツ、芸能、政治、経済の問題 ――  等を
ピタリと言いあてると、世間の人はすぐにその人を神様扱いにする。

だがそこからは、”人間如何に生くべきか”の崇高な真理は
何一つ生まれてこないのです。

しかし
本書に見るように、高級霊からの 通信には、人間の 究極の 真理 が述べられ、
それが そのまま 現実生活の法則 に活きてくる 驚くべき 事実 があります。

この事実の認識があってはじめて充実した人生といえるのです。

・・・

<関連Web>

(1)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
   「何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71

(2)伝統板・第二「あの世とは?~あの世からの現地報告より」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6941482

(3)伝統板・第二「「霊 の 書」」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6786757

            <感謝合掌 平成29年1月31日 頓首再拝>

人間の運命の一半(ぱん)は、霊界との連関において、定まる - 伝統

2017/02/01 (Wed) 18:56:36


          *「生命の實相」第9巻霊界篇(P1~4)より

はしがき

人間の運命の一半(ぱん)は、霊界との連関において、定まるのであって、
本人の自由意志のみで定まるのではない。

本人の過去の想念、言葉、行為は一種の惰力的な力をもっていて、
その人の運命を一定の方向に導いて行こうとする。

これは仏教でいわゆる「業力(ごうりき)」と称せられるところのものであって、
一定の方向を走る汽車はその後もその方向へ走って行こうとする惰力をもっていて、
あまりに急に変向せしめることはできないし、急角度で変向すれば脱線するようなものである。

個人のみならず、国家にも、民族にも、過去の想念、言葉、行為の力は蓄積されていて、
ある惰力をもってその特有な運命の軌道を走ろうとするものである。

そしてその個人の運命も、国家または民族の一員である限りにおいて
その全体的な運命から脱落することはできない。


われわれは国家または民族の積み来った業の流れの中に棹(さお)す
幾多の舟艇(しゅてい)のようなものである。

われわれは何れも全体の流れの影響を受けないことは
むずかしいが流れさるものもあるし、
向こう岸に安全に到達するものもあるであろう。

そこには個人の努力や、自由意志の働く部分もあるのであり、
その努力の価値と、運命の変向力とを否定することはできないが、
いずれにせよ、個人の運命は国家や民族の運命と混り合っているのである。

さらにくわしく言えば地上の人類全体の運命は
国家や民族の運命と混じり合っているのである。

そして地球やその他の天体は、人間の霊魂がそこにおいて修行し、向上し、
内在無限の神性をより多く発揮するための「場」だということができるのである。

したがって、肉体をもっている人間の運命は、肉体を脱却して、
よりいっそう進化向上せる霊魂の指導を受けて、
種々に導かれ、修正されつつあるのである。

われわれはこれらの関係を無視して人間の運命を論ずることはできない。
人間は決して肉体存続期間だけの存在でもなければ、
その生活圏が地球上だけに関係しているのでもない。

あらゆる天体はわれわれの生活の「場」であり、
進化向上の「場」として造られたものであって、
天体の運命と、個人の運命とは密接に関係せしめられているのである。

われわれがここで言う「運命」とは運がよくて金が儲かるとか、
運が悪くて失敗するとかそのような小さな問題を言うのではない。

もっと人類全体と、そして宇宙全体とに、連関せるところの大いなる運命である。

人間はなんのために創造(つく)られたか、いずこより来り、いずこに到るか。
地球上の民族の霊魂は決して一時期に移植せしめられたるものではなく、
数次にわたって、数個の集団として、他の天体においてある程度修行せしめられたものが、
遷移(せんい)し来れるものであると、ヴェッテリニはその霊示において告げている。

それゆえに、高く上がる者、低く降る者、民族はそれぞれの集団的運命を受けるのであり、
われわれは現にそれを受けつつあるのである。

この霊界の秘密を知らずして人間の運命を予知することはできない。
われわれがアジア民族または日本民族としての関心もそこに集中せざるをえないのである。

わたしは数百種におよぶ「霊界通信」の書籍を読んだが、
ヴェッテリニの霊誥(れいこく)ほど、合理的で深い感銘を
われわれに与えたものはないのである。

わたしは高級霊ヴェッテリニの霊誥を、霊界通信に出て来る経路を語る一節のほかは、
コルニリエ氏が原文に書いた順序にはこの書に集録しないで、その霊界通信を整理して
分類的な順序にそれを並べて検索に便利にしたのである。

この書はかつて『出生前(しゅっしょうぜん)・生・死・死後の研究』と題して
単行本で出たとき数十版を重ねたが、後に『生命の實相』の第五巻「霊界篇」に
収録されてまた数十版を重ねたのである。

いずれかの書で読んだ人はこの書を読む必要はないのであるが、
戦後、霊媒現象の取り締まりがなくなり、詐術霊媒が宗教法人を造って
人々を欺(あざむ)く例が頻繁にあるので、

その方面に興味をもつ人は、本書をその批評の尺度として対照せられるならば、
迷わされる危険は少ないであろうし、人類的運命に連関して、今後、地球上が
いかなる運命に見舞われるかについての覚悟を得る上にも、確かに参考になるであろうと思う。

人類の運命は本書にあるように、高級霊の愛深き指導によって
間断なく修正されつつあるがゆえに、わたしは必ずしも、本書に示される
各民族の運命を絶対だと信ずるものではない。

しかしアジア民族の一員としてアジア民族の今後の運命に関して
関心しておく能(あた)わぬものである。

昭和三十七年十二月十日       著書しるす


            <感謝合掌 平成29年2月1日 頓首再拝>

人間の死期 - 伝統

2017/02/05 (Sun) 19:14:35


       *『 生命の實相 』第九巻・霊界篇上(P113)より

問い - 災難によって突然変死するような場合があるが、
    常にこれはあらかじめ決定されていることであるか?
    時には偶然の死というようなことはないか?
 
ヴェッテリニの答え
   - 偶然の死は一つもない。 死は常に定められた事情の下に、
    あらかじめ定められた日時におこる。

            <感謝合掌 平成29年2月5日 頓首再拝>

~平等心より観たる霊界の消息と、差別心より観たる霊界の消息~ - 伝統

2017/02/10 (Fri) 18:54:01


       *『生命の實相』第10巻霊界篇下・はしがき(P1~3)より

霊界通信には全然真実性のない低級霊からの通信もあれば、
崇高な真理を説く非常な高級霊からの通信もある。

しかし高級霊からの通信は非常に少ないのである。
なぜなら高級霊は地上の生活にあまり興味をもたないからである。

本書の第九巻にのせたフランスの霊媒家にヴェッテリニや、
谷口清超氏訳の『天と地とを結ぶ電話』にあらわれたアガシャの霊のごときは高級霊であって、
地上人類の最後の運命の予言までもしていて、

現在までのその予言の大多数が的中しているのである。
そしてその説くところは秩序整然、人間智の及ばないような
深い真理を説いているのであるが、

現象界の人類の運命の遷りかわりや死後の霊の進化のごときはいずれも
差別界のことであるから、

わたしは第九巻において
「差別心より観たる霊界の消息」としてそれを紹介しておいたのである。

本巻における「平等心より観たる霊界の消息」は
差別界の霊魂の位相の相違や現象的変化を超えて、

すべての人類に平等に宿るところの神聖性に貫穿し、
神性仏性を端的に把握しえた境地において、

人間の実相を直視しての霊界通信である。

この霊界通信を寄越(よこ)した霊魂は、よほどの高級霊であり、
差別を超えて人間のすでに完全なる実相を説くのである。

(中略)

以上のごとく、霊界の消息を、霊界通信の方法により、
あるいは心霊実験により知ることは大切であるが、

霊界には悟らずに苦しんでいる「迷霊」が多数あり、読者の先祖の
霊魂の中にもそのようにまだ悟っていない霊魂があるかもしれないのである。

したがって、そのような霊魂を悟らしめて、
霊界における先祖の霊魂の苦痛を解脱せしめてあげることは、
子孫たるものの当然行わなければならない義務であり、

それを行うことによって祖先の霊魂が救われる時、
祖先と子孫は霊的につながって一体であるという原理により、
子孫が健康になったり、運命が好転することもありうるのである。

したがってその理論と方法とを本書の後半に説いて読者の参考に供した。


   昭和三十八年一月十日

                       著者しるす

            <感謝合掌 平成29年2月10日 頓首再拝>

人間は死なない - 伝統

2017/02/13 (Mon) 18:36:51

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月13日)」より

悲しいことがあれば、喜びの初めである。
イエス・キリストも「幸福なるかな悲しむ者。その人の慰められたん」と言っている。

物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたような人が、その物質なる富が眼の前から
剥落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あるいは眼の前から姿を没しようとする時に、
その人は悲しむのである。

悲しむだけ悲しむがよい。
涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。

浄まり浄まったとき、本当の世界は物質の世界でなかったということがわかるのである。
浄まり浄まったとき、本当の人間は物質の肉体ではなかったことを知るのである。

「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死んではいないのであって、
彼が《生きた》程度に従って、より自由に生き通ししていることを知るのである。

人間は死なない。
ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。
このことについては、「生命の實相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、
かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びるものである。

陛下のために、国家のために、全国民のために、
何か捧げて死することができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

・・・

<参考Webとして、「生長の家光明掲示板・第一」内スレッド
 「人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠 「小林昭三青年のこと (1767)」が
 あります。
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=379  >

            <感謝合掌 平成29年2月13日 頓首再拝>

(霊界からの)伯爵夫人ポーラ ―― 恵まれない人々を助けた女性 - 伝統

2017/02/15 (Wed) 18:14:50


          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P72~79)より

ポーラは名家に生まれ、若さと美貌、そして富を兼ね備えていた。
1851年に36歳の若さで亡くなったが、そのときは、だれもが次のように思った。

「いったい、神さまは、どうしてこんなに素晴らしい人を、こんなに早く召されるのだろう?」

人々にそう思われる人は幸いである。
 
彼女は、すべての人に対して善良で、優しく、寛大であった。
常に悪を許し、悪を助長することが決してなかった。
悪しき言葉が彼女の美しい唇を汚したことは、ただの一度もなかった。
 
高慢さ、尊大さは少しも見られず、目下の者たちを常に思いやりをもって扱った。
高飛車にものを言ったり、横柄な態度をとったりすることも、決してなかった。

仕事をして生きている人々は金利で食べているわけでないことを知っていたので、
使用人たちに対して支払いを遅らせることは、絶対になかった。

「自分の過ちから、支払いを受けられずに誰かが苦しむ」などということは、
思っただけでも良心が痛んだ。

「みずからのきまぐれを満足させるためにだけお金を使い、その結果、
使用人に支払う金がなくなる」というような人とは、彼女は完全に無縁であった。

「金持ちにとっては、借金をすることが、よい趣味なのだ」ということが、
どうしても理解できず、「出入りの商人から、つけで何かを買う」などということは、
そても考えられなかった。

そういうわけであるから、彼女が亡くなったときには、
人々は、ひたすら嘆き悲しんだのだった。

彼女の善行はおびただしく、しかも、それは晴れの舞台だけで
発揮される表向きの善行ではなかった。
それは心から出たものであり、見せびらかしのためのものではなかったのである。

神だけが、彼女が人知れず流した涙、たった一人で耐えた絶望を知っていた。
彼女の善行の証人は、神と、そして彼女が助けた不幸な人々のみである。


彼女は、特に、ひっそり暮らしている不幸な人々 ―― こうした人々は、
より多くを哀れを誘うものである ―― を探し出すのがうまかった。

そして、そうした人々を、本当に繊細な心遣いとともに救ったので、
彼らは、いやな思いをすることはなく、いつも必ず気分が明るくなる、ものだった。
 

彼女自身の身分と夫の高い地位にふさわしいかたちで、家を維持する必要があった。
そのためにしかるべき出費を惜しむことはなかったが、あくまでも、
浪費を避け、虚飾を避けたので、通常の半分の出費を支出するにとどまった。
しかもなお、それが通常以上の効果を発揮したのである。

そうして節約した財産は、恵まれない人々のために使った。
彼女はそのようにして、みずからの社会に対する義務、
貧しい人々に対する責務を果たしたのである。
 
死後12年がたち、霊実在論に開眼した親族の一人によって招霊された彼女は、
さまざまな質問に対して次のように答えてくれた。

 
「そうです。確かにわたくしはこちらで幸せに暮らしております。
そして、その幸福感を地上の方々に言葉で説明することは、とうてい不可能です。
とはいえ、わたくしはまだ最高の悟りを得ているわけではありません。

地上にあっても、わたくしは幸せな生活を送りました。
というのも、つらい思いをした記憶がないからです。
若さ、健康、財産、称賛など、地上において幸福の要素とされているものを、
わたくしはすべて備えておりました。
 
しかし、こちらでの幸福を知ってみれば、地上でのそうした幸福などは、
まったく何ほどのこともありません。

華々しく着飾った人々は参列する、最も壮麗な地上の祭りでも、
こちらでの集会に比べれば、何ということもありません。

何しろ、こちらでは悟りの高さに応じた、目もくらむばかりの光を燦然と放つ方々が、
綺羅星のごとく数多く集われるのですから。
 
地上にある、どんなに素晴らしい金色の王宮にしても、霊界の、空気のように軽やかな建物、
広々とした空間、虹でさえも顔色を失うような澄み切った色彩に比べたら、
本当につまらないものに思われます。
 
地上での、遅々とした、そぞろ歩きに比べて、
こちらでは、散歩といえば、稲妻よりもすばやく、
無限の空間を駆けめぐるのです。

地上の水平線は、雲がかかり、限られていますが、
こちらでは、数多くの天体が、神の手のもと、
果てしなく宇宙空間を運動しているのです。


霊体を震わせ、魂の襞(ひだ)の一つひとつに染み入る、天上のハーモニーに比べたら、
地上の最も美しい音楽であっても、悲しい金切り声にしか聞こえません。
 
滔々と流れる慈しみの大河のように、魂全体に絶えず浸透する、
筆舌に尽くしがたい幸福感に比べたら、地上での喜びなど、まったく取るに足りません。
 
霊界の幸福には、心配、恐れ、苦しみなどが、みじんも含まれていないのです。
こちらではすべてが愛であり、信頼であり、誠実であるのです。

どこを見渡しても、愛に満ちた人ばかりであり、
ねたみ、そねみを持った人など、ただの一人もおりません。
 
こうした世界が、わたくしのいる世界であり、
あなたがたも、正しい生き方をしたら、かならず来られる世界なのです。
 
とはいっても、もし幸福が単調なものであれば、やがては飽きが来るでしょう。
「霊界での幸福には何の苦労も伴わない」などとは考えないでください。

わたくしたちは、永遠にコンサートを聞いているのでもなければ、
終わりのない宴会に参加しているわけでもなく、
永劫にわたってのんびりと観想しているわけでもありません。
 
いいえ、霊界にも、動き、生活、活動はあるのです。
疲れることはないとはいえ、さまざまな用事をこなす必要があります。
無数の出来事が起こり、いろいろな局面、いろいろな感情を経験することになります。

それぞれが、果たすべき使命を持ち、守るべき人々を持ち、
訪問すべき地上の友人を持っています。
さらに、自然の仕組みをうまく動かし、苦しんでいる魂たちを慰める必要もあります。
 
道から道ではなく、世界から世界へ、行ったり来たりします。
あるテーマのもとに集会を開いて、経験したことを共有し、お互いの成功を祝福し合います。
 
要するに、「霊界では1秒たりとも退屈している暇はない」ということなのです。
 
現在、地上のことは、わたくしたちの主要な関心事となっております。
霊たちのあいだには、大きな動きがあるのです。
膨大な数のチームが地上に赴き、その変容に協力しています。
 
それは、まるで、無数の労働者が、
経験を積んだ指揮者のもとに森を開墾しているようなものです。

ある者たちは地ならしをし、ある者たちは種をまき、
ある者たちは古い世界の跡地に新たなる都市を建設しています。
その間も、指揮官たちは会議を開いて協議を重ね、あらゆる方向に使者を送って命令を伝えます。
 
地球は再生する必要があるからです。
神の計画が実現しなければならないのです。
だからこそ、それぞれが懸命に仕事に取り組んでいるのです。
 
わたくしが、この大事業を単に眺めているだけだなどと思わないでください。
みんなが働いているときに、わたしだけが、ぶらぶらしているわけにはまいりません。
重大な使命がわたくしにも与えられていますので、最善を尽くして、
それを遂行するつもりでいるのです。
 
霊界で、わたくしが、いまいる境涯に達するためには、それなりの苦労もあったのです。
今回の地上の人生も、あなたががたの目には充分だと思われたかもしれませんが、
霊的に見たら、決して合格点を与えられるものではありません。

過去、何度かの転生を通じて、わたくしは試練と悲惨に満ちた人生を送りましたが、
それは、自分の魂を強化し、浄化するために、わたくしが、あえて選んだものです。
 
わたくしは幸いにも、そうした人生において勝利を収めましたが、
そうした人生よりももっともっと危険に満ちた人生が残っていたのです。

それが、財産に恵まれ、物質的な面で何の苦労もない生活、
すなわち、物質的困難のいっさいない生活だったのです。
これは、たいへん危険の多い人生です。

そうした人生を試みるためには、堕落しないだけの強さを獲得しておく必要がありました。
神様は、わたくしのそうした意図をお認めくださり、
わたくしに、そうした人生を試させてくださったのです。
 
他の多くの霊たちも、見せかけのきらびやかさに惑わされて、
そうした生活を選び取るのですが、残念なことに、ほとんどの霊が
まだ充分に鍛えられていなかったために、経験不足から、
物質の誘惑に、見事に負けてしまいました。
 
わたくしも、かつては地上にて労働者だったことが数多くあるのです。
本質としては高貴な女性なのですが、わたくしもまた、額に汗してパン代を稼ぎ、
欠乏に耐え、過酷な生存条件を忍んだことがあります。

そうすることによって、わたくしの魂は雄々しく力強いものとなったのです。
そうしたことがなければ、たぶん今回の転生では失敗し、大きく退歩したかもしれません。
 
わたくしと同じように、あなたもまた財産という試練に直面することになるでしょう。
でも、あまり早く財産を持とうとしないでくださいね。
 
ここで、お金持ちの人々に申しあげておきたいのですが、
真の財産、滅びることのない財産は地上にはありません。

どうか、神さまがくださった恵みに対して、地上で充分にお返しをなさってください」

            <感謝合掌 平成29年2月15日 頓首再拝>

『人間死んでも死なぬ』 - 伝統

2017/02/21 (Tue) 18:23:41

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月21日)」より

今日は記念すべき本が出る。
わたしの『人間死んでも死なぬ』という本。

これがわたしが関東大震災に遭って無一物になって郷里へ帰って、
職業もなく養父母の許で居候しながら無数の心霊現象の原書を取り寄せて
そのうちから興味のある事実を取り上げ、系統づけて書きあげて、小西書店から
『心霊現象と宗教思想』と題して出した本を最近に増補改訂したものである。

類は類を招び、貧しい運命の時には、貧しさを招ぶものと見えて、
当時素寒貧のわたしに、小西書店は一銭の印税もよこさなかった。

わたしはやむをえず印税代わりに紙型(しけい)を貰っておいたのを友人鳥谷部君が
生活に困っているので、その紙型を差し上げて、原稿料も活字の組賃も不要で
鳥谷部君の生活費の幾分にでもなるように進上した。

これは『信仰革命』と題して再版まで出ているから鳥谷部君は幾分か
これで助かっているはずである。

今この本にさらに百数十ページを加えて『人間死んでも死なぬ』と題する本として出したのは、
戦死した軍人の遺族への贈り物としてである。

人間は肉体ではないから、肉体は死んでも「人間《そのもの》」は死んではいない。
この理論と哲学とは『生命の實相』のあらゆる部分に書いてある。

しかしその実証は、死んだ人が出て来て実際に通信した無数の実話、死の刹那に霊魂の幽体が
脱離する瞬間に撮った写真、その死後の状態はそういう状態であるか
 ―― これは『生命の實相』の「霊界篇」にも出ているが、

この書に採録したのは英国心霊大学(ブリティッシュ・カレッジ・フォア・サイキカル・リサーチ)の学長マッケンジー博士
(数年前物故)が精神統一状態中の霊魂出遊現象によって七圏に分かれている霊界を探検踏査して
そのその状態を記述した記事であって、

それには当時「哲学者グループの集まっている」霊界の第四圏にいたハーヴァード大学の
ウィリアム・ジェイムズ教授の霊が指導霊(ガイド)になったといわれている。

その記録は『生命の實相』中のヴェッテリニの霊界通信と符節を合わして
霊界存在の真実性をいっそうハッキリ確認せしむるものがある。

この書を戦死者の遺族に、また戦死者でなくても、良人を、妻を、子を、親類縁者を
失える悲しめる遺族たちに贈ることは大いなる意義と慰めとを与うるものであると思う。


先日高知の一誌友から、戦死せる婚約の青年に殉ずるために戦死の報知を受け取ると同時に
カルモチンを致死量飲んだ令嬢が医者の手当で蘇生したが、殉死を覚悟せる彼女は、
遺骨到着の日にふたたび自殺すると主張して頑として応じない、

そして「わたしは『生命の實相』の全十五卷をことごとく読みましたが、
その3分の1は運命であり、3分の1は自己の決定により、その3分の1は霊界の高級の
霊魂人(スピリット)の運命の修正により避けうるとあるあるだけで、

自殺は悪いとは『生命の實相』には書いてはないから、自殺は悪いとは思いません」と
主張するので、なんとかわたしから自殺を思い止(とど)まらす手紙を書いてくれ、
という要求を受け取った。

そのわたしからの手紙が到着しない先に遺骨が着いた。
彼女は再び遺骨の到着した日に、前回よりも大量の超致死量の薬剤を呑んだ。
しかし彼女は死ななかった。霊界から高級霊の干渉があったのであろう。

しかもさらに彼女は第3回目の自殺を考えていた。
そこへわたしからの手紙(家内に代筆をさせた)が着いた。
その手紙によってかろうじて彼女は慰められ、3回目の自殺は思い止まったのであった。

わたしの記憶のうちには、ある霊界通信に因(よ)れば、自他を超越した神の目からは、自殺は
他殺と同じく殺人であると書いてあって、そのことを『生命の實相』の本の中に書いておいたと
思って『生命の實相』の索引によって検(しら)べてきたが見出すことができなかった。

だから、それに対する返事は記憶によって書いたのだった。

あとで気がついてみたら、それは今度出る『人間死んでも死なぬ』の本の中に自殺者の霊魂が
霊界に移行しても自殺の時の行為そのままの状態で、たとえば短刀を腹に刺した状態で永らく
苦悶を継続しているのだというような霊界通信の実例が書いてあるのであった。

しかもこの書に収められている霊界通信の中には、
欧州大戦中砲弾の破片にあたって戦死した兵士の霊魂が、
少しも傷つかずに自分の遺骸を眺めながら歩いていたという通信もある。

我執で死ぬのと、国家に献(ささ)げて死するのとは、
死の意義の異なるのがこれでも分かる。
戦死を悲惨だと思うのはまちがいである。

このまちがいの中から反戦思想が生まれ、戦後の国家擾乱運動がはぐくまれる。
霊界の消息を知るとき、戦死は実に光栄であり、霊魂の高揚であるのだ。

・・・

<関連Web:「何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71 >

               <感謝合掌 平成29年2月21日 頓首再拝>

あちらの世界で開く反省会 - 伝統

2017/02/23 (Thu) 19:32:09


          *『おかげさまで生きる』矢作直樹氏・著(P162~164)より

死は終わりではありません。
私たちの魂は永続します。

そもそも私たちの本質は肉体ではなく魂ですから、
病気も加齢も本当は何も怖がる必要はないのです。

私自身は両親も弟もすでに他界しました。
喪失感はありますし、もっと話をしておけば良かったという気持ちもあります。

でも今は、私がいずれあちらの世界へと戻った際に、
皆で反省会でもしたいという思いが強まっています。

(中略)

この世の私たちは、ちょうど競技場で動くプレーヤーのような存在です。
そして、観客席には他界した方々がいて、声援を送りながら私たちを見守ってくれています。

この間にはハーフミラーがあり、競技場からは観客席が見えませんが、
観客席から私たちが見えます。

競技場にいるプレーヤーにはいろいろな苦難が待ち受けています。
しかし、私たちはそれを乗り越え、課題をクリアし、
人生という競技を学ばなければならないのです。

楽しい学びも当然ありますが、どちらかと言えば苦しいと思えてしまう
学びのほうが多いかもしれません。

私たちが疲れ果て、へとへとになり、悩んでいるそんな時でも、
観客席からは『負けるな』という声援が飛んでいます。

そして何らかの難しい局面を無事に乗り切った時は、
『よくやった』とご先祖さまたちは拍手喝采です。

声援や拍手が音声として聞こえてくるわけではありませんが、
私たちはそれを感じる瞬間があります。

個人によって違いますが、もしあなたは「あれっ? 」と何かの気配を感じたら、
それはあなたを大切に見守っている方からのメッセージかもしれません。
その感性を、もっと大切にしてください。

見えないけれどおかげさま、なのです。

そしていつか、彼らと再会する日のことを楽しみにしてください。

             ・・・

  《この世は競技場であり、
   私たちは今を生きる プレーヤーである。》

   目には見えなくても、観客席では他界した人々が私たちに声援を送っている。
   いつか彼らとの再会を楽しみに、今を一生懸命生きよう。

               <感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>

サンソン氏――死後の招霊を希望していた男性~その1 - 伝統

2017/02/24 (Fri) 19:04:47


          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P34~50)より

サンソン氏は、パリ霊実在主義協会の古くからのメンバーであったが、
1年間の酷い苦しみの後で、1862年4月21日に亡くなった。

生前、自らの死期を悟った氏は、協会の会長宛に、次の一節を含む手紙を送ってきた。

 「私の魂と肉体が、もし、突然、分離するようなことがありましたら、どうか、
  私が約1年前に依頼しましたことを思い出してくださるようお願い申し上げます。
  私の霊を、出来るだけ早めに、出来るだけ頻繁に招霊して頂きたいのです。
 
  地上にいる間は協会の為に殆どお役に立てなかった私ですが、霊界から様々な情報を
  その都度お送りすることによって、皆様に、研究の為の材料を提供させて頂きたい
  と思うからです。

  俗に『死』と呼ばれている現象がーそれは、我々霊実在主義者にとっては、
  単なる変化にすぎないわけですがーどのような経過を辿るのかを、
  皆さんにお知らせしたいのです。
 
  さらに付け加えてお願いしたいのですが、私の霊がそれほど進化していない為に、
  もしも、死後の霊的解剖とでも言うべきこの作業が不毛なものになりそうな場合、
  どうか、それを適当な段階で打ち切って頂きたいのです。

  また、高級諸霊が忠告を通じて私を助けることをご許可くださるように、
  神に対して祈って頂きたいのです。

  特に、我々の霊的な指導者である聖ルイに対し、私の次の転生の時期と場所を
  選ぶことに関して、私をご指導くださるよう祈って頂きたいのです。

  というのも、既に、この問題は私の大きな関心の的となっているからです。
  最も、こんなに早々と、こんなに思い上がった形で、
  次の転生のことまで神にお願いしようとしていることを、
  私が密かに恥じているのもまた事実なのですが」

 
「死後、出来るだけ速やかに招霊してもらいたい」というサンソン氏の希望を叶える為、
我々は、協会の他の数人のメンバーと共に、喪中の家を訪れた。
そして、そこで、遺体を前にして招霊を行い、以下の対話を得た。

それは埋葬の1時間前のことであった。
 
これには二重の目的があった。一つは、サンソン氏の意志を尊重するということ。
もう一つは、死んだ直儀の魂ーそれも、卓越した知性を備え、悟りも高く、
霊実在主義の教える真理を深く究めていた人の魂ーが、
どのような状況を経ることになるのかを観察するということである。

霊実在論に基づく信仰が、死後の霊にどのような影響を及ぼすことになるのか知りたかったし、
また、霊の最初の印象がどのようなものであるかを把握したかったのである。
 
サンソン氏は、完全に意識状態で、生から死への移行の様子を語ってくれた。
彼は、一度、死に、そして霊界に生まれ変わったわけだが、心境は一変していた。

それは、彼の悟りの高さのしからしむるところであろう。

1 喪中の家にて  1862年4月23日

ー招霊を行います・・・。
 「私は今、約束を果たす為に、こうして出てまいりました」

ーサンソンさん、こうして、あなたの死後、出来るだけ早くあなたをお呼びしたのは、
 約束を果たす為でもあり、また、それは、我々にとっての大きな喜びでもあります。
 これはあなたが望まれたことです。

 「神の特別の思い召しによって、私の霊に通信が許されました。
 あなた方の善意に感謝申し上げます。
 しかし、私には力がない為に、上手くゆくかどうか心配です」

ーあなたは亡くなる際に随分苦しんでおられましたので、
 現在お元気なのかどうかお尋ねします。
 今でも苦しみは感じておられるのですか?

 現在の状況と二日前のそれを比べると、どんな違いがありますか?

 「現在は大変幸せです。もう苦しみは全く感じられません。
  私は、再生し、回復しました。地上の生活から霊界の生活への移行は、
  当初は何が何だかよく分かりませんでした。

  しかし、死の前に、私は神に祈って、
  『愛する人々と話が出来ますように』とお願いしてあり、
  神はそれを聞き届けてくださいました」


ー意識がはっきりするのに、どれくらい時間がかかったのですか?

 「8時間程です。繰り返しますが、
  神が私の言うことを特別に聞いてくださったのです。
  私をそれなりに評価してくださったのでしょう。感謝の言葉もありません」


ーどうして、もう地上にはいないということが分かるのですか?
 どのようにして、それを確かめることが出来るのですか?

 「私がもはや地上に属していないことは、はっきりと感じられます。
  しかし、あなた方を守り、支える為に、ずっとあなた方の側にいるつもりです。
  そうして、慈悲の心と献身の大切さを説くつもりです。
  それこそが、私の人生の指針でしたから。

  それから、本当の信仰を、霊実在論に基づく真実の信仰を説き、
  正義と善の信仰を復興するつもりでおります。

  私は今、大変力強い感じを受けています。一言で言えば変身したのです。
  私は、もはや、全ての喜び、全ての楽しみから見放された、物忘れの酷い、
  あの惨めな老人ではありません。

  今私を見ても、きっと私が誰なのか分からないでしょう。
  私は霊になってそれほど変わったのです。

  私は空間に住まい、私の目指す未来は神であり、
  その神は、無限の空間の中で輝き渡っています。
 
  もし可能であれば、私の子供達にこのことを話してあげたいものです。
  あの子達は、どうしても信じようとしませんでしたからね」


ーここにあなたの遺体がありますが、これを見ると、どのような感じがしますか?

 「哀れでちっぽけな抜け殻にすぎません。後は塵になるだけです。
  そして、私は、私を評価してくださった人々のよき思い出を待ち続けるのです。
 
  変形した、哀れな私の肉体がー私の霊が宿っていた小さな肉体がー見えます。
  そこに宿って、私は長年の試練に耐えたのです。

  ありがとう、私の哀れな体よ。
  お前のお陰で私の霊は浄化されました。
  お前に宿って味わった聖なる苦しみが、私の功績となったのです。

  こうして、死んですぐ、お前に話しかけることが出来るとは思ってもみませんでした」


ー最後の瞬間まで、意識ははっきりしていましたか?

 「はい。私の霊は最後まで能力をしっかりと保持していました。
  もう見ることは出来ませんでしたが、感じることは出来ました。
 
  それから、私の一生が目の前に展開されました。

  私の最後の願いは、死後、あなた方と話すことでしたが、
  それが今こうして実現しています。

  そして、私はあなた方を守れるように神にお願いしました。
  そうすることで私の夢を実現させたかったのです」


ーあなたの肉体が最後の息を引き取った時、そのことを意識していましたか?
 その時、あなたの内部で何が起こったのですか?
 どんな感じがしましたか?

 「地上の生命が粉々になり、視覚が失われました。
  空虚、未知・・・。

  そして、いきなりもの凄い力に運ばれて、
  歓喜と偉大さに満ち満ちた世界にいることに気がついたのです。
  もはや、感じることも、理解することも出来ませんでした。

  ただ、筆舌に尽くし難い幸福に満たされていたのです。
  もはや苦しみは一切感じられませんでした」


ーあなたのお墓の前で・・・(私がどんなことを言おうとしているかご存知ですか)?

 最初の数語が発されるや否や、直ちに答えが返ってきた。
 質問を最後まで言う必要はなかった。
 また、仲間の間で、この問答を葬儀の際に墓の前で読むかどうかに関し、
 意見が別れていたのだったが、それに対する答えも与えられた。

 「ああ、知っていますとも。昨日もあなたはここにいましたし、今日もいましたから。
  私は大変満足しています。有り難うございます。本当に有り難うございます。
 
  それから、人々は死者を尊重していますので、何も恐れずに、全てを話してください。
  そうすれば、人々はあなたを理解し、あなたに敬意を払うでしょう。

  話してください。
  信仰なき人々が廻心(えしん)の機会を得られるように。
  話してください、勇気を持って、そして自信を持って。

  願わくば、私の子供達が廻心して信仰の道に入れますように」

 ということで、葬儀の際に、我々は彼から伝えられた次の言葉を読み上げた。

 「我が友人達よ、死を恐れる必要はありません。
  もし、よき生き方をしているのであれば、死とは休憩に他なりません。
  もし、やるべきことをやり、試練に打ち勝っているとすれば、死とは幸福に他なりません。
 
  繰り返し言いましょう。

  勇気を持って、そして熱意を持って生きてください。
  地上の財産に執着しないことです。
  そうすれば、必ず報われます。

  他者の為に生きてください。
  心の中で悪を犯さないように。
  そうすれば、地球は軽やかな場所になります」

               <感謝合掌 平成29年2月24日 頓首再拝>

サンソン氏――死後の招霊を希望していた男性~その2 - 伝統

2017/02/26 (Sun) 19:37:01

2 パリ霊実在主義協会にて 1862年4月25日

ー招霊を行います・・・。
 「我が友よ、私は今、あなた方の側におります」

ー葬儀の当日に、対話出来たのは、大変嬉しいことでした。
 さて、あなたの許可があったので、こうして再びお話をし、教訓を完成させたいと思います。

 「準備は万全です。私のことを思ってくださって、とても幸せです」

ーこうして、見えない世界についての情報を頂き、
 それを理解出来るようになるということは、実に有り難いことです。
 というのも、あの世についての間違った捉え方が、
 しばしば不信仰を生み出すもとになっているからです。
 どうか、私達の幼稚な質問に驚かないようにしてください。

 「大丈夫です。それでは質問してください」

ーあなたは、生から死への移行を、大変分かり易く、はっきりと描写してくださいました。
 「息を引き取った瞬間に、地上の生命が粉々になり、視覚が失われた」と仰いました。

 その時、何か、苦しみや、辛さを感じましたか?

 「おそらく、そうした苦しみはあったのでしょうが、あまり覚えていません。
 というのも、生とは、絶え間ない苦しみの連続であり、
 死とは、そうした苦しみに対する褒美なのですから。

 死の瞬間には、肉体を脱ぎ捨てる為に途方もない努力をしなければならず、
 その為に、あらゆる力が傾注されますので、自分がどうなっているかということは
 考えている暇もないのです」


 このケースは、決して普遍的なものではない。
 経験によれば、多くの霊は、息を引き取る前に、既に意識を失っているし、
 また、それ以外の、ある程度、脱物質化が進んでいる霊は、
 努力なしに肉体からの離脱を果たすこともあるからである。


ーもっと苦痛に満ちた死の瞬間を迎える霊もいるということはご存知ですか?
 例えば唯物主義者。「死〇ば何もかも終わる」と思っている人間にとって、
 死の瞬間は大変なことになるのではないでしょうか?

        〇*ね    

 「その通りです。死の準備の出来ている霊の場合、
 苦しみは存在しないと言ってよいでしょう。
 或は、安らかに死を迎えることが出来るので、苦しまずに済むのです。

 死後、自分がどうなるかが分かっているからです。
 死の瞬間には、精神的な苦しみが一番大きなものであり、
 それがないということは、とても有り難いことなのです。

 死後の世界を信じない者は、丁度死刑を宣告された罪人に似ています。
 ギロチンの刃が見えますが、それが落ちた後自分がどうなるか分からないのです。
 こうした死と、無神論者の死はよく似ています」


ー頑迷な唯物論者で、「死後は虚無だ」と信じている人もいるようですが。

 「そうですね。最後の瞬間まで『死後は虚無だ』と信じている人もいます。
 しかし、霊と肉体が分離する瞬間に、霊の自覚が戻ってきます。
 そして、事態が理解出来ない為に苦しむのです。

 どうなったのかを把握しようとするのですが、それが出来ません。
 分離の時には必ずそうしたことが起こります」


 「信仰を持たない者が死の瞬間にどうなるか」ということに関して、
 別のある霊は、次のように語ってくれた。

 「頑迷な無神論者が死の瞬間にどうなるかということですが、
 悪夢の中で、崖っぷちに立ち、もう少しで落ちそうになっていることがありますね、
 あれにそっくりなのです。

 逃げようとしても逃げられず、歩くことさえ出来ない。
 何かに掴まろうとするのだが、何も見つからず、段々滑り落ちていく。
 誰かを呼ぼうとしても、声を出すことが出来ない。

 身をよじって、拳を硬く握り締め、声にならない叫び声を上げる。
 丁度そんな感じです。

 それが普通の悪夢なら、やがて目が覚め、恐怖から解放されます。
 夢を見ていただけだということが分かり、再び幸せを感じることが出来るのです。

 ところが、死の瞬間の悪夢は、もっともっと長引き、死を越えて、
 時には数年間も続くことがあるのです。
 そういう場合、霊にとっては本当に辛い体験となります。
 暗闇に閉じ込められたのと同じなのですから」


 以下、再びサンソン氏の霊に聞く。

ー「死の瞬間には何も見えなかった」と仰いました。
 「肉体の目では何も見えない」ということは分かります。
 しかし、生命が消える前に、霊界の光をかいま見るのではないのですか?

 「先程言った通りです。死の瞬間には、霊が覚醒します。
 肉体の目には何も見えませんが、霊的な深い目が開けて、
 瞬間的に未知の世界を発見するのです。

 真理が直ちに現れ、その時の心境、そして過去の記憶に応じて、
 ある者には深い喜びが、ある者には得体の知れない苦しみが与えられます」


ーあなたの霊的な目が開けた時に、何に打たれたのですか?
 何が見えたのですか?
 もし可能なら、その時見えたものを描写してください。

 「我に返って自分の前にあるものを見た時に、目が眩んだように感じられました。
 直ぐには意識が覚醒しなかったらしく、事態がよくのみ込めなかったのです。

 しかし、神の善意のお陰で、私は様々な能力を取り戻しました。
 多くの忠実な友人達が周りにいるのが見えました。
 また、地上での交霊会で私達を助けてくれていた指導霊達が来て、
 私を取り囲み、微笑みかけてくれました。

 比類のない幸福感に包まれて、彼らは生き生きとしており、
 私自身も、辛いエネルギーに満たされて元気はつらつとしており、
 空間を超えて自由に移動出来るのです。

 私が見たものを人間の言葉で描写することは不可能です。
 今後、さらに招霊に応じ、神の許可が下りる範囲で、
 私の幸福について語ってみたいと思っています。

 地上であなた方が幸福だと思っていることなど、まるで錯覚にすぎません。
 どうか、智慧に従って、聖なる生き方をしてください。
 慈悲に満ちた、愛に溢れた生き方をしてください。

 そうすれば、どのような大詩人であっても描写出来ないような、
 素晴らしい霊界生活が待っています」


 おとぎ話というのは、信じられないようなことで一杯である。
 だが、霊界で起こることも、ある意味では、似たり寄ったりではないだろうか。

 サンソン氏の話は、「薄暗い、哀れな掘っ立て小屋で眠り込んだ男が、
 起きてみたら、壮麗な王宮にいて、輝かしい宮廷人達に囲まれていた」
 というおとぎ話に似ている。


ー霊人達は、どんな様子をしているのですか?
 人間のような姿をしているのですか?

 「地上における交霊会で、霊達は、
 『霊界においては、地上でとっていた一時的な姿形をそのまま保持している』
 と言っていましたが、まさにその通りです。

 しかし、地上でのみすぼらしい肉体と、霊界での素晴らしい霊体の違い、
 もう本当に比べようがありません。
 天上界には醜さというものが全く存在しないのです。

 地上の人間に特有の粗雑さ、というものが一切感じられないのです。
 これらの典雅な霊体は、神の祝福を受けており、
 形態の持つあらゆる優美さを帯びています。

 また、その言語の美しさは、とても伝えることが出来ませんし、
 星のような眼差しの持つ深さも、地上の言葉では到底表現出来ません。

 建築家の中の建築家である神がその全能を用いて創り上げるものが、
 いかなるものとなるか、どうか想像してみてください。
 さすれば、天上界の美しさの一端なりとも感じられるのではないかと思います」


ーあなたの目には、あなた自身はどのように見えるのですか?
 輪郭のある、境界を持った形態をとっているように見えるのでしょうか?
 頭、胴体、腕、脚などを持っていますか?

 「霊は、地上での形態を保持していますが、それは、神聖化され、理想化されています。
 勿論、手足もありますよ。脚も指もしっかりと感じることが出来ます。
 そして、思いによって、あなた方の前に出現し、腕に触れることも出来ます。

 今私はあなた方の直ぐ側におり、皆さんの手を握っているのですが、
 勿論、あなた方にはそれは感じられないでしょう。

 我々がそう望みさえすれば、空間を乱さずに、何の気配も感じさせずに、
 どこにでも出現出来るのです。

 今、あなたは手を組んでいますが、私はそこに手を添えているのですよ。

 『あなた方を愛しています』と私は言いますが、私の体はいかなる場所も占めず、
 物質界の光は私の体を透過していきます。

 あなた方にとっては奇跡に他ならないことが、
 我々霊人達にとっては日常茶飯事なのです。

 霊人の視覚は、人間の視覚とは異なります。
 同様に、体も、地上の人間の体とは全く異なります。
 存在全体が根本から変わってしまうのです。

 繰り返しますが、霊には神聖な洞察力が備わっており、全てにそれが及びます。
 ですから、あなた方が考えていることが手に取るように分かるのですよ。

 また、あなた方が最も思い出し易いような形態を取ることも可能なのです。
 しかし、試練を全て通り抜けた高級霊は、神の側にいるのに相応しい姿をしています」


ー交霊会の様子は、あなたの目にはどのように映りますか?
 生前ご覧になっていたのと同じように見えるのでしょうか?
 人々の様子は、生前ご覧になったのと同じですか?
 同じようにはっきりと見えますか?

 「むしろ、生前よりも、ずっとはっきりしていますよ。
 というのも、私には全員の思いが読めるからです。

 それに、君臨している霊人達のよき思いが、この部屋には満ち満ちていますから、
 私は非常に幸せなのです。

 こうした調和が、パリ霊実在主義協会のみならず、フランス中の支部において見られたら、
 どんなによいことでしょうか。というのも、離反し合い、嫉妬し合っている為に、
 混乱を好む悪霊達に支配されてしまっているグループが、まだ数多く存在するからです。

 『霊実在論の神髄は、エゴの完全な滅却にある』ということを、
 しっかり自覚してほしいものです」


ーあなたは、私達の思いが読めると仰いました。
 どのようにして、我々の思考があなたに伝わるのか、
 そのメカニズムを教えて頂けませんか?

 「説明するのは難しいですね。霊に特有の、そうした驚異的な能力を説明する為には、
 新たな概念が沢山詰まった巨大な言葉の兵器庫を開かなくてはならないし、
 あなた方も霊人達と同じ位智慧を持たなければならないからです。

 しかし、あなた方の能力は物質によって制限されている為に、それは不可能なのです。
 忍耐強くあってください。よき生き方をするのです。
 そうすれば、やがて必ず分かります。

 希望を持って向上し続ければ、必ず我々と同じようになれるのです。
 本当に人生に満足して死〇れば、多くのことを得ることが出来ます。

       *〇:ね

 考えることを本性とする人間にとっては、好奇心は大事なものです。
 その好奇心を満たしつつ、死ぬまで穏やかに生きてください。
 そうすれば、過去・現在・未来のあらゆる疑問をやがて解くことが出来るでしょう。

 それまでは、次のようにでも言っておくしかありません。

 すなわち、『あなた方を取り囲んでいる、我々と同様、触ることの出来ない空気が、
 あなた方の思いを伝えるのであり、あなた方の吐く息に、
 あなた方の思いが書き記されているのです』と。

 『あなた方の思いは、あなた方の周りに出没している霊人達によって、
 絶えず読まれているのだ』ということを、どうぞ忘れないでください。
 神の使者達に対しては、何も隠すことは出来ないのです」

               <感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>

死後、魂はどこに向かうのか - 伝統

2017/03/03 (Fri) 18:08:55


        *「あの世のひみつ」美鈴・著(P223~225)より

死の瞬間からあの世へと移っていくプロセスをご説明しましょう。

臨終を迎えるとき、体がばたばた動くのは苦しんでいるからではなく、
肉体のスーツを脱ごうとしているからです。
肉体から抜け出して魂と幽体となり、自分の体を外側から見、
この世に強い執着を残している人は、肉体をなかなか脱ぐことができず苦労します。

ともかく、肉体から抜け出したとき、ほとんどの方はこんなふうに思います。

「私は死んだのか、ここに私がいるのに、肉体はあそこにある。
どちらが本当の私なんだろう。みんなが泣いている。
死んだというのに、どこも痛くないし、苦しくない」

自分が死んだことをすぐ理解できる人もいますが、中には、肉体に戻ろうとして、
肉体の上に重なって見たりする人もいます。

そのとき、トントンと肩を叩かれます。

あの世からお迎えが来たのです。
身内や先祖が迎えにくるケースが大半です。


肉体と霊、幽体はシルバーコードと呼ばれるもので結ばれています。
シルバーコードが切れて、死を迎えたら、約四十九日の間は幽現界という
現世と重なり合った世界にいます。

そして、なつかしい場所や愛する人がいる場所に
あいさつなどに出向き、執着を落とします。

その後、お迎えに来てくれる身内や先祖に導かれながら安心して、
個性や人格はそのままに幽界という階層へ浄化していくのです。

            <感謝合掌 平成29年3月3日 頓首再拝>

寡婦フロン夫人・・・失明した細密画家~その1 - 伝統

2017/03/06 (Mon) 18:34:29


          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P57~71)より

フロン夫人は、1865年2月3日にアンチーブで亡くなったが、
それまで長いこと、ル・アーブルに住み、細密画家として名声を博していた。

彼女は、その驚くべき才能を、最初のうちは、自らの楽しみの為だけに使っていた。
しかし、やがて生活難の日々がやってきて、彼女は細密画によって生計を立てるようになる。

彼女を知る多くの人々が、彼女を愛し、尊敬したのは、彼女の親切さによるところが大きい。
彼女と親しく付き合った人々のみが、彼女の持っていた、様々なよき性格を知ることが出来た。
 
というのも、生来よき資質に恵まれた人々の例にもれず、彼女もまた、
そうした美点をひけらかすようなことは、一切しなかったし、
そうしたものが自分にあるなどと、そもそも思わなかったからである。
 
エゴイズムから完全に無縁な人間がいるとすれば、それが彼女であった。
彼女のように私利私欲を捨てて生きた人は、他にいなかっただろう。
人の為であれば、自らの休息、健康、利害など、はなから捨てて顧みなかった。

その生涯は、献身に次ぐ献身であったし、若い頃から過酷な試練の連続であったが、
彼女は、勇気、諦念、精進をもって、それらに立ち向かってきた。
 
しかし、細かな作業の為に、彼女の視力は徐々に落ちていき、ついには完全な失明に至った。
 
フロン夫人が霊実在論を知った時、それは彼女にとっては一条の光のように感じられた。
それまで直観で漠然と感じていたものの上にかかっていたヴェールが、
すっと剥がれ落ちたような気がしたのである。

そこで、彼女は熱烈に、しかし冷静な心は失わずに、
また、彼女の知性の根底をなしていた正しい判断力を使って、霊実在論を研究し始めた。

彼女の人生、そして、彼女と親しかった人々の人生に立ちはだかった、
数多くの困難の理由を、是非とも見極める必要があったからである。

研究を続けるうちに、崇高な啓示に基礎を置く霊実在論から、
あらゆる慰めを得て、死後の世界への揺るぎない確信を持つに至り、
地上の全てが幻であることを心の底から悟った。

彼女の死は、その生涯に相応しいものであった。
彼女は、死が近づくのを完全に平静な心で受け入れた。

死とは、彼女にとって、地上のくびきからの解放であり、
霊実在論から学んだ幸福な霊界での生活への移行にすぎなかったからである。

彼女は穏やかに死を迎えた。
というのも、地上に降りてくる際に自分が引き受けた使命を全て果たし、
妻としての、また、母としての義務をしっかりと行い、

彼女から恩を受けながら、恩を仇で返すような仕打ちをした人々に対する悪感情を、
全て奇麗に捨て去ったということが、自分でよく分かっていたからである。

彼らの悪に報いるに、常に善をもってなした彼女は、
地上を去るに当たって彼ら全員を許し、自分自身に関しては、
神の善意と正義に完全に身を委ねることにした。

彼女は、心が浄化された人に特有な、真に平穏な死を迎えることとなった。
死んだからといって、子供達と離れ離れになるわけではなく、
むしろ、子供達が地球上のどこにいようとも、霊として彼らの側に行き、
彼らに忠告を与え、守ることが出来るということを確信していたからである。

フロン夫人が亡くなったことを知った我々の最初の願いは、
彼女とコンタクトをとることであった。

彼女と我々の間に形成されていた友情と共感が、
以下の彼女の言葉の親しげな調子を説明するものだと思う。

            <感謝合掌 平成29年3月6日 頓首再拝>

寡婦フロン夫人・・・失明した細密画家~その2 - 伝統

2017/03/07 (Tue) 18:26:57


1865年2月6日、死後三日後、パリにて。

「私が地上から解放されるや否や、あなた方が私を招霊してくださるだろう
ということは確信しておりました。私は、どんなことにでも答える用意が出来ています。
というのも、肉体を離脱するのに何の困難もなかったからです。

恐れを抱く人だけが、厚い闇の中に包まれることになるのです。
 
さて、私は、今本当に幸せです。
地上では視力を失っていた私の目もすっかり回復し、
霊界の壮麗な地平線をはっきりと見ることが出来ます。
 
死んで三日しか経っておりませんが、私は自分が芸術家であることを深く自覚しています。
私は理想的な美に憧れていましたが、それは、私が過去世の幾転生を通じて学び、
身につけてきた傾向性であり、今回の人生でも、それをさらに育んだのでした。

しかし、光の領域に還ってきて私を感激させた偉大な舞台にこそ
相応しい傑作をものにする為には、今後、どれほどの精進が私には必要でしょうか!
 
ああ、絵筆が欲しい。
絵筆さえあれば、私は、さっそく絵を描き、
『霊実在論に基づく芸術こそが、異教徒の芸術や、不振に陥っている
キリスト教の芸術を大きく超えるものである』という事実を証明出来るのです。

あなた方がいる不毛の地上にあって、霊実在論のみが、
輝かしい栄光を芸術の分野で現すことが出来るのです。
 
さて、芸術論はこれくらいにして、お友達に話をすることにしましょう。
 
アラン・カルデック夫人、あなたは、どうして私の死を悲しんでいるのですか?
 
私の人生が失望と苦難に満ちていたことをよく知っているあなたは、
今や、私が、苦渋を舐め尽くした人生からようやく解き放たれたことを、
むしろ喜んでくださらなくてはなりません。

死者達が生者達よりも幸福であることをよく知っているあなたが、
死者を悼んで涙を流すのでは、人々に霊実在論の真理を疑わせることにもなりかねませんよ。

それに、いずれまたお会いすることも出来るのです。
 
地上での私の使命が終わったからこそ、私は霊界に還ったのです。
それぞれが、地上で果たすべき使命を持っています。

あなたの使命が終了すれば、あなたもまた霊界に還り、
私の側で休むことになっているのです。
そして、また必要があれば地上に降りていくのです。

いつまでも何もせずにいるわけにはまいりませんから。
それぞれが自分の傾向性というものを持ち、それに従うのです。
これは至高の法であり、これによって自由意志が保証されているのです。

ですから、親しい友よ、見える世界においても、見えない世界においても、
お互いに寛大さと慈悲を持ちましょう。
そうすれば、全ては上手くいくのですから。
 
『もうそろそろ止めたら』と、仰らないのですね。
最初にしては、お喋りが長過ぎるような気もしますが。
 
ですから、そろそろ次の方に対してお話をすることにしましょう。
では、私の尊敬するお友達であるカルデック氏にお話します。

お墓で、あなたの前にいらした私のお友達(カルデック夫人のこと)に、
愛情深く話しかけてくださいまして、心からお礼申し上げます。
 
あなたと私は、危うく一緒に霊界に旅立つところでしたものね
(カルデックの病気に対するほのめかし)。

もしあなたも地上を去ることになっていたら、
あなたに長年連れ添った私のお友達はどうなったことでしょうね。
もしそんなことでもあれば、彼女の悲しみは途方もないものになったに違いありません。

それはよく分かります。
しかし、彼女は、あなたが、霊実在論の仕事を完成させるまでは、
再び危険な目に遭わないように、しっかりと監視する必要があります。

彼女が見てくれなければ、あなたはきっと仕事の完成を待たずに天上界に戻ってしまい、
モーセと同じように、約束の土地を見ずに終わってしまうことでしょう。

よく注意していてくださいね。
彼女が色々と警告してくれるはずですから。
 
さて、そろそろ失礼いたしましょう。
子供達のところに行かねばなりません。
 
それから、今度は海を超え、私の旅行好きな子羊が、
嵐に翻弄されずに無事に港に着いたかどうかを確かめに行くつもりです
(アメリカに行った娘のことを指す)。

善霊達に、彼女を守ってくださるようお願いする必要もありますしね。
 
必ずまた戻ってきます。
私が話好きなのは、皆様がご存知の通りです。
それでは、また。さようなら」

            <感謝合掌 平成29年3月7日 頓首再拝>

寡婦フロン夫人・・・失明した細密画家~その3 - 伝統

2017/03/08 (Wed) 18:35:24


 1865年2月8日


こんにちは、フロン夫人。先日は、お話が出来て大変嬉しかったです。
「また今後もお話を続けたい」と仰ってくださって、有り難うございました。

前回のお話の際に、あなたであることが完全に分かりました。
というのも、霊媒が知らないこと、あなたでなければ決して分からないことを
話してくださったからです。

それに、私達に対して示してくださった、愛に溢れた話し振りは、
まさにあなたの魂から出るものでした。

でも、一方で、あなたの話し振りには、地上にいた時にはなかった、
確信、沈着、毅然さが感じられたのです。
場合によっては、お叱りを受けているような気さえしたのですが。

「確かにそうかもしれません。でも、病状が進んでからは、それまで
私を臆病にしていた苦悩や不幸などがどうでもよくなり、そのお陰で、
既に、ある程度、毅然さを取り戻していたことも事実なのですよ。

私は自分にこう言い聞かせていたのです。

『あなたは霊なのよ。地上のことは、そろそろ忘れなさい。
存在の変容に備え、肉体を去った時にあなたの魂が辿ることになる光の道を思い描きなさい。
その道を通って、解放されて幸福になったあなたは、聖なる空間に導かれ、
今度はそこで暮らすのだから』

とね。
 
地上を去った後の完全な幸福をすぐ願うなんて、随分傲慢だとお思いでしょうか?
でも、私は随分苦しみましたので、今回の人生と、それまでの転生でこしらえたカルマを、
すっかり刈り取ったに違いないと考えていました。

そして、この直観は正しかったのです。
この直観が、私の最後の日々に、勇気と、平静と、毅然さを与えてくれました。
 
特に、肉体から解放されて希望が叶ったのを知ったあとでは、
この毅然さは、ますます強いものになりました」



それでは、この世からあの世への移行、目覚め、最初の印象などについて語ってください。
 
「最後の時、私は随分苦しみました。しかし、わたしの霊は、
肉体からの分離が引き起こした苦しみを乗り越えました。
 
息を引き取った後で、自分がどうなっているか、全く分からなくなり、
一種の失神状態に陥っていたようです。何も考えることが出来ず、眠るでもなく
目覚めるでもなく、ぼんやりとした夢うつつの状態でした。
かなり長い時間、そうしていたようです。
 
やがて、気絶状態から回復するようにして目を覚ましていき、気がつくと、
見知らぬ兄弟達に取り囲まれていました。彼らは優しく、
そして、かいがしく世話を焼いてくれ、

それから、空間の中にある、星のように輝く点を指し示しました。
 『あそこを通って、我々と一緒に行くんだよ。もう地上にいないのは分かるね』
 
それで、色々と分かったのです。

彼らに支えてもらい、優美に、未知の領域に向かって一緒に昇っていきましたが、
そちらに行けば必ず幸福があると分かっていました。

そうして、どんどん昇り、星はどんどん大きくなっていきました。
そこは幸福な世界、高級霊界です。
私は、そこで、ようやく休息できるのです。
 
休息と言いましたが、それはあくまでも、地上での肉体的な疲労と、
数々の不幸に由来する心労に対する休息だということです。
霊として怠惰に過ごすということではありません。
霊は活動の中に喜びを見出すものだからです」


ーあなたは地上から決定的に去ったのですか?
 
「あまりにも多くの愛する人たちが地上にいるために、
決定的に地上から去ることは出来ていません。
ですから、霊として何度でも戻ってきます。

特に、わたしの孫たちに関して、まだ果たすべき使命があるからです。
あなた方も、よくご存知のように、一旦霊界に還った霊であっても、
地上に戻ってこようと思えば、そこには何の障害もないのです」



今あなたがいる霊層だと、今後、地上の人々との関係が
段々薄れていくように思われるのですが。

「いいえ、そんなことはありません。友よ、愛はどんなに離れていても
魂と魂を結びつけるものなのです。
 
そして、これは知っておいて頂きたいのですが、霊達にとって、
未熟さとエゴイズムに振り回されている人々よりも、
高度な人格を備えた人々の方が、より近づき易いものなのです。

慈悲と愛が、魂を結びつける最も協力な要素なのです。

どんなに距離が離れていても、慈悲と愛さえあれば、魂は結びつくことが出来ます。
距離が障害になるのは、肉体に宿っている間だけです。
霊にとって、距離は全く意味を持ちません」



霊実在論に関する私の仕事について、どう思いますか?
 
「あなたは多くの魂達を背負っているわけですから、とても荷が重いと思います。
でも、私には、その目的地が見えますし、あなたがそこに到達することも分かっています。
 
もし可能であれば、私もお手伝いさせて頂くつもりです。
あなたが困難な状況に立ち至った場合には、霊の立場から助言をさせて頂きますし、
『霊実在論が展開している精神改革運動を、いかに活発にするか』ということに関して、
こちらから、何らかの方法をお示しすることが出来るかもしれません。
 
また、高級霊達があなたに力を与え、あなたの仕事を支えるでしょう。
私もまた、いつでも、どこででも、あなたを支援するつもりでおります」


ーお話をお聞きしていますと、あなたは、
「霊実在論に関する著作をまとめることに関しては、あまり協力は出来ない」
とおっしゃっているように思われますが。
 
「そんなことはありません。でも、私よりも、その種の仕事に適した霊人は、沢山いますよ。
今のところ、そのことに関するあなたのご質問に答えることは、遠慮させて頂きたく存じます。
いずれは、私も、もっと勇気を持ち、大胆になることが出来ると思いますので。
当面は、私は、他の霊人の皆様のことをよく知る必要がありそうです。
 
私が死んでから、まだ五日しか経っていないのですよ。まだクラクラしております。
どうか、そのことをご理解ください。
まだ、こちらでの新たな経験を上手く説明できる状態ではありません。
 
霊界のあらがいがたい誘惑を振り切って、こうして地上に降りてくるのは、
並大抵の努力ではなかったのですよ。
霊界では、神の作品を祝福し、感嘆するばかりなのです。
 
でも、やがて、それにも慣れるでしょう。
私も、やがて霊界の素晴らしさに慣れ、そうすれば、霊としての明晰さをもって、
地上を改革する霊性の運動に関し、どんな質問にも答えられるようになると、
まわりの霊人たちがおっしゃっています。
 
それに、私には、まだ慰めなければならない家族もいるのです。
それでは、今日はこれで。また来ます。
 
あなたの奥様はあなたを愛していますし、これからも、ずっと愛することでしょう。
地上において、奥様が、尽きることのない真の慰めを得られるのは、
あなたからだけなのです」

            <感謝合掌 平成29年3月8日 頓首再拝>

寡婦フロン夫人・・・失明した細密画家~その4 - 伝統

2017/03/09 (Thu) 17:56:59


次の通信は、二月九日に、彼女の子供達に対して送られてきたものである。

「我が愛する子供達よ、神様は、あなた方のもとから、私を召されました。
でも、神様が下さったご褒美は、私が地上でなしたことに比べたら、
比較にならない程大きなものでした。
 
私のよい子達よ、神様のご意志を素直に受け止めなさい。
神様が下さるあらゆる恵みから、生の試練に耐える為の力を汲み取りなさい。
心に常に強い信仰を持ち続けなさい。

そうすれば、私と同じように、地上から天上界に還る際に大いなる祝福を受けるでしょう。
私が地上にいた間、そうしてくださったように、神様は、霊界に還った後も、
尽きることのない善意を注いでくださいます。
 
神様が与えてくださった、あらゆる恵みに感謝するのですよ。
神様を讃えるのです、

我が子供達よ。
いいですか、いつもいつも神様を祝福なさい。
神様から与えられた目的地を、決して見失ってはなりません。
そして、辿るべき道から決して逸れないように。

神様から与えられた地上の時間を使って果たすべき仕事に、常に思いをはせなさいね。

お互いにしっかりと結びつけば、あなた方全員が幸せになることが出来るのです。
そして、今度はあなた方が、自分の子供達を、しっかりと、神様から示された正しい方向に
育てれば、その子供達によって、あなた方が幸せになるのです。
 
ああ、私の姿を見られるといいのにね!
肉体が死んだからといって、絆が断たれるわけではないのですよ。
私達を結びつけているのは、肉体という入れ物ではなくて、霊そのものなのですから。

愛する子供達よ、
そういうわけで、私は、神様のご許可を頂いて、やがて私達の仲間になる
あなた方をこちらから導き、また、あなた方に勇気を与えることが出来るのです。

さあ、子供達よ、
今までと同じ愛をもって、その素晴らしい信仰をさらに育てていきなさい。
信仰を持つあなた方には素晴らしい未来が約束されています。

私も、地上にいる間に、そう言われていましたが、
地上でそれを実際に見るわけにはいきませんでした。

でも、今、霊界にいると、善意、正義、慈悲の神によって約束された幸福な未来が、
とてもよく見えるのです。
 
どうか、泣かないようにね、子供達よ。
あなた方に、こんなに沢山の贈り物を下さった神様、あなた方の母親に、
こんなにたびたび助けの手を差し伸べてくださった神様を、
さらに強く信じ、さらに愛しましょう。

この対話が、そうしたことの手助けになればと思います。

いつも神様にお祈りなさい。
祈りは、あなた方をさらに強くします。
私と同じように、神様から与えられた指示に熱心に従いなさい。
 
また来ますからね、子供達よ。
でも、アメリカにいる、可哀想な子を慰めなければなりません。
あの子は、まだまだ、私の援助を必要としているのです。
 
それでは、また。
神様の善意を信じるのですよ。
あなた方の為に、神様に祈ります。さようなら」

            <感謝合掌 平成29年3月9日 頓首再拝>

人間が死後に思うこと - 伝統

2017/03/11 (Sat) 18:30:33


            *Web より
             (http://cgi.shinkyaku.com/cate.cgi?18 )

1.人間が死後に思う10の内容 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131123a

(1)死んでみて、誰も悪く無かったことが真から分かった。

   解説1 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131124a


(2)人生で、あんなことでくよくよ悩まなければよかったなあ。

   解説2 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131125a


(3)他人が自分のことをどう思うかなんて、気にしなければよかった。

   解説3 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131126a



(4)もっと他人に親切にして、励ますだけでもすれば良かった。

   解説4 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131128a


(5)生きている時に、あんなに心配しなければよかった

   解説5 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131201a


(6)他人の言葉よりも、もっと自分の思いを信じればよかったなあ

   解説6 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131204a



(7)ああ、一瞬一瞬をもっと大切に生きればよかったなあ

   解説7 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131207a


(8)他人と言い争いなどしなければよかったなあ

   解説8 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131209a


(9)もっと他人のために何でも尽くせばよかった

   解説9 → http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131212a


(10)もっと自分自身を大切に扱えばよかったな

   解説10→ http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131223a



2.霊界に選ばれた博士 →  http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?131129a

3.自分のタメ“だけ”では嫌な執着に成ります
            →  http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?140114a

4.みんな本当は良い役者さんばかりです
            →  http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?140122a

5.期間限定だからこそ思いっ切り出来ます
            →  http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?140322a

6.死後は、相手の心境を自分が体験します 
            →  http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?150128a

7.深刻ぶることは何も無かった
            →  http://cgi.shinkyaku.com/k.cgi?170202a

               <感謝合掌 平成29年3月11日 頓首再拝>

アントワーヌ・コストー ~心優しき舗装工 その1 - 伝統

2017/03/14 (Tue) 19:50:21


          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P79~86)より


パリ霊実在主義協会のメンバー。
1863年9月12日、モンマルトル墓地内の共同墓地に埋葬された、この心優しき人は、
霊実在論によって神のもとに導かれた。

死後の世界に対する彼の信仰は、完全であり、真摯であり、また、深いものであった。
 
一介の舗装工であり、決して経済的に恵まれていたとは言えないが、
思いにおいても、言葉においても、行動においても、常に慈悲を実践していた。
自分よりも貧しい人々を助けていたのである。

協会は、彼の為に個人用の墓を買わず、共同墓地の費用を支払うに留めたが、
それは、「その差額を、まだ生きている人々の為に使った方がよい」と考えたからである。

さらにまた、「どんなに立派な霊廟に葬られようとも天国に行けない人がいる一方で、
貧弱な共同墓地が天国への門になり得る」ということも、充分、知っていたからである。

かつては、バリバリの唯物論者であり、現在は協会の秘書であるカニュ氏は、
墓前で次のような短い追悼の演説を行った。

「親しき兄弟コストーよ、ほんの数年前であれば、私達のうちの多くが
 ―― そして、私がその筆頭だったと思いますが ―― 、
こうして墓に横たわるあなたの姿を見て、そこに一人の男の哀れな最後を
認めただけだったでありましょう。

そして、『あとは、虚無、恐るべき虚無のみ』と考えたはずであります。
 
『魂が存在して、死後に、しかるべき世界に行く』とは知らなかったし、
したがって、『その行くべき世界を判定する神が存在する』ということも
知らなかったからです。

しかるに、今日、神聖なる霊実在主義の理論のお陰で、私達は、あなたの姿を見て、
『ようやく地上での試練が終わった』という事実を知るのです。

あなたは労苦の果てに勝利を得ました。

あとは、あなたの勇気、諦念、慈悲 ―― つまり、一言で言えば、あなたの徳 ―― 
に見合う報いを受けるのです。そして、何にもまして、正義にして善なる全能の神、
叡智に満ちた神の礼賛を受けるのです。

親しき兄弟よ、永遠なる神の足元に、どうか、私達の感謝の気持ちを届けてください。
神のお陰で、私達は、過ちと不信心の闇の中から救われたのですから。
 
少し前であったなら、私達は、陰鬱な顔をし、失望を胸に抱いて、あなたに対し、
『友よ、永遠にさらば!』と言っていたはずです。

ところが、今日、私達は、希望に満ちた額を高く上げ、勇気と愛を胸に抱いて、
『親しき兄弟よ、また会いましょう!』と言うのです」

霊実在主義協会に属する霊媒の一人が、まだ閉じられてもいない墓穴の前で、
次の通信を受け取った。そして、それを、墓堀人夫を含めた出席者の全員が聞き、
深い感慨に浸ったのである。

まだ遺体が横たわっている墓の前で、まさに、その死者からの
メッセージを聞くというのは、実に感動的な、新しい光景であった。


「ありがとう、友よ、ありがとう。私の墓は、まだ閉じられていません。
でも、もうすぐ、私の遺体は土で覆われることでしょう。
とはいっても、皆さんも、既にご存知のように、
私の魂までもが土に埋められるわけではありません。

私の魂は、空間を漂い、神に向かって昇っていくのです!
 
そして、肉体という乗り物は壊れたにもかかわらず、
次のように言うことが出来るのは、何という慰めでしょう。
 
『ああ、皆さん、私は全然死んでなんかいませんよ。
今こそ、本当の生、永遠の生を生きるのです! 』
 
哀れな男の葬式に参列しているのは、ごく僅かな人々であり、仰々しさは一切ありません。
しかし、その代わりに、聖霊達が数多く出席してくれています。
天使達が沢山来てくれているのです。

そして、出席者の全員が神を信じ、神を愛しています。
 
ああ、そうです。
体が滅びたからといって、私達は決して死なないのですよ。
 
愛する妻よ、私は、これからいつも、お前の側にいて、
お前が試練を乗り越えるのを助けてあげようと思っています。
お前にとって、人生はなかなか厳しいものとなるでしょう。

しかし、生命が永遠であることを常に思い起こし、神の愛で心を満たしていれば、
お前が受ける試練も、さほど辛いものとは思われないはずです。
 
我が愛する伴侶を囲む親族の皆さん、彼女を愛し、助けてあげてください。
彼女の姉妹、兄弟になってやってください。

神の住まいに入りたいのであれば、地上にあってお互いに助け合うことが大切です。
そして、霊実在主義者である、我が兄弟達よ、私に別れを告げる為に、わざわざ、
この塵と泥で出来た住まいまで来てくださってありがとう。

しかし、あなた方は、私が永遠の魂であることを、よくご存知です。
これから、時々、お祈りをお願いしに行きますので、どうぞよろしく。

生前、開いて頂いた、この素晴らしい道を、さらに進む為には、
どうしても、皆さんのお祈りが不可欠なのです。
 
それでは、皆さん、さようなら。
この墓ではない別の場所で再びお会いしましょう。
霊人達が私を呼んでいます。

それでは、さようなら。
苦しむ者達の為に祈ってあげてください。さようなら」

               <感謝合掌 平成29年3月14日 頓首再拝>

アントワーヌ・コストー ~心優しき舗装工 その2 - 伝統

2017/03/16 (Thu) 18:43:52


3日後、ある集いにおいて招霊されたコストー氏の霊が、
次の霊示を、別の霊媒を通じて降ろしてきた。


「死とは生に他なりません。私は、既に言われていることを繰り返すだけです。
しかし、いつまでも盲目であることを選んでいる唯物論者達が何を言おうとも、
それ以外の言い方はないのです。

ああ、友よ、霊実在論の旗印を地上に見るのは、実に美しい眺めですよ。
霊実在論は深遠な科学であり、まだ、あなた方は、霊実在論の
ほんの入り口に達したにすぎません。

誠実な人々に対して、つまり、恐るべき傲慢の鎖を打ち砕いて
神にひたすら信仰を捧げようとしている人々に対して、霊実在論は、
何という素晴らしい光となることでしょう。

祈ってください、地上の人々よ。
神が与えてくださっている、全ての恵みに感謝するのです。

まだまだ神の恵みを理解出来ない人が多い。
神の慈悲があまねく地上に降り注いでいることに気づかない為、
人間達は、神の思いを知り、それに従うことが出来ずにいるのです。

しかし、やがて、祝福された霊実在論の科学を通じて、その輝かしい光を通して、
人々は、神に至り、神を理解することが出来るようになるでしょう。

霊実在論の暖かい光から、人々は暖を取り、信仰と慰めを見出すでしょう。
霊実在論の生き生きとした光のもとに、教授も労働者も集って一体となり、
兄弟愛が何であったかを知ることになるでしょう。

ああ、兄弟達よ、あなた方は、人類の再生を果たすことになる聖なる仕事の
最初の理解者であるのです。それがいかほどの幸福であるか、思ってみてください。
あなた方に栄光がありますように。どうか、そのまま続けてください。

そして、やがては私のように霊の祖国に還り、
『死とは生である!』と高らかに宣言するのです。

或は、人生とは、一種の夢、ほんの一瞬しか続かない悪夢のようなものだと
言うべきかもしれません。人がそこから抜け出すと、友人達がやってきて取り囲み、
次から次へと祝福してくれ、そして、嬉しそうに握手してくれるのです。

私の幸福はあまりにも大きかった為に、私が地上でなした、たったあれだけのことに対し、
神がこれだけの恩寵をくださったことが、どうしても理解できませんでした。
私は夢を見ているのではないかと思いました。

自分が死んだという夢を見ているのではないかと思ったのです。
そして、目が覚めて、また肉体の中に戻ることになるのではないかと
不安になったくらいです。

しかし、暫くして、これが現実なのだと分かり、心から神に感謝したのです。

そして、私を目覚めさせてくださり、
死後の世界に備えてなすべきことを教えてくださった、
アラン・カルデック師を祝福いたします。
そうです。私は師を祝福し、師に感謝いたします。

『霊の書』(1856年刊のアラン・カルデックの主著)は、
私の魂の中にあった神への愛を目覚めさせてくれたのです。
 
わがよき友よ、私を招霊してくださってありがとう。
他のメンバーの皆さんにも、私は、しばしば、我らが友人サンソン氏と一緒にいる
とお伝えください。

では、さようなら。
勝利があなた方を待っています。
この闘いを闘い抜く者は幸いです」

この時以来、コストー氏は、しばしば、パリ霊実在主義協会の集いや、
それ以外の集いに参加した。
そして、進化した霊に特有の、高度な考えを披露してくれた。

               <感謝合掌 平成29年3月16日 頓首再拝>

死後、魂はどこに向かうのか - 伝統

2017/03/21 (Tue) 17:56:33


        *「あの世のひみつ」美鈴・著(P223~226)より

死の瞬間からあの世へ移っていくプロセスをご説明しましょう。

臨終を迎えるとき、体がばたばた動くのは苦しんでいるからではなく、
肉体のスーツを脱ごうとしているからです。

肉体から抜け出して魂と幽体となり、自分の体を外側から見ます。

この世に強い執着を遺している人は、肉体をなかなか脱ぐことができず苦労します。

ともかく、肉体から抜け出したとき、ほとんどの方はこんなふうに思います。

「私は死んだのか。ここに私がいつのに、肉体はあそこにある。
どちらが本当の私なんだろう。みんなが泣いている。
死んだというのに、どこも痛くないし、苦しくない」

自分が死んだことをすぐ理解出来る人もいますが、中には、
肉体に戻ろうとして、肉体の上に重なってみたりする人もいます。

そのとき、トントンと肩を叩かれます。
あの世からお迎えが来たのです。

身内や先祖が迎えにくるケースが大半です。
死んでしまったけれど、身内がいるのでこわくありません。

肉体と霊、幽体はシルバーコードと呼ばれるもので結ばれています。
シルバーコードがつながっているうちは、死ではありません。

臨死体験をして現世に戻った人は、シルバーコードをつけたまま、
あちこち見て回ったのです。

シルバーコードが切れると、完全な死です。

シルバーコードが切れて、死を迎えたら、
枠四十九日の間は幽現界という現世と重なり合った世界にいます。

そして、なつかしい場所や愛する人がいる場所にあいさつなどに出向き、
執着を落とします。

その後、お迎えに来てくれる身内や先祖に導かれながら安心して、
個性や人格はそのままに幽界という階層へ浄化していくのです。


でも、遺族が 「帰ってきて、私を一人にしないで」 と故人に執着すれば、
残してきた人たちのことが心配で、なかなか浄化できません。


事故で亡くなった故人の死を悼んで事故現場に花束やお線香、飲食物を
お供えするのは、死者にとってはかわいそうなことです。

もちろん、遺族の悲しみも痛いくらい伝わってくるのですが、
これでは死者の霊は成仏できません。


死を迎えたら、肉体を捨ててあの世へと帰らなくてはいけないのに、
お葬式を終えても、事故現場に遺族が執着し、死者に語りかけていては、

霊も事故に対する後悔や遺族を悲しませていることを気にして、
事故現場に執着せざるを得なくなるのです。

そのような場所を通るたびに私は、悲しそうな表情の未浄化霊を目にします。
また、そのような場所では、未浄化霊の放つ悲しい波長がまた同じような事故を
引き起こしてしまうのです。

道端の花束を見かけたら、不吉だと思わずに

「成仏して一日も早く楽になってくださいね」

と唱えてあげてください。


そして、もしあなたの身近な方が、不慮の事故で命を落とされたときは
思い出してください。

事故現場にはお供えはいりません。

できるならば。事故現場へは、お葬式の前までに出かけ、
一所にお葬式に行こう・・・ おうちに帰ろう・・・ 
「もう痛くないからね・・・進むべき道へ進もうね・・・」
と連れて帰ってあげてください。

死者にいつまでも執着してはいけません。

五十日ほどたったら、涙を拭いて、快くあの世へ送り出してあげましょう。
生前の愛用品や部屋への執着は、なるべく早くなくしましょう。

遺族にとっては、決して簡単なことではありませんが、
そうしてあげることが何よりも大切なお弔(とむら)いであり、
愛でもあるのです。

               <感謝合掌 平成29年3月21日 頓首再拝>

執着を手放す - 伝統

2017/03/25 (Sat) 18:09:29


        *「あの世のひみつ」美鈴・著(P227~228)より

あの世での浄化の妨げとなるのが、執着です。
死後、四十九日までの間、幽現界にいる霊が私のもとによく現れます。
そして、「家族に見られたくないものを処分してくれ」と頼まれます。

「あれを見られたら死んでも死に切れない」と懇願されますが、
私は物質界に生きる身です。

遺族のお宅にこっそり入り込んで何かを持ち出したりすると犯罪となってしまいます。
自分の死後見られたくないあやしげなビデオ、下着、書類は早めに
処分しておくことをお勧めします(笑)。

土地やお金に対する執着も浄化を妨げます。

財産分与をとても気にして、いつまでたっても遺族の周辺にして、
「これはワシのものだ! 」と、執着している霊もいます。

あまりにも執着が強すぎて、四十九日が過ぎても自分の土地や屋敷から離れることが
できず、未浄化の状態を何百年も続けているベテラン浄化霊さんのあわれな姿の
なれのはては、とてもみにくいものです。

いくら財産を作り、高い地位や名誉を得たとしても、あの世には持っていけません。

あの世へ持っていけるのは、この世で経験したこと、
そのとき得た感動のみなのです。

現世から幽現界、幽界、そして霊界へとスムーズに浄化が進むように、
執着はなるべく、軽くして生きたいものです。

               <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>

愛する人が死を迎えたら - 伝統

2017/03/26 (Sun) 18:18:11

        *「あの世のひみつ」美鈴・著(P228~232)より

愛する人が亡くなるのは、悲しいことです。

でも、いつまでも痛手から立ち直れず、社会生活が正常におくれないようでは、
死者を悲しませることになってしまいます。

悲しみの涙にくれてばかりいる姿を、愛する人が霊界から見ていたら、どう思うでしょう。
何とか立ち直って、自分の人生を生きてほしいと願うはずです。

それに、現世に残してきた人に対する心配が続くと、
浄化の妨げとなってしまいます。
最もいい供養は、故人より高い人格になるように努力すること。

現世の遺族が精一杯がんばっている姿を目にしていると、
「私もこのままじゃいけない」と浄化して上のステップに進めます、

愛する人のことを無理に忘れる必要はありません。

私たちもいつの日か現世に別れを告げ、必ずあの世で愛する人と再会できます。
しばらく離れていたけれど、即座に親密な仲に戻れます。


もし、いま死を迎えようとしている人がいるなら、
まず、呼吸を合わせてください。

同じようなペースで呼吸しているうちに、言葉は交わせなくても、
その方の思いは伝わってきます。

死を迎えるときに苦しいのは、肉体の苦しみではなく、
孤独感という心の悲しみです。

でも、そこに寄り添ってくれる人がいてくれたら、
孤独も恐怖もやわらぐはずです。


認知症を患って亡くなる方の場合、
「どうせ、何もわからなくなっているのだから」
と思い込んではいけません。

脳や体が誤作動を起こしていても、魂は正常です。

認知症の方は、現世で達成できなかったことを悩み苦しんでいます。

そうした心の声に耳を傾けてあげてください。

「私の知っているお父さん(お母さん)がこんなになってしまって・・・」
と幻滅してはいけません。

「しっかりと私を育ててくれたありがとう」
「看取るのは大変だけど、迷惑じゃないよ」

と伝えてあげましょう。
気を長く持って、聞いてあげる努力を・・・。


そして、私たちがしてあげる一番の供養は、
故人に心配をかけないように生きることです。

「幸せだよ」
「私、がんばっているよ」
「見守ってくれて、ありがとう」と

声をかけてあげること。

それが、どんなお供えよりも喜ばれる供養になるのです。

(中略)

現世では、お通夜やお葬式という儀式を執り行ないます。
死後、すべての霊は、その会場に必ず存在しています。

そこで、「私は本当に死んじゃったんだな。もう何も思い残すことはない。
いい人生だった、ありがとう」と、死を自覚して
次の道を、安心して歩んでいけます。

義理でしかたなく顔を出したり、遺産相続など下世話な話をすると、
霊はとても悲しみます。


自殺した人のお葬式は、盛大なお葬式をするべきだと思います。
多くの人が集まってくるのを見て、自分が死んだことを
はっきり認識できるからです。

そして、故人の長所や生前に行なった善行をほめてあげましょう。
どれだけ愛されているかを語ってあげてください。

自殺という大きな罪を犯したことを反省し、
死へのとらわれを脱して浄化できるのです。

               <感謝合掌 平成29年3月26日 頓首再拝>

火事に遭って亡くなった女性~その1 - 伝統

2017/03/28 (Tue) 19:03:12

エマ嬢 ―― 火事に遭って亡くなった女性

          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P86~88)より

火事に遭遇し、ひどく苦しんだあとに亡くなった、若い女性である。
その死から、ほんの少しあと、1863年7月31日に、パリ霊実在主義協会において、
ある人が招霊を提案したところ、自発的にそれに応じて降りてきてくれた。
 
「いったんは、無垢と若さのヴェールの彼方に永遠に身を隠すつもりでいましたが、
今こうして再び地上という劇場に登場いたしました。

『地上での火事が、私を地獄の業火から救ってくれた』、
そんなふうに、カトリックの信仰に基づいて考えておりました。

ところが、実際には、すぐ死ぬこともできず、
私の魂は、打ち震えつつ、苦しみの中で償いを果たしたのです。
私は、うめき、祈り、そして泣きました。
 
しかし、苦痛に耐える弱い私に力を与えてくれる存在がありました。
苦しみの床に横たわり、熱に浮かされて、うつらうつらと長い夜を過ごすわたしを、
優しく見守ってくれる存在があったのです。

私の乾燥しきった唇を潤してくれる存在がありました。
それが、私の守護天使だったのです。

また、わが親しき霊人たちであったのです。
彼らが、私のもとに来て、希望と愛の言葉をささやいてくれたのです。

炎が私の弱い体を焼き付くし、執着から解放してくれていました。

ですから、私は、死んだ時には、
既に真実の生き方をしていたと言ってもいいでしょう。
混乱はありませんでした。

晴れ晴れとして霊界に入り、輝かしい光に迎えられました。
この光は、たくさん苦しんだ末に、ごくわずかばかりの希望を捨てずにいる者たちを、
優しく包んでくれるのです。

お母様、私の懐かしいお母様の思いが、私が地上で最後に感じた波動でした。
ああ、お母様も早く霊実在論に出会えるとよいのに!
 
熟れた果物が枝から落ちるように、私は地上の木から解き放たれました。
若さに酔い、輝かしい成功に酔った魂が必ず陥る傲慢から、
私は、かろうじて免れておりました。
 
私を焼き尽くした炎に祝福あれ!
苦しみに祝福あれ! 
試練 ―― 実は償いであったのですが ―― に祝福あれ!
 
私は光の奔流に浮かんで漂っています。
私の額を飾るのは、もうダイヤモンドではなく、
神様から頂いた、燦然たる金色の星なのです」

               <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>

火事に遭って亡くなった女性~その2 - 伝統

2017/03/29 (Wed) 18:11:51

エマ嬢 ―― 火事に遭って亡くなった女性~その2

          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P88~89)より
 
ル・アーヴルのセンターに、同じく自発的に降りてきたエマの霊から、
次のような通信を受け取った。1863年8月3日のことである。


「地上で苦しんでいる人々は、あの世において報われます。
地上で苦しんだ人々に対し、神は正義と慈悲に満ちて接してくださいます。

神は、死後に、かくも純粋な幸福と、かくも完全な歓喜を
用意してくださっていますので、死とその苦しみを恐れる必要は全くありません。

神のご計画は本当に神秘的なものなのです。
 
地上とは、しばしば、とても大きな試練に満ちた場所であり、
しばしば、とても深い苦悩に満ちた場所であります。

試練や苦悩に出会っている人々は、それらを甘受すべきでしょう。
重い荷物を神から与えられている人々は、全能なる神の善意の前に頭を垂れるべきです。
 
大いなる苦しみの後に、あの世において神のそばに呼び寄せられる人々は、
[幸福なあの世の生活にくらべれば、地上の苦しみ、苦労など、何ほどのこともなかった]
ということを知るはずです。

私は、若くして地上を去りましたが、神様は、私を許してくださり、
神様の意志を尊重した者達に与えられる人生を与えてくださいました。

皆様、常に神様を讃えてください。
心を尽くして神様を愛してください。
よく神様に祈ってください。強く神様に祈ってください。

地上では、それが支えとなり、希望となり、救いとなるでしょう」

               <感謝合掌 平成29年3月29日 頓首再拝>

人間は死なない - 伝統

2017/03/31 (Fri) 17:57:52


          *「生活の智慧365章」(P110~111)より

人は無限の進歩に対する欲求をもっている。
それは切実なる願いである。

吾々は「存在の根元」を知ろうとし、
「現象の奧」に横たわる法則を発見しようとし、
善を求め、美を追求し、飢え渇く如く進歩と向上とを願って来たのである。

その願いの主体者である個生命なる「自己」が死と共に終焉を迎える
ということは到底不合理であって考えることはできないのである。

肉体は死するであろう。
脳髄は働かなくなる。
脳髄を通して発現していた意識は消える。

しかしそれで吾々の「心」が無くなるのではないのである。
「心」を主体とする「人間」は死んだのではないのである。
ただ肉眼に見える人間の衣服(肉体)がほころびて剥落しただけである。

眼鏡が破れ落ちても魂の眼は見え感ずることができるのである。

肉体の衣服を通して経験して来た色々の知識も知恵も能力も悟りも、
肉体の衣服を脱ぎ肉体の眼鏡をはずしてからも、吾々の魂は引き続いて持っており、
次なる進歩の経験を待ち構えているのである。

吾々は永遠なる存在であり、内に”無限”を蔵しながら、
永遠にその無限を開顕しつつ無限に進歩し行く生命(せいめい)なのである。

               <感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>

ジョゼフ・ブレ ~ 孫娘に招霊された男性 - 伝統

2017/04/06 (Thu) 19:27:14


          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P102~105)より


   1840年に死亡。1862年、孫娘によって、ボルドーにおいて招霊される。
   「人間から見て正しい人間とは? 」「神から見て正しい人間とは? 」という
   テーマで話してくれた。


――おじいちゃん、こんにちは。霊界で、どんな生活をしていますか? 
  あと、私たちが向上するために、どうすればよいのか、少し詳しく教えてください。


「知りたいことは何でも教えてあげよう、いとしい孫よ。
いま、私は地上時代の信仰の不足をこちらで償っているのだが、神様は本当によいお方だ。
わしが置かれていた境遇を充分に考慮してくださる。

わしは、いま苦しんでおる。とはいっても、おまえたちの苦しみとは異なるがな。
わしは『地上にいたときに時間を有効に使わなかった』ということを悔やんでおるのじゃ」



――「時間を有効に使わなかった」ってどういうことですか? 
  おじいちゃんはずっと正しく生きていたではありませんか……」


「そう、人間の目から見て『正しい』と思われる生き方はした。
じゃがな、人間の目から見て正当なのと、神様から見て正当なのとでは
雲泥(うんでい)の差があるのじゃ。

よいかな、しっかりと聞くのだよ。
これから、その違いを説明してみよう。

地上界では、法律をしっかり守れば正当な生き方だとされる。
『人の財産を奪う』というような悪を働かなければいちおうは、正しい人間とされるのだ。

ところが、人間と言うものは、人の名誉や幸福を奪っておきながら、
それを自覚せずに平然としていることが、しばしばあるものじゃ。
しかも、そうしたことは、法律でも世論でも罰せられない。

死んだときに墓石に長々と生前の徳行を書き連ねることができれば
『地上生活での借金は全部返せた』と思うのが普通じゃな。

ところが! これが違うのだ。

神の前で正しくあるためには『人間の法律を破らなかった』というだけでは
充分ではないのじゃ。何よりもまず、神の法にそむかぬようにせねばならぬ。


神の前で正当とされる人間とは、どんな人間であるか。
それは、愛を込めて人々にひたすら尽くし、善のために全生涯を使い、
同胞(どうほう)の進歩のためにすべてを捧げた人間のことじゃ。

正しい目的を追求せんとする情熱に満たされ、生き生きと人生を送る者のことじゃ。
みずからに課せられた物質世界での仕事をしっかりと果たす者のことでもる。
というのも、同胞たちに仕事への愛を教える必要があるからなのだ。

しかも、良き仕事を一生懸命にやる必要がある。
というのも、やがては、神様から『自分の時間をどう使ったか報告せせよ』
と言われるからなのだ。


正しい目的をしっかり追求せねばならぬ。
というのも、神への愛と、隣人への愛を、身をもって示さねばならないからである。


神から見て『正しい』とされる人間になるためには、
辛辣(しんらつ)な言葉を避けなければならない。
辛辣な言葉には毒が含まれているために相手を傷つけるし、
また、しばしば、正しい人間を物笑いの種にしてしまうことがあるからだ。

神から見て正しい人間とは、心の中に、傲慢(ごうまん)、嫉妬(しっと)、野心の、
どんなに小さな種も持っていない人間のことなのだ。


自分を攻撃してくる人間に対して、忍耐強く、優しくあらねばならない。
自分を侮辱した者を、努力することなしに、心の底から許さねばならない。
しかも、それを決して見せびらかしてはならない。

さらに、あらゆる人間を愛し、そのことを通じて神を愛さなければならない。

つまり、人間の義務に関する、
次の極めて簡潔で、極めて偉大な決まりを守るということなのじゃ。

『すべてにまして神を愛し、また、隣人をみずからのごとくに愛すること』


わがいとしい孫娘よ、以上が、神の前で『正しい』とされる人間なのだよ。


それでは、私は、それらをすべて行っただろうか? 
とんでもない! わしは右(上)の条件の多くを果たさなかった。

ここで正直に告白しておこう。
わしは、人間として当然果たさねばならぬことを果たさなかった。

神を忘れることで、神の法も忘れたのだ。
人間の法律を犯すことはなかったが、だからといって、
神の法を遵守(じゅんしゅ)しなかった罪を免れることができるわけではない。

そのことを知ったとき、わしは、すいぶん苦しんだが、現在は希望を持って生きている。
わしの悔い改めをご覧になった神様のご慈悲(じひ)におすがりしてるわけじゃ。


よいか、孫娘よ、わしが今日話したことを、
良心が麻痺している人々に、繰り返し教えてやるのだ。

彼らが、みずからの過ちを善行によって覆(おお)い尽くせるように、
助けてやっておくれ。そ

うすれば、神様は、優しいまなざしで、表面を覆う彼らの償いの数を数えて評価し、
その奥に隠されている過ちは見ない振りをして、
それらを、慈悲あふれた御手(みて)で、そっと消し去ってくださるのだよ」

               <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>

人間に死はない - 伝統

2017/04/12 (Wed) 19:15:01


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月12日)」より

大脳を除去した鶏(にわとり)は食物(しょくもつ)を漁(あさ)ることはできないが、
穀物をその嘴(くちばし)に入れてみると、やはり嚥下(えんか)する。

蛙の心臓を切りとって塩水中に置けば、暫時心臓は生活を続けて、その鼓動を続ける。
これは意識は脳髄から発現するものではなく、
脳髄も胃腸も心臓も「意識」のラジオ・セットにすぎないことを物語っているのである。

意識の本体は別にあって、それが大脳にも、胃腸にも心臓にも感応して、
同一リズムの生活現象を連絡的に継続するのである。

人体全体は大小各種のラジオ・セット(各器官)が同一放送を受け
て一大交響楽を奏しているようなものである。

ただ、その各ラジオ・セット(各器官)は独立したものではなく、複雑に連絡しているので、
器官相互の連絡が断たれたとき、各セットの機能が完全に行なえなくなり、
各セットに、生命の放送の波が再現しなくなるだけである。

この現象を「死」というが、
「生命」そのものは死んだのではなくて、「人間」そのものは死んだのではなく、
ただ「人間」が利用していたラジオ・セットが破壊しただけである。

もっとも、肉体なるラジオ・セットの製造者は誰であるかというと、
『甘露の法雨』にあるとおり、「生命(せいめい)」(人間それ自身)である。

肉体はその「生命(せいめい)」が「念(こころ)の糸を組み合わせて」作ったものではあるが、
それが小さい故障である場合には再び「念(こころ)の糸」で修繕して再用する。

しかし、大なる損傷であって、「念(こころ)の糸」で補填(つぎはぎ)するよりも、
新たに根本から「念の糸」で編み直しをする方が便宜であり、その方が環境も位置も変化して
「生命」それ自身進化に都合のよい場合には、

「生命」は、その「肉体」なるラジオ・セットをそこで修繕しないで、
新たなる位置(胎内)を物色してそこにラジオ・セット(肉体)を
「念(こころ)の糸」を組み合わせて造築しはじめるのである。

人間に死はない。このことが本当にわかれば人類は歓喜する。

            <感謝合掌 平成29年4月12日 頓首再拝>

エレーヌ・ミシェル嬢ー突然死亡した女性 - 伝統

2017/04/15 (Sat) 18:22:29


          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P106~109)より

25歳の時に、突然、何の前触れも無く、数秒のうちに死亡したが、
苦しむことはなかった。

裕福だったが軽薄であったために、真面目な事柄に取り組むよりも、
目先の楽しみに心を奪われて生活した。

とはいっても、よこしまなところは全くなく、
善良で、優しく、思いやりに溢れ、愛に満ちていた。
 
死の3日後に、知人によって招霊された彼女は、次のようなメッセージを送ってきた。

 
  「自分がどこにいるのか分かりません・・・・。混乱しています・・・・。
  あなたが呼んでくださったので、来たのですけれど・・・。
  どうして自分の家にいないのでしょう・・・・。
 
  家では、みんなが泣いていました。私は、ちゃんといるのに。
  でも、私がいることに誰も気がつかないのです・・・・。

  私の体は、もう私のものではありません。
  それがとっても冷たいのが分かります・・・。

  身体から離れたいのに離れられません。
  何度も何度も体に戻ってしまいます・・・・。
  まるで自分が二人いるみたい・・・・。
 
  ああ、一体いつになったら、何が起こったのか分かるのかしら・・・・。
  あちらに行かなくては・・・・。もう一人の私は、どうなってしまうのかしら?
  ・・・・さようなら」

 
肉体と霊が完全に分離していないので、
自分が二人いるように感じられているのである。

あまり真面目ではなく、しかも財産に恵まれていたので、
色々な気まぐれを満たすことが出来た為に、
軽薄さが、傾向性として、かなり強く固定されたようである。

したがって、肉体と霊の分離がそれほど速く行われないのもうなずける。
死後3日経っているというのに、まだ肉体に繋ぎ止められているのである。
 
しかし、生前に深刻な罪を犯しておらず、心は奇麗なので、
こうした状況も苦しみを引き起こすことはなく、
それほど長く続くわけではない。

この日から数日して再び招霊してみると、随分変化があった。
以下が、そのメッセージである。


  「私の為にお祈りをしてくださって、どうもありがとうございました。
  優しい神様のおかげで、肉体と霊の分離に伴う苦しみと恐れがありませんでした。
 
  お母様は、諦めがつくまでは、まだまだ苦しまれることでしょう。
  でも、きっと元気を取り戻すことができると思います。

  今回のことは、お母様にとっては耐えがたい不幸と思われるでしょうが、
  お母様が天国のことに気づくためには、どうしても必要なことだったのです。

  お母様の地上での試練が終わるまで、
  私は、ずっとお母様のおそばにいるつもりです。
  そして、試練に耐えられるように助けてさしあげるつもりです。
 
  わたしは不幸ではありませんが、天国できちんとした生活が出来るためには、
  もっともっと向上しなくてはなりません。
  もう一度、地上に生まれ変われるように、神様にお願いするつもりです。

  だって、今回の人生で無駄にした時間を償う必要があるのですもの。
 
  みなさま、信仰を大切になさってくださいね。
  心から発したお祈りは、本当に効果があります。神様はよき方です」


 ―― 自分を取り戻すまでには、だいぶ時間がかかったのですか?

  「あなたがたが祈ってくださった日に、自分が死んだということが分かりました」

 ―― 混乱している間は、苦しかったですか?

  「いいえ、苦しんではいませんでした。『夢を見ている』と思っていたのです。
  そして、夢が覚めるのを待っていました。
 
  もちろん、私の人生に苦しみが無かったというわけではありません。
  でも、地上に生まれれば、みんな苦しみは味わうものです。

  わたしは神様のご意志に従いました。
  そして、神様はそのことをちゃんと見ていてくださいました。
 
  祈ってくださって、本当にありがとうございます。
  そのおかげで、自分を取り戻すことが出来たのです。
  ありがとうございました。
 
  また呼んでくだされば、いつでも喜んで降りてくるつもりです」

            <感謝合掌 平成29年4月15日 頓首再拝>

人間は死んでも死なないものだ - 伝統

2017/04/25 (Tue) 18:24:16


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月25日)」より

スウェーデンボルグは18世紀の有名なる宗教哲学者兼霊能者であった。

1761年スウェーデンの女王はウェーデンボルグの評判を聞いてこれを招き、
女王以外の生存者の誰も知らないある故人に関する事柄をスウェーデンボルグに
聞いたことがあった。

すると数日後、彼は幽界と交通してその女王に答えをもたらしたのであったが、
その答えはまったく的中していたので懐疑的な女王を驚かした。

また、同国の首府に駐在のオランダの使節が死亡した後、
ある金銀細工師が使節に用建しておいた銀製の食器の代価を
使節の未亡人に要求してきた。

使節未亡人は、夫がその代価を確かに支払ったかどうか不明であったので、
スウェーデンボルグに頼んで、夫の霊魂を招び出してもらって
その事実を聞き訊(ただ)すと、夫の霊魂は出て来て
「死の7カ月前に支払った。その領収書はどこそこの箪笥にある」と答えた。

果たしてその教えるとおり箪笥の中から、その領収書が発見されたということは
有名な歴史的事実である。

人間は本当に死んでも死なないものだ。

遺族たちよ、この一事を知っていただきたい。

            <感謝合掌 平成29年4月25日 頓首再拝>

アンナ・ベルヴィル ―― 長く病気に苦しんだ若い母親 - 伝統

2017/05/01 (Mon) 18:54:51

アンナ・ベルヴィル ―― 長く病気に苦しんだ若い母親 ~その1

          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P109~120)より

長いあいだ病気に苦しんだあげく、35歳で亡くなった女性。
生気にあふれ、霊的で、類まれなる知性、正しい判断力、高い精神性に恵まれていた。

献身的な妻であり、母であり、たいへんしっかりした女性であり、
どのような危機的な状況に置かれても決してくじけないだけの、
精神的な強さを持っていた。

彼女につらく当たる人々に対しても、決して恨みを抱かず、
機会さえあれば、そういう人々に尽くそうとした。

私は、長年のあいだ、彼女と親しくしていたので、
彼女の人生のあらゆる段階のことをよく知っており、
最後の日々の出来事もつぶさに知っている。

彼女は、ある事故から、ひどく重い病気になり、
3年のあいだ、ベッドに伏せることとなった。

最期の瞬間まで、ひどい痛みに苦しんだが、
彼女は決して本来の陽気さを失うことなく、けなげに痛みに耐えた。

魂の存在と死後の世界の存在を固く信じていたが、
普段は、そうしたことをあまり気にしていなかった。
常に現在を大切にし、現在に集中して生きており、死を恐れることはなかった。


物質的な喜びには関心がなく、非常に簡素な生活を送り、
手に入らないものを欲しがるようなことはなかった。

だが、生まれつき、よいもの、美しいものを知っており、
生活の細部に至るまで、そうしたものへの配慮を貫いていたのは事実である。

子供にとって自分が必要であることがよく分かっていたので、
自分のためよりも、子供のために、もっと長生きしたかった。
彼女が生きることに固執したのは、実はそのためであった。

霊実在論を知ってはいたが、詳しく勉強したことはなかった。
霊実在論に興味は抱いていたのだが、
それが彼女の心を占めることはなかったのである。

霊実在論が真実であることは分かっていたのだが、
深く研究してみようという気にはならなかったということである。

 
彼女は、よいことを多くなしたが、それは、自発的に、自然にそうしたまでであって、
死後の報いを得たいから、あるいは、死後に地獄に行きたくないからということで、
そうしたわけではなかった。

ずいぶん前から病勢が進んでおり、人々は、
いずれ彼女が逝(ゆ)かねばならないものと見ていた。
彼女自身もそれは自覚していた。

夫が外出していたある日、彼女は、自分がもうすぐ死ぬことを悟った。
目がかすみ、意識が混濁し、魂と肉体の分離に伴うあらゆる苦しみが彼女を襲いはじめた。
しかし、夫が帰る前に死ぬのはつらかった。

そこで、最後の力を振り絞って、「まだ死にたくありません」と言った。
すると、また力が湧いてきて、何とか持ちこたえることができた。

ようやく夫が帰ってきたとき、彼女はこう言った。

「私はもうすぐ死ななければなりません。
でも、最期の瞬間に、あなたに、そばにいてほしかったの。
だって、あなたに言っておきたいことが、まだいくつもあるのですもの」

その後も、生と死の戦いは続き、彼女は、さらに3か月、生き延びたが、
それは大変な苦しみに満ちた日々であった。

               ・・・

死の翌日に招霊を行った。

「わたくしのよきお友達のみなさん、わたくしのことを気にかけてくださって、
ありがとうございます。みなさんは、わたくしにとって、よき親戚のようなものでした。

ところで、わたくしは、現在、幸せですので、喜んでください。
わたくしのかわいそうな夫を安心させてください。
また、子供たちを見守ってあげてくださいね。
このあとすぐ、彼らのところにも行ってみますが・・・」


―― あなたの様子からすると、死後の混乱は長く続かなかったようですね。

「友人のみなさん、わたくしは、死の前に、ずいぶん苦しみました。
でも、それを甘受したことは、みなさんもご存じのとおりです。
わたくしにとっての試練は終了しました。

わたくしは、まだ完全に物質界から離脱したわけではありませんが、
もう苦しみはありません。何という慰めでしょう。
こうして根本的に癒されたのです。

でも、地上に降りてきて、あなたがたと一緒にお仕事するためには、
あなたがたのお祈りが必要です」


―― あなたの長い苦しみの原因は何だったのですか?

「それは恐ろしい過去です」

―― 恐ろしい過去とは?

「ああ、もう思い出したくありません。本当に高く支払う必要があったのです」

              ・・・

死の1ヶ月後、再び招霊した。

―― あなたは、既に物質界からの離脱を完全に果たしたと思いますし、
   自分をしっかり取り戻したと思います。
   そこで、前回よりも突っ込んだ形で、色々とお伺いしたいのですが、
   よろしいでしょうか?

   あなたの長い苦しみの原因は何だったのか、教えて頂けますか?
   3ヶ月の間、生と死の境で苦しまれましたね。
 

「わたくしの言ったことを覚えていてくださって、お祈りしてくださったことに、
心からお礼を申し上げます。お祈りは本当に私を助けてくれました。
お祈りのお陰で、地上からの離脱が大分楽になったのです。

でも、まだ支えて頂く必要がありますので、申し訳ありませんが、
今暫くお祈りしてくださるようお願い致します。
 
あなた方は、お祈りがどのようなものであるか、よくご存知です。
殆どの人のお祈りは、単なる決まり文句にすぎませんので、よき効果をもたらしませんが、
あなた方のお祈りは、切なる心、純粋なる心から出ていますので、
本当に素晴らしい効果があります。

ええ、死の直前、私は、とても苦しみました。
でも、苦しんだお陰で、私は、大分償いを果たすことが出来たのです。

そのために、今では、子供たちのそばに頻繁に行くことが許されています。
でも、あの子たちと別れるのは本当に辛かった・・・。
 
あの苦しみを長引かせたのは、私自身だったのです。
『子供達と少しでも長く一緒にいたい』という思いが、肉体への執着となりました。

本来なら、きっぱりと肉体を脱ぎ捨てるべきだったのですが、
私は、逆に頑になってしまい、いつまでも肉体にしがみついていたのです。

そのために、肉体が私の苦しみの道具となってしまいました。

以上が、あの3ヶ月間の苦しみの真相です。
 

病気と、それによる苦しみに関して言えば、
あれは、わたくしの過去のカルマの清算の意味がありました。
私の過去の”借金”を支払う必要があったのです。
 
ああ、友人の皆様、わたくしが、生前、皆様のお話をよく聞いていれば、
現在の生活は、どれほど変わっていたか分かりません。

神様の御心(みこころ)をもっと信頼し、流れに身を任せていたならば、
最後の苦しみも、もっともっと和らいだことでしょうし、
肉体と魂の分離も、もっと簡単に行われたことでしょう。

でも、わたくしを待っていた死後の世界に目を向けるよりも、
目の前の現実に執着してしまったのでした。
 
次回、地上に転生するときには、必ず霊実在主義者になるとお誓いいたします。
何という広大な科学でしょう。
わたくしは、よくあなた方の集いに参加し、そこでやり取りされる情報に耳を傾けます。

地上にいる時に、そうしたことを知っていれば、
わたくしの苦悩は随分和らいだことだろうと思うのです。

しかし、時が充分に熟していなかったのでしょう。

現在では、わたくしは、神様の優しいお心と公平さを理解することが出来ます。
でも、地上のことからすっかり解放される程、悟りが進んでいるわけではありません。
特に子供たちのことが気になっております。

あの子たちを甘やかしたいのではなく、あの子たちを見守り、
出来れば霊実在論の教えを実践出来るようにしてあげたいのです。
 
そうです、お友達のみなさん、私には、まだまだいくつも気がかりがあるのです。
子供たちの死後の行く末については、特に気になります」



―― 生前のことで残念に思っていることはありますか?

「お友達のみなさま、わたくしは、ようやくすべてを告白する用意が出来ました。
わたくしは、母の苦しみを、充分、理解してあげることが出来なかったのです。
母が苦しむのを見ても、同情するということがありませんでした。

『自分で勝手に病気だと思い込んでいるだけだ』と思っていたのです。
母が寝込むということはなかったので、『実際には苦しんでいないのだろう』
と思っており、母の苦しみを本気にせず、ひそかに笑っていたのです。
 
それが、私の苦しみの原因になったのでした。神は全てを見ておられるのです」

            <感謝合掌 平成29年5月1日 頓首再拝>

アンナ・ベルヴィル ―― 長く病気に苦しんだ若い母親 ~その2 - 伝統

2017/05/04 (Thu) 18:01:10


死後6ヶ月経った時、さらに招霊を行った。

「わたくしが地上にあったとき、人々はわたくしを善人と思っておりましたが、
実際には、わたくしは、何よりもまず自分の快適さを考える人間だったのです。
生まれつき、人を思いやる心は持っておりました。

でも、『可哀想な人を助ける為に自分の生活を犠牲にする』
というところまでは行きませんでした。
 
現在では、わたくしも大分変わりました。相変わらず、わたくしはわたくしですが、
でも、もうかつてのわたくしではありません。
というのも、次のことが分かったからです。

それは、『見えない世界においては、心境の高さ以外に価値を測る物差しはない』
ということです。したがって、金持ちだけれども傲慢な人よりも、
貧乏だけれども思いやりのある善人の方が、その境涯がはるかかに高いのです。
 
わたくしは、現在では、両親や財産を失って不幸になった子供たちや、
家族に不幸があって苦しむ人々を、特別に見守るお仕事を頂いております。
彼らを慰め、勇気づけるのが、わたくしの仕事ですが、
このお仕事をすることが出来て、とても幸せです」


 アンナの話を聞いて、メンバーから次の重大な質問が出た。

―― 当人の意志いかんによって、
   魂と肉体の分離の時期を遅らせることは可能なのですか?
 
 それに対して、聖ルイから次のような霊示を頂いた。

  「この質問に対して、『何の制限もなく、その時期を遅らせることが出来る』
  と答えたとすれば、よからぬ結果を招くかもしれません。

  もちろん、肉体に宿っている霊が、ある種の状況下において、
  自分の意志によって肉体の生存を長引かせることは可能です。
  アンナの例においても、それが見られましたし、それ以外にも、
  みなさんは、すでに数多くの例を観察したはずです。
 
  ただ、地上の生命を引き延ばすということは、仮にそれが許されたとしても、
  限定された短い間のことにすぎません。

  というのも、自然の法則に介入することは、人間には許されていないからです。
  それは、あくまでも一時的な例外にすぎません。
 
  以上のように、可能性としては、本人の意志で地上生命を引き延ばすことはできますが、
  それを一般的な法則と考えてはなりません。

  『どんな場合でも、自分の思い通りに生命を引き延ばすことが出来る』
  と考えたら間違いになるのです。 

  霊に対する試練として、あるいは、霊にまだ果たすべき使命が残っているために、
  使い古された肉体器官に生体エネルギーが注ぎ込まれ、その結果、
  まだしばらく地上に存在し続けることが可能になるということがあります。

  とはいえ、そうしたことは、あくまでも例外であって、一般的な法則ではないのです。

  また、そうしたことは、神ご自身がその法の不変性を侵したということではありません。
  それは、人間に与えられた自由意志の問題であると考えるべきでしょう。

  最期を迎えつつある人間が、自らに与えられた使命を自覚し、
  それを、死ぬ前にどうしても果たしたいと考えた場合、
  そうしたことも起こり得るということなのです。
 
  また、一方では、死後の世界を信じない者に対する罰として
  死期が遅れるということも、時には起こります。
  死期が遅れることによって、それだけ苦しむ時間が長引くことが
  必要になる者もいるのです」

 
アンナの霊が持っていた、肉体への執着の凄まじさを考えた場合、
肉体からの離脱が随分素早く行われたことに驚く読者がいるかもしれない。

しかし、この執着は、ひたすら子供のことを思ってのことであって、
物質それ自体に執着していたわけではないことを理解しておく必要がある。

「いたいけな、まだ小さな子供を残して死ぬわけにはいかない」
というのが彼女の本心であった。
 
彼女の霊は、知性においても、精神性においても、かなり進化した霊であった。
もう一段、進化すれば、非常に幸福な境涯に進めるはずの霊である。

したがって、物質と自己同一化している霊に特有な、
肉体と霊の結びつきの強さというものは、彼女の場合には見られなかった。
 
長引いた病気によって生命力が弱っていて、その為に、霊子線が大分痛んでおり、
辛うじて霊と肉体が繋がっているような状況であったと言えよう。
アンナの霊が切りたくなかったのは、この弱くなった電子線であった。
 
とはいっても、彼女の霊は、子供のことを思って分離に抵抗した為に、
病気に由来する痛みに苦しむことはなかったが、
分離することそれ自体が彼女にとって困難だったわけではない。

そういうわけで、いよいよ死ぬことになった時には、
分離に伴う混乱は短時間で済んだのである。
 
死後、ある程度、時間が経ってからの招霊は、殆どそうであるが、
この招霊のケースでも、我々は大切な事実を学ぶことができた。

それは、「死後、時間が経つに従って、霊の心境に徐々に変化が生じてくる」
という事実である。霊の心境が、段々高くなってくるのである。

アンナの霊の場合、それは、「感情が、より高度なものになっていく」というよりも、
「物事の評価の仕方が健全になっていく」という かたちで表れた。

したがって、霊界での魂の向上は、経験的に確かめられた事実なのである。
こうして進化した魂が、地上生活を送ることで、
その悟りを実際に試すことになるのである。

地上生活は、魂の決意に対する試練であり、
魂がみずからを浄化していくための坩堝(るつぼ)であると言ってもよいだろう。
 
肉体の死後、魂が進化し始めるや否や、その運命は、絶えず変化し続ける。
運命が決定的に固定されるということはない。
というのも、既に述べたように、運命の固定は、直ちに進化の否定になるからである。

運命の固定と進化は両立し得ない。
事実と理性によって承認される真実のみが残るのである。

            <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>

オーギュスト・ミッシェル――金持ちの青年 ~その1 - 伝統

2017/05/10 (Wed) 18:43:50


          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P121~126)より
            《第三章》苦しんでいる霊

ル・アーヴルにて、1863年。
 
オーギュストはお金持ちの青年で、物質的な生活を、ただそれだけを、大いに楽しんだ。
頭は良かったのだが、まじめなことがらにまったく関心がなかった。

よこしまなところはなく、むしろ善人といってもよかったので、
遊び友達からは愛されていた。
社交界での付き合いに生きたと言ってよいであろう。

悪を犯すこともなかった代わりに、善を行うこともなかった。
 
ある日、乗っていた馬車が崖(がけ)から転落して、あっけなく命を失った。
 
死後、数日してから、間接的に彼のことを知っていた霊媒によって
初めて招霊され、それから徐々に日を追って、次のようなメッセージを降ろしてくれた。

 
3月8日

「まだ完全に体から離れていません。それに……まだうまく話すことができません。
馬車がいきなり転落して私の体が死んだのですが、
そのおかげで私の……霊はひどく混乱しました。

これからどうなるのかが分らず、そのために不安で……不安でしかたありません……。
死の瞬間に私の体が味わった恐るべき痛みも、いま私が感じている苦痛に比べれば、
何ほどのこともなかったのです。
 
神が私を許してくださるように、どうか祈ってください……。
ああ、何という苦しみ!
ああ、神様、ご慈悲を! ああ、苦しい! 
それではさようなら」


3月18日

「先日、来ましたが、そのときは、うまく話せませんでした。
いまでも、まだ、通信するのには困難があります。
 
あなたしか、お願いできる霊媒がいないので、
どうか、神様が、現在の混乱から私を救ってくださるように、
私のために祈ってください。
 
もう肉体は苦しんでいないのに、どうして、私はまだこんなに苦しいのでしょうか? 
この恐ろしい苦しみ、耐えがたい苦悩は、どうして、これほど長く続くのでしょうか? 

祈ってください。
神様が私に休息をくださるように、どうか祈っていただきたいのです。
 
ああ、何という不安でしょう。
私はまだ体から離れられずにいます。
どこに行けばいいのか、よく分りません。

私の体がそこに見えます。
ああ、どうして、いつまでもこんなところにいるのだろう?
 
私の遺体に向かって祈ってください。
そうすれば、私は体から離れることができるかもしれません。

神様は、きっと、私を許してくださるだろうと信じています。
 
あなたがたのまわりに霊たちがいるのが見えます。
私は、彼らのおがげで、あなたがたに話ができるのです。
ああ、どうか、私のために祈ってください」

            <感謝合掌 平成29年5月10日 頓首再拝>

オーギュスト・ミッシェル――金持ちの青年 ~その2 - 伝統

2017/05/12 (Fri) 18:39:23


4月6日

「あなたがたに祈っていただきたくて、こうしてまた舞い戻ってまいりました。
私の遺体があるところに行って、私の苦悩が安らぐよう、全能なる神に祈って
いただきたかったのです。
 
ああ、苦しい! ああ、何という苦しみ!! 
どうか、どうか、遺体のある場所に行ってください。
そうして、私を許してくださるよう、神様に祈ってください。
そうすれば、心が安らぐと思います。

しかし、いまのところは、かつて私を葬(ほうむ)った場所に、
絶えず戻らざるを得ないのです」

 
オーギュストの霊が、どうして「墓の前に行って祈ってくれ」と言うのかが
分らなかったので、この霊媒はそうしなかった。
しかし、あまりにも繰り返し懇願(こんがん)されるので、ようやくそうすることにした。

すると、墓の前で次のメッセージを受け取った。

 
5月10日

「あなたを待っていました。
私の霊が体に縛りつけられている場所にあなたが来てくださり、
寛大な神様に祈ってくださるのを待っていたのです。
 
どうか、私の苦悩を和らげてくださるよう、神に祈ってください。
あなたのお祈りによって、私はとても楽になるのです。
早く、早く、祈ってください。お願いです。
 
私の人生がどれほど本来の姿からずれていたかが、いまではよく分ります。
私の犯した過ちが何であるかも、よく分ります。
 
私は地上で無用な存在として生きてしまいました。
自分の能力を人のためにまったく生かさなかったからです。

私は、財産を、自分のためだけに、つまり、自分の欲望を満たし、
自分に贅沢(ぜいたく)をさせ、虚栄心を満足させるためだけに使ってしまいました。

体が喜ぶことだけをして、魂が喜ぶことを何もしませんでした。
地上で犯した過ちゆえに、いまだに苦しむ私の魂の上に、
はたして神様は慈悲の光を降ろしてくださるのでしょうか?
 
神様が私を許してくださるように、どうか祈ってください。
そうすれば、いま感じているこの苦しみから解放されると思います。
私のために、ここまで祈りに来てくださったことに心から感謝します」

 
6月8日

「私が、神の許しを得て、こうしてあなたがたに話ができることを、感謝しております。
私は、自分の過ちに気がつきました。どうか神様が許してくださいますように。

どうか、あなたは信仰に従って生きてください。
そうすれば、私がいまだに手に入れていない安らぎを、
必ず手に入れることができるはずです。
 
祈ってくださって、本当にありがとうございました。
それでは、さようなら」

「墓の前に行って祈ってくれるように」との、
霊の執拗(しつよう)な依頼は、まことに不思議なものであったが、

この霊が、生前、まったく物質的な生活を送ったために、
死んでから、霊と肉体との結びつきが極めて強く、霊子線がなかなか切れず、
分離が非常に困難であったということを思えば、理解することが可能である。
 
遺体の近くで祈ることによって、遺体に幽体のレヴェルで働きかけることとなり、
その結果、分離を容易にするということであったのだ。
 
亡くなった人の遺体のそばで祈るということが広く見られるが、
これは、人々が、無意識のうちに、そうした効果を感じているからではないだろうか。
この場合、祈りの効果は、精神と物質の両方のレヴェルで表れるわけである。

            <感謝合掌 平成29年5月12日 頓首再拝>

ウラン王太子――ロシアの貴族~その1 - 伝統

2017/05/16 (Tue) 18:16:20

          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P126~132)より 
           《第三章》苦しんでいる霊


1862年、ボルドーにて。

苦しんでいる霊が、「自分はウランというロシアの貴族である」と言って、
以下のメッセージを伝えてきた。

―― 現在の状況を教えて頂けますか?

「『ああ、心貧しき者たちは幸いなり。天国は彼らのものである! 』
 
どうか私のために祈ってください。心貧しき人々は幸いです。
なぜなら、試練に立ち向かう時に、謙虚な姿勢で臨むからです。
 
あなたがた、つまり、地上にいた時に幸福であった人々を羨望の眼差しで
見ていたあなた方には、彼らが、その後どうなったかは、分からないでしょう。
彼らが、頭の上に、燃え盛る石炭を積まれているのを知らないでしょう。

富を自分の楽しみのためだけに使った者が、その後、どのような犠牲を払うことになるか、
あなた方には見当もつかないでしょう。
 
傲慢な暴君であった私は、圧政を敷いて人々を散々痛めつけました。
私が傲慢によって犯したこれらの罪を、神の許可によって償うことが出来たなら!
 
ああ、傲慢! この言葉を繰り返し言って、忘れないようにしてください。
傲慢こそが、人間を襲うあらゆる苦悩の原因なのです。
 
ああ、私は、権力を濫用し、私に与えられていた恩寵を濫用しました。
私は、家臣たちに対し、冷たく、残酷で、彼らを、私のあらゆる気まぐれに従わせました。
そうして、私はあらゆる邪悪な欲望を満たしたのです。
 
私は、威厳、栄誉、財産を求めたが、それらをあまりに多く得すぎた為に、
その重さに耐えられずに潰れたのです」

 
人生に失敗した霊たちは、ほとんど例外なく、
「自分が失敗したのは、重過ぎる荷物を負わされたからだ」と言う。
これは、彼らなりの言い訳なのであろうが、そこには、まだ傲慢さが残っている。
彼らは、「自分が悪かった為に失敗した」と認められないのである。
 
神は、どんな人に対しても、負える以上の荷物を負わせることはない。
また、その人が与えることの出来るものより多くのものを要求することもない。

種から芽を出したばかりの幼い苗に、
「大木と同じだけの果実をならせよ」とは言わないのである。

 
神は霊たちに自由を与えておられる
。彼らに欠けているのは意志のみである。

そして、意志は、彼ら自身が持つほかないものであって、
誰かが強制的に持たせることは出来ない。
意志さえあれば、克服出来ない欠点はない。

だが、ある欠点を持っていることに満足している限り、
それを克服しようと努力することは有り得ない。
 
したがって、いかなる結果が出ようとも、すべて自分に責任があるのである。
他者や環境を責めるべきではない。

            <感謝合掌 平成29年5月16日 頓首再拝>

ウラン王太子――ロシアの貴族~その2 - 伝統

2017/05/18 (Thu) 19:19:16


―― あなたは、ご自分の過ちを自覚しておられます。
   それこそが、向上への第一歩ではないでしょうか?


   「この自覚は、まだ苦悩を呼ぶのみです。
   多くの霊にとって、苦悩とは、物質的な側面に原因があるのです。

   というのも、未だに物質的なものにこだわっているので、
   精神的な側面が見えてこないからです。

   私の霊は肉体から離脱しましたが、肉体が感じていた恐るべき感覚が、
   そのまま霊に引き継がれているのです」


―― あなたの苦しみがいつ頃終わるか、見当はつきますか?

   「それが永遠に続くものでないことは分かります。
   しかし、それがいつ終わるのかは、全く分かりません。
   その前に、試練を受ける必要があるのでしょう」


―― 試練は、もうすぐ始まると思いますか?


   「よく分かりません」


―― あなたは、ご自分の過去世の記憶を持っていますか?
   これは、教育的な見地からお聞きしているわけですが。


   「ええ。それに、あなたの指導霊達は、全て知っているはずです。

   私は、マルクス・アウレリウスの時代にも生きていました。
   その時も、私は権力者であり、傲慢であり、傲慢ゆえに失敗しました。
   傲慢こそが、あらゆる転落のもとであります。
 
   その後、何世紀にもわたって霊界で修行した後、
   私は、無名の人間として目立たない人生を送ることにしました。
   貧しい学生として、私は物乞いして生きました。

   しかし、傲慢さはなくなりませんでした。
   知識はたくさん身につけましたが、温かい心は得られませんでした。

   野心家の学者として、私は、最も高く買ってくれた悪魔に魂を売り、
   復讐と憎悪に生きたのです。

   まずいとは感じましたが、名誉と富への渇望が、
   良心の叫びを押し殺してしまったのです。
   その時も、償いは、長く、厳しいものでした。
 
   そして、今回の転生でも、
   私は、贅沢と権力に満たされた生活を再び選んだのです。

   自分で”暗礁”を避けることが出来ると思って、
   人の意見には耳を貸しませんでした。
   またしても、傲慢さから、自分の考えだけを重んじたのです。

   私を見守って忠告してくれる友人たちもいたのに、
   彼らの言うことにも耳を傾けませんでした。
   その結果がどうなったかは、あなたがよく知っているとおりです。
 
   今日、ようやく事態がのみ込めました。
   主の慈悲に期待することにします。

   打ち砕かれた私の思い上がりを、神の足元に置き、
   私の肩に、最も重い謙譲の荷物を置いてくださるよう、
   お願いしてみましょう。

   神の恩寵のおかげで、この荷物は、より軽く感じられることでしょう。
 
   私と一緒に、そして私のために、祈ってください。
   そして、あなた方を神の方に高めていく本能を
   悪魔が破壊しないようにと祈ってください。
 
   苦しみの中にある兄弟たちが、私の例を見て気がつきますように。

   『傲慢とは幸福の敵であり、人類に襲いかかる全ての悪は傲慢から生じる』
   ということ、そして、『この悪は霊界までもついていく』ということを、
   どうか決して忘れないでください」

 

霊媒の指導霊からのメッセージ:

   「あなたは、この霊に対して、いぶかしい感じを持ちました。
   というのも、彼の洗練された言葉遣いが、現在の彼の苦しみに満ちた境涯から、
   あまりにも、かけ離れているように思われたからです。

   でも、心配は無用です。
   あなたは非常に大切な教えを得たのです。

   この霊は、大変な苦しみの中にあるとはいえ、知性が相当高いので、
   あのように優れた言葉遣いで話すことができたのです。
 
   彼に欠けているのは謙虚さだけです。
   そして、この謙虚さがないと、
   人、そして霊は、神のもとに決して至ることが出来ないのです。

   彼は、ようやく、この謙虚さを得ることが出来ました。
 
   われわれは、忍耐強く、彼が新たなる試練に勝利することを願いつづけましょう。

   われらの父なる神は、智慧と正義の神です。
   神は、人間が、自らの悪しき本能を制御しようとして払う努力を、
   きちんと評価してくださいます。
 
   あなたがたが収める一つひとつの勝利は、進化の階梯の一段一段に相当します。
   この階梯のいちばん下の段は地上界に接しており、
   いちばん上の段は神の足元に至っているのです。

   ですから、勇敢に、この階梯を上りなさい。
   強い意志を持った者には、この階梯は楽なのです。

   いつも上の方を見て、勇気を奮い起こしなさい。
 
   途中で止まり、引き返す者は不幸です。
   彼らは目がくらんだのでしょう。

   空虚が彼らを取り囲み、恐れさせるのです。
   彼らは力を失い、こう言います。
 
   『もっと上ろうとしても無駄だ。たったこれだけしか進んでいないのだから』

   いいえ!  友人たちよ、決して後戻りしてはなりません。

   傲慢は人間には特有のものですが、その傲慢を上手に使って、
   この階梯を上り続けるための力と勇気に変えることもできるのです。

   弱さを制御する為にこそ傲慢さを使い、永遠の高峰の頂上を極めるのです! 」

            <感謝合掌 平成29年5月18日 頓首再拝>

フェルディナン・ベルタン ―― 海難事故の犠牲者 ~その1 - 伝統

2017/05/25 (Thu) 17:57:35


          *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P132~141)より 
           《第三章》苦しんでいる霊

ル・アーブルに住む、ある霊媒が、生前、知り合いだった、
ある人の霊を招霊したところ、この霊は次のように言った。

「私はコミュニケーションをとりたいのですが、私達の間に障害があって、
つまり悪霊がいて、それを追い払うことが出来ません。
この苦しむ霊が、まず、あなた方にコンタクトを取りたがっていますので、
彼に順番を譲ろうと思います」


 そして、霊媒は次のような自発的なメッセージを受け取った。

フェルディナン・ベルタンからのメッセージ:
「私は今、恐るべき深淵の中にいます。どうか助けてください・・・。
 
ああ、神様、誰が私をこの深い淵から救ってくれるのでしょう?
海にのみ込まれた、この不幸な人間に、誰が救いの手を差し伸べてくれるのでしょうか?

夜の闇が、あまりにも深くて、私は恐怖にさいなまれています・・・。
波のとどろきが、辺りに満ちて、もうすぐ死ぬというのに、
私を慰め、助けてくれる友人の声が、全く聞こえません。

この深い闇の中で、すさまじい恐怖の中で、
死んでいかねばならないとは!
嫌だ、死にたくない!
 
・・・ああ、神様、私はこれから死ぬのでしょうか?
それとも、もう死んでいるのでしょうか?
愛する者達と永遠に別れるのでしょうか?
 
私の体が見えます。
 
そして、死の瞬間に感じたのは、とてつもない苦しみでした。
私を哀れんでください。
あなた方には私の苦しみが分かるはずです。
私の為に祈ってください。
 
あの忌むべき夜から、ずっとそうなのですが、もうこれ以上、
あの引き裂かれるような苦しみを繰り返し体験するのは嫌です。
でも、それが私に対する罰であることも分かっています。

死ぬ前から感じてはいました・・・。
どうか、どうか、私の為に祈ってください・・・。
 
ああ、海に、冷たい海にのみ込まれる!
助けてくれ!
ああ、哀れみを!
どうか、・・・どうか助けて下さい。

ああ、息が苦しい!
波にのまれる!
ああっ!・・・もう、家族は私の姿を二度と見ることが出来ないのか・・・。
 
おや、私の体が落ち着いてきたぞ。
お母さんのお祈りが聞き届けられたんだ!

ああ、お母さん、息子が今現実にどうなっているかが分かったら、
もっと熱心に祈ってくれるでしょうに!

だが、お母さんは、私がこんなふうに死ぬことで、過去が償われると思い込んでいる。
お母さんは、私が犠牲になったと思っており、不幸ではないと思っている。
だが、実際には、こうして酷い処罰を受けている!

ああ、あなた方には事情が分かるはずだ。
どうか・・・、どうか・・・、私の為に祈ってください・・・・」

            <感謝合掌 平成29年5月25日 頓首再拝>

フェルディナン・ベルタン ―― 海難事故の犠牲者 ~その2 - 伝統

2017/05/27 (Sat) 19:43:26


フェルディナン・ベルタンという名前は、霊媒には全く未知のもので、
この名前に関して、いかなる記憶もなかった。

この霊は、きっと、遭難で亡くなった不幸な人の霊であり、
今まで何度も経験しているように、向こうから自発的にメッセージを送ってきた
のだろうと思った。
 
やがて、しばらくして、彼が、ル・アーヴルの沖合で1863年12月2日に起こった
大惨事の犠牲者の一人であることが確認された。

      (*ル・アーヴル:フランス北西部の大西洋に臨む港湾都市)

メッセージは、同月8日、すなわち、惨劇の6日後に送られてきたことになる。

フェルディナンは、乗組員を助けようとして、前代未聞の努力をし、
ようやく「救える」と確信した瞬間に命を落とした。
 
フェルディナンは、霊媒を知っていなかったし、
霊媒と、いかなる親戚関係にもなかった。

どうして、家族の他のメンバーのところに現れずに、
この霊媒のところに現れたのだろうか?

それは、霊たちは、霊能力を持った、ある特定の人間にしか、
コンタクトをとれないからなのである。
しかも、混乱状態にあったので、他の選択肢がなかったのであろう。

おそらく、本能的に引きつけられて、
この種の自発的なコミュニケーションの為の特殊な能力を備えた、
この霊媒に、コンタクトを取ってきたものと思われる。

いままで自発的にコンタクトを取ってきた霊達と同様に、
この霊媒から特別の共感能力を感じ取ったのだろう。

霊実在論を知らず、おそらく、その種の考え方に反感を持っていたはずの
家族にコンタクトを取ろうとしても、きっと拒絶されたことと思われる。

すでに、死後数日経っていたにもかかわらず、
霊は、まだ、死の時の苦悩から抜け出せていない。
自分の置かれた状況が、まだはっきりと分かっていないようである。

まだ、生きており、波と闘っているつもりでいる。
だが、一方で、自分の体から分離しているのにも気づいている。

救いを求め、「死にたくない」と言っている一方で、
自分の死の原因が処罰であるようだとも言っている。
 
こうした混乱は、横死を迎えた霊たちに特有の現象である。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>

フェルディナン・ベルタン ―― 海難事故の犠牲者 ~その3 - 伝統

2017/05/28 (Sun) 19:14:41


2ヶ月後の1864年2月2日、この霊は、同じ霊媒に再び自発的にコンタクトをとり、
次のようなメッセージを伝えてきた。

「私のあの凄まじい苦しみに対して、あなた方が同情してくださったお陰で、
大分助かりました。今では、『希望』ということが分かるようになりました。
過ちに対する処罰の後で、許しをかいま見ることが出来るようになりました。
 
まだ苦しんではいますが、ほんのしばらくの間であれ、
私が、この苦しみの終わりをかいま見ることが出来るのは、
あなた方が私の状況に同情してくださって、思いやりと共に祈ってくださったお陰です。
ありがとうございます。
 
ああ、希望とは、空の輝きです!
私の魂のうちに生まれてきた希望を私は祝福しましょう。
 
ああ、だが、一方で、深淵が口を開き、恐怖と苦しみが慈悲の思い出を消し去ろうとする。
ああ、暗い、真っ暗闇の夜だ!
海にのみ込まれる!
ああっ! 波が私の体を翻弄する・・・。
だが、それも、もはや、微かな思い出でしかない。

あなたがたのしばに来ると、楽になります。
恐ろしい秘密でも、友人に打ち明けることが出来れば、胸の内が軽くなりますが、
それと同じように、私の悲惨な状況に同情してくださる皆さんのお陰で、
私の苦しみは安らぎ、私の霊体は楽になります。
あなた方のお祈りのお陰で、大変助かりました。
 
どうか、お祈りすることを拒否しないでください。
また、あの恐ろしい悪夢の中に戻りたくないからです。
どうか、これからも、度々私の通信を書き取ってください。
そうして頂けると、とても助かるのです」

(次に続く)

            <感謝合掌 平成29年5月28日 頓首再拝> 

フェルディナン・ベルタン ―― 海難事故の犠牲者 ~その4 - 伝統

2017/06/01 (Thu) 20:13:36


この日から数日後に、パリにおける集いで、この同じ霊が招霊された。
その際に、次のような一連の質問がなされたが、
それに対して、後に掲げるような答がなされた。

 質問

(1)最初に自発的な霊示を送ってきた時は、
   誰かに導かれて霊媒のところにやってきたのですか?

(2)その時、死んでから、どれくらい時間が経っていましたか?

(3)あなたが初めて通信を送ってきた時は、死んでいるのか生きているのか
   分からない状態で、しかも、死んだ時の凄まじい苦しみを感じているようでした。
   現在では、自分が置かれた状況は、前よりも分かってきているのでしょうか?

(4)あなたは、自分の死が償いであるとおっしゃっていました。
   何に対する償いなのですか?

   それを教えていただければ、私達には貴重な学びになりますし、
   あなたにとっては心の解放になることと思います。

   誠実に打ち明けてくださることで、神の慈悲が臨むだろうと思うのです。
   私達もお祈りで支援しましょう。


 答え

「まず、『人間があんなに苦しむことは、それほどないだろう』と言っておきましょう。
ああ、荒れ狂った波に翻弄され、氷のような冷たさに、晒され続けるのですよ。

しかし、いつまでも、そんなことを話していても、仕方ありません。
まず、私の苦しみに対して、あのように同情してくださった皆様に、
感謝申し上げねばなりません。
 
さて、『私の死後どれくらい経ってからコンタクトを取ったのか』とのお尋ねでした。
それにお答えすることは簡単ではありません。未だに私がどれほど大変な状況にいるか、
考えて頂きたいのです。
 
とはいえ、自分のものではない、ある意志によって、霊媒のもとに導かれたように思います。
そして、これは信じ難いことなのですが、丁度、今、この瞬間に行っているように、
あなたの腕をまるで自分の腕であるかのように使って容易に文字を書くことが出来たのです!

しかも、そうして文字を綴っている間は苦しみが軽減され、大変楽しく感じられたのです。
 
しかし、ああ、神よ、私はある告白をせねばなりません。
私には、その力が残っているでしょうか? 」

 (我々の励ましを受けて、やがて霊は付け加えた)

「・・・私は非常に重い罪を犯したのです。
そのために苦しみを経験しなければなりませんでした。
私は・・・、それ以前の転生で・・・、何人もの人間を袋に詰め込んで・・・、
海に沈めたことがあるのです! ああ、私の為に祈ってください! 」


 この通信に関して、聖ルイから次のようなメッセージを頂いた。

「この告白をしたお陰で、この霊は大いなる心の安らぎを得ました。
そう、彼は大変な罪を犯していたのです。
 
しかし、今回の人生は立派なものでした。
彼は、目上の者たちに愛され、評価されました。
それは、彼が、地上に生まれ変わる前に、しっかりと悔い改め、決意をしたお陰です。

今回の転生では、過去世を償う為に、人間的に生きようと決心したのです。
 
彼が最後に果たした自己犠牲は、確かに償いとなりました。
しかし、それではまだ足りず、死の瞬間に味わうことになった、
凄まじい苦しみによって、過去の過ちを償う必要があったのです。

『自分が他者に味わわせた拷問のような苦しみを、自分自身でも味わうことによって、
浄化を果たしたい』と、みずから望んだのです。
 
そして、それ以来、彼は償いの道から名誉回復の道へと進んだのです。
 
あなた方のお祈りは、彼を大いに助けました。
あなた方のお祈りのお陰で、彼は、名誉回復の道を、より確かな足取りで、
しっかりと歩み始めることが可能となったのです」

(おわり)


            <感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝> 

《地上生活学校への入学》 - 伝統

2017/06/08 (Thu) 20:37:24


       *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P97~98) より

宇宙の本源でありところの大生命界を“海”と考えるならば、
吾々はその海面に浮かび上がった一つ一つの波だとも
考えることができるのである。

併し、波は次の瞬間には消えてしまっているけれども、
人間の生命(せいめい)は須臾(しゅゆ)にして消えるものではないのである。

仏教者の或る人は、肉体を盃にたとえ、
盃に海水を盛ったように肉体に大生命の一部を汲み入れたのが人間であるが、

その盃が壊れると、盃の中の海水は大海原の水と一如になってしまうのと
同じように人間の肉体がこわれると、その人の生命(せいめい)は個性も何も
なくなって、”宇宙の霊”に帰一してしまうという風に説く人があるけれども、
それは間違いである。

善人も悪人も、修行をした人も修行をしない人も、
肉体の死後は、全然、同一の大生命海に融けこんでしまうのだったら、
何のために、吾々は切実に道を求め、魂の向上を願うような衝動が
内部から起こってくるのであろうか。

そのような不合理のことはある筈はないのである。

吾々の肉体は霊魂が地上に於いて或る修行をし、
或る使命を果たすための”法服”又は”作業服”であって、

肉体が人間そのものではないから、
肉体が死滅しても霊魂は個性を失ってしまうことはなく、
また別の肉体を着て地上生活学校に入学してくることになるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月8日 頓首再拝> 

人間《そのもの》は絶対死なぬ - 伝統

2017/06/19 (Mon) 19:12:31


        *「人間死んでも死なぬ」(P332~333)より

『現象無し』と云うことは、何にも無いということではない。
其処にその《現れているもの》は無いということである。
現れているものは無いけれども、《現れていないもの》があるのである。

肉体は現れて見える。
肉体は現象であり、現象は無いのであり、従って肉体は無いのである。
現れて見える肉体は無いけれども人間《そのもの》は無いのではない。

人間《そのもの》は厳然として実在する。

併し、人間《そのもの》は五官で見る訳には行かないから
狙撃することも出来ねば、爆撃粉砕することも出来ぬ。

却って狙撃し、爆撃し、粉砕する事が出来るのは本来無いところの肉体の方である。
肉体は《本来無いもの》であるが故に、狙撃し、爆撃し、粉砕し、
これを「無」にまで減少することが出来るのである。

《本来無いもの》は本来ないものであるが故に「無」にまで還元する。
「無」のみが「無」にまで還元する。
《本来無いもの》のみが無くなる。

《ある》ところの人間は本来《ある》限り、決して「無」にまで変化し得ぬ。
《本当の人間》――《人間そのもの》―― は本来あるが故に
「無」とは成り得ない、即ち《死なぬ》。 

《絶対死なぬ》。
人間《そのもの》は絶対死なぬ、
人間《そのもの》は久遠不滅の存在である(*)。


  *私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったという否定すべからざる事実が
   続々起こったり、戦場に於いて生死を超越して奮戦し得た実例を
   数多(あまた)生じたる理由は、それが「《絶対死なぬ》人間《そのもの》」
   なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、
   その哲学を実際生活上に生活し得るように誘導したからである。

   生長の家に哲学が無いという人は、実はその人は、
   私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。

   真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、
   全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、
   哲学《そのもの》は難解なる哲学用語の外にあることをしらなければならない。

   私は哲学を難解なる術語から解放したのである。

   哲学《する》とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。
   真理を如実に把握して生きると云う意味である。

   表現された真理をそのまま読者が生活に生きるように
   押し出す迫力があるのが哲学である。

   哲学は哲学《せしむる》力を持たねばならぬ。

   併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ「生長の家には哲学がない」
   と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも
   哲学的様相を備えて記述したのである。


斯くの如く、肉体は瞬々刹那々々に変滅して痕跡をとどめない。
前なるは既に無いのである。
既に無いものは、初めから無いのである。
 
一瞬間前の肉体と、今の肉体とは全然別物である。
その意味に於いて、肉体は時間的にも非連続のものである。

一瞬一瞬非連続のものがズッと連続して、一継続の存在であるかの如く、
五官に感じられるのは、映画の画面と等しく五官の錯覚によるのである。

映画の画面は、一瞬一瞬非連続の一枚一枚の写真が継続的に
同一平面に投影せられるが故に、非連続なるものが連続せるが如く錯覚され、
個々別々なるフィルムのコマの絵が一連続の如く錯覚されるのである。

映画が錯覚の応用であるが如く、人間の肉体生活も錯覚の応用である。

(『維摩経』方便品第二)

            <感謝合掌 平成29年6月19日 頓首再拝>

「不思議な世界」から教えてもらった「死」後のこと - 伝統

2017/06/29 (Thu) 18:46:22


        *「聞いてビックリ「あの世」の仕組み」松原照子・著(はじめ)より

いまを生きている私達に共通していること、
それは誰もがいつかは必ず「死」を迎えることです。
どんなに地位があろうと(なかろうと)
お金持ちであろうとなかろうと(貧しかろうと)

賢かろうと(愚かであろうと)
美しいかろうと(美しくなかろうと)
一切関係無く(死)は訪れます。

それなのに私達は(死)について余りにも知りません。
そもそも

「死ってなに?」

「死んだらどこに行くの?」

「死後の世界はあるの?」

明快な答えをお持ちの方はどれ程いらっしゃるのでしょうか?

死後の世界について何もわからないから恐れを感じ、不安になります。
このままではビクビクしながら生き続けなければいけません、

「死」を恐ろしいと感じるのは、
自分自身のすべてが消滅してしまうのではないか
という思いからです。

肉体、意識、感覚、何もかもが無くなってしまい、
さらにそのあと、どうなるのかもわかりません。

どこに行くのか、あるいはどこにも行かないのか、
なにもないのか・・・。
それが「死」に対する恐怖です。

また 人の「死」が悲しいのは、いままでそばにいた存在がいなくなる喪失感からです。
愛しい人の声が聞けなくなる、会話が出来なくなる、温もりを感じられなくなる、
頼りにできなくなる、その寂しさと虚しさからです。

では 、亡くなった後も続きが有るとしたらどうでしょう。
亡くなったあともつながり合えるとしたらどうでしょう。


私はこの本でどうしてもお伝えしたいことが有ります。

「死の後には続きがあり、すべてがなくなるわけではない」

「人は亡くなった後も、この世で生きている人とつながることができる」

「この世での行いが、あの世に行ってから大きな影響を及ぼす」ことです。

私は、このことを「不思議な世界の方々」から教えていただきました。
「不思議な世界の方々」とは、
私が物心ついたころからそばにいてくださる、私にしか見えない方々です。

この方々が、この世に生きている人では無い!と気づいたのが35歳位のときでした。
それまでは、ほかの人にも見えているものだと思っていました。
それほどリアルに感じていたのです。

ただ、どうもこの世の方々ではなさそうなので、きっと私の知らない
「不思議な世界」から来られているのだろうと、
「不思議な世界の方々」お呼びしていました。

そのなかのひとりブルーグレーのおばちゃまが、
もう亡くなられているものの、実在した人物だったことがわかりました。

それがこの本を書こうと思ったきっかけのひとつでした。

「死は終わりではない」

「この世とあの世は交信できる」


不思議なんだの方々を間近で感じている私が
伝えるべきことなのだと思ったのです。

自分自身の死を考えたとき、すべてがなくなるのではないとしたら、
少しは恐怖心が和らぐのではないでしょうか。

愛しい人、身近な親しい人を亡くされた方は、またつながりが持てるとしたら、
少しは悲しみを減らせるのではないでしょうか。

それにあの世とつながり合えることが理解できると、
”ヒラメキ”や”虫の知らせ”が偶然のものではなく
あちらから見ていてくださる方々からのメッセージだということもわかってきます。

チャンスをつかんだり、自然災害などの危険から身を守るのに役立つことと思います。

「死」や死後の世界はとても壮大なテーマです。

私は宗教家では有りませんから、気の利いた言葉でお伝えすることはできませんが、
不思議な世界の方々から聞いたことを、できる限りお伝えしていきます。



「死」を考えることは、「生」を考えることです。
少しでも「死」を知ることができれば、
「いかに生きるか」をより考えられるようになります。

どうせだれにでも訪れる「死」なのですから、必要以上に暗くなるのはやめましょう。
これから私と一緒に「死」のことを考えて、
いま精いっぱいに生き抜く 糧 にしていただければ幸いです。


●私が不思議な世界の方々とつながるときは、いくつかのパターンがあります。

目の前に現れてお話しされるとき、
声だけが聞こえてくるとき、
映像や数字や言葉が浮かんでくるときなどです。

この本のなかで、ブルーグレーのおばちゃま、風呂敷おじちゃま
中国四千年のおじちゃま と書いてあるときは、
不思議な世界の方々が目の前に現れて、直接お話を伺った内容です。

不思議な世界の方々としか書いてないときは 声だけが聞こえていたり
映像や言葉だけで教えていたいたりしたものです。

明らかにだれの声かわかったときは、お名前を書いています
お読み頂く際の参考にして下さい。

            <感謝合掌 平成29年6月29日 頓首再拝>

死を迎える時は誰もが痛みと軽さを感じる - 伝統

2017/07/01 (Sat) 18:14:24


        *「聞いてビックリ「あの世」の仕組み」松原照子・著(P16~21)より


身体(肉体)が成長し、やがて老いていく。
その姿を見て、実感しながら肉体同士が会話をしたり、触れあったりする。
それが生きるということです、

その肉体が機能しなくなり手放さなければ成らなくなかった時
それを、私達は「死」と受け止めます。

私たちが持つ不安は死の瞬間にどうなるかわからない、
その先に何が有るかもわからないために感じるものです。

肉体をなくすとともに意識もなくなり、感覚もなくなり、
なにもかもが終了してしまうのか。

なにも感じない、なにも考えてられない無の世界が待っているのか、
天国か地獄のどちらかに行かなければならないのか、極楽浄土は有るのか・・・

本当のところ、死をどう感じるかは、自らが「死」を迎えてみなければわかりません。

不思議な世界の方はこのようにおっしゃいます。

「人間の潜在意識の中には、”死の真相”が収められているのですが、
それは死の間際まで開放されません」


いまを生きるために必要ではないから、
生きているあいだに知ることはできないのかもしれません。

「そのときに知るのは、いま 生きている人たちがいう死とは、
肉体との別れでしかないということです。
肉体はなくなりますが、意識までなくなることはないのです。

そして次に進む世界は、だれも肉体を持っていない世界です。
そのことを死の間際に理解することで、スムーズに進むことができるのです」

私たちが言う死は、生の続きの途中にある一過程でしかないようです。

「死を迎える際には、だれもが痛みを経験します。痛みに続いて軽さも感じます。
それは、肉体との別れの合図です」


痛みは肉体が其れまで如何に自分を支えてくれていたかを認識するとともに、
肉体との永遠の別れを自覚するのに必要なもので、軽さは
「体重がなくなると言うのはこんな感じかなあ」
という感覚に近いものだそうです。

痛いのは、できることなら避けて通りたいと思う私ですが、
肉体との別れを惜しむ合図でもあるので、決して避けられないようです。

ただ、不思議な世界の方によると
痛みにも様々な違いが有るとのこと。

もっとも穏やかなのは天寿を全うして老衰で亡くなる場合

「十分に生きた! 」

と満足感を覚えて死を迎える人には、心地良い痛みと感じる事も有るそうです。

マッサージで体験する(気持ち良い)感じににているようです。


長い闘病の末に死を迎える場合は、痛みはゆるやかになり、

「病とよく闘った」と、ご自分で納得された場合は、
最後の痛みは心地よさに変わります。


自然災害によって死を迎えることもあります。
そのときは、地球の慈悲により、
肉体との別れの痛みはほとんどないということです。

ただ、恐怖だけは感じると教えられました。


生きたいのに殺害された人の場合、
肉体の痛みとともに、心の痛み、魂の痛み、
恐怖、憎悪の念が入り交じるそうです。

肉体をなくしたあとも痛みや念は残り、
殺害者が死ぬ間際には、殺害された人が受けた肉体の痛み、心の痛み、
魂の痛みの分が増幅され、殺害者には強烈な痛みを隅々まで感じながら
死を迎えることになるとのことです。


事故で亡くなった場合も、痛みは感じるものの
感じた痛みが肉体との別れであると受け止められれば。
痛みは続かないようです。


自らが命を断ってしまった人は、その方法にかかわらず
かなりの痛みがあるとのことです。

睡眠薬だから楽だろう、ということはありません。

自殺の場合、次の世界に行ったあとも痛みは続き、
中には想像を絶する痛みを抱え続ける人もいるそうです。


すべての人が、次の世界で悔い続けるのも自殺の特徴で、
ただ死を選ばなければ為らなかった理由が、
心も肉体も納得した覚悟あるものであった場合は
痛みの感じ方が異なるそうです。

昔の「切腹」などが、そうなのかも知れません。

戦争で命を奪われた ひめゆりの搭の女学生たちのような場合は、
死の直前の痛みはとっても薄かったと教えられました。

戦地で命を落とした人たちは死を迎えた瞬間の痛みは感じるものの、
それが死後も続くことはなかったようです。


さまざまな死がありますが、感じる痛みはそれぞれ異なっているとのこと。
痛みを感じる後には軽さを体験します。亡くなったあと
天に昇るイメージがあるのは、この軽さからなのでしょう。

体重を感じなくなるのは、肉体の重さを感じ無くなること、
つまり肉体をなくしたことを自覚することです。

痛み同様、肉体との別れの合図なのです。

痛いのは嫌だなとは思いますが、痛みを恐れてはいけません。
いままでお世話になった肉体に感謝の心を持つと、
この痛みは心地良いものに変わります。


     【 死とは肉体との別れであり、
       肉体が必要のない世界に行くための
       ひとつの過程である。       】

            <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>

意識は死後、数分から長くて1週間ほど肉体の側で過ごす - 伝統

2017/07/03 (Mon) 18:36:40


        *「聞いてビックリ「あの世」の仕組み」松原照子・著(P22~25)より

肉体との別れのあとのことを、不思議な世界の方に教えていただきました。

「肉体が機能停止したあと、しばらくのあいだ、意識は肉体のそばで過ごします。
人によって数分から数日間と時間差はありますが、やがて肉体との別れを感じ取り、
次に進むことを理解します」


家や病院で最期を迎えたときに、亡くなられた直後は、
まだその方がすぐそばにいるような感じを受けとるといった話をよく聞きますが、
肉体を離れた意識が近くにいるから、そのように感じるのでしょう。

肉体とともに過ごす時間は早い人で数分、長くいる人でも7日間ほどだということです。

昔の人は、もっと長い時間を肉体のそばで過ごしていましたが、
最近では肉体の執着が薄れたことや、すぐに火葬してしまうなど、
遺体の処理が早いために、あまり長い時間いることがなくなりました。

肉体が、事故などで悲惨な状態になる場合もあります。
その際は、1滴の血の匂いに自らの面影を見つけて、その場にとどまるようです。


殺害などにより非業の死を遂げた場合は、肉体の死をいち早く察知して、
殺害者に取りつき、かなり長い期間を過ごす人もいるようです。
または、すぐにあの世に行って、殺害者が来るのを待ち受けている人もいるようです。


自ら命を絶った人の場合、肉体への申し訳なさからなのか、
肉体のそばにいて最期の時を過ごすことはなく、
少し離れたところから自分の肉体を見ているようです。

現代は、医療技術の発達により、死を自覚するまでの時間があいまいになりつつあります。
麻酔で眠らされていたり、生命維持装置によって
肉体を生かされていたりする場合など、

肉体の限界が来ていて機能不全に陥っているのか、
眠っているだけなのか判断がつきづらくなっているのです。

肉体の死を自覚出来ない意識は長い時間、
中途半端なまま肉体のそばにとそまり続けます。

例外はあります。
生に対して異常なまでに執着していて、
この世に強く思いを残している場合です。

意識は次に進むことを拒み、たとえ肉体がないとわかっていても、
この世にとどまり続けようとします。

異常なまでに強い思いに支配された意識は、
この世をさ迷い続け、時には人々や自然に影響を及ぼします。

これが ”怨念 ”という存在です。

昔の人ははこの異常なまでに強い思いを鎮めるために、
さまざまな 鎮魂 をしてきましたが、
最近はそこまで強く思いを残す人は少なくなっているようです。


肉体のそばにいるときは、まだ肉体があったときと同じ感覚があります
少しずつ、その感覚は薄れていき、それとともに次に進むことを理解します。

肉体との別れを感じ取り、進む決心ができるのが ”合図 ”を見たときです。


     【 生への異常なまでの執着は
       ”怨念”という存在となり、
       此の世にとどまり続けることもある。】

            <感謝合掌 平成29年7月3日 頓首再拝>

《高級霊にも色々の等級がある》 - 伝統

2017/07/13 (Thu) 18:43:54


        *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P153) より

霊魂の品等(ひんとう)には色々の段階があるのであって、
高級霊と称せられる者のうちにも色々の品等がある。

まだ受苦を必要とする如き程度の高級霊は、
苦痛や業の存在をみとめている程度の高級さであって、
まだ地上の修行を必要とする段階の高級さであるのである。

地上の修行を必要とするからこそ地上生活の受苦を選んでいるのである。

 
霊魂の高級さが高くなるに従って、もう受苦の必要はなくなるし、
また受苦をみずから進んでしなくなるが、しかし斯くの如き霊といえども、
すべて彼らが生きている限りに於て働く使命があるのである。

過去の善業の上に胡坐(あぐら)をかいて働きを怠ることは許されないのである。
若し働きを怠るようなことがあると、摂理の手が再び地上誕生の霊的流動の上にのせて
苦しみつつ働かねばならぬような境遇のところへ生れ変らせることになるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月13日 頓首再拝>

死の2カ月前に予告が入ります - 伝統

2017/07/18 (Tue) 19:44:09

      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P17~19)より

(きた よしお)

私は16歳のときにオートバイ事故で臨死体験をし、
そのとき霊界に連れていかれました。

そのあとも何度も霊界から呼ばれて行きました。
最初は2、3年に1度でしたが、
60歳を過ぎてからは年に3、4回と頻繁になりました。

そこで実際に見聞きしたこと、霊界とこの人間界のしくみを
多くの人に伝えるのが私の役割かと思っています。

(1)本来は、私たちが亡くなる2カ月くらい前に、霊界から本人に
   「死の予告」が入ります。それを受けて、人は準備に入ります。

   ただ、これは感じない人のほうが多いようです。

   感じる人は、無意識のうちに自分の死期を感じて、
   なんとなく行動しているものなのです。

(2)昔はお年寄りが、「そろそろお迎えが来る」などと言ってましたが、
   太古の人々はそういうことはすべてわかっていましたし、
   自分が死ぬ時期もわかっていたのです。

(3)死んだら、幽体離脱をして、死んだ自分の肉体を見下ろします。
   本当の死とは、肉体と霊体がつながっているシルバーコード(霊糸線)が
   切れることです。シルバーコードが切れて初めて死に至ります。

   なかには意識不明のままなかなか亡くならない人もいますが、
   それはシルバーコードが切れていないからです。

   それでも本人の希望があれば、
   霊界からシルバーコードを切る係がやってきます。

(4)シルバーコードが切れると、すぐに(3日以内)霊界から
   「導きの霊」(案内人)がお迎えに来ます。

   霊界は人間界のデータをすべて持っていますから、
   何年、何月、何日、何時に帰ってくるのかを全部把握しています。

(5)お迎えの霊の光に気づいたときは、
   そのガイドに従って、必ずついていってください。

            <感謝合掌 平成29年7月18日 頓首再拝>

最初に行くのは精霊界 - 伝統

2017/07/20 (Thu) 02:05:59


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P20~23)より

(きた よしお)

(1)三途の川を渡るとか、きれいなお花畑が見えるとか言いますが、
   実際にあるわけではなく、その人のイメージでそうなっているのです。

   そうした体験は人それぞれですが、基本はひとつです。
   自分の思い通りの世界がそこにあるのです。

(2)霊界というところは、ものすごく配慮をするところで、あばあちゃんに
   迎えに来てほしい人には、おばあちゃんの姿でお迎えに行くのです。
   だから本人は希望通り、おばあちゃんが迎えに来たと思うのです。

(3)人が亡くなると、「導きの霊」が迎えに来ますが、決して強制はしません。
   本人が拒否すれば、そのまま帰ります。

   ですからそのことをわかっていないと、霊界に帰らないで、
   この世にそのまま残る浮遊霊になってしまいます。

   たとえ浮遊霊になっても、その人にとってはこれまでと変わらず、
   違和感がないために自分ではわかりません。

(4)死んですぐに行く世界は、精霊界です。
   「導きの霊」は、亡くなるとまず精霊界へと導いてくれます。


*きた よしお 氏による、霊界の仕組み


             
             天上界(第一、第二、第三)
              ↑
             霊界(第一、第二、第三)
              ↑
   死 → 精霊界 → 
              ↓
             地獄(第三、第二、第一)

            <感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝>

精霊界 - 伝統

2017/07/20 (Thu) 17:42:00


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P26~28)より

(きた よしお)

(1)精霊界では、みんなみんな人間界と同じ姿のままで、
   現世にいるのとまったく変わらない様子です。

(2)わたし(きた よしお)は、臨死体験後、
   霊界と人間界を何度も行き来してきました。
   とくに60歳を過ぎてからは頻繁に行くようになりました。

(3)その精霊界は、地球から600キロぐらいのところにあります。
   人工衛星が回っているところが300~400キロくらいですから、
   地球から割合近いところです。

   といっても次元は違います。

(4)精霊界で人間の生涯の反省を行ないます。
   そして反省を終えたあとに行く霊界は、精霊界より
   ずっと遠いところにあります。

(5)もともと私(きた よしお)は第三霊界にいましたが、怠けていたために
   第二霊界に落ち、今回は7回目の修行にこの地球に来ています。

(6)みんな死を嫌がったり、怖がったりしますが、
   じつは私たちは死んでからが本番です。
   私はその事実を多くの人に知ってもらいたいのです。

   みんな忘れていますが、私たちの本質は霊であり、
   人間界には肉体という物質をまとって修行に来ているだけなのです。

            <感謝合掌 平成29年7月20日 頓首再拝>

精霊界~その2 - 伝統

2017/07/21 (Fri) 19:29:37


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P31~32)より

(きた よしお)

(1)霊界に行く前にどうして精霊界に行くかというと、人間が本来棲む霊界に
   その人が適応できるかどうか審査をしたり、その準備をするためです。
   そうでないと霊的世界に適応するのが難しいからです。

   精霊界での審査結果で、その人が霊界のどこに行くかが決まり、
   そのための準備をしてからスムーズに修行は行なわれます。

(2)いっぽう、精霊界は人間の夢が何でも叶うところです。
   この世では、一生懸命働いても実現できる夢はほんの少しですが、
   精霊界ではどんな夢も簡単に叶ってしまい、それにはあ然とします。

   ですから精霊界では、欲求を満たそうとするうちは、満足がいくまで
   楽しむことができます。そこには良い悪いはなく、どんな欲も叶います。
   お金儲け、セックス・・・

   ただ肉体がないのですから、すぐに飽きてしまいます。

(3)同時に、自己欲から発したお金や資産、名誉、権力などが、
   いかにつまらない意味のないものであったかということが
   次第にわかります。

   そうした肉体や物質界に嫌気がさして決別したいと思うようになると、
   本来の霊的生活を行なうことができる霊界に行く準備が整います。


            <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝>

精霊界から霊界・天界・地獄界へ - 伝統

2017/07/22 (Sat) 18:29:27

      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P33~35)より

(きた よしお)

(1)霊界に行く準備が整うと、人間界での修行の結果、霊界のどこに行くか、
   またどの地域に行くかが決まります。

   ですから人間界での生き方がいかに大事かがわかります。

   しかも霊界に比べると、人間界での時間はあっという間です。
   私はそのことを「注射針でチクッと刺す間」と言っています。

(2)霊界では同じ霊格の人同士が一緒に棲むことになっており、
   自分と同じ霊格の人たちの村に行きます。

   家族や身内だった人と同じところに行くことはほとんどありません。

(3)私たちの死後は精霊界で、第一状態から第二状態、第三状態へと変化し、
   永遠である本来の自分の世界、霊界へと帰り、本来の霊体になります。

   それに要する時間は霊によって異なり、数カ月の人もいれば、
   数年から数十年、数百年かかる人もいます。

(4)なかには亡くなってすぐ精霊界ではなく、天界の手前まで行く霊もいますが、
   そうした人は人間界の人生を利他愛で満たし、霊格を精一杯上げた人です。

   そういう人は人間界での修行は終了となります。
   この地球で学ぶことがなくなった霊であり、さまざまな経験を経て
   高度な霊性を持った霊である場合が多いです。

   新しいルールのなかで新しい学びをするために。
   別の惑星での修行に移行していきます。

(5)それとは逆に、反省のない人は地獄へと行きます。

(6)生まれ変わりは、この地球だけで完結しているのではなく、
   他の惑星から入ってくる霊もいれば、
   他の惑星へと旅立っていく霊もあります。

   霊界はこの太陽系だけでなく、他の恒星惑星系ともつながっています。
   銀河系全体が自由な生まれ変わり圏です。

(7)そして霊になるということは、時空にとらわれない自由自在な存在になる
   ということでもあります。たとえば宇宙の果てに行きたいと思えば、
   瞬時に宇宙の果てに行くことも可能ですし、時間を超越して未来に行く
   ことも可能です。

(8)銀河系の中心に行けば、星々を生産している高エネルギー帯があり、
   そこにはかなり自由度の高い霊が集まっています。

   私たちの太陽系はひとつの家のようなものです。

(9)霊界では、望めばその通りになります。

   しかし、そこではあまり学びがないために、
   私たちは生まれ変わりというシステムを選び、
   あえてこの地球という不自由さのなかで修行をしているのです。

   しかも、わざわざ記憶を喪失してまで厳しい人間界に生まれ、
   いろいろな状況にがんじがらめに縛られながら実践をしています。

   限界を持つ自由と、無限の自由の両方を生きること、
   つまり人間の世界と霊的な世界を往還することで、
   私たちは重要な実践を重ねて霊性を少しずつ向上させていくのです。
    

            <感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>

霊的成長のための再生 - 伝統

2017/07/23 (Sun) 19:43:51

      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P35~37)より

(きた よしお)

(1)死後、霊界に行って霊的視野(霊体としての思考)を持つようになると、
   自分の人生で何が失敗であったか、なぜ失敗したのかが明確にわかる
   ようになります。

   また、さらなる成長のやめに、人間界でどんな体験が必要になるかが
   わかるようになります。そしてその体験を望むようになるのです。

   こうして人間界への再生の準備が始まり、
   時が来れば人間としてまた生まれてきます。

(2)霊的な成長のために自ら選んだこの世の人生は、大半が苦しみの連続である
   ことが多いのですが、その苦しみを喜びに変えることができます。
   それは考え方ひとつで変えることができるのです。

   そのためには、なぜわざわざ苦しみを選択してこの世に来ているのか、
   その意味を知ることです。

   苦しみの先には大きな喜びが待っていることは、亡くなれば必ずわかります。

   霊界から人間界に再生してくるのは、人生という一瞬の苦しみを乗り越えれば、
   何百倍もの幸せが待っていることがわかっているからこそ、わざわざ苦しみを
   選んで生まれてくるのです。

   そう考えると、苦しみも喜びに変わります。
   人生の裏と表は一体なのです。
   苦しみの裏には必ず喜びがあります。

(3)(この世での)人生では、自分で人生のプランを立ててきますから、
   大枠は決まっていますが、細かい部分まで決まっているわけではありません。

   しかし霊の成長にとって必要な道は、必ず展開するようになっています。

   魂の成長のため、苦しみの体験は自動的生じますが、
   それを成長に結びつけられるかどうかは自由意志に委ねられています。

   この自由意志による決定については、
   霊界も守護霊も干渉することはありません。

   すべてこの世のあなた自身の自由意志と、その選択に委ねられています。

   ですから良い方向に向かうのも無益な道に進むのも、本人の意思であり、
   その責任も本人が負うことになります。

   苦しみを避けて通ろうとするなら、必要な償いや埋め合わせが完了するまで
   何度でも同じ苦しみが生じます。

(4)昔と違って、近年はまともに修行ができない人(エゴのまま生きる)が
   ひじょうに増えています。

   そのことを霊界は危惧しています。

            <感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>

Re: 人間は死なない② - mbcstpdbiMail URL

2020/08/29 (Sat) 21:58:43

伝統板・第二
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