伝統板・第二

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利他② - 伝統

2017/01/29 (Sun) 03:21:51

      *伝統板・第二「利他①」からの継続です。
       (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456462


(1)《多く与えれば多く得られる》

          *『 生長の家 』(昭和24年8月15日の法語)より

   世界は 公定価格の市場(いちば)のようなものである。

   良きものを買うためには
   よき価(あたい)を払わねばならないのである。

   払うべき貨幣にはいろいろの形がある。

   曰く 時間。
   曰く 勤労。
   曰く 誠。

   曰く 智識。
   曰く 資本。
   曰く 宣伝。

   曰く 決心。
   曰く 敏速。
   曰く 才智。・・・等々である。

   すべて与えただけのものが 自分に得られるのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12804225.html

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド

  ①「深切を与えよ」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1189

  ②「無財の七施」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=110


(2)「光明掲示板第二」内スレッド

  ①「利他 (10598)」。
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2033

  ②光明掲示板・第二「親切・情け (458)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=158


(3)光明掲示板・第三「利他 (109)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=50

(4)光明掲示板・伝統・第一「利他 (48)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=30


            <感謝合掌 平成29年1月29日 頓首再拝>

《与えることによってのみ受けられる》 - 伝統

2017/02/02 (Thu) 04:53:44


           *「光明法語」(2月2日)より

太陽の温かさを受けようと思えば先ず一歩日向(ひなた)に向って「歩み出し」を
与えることが必要である。日向にむかって「歩み出し」を与えないでいて
太陽の温かさをうけることは出来ない。

写真を写すには先ずカメラに代金を払わなければならぬ。
マメラを借りて来ても好(よ)いが、やはり吾らは、
焦点距離を合わしてスイッチを捻る動作を与えなければならないのである。

音楽をきこうと思えば音楽会に金を払うか、レコードに金を払うか、
蓄音機を廻すかラジオの波長を合わすか、
いずれにせよ金又は「動作」を与えなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>

人に物を施す日 - 伝統

2017/02/13 (Mon) 04:40:30


           *「光明道中記」(2月13日)より

【誰にでも基督の心、釈迦の心はある。それを出すとき彼の心は天地にひろがる。
                            (『生命の實相』第六巻)】

誰も本当は施主になりたいのである。
乞食にはなりたくない。施主になりたい。
受ける人になるよりは与える人になりたい。

それは与えると云うのは自己拡大の感じを与えるからである。

併し与える人ばかりでは、受ける人がなかったら、此の世はまた淋しいことだと思う。

それは貰う人のない生産のようなものである。
生産は購買によって成立ち、施主は受ける人によって成立つ。

私は今迄与える事ばかり考えていて、
誌友をして施主にならしめる機会を与えないことに努力してきた。

これは今迄の宗教は信者を施主にして、
その施物(せもつ)に寄生して生活する傾向があったのを
粛正するための反動であったと謂える。

信徒の一部に、自分は書物の顧客で
人類光明化の協力者だと云う感じが乏しいのはそのためである。
自己を与えないもの、自己を献げない相手には永続的な魅力が感じられない。

そこで聖使命会が結成せられ、自分自身が人類光明化のシテである
という主体性の自覚の発生と共に信徒は情熱をもって
真理を宣布して下さることになったのである。

何事も、献げだけの生き甲斐が感じられるのである。

            <感謝合掌 平成29年2月13日 頓首再拝>

《繁栄の根源は人類に幸福を与えるにある》 - 伝統

2017/02/18 (Sat) 04:47:39


           *「光明法語」(2月18日)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。

しかしロックフェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。

            <感謝合掌 平成29年2月18日 頓首再拝>

今、目前の仕事にサービスせよ - 伝統

2017/03/01 (Wed) 04:37:12


           *「光明法語」(3月1日)より

若し諸君に職業が見つからぬならば、金を得る仕事だけを職業だと思うな。
諸君の前に偶然あるところの何の仕事にでも(便所掃除でも、カド掃きでも、
障子硝子拭きでも)報いを求めることなしに奉仕せよ。

これが無条件に与えると云うことである。
やがて其処から諸君に最も必要にして適切なる仕事を得る
緒(いとぐち)が得られるであろう。

神は決してケチではないのである。
人間が与えることにケチなのである。

そして入り口をひらかないものだから神の恵みが流入しないのである。

            <感謝合掌 平成29年3月1日 頓首再拝>

助ける者は、助けられる者によって 幸せになれる - 伝統

2017/03/13 (Mon) 04:37:19


   *メルマガ「日本一元気(2017年03月11日)より

その昔、宮城谷昌光の『孟嘗君』を読んだことを最近思い出しました。

孟嘗君は中国戦国時代の政治家です。

この小説『孟嘗君』の登場人物に、
伝説の商人と言われた白圭が出てきます。

白圭も、中国戦国時代の政治家で、
孟嘗君を赤ん坊の時に拾い、育てた人です。

私財を民のために投じ、
黄河の治水工事を自ら采配して行ったと言われています。


この白圭は死の直前、孟嘗君から、

「私を育ててくれてありがとうございます」

と礼を言われた時、以下のように言っています。


「それは違う。
 お礼をいうのは私の方だ。」

「助ける者は、助けられる者によって
 幸せになれるのだ」


この言葉が私のなかで印象に残っていました。

もう何年も前に読んだ本ですが、
いま実感としてわきあがるものがあります。



助けることで、
ただそれだけで、
幸せになれる。

            <感謝合掌 平成29年3月13日 頓首再拝>

まずは与えること - 伝統

2017/03/28 (Tue) 04:40:17


         *『笑う人には福来たる 「幸せ」が集まってくる5つの習慣』
           高橋恵・著(P20~22)より

人のために何かをしてあげたいと思う気持ち。
そして、その気持ちから生まれた行動が人生に転機を与えてくれます。

人のために何かしてあげたい、と起こした行動が積み重なっていくと、
だんだんと向こうから自分のほうにやってくる。
そんな瞬間が訪れるのです。

もちろん、自分がしたことのすべてが相手のためになるわけではありません。
相手に伝わらないことだってありますし、
時には迷惑に思われてしまうこともあるでしょう。

しかし、それでいい!
それがいいのです。

一つひとつのことに一喜一憂せず、自分の気持ちを外に分けてあげる。
そんなことを続けていると、どこかのタイミングでおもしろいことが起きてきます。

たとえば、久しぶりに会いたいなぁと思っている人がいると、
思いがけない場所でその人と出会う。

行ってみたいなぁと思っていた場所に、誰かが急に誘ってくれる。

久々に食べたいなぁと思っていたものを、
誰かが差し入れしてくれる(しかも、そういうときはみんなが同じものを持ってくる!)。

そんなことが連日のように起こるのです。


どんなときも心に何を思うかが大事で、
人に笑顔を与えていれば、自然と幸運に恵まれるようになります。

(中略)

苦しいとき、悲しいとき、どんなときでも
人に与えることを忘れなければ、
人生はいい方向に動き出します。

そのため、おせっかいは大切なことだと私は思っています。

            <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>

喜んで献ぐる日 - 伝統

2017/04/06 (Thu) 03:26:16


           *「光明道中記」(4月6日)より

【全体と個との融合を実際の生命の体験として掴むことが宗教である。
                        (『生命の實相』第十三巻)】

本当の太陽は、昼に非ず、夜に非ず、昼夜を超えて照々として輝く。
それは決して火の玉にあらずして宇宙に満つ。

樹木の中にも太陽あり、吾々の体中にも太陽のエネルギーあって輝く。
太陽を一個の盆大(ぼんだい)の火の玉と見るは、
吾々の五官を通して見たる一面識なり、相対観なり。

太陽は何故かくの如く万物のうちに満つるか。
それは太陽は万物に光を与え生命を与えるからである。

吾等もまず自分が本当に全世界的に伸びようと思うならば、
みずから進んで全世界に自身を与えなければならない。
与えるものだけが、その相手を自分のものとするのである。

伸びようと思う者よ。伸びるためには今迄他から自分へ奪いとることによって
自己が拡大すると思っていたのである。
然(しか)るに今では他に与えることが自己を拡大することであると判ったのである。

一個の何の功労もない女性が、一家の主人公に身を献(ささ)ぐれば、彼女は一家の
主婦としてその一家を自由に処理し、又は管理するところの権力を得る。
身を献げたる女性は男性に縛られたように見えるが、
実は、男性を自由自在に支配する力を得る。

伸びるとは与えることである。

            <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>

自利利他の善行を積む日 - 伝統

2017/04/23 (Sun) 04:06:51


           *「光明道中記」(4月23日)より

【すべて形に執われて来るとき生命を生かす事が出来ないのであります。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

来る人は一人で来ないで是非知人を伴って来て戴きたい。
自分だけ善い話を聞いて救われたいと云う利己主義と云う程でもないが、
独善であり、消極的であり、羅漢の程度の境地である。

自利利他の功徳を計ることになって菩薩の境地に入る。
「利他」にして初めて潜在意識の世界に善行の種を蒔いたことになる。
心の世界に蒔いた種は決して滅びるものではない。

子孫に美田を遺してもその美田は滅びるであろう。
併し心の世界に蒔いた善行(たね)は滅びはしない。

私の叔父さんに福松と言って畸人(きじん)があった。
神道の神主で少講義かなんかの低い役目をしていたが、施しが好きであって
何時(いつ)も貧乏で見窄(みすぼ)らしい服装(なり)をして歩いていた。

人が気の毒に思って紋付の羽織などを着せてやるとその翌日には
もうその紋付の羽織を着ていなかった。

「どうしたのか?」と訊くと
「憐れな人があったから与えた」と答えるのが常であった。

この叔父さんには自分自身を良くすることなど考えて見たこともなく、
ただ隣人を愛していたのであった。

            <感謝合掌 平成29年4月23日 頓首再拝>

人間は与えることによって大人になっていく - 伝統

2017/05/08 (Mon) 04:27:18


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2016-01-30)」より

   (曽野綾子氏の心に響く言葉より…)

   好意や援助を受けることやもらうことばかりを求めている人は、
   どこまでいっても満足感を得られず、
   永遠に心の平穏を保てないと思います。

   なぜなら、人は受けている時は一応満足するけれど、
   次の瞬間にはもっと多く、もっといいものをもらうことを期待します。

   心は「もっと欲しい」と叫び続け、
   いつまでも飢餓感に苦しめられることになりますから。


   しかし不思議なことに、自分が与える側に立つと、
   ほんのちょっとしたことでも楽しくなるものなんですね。

   相手が喜び、感謝し、幸せになれば、こちらの心はさらに満たされます。


   人間は与えることによって大人になっていく。

   赤ちゃんの時は、おっぱいをもらって、おしめを替えてもらって、
   何もかもしてもらうでしょう。

   それが小学生くらいになると、少しは家事の手伝いをしたり、
   母親の荷物を持ってあげたりするようになる。

   社会人ともなれば、給料で親に何か買ってあげたり、
   たまに旅行に連れ出したりする。

   そうやって、年をとるにつれて与えることが増えて、
   壮年になれば、ほとんど与える立場になるわけです。


   日本でも戦前は、
   妹や弟の面倒を見たり親の手伝いをしたりする子供はいくらでもいました。

   子供が家の仕事を手伝うというのは、子供の成熟を促すし、
   子供に人生というものを理解させる上で非常に役立つ方法だと思います。


   アフリカでは、栄養失調の子供ですら、家族を助けています。

   一日に一食しか食べられないような地域で、
   修道会のシスターたちが栄養失調児のために
   炊き出しをしているところがあるんですね。

   大釜で穀物を煮て、そこに魚の粉とか芋虫の干したものとか
   栄養になるものを入れて、お粥(かゆ)をつくる。

   配給の時間になったら、そこに子供たちがお皿をもって集まってきます。

   その中に、赤と白と水色の縦縞(たてじま)模様の大きなビニール製の
   買い物袋を手にした9歳くらいの男の子がいました。

   何に使うのだろうと見ていると、その子がお粥をついでもらったお皿を
   そのまま袋に入れたのです。

   シスターたちは「ここで食べなくてはいけません」と繰り返し言っている
   そうですが、彼のようにシスターの目を盗んで、家族のためにお粥を
   持って帰る子供があとを絶たないそうです。


   アフリカの子供の8割は、そういう子です。

   ビスケットをあげても、食べないでずっと手に持っている。
   「どうして食べないの? 」と聞くと、
   家へ持って帰って妹や弟に食べさせたい、と言う。

   手の湿気でビスケットはだんだん崩れてしまうのだけれど、それでも握っている。

   やはり人間というのは、まともな育ち方をしていると、
   自分より弱い者を助けたいと思うんでしょうね。

         <『思い通りにいかないから人生は面白い』三笠書房>

              ・・・

世界では、およそ8億人(9人に1人)が飢餓に苦しんでいる。

また、世界では、1分間に17人(毎日2万人)が飢餓で亡くなっている。

途上国では、約1000万人の子どもが5歳の誕生日を迎える前に命を落とし、
このうち6割は飢餓や栄養不良に関連した病気が原因とされている。


我々は、三度の食事をとることができ、暑さ寒さをしのげる家があり、
着ていく洋服があるといった、「今ある幸せ」をつい忘れてしまう。

そして、食事や、住む家、洋服などの、文句や、不平、不満を言ったりする。


「人間は与えることによって大人になっていく」

今ある幸せに感謝し、与えること多き人生を目ざしたい。

            <感謝合掌 平成29年5月8日 頓首再拝>

【させてくださって、ありがとう】 - 伝統

2017/05/21 (Sun) 04:51:06


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2016-12-20)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   当時、お釈迦様を取り巻く集団は、
   できるかぎり自分でできることは自分でやり、
   どうしても自分ではできないことを他人にやってもらう
   というかたちをとっていました。

   お釈迦様を取り巻く集団では、何か人に頼むとき、
   こういう呼びかけをしていたらしいのです。

   「誰か、私に施しをし功徳(くどく)を積んで、幸せになりたい人はいませんか」


   「施し」をすることは、「他人のため」ではなく、「自分のため」であった
   というのは驚くべきことです。

   当時の釈迦の集団は、小さな布切れを拾ってきてはそれを縫い合わせ、
   それぞれの人の衣にしていました。


   あるとき、目が見えなくなった弟子が、
   布切れを縫い合わせて衣をつくろうとしました。

   しかし、まず最初のことである、「針に糸を通す」ことができません。


   彼は、大きな声で、

   「どなたか、私に施しをし功徳を積んで、幸せになりたい方はいませんか」

   と周りの人に呼びかけました。


   目の前を通りかかったらしいある人が、

   「私にやらせてほしい」

   と言いました。


   「えっ、その声はお師匠様ではありませんか」

   お釈迦様が、ちょうどその弟子の前を通りかかったのでした。

   「それはそれは、大変、失礼なことを申しました。
   お師匠様にそんなお願いをするわけには参りません。
   今の言葉はお聞き流しください」

   と、その弟子は言ったそうです。

   まさか、ちょうどお釈迦様が通りかかるとは思っていなかったでしょう。

   慌てて、驚き、恐縮した気持ちは理解できます。


   弟子から「そんな大それた」と言われたお釈迦様は、そのとき、こう言いました。

   「なぜだ、なぜ私ではいけないのか。私だって幸せになりたいのだ。
   私だって、もっと幸せになりたい」


   お釈迦様は、ありとあらゆる執着を離れることができ、
   すべての苦悩・煩悩から“解脱”した方です。

   何も悩みはなく、十分に幸せになっていた人でした。


   その人が、「私だって幸せになりたい」と言ったというのです。

   なんと素敵な一言でしょう。


   よく考えてみれば、お釈迦様は仏教徒ではなかったし、
   キリストもクリスチャンではありませんでした。

   仏教典は釈迦の死後700年も経ってまとまったものでしたし、
   キリスト教の聖書も、キリストの死後300年も経ってから認められたものでした。

   釈迦もキリストも「宗教者」ではありませんでした。

   宗教者ではなかったけれども「実践者」だった…。



   「幸せになりたい方はいませんか」という呼びかけは、
   「私」だけでなく、周りのたくさんの人を「幸せ」にしていくようです。

   何かをしてもらって「ありがとう」と言うのは、
   「ありがとう」のすごさの半分くらいしか使っていないのかもしれません。

   「ありがとう」は、してもらったときだけでなく、
   こちらがしてあげたとき、させていただいたときにも使えるのです。


   「させてくださって、ありがとう」

   人のためではなく、自分からしてあげることで
   たくさんの「ありがとう」(させてくださって、ありがとう)を言うことができる
   というのは、何とも楽しいことではありませんか。

             <『この世の悩みがゼロになる』大和書房>

                 ・・・

「あんなにしてやったのに 『のに』がつくとぐちがでる」

相田みつをさんの言葉だ。


「させてくださって、ありがとう」の反対は、
「(こんなに)してやったのに」という言葉。

「(こんなに)してやったのに」、

「ありがとうと言われなかった」、
「感謝されなかった」

とグチや文句を言う。


「やらせてもらう機会をもらった」、と思うなら、
そこに「ありがたい」と感謝の気持ちが生まれる。

日常起こる、掃除や、片づけ、様々な小さいけれど大切なこと。

つい、面倒だと思ってしまう。


何かをさせてもらうことは、功徳を積むこと。

「させてくださって、ありがとう」と言える私でありたい。

            <感謝合掌 平成29年5月21日 頓首再拝>

【人に与えなさい、稼がせなさい】 - 伝統

2017/06/05 (Mon) 04:08:02


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年03月29日)」より

   (江上治氏の心に響く言葉より…)

   人生の正解は、意外なところにあります。

   お金を稼ぐという面で考えても、他人のために手を貸す、何かを与える
   という考え方は効果的です。

   自分がまずお金を稼ぐというよりも、
   「人に与えなさい、稼がせなさい」と考えるほうが正解なのです。


   これにはきちんとした仕組みがあるのですが、
   「人に与える人」とは、自分の持つ資源を与えて、
   相手の社会的な価値、人間的な価値を上げてくれる人で、
   けっして自分中心ではなく、視線がいつも他人に向けられていますから、
   人に好かれます。

   しかも、好かれるだけでなく、
   その人の恩恵にあずかった人たちから返報がなされます。

   返報とは、恩返しといってもいい心理です。

   ただ、この返報のルールを説明したとき、必ず返される言葉が、

   「私には、人に与える情報も、お金も、何もない」

   です。

   何も持っていないから、他人に施しをすることができないというのです。


   そんなとき私は「あなたの持っている資源」を
   もう一度考えてください、といいます。

   私は、お金、スキル、人脈、時間の4つを重要な資源と考えていますが、
   お金やスキルといったものがなくとも、自分なりの人脈を使って、
   他人の悩みや問題の解決のために、だれかにつないであげることも、
   大きな価値を相手に与えることになります。


   また、時間という資源は、すべての人平等に持っています。

   この資源を有効に使う手もあります。

   たとえば、時間のかかっている作業に上司が取り組んでいるとき、
   それを引き受けてしまうのです。

   そうすれば、上司は厄介な仕事から解放され、自分の時間が増えることになります。
   相手は喜んでくれるでしょうし、返報の心理も生まれることでしょう。


   こうしたことは、そのつもりでまわりを見渡せば
   たくさんあることに気づくはずです。

   これは自分の時間を使うだけで、人の役に立つのです。

   ですから、どんな人にも、そしてあなたにも「資源がある」のです。


   私の講座生の一人に、いまの仕事をすべて見直し、
   一から保険業界に挑戦したいと門をたたいた若者がいます。

   彼は、講座の準備や雑用を自ら買って出て、
   ほかの講座生が勉強しやすい環境を、一所懸命につくる努力を続けました。

   すると、彼がある保険会社の研修で難題にぶち当たったとき、
   講師の私も、一緒に学んだ仲間も、彼を懸命に応援し、
   その難題を乗り越えることができたのでした。

   私は彼に、先にほかの人に価値を与えてあげることが、
   結局は成功の近道であることを、あらためて証明してもらった気がしたものです。

   相手のことを考え、その悩み、課題をどうしたら解決できるかを考えている。

   こうした姿勢は、一方でその人を大きく成長させていくことに違いありません。


   そして最後に、いちばん大事なことをお伝えします。

   それは、あなたが誰かの役に立つことをして、
   その対価としてお金を差し出されたら、「受け取る」ことです。

   ありがとうございます、といっていただかなくてはなりません。

   そうしなければ、あなたは単なる「いい人」で終わってしまい、
   お金は貯まらないばかりか、ほかのお金も入ってこなくなります。

   これもお金の真理です。

   《返報性の法則を発見できれば、あなたの運命も変わる》

                      <『運命転換思考』経済界>

                ・・・

安岡正篤師が紹介した言葉に「斡旋(あっせん)の才」というものがある。

これは、江戸時代後期の、神職であり久留米藩士でもあった、
真木和泉(まきいずみ)の言葉だ。

斡旋とは、人と人との仲をうまく取りもったり、双方のなかだちをすることだが、
その人にふさわしい人物や、物品あるいは職業などを紹介すること。


斡旋は自分のことばかり考えている利己的な人にはできない。

人の世話をいとわないおおらかな人や、
人の喜ぶのを見るのが大好きな「利他の人」でなければできない。


お金やスキルがなくても、人の役に立つことは考えればいくつもある。

「身体を動かすことを厭(いと)わない(雑用を引き受ける)」、
「困ったときは、昼でも夜でもかけつける(時間を使う)」、
「近所や会社の掃除をコツコツやる」等々。


「人に与えなさい、稼がせなさい」

人の役に立ち、人を喜ばせることの実践を重ねたい。

            <感謝合掌 平成29年6月5日 頓首再拝>

相手が逆境の時ほど、自分のお金と時間をつかうのはすばらしいこと - 伝統

2017/06/22 (Thu) 04:39:00

失意のときに差し伸べられた恩は、一生忘れられないもの 

       *「ベテラン弁護士の「争わない生き方」が道を拓く」
           西中 務・著(P110~111)より抜粋

江戸時代の思想家であり、松下幸之助さんも受け継いでいるとされる
石門心学の祖、石田梅岩先生は、旅の途中、流行(はや)っていない
茶店を選んで休憩したといいます。

流行っている茶店は、選ばずともつぶれる心配はありません。
しかし、流行っていない茶店を選ぶことで経営に貢献することができるのです。

しかも、石田梅岩先生は、いつも茶屋代を多めに支払ったと言います。


(中略~著者の体験<伊勢神宮参拝時、国会議員の後援会長時の体験>)


学んだのは、失意のときに、数が少ないがどんな些細なことでも
励ましの手を差し伸べてくれる人のご恩は、一生忘れないということです。

おめでたい人への声がけや手助けは、他の人に任せておけばよいのです。

同じお金を使い、また、同じ時間をかけたとしても、
相手が逆境のときほど価値が大きいのです。

他人のために自分のお金と時間をつかうのはすばらしいことですが、
使う相手とタイミングを選ぶことも、大切なことなのです。

            <感謝合掌 平成29年6月22日 頓首再拝>

他を栄えしめよ - 伝統

2017/06/23 (Fri) 04:01:58


          *「光明道中記」(6月23日)より抜粋

みずから栄える道は他を栄えしむるにある。
社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、顧客を栄えしめるように
店を経営して行くならば、その店は繁昌する他はないのである。

他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、
自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。

            <感謝合掌 平成29年6月23日 頓首再拝>

人を喜ばす人生 - 伝統

2017/07/10 (Mon) 04:00:14


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年04月11日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   「自分の人生、つまんないな」「オレって、ついてないな」といってた人でも、
   人を喜ばす人生を歩きだすと、展開がすごい違ってきちゃう。

   人生が急に輝きだす、っていうのかな。


   たとえば、前に、若い男の子で
   「自分と仲よくしてくれる人がどこにもいないし、世の中、つまんない」
   っていう人がいたんです。

   ところが、人を喜ばすことをやりはじめたら、
   会社やなんかで、仲よくしてくれる人が出て来て、
   毎日「楽しい、楽しい」っていいだしたの、その子。

   しばらくしたら、仲のいい人と一緒にサークルに出かけるようにもなって、
   そこでも人に喜ばれてて「自分は幸せだ」って。

   もっと驚いたのは、最近やけに顔がイキイキ輝いて、
   カッコよくなってきたから「なんか、いいことあったのかい?」って聞いたら、
   「サークルで知り合いになった女性に告白されて、今、つきあっているんです」って。


   その子のことを見てて、私、思うんだけど。

   よくね、定年退職だとかで、ずぅーっと家にいて、
   テレビを見て一日すごしてるような人に、
   周りが「こいいうサークルがあるから、行ってみれば」とかっていうんだけど。

   サークルに出かけたとしても、結局、行かなくなっちゃうと思うんです。
   だって、出かけていっても、そこで、自分がなにをしていいのかがわからない。

   そうすると、そこもやっぱり、楽しくないんだよ。

   だから、そういうサークルに行く前に、
   ふだんの生活のなかで、なにか一つ、人を喜ばせることをしてみると、
   いいかもわかんない。


   それで、人を喜ばすって、みんなが思っているほど、難しいことじゃないんだ。

   たとえば、女性に「いつも、キレイだね?」って、いってあげたっていいし。

   外で食事をしたとき、お店の人に「おいしかったよ」というのもいい。

   友だちやなんかと会ったら、「あなたと会えて、うれしいよ」とか。

   会社に行ったら、上司や社長に
   「この会社で働けて、私はついてます。感謝してます」とか。


   そういう言葉をいっても喜ばせることができるし、字を書いても喜ばせられる。

   なおかつ、それをやっている自分自身が、スゴく楽しいんだよね。

   だから、「人を喜ばせるんだ」ってことを、
   自分の趣味かなんかにしちゃうと、いいかもわかんない。


   私自身は、人を喜ばせる以上の楽しみは「ない」と確信しているんです。
   実際に自分がやってみての感想だよ。

   神がくれた、本当の楽しみ。

   だと、私は思ってます。

        <『斎藤一人 愛される人生』KKロングセラーズ>

            ・・・


「人を喜ばせる人生」の反対は、
「人を悲しませる人生」又は「人をがっかりさせる人生」。

行くところ行くところで、人を悲しませたり、がっかりさせる人がいたとしたら、
いつか誰からもお呼びがかからなくなる。

ところが、行くところ行くところで、人を喜ばせてきた人は、
あっちこっちから引っ張りだこの人気者となる。


お釈迦さまの教えに「無財の七施」というものがある。

お金がなくてもできる7つのほどこしだ。

(1)眼施(がんせ)
   優しいまなざしで人に接すること。

(2)和顔施(わがんせ)
   おだやかな笑顔で人に対すること。

(3)言辞施(ごんじせ)
   やさしい言葉で人に接すること。

(4)身施(しんせ)
   人のいやがる仕事など、自分の体でできることで奉仕すること。

(5)心施(しんせ)
   人に心を配ること。ともに喜び、ともに悲しんであげること。

(6)床座施(しょうざせ)
   席を譲(ゆず)ること。

(7)房舎施(ぼうしゃせ)
   自分の家を提供すること。


人を喜ばす人生でありたい。

・・・

<参考Web:光明掲示板・第一「無財の七施」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=110 >

            <感謝合掌 平成29年7月10日 頓首再拝>

《毎日必ず何か人のためになる事をしませう》 - 伝統

2017/07/23 (Sun) 03:56:50


          *『 生長の家 』(昭和33年9月15日の法語)より

   あなたが生きていると云うことは、神が、そして此の世界が、
   そして人類が、あなたの貢献を何事か希望している証拠である。

   随ってあなたの方から言えば、あなたが生きている限りは、
   神に対して、そして此の世界に対して、世界のため、人類に対して、
   何か貢献をしなければならないのである。

   あなたが何事かをするとき、この仕事は神のため、世界のため、
   人類のため、と思って 『この仕事をさせて頂きます事を感謝致します』 
   と念じてすれば疲れることも少なく、生き甲斐が感じられ、
   精神も身体も一層すこやかになるのである。

   実際、人間は實相に於いては、神とは一体であり、全人類と一体であり、
   その實相から無限の力が流れ入って来るのであるけれども、
   力が不足するのは、その一体なる實相を自覚せず、
   自分だけで事を運ぼうとするからである。

            <感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>

ただ愛のために純粋に - 伝統

2017/08/09 (Wed) 04:15:49


       *「女性の幸福365章」(P39)より抜粋


太陽はただ照っている。
ただ照ることによって万物は美しく輝く。

太陽は何の報酬(ほうしゅう)をも求めない。
賞讃(しょうさん)をも求めない。

利益(りえき)をもとめない。
栄誉(えいよ)を求めない。

ただ照っているだけである。

万物はそれによって温(あたた)められ、生気(せいき)を得る。

ああ「ただ与えること」の尊きかな。

われ太陽の如くならんかな。

            <感謝合掌 平成29年8月9日 頓首再拝>

人生問題を解決する鍵は、利他心にあり - 伝統

2017/08/25 (Fri) 03:51:03

《栄える運命を得るには》

        *『幸福を招く365章』第1項(P20~21) より

人生問題を解決する鍵は「自分」の幸福と云うものに執着していた心を解放して、
「全体」の幸福ということに心を向けかえる処にあるのである。

利己から利他へ振向いたとき、われわれは狭い世界から、広々とした世界へ歩み出る。

人類全体に、(少なくとも隣人に)奉仕するのが本当の生活であるとわかったとき、
個人的利益に執着していた自分が馬鹿らしくなり、恥ずかしくなる。

そして人のため人のためと、他のためにつくしていると、
不思議に自分自身が、かえって生かされている事実を発見して驚くのである。

わが事のためでなくて尽している人は却って栄えるのである。

            <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

《人類への無条件サービス》 - 伝統

2017/09/10 (Sun) 04:36:32


      *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P222) より

若しあなたの事業の行末を改善しようと思ったならば、
あなたの心に明るさを持つこと、歓びを持つことが必要である。

神は光明であり、歓喜であるから、神の賜を受けるために
心の波長を合わすには是非明るさと歓びとが必要であるのである。

つぎに既に今まで与えられて来た賜について感謝の心を起こすことである。
失敗をぐじぐじ思い患う暗黒な感情は、更に次の失敗を導き出す前触れである
に過ぎないのである。

 
次に、「神は自分の父であり、無限供給の本源者である」ことを
心の底深く念ずることである。
そしてその無限供給の本源者より、今自分にその無限の供給が既に与えられ既に
現象化しつつあることを信念深き予期の心をもつことである。

そしても一つ大切なのは、今自分の眼の前にある「何か」を
人類への無条件愛行(サービス)として実践することである。

            <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

そのままの心で与えよ - 伝統

2017/09/15 (Fri) 04:13:36


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

             <感謝合掌 平成29年9月15日 頓首再拝>

【与えることのできる人は魅力的な人】 - 伝統

2017/10/03 (Tue) 04:39:07


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年09月22日)」より

   (植西聡氏の心に響く言葉より…)

   運をよくしたいなら、誰かに何かをしてもらうより、
   誰かに何かをしてあげることです。

   求める立場から、与える立場になったとき、
   人は、一緒にいる人の心を温めることができます。

   そして、与えることのできる人は、誰の目にも、魅力的な人に映ります。


   また、意外かもしれませんが、
   自分から与えることを意識するようになると、
   欲しいものが手に入りやすくなります。

   求めてばかりいるときは手に入らなかったものが、
   与える側になると手に入るなんて、考えてみると不思議です。


   しかし、その理由は簡単です。

   「情けは人のためならず」

   (人に情をかけるのは、その人のためになるばかりでなく、
    やがては巡りめぐって自分に返ってくる。
    だから、人には親切にせよという意味)


   ただし、最初から見返りを求めてはいけません。

   下心は、マイナスのパワーを持っているからです。

   見返りを求めず、無理のない範囲で、
   「お役に立てれば私も嬉しいです」というプラスの気持ちで、
   相手が喜ぶような行動をすることが大切です。


   ちょっとしたことでいいのです。

   日常生活の中で、そのような場面が増えるたび、
   心にはプラスのエネルギーが増えて、
   幸運を引き寄せることにつながります。

       <『運と友だちになる習慣』日本実業出版社>

             ・・・

無能唱元師はこう語る(『人蕩(ひとたら)し術』日本経営合理化協会より)。

『「魅(み)は与(よ)によって生(しょう)じ、求(ぐ)によって滅(めっ)す」

人蕩(じんとう)の極意は簡単です「与えればよい」。

答えは恐ろしく単純です。

すなわち、あなたが他人に何かを与えれば、
あなたに「魅(ひ)きつける力」は生じ、

あなたが他人から何かを取ろうとすれば、
その力は即座に消えてしまうのであります』


人に与えるものは、お金や物だけではない。

笑顔や、感謝、あるいは愛のある言葉、優しい言葉も、もらったら嬉しい。

これらはすべて、自分が充分に満たされていなければ、出すことはできない。

ないものは出せないからだ。


魅力ある人をめざしたい。

             <感謝合掌 平成29年10月3日 頓首再拝>

何かを人に施す日 - 伝統

2017/10/04 (Wed) 04:54:24


        *「光明道中記(その身まったし)」(10月4日)より

【他人の不幸に面したら一緒に泣いてあげよ。
  泣いてもその悲しみに捉われるな。(『生命の實相』第九巻)】


吾々は人生観を変えなければならない。世界を覆う世界大戦も、
武器によって起こったのではなく、人生観によって起こったのである。

その人生観とは「生存競争必須」の観念である。
「奪う」か「餓死するか」二つに一つを選べの矛盾的人生観である。

大東亜戦争は自国を犠牲にすることによって、
大東亜の非圧迫民族を白人から解放する目的で、国民の血をそそがれたのだ。

最初はこれを自覚しないで、ドイツ流に
「持てる国と持たざる国との生存競争的展開」であるとして、
その人間自然の不可避的事実であると価値づけようとした人もあった。

併しドイツは「ダンヒチを寄越すか、寄越さなければ武力で奪う」と
傲語したのであって、

日本が八紘為宇の理念に無我献身して南洋諸国延いてはアフリカ諸国をも
白人の桎梏から解放せしめたのとは理念の相違があるのである。

成功の秘訣は奪うことではなくて献げることにある。
戦勝の秘訣も、奪うことではなくて献げることにある。

形は敗戦の如く見えても、献げる戦争には敗戦はないのである。
民族の自覚に貢献してこれらを独立せしめたのは勝利である。

           <感謝合掌 平成29年10月4日 頓首再拝>

《神に与える事によって 神から与えられる》 - 伝統

2017/10/24 (Tue) 04:46:28


        *『 生長の家 』(昭和25年2月5日の法語)より

   自分を神の子なりと信ぜよ。
   然して自分の内に神が宿っており、
   その神の愛を 神の栄光の現われんがために行ずるのだと思って行ぜよ。

   それは神に与える行為であるのである。
   神に与えることによってのみ、神から与えられるのである。

   すべての人間から来る賞讃や利益を目的とせず、
   神の愛を、神のために実現せんとして行われたる行為は、
   自分の内に 魂の賞讃を湧(わ)きたたすのである。

   良心の満足は 法悦となって現われる。
   それは自己に宿る神の賞讃の声なのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 平成29年10月24日 頓首再拝>

《人に奉仕する事は 神に奉仕することになる》 - 伝統

2017/11/09 (Thu) 04:53:56


          *『 生長の家 』(昭和25年2月6日の法語)より

   吾々は 無限の祝福を
   神から頂いて生活しているのである。

   神に報いないということは、
   その無限の祝福を取りどくに したことになるのである。

   吾々が その無限の祝福に気がつき これに感謝し、
   神に対するお礼の意味に於いて 神の愛を実践し、
   神の み心を広く述べ伝えることが必要である。

   すべて 与えられながら、取り得にするものは、
   やがて奪いかえされるのである。

   すべての人に神が宿っているということを知るならば、
   すべての人の幸福のために奉仕するということは
   神に奉仕していることになる。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 平成29年11月9日 頓首再拝>

【人生最大の危険は、自分のことだけ考えること】 - 伝統

2017/11/25 (Sat) 04:40:02


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年10月29日)」より

   (医師、保坂隆氏の心に響く言葉より…)

   《人生最大の危険は、自分のことだけ考えること》

   (アルフレッドアドラー:フロイトの最初期の弟子で深層心理学の巨頭。
    くる病にかかって身体障害を経験したのをバネに医師に。
    すべての人間に普遍的に劣等感があるとした)


   ゆううつ?

   そんなものはきっと2週間で全快しますよ。


   処方箋?

   それは、どうしたら他者を喜ばすことができるかということを
   毎日考えることです。

   他者のことに関心を持たない人は苦難の人生を歩まねばならず、
   他者に対しても大きな迷惑をかけます。

   人間のあらゆる失敗は、そういう人たちの間から生まれるのです。


   扱いにくい相手とうまくつき合うには?

   簡単なこと。
   相手がなんとか自分を優秀に見せようとして、
   躍起(やっき)になっていることを念頭に置くことです。

   そしてその観点から相手とつき合ってみるのです。

   アルフレッド・アドラーは、温顔でそのように言い切る。


   劣等感という言葉を、現在使われている意味で最初に使った人である。

   アドラーが劣等感を根幹に組み立てたのが、「個人心理学」だ。

   人間は、幼い頃に劣等感に見舞われる。

   それにどう応じていくかが、その後の人生行動を決める。


   フロイトの精神療法の基本は、患者の過去をさかのぼって
   症状の要因を明らかにし、今のトラブルを解消するものだ。

   それに対して、アドラーはもっぱら勇気を強調した。
   元気を出せば必ずうまくいくという前向きの思想を構築した。


   「生きづらさの責任を過去の経験や他者に求めず、勇気を持つことだ」

   これもアドラーの言葉である。

   思えば、アドラー的な「成功への道」は、今も世にあふれている。

   フロイトやユングほどアドラーが有名でないのは、
   不人気なのではなく、私たちの思考の中に溶けこんでいるからだろう。

    <『つらい時に力をくれる「こころの名匠」100の言葉』PHP文庫>

             ・・・

アドラーはこう語る。

『「わたしは誰かの役に立っている」
と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる』

役に立つとは、ほんの些細(ささい)なことでいい。


森信三先生は、それを「人に対して、親切にする」という。

仏教でいうなら「無財の七施」だ。


無財の七施とは、お金がなくてもできる他者への喜びを与えること。

一、眼施…優しい目つきや慈(いつく)しみのまなざしで、すべてに接すること。

二、和顔施…いつもおだやかな顔つきで人に接すること。

三、言辞施…愛あるやさしい言葉を使うこと。

四、身施…人のいやがることなどを、気持ちよく実践すること、行動すること。

五、心施…人の身になって心を配り、共に喜び、共に悲しむこと。

六、床座施…電車の中などで気持ちよく席を譲ること。

七、房舎施…訪ねてくる人がいたら、気持ちよくもてなすこと、気くばりすること。


「人生最大の危険は、自分のことだけ考えること」

人を喜ばせることの実践を重ねたい。

・・・

<参考>

(1)森信三先生については、次のスレッドにて、
   その言葉の数々を味わうことができます。

  ①『一日一語』(森 信三) 」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6714587

  ②「修身教授録・一日一語(森 信三)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7150729

(3)無財の七施については、次のWebにてご確認ください。

   光明掲示板・第一「無財の七施」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=110

           <感謝合掌 平成29年11月25日 頓首再拝>

与え切る - 伝統

2017/11/29 (Wed) 03:13:47


       *「光明法語」(11月29日無条件降伏)より

神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。

それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。

これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。

与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。

           <感謝合掌 平成29年11月29日 頓首再拝>

惜しみなく人に与える - 伝統

2017/12/15 (Fri) 03:29:00


       *「Q・次の2つから生きたい人生を選びなさい」 
        ~ハーバードの人生を変える授業 2 (P284~285)より

惜しみなく与える人は最終的に成功します。
大きな成功を収めている経営者は、
自分の知識を惜しみなく人に与えるものです。

対照的に、競争を意識して自分の経験や専門知識を従業員と
分かち合わない経営者はあまり成功しません。

心の広い経営者は、従業員を脅威に感じることなく最適な人材を採用し、
その人材がさらに発展するよう手助けを惜しみません。
結果として、その経営者は成功を収め、もっと成功し、
さらに多くの責任を引き受けていきます。

才能があるにもかかわらず知識を分かち合わなかったために
十分に生長できなかった経営者を見てきました。

逆に気前よく与えることですばらしい発展を遂げた経営者もいました。
気前よくふるまうことは、結局すべての人に利益をもたらすのです。

多くを人に与えることは、物質的な成功を呼ぶと同時に、
幸せという配当が必ずついてきます。

幸福は無限の資源です。
決め垂れた配分はありませんし、ひとりの人間がいくら幸福を得たところで、
他人の取り分が減ることもありません。

心の寛容さをもつことにより、
私たちは精神と感情の富を引き出すことができます。

「与える」という能力を、あなた自身に贈りましょう。

           <感謝合掌 平成29年12月15日 頓首再拝>

他の人から「ありがとう」と言われることを実践する - 伝統

2018/01/02 (Tue) 03:55:47


        *メルマガ「成功への道しるべ(2017年12月27日)」より 

「獲得すること」と「与えること」        

◆イスラエルとヨルダンの国境にある死海(Dead Sea)は
 塩分の濃度が高く体が沈まない湖として、よく知られています。

 何故このような湖が出来たかというと、周りの山に岩塩があって、
 ほんの少し塩分を含んだ水が流れ込みます。
 ところが出口が無いので、水は蒸発するだけです。

 そのため長期間に少しずつ濃度が高くなり現在のようになったのです。


 この湖の100数十キロ北にガリラヤ湖があります。
 この湖にも同じように、ほんの僅か塩分を含んだ水が流れ込みます。
 こちらの方は出口があるので水は常に循環し清浄です。多く生物も生息しています。

 一方の死海は名前の通り、一切生物が生息出来ない湖になっています。


 聖書に「受け取るよりも、与える方が幸いです」という一節があります。

 2つの対照的な湖が、このように相対して位置しているのは、
 神様が人類に幸福になり繁栄するには、

 「与えること」が大切なことを教えるためだといわれています。


◆ジョン・ロックフェラー(1839~1937)は石油王として、
 世界一の大金持ちになりました。

 ところが巨万の富の重圧、ストレスから50才半ばの時には
 食べるものも食べられず、痩せこけ廃人同然になってしまいます。

 富を獲得すること以上に、与えることの大切さに気付き、その後の人生は、
 与えること、慈善事業(ロックフェラー財団)といったことにエネルギーを
 注ぐようになります。

 その結果、健康を取り戻し、97歳まで幸福と繁栄に満ちた人生を送ったといわれます。 

 与えることは、人生で真になりたい人間になる秘密のようなものが隠されています。


◆与えるものは、お金やモノに限りません。

 仏教で「雑宝藏経」というお経の中に、「無財の七施」という章があるそうです。

 財が無くてもできる次の7つの施しを実践すれば、藏が宝でいっぱいになる
 という教えで、七施は次の通りです。

  1眼施(がんせ)(優しい眼差し)、 
  2和顔悦色施(わがんえつしきせ)(笑顔、。微笑み)、 
  3言辞施(ごんじせ)(あたたかい言葉)、 
  4心施(しんせ)(慈愛の心)、 
  5身施(しんせ)(体を使っての親切)
  6床坐施(しょうざせ)(席を譲る、謙譲)、 
  7房舎施(ぼうしゃせ)(キレイにされた場の提供)


  <参照:光明掲示板・第一「無財の七施」
      →  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=110 >


◆何の雑誌か本だったか忘れましたが、
 その内容に共感し記憶に残っている次のようなお話があります。

 【ある豊かな国の王子は願って叶わぬ事は何一つありません。しかしいつも
 浮かぬ顔をしていて、何故幸福でないのか自分でも分かりません。

 王様は心配して、大懸賞金付きで、王子の幸福生活法を募集しました。

 “私が治して差し上げましょう”と一人の魔術師が現れました。

 “王子様、この紙を暗室へ持って行ってローソクの火で、紙に書かれている
 文字をあぶりだし、書いてある通りになさいませ。今日から幸福になれます。
 と言って消えてしまいました。

 早速王子は部屋を暗くしローソクの火で、その紙に書かれている文字を
 あぶりだしました。その紙には、こう書かれていたのです。

 「毎日一度は誰かに親切にせよ」  ああこれだ!
 王子はその教えに従って、その日から幸福になったのです。】


 (参照:「生命の實相(生活篇?)」にも、この話は収録されております~伝統追記)


◆私達は成功者になろうと、より多くのお金、大きな家や車、ゴージャスな
バカンス、おいしい食べ物等々を追い求めます。ところが結局行き詰り、
ストレスがたまるばかりです。

ただ「与える」と損をするように思い積極的に実践できないものです。
「与えれば与える程、より与えることが出来るようになる」が
宇宙の真理であることを認識することです。

「与える」ことは、成功を減じることにはなりません。より豊かになり、
成功をより価値のあるものにします。


「成功するための秘訣」としてあらゆること(目標、人、モノ、こと等)に
「ありがとう」と言うことを、何回かに亘ってお伝えしてきました。

「幸せになる秘訣」は他の人から「ありがとう」と言われることを実践することです。

           <感謝合掌 平成30年1月2日 頓首再拝>

《先ず自(みず)から与えよ》 - 伝統

2018/01/13 (Sat) 04:19:41


          *「光明法語」(1月13日)より

与えれば与えられるのが心の法則である。
それは原因結果の法則である。

朝の神想観に、自分は神の輝く光の流入口であり、その流入した光をもって
自分は出来るだけ多勢の人を照らすのだと念ぜよ。

人に対して先ず輝く微笑(ほほえみ)を与えよ。
光り輝く挨拶を行え。
「おめでとうございます」と言え。

先ず主人からでも好(よ)い、「お早うございます」と言え。
家族全部を祝福する言葉を語れ。

路傍一輪の野の花を手折(たお)って主人のテーブルを飾れ。
清楚と平和と調和と祝福の気をもって自分の家庭を飾るのだ。

そこから幸福が流入して来るだろう。

           <感謝合掌 平成30年1月13日 頓首再拝>

和顔施(わげんせ) - 伝統

2018/01/29 (Mon) 03:22:24


              *Web:勢蔵の世界(2008/2/5)より
                   ~ 青山俊董尼

「あなたがそこに ただ いるだけで なんとなくその場の空気があかるくなる
あなたがそこに ただ いるだけで みんなのこころがやすらぐ
そんなあなたに わたしもなりたい 」


私の大好きな、足利の相田みつをさんの詩である。
偉そうになにかを語って聞かせるのでもない。
やって見せるのでもない。

ただただあなたがそこにいるというそれだけで、
その場の空気が明るくやわらぎ、みんなの心がやすらいでゆく。

そんな方に出会うと私はむしょうにうれしくなり、
ほれぼれとその方を眺め、私もそんな人になりたいと思う。

反対にその人がそこへ入って来ただけで、
その場の空気が暗くなり、その人の顔を見ただけでイライラしてくるという、
そんな人に出会ったとき、私の姿を見るような気がして悲しくなる。


私も行く先々に闇黒を、不安をばらまいて歩いているのじゃなかろうか、
と反省させられる。


ずいぶん遠い日のことになってしまったが、忘れられない話がある。

松井桃桜先生からお聞きした北原怜子さんのお話である。

戦火で灰燼に帰した東京の下町の一隅に、アリの町と呼ばれるバタヤの集落が出来た。
大学教授の令嬢でクリスチャンの北原怜子(さとこ)さんが、
ある日このアリの町の住人になった。

怜子さんは、貧しくて小学校教育も受けることの出来ない子供達を集めて学習したり、
病人や孤独な老人の世話に、寝る間も忘れて働いた。

何百人というバタヤさんが朝になるとガラガラと大八車をひいて出かける。

明るい笑顔で「いってらっしゃい」と送りだし、
夜何時であろうと帰って来た一人一人を必ず出迎えて、
「お帰りなさい。お疲れさまでした」とやさしくほほえみかける怜子さん。


戦後のすさんだ社会の、そのまた吹きだまりのあらくれ男たちは、
この怜子さんのやさしい清らかな笑顔に迎えられることにより、
1日の疲れもすべてぬぐわれ、やすらかになることができ、
怜子さんは誰いうことなくアリの町のマリアと慕われるようになった。

やがて怜子さんは過労がもとで結核になり、
人々が実家へ帰って療養してくれとたのむのに対し、
”私をここで死なせてくれ” といってついに帰らず、

冷たい隙間風の入りこむあばら屋の片隅に、薬もなく栄養もとれないまま、
綿の出た破れ布団にくるまっての闘病生活の末、二十何歳かの若さで世を去った。


死後、枕の下から小さいノートが出てきた。
病床でときどきそっと開いていたノート。

なにか大切なことが書いてあるのかと、
松井先生が開いてみると、そこにはたった一言

「あなたは今ほほえむことを忘れていませんか」

と書いてあった。

高熱にうかされた病床でも、つねにほほえみを失わなかった怜子さんであったが、
怜子さんとて人の子、どんなにか人恋しく、また病もつらく、
泣きたいときもあったことであろう。

そんなとき、そっとこのノートを出して、われと我が身を問いただすという
厳しい努力が為されての、あのほほえみであったことを知り、
胸えぐられる思いであったと語られる松井先生の眼は、涙にぬれていた。


いつもほほえんでいる。

これはなんでもないことのようだが大変なことである。

自分の都合のよいとき、わが心にかなうときは誰だって自然に笑みが浮かぶ。

どんなときでもほほえみを。
わが心にかなわぬときほどむしろ笑顔を。
これはなまやさしいことではない。

人はついに自分の”なま”の顔に出会うことは出来ない。
鏡を見るときは他所ゆきの顔になっているに決まっているのだから。

自分が今日気分が悪いからといって、今私が腹立つからといって、
その感情を顔に丸出しにすると、その顔によって
不快な思いを味わわねばならないのは第三者。
全くもって迷惑千万な話。


今日私はたとえどんな気分であろうと、それは人間だから仕方がないまでも、
第三者にまでとばっちりを及ぼさないよう、自分で責任をもって
自分のお守をちゃんとする、感情のおもむくままの顔をさらけ出して
公害をふりまかないようにするということは、
少なくとも大人らしい大人として生きてゆくうえでの大切な心がけではなかろうか。

地蔵菩薩のご真言の「オン カ カ カビサンマエイ ソワカ」の
「カカ」は呵呵大笑の「カカ」で、ハハハという笑い声に通じ、
「カビサンマエイ」は「莞爾(かんじ)」と訳されて、
ほほえむ姿をいうのであると聞いている。

すべてを包みはぐくみ育てる、母なる大地の願いを象徴化したと思われる
地蔵菩薩のご真言が、深く美しいほほえみのひと言で表現されているということは、
なんともうれしいことである。

母はつねに笑みたもえもの、わが心に違(たが)う、違(たが)わぬの境を越えて、
大手を広げてかき抱きたもうものであり、
すべての人がつねにこの願いで生きよとの思し召しが、
お釈迦様の「和顔施」という、無財の七施の筆頭の一語になったのではなかろうか
と思うことである。

  (https://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/30009949.html


           <感謝合掌 平成30年1月29日 頓首再拝>

《与えることによってのみ受けられる》 - 伝統

2018/02/02 (Fri) 03:25:42


           *「光明法語」(2月2日)より

太陽の温かさを受けようと思えば先ず一歩日向(ひなた)に向って「歩み出し」を
与えることが必要である。日向にむかって「歩み出し」を与えないでいて
太陽の温かさをうけることは出来ない。

写真を写すには先ずカメラに代金を払わなければならぬ。
マメラを借りて来ても好(よ)いが、やはり吾らは、
焦点距離を合わしてスイッチを捻る動作を与えなければならないのである。

音楽をきこうと思えば音楽会に金を払うか、レコードに金を払うか、
蓄音機を廻すかラジオの波長を合わすか、
いずれにせよ金又は「動作」を与えなければならぬ。

           <感謝合掌 平成30年2月2日 頓首再拝>

与える心 - 伝統

2018/02/04 (Sun) 03:10:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月4日)」より抜粋

いくらと定(さだ)めた自動車賃をこちらから進んで余計出した時には実に気持ちがよい。
なんだか自分が大きくなったような気がする。
そのくせ自分は出しただけ余計に減っているのである。

この事実はなにを語るか、物質的にかえって減りながらも、
かえって「自分」というものがいっそう大きくなった実感がする
という事実を考えてみるとおもしろい。

この事実は「自分」というものが「物質」でないことの証拠である。

「上衣(うわぎ)を着る者には下衣(したぎ)をも与えよ。
一里の公役を強いられなば二里を行け」と言ったイエスの言葉には、
人間が「物」でないという実感がたたえられている。

           <感謝合掌 平成30年2月4日 頓首再拝>

深切を与える - 伝統

2018/02/07 (Wed) 03:27:48


           *「光明道中記」(2月7日深切を与える日)より

【常に他に与えたいと思っている者は他から愛され、常に他から与えられたいと
 思っているものは他から嫌われる。 (『生命の實相』第十一巻)】


「あの人から深切して欲しい」と思う心は兎(と)もすれば其の人を躓かせる。
深切が欲しければ自分が先ず深切を自分の生活から造り出すことである。

深切を他から求めるような人は屹度深切に飢えている人である。
深切に飢えている人は、自分自身が深切を身辺に造り出していない証拠である。

他が深切にしてくれないと思う人は、
自分が他に深切をしているかどうかを省みるが好い。

蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、
「深切」の少きを嘆いてはならない。

「深切」を沢山欲しい人は、
自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。

こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。
こちらが渋面(じゅうめん)すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。


 吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。
 人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。

 自分だけの幸福を護り育てていたい者には、
 その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。

           <感謝合掌 平成30年2月7日 頓首再拝>

深切には、心を添えよ! - 伝統

2018/02/09 (Fri) 03:22:24


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月9日)」より抜粋

人間の深切にも物施と法施とがある。

物を与えることも時には必要であるが、
あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、
貰うことが権利のような感恩のない状態にまで
相手の心を荒(すさ)ませることがある。

物を与えるならば、《心もち》を添えて贈らなければならぬ。
紙に包み、水引を掛けるのは心持を添える方法の一つである。
人間は心もちによって生かされているのである。

機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。

与える側からいうならば、物を贈るのに相手に感恩の心をを起こさせようと
思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に満ちたり、
忘恩的な荒んだ心にまでならせないためには機械的な与え方をしてはならない。

           <感謝合掌 平成30年2月9日 頓首再拝>

河野宗寛 老師 - 伝統

2018/02/22 (Thu) 03:02:13


かつて河野宗寛という禅僧がいました。

( → http://www.houkouji.or.jp/kancho.html#kouno

戦後の満州で戦災孤児たちの救援を行い、
300人を無事日本に連れて帰るという、利他行に生きた人です。

かの仏教詩人・坂村真民さんも、心から尊敬し師事されました。
そんな河野老師について、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さんが綴られています。

        *『致知』2018年3月号~連載「禅語に学ぶ」(P118)より


真民先生が心から尊敬し師事された河野宗寛老師とは
どのような方だったのであろうか。

今年の2月に大乗寺50年忌の法要が一年早めて行われる。
私もおまいりさせてもらう予定である。
 
宗寛老師は明治34年にお生まれになり、昭和14年、大乗寺に住され、
そこで四国唯一の臨済宗の専門道場を開かれた。

昭和17年には、満州に建てられた妙心寺の別院に赴任され、
現地で禅の指導に当たられた。
 
しかし、終戦を満州の地で迎えられることになり、大変な混乱に巻き込まれてしまう。
一人だけでも帰国するのは至難であった。
 
しかし、老師は慈悲の深い方であった。

終戦の後に老師の眼に映ってきたのは、町にあふれる孤児たちの姿であった。
厳寒の満州では、「3日ぐらい食べなくてもよいが、
冬に暖房がなければ一晩で凍え死ぬ」と言われた。

老師は、いち早く坐禅堂を孤児院に開放し、自ら私財をなげうって石炭を買い集め、
町にあふれる孤児たちをかくまわれた。「慈眼堂」が開かれたのだ。
 
当時の思いを

「戦に敗れし日より憂きことは親のなき子らのさまよひあるく」

と詠われた。

それまでは禅によってひたすら精神の鍛練を説かれた老師が、
一転して多くの孤児たちの親となられたのだ。

「今日よりは親なき子らの親となり厳しき冬を守りこすべし」

と決意を詠われている。

厳しい禅の老師が、多くの孤児たちの親となる様子を

「入りし日は笑みもせざりし子供らもわれにより添い戯れにける」

と詠われた。
 
ソ連兵も来る、中共軍も入ってくるという内戦の戦渦の中を、
老師は我が身を捨てる決意で孤児たちを守られた。

「夜もすがら床の柱に倚りて坐し修羅の世相に涙すわれは」

そんな中を孤児たちは、

「子供らは朝な夕なのひと時を坐禅をなして身を修めいる」

という日々を過ごした。

苦難の末にようやく、昭和21年7月に帰国できることになった。

「立つ鳥も跡は濁さじ此の園を掃き清めおけふき浄めおけ」

と最後まで禅僧らしく勤められた。

「幼子に今日はみ国に帰るよと涙もろとも説き聞かせけり」

と詠われたのを見ると、どれほどのご苦労があったのか察するに余りある。

「み仏と同じ心の恵みもちこの荒海を子らと渡らん」

「親のなき子らをともなひ荒海を渡り帰らんこの荒海を」

およそ300名に及ぶ孤児たちを連れて老師は、8月無事佐世保に上陸された。

命をかけて、多くの孤児たちを祖国に渡り帰らせたのだ。
慈悲行の極みであろう。

・・・

<参考Web>

(1)「河野宗寛 老師 歌碑」
    「親のなき 子らをともない 荒海を わたり帰らん この荒海を」
    → http://ubusuna2.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-58b0.html

(2)(2016年08月13日)東京新聞に連載された「8月に詠む慈眼堂歌日記」(下)
    → https://smcb.jp/diaries/7094509

           <感謝合掌 平成30年2月22日 頓首再拝>

今、目前の仕事にサービスせよ - 伝統

2018/03/01 (Thu) 04:46:41


           *「光明法語」(3月1日)より

若し諸君に職業が見つからぬならば、金を得る仕事だけを職業だと思うな。
諸君の前に偶然あるところの何の仕事にでも(便所掃除でも、カド掃きでも、
障子硝子拭きでも)報いを求めることなしに奉仕せよ。

これが無条件に与えると云うことである。
やがて其処から諸君に最も必要にして適切なる仕事を得る
緒(いとぐち)が得られるであろう。

神は決してケチではないのである。
人間が与えることにケチなのである。

そして入り口をひらかないものだから神の恵みが流入しないのである。

           <感謝合掌 平成30年3月1日 頓首再拝>

俳優、阿部寛さんの台湾への義援金 - 伝統

2018/03/06 (Tue) 04:14:35

阿部寛、約束通り台湾の駐日代表に1000万手渡し

       *Web:MAG2NEWS(2018.03.02)より

2月6日に台湾東部の花蓮市を襲ったマグニチュード6.4の地震(死者17名、不明者2名)への
義援金として、1000万円を寄付すると表明していた日本の俳優・阿部寛さん(53)が
3月1日、東京・港区白金台にある台北駐日経済文化代表処(台湾の駐日大使館に相当)を訪れ、
義援金1000万円(270万台湾元)を持参し、謝長廷代表(大使に相当)に直接手渡し。

               ・・・

阿部さんは2月6日夜、花蓮市を震源とするM6.4の揺れを台北市内で経験。
翌々日に出演したイベントで亡くなった被災者の方々や行方不明者、
負傷者に対して哀悼とお見舞いの言葉を述べ、司会者の口を通じて
「義援金として1000万円寄付する」と表明していました。

               ・・・

このニュースを受けて、台湾のネットユーザーは
「阿部さんは知名度が高いのにちっとも偉そうにしない、これぞ有名人のあるべき姿」
「台湾のためにここまでしてくれて本当に感謝します」と、
約束を守った阿部さんの「有言実行」を称えるとともに、
台湾のために行動してくれたことに感動の声が多数あがっています。


http://www.mag2.com/p/news/351747

           <感謝合掌 平成30年3月6日 頓首再拝>

【人を喜ばせると自分も嬉しくなる】 - 伝統

2018/03/20 (Tue) 04:03:45


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年12月12日)より

   (西田文郎氏の心に響く言葉より…)

   きれいごとを言っても、しょせん商売のホンネは
   「売りつけよう」にあると思われがちです。

   もしあなたが優秀なビジネスマンになりたいなら、
   この「売りつけよう」を、「喜ばそう」に置き換えてください。


   というのも、商売の相手はお客さんの「脳」です。

   財布ではありません。

   お客さんの脳、ユーザーの脳、消費者の脳、取引先の脳…。

   あなたの商品やサービスに対して、また店や会社に対して、
   さらには自分という人間に対して、
   その脳をいかに「快」にするかの競争がビジネスであり、商売なのです。

   脳が「快」になれば、心も財布も自然と開くのです。


   相手の脳を「快」にすることを、世間では「喜ばせる」と言うのです。

   「売りつけよう」にあるのはテクニックだけです。

   しかし「喜ばそう」とすれば、イヤでも相手のことを考えます。

   どうしたら喜ぶか…それを追求するエネルギーがわいてくるのです。


   なぜなら人を喜ばせると自分も嬉しくなる。

   それが人間です。

   仕事が深化し、質的に高まり、広がりも生まれるのです。

          <『英断の言葉』現代書林>

           ・・・

自分勝手な人は、自分さえよければいいと自分のことしか考えない。
自分本位な人だ。


その反対が相手本位の人。
相手の喜ぶことをまず先に考える。


自分本位から相手本位になるには…
「売りつける」から「喜ばせる」に。
それは相手を、「驚かせる」、「感動してもらう」というサプライズも同じ。


仕事が面白くない人、仕事が深まらない人は、人を喜ばそうと考えないから。

自分の損得だけを考えている人は、
まわりから好かれない、くだらなくて、面白くない人間。


「人を喜ばせると自分も嬉しくなる」

どんなときも、誰かを喜ばせる人でありたい。

           <感謝合掌 平成30年3月20日 頓首再拝>

他に与えることが自己を拡大することである - 伝統

2018/04/06 (Fri) 03:41:46


           *「光明道中記」(4月6日 喜んで献ぐる日)より

【全体と個との融合を実際の生命の体験として掴むことが宗教である。
                        (『生命の實相』第十三巻)】

本当の太陽は、昼に非ず、夜に非ず、昼夜を超えて照々として輝く。
それは決して火の玉にあらずして宇宙に満つ。

樹木の中にも太陽あり、吾々の体中にも太陽のエネルギーあって輝く。
太陽を一個の盆大(ぼんだい)の火の玉と見るは、
吾々の五官を通して見たる一面識なり、相対観なり。

太陽は何故かくの如く万物のうちに満つるか。
それは太陽は万物に光を与え生命を与えるからである。

吾等もまず自分が本当に全世界的に伸びようと思うならば、
みずから進んで全世界に自身を与えなければならない。
与えるものだけが、その相手を自分のものとするのである。

伸びようと思う者よ。伸びるためには今迄他から自分へ奪いとることによって
自己が拡大すると思っていたのである。
然(しか)るに今では他に与えることが自己を拡大することであると判ったのである。

一個の何の功労もない女性が、一家の主人公に身を献(ささ)ぐれば、彼女は一家の
主婦としてその一家を自由に処理し、又は管理するところの権力を得る。
身を献げたる女性は男性に縛られたように見えるが、
実は、男性を自由自在に支配する力を得る。

伸びるとは与えることである。

           <感謝合掌 平成30年4月6日 頓首再拝>

【人に喜びを与えるということ】 - 伝統

2018/04/21 (Sat) 03:18:53


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年03月21日)より

   (植西聡氏の心に響く言葉より…)

   アメリカに、大富豪になったA氏という人がいました。
   彼は、若いころに事業を起こし、成功しました。

   それからは、数々の会社を乗っ取り、事業を拡大していきました。
   そしてついに、地位、名誉、財産のすべてを手に入れたのです。

   しかし、A氏のやり方があまりに自己中心的で、
   自分の利益の追求しか考えてなかったので、社会的な批判を浴び、
   人々から嫌われてしまいました。

   そして最後、死ぬときになって、

   「私の人生は、大変不幸だった」

   という言葉を残したのです。


   いっぽう、それと反対の人生を送ったB氏がいます。

   彼は貧しい生活をしていて、しかも、目も耳も不自由でした。

   それにもかかわらず、人々のために世界中を旅し、
   身体の不自由な人々を励まし続けました。

   多くの人々に喜びを与えたため、多くの人々から感謝されたのです。

   そして最後、死ぬときになって、

   「私の人生は、大変幸福だった」

   という言葉を残したのです。


   地位、名誉、財産すべてを手にしたA氏が最後に不幸な人生に終わったといい、
   物質的なものは何も持たずに人のために尽くしたB氏が幸せな人生に終わった
   というのはなぜでしょうか。

   そうです。

   人間は、いくら物質的に恵まれていても、
   人から喜ばれ感謝されることがないと、
   ほんとうの幸福感は得られないのです。

   なぜなら、私たち人間が生を受けたほんとうの理由が
   「人から喜ばれ、感謝されること」にあるからです。


   すなわち、私たちの最高の願望は、財産をつくることでもなく、
   会社で出世することでもなく、大きな邸宅に住むことでもなく、
   「人から喜ばれ感謝されることによる幸せを得ること」
   なのではないでしょうか。

   そのためには、人々に喜びを与え続けなくてはなりません。

   喜びを与える行為に終わりはありません。

   「ここまでやればいいだろう」「もう、これで十分」
   ということはけっしてありません。


   幸福を願うなら、あなたの幸福の泉の水を惜しみなく、
   人に分け与えることがすべてです。

   泉は、絶えず湧き出る水を全部周りに与えてしまうからこそ、
   涸(か)れることなく、絶えず奥底から、
   清い水があふれ出るのかもしれません。


   人生もそれと同じで、人に幸福を与え続けていけば、
   自分自身の幸福の泉もけっして涸れることはないのです。

   この姿勢が“幸せを循環させる生き方”につながっていくと思うのです。

         <『 「宇宙銀行」の使い方 』サンマーク文庫>

             ・・・

「出入口」という言葉はあるが、「入出口」という言葉はない。

出るのが先で、入るのは後だからだ。


いくら膨大(ぼうだい)な数の本を読んだとしても、
それを自分だけの知識としてため込んでおくなら、ただの自己満足にすぎない。

お金も同じで、ただ貯(た)め込んでおくだけなら、
その札束は、ただの紙切れと同じ。

知識も、お金も使ってこそ世の役に立つ。

そして、それを人のために使えば使うほど、知識も、お金も入ってくる。

満タンになったバケツに、もうそれ以上水は入らないのと同じ理屈。


ケチな人ほど、自分の得た情報や知識の出し惜しみをする。

人に喜びを与えるという、人が持つ究極の楽しみにまだ目覚めていないからだ。


惜しみなく、人に喜びを与える人でありたい。

           <感謝合掌 平成30年4月21日 頓首再拝>

利他の善行を積む - 伝統

2018/04/23 (Mon) 03:19:20


     *「光明道中記」(4月23日 自利利他の善行を積む日)より

【すべて形に執われて来るとき生命を生かす事が出来ないのであります。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

来る人は一人で来ないで是非知人を伴って来て戴きたい。
自分だけ善い話を聞いて救われたいと云う利己主義と云う程でもないが、
独善であり、消極的であり、羅漢の程度の境地である。

自利利他の功徳を計ることになって菩薩の境地に入る。
「利他」にして初めて潜在意識の世界に善行の種を蒔いたことになる。
心の世界に蒔いた種は決して滅びるものではない。

子孫に美田を遺してもその美田は滅びるであろう。
併し心の世界に蒔いた善行(たね)は滅びはしない。

私の叔父さんに福松と言って畸人(きじん)があった。
神道の神主で少講義かなんかの低い役目をしていたが、施しが好きであって
何時(いつ)も貧乏で見窄(みすぼ)らしい服装(なり)をして歩いていた。

人が気の毒に思って紋付の羽織などを着せてやるとその翌日には
もうその紋付の羽織を着ていなかった。

「どうしたのか?」と訊くと
「憐れな人があったから与えた」と答えるのが常であった。

この叔父さんには自分自身を良くすることなど考えて見たこともなく、
ただ隣人を愛していたのであった。

           <感謝合掌 平成30年4月23日 頓首再拝>

【よろしければお手伝いしましょうか? 】 - 伝統

2018/05/05 (Sat) 03:11:40


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年04月20日)より

   (前リッツ・カールトン日本支社長、高野登氏の心に響く言葉より…)

   それはリッツ・カールトン東京の開業準備で、
   忙しく都内を動き回っていたある日のことです。

   六本木駅に地下鉄が止まると、
   すらりとした、髪の毛の長い女性が乗り込んできました。

   仕事柄、多くの人たちを見てきていますから、
   姿勢や歩き方、お化粧などから、ひと目でモデルさんだなとわかりました。  

   混んでいる車内で、
   ちょうど私と並ぶかたちで優先席の前の吊り革につかまりました。

   地下鉄が走りだしてしばらくすると、その彼女が腰をかがめて、
   前の席に座っている年配の女性の耳元でなにやら囁(ささや)いたのです。

   おや、知り合いに気がついたのかな、などと想像して見ていたのですが、
   どうも様子が違うのです。

   その年配の女性は、はっとした表情で、片手で膝の上の荷物を押さえながら、
   もう一方の手でブラウスの前に手をかけました。

   そこでようやく私も気がつきました。

   女性のブラウスのボタンがいくつか外れていて、
   上から見ると下着が見えてしまっていたのです。

   それをそっと伝えたのでしょう。


   懸命にボタンをかけようとするのですが、なかながとめることができません。
   どうやら手が少し不自由だったのですね。

   なんだかこちらまで焦ってきます。

   とその時、その女性が再びかがみこんで、
   小さな声で「お手伝いさせてくださいね」と囁き、にっこりと微笑みながら、
   あっという間にブラウスのボタンを、鮮やかな手つきでとめてしまったのです。

   あまりに意外なことに、あっけにとられていた女性。

   でもその顔にはすぐに笑顔が浮かびました。

   親切が本当に嬉しかったのでしょうね。


   「参った! 」。

   思わず私は心の中で拍手をしていました。

   さすがは早変わりや着替えに慣れているモデルさん。

   それにしてもなんという自然体でしょうか。


   次の駅で、会釈をして颯爽(さっそう)と降りていく彼女の背中に向かって、
   年配の女性は何度も何度も頭を下げていらっしゃいました。

   混みあった東京の地下鉄の車内。

   まるで無縁社会や孤独社会をそのまま表しているような、
   無機質ないつもの通勤時間帯。

   でもその時、その一角だけは、
   確かにあたたかな空気に包まれていたような気がしたものです。


   人は誰だって、社会の役に立ちたい、人のためになることをしたい
   と思っているものです。

   「人の気持ちを考えて行動する」という感性、
   そのためのアンテナとレーダーの感度が、少し弱くなったかなと感じられたら、
   一度立ち止まって磨き直してみてはいかがでしょうか。

   そのためのヒントは仕事の中にたくさんあります。

   おおよそプロと呼ばれるような方は、
   アンテナとレーダーを磨き続けている方が多いように思います。

   日々習慣づけて磨くことで、あなたも大きな飛躍を遂げることでしょう。


   あのアブラハム・リンカーンもこう言っています。

   「もし木を切り倒すのに6時間を与えられたとしたら、
   私は最初の4時間を、斧を研くのに費やすだろう」

   <『リッツ・カールトン 一瞬で心が通う「言葉がけ」の習慣』日本実業出版社>

              ・・・

高野登氏は本書の中でこう語る。

『明らかに困っている人がいたら、迷わずに声をかけることができますが、
その判断がつかず迷ってしまうこともあります。

ホテルの現場でも似たようなことが起きます。

手を貸そうとして声をかけても「余計なお世話」と思われたら…、と考えると、
声をかけるのをためらってしまうかもしれません。

「おせっかい」と「おもてなし」の間には、
相手がそれを望んでいるかどうかという明確な境界線があるのです。

相手が望むか望まないかは相手の心が決めるもの。

でもその心は見えない。

それが読み取れないのであれば聞いてみるほかはないのです。

新人であってもベテランであっても同じです。

「よろしければお手伝いしましょうか?」

「大丈夫ですか?お手伝いは必要ありませんか?」

とひと声かけて相手の反応を見ます。

もし相手が、「どうもありがとう。お願いします」と言われたら、お手伝いしますし、
「いえ、大丈夫です。結構ですから」と言われたら、
「必要があればいつでもお声がけくださいね」と、一歩下がればよいだけのことです』


相手の心は見えないのだから、
「要望」や「望み」は聞いて確かめるしかないのにも関わらず、聞かない人は多い。

「たぶんこう思っているはず」と、
自分の勝手な思い込みで対応すると、相手とミゾができる。

それが何度も度重なると、深い断絶となってしまい、人間関係は修復不可能となる。

人間関係のヘタな人だ。


「よろしければお手伝いしましょうか?」

人の気持ちを考えて行動する人でありたい。

           <感謝合掌 平成30年5月5日 頓首再拝>

【フォー・アザーズ】 - 伝統

2018/05/13 (Sun) 03:04:34


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年05月01日)より

   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   今、世界で最もいいといわれている国はどこかというと、
   日本はナンバー1かナンバー1なんですよ。

   それはなぜか。

   日本は第二次世界大戦という大戦争に敗れて焼け野原になりました。
   原爆を二度も落とされて、日本はもう立ち上がれないと誰もが思っていたんです。

   ところが、そこから日本は見事に復興しました。
   そして、それ以来一度も戦争に関わっていません。

   科学技術に優れた経済大国になりました。


   しかし、それだけではないんです。

   日本にはお互いが助け合うフォー・アザーズの歴史的な伝統があるんですね。

   先に行ったような利他的な遺伝子が日本人の遺伝子の中にはある。


   これが大震災のときに見事に発揮されたと思います。

   日頃は日本人の悪口ばかり言っている中国や韓国の新聞が、
   大震災のときの日本人の フォー・アザーズの行動を絶賛しているほどです。

   私もそのときまで気づかなかったのですが、
   日本人にはそういう助け合いの精神が確かにある。

   
   それから大自然の働きを素直に認める態度があります。

   確か震災で被害に遭った高校生の話だったと思いますが、
   「私たちは天を恨(うら)みません」と言っていました。

   これはまさに日本人が大自然の働き、
   サムシング・グレートの働きを感じているということでしょう。

   そういう素晴らしい性分が発揮されたと思います。


   科学技術と経済力に加えて、大自然を尊敬し、
   フォー・アザーズに生きる日本人に、
   ダライ・ラマ法王は非常に期待しているんです。

   おそらく、彼の言うように日本が世界を救うのでしょう。


   しかし問題は、私どもがそれを自覚していないということです。

   日本の高校生は他の国の高校生と比べて自分の評価が非常に低いんですね。

   自分をどれくらい評価しているか、自己肯定しているかを調査すると、
   非常に低いという結果が出ています。


   本来、そんなに低いわけがないんです。

   私どもがもう少し自分たちに自信を持っていい。

   日本の国の歴史や伝統に対して、威張る必要はありませんが、
   もっと素直な評価をすべきだと思います。

   同時に、自分自身に対しても素直な評価をすべきです。

   それはあまり他人と比較をしないということでもあります。


   そういうことで、21世紀には日本の時代が来るんです。

   日本の時代とはどういうことかというと、
   「こういう生き方をすれば幸せですよ」ということを
   日本が世界に示すことだと思います。

   幸せな生活をするためには、お金も必要だし、病院も必要です。

   しかしもう一つ必要なのは、精神的な豊かさです。

   大自然に守られ、大自然のお蔭で生きている。

   自分の力で生きている人なんて誰もいないんです。


   太陽がなければ、水がなければ、空気がなければ、人間は生きられません。

   まさに フォー・アザーズの精神で生きているのです。

   そのことを世界に対して示すことができるのは日本人しかいない、
   と私は思っています。

      <『君のやる気スイッチをONにする遺伝子の話』致知出版社>

            ・・・

「フォー・アザーズ」とは、キリストの
「どんなときでも他の人たちのことを心にとめなさい」という教え。

フェリス女学院の教育理念になっている。


これは、神道の祝詞(のりと)の中にもある言葉だ。

「世のため人のために尽(つく)さしめ給(たま)へと、
恐(かしこ)み恐みも白(もう)す」

どうか、世の中のため、人のために、尽くさせてください、
とここに、つつしんで申し上げます。


利他の心だ。

その反対が利己の心。

自分さえよければいい、とする自分勝手な考えや行動。


小林正観さんは、たとえ一銭の得にもならなくても、
また誰からも評価されなくても、
「人のためになるようなこと」をバカになってやり続ければ、
自己肯定感が高くなり、自分のことが好きになるという。

たとえば、

「社内や近所の掃除を毎日黙々とやる」
「会う人会う人に気持ちよい挨拶をする」
「愛ある言葉をかける」
「どんなことにも感謝する」

という人を喜ばせる行為。

なぜなら、与えれば与えられるからだ。

感謝すれば、感謝される。

感謝されれば自分に愛がたまる。

自分に愛がたまれば、自己肯定感が高くなる。


フォー・アザーズの実践者でありたい。

           <感謝合掌 平成30年5月13日 頓首再拝>

《報いを求めぬ愛》 - 伝統

2018/06/06 (Wed) 03:24:40


         *『生活の智慧365章』
            (第1部生命の泉)第2篇( P44~45) より

それでは、私たちがその「生命(せいめい)の本源」又は「第一原因者」と
つながるには如何にしたらよいのであろうか、既につながっていながら、
波長が合わねばそれが実現しないのである。

神は「愛」であるから、「愛」に波長を合わすために、吾々は愛他の心を
起さなければならない。そして神の愛は「報い求めぬ愛」であるから
吾々もまた「報い求めぬ愛」の心を起こさなければならない。


梁の武帝は仏教の研究者であり、みずから放光般若経の講座を開いて
その経文の講義をしたときには天人がそれを讃えて天華(てんげ)が
乱墜(らんつい)したと伝えられる位(くらい)であった。

また信仰心も篤く、多くの堂塔伽藍を供養し建立したのであったが、
達磨大師が南天竺(なんてんじく)から法を伝えにやって来たときに、
武帝は自分の色々の布施や供養のことを物語って、

「これらの功徳はどれ程でございますか」と達磨大師にきいたら、
大師は「無功徳! 」と一喝して去ってしまったというのである。

これは武帝が「功徳」即ち「報い」を求める心で布施や供養や経典の講義を
したりしていたからなのである。

報いを求めぬ布施に本当の「魂の報い」があるのである。

           <感謝合掌 平成30年6月6日 頓首再拝>

常に貸し越しになる生活 - 伝統

2018/06/23 (Sat) 03:26:13


        *「光明道中記」(6月23日 食堂楽しき日)より抜粋

みずから栄える道は他を栄えしむるにある。

社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、顧客を栄えしめるように
店を経営して行くならば、その店は繁昌する他はないのである。

他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、
自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。

           <感謝合掌 平成30年6月23日 頓首再拝>

《利己の程度が減るほど人間は清くなる》 - 伝統

2018/07/08 (Sun) 04:37:49


         *『 生長の家 』(昭和25年2月10日の法語)より

   利己主義は 何事をしても それを汚してしまうのであるけれども、
   利己的動機からでも、愛を行ずるのは
   愛を行じないよりは 尊いのである。

   然(しか)し 利己的動機がなくなれば なくなる程
   その行為は 清らかなものとなり、
   天に於いて 神のほめ給(たま)う所のものとなるのである。

   天に於いて 神のほめ給う所のものは、
   「 天 」 とは 実相のことであるから、
   実相の世界が すべてのよきものと波長が合い
   自ら実相世界のよきものに恵まれることになるのである。

   すべて得んとするものは 奪われ、
   与えるものは 与えられるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 平成30年7月8日 頓首再拝>

《使わない水は腐る》 - 伝統

2018/07/22 (Sun) 04:58:52


          *『 生長の家 』(昭和25年2月18日の法語)より

   使わない井戸の水は 腐って来、
   使わない鉄管の水は 錆(さ)びて赤く濁るのである。

   吾々の生命も、智慧も、愛も、それを使わなければ濁ってしまうのである。
   そこから病気が現われ、失敗が現われ、運命が とざされて来るのである。

   常に汲(く)んでいる水は 清らかであるように、
   常に捧(ささ)げられている生命は 腐ることなく健康である。

   働きは 周囲の人に貢献するばかりでなく
   自分自身に一そう多く貢献するのである。

   汝(なんじ)の悩みについて思い煩うな。
   悩みを神に委(ゆだ)ねよ。
   神がそれを解決し給うのである。

   ただ吾々は与えてさえいれば好(よ)いのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 平成30年7月22日 頓首再拝>

《受けて感謝 与えて祝福》 - 伝統

2018/08/08 (Wed) 04:46:23


      *『幸福を招く365章』第3項(P64~65) より

与えると受けるとは、両方とも神の愛の出入口である。
与えるは父性愛であり、受けるは母性愛である。

両方ともに感謝が伴うとき、そこに天国が誕生するのである。
今まで受けて来たもの、今、受けつつあるもの、未来に受けんとしつつあるもの
一切に対して感謝せよ。

「有りがとうございます」は母性原理の表現、受ける感謝の表現である。
しかし受ける感謝ばかりでは足りないのである。

受けるは消極的である。
与えるは積極的である。

それは「与える祝福」(吾れ汝に幸福を与う)の父性原理に一段と飛躍するとき、
諸極と積極、受動と能動とが整備して人生に本当の天国が生まれるのである。

           <感謝合掌 平成30年8月8日 頓首再拝>

ボランティア活動の鑑 - 伝統

2018/08/17 (Fri) 04:12:45


        *Web:プライムニュース イブニング(2018年8月15日)より

男児発見の“スーパーボランティア”が語った人助けの理由


山口県周防大島町で3日ぶりに発見された、2歳の藤本理稀(よしき)ちゃん。

発見したのは、大分県からやってきた捜索ボランティアの尾畠春夫さん(78)。

経験を活かし被災地を駆け回る、ねじり鉢巻きの"スーパーボランティア"。
その原動力とは何なのだろうか。


(1)「必ずお母さんに渡す」という強い意志

   私は子どもを産んだ覚えはないけど、女の人じゃないけど。
   だけど、十月十日おなかに入れて命がけで産んでおっぱい飲ませた子どもを、
   3日、4日って行方不明になっていたら、お母さんは正常ではないと思うんです。

   だから私はお母さんに「必ず見つけたら、必ず手渡しで渡す」
   って約束したからね。

   だから警察官が、法律みたいなのがあって
   「決まりだから渡してください」って言ったけど、だめですと言った。

   約束は守らないけんと思ったから、それを守らせてもらったんです。


(2)「すべて自己責任」ボランティア精神の底にあるのは…

   (現場に)来てから、ここの人にいろいろなものを頼ったり、
   もらったりするのは、私はボランティアとしてしちゃいけないことだなと。

   自己完結、自己責任。怪我しても自己責任。
   何があっても自分で責任を取らんほうが悪いと思ってる。


   よし君に出会わせてくれて、元気で下りられたことは、私は最高の幸せです。


(3)「もう安心!」つながった幼い命

  ①――理稀ちゃんにかけてあげたい言葉は?

   もしどこかで元気で大きくなったら、
   人が喜ぶことをしてあげてと私は伝えたいですね。

   人が悲しむことじゃなくて、人が喜ぶこと。

   小さくてもいいから人が喜ぶことを、理稀くん、してあげてね、と言いたいです。

  ②――元気になった理稀ちゃんにはもう一度会いたい?

   いや、もう会う必要ないです。会わなくてもいいです。もう安心です!

        (https://www.fnn.jp/posts/00350520HDK

・・・

<関連Web:みんなの「我が事」が起こした奇跡
       https://www.fnn.jp/posts/00350600HDK >

           <感謝合掌 平成30年8月17日 頓首再拝>

筋金入りの隣人愛の実践 - 伝統

2018/08/26 (Sun) 04:30:09


        *吉田繁治さんのメルマガ956号(2018.08.22)より

おはようございます。
近年、人間に対してこれほど感動したことはない。
大分県日出町の偉人、尾畠春夫さん(78歳)です。

言うまでもなく、山口県の山中で命に危機も及ぶ3日間飲まず食わずで、
不明だった幼児(理稀(よしき)ちゃん:2歳)を、救出した人です。
ボランティアの仲間うちでは知られている人という。


【行動】

過去、子供を見つけた経験から、「迷った子は、上に行く」と知っていた。
なぜかを研究すれば、幼児心理学になる。
これだと直感した山道を登り、開始後20分で、水が染み出している沢の石に、
はだしで座っていた幼児を発見し命を救いました。

母は、もうだめかとも思っていたという。

日出町は、おいしい城下鰈(かれい)の町です。
前菜から鰈尽しで有名な料亭、的山荘があります。
父の命令で、小学校5年から、食べるために近所の農家で働き、学校には行けなかった。
戦中の、貧困だった時代です。

10代後半から魚屋で修行し、自分の店を開く資金を得るため、とび職をし、
20代半ばで別府市に小さな鮮魚店を開いた。
価格は東京の1/3と安く、新鮮な美味しさで評判の店だったと顧客がいう。

「なくなって困っています。」 漁師さんや市場からの仕入価格に付加する値入額が、
低かったのでしょう。沿岸の豊富な栄養で育った一本釣りの魚は、
大都市の市場では高級品として売られ、旨い。料亭や和食の料理店が主な仕入れ先です。

鮮魚店は65歳でやめると決めていた。

その後、鹿児島の南端から北海道の宗谷岬まで、3年かけて徒歩で縦断した。
好意から声をかけてくれる車には乗らず、ひたすら歩いたという。

道端を歩いていると、岩手県のおばちゃんが、
「これを食べなさい」と出来たての「おこわ」をもってきてくれた。
素晴らしくおいしかった。

その町が、根こそぎ津波に流される映像を見て、矢も楯もたまらず、駆けつけた。
おばちゃんたちはどうしてるだろうという思いからだった。
自分にできることはないかと探した。(2011年3月:東本大震災)

瓦礫から思い出の写真、ランドセル、日記、図画帳、グローブや学用品、
指輪や時計など、人の影のあるものを探し、洗って清め、遺族に渡すため、
テントの床に並べる。

絵日記を読み、亡くなったかも知れない子供が書いた文字を
しばらく見ていた尾畠さんが、慟哭する映像が残っている。

金目のものをねらう泥棒と間違えられないため、ジャンバーの背中には、
太いマジックで「大分県日出町 尾畠春夫 ボランティア」と、
自分で書いたゼッケンを貼っている。
赤い服を見ると被災地の人が安心するとして、オレンジ色の服を着る。

その服は、28年目という。
ほころびは、なぜか黒い糸で縫っている。
自然に人が集まり、「思い出探し隊」になった。

名前が書かれたグローブの子供が見つかったとき、
「持ち主の喜ぶ顔が見たいですか」と問われ、「見たい。いや、だけどいいです。
「俺のグローブが返ってきた」と子供が喜ぶ気持ちだけで十分です」と、
想像の中で伝わる心の価値を言う。


尾畠さんのボランティアは、60歳のころから約20年、欠かさず続けられている。
全国の被災地は、オレンジの服と手書きのゼッケンが見える。
感謝やお礼は、求めない。頑なに断る。


孫を見失った理稀ちゃんの祖父が、土で汚れた尾畠さんを見て
「どうか、お風呂に入っていってください」と言ったときも、
「いや、自分にはそんなことは要らないんで。ただ、
子供が助かってくれればいいんじゃ。」と大分の言葉で謝絶した。

奉仕の無償に、筋金が入っています。


今日も休むことがない。
集中豪雨で被害のある町に出かけ、床底の、ゴミと混じって
どろどろの粘土状の厚い土砂を、スコップで掻いている。
寝たきりや、ものを認識できない認知症も増える78歳の体には、普通は、重い労働でしょう。

自宅の屋上で廃物のタイヤとコンクリード片で作ったバーベルで鍛える。
「毎日これをやる」と、頭からの汗を止める太いタオルで鉢巻をし、
赤銅色に焼けた美しい笑顔で笑う。


暴力団は暴力団の顔に、警察官は警察官の顔になって行く。
政治家は、ふてぶてしく醜い顔になった人が多い。
自己利益を求め、人の裏をかくこと、蔑むことをしているからでしょう。

行動と考えは、顔に現れます。

被災地で「サトウのごはん」を、電子レンジで温めず、
ゆかりのふりかけで食べるのが、何よりも美味しいという。
あとは、10個の梅干し。

健康の秘訣は、これ以上素朴なものがない食事という。
寝床でもある軽自動車には、電子レンジを動かす電力はない。
炊飯はしてあっても、ごちごちのはずですが、
これが本当においしいのか、買って試してみます。


収入は魚屋のときかけていた国民年金のみという。
月額6万円でしょうか。
「モノは考えよう。これで十分。食べ物は一番安い店で買うから。」という。
貧困という意識はない。


時折、皮肉な人物評をすることがある「とくダネ!」のフリーアナ、
70歳を超えた小倉智昭が、コマーシャルの合間に泣いた目で、言葉に詰まり、
「自分は40歳でゴルフを覚え、一体、何をやってきたんでしょうね。」と言っていた。

人に、そう思わせるものがある。


【筋金入りのホンモノ】

ホンモノを見て、重装備で被災地の現地リポートのために行く
自分に赤面したからでしょう。

政治家が、被災地に作業服で行くのは票取りの演技です。
救済どころか、瓦礫ひとつ拾うことはない。


天皇と皇后が、サイパンの集団自決の崖(バンザイ・クリフ)で、
深く頭を垂れて長く祈った姿は感動的でした。
多くが、天皇陛下万歳と叫んで落ちていったからです。

東日本大震災のときの祈りも、その背筋から、心底のものに見えたのです。
心は、気として、その立姿から見えます。


尾畠さんは、無償の愛を周囲に教えたキリスト(神ではなく神の言葉を預かった預言者)
に見えます。キリストのような言葉は使わない。
見返りを求めない、隣人愛の行動です。

新約聖書では、キリストが愛を説いています。
無償の愛を施すキリストの周囲に人々が集まり、宗教になっていったのです。
愛は、相手のことを自分より大切に思う心です。

キリストは愛を説き、実践した。


あるインタビューのとき、大きなトンボが飛んできて、しばらく右手の指に止まっていた。
この人は、決して危害を加えないという、体から出る「気」を昆虫も感じたのか。

尾畑さんは、普通のことだという風に、トンボを見ることもしなかった。
犬が見ても、仲間だと思うに違いない人でしょう。
北海道のムツゴロウ、畑正憲さんがこれだった。


とび職の実践技術をもつので、ボランティアの指導役(隊長)にもなっている。
現場の経験がない役人も、指示を受けている。

言葉で教えるのではない。
リーダーである棟梁のようにその動作で率先する。


夢は夜間高校で勉強することという。
数年後、高校に通う尾畠さんをみることができるかもしれない。

「自分は、周囲のたくさんの人に、とてもお世話になって生きてきた。
残りの人生で、返しているんです」と言う。ここまでできる人が、いる。

学校教育は、何を教えてきたのか。

  (http://motoyama.world.coocan.jp/ より転写)

           <感謝合掌 平成30年8月26日 頓首再拝>

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