伝統板・第二

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「病は本来ない」 - 伝統

2017/01/21 (Sat) 04:02:39

「病は本来ない」「悪は本来存在しない」

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月21日)より

病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。

《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。
そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。
そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。
この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。

読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが『生命の實相』である。
これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

学と術とはちがう。
現象学は現象を正確に告げる必要があるし、人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる

病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。

病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。

            <感謝合掌 平成29年1月21日 頓首再拝>

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、 - 伝統

2017/01/22 (Sun) 04:57:56


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。躓いて脚下(あしもと)に
病気あると気づいて「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とが本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、
肉体は心の反映であるから、「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときには
それは具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知ることである。

            <感謝合掌 平成29年1月22日 頓首再拝>

病はない - 伝統

2017/01/29 (Sun) 03:12:54


           *「光明道中記」(1月29日)より

【病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。(『生命の實相』第五巻)】

心朗かなれば病はない。
他を憎まなければ病はない。
悲しまなければ病はない。

物思いに沈むことなければ病はない。
怒ることなければ病はない。
気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。

不平に思うことなければ病はない。
呟くことなければ病はない。
ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。

病気になって都合よしと思うことなければ病はない。
家に争いなければ病はない。
仕事を嫌うことなければ病はない。

隠す心なければ病はない。
羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。

心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。
心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。
心暗ければ本当に善の資格はないのである。

人を愛すれば病はない。
すべての事物を愛すれば病はない。
愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、
執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。

心顛倒するは智慧が欠けているのである。
智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。

            <感謝合掌 平成29年1月29日 頓首再拝>

「虚妄の念」を一蹴し去ってこそ罪は消える、病は消える - 伝統

2017/02/12 (Sun) 04:48:19


          *『生命の實相』第23巻常楽篇(P24~25)より

普通病人は、その病中常に、
「今自分は病気である。この病気は実在している。苦痛は実在している。
これは否定することは出来ない。」

―― というふうに、どちらかと言えば、
無意識のうちにその実在を肯定しており、病気の自壊作用を妨げて
逆に病気を積み立てて行きつつあるのであります。

それでさえも大抵の病気は徐々に回復します。

これを逆に、自己の念の働きを病気の実在を否定する方向に強く働かせれば
病気の自壊すなわち治癒がいっそう速やかに行われることは論を俟(ま)たない
のであります。


病気を一つの実在とし、何か見たり触れたり、
つかまえどころのある「《何か》」だと認めながら、それを念の力で破壊しようと
考えるのではまだ足りないのであります。

「病気は無い! あるように見えてそれは実在しない。
それは夢だ。夢が形を顕(あ)らわしたのだ! 」

こう断断固として、「人間神の子」の実相智の炬火(きょか)を振り翳(かざ)して、
その迷いの夢を照破しうるようであってこそ、
はじめて迷妄照破の大威力を現すのであります。

かくのごとき実相智をもって照見し、かくのごとき「実相の念」をもって 
罪と病の「虚妄の念」を一蹴し去ってこそ罪は消える、病は消えるのであります。

なんじの罪は許されたり矣(い)! 罪は無い! 病は無い!

無(な)いものが在(あ)るように見えているのはなんじの心が掴んでいるからだ。

心の把握を離せ、離せ、離せ!

自己または他(ひと)の病を治すのは、虚に対する実々々――、
一分の隙があってはならない真に真剣勝負であります。

            <感謝合掌 平成29年2月12日 頓首再拝>

病気は無い - 伝統

2017/02/25 (Sat) 04:27:10


     *『生命の實相』第一巻實相篇上(P64~66)より

いったい、皆さんは「病」というものが実際この世にあると信じておられますか。
「病気」というものを神がこの世に造り給うたと信じておられますか。

もし神にして「病気」というものをお造りにならないならば、
病気は第一義的にいえば本当は存在しない。
ただそれはあるように見えているにすぎないのです。

それは本当は「無い」けれども、あるように見えている「迷い」なのです。
「ない」ものをあると思っているから「迷い」なのであります。
「迷い」という心的状態が客観的(かたち)にあらわれて映っている。
これを病気とかいろいろの人生苦とかいうのであります。

これをたとえていいますと、「大生命」は活動写真を映す機械の本源に輝いている
光のような、不可思議光(光明生命)であります。

それを無色透明の正念(しょうねん)のレンズを透すと
ただ光輝燦然たる大生命の肖像(にすがた)ができる。
これが神のつくり給うたままの光輝燦然たる人間そのままの姿であります。

ただこのわれわれの生命にいろいろの影や不完全な状態があらわれるのは、
それにいろいろの迷いの姿を描いた「念(こころ)というフィルム」をあてがうからで、
われわれが「念(こころ)しだいでどうでもなる」というのはこのことであります。

本来、われわれ自身の「生命」が「光明生命」でないならば、
影さえも顕わすことができない。

光がなかったら活動写真を映すことができないと同じであります。

いろいろの病気や、いろいろの苦しみを「人生という映画」にうつし出すことが
できるのは、病気や苦しみ以上の「光」がその本源にあるからで、
この「光」こそ、われわれが大生命からいただいているわれわれの「真生命」なのであります。

いい換えると、それは神が造り給いしままの「真の人間(リーアル・マン)」であって、
この「真の人間」そのままを観るとき、それは円満完全であって、なんらの欠点もない。

むろん、病気や不幸はぜんぜんないのであります。
各人の、この「真の人間(にんげん)」を観ることを
「実相を観ずる」とか「本来の面目を観る」とかいうのであります。

「生長の家の生き方」(『生命の實相』第七巻)に「生命の実相を礼拝せよ」とあるのは
各人に宿っている「真の人間(にんげん)」を礼し拝することをいうのであって、
この「真の人間(にんげん)」というものは心でこれを認めれば認めるほど、
明らかに形にも顕われてくるのであります。

つまり「真の人間(リーアル・マン)」を認めるということは、
「真の人間(にんげん)」(光明生命)に陰影(かげ)のあるフィルムを当てがわずに、
「真の人間(にんげん)」そのものを直接(じか)に見ることになり、

したがって陰影のある暗い映画が人生というスクリーンにあらわれなくなり、
「光明生命」ばかりが客観化してスクリーンにあらわれることになるのであります。

           <感謝合掌 平成29年2月25日 頓首再拝>

「病気はない」~寺田繁三先生の指導 - 伝統

2017/03/15 (Wed) 04:11:21


         *平岡初枝先生・著『しあわせを見つめて』(P226~P229)より

<病気はなかった>

2月28日の冷えびえとした寒い日であった。
唐金の大火鉢をはさんで、私は寺田先生にお尋ねした。

「先生、私は脊椎カリエスで3年間床についておりますが、どうしても治りません。
どうすれば、よろしゅうございましょうか?」

寺田先生は黒い大きな目で 私の腹の底までも見抜くように見つめながら、
右人差指をグイと前につき出された。

「あんた、素直になりなさいや。病気はないんですよ」

これが寺田先生の第一声であった。

 
その一言をきくと、私は何の抵抗もなく思った。

「はあ、病気はないのか」

本来理屈言いの私が、どうしてあんなふうに思わせてもらえたのか、
未だにわからないのである。

つぎに、寺田先生は、私に問われた。

「あんた、目の近くに、まつ毛のあるのが邪魔になるかね?」

「いいえ、邪魔になりません」

「そうだろう。目の一番近くに、まつ毛はある。
しかし認めなかったら、邪魔にはならない。

ところが倉田百三という文士はね、ある時、目の近くにまつ毛があると気づいた。
それからというものは、目の近くにまつ毛があることが気になってたまらない。
まつ毛のことを思うまいと思えば思うほど気になった。

とうとう物凄い神経衰弱になり、目を閉じても開けても、目がまわる、家がまわるという
有様で、1年間生死の境を彷徨(ほうこう)したそうな。

これは、目の近くにまつ毛があると、認めたからですよ。

あんたも、脊椎カリエスだというから、どの骨が悪いと認めたのですよ。
認めた時に存在に入るのですよ」


ここまで言われた時、私は心の中で、「わかった」と横手を打ったものである。

「そうだ! 
この3年間、私は寝ても覚めても、第三第四胸椎のことばかり思い続けてきた。

絶対安静一つをたよりにしていた私は、ちょっと起き上がって食事をすると、
すぐに、骨はどうだろうと思い、便所へ行ってくると、大丈夫かしら、
と骨のことばかり思いつめてきた。

認めたものが存在に入るのなら、もう骨のことは考えないことにしよう」

と深く心に思い定めた。

「そうだ、骨のことは、生命の営みにまかせれば、良いのだ。
私が干渉しなくても良いのだ」

と、わかったのである。

そして、骨のことはもう考えずにおこうと思いながら、
ではどこのことを考えたらよいのかと、愚かにも他愛ないことを思い、

白隠禅師の

「臍下丹田(せいかたんでん)に力を入れて
万病治せずということなし」

という言葉を思い出した。

お腹に力を入れるようにしていたら、しばらくしてお腹がグーグー音をたてた。

「ああ、これは困った。私は若い時に腹膜をわずらったことがある。
今、脊椎カリエスを克服して、かわりに腹膜を招待するということになってもつまらない」

などと考えているうちに、寺田先生の御指導が終わり、帰宅することになった。


ことばの力は、えらいものである。

「病気はない、病気はない」というお話を聞かされて、
病気の骨のことを思わないで、心を他に転じていただけで、
帰りにはフラフラしながらも電車に乗ることができたのである。

まるで、朝のさわぎは夢のようであった。

『甘露の法雨』には「汝ら悪夢を見ること勿れ」と書いてあるがが全くその通り。
私は、長い長い悪夢を見ていたのであった。

「慢性病をやっている人は、時折下手に夢の続きを見たがるものである。
そんな時は下腹部に軽く力を入れ、『私は神の子だ、病気はない。私は神の子だ、病気はない』
と、断々乎として20回ぐらい唱えなさい。朝目をさました時は勿論のこと」

寺田先生が帰り際に教えて下さった言葉一つをたよりに
「病気はない」を言い続けて、夜を迎えた。

その晩の7時頃であった。
私の家へ送り届けてから、病院へ行かれた金田先生が帰ってこられた。

私は、その顔をみるなり、尋ねた。
「金田先生は、自分の身体のなかで、どこのことを考えていますか?」

金田先生は、ガッカリした顔で言われた。
「まあ、この忙しいのに、自分の身体のことなど考えている暇ないわよ」

言われてみれば、その通り。
金田先生が主任の耳鼻咽喉科は、いつも患者が多く、
3人の看護婦の他に助手をふやそうと考えていた矢先きなのである。

金田先生の顔をみているうちに、
私は寺田先生から訓えられてきた言葉を思い出していた。

「病気はないんですよ。働きなさい。
働くということは、ハタをラクにするという愛行です」

寺田先生には、3年の病人もなければ5年の病人もない。
すぐに働けとおっしゃったのである。

「そうだ! 働きましょう」と思ったが、働くといっても、
いま直ぐに何をしていいかわからない。

しかし、働く気になれば、働く仕事も出てくるものなのである。

・・・

(本流宣言掲示板  寺田繁三先生 (5554)
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1220 より一部転載)

           <感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝>

生命の純粋波動を現せ - 伝統

2017/03/19 (Sun) 04:25:19


           *「光明法語」(3月19日)より

肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。

生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。

生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。

自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである。

            <感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝>

病気なんて、そんなものは実在しない - 伝統

2017/05/04 (Thu) 04:47:55


          *『維摩経解釈』(284頁)より

一体、病気というものはどうして出てくるかというと、
迷い又は惑いから出てまいります。
仏教では惑病同体と申します。

では迷いというものは一体何であるかというと、
無いものをあると思うが迷いなりと『甘露の法雨』に書いてあります。

「ない」ものを「ある」と思っているのです。

それは「呼聲の響」(こしょうのひびき) ――呼ぶ声の反響みたいなものなのです。
こちらの心で念を起こすから、その念のひびきの反響がきこえると、
それはこちらの声の反映でしかないのに、それを客観的実在だなどと思う。

すべて不完全なものはないのであって、それは空中の雲の如く、
水の飛沫のかたまりのように、水上の泡のように一時的なあらわれであっても
実在ではない。

実在でないから消えるのであって、消えるものに執着して
自分の心の悩みで病気を起こしているなんて実に気の毒なものなのです。

病気なんて、そんなものは実在しない。

人間は本来本法性であって、法性は金剛不壊であり、
時間空間を絶した本当の自由自在の世界に吾々は生きているのだ。

その自由自在のものが自由自在を失って、時間空間に縛られた肉体人間が
あるあると思っているその心が、既に病気でありそれが迷いである。

そのないところの迷い、ないところの病気を積み重ねてそれに執着するのが又病気。
時間空間の枠の上に投影した想念の紋理(あや)を物質化し、肉体化して見ているに
過ぎないもので、それは皆影なのです。

本当はないのです。
だから菩薩ともなると、肉体人間を観るのに、
「幻師のあらわした幻の人間」と観るのです。

そうすれば幻が何を言っても腹を立てる必要はない。
人間界の争いなんかというものは、大抵のことは「あの人が斯ういった、ああ言った」が
もとであります。世界的な事になると、現在のことは言いたくないが、

歴史上のことで言うと、チェンバレンが斯う言った、ヒトラーが斯う言った
といって喧嘩が始まった。

吾々の小さい家庭では、妹が斯う言った、お母さんが斯う言った
といって喧嘩しているのであります。

それは衆生を観るに「幻」として観ないで、実在として観るからであります。
「ない」ものを「ある、ある」と思って執着し、積み重ね、奪い合って喧嘩する。
それが病気なのです。

もとが「ない」ものに引っかかって苦しんでいるのであるから、
その結果であるところの病気もそんなものは無いのです。

真に実在するものは、遷り変る時間空間内の現象の世界にはない。
時間空間を絶した神の世界の一切が、今ここに既にあるところの
時空十字交差の一点の世界に這入って参りましたならば、
そしたら悪いものは一つもないのです。

その〝ないもの〟を積み重ね、それに執着するのが又それが病気、
病気というのは心にある執着が病気だ。

まだ肉体に形として出なくても執着しているものは既に病気だ。
病気といったら形に出るのが病気かというと執着している心が病気だ。

吾々の本当の心は自由自在なのです。
自由自在が本当の心なのですけれども、執着したり、粘りついたりすると、
蝿が蝿取餅に足を突っ込んで粘りついて動けない、あの姿になるのであります。

「斯うだ」「ああだ」と、「無い」ものを「ある」とみとめて
我執というものに引っかかっているあれが病気だ。

病気の人は、その肉体を治そうとするより先に
「無い」ものをハッキリ「無い」と知って執着を外すことだ。

「敵がある」「あいつがこんな事をしやがった」と思って腹を立てたりしているのは、
芭蕉が大木のように見えているから堅い堅固な木だと思っていたら、
中はスカスカの直に倒れてしまうニセモノのようなものだ。

それは又、稲妻は瞬時にして消えてしまうのに、
永久の存在だと思い違いしているようなものだ。

こうして「無い」ものを「ある」と執着し、腹を立て、争う。
その執着が病気だ。
世界はその執着のために病気しているのである。

 (http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65713748.html より転写)

            <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>

病気はない - 伝統

2017/06/12 (Mon) 04:26:07


     *「心の世界に於る運命の形成」 徳久克己先生ご講話
      → https://www.youtube.com/watch?v=WaB_WIIRxBU

(1)神想観では、「生かされている」「満たされている」が大事。

(2)想い方が大事、いいことだけを考える。

(3)続けることが重要。

(4)谷口雅春先生が言っているのだから、「病気はない」と
   母に言われた。

(5)「病気はない」のだから、それを信じ続けると「病気は消える」。

(6)「生命の實相」22巻(精神分析篇)を読むといい。
   海面より下の氷山(潜在意識)の部分をどうするかが重要。
   隠れた、気のつかない心が人生を動かす。

(7)笑いの練習を練成会で開始した。
   顔が笑っているときは、体全体の細胞も笑っている。
   笑っていると、楽しくなる。

(8)負の連鎖を断ち切るには、今の想いが大事。
   心の中に、いいことを思うといい。
   明るい心になればよい。

   類は類を呼ぶ。

   明るさは、最高の徳。

(9)昭和16年時、谷口雅春先生の50歳代の気合(イユー)に、救われた。
   その時に、谷口雅春先生に惚れてしまった。


(10)夫婦関係について

   いい言葉を出す。

   ・・・・


<参考:伝統板・第二「運命の神秘」
    「生命の實相」第一巻實相篇
     (第4章 心の世界における運命の形成)(P113~118)より
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6601238 >

            <感謝合掌 平成29年6月12日 頓首再拝>

病なし、死なし - 伝統

2017/07/22 (Sat) 04:21:29

        *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って死〇ばその病気は治っている。
                         (『生命の實相』第八巻)】

   *〇:ね

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている限りは、
心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が死んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>

症状は生命の活動、症状に感謝せよ! - 伝統

2017/08/22 (Tue) 05:01:06


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月22日>(P61)より

症状が生命の活動であって死の活動でないのは、
死んだら症状が無くなるので明らかである。
発熱や喀血や下痢や咳嗽(せき)を病気の活動だと思うのは明らかに錯覚である。

いわゆるわれわれが「病気」だと思っているこれらのごとき症状は、
生活環境に抵抗または対応せんとする内部生命の活動の顕われであって、
「病気」そのものではないのである。

されば賢者は症状に感謝し、発熱や喀血や下痢や咳嗽が起こるごとに、内部生命の、
かほどまでにして自分を生かそうとしている努力に感謝するのである。

          <感謝合掌 平成29年8月22日 頓首再拝>

《完全なる生命が病む理由》 - 伝統

2017/09/20 (Wed) 04:52:04


        *『 生長の家 』(昭和25年1月21日の法語)より

   神は 完全なる生命である。
   その生命を人に与えたのである。
   自分の生命は 神の生命である。

   然(しか)しそれが必ずしも各人に完全に実現していないのである。
   それは第一には、 「 人間は物質である 」という迷信による。
   第二には、神に与えられたる生命を 神の子らしく使わないによる。

   それを愛のために使わず、慈悲のために使わず、
   人の助 けによるために使わず

   ただ我慾(がよく)のために使い、人を憎むために使い、
   人を怒るために使いなどするから
   神の完全な生命が実現しないで 病気になっているのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0a404a3af6ee222036188cfd9b60e222

          <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

《感覚の錯誤に惑わされるな》 - 伝統

2017/10/07 (Sat) 03:40:31


         *『 生長の家 』(昭和26年1月21日の法語)より

   神が善であり、完全であるならば、神の生命が流れ入って
   わが生命となっている「自分の生命」に
   病気などは ある筈(はず)はないのである。

   吾々は外形を見て、真実を忘れてはならないのである。

   五官の感覚に見える姿よりも
   論理的に考えられたる結論の方が真実である。

   感覚では 太陽が東より昇って西に入ると見えるけれども、
   理論では 地球が自転しているのであって
   太陽は上り下りするのではないのである。

   而(しか)して理論によって結論された方が 真実であるのである。

   さすれば、人間が感覚で見れば 肉体は病むように見えても、
   神の生命が宿っている人間は 病まないと云う方が真実である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

          <感謝合掌 平成29年10月7日 頓首再拝>

病気と云う醜き存在は無い - 伝統

2017/11/01 (Wed) 04:59:26


       *「光明法語」(11月1日 霊は病まず)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

          <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2017/11/02 (Thu) 04:02:52

       *「光明法語」(11月2日 )より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。

病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。

無いものは如何に見えてもない。

それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって覚めて見れば何もない。

          <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>

醜き姿を心より払拭せよ - 伝統

2017/11/05 (Sun) 03:37:50


       *「光明法語」(11月5日の法語)より

病気や災禍を思い浮かべ、それを恐怖したとき想念は形にあらわれる。
恐るるものは皆来るので、これは神が造ったものではなく、想念の具象化である。

何か病気の醜き姿を見て、恐ろしいと思った時には
「かかるものは実在ではない。実在するものは、唯(ただ)完全なるもののみである」
と数回心に念じて、醜き姿を心の底から拭い去ってしまって置くことが必要である。

宇宙のすばらしく宏大にして完全なること、
それを創造(つく)った神の力の無限大なる事、
その偉大なる無限力の前に何の病気の存在の余地があろうぞ。

          <感謝合掌 平成29年11月5日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2017/11/13 (Mon) 04:06:33


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我はただ神の生活を生活するだけである。

         <感謝合掌 平成29年11月13日 頓首再拝>

根底の思想は「人間に病気はない」 - 伝統

2017/11/29 (Wed) 03:06:56


       *「長生きしたけりゃ素生力をつけなさい」
          ~小林 健・著(P114~117)より

私の治療の根底には、「人間に病気はない」という基本的な考え方があります。

「え、どういうこと? 人間にはたくさんの病気があるのに」

と思うかもしれません。

もちろん、便宜上、「病気」という言葉を私も使いますが、
現在、多くの人が抱いている病気のイメージ、すなわち、

「私たちを困らせる忌むべき災難で、
早急に取り除いたり闘ったりしないといけないもの」

という意味での病気は本当は「ない」のです。

私たちが「病氣」と呼んでいるものは、体が発している「警告」だからです。

つまり本格的な病氣や悪化を防ぐための反応です。

         <感謝合掌 平成29年11月29日 頓首再拝>

《無いものはナイ》 - 伝統

2017/12/15 (Fri) 03:43:01


       *『生活の智慧365章』
            (第4部繁栄の泉)第10篇(P254~255) より

心を一転しなさい。
現象はどうあろうとも、現象は結局うつり変る姿ですから
気にとめないで、あなたの実相の完全さに心を転じなさい。

実相のみ実在であって、
現象は実在でないから現象がどうあろうとも心にかけることは要りません。

あなたの実相は神の子であって、今現に健康なのです。
健康のみが実在なのです。

病気なんてものは、神が作らないから、どんなにアルかの如く見えてもナイのです。
無いものは無いのです。

それは夢の中で、病気にかかっている夢を見ているようなもので、
その病気には実体がないのです。

実体のない病気を実体があるなどと考えるのは妄想です。

『般若心経』にはナイものをアルと思う「サカサマの想い」を
「顛倒夢想」と書いてあります。

そんな「サカサマの想い」を捨てなさい。

夢の中で物を見る心は、その心もニセモノです。
ニセモノの心を「妄心」と言います。

「妄心」を捨てなさい。

         <感謝合掌 平成29年12月15日 頓首再拝>

《心のフィルム》 - 伝統

2017/12/31 (Sun) 04:24:00


    *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P255~256) より

『観普賢菩薩行法経』に書かれている句に、
「心を観ずるに心なし」と云うのがあります。

また「法、法の中に往せず」とも書かれております。
法と云うのは現象のことです。
現象は現象の中には無いと云う意味です。

そんなら何処にあるかと言うと心の中にあるのです。

現象は映画のようなものであって、
映画の画(え)は映っている映像の中にはなくて、
「フィルムの中にある」と云うのと同じです。

心に病気を描くから象(かたち)の世界に病気があらわれて来るのです。


あらわれている映像が嫌いだったら、
スクリーンに映っている映像を消そうと思っても駄目です。
心のフィルムにある印画を修正しなければなりません。

最も簡単なのは「心のフィルム」を捨てることです。
それが「心(こころ)を観ずるに心(こころ)無し」であります。

病気の夢を見ていた「心」は
さめてから健康を知る「心」のようには実在ではありません。

         <感謝合掌 平成29年12月31日 頓首再拝>

《病気は妄心の現れ》 - 伝統

2018/01/16 (Tue) 04:54:46


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P258) より
 
病気の話をすれば、達者な人はそれに興味を感じません。

しかし病気は「不調和な現象」の一例として引用されているのであって、
「家庭の不調和」でも、「貧乏」や「事業の不振」と云う「経済上の不調和」でも、
みんな「妄心」のあらわすところの現象であって、

「妄心(もうしん)」を放ち去って、「真心(しんしん)」を出してくれば、
其処には「真心(しんしん)」の表現としての
調和ある状態があらわれて来るのであります。


「真心(しんしん)」は「神の心」であり、
「実相の心」であり、永遠不滅の存在であり、
「実相の世界」は此の「真心(しんしん)」の創造するところであります。

随って真心(しんしん)の創造するところの「実相の世界」には、
不景気も不調和も、病気も、罪悪も、一切の悪が存在しないのであります。

存在しないものを存在すると観る心を捨て
「真心(しんしん)」を出すようにすれば
万事は光明方面へと展開するのです。

         <感謝合掌 平成30年1月16日 頓首再拝>

《病気は夢である》 - 伝統

2018/01/21 (Sun) 03:31:56


      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P261) より
  
人間それ自体は、金剛不壊の存在でありますから、病気は一つの夢にすぎません。
薬物で治ることもあるが、それは「薬で病気が治る」と云う信念で、
夢の中で「治ると云う夢」を見るのです。

「夢である病気」が夢によって治ったとて不思議ではありません。

しかしまた夢の中で再び夢を見るのは止むを得ません。
何故ならその夢が覚めていないからであります。


真に自分が「金剛不壊なる霊的実在」であると悟るならば、その悟りにバックされて、
たとい夢を見ても、今後は、病気の夢など見るものでありません。

「人間は金剛不壊であって病気はない」と信じなさい。

そして元気を出しなさい。
元気を出せば、体力はそれに比例して元気になります。

肉体を動かしているのは「エーテル体」と「感情体」ですから
感情が滅入ってしまって、元気を出さない限り、肉体は健康になり切れません。

         <感謝合掌 平成30年1月21日 頓首再拝>

「病は本来ない」と本当に知るためには - 伝統

2018/01/22 (Mon) 03:13:45


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。
躓いて脚下(あしもと)に病気あると気づいて
「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、
肉体は心の反映であるから、「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときには
それは具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知ることである。

            <感謝合掌 平成30年1月22日 頓首再拝>

《病気に重い軽いはない》 - 伝統

2018/02/03 (Sat) 04:45:26


       *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P261) より

「生命(せいめい)」は物質《そのもの》にはないのであって、
「生命(せいめい)」が物質を支配するのである。

物質を生ぜしめ、それを仮に物質として、吾々に感ぜしめているのも
「生命(せいめい)」の力である。

物質は「生命(せいめい)」の影であって実体ではないのである。 

「生命(せいめい)」は霊的実体であって金剛不壊であり、
細菌やヴィールスに冒されざるものである。
それが冒されるようにあらわれるのは、本来の霊身を「物質身」として翻訳して
感ずるところにあるのである。


自己を「物質身」と見、病み且つ死するものであると見るのは、
「妄心(もうしん)」の夢であるのである。

夢は醒めるものであり、「夢の病気」には重いも軽いも《ない》のである。
軽い病気が治るならば、重い病気も、同じ軽さで治る筈である。

どちらも夢であるのだから、その夢からさめさえするならば、
病気に重い軽いはなく、どんな病気でも消えてしまうのである。

            <感謝合掌 平成30年2月3日 頓首再拝>

《真心(まごころ)現るれば妄心(もうしん)消ゆ》 - 伝統

2018/02/19 (Mon) 03:28:40


       *『生活の智慧365章』
           (第4部繁栄の泉)第10篇(P270~271)より

映画の画面に色々の喜劇や惨劇があらわれて見えようとも、
そんな喜劇も惨劇も存在しないのです。
それは映写機械が光の波動をスクリーンに送っているに過ぎないのです。

波動は如何に巧妙なすがたを現そうとも、
それには生命(せいめい)がないのです。

病気もやはり「迷いの心」の誤れる信念が放送している
「波動」が姿をあらわしているものなのですから、
それ自身、生命(せいめい)はなく、それ自身進行するものではないのです。

病気が進行したように見えるのは、
それに波動を送って或る病的症状を現わしめている
「妄心(もうしん)の動揺」によるのです。

そんな妄心を捨てなさい。
病気の症候に目をとじなさい。

そうして瞑想によって「真心(しんしん)」をよび出し
本来完全なる神の自己実現なる自己の「生命の実相」を観なさい。

「真心(しんしん)」は実在であり「妄心」は仮妄(こもう)ですから
「真心(しんしん)」現るれば「妄心」は消えてしまいます。

            <感謝合掌 平成30年2月19日 頓首再拝>

《肉体は常に新たに造られる》 - 伝統

2018/03/04 (Sun) 04:45:36


        *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P313) より

病気の肉体を恐れることはない。
肉体は刻々と新しく造られているからである。

試みに顔を剃ったとき過って皮膚を傷つけると、其処は一時的に出血する。
出血が赤いのは、それ以上深く傷つけたら危ないぞと云う信号警報であり、
赤色を用いたのは最も目立つ色だからである。

同時に出血は内部より外へと不浄物を流し出して、不詳の瞬間に
侵入しようとする微生物を排除する洗浄作用である。


その警報と、洗浄との役目を終わる血管は収縮して出血をとめ、
更に血液は凝固して、その上に膠質物を帖用(ちょうよう)したようにして
傷口を守るのである。

そして終日のうちには傷の痕跡(あとかた)もなく、
新しい健全な皮膚が出来ている。

このような出来事は、単に皮膚だけに行なわれているのではなく
内臓の病的部分や損傷に対しても行われているのである。

            <感謝合掌 平成30年3月4日 頓首再拝>

どんな病的組織も死滅し、新たな組織に置き換えられる - 伝統

2018/03/20 (Tue) 04:17:58

    *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P313~314) より

《肉体は刻々造り直される》

無意識の奥にある驚くべき智慧は、どんな肉体の部分の病的組織や
損傷でも、嘗て健康であった通りの形に修復する力をもっているのである。

私たちの肉体細胞は、その物理化学的構造から、使っているうちに
老廃して衰弱し、ついに死滅することになっている。

それだからこそ却(かえ)って好いのである。
どんな肉体の病的組織でも、それはやがて老廃し衰弱し死滅することに
なっているから、どんな病的組織も永続すると云うことはないのであって、

それは死滅し運び出され、新しい成分によって新しい組織がつくられる
のである。


肉体は日々に健全に造り直されつつあるのである。
その事実は皮膚の新陳代謝によって明瞭に肉眼でも見られる。

既に用済みの皮膚は剥落して「垢(あか)」となったり、
摩擦して消えて行ったりする。

そのあとに健全な皮膚が常に造られて行きつつあるのである。

            <感謝合掌 平成30年3月20日 頓首再拝>

【病気はメッセージ】 - 伝統

2018/07/06 (Fri) 03:29:50


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年06月25日)より

   (トランスフォーメショナル・コーチ、梯谷幸司氏の心に響く言葉より…)

   私たちはそれぞれ、「生きる目的」を持って生まれてきます。
   つまり、今回の人生においてなしとげる「何か」を、
   各自が担っているのです。

   その何かとは、「人々や世の中に貢献すること」かもしれませんし。
   「人々を愛すること」かもしれません。
   「これまでにない『価値』を創造すること」かもしれません。

   そして私たちは、こうした自分自身の生きる目的に
   つながる活動をしているとき、幸せを感じます。

   本当の自分として生きていることに、充実感を覚えるのです。

   ところが、現実の社会では、
   そうした生き方をするのが難しい場合が少なくありません。

   社会生活を送る以上、私たちはある程度、
   社会のルールに従って生きていくことが求められます。

   社会からの要請に応え、社会から望まれる形で生きていくことで、
   「社会的自分」がつくられていきます。

   そして、その社会的自分と、
   自分の生きる目的が合致しないケースが多々見られます。

   たとえば、「俳優になりたい」「小説家になりたい」という夢があっても、
   まわりの大人たちから「夢だけで食べていけると思っているのか。
   安定した会社に就職しろ」と言われて反対されるのは、
   わかりやすい事例でしょう。

   人は誰しも、「生きる目的」に向かって生きていきたい欲求があるのは、
   前述した通りです。

   そのため、社会的自分と本当の自分との間に葛藤が生まれます。


   「社会からの期待に応えられる自分でなくてはならない」
   と懸命に思う人がいる一方で、ごくまれに社会からの期待を
   どこ吹く風で受け流し、本当の自分を貫く人もいます。

   しかし大多数の人は、
   社会的自分によって本当の自分を徹底的に抑えつけます。

   「そんなことをしたら、怒られる」
   「それだけの能力はないから、あきらめよう」
   「そんな進路では、まともに生活できない」…などなど。

   社会的な自分が、さまざまな思い込みやセルフイメージをつくることで、
   本当の自分が生きる目的に向かって生きていくことを阻止しているのです。


   とことん抑えつけられれば、抵抗や反乱が生じるのは、
   古今東西の歴史が証明しています。

   社会情勢と同じことが、人間の体の中でも起こります。

   それが「病気」です。

   社会的自分によって、自分の中の奥深くに封じ込められた
   本当の自分が「「このまま生きる目的に向かって生きることが許されないなら、
   元気でいても意味がない」と、さまざまな病気をつくり出していくのです。

   これは、見方を変えれば、本当の自分からのメッセージともいえます。

   つまり、今の自分が生きる目的とズレた生き方をしていることを、
   本当の自分が病気という形を使って、教えてくれているのです。

      <『本当の自分に出会えば、病気は消えていく』三笠書房>

                ・・・

梯谷氏は、病気を「敵」だと思っているうちは、
病気はやめられない、という(本書より)。

『同じような病気にかかっても、それを確実にやめられる人と、
なかなかやめらないどころか、悪化させてしまう人がいます。

私はかれこれ30年近くコーチングやカウンセリングなどを通じて、
病気をやめる手伝いをしてきましたが、

最近わかったのは、両者を分ける一つの大きな違いとは、
病気を「敵」と見なしているかどうかだということです。

病気をやめられる人たちは、病気を敵と見なしていません。

もちろん、私とのセッションがスタートした時点では、
多くの人が病気を敵と見なしています。

ただ、病気をやめられる人たちは、セッションをつづけるうちに、
病気が本当の自分からの「あなたは今、本来の『生きる目的』と
ズレた生き方をしているよ」というメッセージだと気づいていくのです。

そして病気と向き合い、本当の自分と話し合いを始めます。

本当の自分に対して「これまで無視しつづけてごめんね」と謝罪し、
和解していくのです。

この段階に至るとほとんどのクライアントは、
「社会的自分」に縛られることをやめ、
本来の「生きる目的」に向かって生きはじめます。

すると、気がついたら病気をやめられているのです。


では、病気を敵だと見なしつづけると、なぜ病気をやめられないのでしょうか。

敵ということは、闘う相手だということです。
そのため、敵である病気を倒し、根絶するための治療を選ぶ傾向があります。

たとえば、薬を大量に服用したり、がんであれば放射線治療を選んだり、
手術で切除したり、という具合です。

あらゆる手段を使って、病気のもとを自分の中から消したり、
切り離したりすることに懸命になります。

しかしこれは、本当の自分を無視したまま対症療法的な処置をしているだけで、
根本的な解決にはなりません。

そもそも病気は、封印されつづけた本当の自分が発する、
「存在に気づいて!そして、本当の自分として生きて!」
というメッセージです。

そのメッセージを無視していては、
いくら表面的な治療を施したところで病気を根本的に消すことは難しいのです。

そのため、なかなか治らなかったり、
あるいはいったん治ってもすぐに再発してしまうのです。

草むしりで雑草を刈ったところで、
根が残っていれば再び生えてくるのと同じですね。

病気が悪化してしまうのは、
自らの存在をあくまでも無視しつづけようとする今の自分に対して、
本当の自分が「それなら、もっときつい状況にして気づいてもらおう」
という働きをするからとも考えられます』


この病気を会社の経営と考えてみるとよくわかる。

会社の業績が悪くなってきたとき、そのメッセージに耳を傾けず、
今までと同じことをしていたら、会社はどんどん倒産の方向に向かう。

つまり、自社の、大切な価値観や、経営理念、行動指針やミッション、
などを忘れていないか。

それらを忘れて、逆に、無理な売上げ拡大をはかったり、
ギャンブルのような投資に手をだしたり…。

それらを、軌道修正しなければ、どんどん業績は悪化し、
ついには会社は存続できなくなる。


「病気はメッセージ」

病気を敵と見なさず、自分の行動を改め、本来の方向に向かって進みたい。

            <感謝合掌 平成30年7月6日 頓首再拝>

『全き神のいのち』に浸りきるところに病は無い - 伝統

2018/07/23 (Mon) 03:37:09


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月23日)より

「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。

かく念じつつ、神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、
いっさいのものの内に、そして「自分の内にも充ち満ち、
その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、それに生かされている」
との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き神想観である。

病ある者はすみやかに癒されるであろう。

観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、
そこには病は無いのであるから。

         <感謝合掌 平成30年7月23日 頓首再拝>

病気は本来無いと云うこと - 伝統

2018/08/09 (Thu) 04:39:27


         *「人間無病の原理」
           ~「放てば生きる不思議のいのち」(P41~42)より

『ひかりの語録』の123頁(『生命の實相』第22巻5頁)に
「病気が《有る》と云う信仰は涜神的(とくしんてき)な信仰である」
という「智慧の言葉」があります。

病気というものが《有る》という考えは、神を尊敬しない、神の愛を疑い、
神の力を疑う考えであると云う意味であります。

何故かと云うと、神様が此の世界をお創(つく)りになって、
一切のものは悉(ごとごと)く神から出て来たものでありますのに、
その神の創り給うた世界に、病気というような不完全な、人間を苦しめるような、
そういう存在が有るという信仰は、即(すなわ)ち

「神様よ、お前の創りようが悪いから斯(こ)ういう世界が現れたのである」
というように、神様の創造を批難する心になっているから、
それは涜神的な考え方である訳であります。

若し神様が病気を拵(こしら)えたというのであったならば、
病気を治すということは、神の創造を覆すところの非常な罪悪である
ということになります。

病気を折角神様が拵えたのに、人間が工夫をして病気を潰してしまう
というのだったら、これは大変、変なことになるのであります。

それから又、神様が拵えた病気を、人間が治せるということになったら、
神様の力よりも人間の方の力が強いのであるということになりますから、
どっちみち病気というものが有るのだというものの考え方そのものが、
涜神的な、神を涜(けが)す考え方であるという訳であります。

         <感謝合掌 平成30年8月9日 頓首再拝>

無いものは無い - 伝統

2018/10/17 (Wed) 04:28:33

               *徳久 克己 医学博士
                ~Web「童子 さまのブログ」より

『生命の實相』 のなかに、聖経のなかに、いたるところに 「病気は無い」 
と書いてあるのを拝読していながら、潜在意識のなかには 「病気はある」 と
思っているような中途ハンパな信仰だから、
すべてのことがスッキリしないのだと反省しました。

生長の家が発祥した当時の大先輩である服部仁郎先生、吉田國太郎先生のお話は
ハッキリと 「病気は無い」 と宣言しておられたことを今でも思い出します。 

先生たちのお話を聞いていますと、理論的にはドウシテモ理解できないような、
飛躍したお話が多かったのですが、それでいてとても魅力があり、
先生たちのお話を追いかけまわして聞いた私でした。

「病気は無い」 ということは、谷口雅春先生がお悟りになられた真理で、
理屈がこうだから 「病気は無い」 のではなく、病気は無いから無いのだ、
ということをわからせていただいて、私は本当にスッキリしました。


「なぜ無いのだ? 」

という疑問が出るということは、
「現象あり」 とみる 「迷い」 がある証拠で、
「病気がある」 と思っているからです。 

結局 「病気は無い」 と知るためには、
谷口先生が神から最初に受けられた啓示である 「物質はない」 という、
生長の家の御教がはじまった最初の原点を、
よくみきわめることが大切であるとわかりました。


「“無い”ものを“無い”としたところに、本当にアルモノが出て来るのだ」
                   (『生命の實相』 第20巻 135頁)


この「“無い”ものを“無い”とする」 これが最も大切なことで、
それによって本当にアルモノが出て来るのです。 

「病気は無い」 と知った時、本当にアルモノ、
即ち 「永遠の生命 〈健康そのもの〉」 が出て来るのです。

先生が 「人間は病気をしないのがアタリマエで、病気をするのは奇蹟だ」 
とお説きになられるのは、 「無いものを無い」 とハッキリ自覚された時に
出てくる真理であります。 

どうしても私たちは五感にたよって毎日の現象の生活をしていますので、
五感によって知る現象をあるかのように錯覚してしまうのです。

谷口先生は 「病気は無い」 と教えておられるのですから、
無い肉体の病気などあるはずがないのですが、
五官で感知するものを 「ある」 と思うと、
そこからイロイロの 「迷い」 があらわれてきます。

 
「無明(まよい)はあらざるものをありと想像するが故に無明なり。 
真相を知らざるを迷いと云う」  
と聖経 『甘露の法雨』 に説かれています。 

「無いものをあると想像する」 のが迷いでありますから、 
「病いの原因は “心” にあり。 しかも “迷いの心” にあり」 と
聖経 『続々甘露の法雨』 に説かれています。 

このように教えられますと、私たちは 「病気は無いんですよ」 と
ハッキリどんな時でも言えるようになります。


生長の家が発祥した当時、私たちの先輩が 「病気は無いのですよ」 と宣言して、
いたるところで奇蹟が起ったということは、それが真理であるからです。

私たちは先輩のあとをついで、生長の家の根本真理をハッキリと宣言して、
多くの人びとを悪夢からさましてあげる必要があります。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p9.html <08/26/13>

         <感謝合掌 平成30年10月17日 頓首再拝>

人類意識の中の迷妄 - 伝統

2018/10/30 (Tue) 03:17:18


(今回の記事は、本スレッド内「病気は本来無いと云うこと(2018/08/09)」
 からの続きにあたります)

         *「人間無病の原理」
           (「放てば生きる不思議のいのち)(P42~43)より

それでは、病気というものは、如何にして生ずるかと言いますと、
是(これ)は「人類意識」の中に、過去何億万年前から始まったか知らないが、
人間が病気になるという迷いの意識(こころ)を人間が起こして、
それがずっと拡がりつづいて来ているのであります。

そして、子々孫々その念が伝わって、その念に依(よ)って又病気を現わした者が、
又”人間は病気になるぞ”という念を持って、それがズウッと人類の意識の中に
有る訳であります。

謂わば、病気になる人は「人類意識」の催眠術に掛かっているのだと
云える訳であります。

         <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>

霊は病まず、病気と云う醜き存在は無い - 伝統

2018/11/01 (Thu) 04:32:09


       *「光明法語」(11月1日 霊は病まず)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

         <感謝合掌 平成30年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2018/11/02 (Fri) 04:02:01


       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。
無いものは如何に見えてもない。
それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって覚めて見れば何もない。

         <感謝合掌 平成30年11月2日 頓首再拝>

人間の身体は「神の宮」 - 伝統

2018/11/07 (Wed) 02:41:06


       *「光明法語」(11月7日の法語 黴菌も寄生虫も無い)より

人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。

宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。

人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。

―― 斯く念ぜよ。

         <感謝合掌 平成30年11月7日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2018/11/13 (Tue) 04:39:28


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我はただ神の生活を生活するだけである。

         <感謝合掌 平成30年11月13日 頓首再拝>

下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働き - 伝統

2018/11/14 (Wed) 03:35:20


          *「光明道中記」(11月14日 執着が無くなる日)より

【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
                      (『生命の実相』第九巻)】

下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。

「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。

実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。

そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。

凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。

されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。

けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と
切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。

          <感謝合掌 平成30年11月14日 頓首再拝>

病気は無いから無いのですよ - 伝統

2018/11/29 (Thu) 04:50:11


私達は先輩のあとをついで、生長の家の根本真理をハッキリと宣言して


           *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-11-13)
                ~生長の家本部理事長  徳 久  克  己


『生命の實相』 のなかに、聖経のなかに、いたるところに
「病気は無い」と書いてあるのを拝読していながら、
潜在意識のなかには「病気はある」と思っているような中途ハンパな信仰だから、
すべてのことがスッキリしないのだと反省しました。

生長の家が発祥した当時の大先輩である服部仁郎先生、吉田國太郎先生のお話は
ハッキリと「病気は無い」と宣言しておられたことを今でも思い出します。 

先生たちのお話を聞いていますと、理論的にはドウシテモ理解できないような、
飛躍したお話が多かったのですが、それでいてとても魅力があり、
先生たちのお話を追いかけまわして聞いた私でした。

 
「病気は無い」ということは、谷口雅春先生がお悟りになられた真理で、
理屈がこうだから「病気は無い」のではなく、病気は無いから無いのだ、
ということをわからせていただいて、私は本当にスッキリしました。


「なぜ無いのだ?」

という疑問が出るということは、「現象あり」とみる「迷い」がある証拠で、
「病気がある」と思っているからです。 

結局「病気は無い」と知るためには、
谷口先生が神から最初に受けられた啓示である「物質はない」という、
生長の家の御教がはじまった最初の原点を、よくみきわめることが大切であるとわかりました。

 「“無い”ものを“無い”としたところに、本当にアルモノが出て来るのだ」
                   (『生命の實相』 第20巻 135頁)


この「“無い”ものを“無い”とする」 これが最も大切なことで、
それによって本当にアルモノが出て来るのです。 

「病気は無い」と知った時、本当にアルモノ、
即ち「永遠の生命 〈健康そのもの〉」が出て来るのです。

 
先生が 「人間は病気をしないのがアタリマエで、病気をするのは奇蹟だ」 
とお説きになられるのは、 「無いものを無い」とハッキリ自覚された時に
出てくる真理であります。 

どうしても私たちは五感にたよって毎日の現象の生活をしていますので、
五感によって知る現象をあるかのように錯覚してしまうのです。

谷口先生は 「病気は無い」 と教えておられるのですから、
無い肉体の病気などあるはずがないのですが、五官で感知するものを「ある」と思うと、
そこからイロイロの「迷い」があらわれてきます。

「無明(まよい)はあらざるものをありと想像するが故に無明なり。 
真相を知らざるを迷いと云う」  と聖経 『甘露の法雨』 に説かれています。 

「無いものをあると想像する」のが迷いでありますから、
「病いの原因は“心”にあり。 しかも“迷いの心”にあり」と
聖経 『続々甘露の法雨』 に説かれています。 

このように教えられますと、私たちは 「病気は無いんですよ」 と
ハッキリどんな時でも言えるようになります。


生長の家が発祥した当時、私たちの先輩が 「病気は無いのですよ」 と宣言して、
いたるところで奇蹟が起ったということは、それが真理であるからです。

私たちは先輩のあとをついで、生長の家の根本真理をハッキリと宣言して、
多くの人びとを悪夢からさましてあげる必要があります。

  (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/f3bea120235a457b9330c3ce3e7cd16f )

          <感謝合掌 平成30年11月29日 頓首再拝>

「病気は無い」という事の本当の意味 - 伝統

2018/12/17 (Mon) 04:29:51

         * 「人間無病の原理」(P70~74)より

《實相と現象との区別》

生長の家の説いている真理を本当に知ろうと思われましたならば、
『實相』と『現象』との区別を知らなければならないのであります。

それについては『幸福招く365章』の六七頁に
このようなことが書かれてあります。

「人生を幸福に生きて行こうと思われましたならば、
『現象』と『實相』との区別を知らなければならないのです。

大抵の人は肉眼で見てあらわれて見える相(すがた)を
そのまま其の通りに《ある》と思っているのであります。

しかしそれは『現象』すなわち『現れている象(かたち)』でありまして、
そのままその通りに《もの》が《ある》のではないのであります。

コップに水を入れてそれに箸(はし)を挿(さ)し込んで横から眺めて御覧なさい。
水面のところから折れて見えます。
その折れて見えるのが現象(あらわれたかたち)であります。

しかし実物の箸は折れてはいないのであります。
その折れていないのが實の相(すがた)であります。
これを『實相』と言うのであります。

實相は完全であるのに、現象は折れたように見えます。

そのように人間は『心』の《あり》場に従って、
實相は『健康』であるのに病気のように見るのであります。

『心』をまともにして眺めれば『實相』の完全な相(すがた)が
あらわれて来るのであります。」


このように書かれてあります。

肉眼と云うものは誠に不完全ものであって、
本当の相(すがた)を見るのではないのであります。

ここに書かれているように、コップに水を入れて箸を挿し込んで見ると
水面の所から箸が折れたように“く”の字になって見える。
写真に写してさえも矢張りそう見えるから、写真にまで写るんだから
本当に箸が折れているのであるかと思って引上げて見ると、
折れていないのであります。

吾々の肉眼はこんなに間違う。
太陽は毎朝から出て、昼には中天にかかり、夕方西に沈むかの如く
肉眼は見るのでありますけれども、併し乍ら本当に太陽は東から出るか
というとそうじゃないのであって、あれは地球が西から東へ廻っている、
その為に相対的に太陽が東から西へ廻るように見えている丈(だけ)のことなんです。


それを説明してやっても矢張り太陽は東から毎朝出るように見えるのが、
この肉眼でありまして、吾々の感覚というものは時々大変な間違いを
しているのであります。


私のつくった歌にこういうのがあります。


   ただよえる雲の彼方にまん円(まる)に

          澄みきる月ぞ わが姿なる


この歌は私が或る日満月を見ながら、それに雲がかかっているのを見て
歌った歌でありますが、お月様というものは本来雲がかかったことがない
のであります。

だってお月様この間月見の晩に見たら雲がかかっておったよ、
むらむらっとしておったなんて云う人がありますけれども、
お月様には水蒸気が無い、水が無い、雲の出来よう筈がないんです。

だから雲がかかる筈がない。
雲とお月様は大変離れている。
雲がかかっているのは地球なんです。


その地球の雲りを通して見るからお月様が雲ったように見える。
どんなに雲ったように見えても雲っていないでまん円く輝いているのが、
これがお月様の實相(じつのすがた)なのであります。

それが「ただよえる雲の彼方にまん円に澄みきる月ぞわが姿なる」
という歌の意味であります。


このわが姿、即ち人間のいのちの實相(ほんとのすがた)というものも、
このお月さまの喩の如く完全円満であって、未だ嘗て雲がかからず
完全円満であるのに、自分の心が雲って、そして自分の“實相”即ち

「神様のお拵(こしら)えになったそのままの完全な相(すがた)」

を見るに、自分の“曇(くも)り”を透して見るから、
曇りと実物とが二重写しになって、そして自分の姿が
不完全な病気の姿にあらわれて見えるということになる訳であります。


吾々はこの五感をもって物を見ておったんでは
本当の實相(じつのすがた)というものは見えないのであります。

禅宗ではこういう歌がありますね、


   闇の夜に鳴かぬ烏(からす)の声聞けば

           生まれぬ先のもとぞ恋しき


闇の夜というと、真暗がりですね。
そこに真黒の烏がおる。
それでも鳴いてくれたら、「ああそこに烏がおるな」とわかるのだけれども、
鳴かぬのですね。

だから五官の感覚には、それを感ずることができない。


それを感ずるには五官の感覚以上のサトリ、
實相覚(じっそうかく)がひらけなければならない。

これはたとえだから闇の夜に鳴かぬ烏の声が聞けたら、
そしたら生れぬ先のもとのいのちというものがわかって、
それが“神の命”であるということがわかって、
“神の命”が恋しくなるというのです。



この自分のいのちが神の命であることを知るのが本当の悟りというものなのです。
“神のいのち”は肉眼で見たとて其の實相(じつのすがた)がわかる訳じゃない。
肉眼でみたら、人間は“肉体”という物質の塊に見えるに過ぎない。

肉眼で見ることを止(や)め、肉眼を外(はず)さなければならない。
眼鏡(めがね)を外(はず)し、眼球(めだま)を外(はず)して、
《いのち》で見る。

そして《いのち》と《いのち》とがカチカチと触れ合うように触れ合った時に、
その時に、生命(いのち)の本当のすがた、即ち「實相」というものがわかる
ということになるのでありまして、

決して眼耳鼻舌身(げんにびぜつしん)の五官によって物を見て、
人間の本体を知ろうと思っても、本当に「人間とは何ぞや」を
悟れるものではないのであります。

          <感謝合掌 平成30年12月17日 頓首再拝>

「病は本来ない」 - 伝統

2019/01/21 (Mon) 04:51:08


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月21日)より

病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。

《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。
そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。
そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。
この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。

読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが『生命の實相』である。
これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

学と術とはちがう。
現象学は現象を正確に告げる必要があるし、人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる

病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。

病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。

          <感謝合掌 平成31年1月21日 頓首再拝>

病は本来ない、病気を跳び超えよ - 伝統

2019/01/23 (Wed) 04:42:08


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。
躓いて脚下(あしもと)に病気あると気づいて
「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、
肉体は心の反映であるから、「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときにはそれは
具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知ることである。

            <感謝合掌 平成31年1月23日 頓首再拝>

病はない - 伝統

2019/01/29 (Tue) 03:48:08


       *「光明道中記」(1月29日 心朗かなる日)より

【病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。
                        (『生命の實相』第五巻)】

心朗かなれば病はない。
他を憎まなければ病はない。
悲しまなければ病はない。

物思いに沈むことなければ病はない。
怒ることなければ病はない。
気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。

不平に思うことなければ病はない。
呟くことなければ病はない。
ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。

病気になって都合よしと思うことなければ病はない。
家に争いなければ病はない。
仕事を嫌うことなければ病はない。

隠す心なければ病はない。
羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。

心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。
心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。
心暗ければ本当に善の資格はないのである。

人を愛すれば病はない。
すべての事物を愛すれば病はない。
愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、
執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。

心顛倒するは智慧が欠けているのである。
智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。

            <感謝合掌 平成31年1月29日 頓首再拝>

人間無病の原理 - 伝統

2019/04/01 (Mon) 03:48:05


        *「人間無病の原理」(P7~13)より

宗教の自由が叫ばれ、それが認められるようになってから、
ある種の術を施して病気を治すいわゆる「霊術的宗教」の中には、

意識的なると無意識的なるとを問わず、一種の催眠術暗示によって
信者を永久に自己の奴隷として屈従せしめてしまって
その宗教から脱退することに恐怖心を感じるに到らしめるものが多いのである。

しかし、かかる宗教は、その名称は「宗教」と云われるが、
一種の「人格侵害」又は「人格の独立蹂躙」を行うのであって、
それが宗教として甘んじてその横行が許されているのは、その取締当局が

「宗教とは、人間内在の神性、仏性を開顕して、大宇宙の生命と一体なるところの
無限性及び自主性を自覚せしめるものなり」と云う根本定義に想到せず

「医者以外の方法で病気が治るのが宗教だ」とか
「何でも《信ずる》ものが宗教だ」とか漠然と考えているから、
どんな事でも人を信ぜしめて人を集めさえすれば、
そしてその信じた人たちが運営する結社をつくって登記さえすれば、
直ちに宗教法人となると云うのであるから、

あらゆる心霊療法やプラナ療法や催眠術は「宗教」と登記して、税金をまぬがれたり
「信仰は自由なり」の標語の下に百鬼夜行の現状を呈するようになったのである。

しかし法人は登記によって成立するが、
宗教と云うものは登記によって成立するものではなく、
その内容によって成立するものだと云うことを知らなければならないのである。

 
すべての癒す力は自己に宿る「生命」から来るのであり、他から来るのではない。
他に頼るものは自己を視ないものである。

生命は自己に宿る神であり霊であり、物質ではないのである。
生命はその主観的道具として霊智心を、知性を、感情を、意欲を、
想念を、本能を使用し、客観的道具として肉体を使用するが、
その道具には色々の分限があるのである。

それらのものは道具としてある働きを有するが
「生命」がそれに働く力を与えないときには
それは何の働きをもあらわすことが出来ないのである。

それは主人公から食物を与えられないで餓死しているシェパードのようなものである。
然し「生命」がそれに動く力を与えている限りは、
これらの肉体や心はシェパードのように主人公(生命)と
独立した働きをあらわすことが出来る。


しかしこれらの「道具」であるところの肉体や想念が、
みずからの独立性のゆえに、主人公(神又は生命)を忘れ、
みずからを主人公の意識に反して動き出すことがあるのであります。

キリストが放蕩息子の例え話をもってしたのは主人公を忘れ、
自分の我の心で勝手なことを想念するこれらの「道具」のことを述べたのである。

道具が主人公の指導のもとに働かないで勝手気ままでいる限りは、自滅するほかない。
それが病気である。

すべての道具であるところの「心」及び肉体は
主人公(神の心、実相心)の前に無条件降伏しなければならない。

絶対無条件に従順に神の前にひれ伏してしまうとき病気は治る。
すべての病気は、「道具」であり「従僕」であるところの肉体や、
それを操作する色々の従僕たる「心」が、
神(生命)から離れて自治独立してしまった結果である。

従ってすべての病気は神の前に無条件に降伏し、
神の統治が完全に行われるようになったとき自然に消滅するのである。

それ以外に真に病気の根治する道はないのである。

シェパードがシェパードを呼び、路傍で拾った物質的又は精神療法と云う
食物を互いに分け合っている間は、主人公から食物を貰わないでも
兎も角も生きているように見えるであろうが、
やがては本当に主人公(神生命)から食物(生きる力)を頂かねば
生きられない時が来るのである。

そして主人公に無条件降伏するほかに道がないことを知るのである。
イエスは「しもべは主人の為すことを知らざるなり」と教えているのである。

 
神の「智慧」、神の「生命力」、神の「癒す力」以外のものに頼ろうとする心は、
それは宗教的ではないのである。

(無論医療を行っても神の智慧に導かれてその医療が行われるならば宗教的である)
精神療法も、心霊療法も、それが、人間神の子の自主独立の自覚を失わしめ、
神以外の他人又は他物に頼らねば生きることが出来ないと思わしめられるような姿で
行われるとき、それらの療法で一時病気が治ると云うことは、
自己内在の神の自覚を進める上からはマイナスだと云わなければならないのである。

 
人間は肉体が一時なおってもやがて肉体は死すべきものであるから、
一時的の功利で、自主独立の人間神の子の自覚を失わしめるようなことになると、
大変な損失になるのである。

物質的方法や、いかがわしい呪術的施法によって病気が治るなどの事は、
人間尊厳の自覚を、物質と暗示のまえに降伏せしめてしまったことになる。

 
キリストは「我を信ずるものは永遠に死なず」と云ったのである。
この「我」と云うのは二千年前ユダヤ人として生まれた
肉体イエスのことではないのである。

「自覚されたる我」すなわち「内在神性」の無限性を信ずる者は
永遠に死なないと云う意味である。

宗教の目的とするところは、
やがて死ぬ肉体を一時的のみに癒すと云うことではない。
「永遠不死の自己」を再発見せしめることであらねばならない。
この「永遠不死の自己」の再発見に伴う附随現象として、
肉体の病気も治るのである。

大体、宗教家のところへ来て「肉体の病気を治してくれ」と云うのも間違いであるし、
又、宗教家が「それではお前の病気を治してやろう」と云うのも変な話である。

キリストは「汝の生命(いのち)について思い煩うこと勿れ」と教えているのである。
「肉体のことについて思い煩うな。」
「何を食らい、何を飲まんと思い煩うことなかれ」
これが宗教であらねばならない。


「地上の生命(いのち)のことについて思い煩うな。」
このイエスの教えをそのままに受け入れたとき、念が解放されるのである。
念の解放によって「念の凝り固まり」によって起こっていた病気が消える。

治そうと思うものは、却って治らず、治そうと云う心さえも放ち去って
心が自在になったとき病気が《ない》のである。

 
人間は単なる「物質的存在」だと考えたり、
物質の中に心と霊とが宿っていると云う考え方は
人間の霊性の絶対尊厳を自覚しないことを暴露しているのである。
その霊的尊厳の自覚の欠乏が、あらゆる病気の原因となっているのである。

だから自己の全身を霊々妙々完全なる霊的存在だと観ずる
「生命の実相」の真理に徹底すれば病気が随伴的に治っても不思議はない。

併し「病気を治そう」と云う前提で、本書を読む場合には、
心に病気をとらえていて「この病気を如何にせんや」と
精神統一することになるから却って効果がないことがある。

私は諸賢がただ無我になって、「然り、然り」と頷くような気持で、
あまり小理屈を思い浮かべることなしに一応全巻を読誦せられんことを望むのである。

 
本書は約二〇年前に初版を出したものだが、
その間に無数の難治症が全快したと云う治験の礼状を受けた部分である。

実相は不変であるから今も書き直す必要を私はみとめなかった。

唯、記述中に出て来る人物の中には、境遇の変わった人もいるから、
「先日」とある所を「ある時」と直したり、「何々をしている人」とあるのは
「当時何々をしていた人」と云う風に直したりした。

が、そのほかには、最近の医学の発達と抗生物質の発見について
言及した点が全く新しいのである。

 
なお、「七つの光明宣言」は現在生長の家教団の宗教法人規則に
登載されているものとは多少異なるが、創刊当時の宣言を保存して置くことは
歴史的由来を明らかにする上に必要であるから、
当時のままにして加筆しなかったのである。

   昭和27年8月1日

    <『生命の實相』愛蔵版第一巻序にも輯録>

            <感謝合掌 平成31年4月1日 頓首再拝>

病気は心にあり、すべてを感謝の心に更え、報恩のために起て - 伝統

2019/04/10 (Wed) 03:41:47


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より

多くの病人にとって参考になるかもしれない手紙。


「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。

あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。

撲り合いはなさらないでしょう。
しかし、本当に満足していますか。
このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って
家族に感謝していられますか。

そうではないでしょう。
『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。

そんな心そのものが病気なのです。
病気は肉体にあるのではありません。
その心にあるのです。

右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。

そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか? 
とおっしゃるのですか。
やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、心の生まれ更わりができていませぬ。

不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。

すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。
もう病気はないのである。」

            <感謝合掌 平成31年4月10日 頓首再拝>

「本当の人間」は決して病んではいない - 伝統

2019/04/11 (Thu) 04:22:14


    *「光明道中記」(4月10日 幸福相(あい)踵(つ)いで来る日)より抜粋

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば縦横厚みだけの
三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、それは無限次元が三次元に
減ぜられただけであって、不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、
平面的存在の如く写真に写されているからとて、
その写真には健康者は健康として写っていると同様である。

ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、
間違が起るならば其処に映し出された写真に映像ムラが出来たり、
ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が現象界に三次元的存在として
写象(うつしだ)された場合に不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

            <感謝合掌 平成31年4月11日 頓首再拝>

病気はメッセージ - 伝統

2019/05/26 (Sun) 02:57:09


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018-06-25)より

   (トランスフォーメショナル・コーチ、梯谷幸司氏の心に響く言葉より…)

   私たちはそれぞれ、「生きる目的」を持って生まれてきます。
   つまり、今回の人生においてなしとげる「何か」を、各自が担っているのです。

   その何かとは、「人々や世の中に貢献すること」かもしれませんし。
   「人々を愛すること」かもしれません。

   「これまでにない『価値』を創造すること」かもしれません。

   そして私たちは、こうした自分自身の生きる目的に
   つながる活動をしているとき、幸せを感じます。

   本当の自分として生きていることに、充実感を覚えるのです。

   ところが、現実の社会では、
   そうした生き方をするのが難しい場合が少なくありません。

   社会生活を送る以上、私たちはある程度、
   社会のルールに従って生きていくことが求められます。

   社会からの要請に応え、社会から望まれる形で生きていくことで、
   「社会的自分」がつくられていきます。

   そして、その社会的自分と、自分の生きる目的が合致しないケースが多々見られます。

   たとえば、「俳優になりたい」「小説家になりたい」という夢があっても、
   まわりの大人たちから「夢だけで食べていけると思っているのか。
   安定した会社に就職しろ」と言われて反対されるのは、わかりやすい事例でしょう。


   人は誰しも、「生きる目的」に向かって生きていきたい欲求があるのは、
   前述した通りです。

   そのため、社会的自分と本当の自分との間に葛藤が生まれます。

   「社会からの期待に応えられる自分でなくてはならない」と
   懸命に思う人がいる一方で、ごくまれに社会からの期待をどこ吹く風で受け流し、
   本当の自分を貫く人もいます。

   しかし大多数の人は、社会的自分によって本当の自分を徹底的に抑えつけます。

   「そんなことをしたら、怒られる」
   「それだけの能力はないから、あきらめよう」
   「そんな進路では、まともに生活できない」…などなど。

   社会的な自分が、さまざまな思い込みやセルフイメージをつくることで、
   本当の自分が生きる目的に向かって生きていくことを阻止しているのです。

   とことん抑えつけられれば、
   抵抗や反乱が生じるのは、古今東西の歴史が証明しています。

   社会情勢と同じことが、人間の体の中でも起こります。
   
   それが「病気」です。

   社会的自分によって、自分の中の奥深くに封じ込められた本当の自分が
   「このまま生きる目的に向かって生きることが許されないなら、
   元気でいても意味がない」と、さまざまな病気をつくり出していくのです。

   これは、見方を変えれば、本当の自分からのメッセージともいえます。

   つまり、今の自分が生きる目的とズレた生き方をしていることを、
   本当の自分が病気という形を使って、教えてくれているのです。

     <『本当の自分に出会えば、病気は消えていく (単行本)』三笠書房>

               ・・・

梯谷氏は、病気を「敵」だと思っているうちは、病気はやめられない、
という(本書より)。

同じような病気にかかっても、それを確実にやめられる人と、
なかなかやめらないどころか、悪化させてしまう人がいます。

私はかれこれ30年近くコーチングやカウンセリングなどを通じて、
病気をやめる手伝いをしてきましたが、最近わかったのは、
両者を分ける一つの大きな違いとは、
病気を「敵」と見なしているかどうかだということです。

病気をやめられる人たちは、病気を敵と見なしていません。

もちろん、私とのセッションがスタートした時点では、
多くの人が病気を敵と見なしています。

ただ、病気をやめられる人たちは、セッションをつづけるうちに、
病気が本当の自分からの

「あなたは今、本来の『生きる目的』とズレた生き方をしているよ」

というメッセージだと気づいていくのです。

そして病気と向き合い、本当の自分と話し合いを始めます。

本当の自分に対して「これまで無視しつづけてごめんね」と謝罪し、和解していくのです。

この段階に至るとほとんどのクライアントは、
「社会的自分」に縛られることをやめ、
本来の「生きる目的」に向かって生きはじめます。

すると、気がついたら病気をやめられているのです。

では、病気を敵だと見なしつづけると、なぜ病気をやめられないのでしょうか。

敵ということは、闘う相手だということです。

そのため、敵である病気を倒し、根絶するための治療を選ぶ傾向があります。

たとえば、薬を大量に服用したり、がんであれば放射線治療を選んだり、
手術で切除したり、という具合です。

あらゆる手段を使って、病気のもとを自分の中から消したり、
切り離したりすることに懸命になります。

しかしこれは、本当の自分を無視したまま対症療法的な処置をしているだけで、
根本的な解決にはなりません。

そもそも病気は、封印されつづけた本当の自分が発する、

「存在に気づいて! そして、本当の自分として生きて! 」

というメッセージです。

そのメッセージを無視していては、いくら表面的な治療を施したところで
病気を根本的に消すことは難しいのです。

そのため、なかなか治らなかったり、
あるいはいったん治ってもすぐに再発してしまうのです。

草むしりで雑草を刈ったところで、根が残っていれば再び生えてくるのと同じですね。

病気が悪化してしまうのは、
自らの存在をあくまでも無視しつづけようとする今の自分に対して、
本当の自分が「それなら、もっときつい状況にして気づいてもらおう」
という働きをするからとも考えられます』

この病気を会社の経営と考えてみるとよくわかる。

会社の業績が悪くなってきたとき、そのメッセージに耳を傾けず、
今までと同じことをしていたら、会社はどんどん倒産の方向に向かう。

つまり、自社の、大切な価値観や、経営理念、行動指針やミッション、
などを忘れていないか。

それらを忘れて、逆に、無理な売上げ拡大をはかったり、
ギャンブルのような投資に手をだしたり…。

それらを、軌道修正しなければ、
どんどん業績は悪化し、ついには会社は存続できなくなる。

「病気はメッセージ」

病気を敵と見なさず、自分の行動を改め、本来の方向に向かって進みたい。

            <感謝合掌 令和元年5月26日 頓首再拝>

《病気は神からの電話である》 - 伝統

2019/06/19 (Wed) 04:51:42


          *「眞理」第9巻生活篇第13章(P353~354) より

「肉体」は、人間の主体である「霊」の道具であるから、
「肉体」が逆に主導権を握って「霊」の目的に背反するならば、
これは重大な反逆だと言わなければならない。

それは重大な倒錯でもある。

それでも「肉体さかんなれば霊に克つ」であって、
霊からの制裁がやって来ることはない。

制裁がやって来てもそれを撥ね返してしまうからである。

しかし「肉体」は物質であるから、それが「霊」からエネルギー補給が
なくなるとき、それは次第に消耗し、衰弱して来る。

そのときに「霊」は精神を媒介として肉体に反省を求めるのである。
それが病気の姿をもってあらわれる。

グレン・クラーク博士は「病気は神からの電話である」と
言っているのもそのためである。

外からの神は肉体に電話をかけるのではないが、
わが内にある「神の子」なる自分が、自己処罰を肉体に
加えて病気をあらわすことがある。

            <感謝合掌 令和元年6月19日 頓首再拝>

病気本来無し - 伝統

2019/07/22 (Mon) 03:32:36


        *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って死〇ばその病気は治っている。
                         『生命の實相』第八巻)】

              *○:ね

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている限りは、
心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が死んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 令和元年7月22日 頓首再拝>

超人を自覚すれば、病気は消える - 伝統

2019/08/11 (Sun) 04:54:24


          *「真理」第9巻生活篇第6章(P145~146)より
           ~《超人(スーパー・マン)を自覚せよ》

五尺何寸、十何貫の物質的肉体が人間だと思っていたところの
弱小な常識から超えましょう。

宗教は常識を超え、肉体を超え、自己の存在自覚を超常識の世界にまで
翔(か)けのぼらせ、あなたを超人たらしめるものなのです。

私たちの説く真理は単に「病人を治す治病宗教」だ
などと云うケチなものではありません。

あなたの自覚が超人にまで高まりますから、病気が消えるのです。
何よりも『生命の實相』の第一巻(携帯版では第一・第二)にある
実相篇をお読み下さい。

この部分があなたに最も超常識の超人的自覚を与えるために
書かれた部分であります。

また『真理』第七巻悟入篇をお読み下さい。

そして人間の実相が本来「神仏」であって肉体を超えた存在である
ことを理論的に把握なさい。

「病気を治そう」などと云うケチな考えを起して、
病気を心でつかんではなりません。

超人の自覚から自然に病気を超えるのです。
病気を超えたとき其処に病気はもうないのです。

         <感謝合掌 令和元年8月11日 頓首再拝>

症状は生命の活動、症状に感謝せよ! - 伝統

2019/08/22 (Thu) 04:19:26


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月22日)より

症状が生命の活動であって死の活動でないのは、
死んだら症状が無くなるので明らかである。

発熱や喀血や下痢や咳嗽(せき)を
病気の活動だと思うのは明らかに錯覚である。

いわゆるわれわれが「病気」だと思っているこれらのごとき症状は、
生活環境に抵抗または対応せんとする内部生命の活動の顕われであって、
「病気」そのものではないのである。

されば賢者は症状に感謝し、発熱や喀血や下痢や咳嗽が起こるごとに、
内部生命の、かほどまでにして自分を生かそうとしている努力に
感謝するのである。

      <感謝合掌 令和元年8月22日 頓首再拝>

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