伝統板・第二

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放てば、自由② - 伝統

2016/11/20 (Sun) 03:17:59

    *伝統板・第二「放てば、自由①」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6464501


《縛りを解けば、病気は消える》

         *新講『甘露の法雨』解釈(P212~214)より

《心の縛りを解けば病気は治る》

そういうように、自分の“心”というものが、感覚に感じる物にひっかかると、
その現象にとらえられて、自分の“心”で自分を縛ることになるのです。

要するに病気というものは“心”で複雑に自分を縛るから起るのであって、
その縛る“心”の状態が色々あるので、その原因をつきとめて、
その“心の縛り”をほどいてしまえば治るのです。

だから、病気なんてものは恐ろしいものではないのであって、
“心”に描き“心”で縛るから形に現れる。

本来、“神”は“善”であって、
“善なる神”が造った“人間”に悪となる病気なんてないのであります。

その「心に描く」というのは、ただ「病気を想う」と言うだけではないのであって、
人を「憎む」とか「恨む」とか「腹をたてる」とか、「悲しい」とか「口惜(くや)しい」とか
「残念だ」とか、「貪る」とか、猜疑(さいぎ)心だとか嫉妬心だとか、

その他いろんなものが、
実相(即ち、神が造り給うた本来の相(すがた))を覆い隠して、
その心の醜い相というものが現れるのです。

その色々の心の乱れた相というものを取りのぞけば
本来の“善”なる相があらわれて病気は消えるのであります。

   
《“心の乱れ”を取除くには》

この心の乱れた相を取除くにはどうしたらよいかというと、
すべての人に物に事に対して「有難うございます、有難うございます」と
感謝の念(こころ)を起すことです。

感謝は1番平静なる心です。
悩まないところの心です。
”その儘受ける”という心です。

この”その儘受ける心”が
仏教でいうところの「雑行雑種の心をふり棄てて唯(ただ)他力に乗托する心」です。

その時、心の中のすべてのストレス(歪<ひず>み)が消え、
ストレスのあらわれである病気が消えるのであります。

吉川花子さんという熱心な誌友があります。
唯(ただ)今東海地方に移転しておられると思いますが、浜松の近在に生まれた方で、
数え年17歳位の時に「人間は何のために生れたか」と思い悩まれた。

人間界をズーッと見渡すと、
総ての人間は、事業をやったり、名誉を得たり、金を儲けたり、恋愛をしたり、
色々やっているけれども結局はみんなそんなものは此の世に置き棄(す)てて死んでしまう。

地上の人生の途中の出来事は、みんな迷いの産物である、最後は死ぬんだ。
人生の目的は“死”にあると彼女は考えたのです。
誰でも若い頃は大抵なかなか理想家であります。

”死”が人生の理想であると考えたらもう一途(ず)に
「私は途中の道草は食べないで人生の最後の目的にむかって一直線に行きましょう」と思って、
吉川花子さんは最後の”死のゴール”に突進すべく、浜名湖の深そうな所へ行ってドブンと
跳び込んだのです。

そして、
「これで〇ねる。人生の目的を達した。有難うございます。有難うございます。有難うございます」
と心で念じておりますと、ちっとも苦しくないのであります。

    *〇:死

「有難うございます」の感謝の念はこんなに力のあるものなのです。
花子さんは、気がついてみると首から上が水の上に浮いとったのです。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「無執着 (9518)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1806 
                               (消滅H28.11.20確認)

(2)光明掲示板・第三「無執無縛 (1208)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=250

(3)光明掲示板・伝統・第一「放てば、自由 (33)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=20

            <感謝合掌 平成28年11月20日 頓首再拝>

自在無礙 - 伝統

2016/11/21 (Mon) 03:50:29


          *「光明道中記」(11月21日)より

親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。

弟子が下手に音楽を奏するならば、その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。

禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、竹を憎むからではなく竹を愛して雪を払ってやるためである。

叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。

何事が起っても、淡々として空言のような顔をして空嘯(そらうそぶ)いている人には
深い味わいは感じられない。味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。

じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、味方のチームが優勝した
といっては歓喜の乱舞をしたい思い、病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・
現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、その時、その時の、出て来ることに
真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。

併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。
文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。

          <感謝合掌 平成28年11月21日 頓首再拝>

過去を放つ - 伝統

2016/11/24 (Thu) 04:26:22


          *「光明道中記」(11月24日)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。(『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。
先生でも人間が嫌いになることがあるのですかと言われると、仕方がない。

降参するほかはない。
実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、
熱いものは熱いと感ずるし、快いものは快いし、不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云うのだったら
私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、そうかも知れない。
ただ常人は一度熱いと執したら冷たい膾(なます)でも熱いと囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

          <感謝合掌 平成28年11月24日 頓首再拝>

「放つ」は開放する - 伝統

2016/11/28 (Mon) 04:35:04


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より

便秘はいかにして起こるか。

それは食物に関係して起こるというのは物質科学の解釈であるが、同一家族にして同一食物を
摂(と)りながら、一人は便秘し一人は下痢するという場合において考えるならば、
それはたんに食物を変更するだけでは治療せしめないのである。

フロイド流の精神分析によれば、それが肛門に関係した疾患であるから、
すぐに幼児期の性欲に連関して解釈しようとするのであるが、
そうすべてを汎性欲論で片づけてしまうべきではないのである。

便秘は肉体の心の影という方面から分析してゆくならば、
あらゆる種類のものを失うことに対する恐怖が具象化したものだと言うことができるのである。

金銭の喪失に対する恐怖、友を失う恐怖、愛情を失う恐怖、・・・等のごときはそれである。
これを一言(いちごん)にして言えば「把(つか)む」こころである。

把(つか)んで放たない心であるから、まず心を放下することを、何物にも引っかからず、
ゆったりと緊張を解く心に誘導すべきである。

恐怖はすべて把む心である。溺れるものは藁をも把む。

恐怖すれば手に汗を握る。(握るは把むである。)
すべての心が元であって、恐怖する念が起これば全身にその形があらわれるのである。

血管は収縮し、皮膚は収縮して肌(はだ)に粟(あわ)を生ずる。心臓も急激頻繁に把むがゆえに、
その鼓動を増加し、血圧は高まり、時として狭心症を生ずるのである。かくて恐怖する者は
直腸も肛門を収縮して「尻(けつ)の穴の狭い者」となり、排便しえない状態になるのである。


われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈(ゆる)す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。

他(ひと)を釈(ゆる)すことのできない者は「尻(けつ)の穴の狭い者」であり、
他(ひと)を害する心あるがゆえに、自分自身をも他(ひと)から害される恐怖があるのである。

かくて内臓も筋肉もすべてみずから把(つか)むことによって硬化し萎縮してしまうのである。
それを癒す道は、症状に対して直接的には「人間は神の子であるから、害されるものではない。
われ便通によって生きず、神の生命(いのち)によって生くるなり」と
大らかな気持ちになって心から便秘を放つのである。

そして間接的にはもっと根本的には、ゆたかに愛しゆたかに釈(ゆる)す念(こころ)を起こす
ことである。いやしくも人を釈(ゆる)さず、やっつけてやろうというような考えを起しては
ならないのである。

他(ひと)を傷つける心は自分を傷つけ、
他(ひと)を愛する心は自分を愛することになるのである。

・・・

<参考>

光明掲示板・第三「心身の癒やし」内「2014年12月08日」の記事【便秘】参照
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=399

            <感謝合掌 平成28年11月28日 頓首再拝>

《自己解脱によって祈りを成就せよ》 - 伝統

2016/12/13 (Tue) 03:56:47


        *『 生長の家 』(昭和33年9月13日の法語)より

   どんなに神に祈っても、問題が好転しない事があるならば、
   それはあなたが其の問題をつかみすぎているからである。

   祈りは既に成就して、それは現実化しようとして其の途上にある
   のだけれども、あなたが余りに問題を心でつかみ過ぎているために、
   その現実化の通路がふさがれているだけである。

   そんなときには、あなたの心を
   その問題から完全に放してしまうがよいのである。 

   『この問題を神様あなたにおまかせします。
   わが意を成さんとするには非ず。神の御心のままにならしめ給え』 

   と祈ることによって、自己解放をとげ、
   自分の心を自由にするがよいのである。

   『祈り』と云うものも、執着をもって遮二無二祈るときには、
   自己の祈りの念力によって何物かを成就しようと自力的に力むこと
   によって却って其の祈りの成就を妨げるのである。

            <感謝合掌 平成28年12月13日 頓首再拝>

妄執を斬る日 - 伝統

2016/12/19 (Mon) 03:56:41


           *「光明道中記」(12月19日)より

【妻の非難の念波は良人(おっと)の心を淋しくする。また良人を病気にする。
                            (『生命の實相』第六巻)】

人間は健康なのが自然であって、不健康なのが不自然なのである。
そうすると不健康とは不自然な生活が起ったと云うことである。

不自然な生活の中には、憤(いか)りに耽(ふけ)ること、人を怨み憎むこと、
悲しむこと、陰気に沈むこと、笑わぬこと、いつまでも同じ感情に沈むこと、
仕事をせぬこと、上に仕えて素直でないこと、兄弟仲よかざること、人をゆるさぬこと、
嫉妬心を起すこと、あせり急ぐこと、・・・等々の心持である。

憎んでいなくとも斬らねばならぬことがある。
愛していても斬らねばならぬことがある。

歌舞伎座で、「天一坊と大岡越前守」の芝居を観たら、
此の創作での天一坊は吉宗将軍の本当の落胤なのである。

しかし吉宗の愛の故に、それが本当に落胤だとわかったら、天下みだれ、
将軍家の家庭みだれ、由々しき大事に立到ることを先覚して、
「落胤ではありませぬ」と大岡越前が苦衷をしのんで言う。

吉宗将軍は「わしに瓜(うり)二つの姿形をしていると云うが、そうであるか」と訊く。
大岡越前は一寸躊躇して「左様でございます」と言う。
「無礼者奴が! わしに生き写しとな。斬れ 」と言う。

愛しているが故に自分の実子を斬れと言ったのだ。
 
斬れ!  自分の過去を。

            <感謝合掌 平成28年12月19日 頓首再拝>

《愛するとは放つこと》 - 伝統

2016/12/25 (Sun) 03:42:06


        *「光明法語」(12月25日)より

良人を愛するつもりで、良人の欠点を出来るだけ探して、
それを是正しようと思ったり良人のすることが何だか危なかしくて、
色々注意を与えたりする人があるが、絶えず夫人より批判されていると云う事は
良人にとって好い気持ちなものではない。

愛され過ぎている総領息子が身体が弱くて神経質になると同じで、
良人も度々神経質になり癇癪持になり、遂には、ただ無批判でついて来る女性を求め、
妻以外に女性を求めることにもなる。

愛するとは放つことである。

            <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>

《杖は人を楽にするが強くしない》 - 伝統

2017/01/10 (Tue) 04:48:22


        *『 生長の家 』(昭和23年9月14日の法語)より

   愛するとは放つことである。
   放つとは自分の責任をして自分で負わしめることである。

   倒れた子供を起してやるのは放つのではない。
   倒れた子供は、子供自身その責任を自分に帰し、
   自分で起上がるようにしてやることが放つことである。

   子供の失敗の尻ぬぐいをしてやることが
   愛することではないのである。

   いつも子供の尻ぬぐいをしてやることを
   愛することだと考えているようなことでは
   其の子供は自主独立性を失ってしまう。

   民主主義の生活は 責任を自己に帰す生活である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 平成29年1月10日 頓首再拝>

《問題を掴(つか)んではならぬ》 - 伝統

2017/01/25 (Wed) 03:28:46


          *『 生長の家 』(昭和25年9月20日の法語)より

   神は渾(すべ)ての渾てであり、
   神は善であり、随(したが)って、
   すべて悪は存在しないのであると知る。

   それを知ったとき歓喜勇躍し、あらゆる事物に
   光明が充満しているかの如く見えたのに、
   いつかそのインスピレーションは消え去り、
   現象が暗然として真暗がりの姿をあらわす。

   いくら真理の本を読んでも、
   神想観してもその暗い現象の影は消えない。

   それは何故であろうか。
   それは問題をつかまえていて、「 問題 」 の中へ
   神を押し込んで働かそうとするからである。

   問題を放して神のみを思うとき、
   はじめて光明の想念が力を発揮するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

            <感謝合掌 平成29年1月25日 頓首再拝>

過去の体験から教訓を得て過去を棄(す)てること - 伝統

2017/02/11 (Sat) 04:41:54


           *「如意自在の生活365章」(P206)より

過去の不幸や不快や過ちの記憶を拭い去れ。

それらの出来事は無駄にあなたの前にあらわれたのではなかったのである。
それらの出来事は何らかの教訓をあなたの魂に与えるためにやって来たのである。

過去を振り返ってそれらの不幸な出来事や不快な経験が、
自分のどんな想念の影であらわれたのかを吟味して見て、
再びそのような想念を起こさないようにすればよい。

そうすれば、それらの出来事や経験はあなたの魂に教訓を与えるために
あらわれた教科書の役割りをしたことになるのである。

1年生の教科書から学んでしまって2年生になったら、
もう1年生の教科書は棄ててしまって、2年生の教科に進むのがよいのである。

過去の不幸や不快や過ちを、いつまでも持ち続けてクヨクヨ思って
自己劣等感に陥る者は、2年生になっても、3年生になっても、
1年生時代の教科書にしがみついているような「人生の劣等生」なのである。

諸君はそんな劣等生になってはならないのである。

            <感謝合掌 平成29年2月11日 頓首再拝>

放てば自在 - 伝統

2017/02/17 (Fri) 04:33:22


           *「光明道中記」(2月17)より

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。(『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。執を縛(ばく)と言う。
執は一定のところに縛り附けて其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、子供はその自由を失って病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。
執愛は縛愛(なくあい)であり、一定の場所に相手を縛りつけて自由を失って了う愛
であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。
子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。
愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。

            <感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>

良いも悪いも、つかんだら手放す - 伝統

2017/03/05 (Sun) 03:41:52


          *『おかげさまで生きる』矢作直樹氏・著(P83~86)より

実は起きたことすべてに「それぞれ意味がある」のです。

一見するとムダに見えたこと、あるいはその時間も、その時の自分にとってなのか、
以後の自分にとってなのかは別にして、必ず学びがあります。

(中略)

私がご提案したいのは「つかんだら手放す」という習慣です。
 
良かったこと、つまり成功したと思ったことは本当に嬉しいだろうし、
いつまでもその世界に浸っていたい気持ちはわかりますが、
その感情を実感し続けるのではなく、できれば早めに手放すことをお勧めします。
 
同様に悪かったこと、つまり失敗したと思ったことも、
ひと通り反省が終わったら悔しいとか悲しいといった感情を早めに手放しましょう。
 
反省すれども後悔せず。この心構えが重要です。
 
良いも悪いもすぐに手放すことで、自分をクリーンアップ(浄化)できると同時に、
偏った感情に浸るくせがつかなくなります。

これができると、常にニュートラル(中立)な状態でいられますから、
いつどんなことが起きても冷静に対処できるようになります。

すると、自分の身の回りで起きたことに対して、
あれが成功でこれが失敗などという線引きの感情が、次第に消えます。
 
誰かに褒められたとか誰かに嫌われた、その結果、嬉しかったとか悲しかったという
感情が出てきたなら、自分に対する「外部評価」を気にし過ぎているということになります。

人の心はコロコロ変わります。それを忘れないでください。
 
それまで意固地に持っていた「周囲に良く思われたい」という執着がなくなるだけで、
実に快適になります。出来事に対する最終評価は、自分で下すものなのです。
 
周囲の声に惑わされ、いたずらに振り回されることなく、
自分に起きたことをありのままに受け止めましょう。
そこにある意味を素直に感じて下さい。

           ・・・

   《反省すれども、後悔せず。》

    常にニュートラルな状態でいると、
    どんなことが起きても、冷静に対処できるようになる。


            <感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>

外界に引っかからない - 伝統

2017/03/19 (Sun) 04:30:00


《外界を重大視してはならない》

          *『幸福を招く365章』第3項(P49~50) より

肉体以上のもの、精神以上のもの、内在の霊的力を呼び出してくるとき、
人間は天地の一切のものを支配する力を現わすのである。

どんな障害物も、内在の霊的力(神)を呼び出してきたとき、
もう貴方を妨げるものは何物もないのである。

汝自身を萎縮させてはならないのである。
そのためにはあなたの周囲または外界に起こって来る事柄を、あまり重大に
考え過ぎて自分自身を暗くし萎縮せしめないことが必要である。

外界は、重大と観れば重大化して来るし、その重大さに引っかからず淡々とし
平静に処置しておれば、何の大事にも到らずおさまってしまうものなのである。

            <感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝>

《不調和にひっかかるな》 - 伝統

2017/04/05 (Wed) 03:37:30


         *『幸福を招く365章』第3項(P50~51) より

不調和が起こってきても、それに引っかかってはならない。
引っかかれば引っかかる程、問題はもつれて来るのである。

イザヤ書第三十章十五には

「汝ら立ちかえりて静かにせば救いを得、
穏やかにして依りたのまば力をうべしと。

しかれど、汝らこの事を好まざりき。
なんじら返りて云えり、否、われら馬にのりて逃げ去らんと。
この故になんじらなんじら逃げ去らん。

又云えり、われらはやきものに乗らんと。
この故になんじらを追うものはやかるべし」

と書かれている。


心を失ってはやく逃げる姿が病いなのである。

智慧の言葉には

「逃げ出そうと思うな。汝は神の子ではないか」

と示されている。

            <感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>

《神の愛は放つ愛である》 - 伝統

2017/04/20 (Thu) 04:01:16


         *「光明法語」(4月20日)より

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、その生命の本然のところに行かしめるのである。

            <感謝合掌 平成29年4月20日 頓首再拝>

【凛とした生き方】 - 伝統

2017/05/05 (Fri) 03:24:02


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年04月21日)」より

   (臨済宗相国寺派管長、有馬頼底氏の心に響く言葉より…)

   どんな人でも、何か良いことが起こると嬉しいでしょうし、
   素敵な物を手にすれば当然喜びます。

   ところが、禅の世界には「好事不如無(こうずもなきにしかず)」『碧巌録』
   と言う言葉があり、

   「どんなに良いことでも、無いに越したことはない」と教えています。

   「良いことが、無いに越したことはない」とは、いったいどういう教えでしょうか。


   「良い出来事なら起こった方がいいに決まっている」と感じる人も多いでしょう。


   ごく簡単に言うならば、良いことが起こったとしても、
   それに囚われ、執着してまえば、それはすでに「良いこと」ではなくなる。

   そんなものなら、初めから起こらないほうがいい、というのがこの言葉の教えです。

   わかりやすい例を一つ挙げてみましょう。

   宝くじで高額を当てた人が、
   その後の人生を狂わせてしまうなんて話を聞いたことはないでしょうか。

   実際、私はそんな人を何人も見てきました。

   宝くじが当たるというのは、それそのものは好事と言っていいでしょう。

   思いがけず大金が入ってくるのですから、誰もが喜ぶ出来事です。


   しかし、そのせいで、かえって強欲になったり、
   そのお金を独り占めにしようとしたり、自分に近寄ってくる
   すべての人に疑いの目を向け、猜疑心でいっぱいになってしまうとしたら、
   これほどの悪事はありません。

   宝くじの当選によって人生を狂わされた人は決まって
   「あんなもの、当たらなければよかった」と思うものです。

   好事が起こったときというのは、
   じつはその人の人間性が試される瞬間でもあるということ。

   もちろん、それは「宝くじが当たる」という、やや現実離れした話に限りません。


   たとえば、あなたの仕事が認められ、出世することができたとします。
   仕事が認められることも、出世することも、悪いことではありません。
   紛れもなく好事でしょう。

   しかし、出世したことで、急に「自分が偉くなった」と勘違いをして、
   周囲の人間に横柄な態度をとるようになったり、
   謙虚に努力する心を忘れてしまったら、せっかくの好事も台無しです。

   さらに、自らの名誉欲がちょっと満たされることで、
   よりいっそう強欲になって「もっと出世したい」「もっとみんなに認められたり」
   「もっと、スゴイと言われたり」という思いばかりが先行する人もたくさんいます。

   そんな醜い人間になってしまうくらいなら、
   最初から出世などせず、地道に努力を続ける人でいたほうが
   よほど幸せなのかもしれません。


   きっとあなたの周りにも、そんな「好事」によって評判を落としたり、
   周囲からの信頼を失った人がたくさんいるのではないでしょうか。

   まさに好事というのは、人生の落とし穴でもあるのです。

   大事なのは、何か一つ好事があったら、それに囚われることなく、
   すぐに捨て、淡々と次に向かっていくことです。


   『碧巌録』には

   「手に白玉の鞭を把(と)って驪珠(りしゅ)、
    尽(ことごと)く撃砕(げきさい)す」

   という言葉があります。

   宝石を握ったら、それを打ち砕いていかなければいけない、という教えです。

   いかにすばらしものであっても、それを握りしめ、執着してはいけない。
   たとえそれが宝石であっても、それを打ち砕いていかなければならない
   と厳しく教えているのです。


   よく「過去の栄光にすがる」という表現をしますが、
   あれこそ自らの執着心に囚われて、
   いつまでも小さな宝石を握り続けている状態です。

   偉業であれ、評価であれ、名誉であれ、金銭であれ、
   何か好事が起こったら、それを自ら打ち砕き、
   次へ進む意識を持つことが大事なのです。

   本当にすばらしい功績を挙げる人というのは、
   決して過去の栄光にすがることなどありません。

   一つの偉業を成し遂げたとしても、まるで何事もなかったかのように、
   翌日からはまた淡々と自らの使命に取り組むものです。

   ぜひとも、そんな潔く、凛(りん)とした生き方をして欲しいものです。

          <『人生は引き算で豊かになる』文響社>

             ・・・

「好事魔(こうじま)多し」という言葉がある。

良いことには、とかく魔(邪魔)が入りやすい。

たとえ、良いことがあったとしても、
有頂天にならず謙虚でいることが必要という意。


良いことがあったときや、逆に悪いことがあったときにも、
それは、その人の人間性や器が試されているとき。

偉そうになってしまったり、威張ったり、
逆に、ガックリと落ち込んでしまったり、不機嫌になったり、まわりに当たったり。


「何か一つ好事があったら、それに囚われることなく、
すぐに捨て、淡々と次に向かっていくこと」

潔く、凛とした生き方をしてみたい。

            <感謝合掌 平成29年5月5日 頓首再拝>

《喜びの青空に出る道》 - 伝統

2017/05/11 (Thu) 03:13:04


          *「光明法語」(5月11日)より

海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。

墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。

今有(も)てる何物かを失った時には、それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。

かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。

神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。

            <感謝合掌 平成29年5月11日 頓首再拝>

困難をつかんではなりません - 伝統

2017/05/23 (Tue) 04:01:46

          *『眞理』(第九巻生活篇)(P153~154)より

困難を困難とみとめてそれと戦ってはなりません。
困難を困難として心につかむとき、
その困難は自分から離れがたいものとなるのです。

心を神の方へ向けなさい。

神と云う「無限の智慧」に心を向けかえて其処から出て来るヒントに従って
素直に事をはこぶとき、どんな困難も完全に克服できるようになるのです。

困難はほっておけば、困難みずからで自壊するのです。

困難を敵として取り組んで、それをつかんで色々と掻き廻すから、
池の中を棒で掻きまわすように益々周囲がにごって来るのです。

池の水を澄ます途(みち)は池の水を掻き廻さないことにあるのです。
自分が困難を克服することは要らないのです。
神が困難を克服したまうのです。

私達はただ神の指示するままに従っておれば好いのです。
神は無限の智慧であります。
無限の智慧をわがものとしなさい。

            <感謝合掌 平成29年5月23日 頓首再拝>

わだかまりを手放す - 伝統

2017/06/09 (Fri) 03:27:35


          *「Q・次の2つから生きたい人生を選びなさい」 
            ~ハーバードの人生を変える授業 2 (P49~51)より抜粋

   真の許しとは、出来事が起こったあとに取る行動ではない。
   すべての瞬間にあなたが取る態度のことだ。

              スピリチュアルリーダー  ディビッド・リッジ


「完璧な人はいない」とよく言われます。

これについて私たちは「そのとおり」と思いながらも、
自分や他人が完璧でないことを責めつづけてしまうののです。

たしかに人はどんなことでも許せるとは思いませんし、
また許すべきだとも思いません。

しかし、私たちは自分に対して、そして他人に対して抱えている
わだかまりを手放すことを選べます。

「許す」という言葉はサンスリット語では「ほどく」と同じ意味です。

私たちは許すときに感情の結び目をほどき、
感情システムをうまく機能させるようにしています。

感情の自由な流れを解き放つことで、
怒りや落胆、さらには痛みや思いやり、喜びも
感じることができるのです。

わだかまりを抱えていることは、結んだひもを引っぱりつづけているのと
同じで、結び目はどんどん固くなります。

わだかまりを手放すことはつかんでいた手を緩めることで、
結び目がほどきやすくなるのです。

あなたが背負っている不要な重荷をいますぐ下ろしましょう。

もうそのことは許して、あなたの人生を軽やかで、穏やかで、
しあわせなものにしていきましょう。  

            <感謝合掌 平成29年6月9日 頓首再拝>

放つということ - 伝統

2017/06/27 (Tue) 03:37:02


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは「一切が常にある」ということを知ることである。
「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

           <感謝合掌 平成29年6月27日 頓首再拝>

執着を脱して始めて自由 - 伝統

2017/07/06 (Thu) 04:28:05


           *「光明法語」(7月6日)より)

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いていと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、
異学の優陀(うだ)と云う者が、釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)
妙(たえ)にして面光照りわたりたるを見て訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、
その何がいと優れたる者であると云うと、
一切のものに執着しない事、あらゆる愛を盡(ことごと)く解脱していることであった。

           <感謝合掌 平成29年7月6日 頓首再拝>

空想による縛りに気がつけば、患(わずら)いはなくなる - 伝統

2017/07/10 (Mon) 04:16:28


          *「光明道中記」(7月10日 迷い本来無しと知る日)より

【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、
人間は本当の自由を得る。(『完成の聖書』)】

四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて三祖僧?(そうさん)に見(まみ)えて
教えを乞うたとある。

僧?(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。

「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。
どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。

「お前解脱を求めるのか。解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」

「誰も縛っている者はありませぬ」

「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」

「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」

十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧?(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。

自分の空想で、自分を縛っているものが
『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。

           <感謝合掌 平成29年7月10日 頓首再拝>

《巧みな忘却は人生を洗う石鹸なり》 - 伝統

2017/07/24 (Mon) 04:25:37


            *『幸福を招く365章』第3項(P57) より

過去の事を思い煩うな、
未来のことを心配するな。

思い煩いと心配とはあなたの神経を病的に刺激し、
つい生理的不調和を惹起(ひきおこ)し或いは抵抗力を弱めて病気に至らしめるのである。

過去は過ぎ去ったのである。思い煩うは愚かなことである。
未来はまだ来たらないのである。心配するのは愚かなことである。

結局、悩む者は、過去を今に持ち来し、未来を今に持ち来し、
今の幸福を想像の中で汚してしまうのであるから、
そんな愚かな事はしないが好い。

「今」を喜べ。
過去を忘れよ。
未来を忘れよ。

この忘却はあなたの人生を清める石鹸の働きをするのである。

            <感謝合掌 平成29年7月24日 頓首再拝>

問題を放つ - 伝統

2017/08/09 (Wed) 04:13:38


      *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P186~187) より

《事業好転の思念》

どんなに神に祈っても、問題が解決しない事があるならば、
それはあなたが其の問題をつかみ過ぎているからである。

祈りは既に成就して、それは現実化しようとして其の途上にあるのだけど、
あなたが余りに問題を心でつかみ過ぎているために、
その現実化の通路がふさがれているだけである。

そんなときには、あなたの心をその問題から完全に放してしまうのがよいのである。

「この問題を神様あなたにおまかせします。
わが意を成さんとするには非ず、神のみ心のままにならしめ給え」

と祈ることによって、自己解放をとげ、自分の心を自由にするのがよいのである。

「祈り」と云うものも、執着をもって遮二無二祈るときには、
自己の祈りの念力によって何物かを成就しようと自力的に力むことによって
却って其の祈りの成就を妨げるのである。

            <感謝合掌 平成29年8月9日 頓首再拝>

物も心も捨てる - 伝統

2017/08/25 (Fri) 03:56:00

          *「善き人生の創造」(P165~167)より

キリストは

「神の国に入ろうと思ったならば、
すべての持物を捨てて十字架を負うて我に従え」

と、こう云う風に仰ったのでありますが、

すべての持物と云うのは、財産のみではない。

財産もすべての持物の中の一つかも知れませんが、
決してこの物質の富を捨てるだけがすべての持物を
捨てるのじゃないのであります。


心も捨てなければならぬ、物も心もすべて捨てて、もう何もなくなってしまって
一切のものを磔殺(クロスアウト)してしまったときに神の国に入ることが
出来るのであります。

すなわち実相金剛不壊の円満完全な世界を発見するのであります。


物を捨てるのはまだ易しいですけれども
「心」を捨てることは一層難しいのであります。
「私の心」と云っているその心を捨てなければならない。

しかし、その「心」を「ある」と思って把んでいる間は
なかなか捨てられないのです。
「心もない」と悟ることが必要であります。

「わしの心」―― 此の「我」と云うものが、
段々進化して行ってそうして佛になるのではないのであります。

(中略)

わしがわしがと云っている心と云うものが、それが本当に本来ないものだから、
そんな「心」が迷っていても迷わずにいても我々は初めから佛である。
初めから神であるのであります。

瓦を磨いて珠になるのではなく、
初めから珠だから磨けば一層光が出て珠になるのであります。

(中略)

悟れば一躍して「自分」が変わるのです。

今迄の自分だとおもっておったのが、それは「自分」ではなく単に混入の埃であり
「自分」そのものは真清浄無垢の佛身、法身だとわかるのです。

今迄とは異なるものが出て来るのであります。
全然異なるものが出て来て、「神なる自己」「佛なる自己」が発見されるのであります。

だから今までのものを悉く抹殺してしまわなければならないのです。
すべてを十字架にかけてしまわねばならぬ。

http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15501071 
   <2015/11/14~2015/11/16>より抜粋し、転写)

・・・

<参考:「善き人生の創造」>

”平賀玄米 さま”による全文謹写Webへの案内スレッドの紹介。
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6525527

            <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

自由に放つ - 伝統

2017/09/11 (Mon) 04:31:13


        *「生命の實相」第35巻下化衆生篇(P86)より

夫婦関係というものは執する限り闘いである。
夫婦関係だけではない。
あらゆる執着する相手とわれわれは闘っているのである。

人々は彼を自己に奪い取り、征服し、自己と同じ道を歩ませようとして苦労する。
しかしかくの如きは「愛」ではない。
彼を自己に奪いとろうとする盗罪である。

盗罪であるから自己も苦しいのである。

本当の愛とは彼を我に奪い取ることではなく、自由に彼を放つことである。
すべてを放ちて行くところに行かしめよ。
すべてを放ちて彼の生くるがままに生かしめよ。

すべてを放ちて生くるがままにまかせるとき、すべては善い! 
生命は、そこに迷い(結縛)が作用しないとき、ただ善であるほかないからである。

            <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

執着は煩悩、真の愛は放つ - 伝統

2017/09/24 (Sun) 04:51:33


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月23日~24日)より

愛と執着とは異なる

小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。それは執縛であり執着である。

日本の言葉は執縛をも執着をも、ともに「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。
それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい、相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。

多くの母親は子供を愛するが故に執着し、心配して、子供の病気を重からしめたりする
ことが往々あるのである。愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。

               ・・・

真の愛は放つ

真の愛は放つということである。
そのものの生命(いのち)のままにそのものを行かしめることである。

朝顔の蔓(つる)に牡丹の花を咲かせようとすることではない。
小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、
自分の子供を放つと云うことである。

個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。
個人個人の自由を縛るのは、神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。
それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、神の創造のみわざに対する冒涜である。

           <感謝合掌 平成29年9月24日 頓首再拝>

個性は神の表現、縛る心を起してはならぬ - 伝統

2017/09/28 (Thu) 04:13:20


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月28日)より

個性を通じての表現

神は自己を表現するのに、
普遍であるばかりでは自己を表現することはできないのである。
普遍に満ちているものは空気の如く、エーテルの如く、
それは何らの表現をもなし得ない。

表現は個性を通じてのみ行なわれるのである。
表現されたものは何らかの意味に於いて個性を有する。

桃には桃の個性があり、梅には梅の個性がある。
幾千個の桃にも決して同じ桃と云うものはないのである。

人間の個性も千差万別であって、同じ個性はない。
神は無尽蔵である。

他の人を自分の如くならしめようと縛る心を起してはならぬ。

           <感謝合掌 平成29年9月28日 頓首再拝>

《過去 と 持越苦労 と 他(ひと)の罪を捨てよ》 - 伝統

2017/10/16 (Mon) 03:44:35


        *『 生長の家 』(昭和26年1月19日の法語)より

   「 生命 」 が進歩するためには
   「 過去 」 を放すことが必要である。

   「 過去 」 にしがみついている者は
   永遠に進歩することは 出来ないのである。

   「 過去 」 を放すことの中には
   「 持越苦労 」 をしないことが含まれている。
   それと共に 「 他の罪を赦す 」 ことが含まれている。

   過去を放ち、持越苦労を放ち、他の罪を赦したときには、
   実は自分自身の 「 生命 」 が解放されるのであり、
   それによって 自分自身が進歩する新しい内在の力が 解放されるのである。


   前進しようと思う者は、
   過去にしがみついたり、
   過去のことをくよくよ思ったり、
   自他の罪を いつまでも心にとめている暇はないのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成29年10月16日 頓首再拝>

囚われを放てば、自由自在 - 伝統

2017/10/17 (Tue) 03:19:11


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月17日愛憎を超える日)より


【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。(『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は元の兵来たって彼を斬ろうとした時
平然として「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」と
一喝を諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って斬ろうとしたとき
平然として首をさし伸べたが三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。
囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 平成29年10月17日 頓首再拝>

愛憎を捨てる - 伝統

2017/10/18 (Wed) 04:47:48

    *「光明道中記(その身まったし)」(10月18日愛憎を捨てる日)より

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、
沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、
いろいろの分別が胸に候間、胸のうちにいろいろに動き候。
止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。

たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、
十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、
次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候(まじくそうろう)。
若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば受流す
べけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、弓を取る手に心が止まらば、
九百九十九の手は皆、用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、
千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

・・・・・

<参考Web>

沢庵「不動智神妙録」
  → http://www.eonet.ne.jp/~chaos-noah/zen/takuan/fudou_2.html >

・・・・・

           <感謝合掌 平成29年10月18日 頓首再拝>

「欲しい」を捨てる - 伝統

2017/10/20 (Fri) 03:32:23


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月20日「欲しい」を捨てる日)より

【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
                          (『生命の實相』第二巻)】

善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」
「見《たい》」「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。

この「《たい》」が心にある間は、その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。

天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、
八つの埃と言っている。
「たい」が心の病気であり、心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。

時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。

すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。

「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、斯うして《欲しい》と思うことが
あるでしょう」と言いますと、「それはあります」と言われる。

その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、生命力が自由を得ないで病気に罹っている。

その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。

           <感謝合掌 平成29年10月20日 頓首再拝>  

「病気」とそれを表現している「心」を放つこと - 伝統

2017/11/05 (Sun) 03:46:56


      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P257) より

《病気を起す心》

今「悲しんでいる心」、それは次の瞬間に「笑っている心」になることがあります。
悲喜交々(ひきこもごも)、もう笑ってる時には
「悲しんでいる心」は《ない》のであります。

《今ある》ようでも次の瞬間に《ない》ものは「本来無い」のであります。

そんな心を「妄心」と申します。

「本来無い心」の動揺によってあらわれている肉体の炎症その他の病気は
「本来無い」と言わなければなりません。

悲喜交々、恐怖や怒りの交替する其縻(そんな)《こころ》のあらわれである
病気を「ある」と思うことをやめなさい。

最初何らかの動機で「妄心」が異常に振動してそれが肉体面に具象化して病気となって
あらわれた現象(症状)を見て、それを「ある」と見て常に恐怖(心の異常振動)して
いるから、いつまで経っても病気が消えないのです。

病気を放つことです! 

そして、その病気を表現している「心」をも放つことです。

           <感謝合掌 平成29年11月5日 頓首再拝>

過去から心を放つ - 伝統

2017/11/24 (Fri) 04:50:02


          *「光明道中記」(11月24日あとに苦味の残らぬ日)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。
                     (『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。
先生でも人間が嫌いになることがあるのですかと言われると、仕方がない。

降参するほかはない。
実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、
やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、
熱いものは熱いと感ずるし、快いものは快いし、
不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云うのだったら
私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、そうかも知れない。
ただ常人は一度熱いと執したら冷たい膾(なます)でも熱いと囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

          <感謝合掌 平成29年11月24日 頓首再拝>

親の執着が子供の生命を縛っている - 伝統

2017/11/30 (Thu) 04:24:49


       *「光明法語」(11月30日与えよさらば与えられん)より

「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。

子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。

何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。

          <感謝合掌 平成29年11月30日 頓首再拝>

【あきらめること】 - 伝統

2017/12/18 (Mon) 03:24:47


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年11月23日)」より

   (曹洞宗徳雄山建功寺住職、枡野俊明氏の心に響く言葉より…)

   座禅をしていると、いろいろな気づきがあります。

   ふだんは気づかなかった、小鳥のさえずりや風のそよぎ、
   季節の香りといったものが感じられるのです。

   「風がこんなにあたたかくなっていたのか。そうか、もう、春だからな」
   「キンモクセイのいい香りが漂ってくる。秋を連れてきてくれたんだな」と、
   そんな思いが心に広がります。


   日常生活の中で、心はどうしても「なにか」にとらわれています。

   仕事のことであったり、家族のことであったり、恋愛のことであったり…。

   そのことがとどまっていて心が縛られてしまっている、といってもいいでしょう。


   じっと座っていると、
   とどまっているものが溶け出していき、心がふ~っとゆるみます。

   禅語でいう「身心脱落(しんじんだつらく)」。

   ここでいう「脱落」とは「解脱」という意味で、
   一切合切を放下(ほうげ)し、なんの執着もない、という
   「自由無碍(じゆうむげ)」の境地を指します。

   なにものにもとらわれない、心をとどめない自在な状態になるのです。

   ですから、気づかなかったことに気づくことになったり、
   見えなかったものが見えてきたりするのだと思います。


   それとは逆に、心を縛りつけるのが「競争」です。

   「同期に負けてなんかいられない。課長ポストを最初に手に入れるぞ」
   「お隣よりいい車を買わないと、プライドにかかわる」
   「ブランド品の数では彼女に絶対勝たなくっちゃ」…

   他人と競う思いが心を縛るのです。

   しかし、必ずしも思いどおりになるとは限りませんから、
   今度は屈辱感や挫折感、嫉妬心、無力感といったものが、
   心にのしかかってくることになります。

   心を縛るものからどう解放されるか。

   「あきらめる」ことがひとつの方法かもしれません。

   ギブアップするのではありません。

   うまく「手放す」のです。


   「勝ちたい」「負けたくない」という思いをいったんあきらめる。
   少しのあいだ脇に置いてみる。
   ちょっとそこから離れてみる。

   すると、必ず、気づくこと、見えてくるものがあるはずです。


   道元禅師の言葉に、「放てば手にみてり」というものがあります。

   欲や執着を手放したとき、本当に大切なものが手に入る、ということです。


   たとえば、ポスト争いに躍起になっていたときには気づかなかった、
   自分の仕事のすばらしさに気づくかもしれません。

   「自分が売っていたこの商品は、顧客にこんなふうに喜ばれていたのか。
   よし、もっと自信をもって営業に回ろう」


   お隣と競い合っていたときには見えなかった、
   家族の本当の幸せといったものが見えてくることもあるでしょう。

   「高級車を買ってローンの支払いに頭を悩ませるなんてバカげているな。
   いまの車を大事にして、ときには食事に行ったり、旅行に出かけたり、
   家族で一緒に過ごす時間をたくさんつくろう」


   あるいは、ブランド漁りをしているときには知らなかった、
   ものへの愛着が芽生えるかもしれません。

   「本当に気に入ったものを大切に使うって、こんなに心地のよいものなんだわ」

   どうやら、上手に「あきらめる」ことには、
   座禅にも匹敵するような作用があるようですね。

   禅は実践。

   ぜひ、すぐにも上手に「あきらめる」ことに取りかかってください。

      <『競争からちょっと離れると、人生はうまくいく』三笠書房>

             ・・・

「あきらめる」は「諦める」と書く。

「ギブアップする」とか「未練を断ち切る」「断念する」
といった意味で使われているが、元々は、真理や真実を、
「明らかにする」「はっきりさせる」「つまびらかにする」という意味だ。


「あきらめる」とは、欲やとらわれ、こだわりや、思い込みなどを手放すこと。

手放すとは、「放下著(ほうげじゃく)」すること。

投げ捨てる、放り投げる、捨て切る、という意。


西郷隆盛は『西郷南州遺訓』の中で、幕臣、山岡鉄舟のことを評してこう語っている。

「徳川公は偉いお宝をお持ちだ。
山岡さんという人はどうのこうのと言葉では言い尽くせぬが、
何分にも腑(ふ)の抜けた人でござる。

命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、といったような始末に困るひとですが、
あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて共に天下の大事を
誓い合うわけには参りません。

本当に無我無私、大我大欲の人物とは山岡さんの如き人でしょう」


「諦める」という状態の究極に行きついた先が、
この「命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、といったような始末に困るひと」のこと。

上手に「あきらめる」ことの実践をしたい。

          <感謝合掌 平成29年12月18日 頓首再拝>

愛は放つ - 伝統

2017/12/25 (Mon) 04:35:36


         *「光明法語」(12月25日《良人を愛するには》)より

良人を愛するつもりで、良人の欠点を出来るだけ探して、
それを是正しようと思ったり良人のすることが何だか危なかしくて、
色々注意を与えたりする人があるが、絶えず夫人より批判されていると云う事は
良人にとって好い気持ちなものではない。

愛され過ぎている総領息子が身体が弱くて神経質になると同じで、
良人も度々神経質になり癇癪持になり、遂には、ただ無批判でついて来る女性を求め、
妻以外に女性を求めることにもなる。

愛するとは放つことである。

          <感謝合掌 平成29年12月25日 頓首再拝>

過去のものを心から放つ習慣をおつけなさい - 伝統

2018/01/10 (Wed) 04:21:48


         *『愛はかくして完成す』(P283) より

若さの特徴は柔軟性と弾力性とを失わないということです。
いったん言い出したら一歩も曲げないというのは、
時には若さから来る勇敢さでありますけれども、それが頑固一徹と
いうことになりますと、それは老化現象のあらわれだということになります。

幼な児のように柔軟な心をお持ちなさい。
心が柔らかくなれば肉体も柔らかくなり、若返ります。

仕事に一徹なのはよろしいが、仕事を終わった後には、
その仕事から心を放ちなさい。
いつも同じものを掴んでいてはなりません。

ひとつ事が終われば、終わったものに執着せずに、
別の方向に心を軽く一転して、
過去のものを心から放つ習慣をおつけなさい。

         <感謝合掌 平成30年1月10日 頓首再拝>

何事にも引っかからぬのが「生長の家の生活」 - 伝統

2018/01/29 (Mon) 03:49:21


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より

悪はないのである。
引っかかるのが悪である。

柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。
紅でなければならぬと定(き)めたときに、緑が来ればわれらの心は引っかかる。
引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。

天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。
《よし》と言いて、《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。
そのまま《よく》、そのままそれに対応して、自然法爾の作(はたら)きができるのが
引っかかっていないのである。

雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。

雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。

借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、いろいろのことを鍛えられる。

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。

雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。

            <感謝合掌 平成30年1月29日 頓首再拝>

よく放つとき、よく生きる  - 伝統

2018/02/17 (Sat) 03:21:15


           *「光明道中記」(2月17日 自在を得る日)より

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。
                       (『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。執を縛(ばく)と言う。
執は一定のところに縛り附けて其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、子供はその自由を失って
病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。
執愛は縛愛(なくあい)であり、
一定の場所に相手を縛りつけて自由を失って了う愛であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、
その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。
子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。
愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。

            <感謝合掌 平成30年2月17日 頓首再拝>

放せばよいものを、把(つか)んではならない - 伝統

2018/03/11 (Sun) 04:29:22


          *「希望を叶える365章」(P96)より

西欧の物語にこんな話がある。

猟師が焚き火をしてその上に鍋をかけ湯をわかしていたが、突然、一行の猟師の出動の
ブザーが鳴ったので、猟師たちは、その焚き火の上の鍋をそのままにして立ち去った。

其処へたまたま森の中から一匹の熊が這い出してきたのであった。

鍋の中の湯は沸騰していて、鍋にかかっていた金属製の蓋が蒸気の力で
コトコトと音を立てて動いていた。

熊はそれを見ると突然その蓋をつかんだ。

沸騰する蒸気の温度で鍋の蓋は百度以上に熱していた。

熊は掌(て)に火傷(やけど)をしたが、その鍋蓋を放すかわりに、
熱いものだから、尚一層その蓋をしっかりとつかんだ。
熊は到頭(とうとう)その掌(て)焼けただして重傷を負ったのである。


病気を心につかむ者、悲しみを心につかむ者は、この熊に似ているのである。
病気や悲しみや、つらいことがあればそれを心から放せばよいのだ!!

            <感謝合掌 平成30年3月11日 頓首再拝>

幸福は「放つ」ことによって得られる - 伝統

2018/03/28 (Wed) 03:23:26


      *「幸福を招く365章」(P93~94)より

《幸福は「放つ」ことによって得られる》

幸福は「握る」ことによって得られるものではなく、
「放つ」ことによって得られるのである。

こんなお伽話がある。

ある国の王様が幸福になりたいと思った。
財産は沢山あり、家来も沢山あるけれども
いろいろ面倒な問題ばかり起って来てどうしても幸福になれないのである。

そこで国中の賢者をあつめて幸福になる方法を御諮問になったけれども、どの家来も皆、
立派な衣装があったら幸福になるとか、立派な道具があったら幸福になれるとか、
美しい舞姫にとりまかれてお酒を飲んだら幸福になるとか云うのだけれども

それらは既に王様が今までして来たことであって、
一時はそれで幸福になれるかと思ったが結局幸福になれなかったものであった。

すると一人の預言者が進み出て云った。
「幸福になるには一番幸福な人のシャツを着れば宜しい」。

そしてその教えられた一番幸福者を探してあてると、
彼はシャツを着ていないで裸であった。


《未来はあなたの掌中にある》

過去の不幸を心の中で繰り返すな。 
過去は既に過ぎ去ったのであり、未来は自分の心の中にあるのである。 

朝々が新生である。 
新たなる人生があなたを訪れるのである。 
未来はあなたの掌中にある。 

夜の帳(とばり)はあなたの過去のすべての嘆きを拭い去ったのである。
この朝、あなたは新生したのである。 
新しき機会があなたを訪れる。これこそ真理である。 

昨日までの一切の不幸を嘆くな。
一切の病弱を、一切の貧苦を。 
それは過去のあなたの想念の影に過ぎなかったのである。 

過去は、あなたが心でそれを捉えない限りは
あなたを最早や苦しめることは出来ないのである。 
過去を捨て、現在に生きることが光明(こうみょう)生活の極意である。 

今ここにあなたが、人々の幸福のために何物かを与えれば、
未来にあなたの幸福が実って来る。 
あなた自身が未来を造りつつあるのである。

         <感謝合掌 平成30年3月28日 頓首再拝>

放てば掌(て)に満つる - 伝統

2018/04/17 (Tue) 03:29:59


        *「希望を叶える365章」(P87)より

自分自身の心の迷いを消すがよい。

自分の眼鏡(めがね)が曇っていて、
「この景色は煙霧(えんむ)がかかって茫(ぼう)としている」
などと言ってはならない。

あなたの見る世界は、自分の心が”実相”の上に自分の想念感情で
賦彩(ふさい)した世界なのである。

自分の属しないものを求める心を起こしてはならない。
自分が与えたものだけが自分に属するものである。

それは恰度(ちょうど)、
自分が預金した金額だけが払い戻して貰えるのと同じことである。
常に貸し越しの生活を送るべきであって、借り越しの生活を送ってはならない。


自分に属しないものを得ようと思って、それを掴んでいると、
属しているものが入って来ようとしても、
それが入ることができなくなるのである。

既に掴んでいる手には物は入れることが出来ない。
掴まない手に《のみ》物は入ることができるのである。

与えよ、さらば与えられんである。

「放てば掌(て)に満つる」とは実生活上の禅語である。

         <感謝合掌 平成30年4月17日 頓首再拝>

相手を自由に解放する - 伝統

2018/04/20 (Fri) 04:42:13


        *「光明法語」(4月20日の法語)より

《神の愛は放つ愛である》

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、その生命の本然のところに行かしめるのである。

         <感謝合掌 平成30年4月20日 頓首再拝>

「いつか、突然、スーパーマンになれるかも」という「思い」を手放す - 伝統

2018/05/16 (Wed) 03:02:38


         *「ありがとうの奇跡」小林正観・著(P101)より


1年に何人か、次のような質問をする人がいます。

「私の『本当の使命』は何でしょうか。本当の自分探しを20年やっているのですが、
まだ『本当の使命』が見つかりません」

「あなたは、今、何をやっているのですか」

「主婦です」

「主婦なんですね。じゃあ、夫と子ども、まわりの家族に対してできることを、
ただ淡々とやっていけばいいわけですよね。まずは、目の前のことをやる。
目の前のことをやらないと、もしかしたら、神様が上から見ていて、
『家庭のこともちゃんとやれないのだから、ほかのことは任せられないよね』
と思っているのかもしれませんよ」


パッと服を脱ぎ捨てて、突然、「スーパーマン」になることを
夢見ている人が、世の中にはたくさんいます。

でも、「今とは違う別のところに、すごい役割やすごい能力が隠されていること」は、
残念ながらありません。

今、生きている「私」が、すでに「100点満点」なのだから、
「今、やらされていること」を普通に淡々とやって、淡々と死ぬのが、
「人生をまっとうすること」だと私は思います。


講演会が終わってから、私に、次のような質問をした方がいます。

「2年前、有名な神社の境内を歩いていたら、白い光が私の体に入ってきました。
パアッとすごい光に包まれたのですが、あれはいったい何だったのでしょうか?」

私の答え。

「単なる勘違いだと思います」

この人は、「あなたは、きっとすごい人なんだ。それはすごい現象だ」
と私に言われたかったのでしょう。

けれど、私は「唯物論者(ゆいぶつろんじゃ)」
(現象が「物質的」に現れない限り信じない)です。

本当に特別な力を持った光が体に入ったのだとしたら、
すでに、私に聞く必要はなかったはずです。

すごい人になったのなら「あれをやっても、これをやっても、
何でもうまくいって、すでにひっぱりだこの状態になっている」と思います。

「あれは何だったのでしょうか?」と聞きに来るということは、
現時点で、「何も起きていないから」であり、2年間も何も起きていない
ということは、「単なる勘違い」と考えるほかありません。


ほかにも、こんな話をした音楽家がいました。

「神様から、天界の音楽をもらったので、CDを制作して販売しています」

この音楽家は、「神の世界から、メッセージをもらっている」と言うのです。

唯物論者の私は、「ニッ」と笑って聞きました。

「そのCDは、売れていますか」

「いいえ、あまり売れていません」

「だとしたら、その音楽は、神の世界の音楽ではありませんよね」


この方は、「天上界から、すごい役割を与えられた」と思っていたようですが、
天上界のメッセージを受け取っているのに「売れていない」のはおかしい気がします。

「自分には、何かすごいことをやる使命があるはずだ」と思っている人ほど、
「目の前の人・こと・もの」を大事にしていないのかもしれません。

「頼まれたこと」を誠実にこなしている人に、
「これをクリアしたので、次は別のことをやらせてみようかな…」と、
神様だったら思うのではないでしょうか。

         <感謝合掌 平成30年5月16日 頓首再拝>

病気をつかんで はなさない人は治らない - 伝統

2018/06/08 (Fri) 04:32:02

       *「神道 感謝のこころ」葉室頼昭・著(P102~104)より

長年医者をしていると、その人の病気が
治りやすいか治りにくいかはすぐにわかるようになります。

それは、病気が重いか軽いかではなく、その人の心の持ちようによるからです。

例えば、2回目の治療に来たときに
「先生、前回よりもこれだけ良くなりました」と感謝して喜ぶ人は治りが早く、
反対に、治ったことは口に出さず「まだこんなに残っている」と
不平不満を訴える人はなかなか治りにくい。

病気を治そうと思ったら、まず病気を心から突き放すことが大事です。
しかし、これはなかなかできないことで、
そうそう簡単に病気を忘れることはできません。

(中略)

神社では、神さまに「健康にしてください」と
ご祈祷においでになる方が多いようですが、
しかしこんな方は神さまのお恵みを受けることができません。

なぜなら、「健康にしてください」ということは、
自分が病気だと思っている現れだからです。
心で病気をつかんでいたら、いくら神さまにお祈りをしても、お恵みは得られません。

「神さま、健康にしていただいてありがとうございます」と
感謝をするのが、本当のことなのです。

心を放せば神様のお恵みがいただけます。

いつも心に病気をつかんでいる人は、病気になりやすく、
すべてを良い方向に考え、感謝している人は病気になりにくいのです。

         <感謝合掌 平成30年6月8日 頓首再拝>

放せばよいものを、把んではならない - 伝統

2018/06/24 (Sun) 04:18:38


        *「希望を叶える365章」(P96)より

西欧の物語にこんな話がある。

猟師が焚き火をしてその上に鍋をかけ湯をわかしていたが、
突然、一行の猟師の出動のブザーが鳴ったので、
猟師たちは、その焚き火の上の鍋をそのままにして立ち去った。

其処へたまたま森の中から一匹の熊が這い出してきたのであった。

鍋の中の湯は沸騰していて、鍋にかかっていた金属製の蓋が蒸気の力で
コトコトと音を立てて動いていた。

熊はそれを見ると突然その蓋をつかんだ。

沸騰する蒸気の温度で鍋の蓋は百度以上に熱していた。

熊は掌(て)に火傷(やけど)をしたが、その鍋蓋を放すかわりに、
熱いものだから、尚一層その蓋をしっかりとつかんだ。
熊は到頭(とうとう)その掌(て)を焼けただらして重傷を負ったのである。


病気を心につかむ者、悲しみを心につかむ者は、この熊に似ているのである。

病気や悲しみや、つらいことがあればそれを心から放せばよいのだ!!

         <感謝合掌 平成30年6月24日 頓首再拝>

放つということ - 伝統

2018/06/27 (Wed) 03:24:21


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは「一切が常にある」ということを知ることである。
「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

           <感謝合掌 平成30年6月27日 頓首再拝>

功徳を求める心を放つ - 伝統

2018/07/03 (Tue) 03:27:06


          *「光明道中記」(7月3日 無限功徳ある日)より

【娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのだ。(「生命の實相」第十一巻)】

梁(りょう)の武帝は達磨大師から、今まで自分の行(おこな)って来た供養が、
「無功徳!! 」だとの喝を受けて、自分の倚(よ)って立っていた真理が
くだけた気がして寂しくて耐(た)まらなかった。 

それでは何が最も功徳ある真理だろうか、それが聴きたい。
そこで、「いかなるかこれ聖諦(しょうたい)第一義? 」とたずねたのである。
それでは何が第一義の聖(とうと)き真理でございましょうかと云うほどの意味である。

達磨の答は意表に出(いで)た。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と彼は言ったと、「碧巌録」に書いてある。
聖(しょう)は「悟りの真理」と云うことである。

「聖(とうと)い悟りの真理なんて、そんなものはないのだ」と云う一喝なのだ。

《これが》真理だ、《これが》功徳だなどと言っているものには、
功徳を先ず打消し、真理さえも打消してしまうところに、
本当の真理があらわれて来るのである。

一つのものを指(ゆびさ)して、「《これが》」と言ったとき、
指(ゆびさ)すことの出来ない大地に充(み)つる宏大な真理が
くらまされてしまうのである。

達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」と言って
聖諦(さとりのしんり)を否定して了(しま)ったとき、
却って其処に天地に満つる宏大無辺な真理が肯定されているのである。

            <感謝合掌 平成30年7月3日 頓首再拝>

執着を脱して始めて自由 - 伝統

2018/07/06 (Fri) 03:52:34


         *「光明法語」(7月6日)より

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いて
いと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、

異学の優陀(うだ)と云う者が、
釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)妙(たえ)にして
面光照りわたりたるを見て訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、
その何がいと優れたる者であると云うと、
一切のものに執着しない事、あらゆる愛を
盡(ことごと)く解脱していることであった。

            <感謝合掌 平成30年7月6日 頓首再拝>

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