伝統板・第二

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光を灯す② - 伝統

2017/01/13 (Fri) 03:32:16

        *伝統板・第二「光を灯す①」からの継続です。
          → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6649683


光り輝く行ないをなす

《先ず自(みず)から与えよ》

        *光明法語(1月13日)より

与えれば与えられるのが心の法則である。
それは原因結果の法則である。

朝の神想観に、自分は神の輝く光の流入口であり、その流入した光をもって
自分は出来るだけ多勢の人を照らすのだと念ぜよ。

人に対して先ず輝く微笑(ほほえみ)を与えよ。
光り輝く挨拶を行え。
「おめでとうございます」と言え。

先ず主人からでも好(よ)い、「お早うございます」と言え。
家族全部を祝福する言葉を語れ。

路傍一輪の野の花を手折(たお)って主人のテーブルを飾れ。
清楚と平和と調和と祝福の気をもって自分の家庭を飾るのだ。

そこから幸福が流入して来るだろう。

・・・


<関連Web:光明掲示板・第一「”ひかり”のみ (5394)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1024 >

            <感謝合掌 平成29年1月13日 頓首再拝>

光への道 - 伝統

2017/01/17 (Tue) 04:43:08


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より

世俗のことに心を捉われず、世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。
外部的な成功に心を捉えられず、今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。

光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。

虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。

            <感謝合掌 平成29年1月17日 頓首再拝>

【神の光を受ける祈り】  - 伝統

2017/01/28 (Sat) 04:34:59


      *『聖経 真理の吟唱』(P16)より

私の魂の内には永遠に消えない光が宿っているのである。
それは神から来たれる光である。
如何なる暗黒なる時にも、その光に照されて進んで行けば、
私たちは決して道に迷うことはないのである。

その光は愛の光である。
智慧の光である。
生命の光である。

愛が輝き出す時すべての憎しみは消えるのである。
智慧が輝き出すとき迷いが消えるのである。
生命が輝き出すとき疲労が消え、老衰が消え、病気が消え、死が消えるのである。

神の愛の光が、私の内に輝き出すとき「自」と「他」との障壁が消える。
利益の奪い合いがなくなり、怒り憎しみは赦しと変じ、
さらに相手を祝福することが可能となるのである。

私は常に心の窓をひらいて、神の愛の光を今受けるのである。
だから私の全存在には、神の愛の光が照り渡っているのである。

神の智慧の光が 私の内に輝き出すとき、人間が物質的存在だと見えなくなり、
霊的存在だということが悟られて来、物質的欲望が少なくなり、
霊的愛他的な行いに導かれて行き生活が浄められるのである。

すでに神の生命の光が 私の内に輝き出したのである。
わが全身は生命力にみちあふれ、老いなく、病なく、疲労なく、
溌剌として人類の共通的歓喜のために尽くすことができるようになっているのである。

神の愛の光も、智慧の光も、生命の光も、無限であるから、それは輝かせば輝かすほど、
与えれば与えるほど光輝燦然としてその光と力とを増すのであるから、

私は愛を人に与えることを惜しまないのである。
智慧を与えることを惜しまないのである。
生命を与えることを惜しまないのである。

人は神の子であり霊である。

霊であるということがわかると、自と他とが一体であり、
彼と我とが一体であり、超えんとして自他を超え、彼我を超え、
私の愛憎を超えて、全体の栄えのために尽くすようになるのである。

全体の栄えのために自己を挺身するとき、一粒の麦が姿を没して
大地に身をまかすとき、多くの新しき芽を分けつして、
多くの実を結ぶことができると同様になるのである。

私はもはや、肉体的存在でないことをさとったのである。
私は「個」にして「全」、「全にして個」である。
個性を完全に発揮する悦びを味わいつつ、しかも全体の栄えのために
身を挺してそこに何等の矛盾もないのである。

            <感謝合掌 平成29年1月28日 頓首再拝>

陰を見るな。光明方面を見よ。 - 伝統

2017/02/09 (Thu) 04:46:53


           *「光明道中記」(2月9日)より

【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。(『生命の實相』十一巻)】


現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。

現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。

人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。

太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。

心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。

子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。

            <感謝合掌 平成29年2月9日 頓首再拝>

《暗(やみ)が現われて来るのは 光を拒絶したから》 - 伝統

2017/02/23 (Thu) 04:39:29


            *『 生長の家 』(昭和25年2月21日)の法語より

   「 光のある中(うち)に 光の中(なか)を歩め 」
   と聖書には 書かれている。

   神は光である。
   光を拒絶する時 暗が現われて来るのである。

   何か不完全が自分の周囲に現われて来た時には、
   何か自分の心の中に、光を拒絶し、神にそむくような
   何ものかがあったのだとして反省せよ。

   神に はなれて生活した時に
   一ばん害を受けるのは 自分自身なのである。

   人を憎んで生活した時、一番害を受けるのは 自分自身である。

   病める人は かくれたる憎みが
   自分の中に燻(くすぶ)っていることを省みて
   相手を赦し 相手に感謝しなければならない。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>

吾々の内部には「光」が宿っている - 伝統

2017/02/26 (Sun) 04:39:08


           *「光明道中記」(2月26日)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。
吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。

            <感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>

倒れた其の瞬間に光を見よ。 - 伝統

2017/02/28 (Tue) 03:37:18


           *「光明道中記」(2月28日)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。
                                (『向上読本』)】

倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とはその魂の深さに於て、
その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

             <感謝合掌 平成29年2月28日 頓首再拝>

明るい人 - 伝統

2017/03/06 (Mon) 04:29:00


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月6日)」より

明るさはあらゆるものに喜ばれる。

招かれないでも明るい人は、光線のようにどこへ行ってもそこで喜ばれる。
招かれても暗い人は、どこへ行ってもやがては嫌われる。

明るい人には常に幸福がつき纏(まと)い、暗い人には常に不幸がつきまとう。

            <感謝合掌 平成29年3月6日 頓首再拝>

眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統

2017/03/09 (Thu) 03:54:21


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

            <感謝合掌 平成29年3月9日 頓首再拝>

《神は 光である》 - 伝統

2017/03/23 (Thu) 03:36:47


          *『 生長の家 』(昭和25年3月16日の法語)より

   神は光である。
   どこにも暗(やみ)はないのである。

   困難な問題に直面した時には、常に

   「 神は光である。あなたの光をもって吾を導き給え 」
   と念ずるようにすることは
   自分の内に宿っている神の智慧を目覚めしめるに
   非常に効果ある方法である。

   もしあなたが神の智慧の方へ振り向くならば 一瞬の中(うち)に、
   神から射(さ)してくる光は 事件の全体を照して、
   直ちに その事件を光明化してしまうことができる。

   恐怖は暗黒である。
   恐怖心をすてなければ 本当に光をみることはできない。
   恐怖心がおこるのは まだ本当に神を信じないからである。



    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成29年3月23日 頓首再拝>

《神はわが心の暗(やみ)を照破し給う》 - 伝統

2017/04/10 (Mon) 03:55:27


         *『生長の家』(昭和24年11月18日の法語)より

   神は光りであり給う。
   神の光 普(あまね)くみちて、
   今 自分の心の暗を照破し給うたのである。

   自分の心の中の暗は すでに消えたのである。

   吾は今 凡ゆる不幸から癒されたのである。

   自分の内には 神の無限生命がみちているのである。
   神の無限生命は 結局 無限であるから
   完全である外はないのである。

   不完全というのは迷いにすぎないのである。

   自分は今 凡ゆる病的観念を投げ出し、凡ゆる苦しみを捨て、
   ただ神の無限の力にすがるのである。

   「 神よ、唯 善のみなるあなたの み心を吾に於いて実現し給え。
   吾が体をして、吾が行いをしてあなた自身の完全なる実現と
   ならせ給え 」


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>

丑満時に、黎明の光を観る - 伝統

2017/04/30 (Sun) 04:52:02


           *「光明道中記」(4月30日)より抜粋

【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
                    (『生命の實相』第十七巻)】

汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。

すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。

今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。

吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。

一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。

古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。

新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。

その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。

            <感謝合掌 平成29年4月30日 頓首再拝>

光明思想を生活に生かすには ー 先ず心の窓を開きましょう - 伝統

2017/05/15 (Mon) 03:31:57


         *『 希望を叶える365章 』(P71~72)より

不平や心配や前途の不安などで、自分の心の窓を鎖(とざ)して、
心の室(へや)の中を暗くしてはならないのである。

先ずあなたの心の窓をひらきなさい。
先ず明るい気持におなりなさい。

神の本性は何よりも先ず 「 光 」 ですから、明るい心になったときに、
あなたの心と、神の心との波長が合うことになるのです。

またあなたはすべての人を愛しなさい。
憎しみや恨み心を棄てましょう。

神は愛でありますから、あなたが人を愛し、人に深切をつくす心を起したときに、
あなたの心が、神の心に波長が合うことになるのです。

すべて神らしい心を起したときに、神の心に波長が合い、
神の国に存在する一切の善きもの、円満完全なるもの、好ましきもの、裕かなるもの、
美しきもの、健康なるものがこの世に実現して来るようになるのです。

これをイエスは

「 先ず神の国と神の義とを求めよ、その余のものは汝らに加えられるべし 」 と

教えたのであります。

            <感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝>

《暗の中にも光を見る者は幸いなるかな》 - 伝統

2017/05/28 (Sun) 04:54:11


         *『 生長の家 』(昭和25年4月21日の法語)より

   吾は今日より殊更(ことさら)に明るき精神も以て
   生活せんことを期するのである。

   明るさは明るさをよぶのである。
   神は光であるから明るき精神をもっている者のみに波長が合うのである。

   吾はどんな失敗にも失望しないのである。
   凡ゆる失敗とみえる時に成功がみえるのである。

   キリストの最後の最も大なる失敗は
   「 十字架にかかる 」 と云うことであったのである。

   然(しか)し彼は十字架にかかることによってのみ
   人類を救済することができたのであり、
   復活して永遠の生命を得ることができるのであり、
   不幸の中に不幸のみをみるのは信仰なき者のことである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836857.html

            <感謝合掌 平成29年5月28日 頓首再拝>

光が暗に向かって進軍するとき暗は消える - 伝統

2017/06/02 (Fri) 04:48:30


          *「光明道中記」(6月2日)より

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  


悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

            <感謝合掌 平成29年6月2日 頓首再拝>

常に光明を心の中に点せ - 伝統

2017/06/27 (Tue) 03:41:37


        *「希望を叶える365章」(P135~136)より

片時(へんじ)と雖も、暗い考え、”もう駄目だ”と云う考え、
退嬰的な考え、絶望的な考え、萎縮した考えをもってはならないのである。

世界は波動的な動きを見せつつ常に進行するのである。

丑満時の最も暗いときには、もう夜明けが近いのである。
陰極は必ず陽転するのである。
株式は底入れ後は必ず昂騰する。

凋落の冬極まれば、一陽来復の春が来るのである。

暗い考えが起きたときに、その暗さの恐怖によって行動したならば
必ず悔いる時が来るのである。

如何なる困難が、見せかけの恐ろしい姿をなしてあらわれて来ようとも、
心を実相の完全な姿の方に振り向け、実相の自分が既に神に護られて完全であり、
敵と見える人たちも、実は敵ではなくして、自分の魂を磨く機会を与えて下さる
観世音菩薩の慈悲の反射板としてあらわれていてくださるのだと観じて、

それを礼し敬し感謝するようにしているならば道はひらけて、過去の艱難は、
よりよい展望に達するための胸突八丁だったとわかるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月27日 頓首再拝>

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである - 伝統

2017/07/01 (Sat) 04:28:11


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月1日>(P4)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

         <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>

《光明面のみを見る》 - 伝統

2017/07/18 (Tue) 03:58:30


     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P168~169) より

事物の暗黒面を見てはならない。
また他(ひと)の暗黒面を見てはならない。
更にまた自分の暗黒面をも見てはならない。

暗黒面を見るとき、必ず自己の“心”の中に暗黒な事を描くことになるのである。
そして自己の“心”の中に描かれたものは必ず、いつかはその描かれたる姿が現実化して
自己の運命となったり、自己の境遇となったり、不測の災いとなったりして
あらわれて来るのである。


暗黒面を見るかわりに事物の光明面を見よ。
他(た)の光明面を見よ、更にまた自己の光明面のみを見よ。

光明面を見るとき、光明面のみが“心”に描かれ、“心”に描かれたものが増大し、
具体化し、自分が一層明るい気持ちになり、運命が一層好転し、身辺に気持ちよきもの
のみが現れ、ついに自己の住む世界が地上の天国浄土となるに至るのである。

暗黒面を見るよりも、光明面を見る方が余程楽であり、容易であり、気持ちがよいのに、
何故多くの人々は光明面よりも暗黒面を見たがるのであろうか。

彼らは心の法則を知らないからである。

         <感謝合掌 平成29年7月18日 頓首再拝>

光り輝く光明の世界を見よ - 伝統

2017/08/01 (Tue) 04:57:59


       *「光明法語」(8月1日)より

《健康と祥福とは万人具有》

誰でも皆、最善の健康と最善の祥福とを楽しむことが出来るのである。
何故なら人間は皆神の子であるからである。

それが出来ないのは、神の子たる実相を自覚しないか、
神の子たる生活を生活しないからである。

健康と祥福とは、特別に或る人にのみ与えられたる恩恵ではない。

眼をひらいて天地の真相を見よ。
そこに光り輝く光明の世界を見出すであろう。

眼を開いて自己生命の実相が「神の子・円満完全」であることを見よ。
病いや不幸に心の眼を振り向けても光は見えない。

         <感謝合掌 平成29年8月1日 頓首再拝>

光明無限 - 伝統

2017/08/15 (Tue) 05:03:51


        * 『生命の貫相』第11巻万教帰一篇(P164 )より

神は無量光、無辺光であり、無辺であるから際限がない、際限がないから形がない。
際限のないものは見ることができない。

神示によりますと、われわれの眼に見る太陽は本当の太陽ではない。
本当の太陽というものは無量光、無辺光なる法身の日之大神、毘盧遮那仏であって、
いっさいのところに充ち満ちていられる。

しかしそれではわれわれの五官では見えないから、
われわれは五官のレンズや六感のレンズをとおして無限を有限に屈折して見る。

こうして、五官や六感のレンズを通して無限を有限に凝縮して見たのが、
五官や六感でわれわれの見る太陽であります。

しかし本当の神様は無形であり、ただ光明無限であります。

         <感謝合掌 平成29年8月15日 頓首再拝>

《暗(やみ)を消すには 光を射し込ませよ》 - 伝統

2017/08/30 (Wed) 04:55:55


         *『 生長の家 』(昭和26年1月7日の法語)より

   暗を消すものは 光のほかにはないのである。

   暗と格闘したところが 暗は消えない。
   暗を消すには 光をとぼせば好いのである。


   病気を消すものは 生命力のほかにはないのである。
   闘病などと云って病気と闘っている者があるが、
   それは暗と格闘して 暗を消そうとしているのと同じである。

   また絶対安静などと称して じっと病気をみつめている者があるが、
   これは暗を見つめて 暗を消そうとしている者で、
   いずれにしても無効である。

   暗を消すには 光を射し込ませれば好いと同じく、
   病気を消すには 生命を見つめるのが一等好いのである。

   生命に対して心を開放せよ。
   心を明るく持て、人間生命の本質は 神のエネルギーであって、
   常に自浄して治るものであることを信ぜよ。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

         <感謝合掌 平成29年8月30日 頓首再拝>

「光明と暗黒」 - 伝統

2017/09/18 (Mon) 04:46:35


       *「生命の讃歌」(P100~103)より

君は絶えず暗黒を撒いて歩く
不快な人間を見たことはないか、

君は眉をひそめた
悲しい表情の人々に接したことはないか、

君は表情が、
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


悲しい表情をした人間は
悲しみを撒いて歩く、

不快な表情をした人間は
不快を撒いて歩く、

それは黴菌を撒いて歩くよりも
尚大きな罪悪である。


また君は絶えず光明を撒いて歩く
愉快な人間を見たことはないか。

君は絶えずその唇に
幸福な微笑をだだよわし
逢う人毎に
幸福をうつして歩く人間を見たことはないか。

君は表情が
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


君は与えるものがないことを
嘆いてはならない。

君は与えるものがなくとも
幸福な表情を与えることが出来るのだ。

子供の顔を見るとき
良人の顔を見るとき
妻の顔を見るとき

兄弟の顔を見るとき
姉妹の顔を見るとき

八百屋に挨拶するとき
風呂場で知った人に遇うとき

君が幸福な表情さえすれば
君は幸福を与えて歩く。


幸福な表情をした人間は
幸福を撒いて歩く、

愉快な表情をした人間は
愉快を撒いて歩く

それは物を与えるよりも
一層好い贈り物であるのだ!

         <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

《暗黒を突き破る真理の光》 - 伝統

2017/10/02 (Mon) 04:23:19


           *『白鳩』(昭和49年1月29日の箴言)より

   『真理の吟唱』を朗誦し、神想観を実修して実相世界の荘厳を凝視するとき、
   真理の光が、あなたの心の暗黒を突き破って射し込んで来、
   いたる処が真理の光に照らされて迷妄の暗黒は消え、あなたの心に
   平和と愛とが満たされるのである。これが新生である。

   そのことを『信仰の科学』は次の如くかいている。

   『真理の光線が突然迷妄の暗黒を突き破って入り来り、
   名状し難き真の平和の想念にて自己の魂が満たされるのは、
   われわれが影の存在を否定して真理を念じている時である。

   何ら実体のなきところの影は消滅し、われわれはパウロの如く、
   「われの周囲にも、われと共に旅する人々の周りにも、
   輝きわたる明るき太陽にも優りて、さらに明るき光を観る」のである。

   ・・・・あなたが癒されたと感ずるのは、
   正しくかかる信仰的昂揚の瞬間であるように思われる。

   その時には、あなたの悩みは消滅し、あなたの憂鬱は消散し、
   あなたの信仰が復活する。

   あなたは最早、悩み苦しむことはなくなるのである』


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

         <感謝合掌 平成29年10月2日 頓首再拝>

光輝いている生き通しの生命 - 伝統

2017/10/18 (Wed) 04:51:20


       *「生命の實相」第35巻下化衆生篇(P71)より

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば
必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。
その光は太陽の光よりもなお明るい光である。

自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。

その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそ
わが生命であることが悟られる。
これこそ自分の本当の生命であったのだ――今生きつつある地上の生命の小さきことよ。

それはただ自分の本当の生命の輝きが、
迷いの雲間を洩れて、地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。
迷いの雲間は裂ける。

本当の自分は輝き出でる。
地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

         <感謝合掌 平成29年10月18日 頓首再拝>

常に心を光明で照り輝かす - 伝統

2017/10/27 (Fri) 04:51:03


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(「円満具足」10月27日)より

神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

光が点ぜられたならば、
その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、

われらの心に光が点ぜられたら、
われらが神の世継としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。

           <感謝合掌 平成29年10月27日 頓首再拝>

【一隅を照らす】 - 伝統

2017/11/12 (Sun) 03:36:57


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年10月31日)」より

   (高野登氏の心に響く言葉より…)

   昔々、魏(ぎ)の国の王様が斉の国の王様と、あるところで出会いました。

   さっそく魏の国の王様は、斉の国の王様に自慢話を始めました。
   私の国には夜も照らすような大きな素晴らしい珠(たま)が十個もあると。

   斉の国の王様は答えました。

   「私の国には、そんな素晴らしい宝物はありません。
   私の国にあるのは、農業なら農業、こういうものをつくるといったら、
   それをつくる、物を運ぶ仕事なら物を運ぶ…一つひとつの仕事を
   だれよりも一生懸命やって一隅を照らすような人たちです。

   そうした人たちこそが、わが国の宝です」

   それを聞いた魏の国の王様は、斉の国の王様の前に手をつき、ひれ伏しました。


   …この中国のお話をもとにしたのでしょうか。

   天台宗の開祖、最澄は、その本の中で、次のように記しています。

   「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、
   一隅を照らす、これ則(すなわ)ち国宝なり」

   すなわち、「お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、
   自分自身が置かれたその場所で、精いっぱい努力し、
   明るく光り輝くことのできる人こそ、何もにも代えがたい貴い国の宝である」と。

   「一隅を照らす」という言葉はここから生まれたとされます。

   斉の国は、いまから二千五百年も前の中国の国、
   最澄は平安時代の人ですが、そこで言っていることは、いまも変わらぬ真実です。

   と同時に、ここで注目すべきは、斉の国の王様の言葉が、
   魏の国の王様の中に、思わずライバルの前にひれ伏すほどの
   「パラダイムシフト」を起こしたという点です。

   魏の国の王様の世界観、人生観を変えたのです。

   それまでは、国にある見事な珠こそが国の宝だと思っていたのが、
   国の民こそが何よりの宝であると気づいたのですから。


   自分の足下にあるものと向き合ってみようという姿勢、
   自分の民と向き合おうという姿勢、まさに、王者の「品格」です。

   もし、組織のリーダーがいっしょに働いているメンバーと本気で向かい合って、
   この人たちこそがこの組織の宝物なのだ、わが社が誇るべきは、
   立派なビルでも商品でもなく、この人たちなのだと気づいたとしたら、
   そのリーダーは「品格」を持ちはじめたことになります。

   と同時に、組織全体が「品格」を持ちはじめるのです。

           <『品格を磨く』ディスカヴァー>

              ・・・

「一燈照隅 萬燈遍照(いっとうしょうぐう ばんとうへんじょう)」

安岡正篤師の『青年の大成』の中の言葉だ。

一人ひとりが自分のいる場所を明るく照らし、良きことを行えば、
その一燈が最初は小さくとも、やがてそれが国中をあまねく照らすことになる。

まずは、自分の周囲、つまり、家族や友人、会社を明るく照らすこと。

それがやがて「世のため、人のため」となる。


「明珠在掌(みょうじゅたなごごろにあり)」

という禅の言葉がある。

誰もが、はかり知れない価値のある宝物をすでに持っている。

そんな貴重な宝が、自分の手の上に載っているではないか、と。


そんな大事なことを忘れ、
我々はどこか他のところに宝が埋まっているのではないかと、
探しに行ってしまう。

会社なら、規模や売上、店舗数などの大きさではない。

人なら、肩書や、役職、地位や年収などではない。


外見ではなく本質。

本当の宝は、その掌(たなごころ)の上にある。


一隅を照らす人でありたい。

           <感謝合掌 平成29年11月12日 頓首再拝>

《自己に光を点(とも)すには》 - 伝統

2017/11/28 (Tue) 04:56:14


          *『 生長の家 』(昭和25年3月17日の法語)より

   キリストは 「 吾は 世の光 として 来れり 」 といっていられるのである。
   自己の中にキリストを見出(みいだ)す時、
   そこには何らの悲しみの影も 憂鬱(ゆううつ)の影も あり得ないのである。

   神の光を受けるには、 「 与えるものは 与えらる 」 の法則に従って、
   自分自らが 他の人に光明を与えるものとならなければならないのである。

   まず 喜びの微笑(ほほえみ)を与えよ。

   人に慰めを与えよ。

   人々に希望を与えよ。

   深切を与えよ。

   そこからあなたの魂の明るさが生まれて来るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


           <感謝合掌 平成29年11月28日 頓首再拝>

《一切衆生のための祈り》 - 伝統

2017/12/01 (Fri) 04:51:54


        *「光明道中記」(12月はじめの祈り)より

わが毎朝念ずる衆生のための祈り――

私の生命は宇宙の生命と一体である。
されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。

わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、
神必ずこれを成し給うのである。

光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、
暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず
行き亘り、悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。

われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。
送るに随って人々の悩みは消えるのである。

与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、
このことによって吾が光明は愈々輝き、
吾が健康は愈々増進するのである。

病める者、悩める者、重荷を負える者に、
われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。
「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」

われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、
われを通して流れ出でたる神の生命であるから、
その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。

神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。

           <感謝合掌 平成29年12月1日 頓首再拝>

《暗(やみ)が現われて来るのは 光を拒絶したから》 - 伝統

2017/12/17 (Sun) 03:47:07


         *『 生長の家 』(昭和25年2月21日の法語)より

   「 光のある中(うち)に 光の中(なか)を歩め 」
   と聖書には 書かれている。

   神は光である。
   光を拒絶する時 暗が現われて来るのである。

   何か不完全が自分の周囲に現われて来た時には、
   何か自分の心の中に、光を拒絶し、神にそむくような
   何ものかがあったのだとして反省せよ。

   神に はなれて生活した時に
   一ばん害を受けるのは 自分自身なのである。

   人を憎んで生活した時、一番害を受けるのは 自分自身である。

   病める人は かくれたる憎みが
   自分の中に燻(くすぶ)っていることを省みて
   相手を赦し 相手に感謝しなければならない。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 平成29年12月17日 頓首再拝>

明るさ、積極性、更に建設的であれ! - 伝統

2017/12/21 (Thu) 03:15:31


           *「光明道中記」(12月21日心の岩戸開きの日)より

【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。生命は貴(とうと)い。
                       (『生命の實相』第十一巻)】

心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。

ただそれだけを常に心掛けるだけでも、
あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。

神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。

神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。

『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され八百万神々の
明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。

吾々は明るいと共に、積極的でなければならないし、建設的でなければならない。

積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、
結局は失敗ではないのである。

明るいばかりでは此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。

明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。

           <感謝合掌 平成29年12月21日 頓首再拝>

《心で光を見る》 - 伝統

2017/12/29 (Fri) 04:24:14


         *「光明法語」(12月29日)より

福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。

「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。

6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して二日目の講習会には出席出来なかった」。

これは迷いの自壊作用である。

「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。

心が一変して光を見る心になったからである。

           <感謝合掌 平成29年12月29日 頓首再拝>

《万物の奥に光を見よ》 - 伝統

2017/12/30 (Sat) 03:56:29


         *「光明法語」(12月30日)より

光は天地間に充ち満ちておれども、其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。
多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。

心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。

空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。

水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。

食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。

           <感謝合掌 平成29年12月30日 頓首再拝>

生命には光が必要なのである - 伝統

2018/01/01 (Mon) 04:23:05


     <「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より抜粋>

 われわれを生かすのは明るい思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。

 生命は暗黒の中にも光を見る。
 暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、
 光の方へ光の方へと向いていく。

 そして光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
 ひとたび光を得たときには、太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。
 生命には光が必要なのである。

 光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。

 再び言う。生命には光が必要なのである。

           <感謝合掌 平成30年1月1日 頓首再拝>

論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える - 伝統

2018/01/09 (Tue) 03:12:18


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より

他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。

それぞれにはまた別の立場があるからである。
相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入(い)るものではない。

相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、われわれはただ正しい真理を説き、
所信を実行すればよい。
ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。

光を輝かせば暗(やみ)は消える。
これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。

暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として
天日(てんじつ)をくらますようになるのである。

         <感謝合掌 平成30年1月9日 頓首再拝>

自分が光であると云うことを先ず知ること - 伝統

2018/01/16 (Tue) 04:50:36


      *「光明道中記」(1月16日本当の幸福を把(つか)む日)より

【ただよえる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ごわが姿なる。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

雲を幾ら積んでも光は出て来るものではない。
肉体の快楽、五官の楽しみ、富の集積

 ―― それらは多くなればなるほど人生に光が出て
来るように思って夫(それ)を積んで見る人は沢山あるが、
いずれも幸福を見出してはいないのである。

幸福は先ず光を見出すことにある。
自分が光であると云うことを先ず知ることである。
光がなければ雲は重なれば重なるほど
黯澹(あんたん)として淋しくなるばかりである。

智慧のない、愛のない、我利我利亡者が金を蓄めているほど
黯澹たるものはない。
光がさし昇れば雲の”ある”無しは問題にはならぬ。

人間の「光」は自分が照らす愛であり智慧であることを知るべしである。
自分が「愛」でなければ積み重なっているすべての持物は、
光のない荒涼な暴風(あらし)の日の雲のようなものに過ぎない。

自分に智慧がなければ、持てるすべての物は
氷山と衝突して難破する船のようなものである。

神は愛である、我は愛である。
神は智慧である、我は智慧である。

            <感謝合掌 平成30年1月16日 頓首再拝>

光への道 - 伝統

2018/01/17 (Wed) 04:01:36


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より

世俗のことに心を捉われず、世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。

外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。

光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。

虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。

            <感謝合掌 平成30年1月17日 頓首再拝>

《光と光源とは一体なり》 - 伝統

2018/01/31 (Wed) 04:13:24


      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P278)より

神と分離の感情や想念をもってはならないのである。

「天にまします我らの父」 と云うような祈りの言葉は、
自分は地上におり、神は天上にましますと云うような離れた感じを与えるものであるから、
あまりに感心した祈りの言葉ではないのである。

「わが魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」 と云うような、
もっと自己と一体感の深い言葉をもって祈るべきである。


言葉と云うものは想念を動かす。
無意識に使っている言葉でも、それを始終つかっていると、
その言葉の意味する通りに自分の想念感情が動かされてしまうことになるのである。

『甘露の法雨』には

「光と光源とは一体なるが如く、人間と神とは一体なり」

と示されている。

すなわち神と人間とは緊密に一体なのであって、
《天から》降りて来て地上の人間を救うような長距離の隔たりはないのである。

            <感謝合掌 平成30年1月31日 頓首再拝>

【暗いと思えば暗いし、明るいと思えば明るい】 - 伝統

2018/02/15 (Thu) 03:12:05


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年12月06日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   ある年の元旦に私は800枚ほどの年賀状をいただきました。

   その中に数枚、これはちょっと二度は読みたくないと思うものがありました。

   それは「不況」「暗い」「先行き不透明」「閉塞(へいそく)状況」
   「リストラ」「暗い出来事」「イヤな出来事」…という言葉が
   文章のあちこちにちりばめられ、数行にわたって同じようなことが書かれていました。


   「世の中は暗く、悲惨な出来事や暗い出来事ばかりが起きる時代である。
   そんな時代でもなんとかしなければならない。どうしたらこの暗い状況を
   打ち破ることができるか模索中であり、頑張りたい」というような文章です。

   この年賀状をくださった方と会っても、あまり楽しい会話にはなりそうにない。

   その人と話していても出てくる言葉は、
   「閉塞状況」や「悲惨な出来事ばかりの世の中」や
   「いったいこの世の中、どうなってしまうんでしょうか」というような
   話に終始すると思うからです。

   誰もが新年を明るく迎えたいという年の初めから、
   そんな気持ちが滅入るようなことを言う人とは、
   その後も話をしたいとは思わなくなってしまうかもしれません。


   宇宙の原理・原則として、
   「投げかけたものが返ってくる。投げかけないものは返らない」というのがあります。

   「愛すれば愛される。愛さなければ愛されない」

   「嫌えば嫌われる。嫌わなければ嫌われない」


   明るい1年のはじめの手紙(メッセージ)でありながら暗い年賀状を出す人は、
   そういう投げかけをした結果として、その人のそばには明るい心を持った人が
   寄ってこなくなってしまうのです。

   そして、その暗い年賀状を何百枚も友人に送りつけた人は、
   その年、「なぜか明るい人が寄って来ないな。集まってくる人は暗い人ばかりだ」
   と思うのではないでしょうか。

   当然、そうやって暗い言葉で時代分析をしている人同士で集まり、
   「そうだ、やっぱり暗いな」と毎日を嘆くような話ばかりすることになります。


   一方で、「世の中は自分の取り方次第、決して暗いわけではなく、
   自分が暗いと思えば暗いのだし、明るいと思えば明るいということ。
   楽しいと思えば楽しいんだ」と思っている人たちは、
   同じように思っている人たちで集まり、楽しい話で盛り上がることになるのです。


   私たちはよく「陰と陽」、「光と闇」というような言葉を使います。

   しかし、よく考えてみると、「光」と「闇」とが
   50対50の同じ力を持っているのではないことに気づきます。

   「光」と「闇」は等分に力を持っているのではなく、100対0なのです。

   「光」が100で、「闇」は0。


   「闇」は「光」に対抗する力をまったく持っていません。
   「光」がなくなったときだけ「闇」は存在できるのです。

   「闇」には独立した力があるわけではない、
   ということを、ぜひ知ってほしいと思います。


   人生を歩んでいくとき、そこが「闇」だったとしても、
   自分自身が「光」となれば、そこは光るのです。

   もし、私たちがいつも「嬉しい」「楽しい」「幸せ」「愛してる」
   「大好き」「ありがとう」という言葉を言い、笑顔と優しさにあふれていたら、
   歩む道すべてが光に満ちあふれることになるのです。


   《世の中を 暗い暗いと嘆くより 自ら光って 世の中照らそう》

        <『ただしい人から、たのしい人へ』廣済堂出版>

            ・・・

小林正観さんは「明るさ」についてこう語る。(22世紀への伝言)より

『明るさとは、陽気で社交的、冗談も上手というような人が、
ここで言う明るい人なのではありません。

人々を慈しみ、希望や展望を与える人です。

そこまでできなくても、
「不平不満」「愚痴」「泣きごと」「悪口」「文句」
の五つを口にしない人のことです』


未来を明るく語れる人は、明るい人。

未来を暗く語る人は、暗い人。

どちらの人が魅力的なのかは言うまでもない。


明るい人は、人に希望の灯をともすことができる。

自ら光って、明るく、たのしい人になりたい。

            <感謝合掌 平成30年2月15日 頓首再拝>

吾々の内部には「光」が宿っている - 伝統

2018/02/26 (Mon) 03:31:51


           *「光明道中記」(2月26日 常に微笑する日)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。
吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。

            <感謝合掌 平成30年2月26日 頓首再拝>

倒れた其の瞬間に光を見よ - 伝統

2018/02/28 (Wed) 04:28:42


           *「光明道中記」(2月28日 金剛不壊の日)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
 常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】


倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、
倒れても起き上がる人のことである。

形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とはその魂の深さに於て、
その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。
倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。

斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

             <感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>

明るい人には常に幸福がつき纏(まと)う - 伝統

2018/03/06 (Tue) 04:22:03


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月6日)」より

明るさはあらゆるものに喜ばれる。

招かれないでも明るい人は、光線のようにどこへ行ってもそこで喜ばれる。
招かれても暗い人は、どこへ行ってもやがては嫌われる。

明るい人には常に幸福がつき纏(まと)い、暗い人には常に不幸がつきまとう。

            <感謝合掌 平成30年3月6日 頓首再拝>

眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統

2018/03/09 (Fri) 04:12:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

            <感謝合掌 平成30年3月9日 頓首再拝>

《百万燭光の光》 - 伝統

2018/03/27 (Tue) 03:58:44


       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P6) より

あなたはもっと自由にならなければなりません。

過去の不快な出来事や、憎しみや悲しみや、
恥辱(ちじょく)や嫌悪(けんお)や
一切の心の傷から自由にならねばなりません。

そして心の底から愉(たの)しくなり平和にならねばなりません。
そこであなたはそれらを忘れるために努力します。

「あの憎しみを忘れよう』と思って一所懸命努力しますが、
そうしてもそれを忘れられないという人があるのです。

それは物を一杯積んである土蔵の中で、
小さな蝋燭(ろうそく)で照らしているようなもので、
中々心の倉が全部明るくならないで、倉の中の整理が進まないのと同じである。


小さな蝋燭の光とは、自分の自力的な小我の努力も効果が
全然ない訳ではないけれども、偉大なる力はないのである。

神の方へ振り向きなさい。
神は巨大な力をもっていられて、譬えば百万燭光の電灯のようなものである。
神の光に照らされたら一切の暗黒は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 平成30年3月27日 頓首再拝>

眼を開けば、人生はその儘(まま)明るいのでございます。 - 伝統

2018/04/16 (Mon) 03:41:49


         *『幸福の哲学』(P86~87)より

光が充ち満ちているのに思い違いをして眼をつぶって暗いなと思うと
自分に対してだけは暗く現れて見えるのでございます。

ところが眼を開いて見ると本当は矢張り明るいのでございます。

それと同じように人生はその儘(まま)明るいのでございます。
人生はこの儘幸福なのでございます。

不幸だと感じられますのは、吾々の思い違いだけなのでございます。
思い違いというものは事実を覆い隠している眼瞼(まぶた)のようなものであって
謂わば「包み」なのでございます。

罪の語源は「包み」でございます。
事物の本当の相(すがた)を包んで隠しているのが罪でありますから、
ひとたび悟りの目を開ければ忽(たちま)ち罪は消えるのでございます。

(中略)

罪は、心で認めなければ、そしてその反対の「光明」を注ぎさえすれば
消えて行くところの消極的な存在に過ぎないのでございます。

            <感謝合掌 平成30年4月16日 頓首再拝>

自分が「光っている人」になれば、明るい人が集まってくる - 伝統

2018/05/10 (Thu) 03:03:12


         *「ありがとうの奇跡」小林正観・著(P76~79)より

(1)「世の中を暗い暗いと嘆くより みずから光ってその闇照らせ」

  ①世の中の暗さを指摘して、糾弾している人ほど、
   笑顔がなく、暗さを投げかけているのかもしれません。
   速くそれに気づくことです。

  ②論評する暇があったら、まず、自分が「光」になることです。

(2)「光」という文字は「人」の頭の方から5方向へ、
   「明かり(火)」が発している様子が元となった象形文字です。

   「光」がどういう人の頭から発しているのかというと、
   「明るい人」の頭から発しています。

   明るい言葉を言っている人は、頭から光を発しているようです。

   ニッコリ笑って「ありがとう」と言うと、ぼうっと、
   あたりが明るくなったような気がします。

(3)「光」の元になっているのが、「人」というのは、すごいことです。

   そして、光を発している人のことは、「明るい」と呼んだ。

(4)古代の人は。「光を発している明るい人」と、
   「光を吸収する暗い人」を見分けることができたらしい。

   「陰気な人」のことを「暗い人」と表現したのは、
   その人が「光」を発していなかったからでしょう。

(5)「嬉しい、楽しい、幸せ、大好き、ありがとう、愛してる、ツイてる」と
   いう肯定的な言葉を口にしている人は、その人がそこにいるだけで、
   光を発するので「明るい」。

   そしてその光は、暗い人を照らして明るくするのです。

(6)「光」とは、「人」が光ることによって、まわりの人や環境を、
   明るく照らしてあげることです。

   光を発している人のまわりには「明るい人」が集まり、
   明るさを宇宙に投げかけているようです。

            <感謝合掌 平成30年5月10日 頓首再拝>

【闇夜ではローソクの光だって、価値がある】 - 伝統

2018/06/03 (Sun) 03:34:14


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年10月31日)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   景気のいいときに、「景気のいい話」をするのは当たり前。
   そうじゃなくて、景気の悪いときに、「景気のいい話」をするのが大事なの。

   みんながやる気のないときに、やる気を出すから光り輝くんですよね。
   みんながやる気のあるときに、やる気を出すと、
   ただの人になっちゃって、出世も何もできないんだよね。

   そういうことだから、国が疲れている、社会が疲れている、
   時代が疲れている、会社が疲れている、っていうところで、
   明るい顔してるとか、「社長、がんばりましょうよ!」
   って言ってる社員が伸びるんだよね。

   だから、まわりが疲れているときは、チャンスなんだよ。

   世の中が明るかったとすると、明るい光でも目立たなかったんだけど、
   世の中が暗闇になっちゃえば、あなたがロウソク程度の光でも、
   目立っちゃうんです。

   灯していれば、チャンスなんだよね。
   闇夜だったら、どんなちっちゃいローソクの光だって、価値があるんだよ。

   だから、明るい顔してるとか、「社長、がんばりましょうよ!」
   って言ってる社員が、これからは出てくるんです。

   闇夜だからこそ、あなたの光が必要なんだ、って。

   終戦後、焼け野原になって、全員が「日本は駄目だ」と思ったときに、
   松下幸之助さんだとかそういう人たちが、違うこと思ってたの。

   「俺たちの時代が来た。焼け野原だから、全部に家が建つんだ」とか思って、
   一部のそういう人たちが世の中を引っぱってきたんだよね。

   だから、今こそ、どんな小さい光でも評価されるときなんだよ。

   今は笑顔が評価されるんだよ。

   だから、今がんばらなきゃいけないんだ。
   今やる気を出さなきゃいけないんだ。
   そしたら、すごい報われるんですよ。

         <『斎藤一人 人生が全部うまくいく話』知的生きかた文庫>

             ・・・

「一燈(いっとう)を提(さ)げて暗夜(あんや)を行く。
暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ、只(ただ)一燈を頼め」(言志四録)
幕末の儒学者、佐藤一斎の言葉だ。

一つの灯(あか)りを提げて暗い夜道を行くとき、
その暗い夜道を憂えても仕方がない。
我々ができることは、今、手にしているそのたった一つの灯りを信じて、
ただひたすら前に進むしかない。

人の気持ちを「明るくする人」と、反対に「暗くする人」がいる。

「明るくする人」は、どんな困難な状態(暗夜)にあってもその中から、
希望や、未来、元気になることなど、よくなりそうなことを探し出す。

反対に、「暗くする人」は、困難な状態の中から、絶望や、落胆、
憂鬱(ゆううつ)など、ダメになりそうなことを探し出す。

明るくする人には、笑顔がある。

闇夜に一燈を灯す人でありたい。   

            <感謝合掌 平成30年6月3日 頓首再拝>

《陰極は必ず陽転する 》 - 伝統

2018/06/21 (Thu) 03:16:23


       *『人生の秘訣365章』第5篇(P139) より

暗黒は光明のあらわれる始めであり、
台風は其の一過後の晴天のあらわれる始めである。

「必ずよくなる。必ずよくなる。
神は此の暗黒を切り抜けるための智慧を興えて下さるのである」

暗黒が如何に濃く垂れこめて、あなたの前途に蔽おうとも、
毎日、毎時、この念をなし、つねにこのように祈りつつ、
眼の前にある仕事の解決に全力を注いで行くようにするならば、

その祈りの想念は宇宙に漂う“建設的な實相の想念”と波長が合い、
實相世界から其の暗黒を吹きはらう光の念波が天降って来て、
その解決に必要な要素が自然にととのうて来ることになるのである。

如何なる困難と雖も、困難は實相の世界には無いのであるから、
私たちが實相世界の光の念波に波長を合わして
自然に導かれる過程に従って行動さえすれば、必ず暗黒を消して
光明輝く成果を挙げるときが来るのである。

            <感謝合掌 平成30年6月21日 頓首再拝>

心の窓をひらいて  - 伝統

2018/07/05 (Thu) 03:57:05


       *「女子の幸福365章」(P5)より

天地万物、心の眼をひらいて見れば、悉く神のいのちのあらわれである。
其処には無数の啓示と教えとがダイヤモンドの如く輝いているのである。
それを見出すものもあれば、見出さないものもある。


空気も、水も、日光も、家も、着物も、
天地万物ことごとく神のいのちの表現である。

感謝して受ける心はこれらを浄め、
その恩沢を増幅するのであり、
感謝しない心は、その恩恵をけがし
減弱して受けとるから充分の功徳を受けることはできない。


窓を開いていないと光は入ることはできない。

窓を開いていても夜間であれば光は入らないこともある。
しかし常に窓を開いておれば、
やがて朝の光、昼の光は必ず訪れるのである。

常に心の窓をひらいて必ず光(幸福)が来ると信じておれば、
必ず光は訪れるのである。

心の明るい者の処へ幸福は訪れる。

            <感謝合掌 平成30年7月5日 頓首再拝>

光満つる世界  - 伝統

2018/07/18 (Wed) 04:02:12


       *『静思集』(P71~72)より

不幸が実在するとお考えになるのが、可(い)けないのでございます。
不幸は決して神の創造ではございません。

不幸と見ゆるものは
私達を苦しめるために神の御手により創造されたるものではございません。
それは神から離れた窒息の感じでございます。


吾々は空気によって生きているが如く、否それよりも一層多く、
神によって生きているのでございます。

空気によって生きている吾々が空気と全く離れたり、
空気が希薄となったら苦しくなってまいりますように、

神代って生かされている吾々が、神から遠ざかったり、
神から全く離れてしまったら苦しくなるのは、
人間の本性から来るのでございまして、神罰から来るのではございません。

それを不幸や病気や災難と申すのでございます。
                      

   ただひかり光の中に我澄めりすべてみひかり我もみひかり


神想観中にこの歌を繰り返して念じて精神統一にお入りになって御覧なさい。
そして光満つる世界を心に描いてそれを見詰める気持ちになるのです。

その時、貴方は ひかりのみ である世界を体験なさいましょうと思います。

            <感謝合掌 平成30年7月18日 頓首再拝>

神は光、あらゆるところに神を見出す - 伝統

2018/07/26 (Thu) 04:42:49


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より

神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。


わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。

―― 光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。

わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。

わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。


神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。

生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。

すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。

         <感謝合掌 平成30年7月26日 頓首再拝>

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