伝統板・第二

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肉体《無し》 - 伝統

2016/11/19 (Sat) 03:43:48

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より

「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、
箸を取り始めるより、その年の大晦日の夕べに至るまで、
日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候。

死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、
万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り、その徳おおき事に候。

その仔細を申すに、総じて人間の命(いのち)をば、夕べの露、あしたの霜になぞえて、
随分はかなき物に致し置候中(おきそうろうなか)にも、
ことさら危うきは武士の身命にて候を、人々おのれが心ずましに、
いつまでも長生きをする了簡なるに依(よっ)て、

主君への末永き御奉公、親々への孝養も、末久しき義なりと
存(ぞん)するから事起こりて、主君へも不奉公を仕(つかまつ)り、
親々への孝行も疎略にて罷(まか)り成るにて候(そうろう)、

今日(きょう)ありて、明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ覚悟仕り候に於ては、
主君の御前へ罷り出(い)で、御用を承るも、親々の顔を見上ぐるも、
これをかぎりと罷り成る事もやと、存ずる心あいに相成り候ゆえ、
主君への真実の思い入れと、罷り成らずしてはかなわず候。
さるに依て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候。」


享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。
こんな心得は武士でなくとも、およそ大業を成さんとする者には必要な心構えである。


「日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは全然反対なことのように
思えるかもしれぬが、けっしてそうではないのである。


生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。

ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。

「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、
常住坐臥の時には肉体は死なぬように思い、
肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。

そこで前記『武道初心集』にも「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。


しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に
刻み込まれるのであるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、武士道に協(かな)った生活を生きる
ことになるのである。

「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので
自然法爾に天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。

それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』
と大道寺友山翁が書いたとおりになるのである。

キリストの「生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」
と言った言葉も同じ意味である。

「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。

無病息災になどなろうという心はすでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。

無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。

         <感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>

《肉体を十字架につけて新生せよ》 - 伝統

2016/12/05 (Mon) 03:25:59


           *『生長の家』(昭和25年7月23日の法語)より

   「 人もしキリストにあらば、新たに造られたるものなり。
   古きはすでにすぎさり、見よ、新しくなりたり。」
                 (コリント後書第五章十七節)

   吾々は肉体だと思ってはならないのである。
   肉体はイエスと共に十字架につけ抹殺してしまったのである。

   かくてキリストと共に吾は新生するのである。

   そうでないものは 今すぐ「 肉体無 」 を悟って
   肉体を抹殺しなければならない。

   かくて肉体無を悟る時、
   汝は自己の内にキリストを見、
   新たに造られたるものとなるのである。

   古きはすでにすぎ去り、
   みよ 汝 新しくなり 霊的存在となったのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

         <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>

《キリストの復活》 - 伝統

2016/12/23 (Fri) 04:41:33


         *「光明法語」(12月23日)より

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。

彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。

キリストの十字架の真の意意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。

かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。

         <感謝合掌 平成28年12月23日 頓首再拝>

自己にキリストを降誕せしめること - 伝統

2016/12/25 (Sun) 03:52:12


          *「神と偕に生きる真理365章」(P343)より

真のキリスト降誕祭は、自己の内にキリスト(神の子)が宿っていることを再認識する
魂の悦びを指すのである。

本当に自己の内に神の子が自覚されたならば、心に平和がみたされ、どんな試練にも
耐え忍ぶことができ、躓きと見える中からも復活があらわれて来るのである。

真の自己の内にキリストが宿っていると知ることができるならば、イエスが言ったところの
「十字架を負いてわれに従え」といわれた通りに十字架を負わなければならないのである。
という意味は、十字架は「肉体の抹殺」の象徴である。「肉体なし」と知ることである。

そして肉体を抹殺し、十字架に釘(つ)けた後に、「真の自己」なる「内在のキリスト」の
復活が行なわれ、聖パウロの如く「最早われ生くるに非ず、キリスト我にあって生くるなり」
の自覚によって人間自身の新生が行なわなければならないのである。

「最早われ生くるに非ず」は肉体我を抹殺する十字架を負うことであり、
「キリスト我にあって生くるなり」は真我の復活であるのである。

            <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>

肉体無の真理 - 伝統

2017/01/26 (Thu) 04:58:32


           *「光明道中記」(1月26日)より

【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
                   (『一流の人・妻・子を作るには』)】

生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。

「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る! 

今までの医学は個人医学であったゆえに此の世界から病人を少くすることが
出来なかったのである。

過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。

今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。


肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、

その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。

一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を大御親(おおみおや)として
仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。

            <感謝合掌 平成29年1月26日 頓首再拝>

「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統

2017/01/28 (Sat) 04:25:25

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より

大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和することによって治る。

この反対の心持は病気を招くが、そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。

そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ ―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。

「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。
「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、もう「死〇」はないのである。

生き通しだぞ!  もう不死だぞ!  こういうしか仕方がない。

ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、「死〇」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。

一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。

*〇:ね

            <感謝合掌 平成29年1月28日 頓首再拝>

「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」 - 伝統

2017/03/05 (Sun) 03:54:02


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より

山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。

『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。

それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。

その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。

鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。

明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。

            <感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>

《消ゆる肉体を永遠の存在だと思うな》 - 伝統

2017/03/19 (Sun) 04:36:53


         *『生長の家』(昭和25年7月15日の法語)より

   意志強きものは
   やがて神の国に到達することができるのである。

   愛深きものは
   すでに神の国に到達しているのである。

   智慧明らかなるのもは
   神の国へ行く道を知るのである。

   知り且(か)つ行ずるもののみ
   本当に神の国に住むことができるのである。

   愚かなるものは、
   この消ゆる肉体を永遠の存在であると思い、
   それを追求し それを美しく保ち、

   人に好かれ様と思うのであるけれども、
   彼は 魂のみが本当の存在であるということも知らないのである。

   折角(せっかく)手入れをし 美しくし 人に好かれた肉体も
   やがて衰えしなび美を失いて死するのである。

   肉体は一時の影にすぎないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

            <感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝>

無い肉体に執するから寿命を縮める - 伝統

2017/03/31 (Fri) 04:01:41


           *「光明道中記」(3月31日)より抜粋

【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
 死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している

                    (『人間死んでも死なぬ』)】


「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、
一行でも、御自筆の御返事を戴きたい」

と云う意味の手紙を戴くが、

そんな方には『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。

生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。

人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。

無い肉体に執するから寿命を縮める。

吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。

            <感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>

肉体の「《有》・《無》」を超え、《本当にあるもの》(実相)を把む - 伝統

2017/04/05 (Wed) 03:35:25


           *「光明道中記」(4月5日)より

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                          (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。

もっと拡大して視ることもできるが、
その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」なる理念と合致するから、
その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、

今視えているような肉体の形は肉体そのものの形ではなく、
吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも
相対的には本当であって、絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

            <感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>

自ら戒めて心を傲(おご)らざる日 - 伝統

2017/04/27 (Thu) 05:01:54


           *「光明道中記」(4月27日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

            <感謝合掌 平成29年4月27日 頓首再拝>

肉体は人間ではない - 伝統

2017/05/11 (Thu) 03:16:52


        *「人間死んでも死なぬ」(P328~329)より

マグナッセンの霊界通信に於いては「人間は神より放射される光」であると書かれている。
この「神より放射されたる光」なる人間、私の生命の實相哲学に於いて、
「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の「人」とは果たして如何なるものであろうか。
 
此処に此の原稿を書いている谷口、万年筆を握っている肉体なる谷口、
これは果たして、生命の實相哲学において「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の
「人」であろうか。人間の本質を茲(ここ)で、も少し考えて見たい。

 
明らかに此の肉体なる谷口なる存在は滅ぶべきものである。
それはmortalである。Immortalではない。
否一層精(くわ)しく云うならば、常に滅びつつあるものである。
 
肉体は例えば、燃えつつあるガスの焔(ほのお)の形の如きものである。

生活現象の必須条件として肉体に体温が発生する事実と、呼吸作用と称する酸素交代の現象と、
常に新しきガスを供給するが如く新しき養分を送らなければ消耗して燃える力がなくなる
事実とは、ガスの焔の譬(たとえ)が、人間の生命現象についてもっとも適切なる比喩
であることを表わしている。

ガスジェットから燃え出でるガスの焔の形は、今も、1分間前も10分間前も同一の形状を
して燃えているから、今も1分間前も同じガスの焔であると見えるかも知れないが、
実は今燃えつつある焔は1分間前に燃えていたガスとは別のガスであるのである。

従って今燃えている焔は1分間前の焔とは別の焔である。

別のガスが今燃えていながら、1分間前と同じと思われる形状をしている。
そこで観察者は間違えて同じガスの焔が其処にあると云う。

同じように、別の肉体が今燃えていながら、(即ち別の肉体が呼吸していながら)、
1分間前と同じと思われる形状をしている。
そこで観察者は間違えて同じ肉体が其処にあると云う。

併し事実は全然異なる肉体が、瞬時にして前のものは滅び行きて
時々刻々別なる所の肉体が其処にあるのである。

斯かる肉体を「久遠不滅の人間」と観ずるのは明らかに間違いである。
だから谷口哲学では《肉体は人間ではない》と云うのである。

            <感謝合掌 平成29年5月11日 頓首再拝>

無常なるものが肉体である - 伝統

2017/05/23 (Tue) 04:08:10


        *「人間死んでも死なぬ」(P330~331)より

「肉体」は斯くの如く人間ではない。
「これが人間だ」と捉(とら)えたる「肉体」は、その瞬間もえてしまって
別のものであるのである。斯くの如く吾々は〝人間そのもの〟を捉えることが出来ない。

捉えたる瞬間より、人間《そのもの》は捉うる手の指の股(また)からすべり落ちて
捉えることが出来ないのである。

 
弾丸が飛来して肉体を貫く。
併し人間〝そのもの〟は肉体ではないから、肉体を貫いても
人間〝そのもの〟は貫かれはしないのである。

貫かれたる瞬間の肉体は、次の瞬間にはもう別のものに変じている。
それは燃ゆるガスの焔を棒で貫いたのと同じことである。

貫かれた時、焔の形は変ずる。
併し、形は変じても変じなくとも、焔は常に別のガスの燃ゆる相であって
元の同じ焔ではない。

それと同じく、肉体は弾丸に粉砕されても、粉砕されなくとも、
常にそれ自身粉砕されつつあるものである。

常にそれ自身粉砕されつつあるもの、一瞬間前の相を、
次の瞬間には止めないもの ―― 此れが肉体である。

捉えんとして捉うること能わざるもの、捉えんとする瞬間に
別の相に変ずるもの ―― これが肉体である。
此の無常なるものが肉体である。

無常なものが肉体であると云う言葉に吾々は誤魔化されて、
「無常なるもの」と云う何物かが其処に〝ある〟と考えてはならぬ。

「無常なるもの」とは「存在しないもの」の別語である。
〝それ〟が瞬時も、その現れている儘の相でいられないものであると云うことは、
其処に、〝その現れているもの〟は無いと云うことを意味する。

谷口哲学ではこの事を「現象本来無し」又は一層簡単に「現象無し」と云う。
また続いて、「肉体無し」とも云う。

            <感謝合掌 平成29年5月23日 頓首再拝>

『現象無し』『肉体無し』『死無し』 - 伝統

2017/06/08 (Thu) 04:24:48


        *「人間死んでも死なぬ」(P332~333)より

『現象無し』と云うことは、何にも無いということではない。
其処にその《現れているもの》は無いということである。
現れているものは無いけれども、《現れていないもの》があるのである。

肉体は現れて見える。
肉体は現象であり、現象は無いのであり、従って肉体は無いのである。
現れて見える肉体は無いけれども人間《そのもの》は無いのではない。

人間《そのもの》は厳然として実在する。

併し、人間《そのもの》は五官で見る訳には行かないから
狙撃することも出来ねば、爆撃粉砕することも出来ぬ。

却って狙撃し、爆撃し、粉砕する事が出来るのは本来無いところの肉体の方である。
肉体は《本来無いもの》であるが故に、狙撃し、爆撃し、粉砕し、
これを「無」にまで減少することが出来るのである。

《本来無いもの》は本来ないものであるが故に「無」にまで還元する。
「無」のみが「無」にまで還元する。
《本来無いもの》のみが無くなる。

《ある》ところの人間は本来《ある》限り、決して「無」にまで変化し得ぬ。
《本当の人間》――《人間そのもの》―― は本来あるが故に
「無」とは成り得ない、即ち《死なぬ》。 

《絶対死なぬ》。
人間《そのもの》は絶対死なぬ、
人間《そのもの》は久遠不滅の存在である(*)。


  *私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったという否定すべからざる事実が
   続々起こったり、戦場に於いて生死を超越して奮戦し得た実例を
   数多(あまた)生じたる理由は、それが「《絶対死なぬ》人間《そのもの》」
   なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、
   その哲学を実際生活上に生活し得るように誘導したからである。

   生長の家に哲学が無いという人は、実はその人は、
   私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。

   真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、
   全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、
   哲学《そのもの》は難解なる哲学用語の外にあることをしらなければならない。

   私は哲学を難解なる術語から解放したのである。

   哲学《する》とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。
   真理を如実に把握して生きると云う意味である。

   表現された真理をそのまま読者が生活に生きるように
   押し出す迫力があるのが哲学である。

   哲学は哲学《せしむる》力を持たねばならぬ。

   併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ「生長の家には哲学がない」
   と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも
   哲学的様相を備えて記述したのである。


斯くの如く、肉体は瞬々刹那々々に変滅して痕跡をとどめない。
前なるは既に無いのである。
既に無いものは、初めから無いのである。
 
一瞬間前の肉体と、今の肉体とは全然別物である。
その意味に於いて、肉体は時間的にも非連続のものである。

一瞬一瞬非連続のものがズッと連続して、一継続の存在であるかの如く、
五官に感じられるのは、映画の画面と等しく五官の錯覚によるのである。

映画の画面は、一瞬一瞬非連続の一枚一枚の写真が継続的に
同一平面に投影せられるが故に、非連続なるものが連続せるが如く錯覚され、
個々別々なるフィルムのコマの絵が一連続の如く錯覚されるのである。

映画が錯覚の応用であるが如く、人間の肉体生活も錯覚の応用である。

(『維摩経』方便品第二)

            <感謝合掌 平成29年6月8日 頓首再拝>

《肉体》もなく《自我》もない - 伝統

2017/06/27 (Tue) 04:14:25


        *「人間死んでも死なぬ」(P333~336)より

瞬間瞬間に変滅するところの ―― 変滅するが故に本来無いところの ――
肉体を有の連続と思わせているところのものは錯覚である。

すべての現象的にあるが如く現れているところのものに、
<我>と称すべき常恒常有の連続体は無いのである。

(諸法無我)従って此の肉体が一連続常恒常有の存在だと思われていることが
錯覚であるが如く、此の「我」と思えているところの意識本質も唯(ただ)
かく現れれているだけであって本来無いのだということを知らねばならぬ。

《肉体》もなく《自我》もないのである。
では全てのものは《ない》のであるか。
然り、吾々の五官なく、「我(われ)」と感ずる意識もないのである。
(『般若心経』。無眼耳鼻舌身意。)

「我」という意識も本来ないものであって因縁所生のものであると云うことは
大脳と云う意識所現の「縁」を叩き壊せば消えるので分かる。

斯く肉体なく、自我意識もなく、それらが悉く妄覚であり無常である
と云うならば何が不滅であるか。そのすべてのものが無常であると云う
原理《のみ》が常であり、實相であるか。

仏教の一派ではこの無常の原理のみが實相であり、
無常を悟ることが實相を悟り真理を悟ることであると説いて来た。

無常を悟ることが實相を悟り真理を悟ることであると説いて来たが故に、
小乗仏教では無常に身をゆだねること、灰身滅智、無為にして世を終ることのみが、
真理を生き實相をいきるのだと云うがように間違う者が出来てきたのである。

仏教発祥地及び経由地の亡国はそのためかとおもわれる。

瞬々刹那々々に消滅する肉体 ―― 本来無い肉体 ―― が連続して
五官面に投影されて「我」なる意識の一連続ができあがる。
連続せざるものが連続せるが如く現れて「我」として感じられるのである。

昨日(きのう)腹立ち昂奮(こうふん)したところの「我(われ)」も、
今、家族の不幸に打ちひしがれて悲しみ打ち倒れているところの「我(われ)」も、
一夜の睡眠と云う意識の連続の中断をその間にさし夾(はさ)みながら、
依然として同じき自分であると感じられる。

昨日(きのう)、病床で呻吟(しんぎん)していたところの「我(われ)」も、
今日戦場で傷つき倒れている「我(われ)」も、
共に同じき一つの「我(われ)」であると感じられる。

この立場に立つ限りに於いて、「我(われ)」とは、
腹立ち、喜び、病み、且つ傷つき倒れるものであると感じられる。

かかる観点に立つとき、「我(われ)」と云うものは
まことにも常苦常悲に満たされているものと云わなければならない。

悲しみに泣き濡れたる人々よ、貴方たちが此の常苦常悲の人生を超越するために、
私は「人間は久遠不滅、傷つき倒れないものである」との真理を説くであろう。 

私は、再びガス栓(ジェット)の喩(たとえ)に立ち帰る。
一個のガス・ジェットから噴出するガス火焔の形状は、ガス《そのもの》の形ではない。
ガスそのものは死せるものであって、一定の形はない。また一定の意識もない。

しかもガス栓(ジェット)から迸(ほとばし)り出るガス火焔の形は一定である。
昨夜、そのガス栓を開いてマッチで点火したときも、今日そのガス栓を開いて
マッチで点火したときも《同一の形》で焔は燃える

―― だから吾らはこれを認めて《同一の焔》であると考える。
(これが睡眠で中断された意識が、目が覚めて意識が回復されたときに
同自性の意識がそこに起こり、昨日の自己も今日の自己も《同一の自己》である
と感じられる事実に当る。)

併し、これは決して《同一の火焔》ではなく《同一の自己》でもない。
先に説明した如く、同一の火焔は《ない》のであり、
《同一の自己》も其処には《ない》のである。

本来非連続のものが同一空間面に同一の様式で連続し、又は継起するために、
《同一の火焔》または《同一の自己》がそこにあると錯覚するにすぎないのである。

そこで生命の實相哲学では「現象我は《無い》」と云う。
現象我とは大脳の一現象として現れている「我(われ)」なるものであるが、
それが本来無い証拠には大脳を破壊すれば「我(われ)」なる意識は消滅する。

            <感謝合掌 平成29年6月27日 頓首再拝>

「肉体は本来ない」 - 伝統

2017/07/16 (Sun) 04:54:28

          *「生命の實相」第33巻随喜篇(P138~139)より

『生命の實相』を読むと、よく病気が治るという理由は
「肉体は本来ない」という真理が明快に書いてあるための、
読んでいるうちに潜在意識がその肉体から解放される。

いわばもう隣の奥様みたい存在のような気がして、肉体について思い煩わなくなる。

肉体について思い煩わなくなれば、肉体はのびのびして活きて健康となるのです。

本来有る肉体ならば、それは魂の自由を束縛する邪魔物ですから、
槍でついたり、肺病にしてみたり胃病にしてみたり、腎臓病にしてみたりして
苦しめねば、魂の解放が得られませんけれども、
無い肉体を苦しめてみたところがしかたがないから苦しめる必要がなくなるのです。

このように、「肉体本来無し」という「生命の実相」の思想で
肉体の否定が完全に行われますと、肉体を苦しめて魂を浄化せねばならぬ
という潜在意識がなくなってしまうのです。

このような潜在意識がなくなれば、潜在意識が肉体を病気にしない。

したがって「生命の実相」に徹して
「肉体本来なし」と悟れば病気が消えるのであります。

では「肉体なし」と判明したあとの、この肉体と見える人間は何であるか。

それが「物質」であると見えていたのは錯覚であって、
このまま「我」はすでに無限自由のいのちの本体である。

霊的実在 ―― このまますでに完全なるもの ―― と自覚するのです。

この時「物質なる我」は置き換えられて「霊なる我」に変貌するのです。

そして本来罪なき「無原罪の受胎せるもの」となるのです。

病気のありようはありません。


            <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

「肉体無し」、日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ! - 伝統

2017/07/21 (Fri) 04:03:20


        *『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より

【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。(『生命の實相』第十五巻)】


南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。

その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。

 「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」

 「老師よ、坐禅をしているのです」

 「坐禅して何になるんじゃな」

 「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」

そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。

若僧は言った ――

 「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」

 「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」

 「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。

   ・・・・・

        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。(『生命の實相』第十二巻)】


南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を待っていたかのように、

 「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。

若僧は驚いた。凡夫が座禅しても仏にはならないこと、
瓦を研いても鏡にならないとしたならば一体どうすべきなのだろうか。

 「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」

 「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
  牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」

若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを
預言されたが、間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」
 と答えたとある。

         <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝>

「肉体」無し、「本当の自分」のみあり - 伝統

2017/07/23 (Sun) 03:52:59


        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との
截然(せつぜん)たる分離は、南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は一カ月前に自分の死期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、
「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」
とその入滅を予言していられる。

死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
やはり死んで四大に復帰するのですか」などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、車と牛とを切離したのである。

         <感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>

肉体存在の意義 - 伝統

2017/08/13 (Sun) 04:54:34


        *「善と福との実現」(P228~229)より

肉体人間の胎に、内在する霊的人間。
肉体はただ「胎」であって真の人間ではないのである。

真の人間は霊的人間であって肉体ではない。
肉体は霊的人間を見ることは出来ず、肉体の感覚は霊的人間を見ることは出来ない。

それでは如何にすれば、霊的人間を自覚することが出来るのであろうか。
霊的人間のみ霊的人間を自覚することが出来るのである。

パウロは「肉体に益なし」と云い、
イエスは「天より降りし者のほか天に昇りしなし」と云い、
肉体人間は天的の自覚、霊的人間の自覚を成熟するものでないことを
説いているのである。

それ故に、肉体の頭脳で考えても、
人間が神の子であり、霊的実在である、と云うことは解らない。

内在の霊的存在(本質の自分)を喚び覚ます者は、霊的実在の声である。
先ず目覚めたる霊的実在の自覚者から喚びかけられる
と云うことが必要であるのである。

此処にこそ宗教家の使命があり、伝道の霊的意義があるのである。

斯くして内在の霊が目覚めて、神の国を見出したとき、
其処に無限の智慧と愛と生命と供給と調和との充満せる
如意自在の世界を発見するすることが出来るのである。

それは「神の国」(実在の国 ―― これ《のみ》が実在である)は
《今》あるのに、それを包んでいた包み(ツミ)が釈き放たれるからである。

         <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>

《〃洗礼〃と〃禊〃とを通して》 - 伝統

2017/08/27 (Sun) 04:35:09


          *『白鳩』(昭和49年1月2日の箴言)より

   イエスが「人は水と霊とによりて生まれずば神の国に入る能わず」
   といったのは、イエスがユダヤに生まれた当時は、

   洗礼を通して潔められ、〃神の子〃として神の戸籍簿に
   登録されると考えられていたのであって、

   その当時の洗礼の儀式は、司祭が信者になろうとする者を、
   水のなかに、頭から脚先まで全身を押し沈めて、
   肉体を完全に没し去り、

   再び浮び上って来た時には、肉体は既に没して、
   神にってその人は〃霊的実在〃として新生したと認め
   〃神の子〃としての資格を与えられて

   教会の名簿に登録されるというような宗教的儀礼になっていたから、
   「水と霊とによりて生まれる」といったのである。

 
    古代日本にもそれに似た〃禊〃の行事があった。

   〃みそぎ〃は水〃注(みずそそ)ぎ〃という意味もあるが、
   〃身剥ぎ〃であって、肉体を洗い流して肉身を剥ぎ去ること

    ―― すなわち、この〃禊〃の行事を通して
   「最早、われ肉体なし、従ってわれは肉体にあらず、〃神の子〃也」
   の自覚に入ることなのである。

   仏教にも頂(ひたい)に水を潅ぐ
   〃潅頂(かんちょう)〃の行事がある。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

         <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>

肉体は、神様からレンタルされた「貸衣装」 - 伝統

2017/09/25 (Mon) 03:13:01


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月29日)」より

【私たちの魂は、肉体という衣を着ているにすぎない】

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   死ぬことを心配し、怖がっている人に一言。

   “生きているときは、まだ死んでいないのだから、死を恐れる必要はない”

   “死んだら、もう死んでしまったのだから、死を恐れる必要はない”


   死ぬことは、
   今私たちが住んでいる三次元の世界から単に引っ越しをするだけです。

   私たちの魂は、肉体という衣を着ているにすぎません。


   ですから、今、この三次元の世界で肉体という「貸衣装」を着て
   お付き合いをしている人たちとは、握手したり、抱き合ったりできるならば、
   しておいたほうがいいのです。

   最後に会ったときに眉間にシワを寄せて口が「への字」だったというのは、
   悔いが残るでしょう。

   いつ最期になるかわからないのですから、
   つねに悔いが残らないような触れ合いをしていくことをお勧めします。


   この世界で神様と呼ばれている存在とは、
   肉体という「貸衣装」のレンタル会社の社長のようなものです。

   私たちの魂は、肉体という衣を着ているにすぎません。

   ですから、私たちは最期に、
   神様にその貸衣装をボロボロにして返却したら申しわけないと思います。

   神様だって「この人は、せっかく高級品を貸してあげても
   こんなにボロボロにしてしまうのだったら、次は高級な衣装を貸すのはやめよう」
   と思うのではないでしょうか。


   酒、タバコ、暴飲暴食に加えて「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を
   言い続けて『貸衣装』をボロボロにしてしまった」と思う人は、

   これから死ぬまでの間に、
   肯定的な言葉や「ありがとう」という言葉をたくさん言ってみること。

   「ありがとう」を言うことで、この衣装は修復されるらしい、という
   法則を知った瞬間から、ひたすら実践してみることをお勧めします。


   そうしてボロボロのままではなく、ちゃんと修復して返せば、
   「この人は貸衣装を大事にしてくれるから、
   次は安心して上等な衣を貸してあげようかな」と、
   レンタル会社の社長(神様)はニッコリ笑ってくれるのではないでしょうか。

       <『この世の悩みがゼロになる』大和書房>

              ・・・

我々人類は今もって、生命体をゼロから作り出すことはできない。

大腸菌ひとつ、つくり出すことはできない。

人間の肉体など論外だ。


つまり、それだけ精緻で細部にわたりきめこまかくできている肉体は、
神様からの贈り物と考えるしかない。

しかしながら、自分の肉体は自分のもの、と思っている人は多い。

自分のもの、と思う人は、乱暴だったり、ぞんざいに扱ったりする。

もし、神様からお借りしているのだ、
と思うなら一瞬たりとも粗末に扱うことはできない。


借りて住んでいる家でさえ、
出ていくときは、部屋をよごしたり、傷つけたりしたら修復を要求される。

お借りしている我々の肉体も同じ。

肉体を一番傷つけるのは、我々が日頃使う言葉。

「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」は、人に言っているつもりでも、
実は自分が一番影響を受ける。

なぜなら、自分が一番聞いているからだ。


神様からお借りしている自分の体を大切にしたい。

         <感謝合掌 平成29年9月25日 頓首再拝>

《肉体としての自覚から脱却して》 - 伝統

2017/10/30 (Mon) 04:41:52


       *『 生長の家 』(昭和46年3月6日の法語)より

   肉体というものは毎日死滅しているのである。
   それを普通われわれは新陳代謝と称しているのである。

   即ち 古き細胞は 間断なく死んで
   新生をした細胞と置き換わっているのである。


   「 死すべきものは我にあらず 」 と 『 久遠いのちの歌 』 にあるように、
   そのように新陳代謝する肉体は、人間のほんとうの「 我 」ではない
    ー 「本当の自分」ではないのである。

   肉体というものを「 本当の自分 」だという自覚しかもっていないものは、
   創世記の第二章に録(しる)されているところの
   「土の塵(ちり)にて造られたもの」であり、

   「 汝は塵なれば塵に還るべきなり 」(「 創世記 」第三章十九節)と
   神に宣告されたる者に過ぎないのであって、それには永遠の生命はなく、

   寿命尽きたら“ 塵 ”( 微粒子 ― 宇宙の物質的元素 )に帰るほかは
   ないのである。

   私たちが“ 永遠の生命 ” を得るためには、
   私たちは人間を「 塵 」(物質的元素)の集合体ではなく、
   「 霊的実在 」 であるという自覚にまで復活しなければならないのである。 


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12637259.html

         <感謝合掌 平成29年10月30日 頓首再拝>

肉体を思い煩うことなかれ! - 伝統

2017/11/10 (Fri) 04:43:19


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日~10日)より

人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。

思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。

神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。

そしてだれにも責任を負わせないで、自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。

・・・

人間は「神の子」であるから不死である。
死んだと見える人間は、それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。

病気が治ったことを悟ったためであるというのは、自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。

釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。

         <感謝合掌 平成29年11月10日 頓首再拝>

《人間は肉体に非ず》 - 伝統

2017/11/20 (Mon) 03:57:06


         *『幸福を招く365章』第12項(P255) より

病気は恐怖を去ればその80%は治ったと云ってもよいが、
しかし恐怖心を恐怖することも止(や)めなければならない。

人間の実相は「神の子」であるから病気によっても、恐怖心によっても
滅ぼされるようなものではないのである。

肺臓が何だ、心臓が何だ、脳髄が何だ、血液が何だ、人間は肺臓に非ず、
心臓に非ず、脳髄にあらず、筋肉にあらず、それらすべてを結合したるものにも非ずだ。

人間は霊なり、神の子なり、実相なり。
人間を動かすものは「神の生命」である。

それ以外のものの増減に捉(とら)われてはならないのである。

(初出~「生長の家(昭和25年10月27日)」)

           <感謝合掌 平成29年11月20日 頓首再拝>

「肉体は無いんだ」 - 伝統

2017/12/09 (Sat) 03:41:44


           *『第二青年の書』第五章 より

だから私たちは「物質は無い」「肉体は無い」という大宣言によって
肉体を否定するのです。
「肉体は無いんだ」「物質は無いんだ」と。

それではこの肉体と見えているものは一体何であるか。
これは物質的肉体ではなく、「霊の自己表現」であるんだ
という事を自覚したならば、「霊」と「肉」との二元的対立というものが、
消えて無くなる。

「霊」と「肉」との対立がなくなると、自分を縛っているところの
不自由なものが解消して「霊」の欲するままに「肉体」が支配される
という事になるのであります。

そこに私たちは霊のみの一元的自由自在を得る事になるのであります。

もうこの肉体は物質ではなく、「霊」そのものですから、
それを壊さないでも、霊肉一致の自由自在を得るという事になるのであります。

この悟りによって自由自在を得ることが
所謂生きている儘で涅槃に入ったという事なのであります。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943 より転写)
  (日時:2017年12月06日 (水) 10時32分名前:平賀玄米)

           <感謝合掌 平成29年12月9日 頓首再拝>

『肉体なし』とは盡十方世界盡くわが肉体なりと知るなり - 伝統

2017/12/29 (Fri) 04:30:13


         *「美しき生活」(P118)より

『肉体無し』とは、肉体を胡魔化すに非ざるなり。
肉体に眼を瞑(と)ずるに非ざるなり。

『肉体なし』とは盡十方世界盡くわが肉体なりと知るなり。
盡十方世界盡くわれそのものなりと知るなり。
盡十方世界盡くわが肉体なるが故に、この個肉体無きなり。
『私』なきなり。
 
今知る、真実の人間は盡十方世界なりと。
個人間を生きず、盡十方世界のために生くるが人間なり。
これまことを生くるなり。

『信』を生くるなり。
『神』を生くるなり。
『神』が人間そのものなり。

真実人間とは盡十方世界なり。

           <感謝合掌 平成29年12月29日 頓首再拝>

肉体は無い、人間は本来生であるから《死なぬ》 - 伝統

2018/01/14 (Sun) 03:33:45


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月14日)より

人間は死なぬというのが生長の家の教えである。
それは生死を超越した「実相の本来生」なのである。
生滅は仮の相(すがた)である。

「肉体は本来無い」と説いているのが生長の家の教えである。
「無い」ものには死にようがないのである。
「肉体は無い、人間は本来生であるから《死なぬ》」と説くのである。

われら「久遠生命(せいめい)」と説くといえども、「《死ぬな》」ではない。
「《死なぬ》」である。死にようがない自覚である。
ここに無限の勇気が湧く。

「《死ぬな》」には死の予想がある。
「死ぬかもしれぬ」と思う予想があればこそ「死ぬな」と世人は言おう。
だから予想することは現れるという法則で、「《死ぬな》」と言えば勇気がくだける。

「《死なぬ》」と言えば勇気が湧き出る。
「死ぬな」「死なぬ」 ―― よく似ている言葉だけれども、全然違う。
この言葉の使いようを誤ってはならぬ。

            <感謝合掌 平成30年1月14日 頓首再拝>

肉体無の真理を知り、生命の《ひとつ》流れを把握する - 伝統

2018/01/26 (Fri) 03:48:05


           *「光明道中記」(1月26日万事和する日)より

【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
                   (『一流の人・妻・子を作るには』)】

生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに
深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。

「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る! 

今までの医学は個人医学であったゆえに此の世界から病人を少くすることが
出来なかったのである。

過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。

今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。


肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、

その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。

一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を
大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、
皮膚の色、眼の色などを見ていないで、生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。

            <感謝合掌 平成30年1月26日 頓首再拝>

「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統

2018/01/28 (Sun) 04:07:11

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より

大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和することによって治る。

この反対の心持は病気を招くが、そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。

そういう人々にはまず「死○」と喝(かつ)せよ ―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死○」さえも粉砕する。

「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。
「死○」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、もう「死○」はないのである。

生き通しだぞ!  もう不死だぞ!  こういうしか仕方がない。

ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、「死○」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。

一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。

*○:ね

            <感謝合掌 平成30年1月28日 頓首再拝>

《肉体は生命の乗馬》 - 伝統

2018/02/16 (Fri) 04:08:19


       *『 生長の家 』(昭和24年3月19日の法語)より

   吾々は 如何に豊かに天賦の才能があろうとも、
   その天賦の才能の、表出口である所の肉体が、
   完全に内部の生命力を表現し得るような調和した場合にない場合には、

   天賦の才能も徒(いたずら)に表現することを得ずして、
   その人は 無駄に一生を徒費(とひ)してしまわねばならないのである。

   どんな立派な騎手も、その馬が衰えたり、駄馬になってしまっては
   競争に優勝することは出来ないのである。

   霊魂は騎手であり、
   肉体は それに乗って人生を走るところの 「 馬 」 である。

   競馬の騎手はどんなにその乗馬を大切にするか。
   人間が 「 乗馬 」 ほどにも肉体を大切にしないのは驚いたことである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/38206a9621f5c0c5901a36ffcc053d47

            <感謝合掌 平成30年2月16日 頓首再拝>

「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」 - 伝統

2018/03/05 (Mon) 04:42:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より

山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。

『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。

それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。

その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。

鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。

明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。

            <感謝合掌 平成30年3月5日 頓首再拝>

人間は普遍な大生命の表現体 - 伝統

2018/03/23 (Fri) 03:58:56


        *『希望を叶える365章』(P32~33)より

人間は神である。肉体が神なのではない。「肉体は無い」のである。
神が神なのである。生命(せいめい)が生命(せいめい)なのである。

〝さとり〟と云うものは、肉体が《ない》ことを知り、
此処に今「霊」なる人間 ―― 神なる人間が実在することを如実に、
端的に知ることなのである。

年老い、病み、白髪が出来、老眼鏡をかけている
”肉体の人間”が神なのではない。

其処にその”肉体の人間”があらわされている其の奥にある
「霊妙きわまりなき存在」それが人間そのものであり、
「神」であり、荘厳きわまわりなき「霊」なる生命(せいめい)なのである。

「人間は神である」と云う場合には、
一切の創造者であり、全智にして全能、無限愛にして無限生命であり、
無限の資源であり、無限の大調和であるところの”普遍者なる霊”なる神が、
今此処に、「個」の出口を通して顔を出していると云うことである。

「個」は「孤人」ではなくして、普遍なる大生命の噴出口、表現体であることである。

            <感謝合掌 平成30年3月23日 頓首再拝>

「肉体無し」と一躍超入せよ - 伝統

2018/03/31 (Sat) 03:36:56


           *「光明道中記」(3月31日 平らかな心の日)より抜粋

【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
 死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している
                   (『人間死んでも死なぬ』)】


「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、一行でも、
御自筆の御返事を戴きたい」と云う意味の手紙を戴くが、
そんな方には『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。

生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。

人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。

無い肉体に執するから寿命を縮める。

吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。

            <感謝合掌 平成30年3月31日 頓首再拝>

肉体の形は《自分の心の中にある》 - 伝統

2018/04/05 (Thu) 04:07:26


           *「光明道中記」(4月5日 人に宿る美を知る日)より

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                          (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」
なる理念と合致するから、その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、今視えているような
肉体の形は肉体そのものの形ではなく、吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも
相対的には本当であって、絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

            <感謝合掌 平成30年4月5日 頓首再拝>

《みずからを「土の塵」として神から絶縁したる人間》 - 伝統

2018/04/20 (Fri) 04:47:07


       *『 生長の家 』(昭和46年3月7日の法語)より

   土の塵にてつくられたる肉体人間 ― アダムとイヴとが、
   蛇の知識にて瞞(だま)され「 知識の樹(こ)の果(み) 」
   を食して、知識が愈々(いよいよ)明らかとなり、

   「 自分というものの本質が、物質分子の集合体に過ぎない 」
   と科学的に究明せられたとき、

   アダムとイヴとは、エデンの楽園 ( 神の祝福の満ちみちた世界 )
   から追放されることになったのである。

   「 追放される 」 とは、神の “ 祝福 ” 又は “ 神の護り ” から
   断絶状態に置かれたという意味であって、
   ある地域から地域に移送せられたという意味ではないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12641456.html

            <感謝合掌 平成30年4月20日 頓首再拝>

肉体は、人間の操縦機関にすぎない - 伝統

2018/04/21 (Sat) 03:29:05


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月21日)」より

英国の文豪ディッケンズは
『エドウィン・ドウロッドの秘密』という小説を書きかけて死んだ。

その後4年になって、米国のジェームズという霊媒
 ―― しかも彼は無学であった ―― が
ディッケンズの霊魂が憑り依(うつ)ったのだと称してその小説の後半を書いた。

その文体なり、筆跡なり、いちじるしくディッケンズに似ていたという。


私はオスカー・ワイルドの霊魂が憑り依って書いたという
自動書記の霊界通信を纂(あつ)めた本を持っている。
それには生前のワイルドの筆跡と霊界通信の文字とが比較して
写真版に撮られているが、筆跡がきわめて近似している。


肉体は人間ではない。人間の操縦機関であったにすぎないのだ。

            <感謝合掌 平成26年4月21日 頓首再拝>

《物質身の衣を脱ぎすてよ》 - 伝統

2018/05/16 (Wed) 03:21:57

      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P272~273)より

自己の霊的自覚が深まって来るに随って、その程度に応じて、肉体は霊化され、
物質的な衰弱や疲労や労須地が肉体にあらわれて来る程度が減じて来ます。

人体が霊化するに随って、人間は愈々神の最高の自己実現としての役割を
一層完全に果たすことができるようになるのです。

 
神は霊的実在でありますから、神の最高実現としての役割を果たすには、
自己を単なる「物質的存在」だと観ている限りに於ては充分な役割は果たせません。

霊なる神の最高実現としての役割を完全に果たすには、
自己が「霊的実在」であると云う自覚から出発して、
其処から全知全能の「神の力」を引き出して来なければなりません。

心の世界から「物質身」の衣を脱ぎすて「霊なる体」を身に着けなさい。

            <感謝合掌 平成30年5月16日 頓首再拝>

《物質の装いをつけた生命》 - 伝統

2018/06/08 (Fri) 04:48:36


      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P273~274)より

生命(せいめい)なきものから生命(せいめい)は生じない。
物質から生命(せいめい)は生まれたのではなく、
物質は生命(せいめい)の創造したものである。

だから単に物質の最初の示現と見えているような簡単な「原子」構想に於てすらも、
そこの「知性」の影がやどっているのである。

それが結合したり分離するのが一定の秩序性を以(も)って法則によって
行われるのが、それを証明しているのである。

それみずからによって秩序性を以って法則によって行われるのが、
それを証明しているのである。

それみずからによって秩序を保つものは「生命(せいめい)」であり、「知性」である。
それは実は「物質」の装いをつけたところの「霊」であり「生命(せいめい)」である。

ただし吾々が知識や学問によって、人間を「物質」だと思いちがいし、
「物質」の装いをつけたときには、

「生命の完全な姿」は恰もアダムが「知恵の樹の実を食った揚句、
無花果の葉を綴ってその体を覆った」ときにその霊的完全なる姿が失われて
エデンの楽園から追放せられたように、「完全健康」の世界から追放せられるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月8日 頓首再拝>

《“ 肉体 ”という皮袋を装って》 - 伝統

2018/06/25 (Mon) 03:31:37


        *『 生長の家 』(昭和46年3月16日の法語)より

   肉体という“皮袋”を装って生まれ出たために、
   霊的感覚を謂わば“目隠し”されているようなのが人間である。

   そんな人間が“霊”そのものなる“神の国”への旅をつづけるには
   余程の勇気と忍耐と努力の継続とを必要とするのである。

   私たちは、時々、その目隠しを外して、霊的世界を直視する努力を
   続けなければならないのである。

   即ち 眼を瞑(と)じ、肉体の感覚を蕩尽(とうじん)して、
   ひたすら心を“実相の世界”に振り向け、

   その“神の国”の状態と、
   “神の国”に棲む一切生物の調和せる状態とを凝視して、
   その印象を肉体の潜在意識に刻みつけ、

   その潜在意識の波長が、常に、“実相世界”(神の国)の状態を
   現象世界にそのまま歪めずに映出する“媒介”となるように
   しなければならないのである。

   私たちの潜在意識の波長が常に“実相世界”(神の国)の波長と
   合うようになっているならば、つねにスイッチを入れて
   放送局にアンテナを向けて波長の微調整を終ったテレビ・セットのように、
   “神の国”そのままの映像を現象世界に常に実現することが
   できるようになるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12681508.html

            <感謝合掌 平成30年6月25日 頓首再拝>

肉体は、例えば、燃えつつあるガスの焔(ほのお)の形の如きものである。 - 伝統

2018/07/16 (Mon) 07:18:15


        *「人間死んでも死なぬ」(P328~331)より

マグナッセンの霊界通信に於いては「人間は神より放射される光」である
と書かれている。この「神より放射されたる光」なる人間、
私の生命の實相哲学に於いて、「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の
「人」とは果たして如何なるものであろうか。

此処に此の原稿を書いている谷口、万年筆を握っている肉体なる谷口、
これは果たして、生命の實相哲学において「人は久遠不滅の存在である」
と云う場合の「人」であろうか。人間の本質を茲(ここ)で、も少し考えて見たい。


明らかに此の肉体なる谷口なる存在は滅ぶべきものである。
それはmortalである。Immortalではない。
否一層精(くわ)しく云うならば、常に滅びつつあるものである。

肉体は例えば、燃えつつあるガスの焔(ほのお)の形の如きものである。
生活現象の必須条件として肉体に体温が発生する事実と、
呼吸作用と称する酸素交代の現象と、常に新しきガスを供給するが如く
新しき養分を送らなければ消耗して燃える力がなくなる事実とは、
ガスの焔の譬(たとえ)が、人間の生命現象についてもっとも
適切なる比喩であることを表わしている。

ガスジェットから燃え出でるガスの焔の形は、
今も、1分間前も10分間前も同一の形状をして燃えているから、
今も1分間前も同じガスの焔であると見えるかも知れないが、
実は今燃えつつある焔は1分間前に燃えていたガスとは別のガスであるのである。

従って今燃えている焔は1分間前の焔とは別の焔である。

別のガスが今燃えていながら、1分間前と同じと思われる形状をしている。
そこで観察者は間違えて同じガスの焔が其処にあると云う。

同じように、別の肉体が今燃えていながら、(即ち別の肉体が呼吸していながら)、
1分間前と同じと思われる形状をしている。

そこで観察者は間違えて同じ肉体が其処にあると云う。

併し事実は全然異なる肉体が、瞬時にして前のものは滅び行きて
時々刻々別なる所の肉体が其処にあるのである。
斯かる肉体を「久遠不滅の人間」と観ずるのは明らかに間違いである。

だから谷口哲学では“肉体は人間ではない”と云うのである。

「肉体」は斯くの如く人間ではない。
「これが人間だ」と捉えたる「肉体」は、
その瞬間もえてしまって別のものであるのである。

斯くの如く吾々は“人間そのもの”を捉えることが出来ない。
捉えたる瞬間より、人間そのものは捉うる手の指の股(また)から
すべり落ちて捉えることが出来ないのである。

弾丸が飛来して肉体を貫く。
併し人間“そのもの”は肉体ではないから、肉体を貫いても
人間“そのもの”は貫かれはしないのである。

貫かれたる瞬間の肉体は、次の瞬間にはもう別のものに変じている。
それは燃ゆるガスの焔を棒で貫いたのと同じことである。
貫かれた時、焔の形は変ずる。

併し、形は変じても変じなくとも、
焔は常に別のガスの燃ゆる相であって元の同じ焔ではない。

それと同じく、肉体は弾丸に粉砕されても、粉砕されなくとも、
常にそれ自身粉砕されつつあるものである。

常にそれ自身粉砕されつつあるもの、一瞬間前の相を、
次の瞬間には止めないもの――此れが肉体である。

捉えんとして捉うること能わざるもの、捉えんとする瞬間に
別の相に変ずるもの――これが肉体である。

此の無常なるものが肉体である。

無常なものが肉体であると云う言葉に吾々は誤魔化されて、
「無常なるもの」と云う何物かが其処に“ある”と考えてはならぬ。

「無常なるもの」とは「存在しないもの」の別語である。
“それ”が瞬時も、その現れている儘の相でいられないものであると云うことは、
其処に、“その現れているもの”は<無い>と云うことを意味する。

谷口哲学ではこの事を「現象本来無し」又は一層簡単に「現象無し」と云う。
また続いて、「肉体無し」とも云う。

            <感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>

人間とは形なき霊である - 伝統

2018/07/19 (Thu) 04:20:15


        *『光明道中記(7月19日 久遠人間を自覚する日)』より

【「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には永遠の生命が与えられる。
                         (『生命の實相』第七巻)】


六祖慧能禅師の道場にも俊秀(しゅんしゅう)雲の如く集った。
なかにも最もすぐれて、後世に永く法孫(ほうそん)を連綿として断たなかったのは
南獄(なんがく)の懐譲(えじょう)禅師と青原の行思(ぎょうし)禅師とである。

南獄は黄檗宗、臨済宗の祖であり、青原は曹洞宗の開山である。

南獄が六祖慧能禅師を訪れたとき、慧能は、

「汝(なんじ)は何処から来たのじゃ」とたずねた。

「嵩山(すうざん)から参りました」と答えると、
「その参りましたというのは、一体何物が来たのじゃ」と重ねて問われた。

「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と南獄は答えた。

印加された。

説似(せつじ)と云うのは説示(せつじ)と同じことである。
禅宗には「挙示(こじ)」「挙似(こじ)」など同一に取扱ってある。
「《これ》だとハッキリ言って了ったら《それ》に的中しない」という意味である。

「維摩経」には維摩詰が病気の相(すがた)をしていると文殊菩薩が見舞に来て
「不来(ふらい)の相(そう)で来(きた)る」と言っている。
不来にして来るのが如来である。

超時空的存在が人間である。

「来たと云うのは此の人間だ」と顔を指(さ)そうが、胸を指そうが、
指(ゆびさ)したが最後、それは「物質」の一片「肉」の一片であって人間ではない。

人間とは形なき霊なる、
「説似一物即不中(これだとものをさしたらあたらず)」なのである。

         <感謝合掌 平成30年7月19日 頓首再拝>

肉体は無い、人間は久遠不滅の存在 - 伝統

2018/08/04 (Sat) 05:03:29


         *『人間死んでも死なぬ』(P331~332)より

『現象無し』と云うことは、何にも無いということではない。
其処にその《現れているもの》は無いということである。
現れているものは無いけれども、《現れていないもの》が《ある》のである。


肉体は現れて見える。
肉体は現象であり、現象は無いのであり、従って肉体は無いのである。

現れて見える肉体は無いけれども人間《そのもの》は無いのではない。
人間《そのもの》は厳然として実在する。

併し、人間《そのもの》は五官で見る訳には行かないから狙撃することも出来ねば、
爆撃粉砕することも出来ぬ。
却って狙撃し、爆撃し、粉砕する事が出来るのは本来無いところの肉体の方である。

肉体は《本来無いもの》であるが故に、狙撃し、爆撃し、粉砕し、
これを「無」にまで減少することが出来るのである。

《本来無いもの》は本来ないものであるが故に「無」にまで還元する。

「無」のみが「無」にまで還元する。
《本来無いもの》のみが無くなる。
《ある》ところの人間は本来《ある》限り、決して「無」にまで変化し得ぬ。

《本当の人間》――《人間そのもの》―― は本来あるが故に
「無」とは成り得ない、即ち《死なぬ》。
《絶対死なぬ》。
人間《そのもの》は絶対死なぬ、人間《そのもの》は久遠不滅の存在である。

         <感謝合掌 平成30年8月4日 頓首再拝>

肉体は無い、肉体生活は《錯覚の応用》である - 伝統

2018/08/26 (Sun) 04:44:51


         *『人間死んでも死なぬ』(P332~333)より

    私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったという否定すべからざる
    事実が続々起こったり、戦場に於いて生死を超越して奮戦し得た実例を
    数多(あまた)生じたる理由は、それが「《絶対死なぬ人間そのもの》」
    なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、
    その哲学を実際生活上に生活し得るように誘導したからである。

    生長の家に哲学が無いという人は、実はその人は、
    私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。

    真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、
    全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、哲学《そのもの》は
    難解なる哲学用語の外にあることを知らなければならない。

    私は哲学を難解なる術語から解放したのである。
    哲学《する》とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。

    真理を如実に把握して生きると云う意味である。

    表現された真理をそのまま読者が生活に生きるように
    押し出す迫力があるのが哲学である。

    哲学は哲学《せしむる》力を持たねばならぬ。
    併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ「生長の家には哲学がない」
    と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも哲学的様相を備えて
    記述したのである。


斯くの如く、肉体は瞬々刹那々々に変滅して痕跡をとどめない。
《前なるは既に無いのである。既に無いものは、初めから無いのである。》

一瞬間前の肉体と、今の肉体とは全然別物である。
その意味に於いて、肉体は時間的にも非連続のものである。

一瞬一瞬非連続のものがズッと連続して、一継続の存在であるかの如く、
五官に感じられるのは、映画の画面と等しく五官の錯覚によるのである。

 
映画の画面は、一瞬一瞬非連続の一枚一枚の写真が継続的に同一平面に
投影せられるが故に、非連続なるものが連続せるが如く錯覚され、
個々別々なるフィルムのコマの絵が一連続の如く錯覚されるのである。

映画が《錯覚の応用》であるが如く、人間の肉体生活も《錯覚の応用》である。

(『維摩経』方便品第二)

         <感謝合掌 平成30年8月26日 頓首再拝>

神の国に入るには、肉体なしの自覚に入ることが必要 - 伝統

2018/09/29 (Sat) 03:30:44


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P98~100)より

(八)
   幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。
                     (「マタイ伝」第5章3)


   茲(ここ)にパリサイ人にて名をニコデモという人あり、ユダヤ人の宰(つかさ)なり。
   夜イエスの許(もと)に来たりて言う、
   「ラビ、我らは汝の神より来たる師なるを知る、神もし偕(とも)に在(いま)さずば、
   汝が行なうこれらの徴(しるし)は誰もなし能わぬなり。」

   イエス答えて言い給う、
   「まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の国を見ること能わず。」

   ニコデモ言う、
   「人はや老いぬれば、争(いか)で生まるる事を得んや、
   再び母の胎に入りて生まるることを得んや。」

   イエス答え給う。
   「まことに誠に汝に告ぐ、……肉によりて生まるる者は肉なり、霊によりて
   生まるる者は霊なり。なんじら新たに生まるべしと我が汝に言いしを怪しむな。
   風は己が好むところに吹く、汝その声を聞けども、何処より来たり何処へ往くを知らず。
   すべて霊によりて生まるる者も斯くの如し。」

   ニコデモ答えて言う、
   「いかで斯かる事どものあり得べき」

   イエス答えて言い給う、
   「なんじはイスラエルの師にして猶かかる事どもを知らぬか。
   誠にまことに汝に告ぐ、我ら知ることを語り、また見しことを証(あかし)す、
   然るに汝らその証を受けず。われ地のことを言うに汝ら信ぜずば、天のことを言わんに
   争(いか)で信ぜんや。天より降りし者、即ち人の子の他には、天に昇りし者なし。」
                           (「ヨハネ伝)第3章1~13)


「肉」によりて生まるる者は肉なり」とイエスは言い給うているのであります。
この肉体を「人間」そのものだと思っていて、それを新たに生まれ更わらせようと思っても、
依然として肉によりて生まるる者は肉なのであります。

われわれが神の国に入るためには、(神の国に病人などはない)
自己自身が肉でないという自覚に立ち復(かえ)ることが必要なのであります。

「知恵の樹の果」すなわち五官知にまどわされて「汝は塵なれば塵に帰るべきなり」と
宣告せられた原罪後の人間から脱却して、

イエスのいわゆる「天より降りし者」(すなわち神聖降誕なる人間)たる自覚に立ち帰るには
どうしても「肉なる存在」としての人間の自覚(「肉より生まれし者は肉なり」)から
脱却しなければならないのであります。


それにはなんらかの形式で肉体の否定をしなければならない。

イエスの硺殺(はりつけ)を通してイエスの贖(あがな)いを信じて、
イエスの肉体抹殺と一体につながる自覚によって、自己の肉体のいっさいの罪が消えたと
信じて、霊なる自分に復活することも一つの方法であります。

あるいは「人間は神の子だ」という直接体験の真理をそのまま幼児(おさなご)の心になって
信ずることもその一つの方法であります。

あるいは「人間は神の子だ」という直接体験の真理をそのまま幼児の心になって
信ずることもその一つの方法であります。

あるいは「物質本来無」という新興物理学の理論を基礎として
「肉体本来無」を悟る近代的哲学で悟ることも一つの方法であります。


イエスの説教のしかたは直接体験の直接説法でありましたから
「吾ら知ることを語り、見しことを証(あかし)す」と言っていられるのであります。

人間が神の子であり、霊的存在であるということは自内証の真理であります。

それは哲学的に理論で追いつめて行く方法(谷口哲学、またはヘーゲル哲学のごとき)も
ありますが、どうしてもそれが単なる哲学に止(とど)まっていては、富士山の周囲から
眺めて行く方法であって、富士山そのものの頂上を踏破したようにハッキリ、
生命の頂上に出て一点の曇りなき青空を仰ぐようには生命をつかみえないのであります。

そこで生命の本性の絶対認識には宗教的直接把握が必要なのであります。

         <感謝合掌 平成30年9月29日 頓首再拝>

肉体を思い煩うことなかれ! - 伝統

2018/11/10 (Sat) 03:47:42


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日~10日)より

人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。

思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。

神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。

そしてだれにも責任を負わせないで、自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。

・・・

人間は「神の子」であるから不死である。
死んだと見える人間は、それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。

病気が治ったことを悟ったためであるというのは、自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。

釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。

         <感謝合掌 平成30年11月10日 頓首再拝>

肉体《無し》 - 伝統

2018/11/19 (Mon) 03:18:41


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より

(前半略~大道寺友山翁・著『武道初心集』からの引用)

「日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは全然反対なことのように
思えるかもしれぬが、けっしてそうではないのである。


生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。

ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。

「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、
常住坐臥の時には肉体は死なぬように思い、
肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。

そこで前記『武道初心集』にも
「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。


しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に
刻み込まれるのであるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、武士道に協(かな)った生活を生きる
ことになるのである。

「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので
自然法爾に天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。

それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』
と大道寺友山翁が書いたとおりになるのである。

キリストの「生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」
と言った言葉も同じ意味である。

「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。

無病息災になどなろうという心はすでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。

無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。

         <感謝合掌 平成30年11月19日 頓首再拝>

《肉体は「人間の被服」に過ぎない》 - 伝統

2018/12/09 (Sun) 04:11:57


       *『人生の秘訣365章』第10篇(P248) より

「物質」なる肉体はそれ自体には精神がなく、
それは霊によって賦活せしめられ、
生理作用や精神状態を発生するのである。

霊が肉体を去れば、それは唯の物質に過ぎない。

生きているのは物質ではなくて、
それに宿るところの“霊”のはたらきであって、

“霊”が宿ることによって、
無生物なる物質が「生きている肉体」と化するのである。

この事実から考えて見るならば、“霊”こそ「人間そのもの」であって、
“肉体”は「人間の被服」に過ぎないと云うことが分かる。

その「人間の被服」は誰がこしらえたのであるかと言うと、
矢張り霊が時間空間的現象面に適する道具として造ったものである。
そして間断なくその消耗を、霊は内部から修理しつつあるのである。

物質そのものは、自己の消耗を自分で修理することはできない。
どこに如何なる消耗が出来ているかを知るのは脳髄の智によるのではなく、
内部の霊の智(ち)によるのである。

         <感謝合掌 平成30年12月9日 頓首再拝>

『霊的実在』としての自覚 - 伝統

2018/12/22 (Sat) 04:27:18


          *「光明法語」(12月21日~22日)より)

《自己を死に切る》

『悔改め』を佛教では『懺悔』と言い、自己放棄と言い、
パウロは『自己を死に切る』と言った。
一遍、肉体としての自分を死に切ったとき、霊の自分に復活(よみがえる)るのである。

自分を肉体だと思っている限りに於いて、
人間はエデンの楽園から追放せられなければならない。

自分を肉体だと思う知恵は、地(物質)に執した蛇の知恵である。
蛇は地を這う動物であり、地は物質を表徴し、

物質ありとして執着する五官を『蛇』をもってあらわし、
その蛇に教えられたる知恵を『知恵の樹の果』をもって表徴する。

・・・

《新たに生まれる》 

知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。

人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。

『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。

だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。

物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。

これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。

         <感謝合掌 平成30年12月22日 頓首再拝>

《キリストの復活》 - 伝統

2018/12/23 (Sun) 04:39:22


          *「光明法語」(12月23日)より)

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。

彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。

キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。

かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。

         <感謝合掌 平成30年12月23日 頓首再拝>

生命の神秘を拝む日 - 伝統

2019/01/12 (Sat) 04:22:33


           *「光明道中記」(1月12日)より

【自療力さえ誘導されたならばあとは治るのであります。(『生命の實相』第ニ巻)】

肉体はそれ自身の力で生理作用を営むのではない。
血液は肉体の機械的構造によってのみ循環するのではない。

それは毛細現象と云う毛細管が液体を吸着する力によってのみ循環するのではない。
毛細血管は心臓の如く脈動し、心臓の如く弁を備えて
血液を循環せしめる輔(たすけ)をする。
それ故に血液循環の原動力は心臓にあらずして
毛細血管の物理的構造にあると説を立てる人もある。

併し物理的条件は生命のつくった利用し得べき装置にあるに過ぎないから、
1分間前に脈動していた血管も心臓も、「生命」が其処を去るならば、
その物理的構造は1分間前と同様であっても、もう血液は循環しなくなるのである。

所詮は物理的構造はその補助であって、生命機能の本体ではないのである。
生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って肉体と云う装置を支配している。
そのためにこそ肉体は「生命体」として普通の物質を試験管に入れたのとは異なる
物理化学的発展を遂げるのである。

生命がその操縦波を送らなくなったとき死と言い、
またその操縦波が恐怖、懊悩、心配、煩悶、憤怒、呪詛等によって
攪乱せられたる状態を病と言う。

            <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>

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