伝統板・第二
高徳者の病い - 伝統
2016/12/16 (Fri) 04:51:00
*「光明道中記」(12月16日)より
【外の空気よりも心の内に平和な空気をつくる事は一層大切である。(『百事如意』)】
強健は必ずしもその人の精神的高位を示すものではない。
野獣は人間よりも強健である。
彼等は殆んど病気に罹らないが、人間よりも精神的高位であると云う訳には行かない。
野蛮人は文明人よりも病気に罹らないし、血を見ることを何とも思わないで
外傷的苦痛などは殆んど感じないらしいけれども、彼らは文明人よりも
精神的高位にあると云うことは出来ない。
人間が野獣よりも、そして文明人が野蛮人よりも、精神的高位にあると云うのは、
それは感じ易さが鋭敏でありデリケートであると云うことである。
高徳者の病気と云うことを考えてみる。
感じ易く、デリケートな心の琴線を有(も)っている高徳人は、
此の世界に漂うている色々の念波
―― その中には、憎悪の念波や、憤り、争い、呪い、悲しみ、羨望、
嫉妬などの、感じ易い人々にはとても耐えがたい不快な念波もあるし、
まことに神々(こうごう)しい忠義や、孝行や、無我帰一や
、自己犠牲や、深切や、相愛や・・・
その他数え切れない善き念波も混じっているのである ――
それらの念波の中にあってあまりの感じ易さに、苦しくなることがあるであろう。
フランシスのように感じ易い人は時々周囲の念波を反映して病気になったものらしい。
<感謝合掌 平成28年12月16日 頓首再拝>
神の愛を念ずる日 - 伝統
2016/12/17 (Sat) 03:56:08
*「光明道中記」(12月17日)より
【病菌は病気に対する人類的恐怖の客観化したものである。
(『生命の實相』第十一巻)】
高徳者が病気になるのは、周囲の念波の攪乱(こうらん)的影響によるのである。
腹痛の人が私の前へ来ると私のお腹が痛くなる。
胸の悪い人が私の前へ来ると私の胸が苦しくなる。
また遠隔思念でもして貰いたく、私に哀願している念波が
私を苦しめることもあり勝ちである。
私は並々はずれた細かい皮膚の顔貌をしているのでも判るように、
私の感受機関は非常にデリケートであって、
そのために色々の不快な念波を受けて苦しんだものである。
私はその状態から抜け出したいと色々と工夫を重ねたものです。
今でも充分そのデリケートさが克服されたとは思っていないが、その工夫の中に次第に、
どんなにデリケートであっても、波長を合わさぬことによって、
それらの不快な念波を避けることを発見し、今では稍々(やや)成功して、
どんな病気の人がわたしに心で縋(すが)って来ても、
その念波を外して了うことが出来るようになったのである。
その方法は神想観中に自分の周囲に神の愛の念波が取巻いて自分を護っており、
どんな不快な念波も必ず一度は神の愛の念波が光明化してから私に伝えられると
念ずることによってである。
<感謝合掌 平成28年12月17日 頓首再拝>
高徳者の身体と病気の話 - 伝統
2018/07/29 (Sun) 04:10:30
*『覚醒の炎』プンジャジ・著(P274~275)より
(インドの聖者プンジャジ(愛称パパジ)
~ラマナ・マハルシの弟子でした)
誰もが過去世での出来事や、関係性や、欲望や、嫌悪感によって
決定された活動が書き記された脚本を手にしてこの世界に生まれてくる。
非常に強烈な自由への欲望を抱いてこの生を授かる人もいる。
この自由が達成された後も、身体的存在は続いていく。
そしてそれは過去世の執着と欲望の結果のすべてを体験することになるのだ。
解脱した人の真我はまったくカルマを体験しない。
だが身体は過去生の関わりや執着によって決められた脚本に従って
地上での一生を終えなければならない。
ラマナ・マハルシはガンだった。
ラーマクリシュナもガンだった。
ヨガナンダもガンを患っていた。
体は過去の行為の結果を体験し続けるだろう。
だが、真我実現した人がそれらを気にかける事はない。
彼は自分が病気で苦痛を体験している身体ではないことを知っている。
あるいは自分が体を動かしている個人ではないことを知っている。
彼はただただ体を通してブラーラブダが完結していくのを超然と見守るだけなのだ。
*プラーラブダカルマ(解決されていない考え)
今生で自由を獲得した人が再び生まれかわることはない。
それはつまり最後の人生で未完の身体的カルマを
すべて結実させなければならないことを意味しているのだ。
そのため、解脱した人は時折非常に病んだ身体で最後を迎えることになる。
すべての顕著なカルマが彼らの身体に入り込むからだ。
<感謝合掌 平成30年7月29日 頓首再拝>
デリケートな心の琴線を有(も)っている高徳人 - 伝統
2018/12/16 (Sun) 04:15:01
*「光明道中記」(12月16日 心全く平和の日)より抜粋
【外の空気よりも心の内に平和な空気をつくる事は一層大切である。
(『百事如意』)】
高徳者の病気と云うことを考えてみる。
感じ易く、デリケートな心の琴線を有(も)っている高徳人は、
此の世界に漂うている色々の念波
―― その中には、憎悪の念波や、憤り、争い、呪い、悲しみ、羨望、
嫉妬などの、感じ易い人々にはとても耐えがたい不快な念波もあるし、
まことに神々(こうごう)しい忠義や、孝行や、無我帰一や
、自己犠牲や、深切や、相愛や・・・
その他数え切れない善き念波も混じっているのである ――
それらの念波の中にあってあまりの感じ易さに、苦しくなることがあるであろう。
フランシスのように感じ易い人は時々周囲の念波を反映して病気になったものらしい。
<感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>