伝統板・第二

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心の力 - 伝統

2016/11/25 (Fri) 04:47:56

癌腫も筋腫も、想念によって消滅しうる

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月25日)より

われわれが「手を動かそう」と思えば、その想念のエネルギーが神経系統を伝わって一部の筋肉に
収縮運動を起さしめ、その反対側の筋肉を弛緩せしめて、想念したとおりの運動をそこに起こす
のである。

その神経系統を伝わるところの想念のエネルギーなるものは何であろうか。
それは一種の電気的流れであると想定されるのである。

それが電気的流れであるとするならば、それは確かに「電子」が想念によって発射せられて
神経組織をその「電子」が走るものだと解釈されうるのである。

患者の睡眠中における夢の変化にしたがって、脳髄より放出される電気的流れに著しい変化が起こる
ということは、それを実験機械によって図表的にその変化を記録した人もあるのである。

そうすれば脳髄という機械装置は、電子を放出するところの、一種のサイクロトン装置であると
いうことができるのである。それを操る原動力と操縦士とが「想念」という不可思議体である。

むろん、神経伝達によって筋肉を動かす力は、たんに現在物理学界においてその存在を認められて
いる「電子」だけではないのである。もっともっと精妙な種類の素粒子を想念にしたがって放出する
のであろうと信ぜられる。

しかしいずれにせよ、神経伝達されるところのエネルギーの一部には電子の流れが含まれている
ことは、想念によって人体の電気的流れが変化することが電流計によって測定されることによって
明らかである。

したがってわれわれの脳髄は、極めて少量の頭蓋骨容積の中に、人造のサイクロトンよりも
精妙なる高級サイクロトンを包容するものだと言わなければならないのである。

そして想念が素粒子を支配してあるいは電子をあるいは他の素粒子を、自由自在に分離したり
組み合わせたり、配列したりすることができるものだということがわかるならば、

想念によって、人体に癌腫を発生したり、筋腫を発生したり、あるいはそれを消滅せしめたり
なしうる理由も当然のことだと言わなければならないのである。

         <感謝合掌 平成28年11月25日 頓首再拝>

【自分の考えた通りになる】 - 伝統

2016/12/11 (Sun) 03:22:36


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年04月15日)」より

   (宇野千代氏の心に響く言葉より…)

   おかしなことであるが私は、いまから17、8年前、
   『おはん』という作品を書いたあと、ぴたりと筆が止まった。

   一行も書けない。

   その頃の私の頭の中に去来した思いの一つに、

   「私はもう書けない。私にはもう書くことがない。
   私はちょうどそういう年齢に達したのだ。
   詩想が枯渇する年齢に達したのだ」

   という、一つの牢固として抜き難い考えがあった。


   「人間は何事も自分の考えた通りになる。自分の自分に与えた暗示の通りになる」

   ある夜、天風先生が言われた。

   「出来ないと思うものは出来ない。出来ると信念することは、どんなことでも出来る」

   そう言われた。

   ほんとうか。

   では、私は、書けないと思ったから書けないのか。
   書けると信念するれば書けるようになるのか。


   17、8年の間、ぴたりと一行も書けなかった私が、
   ある日、ほんの二、三行書いた。書ける。

   また、一枚書いた。書ける。


   ひっとしたら私は書けるのではあるまいか。
   そう思った途端に書けるようになった。

   書けないのは、書けないと思ったから書けないのだ。
   書けると信念すれば書けるのだ。


   この思いがけない、天にも上るような啓示は何だろう。

   そうだ、失恋すると思うから、失恋するのだ。
   世の中の凡てが、この方程式の通りになると、ある日、私は確信した。

   そのときから、わたしは蘇生したように書き始めた。



   こんな話がある。

   九州地方に住んでいる或る男が、強度の神経痛にかかって福岡の大学病院に入院した。
   豪農の息子か何かで、金に糸目をつけず、百方手を尽くしたが、治らない。

   福岡では駄目だが、京都の大学病院なら治るに違いないと言うので、
   京都で入院したが、やはり効果がない。

   いっそのこと東京ならと、最後の希みを托して東大病院に入院した。


   しかし、ここでも治らなかった。

   絶望の末その男は、或る街に住む高名な漢方医に紹介されて、その診断をうけた。

   叮嚀(ていねい)に診断し了(おわ)ってその医者は、

   「あなたのこの病気は、あなたにとっては死病です。
   たぶん、あなたはこの病気で死ぬでしょう。

   しかし、ただ一つ、これは験(ため)しにやって見るのですが、
   この薬を飲んで見て下さい。昼と夜と二回これを飲んで、
   もし万一効き目があったら、明日の朝は真っ黒な便が出る。

   そうなったらあなたは助かるが、しかし、この薬も効き目はないと思うが」

   と言って、一包みの粉薬を渡した。


   その男は顔面蒼白となって、もう死んだようになってその医者の許を立去った。
   その筈(はず)である。
   福岡、京都、東京と、名だたる大病院へ入院しても効果のなかった病気だったのだから。


   ところが、その翌朝、慌ただしくその男が駈け込んで来た。

   「先生、私は助かりました。真っ黒い便が出ました」

   「出たか。そうか。助かったのか」

   と医者もともに手を取って喜んだ、という話である。

   その男はそのまま九州へ帰ったが、先生から頂いた薬のお蔭で、
   さしも難病の神経痛がけろっと治った、と言う礼手紙が来た。


   吃驚(びっくり)したのは医者の方である。

   その粉薬は、飲むと腹の中の何とか言うものと化合して、
   真っ黒な便が出るものと決まっている、そう言う薬であった。

   その薬を飲むと、真っ黒な便が出るに決まっているのに、
   「たぶん効き目はないと思うが」と駄目を押して飲ませた。

   命が助かりたい一心で、藁(わら)をも掴む心持ちでその薬を飲んだ男にとって、
   それは一大暗示であった。

   黒い便が出た、と思った瞬間に、その強烈な暗示によって、痛みが止まった。

   いや、止まったと思ったのである。

   そして、この痛みが止まったと確信したことで、
   ほんとうに痛みが感じられなくなったのである。

          <『行動することが生きることである』集英社文庫>

              ・・・

人は、これはとても「できない」と思えば、できない理由を山ほど探してくる。

しかし、「できる」と思えば、できる方法をいくつも探すことができる。

「できない」と思いこみ、その一部分だけにスポットライトを当ててしまうからだ。


どんなトラブルに出会っても、何とかなるはずだ、必ず打つ手はあるはずだ、
と思っていれば、その通りになる。

病気も、トラブルも、事業も、すべてのことは、あきらめたらそこで終わり。


「火事場の馬鹿力」という言葉があるが、
人は絶体絶命の崖っぷちまで追い詰められると、
そこでストンとスイッチが入り、異常な力が出ることがある。

一点の疑念もなく、「できる」と深く確信した瞬間だ。


人は、自分の考えた通りになる。

           <感謝合掌 平成28年12月11日 頓首再拝>

信念を伴った決意、素描、実行 - 伝統

2016/12/16 (Fri) 04:44:27


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日~16日)より

決意、心の世界における素描(そびょう)、その素描の上に絵の具を塗る実行、
それは絵師(えかき)だけのことではない。
人生の画布(カンパス)の上に実生活の絵を描くところの人間の一生もそれである。


決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。
「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。

「われ祈れば天地応(こた)え、
われ動けば宇宙動く。」

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

            <感謝合掌 平成28年12月16日 頓首再拝>

《外界の事物は素材に過ぎぬ》 - 伝統

2017/01/02 (Mon) 04:55:42


        *『幸福を招く365章』第11項(P237) より

外界の事物は吾々の幸福の素材になるに過ぎないので、
その素材に対する心構えが間違っておれば却(かえ)って不幸を来すのである。

素材を如何(いか)に取扱うかの心構えが大切である。

富めること必ずしも幸福ならず、富めるために却って悩み多き人もある。
然(しか)りと雖(いえど)も生長の家は「貧しさ」をまた礼讃するものでもないのである。

「貧しさ」が生じて来たのも、自己の心の反映であるから心を変化すれば、
富が生ずると云うのである。

ただ富の求めようが、「富が得られたら幸福になる」と「富」そのものを求めては
幸福は得られないのであって、先(ま)ず幸福な心持になり、富める心になって
他(た)に奉仕するとき幸福も富も得らるのである。

(初出~「生長の家(昭和26年5月26日)」)

           <感謝合掌 平成29年1月2日 頓首再拝>

精神力・心の力とは - 伝統

2017/01/06 (Fri) 03:46:29


           *「光明道中記」(1月6日)より

【我れみずからは何事もなし能(あた)わず、
 父は子を愛してその為す所を悉く子に示し給う。(ヨハネ伝)】

精神力とか心の力とか言われるものは、語(ことば)の使い方にもよるが、
概(おおむ)ね本源の力を指すものではない。
それは本源の力が脳髄的ラジオセットに触れて副次的に反射して生じた力である。

それはラジオセットに生じた一種の電磁気的波が放送局の波を捉えて吾々に美しい音楽を
聞かせてくれるかのように、宇宙本源の霊の力を捕捉(キャッチ)する媒介になる。

併し、吾々の心が何事をも為すのではなく、それによって捕捉せられたる
宇宙本源の霊の力がすべての事を為すのである。

所謂る精神力が第一次的生命そのものでないのは、
脳髄を破壊すれば精神力はあらわれなくなるので明らかである。

併し、精神力が消えようとも、脳髄を創造(つく)った力は消えるものではない。
精神力が現れない前に脳髄が造られたのである。
甲の脳髄が破壊されて、甲の精神力が消えたときにも、脳髄を創造ったところの
神秘なる生命力はまた乙の脳髄、丙の脳髄を創造り出すのである。

脳髄から発する精神力は、生命の前哨戦に立つ斥候のようなものなのである。

併し斥候だからとて軽んじてはならない。
斥候の指し示すところへ本隊は導かれて進む。

            <感謝合掌 平成29年1月6日 頓首再拝>

「心の力」 - 伝統

2017/01/21 (Sat) 04:11:38


       *「生命の實相」第24巻質疑篇(P82~83)より

常に、力強く「自己」の偉大なる方向を肯定せよ。
それが生長の家の生長主義の生活であります。

自己の塵に造られたるいと小さき物質であると見ず、
神の息にてつくられたる無限力の霊体であると信ずるのであります。

人間には有限力の方面と無限力の方面とがあります。

つまり裸であると同時に、エデンの無限供給の楽園におるのでありますし、
塵にて造られたるごとき肉体であると同時に、神の息にてつくられたる霊体
であるのであります。

そのうちのいずれを強く認めるかのよって、自己が偉大に生長するか、
矮小に委縮するかがきまるのであります。

自己の心が、自己の無限力の方向をのみ強く認めるようにすれば、
自己はしだいに偉大に生長してくるのでありますが、

自己の有限力の方面ばかり認めてそれに捉われるようになると
自己はしだいに委縮してくるのであります。

つまり、これが「心の力」であります。

           <感謝合掌 平成29年1月21日 頓首再拝>

《心が先で現象はそれにつづく》 - 伝統

2017/02/06 (Mon) 04:48:11


         *『 生長の家 』(昭和25年11月3日の法語)より

   長らく医療にかかり、薬剤にかかっていたのに治らなかった者が、
   医療を廃し、服薬を止めて、忽然として快方に赴く実例があるのは、
   決して医薬や医療を止めたから治ったのではなく、

   其人の心に心機一転したしたところの
    「 新たなる心境 」 が実現したからである。

   心が一変しないで、ただ薬剤を廃し、医療を止めたとて
   治るものではない。

   治癒と否とは、心に原因があるのである。

   事件が継続しているからとて、前に起った出来事は
   必ずしも、後に起った出来事の原因ではないのである。

   医者にかかって人間が死んだとて
   医者にかかったのが原因で人間が死んだのではない。

           <感謝合掌 平成29年2月6日 頓首再拝>

《人間の心の想いは動力である》 - 伝統

2017/02/20 (Mon) 04:55:42

         *『幸福を招く365章』第1項(P5) より

人間の心の思いは動力であるということを知らねばならない。
心に描いたことが形にあらわれるのである。
此の事は何度繰返しても繰返し過ぎるということはない位に重大な真理なのである。

キリストは「先ず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」
と教えられた。具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先だって先ず心の世界に、
神の国を描くことが必要なのである。

「もし芥子種ほどの信だにあらばこの山に動いて海に入れというといえども必ず成らん」と
キリストが言われたのも、実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、
神の国に在る一切のものがこの世に実現することになるのである。

           <感謝合掌 平成29年2月20日 頓首再拝>

《心は全ての造り主》 - 伝統

2017/03/05 (Sun) 03:56:26


         *『幸福を招く365章』第1項(P5~6) より

すべての地上の建造物は、先ず建築家の心の内に描かれたものが実現したのである。
原子爆弾といえども科学者の心に描かれたものが実現したのである。
心は全ての造り主である。

物質は自ら自発的に動いて一定の形をとることはできません。
湯呑みが勝手に歩いたり、万年筆が勝手に動いて文章を書くということもあり得ない。

プランシェット(心霊現象の自動書記で御筆先を書く道具)が自働して文字や絵を書くのは、
その道具が勝手に動くからではなく、それを動かす霊があるからである。

吾々の肉体細胞の成分が一定の姿に配列されて健康になるのも病気になるのも
皆心の働きによるのである。

           <感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>

《人間の心の荘厳さ》 - 伝統

2017/03/20 (Mon) 03:30:25


           *『幸福を招く365章』第1項(P6) より

物質が自動して一定の形に配列することができないのに、
日月星辰という完全な天体系統が形成され、その天体の上に、
組織の極めて複雑精緻なる構造を有する動植物が造られたということは、
その構造に物質の分子を並べる知恵ある「心」がなければならないのである。

宇宙全体をかく設計構造した「心」は「宇宙」に満つる心でなければならない。
その「宇宙に満つる心」を神というのである。

その心は宇宙に満ちているから、人間のうちにも宿って人間の心となっている。
だから人間の心は神の心と同じように何でも造る力を有するのである。

           <感謝合掌 平成29年3月20日 頓首再拝>

心の力と運命 - 伝統

2017/04/06 (Thu) 03:28:46


       *『幸福を招く365章』第1項(P6~8) より

《心の力と言葉の力》

人間の生命(せいめい)は、宇宙全体の生命(せいめい)の一部分であり、
人間の心は宇宙全体の心の一部分であるのである。

星を造り、太陽を造り、一切万物を造ったと同じ心が、人間に宿っているのである。
だから人間の心は一切のものを造ることが出来るのである。

「心の力」と云うものは単なる空想でも、観念論でもないのである。
現実に立証し得る所の力なのである。

特に信念をもった心の力が、言葉によって発せられるとき、
それは驚くべき大いなる創造力を発揮するのである。

信念をもった宗教家や占い者や医者が、「お前の運命はこうなる」と云ったとき、
その言葉の通りになるのは、心の力が言葉を通して有力に働いた結果である。

                ・・・

《脳髄は心の波の発信機である》

心はラジオ波と同じく、生命(せいめい)の波動であるから、
同波長のものが相感応し、相集まって来て、形にあらわれて来ること、
ラジオやテレビジョンによく似ているのである。

従って、自分の周囲に集まって来る人々は、環境、境遇、財福・・・等は
悉く自分の心の波長が引き寄せたものだと云うことが出来るのである。

此処に運命は自分の心で支配し得る原理があるのである。

すべて宇宙に存在する事物は、心に根源があるのですから、
心の波によってそれを引き寄せ具体化することが出来るのである。

脳髄は吾々の生命(せいめい)が「心」の波を発信する機関である。

                ・・・

《心の波長はこのように感応する》

吾々の思うことは、脳髄から発射されて四方にひろがり
適当な受信的同波長のところへ往って、感応する。

読心術というのもそれであり、虫の知らせとか人に会った第一印象とか、
何となく虫が好くとかいうのも皆、心の波を五感を通さずして直接感ずるのである。

吾々の心の波は、相手を定めて強力に発射すれば特にその人に強く感ずるのであるが、
(例えば汽車の中で向かせようと思って、「こちらへ向けこちらに向け」と強く思念すれば
必ず、その人はこちらを見ます。)

特に相手を定めない想念は、不定の方向に全体にひろがって行き、
多少とも周囲の人々に影響を与えて、更に同波長の心の人を動かして、
その人を自分の方へ近づけるような働きをするのである。

自分の好むと好まぬとに拘らず
同波長の者が集まって来て、自分の運命を定めるのである。

           <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>

心に描き、それが形にあらわれる - 伝統

2017/04/09 (Sun) 06:15:15


           *「光明道中記」(4月9日)より抜粋

心に描くことが第一の創造である。
心に描いた通り形にあらわれるのは第二の創造である。

家は建ち上ったとき初めて建ったのではなく、
それは設計家の心に出来上がったとき既に立ち上がったのである。

それよりも更に遡(さかのぼ)れば、漠然たる建築主の心の中に何となく家を
建てたくなったとき、既にその家は建っているのだとも言えるのであろう。

或る地方では食事のときにする遊戯に「茶柱が建つ」と云って、
湯呑(ゆのみ)に注(つ)いだ茶の茎(くき)が縦になって浮き上るのを楽しんで、
左手で箸で拾い上げて袂(たもと)の中に祝福しながら入れる風習がある。

盛んに茶柱が立つときには、その人の運勢は盛んであり、家なども盛んに建つ。

昭和10年どこへ往っても私の茶碗に注がれる茶には不思議に「茶柱」が立ったと
言っていると、本部の改築が出来上る、光明思想普及会の新社屋が出来上がる、
原宿の学生寮が新築される、家庭光明寮の第三寄宿舎「愛泉寮」が新築される、
研究室の新設等・・・建つ、建つ、建つ・・・

形あるものは、その奥にその形に相応する心の波動(アイディア)が動いているのである
から、自分の心の世界に「すべて立つ」アイディアが動き出すと、
現象界の事々物々にそのアイディアが映し出されて具象化するのである。

           <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝>

《信念の力で健康を堅持せよ》 - 伝統

2017/04/28 (Fri) 04:58:07


           *『幸福を招く365章』第2項(P43~45) より

無闇に医薬に頼ってはなりません。
薬剤は効果ある薬剤であればある程副作用も強いのです。

「薬剤は一つの病気を排斥するために、もう一つの病気を拵える」
という西洋の諺がありますが、

この事は、ペニシリンのショック死や、抗生物質を使用して細菌を滅してしまえば
菌交代現象が起って黴(かび)が人類に寄生して困ることがある事実で
最近再認識されました。

病菌を殺す力がある程の薬ならば人体細胞を何らかの程度に傷つけたり、
生命自体の調節力に異状を与えることは当然のことです。
だから特効薬のない場合素人が薬を濫用するのは慎むべき事です。

薬剤に頼る習慣を厭うもうひとつの理由は、物に頼り過ぎると、
自分自身の力が発達せぬからです。

杖をつく中風患者は全治しにくいし、
親の財産に頼っている息子は、独立に生計する力が湧いて来ません。

薬剤に頼りすぎている人は自分の健康力があまり発揮されぬものです。

常に薬剤に頼らない南洋の土人などは、どんな病気でも歯磨粉で治るそうです。

歯磨粉を処方してどんな病気も治る南洋の土人のような実例は、
これは物質がきくのではなく、物質を媒介としても其の人の心に与えられた
「これで治る」と云う暗示で効くのである。

昭和31年12月号の『リーダーズ・ダイジェスト』誌に、
この種の替玉薬が病院に於ける集団実験で文明人の場合に用いてさえも、
本物の薬剤が60%余の治効のあるものなら、単に乳頭や澱粉をかためた替玉薬でも
40%余の治効が実際あったことが発表されていました。

替玉薬が効くのは物質そのものの化学的作用によるのではなく、
心の力によるのでありますから、

医師から薬剤を貰って治る場合、その約40%は薬剤のそのものの力によらず、
心の力によって治っていると言ってもよいのであります。

一旦かかった病気が心の力によって此れ程治る位ならば、
心に「我れ神の子也、病なし」の信念を最初から堅くもてば病気に罹らぬのも
無理はないのであります。

           <感謝合掌 平成29年4月28日 頓首再拝>

《最初に 「 心 」 あり、万物あらわる》 - 伝統

2017/05/11 (Thu) 03:18:34


          *『生長の家』(昭和25年10月21日の法語)より

   原子は如何(いか)にして生じたのであるか。
   原子を構成する電子、陽子、中性子、中間子等々・・・
   の素粒子は物質から生じたのであるか。

   それは物質を生じたのであって、
   物質から生じたのではないのである。

   かかる素粒子は非物質の真空より生じ、
   また非物質の真空の中に消散するのである。

   非物質の叡智(えいち)が素粒子の根元であり、
   その素粒子が物質を構成する法則も非物質の叡智である。

   非物質の叡智とは 「 心 」 である。

   心が物質に先立つのである。
   物質にもある働きがあるが、それは 「 内在の心 」 である。
   心は物質を造り、物質を支配するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

           <感謝合掌 平成29年5月11日 頓首再拝>

《「 心 」 は偉大なる創造者》 - 伝統

2017/05/24 (Wed) 04:39:54


          *『生長の家』(昭和25年10月22日の法語)より

    「 心 」 は偉大なる創造者である。

    「 心 」 が 「 物質 」 に先立ち
    「 物質 」 を創造したものならば、
    「 心 」 は主人公の方が従僕よりも権威があるのは当然である。

   尤(もっと)も従僕の方が主人公よりも
   或る特別なよき働きをすることもあるが、

    「 心 」 は空間的存在ではないから、
   物質の入り込み得ない処へも侵入して、
   それを適当に処置し得るのである。

   脊椎(せきつい)カリエスで骨質の中へ結核菌が入り込んで
   骨質がボロボロになっているものでも
   「 心 」 が真理を悟ると治ってしまうのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

           <感謝合掌 平成29年5月24日 頓首再拝>

心の方向を一転し習慣化する - 伝統

2017/06/10 (Sat) 04:20:51


          *『幸福を招く365章』第1項(P18~20) より

《業の形成と解消》

強烈に思念したこと、感情の底深く思いつめたこと、
最初はそんなに強烈に思ったことでなくても、
それが反復して思ったり、心に描いたりしたこと、
呆然として或る程の精神統一状態にあるときパッと投げかけられた暗示

――これらは潜在意識に蓄音機のレコードのように刻みつけられて「因」となり、
それが動き出す「縁」が来るのを待っているのである。

そしてそれが動き出せば必ず、その潜在意識にきざまれた通りの動き方をする。
戦争も、多くの個人的殺人も、経済界の動きも、個人の性格的な行動も、
それによって左右せられるのである。

それを宗教家は「業の催し」だと云う。
しかし業とは心の業(わざ)である。

心の方向を一転することによって業の方向が変わるのである。

・・・

《一切の業から超出する道》

「性格」と云うものは、反復して心に描いていたものが、
その方向に動き易くなった「人間の心の型」を云うのである。

吾々は一度や二度練習してもピアノを上手に弾くことはできないけれども、
幾度も繰返しているうちに、努力なしに自然に指が動くようになって来る。

更に反復していると、「月光の曲」と題を思うだけで、
その曲譜の通り自然に指が動くようになる。

それと同じく、性格を自分の思うように改めるのも、
最初は自分の想念を自分で支配することが出来なくとも、
幾回も繰返しているうちには
何の苦もなく自分の想念を支配し得るようになって来る。

先ず神想観して、

「吾は神の子である。いと優れたるものである。吾は霊である。
霊は自由自在であるから自分は何ものにも支配せられない。
自分は一切の業から超出せるものである」

と思念する練習を毎日繰返すが好いのである。

           <感謝合掌 平成29年6月10日 頓首再拝>

《事物の状態は心により決定される》 - 伝統

2017/06/28 (Wed) 04:11:32


         *『幸福を招く365章』第2項(P25) より

私たちをとりまいている一切の現象界の事物は何一つとして、
其の本源を心に発しないものはないのです。
 
先ず最初に漠然と何かしたい感情が起こります。
つぎにそれがハッキリした想念となり、想念は意欲をおこし、
想念と合した意欲は行動化して、想念した方向に素材を動かし排列します。

それは飛行機その他、あらゆる種類の機械の製作にも、
大建築物の建造にも同じであります。

こんなことは誰にも分かりやすいことですが、事業の繁栄の問題や、
人間の運命の問題や、食物の成分が肉体的にいかに並べられて
健不健の肉体を構成するかという問題になると、

自分の想念がその構成の状態を方向づけるものだということを忘れて、
すぐ暗い方向にものを考えたり、もっと病気が悪くなりはしないかと考えたり、
老衰したりしないかと考えたりし勝ちなのです。

もっと明るい方向へ、元気溌剌たる方向へ、自分の心を向けましょう。

           <感謝合掌 平成29年6月28日 頓首再拝>

内部的心の動揺の表出 - 伝統

2017/08/06 (Sun) 03:55:08


          *「光明法語」(8月3日~6日)より

《八月三日 心の中の複雑混迷》

精神科学の研究家は、病気の大部分は殆どすべて心に根源を発し、心によって病み、
心によって癒される事を知る。

併しながら、それは決して、「病気になる」と思ったから病気になり、
単に「病気は無い」と想ったから治ると云う様な単純なものではない。
病気なんて一切考えないのに病気になった人もあり、心はその儘で一時治る人もある。

人間の心の内部にはもっと複雑な混輻輳(コンプレックス)があるのである。
この混雑輻輳(ふくそう)極まりなき心の解剖とその浄化こそ真に癒す道である。

・・・

《八月四日 病気の種と土壌》

病気のもとは、概ね複雑なる感情の抑圧から来る。
恐怖、不安、嫉妬、憤怒、悲哀、貪欲、惜しみ、憎み、口惜しさなどが
心の中には《ほどかれ》ないで残っているのが原因である。

子供の時の心的印象や、親からの衛生思想や、社会全般の通念や、そんなものが種子(たね)と
なり、その時その時の感情の混雑がその種子を培う土壌となって発芽する。

友人の話しや、家族親戚などの噂などが肥料となることもある。
時とすると通俗医学書の病気の露骨深いな説明も病気発芽の促進剤となる。

・・・

《八月五日 形の病気は内部の動揺の影》

時とすれば、新聞広告にある栄養剤の広告や病状の説明やが、
知らず識らず「病気」の観念を植えつけて病気を起こす事もある。
健康に対する注意を与えられて、その注意が却って病気の恐怖を植え付ける事もある。

植え付けられた病念の種子が、形の世界に芽を出して病気となるのである。
形の病気は内部的心の動揺の影である事が多い。

名医にかかるとか、舶来の新薬とかを用いると、その事による注意の転換と安心とか、
内部的心の動揺を一時しずめて病気を治す事もある。

・・・

《八月六日 外部治療の効果は》

如何なる外部治療も、根本的に其の人の内部精神の
不安動揺その他の混輻輳(コンプレックス)を治療する事は出来ない。
ただ内部精神の混乱より来る結果を修正するのである。

その修正だけでも尊い事であるから医術を攻撃する事も非難する事も要(い)らない。
ただ医術を信頼するのあまり、内部精神の混乱動揺をそのまま解決しないで置く事が悪いのである。

医術で結果を修正せられて、一時病気が去った様に見えながら、又再発するのは、
心の中にある病的種子が根本から抜き取られていないからだ。

           <感謝合掌 平成29年8月6日 頓首再拝>

「心」が万事に先行する - 伝統

2017/08/12 (Sat) 04:10:28


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月12日>(P49)より

列車に乗ってその列車が転覆したからといって、その列車に乗せた駅員が悪いのではない。
転覆するような列車に乗るのは、乗ったその人自身にその列車に乗るようになっている
「心」があったからである。

「心」が万事に先行するとういうことを知る人は不幸に逢っても、
他を憎んだり恨んだりするものではない。
自分の「心」がそれを造ったということを知っているからだ。

列車に乗って不慮の災難に逢うことも、
人の口車に乗って不幸に陥ったり物事が失敗に終わるということも、
「乗る」のは、自分がその乗物に引きつけられて乗ったのだから
、自分自身の「心」の中に原因があるのである。

他(ひと)が「悪い、悪い」と思っている人は、
要するに責任を他(た)に転嫁する卑怯者のことである。

人間は強くなるにしたがって、いっさいの原因を自分自身に帰するようになる。
そして聖者と言われるほどの人になると、衆生の一人でもまだ苦しんでいる者があると
自分自身の責任だと感ずるものである。

世界のすべての人類が「光明思想」を知らず、また知っても十分実践せず、
不幸に沈淪(ちんりん)している者があるのは、わたしの宣伝が足りないからなのである。
皆わたしの罪なのである。

         <感謝合掌 平成29年8月12日 頓首再拝>

心は、微生物、病菌に作用す - 伝統

2017/08/16 (Wed) 04:16:06


       *「光明法語」(8月15日~16日)より

《八月十五日の法語 微生物と念の感応》

近頃、柴田酵素や渡辺酵素で肥料を速成して、
その施肥効果により二倍増産三倍増産を得る事が可能であると説くものがある。

実際試みて何等効果がなかったと言うものもあり、効果著しかりしと言うものあり、
批評まちまちであって一定の結果を得ない。

農事試験場では実際上効果なしとして一旦否定したるも、
此の種民間の評判高き故、もう一度実験して見ると云うことである。

酵素は微生物の生産物である。
微生物は人間の念に感応し易い。

念によって効果を異(こと)にするは当然である。

・・・

《八月十六日の法語 斯く心は病菌に作用す》

嘗て、千葉大医科と、慶応大医科とで、チフス菌は鼠の腸内にて殺菌消化されて
形を止めなくなると言い、一方は然らずと言い、両大学にて各々実験を行い、両方とも自己の
主張する通りの実験の結果を得、孰(いず)れにも勝敗決せずして物別れになった事があった。

同一程度の重症の結核患者で、一方は暗く悲哀と絶望の精神をもち、
他方は明るく楽天的なる精神をもったとせよ。

明るき楽天的なる精神の者は快方に向かい、
悲哀と絶望に沈みたる者の結核菌は益々繁殖して病は増悪する。

         <感謝合掌 平成29年8月16日 頓首再拝>

ものを見ず心を見よ - 伝統

2017/08/26 (Sat) 04:16:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月26日>(P64)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心(こころ)病(や)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。
自分が貧弱なままで諦めておれということではない。

自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

         <感謝合掌 平成29年8月26日 頓首再拝>

心は薬よりも力がある - 伝統

2017/09/12 (Tue) 04:24:42


      *「思考のすごい力」ブルース・リプトン(著)(P227~232)より

医療の現場でも多くの人がプラシーボ効果に気がついている。
だが、一歩踏み込んで、自然治癒との関連について
深く考えてみる人がほとんどない。

もしも肯定的思考でうつ病や膝の痛みが治るならば、
否定的な思考はいったいどんな影響を人生に与えているのだろうか?

プラシーボ効果は、心が肯定的思考によって健康をするという現象だ。
同じ心が、プラシーボ効果とは逆に、否定的思考によって健康を損なうこともある。
これは“ノーシーボ”効果と呼ばれる。
(医者から否定的なことを言われるとこのノーシーボ効果が働く)

医療に於いて、ノーシーボ効果はプラシーボ効果と同じくらい
強力な効果を発揮し得る。

医者に診てもらうときにはいつでも、
これを頭においておくことをおすすめする。
医師の言葉や態度が、希望が萎えるようなメッセージを
患者に伝えることもあるからである。

(中略)

1974年のこと、ミーダ―はサム・ロンドという退職した靴セールスマンを診察した。
ロンドは食道がんを患っていて、あとは死を待つばかりというのが当時の診断だった。

がんに対する治療がほどこされはしたが、医者も看護師も皆、
ロンドの食道がんは治らないことを「知って」いた。

診断が下ってから数週間前後にロンドは亡くなったが、当然のことだと考えられた。

ところが、ロンドの死後、驚くべき事実が判明する。
解剖してみたところ、がんの進行はたいしたものではなく、
とうてい死ぬほどのものでもなかった。

小さな腫瘍が肝臓に2,3ヵ所と肺に1ヶ所あるだけで、
食道がんはまったく見あたらなかった。
食道がんで亡くなったはずではなかったのか?

ミーダ―は番組で語っている。
「彼はがんのために亡くなったのですが、がんが死因ではなかったのです」。

死因がガンでなかったのなら、いったい何がロンドを死に追いやったのだろうか?
自分が死ぬと”信じていた”ために死んでしまったのだろうか?

(中略)

このように、ノーシーボ効果が取り返しのつかない結果を招いた例は他にもある。

考えてみると、ノーシーボ効果は他人に影響を及ぼす可能性がある。

あなたが、医師や親、教師などから、自分が無力だと信じこむようにプログラム
され、希望を奪われてしまうこともあり得る。

肯定的な考え方や否定的な考えは、健康だけではなく、
人生のすべての局面に影響を与える。

ヘンリー・フォードいわく、
「できると信じても、できないと信じても、・・・・いずれにせよ、
現実は信じた通りになる」。

(中略)

信念というものは、カメラのフィルターのようなもので、
世界の見え方を変える。
そして、生体の機能はそういった信念に適応して変化する。

信念がそれほど力をもつことを本当に認識できたならば、
そのときこそ、自由への鍵が手に入る。

(中略)

ここで大事なポイントは、何を見るのかは、自分で選択できるということだ。
あなたは信念を通して人生を見ることができる。

恐怖の人生を送るのも愛の人生を送るのもあなた次第だ。
選択権はあなた自身にある!

もしも愛に満ちた世界を見るほうを選択したならば、
それに反応して細胞尾の活動が活発になる。

また、もし恐怖に満ちた暗い世界に生きるほうを選択したならば、
あなたの身体は生理的な防御状態をとって、それ以外の活動をやめてしまい、
健康状態は危機に瀕することになる。

身体を構成する細胞の活動を促進するには、どのように心を使ったらいいのだろうか?
それこそが生命の秘密である。

といっても、生命の秘密は秘密でも何でもない。
人生をコントロールしているのは遺伝子ではなく思考である。

・・・ほんのちょっとした思考が鍵なのだ!



マハトマ・ガンジーの言葉

  信念が変われば 思考も変わる

  思考が変われば 言葉も変わる

  言葉が変われば 行動も変わる

  行動が変われば 習慣も変わる

  習慣が変われば 人格も変わる

  人格が変われば 運命も変わる

         <感謝合掌 平成29年9月12日 頓首再拝>

《心の映写機構》 - 伝統

2017/09/29 (Fri) 03:36:41


       *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P221) より

人が事物の成就に失敗するのは、
心がその成就を裏付けるような心境になれないからである。

宇宙に無限に存在する“善き物”を現象界に持ち出すための、
「心の映写機構」がまだ完全に整わないからである。

 
現在、如何なる失敗があろうとも、
個々の現象的な失敗はそれほど重大視する必要はないのである。

最も重大視しなければならないのは、個々の失敗そのものではなく、
個々の失敗をあわらわすようにならしめたところの「心境」そのものが
今も尚続いていると云うことである。

人間の潜在意識にあるところの「失敗の傾向」と云うものを取り除かない限りは再び、
三たび、そして幾度もその人は失敗するのである。

その人が日々に少しでも一層明るく、一層よき物を表現しつつあるならば
その人の潜在意識内容は改善されつつあると見てよいのである。

         <感謝合掌 平成29年9月29日 頓首再拝>

《商売繁昌も健康も心の問題である》 - 伝統

2017/10/17 (Tue) 03:26:37


       *『 生長の家 』(昭和16年1月29日の法語)より

   商売や仕事と雖(いえど)も根本は
   物質的問題ではなく、心の問題なのである。

   心の誠実さが 客を呼び、
   誠実なるサービスが 繁栄を齎(もた)らすのである。

   心なき商売や、心なき仕事は
   失敗し衰微するほかはないのである。

   肉体の健康の問題も 単に物質的問題ではないのである。

   肉体は 無数の細胞によって組織せられており、
   その細胞には一つ一つ精神があるのである、

   胃腸の細胞を考えて見ても、
   唯(ただ)溶けた物質を何でも吸収するのではなく、

   人体に必要なものだけを選択的に吸収して
   同化しようとする智慧があるのである。

   吾々の心の状態は これら細胞の心に影響を与えて
   肉体を健不健にするのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51


         <感謝合掌 平成29年10月17日 頓首再拝>

【私たちは見るものすべてに影響を与える】 - 伝統

2017/10/31 (Tue) 03:16:58


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月26日)」より

   (パム・グラウト氏の心に響く言葉より…)

   2015年8月、科学雑誌の「ネイチャー」で世界を驚かすような研究が紹介された。

   ここにあるもの(たとえば私たちの思考)が、
   向こうにあるものに影響を与えるということが、ついに証明されたのだ。

   遠く離れた物体が互いに影響を与え合うというのは、
   量子論の核となる考え方の一つだ。

   二つのダイヤモンドを約1キロ離れた場所に置くと、
   それぞれの中にある電子が、同時に回転する方向を変える…
   これはたしかに、伝統的な物理学にとっては衝撃的な発見だ。


   実際のところ、この種の実験はすでに1970年代には始まっていたが、
   オランダのデルフト工科大学で行われたこの実験は世界に衝撃を与え、
   「ニューヨーク・タイムズ」紙をはじめとする世界中のメディアで
   大きく取り上げられた。

   この実験によって、地球上の存在がすべてつながっていることが証明されたからだ。

   言い換えると、私たちの意識には、
   とてつもなく大きな力があることが証明されたのだ。


   ドイツ人物理学者のハイゼンベルクによると、
   人は自分が見ているものすべてに影響を与え、変化させる。

   何かをただ見るだけで、その何かの分子を変え、原子を変え、
   エネルギーを変えるほどの力を発しているということだ。

   私が何かを見ても、私が何かをしても、
   この世に存在するすべてのものに影響を与えている。


   プリンストン大学物理学教授のジョン・ホイラーは、
   「諸君、申し訳ないが、自分はただの観察者だという考えはもはや通用しない」
   という有名な言葉を残した。

   どんなときでも、見るものすべてに影響を与えている。

   ホイラー教授は、この現象を「深くて幸福なミステリー」と呼んでいた。


   私たちは見るものすべてに影響を与える。

   自分の中にある偏見、思い込み、意見を世界に反映させ、世界の姿を変えている。


   感謝の気持ちで世界を観察すると、
   美しいものや、すばらしいものばかりが目に入る。

   その状態になると私たちは、
   今度は愛や魔法、奇跡のエネルギーを放出するようになる。


   つまり、「すべてはつながっている」と信じるだけで、
   宇宙のエネルギー・フィールドに感謝と喜びのエネルギーを送り出すだけで、
   本当に世界を変えられるということだ。

   これはすごいことだ。

   自分が幸せになると、地球全体も幸せになる。


   カリフォルニア大学サンディエゴ校のジェームズ・ファウラーと、
   ハーバード大学のニコラス・クリスタキスが行った研究によると、
   ただ誰かの慈善的な行動を観察するだけで、
   自分もいいことをするきっかけになるという。

   以前、あるカナダ人の男性からこんな話を聞いた。

   ドーナツショップへ行ってコーヒーを注文したところ、
   もう支払いは済んでいるのでお金はいらないと言われたそうだ。

   彼の前に注文した人が、次の人の分も払っていたからだ。

   彼はその行動に触発され、自分も次の人のために支払うことにした。

   そのドーナツショップで働く近所の人と後で話したところ、
   「次の人の分を払う」という連鎖は4時間半も続いたという。

   純粋な慈善の精神が、こんなに長い時間、途切れることなく続いたのだ。

   これはささいな出来事ではない。

   たった一つのいい行いは、何倍にも大きくなり、巨大な愛の力になる。

            (『「感謝」で思考は現実になる』サンマーク出版)

              ・・・

船井幸雄氏は『百匹目の猿現象』というのを提唱していた。

『百匹目の猿現象』とは、宮崎県の幸島で、
たった一匹の猿が始めた、イモを川で洗って食べるという習慣が、
幸島全体に広がっただけでなく、ほとんど同時期に、遠く離れた
まったく交流のない島にまで広がった現象のことを言う。

つまり、よいと思うことを一定数の者が共有すると、
まったく交流のない遠く離れた場所まで一気に広がり伝わっていくということ。

そして、船井氏は集合意識の大切さを説いた。


「自分は関係ない」とか「みんなが勝手にやればいい」という、
さめた目で、虚無的に、投げやりに生きようとしても、
それはもう通用しないということ。

なぜなら、いくら傍観者(ぼうかんしゃ)や評論家をきどっても、
それが何人か集まれば、必ずどこかで何らかの影響を与えているからだ。

いいにしろ悪いにしろ、我々はこの世に何らかの影響を与えている。

だからこそ、同じ生きるなら、いい影響を与えてこの世を去りたい。


「私たちは見るものすべてに影響を与える」

見るもの聞くもの、すべて感謝の気持ちで受け止めたい。

         <感謝合掌 平成29年10月31日 頓首再拝>

現在意識と潜在意識 - 伝統

2017/11/09 (Thu) 04:45:54


       *「光明法語」(11月8日~9日)より

《心の照準は現在意識》

「我みずからにては何事もなし得ず、
天の父われに在(いま)してみ業をなさしめ給うのである」
とイエスは言った。

癒すのは「天の父」即ち神であり、われではないのである。
われは、心の照準を定めて引金を引くだけである。

心だけ正しい方向にむけて神の力の自働するのに任せて置けば好いのである。
みわざは内在の爆発力がなし給うのである。
内在の爆発力とは、神である。

照準を定めるのは現在意識であり、現在意識の志向を潜在意識の中まで落すのが、
「引金を引く」ということである。

・・・

《如何なる観念が潜在意識に入るか》

現在意識がボンヤリしている時に突如として投げ込まれた強烈なる印象
又は明確なる観念は、潜在意識の中に深く種子を蒔かれるものなのである。

催眠状態中の暗示は勿論、朝眼が覚めた直後の自己暗示や、
就寝後の眠りを催し来る直前の自己暗示や、診察中に医者の態度に気をとられている
最中に医者の偶然漏らした言葉や、

両親が子供を叱りつけた時、子供は呆然としている、
其のとき親の言った言葉などは深く潜在意識に刻みつけられて、
やがて芽を吹き実を結ぶ事にもなる。

         <感謝合掌 平成29年11月9日 頓首再拝>

「心はすべての造り主」 - 伝統

2017/11/23 (Thu) 04:52:17


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月23日)より

人間の心の思いは動力であることを知らなければなりません。
心に描いたことが形にあらわれるのであります。

このことは何度繰り返しても繰り返しすぎるということはないくらい
重大な問題なのであります。

キリストは「

まず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。
その余(よ)のものは汝らに加えらるべし」

と教えられました。

具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先立ってまず心の世界に、
神の国を描くことが必要なのであります。

「もし芥子種ほどの信だにあらばこの山に動いて
海に入れと言うといえども必ず成らん」とキリストが言われたのも、
実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、
神の国にあるいっさいのものがこの世に実現するということであります。

すべての地上の建造物は、
まず建築家の心の内に描かれたものが実現したのであります。
原子爆弾といえども科学者の心の内に描かれたものが実現したのであります。

「心はすべての造り主」と言われている所以(ゆえん)であります。

物質はみずから自発的に動いて一定の形をとることはできません。
湯呑みが勝手に歩いたり、万年筆が勝手に動いて文章を書くということもありません。

ブランシェット(心霊現象の自働書記でお筆先を書く道具)が
自働して文字や絵を書くのは、その道具が勝手に動くからではなく、
それを動かす霊があるからです。

われわれの肉体細胞の成分が一定の姿に配列されて
健康になるのも病気になるのも皆心の働きです。

         <感謝合掌 平成29年11月23日 頓首再拝>

心の寸法に合っている - 伝統

2017/12/12 (Tue) 03:58:44


           *「光明道中記」(12月12日至誠神に通ずる日)より

【神は全存在(すべて)であるから誠ある人にのみ其の無限力を現わし給う。
                        (『生命の實相』第四巻)】 

神の恵みは《既にある》には相違ないけれども、
それはレディーメードではないと云うことである。

神の恵みはそんな安物ではないのである。
尤(もっと)もどんな安物も神の恵みの倉の中にあるのである。

神は労働服地も、大礼服地も、背広服もモーニング地も用意していられる。
そして吾々の注文に従ってそれを仕立てて出して下さるのである。
神の作りたまう吾々への供給は、どんな安物服でもピッタリと
各人の心の寸法に合うのである。

どんな貧しさもその人の心の寸法に合っている。

彼がその貧しい境遇と称(よ)ぶ服を着ているのは、
神様のレディーメードではなく、

彼が困難と戦って魂の貴(とうと)い鉱石を発掘するためには、
その貧しい服装が丁度都合がいいと言って、
彼の心が誂(あつら)えたものなのである。

それは無意識に誂えたのかも知れないが、
兎も角彼の心が誂えたものなのである。

自分の今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである。
兎も角、今着せられている「境遇」と云う服装で吾等は善処しなければならない。
 
今労働服を着ている人は、
その労働服が擦り切れてしまうまで働かなければならぬ。
その後に新しい服が与えられるであろう。

         <感謝合掌 平成29年12月12日 頓首再拝>

信念を伴った決意、素描、実行 - 伝統

2017/12/15 (Fri) 03:38:28


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より

決意、心の世界における素描(そびょう)、その素描の上に絵の具を塗る実行、
それは絵師(えかき)だけのことではない。
人生の画布(カンパス)の上に実生活の絵を描くところの人間の一生もそれである。

真に富者(ふうじゃ)となるには、「われすでに富めり」の素描を心の中に描き、
それを実践に移さなければならぬ。しかし富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。
多くの人たちは富とは物質の所有であり、物質を所有することによって
生活の安全感と優越感とを確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。

さればキリストは、「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に入(い)ことの
難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」と言ったのである。

真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ
・・・挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに
満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき有限なる狭き美しさではないのである。

何よりも富とは外界の物質そのものではなく、そこから引き出し来(く)る
悦びの豊富、美の感受能力、鑑賞力の豊富さであることを知らねばならない
のである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、
山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、樹々(きぎ)緑したたる美しさはわからない。

彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、無限に豊富なる美の宝庫の
中に入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを知らず、
ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。

しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、腐肉を追い、
魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、

ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、それは人間として与えられたる
至高の特権を放棄せるものと言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。
精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

決意、素描、実行

 ―― これは心が形の世界に顕(あら)われる3つの要素である。

         <感謝合掌 平成29年12月15日 頓首再拝>

思う通りになる世界 - 伝統

2017/12/19 (Tue) 02:46:39


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月20日)より

この世はままならぬと思う者には、まことにこの世はままならぬ世界である。
これに反して、この世は思うとおりになる世界だと思う者には、
まことにこの世は思うとおりになる世界である。

環境は人間に支配されると思う者には、環境は人間に支配されるが、
人間は環境に支配されると思う者には、環境は頑としてその人の上に暴君的力を揮うであろう。

そのこと自身が環境は自分の思うとおりのものであること表している。

            <感謝合掌 平成29年12月19日 頓首再拝>

心が病気を作り、心が病気を治す - 伝統

2018/01/05 (Fri) 04:43:07


   *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P252~254) より

《苦痛は心にある》

若しあなたの肉体に苦痛が起って来た場合、
その苦痛を実在だと思ってはなりません

苦痛と云うものは心の状態なのです。
肉体は単なる物質として存在する限り苦痛は感じられない筈です。

所謂る「物質」には知覚がないからです。
心が苦痛を感じ、心が苦痛を「実在」として感ずる限りに於て
苦痛は益々増大するのです。

あなたの腋の下を人にさわらせて御覧なさい。
心がそれを気にもとめねば何ともないのです。
心がそれを擽(くすぐ)ったいと気にし始めるならば、
いくらでも擽ったくてたまらなくなるでしょう。

物質的事実はそれを心につかまなければ何ともないのです。
心にそれをつかみ始めるとき苦痛や擽ったさがでて来るのです。
「病気だ」と思うとき、心がその病気をつかみます。

其処から苦痛がはじまるのです。

・・・

《「間違ったレントゲン写真」》

集団検診で自分の胸部のレントゲン写真をとって貰って、
そこに大きな黒い影や空洞が写っていることを指摘せられます。
そして明らかに肉眼で見て、自分は結核に侵されているのだと信じます。

すると、今まで元気であった活力が肉体から抜け去り、
無限の疲労感が全身に覆いかぶさって来てほとんど動けなくなります。

ところがそのレントゲン写真は、番号の隣の人のレントゲン写真であって、
写真の順序がくるっていたので間違ったのだとわかった時には、
一ぺんに其の人の疲労感や、胸の重圧感はなくなって、
活力が全身にみなぎって元気になって来ます。


胸を結核菌にやられていると云う考えを捨てなさい。

胸を結核菌におかされていると思って常に胸に心を集中していると、
其処に血液は停滞し充血を来(きた)して新陳代謝が不完全となり、
若し病菌がいるならば却って病菌が繁殖し易くなるのです。

心が病気を作り、心が病気を治すのです。

         <感謝合掌 平成30年1月5日 頓首再拝>

脳髄から発する精神力は、生命の前哨戦に立つ斥候のようなもの - 伝統

2018/01/06 (Sat) 04:35:10


           *「光明道中記」(1月6日父と偕(とも)にある日)より

【我れみずからは何事もなし能(あた)わず、
 父は子を愛してその為す所を悉く子に示し給う。(ヨハネ伝)】

精神力とか心の力とか言われるものは、語(ことば)の使い方にもよるが、
概(おおむ)ね本源の力を指すものではない。
それは本源の力が脳髄的ラジオセットに触れて副次的に反射して生じた力である。

それはラジオセットに生じた一種の電磁気的波が
放送局の波を捉えて吾々に美しい音楽を聞かせてくれるかのように、
宇宙本源の霊の力を捕捉(キャッチ)する媒介になる。

併し、吾々の心が何事をも為すのではなく、それによって捕捉せられたる
宇宙本源の霊の力がすべての事を為すのである。

所謂る精神力が第一次的生命そのものでないのは、
脳髄を破壊すれば精神力はあらわれなくなるので明らかである。

併し、精神力が消えようとも、脳髄を創造(つく)った力は消えるものではない。
精神力が現れない前に脳髄が造られたのである。
甲の脳髄が破壊されて、甲の精神力が消えたときにも、脳髄を創造ったところの
神秘なる生命力はまた乙の脳髄、丙の脳髄を創造り出すのである。

脳髄から発する精神力は、生命の前哨戦に立つ斥候のようなものなのである。

併し斥候だからとて軽んじてはならない。
斥候の指し示すところへ本隊は導かれて進む。

            <感謝合掌 平成30年1月6日 頓首再拝>

《「心」は人生航路の船長》 - 伝統

2018/01/24 (Wed) 03:35:06


      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P309) より

人生はみずからそれの自然の流れに逆らわないで、
“そのままの心”で人生の航路を渡るならば、
そんなに困難な世界でないのである。

すべて人生に於て与えられるものは、科学の世界に属するものも、
霊の世界に属するものも、法則を通じて与えられるものなのである。

そして其の法則を発見するのは「心」であり、
「心」が法則を発見する方法は、「調心」と「研究」とである。


「研究」に一心になるとき、心がそれに統一されて
おのずから「調心」が得られるのであるが、
研究が正しい方向に向かっているかどうかを知るのは
「調心」即ち心を整えることによってである。

ただ遮二無ニ努力して航海をつづけるだけでは
暗礁に乗り上げるかも知れないのである。

「心」は船長であり、正しい方向に行動の舵をとらなければならない。

            <感謝合掌 平成30年1月24日 頓首再拝>

実際に起きないことで悩むと身体が壊れる - 伝統

2018/02/09 (Fri) 03:15:07


         *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
             ~斎藤一人・著(P53~55)より

悩みや心配事があるときって「大丈夫だ」とは思えないよね。

そんなときはまず、その悩みや心配事に対して、
少しでもいいから自分が対処できることを考え、行動してみるんです。

(中略)

たとえば、あなたの目の前に梅干しが山ほどあって、
それを一つずつ食べることを想像してみてください。

どうですか? 

実際に梅干しを食べていないのに、口の中に唾液が広がりますよね?
 
つまり「思い」は必ず身体に影響を与えます。
 
実際に起こっていないことでも不安を持つと、
身体には交感神経の働きを高める物質の
脳内ホルモンが分泌されて、血管が収縮するんです。

だから身体の血液の循環が悪くなります。
同時に筋肉も硬直して、血の巡りも悪くなるの。
 
血液は身体の細部に栄養を運び、
同時に老廃物を持って帰るという作業をしてくれます。
これが、筋肉が硬直するとできなくなってしまうんです。
 
それで、悪いところ、弱いところにその毒がたまり、
それが病気の原因になってしまうことがあるんだよ。

日露戦争のときに、二百三高地のような零下何度という寒さの場所で、
寝ないで"撃ちあい"をしても、多くの人はそれが原因で病気になることは
ありませんでした。
 
それぐらい人間の身体は丈夫につくられているのに、
実際に起こってないことで身体に負荷をかけ続けていると、
人の身体は壊れてしまうからね。

           ・・・

   想像力はもっといいことに使いなよ。

   とにかく自分がしあわせになるイメージ。
 
   そのためにできることをやるんだよ。

            <感謝合掌 平成30年2月9日 頓首再拝>

《潜在意識の驚くべき智慧》 - 伝統

2018/02/25 (Sun) 03:54:18


       *『生活の智慧365章』
         ~(第4部繁栄の泉)第12篇(P311~312) より

生理作用を司るところの”心”は、
私たちには”気のつかない心”(無意識の心)である。
此の”心”を潜在意識と言う。

ハッキリ何事かを思い浮かべたり、
意識したりしている”心”を現在意識と言う。

無意識の領域は現在意識に比べるとズッと広く、
其処にはあらゆる記憶が蓄積されており、
またそれは緊急事態に応じて色々に生理作用を調節するための
複雑な計算が暗黙のうちに行なわれているところの
驚くべき智慧ある意識である。

それは、眼なくして、胃袋に入って来たところの食物が
何であるかを知ることが出来、それに対応するための適当な消化液を出し、
消化した物質を選別して、排泄すべきものは送り出し、
吸収すべきものは吸収し、吸収した成分の中(なか)でも、
その成分を何処(どこ)に如何なる形に結合してよいかを
知っている極めて叡智的な”心”である。

この叡智的な”心”を人間が蒙(くらま)さないようにするならば
人間は常に健康であられるのである。
(アレキシス・カレル著『生命の知恵』日本教文社発行)

            <感謝合掌 平成30年2月25日 頓首再拝>

《生命力は工員、潜在意識は建築技師》 - 伝統

2018/03/12 (Mon) 04:54:17


       *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P316) より

常に若くあるためには、常に新しく造られつつある肉体を、
それが構築される時「老(おい)」の観念を潜在意識に印象しつつ
肉体組織をつくってはならないのである。

私たちの”生命力”は黙々として働く「建築工員」のようなものであり、
”潜在意識”はその工員の働きを一定の設計の下(もと)に指導する
「建築技師」のようなものである。

その「建築技師」を雇っている「施工主(せこうぬし)」のようなものが
”現在意識”である。


潜在意識はその奥底に宇宙の叡智を具(そな)えており、
それを「そのまま素直」の状態にあらしめれば、
完全に健康に肉体をつくり上げるのであるけれども、

その潜在意識には「人類意識」からの「人間は年齢によって老いた形になる」
と云う放送があり、現在意識からも「この肉体はもう幾歳だよ。だから
その年齢に相応した肉体の状態になるのだよ」と言う暗示が与えられる。

「施工主(ぬし)」から暗示されれば如何なる建築技師も
その指示通りに肉体を造らざるを得ないのである。

            <感謝合掌 平成30年3月12日 頓首再拝>

《運命は心の展開》 - 伝統

2018/03/28 (Wed) 03:20:33


       *『生活の智慧365章』(第1部)第2篇( P53) より
     
何人(なんぴと)も幸福を求め、裕(ゆた)かさを求め、
健康を求めているけれども、それが得られないのは、
反対の方向にむかってそれを求めているからである。

人間の幸福を、或る特定の物質とか、ある特定の位置とか、
或る特定の場所とかが与えるものだと考えるならば、
それは本当に幸福が存在しない場所にそれを求めている事になるのである。


人間の運命というものは、自分の心の展開であるから、
自分の心を調えることが先ず第一であり、
自分の心に実相の完全さを常に観ずるようにしていると、

自然に現象界に於いて、内から催して来る自他の動きが、
実相の完全さを現象化するように展開して来て、
幸福・繁栄・健康等(など)が得られて来るようになるのである。

            <感謝合掌 平成30年3月28日 頓首再拝>

脳髄以前の「心」 - 伝統

2018/04/07 (Sat) 03:58:05


        *「光明道中記」(4月7日 必ず知人一人を光明化する日)より

【五官に顕れる状態で喜悲(きひ)する者は五官を信じているので神を信じていない。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

眼は物を視(み)ない、耳は音を聴かない、脳髄は《もの》を考えない。
視るのは心であり、聴くのは心であり、考えるのは心である。
心は自分の便宜のために眼を創造し、耳を創造し、脳髄を創造したのである。

ここに言う「心」とは脳髄から出る作用ではない。
脳髄を設計したところの「心」である。
それは脳髄以前の「心」であるから「生命」と同意義に解しても可(よ)い。

「生命」は《常に》ある。
併し脳髄は破壊する。眼球も破壊する。聴官も破壊する。
併し、破壊するものは《常にある》ものではない。

途中から造られたもの、暫定的なもの、ただの機関に過ぎないもので、
「生命」そのものではない、「人間」そのものではない。

人間は死なないものである。

常に破壊しつつある機関の中にあってそれを操縦しながら、
永遠に死なないところの機関手が「人間」なのである。

その機関の材質は、「固定的な物質」で出来ているものならば、
それが摩滅し、摩損したときに取換に不便であるかも知れぬが、

それは「エーテル」と一時科学者が名付けたところの
「無」を材質として、それを心の波でどんな形にでも造構したものであるから、
どんな破損でも摩滅でも「心」でそれを修繕し得るのである。

            <感謝合掌 平成30年4月7日 頓首再拝>

家が建つことも、心の力 - 伝統

2018/04/09 (Mon) 03:39:08


           *「光明道中記」(4月9日 善事のみ心に描く日)より

【心そのものは吾らの本体にして病気になることはない。(『生命の實相』第四巻)】

心に描くことが第一の創造である。
心に描いた通り形にあらわれるのは第二の創造である。

家は建ち上ったとき初めて建ったのではなく、
それは設計家の心に出来上がったとき既に立ち上がったのである。

それよりも更に遡(さかのぼ)れば、漠然たる建築主の心の中に何となく家を
建てたくなったとき、既にその家は建っているのだとも言えるのであろう。

或る地方では食事のときにする遊戯に「茶柱が建つ」と云って、
湯呑(ゆのみ)に注(つ)いだ茶の茎(くき)が縦になって浮き上るのを楽しんで、
左手で箸で拾い上げて袂(たもと)の中に祝福しながら入れる風習がある。

盛んに茶柱が立つときには、その人の運勢は盛んであり、家なども盛んに建つ。

昭和10年どこへ往っても私の茶碗に注がれる茶には不思議に「茶柱」が立ったと
言っていると、本部の改築が出来上る、光明思想普及会の新社屋が出来上がる、
原宿の学生寮が新築される、家庭光明寮の第三寄宿舎「愛泉寮」が新築される、
研究室の新設等・・・建つ、建つ、建つ・・・

形あるものは、その奥にその形に相応する心の波動(アイディア)が動いているのである
から、自分の心の世界に「すべて立つ」アイディアが動き出すと、
現象界の事々物々にそのアイディアが映し出されて具象化するのである。

            <感謝合掌 平成30年4月9日 頓首再拝>

感覚の転移 - 伝統

2018/04/11 (Wed) 03:42:33


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月11日)」より

『天地の言葉』の中に書いてあるイタリアの大医ロンブロゾー博士の取り扱った患者が、
感覚の転移を起こして眼球以外の器官をもって物体を見たということについて、
その事実の出所を知らしてくれという詩友からの手紙が来た。

これは1919年フランス学士院賞を受けたセブラユー博士の
『死後の運命』という本の中に、ロンブロゾーの言葉が引用してあるのである。

「1891年のこと、予は医学上の経験においてまったく思いがけない患者に遭遇した。
予は一日郷里に住む一高官の令嬢を往診することになった。

この娘は時おり激烈なヒステリーが発作し、しかもその症状は病理学上よりも、
生理学上よりも、説明し難いものであった。

すなわちその発作に臨んではまったく視覚を失うと
同時に耳をもって物を見ることができ、
目には目隠しを施しているにもかかわらず、
耳の前にかざした数行の印刷物を読みうるのである。

試みに拡大鏡をもって耳腔内に日光を反射せしむると、さも眩しげにしながら
『目が潰れてしまう』と叫び、なおこの発作中には自分の周囲に起こるべき
いっさいの事件を予言し、しかもその予断は極めて数理的に正確なものがあった。

なお、この感覚の転移はいたるところに起こったのである。
この事実はむろん現在のことではないが、実に奇怪の症状といわざるをえない。

予は当時心中に思えらく、今日の生理学や病理学ではとうていこの説明はむつかしい。
将来心霊学の発達によって、真理の開発される折を待つの外あるまい。」

ロンブロゾー博士は言っているのである。

ある人はそういう異常現象をもって人間全体に類推してゆくのはいけない
と抗議する場合もあるが、かかる異常現象は常人の域を超えて
心的能力がいっそう強く発現した場合であるから、

しかもやはり人間において発現した実例であるから、
人間を鼓舞して、常人を超ゆる域に達すべき鼓舞鞭撻の言葉として用いる場合には、
人間の成しえたるかぎりの能力の最高限度の実例を挙げて、
われらの能力をできるだけ強き程度に発現する機会を与えることが肝要なのである。

            <感謝合掌 平成30年4月11日 頓首再拝>

《体温計が麻痺(まひ)症を治す》 - 伝統

2018/04/24 (Tue) 03:26:00


         *『幸福を招く365章』第12項(P256) より

サー・ハムフリー・デービーは或る麻痺症の患者を診察して患者の体温を測るために、
体温計を患者の舌の下へはさんで暫(しばら)くじっとさせていた。

体温計を舌の下へはさんでいるうちに其の麻痺症は治ってしまったのである。
患者は始めての経験なので、体温計を病気を治す機械だと思い間違えていたのである。

水をモルヒネと信ぜしめられて注射されると疼痛(とうつう)の治る患者や、
饅頭(まんじゅう)のアンを丸めてドイツ新輸入の催眠剤だと教えられて、
不眠症の治った人もある。

これによっても治病の効果は、物質そのものの効果の上に著(いちじる)しく、
患者自身の信念が作用するものだと云うことが判(わか)るのである。

(初出~「生長の家(昭和25年10月28日)」)

            <感謝合掌 平成30年4月24日 頓首再拝>

どのような人生を歩むかは、その人の心が決めます。 - 伝統

2018/05/18 (Fri) 04:05:49


        *「天に守護され、運命が好転するスピリチュアル」
               ~ 洪正幸・著(P115~118)より

23 不幸を引き寄せる特徴と、幸運を引き寄せる秘訣  

不幸や不運を引き寄せてしまう人には特徴があります。
細かく分けるとたくさん数えられますが、
大きくとらえるとひとつの特徴が浮かび上がってきます

みなさんにも経験があるかと思いますが、仕事に行く時、
「嫌だな、行きたくない」と思いながら向かったり、
不平不満を抱えて作業したりすることがあるでしょう。

そうしたネガティブな思いを持って仕事をしていると、
嫌な事が起こったり、疲労が激しかったりいたします。

「今日は月曜日で出勤するのが嫌だな」と思って会社に行くと、
些細なことでヘマをして上司に怒られたり、取引先に叱られたりして、
ますます嫌な思いをしがちです。

嫌だという思いが、そのまま現実となって引き寄せられてしまうことがあるのです。

嫌々仕事をしている人は、ネガティブな気を発していますので、
周りの人にも影響を及ぼします。

不平不満や怒りなどを抱えている人がいると、
周りの人は無意識にそれを受け取って、その人に怒りや不満を感じ、
それに応じた対応をしてしまうものです。

ネガティブな現実を引き寄せてしまうのですね

嫌なことがあった時には、自分自身の中に嫌な出来事を
引き寄せるものがないかを確認してみましょう。

朝起きて感謝の思いを持ち、楽しみや喜びの感情を抱いて仕事に向かい、
仕事中も笑顔で過ごすようにすると、良いことや面白いこと、
楽しいことが引き寄せられて起こるようになります。

笑顔でニコニコしている人を見ると、周りの人も気分がよくなりますから、
その人に対して優しくしたり、好感を持って接してくれます。

道を歩いていても、笑顔で挨拶をする人がいれば、こちらも気持ちがほぐれて、
嬉しい気持ちになるのではないでしょうか。

ポジティブな思いには、ポジティブな出来事が引き寄せられます。

周りを見わたすと、同じことをしていても、ある人は怒られて、
ある人は笑って済まされることがあります。

《その人が不平不満を抱いていれば周囲は同じようなネガティブな感情を持ちますし、
楽しんだり笑顔でいたりするような人には、周りの人も好感を持って
笑顔で接してくれるものなのです。》


人間は皆、霊的な感性を持っています。
相手の思いをキャッチして、同じように応じてくるのです。

暗い思いで、暗い言葉を吐き、暗い目で世間を見れば、
世界は暗黒となり、あなた自身も暗い人生を歩みます。

明るい思いで、明るい言葉を使い、明るい目で世間を見れば、
世界は輝き、あなた自身も明るい人生を歩みます。

人の心は、現実を創り出す力を持っています。

《どのような思いを自分の心に植えていくかで、あなたの人生は変わります。》

心に刻んだ思いによって、同質の物事を引き寄せ、
周りの世界を組み立て、創り出しているのです。

「家が貧しくて、良い学校に行けなかったために、自分は望んだ人生を歩めない」
と嘆く人もいれば、

学校で満足に勉強できなかったからこそ学問の大切さを痛感し、
社会人になって一生懸命に学んで、成功をつかむ人もいます。

《悪い出来事はさらっと流し、良いことがあれば胸に刻んで、感謝して生きましょう。》

他者には感謝をし、自分に責任をもって反省する者は、
天から祝福され、明るい人生を歩みます。


どのような人生を歩むかは、その人の心が決めます。
どうか心の真の力を知ってください。
あなたの心の持ちようによって、未来は開けてくるのです。

《与えられた環境や状況があなたの運命を左右するのではなく、
あなたの心がどの方向を指し示すかで、未来は変えていける》のです。

            <感謝合掌 平成30年5月18日 頓首再拝>

《「心」は人生航路の船長》 - 伝統

2018/06/12 (Tue) 04:12:42


        *『生活の智慧365章』
           (第4部繁栄の泉)第12篇(P309) より

人生はみずからそれの自然の流れに逆らわないで、
“そのままの心”で人生の航路を渡るならば、
そんなに困難な世界でないのである。

すべて人生に於て与えられるものは、科学の世界に属するものも、
霊の世界に属するものも、法則を通じて与えられるものなのである。

そして其の法則を発見するのは「心」であり、
「心」が法則を発見する方法は、「調心」と「研究」とである。


「研究」に一心になるとき、心がそれに統一されて
おのずから「調心」が得られるのであるが、
研究が正しい方向に向かっているかどうかを知るのは
「調心」即ち心を整えることによってである。

ただ遮二無ニ努力して航海をつづけるだけでは
暗礁に乗り上げるかも知れないのである。
「心」は船長であり、正しい方向に行動の舵をとらなければならない。

            <感謝合掌 平成30年6月12日 頓首再拝>

人間は「思い込み」だけでも死んでしまう! - 伝統

2018/07/02 (Mon) 04:36:49


          *Web:東洋経済ONLIN(2015年07月24日)より
               ~エレーヌ・フォックス
                ( オックスフォード大学感情神経科学センター教授)
                「思い込みと恐怖」

(1)がんで死んだ患者はがんではなかった

  ①2005年にクリフトン・メドア博士が科学誌に発表した論文では、
   多くの臨床例を基に、この問題を重点的に取り扱っています。

   そこには末期の肝臓がんと診断され、
   余命数カ月と宣告された患者の例が報告されています。

   その患者は、告知後、がっくりと気落ちし、みるみる体力を失い、
   告知された余命すらまっとうできず死にました。

   しかし、驚いたのはその死後のことです。
   実は医師の診断が間違っていたことがわかったのです。

   患者はがんなどにはかかっていませんでした。
   彼は「自分はがんで死ぬ」と信じたせいで死ぬことになってしまうのです。

  ②1996年にレベッカ・フェルカーが発表した研究によれば、
   「自分は心臓病にかかりやすい」と信じている女性の死亡率は、
   そう信じていない女性の4倍にのぼったということです。

  ③こうした「思い込み」のバイアスは、よい方向に働く場合もあります。

   有名なプラシーボ効果はその一例です。
   その薬が、砂糖を丸めたものにすぎなくとも、有意に実際に症状が改善されます。

   「これを飲めば絶対に自分はよくなる」と信じて薬を飲んだり治療をうければ、
   その効果がより増すことが、統計的に確かめられているのです。

  ④がんでないのに、がんと誤診されたことで、具合が悪くなり死んでしまう
   男性の例のように、その逆をノーシーボ効果と言います。


(2)楽観脳と悲観脳

  ①悲観的な思い込みは悪いことのように思われがちですが、そうではありません。
   人間は危機を回避するため、両方のバランスをとれるように
   プログラミングされているとも言えるのです。

  ②リンダは30歳のときに、てんかんの治療のために扁桃体と
   記憶に重要な役目を果たす海馬の左部分を除去する手術を受けました。

   私が初めて彼女に会ったとき彼女は40代前半で、
   手術から10年このかた、ほとんど発作を経験してこなかったのです。

   外科医は海馬の切除で記憶に影響を受けることを心配しましたが、
   おそらく海馬の右側が残されたおかげで、そうした問題は起きていませんでした。

   しかし、ひとつ問題が起きていたのです。
   扁桃体を削除したことによって、
   彼女は「恐怖」を感ずることができなくなってしまったのです。

  ③人間にとってなぜ「恐怖」が必要なのでしょうか。

   そこには、太古からの進化のメカニズムの中で発達した
   人間独特の「危機回避システム」があるのです。

    (http://toyokeizai.net/articles/-/77748

            <感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>

《心の二つの傾向、貴方はどちらですか》 - 伝統

2018/07/13 (Fri) 04:23:49


          *『人生の秘訣365章』第6篇(P159~160) より

あなたは自分は暗い人間か、明るい人間か、考えて見たことがありますか。
あなたは物や人の明るい方面を観ようとする傾向が強いか、
暗い方面を観ようとする傾向が強いか、考えてみたことがありますか。

あなたは物を積極的に生かして使おうと考える性格か、
どうせ消耗品だと平気で物をゾンザイに扱う性格か考えてみたことがありますか。

あなたは全ての人に、事に、物に対して感謝の念を起すことが多いですか、
それとも人が親切にしてくれないとか、事物が思うように行かないと思って
不平の念を起すことの方か多いですか。

あなたが若し前者の方に属する傾向の人でありましたら、
将来あなたの運命は伸びる人なのです。

若しあなたが後者の方の傾向の強い人であったら、
是非とも前者のような心の傾向になるように努力しなさい。
屹度今までよりも幸福に繁栄に家庭全体が健康になるでしょう。

            <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>

心の「絞り」を調整する - 伝統

2018/07/18 (Wed) 03:59:44


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月18日)より

写真を写すにも、絞りを調整することによって、
その写真が上手に写ったり下手に写ったりするのである。

それと同じく現世をよくするには心の「絞り」を調整することが必要である。

内部が整うて、外界が整うのである。
何か外界に悪しきことが起こったら、まず内部を調整すべきである。

         <感謝合掌 平成30年7月18日 頓首再拝>

手相も人相も、心で変わる - 伝統

2018/07/30 (Mon) 04:25:00


      *『繁栄と健康』(P221~222)より

大学を飛び出して、ふらふらと放浪生活していた時分のことですから、
その心境が象(かたち)にあらわれて、一本も立派な線(すじ)がない。

運命線もなければ太陽線もない。
そして横の筋も漣の様なものばかりである。

私はその手の筋を見ながら、「私は放浪生活で一生終わらんならん。斯ういう運命だ」
と思っておりました。そう思っている間は運命がよくならなかったのです。

ところが生長の家で説いている真理を発見しましてから、
私の考え方が変わって来ました。

そうしますと手相が変わって来たのであります。
そして今では、縦のハッキリした筋が、運命線、太陽線、
それから何々線と名前は知らぬが掌を縦走する長い線が
四本も昇っている様になって来たのであります。

手相などというものは始終変わるものであります。
自分の心の状態に依って象が変わっていくものであります。
人相も自分の心の姿に依って変わってくるものなんです。

         <感謝合掌 平成30年7月30日 頓首再拝>

物質の原因は心である - 伝統

2018/08/02 (Thu) 04:03:19


         *「光明法語」(8月2日)より 

原因あって結果来る。精神科学も物質科学も同様である。

物質科学は物質にのみ原因をもとめるが、
吾らは、その物質は如何にして生じたるかを追求し、
それがエネルギーの波動であることを明らかにし、
そのエネルギーの波動は、智慧あり秩序ある
エネルギーの波動であることを明らかにし、

智慧あり秩序あるエネルギーとは、物質的なるものではなく、
心的なるものであることを明らかにし、

心によって物質の変化することを明らかにし、
心によって健康と運命をと支配するのである。

         <感謝合掌 平成30年8月2日 頓首再拝>

心の中の複雑混迷 - 伝統

2018/08/03 (Fri) 03:24:03


         *「光明法語」(8月3日)より 

精神科学の研究家は、病気の大部分は殆どすべて心に根源を発し、心によって病み、
心によって癒される事を知る。

併しながら、それは決して、「病気になる」と思ったから病気になり、
単に「病気は無い」と想ったから治ると云う様な単純なものではない。
病気なんて一切考えないのに病気になった人もあり、心はその儘で一時治る人もある。

人間の心の内部にはもっと複雑な混輻輳(コンプレックス)があるのである。
この混雑輻輳(ふくそう)極まりなき心の解剖とその浄化こそ真に癒す道である。

         <感謝合掌 平成30年8月3日 頓首再拝>

心の中にある病的種子 - 伝統

2018/08/06 (Mon) 03:15:29


         *「光明法語」(8月4日~6日)より

病気の種と土壌

病気のもとは、概ね複雑なる感情の抑圧から来る。
恐怖、不安、嫉妬、憤怒、悲哀、貪欲、惜しみ、憎み、口惜しさなどが
心の中には《ほどかれ》ないで残っているのが原因である。

子供の時の心的印象や、親からの衛生思想や、社会全般の通念や、
そんなものが種子(たね)となり、
その時その時の感情の混雑がその種子を培う土壌となって発芽する。

友人の話しや、家族親戚などの噂などが肥料となることもある。
時とすると通俗医学書の病気の露骨深いな説明も病気発芽の促進剤となる。

・・・

形の病気は内部の動揺の影

時とすれば、新聞広告にある栄養剤の広告や病状の説明やが、
知らず識らず「病気」の観念を植えつけて病気を起こす事もある。
健康に対する注意を与えられて、
その注意が却って病気の恐怖を植え付ける事もある。

植え付けられた病念の種子が、形の世界に芽を出して病気となるのである。
形の病気は内部的心の動揺の影である事が多い。

名医にかかるとか、舶来の新薬とかを用いると、
その事による注意の転換と安心とか、
内部的心の動揺を一時しずめて病気を治す事もある。

・・・

外部治療の効果は

如何なる外部治療も、根本的に其の人の内部精神の
不安動揺その他の混輻輳(コンプレックス)を治療する事は出来ない。
ただ内部精神の混乱より来る結果を修正するのである。

その修正だけでも尊い事であるから医術を攻撃する事も非難する事も要(い)らない。
ただ医術を信頼するのあまり、
内部精神の混乱動揺をそのまま解決しないで置く事が悪いのである。

医術で結果を修正せられて、一時病気が去った様に見えながら、又再発するのは、
心の中にある病的種子が根本から抜き取られていないからだ。

         <感謝合掌 平成30年8月6日 頓首再拝>

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