伝統板・第二 180391

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神の生命

1:伝統 :

2017/01/21 (Sat) 04:04:45


《神常に吾を生かし吾を導き給う》

          *「光明法語」(1月21日)より

神のすべてを生かし給う生命、
吾が内に吾が心の内に、吾が魂の内に、
すべての事件の内にあらわれて生かし給う。

この神の大いなるいのち、常に新しきいのち今もわが中に流れ入りて
常にわが組織を新たならしめ給い、健全ならして給うているのである。

今この瞬間このわが頭の先からわが爪先に到るまで
輝く神のいのちに満たされているのである。

もはやわが肉体は神の肉体である。
わが肺臓は神の肺臓である。
わが胃袋は神の胃袋である。

吾が全ての内臓は神の全ての内臓である。

完全に健康であるほかあり得ないのである。

            <感謝合掌 平成29年1月21日 頓首再拝>
2:伝統 :

2017/02/05 (Sun) 04:15:37


           *「静思集」(P38~40)より

「神は生命(いのち)であり給う。
一切の処に神の生命(いのち)は満ちていたまう。

この家は神の生命(いのち)に完全に祝福されいるのである。
この家のあらゆるものは悉く神の生命(いのち)に充ち満たされて
生き生きと輝いているのである。

我がうちにも、我が妻のうちにも、我が子のうちにも、召使たちのうちにも、
本部の凡ての人のうちにも、教団関係のすべての団体のうちにも、
各地の誌友会また誌友たちのうちにも、
神の生命(いのち)は充ち満ちて生かしてい給うのである。

吾々生長の家の家族たちすべてのうちに神の生命(いのち)は満ちてい給う。

どこにも病気はない。
神は決して病気を創造(つく)り給わないから病気はないのである。
すべての生長の家家族は神の光明燦然たる生命(いのち)に満たされて健康である。

われ今、わが全身を観ずるに我が全身神の生命(いのち)に満たされている。
わが全身は神の生命(いのち)に満たされて光明燦然と輝いて現れている。

全身の総(すべ)ての細胞は互いに相拝み合っているのである。
全身のすべての細胞は互いに生かし合っているのである。

すべての内臓、すべての器官悉く相拝み合い、相生かし合い、互いにその処を得て
争うことはないのである。だから私は常に健康であり、凡ゆる点に於いて
調和しているのである。」

 ―― これは或る日の私の「神の生命(いのち)」に就いての黙然の言葉であります。
この通りに念じて神想観をして御覧なさい。

あなたの周囲に光明世界が実現し、あなたの肉体が健康が実現するでありましょう。

            <感謝合掌 平成29年2月5日 頓首再拝>
3:伝統 :

2017/02/20 (Mon) 04:47:00


         *『生長の家』(昭和25年8月10日の法語)より

   今日、自分は自分の生命が神の生命流れ入って
   吾が生命と成っている事実を直視するのである。

   われはわが生命が神の生命であって完全に調和しており、
   何処にも不完全なきことを見るのである。

   自分の肉体の現状がどうあろうとも、
   私はそんな事に自分の心をまどわさないのである。

   何故なら 「 肉体 」 は自分自身ではなく、自分の産物であり、
   自分の過去の心がそれをつくったのであるからである。

   これから先の肉体は、
   これから毎日自分が何を思うかによって定まるのである。

   今後私は常に善念を抱き、人を憎まず、
   病いを思わないから必ず健康になるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

            <感謝合掌 平成29年2月20日 頓首再拝>
4:伝統 :

2017/03/04 (Sat) 04:07:28


          *『生長の家』(昭和23年9月1日の法語)より

   人間の本体は 生命である。
   生命は 生きているから動く。

   それは生きているから偶然出鱈目に動くのではなく、
   律をもって動くのである。
   律は秩序であり、秩序は智慧の働きである。

   生命は 智慧によって働き、
   智慧は 秩序をもって展開して 生命体になるのだと
   云うことが出来る。


   だから 知慧ある生活は 生命体を健康ならしめるのであるが、
   智慧のない生活は 生命体を不健康ならしめるのは当然である。

   智慧のない生活は 生命体の秩序を破壊するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 平成29年3月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2017/03/22 (Wed) 05:01:19


           *『 生長の家 』(昭和46年3月21日の法語)より

   神との一体感が深まれば、神は完全なる生命であるから、
   神の完全なる生命の流入によって
   生かされている人間が病気するということはなくなるのである。

   そして病気があらわれれば、
   神の完全なる生命が流入する通路となる「 心のレンズ 」に
   何らかの迷いの曇りがあるに相異ないことを知り、

   心を反省してその“迷いの心の曇り”を取り除くようにすれば
   病気は間もなく雲散霧消することになるのである。

   “生長の家”が病気を治すのではないと説きながら、
   多くの病気の治癒現象があらわれるのは、

   真理を知れば、“迷いの心”によって
   自縄自縛せられていた自己の“神の子”なる生命が
   解放されて自由自在を得られることになるからなのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12697468.html

            <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>
6:伝統 :

2017/04/10 (Mon) 03:52:07


          *「理想世界」(昭和47年10月5日の法語)より

   やがて、あなたに時間・空間を超越した
   実相の自分を自覚し得た一瞬が来る。
   それまでは、普通の人は

   「時間と空間の障壁は 真実で克服しがたく思われるほど、
   感覚の力は 心を圧倒してしまっている」

   とエマソンは言っている。

   私たちの肉体は、時間・空間の枠の中で生活している。
   そしてこの肉体を五官の感覚 で見て実在であるかの如く感ずる。

   そして又、 肉体をとり巻いている外界の一切のものを、
   固定した存在の如く考える。しかしエマソンは言う。

   「私どもが今固定していると考えることも、
   あたかも熟れた果実のように、ポタリ、ポタリと 、
   私どもの経験から離脱して落ちて行くのだ

   ・・・・・風景、人物、ボストン、ロンドンも
   昔の制度や一抹の霧や煙と同様に一時的なものだ 。
   社会もそうだ、世界もそうだ。

   Soul(魂)は じっと前を見つめ、前途に一つの世界を創造し 、
   背後にいくつも世界を捨てていく。

   Soul(魂 )には日付けもなく、儀式もなく、からだもなく、
   専門もなく、人間もないのだ。

   Soul(魂) はSoul(魂)のみを知る。
   森羅万象はSoul(魂 )が包まれている外装に過ぎないのだ。」

   The things we now esteem fixed shall, one by one,
   detach themselves like ripe fruit from our experience, and fall.
   The wi nd shall blow them none knows whither.
   The landscape, the figures, Boston, Lo ndon,
   are facts as fugitive as any institution past,
   or any whiff of mist or sm oke, and so is society,
   and so is the world.

   The soul looketh steadily forward s, creating a world before her,
   leaving worlds behind her.
   She has no dates, nor rites, nor persons, nor specialties nor men.
   The soul knows only the s oul;
   the web of events is the flowing robe in which she is clothed.


   森羅万象は、(それは自分の肉体も引っくるめて)
   Soul(魂)が創造した外皮なのである。

   それは蚕の生命が創造した繭のようなものであり、
   蛇が生長して行く毎に脱皮する“皮”(蛇 の抜け殻)みたいなものである。

   脱け殻は蛇の 一時的外装であって、それは嘗て蛇によって創造せられ、
   用終わりて棄て去られ消え行くべきものなのである。

   生命は嘗て創造して、用を果したところのものを棄てて行くが、
   ”生命”は死ぬのではなく、常に前向きに前進するのである。

   その”生命”がただの生きる力でなく、叡智を備えた
   普遍的なものであるとみとめたとき 、それをSoul(魂)
   とエマソンは呼んでいるの である。


   http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2731

            <感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>
7:伝統 :

2017/04/19 (Wed) 03:37:31


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。
どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 

その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、いろいろと人間の理屈で考える。
打算で考える、欲で考える、
そこに純潔であるべきはずの恋愛が不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って性欲を扱うから、
性欲が汚れたものに見えてくる。

            <感謝合掌 平成29年4月19日 頓首再拝>
8:伝統 :

2017/06/07 (Wed) 04:43:15


          *『 生長の家 』(昭和44年12月25日の法語)より

   青春の泉は、物質の栄養剤にはないのである。
   物質は、物理化学的な力を及ぼすけれども、
   細胞の老衰を食いとめる力はないのである。

   生命は ある物質条件が整うと、そこに姿をあらわすけれども、
   物質が生命をつくるのではないのである。

   生命自身が物質をつくり、物質の条件をつくり出して、
   そこに生命は“ 生物 ”として姿をあらわすのである。

   生命は 物質を左右し、物質をつくり出し、
   その条件をかえる力があるのである。

   地球上では近頃「 土地の造成 」ということが行われているけれども、
   天地創造の最初には、大生命が、真空の中に“ 水素 ”をつくり出し、
   “ 水素 ”を集めて大いなる球体として、それを太陽その他の天体とし、
   天体の地表に鉱物、植物、動物を生み出したのである。

   これは全く“ 生命 ”が物質を創造し 天体を創造し
   動物、植物、鉱物等をつくり出す力があることを示すのである。

   生命は 原子を転換して他の元素をつくることも出来るのである。
   かくて、最初は“ 水素 ”だけの固まりであったところの
   天体に多くの元素をつくり出したのである。

   祝福すべきかな
   生命の力、偉大なるかな生命の力、尊敬すべきかな生命の力、
   ありがとうございます。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5a8699a8a6a08783fb87b1d2823812e2

            <感謝合掌 平成29年6月7日 頓首再拝>
9:伝統 :

2017/06/20 (Tue) 04:42:42


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より

自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、
他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。

冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。

生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、解剖せられるのは
業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。

ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。

業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界 
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の 「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」 と念じて、
神の 「完(まった)き《いのち》」 の中に没入してしまうことである。

神の 「《完きいのち》」 の中には業もなければ、暗(やみ)もない。

           <感謝合掌 平成29年6月20日 頓首再拝>

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