伝統板・第二

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谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑥ - 夕刻版

2017/01/13 (Fri) 18:58:25

《神想観から立つ“いのち”》

              *『生長の家』(40年新年号、福島正俊)より

元住吉神社の社前に坐して祈る時、いつも反省させられるのは、
自分にはまだまだ、力みがあることだ。 

人類光明化運動、 などと言って力んでしまっては、もう人はついてこられないのである。 
自然に、淡々として行じきってゆくところに偉大なる力があるのだ。 

それにはやはり 『神想観』 を行じなければならない。

力むのは相手の欠点をつかむからである。 
相手の欠点をつかんで伝道をやっても、神の “いのち” はあらわれない。 
伝道とは、人々を拝む行なのである。 

理窟をかなぐり捨てて相手の “いのち” を拝みきるのである。 
拝みきったとき、自分の “いのち” が相手に伝わって、
相手の “いのち” とピタリと一つになるのである。 

これが伝道である。

伝道は生命の礼拝の直接体験である。 
伝道にたつと、理窟で人を拝もうなどと考えているのが、
かなぐり捨てさられるのである。 

だから伝道にたつと謙虚な心になるのである。 
そこがどうしても拝まなければならない場であるからだ。

職場において、本当に職場の人々の “いのち” を拝みきっているか。
本当に拝みきっているか、特に思想を異にする職場ではともすれば対立の心がおこりやすい。 

だからますます 『神想観』 が大切になってくるのである。

『神想観』 から立つ “いのち” になって始めて
周囲の人々に貴い御教えを納得させることができるのである。 
伝道は先ず職場から、家庭から始めなければならないのだ。 

徒らに法則によって人を批判してはならない。 
法則による批判は相対の世界にたつもので厳としていましむべきである。 
法則は “いのち” のあらわれんがための自壊する姿なのであって、
軽々しく口にすべきものではない。 

あくまでもいついつまでも “いの”ち をみつめ、 
“いのち” のあらわれんことを祈る、これが 『神想観』 なのである。

この 『神想観』 を行じきってこそ祖国は救われるのである。 
祖国が救われる、とか祖国を救うなどの言葉自体がもう、相対の言葉である。

祖国の “いのち” を生きるのだ。
唯々生きぬいてゆくのだ。

これからは、いろいろなことが起る。 
祖国の内外にいろいろなことがおきてくる。 

この中で吾々は 『神想観』 の中から立つ “いのち” を
生きて生きて生きにてゆくより他に道はないのである。

光明化実践行動隊が結成されたが、この隊の根本は、何と言っても 
“いのちの自覚” 以外にはないのだ。 
“いのち” が自覚されたとき自然に行動となってあらわれているのである。

吾々は今、街頭伝道にたっている。 
それは止むに止まれぬ “いのち” の自覚からである。

今日一日、本当に 『神想観』 を生ききったか。 
『神想観』 を行ずるのではない。 
『神想観』 を生ききるのである。 

行するのはまだ手ぬるいのである。 
『生長の家大神』 よ、我れを導きたまえ。 
一日一日が真剣なる 『神想観』 だ。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24592030.html より転写)

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59 


(2)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105


(3)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」②
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458658


(4)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」③
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6582228


(5)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」④
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6691070

(6)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑤
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6819394

          <感謝合掌 平成29年1月13日 頓首再拝>  

人工受精で生れる子供 - 伝統

2017/01/18 (Wed) 18:08:02


           *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-08-01 14:)より

生長の家に於いて、いろいろの奇蹟が現れると言うのは、
いままで釈迦キリストだけに起る特殊現象だと認められていたところの出来事が、
決して特殊現象ではなくて、凡ての人間がそれなんだと言うことを
万人に知らせるからであります。

 
それは吾々が受胎するのは、卵(らん)が母親の卵巣から喇叭管の中に降りて来る。 
それに夫の精虫が入って行って結合する。 
そして受精した卵(らん)が子宮へ降りて来て妊娠するのであると言うことに解釈されています。

これは子供が出来る手続きの物質的観察であるのであります。 

併しそれは妊娠する場合の生理的手続きであって、妊娠の本体ではないのです。 
何故なら、精虫と卵子とが結合したら、必ず人間になるかと言うと
決して人間にはならないのであります。 

それは或る化学変化は起るかも知れんけれども、
必ずしもそれが人間にならないのであります。

いくら生殖細胞が増殖しても、それは葡萄状鬼胎になったりします。 
そこに神の霊が天降って来て、そして初めてそこに 「聖霊の受胎」 
と言うものが起って、増殖する細胞が人間の理念に支配されて、
人間の形に生長した人が生れると言うことになるのであります。


近頃人工受精と言う事が時々話され、その成功した実例があげられることが
ありますけれども、人工受精によって生れる子供の数は、非常に少ないのであります。 
此の問題は 『生命の實相』 の第5巻に多少言及されているのであります。

大体夫婦が結合しますと、その時に “愛情の霊的波動” と言うのが起り、
その波動が、宿るべきところの霊魂を呼び寄せて、
そこに受胎と言うことが行われるのであります。 

だから幾ら物質的に卵子と精子とが結合いたしましても、
そこにそう言う聖霊の受胎と言うものがなければ、物質だけが結合しても、
決して、妊娠現象は起らないのであります。

『生命の實相』 の第5巻の中に、こう書いてあります。

「人工受精によって生れるところの子供は、往々にしてあるけれども、
それは概ね高級霊であって、性交時の愛情の霊的波動によって、
盲目的に引きつけられて受胎する霊魂ではなく、

そこに人工受精と言う事が行われると言うことを知って、
特別にそこへ生れようと欲する霊魂が意識的にそこに受胎して来るのである。 

併しそう言う実例は少ないのであるけれども、絶無ではないのである」

と書かれているのであります。


ところが普通の受胎の場合には、特殊の高級霊を除いては、
意識的に自分が宿るところの母親の胎内を選んで入って来ると言うことがないので、
無意識的に引きつけられて、ラジオの波がラジオ・セットに入ってくるように、
波長の牽引によって受胎してくるのであります。 

すなわち、普通に受胎して来る霊魂は霊界で眠っているままに、
地上の夫婦の愛情の霊的波動が起った時に、無我夢中でその霊的波動に呼び寄せられて、
そこに受胎をすると言うことになっているのであります。

だから普通の霊魂は、眠っている間に胎内にやどる結果、
前世に自分が霊界で何をしていたかの記憶が全然ないのです。 

随って、霊界の話をしても、それを信じないのであります。 
ところが高級の霊魂は、意識して胎内にやどって来ますから霊界の記憶が、
とも角、おぼろげながらにもあります。 

従って、現世に生れてから霊界の存在の話を聞いたら、直ぐ 「成る程」 
と信ずるようになるのであります。

人間が、単に卵子と精子として結合して生れるのであったならば、
母親の胎内も要らんことになります。 

試験管の中に卵子を入れて、そこへ精虫を入れて結合させる。 
そして人体を造るのに必要なところの成分をそこに全部入れて、
一定の温度にして置くとそれが人間になるか、と言う問題が起るのであります。

併しそれは絶対に人間にはならんのであります。 
それが若し出来たら、これは素晴しいことであって、
私の人生観も変えねばならぬことになるわけですけれども、
それは決してそうはならんのです。 

いくら試験管の中で卵子と精子とを結合させても、これを人間の胎内に入れて、
そこに “神の霊” が宿って来なかったら、人間にはならんのであります。

「人間」 は結局、“神の霊” が天降って来たものであるからです。 

そして卵子とか精子とか言うものは人間を生み出すための一つの材料であって、
この両者が結合すると、そこに “神の霊” が天降って来るところの 「場」 
即ち “フィールド” が出来、その「場」にあるところの栄養分をその神霊が 
「人間」 なる理念の形に “いのち” の波動の力によって配列して並べるのであります。

こうして一定の人間の容貌を持ち、一定の生理的組織を持った人間が
そこに生れてくると言うことになるのであります。


    昭和33年3月号 より

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/64bd2d0279b8f5dd84a650cdc3650d2c


          <感謝合掌 平成29年1月18日 頓首再拝> 

真理を知る時、吾々は神の恩寵を見る - 伝統

2017/01/23 (Mon) 18:56:22


              *『生活改善の鍵』 より

          
もし吾々が欠点を拾い上げてそれを問題にする心があるならば、
欠点はいくらでも自分の目の前に現れて来て自分の魂を掻き乱すより仕方がないのである。 
それは 「類は類を呼ぶ」 の法則によってそうならずにはおれないのである。 

それはどこに吾々が生活していようと、誰と生活していようと
如何なる仕事をしていようと、結局は 「類は類を呼ぶ」 ことになるのである。 

自分の目の前に何か不完全なことが現れて来るのは、
結局自分自身の中にそれと同じものがあるからである。 

もし吾々が豊かな、調和せる、楽しい生活を欲するならば
不完全を見ない心にならなければならないのである。 

不完全を一つ一つ見つけてそれをとりあげている限りは、
その不完全さはいくら捨てても捨ててまだ新しいものがでてくるのである。

もし吾々が他をさばき、他に憤激し、他を誤解して悪く考えることがあるようでは
吾々の住んでいる環境はますます紛糾するばかりである。 

なぜならその人の心は天地一切のものと和解していず、
批評や憤激や誤解等によって、凡ゆる人と凡ゆる事物とに対立的な関係に立つからである。 

そして何かこの世の中に害を与える不調和な存在があるのだという信念を
ますます強めることによって、その信念の反映として不調和の現象はいよいよますます
吾々の周囲に現われて来るのである。


これを避けるためには、吾々は真理を知らなければならない。 
ただこの世界には神と神の子のみとが存在する、という真理を知る時吾々は
凡ゆる人々の中に観世音菩薩の示現を見、凡ゆる環境に神の恩寵を見ることができるのである。 

この心境に立到った時に於いてのみ、
吾々は凡ゆる人と事物と環境とに対してしばられない所の
完全なる自由を獲得することができるのである。

クリスチャンはこれを 「愛」 といい、仏者はこれを 「慈悲」 という。 
愛と慈悲のみが自分自身を完全なる自由にまで解放することができるのである。 
愛とか慈悲とか必ずしもセンチメンタルに人の欠点に同情することではないのである。 

それは欠点に気がつかないで、ただ美点のみを見る事ができる心である。 
悪をどうこうするのではなくして、「悪を見ない」 のである。 

不完全なものは自分の前に現れたと見える瞬間、それを追放する事である。 

その 「悪想念」 に立ちのきを命ずることなのである。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/eff7c68cae4fcdeb6a940cbbd53cc04b
         
          <感謝合掌 平成29年1月23日 頓首再拝>  

宗教指導者となるべき者の心構え - 伝統

2017/01/27 (Fri) 18:24:51

宗教指導者となるべき者の心構え  ―  菩薩の二つの相


             *『維摩経解釋』544頁 ~ より 


釈尊が続いて仰せられるのには、
「弥勒よ、よく知れよ。 菩薩に二つの相がある。 
その二つとは何であるかというと、

第一の相の菩薩というのは、色々の美辞麗句を好むのであって、
経文の美しい文句を暗記していてそれをよく復誦したりすることができる。 
しかし、その深義に到達することができないのである。 

このようなものは是を 『新学の菩薩』 というのである。

 
ところが菩薩のもう一つの相の者はどうかというと、
このような煩悩の染著のない甚深の経典の深い意味に畏るるところなく入ろうとし、
しかも、間違うことなく、経典の説こうとする実の意味によく入ることができ、
その経を聞きおわって心浄まり、その意味をよく受け持ち常によく読み復誦して、
経文の教えるごとく修業する。 

このような菩薩は 『久修の道行』 を修する菩薩と称せられるのである。」


 【弥勒復二法あり、新学の者と名づけ、甚深の法を決定すること能わず、何等をか二と為す。 
  一には、未だ聞かざる所の深経、之を聞いて驚怖して疑を生じ、随順すること能わずして、
  毀謗して信ぜず、而も是の言を作さく、我れ初めより聞かず、何所よりか来ると。 

  二には、若し是くの如きの深経を、護持し解説する者あるも、肯て親近し、供養し、
  恭敬せず、或時は、中に於いて其の過悪を説く。 

  此の二法あらば、当に知るべし、是れ新学の菩薩なり、
  自ら毀傷を為して、深法の中に於いて、其の心を調伏すること能わず。】


釈尊の御言葉の続きであります。 この場所に書かれている 「二法」 というのは唯漠然と 
「二つの‘もの’」 又は 「二つの状態」 というような意味であります。 

「斯ういう二つの状態が菩薩にあるならば、
その菩薩は新学の菩薩であって大した菩薩ではないぞ」 
と菩薩の心境の見分け方を教えられたのであります。

 
「第一には、未だ聞いたことのない深い真理を聞いて吃驚仰天して疑の心を起し、
その真理を受けて素直に随うことができないで、それを攻撃したり謗ったりして信じないで、
しかも 『あんな真理は何じゃ。 僕はあんな真理は初めから聴きたくない。 
あんな教え一体どこから来たのじゃろ』 などと空うそぶく種類の菩薩である」 
と釈尊の仰せられているところに私たちは大いに傾聴しなければならない教訓がある
と考えられるのであります。

私たちが人々の体験談をきいていても、自分の尺度だけでその体験談の価値をはかって、
あんな体験談はつまらん、聴きたくない。 あんな信者どこから来たんじゃろ。 
わしはあんな詰らん体験談ははじめから聴く値打がないからきいとらんなどと
言う人がありますが、

斯ういう人はいくらその人が誌友になってから古くとも 
『新学の菩薩』 だという訳であります。

 
本当に深い心境に達した菩薩は、どんな人の体験談をもおろそかには聞かないのでありまして、
一木一草からでも深い真理を受取るのでありますから、どんな小さな体験談でも
そこから深い真理を汲みとろうとして熱心に傾聴するのであります。

 
「もう一つの 『新学の菩薩』 の特徴というべきものは」 
と釈尊は仰せられたのであります。 

「此のような深遠なる真理を護持し、よく解説する者があっても、
なかなかそれに近づこうとせず、たまに近づいたかと思うと、
あの教えのなかには斯ういう間違いがあるなどと、悪をわざわざみとめて、
その教えのよいところを素直に受けようとしないのである。


これら二つの部類に属する菩薩はたとい深い真理を信じ且つ了解していても、
みずから自己毀損を行って、深い真理の中に浸っていながら、自分自身の心を調え、
悪を克服することができないものである。」


続いて釈尊は、

「弥勒菩薩よ、また二つの状態の菩薩がある。 
菩薩の境涯にありながら深い真理を信じ理解はしているけれども、
なお自分が自分を縛って、自分自身を毀け、
一切現象本来無生のサトリに入ることができない人たちである。 

その二つの状態というのは、新しく真理に志す菩薩を軽蔑して、
自分が慢心して、よくよく彼らを深切に教え誨してやることをしない者だ。 

他を軽蔑して毀けることは、自分自身のサトリを毀けることになるのである。

 
もう一つの状態は、みずから深い真理を信じ理解していながら、
実際問題になると、現象の形にあらわれている状態にとらわれ、
色々と差別の見解を起こしたりする。 これが自分自身のサトリを毀ける二つの状態である。」

 
こういって釈尊は指導者となるべき者の心構えの注意を懇切にせられました。

     
http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/f1d649b3051af3649c212daef9d198e0?fm=entry_awp_sleep


          <感謝合掌 平成29年1月27日 頓首再拝>  

生長の家の念願 - 伝統

2017/02/15 (Wed) 18:17:25


         *『生命の實相』 第1巻 総説篇 より

人間の念(こころ)は幼ければ幼いほど、まだ一定の習慣性を備えていませんから、
善い方へでも悪い方へでも環境に感化せられやすいのであります。 

これを悪い環境のうちに放っておけば不良少年少女となるべき者も、
幼いときから生長の家式に、 愛 と 信 と 讃嘆 との環境において感化を受け、
事物の明るい方面に心が向くようになっていれば、

彼らのたましいは健やかに伸び伸びと発達しまして、
ひねくれた厭味な性格や、人を苦しめることで自分の快感や利益をえよう
とするような卑劣な性格は影を潜め、

これらの少年少女が成長して社会の中堅となって行くころには、
人類がこの世界でつくる悪業もよほど減ってゆき、
地上に天国建設の理想実現にだんだん近づいてくるに相違ないのであります。


生長の家が、聖典の 實相篇、光明篇、生命篇、観行篇等によって
人間の肉体を健康化する道を説き、「生長の家の生き方」 によって
生活を光明化する方法を指導するほか、

さらに 「生長の家の教育法」 によって人間を若芽のうちから、
その神性を発揮せしめ、天才を伸ばさしめようとしているのは、
地上の天国建設を子供の生長と共に生長せしめたいと念願しているからであります。

 
存在(ものみな)の実相を円満完全なりと認むるこの 
「生長の家」 の人生観と、生活法〈生長の家の生き方〉 と、
児童教育法 〈生長の家の教育法〉 とが全世界を風靡するようになれば、
その時こそ地上天国の成就せるときであります。

そのときにはメタフィジカル・ヒーリングによってこの世に病なく 
「生長の家の生き方」 によってこの世に苦悩なく、
「生長の家の教育法」 によってすべての人間はその子供の時から
神性の発達を妨げられないで、皆そのもって生まれた天才を発揮することになるのであります。

こんな世界がいつ来るかは初期に 「生長の家」 に集ってくださった
熱心な同志または誌友の尽力にまつところが多いのであります。 
しかし何事も生長は徐々でありますから今はその第一歩からはじめてゆかねばなりません。

「生長の家」 で最初に天国建設事業として手を出そうとするのは、
やはり正しい人生観と、正しい生活法と、正しい教育法とを出版物によって
人類に知らせることであります。 

本書が出版されたのも、地上天国建設事業の一端でありますが、
この人生観、生活法、教育法を実地におしえる学校のようなものも、
「生長の家」 の誌友たちによって生まれて来るに相違ないのであります。 
すでにその芽生えは所々に生えかかっています。

 
ああ、人生はなんという喜ばしさだ! 
わたしは諸君とともに手をたずさえて、
この善き事業が大きくひろがる日のために尽したい。

     (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/19440c136f2118ce0d9a4b1292771409


          <感謝合掌 平成29年2月15日 頓首再拝>  

死ぬ権利、殺す権利 - 伝統

2017/02/22 (Wed) 18:49:01


           *谷口清超先生著 『父と母のために』(133頁 ~ )より
 
死ぬ権利とは何か ― 
先頃、アメリカのインジアナ州の最高裁の判決が、
世界中の父母に、大きな衝撃を与えました。 

というのは、重症のダウン症候群と診断された、生後1週間の男の赤ちゃんに、
“死ぬ権利” を認める判決を出したからでした。 

このため病院ではこの赤ちゃんの手術 〈食道の奇形など〉 を中止し、
授乳や栄養補給もとりやめ、自然死を待ち、ついに死なせたのでした。

これに対してインジアナ州を中心に賛否両論が巻き起こったのは当然で、
カナダのローレンティさんなどは、この赤ちゃんを養子にもらって育てる申し出を出した
といわれています。 

これに対してこの赤ちゃん 〈ドーちゃん〉 の両親の弁護士マロー氏は、
“この両親は赤ちゃんを‘愛している’からこそ、このつらい決断をした。 
両親はこの判決に従うため、いっさい報道陣など外部との接触は望んでいない。 
勇気を奮い起こした決断である” と言ったのでした。 
〈『讀賣』 昭和57年4月16日夕刊より〉

 
しかしこの場合とても疑問に感ずるのは “死ぬ権利” という言葉です。 
もしそういう言葉を使うなら、赤ちゃん本人に “あなたは生きたいか、死にたいか” 
と聞かなくてはなりませんが、勿論赤ちゃんの意志なんか確められるはずもありません。 
だから当然赤ちゃんの父母がどうするかを決めるのでしょう。 

しかしそれは “赤ちゃんの意志” ではなくて、あくまでも両親の意志です。 
だからこの言葉は “死なせる権利” とか “殺す権利” ということになるはずです。


では赤ちゃんがダウン症にかかったら、その父母が “死なせる” ことができるか。 
つまり “殺せる” のかという問題です。 

一体ダウン症候群はどんな病気かというと、先天性疾患の一つで、
染色体の異常によって起こるとされています。 

生まれてくる赤ちゃん千人に対して1・5人くらいの割で発生し、
智恵遅れになったり、心臓などがよく奇形を起こすとされています。 

しかし必ず死ぬのではなく、やり方によってはいくらでもよくして
社会に送り出すことができる病気です。 

だから日本にもダウン症の子供を持つ親で作った “子鳩会” という会があって、
4万人の患者さんにつき5千7百人の会員がいるということです。 
〈前同 『讀賣』 より〉

その他、性染色体が一つ多いとか、精薄児の中の1割ぐらいがこの病気によるとか
いうことも特徴のようですが、症候としてそうきついものでもなく、
これからの治療次第ではいくらでもよくなる可能性もあるでしょう。 

でなければ、現代医学の発達も、1982年をもってストップするときめてかかって、
“殺す” ことを決定したのでしょうか。 そんな馬鹿な話はないのです。

もしこれが正当な判断ということになると、単にダウン症ばかりではありません。 
全ての先天性の病気を持った赤ちゃんは殺されることが可能となる。 
すると “胎児” は、勿論殺されても仕方がないということになるでしょう。 

そんなことをするのが果たして “父母の愛” であるかどうか。 
それはむしろ、父母の愛というようなものより、
“父母のエゴ” といった方がよいかもしれません。 

何故なら、こうするのが一番 “つらくない” 方法だという判断もありうるからです。

父母の中にはとかく愛と称して、自分のエゴを子供に押しつける人がいます。 
いかにも理屈が通っているようですが、何となく “屁理屈” のように思えるのです。 

そんな時、子供は必ず反抗します。 
そのこと自体に反抗できなければ、別の問題で反発するでしょう。 
それは親のエゴがカムフラージュされていることを、敏感に感じとっているからです。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/c597a9a2ceac0404121c80357320db33

          <感謝合掌 平成29年2月22日 頓首再拝>  

『生命の實相』 を経営に生かす - 伝統

2017/03/04 (Sat) 18:35:27


          *『精神科学』誌  昭和59年2月号 より
            ~ 江 上  修 三

なぜ、『生命の實相』 が沢山の産業人の間で読まれるのでしょう。 
なぜ、企業人、経営者の自己啓発の参考書として読まれるのでしょう。 
なぜ人材開発や企業の活性化のテキストとして親しまれているのでしょう。

ここには、私たち一人一人の生命の本当の姿、実の姿、本質が
あますところなく解き明かされいるからです。 
これを読んで自己の無限の可能性と偉大さが自覚できるからです。 

また、この 『生命の實相』 には、宇宙の生命の創造力と、
その無限の働きの内容がわかりやすく書かれています。 

私たちの生命の創造力は、実は宇宙大生命の創造力と一つなのです。 
宇宙大生命 〈神の生命〉 の個性的自己顕現が私たち一人一人の生命なのです。 

この生命の偉大さを自覚し、生命の創造原理を生かすとき
私たちは創造性あふれる生活と仕事が出来るようになります。

また、『生命の實相』 には生命に関する一切の真理、生命円満完全の真理と
その生かし方が書かれていますから、あらゆる人生問題解決の鍵があります。 

ものごとには、みんな原理原則があります。 
「汝ら、真理を知らざるべからず。 真理は汝を自由ならしめん」 
と聖書にありますように、真理を知らない無知のために起った困難や迷いや不調和や問題は、
真理を知ることによって、無駄なく解決されるのであります。

この 『生命の實相』 の真理を企業や職場や経営に生かすとき、
無限供給の真理、無限繁栄の真理となるわけであります。


(1)『生命の實相』 を愛読して、自分の生命の本質と無限の可能性を悟れば、
   すばらしい仕事が出来ます。

   アイデア社長といわれた市村清さんも、また松下幸之助さんも、
   かつて 『生命の實相』 にふれた方です。 
   近くは京セラの稲盛社長さん、またソード電算機の椎名社長さんも 
   『生命の實相』 の賛同者です。

(2)『生命の實相』 の中に伝授されている宇宙大生命と一つになる
   瞑想法なる 神想観 を毎朝夕実修することによって、
   私たちの個生命と宇宙大生命と一体融合の境地が開けます。 

   そして、宇宙大生命の創造の本源世界に意識的につながることが出来ます。

   ここには、地上の現実界に生み出され顕現してくる、
   一切のアイデアとエネルギーがあります。 

   それにつながるとき、豊かなアイデアマンになり、
   神なる宇宙大生命から豊かな生命力を受け、
   疲れを知らないエネルギッシュな仕事が出来ます。

(3)『生命の實相』 の真理をよく勉強しますと生命の創造の法則がわかります。 
   即ち、神なる宇宙大生命は自己黙想によって天地万物を創造されました。 
   従って人間は思うこと 〈心に思い描くこと〉 によって、あらゆるものを創造します。

   これによって私たちは必要なものを実現することが可能になります。 
   従って、繁栄も富も仕事の完成も事業の成就も思うままになります。

(4)『生命の實相』 を勉強しますと、人間は神の子であり、
   神の無限の可能性を地上に実現するのが使命であるとわかります。 
   人間は神であるから、尊敬され、拝まれたいのです。 

   そこで、人はどこに集まるのか、人は何を買いにくるかがわかります。 
   人の魂の願いを知れば、人の心の流れがわかります。 

   人の心の流れに従ってお金も物も動くことを知れば、
   魂のマーケッティング、人の心の願いのマーケッティングが出来ます。 
   これに応えてあげられる商売は何時までも栄えるということになります。

(5)『生命の實相』 をよく勉強すれば、富の本質が 
   “人のお役に立つアイデアの実践と人のお役に立つ働きが富にかわる” 
   ことがわかります。

   富の本質は人を幸福にするアイデアと愛の働きだとわかれば、
   神の愛を実践するという仕事を通して宇宙繁栄の流れに乗って企業活動し、
   無限に栄えることができます。

(6)私たちの一切の運命は私たち自身の責任であります。 
   私たちは如意自在の生命の創造力を神から与えられています。 

   その如意自在の生命の創造力とは宇宙の生命力であり、
   それを善用するのも逆用するのも私達の心の思うこと、語ること、見ることの
   自由にあります。 この自由によって、ふやすこともへらすことも出来ます。

  (イ) 見るものがふえる   (ロ) 語ることがふえる
  (ハ) 思うことがふえる   (ニ) 認めるものがふえる
  (ホ) 讃嘆するものがふえる (ヘ) 拝むものがふえる
  (ト) 感謝するものがふえる (チ) 愛するものがふえる
  (リ) 受入れるものがふえる (ヌ) 肯定するものがふえる
 
   この反対をすると、みんな減って行きます。 
   それは富でも愛情でも人間関係でも、能力でも、仕事でもお金でも、
   あらゆることにあてはまります。

   『生命の實相』 を毎日読んで、自らの 「生命の実相」 のすばらしさを
   自覚するとき、あなたは無限の繁栄能力を我がものとすることが出来るのです。

(7)『生命の實相』 を毎日読み続けるとき、あらゆる能力が開きます。


   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/484881c3d63667e28f7df8b912075289

          <感謝合掌 平成29年3月4日 頓首再拝>  

生長の家の講師たる者、『生命の實相』に直接触れ随え - 伝統

2017/03/07 (Tue) 18:28:28


          *『ヨハネ傳講義』 はしがき  より

何故、現在の概くのキリスト教会では、
イエスが行ったほどの奇蹟を実演することができなのであろうか。

イエスの此の言葉をキリスト教会の人たちは、
ただ空言だとして信じないのだろうか。

イエスの言葉を空言として彼らが信じないのならば、
彼らは既にキリストを信じないものである。

キリストを信じないのならば、
何故「キリスト教会」と称う門標を掲げるのであろうか。

またキリストを信ずるならば、
「我を信ずる者は我がなす業をなさん、かつ之よりも大なる業をなすべし」 
と云うキリスト自身の証言を何故生活に実演することができないのであろうか。

それは、「キリストを信ずる」 と称しながらも、
キリストの教えを歪めて信じているからにほかならないのではないだろうか。

真にキリストの教えを歪めないで信ずるならば
キリスト以上の奇蹟を実演し得なければならない。

   〈中略〉

私は、磔けに釘けられて後復活したキリストが、ペテロと食事を共にしたのち、
「汝この者どもに勝りて我を愛するか」 と三度繰返してたずねられる処に至って
滂沱として涙せずにはいられなかった。

「わが汝を愛する事はなんじ知り給う」 とペテロが答えると、
イエスは 「わが羊をやしなえ。 ・・・ われに従え」 
と仰せられているのである。

名称がキリスト教徒であるばかりではなく真にイエスの魂に触れ、
イエスに従う者のみが真にクリスチャンであるのである。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/5167945b832b3b45848ec0f4c504c514 )

          <感謝合掌 平成29年3月7日 頓首再拝> 

『天地八紘は人類兄弟の家庭なり』 - 伝統

2017/03/08 (Wed) 18:37:03


           *『生長の家』(昭和35年1月号)より


生長の家の人類主義は、普遍なる神性が、
特殊なる日本国土に、特殊なる日本民族として顕現したことに、 

『天』 の御意志をみとめ、普遍的神性による人類兄弟観を失わざると共に、
普遍者の特殊的顕現として吾らが日本国土に日本人として生れたる光栄と使命とを
充分に自覚し、日本人としてこの国土に誕生したることを悦び、

日本民族の特殊性と、二千六百年来吾らの祖先が築き上げて来たる日本民族
及び国家の伝統を尊び、その特殊性と深遠宏大なる伝統を護持し、 
『特殊』 を抹殺することなくして普遍を生き、

日本国家と日本民族のその特殊性ある発達を遂げることこそが、
同時に人類社会に新たなる価値を加えるものであることを信じ、 

『天地八紘は人類兄弟の家庭なり』 との世界国家モデルとしての
神武建国の理想を宣揚実現するために尽すことが日本民族としての使命である
と信ずるのである。


生長の家人はこの方向にむかって地上天国建設のために実際運動を起すべきであって、
決して、自分一個の病気が治ったらそれでよいとか、
家庭が調和して経済状態が楽になったからそれでよいとかいう風に、
個人だけの福祉の上に晏如(あんじょ)してあぐらをかいていてはならないである。

実際生長の家の真理を悟れば、病気は治る、家庭も調和する、経済状態も豊かになる、
台風にも洪水にも‘めげぬ’不死身無限の内在の神性を自覚し得る。 

しかしながら、その自覚を他に及ぼすことがなければ、
折角生長の家で受けた恩沢(おかげ)も
ただ利己主義満足の道具になったに過ぎないのである。


今や、地球一周期の終りが近づき、
遊星人がどの人を救うべきか監視している時代だと言われている時代である。 

それゆえに私たちは、この生長の家の説く真理をただ利己心満足の資料にする
だけであってはならないのである。 

講演会、座談会、街頭宣伝、民族意識を通しての人類光明化運動としての
国旗掲揚運動、日の丸行進、気の毒な人たちのため
及び光明化運動のための慰問及び募金、天災救援及び光明拠点建設のための作業奉仕活動、
マスコミの左右いずれへもの偏向を是正するための批判活動及び投書活動等々 ・・・・・ 
私たちの為すべき仕事は山積みしているのである。

    (http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/1467 )

          <感謝合掌 平成29年3月8日 頓首再拝> 

「生長の家出現の真意」 - 伝統

2017/03/09 (Thu) 17:58:49


         *昭和38年全国代表者会議御結語 より

ありがとう御座います。見渡す限りなつかしい顔 が沢山並んでおられます。
よく来て下さいました。ありがとう御座います。

さて、講師の文科会で決定されました内容の中に、

「人間神の子、肉体は無い、物質はない」ということを徹底的に
よく分かるように教えるというのが、講師の使命であるという話がありましたが、

もう少し、それに付け加えておきたいと思うんであります。


それは「人間神の子の教えをしている宗教は、沢山あるのであります。
それは『ひとのみち』でも人間神の子といっており、
特に終戦後の『ひとのみち』今のPLは生長の家の教義の殆ど全部真似をしておりまして、
「人間は神の子」であるといい
「肉体も環境も心の影」は我象といって我の形が現れているというように説明している。

そういうわけですね。


それでは生長の家もPLも同じ事ではないかということになる。


それは万教帰一だから、根本は同じだけれども、
しかし、それではどうして生長の家でなければならないかとう事をですね、
本当にそれをつかんで頂かなかったんら、キリスト教の教えでもいいのであって、
生長の家に来る必要がないのである。


「一切衆生仏性有」だから、仏性が宿っておって、人間仏の子である。
それでいいのであってですね、尤も祖先の宗教を止めろというのではないけれども、
祖先の宗教をやりながら、どうしても生長の家になっていなければならないという、
そこをつかまなければいかんと私は思うんです。

あの安保改定問題の時にあらゆる宗教が安保改定に反対したのであって、
その中でですね、はっきりと、安保賛成にあれだけの力を結集して、
おそらく生長の家の「赤旗か日の丸か」というあの運動によってですね、

国会を取り巻いた精神力を粉砕する事ができたのは、
生長の家の直接または間接的な影響であると私は思うのであります。


そういうふうなことが生長の家にできるのは宗教のくせに、
どうしてそういう運動ができるかと言うことは、それは、
生長の家の神様なる方は誰方であるかというその問題になるわけなんです。


“人間神の子”を説く宗教は他にもある。
“肉体も環境も心の影”と説く宗教もある。
万教帰一だから根本は同じである。

だがそれでは、特に何故生長の家が出現したのか、生長の家の神は住吉大神である。
その住吉大神が、なぜ今ここに、日本の国土にこの時期に顕れ給うたのか。

そこが非常に大切なところである。
『古事記』に示される如く、住吉大神は天照大御神の御誕生の直前に顕われられた。
最後の宇宙浄化の働きとして、宇宙の大神が住吉大神と顕われ給うたのである。


天照大御神の御誕生とは、日本の実相の誕生ということである。
日本なるものの魂が具体的に宇宙を照らす光となると云うことである。 
この直前に、最後の浄化の働きとして住吉大神が今ここに顕われ給うたという、
ここに生長の家出現の真意があるのである。


ただ単に、人間は神の子であり、物質ではない。肉体は無い。
病気は治ると云う、それだけの事ではないのであって、

天照大御神の光が宇宙に天照らすべく、天皇陛下の御稜威(みいつ)を発現せしめて、
日本の国を救い、世界を救うと云うところに、生長の家出現の本当の意義がある。


従って単に、個人の救いにとどまらず、宗教的自覚をおし進めて、
国家の成仏、人類全体の成仏、宇宙の成仏と云うところまで行かなければならない
のであって、その一つが政治活動なのである。・・・

 (http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/44108545.html )

               ・・・

人間神の子、病気なしだけが生長の家の特色ではない。

宇宙浄化の最後に現れられた住吉大神が生長の家の大神であること。

即ち、住吉大神が、日本において、生長の家においてお現れになったのは、
生長の家こそが日本の実相を顕現する唯一の宗教であるということである。

従って、日本人である限り生長の家に入らざるを得ないのである

 (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/4176bd3f442ea28f82bb600b4464dce1

          <感謝合掌 平成29年3月9日 頓首再拝> 

死 に つ い て - 伝統

2017/03/10 (Fri) 19:45:01


            *Web:光の進軍~ 仙頭 泰

聖経「甘露の法雨」の「人間」の項を開いて見て下さい。

175 人間の真性は先ず霊なる生命にして心の糸を組み合せて肉体の繭を造り
   その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、はじめて霊は肉体となるなり。

176 汝ら明らかに知れ、繭は蚕に非ず、
   然らば肉体は人間に非ずして、人間の繭に過ぎざるなり。

さて、この次からじっくりと読んでください。

177 時来らば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、
   人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。

178 汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿かれ。

179 人間は生命なるが故に常に死を知らず。

このように、ここにハッキリと人間に死のないことが示されてあります。

 
谷口雅春先生は、人間をこの肉体だと思い違いをしている人には、
生があり、死もまたあることを教えて下さいました。
私たちの知らねばならぬことは、本当の人間についてであります。

生長の家では、本当の人間は「神の最高の自己実現であり、霊的実在である」と教えています。

 
聖経「甘露の法雨」には、更にもう一度つぎのように述べて、死のないことが示されています。

180 想念に従い、時に従い、必要に従い肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、
   生命そのものは死するに非ず。
   想念を変うることによって、よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。

181 されど汝ら、ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。

182 かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天かけらん。

183 これをもって人間の死となすなかれ。

184 人間の本体は生命なるが故に常に死することあらざるなり。

ここに私たちが、この現象界で色々な状態をあらわしますが、
やがてこの「肉体の繭」を必要としない時が、何時か来るわけです。

この様な時を私たちが迎えても「人間の本体は生命である」が故に、
常に死することはないと云うのであります。

 
谷口雅春先生は「人間死んでも死なぬ」や、「生命の實相」霊界篇と題する本の中で、
霊界に関する色々のことを書いておられます。
人間の運命を考える場合、私たちは霊界との関連を無視するわけには、いかないのであります。

最近では、人々が人間の死の瀬戸際まで行って、そして蘇生し、
その時の様々の体験を語っています。
そしてその臨死体験を医学的な面から研究した本も出版されています。

その体験した内容によれば、臨終とよばれる時に、まばゆいばかりの
光輝く美しい光景を見たり、この世を去って久しい身内の霊などに会ったりしています。

人間の死の床にある者が、苦しみつつ人生の終焉を迎えるという一般認識とは、
そぐわぬ事実があるということです。

死の瀬戸際まで行った人間が蘇生したその時点で
体験した内容を語る時、苦痛は勿論のこと絶望すらなかったということです。
それどころか穏やかな安らかな気持ちにひたったと主張しているのであります。

そしてこの体験は、自分の一生のうちの一番すばらしい瞬間でさえも、
つまらなく感じられるほどであり、そのすばらしさは私たちの使用している言葉では、
到底表現できるものではないと云うのであります。

そして臨死体験をした人達が、時間を超越した次元の中で起こった出来事であるかのように、
自分の体験を述べています。

それから臨死体験した人達が、自分の肉体から抜けだしていたようだと述べています。
自分の一番肝心な部分が肉体から離れ、周囲の事物を視覚的にとらえることができたと
感じています。

臨死体験中には、この「分離した自分」が自己として自覚される唯一の存在となり、
この肉体は「抜け殻」に成り下がってしまうのです。

「分離した自分」を、眼に見えない非物質的存在として自覚した人は、
臨死体験者の93パーセントにものぼっていました。

肉体から抜けだしている間、本人の意識は肉体ではなく
「分離した自分」の中にあり、完全に覚醒して意識水準は高く、
驚くほど思考が明瞭になるようです。

臨死体験した人達は、死と「来世」 に対する新しい考え方になり、
毎日毎日を懸命に生きる、「今この時」を一生懸命に生きようという気持ちになり、
死や未知なるものに対する恐怖に、捕らわれなくなります。

今肉体をもって生きている間に、もっと生き甲斐のある生活をすることであり、
この世でもっと人間同士が助け合い、愛し合って生きていかなくてはならないという、
人生を前向きの考え方に変わるのです。

今回、学習したのは、肉体の死の直前での体験を中心にしました。
ここでもう一度、はじめに書きましたところの聖経の部分を、
心靜に読みかえしてみましょう。

 
アルバ-ト・アインシュタインは次のように述べています。
 
「科学を真剣に追究しているものは誰であれ、宇宙の法則の中に
神の霊が顕在していることを確信するに至る。
神の霊は人類の霊をはるかに凌ぎ、神の霊の前に人間は、
自らの力のささやかなることを知り、謙虚にならざるを得ないのである。」
 
                         (終わり・211-7)

http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/19shinitsuite.htm


          <感謝合掌 平成29年3月10日 頓首再拝> 

『個性を発揮しながら中心を逸脱しないこと』 - 伝統

2017/03/11 (Sat) 18:34:32


           *『理想世界』 昭和46年4月号 より

創始者への恩を背かず、創始者の発見した真理の基礎の上に立ちながら、
単なるその亜流にならずに、独創的な業績をあげ、世界の文化に貢献しつつ、
世界の渦の中に巻き込まれて個性を失うようなことをせず、
更に創始者の理想を一層大きく発展させるものこそ、
真の創始者の弟子だということが出来るのである。


真理は中心であり、創始者はその中心に自己の時間の許す限りの輪を描く。

彼の人生の時間には限りがあるから、ある程度以上に大きな円を描くことはできない。
次に続くものが、創始者の円の上に同じような円を重ねて描く。

そして一歩もその円周は創始者のそれよりも大きくならないならば、これが所謂亜流である。
しかし同じ中心を周って図を描きながら創始者よりも包容面積の広い同心円を描く。
更にその次に続く者は一層直径の広い同心円を描く。

それは同心円であるから真理の中心から逸脱する事はない。

こうして多数の後に続く者がより一層包容面積の広い同心円を描きながら、
その真理から拡がっていく。

しかもその同心円は中心から外れていないから自然にひとつの中心に集まる組織体と
なっていて、その団結が崩れる事がない。

そしてその同心円を仮に黄色とか緑色とか紫色とかに着色してみると美しい図柄ができる。

その各々異なる色合いがその後継思想家の個性を表現するものと理解すればよい。

  (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1126
   谷口雅春先生が説かれる 真の弟子像 (4713)日時:2017年01月28日 (土) 12時22分
   名前:童子 )
 
          <感謝合掌 平成29年3月11日 頓首再拝> 

「秘れたる聖所にて祈る」 ということ - 伝統

2017/03/12 (Sun) 19:03:44


          *『白鳩』(昭和40年7月号)より
 
すべての人間の内には神の宿り給う
秘(かく)れたる聖所(きよきところ)があるのである。

私たちの潜在意識の奥底に這入って行くと、
人類共通の潜在意識 〈略称、人類意識 ―  Race consciouseness〉 があり、
更に深くそれを掘り下げて行くとき、

宇宙の霊的基盤となっている 「宇宙意識」 (Cosmic consciousness) があり、
更にその奥深いところに超在意識 〈神の意識 ― Super consciousness〉 がある。

 
この超在意識が「神の宿り給う秘れたる聖所」なのである。

この聖所に入って行くのは、物質的方法によるのではなく、
神想観を修して、現在意識を静かにして雑念妄想の生ずることを防いで、
ただひたすら、神を憶う想念のみに心を沈潜せしめて行くのである。

これがイエスが「密室にて祈れ」と教えられた真の意味であって、
密室とは心の密室であって物質の密室ではないのである。

心が惑うとき、心が騒ぐとき、恐怖の湧くとき、すべて斯くの如きとき、
私たちは“心の密室”に入って、神と対面して、
神から平和の心境を授けられなければならない。 

即ち、「心を鎮めて、神想観を修せよ」ということである。

これは観普賢菩薩行法経にあるところの、
「一切の業障は妄想より生ず、懺悔せんと欲せば、端坐して実相を観ぜよ。 
衆罪は霜露の如し。 慧日よく消除す」に当るのである。

キリストの教えも法華の三部経の教えも全く同一である。

        (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19740000.html )

          <感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝> 

繁栄と健康は思いのまま~その1 - 伝統

2017/03/14 (Tue) 19:52:58


           *「栄える会」品川支部例会(平成17年4月22日)
            ~内科医師 内田 久子


〈プロフィール〉 うちだ ひさこ。
昭和2年大阪に生まれる。
同25年大阪女子高等医学専門学校(現在関西医大)を卒業。
その後、大阪大学附属病院・池田市立病院・国立療養所・巽外科病院内科部長を経て、
現在講演、執筆等で活躍中。
著書に 『生命医療を求めて』 『続生命医療を求めて』『親の心と子どもの体』
『医師として 母として』(以上日本教文社)などがある。



皆様、ありがとうございます(拍手)。
私は只今ご紹介頂きましたように、大阪市に生まれ、医師となりましてからも
ずっと大阪で仕事をして参りました。

生長の家のご神縁によりまして、すばらしい栄える会の皆様と
お会い出来ますことを、本当に嬉しく、ありがとうございます(拍手)。


《繁栄と健康の根とは何か》

本日のテキストは、谷口雅春先生著の『繁栄と健康』ですが、その表紙の扉に、
「あなたは栄え、健康になる」と題して次のように書かれています。

(前略)

不況による相次ぐ倒産、医学の進歩も治せない病人の増加・・
しかしこの暗黒の時にも、繁栄と健康を実現している人は大勢います。

ほんものの繁栄とは何でしょうか??
所得倍増でしょうか?
ほんものの健康とは??
病気をしないという事でしょうか?
 
美しく咲く花には、それをしっかり支える頑丈な根があります。
根のない花は見かけは美しくても、やがて枯れてしまいます。

では私たちの繁栄と健康は、しっかりした根に支えられているでしょうか。
その根とは何でしょうか?

 
さらに「はしがき」の2ページには、

諸君が“繁栄”を実現しようと思うならば、
“繁栄の生命”とは何であるかを知り、その“繁栄の生命”を生かすように
つとめるならば、形の上の繁栄は自然に伴って来るのである。

(中略)

健康についても同じことが言えるのである。
一所懸命に色々の健康法を試みたり、保健剤を飲用したりしながら、
常に病弱で苦しんでいる人がある。

それは形の上での労作で、健康というものを追い廻していながら、
“健康の魂”ともいうべき、人間の“生命の実相”を捉えないからである。

とお書き下さっております。

それでは、“繁栄の生命、健康の魂”とは何でしょうか?
 
先ほど「大調和の神示」を西春雄先生(栄える会副会長)の奥様が拝読されましたが、
「省みて和解せよ」と示されていますのは、振り返って生命の一番根っこに感謝する。

そして谷口雅春先生は、

「真理を知ること、即ち、人間の本質と生きる目的、
そういう事を正しく知ることが大切です」

と仰っておられるのですね。

特に現代は、そういう根本的な事を知らされていない、
自分が何のために生まれて来たのか、国や親への感謝が湧かないような
教育を受けて、青少年がとんでもない事件を起こす傾向が増えていますが、
何を信じて生きていけばよいのか、解らないで苦しんでいるのです。

(中略)

《「人間は神の子・病本来なし」の教えに触れて》

私は医師ですけれども、今までに何度も大病を患いました。
余りに多くて思い出せないほどですが、くも膜下出血、先天性の心臓弁膜症、狭心症、
肝硬変から脾臓が腫れ、血小板減少性紫斑病、腎臓障害になり、
子宮筋腫や骨髄が血を造らない再生不良性貧血になりました。

35歳の時には心肺停止してとうとう敗血症で骨と皮になり、あの世に逝ったんです。
 
あの世で花柄のワンピースを着て、颯爽と歩いていた時に、
「地球に大事な忘れ物をした!」と気付いて、
「なにくそ!」と力んだとたんに息を吹き返しました。

その大事な忘れ物というのは、『生命の實相』に触れる事でございました(拍手)。

当時の婦長さんからは、「内田先生の血液を主治医に顕微鏡で見せて貰ったら、
血球も何もありませんでしたよ」と言われ、その上、心電図もぺしゃんこでした。

院長先生は、「これ程弱り切った体には、強心剤や点滴注射、輸血もしてはいけない」
という、何も施さない“素晴らしい治療”をして下さったのです。

私は自分が敗血症から生き返った体験から、聖経『甘露の法雨』を読誦させて頂きます度に、
「人間」の項にくるといつもふっと立ち止まるのです。

「人間は物質に非ず、肉体に非ず、脳髄細胞に非ず、神経細胞に非ず、
血球に非ず、血清に非ず、筋肉細胞に非ず。それらすべてを組み合わせたるものにも非ず。
汝ら、よく人間の実相を悟るべし。人間は霊なり、生命なり、不死なり。」

このお言葉そのままに、
人間は偉大なる神様によって生かされている生命が本体だったのだと、
改めて感謝と感動で一杯になるんですね。

私が今振り返ってみて、何故に現代医学では原因不明であり、
根本的治療法の開発されていない難病になったのかと考えてみました。
生長の家では骨髄は代々の祖先をあらわしていると説かれています。

神様からの無限の御徳、我々を生かす力が、直接ポーンと自分に来たのではないのですね。
 
先ほど触れた「繁栄と健康の根」というのは、
造り主の大いなる御徳を、代々の祖先の生命を通し、両親の生命を通して頂いた、
そのパイプにあたるものだと教えていただいています。

そこで、祖先と両親への感謝が如何に大切かがよく解ります。
ところが私の家は、父方も母方も、先祖供養をしていませんでした。
父は岡山県山奥の39代続く神主の家の三男に生まれ、分家し、
母方の方は、赤貧洗うが如く、とうとう絶家になってしまいました。

又、私自身も劣等感の塊のような暗い性格で、いつも心が沈んでいるものですから、
体の新陳代謝も悪く、病院の先生方から「恐らく40歳までの生命だと思うから、
無理をしないように」と言われていたのも当然だと思いました。

ところが47歳の時に、鹿沼景揚先生(故人)の講演会に誘われて、
病後のフラフラする体で出席したところ、まず先生がニコニコしたお顔で
壇上に立たれたのには驚きましたね。

先生は黒板に「人間神の子・本来病なし」と書かれ、
「本来」に二重丸を付けられました。

それまでの私は、肉体が人間だと思い、“本来病あり”の肉体医学の
勉強ばかりしていましたので、黒板の文字に激しいショックを受け、
驚きと大きな喜びで周りがパーッと輝き渡ったのを覚えています。

生長の家に触れ、ひたすら「三正行」を実践してからの私の人生は本当に一変いたしました。

          <感謝合掌 平成29年3月14日 頓首再拝> 

繁栄と健康は思いのまま~その2 - 伝統

2017/03/15 (Wed) 17:38:03


           *「栄える会」品川支部例会(平成17年4月22日)
            ~内科医師 内田 久子


《インターン時代に学んだ事》

話は以前に戻りますが、私は昭和26年に第10回の医師国家試験を受けました。
その頃は皆、無給でインターンを勤め、この1年間を上司のご指導を受けながら、
実際に患者さんを各科1ヶ月間づつ受け持って様々な事を学びました。
 
例えば、白内障と言っても眼科だけの問題ではなくて、全身と深く関連しており、
それは内臓でも皮膚でも、全て同じですね。

人間の体は1個の生命体ですから全身が繋がっていて、胃潰瘍で吐血した方でも
食養生をして安静にしているうちに、ひどい水虫なども一緒に治ってしまうのですね。
 
現在は、インターン制度がなくなり、医師が卒業後、自分の専門以外の事を
再び実際に勉強する機会はなく、その結果、人体を1つの生命体として診るよりも、
「部分医療」として診る。

例えば、肝臓病は肝臓だけの事として考え、他の事は「自分の専門ではないから」
とことわられている方をよく見受けます。
 
当時の恩師は「自分の専門分野は特に勉強しながら、全科にも精通しなければいけないのだよ」
と、ご忠告下さったものです。
 
このインターン時代は戦後間もない頃でしたから、保健所の1ヶ月間には、
“夜の女の人たち”の検診の現場や、屠殺場も見学しました。


《正しい食生活が体を治す》

ある時、屠殺場で食肉にされる牛を引っ張って行く所に出くわし、
牛が恐怖心によって激しく抵抗している姿を見てから、牛が可哀相であり、
又恐怖心のために多量に分泌されるアドレナリンが含まれた牛肉は
それ以来食べるのをひかえています。
 
上下水道も見学しましたが、現在では更に工場廃水に含まれる化学薬品などで
川が汚染されていて、それを浄化するのに多量の薬を使わなければならない。

例えば家庭用の洗剤を水で薄め、金魚鉢に一滴落とすと、
それまで元気で泳いでいた金魚がフワーッと鉢の底に沈んで行く。
それほど強力です。

それを見て以来、私は合成洗剤の使用を止めました。

その点、魚介類の副食ですと、食器を洗う時も天然油脂の固形石鹸で油が簡単に取れますし、
体にも良いわけです。最近では、

人間の間違った飼育の仕方から狂牛病や鳥インフルエンザが発生してしまいました。
 
このような事を考えますと、食生活を始め、今までの間違った生活を
反省しなければならない時が来ていると思います。
 
日本は四方を海に囲まれた温暖な島国で、四季があり、雨にも恵まれた、
このような気候風土に出来る主食は、何といってもお米なのですね。

お米は非常に活力がある食物で、含水炭素だけでなく、
植物性蛋白質も多量に含まれている上、含水炭素の半分は体の中で
脂肪にも変わる三大栄養素が含まれた素晴らしい食品なのです。
 
副食には、季節の野菜、それに海から捕れる小魚や海草などを、
朝、昼、晩、しっかり頂きますと、体は健康になり、
「何となく楽しくなってきました」と皆さんおっしゃいます。

最近は朝食を摂らない人が増えていますが、朝食を抜くと、低血糖になって、
イライラしたり、怒りっぽくなったり、あるいは頭の働きが鈍くボーッとなる、
その他、肩凝り、めまい、どうき、息切れ、全身倦怠感、腰痛といった
不定愁訴で診察に来られる方が増えています。

ある大企業の検診の例ですが、検診結果が良くないので、
それまで朝ぬきや、パン、コーヒーといった朝食を、
全員和食にきり変えていただきました。

すると尿の大腸菌はマイナスとなり、血液の検査データも改善されてくると同時に、
営業成績まで伸びて、大阪支社が全国第一位になったそうです。

それに「落付いて仕事に集中できるので、タバコやコーヒーまでのむ量が減ってきたんですよ」
と係りの方が報告に来られました。

私は、いつも診療の場に於ても患者さんの心の持ち方や、
食生活の大切さについては、ずっと真剣に取り組んで参りました。


《「肉体医療」から「生命医療」へ》

『人間神の子、本来病なし』

『病の原因は心にあり、しかも迷いの心にあり』

との生長の家の真理に目覚めさせていただき、更に、
大聖師・谷口雅春先生は、今あらわれている姿がどんなに不完全であっても、
その奥には無限の可能性が内在していることを信じて、これを認め、
善き言葉の力によって完全な姿を引き出す教育法を『生命の教育』として提唱なされました。

この『生命の教育法』と同じ原理によりまして、
私は医療の面で『生命医療』に我が使命を見出し、
よろこびをもって日々の診療につとめてまいりました。


(次へつづく)

          <感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝> 

繁栄と健康は思いのまま~その3 - 伝統

2017/03/16 (Thu) 18:46:14


《実相を観ずるということ》

生長の家の信徒さんに誘われて、
教育者だった故・鹿沼景揚先生の講演をお聴きした私は、
「人間神の子・本来病なし」と知り、大変驚き感動しました。

それから生長の家のみ教えを真剣に学び、三正行に励みました。 
生長の家では、現象はどうあろうとも、全ての人は実相において、尊い神の子である
と教えられています。

この「神の子」の実相を、私達は「神想観」という祈りによって観じるわけですが、
谷口雅春先生がハワイをご巡錫になった時、
「実相を観ずるとは、英語でどういう風に訳したらいいですか?」と尋ねた方がありました。

先生は、「ああ、Look in to だね」と仰ったそうです。 
それで私もその言葉の意味を英語の辞書で調べてみましたら、
「肉眼の目を閉じて、心の眼で貫き通して観る」と書いてありました。
感動しましたね。 

谷口雅春先生は、「眼鏡を外し、目の玉を外して、それで観る」のだと仰った。
それ以来私は患者さんを診る時には、先ずその方の実相を祝福礼拝させて頂く
診療に変わりました。


《いのちを見つめる「生命医療」》

現代医学は、肉体の現象を捉えて研究する学問ですから、
その治療法も、肉体にあらわれた症状に対して薬や注射や手術で処置する
「対症療法」が行われています。
 
ところが、昭和20年代に、カナダのモントリオール大学のハンス・セリエ博士が
「ストレス学説」を発表し、更に当時私が入局した大阪大学第二内科の福島寛四教授からは、

「あらゆる病気の原因は、精神的ストレスと長年の偏食によるから、
薬を先行してはいけない、先ず“心と食生活の改善”を指導するのが内科医の務めである」

と繰り返し教えて頂きました。

例えば、ウイルスや細菌感染症でも、
人間本来には免疫力という生理作用によって防御されているのですが、
この生理作用を歪めているのは、やはり長年のストレスと偏食が原因している
ことがわかります。

私は過去三十数年間、臨床医学にたづさわってきましたが、
「人間神の子、本来病なし。病いの原因は心にあり、しかも迷いの心にあり」
という生長の家の教えは、医学(特に基礎医学)と全く一致している“神業”であることに
驚嘆致しました。
 
つまり、肉体をバラバラに診るのではなく、一つの生命体として観るのですね。
 
患者さんに事情を訊いてみますと、大抵家庭や職場の人間関係に不調和がありますが、
その根底には、両親に対する辛い思いの和解されていないことが、
色々なストレスを引きこむ磁石になっていることに気付きます。
 
私は今までこのような「生命医療」によって、様々な顕著な治病体験を得てきました。
 
これはある公立診療所でのことですが、私の診療方法として、

(1)先ず同悲の心で接し(辛いでしょうね)、
(2)次に実相を直視し、
(3)検査データの良い点を賛嘆した上で、
悪い点を注意します。

そして、このように改善すれば必ず善くなりますよ、と善き言葉で励ますのです。
 
すると、涙を浮かべて喜ばれ、生活態度の非を自ら認め、
「必ず実行します」と“決意表明”までして帰られるのです。
 
結局、わずかな薬で、良くなられるので、診療収入が減り、
事務長さんから苦情が出たのです。

ところが、患者さんの喜びが口コミとなって受診者の数が増え、
その結果、2、3カ月後には収入がプラスになってきたと同時に、
町にも人気が拡がっているという嬉しい報せを受けました。

(次へつづく)

          <感謝合掌 平成29年3月16日 頓首再拝> 

繁栄と健康は思いのまま~その4 - 伝統

2017/03/17 (Fri) 19:08:56


《不思議な人体の働き》

人間の体は、実に不思議な生命の働きによって見事に機能しています。 
例えば、腸に誤って針など尖った物が入っても、腸の襞が針の先を捉えて、
尖っていない方を先にして、無事に体外に排出します。

そして手術の時も、5メートルもある腸を外へ山盛りに引き出しても、
腸間膜があり、後ろの一部が固定されていますから、手術が終わって
腸を無造作に腹の中に納めても、決して捻れたり、場所が変わったりせずに、
綺麗に元の場所に復する働きがあります。 

他の臓器もそれぞれに素晴らしい自然の働きがあります。
人体は巧妙精緻な働きによって運営されているのですが、
それを乱すのは私達の精神状態と誤った生活なのです。


《健全な心と病気を作る心》

生長の家では、「言葉は、思いと発声音と表情の3つからなる」と教えられています。
そこで、「健康体を作る心」と、「病気を作る心」を比べてみます。

(1)健康体を作る心

  ① 健全な思い(考え方)。素直な心、感謝、善意。

  ② 健全な発生音。明るいコトバ、善きコトバ。

  ③ 健全な表情(行動)ニコニコ顔、颯爽とした行動、落着きある態度、
    何でも偏らずに食べること。

(2)病気を作る心

  ① 病的な思い(考え方)。不足、排斥、頑固、憎悪、悲観、劣等感など。

  ② 病的な発生音。 暗い沈んだ声、トゲトゲしい声、暗いコトバ。

  ③ 病的な表情(行動)。笑わない暗い顔。沈んだ行動。イライラしたり過敏な態度。
    偏食、過食、少食。

このように大別されるかと思います。

全てに感謝して暮らすことが大切ですね。


《警察署に愛行する》

さて、私には一人息子がおりますが、幼い時に交通事故に遭い、
その時の頭部外傷後遺症で、精薄状態になっておりました。
長ずるに従って私にも強く反撥するようになり、悩みました。

私は生長の家で教えられている通り、一度しかり、懺悔した後は三正行を実行し、
ひたすら息子の実相を礼拝しましたが、一向に改善されませんでした。
 
しかし「その時こそ祈りが効かれている最中であります」と、
『祈りの科学』に書いてありました。

私はそれに力を得て、すべてを神に全托し、仕事に精を出していました。 

息子は色々な警察のご厄介になり、その都度連絡を受けて、身柄を引き取りに行きました。
 
ある時、夜遅く曽根崎警察署に行きまして、
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。一切の責任は、母親の私にあります」
と申しましたら、署長さんが、「へえ、そんな事を言う人がいるのですか」
と大変驚かれたのです。

「ハイ、ここにいます。私が母親としての愛が足りないために、
こういうご迷惑をお掛けする事になったんです。
ところで他のお母さんはどう言われるんですか?」と訊きますと、

「政府が悪い、学校が悪い、友達が悪い、ひいては、内の亭主が悪い、と言いますよ」
というお返事です。

そこで私は、いつも持ち歩いている『生命の實相』と、聖経『甘露の法雨』、
普及誌を出して差し上げますと、「そんなに尊い事が書いてあるご本なんですか、
みんなで読ませていただきます」と、
何人もの警察官が寄って来て敬礼して下さったのにはびっくりしましたね。
 
私は息子のお蔭で、大阪のあちこちの警察に普及誌や『生命の實相』を愛行でき、
“禍い転じて福になった”ことにとても感動致しました。


《ひたすら息子の実相を観じて》

私は息子の実相をじっと礼拝し続けてきましたが、一向に改善されないので
ある日、故・藤原敏之本部講師の方に相談しましたら、

「あなたはまだ息子を神様に帰し切ってない」と言われました。

「私はお返しし切っているのに」、とうとう堪忍袋の緒が切れて、神様に向って、
「私は神様に息子をすっかりお返ししているのに、お返ししてないと言われるんです。
一体どうしたら本当にお返しした事になるんですか! もっと解るように、教えて下さい! 
あなたは私の創り主で親様でしょ。あなたの愛し子が困っているのですよ!」
と大声で叫びました。
 
そうしたら天井から大涛のような声なき声が………。

「明日死ぬと思え!」と。

私はハッとしてその場にひれ伏し、心から神様にお詫びしました。
明日死ぬとなれば、息子も今日思いっきり悪い事をやればよい、
全て私が責任をとって私も一緒に死ぬのだ、そう決意した時、

帰宅した息子は、「お母さん、とうとう僕の実相を観てくれるようになりましたね。
何という愛深いお母さんの許に生んで頂いて、有難うございます」(拍手)。

そう言って額を畳に擦り付けてね、
「お母さんの修行はそれくらいで結構です。これからは気持ちを楽にして、
体を大事にして長生きして下さい。後は僕自身の問題です。
まだ悪い事をしたい気持ちが一杯残っていますが、
これは一生掛かって、僕が解いて行きます」と言ったんです(拍手)。
 
子供は親を選んで生まれてくるといいますね。
生まれる時に霊界から「あの親は早死にしそうや。この親は余り暴れるから、
精神病院に入れたまま出してくれない。この親やったら、生長の家に触れて、
僕の実相をじーっと観て、待っててくれるなー」と選んで来たなと思ったんです。

選ばれているんですね、子供からも神様からも。
 
その後も一進一退ありましたが、息子は夜間高校に進み、工場に勤め、新聞配達をし、
余り頑張りすぎて一時肝臓を悪くしたほどでしたが、とうとう自分で勉強しなおして、
高校の数学や英語のテストで90点以上を取るようになりました(拍手)。

今は「僕が生長の家の跡継をするから、安心して下さい」と言うようになり、
漫画家を目指して頑張っています。
 
生長の家で教えられた通り、神様に全托し、ひたすら三正行を行じて、
信じて待って待って待ち続けた20年の結果だと感謝しております。
 
このような体験がありますので、
不登校や暴走族に入って暴れている子供達の気持ちが良く解り、
お母さんたちから様々な相談を受けても、子供を神の子として観て礼拝する、
生長の家の「生命の教育法」によってお話しさせて頂きますと、
親御さんが良く理解され、子供さんが満足され、問題が解決して行きます。


《災い転じて福となす》

生長の家のみ教えに触れまして、私はいつも、どんな事が起きても、
「人間神の子・無限力」「現象は心の影」という真理を学んでいますと、
禍と見えたものは福に転じるんですね。
 
そしてやっぱり、「嬉しい、楽しい、有難い」を口癖にして、神想観に励み、
ご先祖様に感謝のご供養をして、両親に感謝し、家族や職場の皆さんにも感謝して、
仲良く、というのが生活の基礎ですね。
 
その基礎があっての伝道ですから、それを大切にしたいと思うんです。
相愛会、栄える会に属しているお父さん、白鳩会に属しているお母さんの中には、
独りだけが「生長の家」に熱心であるけれども、家族は知らん顔、という方を見受けますが、
これはとても残念です。

ですから、家庭の中でちょっとしたことにでも「ありがとう」と感謝し、
進んで愛やよろこびを表すことは、家庭への大切な愛行であります。

もう「明日死ぬと思え」ですから、

今日一日を自我を死に切って、今与えられたことに精出すことですね。

『生活の智慧365章』の18頁には、
「問題のないときにも神を呼べ。問題のあるときにも神を呼べ」と書いておられます。
 
先生は、問題のある時だけ神を呼べと書いてないですね。

だから、おかずを買う時にも「神様、何を買ったらいいですか?」と言うとね、
ちょうど適当な食材を与えて下さいます。

また、講習会の受講券も、「神様の受講券を求める方に引き合わせて下さいね」
と申し上げて出ますと、よきチャンスが与えられます。
 
このように私はいつも神の導きのままに、「嬉しい、楽しい」と口ずさんでいますと、
楽しい出来事が自然と向こうからやってくるのです。
 
どうぞ皆さん、楽しく、明るく、仲良く運動して参りましょうね。

本日はありがとうございました(拍手)。

          <感謝合掌 平成29年3月17日 頓首再拝> 

生命の全的把握としての 『國』 と 『家』 - 伝統

2017/03/19 (Sun) 18:52:59


           *Web:『生命の實相』哲學に学ぶ(2015/12/1)より

『家』を尊ぶという場合の『家』は、
決して『建物』という意味でもなければ、
個人の生命を縛るところの『封建的制度』でもないのである。

『家』とは『宗祖』の生命と『個』の生命との『一連続』を表現する言葉である。 

戦後の日本人は『個』の生命には目覚めたけれども、概ね唯物論であるから、
『祖孫一体・親子一体』の“連続体としての生命”の自覚を欠く傾向が非常に強いのである。

人間の生命は『個』だけで忽然と地上に生れたのではない。 
祖を通じ、父母を通じ、その生命の一連続の地上への顕現として此処に在る。 
それを自覚しないことは、人間生命の部分的自覚に過ぎない。

私たちは生命の部分だけで生きるだけで満足してはならない。 
私たちは生命の『全』を生きなければならない。 
それこそが自己の『全』を真に愛する道である。 

それゆえに真に自己の『全』を愛するためには
祖先の生命が其処に生きている『國』を愛しなければならないし、
『家』を愛しなければならない。

 
私たちは憲法にどうきめてあるから『國』を愛するというのではなく、
法令で『家』の制度がなくなり『戸主』がなくなったからとて
『家』を愛しないというのではない。 

『國』と『家』とは私たちの『個』のいのちが其処に生きている本源であり、
単に本源であるばかりでなく『祖』の生命が自己と家族の生命として
分化して発展してその空間的広袤としてあらわれたものが『國』であり『家』であるから、

『國』を単に『人民』に対立してそれを束縛する存在と見たり、
単に人民が住むための土地の面積だと思ったり、
『家』を単に『個人』の集団の場に過ぎぬと思ったりするのは誤りであるのである。

 
『國』と『家』こそは、祖孫、親子一体の生命の具体的表現であり、
過去と未来を『今』の一点に把握するその生命の展開であるのである。 

この生命把握の認識が欠如して、
ただ唯物論的に孤立せる『個』としての“肉体”のみを『人間』だと感ずるがゆえに、
一切の過ちとわざわいとはむらがり生ずることになるのである。

私が憲法復元を高唱するのはこの意味における祖孫・親子・一体の
生命の宗教的心霊的把握の上からであって、

『現行憲法が単に、占領中に押しつけられたものであるから、
その内容は良いけれども排斥する』というような、
そんな根拠の薄弱なものではないのである。

真の民主主義は『個』としての生命が祖孫一体に拡大してのみ完成し得るのである。 
しかし前述せるが如くジャーナリズムの大半は言葉の利剣をもって
現行憲法の改定をただ『改悪』として『斬捨御免』的に葬り去ろうとしているのである。 

かくの如き一方的な言葉の暴力で日本の大衆は欺瞞されつつあるのに
われらは黙して好いものであろうか。 

ああ、われらに協力して、真に日本を愛する人は出でざるか。 
愛国者協力して運動化しなければ、國を救うことはできない。

 (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19738538.html

          <感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝> 

『實相』の掛軸 - 伝統

2017/03/20 (Mon) 17:40:17


           *『光の泉』(昭和40年7月号)より

生長の家本部に 『實相』 の軸がかかっておりますけれども、
あの 『實相』 と、紙に墨で漢字で書いてあるのは、
あの紙や墨を拝むんだと思うと間違いなのであります。

『實相』 というのは皆様の生命の“本当のすがた”というものであります。 
それを現象界のコトバで説明するのは大変むつかしいのです。 
禅宗などでは長い間坐禅をしてそれを悟る。

「一切の諸法は空にして所有なし」と法華経に書いてある。 
紙や墨や樟の木の「板まんだら」も、皆さんの肉体も諸法の中に属する。 

そんな「空なるもの」を拝んでも役に立たないというのが
「空にして所有なし」ということです。

諸々の現象  ―  肉体なる現象も、「板まんだら」も本来‘ない’と知る。 
そして肉体も物質も本来ないということが分ったら、それでも、
‘ここに生きている生命がここにある’ということが分るでしょう。

その生命の実相のことが書いてあるのが、法華経の方便品と如来寿量品である。 
それを現代語で詳しく説いてあるのが 『生命の實相』 の本であります。

『生命の實相』 第1巻の2頁の 『七つの光明宣言』 の第1ヶ条に、
『吾等は宗派を超越し“生命”を礼拝し“生命”の法則に随順して生活せんことを期す』 
と書かれていますが、

“生命”というものは、宗派によって、人間の生命が異なるということはないでしょう。

あの人は日蓮宗だから、日蓮宗系統の“生命”が宿っておるとか、
この人は真言宗だから、真言宗系統の“生命”が宿っておるとか、
あの人はキリスト教だからキリスト教系統の“生命”が宿っているとか、
いうことはないのであって、

みんな同じき一つの神様の生命(いのち)が宿っているわけです。

法華経の『薬草喩品』にあったように、

『一雲の雨降らすところ、其の種性に称いて生長することを得て、華果ひらけ実る。 
一地の所生、一雨の潤おす所なりと雖も、而も、諸々の草木各々差別あるが如し』

でありまして、

皆なに同じ生命が宿っていながら、現象を見れば異う花が咲き、
異う実がなるというようになっているけれども、しかしその奥の 「実相」 を見れば、
みんな神の生命が宿っているのであります。 

それが生命の実の相(すがた)である。 

それを法華経は教えており、その如く、
生命の本当の相(すがた)を如来として吾々は拝むというわけなであります。 

それを実際に拝んでいるのが、生長の家であります。

       (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19715281.html
 
          <感謝合掌 平成29年3月20日 頓首再拝> 

唯物的アニマルとなる勿れ - 伝統

2017/03/23 (Thu) 19:06:37


            *『理想世界』(昭和47年新年号)より

ある賢人の言葉に 

「人間の価値を定めるものは、
彼か何を有っているかでもなければ、彼が何を為したかでもない。
彼が如何なる人であるかということである」 

という警句がある。

これは国家でも同じであるのである。 

その国が価値あり、立派な国であるかどうかは、
その国が何を有っているかではなく、
その国が何を為したかではなく、

その国が如何なる理想をもち、
如何なる道徳を生きる国であるかということである。

 
悲しいかな、今、世界の現状を観るに、概ね、節操を失って、
その領土の広さ、資源の大きさ、人口の多さ等に魅せられて雪崩のように、
その大国に傾斜して行きつつあることである。

この唯物アニマルども奴!!

       ( http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19733607.html )

          <感謝合掌 平成29年3月23日 頓首再拝>   

吾々は神に対する責任をもって、指導しなければならない - 伝統

2017/03/25 (Sat) 18:11:07


          *『生命の實相』第4巻生命篇下(P118~123)より 


[中畑] 

わたしはただ今結核で妊娠している人が、医者から中絶せよとすすめられ、
わたしにも相談されたので、どう教えたらよいかと思いまどっているのです。 
医者は懐妊中の婦人が結核である場合、妊娠を中絶せよとすすめる権利があるのですか。


[船橋] 

母体の生命がその妊娠によって危険だと認められるような場合には、
2名の医師から妊娠中絶を要すを認むという証明書を得て、
妊娠中絶の施術を受けてよいことになっています。


【谷口】 

わたしの経験では、結核患者に妊娠中絶さす必要はないと思いますね。 
脊椎カリエスで、今後5年間に妊娠したら妊娠を中絶しなければ母体があぶない
といわれた人で妊娠し、妊娠中かえって妊娠前よりも栄養が良くなり、
立派な胎児をお産みになった実例があります。

その方はお産に帰郷していて、2.3日前こちらへお帰りになりましたが、
実に立派な赤ちゃんである。 
風呂へはいっても、他の赤ちゃんにくらべると発育がよくて、段がちがう。 
手首や足首がこうくびれるほどにまるまる肥っているのです。 

「生長の家」家族におはいりになって生まれた子はみな発育がよいようです。

一昨日も呉市の誌友から、結核で妊娠された方で
この15日の朝、男児を無事安産して母子ともに健全である。 

この児は妊娠中医者にまかせておいては地上に出生しなかった子供であるから、
いわば 「生長の家」 が生みの親であるから名前をつけてくれと頼んでよこされたのです。 

名前は光生とつけてあげましたが、光から生まれた子という意味です。

今後、わたしはこういう子供をこの世にたくさん生み出したいと思っています。 

だから中畑さんの御相談をお受けになった方も、
だんぜん妊娠を中絶してはいけないとお答えになるとよいと思います。


[中畑] 

医者なら自分の勧告の結果が悪くても責任はありませんが、
われわれはしろうとですから、医者が妊娠を中絶させなければならないというのに、
わたしが妊娠を中絶する必要がないとお答えして、医者の勧告を退け、
もしその婦人が今後経過が悪かったときには、わたしは責任を負わねばなりません。


【谷口】 

医者の勧告に従って妊娠中絶の手術をしたのち、その予後が必ずよいとはいえないでしょう。 
 
先日もわたしのところへたずねて来た婦人があった。 
あなたもあの時ここへ来ていらしたじゃありませんか。 

肋膜炎をわずらってもうほとんどまったく治っていた。 
それにちょっとばかり脚気の気があるので内蔵はどこも悪くないが、
このまま妊娠を継続させたら母体が危険だという大阪庶民病院と某医師との診断で、
妊娠中絶手術を行なった。 

手術中脈搏もたしかであり経過も非常によかったのに、
突然3日目から非常な発熱をして脈がほとんどなくなり危険状態に陥った。 
危険状態はすぎたがそれからしばらく患者は視力を失ってなにも見えない。 

そして 「わたしの子供はどうしたの」 
「皆して、わたしをどうするつもりなの」 などといい出して、
一時すっかり精神病になってしまった。

今ではその精神病もほとんど治ってはいるけれども、
まあ痴呆といおうか、低能といおうか、先日ラジオでエスペラントの講義が
あったときなども、そのエスペラントの講義ばかりにかじりついて、
一日中ラジオのテキストの1ページ半ぐらいをいつまでも繰り返し繰り返し復習していて、
家事いっさいをみず、良人のいうことも母のいうこともきかない
一個の廃人ができ上がったのでありました。
 
医者にかかっても、このように手術後の経過は必ずしもよいとはいえない。 
そこで、中畑さん、あなたがその相談を受けなすった婦人に、
「それじゃ医師のいうとおりに手術しなさい」 とお答えになって、
その結果がよくなかったらあなたはその結果に責任はもてますか。

どちらにせよ、いったん相談を受けて右すべきか左すべきかを委された以上は、
どちらを答えても一半の責任は分たねばならないでしょう。


[中畑] 

医者はそういう妊娠を中絶してもよいという権利をもっているのを、
非医者であるわれわれが妨げるということは ・・・・ 。


[船橋] 

権利といっても、それは法律上の権利であって道徳上の権利じゃありません。 
また医者には、手術した後の結果が悪くても、責任がないというのも
法律上の責任だけであって、道徳上の責任はないというわけにゆきません。 
神に対する責任は医者にもしろうとにもどうようだと思います。


[山口] 
医者のうちには法律上の権利を濫用して、ずいぶんいい加減な治療をして
金もうけをはかり、施術の必要がなくとも、施術をすすめて施術料をとる
というのがあるそうですし、治らなくても、予後がかえって悪くても、
それには責任を負わないのですから無責任といえば無責任な話です。


【谷口】 

話が元に帰りまして、われわれが非医者として、
医者が妊娠中絶をすすめている患者から相談を受けて、
どう答えたらよいかという問題については、われわれは神に対する責任をもって、
神の思し召しに最も近いと思われる方向にお答えしなければならないと思います。 

神がなにゆえに母親の胎内に赤ン坊を宿したかという問題から出発してですねえ。 
なんですか、その患者の病気はよほど進行しているのですか。


[中畑] 

わたしのところへ最初たずねて来られた時には非常に衰弱して、腹ばかり妊娠で膨れて、
ほかはただ、骨と皮とのようにやせていられて、見るから気の毒な姿でありましたが、
しばらくわたしが治療してあげているうちに、

結核の方はしだいに快くだんだん元気になられ、身体も少し肉がついて4,5百匁は
体量もふえられたようです。 
だからこの分なら結核そのものはこれ以上進行のおそれはないと思います。


【谷口】 

そのくらいなら妊娠中絶の必要は断じてないじゃありませんか。 
わたしが相談された患者は血を吐きながら妊娠している。 
つわりの悪い癖があって一粒の食物ものどを通らない。 

これは人間は物質でできている、「2足す2は4」 「4引く2は2」 である
というような数学的勘定の現代医学では、この問題の結果は明瞭である。 

結核は消耗性の疾患であって栄養が十分でなければ治らない。 
ところが食物が一粒ものどを通らないのであれば栄養はゼロである。 
栄養はゼロであって、内部から胎児が発育しえ母体の栄養を吸いとるというのだから、
現代の 「22ンが4」 の医学では妊娠中絶さすよりほかに母体の助けようがない。

ところが、「生命(せいめい)」 というものは 「22ンが4」 というように
数学でゆくものではない。 ゼロからでも、どれだけでも信仰によって生きる力が出てくる
というのが 「生長の家」 の医学であります。 

 
キリストは5つのパンで5千人を食べさせて、
まだかごに一杯パンが余ったと聖書に書いてある。 
数理的にいえば、そんなばかなことが起こるはずはない。 

けれども数理を超越して結核患者が食物を食わないでいて、
胎児を成長させて自分も肥えるというのが 「生長の家」 の医学なのであります。 

わたしは、だから、この患者からどうしようかと質問されたとき、

「妊娠を中絶する必要はない。 食物が咽喉を通らないのは心に不安があるから、
胸につかえて戻って来るのであるから、心を神にまかせて不安をないようにすれば、
御飯は食べられ腹の中に落つくようになるのである。 

だいたい神が一個の生命を胎内に宿されたのは、必ず神がそこでその胎児を生かそうとの
御意志の発現であるから、神を信じ、神にまかせて心が平和になりさえしたらならば、
食物(しょくもつ)は必ずたべられ、妊娠したことがかえって母親を健康ならしめるものである」

と実例を引いて手紙を差し上げましたところが、もっとも、こちらからも祈って
あげたからでもありますが、その手紙を読んだ日から、食物をとっても吐かぬようになられ、
しだいに健康になられた。

この話は先日の講演会の席でもちょっと話したのでありますが、
これは 「22ンが4」 を超越した医学である。 

この結果、この奥さんは非常な信仰を得られた。


http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/7fbaec53724e11146ae56ac8ec4bd65e
    
          <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>   

伝道こそは吾が使命  - 伝統

2017/03/27 (Mon) 18:29:09

伝道こそは吾が使命 ― 治療室の片隅に掛けられた 『光明日訓』 の一語が私を変えた

           *『生長の家』(昭和62年新年号) より
             ~生長の家北見教区教化部長  赤 倉  寛

昭和26年4月のこと、坐骨神経痛が再発しました。

当時、私は名寄駅の案内係として国鉄に勤務していましたが、
戦時中の体力検定の際、砲丸投げの測定でギックリ腰を起したのが原因らしく、
毎年坐骨神経痛を繰返して来たのでした。 

それまで、医者だ、指圧だ、電気治療だと色々試して見ても、
どうしても治らなかったのです。

そこで、その年は笹〇野一色総合治療所という処に毎日通って、
味噌灸という珍しい治療を受けていたのでした。 

(中略)  

たまたま治療室の隅に 『光明生活の日訓』 がさりげなく掛けられていて、
それがふと目についたのです。


 『吾れは宇宙の中心であり、我のみが我が世界を改善する』 


私はその言葉を口づさみ乍ら、素晴しいことが書いてあるなあ、と思っていました。 
一体こういう言葉を誰が書いたのであろうか、
そして、この “吾れ” とは書いた人自身の吾れなのか、
また、人間に共通している生命的なものを指して言っていることなのだろうかと思い、
この‘吾れ’ということにひかれたのです。

笹治療師に聞きましたら、「これは生長の家の谷口雅春先生がお書きになったのである」 
と教えてくれました。 

私は、この先生の書いた本を読むか、お話しを聞いてみたい、
それでこの歌のスランプ状態が解決出来るかもしれないと思い立ちました。


これが縁となって、翌月5月27日、名寄で開かれた
田中イサノ講師の生長の家講演会に、未だ治りきらない腰をかばい乍ら
杖をついて足引きずるようにして参加しました。

そして、田中イサノ先生の情熱ほとばしる生長の家の 
“人間・神の子、無限力” の講話に、深く感動しました。

講演会が終って、私は持参した自作の短歌5,6首を田中先生にお目にかけました。 
この作品を通じて、精神面の個人指導をお願いしたいと思ったのです。 
すると、田中先生は暫く御覧になって、突然に 「素晴しい青年が現われましたよ」 
と周囲の人々に向って言われ、讃嘆して下さったのです。 

そしてあっけにとられている私の手を握りしめ、
「日本の再建のため、人類光明化のため、共に頑張りましょう」 と ・・・・

私は、参考のために聞いて見よう程度で参加したのが、
思いがけない宝物に出合った如く、その場で、これこそ、日本国を再建し、
世界に真の平和をもたらす偉大な御教えであると確信してしまったのです。 

不思議に歓喜雀躍の想いが湧き上り、
“生涯この御教えに捧げて、一人でも多くの人々に伝えながら人生を前進しよう” 
と決意していました。

そして講演会場を出た瞬間から何かしら体が宙に浮いた様な軽さを感じ、
わが家に帰って気が付いてみると、坐骨神経痛はあとかたもなく消えて了っていたのです。


私は、短歌のスランプ状態を解決しようと思って生長の家を訪ねたところ、
どうにもならなかった坐骨神経痛が消えてしまったのだから、
これは儲けものをしたと思っていました。 

しかしその後真理を勉強している内に判明たのです。 
『信仰の活人剣』 という本に 『生命の實相』 第4巻 〈頭注版〉 の抜粋があり、
“愛行の決意が病気を治す” とハッキリ書いてありました。

「 ・・・ この病気が助かったら今度こそ世の中の人のためになるために、
本当の神性ある人間として働かせてもらおうと一大決心すればよいのであります。 

この決心が純粋であれば、その瞬間心の世界では
もうその病気が治ってしまっているのであります。 

心が変わってしまっている、心は治ってしまっているのですから、
心が投影して客観化している肉体もその瞬間からめきめき快方に向かうのであります。 ・・・ 」

こうして、私は生長の家の青年会活動に飛びこみました。  

(中略)


昭和47年の7月1日付で、私は道東帯広・釧路・北見教区 〈第三教区〉 担当の
特務講師の辞令を戴くことになり、愈々光明化活動のプロとしての出発となりました。 

その直前の6月には、プロになるための心構えを養う意味で、
月始めの飛田給練成会に参加、本来性に磨きをかけ、
11日からは富士河口湖練成道場で一般練成会を受け、
引続き総仕上げの意味で伝道練成会 〈2泊3日〉 に参加したのです。


20名近くの伝道者はマイクロバスに乗せられ、やがて見ず知らずの街で次々に降され、
決められた時間内での伝道が開始されました。 

最初は3人一組で戸別訪問し、要領が判るにしたがって最後は只一人での伝道となります。 
ところが、自分では一所懸命に祈っているつもりなのに、何軒訪問しても、
冷たく断られる、なかなか本を買って呉れそうもない。 

まさに、伝道には、過去の仕事の経歴も肩書も、信仰の深浅さえも通用しない。 
ただ、私を無くすることだけでありました。

初日の終った夜に、私は静かに反省しました。 
自分の祈りに真剣味が足りなかったのかも知れない。 
傍に大きな犬が寄ってくると逃げ腰になったり、気になったりして、
祈りはどこへやらではなかったか ・・・・

2日目からは真剣そのものでした。

訪問先では先ず標札を見て、何もかも忘れてただ、
「住吉大神 〇〇家の上に天降り給いてご家族一人一人を祝福し給う。 
而してこの持参した神誌・聖典がご縁となって、本当の幸せが得られますように」 と、
ひたすら祈りました。

そしてそのまま訪問しますと、不思議に軒並といってよいほど、
次々に本を買って下さったのです。 
私にとっては、この時の伝道が最高のものとなりました。

伝道を終えて帰途についた時、天上から声が聞えて来ました。 
それは 「よかったわねぇ」 という、なぜか女性言葉でした。 

平和の女神様がよろこんで祝福してくれたかのように感じられ、
私は、何か心に深い安らぎを覚えたものでした。

 
こうした数々の体験を糧に、近き将来に必ずや偉大なる輝ける神の栄光と祝福に
人々が気づき、神への感謝として応え、全ての人類の幸福と平和が招来される
であろうことを確信して、今日もこの道を驀進して参ります。


  わが願い産めよ増やせよ地に満てよ ひとつとなって只にぎやかに

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/72b44f3dc7964979c940c55cfe73f1cf
           
          <感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>   

自分が変れば一切が変る - 伝統

2017/03/28 (Tue) 19:06:18


          *『生長の家』誌  昭和33年2月号 58頁 ~ 
            ~生長の家本部理事 青年部長  菊地 藤吉

「あなた、それでも生長の家ですか、生長の家を信ずる人がそんなことでよいのですか」

妻の言葉に 「しまった」 と、急所をつかまれたように苦しい。

以前は、妻の父と私の不調和から、どれ程この妻を苦しめ、泣かせてきたことであったか ― 。
それが、生長の家の御教に導かれて以来、舅や家族の皆とも調和し、
職場 (郵便局) も明るくなり、自分の心も落着き、気長にもなって、
性格もこうまで変るものかと自信ができて、感激の中に光明化運動に情熱を
かたむけてきたのであった。

それから1年半、北海道根室の北辺に、自分の住む町を中心に4ヵ所も相愛会が発足した
今なのに ― 。 些細なことで腹を立ててつい妻をどなりつけ、いつまでも、
くどくど責めたので妻もたまらなかったのであろう。 

「悪かったなあ」 と、胸に言葉が浮んできているのに ― 、 
それより先に、自分の至らなさが、しみじみ感じられて、御教に対して申訳ない。 
しかも最愛の家内にさえこんなことを言われなければならないとは ― と情なくなり、

「どうせ僕は何時までも駄目なんだ。 生長の家もやめてしまった方が、
誌友の皆さんに迷惑が掛らないだろうし」 と涙がでそうなのを我慢して
強がりを言ってみる。

しかし決して本意ではないのであって、こんな時こそ、
真理の書によって心を引き立てなければならない、と奥座敷で 
『生命の實相』 を開く。 

(昔ならこんな時にプイと表へ出て飲み歩いたものだが ― 
これだけでも有難い、と思いながら)


 「もっと自分を愛せよ。 欠点を指摘されたら喜んで直すのが自分を愛する道だ」

 「平明に自分のあやまちを承認せよ、あやまちを素直に承認される瞬間
  その人の神性は高いのである」
     (『生命の實相』 新修版 11巻 114頁等)


全く私一人のためにお示し下さったような尊師の御愛念の一節一節が、
肉を浄め、骨を浄め、心を浄め、生命を浄めて下さる。

いつの間にか、懺悔の涙がでて、しばし神想観をつづけ、
自分のニセモノを追い出すために、勇気をもって妻の前に合掌する。 
妻も内心反省していたらしく、「私が悪かったのです」 と合掌してくる。

 
そんなことが入信後1年以上経っても幾度か繰返され、互に信仰の道に入ったのであるが、
「心の法則」 だけを知って、心の中で責め合う自分の心の‘みにくさ’苦しさから
中々逃れられず、「私達は信仰の道には向かない夫婦ではなかろうか」 と
馬鹿なことを真剣に考えたこともあった。

 
そのうち妻の方がだんだん御教に熱心になり、私が腹を立てても 「私が悪かったのです」 
と先に妻から詫びるようになり、「何もあんたが悪くないではないか」 と言えば、
「どんな理由でも、あなたに腹立たせたのは私が至らないからでした」 という。

こうなると、御教を素直に実践している妻が、自分よりはるかに尊く思われ、
益々劣等感ができて、これには随分苦しんだことであった。

地方講師もいない片田舎であったので、ともかく聖典の拝読により、
遂に私は神想観の中で  

「一切の本源は神であり、すべての人は神の使として観世音菩薩として
この世に遣わされたのであるから、その実相のみを観ることができますように。 
光明化運動の選士として活動するために、私の愛深い実相が完全に開顕されますように」  

という祈りだけを、毎日行じたのであった。


「飛田給練成道場へ行ったら必ず一切の人々の実相の完全なことを悟れます」 
と札幌の桑原裕規さんが、そのころ幾度もすすめて下さったのであるが、
「官庁勤めですから暇もないし ・・・ 」 という私に、 

「暇や金で行くのではないのです。 決意だけですよ。 
想念は必ず実現するというのが生長の家の教えです」  という。 

「どう祈ったらよいか」 と聞くと  
「金や暇ができるように祈らなくてもよいから、既に飛田給道場に坐している。 
と観ずればよい」  とのこと。  

〈谷口雅春先生著 『詳説神想観』 197頁に、
積極的、肯定的祈り、として御教え下さっている祈り方〉

その信念ある言葉に強く感動して、唯、善のみに導き給う神の智慧に
委せ切りの神想観をしているとき、

その年 〈昭和34年〉 の6月に、
全逓信労働組合の全国大会が東京で開催されることになり、
北海道からの正式代議員の一人 〈共産党員〉 が急病で出席不能のため
代理として私が出席 〈その頃私は全逓労組の役員を退いていたのだが〉 することに
決議され、そのため私は、労働組合の経費で上京した。 

ついでに、1年に20日間の法定休暇が認められているので、
手続きして、あこがれの飛田給練成に参加した時の嬉しさ ― 。

まことにも 「祈りは必ず叶えられる」 のである。 

それは神の導きは常に宇宙に充ち満ちているのであって、
善きものを与えるべく常に私達の周囲ふりそそいでいるのであり、
神の道に叶うことであれば、最も適当な時に、適当な人、事、処へ導きが実現する
ことを体験させて下さったのである。


しかし長い間の批判的唯物論者は何と罪深いことであったろうか。 
尊師の御教えには絶対の信をもちながら御教に比較して道場員を批判し、
練成会員が日毎に素晴らしくなってゆく姿を見ては、批判的な自分の態度に醜さを覚え、
素直になれないことに悩み、いらいらし、だんだん悦びがなくなり、

そのくせ 「自分は 『生命の實相』 を一通り読んでいる」 と、
妙な自尊心を持ち、こんなことなら何のために練成道場へ来たのか、
とさえ思ったりしたのであるが、

今にしてみれば 「一切の現象は自分の念の影の影」 であった。

けれども飛田給道場には、谷口先生から練成会員に対する祝福の祈りと、
神の愛が充満しているのであって、いつも奇蹟的な導きが現われるのであるが、
そんな心の私にも、‘3つの大きな導き’ が現れた。 

そのことによって、真の神の愛を知らされ、
脚下照顧、愛行の実践に欠けていたことを懺悔して、「祈りの間」 に入り、
練成最後の3日間を 「自分は日本一の優しい夫である」 と、
繰返し自分の実相を観じて、感謝と悦びに燃えて帰宅した。 

と、道場で祈ったことなどは一言も言わないのに、帰宅して3日目の朝、
食事の祈りのとき、妻が突然 

「あなた赦して下さい。 今までは、あなたにどなられる度に、つらい、つらい、
と思ってきましたが、あなたが今度帰ってからは何もおっしゃらないのに、
私が間違っていたことに気づきました」 と泣いたのである。

「どうしたの」 と聞くと、

「愛する妻をどなりたい夫は世の中にいる筈がないのに、私が至らなくて
あなたに不満を感じさせ、その不満のためにいらいらして私をどなったのでしょう。 
どならなかったあなたの気持こそ、どんなに辛かったでしょうに。 
どうか今までのことは赦して下さい」 と泣くのでした。

私こそ 「そのうちに妻に今までの横暴を詫びよう」 と思っていたのが、
又しても妻に先を越されたのです。 

しかし何という快い負けだった事か。 

「いや今までの一切は僕が悪かったのだ」 と言い切れた時の嬉しさ。

やはり自分が中心だったのだ。

「自分が変れば一切が変る」 とは何と偉大な真理であろうか ― 。


生長の家立教の使命である人類光明化運動も、
いよいよ第2次3ヵ年計画に入ったのであるが、
その人類光明化運動指針の 「第4条」 に示されているのが、 

『一切は自分の責任の自覚』 であって、この自覚の発動こそ、
真に人間神の子の生活であったのである。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ce21dcc72404b413b7fde8e74390c681

          <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>  

神の子としての神性の遺伝を有(も)っている - 伝統

2017/04/03 (Mon) 20:44:50


       *『 生命の實相 』第14巻(193~196頁)より

言葉は 種子(たね)を蒔く。それは 必ず芽を出して実(み)を結ぶのである。・・・・・・

種子(たね)は、遥(はる)かの幼時に蒔(ま)かれている。

詳しくいえば 幼時以前の胎教に於いても蒔かれている。
胎教以前にその魂の前生の経験や、祖先の遺伝の種子(たね)もあるのである。

因果は めぐる、だから 吾々は これらの悪い種子(たね)の力を奪ってしまうために 
反対の種類の種子(たね)を蒔かなければならないのである。

それは賞讃の種子(たね)である。
讃嘆の種子(たね)である。

如何に子供の現在の状態が賞(ほ)めるに値しなくとも、
「今に善(よ)くなる!」 「きっと偉い人物になる!」 こういうふうな
漸進的進歩の暗示(ことば)を与えるに相応わしくないことはないのである。


そしてその暗示(あんじ)の力で、漸進的にその子供を良化して行くことは
われわれの為し得る、否(いな)為(な)さねばならない義務であるのだ。


遺伝が良くないといって絶望するな。
胎教を過(あやま)ったといって失望するな。

人間は その最も深いところに 実に根強く、神の子としての神性の遺伝を
有(も)っているのである。


神性の根強い遺伝に比ぶれば、数代前、十数代前(ぜん)位(くらい)からの
遺伝の力は 太陽の前の星でしかないのだ。
このことを強く信ずるものは幸いなるかな。・・・・・・


・・・・・・これこそ実に強く神から譲(ゆず)られた 「 神性の遺伝 」 が
吾々に はたらいていてくれる証拠であるのである。
吾らはこの 「 神性の遺伝 」 に敬礼し、感謝し、日夜(にちや)
この神性に対して讃嘆の声を雨ふらさなくてはならないのである。 


・・・・・讃嘆と敬礼との声にて 吾らの 「 神性の遺伝 」 に対して
肥料を与える時 どんなに子供の 「 神性 」 が強く萌(も)え出(で)るかは
想像するに難(かた)くないであろう。


如何に祖先の悪遺伝が強くとも、また今迄に胎教が 如何に失敗していようとも、
幼時の教育の仕方一(しかたひと)つで、かくの如き雑草をまだ嫩葉(わかば)のうちに
刈(か)りとることは 何の雑作(ぞうさ)もないことであるのである。・・・・・


悪しき遺伝を撲滅せしめる拮抗菌は 「 善き言葉 」 と適当な「 讃嘆の声 」 である。
「 善き言葉 」 の多きほど、適当な 「 讃(ほ)め言葉 」 の多きほど、
悪しき遺伝は消滅し易(やす)い。


ここにもまた 「 同類相(あい)招(よ)ぶ 」 の 心の法則は働くのである。
・・・・ああ善き言葉なるかな! 善き言葉なるかな!


・・・・だから諸君よ、諸君の子供に そして諸君の教え子に宿っているところの
「 神性 」( 神からの大遺伝 )を認めることから始めよ。


そして光が暗(やみ)を逐い出(だ)すように、吾々がありありと彼に宿っている
「 神性 」 をば認めさえすれば、その 「 認める力 」 の輝きによって、
如何なる悪癖(あくへき)も悪遺伝も数年のうちに根絶することは
又(また)難(かた)くはないのである。

  (http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/b4ab10094050cffaf064ca0fc29c0c87

          <感謝合掌 平成29年4月3日 頓首再拝>  

闘争主義からの脱却 - 伝統

2017/04/05 (Wed) 18:43:02

闘争主義からの脱却  ―  ラジオ放送 『希望の泉』 を聞いて神経痛が治った

          *『放送 人生讀本』(256頁 ~ 261頁)より

菊地藤吉さんは、嘗て日本共産党員として北海道の全逓の闘争委員長を
やっておられた人であります。 

きわめて真面目な人で、人類を救うためには、どうしても、制度をかえなければならない、
その制度によって人間に配給される物質の量が変り、それによって人間の幸福の量がかわる
と言うのでありまして、
共産党員の方は皆唯物論者でありまして、この世の中は物質でできていると考えている。 

その物質でできていると考えているこの世界をよくするには、
物質的なものを破壊して行かなければならない。 
従って人間を幸福にするのは制度を破壊しなければならないというわけで、
きわめて真面目にそれに従事しておられたのでありますけれども、

「生長の家」 に触れられましてから、この世界は物質の塊でできているのじゃない、
物質と見えているのは、実は心の相が現れているのである。 
いくら形をかえても、結局心が変化しなかったならば、人類は救われないのである。 

こういう気持におなりになりまして、そして 「生長の家」 の講師として活動し、
各所で講演をやっておられるのであります。


この間北海道の 「滝上」 という所で講演をやられました。 
そして講演を終りまして、演壇から降りて控室の方へ行こうとすると、
後から菊地君の肩をポンと叩く男はある。 

「おい、君、菊地君」 振り向いて見ると、「おお、下山君か」 ― 
というのは全逓の闘争委員長をしておった時に、相棒になって大いに活動しておった
ところの、やはり共産党員の友達であります。

「おお、しばらくぶりだな、今日は道を歩いていると、君の講演会があるというので
久しぶりに君の顔も見たいし、そして話も聞こう、どんな話をするのだろうと思って
やって来たんだが、君の話を聞いていると、

この間ぼくが10月の11日に、あのラジオ放送を聞いたその時に、
谷口雅春という人が、『希望の泉』 という時間で話しておったが、
その時に話をしておったこととよく似たことを話しているではないか。」

「いや、僕はその谷口雅春という人のやっている 『生長の家』 という、
その教えの団体に今入っているんだよ。」

「どうしてまたそんな団体に入ったのか?」
 
「いや。 それじゃ君もしばらくぶりだから、
一緒にお茶でも飲みながら話そうじゃないか。」  

こういう訳で喫茶店に入ってお茶を飲みながら話したのであります。


そのとき菊地君が言うのに、この世の中は物質の塊じゃない、
すべてこの肉体と見えているもの、形ありと見えているもの、
あるいは制度と見えているもの、ことごとく形の現れていると見えるものは、
これは心の相というものが現れているものなんだ。

肉体の病気だってやはり同じことなんだけれども、
心で見る通りにこの世界というものは現れて来るのである。

われわれはいままで闘争闘争と考えていた闘争によって世界をよくすることができるんだ、
できるんだ、こう思っていたんだけれども、

人を悪いと思い、そして悪いことを認めて彼と闘争して、相手をよくしようと思ったって
それはできないんだ、悪いと見れば悪い相が現れて来るのであって、
よくしてやろうと思っても、相手を悪いと思っている限りにおいては、
人間は決して相手をよくすることができないということがわかったのである。

本当にすべてのものをよくするのには、すべての人間は神の子であって、
初めから完全円満なものであるから、罪なんていうものは決してないんだ、
悪いやつは一人だってないんだ、

皆神の子であり、仏の子であるということを本当にこちらの心で拝みきることができた時に、
相手が完全な姿になって現れて来る。 

 
すべての人間はそういうように神の子であり、仏の姿だと本当に拝んだ時に、
この世界が血塗らずして、闘争せずして完全になってしまうのだ。
 ・・・・ 菊地君がこういう話をしました時に、

下山藤太郎君は 「この間、ぼくが10月の11日にあの 『希望の泉』 の時間に、
谷口という人の話を聞いておったら、僕の神経痛が治ったのは、
その谷口と云う人の話をきいた結果かも知れない』 

と言って次のような話をしたのであります。 ――


実はその頃、私の家内が、自分の子供が思うように行かないので、
自分の子供は、悪い子だ、悪い子だ、何とかしてよくしようと思って悩んでおった
最中でしたので、ラジオ放送を聞いて、人間は神の子で完全であると知って、

「ああ、今まで自分の子供が悪い子供だ、悪い子供だと思って、
それをよくしようと思っておってもどうしてもよくならなかったが、
これは自分が、うちの子供は悪い子供だ、悪い子供だと思っておったために
そうなっておったのだ、

ああ、神様こしらえた神の子なるものが私の子なんだ、罪なんてないのだ、
罪ある子供はないのだ、悪い子供はないのだ」  

こう感じられてそこに思わず涙を流して泣き出したというのであります。

その時に、ラジオ東京の放送が、北海道では実に距離が遠いものですから、
時々音が大きくなったり消えそうになったりする ―  その時すうっと
その音が低くなって来ましたので私 〈下山藤太郎君〉 は、
右の手を延して、ラジオの音量を加減するあのつまみをひねってぐつと廻した。 

そうしたらまた大きく聞えて来た。 家内が泣いている。 

泣いていた家内が “あなた右手が動いたじゃないですか” と言った。 
ハッと気がついてみると、2,3ヶ月前から、右手が神経痛で動かなかった。 

もし動かそうとすると痛くてたまらなかったのが、痛くも何ともなく、
手を伸ばしてラジオの 「つまみ」 を廻すことができておったのだ
ということが判ったのですね。

“あ、どうしてこんなに治ったのだろう、これは偶然に治ったのだろう” 
と私は今まで思っておったのです。 

ところが君の話を聞いた時に、“人間は物質じゃないのだ、肉体じゃないのだ、
そんな悪い者はないのだ、病気になるような肉体はないのである” 

ということを聞いた時に、
そうして “悪い子供はないのだ、悪い人間はないのだ、罪ある人間はないのだ” 
ということを聞いて私の心が変ってしまった。 

“ああ、人間は神の子だ、完全だ、呪うものは一つもないのだ” 
こう気がついた時に、その時にぼくの心が変ったのでしょう。 

そしたら、本来 “人間神の子” の完全な相がここに現れて、
そうしてこの病気が治ったに違いない。


これが下山藤太郎君の述懐だったのであります。

 
『生命の實相』 第1巻の巻頭に、
「生命の自性完全円満を自覚すれば神癒となって一切の病が消えてしまう」 
ということが書いてありますが、それが本当に此処に実証せられたのであります。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/186dfb6eec69e5455a147da5c6003dcf )

          <感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>   

憲法第14条の問題点  - 伝統

2017/04/08 (Sat) 18:38:08

社会的身分  ―  “平等”と“混沌”とを混同してはならない、 憲法第14条の問題点 

          *『白鳩』(昭和39年12月号 72 ~ 74頁)より


現行の日本国憲法第14条には 
「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分
又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係に於いて、差別されない」 とありますが、

「法の下に平等である」 ということを、
あらゆる ‘人間関係に於いて平等である’ という風に解釈されているらしく 
 
〈注:法の下に平等とは、大人でも小児でも泥坊をしたものは、
同じように平等に法律によって裁かれるという意味で、
大人も小児も同じ身の丈の着物をきせるような取扱いせよということでもない。 それなのに〉  学校の先生も、生徒も平等の権利を主張し、両親も子供も、兄姉も弟妹も平等の権利を主張して、長幼の序も師弟の宜もへちまもない現状であります。

だいたい 「平等」 ということを 「混沌」 と同意に解しているらしいのであって、
「平等」 は秩序の一形式であるけれども、「混沌」 は味噌も糞も一緒クタの無秩序のこと
を言うのであります。

先日、戸塚文子さんは、日経新聞で、戦後の先生と生徒の関係を次のように描写して、
嘆いておられるのでありました。

「戦後の先生がたは、人間味豊かになられた。 それはいい。 
生徒の心の中に、はいりこんで、親しみ深く指導されようと、努力していらっしゃる。 
その方針も、悪くない。 

だが、友だちみたいに、なれ親しむ度が過ぎるあまり、生徒の線まで、
下落なすっては困るのである。 
平たくいえば、親しまれてもナメられるな、ということだ、まして、
生徒やPTAの人気を気にして迎合なさるようでは大困りだ。 

いわんや、手におえなくなった生徒をこわがって、おっかなびっくり、
へっぴりごしで、おつき合いになるのでは、もはや教育とはいえなかろう」

このような状態が大多数の、“平等” と “混沌” とを穿きちがえた
日本の教師と生徒との関係なのであります。


前掲の憲法第14条にある 「社会的身分により ・・・ 差別されない」 とある 
「社会的身分」 という人間関係は、教師と生徒 ― 師弟の関係をも含んで
いるように見えるのであります。 

だから先生も生徒も同一の権利をもっていて差別されないというように解釈されます。

 
師弟の関係だけではなく、親子関係に於いても、これを社会的‘身分’によって
差別されないという風に解釈されているらしいのであります。 

社会的身分というのは、親子関係、夫婦関係などが含まれているのである。 
だから 「身分証明書」 というのを役場から貰うと、そのような関係のことが
書いてあるのであります。 

それだから親も子も差別がない平等の権利があるというので、
最近では、両親が子供に対してビクビクしている。 

親が、「これは善事である」 「これは道徳的である」 と思っても
それを子供に対して強制することができない。 
親が肉食をいやがっても、娘が牛肉を買って来て平気で食べても
それをやめさせる権利を親はもっていない。 

親は始終、食卓で腹を立てているので、彼は始終胃が悪いというような家庭もあります。 

「手におえなくなった子供を、おっかなびっくり、へっぴり腰でおつき合いを」 
子供にねがっているのは、教師ばかりでなく、両親も同様のように見えるのであります。 

これだから青少年に非行者が続々あらわれても致し方がない訳です。 
彼等は 「平等」 と 「混沌」 とを間違えているのであります。 

頭も、口唇も、肛門も、一列の平面に置きならべて、それを平等だと考え、
「口が物を食うなら、俺だって平等の権利があるから、肛門にも物を食わせろ!!」 
というのに似ています。 

これは 「混沌」 であって 「平等」 ではないのであります。 
しかしそのような間違った解釈がでて来るのは日本国憲法第14条の条文が
わるいからであります。

 
本当の平等ということは、「平等即差別」 「差別即平等」 ということがわからないと、
本当には理解できないものであります。

平等ということは 「人間」 の実相はすべて “神の子” であり、
仏教的表現をもってすれば、「一切衆生悉く仏性あり」 ということです。 

みんな平等に仏性を宿すのである。 
しかも柳は緑、花は紅、それぞれの天分にしたがって差別があり、
これは “生け花” にでも活けるならば、天地人おのおの位置を異にすることによって
全体に統一的美があらわれる、これが真の “処を得せしめる平等” なのであります。 

美が其処にあらわれるということは、
そこに生命が生き生きとあらわれたということであり、
更に宗教的にいうならば其処に神があらわれたということである。 

これが 「本当の平等」 であって 「差別されながらに平等」 であり、
「平等そのままに差別がある」 のであります。

ところが現代の多くの人々には、それがわからないで 「平等、平等」 と権利を主張して、
“秩序” を破壊し、“混沌” の世界に逆戻りすることを民主主義の生活だと、
青少年も、先生も、子供も生徒も学生も考えているから、
国内にいつも混乱と争闘とがみちみちているのであります。 

この擾乱を基本的にバックしているのが現行の日本国憲法であります。 
これでは 「日本は何処へ行く?」 と嘆かずにはいられないのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/267250df99685ecaeea808ce7d01576a

          <感謝合掌 平成29年4月8日 頓首再拝> 

幹部は菩薩たれ - 伝統

2017/04/09 (Sun) 18:37:24


         *昭和59年3月31日 
          生長の家幹部養成学校 第1期生卒業式 での御言葉
           ~  生長の家副総裁  谷 口  清 超 先生


幹部というのは生長の家の場合は菩薩行をやる人でありますから、
人を救わなければならない。

この複雑な社会で私たちが菩薩行をやっていこうとすると、
こういう人は救うがあとの人は知らんというのではニセモノである。

患者を選ばない僻地の医者のように、あらゆる人を救わなければならない。 
しかも心の医者であるから中々難しい。

だから、これからがまた修業であり、卒業は従ってないのである。


皆さんは生長の家本部で菩薩行をやろうと決心された。 
それは尊い素晴しいことであります。

その決心を崩さないだけではなく、
教養を深めれば深めるほど益々謙虚な心をもって欲しいと思う。

その逆を行ってしまうと、少なくとも宗教的幹部とは言えない。


私も死ぬまで勉強するし、修業するが、
死んでからでもやろうというわけでありますから、
皆さんもしっかり人生研修に励んで下さい。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/135d24060d57552f45e3876b0ad8988e
  
          <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝> 

天意の実現せる唯一の国家が日本国家 - 伝統

2017/04/11 (Tue) 18:10:55


             *『女の浄土』第19章(P321~323)より

そして国民は下宿人の集りみたいに、テンデンばらばらに
国民が自分の利己主義で勝手に行動したらよい、
祖先伝来の家の財産でも、家族がバラバラに分解して持っていったらよい。

家なんか存在しないから、家督相続はないと定められているのが、現行の憲法であります。

 
国家としては、まだ天皇が「国民統合の象徴」として、
「統合の中心体」として現行憲法に存在しておりますので、
日本国はこのような安泰と繁栄の状態を続けておりますけれども、

この天皇の地位は、現行憲法そのままでは、国民の総意によって
いつでも左右できるように規定してありますから、社会主義や共産主義系の政権が樹立され、
そういう革新系の代議士の議席が三分の二を超えるようになると、

その三分の二以上の発議が、「国民の総意」と認められて、
天皇制廃止の社会主義憲法が新たに制定せられる惧(おそ)れがあるのであります。

しかも社会党は、1970年には日本に革命政権、又は革新系連合政権を樹立する
と言っているのですから、そういうことにならないように、

今のうちに現行の憲法が本当の憲法ではなく、占領中に日本を弱体化する政策上
押し付けられた”占領行政基本法”であることを明らかにして、
占領終了と同時に失効せるものであり、その失効と同時に、
明治憲法はそのまま生きているということを宣言すべきなのであります。

つまり、国家にも永久かわらざる中心が万世一系の天皇の形によって持続することによって、
一切の存在が「永久変らざる中心を持つ」という天意の実現せる唯一の国家が
日本国家であって、もし、この日本国家に天皇がなくなれば、

すべての存在には永久変らざる中心があるという神の宇宙創造の基本形態が、
国家だけには当てはまらず、破壊されることになります。

今こそ吾々は神意を実現せる真理国家こそ日本国家であるという、
日本国家独特の神聖性を明らかにするために、明治憲法復元に踏み切るべき時であります。


こう申しますと、私の言うことは非常にナショナリズム的に他から観られる
かも知れませんが、海外の書籍などにも、生長の家はナショナリズムにつながる
というような紹介記事を書いたものがありますが、

世界的に組織を持ち、生き生きと活動しているアメリカの新しいキリスト教
リリジャス・サイエンスの理事長であるウイリアム・ホルナディ博士が数年前見えたときに、
その事について質問せられたことがあります。

その時私はこう答えたのであります。

「イエスの教えた模範的祈りの”主の祈り”に於いて”天にまします吾らの父よ、
御名(みな)をあがましめ給え、御国を来たらしめ給え。御心の天に成るが如く
地にも成らしめ給え”と祈るように教えられているのであるが、

天には唯一つの永久変らざる神がいらっしゃって、すべてのものが
その唯一つの神の御心に帰一しているのでありましょう。

そうすれば、天にそのように御心の成るが如く、地にも成るとすれば、
その御心が地上に成り、その御心が国家にあらわれるならば、
永久変らざる中心が国家にも成就しなければならない。

そのような永久変らざる中心である万世一系の天皇をもつ国は日本だけであって、
国家としては最も神意にかなう形態をととのえているのが日本国家である」
と申し上げたのであります。

すると、ホルナディ博士は大いに頷(うなず)いて、賛成の意を表されたのであります。

だから『古事記』、『日本書紀』等の示すところの天皇中心国家というものは
キリスト教の示す世界観、または国家理想とも完全に一致するものであります。

これをナショナリズムだ、軍国主義だとキリスト教側から反対されるのは
理窟に合わないのであります。

          <感謝合掌 平成29年4月11日 頓首再拝> 

聞・思・修  ―  実相の水を汲み出すために - 伝統

2017/04/14 (Fri) 19:58:33


           *『こころの姿勢』 より
             ~日本教文社編輯局長  田中 忠雄  

井戸の水を汲みだす手押しポンプ。 
あれは実におもしろいものである。

使わないで、ながくほうっておくと、いくら押しても水は一滴も出なくなる。 
接続がうまくいかなくなるらしいのである。

一家をあげて避暑などに行って帰宅すると、ポンプはまるで手ごたえがなく、
すかし屁のように、音も立てなくなっている。
私も、ずっと以前にそんな経験をしたことがある。

ポンプをいくら押しても手ごたえがなく、一滴の水も出てこないと、愚者は小首をかしげる。 
はてな、井戸の底に水は全くなくなったのではないかと。 
しかし、水がなくては一日も暮してはゆけない。 

愚者は深刻な顔をして迷いだすのである。

賢者は、井戸の底に水が豊かにあることを信ずる。 
それは、むろん、さわって確かめるわけにはいかないし、
目でのぞいて見ることもできない。 

けれども、水は必ず井戸の底にあると信ずるのだ。 
その豊かにある水が出なくなったのは、接続がわるくなったからである。 
では、どうしたら接続を具合をよくすることができるか。 

賢者は、こんなふうに考える。

“よび水” をする必要がある。 バケツを持って隣りの家へ行く。 

「ごめんください、ながらく家をあけて何かと御迷惑をかけました。 
うちのポンプがながらく使わないうちに、だめになっていますので、
すみませんが、バケツに一ぱい水をいただけないでしょうか」 
「それは、それは、さぞおこまりでしょう。 おやすい御用です。 
さ、いくらでも持って行ってください」

このようにして、“よび水” をバケツに一ぱい貰ってくるのである。 
隣りの家というものは、実にありがたいものだ。 こ
ういう場合に、‘自力’だの‘他力’だのという詮議はいらぬことである。 

バケツを持って出かけて行き、それに水を入れて自分の家に運ぶのは
‘自力’であるともいえるが、
その水は隣りの人にもらったのであるから‘他力’でもある。

しかし、隣りの家の人が、こころよく水をくれるのは、
かねてこちらがそれだけの交際をしていたからでもある。 

平生仇敵のように睨みあっている仲であったら、とても水を貰いには行けないのだ。 
そうすると、どこまでが‘自力’で、どこまでが‘他力’ということはない。

どうでも‘自力’でいくのだ、人のおかげにはならぬと、かたくなに頑張ったら、
水は一滴も飲まずにいなければならない。 
そうかたくなにならずに、困ったら隣りに行って、“もらい水” をするがよい。


『聞・思・修』 (もん・し・しゅう) ということがある。

その第1番目の 『聞』 というのは、行きつまったときに助けを求めて、
然るべき人に真実の法を聴聞することである。 
人の話を聞くのが 『聞』 であるが、
書物を読むのもやはり、広い意味で 『聞』 である。 

ポンプがだめになっているときに、“よび水” を貰うのは、
この 『聞』 にあたるわけだ。

その “よび水” は清純でなければならない。 
赤痢やコレラなどのバイキンがいたら、大へんである。  

そんなひどい水でなくて、単に泥でよごれた水でも、
あとで非常に苦労しなければならなくなる。 

道元禅師は 「正師を得ざれば学ばざるに如かず」 と断言された。 
これは思い切った表現で、正しい師にめぐりあわないなら、
むしろ学問などはしない方がましだといわれたのである。 

正しい師の法を聞き、清純な水を貰うべきである。


この頃学問する人は、正師を得ざれば学ばざるに如かずということを知らないで、
ただやたらに先生の講義を聞けばよいと思っている。 
そこで赤いバイキンのうようよしている水を何ばいも貰ってきて、
それを自分のみならず、社会にもばらまくのである。 

学問したばかりに、みずから大へんな破壊的有毒物になってしまうのだ。
 
そこで、同じ隣りでも、近いだけが能ではない。 
少々遠くても、清純な水の持主のところへ行って水を貰うのがよいのである。


バケツに一ぱいもらった清純な水を、「これはすばらしい」 といって、
すぐに飲んでしまうのは、これまた愚者のすることである。 
飯を炊くために、またもや水を貰いに行かねばならなくなるのだ。

賢者は、バケツの水をポンプの中に流し入れて、じゅっとしみ込ませるのである。 
それが 聞・思・修 の 『思』 にあたる。

法を聞いただけではいけない。 
それは、貰った水を直ぐに飲んでしまうようなものだ。 
その場では、やれ助かったと思うけれども、また直ぐ行きつまってしまう。 

聞いた法を自分の内奥に、じゅっと浸みこませる。 
それが 『思』 である。 
よくよく思って反省し、心の内奥に深く受持するのである。

まず清純な水をもらってくる。 
そうして、それを、じゅっとしみ込ませる。 
このしみ込ませる作用がないと、自分のものにはならない。 

貰い水は、あくまで貰い水で、いううなれば借りものである。 
その借りものを自分のものにするには、つまびらかに思惟し反省して、
自己の毛細血管のなかまで滲透させねばならない。

借りものを借りもののままに、ほっておく人が多い。 
師の言葉の口まねばかりしている人がある。 

聞・思・修 の 『聞』 だけはどうやらできても、やれ助かったというだけでは、
『思』 が不十分だ。 

既成宗教というものは、おおむね 『聞』 だけがあって、『思』 が不足している。  
法を聞いて、それを暗誦するほどよく努めるが、その意味を噛みしめてみようとはしない。

口まねをするだけでは、せっかく聞いた法が素通りしてしまう。 
聞いたら、それを思うて、自己の身心にしみ込ませねばならない。 
貰ってきた水は、ポンプの中にそそぎ入れて、しみ込ませねばならない。
 
さて、一たんそそぎ入れて、十分しみ込ませたら、時を移さず、
ポンプの柄をせっせと押さなくてはならない。 
骨身を惜しまず、何度も何度も押さなくてはならない。 それが 『修』 である。


法を聞いて、深くこれを思う。 
もらい水をして、これをポンプに浸みこませる。 
そこまでは立派にやっていながら、ポンプを柄を動かさない人がある。 

いますぐ動かさなくても、いずれそのうち動かしたらよいだろうと考える人もある。 
それは実に惜しいことである。 

せっかく、『聞思』 したのに、最後の仕上げの 『修』 を怠って、
ついに水を汲みだすことができないのだ。 あわれむべきことである。

『修』 とは、この父母所生の身をめぐらして、行ずることである。 
法を聞いて、これを心の底に浸みこませたら時を移さず直ちに行じなくてはならない。 
その機を逸すると、あとでいくら苦労しても、その甲斐はないのである。 

ポンプは依然として、すかし屁のように空しく、いくら努力しても水は出てこない。

道元禅師の口調でいうと、次のようなことになる。 
すなわち、法を聞き心に菩提心を発したならば、万事を放下して法を行ずべきである。 
生活を安定させて然るのちに ・・・ などという思いが少しでもあれば、
それはもう絶対にものにはならない。 

第一、わが身は無常にしていつ消えるかわからないものである。 
幸いに受け難い人身を得てこの世に生まれたのに、空しく時を過して、
一切の条件が整うのを待って、然る後などと思うのは、根本的にまちがっている。 
そんなことでは、百年待っても条件が整うものではない。

道元禅師は、「然る後」 というのが一番いけないと言われた。 
即今、只今、時を移さずでなければならない。 
今直ちにポンプの柄を押すのである。

一たん押したら、それをつづけて押さねばならない。 
一度や二度押して、しばらく休止し、それから思いだしたようにまた始める
というふうでは、残念ながら水は出てこない。 

何度も何度もポンプの柄を押しつづけるのだ。 
これを “行持” という。 
行を持続するので行持というのである。 

みずから行持しないでいることを棚にあげて、水が少しも出ませんと言って嘆く人がいる。 
そんな人は、やがて井戸の底に水のあることまで疑うようになる。 

そうすると、今まで聞いた法も、深く思うた法も、みんなうそであった
かもしれぬということになる。 
つまり 『修』 がないと 『聞』 も 『思』 も共にくずれ去ってしまうのである。
 


そこで、もう一度、おさらいをしておくと、
まず正師の話や書物を通じて清純な水をもらってくる。 
そうしてその “もらい水” を自分の身心に浸みこませる。 

浸みこませたら、すぐに自己の身心を揚げて行じ、その行を行持する。 
これで 『聞・思・修』 の三つが完全に揃ったことになる。 

そうすると、必ず手ごたえがある。 
手ごたえがあるなと感じた瞬間に、水がじゃあと出てくる。

このじゃあと出てくる水は、もう貰い水ではない。 
借りものでもない。 まぎれもなく自家の井戸の底から湧き出たものだ。 
自己の内奥から湧き出たものだ。 

これを 「真如法性の水」 という。 
「実相の水」 というてもよい。 

もし、そんな水はほしくないと思う人があるなら、
「幸福の水」 といいなおしてもよい。

実相の水は、深い井戸の底に豊かにあるが、
手でさわられるような 「物の水」 ではないし、
目で見られるような 「形の水」 でもない。 

だから、罪業深い愚者はこれを疑ってさまよい、右往左往するのである。 
その愚者の疑いをふり切るには、清水の舞台からとびおりるほどの決心が必要である。 

この決心を 『信』 という。 『聞・思・修』 の三つの働きをつないで
一つにするところのものは、じつにこの 『信』 である。

よく “教・行・信・証” というが、それは‘教’えを聞き、深く思うて、
これを‘行’ずるについては‘信’をもって貫く、そうすれば
‘証’すなわち悟りが得られるという意味である。 

実相の水が出てくるという意味である。 
実相の水とポンプとの接触がよくなりすれば、その水はいくらでも出てくる。 
必要に応じて、コップ一ぱいでも、四斗樽に十ぱいでも出てくる。 

まことに自由自在である。 
誰にたいしても遠慮や気がねをするには及ばない。

困った人が貰いにきたら、この原理をよく説明してやる。 
人に乞われるままに、バケツに水を満たしてやるだけでは慈悲心において不十分である。 
この水の処方を深切に教えてあげるのだ。 

この水は、“よび水” だから“よび水”としてお使いにならないといけません。 
まずポンプに浸みこませるのですよ。 
浸みこませたままで、ぼんやりしていてはいけません。 

あなた自身の手でポンプを動かさなくてはなりません。 
一度や二度動かしても水は出ません。 
そのとき疑いの念がおこってもやめてはいけません。 
水は井戸の底にあるのですから、何度も続けて動かすのですよ。 ―― 

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/41bee3022cfa6c09ccb0c4ac71bea52f

          <感謝合掌 平成29年4月14日 頓首再拝> 

生命奉還  ―  真個無我に徹する - 伝統

2017/04/16 (Sun) 18:04:39


          *『生長の家』(昭和15年9月号 14頁)より


生命とは 「肉体」 ではございませぬ。 
生命とは 「物質」 ではございませぬ。 

さもなければ 「身を殺して仁を為す」 とか、
「生命を捐つるものは生命を得ん」 とか、
「義のために一身を空しくする」 とか、
四十七義士のハラキリとかは理解する事が出来ませぬ。

 
生命の凱歌は 「肉体」 を捨て 「物質」 を捨てたときあがるのであります。 
『生命奉還』 であります。 
天皇陛下に生命奉還であります。

 
教育勅語に 明治天皇が 「皇祖皇宗國を肇むること宏遠に」 
と仰せ給いし際の 「國」 とは 「宇宙 (くに)」 であります。 
「宇宙 (くに)」 の生命は皇祖皇宗が國を肇め給いしときに発生したのであります。

 
天地の初発の時に、天皇先いまして、その勅によって 
「漂へる國」 は初めて 「自凝島 (おのころじま)」 となったのであります。 

「漂へる國」 とは姿定かならざる宇宙であります。 
姿定かならざる宇宙とは 「無い宇宙」 であります。 
「自凝島」 とは姿をはじめて顕した宇宙であります。

「無い宇宙」 をして 「有る宇宙」 ならしめたのは、
其処に 「宇宙大生命」 が働いたのであります。 

宇宙大生命  ―  これを称して天之御中主神と申上げるのであります。

天之御中主神は宇宙の幽の幽なる本元の大神であらせられ、
皇祖であらせられ、歴史以前に遡れば
大日本初一代の天皇 (すめらみこと) であらせられます。

凡て生命 天皇より流れ出ずるのであります。 
宇宙は 天皇の‘もの’であり給う。 

何一つ 「私」 は無いのであります。 
真個無我であります。

この真理を知るとき、おのずから 『生命奉還』 の心起るのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/886d724ea5739893f78ac5b67e0d95fa

          <感謝合掌 平成29年4月16日 頓首再拝> 

生長の家発見 - 伝統

2017/04/17 (Mon) 19:03:39


          *『光の泉』(昭和39年11月号、56 ~ 61頁)より

『若人のための78章』 の49頁にこう書かれております。

「自然が神の創作したまえる直接芸術であるに対して、
人生は人間の自由意志によって想像する芸術であるということが出来るのである。 

色とりどりの人生は、すべての人間の各々の想念という絵の具によって彩られて、
五彩七彩の輝きをあらわすのである。 

そこに悲劇があらわれているにせよ、喜劇があらわれているにせよ、
それは作者の創作であって、神が決して押しつけた運命ではないのである」


この人間の運命というものが、神が決して人間に押しつけたものではない、
すなわち決して宿命的なものでないということを
吾々は知らなければならないのであります。

私は或る宗教におりました時代に、その宗教では、愈々近いうちに
神様が此の世界を建て替える最後の時が来ると申しておりまして、
神様の気に入らないところの不良の人間を、「地震、雷、火の雨降らして」 
滅亡せしめて、神様の気に入る人間だけを地上に残すというようなことを
説いている教えであったのであります。

ところが私は或る日の事、自分の家の庭を見ておりますと、
一匹の蛇が出て来て蛙を呑んでいたのを見たのであります。

「ああ、可哀想だなあ、あの蛙は。 あの蛇を棒で撲って、蛙を助けてやろうか」

と一時は、思ったのでありますけれども、

「いやいや、蛙を助けて蛇を撲ったら一体蛇っていうものは何を食べて生きるんだろう。 
又別の蛙を掴まえて食べるからあの蛙は救かるかも知れんけれども、
他の蛙は救からんことになる。 

或いは他の蛙が見つからないとしたらあの蛇は飢え死にをしてしまうかもしれない。 
蛙を救けると蛇が死ぬ、 蛇を救けると蛙が死ぬ。 何という不調和な世界なんだろう」

と私は思ったのであります。

「どうしてこんな不調和な世界を神様が拵えたのであろう」 と私は考えました。 
互に食い合い殺し合いをしなければならないような、不完全な世界を
神様は拵えたのは誠にもって怪しからぬ。 

これに創造主 (つくりぬし) があるなら創造主の責任である。 
そんな不完全な創造神が、人間が争い、食い合い、殺し合い、不徳な行いをする
からといって、人間に罰を与えて神様自身の気に入らぬ人間は、
皆殺しに殺してしまうというような、そんな不合理な事があるだろうか。 

神自身が不完全じゃないか。 
そんな不完全な神は 「神」 と称するに足りないものである。 
そんな神は存在しないのである。 

ついに私はこう考えたのであります。 

そうして私は、その宗教から脱退した。 

そして此の世界はそういう神様が拵えた世界ではない、
これは人間の心が拵えた世界なのである。 

つまり人間自身の心が展開してそれが時間・空間面に現われている世界が、
この肉眼で見える現象世界である、こういう風に私はその時考えたのであります。

私はその時、神の宇宙創造説からぬけ出して、この見える世界は 
「唯心所現の世界」 であると考えるようになったのであります。 

この世界は唯心所現の世界、即ち 「心のあらわす処の世界」 であって、
神様が拵えた世界じゃないんだと考えるようになったのであります。

お釈迦さんも矢張りそう思われた時代があったという事を
私は仏典で読んだことがあります。

お釈迦さんは或る日の事、王宮の外苑を散歩しておられましたら
一匹の烏が出て来て土を掘って何か蝉の幼虫のような、芋虫のようなものを
掘り出して食べているのであります。 

その芋虫のような生物は烏の嘴につつかれて、からだをくねらせて痛そうに苦しんでいる。 

それを釈尊が御覧になった時に、 

「ああ、この世界は悲惨な世界である、生存競争の世界である。 
弱肉強食の世界である、殺し合いの世界である。 
そこには “生” の苦しみが充満している、
この “生” の苦しみを解脱するのにはどうしたらよかろうか」

と考えなやまれた。 

これが釈尊の出家せられた動機の一つになったということでありますが、
私は蛙と蛇との闘争を見て、

此の世界は神の創造の世界ではない  ―  愛深き神様が拵えた世界じゃないんだ、
人間の心の創作の世界であると考えるようになったのであります。


それからしばらくしまして、私は、宇宙の創造神が此の世界に
地震、雷、火の雨をふらして最後の審判をおこなうというその教団から脱退いたしまして、
著述家になろうと思って東京へ飛び出して、或る本を書いたのであります。 

しかしその教団を飛び出したけれども、心の奥底に、
この弱肉強食の闘争の此の世界を調和ある世界にするには如何になすべきか。 

このままでは人間は救われない。 
その救われないことに自分自身が悩む心が起って来るのは一体どうしてであろうか、
という事を考えずにはいられなかったのであります。

その闘争の世界から目を挙げて、“救い” を求める心というものが起って来るのは、
どうしてそれが起って来るのであるか。 

その “救いを求める心” がたまらなく自分の心をかき立てるのは、
何処かに、本当に 「救うところの本体」 があるからではないか  ―  だからこそ、
こういう “救いを求める心” が切実に起って来るのではなかろうか ・・・。

 《切実に吾々が魂の底から求めるのは、
  既にそれが‘ある’からそれを感じ求めるのではないか》

というような感じがして来たのであります。

 即ちこの世界を造ったのは 「吾々の心」 であるが、
併し 「吾々を救う処の何か偉大なる者」 が何処かにあるに違いない ―― 。 

何処かにその偉大なるものがなかったら、こうして切実に魂の底から 
“救いを求める心” が起って来る筈がない。 

私の心の底は、何処かにその救いを求める尚一層大なるものにつながっていて、
それを感じているのである。 
既にそれを暗黙のうちに感じ知っているからこそ、それを求めるのではなかろうか ―― 。

 
「救いの本尊」 が何処かにある。 
それを 「神」 と言えば 「神」 と言える、しかしその 「神」 は
この悲惨な弱肉強食の現象世界を拵えたんじゃないんだ、という直感が
這入って来たのであります。 

ここに現象世界の創造者と、実在の世界の創造者とをハッキリ分けて
考えなければならぬことに気がついたのであります。


その直感が今、生長の家の教えの奥底にあるのでありまして、
その 「救いの本尊」 は何処にあるかと言うと、
それは 「実相の世界」 にあるという風に
今では生長の家では説かれているのであります。

この肉眼で見るところの世界は、殺し合いの世界は、奪い合いの世界は、
食い合いの世界は、それは吾々の “心” のあらわすところである。 

“心” が変ればそれは変わる。 
けれども、その現象世界の、殺し合いの世界のその彼方に、
もっと 「超越した処」 に完全な実相の世界があって、

そこはイザヤ書に書いてあるように、
蝮のすむ孔に子供が指を突込んでも蝮と子供とはたわむれ遊んで蝮が子供を傷つけない。 
ライオンと羊とは仲良く草を食っているようなそういう世界が既にある。 

既にあるからこそ吾々の求める気持が、
自己の生命の奥底から押し出してくるのである。

実相の世界にはすべて生きとし生けるものが互に完全に調和した姿において、
‘そこに’既に在るのだ。 

その世界はどうしたら出て来るか、どうしたら現象化して出て来るかという事に、
私は思い悩んだのであります。

そうして遂にそれを発見したのであります。 

それは現象世界は心のあらわす所でありますから、
心を媒介として、心をレンズとして、その心を澄み切らして、
完全に心を透明にして 「実相の世界」 の光が射し入るようにした時に、
その心を媒介として心のあらわす処の現象世界に、実相世界の完全な相が投影して、
諸法がこのまま実相となる。 

この 「実相の世界」 のことを 「仏の世界」 と言ってもいい、
「神の世界」 と言ってもいい、天国と言ってもいい、「お浄土」 と言ってもいい、
それこそが本当に実在する世界である。 

その実在の既存の完全な世界が、
心を媒介として吾々の現象世界にそれがあらわれて来させる  ――  
これが “地上天国建設運動” であります。


しかし、この真実在の完全な実相世界は、霊的世界であって、
物質世界ではありませんから、観じなければあらわれないのであります。 

その観ずる方法として私は 『神想観』 という観法を神から啓示されたのであります。 
その 『神想観』 によって実相の完全なる姿を心の眼をもって正観する時に、
完全な実在の姿が現象世界にまで延長して出て来るのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ec55561a7502828b7d61537c45497254

          <感謝合掌 平成29年4月17日 頓首再拝> 

迷いの暗を切り光を現わす真理の神剣の働き - 伝統

2017/04/23 (Sun) 19:02:20


         *「生長の家」(昭和53年11月号)より

『生命の實相』第一巻の開巻冒頭に、“はしがき”よりも、目次よりも、尚、
その前の頁に、新約聖書の『黙示録』の第一章にある白髪の翁の姿をもってあらわれた
「久遠のキリスト」の姿が描写されているのである。

「何故、生長の家はキリスト教ではないのに、キリスト教聖書の一節を、
『生命の實相』第一巻の“はしがき”よりも目次よりも尚前に引用して提出してあるか」
といいますと

白髪は久遠の表象であり、キリスト教に於いては“生長の家の大神”は白髪の
久遠神(ユダヤ人のイエスではない)としてあらわれていられるからであります。

その白髪のキリストの御姿の描写の中に「その口より両刃の利き剣出で」と示されている。

これ真と偽とを別ち美と醜とを分別し、善悪を審く、最後の審判の神剣なのである。

善悪・美醜を審判する“秩序の智慧”が神であり、
その神剣によって悪は切り棄てられ、偽は葬られ、
本来無いのに姿をあらわしている病その他一切の醜きものは切り棄てられて

地獄の火の杭に投げ入れられ焼きほろぼされて、

真なるもの、美なるもの、善なるもののみが
そこに住吉の世界が地上天国として姿をあらわすのであります。

もし、この真と偽とを分ち、真なるもの、善なるもの、美なるもののみを顕わし、
これに反するものを切り棄てるハタラキが発動しなければ天地は完成しないのであります。

この真偽を分ち、美醜を区別し、
善悪を審判するはたらきによって、天地は一新するのである。

『黙示録』第二十一章にはこの事が明らかにされている

『我また新しき天と新しき地を見たり、
これ前の天と地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。

我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、
神の許をいで、天より降るを見たり・・・見よ、神の幕屋、人と偕にあり、
神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、
かれらの目の涙をことごとく拭い去り給はん。

今よりのち死もなく、悲嘆も、号叫も、苦痛もなかるべし。
前のもの既に過ぎ去りたればなり・・・斯くて御座に坐し給ふもの言ひたまふ
「視よ、われ一切のものを新たにするなり」....』


これが、“両刃の剣”のはたらきであります。
“剣”は“片無”(刀)ではないのであって、
敵を切るために、敵に向う一方にのみ刃がついていないで、
自分に向う側にも刃がついていて、

真ならざるもの、美ならざるもの、善ならざるものがあれば
自分を切るのが、剣のハタラキであります。

これが地上に平和をもち来らし、最後の審判によって、
新しき天と地とをもち来たす住吉の世界を創造する神剣のはたらきである。

参考につぎに『秘められたる神示』の中に収録せられている
『最後の審判の神示』を再録して、両刃の剣のハタラキを明らかにする。

     (http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/493

             ・・・
 
『最後の審判の神示』(谷口雅春先生 ご朗読)
 → https://www.youtube.com/watch?v=stCWaMvMKfY


【最後の審判に就いての神示】


キリスト再び臨(きた)りて審判(さば)くとは今のことである。
キリストとは肉體にあらず、『眞理』である。
キリストとは肉體にあらず、『光』である。

肉體のわれの臨るを待ち望むな。
吾れは既に此處に臨(きた)れるに非ずや、
吾れは道である、眞理である、光である。

『眞理(われ)』來つて虚妄(まよひ)を審判き、
『光(われ)』來つて暗黒(やみ)を審判き、
すべての虚妄(まよひ)と暗黒(くらき)とを
地獄の火に投げ入れてこれを燒き滅ぼす。

今こそ最後の審判(しんぱん)であると知れ。

されど恐るる勿れ、吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず。
虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き暗黒(やみ)を燒かるる者は
却つて光をあらはさん。

病ひは癒やされ、惱みは消えん。
燒かるる者は『汝』にあらずして、
『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。

『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるにあらず、
神より出(い)でざる汝は實在にあらず、
實在に非(あらざ)る汝はその眞相(しんそう)を暴露して消滅せん。

わが臨れるは『眞』と『僞』と、『實在』と『虚妄(こまう)』とを選(よ)り別けて、
『僞(ぎ)』と『虚妄(こまう)』とを永久(えいきゅう)に
非實在(ぢごく)の中に葬りて封印を施(ほどこ)さんがためである。

(昭和六年九月二十八日朝神示)

          <感謝合掌 平成29年4月23日 頓首再拝> 

神と倶に生活するには - 伝統

2017/04/29 (Sat) 18:38:49


         *『白鳩』(昭和25年9月号 巻頭言)より

こんな話がフェンヰック・ホルムス博士の本に書いてある。

二人の女生徒が学校へ通学していた。 
学校のすぐ側まで来たときに始業のベルが鳴りはじめたのである。 
二人は信仰深い少女であった。 

「学校に遅刻しないように跪いて神様に祈りましょうよ」 と甲の少女は云った。 
「そんなことをしていては駄目よ。 一所懸命走りながら神様に祈りましょうよ」 
と乙の少女は云った。

読者はどちらが正しい祈りであると思われますか。 
それは筆者が回答するまでもなく、自明のことであるのである。

こんな簡単なことなら誰でもわかることだけれども、実際生活の難問題に直面すると、
その原理がわからなくなり、時々途方にくれる人が出て来るのである。

 
子供の病気の場合でもそうである。 
医者にもかけず、何らの手当も施さないで、
ただ気が顛倒して祈ってばかりいるような両親は、
丁度甲の少女のやり方に属するのである。 

それでは遅刻する恐れがあるし、気が顛倒しているので、
その反映として神との波長が一致せず、処置を誤るのである。

神は全能である。 
しかし神の働きたまう出口はただ一箇所のみには限られていないのである。 
神は医者やその他の人を通して働きたまい、水を通しても、食物を通しても、
薬剤を通しても、また自分自身の努力を通しても働きたまうのである。 

吾々は神の働きの出口を自分の我の考えで或る一ヶ所又は数ヶ所に
制限してしまってはならないのである。


しかしこのような心の態度は、‘あれ’にも頼り、‘これ’にも頼り、
心が動揺して、確乎とした信念が持てないようになる恐れがあるのである。 

時として医者に頼って神に頼らず、薬に頼って神に頼らず、
自力の雑行雑修に頼って神に頼らず、自力の雑行雑修に頼って、
神に信頼しないようになる惧れがあるのである。 

そこにこのような心的感度の欠陥があるのである。 
その欠陥を是正するには、どうしたら好いだろうか。

それは走りながら祈ることである。 
祈りは神との一体感を深め、何時、何処に、如何になすべきかの啓示に対して
人間を敏感ならしめるのである。

祈りながら、神の催しによって 「何を為せ」 と内部から感じられて来ることは
それは形の上から見れば、医療であろうと、物理療法であろうと
雑行雑修のように見えようとも、それを通して神が働き給うのであるから、
その働きにまかせることは純一無雑に神に全托したことになるのである。

一つでも神の 「是を為せ」 と云う啓示を、
自分の我で止めてはならないのである。

     (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/83e7a620c38ca33937cbffb21c6a6b5b
    
          <感謝合掌 平成29年4月29日 頓首再拝> 

霊智心 - 伝統

2017/05/03 (Wed) 19:37:20


        *『生長の家』(昭和25年7月号 10~11頁) より
          ~ 昭和25年3月12日(日曜日・夜)
             東京青年会幹部の谷口先生を囲む会

 
「心」と云うものを一つだと考えるのと、「心」を「自分の本体」だと考えるところに、
そう云う間違いを生ずるのです。

「心」と云うものは大体、吾々の「道具」である。 
吾々は「肉体」と云う道具を使う。 
併し肉体は人間ではない。 

それと同じように吾々は「心」と云う道具を使う。 
所謂普通に云う「心」は吾々の道具であって人間の本体ではないのである。

吾々の持っている「心」は一つではなく、幾階段もの心を持っている。 

例えば、吾々の細胞には「細胞意識」と云う心があって、
どれが自分自身の栄養になるかを選り分けて吸収する力をもっている。 

そして黴菌とか何か外敵があらわれて来ると、それを認めて、捕えて殺す
  ― こう云う相手を選択する心はたしかに心である。 

人体の細胞の一部は全体から切り離して人工培養益の中で培養すると、
心臓の細胞とか腎臓の細胞とか云う特殊の働きをしている細胞が、
その特殊を失って類形的な、全体が同じように働きかける。 

細胞単位としての「心」はあるが、
心臓単位、腎臓単位と云うような特殊的使命の働きは失われる。


即ち人間の肉体が全体として有機的な働きをし各内蔵が各々異る内蔵として
活動している肉体全体を統率する「心」の働きである。 

この「心」を「本能の心」と云っても好い。 
「細胞の心」の上に「本能の心」があるのである。


高級の心は下級の心を支配するのであって、下級の心ほど自由が少ないのである。 
しかしこの「本能の心」はまだ吾々の「意識的心」とは異る。

吾々は意識しないでも心臓は1分間に72回鼓動する。 
意識しないでも胃腸の働きは「本能の心」によって行われている。 
「本能の心」の上級に「意識の心」がある。 

「意識の心」が恥かしがったり恐怖すると、「本能の心」がその支配を受けて
心臓の鼓動や、胃腸の消化状態が異って来る。

「意識の心」は心臓も腎臓をも含めて全体の肉体を移動させるが、
「本能の心」はそれに反抗することは出来ない。 
本能の心はその段階での或る自由を持っているに過ぎない。 

しかしこの「意識の心」も「人間の本体」ではない。

これは人間の「道具」であって、
自分の声をラジオ・セットでとか蓄音機とかで聞くようなものである。 
そして発声器から再現された心の振動で人に意志を通じたりするための「道具」が
「意識の心」である。


「意識の心」の奥に「潜在意識」と呼ぶものがある。 
それは意識の心が起した想念感情の「貯蔵庫」みたいなものであり、
それは一面数的に貯蔵されているけれども、蓄電器のようにある力をもって
過去の想念感情を流し出す力をもっている。 

それが現在意識を左右する力をもっている。 

この点で現在意識の自由というものは限られたものであって、
現在意識が「幸福を得たい」と思っても、その一段上の段階の潜在意識が
「苦痛にやって汝の過去の業を浄めよ」と云って引ずって行くと、
その人の人生に苦痛が現れて来るのである。 

その潜在意識も尚、人間の最高の心ではない。 

その奥に 『霊智心』 とでも云うべき心がある。 

潜在意識は過去の「業」の貯水池として、水力発電のダムのように、
過去の惰力で盲目的な力で押し流して来る。 

ところが此の 『霊智心』 は「潜在意識」のように盲目的ではない。 
叡智を備えていて潜在意識の流動をその正しい方向に修正しようとしてくれる。

特に潜在意識が一向専心 『霊智心』 に対して呼びかけて
自己の我見を捨ててその教えに従がおうとする時には、
その叡智は現在意識にあらわれて来る。 

現在意識そのものは直接潜在意識を支配することは出来ないが 
『霊智心』 を現在意識に呼び出してくることによって、
潜在意識を支配することが出来るのである。

 
私の 『叡智の断片』 と云う本や 『智慧の言葉』 などは、
『霊智心』 を現在意識に感受してそれに導かれて来たものである。 

あの本にはあまり病気治しのことが書かれていないが、
知性ある人にはよく理解し共鳴されるように書かれているのは、
『叡智の心』 が出ているからである。

この 『霊智心』 即ち 『叡智の心』 のその奥に
「本当の自分」 即ち 「実相の心」 がある。 

それは物質ではないと云う意味に於いて「心(しん)」的なものであるから
「心(こころ)」と云っても好いが、「心(こころ)」 と云う場合には、
今まで述べたような各種の「心(こころ)」と混同される惧れがあるから、
『霊』 と云った方が好いかも知れない。

『霊』 が本体であって、それが、
霊智心、潜在意識、現在意識、本能の心、細胞の心などの「道具」を使って
表現活動をしているのであって、

『実相の心』は自由自在無礙でありつつ、その一面的表現には
色々の表現が自己限定によって成されつつあり、
「人格」とか「個性」とか云うものはこれらの心の綜合的波動の雰囲気
と云うもので成立っている。

その奥にある実相は「一つの生命」であり、神一元である。 
万人共通の生命であり、実相に於いてみんな一体でありながら、
霊智心以下の「心」の重複体によって、その「場」に於いて別々の個性として
あらわれているのである。


 (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ee0d6299e1e4356146b7d2d76382e388 より転載)

          <感謝合掌 平成29年5月3日 頓首再拝> 

『生命の實相』 これは絶対真理であり、私の生命である - 伝統

2017/05/10 (Wed) 18:45:45


          *『行』(昭和14年9月号)
           ~生長の家本部講師  吉田 國太郎


信仰は、観念の肯きや借物であっては何の得るところがあろう。 

其の値打は空(くう)の空(くう)にすぎず、至らざるを至ったと思って
地獄へ堕ちなければ、勿怪の幸である。 
若しこれだけでこと済むなれば、これは又何と簡単なことであろうか。 

そんなことで、ゆるされるなれば、多くの先人はあんなにも烈しい
身を削る様な苦しみは嘗めなかったであろう。 
心、物真似の玄人に迄達すればこと足りるであろう。 

苦難礼讃は迷いであると諭されている。 

だから私は苦難礼讃の心で云っているのではない。 
と云って受けて極めなければならないものを晦まして、
観念だけで浅くすべって走り出すことは宥されないことに違いない。 

書けもする、語れもするであろうが、それには根が無い、生命が無い、
実に生きて動く力が無い、空事虚事の言葉と共に河へ流して
捨てられるべきものでしかない。 

受けねばならなぬものは受け、極めなければならないものは極めて行かなければ、
決して道は開いて行かない様である。 

実感は生れて来ない様である。 
実感に迄掘り当ててこそ正しく生命の目覚めである。 
信仰では実感と云うことが宝である。

信仰とは上から浅くかぶった迄は駄目である。

やはり吾れと吾が身を投げ出して、其処に生み出して行った答でなければ駄目である。
生命が砕かれて獲得した答でなければ駄目である。

『唯信ずる』と云っても、唯信ずると云うことを、自分が砕かれて
生命と引換えに受取ったのでなければ権威も無く救いも無い。

『‘自分は’、唯信ずる』では鈍いのであろう。
その『自分は』が消え、自分はと引換に、‘唯信ずる’だけが生まれた
のでなければ値打はあるまい。

此処の道程が各自銘々に与えられた修行であって、借物でゆかず、
他にたのむわけにもゆかない処である。此処の境地迄到れば
本当にそれ一つになり切れるであろうに、

身を挺して生命で受けず、唯借物である時、‘私は’があって、
唯信ずるがついている時、その言葉が己れの全てとならず、
時折頭をもたげて驚かすものが何処かにひそんでかくれているものである。

『生命の實相』で諭されていること、これは絶対真理であり、私の生命である。

この絶対真理が借物に終らず、本当に自分自身の血肉をつくり出す
生きた現実の力となる為には、先生が云われるままの其の侭の
正しい意味での神の子である為には、

晦まさず、投げやりにならず、御座なりにならず、
観念だけで坐りこまず、泣事を云って悲鳴をあげず、
自分で答を出し、又答を出し、諸々の世界を通過して行かねばならない。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18756061.html

          <感謝合掌 平成29年5月10日 頓首再拝> 

遊びじゃないんだ、伝道に来るんだ - 伝統

2017/05/14 (Sun) 18:42:27


         *『生長の家』(昭和55年11月号)「谷口雅春先生米寿奉祝記念」号
           ~生長の家本部理事長  和田 英雄

私が初めて先生にお目にかかったのは、確か昭和22年の3月か4月頃で、
戦後初めて京都で御講習会が催されたときである。

その頃の先生はいつもお着物で、羽織袴姿で居られたが、
壇上の先生を拝したとたん、私は何か強い光りの放射を感じて、
思わずまばたきをした。 

その瞬間に先生は白髪白髯の老翁のお姿に変っていられたのだ。 

それはヨハネがパトモス島に流されていたとき、
復活したイエスの姿を見た光景と同じものだった。

黙示録第一章13~15節には、 

「人の子のごときものでありて、足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね、
その頭と頭髪とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は炎の如く、
その足は炉にて焼けたる輝ける真鍮のごとく、その声は衆くの水のごとし」  

とある。

 
本当に初めて聞く先生のお声は、うるおいのある柔らかい誰にでもわかるひびきであった。  
真理の‘シ’の字も知らない私が、最初から 谷口雅春先生 の中に生きる
久遠のキリストのお姿を拝むことが出来たのだ。


その頃、谷口雅春先生から御手紙を戴いたことがある。

『アメリカの光明思想家 ハービー・S・ハードマン博士が来日されるのを機会に、
日米合同の講習会をして、西日本地区を廻りたい。 
大体のスケジュールを作ったから、君の意見があったら知らせなさい』  

と書かれてあった。  〈※ ハードマン博士は昭和24年8月に来日〉

 
私は、戦後初めて谷口雅春先生をお迎え出来る地方では、
通訳つきの外人の話よりも先生のお話を充分に戴きたいだろうと思うし、
第一、終戦直後のことゆえ田舎のホテルでは水洗便所も無いし、
お風呂も日本式にちがいない。 

ベッドもなければ洋式の部屋もないかも知れない。 
そんな処では、定めし外人客は困られるだろうと考え、
この私の考えを先生に申し上げるべく上京した。

先生は大変喜んで下さってお部屋へ通して下さった。 
早速、外人との合同講演はかくかくの事情で不便だし、歓迎されない、
大都会のみ合同講演にしてあとは先生御一人で巡講して戴けないだろうかと、
私流のプランを得々として御説明した。

 
ところが、先生からとても強い語調で叱られてしまった。

 
『君!!  ハードマン博士は遊びに来るんじゃない、伝道に来られるんだ、
その人がホテルが不便だ設備がどうだとか考えてはいけないよ』

あまり突然に叱られたので、私はびっくりしてしまって、
あとは何と言われたか覚えていない。 

ともかくスミマセンを連発して、お山を引き下って、大急ぎで特急に飛び乗り、
逃げるようにして車中の人となった。

その日は富士山が実に美しく全容を現わして、気高く微笑んでいた。
 
眺めている内に胸がいっぱいになって、声が出そうでこまってしまった。 
何だかわからない涙が、隣りの人にかっこうわるいほど流れてくる。 
家へつくまで泣けて泣けて目をはらして帰って来た。

『お前の考え方は、現象に立って考えている便宜主義ではないか!!』

先生の強い語調がせまってくるように思う。

 『現象にあって実相運動が出来ると思うのか!!』

嗚呼!! 先生は真向からピシャリとコトバで叩いて下さったのだ。 
そう思うと、もううれしくてうれしくて ‘実相’ というひびきが
ほんのりと肌でわかるような気がした。 

さわやかな微笑がやがて自然に湧いて、
よろこびが限りなくこみあげてくるのをどうすることも出来なかった。

 
それから何年か経って、先生にこのことをお話ししたら、 
『そんな事があったかねえ。 僕は一度もおこったことはないよ』  と言われた。 

先生は鏡だったのだ。 

まことにありがたいことである。

    (https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18759230.html

          <感謝合掌 平成29年5月14日 頓首再拝> 

聖使命菩薩の心の姿勢 - 伝統

2017/05/15 (Mon) 18:13:05


          *『生長の家』(昭和44年12月号)より
            ~生長の家全國講師  尾関 弘三

合掌

人類光明化地上天国建設という大なる神業に仕え奉る為め、
日夜御奉仕の聖使命菩薩の皆様に深く感謝申し上げます。

そのかみ天津神より 「このたたよへる國を修理固め成せ」 の神勅と共に
天沼矛を受け給いて国生みの神業をなせ給いし伊邪那岐、伊邪那美の二柱の
大神のそれの如く、

宇宙浄化の為あれましし、住吉大神  ――  生長の家の大神
  ――  谷口雅春先生を通じて 『生命の實相』 という真理の天沼矛を賜り、
其の聖なる使命達成の為に挺身、致心、献資の誠を捧げて居られます事は
誠に尊いことで御座います。

己れ未だ度らざる前に、人を度すという聖使命菩薩を 
尊師谷口雅春先生 は 『聖使命菩薩讃偈』 で最高の表現をもって
讃えていらっしゃいます。   

「それ挺身、致心、献資の功徳は最上最尊甚深微妙不可思議なり」  と又  
「たとひ過去の一家一門悪業多く重なりて悟りの障りとなるべき因縁ありと雖も、
ひとたび聖使命を獲得して菩薩の位に進むとき、その功徳あまねく無盡の法界に充満して、
一門家族親族の面々の悪業は消滅し、すべての悪因縁は解脱せしめらる。 
如何に況んや聖使命の菩薩自身の因縁をや」  と讃えていらっしゃいます。

例えば地上が暴風雨下の様に、大木は折れ、家屋は流出し、死者は続出して
阿鼻叫喚の様相を呈しておりましても、一度ジェット機で一万米以上も上昇し、
雲表に出ますとそこでは真青な空に、太陽が燦々と輝き、
地上から見れば恐しい様な黒雲も、真白な雲海と変り平和そのものであります。

今地上は悪業の嵐吹き荒れ阿鼻叫喚の様相を呈していると言っても過言ではありますまい。 
何故其の様な状態であるかと申しますと 「人間は神の子」 であるという真理を知らず、
与える中に幸福があることを知らず、自利のみを考え、利他を生きようとしないからで
あります。

人類光明化発進の宣言に 「人類は今求めても求め得ざる方向に救いを求めている」 
とありますが、正にその通りであります。 
今程私等の菩薩行を必要とする時はありません。 

総ての人々に御教を伝え更に愛行の尊さ、素晴しさを自覚せしめ、
高く菩薩界に入らしめるのが私達の光明化運動であると拝察致します。

その菩薩界こそ大神の愛の霊光輝き満つる世界であります。 
そこは恰も暴風雨下と雖も雲表に出れば空は青く太陽が燦々と輝いている
のと同様であります。 

その菩薩界に昇ることに依って、たとひ 「一家一門悪業多く重りて悟りの障り」 
となるべき悪因縁がありましょうとも、その悪因縁の纏のついた穢れたる業の着物は
自ら脱落し、其の魂は浄められ、大神の祝福の霊波を直下に身に受け無限向上の道を辿る
と共に菩薩に相応しい環境を現します。

其の大神様の愛の霊光は総ての人々の上に降り注いではいますが、 
「大調和の神示」  にありますように 「争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」 
ということに成って残念乍ら幸福に成ることが出来ません。


さて以上述べました様に尊い菩薩の一員に既に列せしめられているにも拘らず、
一向に菩薩に相応しい環境も現れず、菩薩として祝福されているにも拘らず、
何時迄経っても代り映えもせずボサァーとしている人が割合に多いのは、何故でしょうか
  ――  それは人間は何をしても‘心掛け’で天地の差を生じるということです。 


かつて尊師に 「先生、親を聖使命菩薩に高めて上げるということは素晴しいこと
でございますね」  と申上げますと、尊師は 

『生長の家は、親に感謝せよという教だからね』

と仰せになりました。 

    (https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18761227.html

          <感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝> 

Re: 谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑥ - fbsgrxroeyMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:51

伝統板・第二
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