伝統板・第二 216077

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肉体《無し》

1:伝統 :

2016/11/19 (Sat) 03:43:48

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より

「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、
箸を取り始めるより、その年の大晦日の夕べに至るまで、
日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候。

死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、
万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り、その徳おおき事に候。

その仔細を申すに、総じて人間の命(いのち)をば、夕べの露、あしたの霜になぞえて、
随分はかなき物に致し置候中(おきそうろうなか)にも、
ことさら危うきは武士の身命にて候を、人々おのれが心ずましに、
いつまでも長生きをする了簡なるに依(よっ)て、

主君への末永き御奉公、親々への孝養も、末久しき義なりと
存(ぞん)するから事起こりて、主君へも不奉公を仕(つかまつ)り、
親々への孝行も疎略にて罷(まか)り成るにて候(そうろう)、

今日(きょう)ありて、明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ覚悟仕り候に於ては、
主君の御前へ罷り出(い)で、御用を承るも、親々の顔を見上ぐるも、
これをかぎりと罷り成る事もやと、存ずる心あいに相成り候ゆえ、
主君への真実の思い入れと、罷り成らずしてはかなわず候。
さるに依て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候。」


享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。
こんな心得は武士でなくとも、およそ大業を成さんとする者には必要な心構えである。


「日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは全然反対なことのように
思えるかもしれぬが、けっしてそうではないのである。


生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。

ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。

「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、
常住坐臥の時には肉体は死なぬように思い、
肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。

そこで前記『武道初心集』にも「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。


しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に
刻み込まれるのであるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、武士道に協(かな)った生活を生きる
ことになるのである。

「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので
自然法爾に天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。

それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』
と大道寺友山翁が書いたとおりになるのである。

キリストの「生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」
と言った言葉も同じ意味である。

「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。

無病息災になどなろうという心はすでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。

無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。

         <感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>
2:伝統 :

2016/12/05 (Mon) 03:25:59


           *『生長の家』(昭和25年7月23日の法語)より

   「 人もしキリストにあらば、新たに造られたるものなり。
   古きはすでにすぎさり、見よ、新しくなりたり。」
                 (コリント後書第五章十七節)

   吾々は肉体だと思ってはならないのである。
   肉体はイエスと共に十字架につけ抹殺してしまったのである。

   かくてキリストと共に吾は新生するのである。

   そうでないものは 今すぐ「 肉体無 」 を悟って
   肉体を抹殺しなければならない。

   かくて肉体無を悟る時、
   汝は自己の内にキリストを見、
   新たに造られたるものとなるのである。

   古きはすでにすぎ去り、
   みよ 汝 新しくなり 霊的存在となったのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

         <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>
3:伝統 :

2016/12/23 (Fri) 04:41:33


         *「光明法語」(12月23日)より

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。

彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。

キリストの十字架の真の意意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。

かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。

         <感謝合掌 平成28年12月23日 頓首再拝>
4:伝統 :

2016/12/25 (Sun) 03:52:12


          *「神と偕に生きる真理365章」(P343)より

真のキリスト降誕祭は、自己の内にキリスト(神の子)が宿っていることを再認識する
魂の悦びを指すのである。

本当に自己の内に神の子が自覚されたならば、心に平和がみたされ、どんな試練にも
耐え忍ぶことができ、躓きと見える中からも復活があらわれて来るのである。

真の自己の内にキリストが宿っていると知ることができるならば、イエスが言ったところの
「十字架を負いてわれに従え」といわれた通りに十字架を負わなければならないのである。
という意味は、十字架は「肉体の抹殺」の象徴である。「肉体なし」と知ることである。

そして肉体を抹殺し、十字架に釘(つ)けた後に、「真の自己」なる「内在のキリスト」の
復活が行なわれ、聖パウロの如く「最早われ生くるに非ず、キリスト我にあって生くるなり」
の自覚によって人間自身の新生が行なわなければならないのである。

「最早われ生くるに非ず」は肉体我を抹殺する十字架を負うことであり、
「キリスト我にあって生くるなり」は真我の復活であるのである。

            <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>
5:伝統 :

2017/01/26 (Thu) 04:58:32


           *「光明道中記」(1月26日)より

【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
                   (『一流の人・妻・子を作るには』)】

生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。

「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る! 

今までの医学は個人医学であったゆえに此の世界から病人を少くすることが
出来なかったのである。

過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。

今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。


肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、

その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。

一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を大御親(おおみおや)として
仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。

            <感謝合掌 平成29年1月26日 頓首再拝>
6:伝統 :

2017/01/28 (Sat) 04:25:25

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より

大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和することによって治る。

この反対の心持は病気を招くが、そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。

そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ ―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。

「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。
「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、もう「死〇」はないのである。

生き通しだぞ!  もう不死だぞ!  こういうしか仕方がない。

ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、「死〇」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。

一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。

*〇:ね

            <感謝合掌 平成29年1月28日 頓首再拝>
7:伝統 :

2017/03/05 (Sun) 03:54:02


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より

山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。

『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。

それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。

その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。

鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。

明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。

            <感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>
8:伝統 :

2017/03/19 (Sun) 04:36:53


         *『生長の家』(昭和25年7月15日の法語)より

   意志強きものは
   やがて神の国に到達することができるのである。

   愛深きものは
   すでに神の国に到達しているのである。

   智慧明らかなるのもは
   神の国へ行く道を知るのである。

   知り且(か)つ行ずるもののみ
   本当に神の国に住むことができるのである。

   愚かなるものは、
   この消ゆる肉体を永遠の存在であると思い、
   それを追求し それを美しく保ち、

   人に好かれ様と思うのであるけれども、
   彼は 魂のみが本当の存在であるということも知らないのである。

   折角(せっかく)手入れをし 美しくし 人に好かれた肉体も
   やがて衰えしなび美を失いて死するのである。

   肉体は一時の影にすぎないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

            <感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝>
9:伝統 :

2017/03/31 (Fri) 04:01:41


           *「光明道中記」(3月31日)より抜粋

【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
 死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している

                    (『人間死んでも死なぬ』)】


「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、
一行でも、御自筆の御返事を戴きたい」

と云う意味の手紙を戴くが、

そんな方には『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。

生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。

人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。

無い肉体に執するから寿命を縮める。

吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。

            <感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>
10:伝統 :

2017/04/05 (Wed) 03:35:25


           *「光明道中記」(4月5日)より

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                          (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。

もっと拡大して視ることもできるが、
その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」なる理念と合致するから、
その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、

今視えているような肉体の形は肉体そのものの形ではなく、
吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも
相対的には本当であって、絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

            <感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>
11:伝統 :

2017/04/27 (Thu) 05:01:54


           *「光明道中記」(4月27日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

            <感謝合掌 平成29年4月27日 頓首再拝>

12:伝統 :

2017/05/11 (Thu) 03:16:52


        *「人間死んでも死なぬ」(P328~329)より

マグナッセンの霊界通信に於いては「人間は神より放射される光」であると書かれている。
この「神より放射されたる光」なる人間、私の生命の實相哲学に於いて、
「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の「人」とは果たして如何なるものであろうか。
 
此処に此の原稿を書いている谷口、万年筆を握っている肉体なる谷口、
これは果たして、生命の實相哲学において「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の
「人」であろうか。人間の本質を茲(ここ)で、も少し考えて見たい。

 
明らかに此の肉体なる谷口なる存在は滅ぶべきものである。
それはmortalである。Immortalではない。
否一層精(くわ)しく云うならば、常に滅びつつあるものである。
 
肉体は例えば、燃えつつあるガスの焔(ほのお)の形の如きものである。

生活現象の必須条件として肉体に体温が発生する事実と、呼吸作用と称する酸素交代の現象と、
常に新しきガスを供給するが如く新しき養分を送らなければ消耗して燃える力がなくなる
事実とは、ガスの焔の譬(たとえ)が、人間の生命現象についてもっとも適切なる比喩
であることを表わしている。

ガスジェットから燃え出でるガスの焔の形は、今も、1分間前も10分間前も同一の形状を
して燃えているから、今も1分間前も同じガスの焔であると見えるかも知れないが、
実は今燃えつつある焔は1分間前に燃えていたガスとは別のガスであるのである。

従って今燃えている焔は1分間前の焔とは別の焔である。

別のガスが今燃えていながら、1分間前と同じと思われる形状をしている。
そこで観察者は間違えて同じガスの焔が其処にあると云う。

同じように、別の肉体が今燃えていながら、(即ち別の肉体が呼吸していながら)、
1分間前と同じと思われる形状をしている。
そこで観察者は間違えて同じ肉体が其処にあると云う。

併し事実は全然異なる肉体が、瞬時にして前のものは滅び行きて
時々刻々別なる所の肉体が其処にあるのである。

斯かる肉体を「久遠不滅の人間」と観ずるのは明らかに間違いである。
だから谷口哲学では《肉体は人間ではない》と云うのである。

            <感謝合掌 平成29年5月11日 頓首再拝>
13:伝統 :

2017/05/23 (Tue) 04:08:10


        *「人間死んでも死なぬ」(P330~331)より

「肉体」は斯くの如く人間ではない。
「これが人間だ」と捉(とら)えたる「肉体」は、その瞬間もえてしまって
別のものであるのである。斯くの如く吾々は〝人間そのもの〟を捉えることが出来ない。

捉えたる瞬間より、人間《そのもの》は捉うる手の指の股(また)からすべり落ちて
捉えることが出来ないのである。

 
弾丸が飛来して肉体を貫く。
併し人間〝そのもの〟は肉体ではないから、肉体を貫いても
人間〝そのもの〟は貫かれはしないのである。

貫かれたる瞬間の肉体は、次の瞬間にはもう別のものに変じている。
それは燃ゆるガスの焔を棒で貫いたのと同じことである。

貫かれた時、焔の形は変ずる。
併し、形は変じても変じなくとも、焔は常に別のガスの燃ゆる相であって
元の同じ焔ではない。

それと同じく、肉体は弾丸に粉砕されても、粉砕されなくとも、
常にそれ自身粉砕されつつあるものである。

常にそれ自身粉砕されつつあるもの、一瞬間前の相を、
次の瞬間には止めないもの ―― 此れが肉体である。

捉えんとして捉うること能わざるもの、捉えんとする瞬間に
別の相に変ずるもの ―― これが肉体である。
此の無常なるものが肉体である。

無常なものが肉体であると云う言葉に吾々は誤魔化されて、
「無常なるもの」と云う何物かが其処に〝ある〟と考えてはならぬ。

「無常なるもの」とは「存在しないもの」の別語である。
〝それ〟が瞬時も、その現れている儘の相でいられないものであると云うことは、
其処に、〝その現れているもの〟は無いと云うことを意味する。

谷口哲学ではこの事を「現象本来無し」又は一層簡単に「現象無し」と云う。
また続いて、「肉体無し」とも云う。

            <感謝合掌 平成29年5月23日 頓首再拝>
14:伝統 :

2017/06/08 (Thu) 04:24:48


        *「人間死んでも死なぬ」(P332~333)より

『現象無し』と云うことは、何にも無いということではない。
其処にその《現れているもの》は無いということである。
現れているものは無いけれども、《現れていないもの》があるのである。

肉体は現れて見える。
肉体は現象であり、現象は無いのであり、従って肉体は無いのである。
現れて見える肉体は無いけれども人間《そのもの》は無いのではない。

人間《そのもの》は厳然として実在する。

併し、人間《そのもの》は五官で見る訳には行かないから
狙撃することも出来ねば、爆撃粉砕することも出来ぬ。

却って狙撃し、爆撃し、粉砕する事が出来るのは本来無いところの肉体の方である。
肉体は《本来無いもの》であるが故に、狙撃し、爆撃し、粉砕し、
これを「無」にまで減少することが出来るのである。

《本来無いもの》は本来ないものであるが故に「無」にまで還元する。
「無」のみが「無」にまで還元する。
《本来無いもの》のみが無くなる。

《ある》ところの人間は本来《ある》限り、決して「無」にまで変化し得ぬ。
《本当の人間》――《人間そのもの》―― は本来あるが故に
「無」とは成り得ない、即ち《死なぬ》。 

《絶対死なぬ》。
人間《そのもの》は絶対死なぬ、
人間《そのもの》は久遠不滅の存在である(*)。


  *私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったという否定すべからざる事実が
   続々起こったり、戦場に於いて生死を超越して奮戦し得た実例を
   数多(あまた)生じたる理由は、それが「《絶対死なぬ》人間《そのもの》」
   なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、
   その哲学を実際生活上に生活し得るように誘導したからである。

   生長の家に哲学が無いという人は、実はその人は、
   私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。

   真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、
   全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、
   哲学《そのもの》は難解なる哲学用語の外にあることをしらなければならない。

   私は哲学を難解なる術語から解放したのである。

   哲学《する》とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。
   真理を如実に把握して生きると云う意味である。

   表現された真理をそのまま読者が生活に生きるように
   押し出す迫力があるのが哲学である。

   哲学は哲学《せしむる》力を持たねばならぬ。

   併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ「生長の家には哲学がない」
   と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも
   哲学的様相を備えて記述したのである。


斯くの如く、肉体は瞬々刹那々々に変滅して痕跡をとどめない。
前なるは既に無いのである。
既に無いものは、初めから無いのである。
 
一瞬間前の肉体と、今の肉体とは全然別物である。
その意味に於いて、肉体は時間的にも非連続のものである。

一瞬一瞬非連続のものがズッと連続して、一継続の存在であるかの如く、
五官に感じられるのは、映画の画面と等しく五官の錯覚によるのである。

映画の画面は、一瞬一瞬非連続の一枚一枚の写真が継続的に
同一平面に投影せられるが故に、非連続なるものが連続せるが如く錯覚され、
個々別々なるフィルムのコマの絵が一連続の如く錯覚されるのである。

映画が錯覚の応用であるが如く、人間の肉体生活も錯覚の応用である。

(『維摩経』方便品第二)

            <感謝合掌 平成29年6月8日 頓首再拝>
15:伝統 :

2017/06/27 (Tue) 04:14:25


        *「人間死んでも死なぬ」(P333~336)より

瞬間瞬間に変滅するところの ―― 変滅するが故に本来無いところの ――
肉体を有の連続と思わせているところのものは錯覚である。

すべての現象的にあるが如く現れているところのものに、
<我>と称すべき常恒常有の連続体は無いのである。

(諸法無我)従って此の肉体が一連続常恒常有の存在だと思われていることが
錯覚であるが如く、此の「我」と思えているところの意識本質も唯(ただ)
かく現れれているだけであって本来無いのだということを知らねばならぬ。

《肉体》もなく《自我》もないのである。
では全てのものは《ない》のであるか。
然り、吾々の五官なく、「我(われ)」と感ずる意識もないのである。
(『般若心経』。無眼耳鼻舌身意。)

「我」という意識も本来ないものであって因縁所生のものであると云うことは
大脳と云う意識所現の「縁」を叩き壊せば消えるので分かる。

斯く肉体なく、自我意識もなく、それらが悉く妄覚であり無常である
と云うならば何が不滅であるか。そのすべてのものが無常であると云う
原理《のみ》が常であり、實相であるか。

仏教の一派ではこの無常の原理のみが實相であり、
無常を悟ることが實相を悟り真理を悟ることであると説いて来た。

無常を悟ることが實相を悟り真理を悟ることであると説いて来たが故に、
小乗仏教では無常に身をゆだねること、灰身滅智、無為にして世を終ることのみが、
真理を生き實相をいきるのだと云うがように間違う者が出来てきたのである。

仏教発祥地及び経由地の亡国はそのためかとおもわれる。

瞬々刹那々々に消滅する肉体 ―― 本来無い肉体 ―― が連続して
五官面に投影されて「我」なる意識の一連続ができあがる。
連続せざるものが連続せるが如く現れて「我」として感じられるのである。

昨日(きのう)腹立ち昂奮(こうふん)したところの「我(われ)」も、
今、家族の不幸に打ちひしがれて悲しみ打ち倒れているところの「我(われ)」も、
一夜の睡眠と云う意識の連続の中断をその間にさし夾(はさ)みながら、
依然として同じき自分であると感じられる。

昨日(きのう)、病床で呻吟(しんぎん)していたところの「我(われ)」も、
今日戦場で傷つき倒れている「我(われ)」も、
共に同じき一つの「我(われ)」であると感じられる。

この立場に立つ限りに於いて、「我(われ)」とは、
腹立ち、喜び、病み、且つ傷つき倒れるものであると感じられる。

かかる観点に立つとき、「我(われ)」と云うものは
まことにも常苦常悲に満たされているものと云わなければならない。

悲しみに泣き濡れたる人々よ、貴方たちが此の常苦常悲の人生を超越するために、
私は「人間は久遠不滅、傷つき倒れないものである」との真理を説くであろう。 

私は、再びガス栓(ジェット)の喩(たとえ)に立ち帰る。
一個のガス・ジェットから噴出するガス火焔の形状は、ガス《そのもの》の形ではない。
ガスそのものは死せるものであって、一定の形はない。また一定の意識もない。

しかもガス栓(ジェット)から迸(ほとばし)り出るガス火焔の形は一定である。
昨夜、そのガス栓を開いてマッチで点火したときも、今日そのガス栓を開いて
マッチで点火したときも《同一の形》で焔は燃える

―― だから吾らはこれを認めて《同一の焔》であると考える。
(これが睡眠で中断された意識が、目が覚めて意識が回復されたときに
同自性の意識がそこに起こり、昨日の自己も今日の自己も《同一の自己》である
と感じられる事実に当る。)

併し、これは決して《同一の火焔》ではなく《同一の自己》でもない。
先に説明した如く、同一の火焔は《ない》のであり、
《同一の自己》も其処には《ない》のである。

本来非連続のものが同一空間面に同一の様式で連続し、又は継起するために、
《同一の火焔》または《同一の自己》がそこにあると錯覚するにすぎないのである。

そこで生命の實相哲学では「現象我は《無い》」と云う。
現象我とは大脳の一現象として現れている「我(われ)」なるものであるが、
それが本来無い証拠には大脳を破壊すれば「我(われ)」なる意識は消滅する。

            <感謝合掌 平成29年6月27日 頓首再拝>
16:伝統 :

2017/07/16 (Sun) 04:54:28

          *「生命の實相」第33巻随喜篇(P138~139)より

『生命の實相』を読むと、よく病気が治るという理由は
「肉体は本来ない」という真理が明快に書いてあるための、
読んでいるうちに潜在意識がその肉体から解放される。

いわばもう隣の奥様みたい存在のような気がして、肉体について思い煩わなくなる。

肉体について思い煩わなくなれば、肉体はのびのびして活きて健康となるのです。

本来有る肉体ならば、それは魂の自由を束縛する邪魔物ですから、
槍でついたり、肺病にしてみたり胃病にしてみたり、腎臓病にしてみたりして
苦しめねば、魂の解放が得られませんけれども、
無い肉体を苦しめてみたところがしかたがないから苦しめる必要がなくなるのです。

このように、「肉体本来無し」という「生命の実相」の思想で
肉体の否定が完全に行われますと、肉体を苦しめて魂を浄化せねばならぬ
という潜在意識がなくなってしまうのです。

このような潜在意識がなくなれば、潜在意識が肉体を病気にしない。

したがって「生命の実相」に徹して
「肉体本来なし」と悟れば病気が消えるのであります。

では「肉体なし」と判明したあとの、この肉体と見える人間は何であるか。

それが「物質」であると見えていたのは錯覚であって、
このまま「我」はすでに無限自由のいのちの本体である。

霊的実在 ―― このまますでに完全なるもの ―― と自覚するのです。

この時「物質なる我」は置き換えられて「霊なる我」に変貌するのです。

そして本来罪なき「無原罪の受胎せるもの」となるのです。

病気のありようはありません。


            <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2017/07/21 (Fri) 04:03:20


        *『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より

【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。(『生命の實相』第十五巻)】


南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。

その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。

 「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」

 「老師よ、坐禅をしているのです」

 「坐禅して何になるんじゃな」

 「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」

そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。

若僧は言った ――

 「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」

 「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」

 「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。

   ・・・・・

        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。(『生命の實相』第十二巻)】


南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を待っていたかのように、

 「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。

若僧は驚いた。凡夫が座禅しても仏にはならないこと、
瓦を研いても鏡にならないとしたならば一体どうすべきなのだろうか。

 「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」

 「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
  牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」

若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを
預言されたが、間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」
 と答えたとある。

         <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝>
18:伝統 :

2017/07/23 (Sun) 03:52:59


        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との
截然(せつぜん)たる分離は、南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は一カ月前に自分の死期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、
「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」
とその入滅を予言していられる。

死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
やはり死んで四大に復帰するのですか」などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、車と牛とを切離したのである。

         <感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>
19:伝統 :

2017/08/13 (Sun) 04:54:34


        *「善と福との実現」(P228~229)より

肉体人間の胎に、内在する霊的人間。
肉体はただ「胎」であって真の人間ではないのである。

真の人間は霊的人間であって肉体ではない。
肉体は霊的人間を見ることは出来ず、肉体の感覚は霊的人間を見ることは出来ない。

それでは如何にすれば、霊的人間を自覚することが出来るのであろうか。
霊的人間のみ霊的人間を自覚することが出来るのである。

パウロは「肉体に益なし」と云い、
イエスは「天より降りし者のほか天に昇りしなし」と云い、
肉体人間は天的の自覚、霊的人間の自覚を成熟するものでないことを
説いているのである。

それ故に、肉体の頭脳で考えても、
人間が神の子であり、霊的実在である、と云うことは解らない。

内在の霊的存在(本質の自分)を喚び覚ます者は、霊的実在の声である。
先ず目覚めたる霊的実在の自覚者から喚びかけられる
と云うことが必要であるのである。

此処にこそ宗教家の使命があり、伝道の霊的意義があるのである。

斯くして内在の霊が目覚めて、神の国を見出したとき、
其処に無限の智慧と愛と生命と供給と調和との充満せる
如意自在の世界を発見するすることが出来るのである。

それは「神の国」(実在の国 ―― これ《のみ》が実在である)は
《今》あるのに、それを包んでいた包み(ツミ)が釈き放たれるからである。

         <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>
20:伝統 :

2017/08/27 (Sun) 04:35:09


          *『白鳩』(昭和49年1月2日の箴言)より

   イエスが「人は水と霊とによりて生まれずば神の国に入る能わず」
   といったのは、イエスがユダヤに生まれた当時は、

   洗礼を通して潔められ、〃神の子〃として神の戸籍簿に
   登録されると考えられていたのであって、

   その当時の洗礼の儀式は、司祭が信者になろうとする者を、
   水のなかに、頭から脚先まで全身を押し沈めて、
   肉体を完全に没し去り、

   再び浮び上って来た時には、肉体は既に没して、
   神にってその人は〃霊的実在〃として新生したと認め
   〃神の子〃としての資格を与えられて

   教会の名簿に登録されるというような宗教的儀礼になっていたから、
   「水と霊とによりて生まれる」といったのである。

 
    古代日本にもそれに似た〃禊〃の行事があった。

   〃みそぎ〃は水〃注(みずそそ)ぎ〃という意味もあるが、
   〃身剥ぎ〃であって、肉体を洗い流して肉身を剥ぎ去ること

    ―― すなわち、この〃禊〃の行事を通して
   「最早、われ肉体なし、従ってわれは肉体にあらず、〃神の子〃也」
   の自覚に入ることなのである。

   仏教にも頂(ひたい)に水を潅ぐ
   〃潅頂(かんちょう)〃の行事がある。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

         <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/09/25 (Mon) 03:13:01


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月29日)」より

【私たちの魂は、肉体という衣を着ているにすぎない】

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   死ぬことを心配し、怖がっている人に一言。

   “生きているときは、まだ死んでいないのだから、死を恐れる必要はない”

   “死んだら、もう死んでしまったのだから、死を恐れる必要はない”


   死ぬことは、
   今私たちが住んでいる三次元の世界から単に引っ越しをするだけです。

   私たちの魂は、肉体という衣を着ているにすぎません。


   ですから、今、この三次元の世界で肉体という「貸衣装」を着て
   お付き合いをしている人たちとは、握手したり、抱き合ったりできるならば、
   しておいたほうがいいのです。

   最後に会ったときに眉間にシワを寄せて口が「への字」だったというのは、
   悔いが残るでしょう。

   いつ最期になるかわからないのですから、
   つねに悔いが残らないような触れ合いをしていくことをお勧めします。


   この世界で神様と呼ばれている存在とは、
   肉体という「貸衣装」のレンタル会社の社長のようなものです。

   私たちの魂は、肉体という衣を着ているにすぎません。

   ですから、私たちは最期に、
   神様にその貸衣装をボロボロにして返却したら申しわけないと思います。

   神様だって「この人は、せっかく高級品を貸してあげても
   こんなにボロボロにしてしまうのだったら、次は高級な衣装を貸すのはやめよう」
   と思うのではないでしょうか。


   酒、タバコ、暴飲暴食に加えて「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を
   言い続けて『貸衣装』をボロボロにしてしまった」と思う人は、

   これから死ぬまでの間に、
   肯定的な言葉や「ありがとう」という言葉をたくさん言ってみること。

   「ありがとう」を言うことで、この衣装は修復されるらしい、という
   法則を知った瞬間から、ひたすら実践してみることをお勧めします。


   そうしてボロボロのままではなく、ちゃんと修復して返せば、
   「この人は貸衣装を大事にしてくれるから、
   次は安心して上等な衣を貸してあげようかな」と、
   レンタル会社の社長(神様)はニッコリ笑ってくれるのではないでしょうか。

       <『この世の悩みがゼロになる』大和書房>

              ・・・

我々人類は今もって、生命体をゼロから作り出すことはできない。

大腸菌ひとつ、つくり出すことはできない。

人間の肉体など論外だ。


つまり、それだけ精緻で細部にわたりきめこまかくできている肉体は、
神様からの贈り物と考えるしかない。

しかしながら、自分の肉体は自分のもの、と思っている人は多い。

自分のもの、と思う人は、乱暴だったり、ぞんざいに扱ったりする。

もし、神様からお借りしているのだ、
と思うなら一瞬たりとも粗末に扱うことはできない。


借りて住んでいる家でさえ、
出ていくときは、部屋をよごしたり、傷つけたりしたら修復を要求される。

お借りしている我々の肉体も同じ。

肉体を一番傷つけるのは、我々が日頃使う言葉。

「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」は、人に言っているつもりでも、
実は自分が一番影響を受ける。

なぜなら、自分が一番聞いているからだ。


神様からお借りしている自分の体を大切にしたい。

         <感謝合掌 平成29年9月25日 頓首再拝>

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