伝統板・第二
青年法語 「あなたの運命を形成するもの」 - 伝統
2017/01/09 (Mon) 18:58:42
”道産子 さま” ありがとうございます。
いつも、貴重な神誌からの真理の言葉の数々を紹介していただき、
まことにありがとうございます。
この度も、前回と同様に、「青年法語(あなたの運命を形成するもの)」を
抜き出し、新たなスレッドとして、日付順に整理し、再掲載させていただきます。
*前回~ 「宇宙の神秘を直観して」
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7069750
(感謝、合掌! )
・・・
理想世界誌 昭和42年10月1日号
輪読のための青年法語 あなたの運命を形成するもの
谷口雅春先生
一日のことば 微笑(ほほえみ)をもって困難を征服せよ
避けることの出来ない壁にぶつかったとき、毅然として挫折することなく、
微笑みをもってこれに対し、勇敢にその壁に攀じ登るものは者は勇者である。
強き信念と決意の前には、いかなる高き障壁も平かになるのである。
環境がどうの、条件がどうの、といって
自己の失敗を弁護するような卑怯者になってはならない。
・・・
二日のことば 出来る以上の事を為せ
「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは葉隠れ武士道の第一カ条であるけれども、
職責の上に立って、全生命を賭ける勇気と誠心(まごころ)のない者は、
凡そ何事をやらせても一流の仕事を成し遂げることはできないのである。
「出来るだけの事をしたんですが・・・・・」というような弁解は
卑怯者のすることである。
出来る以上の事を成し遂げるもののみが、
世の中に傑出して大事を成就する資格があるのである。
・・・
三日のことば その場にあって〇ね
「全員、自己の立てる場にあって〇ね。沈着に行動せよ」
これはパラクラヴァの戦いで、第九十三高地部隊を率いるコリン・キャンベル将軍が、
圧倒的に優勢なるロシアのコサック騎兵部隊に襲撃された時に、
自己の率いる全部隊に対して発せられた命令である。
私が言いたいのはパラクラヴァの戦いのことでもなければ、
コサック騎兵の襲撃を撃退することでもないのである。
全ての人間は「今自己の立てるその場にあって死ぬ覚悟をもって
全力を出し切らねばならぬ」ということである。
これほどの覚悟があって職務の上に立つものが少ないのを私は嘆くのである。
(*〇=死)
・・・
四日のことば 剣の妙境を生活に生きて
「その場にあって〇ね」といわれたとき、「はい!!」と答えて一歩も退かない。
それが日本精神であり、単なる死の讃美ではなく
”大死一番大活現前」の剣の妙境である。
疲れたからブラブラ、遊びたくなったからノラノラ、そして一生を半分眠ったような
懶けた気持ちで暮らす――そんな下らない人間は生涯、
何の大事も成し遂げ得ない卑怯者であるのである。
(*〇=死)
・・・
五日のことば 剣の精神は”ハイ”の精神である
昭和アルミニューム社長の原田富一氏は、日経新聞の“交遊抄”欄、
自分が一高に入学して撃剣部に入ったとき、師範席にあって原田氏を指導して
下さった佐々木保蔵先生の愛情ある指導のことについて述べている。
「先生の平素の言動にはまことに掬すべきものが多かった。
ある先輩は『君たち先生の側にいるものは先生の言葉を記録しておくがよい。
後日必ず得るところはある』と言われたが、ついにそれはできず今になって残念に思う。
先生はよく名前を呼ばれたら即座に『はい』と答えるべきで
『何ですか』と聞くのは心のわだかまりのある証拠だと言われた。
また『剣は人の体(たい)を表わす。しかしこっちが鏡にならなければ、
ほんとうのものは映らない』と言われた。」
「はい」の精神こそが、純一無雑の、澄み切った日本刀の精神であるのである。
民主主義と称して、事毎に言挙げして「はい」を失った時、
天下騒然として治まらないのである。
・・・
六日のことば ある蛙の愛について
愛と県鳳来町町立鳳来寺山自然科学博物館の鈴木新一氏が、
モリアオガエルの不思議な産卵の知恵について日経新聞に書いていた。
「産卵の場所が決まると、おすはめすの背中におぶさって前足でめすをかかえ、
うしろ足でめすの腹をさすってやる。そうすると、めすは卵と同時に、
透明なねばっこい液を分泌する。
おすは、この粘液を後ろ足で一心不乱にかきまぜる。
粘液はブクブクあわ立ち、白っぽくなり、しだいに大きなシャボン玉のような
あわのかたまりになり、ついには人間のこぶし大にふくれ上がる。
このかたまりが木の小枝や葉っぱにくっついてぶらりと垂れ下がるのである。
あわの中には黄白色の直径三ミリほどの卵が二百個から四百個ぐらい
封じ込められている・・・・・・
卵は気温の高いときは一週間、低いときは十日ぐらいで孵化し、
針のようなおたまじゃくしになる。・・・・・・
こうしてかたまりの中の卵が全部孵化し終わったころ、
塊はすっかりなえしぼんでポタリと水の上に落ちる。
水の中へ若し落ちないで陸地に落ちたら、おたまじゃくしはそのまま死ぬ訳で
是非水中に自然落下する位置にある樹の枝に卵を産まねばならぬのである。
「だから親蛙は必ず水の上にさし出した枝の上で産卵する。
ところが普通の状態では水の上に届かない枝も、
卵塊をぶら下げるとその重みで水の上まで垂れ下がって来る。
母蛙はそうした計算をたくみにやってのけ、
そんなすれすれの枝先にまで産みつける。
卵塊が地上に落ちることは絶対にない。
本能とはいえ、不思議な力に感心させられる。」
私もこれを読んで感動したのである。
親というものがどんなに、その子の繁栄を願っているかがわかるのである。
父蛙が母蛙のお腹をさすってやって助産婦の役目をしたり、おたまじゃくしが
一人立ちできるようになるまで棲むことに必要な粘液の泡で出来た揺籃を
こしらえてやる知恵、そして、その揺籃からとび出した幼児がちょうど水中に
落ちて泳げる位置に、しかも、泡の揺籃の重味によって枝が垂れさがって水面に
近づく位置を計算して揺籃をつくる知恵は何処から来るか、
それは生物には“宇宙の知恵”が宿っている証拠でもあるが、
その“宇宙の知恵”は、親たるものの“愛”によって呼び出されて来ることに
注意しなければならない。
蛙でさえも親は子をこんなに愛するのである。
親の愛というものが切実に感じられるのである。
神の愛を実現した人間の親はどんなに子供を愛していることであろうか。
・・・
七日のことば 直感智の不思議さ
いつか新聞の科学欄で読んだことがあるが、海亀の一種は
「干潮時に海岸の砂の上にあがって来て、砂に窪みをつくってその中に産卵する。
その卵が孵化して稚亀が這い出て来る時が、ちょうど最高の満潮時になって
満ちてくる潮に乗って海に帰るように、時期を見はからって産卵して置くのである。
卵から稚亀が這い出さないうちに潮がそこまであがると卵は波にさらわれて
孵化しないで死んでしまうので、それまではその砂の窪みに潮が満ちて来ない
“位置を測定して“と書いたけれども、人間のように頭脳智で測定するのではない。
それは本能智によって直感するのである。
直感というものは分析と綜合とによって
結論を辛うじて得るような面倒くさい間接智ではなく、
全体をそのままズバリと知る直覚である。
あまり頭脳智にたけていて、分析や総合のみに頼っていると、
使わない能力は退化するという原則によって、直感智が失われてしまうので、
直感智を退化させず、益々直感智を発達せしめて、分析綜合の頭脳智の働く
余地のない危急の場合に、直感智を利用して安全なることを得るよう
自己訓練をなしておくことが賢明である。
・・・
八日のことば 蛇の直覚本能と人間の霊感
もう十数年も前のことで筑後川が氾濫して、発電所が水浸しになり、停電となり、
電気が通じなくなったので、電力で開閉する筑後川のダムの閘門が開かないで、
閘門が閉じて水が下流に流れるのを堰きとめたまま集中豪雨の水量が筑後川両岸の
山々に集注して、その流域は二階の高さ以上に水嵩が増したことがあった。
そのとき附近の人家は悉く流失してしまったが、
そこに生長の家の一誌友が住んでいた。
彼の家も次第に増してくる水量によって二階の屋根の上まで浸水して来たのであった。
彼はこれ以上は水嵩がふえて来ては家の中にいるのは危険であると感じたので、
そのあたりにある立樹の一本を選んでその上方の枝まで登っていった。
洪水は益々水嵩を増して来る。
轟々と音をたてて流れる水にその辺の樹木は悉く倒れ流されてしまうのに、
その誌友の登って行った一本の樹だけが倒れないで高く聳えているのであった。
水嵩が増すに従って彼の腰かけている枝は水に侵って来るので、彼は更にのぼって
梢まであがると、其処に数十匹の青大将(蛇)が梢に群を成していたのであった。
蛇はその本能的直感認識によって、その樹一本だけが流されないことを知っていて、
群を成して梢まで登っていたのである。
そして生長の家誌友も毎日神想観を励んでいる人なので、”宇宙の知恵”と
常に波長が合い直感認識の能力が発達していたので、その流されない唯一本の
その大樹を選んでのぼることができ、生命が救かったのであった。
常に神想観して”宇宙の知恵”に導かれる準備のできている人は幸いなるかな。
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九日のことば 困難はあなたの向上の師である
人は直面する困難を打開する努力のうちにその意志を鍛錬し、
能力を向上させるのである。
国と国との戦争は国民全体の運命を含むところの一国の運命を賭けての総努力
であるから、戦争の殺人行為は好ましくないけれども、人間は戦争を通して、
今までの能力の限界だと思われていたものを超えて能力を発達させる。
原子力の開発、音速を超えるジェット機や、ロケットや人工衛星などの発明も、
いつ熱い戦争が起こるかも知れないという冷戦下に於て発明されたのである。
困難を避ける卑怯者には進歩はないのである。
困難に直面してこれを克服しようという努力を続ける者のみが真に向上し、
発達するのである。
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十日のことば イエスとノーとをはっきりせよ
吾々は返事を曖昧にしてはならないのである。
相手の申し出に対しては“イエス”か、“ノー”かを
はっきり表現しなければならない。
相手の申し出を、自分の意志が共鳴することができない場合に”ノー”を
はっきり言わなかったために、承認したものと誤解されて、
一生涯その尾を引く問題で苦しんでいる人もあるのである。
誰の要求に対しても、それが理不尽な要求に対しても
“ノー”をはっきりしない時は、相手に対する降伏を意味するのである。
吾々が常にハイと従順に答えてよいのは、
両親からの命令と、実相からの催しに対してのみである。
両親も時には間違うこともあれば、無理をいうことがあるかも知れないけれども、
両親の子供に対する言葉は“愛”から発しているために、一見その命令や助言が
間違っている場合でも、素直にそれを実行しているうちに、事情が好転して来て、
「やはり両親の言う通りにしてよかった」という時が来るのである。
それが愛の権威というものであり、愛は神の知恵を内に含むからである。
・・・
十一日のことば 屈辱の平和よりも更に尊いのは自立の精神である。
アメリカの愛国者にして雄弁な政治家として知られている
パトリック・ヘンリー(Patrich Henry-1736~1799)或る日の演説の中で、
「いのちがそんなに尊いか、平和がそんなに甘いものか。
それを得るために鎖と奴隷の価を支払ってさえもそれを得る価値があるか。
そんな卑怯な考えを棄てよ。
他の人はどの道を選ぶか知らないが、吾れに自由を与えよ、然らざれば死を与えよ」
と叫んだということである。
ヴェトナムでアメリカが、あのような「引き合わぬ戦争」を続けているのも、
このパトリック・ヘンリーの叫んだ精神にほかならぬのではあるまいか。
敗戦後の日本では平和ノイローゼにかかって、国内では同胞相闘うために
旺んに闘争精神をあおりながら、外に対しては、防衛の武器も持たずに、奴隷の如く
外国にお辞儀をして平和を守りたいと言う卑怯な人が随分多いのに驚くのである。
このような人たちに対しては、評論家、村松剛氏が『週刊読売』
42年2月3日号に書いた次の如き平和論が参考になると思う。
「もし万一、奴隷状態におかれるようなことが起こったら、
革命戦争を起こしたほうがいいと思っている。・・・・・
平和なら、どんな平和でもいいというぐあいにはゆかない。
問題は、幸福と名誉を裏づける平和を、いかにして築くかということである」
という言葉は示唆に富んでいる。
この言葉は前掲のパトリック・ヘンリーの演説に全く同じことである。
平和という偶像が尊いのではないのである。
各国の威嚇の前に奴隷の如く跪いて平和を希うのは
日本民族の自尊心が許さないのである。
・・・
十二日のことば 何よりも大切なのは国力の充実
作家の伊藤桂一氏は『論争ジャーナル』6月号で、「……打ちつづく戦争への
出血や出費に、一言の弱音を吐かないアメリカと、すでに終ってしまった戦争に
ついて未だにグチや泣き言をいいつづける日本。
こうした対照を公平に検討してみると、
おのずから日本という国の姿がうかびあがってくる。
戦争とか平和を論議する以前に、
もっと考えねばならぬ問題があるのではないか・・・・・。
ついこの間まで吹けばとぶような韓国艦艇に追い廻され、
泣き泣き拉致される漁船を、指をくわえてみているしかなかった
日本が、国家利益の追求に眼の色を変えている世界の列強に向けて、
いかに平和を説いてみたとして、蚊の鳴くほどにも受けとってもらえはしなかった
はずである。
大事なことは何よりも、日本それ自身の、
国力の充実でしかないことは自明の理であったのだ」
・・・
十三日のことば 国力の充実を無視して個人の享楽を謳歌する憲法
「しかし国力の充実などを考えるな」と甘い考えの平和論者は言う。
自分の国の平和は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの
安全と生存を保持しようと決意した」という、
まことに虫のよい憲法のもとで「すべての国民は、個人として尊重される、
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政に上で、最大の尊重を必要とする」と、
現法憲法が保証してくれるではないかというのである。
そして個人の幸福追求の欲望を最大に尊重して、それが充たされない時には
「請願権」や「団体争議権」があるのであるから、「公共の福祉に反しない限り」
といってもそれは名称だけで「公共」とは「主権の存する国民の集まり」であるから、
それらの幸福追求のためにあばれるのは、まことに以って公共の福祉にかなう
ところの処置であるから、いくらあばれても、いくら享楽にふけってもよいのである。
だから、国会の周辺デモを規制することが違憲であるとの判決が裁判所から出る
のも当然のことであるという。
こんな憲法を改めない限りは、利己主義の人間ばかり殖えて、
国家を思う国民は益々減って日本の現状は決してよくなる気遣いはないのである。
・・・
十四日のことば 若し中共が五百億弗の賠償を要求したら
伊藤桂一氏はつづけて言う。
「考えてみれば私たちには、敗戦にからまる負債を、
いつか何らかの形で返済を迫られる危惧がある。
それを要求されたとき、拒否する立場も、力も、われわれにはない。
いってみれば日本及び日本人は、平和と呼ぶ檻の中で、ある飼い主によって
飼われているにすぎないのかも知れないのである。
これをまず明瞭に認識しておくことが必要である。
いつか何らかの形で返済を迫られる惧れのある敗戦にからまる負債とは何であろうか。
それはサンフランシスコ平和条約に参加していない中共への賠償のことであると思う。
「平和」と呼ぶ檻の中から引き摺り出す権利をもっている飼い主とは一体誰であるか。
それは中共である。
中国と日本国の関係は、台湾省の国民政府とは、「怨(うらみ)に報いるに
怨をもってせず」という?総統の宣言によって賠償要求は抛棄せられて
平和条約が完了しているけれども、中国本土に政権を握っている中共とは
平和条約が結ばれていないのである。
愈々日本が中共と平和条約を締結する時には日本に対して
「五百億弗の賠償を要求する」と中共はいったことがあるのである。
「それを要求されたとき、拒否する立場も、力もわれわれにはない」
と伊藤桂一氏はいうのであるが、「それを要求されたときそれを支払う国力もない
のである」と私は付け加えておきたいのである。
五百億弗を要求されたときのことを思うと、日本国民は「平和という檻」な中で、
今のように歌ったり踊ったり、ウィスキーやブランデーに酔い痴れて、
性あそびの享楽にふけっていてよいものだろうか。
「平和という檻」の外へ引き摺り出されて「五百億弗の賠償を支払え、
でないと中共の水爆が強制執行するぞ」といわれたら拒絶する力も支払う力も、
戦う力も何もなくてどうするつもりであろうか。
ドイツは第一次世界大戦に敗れて永久に支払っても支払い切れない多額の賠償を
背負わされた結果、ヒットラーが出現して国力を充実し賠償拒否を宣言して
やがて欧州全土を席巻する一大強国となった。
その後、ヒットラーの独裁政権があまりにも強力になり過ぎたので、
ヒットラーは気が狂ったのであろう、常識から見て到底なすべからざる虐殺を
はじめたのであるが、それは別の話である。
日本の現状では中共に対して五百億弗の賠償拒否能力も、支払い能力もない。
それではお辞儀をして奴隷となるほかはないのではないか。
賠償ができなければ、賠償の代償に日本の全工業力を差押えるといわれたら
青年諸君どうしたらよいと思うか。
そんなことを要求されないためには日本は強くなっていなければならないのである。
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十五日のことば 共産国は強国には手出しをしない
東京新聞七月十三日号京大教授の猪木正道氏が三木外相の「中国との平和共存」
演説を批評した文章の中に次のようなことをいっている。
「中国ばかりでなく、ソ連など共産主義国の外交をふりかえると、政治的に
不安定な国に対して、共産国の指導者たちがどれほど無遠慮な内政干渉を
試みたかは、だれの目にも明らかであろう。
共産主義者は力の信者である。相手が強ければ、保守政権であろうと、
反動政権であろうと、事実上の共存政策をとる。
たとえ口先では敵視していても、決して行動では挑発しない。
スターリンがヒットラー・ドイツとの共存にどれほど苦心したか、毛沢東が
アメリカとの戦争に巻き込まれないようにいかに苦心しているかを想起しよう。
これに反して、相手が弱体だと見れば、スターリンも、毛沢東も
ためらうことなく武力を用いた。
この意味で、中国との平和共存政策を発展させてゆくためには、
わが国の経済的繁栄を保持し、政治的安定を強化することが
不可欠の条件となる・・・・・」と。
単に政治的安定を得るだけでなく、防衛力に於いても
中国に対等の強さを堅持しなければならないのである。
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十六日のことば 一切のものその実相を見れば美しい
どんなに醜(みぐる)しく見えるものでも、その電子顕微鏡写真を見れば、
実に美しい秩序整然たる構図をもつ組織を備えていることに驚嘆するのである。
吾々が何かの事実を見て、それをよくないと見えるのは
充分その組織の奥に深く穿ち入らないからなのである。
すべてのものを恰も電子顕微鏡写真で見るように、その奥にある実相を見るならば、
天地一切のもの、全ての人間を含めて、悪いもの醜しきものはないのである。
内在の“善”を見、内在の“美”を見て、それを讃美し、あらわそうとする者は、
常に自分の人生に天国を築くことができるのである。
・・・
十七日のことば 常にイライラする者は短命である
七月十四日の朝日新聞の“海外トピックス”欄に
「S~Zは短命説」という姓名判断が出ている。
曰く「姓の頭文字がアルファベットの終りに近いところ、特にSからZの間の寿命は、
他の人に比べて十二年も短いとのショッキングな研究結果が十二日、英国で公表された。
トレーバー・ウェストン医博(三九歳)が英国医学協会に報告したもので、
S~Zグループの人は、A~Rグループの人に比べて二倍も潰瘍ができやすく、
三倍も心臓発作に襲われやすいという。
その理由が面白いのであって、S~Zの姓名をもっている人は
「名前を呼ばれるのがいつもあとなので、いらいらして待つ度合いが大きく、
試験の結果なども、ほかの者が合格とわかって喜んでいるときに、自分の番は
まだかと気をもまなければならないから」だそうで、
この研究はロンドンの病院での十年にわたる調査が裏付けになっている。
諸君は常に雄大な気魂をもって人生に臨み、小さな失敗や栄進に
こだわることなく大海洋に掉さすが如く悠然と生活せよ。
或る先輩は入学試験に失敗してクヨクヨしている青年にいった。
「何を一年くらい入学が遅れたことをクヨクヨするか。ノンビリと生活して
二年間寿命が延びたらその方が有利でもあるし、人格形成に役立つではないか」と。
まことに至言である。
入学者名簿のビリに姓名があるからとてクヨクヨするような愚かな人間にはなるな。
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十八日のことば 自己信頼と自己尊敬
人間が自己の人格を向上させるのに三つの条件がある。
第一に自己信頼又は自己尊敬である。
これは自己劣等感の反対である。
自己を劣等視する者は常に自己の進歩を自己抑制して大きく伸びることができない。
これに反して”神の子”として自己を尊敬し信頼できるものは、
自己の内に”無限の能力”と”無限の善”とがある事を自覚して、
その”無限”を常に発掘し表現することに自信と歓喜とを感ずるが故に、
常に毎日進歩することが出来るのである。
・・・
十九日のことば 己に克つものは最大の勇者である
”神の子”としての自己尊敬が自己の内に確立したならば、
その自己尊敬を裏切るような事はしてはならないのである。
それには“神の子”たる者が為すのにふさわしくないような低卑な思いを起こさず、
低卑な行為をしないように自己訓練をしなければならないのである。
しかし人間は”内在の神の子“たる本性と、それを包むに”肉体“という
他の哺乳動物と同様な本能をもつ”衣裳“又は”作業服“を有するのである。
したがって”肉体”の欲望が”神の子”たる本性の要求に優先するならば、
”神の子”たる尊敬すべき資質を表現する機会を失い、その人は単なる
哺乳動物の欲望を満足させる動物の境涯に堕落してしまうことになるのである。
終戦後、日本弱体化のために押付け的に制定されたる日本憲法は
この哺乳動物的欲望を基本的人権として強調しているので、
戦後育った若い人たちは動物的欲望の主張とその満足を当然権利として要求して
“神の子”たる魂の願いを軽んじる傾向があるのであるが、
それでは魂の乗馬であるべき肉体を、魂の上において、馬が人間の上に乗って
主人公になっているのと同様である。
これでは高貴なる人格形成はできないのである。
魂の願い適わない肉体の欲望を克服して、肉体をして完全に魂の願望遂行に
従属せしめること、これによってのみ高貴な人格が形成され得るのである。
だから高貴な人格形成の条件の第二は肉体の動物的欲望に打ち克つこと、
即ち「克己」ということである。
古来、己に克つものは最大の強者であるといわれている所以である。
・・・
二十日のことば 己れに克つためには意志の強固が要請せられる
「己れに克つ」ためには、何が「真の自己」の願いであり、
何が「ニセモノの自己」(肉体的欲望)の願いであるかを知らねばならぬ。
即ちソクラテスの「汝みずからを知れ」ということである。
そして、「真の自己」の願いを成就するためには、「真の自己」の本源の願いを
生かすために派生せる肉体の欲望を剪定し摘果しなければならない。
それは恰も、美味の大きな果実を実らせるためには、不要の枝を剪定し、
不必要に多くの果実を実らせないで選りすぐった果実だけを残して
他の小果実を摘みとることが必要なのと同様である。
このようにしたとき、吾らの人格の最も尊貴なるもののみが果を結び、
低卑なるものが影を消すのである。
それには意志の強固ということが必要な条件となるのである。
戦後、新聞雑誌で見ると、「意志」という語が全く見当らず「意思」という字が
専ら使われているようであるが、人間の意識活動を知・情・意に分類すると
「思」というのは寧ろ「知」に属するのであって、意欲し志向する心の働き
としては「意志」という語が私は適切であると思っている。
・・・
二十一日のことば あなたの意志の力を強固ならしめるには
何でも、使わない力は退歩するのである。
意志の力も使わなければ退歩する。
筋肉の力が、ボディ・ビルに見るように、少し自分の現在の力では重荷に過ぎる
と思えるほどの重量を持ち上げたり、引っぱったりする練習をつづけることによって、
前よりも一層発達するのと同じように、
意志の力も、耐えがたきを忍び、なかなか抑えがたき欲望を抑える練習を
つづけることによって、今より一層発達するのである。
一人では肉体の欲望に負けてしまいそうな時にも、集団訓練又は集団練成に於ては
肉体の欲望に打ち克つための集団精神があらわれてきて、兎もすれば
安易を欲する肉体の欲望に魂の自分が屈服しそうになる時にも、
己に克つ練成ができるのである。
集団練成を行う練成会が必要な所以である。
・・・
二十二日のことば 魂の進軍と勝利の戦い
汝の「ニセモノ」を監獄に投じ、汝の「ホンモノ」を獄舎より解放せよ。
それが根本的な人間革命である。
「ニセモノの自分」を自由に解放しておきながら、高貴なる人格を形成しよう
と思っても、そこには唯、「ニセモノの自分」のジグザグ行進が始まるだけである。
この意味に於て人間の生活は、常に「ニセモノ」を克服する
「ホンモノ」の進軍と勝利の戦いだということができるのである。
勇気ある者は、いつも「ホンモノ」が「ニセモノ」に負け続けている戦いに
満足していてはならないのである。
・・・
二十三日のことば 人もし全世界を得るとも・・・・・
肉体の利己的欲望に打ち負けた瞬間、
その人の魂は生命(いのち)を失うのである。
「生命を得んとする者は却って生命を失い、
生命を捐つるものは却って生命を得」
とイエスがいったのはこの真理を述べたのである。
最初の「生命」というのは肉体的欲望の生命であり、
後者の「生命」というのは“魂の生命”である。
このことをイエスはまた
「人もし全世界を得るとも生命(たましい)を失わば何の甲斐かあらん」
と喝破しているのである。
それにも拘らず全世界の何十分の一に足らぬ僅少な領土や利権を得んがために
“魂の生命”を失い、愛を失い、争闘にあけくれている人たちを見る毎に
気の毒な気がするのである。
・・・
二十四日のことば 僅かの時間を大切にせよ
バケツの底に小さな孔があいているのに気がつかずに水を一杯入れておいたら、
あとでその水を使おうと思うとカラッポになっていることがある。
少しずつ逃げて行くものが最も大きな浪費となるのである。
私は講演旅行して講演のほか絶対に人に会わぬことにして講演の余暇の断片的時間に
執筆すると、自宅でまる一日執筆しているつもりの時よりも沢山原稿が書けることを
発見したのである。
自宅にいると、色々の雑用や、一寸した話しかけの言葉が、
バケツの底の孔のように、私の時間を分断して奪って行くのである。
二、三の手紙を読んで、その返事を書いているうちに「もう昼食か」と驚くことがある。
原稿を書くのを職業としている文士がわざわざ旅館に「館詰め」と称して
執筆のための部屋借りをする人が多いのも、故あるかなと思うのである。
諸君は断片的な時間を無駄に流し棄てることなく、すべての自分の時間を、
何らかの自己の向上(肉体の健康及び学業の向上を含む)に利用する工夫をして、
毎日毎日を「魂の進歩の日」として行くならば、他の普通の時間浪費の習慣に
押し流されている人よりは立派な、社会国家に貢献できる人になる事疑いなしである。
・・・
二十五日のことば 砂礫が集まって岩石となる
どんな大樹も小さな斧、鉞で打撃を繰返すことによって
切り倒すことができるのである。
点滴は、やがて大岩石に孔を穿つといわれている。
一秒一秒が集まって百歳の長寿となるのである。
その代わり、一秒二秒をゆるがせにする者は
百歳の長寿を無駄に浪費することになるかも知れない。
小さな砂礫が集まって大岩石となることがある。
秋田市の講習会の帰りに全日空の空港の貴賓室に、赤や藍(らん)の美しい色の、
今われたばかりの破片のように角だった小石が凝結してモザイク模様を
織り成している天然の凝礫(ぎょうれき)岩が置き物にして飾ってあったが、
誰かがこれが「さざれ石の巌となりて」という日本国家“君が代”の歌が真実である
ことがわかりますねといっていたが、どんな小さな石の破片でも、
大自然の叡智で、こうして集めれば美しい置物になるのである。
(この岩は秋田で産するのかときいたら、係りの人は鳥取の産ですといっていた。)
あなたの小さな時間の破片でも、若しあなたの叡智がそれを集めて、
あなたの人格形成に利用するならば大いなる結果を生むに相違ないのである。
・・・
二十六日のことば 意義の大小は人間の大小による
小事の中に潜んでいる大事を見出すのが実相を観る知恵の働きである。
何でもない瑣事からヒントを得て大発明を成就することもあれば
大思想を産み出すこともあるのである。
常に事物をよく観察して、その意義を考える習慣をつけておくときは、将来必ず、
無限の石油資源を掘り当てたにも似た思想的または学的成果を得るときが来るのである。
すべて小さき事物を軽んじてその意義を見出すことができない者は
人間が小さいのである。
どんな瑣事にも、それを契機に大いなる意義を見出す者は
人間が大きいのである。
意義の大小は、事物の大小によらず。人間自身の大小によるのである。
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二十七日のことば あなたは偉大なる魂となれ
自己の性格の弱さを克服しようとする努力の中から
ニイチェの”超人”の思想は生まれたのである。
父なき児が、まぶたの父を憧れる心から
イエスの“天の父”の信仰は生まれたのである。
貧しさの中にあって運命を克服する努力の中に吉川英治、山岡荘八、
長谷川伸などの有名作家が生まれている。
困難を克服する努力のない処からは価値のあるものは生まれないのである。
偉大なる魂は困難の中から高貴なるものを発掘するのである。
卑小なる魂は豊かさの中にあっても鼻もちならぬ糞穢(ふんえ)を掘り出すのである。
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二十八日のことば 高く昇るほど謙遜になれ
小なる成功に傲るものは、大なる成功を得ることができないで挫折するのである。
人は自分の樹てた功績に傲って他の人を軽蔑してはならないのである。
自分より卑しい地位に今ある人で、
自分よりすぐれている資質を有する人たちは沢山あるのである。
「実るほど頭の下がる稲穂かな」という俳句がある。
上位にあがればあがるほど謙遜でなければならないのである。
出る杭は打たれ、威張る者には敵があらわれ、
背伸びして高く見せようとする者は押えられて低くせられる。
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二十九日のことば 織田信長と徳川家康
私は山岡荘八氏の「織田信長」が本能寺で明智光秀に反逆されて自刃する
前後の情態を錦之助が演ずるのを、先日、歌舞伎のテレビ中継で観たが、
彼はまさに勝ち誇って、その功業が多くの部下の忠誠の上に成り立っているのだ
ということを忘れて、自分のわが儘で何でもできるという過信によって
みずから滅びて往った光景がよく演出されていた。
これに反して徳川家康は、やはり戦国の武将であるから戦うときには狡猾な策略も
あり、殺すことも敢てするけれども、戦い終った後は、部下を生かし、
民を生かすことを忘れなかった。
そこに徳川三百年の治世が継続した所以があると思う。
殺す者は殺され、生かす者は生かされる
天地の理法をおろそかにしてはならないのである。
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三十日のことば 言葉はあなたの運命を左右する
部下を生かし、民を生かし、すべての人を生かす根本的なものに
和顏・愛語・讃嘆があるのである。
和顏を失い、愛語を失い、讃嘆を失ったとき、信長は心の中では光秀に愛情をもち
信頼をもちながら、信頼しているが故に、一寸ぐらい荒々しい言葉を出しても
自分に叛くことはないとの安易な考えから、思わず発せられた言葉が憎悪と侮辱のように
光秀には受けとられて、ついに光秀は信長を討とうと決意したのであった。
本当の愛は、荒々しい粗暴な言葉では表現されないのである。
粗暴な言葉が、自分の一生涯の運命を崩してしまうこともあれば、
死を招くこともあるのである。
あなたは如何なる言葉を発するか、よく自己の言葉を顧みて、
言葉の調子の荒っぽさをやわらげるよう自己訓練することが大切である。
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三十一日のことば 小さな一言一行があなたの運命を形成する
熟練した考古学者は、わずかに古代の遺跡の中に残っている骸骨の破片を
つなぎ合わせて、その動物の全体の形を復元してみせることができるのである。
一個の摩滅し腐蝕した歯の形からしてそれが幾世紀前の
どんな生活していた生物であるかを言い当てることができるのである。
化石に印されている鱗の形でそれがどんな形の何族に属する魚類であるかも
知ることもできる。
それと同じく、あなたが不用意に書いた原稿の文字、思わず発した乱暴な言葉等
によって、有識者はあなた全体の性格を知ることができるのである。
一字一点一画一語ことごとくあなたの人間全体を表現しつつあるのである。
その表現と、その表現に対する世界からの反応とが
あなたの生涯の運命を決定するのである。
「自分は運が悪い」などという勿れ、
あなた自身が今もそして常にあなた自身の運命を造りつつあるのである。
(おわり)
(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7073513 より抜粋・整理)