伝統板・第二

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生命の實相② - 伝統

2016/11/26 (Sat) 04:09:02

    *スレッド「生命の實相①」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6459727



《人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』》

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。
「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、物心両面を備えている「人体」が
病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。
肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、「心」という
指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は『人間の心』の中で
釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

・・・

<関連Web>


(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「生命の實相 (226)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=67(消滅H28.11.25確認)

(2)「光明掲示板・第一」内スレッド「『生命の實相』 (773) 」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=199

(3)「光明掲示板・第二」内スレッド「『生命の實相』 (122)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=58

(4)「光明掲示板・第三」内スレッド「『生命の實相』 (72)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=37

(5)「光明掲示板・伝統・第一」『生命の實相』 (51)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=32

         <感謝合掌 平成28年11月26日 頓首再拝>

《一冊の 『 生命の實相 』 が塚田氏の心を革命した》 - 伝統

2016/12/12 (Mon) 03:52:42


          *『 生長の家 』(昭和46年10月6日の法語)より

   私がまだ兵庫県住吉村八甲田(はっこうでん)にいた頃のことである。
   午前中に一人の方が訪れて一冊の書籍に「塚田忠五郎」と書いた
   名刺を添えて私に差出されたのであった。

   そうして取次の者にこう言われた。

   「 私は先生のこの御著書の愛読者であります。
   この書物を読んで先生に是非お目にかかりたいと
   念願しておりましたら、

   恰度(ちょうど)、関東大震災が起って、東京は焼野原と
   なりましたので先生の居所もわからず、
   今までお目にかかる機会がございませんでしたが、

   先日、新聞を見ておりますと、
   “生長の家”の雑誌の広告を見つけました。

   それに先生のお名前と住所とが出ておりましたので悦んで、
   お目にかかりたいと伺ったものであります。
   どうぞこの御著書の愛読者が来たとお伝え下さい」


   取次の者は、私のところへ名刺と一冊の本をもって来た。
   それはたしかに私の著書であり、私が大本教をやめて上京し、
   病気や不幸や災厄の満ちみちているこの世界は、
   神の創造によるのではない。

   無明(まよい)のあらわすところであるという悟りを書いた
   『 聖道(しょうどう)へ 』 と題する論文集であった。

   塚田忠五郎さんは、それを繰返し読んで、
   仏教の無明縁起(むみょうえんぎ)の真理が現代語で
   分りやすく巧(たく)みに書かれているので、この著者に
   お目にかかって教えを受けたいと思って来たという
   意味のことを言われるので、私は、

   「 あの本は大本教をやめて創造神を否定し仏教的な世界観に
   なった時の論文を纂(あつ)めたものですが、

   現在は百尺更に一歩を進めて無明(むみょう)の彼方(かなた)
   に超出した心境になって、その真理を伝えるために
   『 生長の家 』 という雑誌を出して宣伝しているんです。

   ここにその真理の中枢をまとめた 『 生命の實相 』 という本
   がありますから、どうぞこれを持って帰ってお読み下さい 」

   こういって私は当時、自費で出版した最初の 『 生命の實相 』
   の部厚い革表紙三方金の聖書型の本を差出した。


   「 本代は今持って来ていませんのですが 」
   と塚田さんは遠慮勝ちに言われるのであった。

   「 いや、いいですよ。ついでにお持ち下さったら結構です 」
   こういって私は塚田さんにその本を持って帰って貰った。

   そしたら氏の心境に驚天動地の変化が起ったのであった。


   というのは黒住宗忠師が 「 もはや宗忠生くるに非ず、
   天照大御神の‘いのち’我にあって生くるなり 」 の
   心境になったとき、歓喜法悦・一週間も眠らずに
   笑いつづけたと同様に、

   半月間も笑いつづけてその笑いがやまなかったのであった。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

         <感謝合掌 平成28年12月12日 頓首再拝>

真理の光 - 伝統

2017/01/14 (Sat) 04:50:00


        *『生命の實相』第35巻下化衆生篇(P71)より

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば
必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。
その光は太陽の光よりもなお明るい光である。

自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。

その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそ
わが生命であることが悟られる。

これこそ自分の本当の生命であったのだ
―― 今生きつつある地上の生命の小さきことよ。

それはただ自分の本当の生命の輝きが、
迷いの雲間を洩れて、地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。
迷いの雲間は裂ける。

本当の自分は輝き出でる。
地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

          <感謝合掌 平成29年1月14日 頓首再拝>

全集の『生命の實相』は私の文章芸術である - 伝統

2017/01/30 (Mon) 05:03:48


           *『人間死んでも死なぬ』(P332)より

「私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったと云う
否定すべからざる事実が続々起ったり、
戦場に於て生死を超越して奮戦し得た実例を数多生じたる理由は、

それが「《絶対死なぬ人間そのもの》」なる哲学を感情的に移入する
誰にでも理解され易い文章で詳解し、その哲学を実際生活に生活し得るように
誘導したからである。

生長の家に哲学が無いと云う人は、
実は其人は私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。

真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、
全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、
哲学《そのもの》は難解なる哲学用語の外にあることを知らなければならない。

私は哲学を難解なる術語から解放したのである。
《哲学する》とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。
真理を如実に把握して生きると云う意味である。

表現された真理をそのまま読者が生活に活きるように押し出す迫力があるのが哲学である。
哲学は哲学《せしむる》力を持たねばならぬ。

併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ『生長の家には哲学がない』
と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも哲学的様相を備えて記述したのである」

          <感謝合掌 平成29年1月30日 頓首再拝>

『生命の實相』 から宇宙経済の法則を学ぶ - 伝統

2017/02/15 (Wed) 04:16:06

          *江上 修三  『精神科学』誌 59年2月号より

なぜ、『生命の實相』 が沢山の産業人の間で読まれるのでしょう。 
なぜ、企業人、経営者の自己啓発の参考書として読まれるのでしょう。 
なぜ人材開発や企業の活性化のテキストとして親しまれているのでしょう。

ここには、私たち一人一人の生命の本当の姿、本質が
あますところなく解き明かされているからです。 
これを読んで自己の無限の可能性と偉大さが自覚できるからです。 

また、この 『生命の實相』 には、宇宙の生命の創造力と、
その無限の働きの内容がわかりやすく書かれています。

私たちの生命の創造力は、実は宇宙大生命の創造力と一つなのです。 
宇宙大生命〈神の生命〉 の個性的自己顕現が私たち一人一人の生命なのです。 
この生命の偉大さを自覚し、生命の創造原理を生かすとき
私たちは創造性あふれる生活と仕事が出来るようになります。

また、『生命の實相』 には生命に関する一切の真理、
生命円満完全の真理とその生かし方が書かれていますから、
あらゆる人生問題解決の鍵があります。 

ものごとには、みんな原理原則があります。 
「汝ら、真理を知らざるべからず。 真理は汝を自由にならしめん」 
と聖書にありますように、真理を知らない無知のために起った困難や迷いや不調和や問題は、
真理を知ることによって、無駄なく解決されるのであります。

この 『生命の實相』 の真理を企業や職場や経営に生かすとき、
無限供給の真理、無限繁栄の真理となるわけであります。


(1)『生命の實相』 を愛読して、自分の生命の本質と無限の可能性を悟れば、
   すばらしい仕事が出来ます。 

   アイデア社長といわれた市村清さん、松下幸之助さんも、
   かつて 『生命の實相』 にふれた方です。 
   京セラの稲盛社長さん、またソード電算機の椎名社長さんも 
   『生命の實相』 の賛同者です。

(2)『生命の實相』 の中に伝授されている宇宙大生命と一つになる瞑想法なる
   神想観を毎朝夕実修することによって、私たちの個生命と宇宙大生命と
   一体融合の境地が開けます。 

   ここには、地上の現実界に生み出され顕現してくる、
   一切のアイデアとエネルギーがあります。 

   それにつながるとき、豊かなるアイデアマンになり、
   神なる大宇宙生命から豊かな生命力を受け、
   疲れを知らないエネルギッシュな仕事が出来ます。 

(3)『生命の實相』 の真理をよく勉強しますと、生命の創造の法則がわかります。 
   即ち、神なる宇宙大生命は自己黙想によって天地万物を創造されました。 
   従って人間は思うこと〈心に思い描くこと〉 によって、あらゆるものを創造します。 

   これによって私たちは必要なものを実現することが可能になります。 
   従って繁栄も富も仕事の完成も事業の成就も思うままになります。

(4)『生命の實相』 を勉強しますと、人間は神の子であり、
   神の無限の可能性を地上に実現するのが使命であるとわかります。 

   人間は神であるから、尊敬され、拝まれたいのです。 
   そこで人は何処に集るのか、人は何を買いにくるかがわかります。 
   人の魂の願いを知れば、人の心の流れがわかります。 

   人の心の流れに従ってお金も物も動くことを知れば、
   魂のマーケティング、人の心の願いのマーケティングが出来ます。 
   これに応えてあげられる商売は何時までも栄えるということになります。

(5)私たち一切の運命は私たち自身の責任であります。 
   私たちは如意自在の生命の創造力を神から与えられています。 

   その如意自在の生命の創造力とは宇宙の生命力であり、
   それを善用するのも悪用するのも
   私達の心の思うこと、語ること、見ることの自由にあります。 

   この自由によって、ふやすこともへらすことも出来ます。

 
『生命の實相』 を毎日読んで、自らの 『生命の實相』 のすばらしさを自覚するとき、
あなたは無限の繁栄能力を我がものとすることが出来ます。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24638599.html )


          <感謝合掌 平成29年2月15日 頓首再拝>

理で支配されている世界で戦う人生の武器は「理論」 - 伝統

2017/02/27 (Mon) 04:05:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より

合理性 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。
この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。

『般若心経』で幽霊が消えるのは、それは高遠な哲理の表現であるからである。

病患部に対し神想観をして、

「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえないのだ」

と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。
(治病のための施念法の詳細は拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)

通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方がその人の心の中で優勢になるからである。

理責めのこの世界において、われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。

多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在すると
理論体系「生命の実相」を自分の心のうちに蓄積する者は、
病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を征服して光明の人生と化しうる。

          <感謝合掌 平成29年2月27日 頓首再拝>

『生命の實相』を読んで、癌による幽門狭窄症がなくなった - 伝統

2017/03/17 (Fri) 04:27:19


       *「生命の實相」第24巻質疑篇(P143~144)より

この船岡さんはそれから10日ほどして5月30日、
突然「生長の家本部」へお越しになりましたが、
聞いてみると最初胃が悪いというのでまず鳥取病院で診ておもらいになりますと、
幽門狭窄症だと診断されたのです。

胃袋の出口のところに癌ができて、そこが狭くなっている。

そのために食物の通過が悪くて長く胃部に停滞した食物が発酵腐敗して
胃粘膜を刺激し一方では胃潰瘍を起こしつつあるから、
幽門の癌部を一寸ほど切除して胃と十二指腸との吻合手術をしなければならぬ。

しかし鳥取病院にはそれだけの手術の設備がないから岡山の医大病院へ行け
というので岡山医大の稲田内科へ入院されたのです。

岡山医大の稲田博士は東京帝大の稲田博士の弟君だそうで
最近院長になられたのだそうですが、この稲田博士が診て下さったが、
診断の結果はやはり前同様である。

ただあまりに病人の衰弱が甚だしいので今すぐ施術しては
体力がこれに耐えまいから体力の回復を待とうということになったのです。

ところが同室に糖尿病患者があって、誰からか聖典『生命の實相』を
お見舞いに貰って病院へ持ってきていました。
しかし枕頭に置いてあるだけで自分は読まないのです。

この糖尿病患者の人が船岡さんが入院するとすぐ「この本を読んでみませんか」と、
全集『生命の實相』を貸してくれた。
船岡さんは『生命の實相』を貪るようにお読みになったのです。

読んでいるうちに不思議に病気が回復してきた。
この分ならもう切開手術してもらっても大丈夫それに耐えられる
という自信が船岡さんにできてきたものですから、
船岡さんは医者に早く施術して下さいと催促し出した。

ところが今度は医者の方が小首を傾げて、
これは施術しないでも治るかもしれぬというのです。
癌だと思われていた塊がだんだん小さくなってゆくつつあるのです。

入院60日間、船岡さんは幾度か『生命の實相』を繰り返し読んでいるうちに
スッカリ病気がなくなったのです。

          <感謝合掌 平成29年3月17日 頓首再拝>

戦前の新聞広告より - 伝統

2017/03/31 (Fri) 04:03:29


           *ブログ「山ちゃん1952(2016年10月24日)」より

浄土を開く鍵は何處に?

實相一元の世界には光明あるのみである。
その世界には暗黒は無い、病ひはない、罪はない、惱みもない、苦腦もなく涙もない。

この世界を知らせるのが、此の『光明の思想』である。

では、實相一元の世界はどこにあるのか。

此の儘、諸君が佛であり、此の儘、諸君の住む世界が『實相一元の光明世界』なのである。
『此の儘、この穢身が?この穢土が?佛であり光明世界であるとは受取れぬ』
と諸君は云はれるのであろうか。

ここに諸君の自覺が三百六十度一回転しなければならないのである。
自覺が三百六十度一回転した後は、同一空間に「此の儘」坐してゐるやうで、
既に「此の儘」と云ふ「此の儘」がちがふのである。

「此の儘あなたは病気はない。此の儘あなたは無限の富者である」と云ふのは、
衆生、劫盡きて、大火に焼かるると見る時も、此の儘此土は安穏にして、
天人常に充滿し、園林諸々の堂閣、種々の寳もて荘嚴せり」

と法華經の自我偈に説くのと同じ自覺である。

此の儘悟れる者は無病を現はし、大富を現ずる。

それを悟らしめる聖典が『生命の實相』である。

此儘この土に天人常に充滿し、諸々の堂閣、種々の寳もて荘嚴せる
幸福無限の實相世界を自覺せん。


宗教書で病気が治るのが嘘なら讀經で靈魂が救はれるのは尚嘘だ
『生命の實相』を讀んで病氣が治る事實に直面した某宗教家驚いて曰く
『疾患が神經性のものである場合、宗教的安心は強い決定力をもつこともあり得る。
然し疾病には「氣だけ」ではなほらぬ、業病もある』と。

寺院僧侶が今迄説いて來たところは實に『讀經で靈魂が救はれる』と云ふことであった。
さて『靈魂が救はれる』と云ふことは何であるかと云へば
『業力を打破して實相の佛性を開くにある。

では讀經が靈魂を救ふ―換言すれば業力を打破するとすれば、
業力の顯れなる疾病は、讀經によって治らなければならぬ筈ではないか。

古來名僧が大般若經を飜讀して諸病を平癒せしめたる例は数多あれども、
現今は餘りその例を聞かず、
そして『生命の實相』を翻譯して病氣が續々治るのは何故であるか。

それは現代人の言葉の理解が大般若經を解し得る程度に達せざるに反し、
同一眞理を『生長の家』は一層易々と現代人に解り易いやうに説いてゐる
現代向の經典であるからである。

寺院僧侶が讀經で靈魂が救はれると説くことが嘘でないならば
『生命の實相』を讀んで業障が破摧され、業障の現はれである病氣が治るのは當然である。

『宗教的安心では業病が治らない』などと僧侶自ら説くのは、
宗教的安心とは唯『氣だけ』の氣安めをさせるものだと僧侶自ら思ってゐるのだ。
斯くの如き言葉を吐く愚昧の宗教家が横行闊歩する現代であるから
大般若經も法華經も業力打破力を失ひ病氣の治らぬ宗教の方が正しいやうに思ふ』

やうな不見識な事が出来(しゅったい)したのである。

併し宗教は病氣を直接治すのではない。
光によって暗(やみ)が消滅するが如く生命の實相あらはれて假相消ゆ。

業障は假相のものなるが故に實相あらはれて假相消え、假相消えて業障消え、
業障消えて病消ゆるのである。

讀經で業障の消えることが本當ならば讀經で業病が消えるのは當然ではないか。
『生命の實相』が現代人に適する經典として業障破壊にどの程度まで成功したるかは、
毎回發表の『光明の治驗例』によって随意判斷せよ。


『光明の治驗例』

●不治と觀念せる痔疾一ヶ月で殆ど治る
●光明思念の力でひどい火傷を治し顔のあざが消える

宗教の治病力は頭脳意識の作用で治るのではない、
業の本據を衝いて業それ自身自滅せしめるところにある。

『疾患が神經性のものである場合、宗教的安心はつよい決定力をもつこともありうる。
然し、疾病には腦髄意識だけではどうにもならなぬ業病もあり得る。』などと云って、
宗教的安心をばたばた頭脳意識の作用であると思ってゐる宗教家もあるが、

宗教的安心が腦髄の作用であるところの肉體意識の安心であるならば、
肉體の滅した後には肉體の作用なる「肉體意識の安心」も共に滅するから
結局宗教的救ひはあり得ないのである。

だから宗教的安心を肉體意識の作用だと云ふのは宗教家の自殺になるのである。
知るべし宗教的安心とは肉體意識の作用以上のものであり、肉體の滅後も、滅前にも
繼續する神秘實相の作用である。

この神秘實相の作用であるからこそ肉體滅後にも、肉體滅前の現世にも作用して
我等を過去現在未来を一貫して常に『今』その救済力は働き病気も治れば、
貧乏も解決するのである。

讀んでこの神秘實相の作用を發現せしむるが經典『生命の實相』である。

斯く神秘實相の作用が發現せば現世と末世との差別なしに救済出来るのは當然である。
宗教によって現世を救濟し得ないといふ宗教家よ、貴下の宗教的安心とは
單なる肉體意識の作用であるのか、神秘實相の作用(如来神通力)であるのか。


地上天国建設

神の御手により、圓滿無礙自在なる生命に生かされつつも、
尚人類は未だそれを覺らず、巷は暗黒に滿ち、病み、爭ひ、呪ふ呻吟(うめ)きは
人類の生活を蓋ひ、

困憊せる人々の悲げなる蠢きと、奈落の如き念ひは人類の生活を日々腐蝕せしめ、
限りなき顛落への道を辿る。

人々よ、汝の眼を蓋へる迷ひの影を捨てよ。
而して崇めよ永遠不壊なる汝の生命を、生命の營みである人類自ら、
未だ無限生き通しの生命の實相を省みず。神を崇めず、感謝せず。

その念ひは暗く無慙なる物資への屈從、然もなほ自から智(かしこ)しと稱へて愚を行ひ、
唯物道に追從せる卑劣なる宗教家の現れる等、屈つることなき神の榮光を、
永遠なる生命の歩みを、迷ひの曇もて被ひ隠さんとする。

人類よ恥よ。
物質を念ふ者は、無常なる物質に從ひ、生命を念ふ者は圓滿無礙なる生命に生きる。

物質は死を意味し、生命は神である。


咄!!咄!!怪事?僧侶は死體にお經をあげる役目か

『たとひ八萬の法蔵を知るといふとも後世を知らざるを愚者とす』とは
蓮如上人の御文章の言葉である。

如何に經典の解釋や理窟が巧妙に説けても『生命の實相』を知らない者は
眞に宗教家の使命を果し得ない。

嘗て般若心經講義を著せる某寺の管長、講義には堂々と『色即是空、本來老死なし』と
説きながら自己の肉體が心の所現なりと悟らず、晩年血管硬化を恐るること甚しく
遂に自己の心の所現として脳溢血で斃れた。

現今、佛典の解釋者多けれども
眞に釋尊教説の根本たる『生命の實相』を悟れる人は稀である。

だからそれらの人々の話は一應は頷かれるが觀念と現實と、教説と生活が分離し、
生活そのものの救ひをどうするかと言へば殆んど無力である。

中には『觀念と現實とを混同してはならない』と教説と生活とを分離することを主張し、
信仰で病気や環境が治った實例を幾多擧げても、偶然の一致位に考へて
現在の生活の治る宗教を邪教であると發表する凄じい宗教家すらある。


光明の治驗例
盲腸炎、レウマチを治す
小冊子を讀んで次々と病人が治る

   (http://tecnopla1011.blog.jp/archives/66690969.html より転写)

          <感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>

『生命の實相』出現の意義 - 伝統

2017/05/06 (Sat) 04:50:41


        *『生命の實相』第35巻下化衆生篇(P89)より

光は闇を許さない。
闇を許すことは闇を存続せしめることになるのである。

光は最も有効に闇を消すのである。

「生長の家」は罪のままで病気を治さない。
罪のままで病気を治したら、罪は罪のまま存続することになるからである。
病気は罪の自壊する過程であるからである。

たまたま『生命の實相』を読みて病気が消えるのは
《罪そのものが真理の光に照らされて消え、
罪の自壊する必要がなくなるからである》。

罪の自壊には必然的に苦しみを生ずるのである。

キリストが十字架の苦しみを受けたのは、
人類の罪の代贖(あがない)のためであると言われている。

罪の代贖(あがない)とは人類自身が「罪あり」とする「罪の意識」に、
神みずからがその身を《供え物》とし給うたことである。

「罪あり」と思えば、その思う意識に縛られて、
人はますます暗い世界へ落ちてゆく。

これを「罪無し」の意識にしてやる方法はないだろうか。

前科者は前科ありの意識によってみずからを縛って重犯をかさねてゆく。
始めから無罪、青天白日にしてやったならば重犯はありえないのである。

わが『生命の實相』は、人類を最初の青天白日の意識に蘇らすために
出現したのである。

          <感謝合掌 平成29年5月6日 頓首再拝>

生長の家では活字が道場である。文章が教化の師である。 - 伝統

2017/05/19 (Fri) 04:54:34


          *「生命の實相」第25巻教育実践編上(P101~103)より

人間の実相は神の子である。仏子である。
生きとおしの生命(せいめい)であるというようなことは
「生長の家」の発明でもなんでもない。

古くから善き宗教はほとんどそのいずれもが口をそろえて
説いてきたところであります。

では「生長の家」はどこが違うかというと
言葉の力、文章の迫力がちがうのであります。

臨済(りんざい)の一喝といって
臨済禅師の一喝をくらうと悟る弟子が多かったという。

一喝にもいろいろあって、
耳で聞いたら臨済の一喝も凡僧の一喝も同じかもしれない。

しかしその一喝の中にこもっている生命(せいめい)は、
その喝をくらわす指導者の悟りの程度にしたがって
いろいろの段階があるのであります。


それで「生長の家」で説くところの宗教的真理は、
多くの善き宗教の神髄をなしている宗教的真理と同じであり、
むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、
どこがちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。

本を読めば病気が治るのもこの随伴的結果なのであります。

この《生命の実相》というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、
言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんいじ)であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって
生命の実相を悟らせるようになったところが
生長の家の独特なところであるのであります。

今までは真理と言葉が二つに分かれていて、
言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心(いしんでんしん)でないと悟ることもできない真理を、
ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命(せいめい)あり、
生命の中に文字あり、文字と生命とを一体というような域(いき)にまで
達せしめたのだろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに
到達する人が多勢(おおぜい)あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、
肉体の病気も治り境遇環境まで変化してくるということになってきたのであります。

この点では「生長の家」は宗教というよりも
文学とか芸術とかいう方が適当かもしれない。

生長の家は宗教としては今までの多数の宗教に対して別異を説くのではない。
根本において神髄において同じことでありますけれども、その表現が
そういうように今までに見ない強い迫力ある芸術になっている。

今までの宗教のような直接説法、直接指導でなければ功を奏しないようでは
このおびただしい世界の人類をいつまでだったら教化しうるか
すこぶるおぼつかない話であります。

これが今までたくさん宗教があるのに、新しい「生長の家」の出現した所以で
ありまして、生長の家では活字が道場である。文章が教化の師である。

活字を印刷した新聞紙の行くところ、
活字を印刷した小冊子の行くところ、
そこが道場化して人を救うということになるのであります。

          <感謝合掌 平成29年5月19日 頓首再拝>

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である - 伝統

2017/05/29 (Mon) 04:15:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、
恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、
それに理論が透らないという理由で、

また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて治病成績が挙がらなかった
という理由で、それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、
手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って
理論が透らないようなものは頭から排撃してしまって、
いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても古今独歩、
古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、近代の精神科学から
新興物理学理論までも一貫せる一大生命学の理論体系をなしているのである。

この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は
医者が一つの事実を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、
数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、
個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮せしめるのであるから、
宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

            <感謝合掌 平成29年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』と「生長の家の信者」 - 伝統

2017/06/16 (Fri) 05:31:22


             *『神の真義とその理解』はしがき より抜粋

神とは如何なるものか、知らない人々が多いのである。 
自己の内に生きている生命の尊厳を本当は自覚しながら、
それ故にこそ生命の尊重を主張し、基本人権の絶対権を説きながら、
それでいて 「自分は無心論者だ」 とか 「唯物論者だ」 とか思っている人々もある。

それとは又別に、実に敬虔に神を信じ、神を礼拝し、神を讃えながら、
その神が自分の生命とは別に、自己の外に在る神通自在の神秘者であり、
“自分” というものは、その権力の前に跪いていなければならない 
“奴隷的存在” に過ぎないと自己卑下している気の毒な善人もある。

しかし本当の神は、そんなに自己の外にのみある権威ではないのである。 
神は普遍的存在であると同時に自己の内にある生命が “神” であるのである。 

その実相を自覚しない気の毒な善人は、常に “神の前” に戦々兢々として
慴(おび)えていなければならないのである。 

そんな人たちが、神罰の予想の前に、ニセモノの宗教家に欺かれて、
いつまでもその邪宗に縛りつけられてそこから脱出できないで
常に搾取せられているのは、まことに見るに堪えない気の毒さである。


それ故にわたしは、既に五十年間に亙って人間の生命の実相(ほんとのすがた)が、
“神” の生命であることを 『生命の實相』 に於いて説きつづけて来たのである。 

かくて私の著書 『生命の實相』 を読むことによって、
自己が決して 「罪の子」 ではなく、「罪悪深重の凡夫」 でもなく、
神の生命こそ、自己に宿って、自己の生命となっており、
自己というものが個性的に顕現した普遍的存在であるという神の真義を知り、

自己の生命の尊厳と本来の円満完全さとを自覚すると共に、
今まで、自己の罪悪意識に由るところの “自己処罰” による
色々の病気や、不幸や、遭難や、貧乏を克服して、真の自由人となり、

自己の生命を本当に尊重することによって自己の人生を快適にして
裕かなる楽園たらしめ得ると同時に、周囲の人々をも救い得た
幾多の人々の体験があらわれて来たのである。 

生長の家の信者という人たちは、そのような人達の集りである。

      (https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17622863.html

            <感謝合掌 平成29年6月16日 頓首再拝>


『生命の實相』生活篇 - 伝統

2017/06/26 (Mon) 03:19:05


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。

何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。

有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いて
じっと2、3行見つめていると、それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって
書くべきことが頭に浮かんで来る。

あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのは
ポンプの迎い水のようなものですねえ。

水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。
病気のことはほとんど書いていない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、
生活が整ってくると自然病気が治ってくる。

朗々と読むとよいのですよ。だからあの部分だけ集めて
『光明の生活法』という一冊に纏めてあるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」

           <感謝合掌 平成29年6月26日 頓首再拝>

『生命の實相』の本は、ただ真理を説いているだけである。 - 伝統

2017/07/05 (Wed) 04:54:30


          *「光明道中記」(7月5日)より抜粋

【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】 

「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。


「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。まだ病気が治りませぬ」と言うのも
「識(し)る」方の側である。

まことに鼻持(なはもち)がならぬ。「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。

功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、
従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。

人を救っても無心にして救うようでなければならない。

『生命の實相』を読んで色々の病気が治った
と言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。

では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。

『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。

識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。

目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。

            <感謝合掌 平成29年7月5日 頓首再拝>

『生命の實相』を必ず読む日 - 伝統

2017/07/12 (Wed) 03:21:49


          *「光明道中記」(7月12日)より抜粋

【生長の家では外界をただ「自心の展開」として
自由自在に駆使し得るようになるのであります。(『生命の實相』第七巻)】


四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は非常な功徳があるとせられている。

「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と同じことが書いてある
と云うことを私は『生命の實相』で指摘して置いた。

四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、「大般若経」を一心不乱に
誦していると、その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて
私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、作り話だと思っていたが、
今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。

            <感謝合掌 平成29年7月12日 頓首再拝>

『生命の實相』を繰り返し読誦し、潜在意識の奥底の「神性」を呼び覚ます - 伝統

2017/07/27 (Thu) 04:35:32


    *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P165~166) より

自己の内に“無限”が宿っているということは『生命の實相』を読みまして
わかりましたが、その“無限”を現実世界に顕わす事は中々困難であって、
到底それは私に出来ない事ですという人々が随分あるのである。

それは「人間・神の子」の真理を頭脳の表層で理解したに過ぎないからである。
頭脳で理解したから「もうこの真理は解った」と思う。

しかしその真理と自分の全生命とが“一つ”になり切らないでいるから
その真理が現実化しないのである。

“読書百遍、意おのずから通ず”という諺があるが、
最初『生命の實相』を2、3回読んだだけでは頭脳の表層に印象されただけで、
深く自己の潜在意識に印象するためには、それを繰り返し繰り返し
聖典を読誦して潜在意識の深層に呼びかけなければならないのである。

それは恰も「眠る」という語(ことば)を度々繰り返されることによって
如何なる反抗者も催眠状態に入れるのと同様である。

 
併し現在意識は同一語の反復を嫌うのである。

即ち「もう知っている」と思い、
「知っていることを繰り返すのは面倒くさい、退屈だ」と思う。

そのために『生命の實相』の同じ巻を幾度も繰り返すことが不可能になる。
その不可能を可能とする為に、同一真理を別の言葉によって表現し、更に一層精密に
解読した次の巻や、毎月の神誌や、新刊の真理解説書が必要になるのである。

これらの神誌、聖典、書籍を巻を変え、号を重ねて読むことによって、真理を語る
言葉の刺激が新しくなって、潜在意識に深く真理が印象され、更に潜在意識の奥底に
眠っていた実相の「神性」が活性をもって呼び覚まされることになるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月27日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む - 伝統

2017/08/01 (Tue) 05:04:42


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月1日>(P38)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。
そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、遠隔治療をしてくださいと
いうような不誠実な人たちもあるのである。こういう人にかぎって、治ったらもう用がない
と言って去り、治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。
真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

       <感謝合掌 平成29年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2017/08/03 (Thu) 04:54:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月3日>(P40)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

       <感謝合掌 平成29年8月3日 頓首再拝>

生命の實相の哲学 - 伝統

2017/08/20 (Sun) 04:55:40


          *精神文化全集第12巻(谷口雅春) より

自序(谷口雅春)

私が『生命の實相』哲学を発表し始めてからもう12年になる。

最初は微々たる自費出版であったが、
読んだ人が次から次へと讃嘆して伝えてくれるので、
いつまで経ってもすたれるどころか発行部数が増加している事実は、
この哲学の価値への無言の証左である。

『生命の實相』が迷信臭く言い伝えられるのは、
それを読んで病気が治る人々が続出したからであるが、

白隠禅師も悟道によって病気が治ったのだから、
悟道によって人間が健康になっても不思議ではない。

と云って、これは単なる健康書ではない。
そんなら何かと云うと読んで貰うほかはない。

すると、『生命の實相』はあまりに大部すぎる。

一冊位で生長の家の光明哲学の体系がハッキリするような、
圧縮されたものがあったら読んで見たいという人があるそうである。

簡単に謂えば、生命の實相の哲学は、禅家が不立文字、教化別伝、言詮不及
と云ったところの人間の生命の實相を、また山川草木国土悉皆成仏の實相を、
言詮により、文字を立てて示そうとしたものであり、
それは或る程度まで成功したらしく、

多くの人たちが数十年の禅宗の修行でも得られなかった境地に達した
と云って、大変喜んで下さるのであるが、それが偖(さ)て、そう云う性質の
本であるか、縦横無尽四方八方から説いてあるから、その一部だけを読んで下さると、

或いは極端な観念論だと誤解したり、唯心論だと誤解したり、
『肉体は無い』と云うところだけを読んで
『余りに奇矯である』と評されたりするので、

そう云う誤解を解くためにはどうしても、
『生命の實相』を全十五巻を行き渉って読んで頂きたいのである。

が、暇のない人にはそうも出来ないないから、
何とかもっと簡単に圧縮して貰いたいと云う要求も無理はないと思う。

そこで、此の要求に応ずるために、新たに書き下ろしたものに加うるに、
概ね『生命の實相全集』以後の著作になる単行本の中から、
その主要な一章づつを選出して、成るべく近代の科学的頭脳を有った人にも、
此の肉体無、物質無の哲学が判るように工夫して、最近の新興物理学の解釈
からも物質無の自覚へ入れるように、各章を工夫連絡せしめたものが此の一巻である。

『生命の實相全集』中よりは採録しなかったのであるから、
在来の全集読者には重複にはならないで、それ以後の単行本の代表篇を
読むことにもなるので、本書を読む人が『生命の實相全集』
を読んでも重複しないことになるよう心掛けて編纂した。


この一巻を読んで下さる人に、生命の實相哲学の解し方の目標について
茲に示唆を与えて置くことは無駄でないと思う。

生命の實相の哲学は物質無・肉体無と云うが、必ずしも唯心論ではない。
それは全機の哲学である。
『全機』哲学を説く人にも唯物論的『全機』を考えている人がある。

水素と酸素とが結合して水になると云うのは、それは、
水素だけの機(はたらき)によるのではなく、
酸素だけの機(はたらき)によるのでもない。

どちらが先でも後でもなく、水素と酸素とが
『全機』として作用して水となるものである。

人間の発生も、卵子と精子とが結合して、卵子のみの働きでもなく、
精子だけの働きでもなく、近寄る物と近寄られる物との『一つ』である
ところの『全機』から人間が発生したと云えば、
如何にも生命の全機哲学のようであるけれども、

この哲学には、相寄る水素と酸素との結合の以前までは『水』が存在しなかったし、
水素とか酸素とか分離したら、もう『水』は存在しない。

それと同じように『人間』と云うものも、
卵子と精子とが相寄る以前までは存在しなかったし、
またこれらの組成要素が解体してしまったら『人間』は存在しなくなる
と云う『人間』の『因縁仮和合生成論』に過ぎない。

こう云う哲学で『全機』と云うのは、『因縁仮和合の原理』(因縁の理)を
指しているのであるから、これでは生長の家の説く『久遠人間』の理念は
出てこないのである。
ただ肯定されるものは因縁仮和合の理のみとなる。

『久遠人間』の理念が無ければ萬世一系の国体と云う
金剛不壊の存在はあり得ないことになる。

国土も民族もその他一切の事物もただ因縁により変化する。
その変化の理のみが実在だと云うことでは国体無窮も臣道無窮も確立しない。

仏教の全機哲学が国体に適しないと云って議論されている一部の原因である。


『久遠人間』の理念が確認されたときにのみ、『久遠人間』の天降りは確立される。
そして全機総覧者としての 天孫降臨の事実を確認することが出来る 
天皇に大神ましまして、臣民は神の子である實相が確立されるのである。

内山孝一郎氏(橋田文相の秘書官)は道元の哲学者であり、
生命の全機を説かれること橋田文相と同じである。

その『生命体験』なる著の序文に、
『人間の一挙手一投足が生命の全機現成なるが故に・・・』(同書第六頁)
とあるのには、幾分の疑問がさし挿まれる。

わたしたちの哲学ではどんな人間でも其の一挙手一投足が必ずしも
『生命の全機現成』だとは観ないのである。

例えば共産主義者が日本国へ弓を曳く・・・
そういう場合彼等の一挙手一投足は『生命の全機現成』ではなく、
『生命』がその全機を現成せしめないための迷妄の顕現である。

ある人が食餌をあやまって、これは栄養になると思って、毒物を呻いだとしたら、
その一挙手一投足は『生命の全機現成』ではない。
それは『生命の全機』が発現しないから、そのような錯誤をしたのである。

即ち生命の全機の発現しない迷妄の顕現である。
ただ人間が手足を動かす時の自覚が物が動くのでもなく心が動くのでもない。
心と物とにも非ざる全体が動くのだから全機現成と云うのだったら、
真妄混淆であると謂わねばならない。

すべての一挙手一投足が、そんなに安価に生命の全機現成ならば、
戦争に往って逃げ出す弱兵も、(日本軍にはそんな人間はいないが)
生命の全機現成と云うことになる。

盗賊の盗みの行為も
その一挙手一投足が生命の全機現成であると云うことになる。

そんなことがどうして『生命の全機現成』であるか。

一挙手一投足が生命の全機現成になるには孔子の謂ったように、
『心の赴く処に随って矩(のり)を踰(こ)えず』底になった人のみである。
そのほかの人の一挙手一投足は真妄混淆であるのである。


私の生命の實相哲学に於ける全機は、真妄をけん別して『真』のみを肯定し、
禅家の『そのまま』とか、『平常心』とか、『全機』とか称するものの中にも、
截(き)るべきは截(き)り、捨つべきは捨て、
人間生命の實相と、此の世界の荘厳きわまり實相とを確認するのである。

そこに奇蹟とも観るべき功徳が現成するが、それは奇蹟ではない。
生命の全機は本来健全なるものであるから、自然に健全が現成するのである。
健全があらわれていないのは、生命の全機が発現していない証拠である。

世界に就いて云っても、世界が今あらわれている通りが
其の儘に實在世界の實相現成ではない。

真妄を截断して彼の『妄』を去り、此の『真』を顕現するとき、
茲に荘厳きわまりなき理想世界が実現するのである。
實在と仮想、真象と偽象とをけん別しなければならないのである。

生命と環境との相違は全機哲学の一示標であるが、
『肉体も環境も心の影』と生長の家では簡単にそれを表現している。

生命の全機が顕現するとき、諸法(もろもろの現象)はそのまま
実相円妙の相が現れ、吾等の肉体は健全となり、環境は改善し、
世界には荘厳きわまり無き中心帰一世界が実現するのである。

此の意味で此の書は国体擁護の哲学であると同時に
健康の哲学、成功の哲学、必勝の哲学、百事如意の哲学とも云えるであろう。

哲学的な理論が読みづらい方々は第一篇を最後に廻して、
第二編、第三篇から先に読んでその通りに実行せられれば
あなたに幸福が来るであろう。

此の書が、この非常重大事局に際し、
世界の思想をリードする此の光明真理出来るだけ完全に伝え得て、
多少なりとも、国家のために貢献し得れば幸いである。

この国家貢献の見地から、今迄、光明思想普及会の独占権であったところの
私の著書の発行権を、この日本新文化全集にのみ貸与せられしことを、
光明思想普及会社長服部仁三郎に感謝し、
又此書の普及に骨折って下さる潮文閣主高嶋政衛氏にも謝意を表するものである。

昭和十六年三月十三日            著 者 識

・・・

<参考Web:光明掲示板・第一「精神文化全集第12巻(谷口雅春)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/koumyou/&mode=res&log=252 >

      <感謝合掌 平成29年8月20日 頓首再拝>

『生命の實相』は久遠の昔からある! - 伝統

2017/09/04 (Mon) 03:35:28


       *「生長の家四十年史」(P1~2)より

奈良県に山村恵津子さんという熱心な生長の家の誌友がある。
何でも学校の先生をしていられるらしいが、学校の暇なときには、
生長の家の宇治別格本山へ奉仕のために来られる事があり、
時々、私と顔を合わすことがあるのである。

その恵津子さんのお父さんは山村楢次郎さんといって
天理中学の国語の教師をしていられた。

『生命の實相』が、私が東京に移転して、はじめて、光明思想普及会と称する
株式会社組織の聖典出版機関が出来、そこから出版されることになった時、
その最初の版は、黒紬の布製で、松本俊介君の図案になる、
線画の雲から三本の金線の光が出て、その光に照射されて、
植物の若い芽生が、地上のすべての生命の萌芽を象徴するかの如く描かれてあった。

その三本の金線が妙に印象的であるのである。

この『生命の實相』の本を山村楢次郎氏が現実界で手にした時、
氏は、これをいつか以前に手にした事を想い出したのである。

記憶を手繰って見ると、それはその時から数えて18年前、夢の中で神様から
その『生命の實相』の本を授けられた。その時のドッシリと掌にこたえた重みの感触が、
18年後になった今でも、記憶にハッキリ現実のように残っている
と山村氏は私に話されたのである。

山村氏がその話をせられた頃、生長の家の教育専門の雑誌『生命の教育』が
発行されていたが、氏は時々、それに寄稿せられて同氏の原稿が載っていたものである。

当時の18年前と言えば、昭和9年に生長の家は兵庫県から東京へ移転しているので、
概算したところ、私が大本教にいた頃か、或いは大本教を脱退した頃に、
既に山村楢次郎氏は『生命の實相』が実相世界又は“霊の世界”に存在したのを
拝受せられたのだった。

それが18年後になって“現実の世界”でそれを拝受したことになっているのである。
やはり『生命の實相』は久遠の昔からあるのが時節到来因縁熟して現実界に姿を現したのだ
と言う事になるのである。

      <感謝合掌 平成29年9月4日 頓首再拝>

『生命の實相』は真理の光を魂の中に誘う - 伝統

2017/09/26 (Tue) 04:06:22


        *『生命の實相』第35巻下化衆生篇功徳篇(上)(P71)より

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば必ず真理の光が
たましいの中へ射し込んでくるのである。

その光は太陽の光よりもなお明るい光である。
自分の身体が透明になったような感じがする。

自己の生命(せいめい)が無限生命の光輝の中につつまれる。
その無限の光輝の中に溶け込みつつ燦然として輝いている
生き通しの生命(せいめい)こそわが生命(せいめい)であることが悟られる。

これこそ自分の本当の生命(せいめい)であったのだ ―― 
今生きつつある地上の生命(せいめい)の小さいことよ。

それはただ自分の本当の生命の輝きが、
迷いの雲間を洩れて、地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。
迷いの雲間は裂ける。

本当の自分は輝き出でる。
地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

         <感謝合掌 平成29年9月26日 頓首再拝>

人生の航路に羅針盤と海図(『生命の實相』)を忘れてはならない - 伝統

2017/10/12 (Thu) 04:23:14


        *『栄える生活365章』(P33~34)より

感謝は不毛の土地に、美しき花を咲かせ、
砂漠に裕かなる収穫をもち来すような力をもっているのである。

あなたは自分の運命の支配者であり、
人生の航路を進み行く船の船長だということができるのである。

しかし、船長に羅針盤がなく、
またどの方向へ進んで行けばよいかの海図がなかったならば
その船は難破するか暗礁に乗りあげるかするより致し方がないのである。

その羅針盤にあたるものが、”心の法則”であり、
その”海図”にあたるものが『生命の實相』の聖典である。

『生命の實相』をよく読んで、人生の海図とし、
幸福の青い鳥に速やかに到達せられるがよい。

         <感謝合掌 平成29年10月12日 頓首再拝>

真理の書籍を読む功徳 - 伝統

2017/10/28 (Sat) 04:57:10


         *『栄える生活365章』(P292~293)より

私たちは、一定の形式による「 真理の念 」の放送のほかに、
常に「 悪は本来ない 」という真理を書いた聖経・聖典を
読むようにしなければならない。

読んでいる時は、そこに書かれてある「 真理 」を必ず「 思う 」のであるから、
その時間中「 真理 」の念を放送しつつあるのと同様の効果があるのである。

だから『 真理 』及び『 生命の實相 』の本を繰返し繰返し読むことは、
自己の潜在意識の悟りのためになるばかりではなく、
宇宙の潜在意識を悟らしめるために貢献するのである。

それには扉の裏から最後のページに至るまで真理の言葉が充満しているのである。

それは生命(せいめい)のパン種であり、真理の水であり、
キリストの葡萄酒であり、観世音菩薩の如意輪であり、
住吉大神(すみのえのおほかみ)の持ちたまえる如意宝珠である。

「我(われ)に来(きた)るものは渇かず、飢えず、
永遠の生命(せいめい)を自覚して、空の星の如く輝かん」である。

         <感謝合掌 平成29年10月28日 頓首再拝>

あらゆる真理の奥伝秘伝が示されている 『生命の實相』 - 伝統

2017/11/17 (Fri) 04:05:04

あらゆる真理の奥伝秘伝が示されている 『生命の實相』  ―  現代を癒す

        *『光の泉』  昭和62年
         ~ 生長の家本部神癒指導課課長補佐  藤原 安子

“現代”という時代は、やはり敗戦を抜きにしては考えられないと思います。 
万世一系の天皇陛下に中心帰一する美しい大和(だいわ)の国日本、
その大和(やまと)民族にふさわない民主主義が入って40数年、
唯物思想の中で経済のみに重きをおき、精神面がおろそかにされたことは、
外的な大きな原因と思います。

内的には、真理  ―  つまり、“生命の実相(ほんとうのすがた)”を識らないこと、
そこに真の人間観・人生観が判らず、事に当って、いかに生くべきかの選択を誤ること
になるのだと思います。

女性の場合は、愛的で感情豊かな故に、信仰にも素直に入れるのですが、
それはまた、占いなどにおどされたり、やさしい愛の言葉をささやかれたりすると、
頭では解っていながら迷わされ、取り返しのつかない事になり易い、

女性の不幸は、女性自身の本質・愛の本質を知らない為に、
自他を粗末に取扱っていることだと思われます。

私は女性の立場から申上げますと、生長の家の “唯神実相論” の真理ほど
完璧に御心の天に成る如く、現象にも完全に成り、今此処に天国浄土を実現せしめる
教えは、本当に他には無い、と指導させて頂くたびに感動いたします。

事実、お礼状が、よく参るのです。 
そして女性の幸福のための真理の書が、
これほど愛豊かにととのっている所も他にはありません。

言論の自由の現代でありますから、女性問題を取扱った著書は実におびたたしい数です。 
しかし皆それは女性を肉体面からだけ捉えたもので魂的に得るものはありませんでした。

生長の家の 『生命の實相』 を始めとする著書は、
女性を、人間を、霊的観点から取扱われているので、
拝読するうちに、高い自覚と、生甲斐が感じられるのです。

 
そこで、生長の家では問題解決に当って、
第一番にお伝えしますのは、人間とは何か ・・・  ということです。 

いつか灰になってしまう肉体が自分ではなく、
神様の御生命(みいのち)が、御先祖様を通じ、御両親様を通じ、
愛深いお母様の体内の只一つしかない素晴しい、子のお宮に天降られ、

無の中に、目や鼻やその他一切が整った尊い “神の子” 様と成って、
神様のみいのちに育てられ、使命をうけて、神様のお力によって、
この世に誕生させていただいたのが、貴女であり、
貴女は素晴しい実相円満完全な“神の子”であるのですよ、とお伝えし、
そのことをしっかり自覚して、
御両親をはじめ一切の人に事に物に感謝をすることをお話しします。

 
また、現象と実相の区別について話し、いかなる姿が現われていても、
“すべての人は神の子であり、完全円満である”と、
心の眼で観つめることを指導させて頂きます。

人間関係の問題では、この点が特に大切で、
すべてを完全なりと観る修行をさせていただき、即ち、観世音菩薩様だと
相手を礼拝出来ましたら、今、現われている問題は卒業することになりましょう。

現代社会に足りないのは、真理の燈台です。

その無明から多くの人は生命(いのち)の一体感〈愛〉を正覚せず、
性欲と愛とが錯覚せられたり、又与えられている恵みへの感謝と、
実相直視の祈りが足りないと思います。 

求めているのは、魂の安らぎと健康でしょうか。

『生命の實相』 を心読し“神の子・人間”の確信をもちその実相を観ずることによります。 
『生命の實相』 全40巻 の中には、あらゆる真理の奥伝秘伝が示されています。 
ですから、すべての問題解決の鍵があるのです。

自分が燈台となって、私自身、様々な相談を受けます時、
生長の家の“唯神実相哲学”の真理によって解決されない問題は、
絶対にないのだとの確信から、どんな問題にでも、“サア、いらっしゃいませ ・・・ ”と、
神様からの試験問題のように向わせていただいております。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/509a629e8a8f09e46781b18b984dfb25


         <感謝合掌 平成29年11月17日 頓首再拝>

人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』 - 伝統

2017/11/26 (Sun) 03:52:37


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。

「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて
「病める肉体」というものは本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合には
どうしても「心が病んでいるのだ」と考える方が正しいのである。

これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。
肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、「心」という
指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は
『人間の心』の中で釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

         <感謝合掌 平成29年11月26日 頓首再拝>

真理は経典にあるからとて貴いのではない、真理は真理だからこそ貴い - 伝統

2017/12/14 (Thu) 03:31:18


           *『女の生き甲斐』(P226~232) より

私が 『生命の實相』 の中にこんな仏典の中の物語や譬喩を引用して置きますと、
「それは仏教の何というお経の何の品に書いてあるのか教えてくれ。 
信者からたずねられた場合に返答に困ることがあるかも知れぬから」 
というようなお尋ねの手紙を時々頂くのであります。

私が 『生命の實相』 の中で処々に引用した仏教経典の言葉は沢山あります。 
それは少年時代から始まって今から30数年前頃まで、私の書斎にあった 
『國譯大蔵経』 などを片っ端から読破した中から、

これこそ真理を伝えるのに都合がよいと考えた章句を 
『生命の實相』 の中に随意引用したものでありますが、

最近では信者又は誌友の数が増え来信が増加し、
中には数10ページの便箋にこまごまと書いたものもあり、
その1通を読むだけでも数時間を費して、
それだけを読むのにくたびれてしまうようなものも混っております。 

外国からの手紙を読んで、それに返事することもひと仕事です。

そのほかラジオ放送の吹込や、講習のための長期連続旅行や、
講習旅行から帰って来ると総裁としての承認事務又は決裁事項に関する書類が
山積していて、それを一々読んで認証したり決裁しなければならぬ上に、
期日の迫っている5雑誌には相当の分量の原稿を書かなければならない。 

自著の単行本の編集及び校正、殆ど息をつくひまもない。

そんな訳で、ここ20年ほどは仏典など読む暇がないので、
仏典の文章の大体の文句は憶えていても、その文句が数多くの仏教経典の、
どのお経のどの辺にあったのか、こぐらかってしまって憶い出せない事が多いのである。 

ところが幸いにも、この焼火箸の話は南伝大蔵経に収録されている
「ミリンダ王問仏経」にあると或る信者が教えて下さいました。


併し、ここで私が読者諸賢に申上げたいのは、
真理はそれが真理だから貴いのであって、お経にあるから貴いのでもなく、
誰々が語ったから貴いのでもないということである。 

宗教的真理の悟りは、学究的研究や、典拠の渉猟とは何の関係もないことである。


天理教祖は「学者と金持あと廻し」といわれたそうであるが、
イエスも「学者と頴き者には隠し給う」というような意味をいっておられ、
アダムとイヴとは「知識の樹の果」を食したためにエデンの楽園から追放されているのである。

色々の聖句を寄集めて楽しむことは、良い趣味ではあるけれども
一種の高級な蒐集癖に過ぎないのである。 

仏典の全部は釈尊が逝去されてかた7百年も、或はもっと後に、結集されたものであって
釈尊直接の口授の真理でもなく、その直接の弟子が口授したのでも筆記したのでもない。 

釈尊の直弟子などは皆死んでしまった後で編纂されたものである。 
だから釈尊が阿難に「焼火箸を握る教訓」をせられたということも歴史的事実ではない。 
そうなれば、それはお釈迦さんが仰せられたから貴いということは結局ナンセンスのことである。 

だから、その聖句が何経の何章にあるかなどということは重要な問題ではないのであります。

 
キリスト教の聖書であるイエスの伝記である4つの福音書も決して
イエス自身の直接の弟子の書いたものではなくイエスの直接の弟子は
皆漁師のような無学の人ばかりで聖書の書けるような人はない。 

福音書のイエス伝は弟子から聞き伝えたことを後の人が書いたのであるという投書を 
吉田長祥さん から頂いたことがある。 まことにもっともなことである。

現代のように録音機や速記術が発達していた時代の記録ではないし、
最初に伝えた弟子も、自分の理解の程度にしか次の人に伝え得ないものであるから、
聖書にどの程度真実が伝えられているかは不明なのである。 

四福音書の中の「ルカ伝」の第1章には

「我らの中に成りし事の物語につき、始めより目撃者にして、御言の役者となりたる人々の、
我らに伝えし、其のままを、書き列ねんと、手を着けし者あまたある故に、
我も凡ての事を最初より詳細に推し尋ねたれば、テオピロ閣下よ、
汝の教えたる事の慥なるを悟らせ為に、これが序を正して、書贈るは善き事と思わるるなり」

と、序文のようなことを書いているのであるが、
ルカはキリストの直接の弟子であったか、どうか曖昧なところがあるのである。

「我らの中に成りし物語」としてイエスの伝記の中に「我ら」として
「イエスの団体」全体を含んでいるような書き方をしているから、
ルカはイエスの直弟子らしくもある。 

ところが、自分が目撃者としてこの物語を書いたといわず、
最初よりの目撃者よりきいたことを書いたとあるのである。 

だからルカはイエスの教団に最初からいた弟子ではなく、
後年イエスの教団の仲間入りをして、イエスの伝記のどこかに
「我ら」一同という複数の人間たちの中にいる人らしいのである。

釈尊でもイエスでも、自分で教を書かなかったことはまことに残念なことである。

それだから、それを伝えた人たちの悟の程度や、間違いや、
伝え誤りや色々のものが混入しているのである。 

そこで一ぺんそれらの混入物を取除いて
本当の純粋な人間を救う真理だけを抽出する必要があります。

経文や聖書の章句のどこに重点を置くかによって
諸宗諸派がわかれて来ることになるのであります。 

併し諸宗、諸派に分れた宗教も、偏ったところに重点を置かないで、
生粋の真理だけに重点を置くことを見出すならば、
諸宗諸派は共通の同一真理に到着するのであります。 

これを 生長の家では 「萬教帰一」 といっているのであります。


甲の宗教と乙の宗教と、丙の宗教があるとします。 
どの宗教も人間の魂を救う力があるとするならば、すべての人間は
その生理的構造や形態が同一である点から見ても、一つの同じ神秘力 
〈これを神と称しても、久遠の本仏と称しても、アラーの神と称しても、
ゴッドと称しても、それは人種により宗教により、人間が勝手に名称をつけるので、
何と名付けようとも好い〉 から生れたということは明かであります。 

だからそれを救う真理は、宗教、宗旨、教派等の名称教義の如何に拘らず、
同一の真理であるということであります。 

だから人間を救う真理が何であるかということを知ろうと思うと、
共通しないところのものを‘ふるい’にかけて排除して、共通のものだけを残せば、
それが本当に人間を救う真理だとわかる訳であります。


これを譬喩をもって説明すれば、
人間を物質的方面からそれを生かしている成分又は条件は何であるか、
つまり生物発生の必要条件は何であるか、生命が生きていられる条件は何であるか
 ―― を知ろうと思えば、その生物の名称が、犬であろうと、牛であろうと、
魚であろうと、鰐であろうと、ミミズであろうと、はた又人間であろうと、

その共通的条件をさぐれば、およそ生物を生かしている真理 
〈この場合は物質的方面からの科学的真理〉 は共通になる。 

即ち其処に空気があること、水分があること、
窒素化合物なるアミノ酸又は蛋白質があること、ある程度の温度があること  ――   
というような共通の生化学的真理に到達するのであります。 

そして共通でないものは、その生活する環境の特殊事情によるものであります。 
つまり眼があるとか、手はないかわりに鰭があるとか、脚がないかわりに尻尾があるとか、 
・・・ そんな色々の生物によって共通しないところの異るところは、
必ずしも生物になくてはならない ―― それがなくては生きられない、
生命顕現に必須のものではないということであります。


それと同じように、宗教上の人間の魂が救われる真理も
各宗に共通でないところの教義は、それはその宗教発生の時代、環境、人種、常識、
一般の教養及び理解の程度に従っての特殊事情による派生的なものであって、
それがなければ魂が救われないという根本的なものではないのであります。

そして真に各宗に共通的な真理こそ本当に、“人間を救う真理” ――   
それがなくては人間は救われないというところの真理 ――  なのであります。 

萬教帰一というのは、生長の家では、このようにあらゆる宗教に共通する真理を
純粋に抽出してそれを説いてあらゆる宗教の神髄は共通同一の真理に帰一する
ということを示すのであります。

だから、生長の家に入教なさいましても、
本尊は宇宙を貫いて存在する「生命の本源者」でありますから、
それは仏教では大日如来とも阿弥陀仏とも称する訳であり、
キリスト教では“天の父”又は“神ゴッド”であり、
神道では天之御中主神 ―― その御顕現としての天照大御神・住吉大神・塩椎神であり、
マホメット教ではアラーの神であり、名称は異れども、
その御本体は同一でありますから改宗する必要はないのであります。


こういう訳ですから生長の家に来られれば先祖代々の宗教は改宗はしないでよい、
祖先の宗教のそのままで“ありがたい”とわかるのであります。 

改宗しないことによって、その宗教を信じて安心を得て来られた祖先の霊魂が救われ
祖先の意思を尊重し、祖先に対する報恩が完うされるのであります。

このように申しますと、萬教は同一の真理を説くのであり、
改宗しないでもよいとわかったら、別に生長の家に行く必要はないではないか
と思われる方もあるかも知れません。

万教は同根であり、同一の真理を説くとわかっただけで、
その同一の真理とは「単に共通の本尊を拝む」とわかるだけでは、
真理の内容が詳しくわからないのであり、

その真理を如何に応用し、如何に生活することによって、
自己の魂が本当に救済され、生老病死の四苦から解放され、
幸福に豊かに健康に自己が生きながら、その幸福を他の人々に頒ち与え、
ひいては社会国家に貢献し、人類全体に貢献するその真理の応用法がわからないのであります。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/4061f7266178499a5b06a7887bde16d1

         <感謝合掌 平成29年12月14日 頓首再拝>

読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが『生命の實相』 - 伝統

2018/01/21 (Sun) 03:42:47


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月21日)より

病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。

《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。
そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。
そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。
この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。

読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが『生命の實相』である。
これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

学と術とはちがう。
現象学は現象を正確に告げる必要があるし、人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる

病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。

病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。

         <感謝合掌 平成30年1月21日 頓首再拝>

啓示を受けた聖典は、聴き方上手読み方上手が必要である - 伝統

2018/02/08 (Thu) 04:09:06


         *『生長の家』(昭和22年12月号)より

《真理を知るには》

「如何なる言葉も、伝えんとする真理を完全に表現出来ない。 
完全なる真理でないものは虚偽である。 
人は虚偽の言葉を表現することによって辛うじて
自己の伝えんと欲することを表現するのである。 

されば言葉は沈黙にまさり、沈黙は言葉にまさるのである。 
事物は存在すると同時に存在しない。 
有であると同時に無である。 

全宇宙にはただ一つのものがある。 
それは創造者にして同時に被造物と現れ、心的存在にして物的表現をもち、
善であると共に不善である ・・・・・」


これはエマースンの論文の一節である。 

真理を知るためには、文字そのものに捉われず、
行間又は字間の間を縫って沈黙の間に鳴るヒビキを聴く事を要するのである。

釈迦は四十年説法して「一字不説」と云い、
禅宗では「言詮不及・不立文字」と云う。 

不立文字と云いながら数千数万言を長口舌するもの禅であり、
世尊陞坐して一字説かずして、文殊菩薩撃槌して「説法終れり」と云う。 

われ既に生命の實相を説いてあますところなしと雖も、
いまだ一字も説かず、これから、益々長口舌を揮わんとする所以も爰にあるのである。

言語は沈黙にまさり、沈黙は言語にまさる。 
共に真理にして真理にあらず。 黙して神想観して天地の啓示を受け
沈黙のうちに得たる啓示を文章にあらわす。 

不言にして多言、多言にして不言。 
真理は無にして有、有にして無。 説いて説かず。 
聴き方上手読み方上手が必要である。

  (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25078656.html

         <感謝合掌 平成30年2月8日 頓首再拝>

理責めの世界では、理論体系「生命の実相」にて、光明の人生と化せ - 伝統

2018/02/27 (Tue) 03:49:41



          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より

合理性 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。
この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。

『般若心経』で幽霊が消えるのは、それは高遠な哲理の表現であるからである。

病患部に対し神想観をして、「完全なる神の造り給いしこの世界には、
本来病気は存在しえないのだ」と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって
不治の病気が治るのは、

「ある」という病気の主張に対して「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。
(治病のための施念法の詳細は拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)

通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方がその人の心の中で優勢になるからである。

理責めのこの世界において、われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。
多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在すると理論体系「生命の実相」を
自分の心のうちに蓄積する者は、病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を
征服して光明の人生と化しうる。

           <感謝合掌 平成30年2月27日 頓首再拝>

『生命の實相』は、文書芸術であり、哲学である - 伝統

2018/03/29 (Thu) 03:55:06


          *「人間死んでも死なぬ」(P332)より抜粋

私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったと云う
否定すべからざる事実が続々起こったり、
戦場に於いて生死を超越し得た実例を数多(あまた)生じたる理由は

それが「《絶対死なぬ人間そのもの》」なる哲学を
感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、
その哲学を実際生活に生活し得るように誘導したからである。

真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、
全集の『生命の實相』は私の文章芸術である。

(とともに)私は哲学を難解なる述語から解放したのである。
哲学するとは難解なる述語を使うという意味ではない。
真理を如実に把握して生きると云う意味である。

表現された真理をそのまま読者が
生活に活きるように押し出す迫力があるのが哲学である。

           <感謝合掌 平成30年3月29日 頓首再拝>

『生命の實相』を繰り返し精読することで歓喜の情を味わう - 伝統

2018/04/06 (Fri) 03:50:40


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

K氏は高血圧症にかかって常に頭に眩暈(めまい)を感じ、
少し歩行すれば心臓の鼓動激しく、
狭心症を起こして倒れてしまいそうになるのであった。

ところが道場へ通ってわたしの話を聴き、
『生命の實相』を読んでいるうちに高血圧症に伴う諸々の症候が消えてしまった。

ところが、支那事変前、日本の経済界が準戦時体制になってきて、
軍需工業会社が殷賑(いんしん)の兆(きざし)が見え、
軍需株の高騰する前途の見透しが、火を見るように明らかとなった。

これは神が示し給うのであると信じ、
K氏はその貯財の大半を割いて軍需会社の株式を買うべく
知人に託して現株の購入料として7千円を委託したのであった。

ところがいつまで経っても現株(げんかぶ)が来ないのである。
知人に催促してみると、現株の来ないのも無理はない。

その知人は預かった7千円を証拠金として、K氏の名前で定期相場に手を出して
その7千円を磨(す)ってしまったあげく、まだ3千円位も足が出て、
その損失もK氏が背負わなければならなくなっているのであった。

K氏は仕方がないと観念してみたが、
貯財の大半を一朝にして失ったことはK氏にとって大きな精神的打撃を与えた。

それに執着してなんとか取り戻す方法はないかと、
心をそれに縛りつけているかぎりにおいて、
肉体もともに傷(いた)んで数夜は安眠もとれなかった。

せっかく治っていた高血圧症もまた再発したらしく
蟀谷(こめかみ)の血管が怒張して、頭脳が朦朧となり、眩暈が始まって、
またいつ倒れるかわからないような状態になってきた。


約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。
氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない
「金(かね)」というえたいの知れぬもの、
しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、身体(からだ)が
こんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ
 ―― と、K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、
心は物質に捉えられたとき直ちに地獄へ顛落するものであることが
K氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。

爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、人を救う人数は日に殖え、
人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる歓喜の情は、
まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 平成30年4月6日 頓首再拝>

言詮不及・不立文字と言われていた真理を、文章で表現したのが『生命の實相』 - 伝統

2018/05/07 (Mon) 04:25:47


        *「生命の實相」第25巻教育実践篇上(P101~103)より

人間の実相は神の子である。仏子である。生きとおしの生命である
というようなことは「生長の家」の発明でもなんでもない。

古くから善き宗教はほとんど 
そのいずれもが口をそろえて説いてきたところであります。

では「生長の家」はどこが違うかというと言葉の力、文章の迫力がちがうのであります。

臨済(りんざい)の一喝といって臨済禅師の一喝をくらうと悟る弟子が多かったという。
一喝にもいろいろあって、耳で聞いたら臨済の一喝も凡僧の一喝も同じかもしれない。

しかしその一喝の中にこもっている生命(せいめい)は、
その喝をくらわす指導者の悟りの程度にしたがっていろいろの段階があるのであります。

それで「生長の家」で説くところの宗教的真理は、
多くの善き宗教の神髄をなしている宗教的真理と同じであり、
むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底(てい)のものでありますが、
どこがちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。

本を読めば病気が治るのいうことも、
文章による一喝によって生命の実相が開かれて心の病気が治る、
肉体の病気が治るのもこの随伴的結果なのであります。

この《生命の実相》というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、
言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんいじ)であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって
生命の実相を悟らせるようになったところが
生長の家の独特なところであるのであります。

今までは真理と言葉が二つに分かれていて、
言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心(いしんでんしん)でないと悟ることもできない真理を、
ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命(せいめい)あり、
生命(せいめい)の中に文字あり、文字と生命(せいめい)を一体
というような域(いき)にまで達せしめたのだろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、
直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が
多勢(おおぜい)あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、
肉体の病気も治り境遇環境まで変化してくるということになってきたのであります。

この点では「生長の家」は宗教というよりも
文学とか芸術とかいう方が適当かもしれない。

生長の家は宗教としては今までの多数の宗教に対して別異を説くのではない。
根本において神髄において同じことでありますけれども、その表現が
そういうように今までに見ない強い迫力ある芸術になっている。

今までの宗教のような直接説法、直接指導でなければ功を奏しないようでは
このおびただしい世界の人類をいつまでだったら教化しうるか
すこぶるおぼつかない話であります。

これが今までたくさん宗教があるのに、新しい「生長の家」の出現した所以で
ありまして、生長の家では活字が道場である。文章が教化の師である。

活字を印刷した新聞紙の行くところ、
活字を印刷した小冊子の行くところ、
そこが道場化して人を救うということになるのであります。

            <感謝合掌 平成30年5月7日 頓首再拝>

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である - 伝統

2018/05/29 (Tue) 04:00:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、
恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で
病気が治る事実が続々あり、それに理論が透らないという理由で、

また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、
それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、
手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って
理論が透らないようなものは頭から排撃してしまって、
いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても古今独歩、
古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる
一大生命学の理論体系をなしているのである。

この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は
医者が一つの事実を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、
数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、
個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮
せしめるのであるから、宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

            <感謝合掌 平成30年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』を反復熟読してください - 伝統

2018/06/19 (Tue) 03:58:07

        *『生命の實相』第39巻仏教篇(P22~24)より

要するに悟りの道をもう一遍復誦してみよ、言葉にし出して唱え、心にそれを憶念し、
今の一瞬の《いのち》に永遠の生命(せいめい)を体得するように
本当の生命(せいめい)の自由というものを獲得せよ ―― これが第一義である。

第一義整えば遷り変わる相(すがた)である現象世界にも
健康なる相(すがた)が現れてくるであろう、経済上の不如意のごときも
また自然と豊かなる恵みとなって現れてくるであろうというのであります。

これは要するに自分の心が解脱自由を得た時にその解脱自由の思いというものが
時間空間のスクリーンに映って現れる随伴状態であります。

(中略)

他(た)を批(う)ち、他(た)を憤(いきどお)るところにはなんの
解脱も自由もないのでありまして、そこにはただ迷いの、執着の念のみが
あるわけで、それは毀れたラジオ・セットのような心である。

そういう迷いの波が現象世界に現われて来るかぎりにおいて、そこに
病気が現われ不如意不自由が現われるしかしかたがないのであります。

『生命の實相』の巻頭を披いてごらんなるがよい。
「天地一切のものと和解せよ」とそこに厳としてこう書いてある。

(中略)

先刻の方などは、病気のみを心に把み、これを治せ、治さなければ恨みに思う
などと、そういうふんあ気持ちでそれで病気が名乗るとお考えになって
誌友になっておられるのは見当ちがいです。
惜しいかな、本当に生長の家の説くところを読んではいられないのであります。


それでわたしは、「何よりもまず『生命の實相』をお読みなさい。
再読また再読飽くまで真理に徹してください」こう申すのであります。

八回であれ十回であれ、反復熟読くださいましたならばおのずから
悟るところがあり、その心境に従って病気その他いっさいの
現象的不幸も自然自消することになるのであります。

要するに現象界は遷り変わる波の相(すがた)でありますから、
悟りによって善き波を起こすことが必要なのであります。
           
            <感謝合掌 平成30年6月19日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 - 伝統

2018/06/26 (Tue) 03:40:34


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。

何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。

有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いて
じっと2、3行見つめていると、それが執筆を招(よ)び出す
精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。

あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのは
ポンプの迎い水のようなものですねえ。

水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。
病気のことはほとんど書いていない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、
生活が整ってくると自然病気が治ってくる。

朗々と読むとよいのですよ。だからあの部分だけ集めて
『光明の生活法』という一冊に纏めてあるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」

           <感謝合掌 平成30年6月26日 頓首再拝>

『生命の實相』は、ただ真理を説いているだけである。 - 伝統

2018/07/05 (Thu) 04:00:01


          *「光明道中記」(7月5日 臭味を脱却する日)より

【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】 

「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。

「朕は寺院に仏像に僧侶にこれだけの供養をしました。
功徳はどれだけありましょうか」
と云う武帝の方は「識(し)る」方の側である。

「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。まだ病気が治りませぬ」
と言うのも「識(し)る」方の側である。

まことに鼻持(なはもち)がならぬ。「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。

功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、
従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。

人を救っても無心にして救うようでなければならない。
『生命の實相』を読んで色々の病気が治ったと言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。

では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。

識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。

目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。

            <感謝合掌 平成30年7月5日 頓首再拝>

『生命の實相』を必ず読む日 - 伝統

2018/07/12 (Thu) 03:47:45


          *「光明道中記」(7月12日)より

【生長の家では外界をただ「自心の展開」として
自由自在に駆使し得るようになるのであります。(『生命の實相』第七巻)】


四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は
非常な功徳があるとせられている。

「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と同じことが書いてある
と云うことを私は『生命の實相』で指摘して置いた。

四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、「大般若経」を一心不乱に
誦していると、その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。


こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、
作り話だと思っていたが、今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。

道信は或る日黄梅山(おうばいざん)で一人の異相ある少年に出逢った。
道信から声を掛けて姓名を訊いた。

「姓名なんか訊いて何にするのです。
姓名は本来空です。本性は変るものではありません」
「本性は、何と申すか」「本性は仏性(ぶっしょう)です」

少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。
少年は後の五祖弘忍である。

            <感謝合掌 平成30年7月12日 頓首再拝>

《『生命の實相』読誦の功徳について》 - 伝統

2018/07/26 (Thu) 04:53:10


         *『眞理』第九巻生活篇(P397~399)より

『生命の實相』を読んで病気が治る。
これは無数の礼状が実証するところである。

しかしこれは谷口雅春の功績ではない。
「わが神殿は既に成れり、名づけて『生命の實相』と称う」
と神は仰せられているのである。

『生命の實相』は神がその御栄えをあらわしたまうための道具である。
其処に奇蹟を生ずるのである。

しかし、心が頑固で其処に書かれている真理を
素直に受容れることの出来ない人には治病の奇蹟は起らない。

神の力が及ばないのではない。
光は充ち満ちていてすらも、眼を瞑じている人には
光を受容れることができないのと同じことである。

しかし、眼を瞑じている人にも光があれば明暗ぐらいは分るのである。
明暗をたよりに、其処に光があることを自覚して眼をひらけよ。


《すべては神の恩寵である》

『生命の實相』を読んで
”病気本来無し”と豁然と悟りをひらいて病気の治る人もある。

しかしそれは、自分が偉いので自分の力で悟りをひらいたのだと
高慢な心を起してはならないのである。

神の恩寵なければ人は何ごとをも為し得ないのであり、
『生命の實相』も、神が人を救いたまう道具として書かしめられたのであり、
その人の”真理を悟る力”も神が与えたもうたのである。

何処(どこ)にも人間だけの力で為し得るところのものは存在しないのである。

神の恩寵を自覚しない人のみが、
自力で何でも出来るなどと高慢な考えを起すのである。

高慢な心を起したところが、恰もパイプの中の沈殿物のように、
神の恩寵の流入を不完全にするのである。

高慢な心を捨てることである。

無我になって神に無条件降伏したときのみ、
神の恩寵は一層ハッキリあらわれるのである。

            <感謝合掌 平成30年7月26日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む - 伝統

2018/08/01 (Wed) 04:33:28


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月1日)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。
そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、遠隔治療をしてくださいと
いうような不誠実な人たちもあるのである。こういう人にかぎって、治ったらもう用がない
と言って去り、治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。
真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

       <感謝合掌 平成30年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2018/08/03 (Fri) 03:37:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月3日)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

       <感謝合掌 平成30年8月3日 頓首再拝>

真理の書物を精読する - 伝統

2018/08/23 (Thu) 04:15:06


          *「女性の幸福365章」(P81)より

心愉しまぬ時は良書を

人には時に、自分で好きこのんで
憂鬱の感情の中に浸っていたいような感情が起こることがある。
しかし憂鬱の感情の中へ浸れば浸るほどその人の生活は不幸となるものである。

そんな時には極力憂鬱の感情から脱却するために
『生命の實相』や『眞理』のような光明思想の本を読んで、
自分の心を光明面に転回するがよい。

心に「光明」を描けば、やがて”実際人生”にも光明が具体化するのである。


真理の書物は、多読するよりも精読することが肝腎である。
文字(もんじ)の表面を越えてその奥にある深い意味を充分味わって、
それを生活に実践するところに霊(たましい)の向上があるのである。

一般的に多読するのは、多くの食物を咀嚼せずに嚥(の)み込むようなものである。
栄養物は少しも吸収されずに下痢してしまうのである。

常によき書物を読むことは、常によき食物によって肉体が養われる如く、
魂を常によき思想によって肥えしめることになるのである。

【われ此の儘ながらにして実相の如来である。萬物われと同根 天地われと同体】

       <感謝合掌 平成30年8月23日 頓首再拝>

『生命の實相』は目で読み、声で読み、声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む - 伝統

2018/09/16 (Sun) 02:57:40


     *『生命の實相』第4巻生命篇下(P2巻頭の言葉)より

なぜわれわれが「生命の実相」の扉をひらく時、医術などでは
とうてい及ばない驚くべき自然癒能が発揮されるかと申しますと、
人間は本来、神の子としてつくられているという真理を見いだすからであります。

人間の本質は神であり霊的存在である。
「神なる人」こそ人間自身の実相であります。

自由自在の霊性こそ人間自身の本来の面目であります。

われらの本来の面目は神本来の面目にひとしいのでありますから、
われらは自己の全存在のすみずみまでも完全であり、
万徳円満であり自由自在で不悩不苦であるはずであります。

この真理を知ることは、人をして、あらゆる束縛から
解放せしむることになるのであります。

しかもこの真理は、
人の生命の実相に穿ち入る者には何人も知ることができるのであります。

人の生命の実相に穿ち入るには
これを霊的に理会(りかい)することが必要であります。

頭で真理を理会するということは、真理の周囲をどうどう廻りして
真理の外的なすがたを知るにすぎませんが、

霊的に真理を理会するということは、
「生命(せいめい)」の実相そのものに全身全霊をもってつらぬき入り
力の本源をつかむことになります。

全身全霊をもって、生命の実相につらぬき入るには、
この書を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、黙読する、朗読する。

目で読み、声で読み、声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、
そして静かに端坐して「神想観」を行じ、行じ終って動き出すとき
神(愛)の生活を生きる、かくする時、知恵と愛とのそろった生活が
実現するのであります。

       <感謝合掌 平成30年9月16日 頓首再拝>

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