伝統板・第二

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人類光明化 - 伝統

2016/12/01 (Thu) 04:22:40

《同志愛に徹底する日》

           *「光明道中記」(12月1日)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚(なお)一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み
人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、
還って来た息子のために祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎する
ではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

            <感謝合掌 平成28年12月1日 頓首再拝>

すべて自己の責任と知る日 - 伝統

2016/12/03 (Sat) 04:51:45


           *「光明道中記」(12月3日)より

【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、其の人の心境は朗(ほがら)かである。
                          (『生命の實相』第十巻)】

私は第二次世界大戦が欧州に勃発した時の日記に次のように書いている。

「すべて私の責任なのである。私はみずから顧みて恥じるほかない。
考えて見れば欧州の天地で、
ヒットラーが英仏を向うに廻して戦っている姿も私の心の影である。

私が『ヒットラーよ、もう戦争を止めてくれ』と言ったら、
ヒットラーが『ハイ』と答えて戦争を止めてくれるほどになれないのは、
まだ私の力が足りないからなのである。

力が足りないのは偉さの徴候ではない。
私がまだそれほど偉くなれないのは私が悪いからである」

私はそんなにまだ偉くなれていないのである。
まだまだこれからだと思う。
光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。

光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、
「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが
私のところへ時々来るのは悲しいことである。

併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、
また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。

実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。

            <感謝合掌 平成28年12月3日 頓首再拝>

「人類光明化 発進の宣言」~『生長の家』出現の精神 - 伝統

2016/12/20 (Tue) 04:34:07


       *『生長の家』誌創刊号 「巻頭のことば」より

自分はいま生長の火を
かざして人類の前に起つ。

起たざるを得なくなったのである。

友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。

人類は今危機に瀕している。


生活苦が色々の形で 押し寄せて
人類は将に波にさらわれて覆没しようとしている
小舟の如き観はないか。

自分は幾度も躊躇した。
起つことを躊躇した。

自分は中心者として増上慢のそしりを
受けることを恐れていたのだった。

一求道者としていつまでも謙遜でいたかった。

併し今は謙遜でありたいと云うことが
自分にとっては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。

自分はこの誘惑に打ち克って 人類を救わねばならない。

自分の有っている限りの 火で 人類を救わねばならない。

自分の火は小さくとも
人類の行くべき道を照らさずにはおかないだろう。

此の火は天上から天降った生長の火である。

火だ! 自分に触れよ。

自分は必ず触れる者に火を点ずる。
生長の火を彼に移す。

自分は今覚悟して起ち上っ た。

見よ!
自分の身体が燃え尽すまで、蝋燭のようにみずからを焼きつつ
人類の行くべき道を照射する。


自分のかざす火は
人類の福音の火、生長の火である。

自分は此の火によって人類が
如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。

如何にせば境遇の桎梏から脱け出 し得るか、
如何にせば運命を支配し得るか、
如何にせば一切の病気を征服し得るか、

また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、
如何にせば家庭苦の悩みより脱し得る か……等々。

今人類の悩みは多い。
人類は阿鼻地獄のように苦しみもがきあせっている。
あらゆる 苦難を癒やす救いと薬を求めている。

しかし彼らは悩みに眼がくらんでいはしないか。
方向を過っていはしないか。
探しても見出されない方向に救いを求めていはしないか。

自分は今 彼らの行手を照す火を有って立つ。

 → Web:https://www.youtube.com/watch?v=D3ri_SAKTDE

・・・

<参考>

「生長の家」創刊号
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=66

            <感謝合掌 平成28年12月20日 頓首再拝>

運命を支配するもの - 伝統

2017/08/02 (Wed) 03:46:13

 
        *『白鳩』(昭和47年7月号)~谷口輝子先生

どこの宗教でも、夫に隠しごとをしてよいとは教えられないと思います。

貴女はもっと積極的な態度で生活に臨んで下さい。 
夫に内証にするのでなく、胸襟を開いて夫と語り合って下さい。

貴女は人類光明化運動という立派な運動をしているのだけれど、
夫はケチン坊だから出費することは許してくれないと決めてかかって、
内証で出費して居られますけれど、
心の中は “内証” ということについての罪悪感で明るくないでしょう。 

人類光明化をしているつもりでも、自分は暗い気持ちであるに相違ありません。

自分が先ず光って、その光りを他へ及ぼして欲しいものです。 
自分の光りが強ければ強いほど周囲もまた明るくなるわけであります。 
貴女は優しい言葉、謙虚な態度で夫に話しかけて下さい。 
そして夫に真理を伝えて上げて下さい。

貴女の夫は、生長の家は他の宗教より良いと解って居られると貴女は申されますが、
どの点を良いと御存知なのでしょうか。 

いくら良い教だと頭脳で解って居られましても、
実生活に教を生かされなかったら、知っているというだけで、
自分たちの生活をより一層向上させることも出来ないし、
経済的にもより豊富にすることは出来ません。

『与えよ、さらば与えられん』 という法則は真理なのであります。 
他に与えることを惜しむ者は、自分も富むことは出来ません。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24573960.html

            <感謝合掌 平成29年8月2日 頓首再拝>

人類光明化運動の基礎となるの - 伝統

2017/10/21 (Sat) 03:44:54


        *「生長の家」昭和30年新年号〔巻頭言〕より

われらは神を、人間を離れて存在し、天上から
人間の行動や心裡を監視していてそれを審判し、
人間に幸福や審判を天降す超人間的な妖怪的存在とは見ないのである。

吾らは神を宇宙普遍の智慧であり、愛であり、生命であると信じ、
その宇宙普遍の智慧と愛と生命とが展開して、空の星も、太陽も、月も、地球も、
地球上の一切のものが顕現したと信ずるものである。

従ってまた人間自体も、その宇宙普遍の智慧と愛と生命との顕現であるから、
本来完全圓萬であって如何なる不幸も、災難も、病気も窮乏もあり得ないことを
信ずるのである。

而も、その不幸、災難、病気、窮乏等があらわれて来ることがあるのは、
自己が心の眼を完全に開かず、心が半睡状態にして、
採るべきものを採らず、採るべからざるものを選び採ることに
基因すると信ずるのである。

 
それゆえに生長の家の人類光明化運動なるものは、
人類の不幸、災難、病気、窮乏等を救うために、
心の眼をひらかしむることに重点をおくのである。

凡そ不幸、災難等に遭うのは、神の叡智が完全に、
その人の心の眼のうちにひらかれていないために誤った選択をするからである。

たとえば、洞爺丸が函館沖で転覆したのは、その船長に神智がひらけず、
出航すべからざる時に船を出航させたことにあるのである。

またその船にのって遭難した人たちも、その船が転覆することを予測するところの
神智が自己の心の眼がひらかれていなかったからである。

日本が昭和16年12月8日に英米に対して宣戦布告したのも、
心の眼がひらかれていなかったために過った選択をしたのである。

すべてこれらの問題は智慧の問題であって、そのほかの原因は従属的な原因に過ぎない。
ある病人が自分に適する分量の薬剤と治療法とによって治るのも、
智慧が宜しきを得たのである。

生長の家は必ずしも医療を排斥するものではない。
智慧なき医療を排斥するのである。

多くの医者があるのに、殊更に誤った医療をほどこす医者にかかって、
特異体質であるのに、不適当な注射を受けて、数時間のうちに死んでしまう人の如きは、
やはり智慧の眼が、自分の心のうちに開かれていなかったからである。

吾々が真に凡ゆる面に於いて幸福を獲得するためには、神智を啓発することである。
吾々の内には宇宙をつくった神の叡智が宿っているのであるけれども、
脳髄智のみを働かせて、その神智を働かそうとしないから、
神智が眠っているに過ぎないのである。

生長の家はその神智を人類から呼び醒まして正しき行為の選択によって
地上に至福の世界を建設せんとするものである。

神智をひらく方法として生長の家では坐禅的祈りの方式である神想観を行うのである。

・・・

このご文章は、光明掲示板・第一「生長の家は現代に何を与えるか (8214)」
(日時:2013年05月06日 (月))、”童子 さま”のご投稿記事から複写しました。

なお、現在では、光明掲示板・第一から消滅しておりますが、
次のWebにて確認することができます。
 → 生長の家愛国源流 [ 谷口雅春先生の大復活 ]~生長の家の全貌 谷口雅春先生

     https://blogs.yahoo.co.jp/aikoku2672/3676266.html
                       
            <感謝合掌 平成29年10月21日 頓首再拝>

人類光明化運動の一翼としての生長の家青年会のあり方 - 伝統

2017/11/22 (Wed) 04:49:19


         *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-11-23) より
              ~生長の家教団編輯局長  山口 悌治

生長の家青年会が全国的な組織を持ってから、最早数年になります。 
併しその組織成立の意義が完全に充たされたでしょうか。 

青年会が全国的な組織を持ったと云う事の意義は、
各地に散在する青年会の全国的な連絡や統一がとれたと云う
事務的な面にあるのでは決してないのです。

その統一された全国的な組織が、如何なる具体的な運動目標に向って、
積極的に総合的に、個々人や少数者の力では到底ない能わぬ大きな‘うねり’
となって漸層的に連続的に果敢に、実際に活用せしめられて、

人類光明化運動にどのような役割を果たしつつあるか、と云うその一点にこそ、
此の青年組織が成立した本質的な意義があるのであります。


従って、現在もなお生長の家青年会員の諸君の多くが、
単に個々人の求道生活の完成を主たる目的として、その目的の為にのみ
役立たせようとして全国的な組織を結成したのであると考えているのであれば、
その誤りを訂正し、その運動方向を一転して、
もっと大きく社会的人類的に動いて頂くために此の一文をものにしたのであります。

吾が青年会組織の意義目的は、個人としては神の自己実現としての
自己の実相の顕現に不断に努力精進するは勿論の事、更に進んで
光明化運動の第一線として、団体的に人類を救済するの使命

  ―  人間神性の確立、神の国の領域の拡大に向って、
光明化運動の強靭な活力源たる事を期して活動するのでなければなりません。

この目的達成には青年会としての光明化運動の組織的展開の在り方、
その目標運営に深甚な考慮と何段構えかの計画性とをもって、
その実際活動が推進されなければなりません。 

この事を目標として現在の沈滞せる状態を諸君は
大いに真剣に反省しなければならないのであります。

それには御教の純粋なる信仰者としての生活の第一義の生き方と、
組織活動の一構成分子としての生命の生かし方との総合的な構想とを
はっきり把握して、青年の溢れたぎる清純な情熱を無効果に発散しないように
しなければなりません。 

そしてまた光明化運動が、
単に自分だけの救いや個々人の了解の範囲内に止められて、
その必然の帰趨に何程かの自己制約が加えられる事のないよう、
厳に警戒しなければならないのであります。

 生長の家青年会の結成の宣言には、

 「新しき世紀は 『人間神の子、仏子なり』 との人間宣言を以って
 その輝しき黎明を告げる。 吾等は現代の世界を暗黒に彩る唯物的人間観の桎梏
 から真の人間なるものを解放せんとして、吾等の熱血と全身全霊を傾倒する
 ものである。 

 而して又吾等は人間神の子の実相を自己及び兄弟同胞たる隣人の凡ゆる階層に
 実現し、智慧と愛と生命と供給とに充ち溢れたる神の子の理想を如実に顕現せしめ、
 以って万民の祝福し合う神の国を実現せんとするものである」

とその決意を披瀝されています。 また綱領の第2項には、

 「吾らは『生長の家』家族の若き世代として
 『生長の家』立教の精神を広く徹底的に普及し、
 以って地上に神の御心を実現せんことを期す」

と鬱勃たるその情熱が吐露されているのであります。

併し、更めて考えて見るまでもなく、この宣言綱領の精神は、
青年会のみがよく果し得る独自のものではなく、
御教の使命を確信する総ての生長の家家族誌友の一致して念願する
ところのものであって、

この宣言綱領からは、光明化運動の強力な一翼として
全国的組織をもつ生長の家青年会の特色を示すものは何等発見出来ません。

そしてそれはまたそれで充分いい事なのだと思います。 

ただ問題は、この宣言綱領の精神が、どの様な運動形態をとり、
どの様な運動目標に集中され、どの様に運営されて行ったならば、
全国的組織をもつ生長の家青年会にとり、真にふさわしいものとなるか、
と云う一点にかかっているのです。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/593fa5be88294cf4c78609e2326aa607


            <感謝合掌 平成29年11月22日 頓首再拝>

《同志愛に徹底する日》 - 伝統

2017/12/01 (Fri) 04:42:12


           *「光明道中記」(12月1日)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚(なお)一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み
人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、
還って来た息子のために祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎する
ではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

            <感謝合掌 平成29年12月1日 頓首再拝>

超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である - 伝統

2018/02/05 (Mon) 04:09:09


           *「光明道中記」(2月5日強くなる日)より

【救われねばならぬような弱者なる人間は、
この世に存在しないと云う思想が光明思想である。(『生命の實相』第十三巻)】


同情されたい心は同情されなければならぬような境遇、不幸、病気を招く
ということが『生命の實相』第九巻にも書いてある。

人間は同情さるべき弱者なる肉体人から、一切の同情的世界を超克し去りたる
超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である。

どこにそんな甘い生長の家があるか。
人間の甘さが、人間の涙もろさが、
これまで人間をどれだけ堕落させて来たことだろう。

”人間・神の子”の自覚があっても、
甘える心を棄てなければ”神の子”の完全な実相は顕れない。

「生長の家が本当に人類を救うために出現したものならば、私を救って戴きたい。
私は本を読みたくとも金なき者である。私に『生命の實相』を無料贈呈して欲しい。
若し贈呈出来なかったら生長の家が人類を救済するために出現したと云うのも
真っ赤な嘘であると信ずる」

こんな手紙を諸方から時々来る。
そういう甘い考えを、依頼心を叩き伏せるのが救済である。

高き救済は甘さを超克した峻厳である。
愛深く峻厳と、峻厳なる寛容とが人間の進歩に必要である。

獅子は千仭の谷へと仔を墜す。

            <感謝合掌 平成30年2月5日 頓首再拝>

自分自身が人類光明化のシテである - 伝統

2018/02/13 (Tue) 03:17:11


           *「光明道中記」(2月13日人に物を施す日)より

【誰にでも基督の心、釈迦の心はある。それを出すとき彼の心は天地にひろがる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

誰も本当は施主になりたいのである。
乞食にはなりたくない。施主になりたい。
受ける人になるよりは与える人になりたい。

それは与えると云うのは自己拡大の感じを与えるからである。

併し与える人ばかりでは、
受ける人がなかったら、此の世はまた淋しいことだと思う。

それは貰う人のない生産のようなものである。
生産は購買によって成立ち、施主は受ける人によって成立つ。

私は今迄与える事ばかり考えていて、
誌友をして施主にならしめる機会を与えないことに努力してきた。

これは今迄の宗教は信者を施主にして、
その施物(せもつ)に寄生して生活する傾向があったのを
粛正するための反動であったと謂える。

信徒の一部に、自分は書物の顧客で人類光明化の協力者だと云う
感じが乏しいのはそのためである。
自己を与えないもの、自己を献げない相手には永続的な魅力が感じられない。

そこで聖使命会が結成せられ、自分自身が人類光明化のシテである
という主体性の自覚の発生と共に信徒は情熱をもって
真理を宣布して下さることになったのである。

何事で、献げだけの生き甲斐が感じられるのである。

            <感謝合掌 平成30年2月13日 頓首再拝>

人類光明化運動はすべての人類を言葉の力によって祝福する運動 - 伝統

2018/03/10 (Sat) 04:25:52


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇( P43~44) より

《祝福の暗示》
     
人は接触する人々にその雰囲気を交流させて
互いに影響を与え合うものなのである。

それは人間はその本質に於いて「生命(せいめい)」が一体であるから、
海水が一体であって智利(チリー)国の地震が日本の東北地方の大津波となって
影響するにも似て、たとい物言わずとも互いに影響し合うものなのである。

更に”言葉の力”を用うれば一層激しく影響し合うものである。
たとい電話を通じての言葉であっても、
非常な影響を相手の精神に与えることもある。

私は或る映画を見たが、毎日毎日、何者とも知れぬ人から
「お前は何日何時何十分に必ず殺すから」という電話がかかって来るのである。
その電話を受ける人は、そのために激しいノイローゼに陥るのである。


では、そのような恐怖の暗示の言葉なしに、電話に限らず、日常生活に於いて
幸福の暗示の言葉を、会う人毎に投げかけることにしたらどんなものだろうか。

讃(ほ)める言葉、激励の言葉、

「屹度あなたは成功する」とか、
「屹度あなたの希望は成就するよ」とか、
「屹度よく勉強できるよ」とか、

「もう直ぐ健康になりますよ」とか、
「あなたは神の子だから、健康と幸福のほかは何もあり得ない」とか、

このような善き言葉の雨をふらして人類を祝福するならば、
「祝福を与えるものは祝福を与えられる」の”心の法則”に従って、
屹度あなた自身も豊かに幸福になるに相違ないのである。

生長の家の人類光明化運動はすべての人類を言葉の力によって
祝福する運動だといっても間違いはないのである。

            <感謝合掌 平成30年3月10日 頓首再拝>

吾らの人類光明化運動 - 伝統

2018/04/03 (Tue) 04:31:41


       *「美しき日本の再建」(P41~42)

人間の自覚の革命のみが、人間を真に幸福にすることが出来るのである。

この自覚の革命運動が生長の家の人類光明化運動なのである。

自覚革命が出来た時、その社会体制がどうあろうとも、
その経済組織がどうあろうとも、その人の身辺には
”福の国”とも謂うべき至福調和の状態が顕現するのである。

そして大多数の人々の自覚の革命が成就した時、自覚の革命の反映として
社会体制と経済組織も自然に一変して来るのである。

この自覚の革命を得ることをイエスは「新たに生まれる」といい、
「人新たに生まれずば神の国を見ること能わず」と訓(おし)えたのであり、

この自覚の革命を得ることを釈尊は「悟りを開く」といったのであり、
維摩経には「菩薩、心浄(きよ)ければ浄土浄し」と訓えているのである。

自覚の革命なしに、物質の配分方法さえよければ人類に幸福来るなどと考えるのは
「いたずらに夢を追いて走る者にして、永遠に神の国を見ることを能わず」
(『甘露の法雨』釈意)であるのである。

(初出は、「理想世界」誌(昭和43年3月16日の法語))

            <感謝合掌 平成30年4月3日 頓首再拝>

《真に純粋な宗教》 - 伝統

2018/04/23 (Mon) 03:21:40


    *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇( P49~50) より

この宗教でなければ人間の魂が救われないなどという宗教は、
一種の党派的根性を有する利己的集団としての性格をもっているのである。

その××教でなければ救われないのだったら、
その宗教が出現するまでの人類の魂は永遠に救われないことになるのである。

神様はそのような杜漏(ずろう)な、頼りない、
抜け目だらけな方であるはずはないのである。


人間の魂が救われるのは、宗教の名称や、徒党的集団や本尊として形式的に
祀ってある物資の掛け軸によるのではなく、「真理」によるのである。

真理は“××教“と称するような宗教、集団、教団などの出現した其の以前から、
始めなき太初(はじめ)から、久遠に存在するのであるから、
人類は、どんな宗教の発生する以前からも救われていたのである。

その「真理」を純粋に説くのが生長の家である。
生長の家くらい純粋に真理を説く宗教は他にないのである。

○○○○が生長の家の悪口(あっこう)を言う材料に常に使っているのは、
「生長の家は色々の宗教の良い所をとってミックスしたのであって、純粋でない。
○○○○は日蓮上人だけの教えを純粋に説くのだから純粋だ。
そんな色々の宗教の寄せ集めとは違うのだ」という言い方である。

併し、日蓮は末法に相応(ふさわ)しい教えを説いたのであって、
あらゆる時間に通ずる純粋な真理ではないのであって、
「末法」という「時」の《要素が混入》しているのである。

それだけ時代迎合であって純粋ではないのである。

本当に純粋なる真理は時間空間を超えて
何時でも何処でも何人をも救う真理が純粋なのである。
生長の家こそ本当に純粋の真理を説く宗教なのである。

           <感謝合掌 平成30年4月23日 頓首再拝>

何故(なぜ)戦争は 止(や)まないか - 伝統

2018/05/21 (Mon) 04:25:23


         *「真理」第9巻生活篇(P368)より

何故、戦争や馬鹿馬鹿しい闘争が繰返されるのでしょうか。

少し考え深い人なら戦争は引合わぬ商売だと云うことがわかる筈なのです。

此の引合わぬことをするのは 人類の自己処罰意識から来るのです。

人間は “ 神の子 ” であり “ 本来無罪 ” の自覚に到達することができず、
人類の潜在意識の中に “ 自分は罪人(つみびと)だから戦争でもして
自(みずか)ら傷つけることによって自己処罰しなければならない ”
と云うような観念が抜け切らないからなのです。

罪の観念は 罪を招(よ)び、大量殺人と云う自己処罰の罪悪を犯すことになるのです。


だから根本的な平和運動は、

「人類は互いに神の子として兄弟であるから仲好くしなければならない」

と自覚すると共に 

「人類は神の子として本来無罪である。神のみが創造主(つくりぬし)であり、
神は罪をつくらないから、罪は無いのだ 」

という教えを人類に出来るだけ早く弘(ひろ)めるようにしなければならぬのです。

           <感謝合掌 平成30年5月21日 頓首再拝>

光明思想を与えることは一層の善事である。 - 伝統

2018/06/15 (Fri) 04:06:06


         *「光明道中記」(6月15日 一人必ず救う日)

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

           <感謝合掌 平成30年6月15日 頓首再拝>

吾々は人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ - 伝統

2018/06/16 (Sat) 03:33:42


         *「光明道中記」(6月16日 知ったら直(す)ぐ行う日)より

【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、道を知って道を行なうことである。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

           <感謝合掌 平成30年6月16日 頓首再拝>

《 山頂に昇りつく途中 》 - 伝統

2018/06/30 (Sat) 04:07:49


        *『生活の智慧365章』
           (第1部生命の泉)第3篇( P82) より

いつまでも人を見て、「気に食わぬ」という気がするのは、
相手が悪いよりは、自分に一種の先入観や、一定の尺度があって、
自分ぎめの善の標準や尺度に異なる者を、
みんな「悪い」と独断する癖があるからである。

それぞれの人々は、それぞれの道を通して、
(それは今行く道が間違っているかも知れないが)そのような道を通れば、
このような結果になるいうことを体験を通して勉強しつつあるのである。


ある人の現在の状態は、決して、その人の最後的状態ではないのである。
それは「実相」の山頂に登り着くための途中の登山道の風光に過ぎないのである。
やがて彼も「実相」の山頂に登りつめる時が来るのである。

その事を信じて、その人のために祈りましょう。

いっぺん位、生長の家を勧めてみて、入信しなかったからといって、
失望してその人を見棄ててしまうのは愛が足りないのである。

その後もたびたび訪問して真理の話をしてあげるのがよい。

一度でピンと来なかった人も、やがて心の扉がひらいて
真理を傾聴するようになるにちがいない。

           <感謝合掌 平成30年6月30日 頓首再拝>

人類光明化運動推進のための祈り - 伝統

2018/08/28 (Tue) 04:10:21


       *「詳説 神想観」(P244<最終頁>)より


「全世界の青年よ、人類光明化運動の聖旗の下(もと)に手を握れ」

と神は宜(の)り給う。

今光明燦然として人類光明化の聖旗は輝きながら吾らの前を進むのである。

聖旗の上に金色(こんじき)の鳩あまりくだりて棲(と)まるを見る。

これが平和の神の象徴である。

神よ、吾らみあとを慕いていざ行かん。

神よ、いよいよ輝きを増して吾らの行手(ゆくて)を照らしたまえ。

              (昭和28年5月発表)

           <感謝合掌 平成30年8月28日 頓首再拝>

人類光明化ということ - 伝統

2018/09/17 (Mon) 03:50:49


         *【新天新地の神示】講義 より
           ~谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱「新天新地の神示」
            http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/&mode=res&log=140
            より抜粋転写

「信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けようがないのである。
汝の心の疑いがわが救いの波長に合わないからである。
遠くにいて救われている者もあるが、近くにいて救われぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。

もっと兄弟たちに、『生長の家』を伝えよ。
神の愛は貰い切りではならぬ。
頂いたお陰を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。」

 
これは昭和六年五月六日の神示の一節であります。
「神の人類光明化運動」と、こう書かれていることを看過してはなりません。

これは人類を光明化する運動であって、自分だけ幸福になったら、
それでもう自分が救われたのだから、それでよいと安閑としているのでは、
それはこの神示にそむくところの一種の利己主義であります。

自分の病気が治った、自分の事業が繁盛して金が儲かった。
自分が出世した、地位が上がった。
それでもう目的を達したのだから「さようなら」では、
一種の利己主義者であって、生長の家の教えにそむく者であります。

生長の家は利己主義をするように教えている処ではないのであります。

だから、「神の愛は貰い切りではならぬ。頂いたお陰を『私』しないで、
神の人類光明化運動に協力せよ」と神示に教えていられるのであります。

これは光明化運動だから一人じゃ出来ないのであります。
体操なら一人で出来るかも知れませんが、
運動でありますから、集団的に行なわれなければならぬ。

これにはチームワークが必要です。
だから、この真理で救われた人は勿論、この真理に共鳴する人は、
この運動に協力しなければならないと思うのであります。

           <感謝合掌 平成30年9月17日 頓首再拝>

人類光明化のパテントは諸君に譲られた! - 伝統

2018/10/14 (Sun) 04:47:20


         *『聖使命』紙(昭和29年10月1日号)より

9月18日午前5時22分、講習会のために長崎から神戸駅へ着いたときには、
第14号台風が京阪神に上陸するという予報がラヂオでも新聞でも伝えられ、
雨戸は動かぬように釘づけしなければならぬというような恐怖心に充ちた宣伝が
おこなわれていました。

 
福岡県飯塚の講習のときには12号台風が九州を横断するというので九州の大被害が予想され、
また実際九州を横断してその台風の右岸にあたる鹿児島、宮崎両県に大被害を与えたのですが、
その台風の左岸にあたる長崎、福岡両県は 《この県に生長の家の講習会がありました》 
ほとんど何ら損害はなく、アメリカ軍の空中観測によると、たしかに、福岡県の上空では
風速50米と観測されているのに地上の風速はたかだか10米で、
台風の「目」に入った夜半などは全然無風状態が数時間もつづいたのであります。

 
その原因は物質的には不明でありまして、「地形の関係だろう」 
と新聞は報じていたのでありますが、台風は実は霊界の自然霊の運動で 
「生き物」 でありますから、

私には、生長の家の人類光明化運動が、私という人間の運動ではなく、
神の人類光明化運動であるから台風も遠慮して聴講に集る人に不便をかけないように
被害を少なくすべく遠慮したと思われるのであります。


だから神戸駅に出迎えにきた片村四八講師が 「台風が神戸へ上陸しますよ」 
といったときも、 「大丈夫ですよ。 生長の家の講習会がある限り、台風も遠慮しますよ」 
と答えたくらいだった。

しかし午前中、雨はやや吹き降り程度でしたが、午後になって講習がいよいよ
はじまっているうちに雨はやみ、10米くらいの風が吹いているにすぎませんでした。 

暴風警報は解除されてしまって、14号台風は九州の12号台風の時の様に
遠慮したらしく方向を変化して力を弱めてしまったのであります。 

やっぱり生長の家の人類光明化運動は、神の運動であって、
私個人の運動ではないことがハッキリわかったような気がするのであります。 

神は台風の進路を変向せしめ給う超大な力を持ち給うのであります。


私は、この神からの啓示を受けて人類光明化運動をはじめたのであります。 
それはインスピレーションを受けて人類に必要なある発明をした
一個の発明家のようなものであります。 

私がその人類光明化のパテントともいうべき 「光明思想」 を宣布するために、
自分個人の座敷を道場とし自分個人のホケット・マネーで印刷物を造っていた時代には
それに要する経費は種々わづかで済んだのであって、別に他の人々から寄付金や出資金を
頂く必要はないのでありました。


ところが光明思想の需要の拡大と共にその宣布または布教に広い会館を必要とすることに
なりますと、その会館の建設および維持には多額の出費を要することになり、
一個人のポケット・マネーや、数人の同志の献金ぐらいでは、
迚も全部まかない切れぬようになったのであります。

これを個人経営の町工場にたとえますと、その製品の需要の少い頃には、
個人経営の町工場でも結構その需要をみたすことが出来たのでありますが、
その製品が戦争 〈暗黒と戦う光明思想軍にたとえて〉 の拡大と共に、
多量に、至急に需要せられるようになりますと、もう、その印刷物でも広告費でも、
個人企業のような小規模のものでは、迚も間に合わないようになるのであります。

 
実例を以っていいますと、来る11月の生長の家25周年秋の記念大祭を記念として
近く行われる、一人の誌友に必ず一人の年極誌友を紹介して頂くために、
年極誌友約13万人に、紹介用見本雑誌として1冊づつ余分に同じ雑誌を封入して
置く方法にしましても、その見本誌の誌代および封入費を計算いたしますと、
平均1冊15円以上は余分に経費がかかるのでありますが、
これを合計いたしますと総経費195万円、ザッと200万円かかるのであります。

これで、わずか一人の誌友が一人の誌友を紹介して頂くための基礎費用でありまして、
見本誌を封入して置いたに拘らず、誰も新誌友を紹介して下さらないと、
この200万円は無駄になるのであります。


このように人を救うのには費用が要り、運動が拡大するに従って、
ますますその費用も拡大いたしますので、この負担は一個人や、本部一個所だけでは
とても負担し切れるものではありません。 

そこで個人経営の 「光明思想」 製造工場ともいうべきところの 
「私自身だけの光明化事業」 を、同志の共鳴者に公開して、

多勢の同志者が、協力出資者となって、ますます需要が世界的になりつつある
この人類救済の聖使命を遂行して頂こうとして、在来の 「維持報恩会」 が、
発展的に名称が変更し、内容が積極化したのが、この聖使命会なのであります。

従って聖使命会は私個人の光明思想普及及び運動の聖業全部を私に代って
引請けた団体でりまして、その団体の一員たる聖使命会員は、
謂わばその聖業遂行会社の株主ともいうべきものでありまして、
営業会社が株主の株金によって事業が遂行されるのと同じ様に、

生長の家の人類光明化運動の聖使命は、
聖使命会員の出資 〈会費〉 によって遂行せられるわけであります。

聖使命会は、いわば、私から、私個人の経営せる 「人類光明化の真理」 という
パテントを譲り受けて団体経営として大規模にこれを遂行しようとしているわけであります。 

従って光明化事業の拡大と共に、その株主ともいうべき出資会員の増加 
〈事業会社で申しますならば、新株の募集〉 が必要になって来るのであります。 

従って新しき聖使命会員を増加して頂かなければ
光明化運動の拡大遂行は事実上成し得ないのであります。


尚、近頃、各地を巡講いたしておりますと、私のことを余り 「教祖先生」 として
あがめ過ぎるきらいがあります。 

「教祖先生が休む暇もなく光明化に専念して居られ、その収入の全部を、そ
の光明化に献納して居られるのを見ると、吾々として申訳ない」 
というような言葉が度々各地で寄せられるのでありますが、
私は決して教祖ではないのであります。

 
生長の家の人類光明化運動の教祖は神であり、台風さえも自由になし得、
原爆さえもその神啓の 『甘露の法雨』 によって防ぎ得る
偉大なる全能力をもちたまう神であります。 

教祖は決して 「私」 ではないのであります。 

このことは重大なことであり 『生命の實相』 の第1巻に 
「生長の家と私」 と題してハッキリ書いてあるのであります。

その神からインスピレーションによって 『生命の實相』 の真理を伝えられ、
それを私が個人企業的に小規模に経営して居たのを、前途の如く今回、
聖使命会にそのパテントを譲り渡したのでありますから、
私は教祖ではなく 「前任経営者」 と謂うべきところであります。

従って今後は、私を教祖と呼ばないようにして戴きたい。 
そして 「教祖先生に申訳ないから光明化運動を大いにやろう」 というのではなく、 
「聖使命会の結成せられると共に神から聖使命会員がこの光明化運動を遂行するために
この聖業を吾々にゆだねられたのであるから、

この聖業を遂行することは吾ら聖使命会員の使命であり聖嘱である」  という自覚で、
みづからが霊の選士として聖使命に招請された者であるとして、
この聖使命遂行のために協力願いたいのであります。

吾ら 《複数に注意して下さい》 の聖使命なのであります。 
数は力でありますから、一人でも多くの同志を獲得して下さらんことを希望するのであります。 

常に今が 「時」 であります。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17643025.html

           <感謝合掌 平成30年10月14日 頓首再拝>

《束縛からの解放》 - 伝統

2018/10/28 (Sun) 02:45:23


         *『生活の智慧365章』
            (第1部生命の泉)第3篇( P59) より

生長の家は””病気治し”の宗教ではないけれども病気も無数に治っている。
その実例は毎号の「生長の家」誌その他四誌のどこかに掲載されているのである。
何故病気治しではないのに病気が治るかというとそれは真理を知るからである。

キリストは「汝らは真理を知らざるべからず、真理は汝を自由にならしめん」と
いっているのである。病気からの自由、貧乏からの自由、一切の束縛からの自由は、
真理を知ることによって得られるのである。

この真理を知ることによって自由自在の境地に達することを仏教では解脱
というのである。解脱し得た人を仏教では覚者すなわち仏陀というのである。

人間の本質は、本来仏陀で自由自在であるのに、自縄自縛して勝手に、
自己の生命力を束縛して病気になったり、自己の能力を束縛して貧乏に
なったりしているのである。

真理を知れば、その束縛が解けるのである。

その真理を知らしめる超宗教的運動が生長の家である。

           <感謝合掌 平成30年10月28日 頓首再拝>

《「真理は汝を自由ならしめん」》 - 伝統

2018/11/17 (Sat) 03:55:33


         *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
              第2篇( P52) より

諸経の真髄であり、純粋の真理であるところの生長の家の説く真理は、
それが純粋であるだけ、真にそれを信じ、信によって、その真理を本当に
魂の中に服用すれば効果覿面(てきめん)であって、病気を含めて
一切の苦悩困難悉く解決しない事はないのである。

「真理は汝を自由ならしめん」である。


宗教というものは人間を一切の迷妄から解放し、解脱を得せしめ、
一切の不安恐怖憂苦から自由を得せしめるのである。

「人間は神の子である。完全である」 という真理を、暇あらば常に心に唱えよ。

真理は非真理よりも無限に強力なのである。

やがて、”神の子”らsからざる一切の不幸、病気、災難等は、
それを唱えるすべての人々から姿を消すに相違ないのである。

           <感謝合掌 平成30年11月17日 頓首再拝>

《同志愛に徹底する日》 - 伝統

2018/12/01 (Sat) 04:48:20


           *「光明道中記」(12月1日)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚(なお)一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み
人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、
還って来た息子のために祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎する
ではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

           <感謝合掌 平成30年12月1日 頓首再拝>

《手近にいる人々に真理を伝えること》 - 伝統

2018/12/18 (Tue) 04:34:49


      *『人生の秘訣365章』第7篇(P186~187) より

すべての社会的、国際的な紛争は無論のこと、経済的な不如意も悉く、
大多数の人々の利己心の衝突から起っているのである。

私たちはこれらの現実の困難を克服する道は、
人類大多数の心の中から、利己心を追放して、
愛他精神を養うようにしなければならないのである。

完全に人類から利己心を追放する事は遼遠なる前途のことであって、
今直ぐ完成することは困難であるけれども、

「他(ひと)を生かせば我が身生かさる」の真理を隣人から隣人に
キメ細かく実践していると、ついに全世界の人類が愛他心に燃え、
互いに愛し合い生かし合う時代が来るに相違ないのである。

私たちは、その時機の来ることに望みをかけて、
同志を集めて実践しつつあるのである。


私は少年の頃、こんな話をきいたことがある。
ある時、牛若丸と弁慶とがお櫃(ひつ)一ぱいの御飯を練ってどちらが早く
ソックイ(飯粒をこねて粒をなくしてネバネバの強靭な接着剤につくったもの)
にそれをすることが出来るか競争したというのである。

弁慶はこれしきの飯粒(めしつぶ)位一ぺんに摺りつぶして見せるぞと、
全部の飯を板の上にあげて、大薙刀(おおなぎなた)をもって摺りつぶし出した。

牛若丸は小さな竹箆(たけべら)をもって十粒位づつキメこまかく
飯粒を摺りつぶして、完全にそれが摺りつぶされると、
又次の十粒位の飯粒を摺りつぶした

・・・ 最初は弁慶が一網打尽的に速やかに全部の飯粒が摺りつぶされるかと
見えたが、最後にちかづいてくると、どうしても完全にキメ細かい接着剤に
ならないで、一部ママコ(充分につぶされていないで粒状になっているもの)
になったところを生ずるのであった。

そして到頭、
十粒位づつキメ細かく摺りつぶしていた牛若丸の方が勝ったというのである。

これは少年の時に母からきいた話なので、作り話か、憶え違いか知らないが、
手近にいる数人を次から次へとキメ細かく光明化する方が、

大々的宣伝をして人類全体を一ペンに光明化しようというようなやり方よりも
著実に実効があがるものだと考えられるのである。

ある宗教が今日の如き多くの信徒数を得たのも、信徒全体が自分に触れる人たちを
一人のこらず信徒にしょうとキメこまかく伝道しているからだといえるのである。

人類全体の光明化は自分の身辺をキメこまかく光明化するにあるのである。

           <感謝合掌 平成30年12月18日 頓首再拝>

人類の病気、不幸、貧乏を半減させる道 - 伝統

2019/01/24 (Thu) 04:33:47


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月24日)より

人々の苦しみをして避けるものが、神の前には尊きものであるという考え方が、
敬虔なる宗教人に唱えられたる時代があった。

貧乏は人々の苦しみを避けるものであるがゆえに尊い。
不幸は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。
病気は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。

かかる考え方は人類の潜在意識が有していたがゆえに、
人類の潜在意識に心の創化力を動員して、その尊いと思う「貧乏」を、
その尊いと思う「不幸」を、その尊いと思う「病気」を、
創作しつづけてきたのである。

潜在意識が欲する病気を創作することは、
世界大戦時における戦争麻痺症がこれを証明している。

病人においては「富」は罪への誘惑となりうることはある。
しかしそれが「富」そのものの罪でないのは、
白刃(はくじん)が殺人の用に供されようとも、
白刃そのものの罪でないと同様である。

罪は「使用方法を誤る」ということと、「処を得ない」ということにある。
白刃も富も、処を得て正しく使用せられるとき、
天下を平定する剣となり富となる。

われわれの欲しないものを神が欲し給うかもしれぬという考えは、
神人分離の考えである。

われわれの欲せぬことを神が欲し給うかもしれぬというのであるならば、
あらゆる道徳の根拠は不確かなものとなってしまう。


われわれが善と思ったものが善でないかもしれず、
悪と思ったものが悪でないかもしれぬとしたら、
われわれは何を行なったらよいか分らぬことになり、
われわれは他人の貧乏を救うことも、不幸を救うことも、
病気を救うこともできぬことになる。

貧乏や不幸や病気が「善」であれば、それから人を救い出そうとする努力は、
人を「善」から追放する罪悪となるであろう。

しかし、何人(なんぴと)も、病気や不幸や貧乏から人々を救い出すことを
善事だと認めずにはいられない。そうしたならば、病気や不幸や貧乏は「悪」であり、
神の欲し給わないものであることにまちがいはない。

では、病気や、不幸や、貧乏は人々が苦しいとして避けるものであるがゆえに
尊いという誤れる迷信を捨てなければならぬ。

人類が、病気や、不幸や、貧乏を真に尊敬しなくなり、
それを口実にして同情を求めなくなり、悲劇を深刻だというような
迷信から醒めるようになったとき、人類の病気、不幸、貧乏は
今よりも半減するであろう。

            <感謝合掌 平成31年1月24日 頓首再拝>

高き救済は甘さを超克した峻厳である - 伝統

2019/02/05 (Tue) 04:29:56


           *「光明道中記」(2月5日 強くなる日)より

【救われねばならぬような弱者なる人間は、
この世に存在しないと云う思想が光明思想である。(『生命の實相』第十三巻)】

同情されたい心は同情されなければならぬような境遇、不幸、病気を招くということが
『生命の實相』第九巻にも書いてある。人間は同情さるべき弱者なる肉体人から、一切の
同情的世界を超克し去りたる超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である。

どこにそんな甘い生長の家があるか。
人間の甘さが、人間の涙もろさが、これまで人間をどれだけ堕落させて来たことだろう。
”人間・神の子”の自覚があっても、甘える心を棄てなければ
”神の子”の完全な実相は顕れない。

「生長の家が本当に人類を救うために出現したものならば、私を救って戴きたい。
私は本を読みたくとも金なき者である。私に『生命の實相』を無料贈呈して欲しい。
若し贈呈出来なかったら生長の家が人類を救済するために出現した
と云うのも真っ赤な嘘であると信ずる」

こんな手紙を諸方から時々来る。
そういう甘い考えを、依頼心を叩き伏せるのが救済である。

高き救済は甘さを超克した峻厳である。
愛深く峻厳と、峻厳なる寛容とが人間の進歩に必要である。

獅子は千仭の谷へと仔を墜す。

            <感謝合掌 平成31年2月5日 頓首再拝>

牛後に喜んで活動しうる人 - 伝統

2019/02/06 (Wed) 03:06:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月5日)」より

一人の先覚者が現われてある教義や主義綱領を掲げて民衆の賞讃を博していると、
その同じ教義や主義綱領を自分は前から称えていたと言って、
その団体の人員を浚(さら)って行ったり、同じ主義綱領をほんの少しばかり変更して
自分の方が優っているといって崇拝を自分の方へ集めようとする者がある。

牛後(ぎゅうご)となるより鶏口(けいこう)となれという小才子(こざいし)が多いから
この世は乱れるのである。人間はなぜ大同団結をしないのだろう。

30年黙って一つの団体の牛後(ぎゅうご)に喜んで活動しうる人は、
ついにその団体で押しも押されぬ人物になることができるのである。

明智光秀のような才子はいくら多くとも世が乱れるばかりである。
ついに天下をとったものは徳川家康であったことを知らねばならない。

            <感謝合掌 平成31年2月6日 頓首再拝>

噂話をせず、神を讃めたたえる話をせよ - 伝統

2019/02/11 (Mon) 04:36:34


           *「光明法語」(2月11日《悪評は盗罪、嘲笑は殺人》)より

「人の悪評をつたえるのは、人からその名声を奪う盗罪である。
人を嘲笑するのは人の尊敬の念を殺す殺人である。
盗みとは物質ばかり盗むのだと考えてはならないのである」と
ガードナー・ハンチング氏は言っている。

人間がそのゴシップ中で人を賞めることばかりをやっていたならば、
どんなにか此の世天国になるであろう。

誌友会が段々衰微して来るのは、いつも所謂る常連ばかりが集って
真理の話はもうすでに言い飽きたと云うので、人の噂話ばかりを始めるからである。

人の噂をするよりは神を讃めたたえる話をせよ。

            <感謝合掌 平成31年2月11日 頓首再拝>

人を救う喜びのために会費を持ち寄る聖使命会 - 伝統

2019/02/12 (Tue) 04:04:37


      *「光明道中記」(2月12日 神一元を悟る日)より

【托鉢は物を乞うかわりに、相手に惻隠の心、憐れみの心、慈悲の心を起させる。
 即ちそれは仏性を施したことになるのである。(『生命の實相』第九巻)】

生長の家発祥当時、財の奉納を信者から乞わないことにした。
私は托鉢的な行持(ぎょうじ)を省いて了(しま)って何物も
本部は信者から乞わないことにした。

所がその弊害があらわれて来た。
信者を称して吾々は信者と言わないで誌友と言っていたのであるが、
その誌友本部発行の書籍の購買者と云う形をとっていた。

従って吾等は托鉢と云う乞食(こつじき)的形式を去った代りに、
信者は慈悲深き「施主」であることの代りに、書籍販売所の「顧客」の形をとることになった。

「施主」は惻隠の心の表現であるが、「顧客」は営利主義の表現となり易い。
自分は「顧客だ」と無意識に思っている誌友たちは、病気が治ったら、
薬を止(や)めると同様な気持で、月刊雑誌の購読を止める人が出て来た。

本山が「乞食(こつじき)」的立場で、相手を「施主」にしたのが今迄の宗教であった。
私は本山を「乞食」にせね為に信者を顧客の如くしてしまったとすれば、それは失敗である。

清くなることは甚だ難しい。
それから信者みずからが人を救う喜びのために会費を持ち寄る聖使命会が出来た。

乞食も施主もない、販売者も顧客もない。
神一元の世界が本当の世界である。

            <感謝合掌 平成31年2月12日 頓首再拝>

自分自身が人類光明化のシテであるという自覚 - 伝統

2019/02/13 (Wed) 04:34:03


           *「光明道中記」(2月13日 人に物を施す日)より

【誰にでも基督の心、釈迦の心はある。それを出すとき彼の心は天地にひろがる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

誰も本当は施主になりたいのである。
乞食にはなりたくない。施主になりたい。
受ける人になるよりは与える人になりたい。

それは与えると云うのは自己拡大の感じを与えるからである。

併し与える人ばかりでは、受ける人がなかったら、
此の世はまた淋しいことだと思う。

それは貰う人のない生産のようなものである。
生産は購買によって成立ち、施主は受ける人によって成立つ。

私は今迄与える事ばかり考えていて、
誌友をして施主にならしめる機会を与えないことに努力してきた。

これは今迄の宗教は信者を施主にして、
その施物(せもつ)に寄生して生活する傾向があったのを
粛正するための反動であったと謂える。

信徒の一部に、自分は書物の顧客で
人類光明化の協力者だと云う感じが乏しいのはそのためである。
自己を与えないもの、自己を献げない相手には永続的な魅力が感じられない。

そこで聖使命会が結成せられ、
自分自身が人類光明化のシテであるという主体性の自覚の発生と
共に信徒は情熱をもって真理を宣布して下さることになったのである。

何事で、献げだけの生き甲斐が感じられるのである。

            <感謝合掌 平成31年2月13日 頓首再拝>

《本質と方便》 - 伝統

2019/03/06 (Wed) 04:44:44


       *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第2篇(P41~42) より
    
宗教の本質は、儀式や、法服や、堂塔伽藍の荘厳さにあるのではない。

もっとも、実相世界の荘厳さを現実世界に表現するような荘厳な儀式や法服や殿堂は、
人々をして浄土や天国の荘厳さを連想せしめ信仰を深めしめる方便となることはある。

しかしながら、それはどこまでも方便であって宗教の本質をなすものではないのである。
だから生長の家では複雑荘厳な儀式はない。
ただ言葉の力によって真理を表現する『甘露の法雨』を読誦する儀式があるだけで
あって、その儀式の祭官も普通人の紋附羽織及びモーニング又は普通の洋服を
着ていて仰々しい法服を用いないのである。

そして主として出版物及び講演講話ラジオ放送等による言葉の力によって
真理を知らせることにしているのである。


生長の家は外形よりも内在の”実相”を悟ることに重きを置くのであるから
敝衣(へいい)をまとえる聴講者も、美衣(びい)をまとえる聴講者も、
差別なく「神の子」として合掌して迎えられるのである。

しかしながら貧しいのが、決してその人の名誉ではないのである。
何故(なぜ)なら今現象的には貧しく見えている人も実相に於いては富んでいる
のであり、その人が心の法則を知り、実相に於ける富を現象界に映し出して来る
ようにすれば、現象的にも富んで来るからである。

だから彼らに真理を教え「心の法則」を知らせるのは大なる慈悲である訳である。

            <感謝合掌 平成31年3月6日 頓首再拝>

《人類全体の想念を健全ならしめよ》 - 伝統

2019/04/06 (Sat) 02:11:27


        *『人生の秘訣365章』第7篇(P174~175) より

想念は或る“内容”を有(も)つのである。
コトバにも或る内容があるのである。

想念及びコトバの内容はアイディアである。

アイディアとは肉眼にとっては、無形であるけれども、
意識の世界に於いては有形なる形相をもつのである。

それは、例えば建築物の設計みたいなものである。
まだ肉眼にはその建物は見えないけれども
設計者の心の中では既に形相(かたち)をもつのである。

アイディアが心に描かれれば、それは法則によって
自働的に実現するように行動又は運動が起るのである。

アイディアの複雑に構成されたものが思想であって、
思想は全世界を動かすのである。

だから、人類の多数が如何なる思想をもつかということが、
世界の運命が決定することになるのである。

人類の大多数が好戦的な想念をもつならば、戦争は起るであろうし、
人類の大多数が平和の想念をもつならば、世界に平和が来るのである。

           <感謝合掌 平成31年4月6日 頓首再拝>

《善人は団結して言動せよ。》 - 伝統

2019/04/24 (Wed) 04:01:02


       *『生活の智慧365章』
         (第3部歓喜の泉)第4篇(P103) より

社会的、国家的、人類的な大きな目的に関する願いは、
個人がひとりひとりでやるよりも大きな団体及び組織の力を
利用してやる方が実現の速度も簡易が大きくなるのである。

今までの善人は、あまり温和(おとな)しすぎて黙って控え目にしていて、
悪人の方が団結して言いたい放題なことを主張したり、
群衆行動の圧力でその要求を貫徹しようとしていた嫌いがある。

そんなことでは社会も国家もよくならないのである。
善人はその目的を一つにして大同団結して建設的に協力するとき
速やかに社会も国家もよくなるのである。

人類光明化運動の団体の中における者は、尚一層調和して、
その主たる目的のために常に建設的は言動をなすべきであって、
苟(いやしく)も、破壊的な、内部紛争をかもすような言動を
なしてはならないのである。

内部に相争うものを包容している団体は、寄生中や癌細胞を
内に宿している人体のようなものであって、早晩、瀕死の状態に陥るか、
大手術をして内部の病原を切除しなければならなくなるのである。

           <感謝合掌 平成31年4月24日 頓首再拝>

人は何処までも真理の公僕でなければならない - 伝統

2019/04/27 (Sat) 03:39:11


     *「光明道中記」(4月27日 自ら戒めて心を傲(おご)らざる日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

           <感謝合掌 平成31年4月27日 頓首再拝>

《神と偕にある自覚を行動化しましょう》 - 伝統

2019/05/16 (Thu) 04:20:51


        *「真理」第9巻生活篇(P110~111)より

「われ神と共にあり」の自覚は、自己暗示したり、
瞑想したりすることによって精神的には得られるが、
それが行動化しない場合には、精神の皮層にしか
その自覚が高かまらない事があるのである。

「われ神と偕にあり」の自覚は、「神と行動を偕にする」ところの
信仰の行動化の信仰によってのみ一層深まることができる。

信仰の行動化は信仰の生命化であり信仰が生きて働くのである。
神と行動を共にするには、「神は「愛」であるから「愛行」を実践することである。

また神は人類光明化のために常に働き給うているのであるから、
その人類光明化運動に協力し致心、挺身、献資のいずれかの徳目
またはこの三者を同時に実践することである。

若し肉体に病気があらわれているならば、一定の奉納金箱または
奉納金袋(状袋を代用してもよい)を作って置きそれを手の上に置いて
「神の人類光明化運動に献資します、
この功徳によってわたしは神と一体にならせて頂きます。
従ってもう病気はありません」

と云う風に念じてそれを公共のために捧げるとよいのである。

           <感謝合掌 令和元年5月16日 頓首再拝>  

人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ - 伝統

2019/06/16 (Sun) 04:42:30


       *「光明道中記」(6月16日《知ったら直(す)ぐ行う日》)より


【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、道を知って道を行なうことである。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

           <感謝合掌 令和元年6月16日 頓首再拝>  

《何故、組織に参加するのか》 - 伝統

2019/07/12 (Fri) 04:16:32

《何故、組織に参加するのか》~『白鳩』(昭和47年4月号)

   一人の人の “信仰” 又は “信念” という “心” の力は、
   その人の周囲に影響を及ぼすのである。 しかし、その影響範囲には限度があるので
   自分の受持区域以上に達しなかったという例がある。

   それ故に各人は各人それ自身の心相応の運命を受けるのであって、 
   「戦争は無い、戦力はいらない。 本来、実相に於ては敵はないのだから」  
   と‘その人’が信じ、その‘念ずる人’の数が少なければ、
   日本全体にその “心の平和” の影響を具体化することはできないのである。

   だから同志同信の人々を殖やすために組織をつくり、団体の心の力が協同して、
   世界平和に貢献しなければならないから、読者諸氏には、単なる読者になるだけでなく、
   組織の中に入って協力して下さいと御願い申上げるのである。

          (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18455330.html より転写)

           <感謝合掌 令和元年7月12日 頓首再拝>  

真理は愛の実践を要求する - 伝統

2019/07/30 (Tue) 04:26:03


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月30日)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、やがてそれに自分が救われなくなり
落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に

「最善の悔い改めは神の道を一心不乱に前進して、今までありし罪と
自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」

と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、
神の道に一心不乱に突き進むことを忘れているのである。

「彼らは光明思想に触れる。それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を頒ち与えることを忘れ、
そしてそれゆえにそれを失ってしまう」とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。

ある人が真理に対する理解を得たとする。
そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除することが
できたとしてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、
それはただ、利己的目的だけにすぎない。
利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、
やがてその真理は自殺状態に陥って自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。
真理を知らされたということは、それを他の人々に
伝えるために知らされたのだということを知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、
個々人として孤立した存在ではないということである。

われわれは自他一体の存在であるから、
この世の中に一人でも不幸な人が存在するかぎり、
真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。
宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、
その1本の歯にも比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、
自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、自分を磔けにした人々の
幸福のために神に祈り、そして従容として十字架につくことである。

かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

         <感謝合掌 令和元年7月30日 頓首再拝>

排斥する心は毛虫のような心 - 伝統

2019/08/11 (Sun) 04:48:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月11日)より

人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのが
わたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。

それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、
ある人を排斥するのはまちがっている。

「生長の家」はそんな小さなものではない。

生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。
ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために
人の不快がる装いをして平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

         <感謝合掌 令和元年8月11日 頓首再拝>

相手を解放するのが本当の救い - 伝統

2019/08/25 (Sun) 04:25:05

        *「希望を叶える365章」(P164)より

人を助けてあげるにも色々の方法がある。

物施と云って、物や財を相手に施す方法もあるが、
物や金銭を与えれば、与えられただけ相手の人は助かるであろうが、
物や金銭は与えられたときは嬉しいが使えば無くなってしまい、
無くなったらまた与えて欲しくなるものである。

そこに彼らに依存心を増長させる惧れがあり、
永遠の”本当の救い”となりきらないことになるのである。

だから人を救うには、相手自身が自身の内にある「無限の宝庫」
(実相・神の子)から欲する物を自由に掘り出し得るように、
「真理」を施してあげることが、最も根本的な救いとあんるのである。


人は物質や金銭で助けられた場合、一種のヒケ目を感ずるものである。
学資を出して貰った親類の叔父さんには一生頭が上がらなかったりする。

その叔父さんが善い人で、全然そのような恩に着せがましい考えを
もっていないにしてすあも、やはり、恩を受けた方は、一種の恩義的
束縛を感じて、本当の自由にはなり切れないものである。

真の救いは相手を完全に解放してあげなければならぬのに、
相手を恩義で縛ってしまうのでは本当の救いにはならないのである。

         <感謝合掌 令和元年8月25日 頓首再拝>

「観の転回」へと導く - 伝統

2019/08/28 (Wed) 03:40:48


     *「光明道中記」(8月28日《自ら下に降りて人を救う日》)より

【悔改めとは「全体の心の乗換」である。(『生命の實相』第七巻)】

(歎異抄第十条)

   念仏には無義をもて義とす。
   不可称・不可説・不可思議のゆへにと、おほせさふらひき。

生長の家の説く実相浄土は「いまだ生まれざる浄土」ではないのである。
肉体は死んでも生きてもそのまま此処が
尽十方無礙光如来の世界であると悟るのである。

少しばかり所労(わずらい)があったからとて死ぬだろうと考えるのは、
それを尋ねた唯円房にまだ「観の転回」が出来ていない証拠である。

弥陀は尽十方無礙光如来として一切所に偏在したまう御本体であるから、
いたるところ尽十方無礙光如来の浄土たらざるはない。

その浄土が浄土に見えず、穢土に見え、而もその穢土に執着しているのが、
真実を観るところの「観の転回」の出来ていない唯円房であった。

親鸞は此のような弟子のために、
「”此処が”尽十方無礙光如来の浄土である」と教えても
解(さと)らないであろうと思って、

みずから其の迷いの境地まで身を引き下げて、
この世を唯円房と同じように穢土だと観、
その穢土から救われるための念仏を説いたのである。

親鸞の教えは唯円房のような下根(げこん)の者のために、迷いそのままで、
「観」を転回せしむるために「彼岸(あちら)を見よ」と言ったのである。
そして念仏には理屈はないと「はからいの心の絶滅」(即ち救い)を説かれたのである。

       <感謝合掌 令和元年8月28日 頓首再拝>

誌友会は、体験と讃嘆の場 - 伝統

2019/09/01 (Sun) 04:15:48


        *「光明道中記」(9月1日《心澄み切る日》)より

【雑念妄想は念仏を妨げず、虚の念は本来無い念である。(生命の實相第九巻)】

(歎異抄十二条)

   経釈(きょうしゃく)をよみ学(がく)せざるともがら、
   往生不定のよしのこと、この条(じょう)、
   すこぶる不足言(ふそくごん)の義といひつべし

前条等にも繰返し繰返し述べられているように、
人間が救われると云うのは弥陀の誓願によるのである。

すなわち弥陀の誓願が廻り向いて来て、念仏もうすと云う信仰の心が起こり、
その信仰の心は自我の心で信心するのではなく、
学問の力で信心の念が起こるのではなく、
経文やその注釈の力で信心の念が起こるのではなく、

「信心」と云うものは
如来が廻施(えせ)する(如来の力が廻り施される)のであるから
学問がなかったら救われない、経文の解釈によくつうじていなかったら
救われないと云うような議論は言うに足りない。

誌友会に出ても色々の真理の書の文章を批判し、此の書には斯う書いてある。
自分はこの方の方に共鳴するとか何とか、甲論乙駁する人たちがあるが、
そう云う人々は解釈によって救われよとする人であって、自力の行である。

他の色々の本に斯う書いてある、彼(ああ)書いてあると言って誇り顔に言う人は、
また別の新しい説き方をする人があったら直ぐ信仰が崩(くず)れて了うのである。

救われるのは「実相」により、念仏によるのであるから、
誌友会に臨んでは理窟を言うよりも、
ただ有りがたく救われている体験を謙遜に語り合い、
互いに讃嘆すべきである。

          <感謝合掌 令和元年9月1日 頓首再拝>

人類に真理を伝えるのが神を愛する道である。 - 伝統

2019/10/08 (Tue) 04:43:04


       *『真理』第9巻生活扁(P399~400)より

神を信じ神を愛するとは、
単に本を読んで 真理を悟るだけでは 足りないのである。

神が霊であり、神が愛であることを 悟るならば、
その悟りは 愛の実践によって 裏附けられなければ ならないのである。

神を愛するとは 本尊の前に 跪(ひざまず)き、ぬかずいて、
自分の利益が来るように祈ることではないのである。

神を愛するとは、人類を愛することである。
人類を愛するとは、手近にいる人々の苦しみや悩みを救うことである。

物質をあたえて隣人の苦しみを救う方法もあるが、
これは与えられた物質が無くなるとまた再び苦しみや悩みが
あらわれて来るから恒久の救いと云う訳には行かないが、
為さないより為す方が好いのは当然である。

併しこれは社会事業家や慈善家のなす方法である。

宗教家は、「真理」を与えて 
人類の苦しみや悩みの根本なる迷いを除くのである。

苦しみや悩みの根本が 除かれれば、
その人は永遠に救われた人となるのである。

          <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>

個性を発揮しながら中心を逸脱しないこと - 伝統

2019/10/21 (Mon) 04:43:52

《『個性を発揮しながら中心を逸脱しないこと』》
   ~『理想世界』(昭和46年4月号)

   創始者への恩を背かず、創始者の発見した真理の基礎の上に立ちながら、
   単なるその亜流にならずに、独創的な業績あげ、世界の文化に貢献しつつ、

   世界の渦の中に巻き込まれて個性を失うようなことはせず、
   更に一層大きく発展させるものこそ
   真に創始者の弟子だということが出来るのである。

   真理は中心であり、
   創始者はその中心の周囲に自己の時間の許す限りの輪を描く。

   彼の人生の時間には限りがあるから、
   ある程度以上に大きな円を描くことはできない。 

   次に続くものが、創始者の円の上に同じような円を重ねて描く。 
   そして一歩もその円周は創始者のそれよりも大きくならないならば、
   これが所謂亜流である。

   しかし同じ中心を周って図を描きながら創始者よりも包容面積の広い同心円を描く。 
   更にその次に続く者は一層直径の広い同心円を描く。 
   それは同心円であるから真理の中心から逸脱する事はない。

   こうして多数の後に続く者がより一層包容面積の広い同心円を描きながら、
   その真理から拡がっていく。 

   しかもその同心円は中心から外れていないから
   自然にひとつの中心に集まる組織となっていて、その団結が崩れる事がない。

   そしてその同心円を
   仮に黄色とか緑色とか紫色とかに着色してみると美しい図柄ができる。 

   その各々異なる色合いがその後継思想家の個性を表現するものと理解すればよい。

          (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19694729.html より)

          <感謝合掌 令和元年10月21日 頓首再拝>

生長の家の国家観、人類観、家族観、個人観 - 伝統

2019/11/16 (Sat) 04:52:11


      *『明窓浄机』草創篇257頁-昭和12年5月号
        ~愛国本流掲示板(2019年08月13日名前:本音の時代 さま投稿記事)
 
私は『生長の家』と云ふ大いなる団体を作って、その主宰者となり、
自分の団体の勢力を拡大したいとは思っていない。

唯私の心の中には国家あるのみであり、 人類あるのみである。
ここに私は『国家』と『人類』との二つを同格に平列せしめて語ったが、
私にとっては『日本国家』と『人類』とは同格なのである。

日本 国家が栄えることによってのみ、人類は栄えるのである。
『生長の家』で説く『実相』は、既往の仏教者の大多数が誤って
『実相即ち空なり』と説いたような 『空』ではない。

『実相』とは空気のような、エ-テルのような空しき無常の存在ではない。
実相とは無限荘厳の組織体である。

だから実相が顕現するとは、
無限荘厳の組織体がこの世界に顕現しなければならない。

そしてヘ-ゲルも云ったように『国家は最高の組織体である』が故に、
完全なる国家の顕現が、実相の顕現であるのである。

而して世界にありとあらゆる国家組織体のうち、
日本国家のみが最高完全の組織体である
(その理由はその中心(すめろぎ)が万古不易永遠 に続いているからである。
外国の国家のように中心定まらず、時々交代するようでは
最高完全の組織体とは云い難い)。

それ故『日本国家』は神の理念の最高顕現であり、
無限荘厳の実相の顕現であるのである。

而して『日本国家』が拡がり行くことは実相の顕現がひろがり行くこととなる。
『日本国家』のために尽くす ことは『人類』のために尽くすことになる。

人動(やや)もすれば『国家』的立場は一つの民族的執着の立場であり、
人類的立場は一層高き普遍的平等的立場で あると思いたがろうとするのであるが、
日本国家に於てのみ、国家的立場は人類的立場と完全に一致するのである。

国家的立場と、人類的立場と、家族的立場 と、個人的立場とは
悉く『まこと』(実相)の一つに於て一致する、
これが生長の家の光明思想である。

  ( http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa/&mode=res&log=9128 より)

          <感謝合掌 令和元年11月16日 頓首再拝>

《同志愛に徹底する日》 - 伝統

2019/12/01 (Sun) 03:59:32


           *「光明道中記」(12月1日)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚(なお)一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み
人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、
還って来た息子のために祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎する
ではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

          <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>

すべて自己の責任と知る日 - 伝統

2019/12/03 (Tue) 04:49:00


           *「光明道中記」(12月3日)より

【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、其の人の心境は朗(ほがら)かである。
                          (『生命の實相』第十巻)】

私は第二次世界大戦が欧州に勃発した時の日記に次のように書いている。

「すべて私の責任なのである。私はみずから顧みて恥じるほかない。
考えて見れば欧州の天地で、
ヒットラーが英仏を向うに廻して戦っている姿も私の心の影である。

私が『ヒットラーよ、もう戦争を止めてくれ』と言ったら、
ヒットラーが『ハイ』と答えて戦争を止めてくれるほどになれないのは、
まだ私の力が足りないからなのである。

力が足りないのは偉さの徴候ではない。
私がまだそれほど偉くなれないのは私が悪いからである」

私はそんなにまだ偉くなれていないのである。
まだまだこれからだと思う。
光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。

光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、
「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが
私のところへ時々来るのは悲しいことである。

併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、
また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。

実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。

          <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>

《諸教の純粋性のみを抽出する》 - 伝統

2019/12/24 (Tue) 04:50:26


         *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
             第2篇( P50~51) より

生長の家の聖典に、

釈尊はこう宣(い)われた。
親鸞はこのように説いた。
天理教祖は斯う云った。
イエス斯うして病気を癒した

などと色々の事例を引用してあるから、

それは色々混ぜ合わせのミックス教だと誤解したり、
殊更に誹謗(ひぼう)したりする人があるけれども、
教説を色々の宗教の教祖の言葉からもって来るのは、

それら世を照らす燈台たるべき宗教が、各々の教祖の教えから脱線して、
恰(あたか)も燈が消え、又は消えかかった状態になっていて
救済力が無くなっているから、それに燈を点ずるためであって、
決してそれらを混合(ミックス)して合成するためではないのである。

雨後の筍のように生じては消えるものは別として、数百年も続いて信仰の消えない宗教には、
どの宗教にも立派な人間救済の真理が宿っているのであるけれども、
発祥の時代の風俗・習慣・常識等の混合物が夾雑(きょうざつ)しており、
その混合物は純粋でないから、時代の移り変わりにつれて錆びて来て
光を発しなくなっているのである。

それで時代的な夾雑物をとり去り、教祖の教えのうち純粋なる部分のみを
抽出することに成功したのが生長の家なのである。

 
さて各宗の人間救済の真理の純分を抽出してみると、
どの宗教も、同一の「真理」に帰一することが判ったのである。

”万教帰一同一真理“とはこの事であって、
その純粋なる真理のみを純粋に生長の家は説くのである。

各宗の真理の寄せ集めのように見えるのは、
佐渡の金山からも、足尾の銅山からも、北海道の鴻之舞の金鉱からも
その鉱石を取り寄せて、それから金の純分を抽出するようなものである。

そしてどの鉱山から採掘した鉱石にも同一の金の純分があるのを抽出し、
その純粋の”黄金の真理“を人々に与えて人々を現世的にも幸福にし、
その霊魂を救うのである。

素材として鉱石を諸方から取り寄せたからとて、
それはミックスするのではなく真理の純分を抽出するためであって、
生長の家くらい純粋に真理を説く宗教はないのである。

而(しか)も祖先伝来の他の宗教そのままでいて
真理の純分が得られるようにしてあげるので、少しも我利的党派根性のない
純粋無我の宗教が生長の家なのである。

          <感謝合掌 令和元年12月24日 頓首再拝>

強くなる日 - 伝統

2020/02/05 (Wed) 02:26:48


           *「光明道中記」(2月5日)より

【救われねばならぬような弱者なる人間は、この世に存在しないと云う思想が光明思想である。
                             (『生命の實相』第十三巻)】

同情されたい心は同情されなければならぬような境遇、不幸、病気を招くということが
『生命の實相』第九巻にも書いてある。人間は同情さるべき弱者なる肉体人から、一切の
同情的世界を超克し去りたる超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である。

どこにそんな甘い生長の家があるか。
人間の甘さが、人間の涙もろさが、これまで人間をどれだけ堕落させて来たことだろう。
”人間・神の子”の自覚があっても、甘える心を棄てなければ”神の子”の完全な実相は顕れない。

「生長の家が本当に人類を救うために出現したものならば、私を救って戴きたい。
私は本を読みたくとも金なき者である。私に『生命の實相』を無料贈呈して欲しい。若し贈呈
出来なかったら生長の家が人類を救済するために出現したと云うのも真っ赤な嘘であると信ずる」

こんな手紙を諸方から時々来る。
そういう甘い考えを、依頼心を叩き伏せるのが救済である。

高き救済は甘さを超克した峻厳である。
愛深く峻厳と、峻厳なる寛容とが人間の進歩に必要である。

獅子は千仭の谷へと仔を墜す。

          <感謝合掌 令和2年2月5日 頓首再拝>

神一元を悟る日 - 伝統

2020/02/12 (Wed) 06:44:20


           *「光明道中記」(2月12日)より

【托鉢は物を乞うかわりに、相手に惻隠の心、憐れみの心、慈悲の心を起させる。
 即ちそれは仏性を施したことになるのである。(『生命の實相』第九巻)】

生長の家発祥当時、財の奉納を信者から乞わないことにした。
私は托鉢的な行持(ぎょうじ)を省いて了(しま)って何物も
本部は信者から乞わないことにした。

所がその弊害があらわれて来た。
信者を称して吾々は信者と言わないで誌友と言っていたのであるが、
その誌友本部発行の書籍の購買者と云う形をとっていた。

従って吾等は托鉢と云う乞食(こつじき)的形式を去った代りに、
信者は慈悲深き「施主」であることの代りに、書籍販売所の「顧客」の形をとることになった。

「施主」は惻隠の心の表現であるが、「顧客」は営利主義の表現となり易い。
自分は「顧客だ」と無意識に思っている誌友たちは、病気が治ったら、
薬を止(や)めると同様な気持で、月刊雑誌の購読を止める人が出て来た。

本山が「乞食(こつじき)」的立場で、相手を「施主」にしたのが今迄の宗教であった。
私は本山を「乞食」にせね為に信者を顧客の如くしてしまったとすれば、それは失敗である。

清くなることは甚だ難しい。
それから信者みずからが人を救う喜びのために会費を持ち寄る聖使命会が出来た。

乞食も施主もない、販売者も顧客もない。
神一元の世界が本当の世界である。

          <感謝合掌 令和2年2月12日 頓首再拝>

人に物を施す日 - 伝統

2020/02/13 (Thu) 02:14:17


           *「光明道中記」(2月13日)より

【誰にでも基督の心、釈迦の心はある。それを出すとき彼の心は天地にひろがる。
                            (『生命の實相』第六巻)】

誰も本当は施主になりたいのである。
乞食にはなりたくない。施主になりたい。
受ける人になるよりは与える人になりたい。

それは与えると云うのは自己拡大の感じを与えるからである。

併し与える人ばかりでは、受ける人がなかったら、此の世はまた淋しいことだと思う。

それは貰う人のない生産のようなものである。
生産は購買によって成立ち、施主は受ける人によって成立つ。

私は今迄与える事ばかり考えていて、
誌友をして施主にならしめる機会を与えないことに努力してきた。

これは今迄の宗教は信者を施主にして、その施物(せもつ)に寄生して生活する傾向が
あったのを粛正するための反動であったと謂える。

信徒の一部に、自分は書物の顧客で人類光明化の協力者だと云う感じが乏しいのはそのためである。
自己を与えないもの、自己を献げない相手には永続的な魅力が感じられない。

そこで聖使命会が結成せられ、自分自身が人類光明化のシテであるという主体性の自覚の発生と
共に信徒は情熱をもって真理を宣布して下さることになったのである。

何事で、献げだけの生き甲斐が感じられるのである。

          <感謝合掌 令和2年2月13日 頓首再拝>

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