伝統板・第二

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神は愛なり② - 伝統

2016/11/18 (Fri) 03:53:36

      *伝統板・第二「神は愛なり①」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251


全人類同胞の自覚と愛とを深める祈り

         *「光の泉」(昭和54年8月号・日々読誦毎月真理経)より

世界同胞、すべての人類が“神の子”であり、
われわれすべての人間が互いに兄弟姉妹であり、
神に対して親子関係にあるという親密な愛情関係に在るということは、

われわれ“神の子”が、神さまなる親様からわれらに授けられたる大なる資産である
と謂うことが出来るのである。

われわれ人間・神の子は、すべて各自の生命の中心に
“永遠なるもの”“無限なるもの”が宿っており、その永遠者、無限者を通じて、
われわれ“神の子”たちは各自の生命の中核に於いて
互いに一体なる円環なるものを形造っているのである。

その互いに円環を形成する生命の一体感の自覚を“愛”と称するのである。
それ故に私はすべての人間を愛するのである。

その愛の円環のつながりが毀(やぶ)れない限り、人間はすべての人間を愛するし、
その愛を通して互いの一体感の自覚は増幅して、共感し、共鳴し、交響楽となって、
生命の生き甲斐を互いに高唱し合うのである。

われわれの本当の“自我”は、神の生命である。
それは永遠なる者であり、神と一体なる者であり、
常楽にして滅びざるところの存在である。

本当の自我には“孤独感”は無いのである。
それは“永遠”に結び着き、“無限”につながるものであるからである。

私が生きているという事は、ここに神が生きているのである。
その自覚は聖なる歓喜であり、浄なる恭悦である。
歓喜の自覚の中にすべての人類の魂の浄らかなる恭悦が相倶(とも)に脈搏っているのである。

わたしは今、自己の生命の中に如来蔵を感ずる。
凡夫はひとりもいないし、罪人はひとりもいないのである。

私はすべての人間の内に如来の実在を感じ知るのである。
わたしはすべての人間を如来として愛せずにはいられないのである。

“愛する”その極点が礼拝である。
わたしはすべての人間を礼拝せずにはいられないのである。
わたしがすべての人間を礼拝するとき、すべての人間はわたしを礼拝するのである。

そして私がすべての人を愛するとき、
その愛は聖なる愛であって、執着の愛ではないのである。

それは礼拝の愛であり、敬虔の愛であり、
人それぞれに宿っている神の子たちの“個性”を尊ぶ愛である。

すべての人間が等しく“神の子”であるにせよ、
神さまなる親様は無限の個性を内に蔵し給うが故に、
すべての人間・神の子に各々異なる特色ある個性を授けていたまうのである。

それゆえに、各人の個性が清らかにハッキリ実現すればする程
決して互いに衝突することなく、互いの個性は互いに協力し合い、
互いの進歩に貢献し合うことになっているのである。

神さまなる親さまの全包容てきな寛(ひろ)き大(ひろ)き御愛を礼拝し、
その御配慮に感謝し奉る。

ありがとうございます。

  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )

         <感謝合掌 平成28年11月18日 頓首再拝>

神の愛の抱擁を思念せよ - 伝統

2016/11/22 (Tue) 03:12:40


          *「光明法語」(11月22日の法語)より

更に次の如く思念せよ。

「神の愛の抱擁は優しいのである。
無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが
故に、私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな神の愛に触れているのである。
だからどんなイライラしさも、どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。

神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」

         <感謝合掌 平成28年11月22日 頓首再拝>

いのちとは、どれだけ愛を放ったか - 伝統

2016/12/08 (Thu) 03:12:07


          *「こうすれば、夢はあっさりかないます!」はせくら みゆき・著
            P216~218 より

つねに目の前のことに愛をこめること、愛をもって行動し、
愛をもって言葉を語り、愛をもって思うことが次のよい環境をつくりだすのだ、
とここまでお伝えしてきました。

もし神様がいるとしたら、この壮大な宇宙をつくった大いなる存在というべき
ものがいるとしたら、私はつねに次のように問われている、
と考えています。それは、

「《あなたは愛を放っていますか? 》」

私たちのいのち、動物や植物などこの世の生きとき行けるもの、また家や車、
机などの物質を含めて、万物はひとつにつながっている、とされています。
非局在性の無限にして一なる世界です。

この世界の資質は何かといえば、それは愛なのです。
つまり、宇宙は愛の海なのです。

海や川を及ぶ魚たちは、自分が水の中にいるとは気づいていないでしょう。
それくらい水が当たり前の存在になっています。

実は私たちもそれと同じで、ふだんは愛の存在を忘れがちです。
でも実際は愛に溢れている、愛に包まれているのです。

そうなのです。
《私たちは愛から生まれ、愛に生き、愛に還っていく存在なのです》。

だから、つねに目の前のことに愛をこめるというのは。
次のよい現実をつくりだすということももちろんありますが、
それ以前に、私たちが生きていく上で与えられた課題ともいえるのです。


《それぞれの生を通して、わたしたちはどれだけ愛を放ったか》。

         <感謝合掌 平成28年12月8日 頓首再拝>

《神の愛は無限である》 - 伝統

2016/12/23 (Fri) 04:46:06


         *『 生長の家 』(昭和23年9月25日の法語)より

   神の無限の愛を信ぜよ。
   その広大なる愛は、それから のがれ出ようとしても
   到底のがれることは出来ないのである。

   十重二十重(とえはたえ)に
   神の愛は私達をとりまいているのである。

   その真っただ中に眼をとじて 「 神の愛はない 」
   と云っているに過ぎない。

   如何に眼を閉じていても、
   お前の立っているその大地は神のお蔭であるのではないか。
   お前の吸っている空気は、神の愛のあらわれではないか。

   到底お前は神の愛からのがれることは出来ないのだ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

         <感謝合掌 平成28年12月23日 頓首再拝>

愛は生み育てる力、癒す力である - 伝統

2017/01/01 (Sun) 04:55:51


           *「光明道中記」(1月1日)より

【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】

愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。

太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。

天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。

人間のみに愛がなくて好い筈がない。
人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、その本質は愛によって成立っている。
人間の生命の本質は愛なのである。

人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。

愛されることが無くなったとき、その人の生命が生きる価値を失い、生き甲斐を失い、
病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、死へ近づいて来ると云うことは当然なことである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。

人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。

そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。

人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。

          <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

《神は無限の愛であり給う》 - 伝統

2017/01/07 (Sat) 04:23:42


        「光明法語」(1月7日)より

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。
神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、吾等の全身を健全ならしめ給うのである。

          <感謝合掌 平成29年1月7日 頓首再拝>

《神の愛を「今」完全に生きよ》 - 伝統

2017/01/22 (Sun) 05:04:26


       *『幸福を招く365章』第10項(P218~219) より

あなたの生命(いのち)の内には神の愛が宿っているのである。
神の愛は唯勝利するほかはないのである。

過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の準備となったのである。
過去の失敗に捉われるな。
形の一進一退のうちに魂は必ず前進して行くのである。

今を生かせ。神を信じ、神に祈りつつ今を全力を出して生きるのである。

「今」は実相世界に既にあるところの勝利が
現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

「今」を支配するものは過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
未来永劫にただ喜びの生活を送ることが出来るのである。

次の如く念ぜよ。

「われは今日(きょう)、善と愛と深切の言葉のみを語るのである。
われはそれ故に愛と深切のみを刈り取るのである。
われは如何なる悪しき言葉も今より後(あと)口にしないのである。

自分は人の行いと其の動機とをさばかない。
自分はあらゆる人々の行いに其の善事を見るのである。
自分は人を軽蔑するような言葉を決して語らない。
自分はすべての人々の美点のみ見、美点のみを語るのである。

自分は言語が神であることを知ったのである。
だから、今後自分は善き事のみを語り、善き事のみが実現するのである」


繁昌は一日にして来たらず、それが単なる偶然の好運であるかに見えても、
必ず過去に蓄積されている善き想念、善き言葉、善き行為、善き感情が
現実化して生ずるのである。

すべての想念、感情、言葉、行為の結果は実現しないではいないのである。
それは原因結果の法則である。
原因結果の法則には、物理的な法則と、心の法則があるのである。

大抵の人は物理化学的法則のみを知っていて、心の法則を知らないのである。

繁栄せんと欲する者は顧客に対してよき想念、善き感情、深切な注意、
行き届いたサービスの精神を揮(ふる)い起さなければならないのである。



(初出は「生長の家」昭和26年7月10日~12日の法語)


          <感謝合掌 平成29年1月22日 頓首再拝>

《愛は最も強力なる力なり》 - 伝統

2017/01/30 (Mon) 04:49:13


          *「光明法語」(1月30日)より

愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。

          <感謝合掌 平成29年1月30日 頓首再拝>

愛深き峻厳 - 伝統

2017/02/05 (Sun) 04:08:39


           *「光明道中記」(2月5日)より

【救われねばならぬような弱者なる人間は、この世に存在しないと云う思想が光明思想である。
                               (『生命の實相』第十三巻)】

同情されたい心は同情されなければならぬような境遇、不幸、病気を招くということが
『生命の實相』第九巻にも書いてある。人間は同情さるべき弱者なる肉体人から、一切の
同情的世界を超克し去りたる超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である。

どこにそんな甘い生長の家があるか。
人間の甘さが、人間の涙もろさが、これまで人間をどれだけ堕落させて来たことだろう。
”人間・神の子”の自覚があっても、甘える心を棄てなければ”神の子”の完全な実相は顕れない。

「生長の家が本当に人類を救うために出現したものならば、私を救って戴きたい。
私は本を読みたくとも金なき者である。私に『生命の實相』を無料贈呈して欲しい。若し贈呈
出来なかったら生長の家が人類を救済するために出現したと云うのも真っ赤な嘘であると信ずる」

こんな手紙を諸方から時々来る。
そういう甘い考えを、依頼心を叩き伏せるのが救済である。

高き救済は甘さを超克した峻厳である。
愛深く峻厳と、峻厳なる寛容とが人間の進歩に必要である。

獅子は千仭の谷へと仔を墜す。

          <感謝合掌 平成29年2月5日 頓首再拝>

《愛は全身を相手にまかせる》 - 伝統

2017/02/06 (Mon) 04:42:41


           *「光明法語」(2月6日)より

キリストは『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』と言っていられる。
ここに言葉をききて素直に守ることが『愛すること』である事が表されているのである。

父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。

良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。

愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
性欲ばかりの問題ではないのである。

本当に愛する相手に対しては何を求められても無条件に従いたくなるのである。

          <感謝合掌 平成29年2月6日 頓首再拝>

《一寸でも愛に反(そむ)く行為をするな》 - 伝統

2017/02/10 (Fri) 03:41:14


           *「光明法語」(2月10日)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をする
ことを全然やめた時に、自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は「神と自分との間にある通路は、實に何でもないとおろそかにする小事によって
塞がれてしまうことがある。一寸したズルい行為。一寸した不深切な嘲笑。一寸した世間話。
一寸した酷評。すべて一寸した愛にそむく行為によって」と言っている。

            <感謝合掌 平成29年2月10日 頓首再拝>

報い求めぬ愛の日 - 伝統

2017/02/14 (Tue) 04:41:45


           *「光明道中記」(2月14日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
(『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」
と不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。

相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

            <感謝合掌 平成29年2月14日 頓首再拝>

実生活に於ける愛の実践 - 伝統

2017/02/26 (Sun) 04:24:11


           *『白鳩』 昭和24年新年号より
            ~ 吉田 國太郎

神は愛である。 

愛するとは欲望することではないのである。 
欲望するのは愛欲である。 
真の愛は与えるところの愛であって、欲望することではないのである。 

神はただ吾々に与えることのみを実践しておられるのであって、
何一つ吾々よりは与えられようとはしておられないのである。 
これこそが真の愛であるのである。

自己の神性を自覚するところの神想観に於て、
只神より無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限供給が流れ入るのみ念じて、
自己が欲望の塊となっている有様をみつめるが如きは真の神想観ではないのである。 

自己が神であるところの実相を観ずるのは、
自己が如何に多くの人に与えているかの実相を観じなければならないのである。

『わが全身神の生命にみたされて光明燦然と輝く』 と念ずるのは、
自己が威張らんが為に光明燦然と輝いているのではないのであって、
その光がすべての生きとし生けるものを光被しすべてのものを愛し恵み、
光を与えるために輝いているのである。 

その積りですべて生きとし生けるものに光与うる自覚に於て
自己の全身が光明燦然と輝くのを凝視するのが神想観である。

ここにも 『与えれば与える程ふえる』 の法則が行なわれているのである。 
親は子供を愛する、その愛の反映として子供は親を愛するのである。 

親がもし子供を老後に養って貰いたいために貯蓄をして置くつもりで世話するならば、
それは真に与える愛ではないから、子供の方も親を本当に愛することはないであろう。 

又子供が親を単に物質的供給をしてくれる世話人であるとのみ思っているならば、
親の方も子供を真に深い愛情をもって愛することはできないであろう。

すべて蒔いた種類の種が刈りとられるのである。 
蒔かぬ種は生えぬのである。 
これが心の法則である。 

もし諸君が神の愛を受けようと思うならば、
神の愛と同じき 『無我の愛』 を諸君の隣人に対して与えなければならないのである。 

斯くの如くすることによって諸君は神から又無我愛を受けとることができるであろう。

愛は単に心で愛しているという丈では足りないのである。 
愛は実践を要求する。 
愛は相手をよろこばす所の何か行為によって裏づけられなければならないのである。 

もし実践的行為に於て他を喜ばす何事をもなさないでいて、 
『自分は人類を愛する』 等という人があるならばその人は大インチキである。

しかし絶対安静の病人以外の人は誰でも日々何かの行為をするのである。 
だから、その行為を愛の方向にふりむけるならば、
誰でも愛行を実践することができるのである。 

御飯を食べるにしてもただそれを利己的に食べないで  
『この食を受くるによりて神の生命がわが生命となり吾を通して神の愛が実現致しますように』
と祈りながら食するならばその食事が直ちに愛の実践に変わるのである。

何事をなすにも、この仕事を通して人類を愛し給う所の
神の愛が実現いたしますように念ずるならば、それはただの利己的祈りではなく、
人類を愛する神の愛の媒介となる行為である。 

『神は常に吾が仕事を通して人類を祝福し給う』 と念じながら仕事をなすならば
神の全智全能の波長と一つになるが故にその仕事は完全に行なわれ
同時に自己及び他を害するが如き故障がおこることがなくなるのである。 

まず神を愛することである。 
そして神と自己同一することによって、すべての人類を愛する、のである。  

『神の愛自分に流れ入って自分の愛を通して神が人類を愛し給うているのである』  
かく念ずることが自己自身を祝福することになるとともに全人類を祝福することにも
なるのである。  

『与えれば与えるほど与えられる』 のが心の法則であるから、
吾々は愛を他に対して流し出すことに努めなければならないのである。

世界に対して何か貢献するということは何か偉大な仕事をしなければならないように思ったり、
何かすばらしい機会が見つかったならば、その時に人類のために働こうなどと考える人が
あるかもしれないけれども、愛は今すぐ手近に実践すべく待っているのである。 

深切なことを今実行するそれが如何に小事であろうともそこに神の愛が実現するのである。

毎日毎日時々刻々、一挙手一投足 『われは今ここに神の愛を実現しつつある』 
と念じてすべてのことを為せ、 やがてすばらしいことが実現してくるであろう。 

毎日蓄積されるところの愛の念波が、次第次第と雪達磨の如く巨大となって、
凡ゆるよきものを世界からひきつけることができるようになるのである。

     (http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p2.html )

            <感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>

《相手のためになることを実践せよ》 - 伝統

2017/03/11 (Sat) 04:49:32


           *「光明法語」(3月11日)より

愛は感情である。

美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。

しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。

いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。

しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。

            <感謝合掌 平成29年3月11日 頓首再拝>

愛は繁昌の基(もとい)である - 伝統

2017/03/16 (Thu) 04:31:17


           *「光明法語」(3月16日)より

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

愛によって育てられる子供は健康の育つ、けれども愛とは執着することではない。

愛は相手の神性を拝むのである。
愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。
相手を完全なものとして、其のまま放つのである。

信と敬と解放とである。

            <感謝合掌 平成29年3月16日 頓首再拝>

神の愛の霊波を受けるには - 伝統

2017/03/24 (Fri) 03:19:36


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

            <感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>

愛の展開が天国である - 伝統

2017/03/30 (Thu) 03:46:25


           *「光明法語」(3月30日)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

            <感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>

愛するとは實相を信ずること - 伝統

2017/03/31 (Fri) 04:00:05


           *「光明法語」(3月31日)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。

            <感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>

《神は慈悲の神、愛の神》 - 伝統

2017/04/01 (Sat) 03:55:09


        *「光明法語」(4月1日)より

先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

            <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>

《神の愛と不可分一体であること》 - 伝統

2017/04/02 (Sun) 03:46:03


        *「光明法語」(4月2日)より

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して友好関係にあるのである。
もう赦すと云うことさえなくなったのである。
はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
それより逃れることは出来ないのである」

            <感謝合掌 平成29年4月2日 頓首再拝>

人間は愛するために生まれている - 伝統

2017/04/05 (Wed) 03:29:19


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。

            <感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>

《神の愛に護られていると、心を調律せよ》 - 伝統

2017/04/25 (Tue) 03:24:51


        *『幸福を招く365章』第11項(P228) より

《神に対して心を調律せよ》

何事が起ってきても恐怖の旋風の中に巻き込まれる必要はないのである。

神はわれらの父でありたまい、神は愛でありたもうから、
どんな時にも、神を呼べば神は必らず護っていたもうのである。

神は、どんな不調和な中にも調和を、争いの中にも平和を、
病気とみゆるものの中にも健康を打ち建てたもうことができるのである。

併しそれが現実にあらわれるには、
ラジオのように心の波長を合わすことが必要である。

常に、自分の心を神に向って調律せよ。

暇ある毎に5分間でも3分間でも利用して、眼をつぶり、

「自分は神と一体である。神は愛であるから、自分は常に神の愛に護られている」

と暫時思念することは、心の調律に大変よい。

           <感謝合掌 平成29年4月25日 頓首再拝>

《神の愛を自己を通して表現せよ》 - 伝統

2017/05/10 (Wed) 04:04:29


        *『幸福を招く365章』第11項(P228~229) より

周囲の人々が自分に対して悪意を抱いているようにみえるときには、
自分の方が周囲の人々に好意を持っていないか、冷淡であるか、敵意をもっているか、
恐怖心をもっているかが、相手に映って、そう現われるのである。

あなた自身が、

「自己の内に神の愛が流れ入りて、
私というパイプを通して神が彼らを愛したもうのである」

と念じて、豊かに神の愛の言葉を、
そして行為をあなたを通して周囲に注ぎかけるならば、
そのような敵意も恐怖も消えて周囲全体が調和ある状態に変化するのである。

どんな困難な事態でも、真に神の愛があなたを通して実現するならば、
調和が現れるほかはないのである。

           <感謝合掌 平成29年5月10日 頓首再拝>

今、既に神の愛に包まれている - 伝統

2017/05/21 (Sun) 04:56:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。
太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。
植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。
数えきれない神の愛の中につつまれていながら、ただ一つ二つの不足について
不平を言うような心は功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんな会も愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

            <感謝合掌 平成29年5月21日 頓首再拝>

《愛の神を凝視せよ》 - 伝統

2017/05/26 (Fri) 03:46:54


        *「光明法語」(5月26日)より

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。

その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、いと清浄になりたり」

と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

            <感謝合掌 平成29年5月26日 頓首再拝>

神を愛せよ - 伝統

2017/06/06 (Tue) 04:39:25


      *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、凡てのこと
相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。
愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。
「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

        <感謝合掌 平成29年6月6日 頓首再拝>

《真に愛することは実相を礼することである》 - 伝統

2017/06/22 (Thu) 04:53:10


          *『 生長の家 』(昭和24年12月12日の法語)より

   真に愛するということは、その人の肉体のみを愛するのではない。
   その人の実相を見て敬し礼することが真の愛である。

   相手の一部分のみを愛するのは真の愛ではない。
   相手の精神だけを愛するのも真の愛ではない。
   相手の容貌だけを愛するのも真の愛ではない。

   真に愛するとは、われ自身の如く、相手を愛しなければならない。


   相手の運命について深い深切な思いやりを、
   自分の運命に対して持っている如く
   持っているのが真の愛である。

   しかも信じて運命を愛するのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成29年6月22日 頓首再拝>

自分と云う手垢をつけるな - 伝統

2017/06/30 (Fri) 02:53:13


          *「光明法語」(6月30日)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、神の子として愛しなければならぬ。
すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。
如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 平成29年6月30日 頓首再拝>

真(まこと)に神的な愛は「放つ愛」である - 伝統

2017/07/07 (Fri) 04:51:28


         *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で「諸愛ことごとく解脱し」と書かれている
ように、仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

        <感謝合掌 平成29年7月7日 頓首再拝>

愛のみ生かす - 伝統

2017/07/15 (Sat) 04:06:19


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月15日>(P20)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。
時計は回るようにできており、時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、
講演旅行などで携帯する時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも
数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から帰ってくると、
本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。
知的に真理を理解したといっても、
それだけでは時計の構造を理解したと同じである。

時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、
真理も知的に理解しただけでは生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、
教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば時計は動く。

それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、愛することのできる人は、
そして教えられたとおりに素直に信じて実行する人は、
人を生かすことができるのである。

         <感謝合掌 平成29年7月15日 頓首再拝>

まず神を愛せよ - 伝統

2017/07/16 (Sun) 04:47:44


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月16日>(P20)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。
神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、神は生命であるから、
財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではないのである。
人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と思っていては、
父の心も気まずくなり、その金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、神をただ「無限供給の源泉」
として視るものは、神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまではそれを拒んでいたのである。
われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて「神」の愛を
捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

         <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

行き届いた「愛」を - 伝統

2017/07/21 (Fri) 04:04:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月21日>(P25)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、わたしはまだどこかの点において
「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる - 伝統

2017/07/25 (Tue) 04:22:16


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月25日>(P28)より

今日はさらに、「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」
と念じよう。そしてすべてのものの内に、宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、その反映として
自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを心の底深く知るがゆえに、
感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 平成29年7月25日 頓首再拝>

真理は愛の実践を要求する - 伝統

2017/07/30 (Sun) 03:54:08


      *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月30日>(P33~34)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、
やがてそれに自分が救われなくなり落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に

「最善の悔い改めは神の道を一心不乱に前進して、
今までありし罪と自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」

と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、
神の道に一心不乱に突き進むことを忘れているのである。

「彼らは光明思想に触れる。それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を頒ち与えることを忘れ、そして
それゆえにそれを失ってしまう」とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。

ある人が真理に対する理解を得たとする。
そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除することが
できたとしてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、
それはただ、利己的目的だけにすぎない。
利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、
やがてその真理は自殺状態に陥って自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。

真理を知らされたということは、それを他の人々に伝えるために知らされた
のだということを知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、
個々人として孤立した存在ではないということである。

われわれは自他一体の存在であるから、
この世の中に一人でも不幸な人が存在するかぎり、
真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。
宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、
その1本の歯にも比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、
自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、自分を磔けにした人々の
幸福のために神に祈り、そして従容として十字架につくことである。

かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

         <感謝合掌 平成29年7月30日 頓首再拝>

「愛」は実相、心の調和 - 伝統

2017/08/04 (Fri) 04:44:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月4日>(P41)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 平成29年8月4日 頓首再拝>

倶に泣く愛 - 伝統

2017/08/08 (Tue) 03:21:59


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる、八月八日 倶(とも)に泣く日)より

【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。(『生命の實相』第ニ巻)】
 
「倶(とも)に泣く」と云う感じは自他一体の感じであるから、しみじみと有難く感じられる。
「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、有難く感じられないのである。

「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。

「咎める」言葉が不結果を招く原因は、こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。

「愛」の中にこそ聖泉がある。

それは智慧が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。

       <感謝合掌 平成29年8月8日 頓首再拝>

《物質は神の愛の表現》 - 伝統

2017/08/24 (Thu) 04:52:31


      *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P177) より

キリストが或る時、奇跡を行った。
五つのパンを五千人に分けたら食べ飽きて尚籠十二杯に山盛りにパンが残った。

そんな馬鹿らしいことがあるのかと一見思われるのであるが、聖書を注意して読むと、
イエス「一片のカケラも残らないように其のパンの屑を集めよ」
と弟子に指令しているのである。

爰(ここ)に真に無限供給の原理があるのである。

一片のカケラも全て神からの賜(たまもの)なのである。
その賜を尊重する心のあるところに、そのカケラが増殖して、
ついに十二杯の籠に山盛りのパンともなったのである。

神からの賜を尊重しないで、唯単にそれを物質的な塊だと、
軽くあしらっているところに、人間が貧しくなる原因があるのである。

物質はそのまま「神の愛の実現」である。

百丈和尚は一枚の菜の葉が川へ流れて行ったのを駈足で追って行き、
それを拾って「仏物」として押し頂いたと云うことである。

          <感謝合掌 平成29年8月24日 頓首再拝>

愛は自発的であるのが尊い - 伝統

2017/09/06 (Wed) 04:28:35


         *「光明法語」(9月6日)より

そのままが完全円満


本来の自然になった時、生命は最も完全に発現する。

愛が若し自由意志による発現でなく、
強制的に機械的に行わしめられるものであるならば、
それは妓楼(ぎろう)の主人に強制されて愛を売る売笑婦のそれになってしまう。

愛は自発的であるのが尊いのだ。

愛は自他一体の認識だ。
個別者同士互いに「愛」の感情が起こるのは個別者は、
互いに別物ではなく本来一体であるからである。

また個別者が神に対して「愛」の感情が起こるのは、
個別者は本来、全体者(神)から発した者だからだ。

           <感謝合掌 平成29年9月6日 頓首再拝>

これは愛の道にかなうか - 伝統

2017/09/11 (Mon) 04:23:40


        *『 生長の家 』(昭和25年1月13日の法語)より 

《キリストは実相である》

   キリストは 「 凡(およ)そ 吾が名に於いて 何事にても求むる時 
   天の父は 必ずそれを与え給う 」 と教えている。

   実相(キリスト)にある所のものを求めるのが
   即ち 「 キリストの名によって 」 求めることなのである。

   実相(キリスト)にあるものを祈る時に、
   吾々は決して利己的なものを求める筈(はず)がない。

   「 吾は愛なり 」 とキリストは いっている。

   だから キリストの名に於いて 求める心構えでいるならば、
   愛にそむくようなことを求める筈(はず)がない。

   必ず 「 これは愛の道にかなうか 」
   「 これは神の国を地上に実現するにかなうか 」 と
   省みて行うことになるのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/accbfd07973a7e526fcaa9fefa3ddea5

           <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

あらゆる方面に神の愛を与えるのだ - 伝統

2017/09/14 (Thu) 04:34:19


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月14日)より

人の物を値切るようなケチな心を起こしてはならない。
値切る心は値切られるのである。

あなたの得た物(または人)の値打ちだけを十分与えるように心懸けなければならない。
値打ちだけを買い取り、値打ちだけを支払い、しかも自分もできるだけ力を尽くして
奉仕するのだ。

ただ金だけ出して与えたつもりになっていて怠惰や放漫になってはならないのである。
与えたけれどもそれが浪費になったという場合は、自分が知恵を出さず、愛を出さず、
生命力を注がないからである。

ともかく、与えることをできるだけあらゆる方面に試みてみよ。
「返って来る」というような予想なしに神の愛を与えるのだ。

             <感謝合掌 平成29年9月14日 頓首再拝>

全てのものを愛せよ - 伝統

2017/09/22 (Fri) 03:50:20


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月22日)より

汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。

汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。

そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。
併し愛することは執着することではない。
愛するとは彼の生命(いのち)を彼の生命(いのち)そのものたらしめることである。

牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。
”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。

           <感謝合掌 平成29年9月22日 頓首再拝>

《創造の神には偏頗(へんぱ)な不公平はない》 - 伝統

2017/10/05 (Thu) 04:40:03


       *『 生長の家 』(昭和26年1月2日の法語)より

   限りなき全能の力を有(も)ちたまう神は、創造主の神である。
   
   しかし創造主の神は、個別霊のように愛憎の念をもって、
   吾々に或る時は利益を与え、或る時には復讐をなしたまう
   ようなことはないのである。

   それは全人類の親様であるから、一視同仁(いっしどうじん)に
   すべての人々に平等の愛をそそぎたまうのであって、

   太陽が 善人にも悪人にも平等にその光を与え、
   雨が 善人にも悪人にも平等にその潤いを与えるごとく、
   如何なる人間をも ゆるしたまいて
   平等に恵みを与えたまうのである。


   ただ吾々が光を受けることが出来ないのは、
   光に対して背を向けるか、眼を瞑(と)じるかしているからである。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

           <感謝合掌 平成29年10月5日 頓首再拝>

《報い求めぬ愛は尊し》 - 伝統

2017/10/20 (Fri) 03:37:49


          *『 生長の家 』(昭和25年2月1日の法語)より

   すべての愛の行為は 尊く、
   報いを求める行為は 卑しいのである。

   愛は ただ捧(ささ)げようとするのであるから
   尊く清く感じられるのであり、

   報いを求める行為は、その行為が 他から 「 奪おう 」
   ということの手段として行われるのであるから
   卑しく感じられるのである。

   凡(およ)そ よき行為には 自然によき報いが与えられるのである。

   然(しか)しその報いの中には、人から来る報いと
   神から来る報いとがあるのである。

   人から来る報いを予期せる所の愛行は、
   全然無価値ではないけれども、
   神から報いを得る資格には遠いのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 平成29年10月20日 頓首再拝>

永遠価値のものを愛し、考え、求めよ! - 伝統

2017/11/06 (Mon) 04:13:59


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より

万事物質的なものは遷りかわるものであり、
その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。

われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。

すべて心を労してもとめても、
やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。

神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。

忠、孝はむろんのこと、すべて肉体を超えて
永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。

           <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>

愛なき心がわれらを傷つける - 伝統

2017/11/07 (Tue) 03:46:58


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月7日)より

物質はわれわれを傷つけることはできぬ。
愛なき心がわれらを傷つけるのである 

―― そしてあたかも物質がわれわれを傷つけたるがごとく錯覚せしめるのである。
物質に傷つけられたるがごとく見えている時に、反省してみると、
物質によるよりも先ず自分の心が恐れていたか、憎んでいたか、怒っていたか ――

ともかく傷ついていたことを発見するであろう。

         <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>

愛を晦まさないこと - 伝統

2017/11/12 (Sun) 03:50:41


          *「光明道中記」(11月12日人を審判(さば)かぬ日)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と
言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだと云うことであるし、
十字架の上にあっても「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、挺身して人類の代贖者(みがわりもの)に
なろうと決意したイエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、莞爾(かんじ)として微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 平成29年11月12日 頓首再拝>

《憎んでいる者を一層愛さねばならぬ》 - 伝統

2017/11/30 (Thu) 04:32:49


         *『 生長の家 』(昭和25年2月2日の法語)より

   スター・デーリーは 「 愛は刑よりも強し 」 の中で、
   憎んでいる者ほど愛さなければならない
   ということを書いているのである。

   敵対するものほど 吾々は愛さなければならないのである。

   それは 「 お前には このような人間でも愛することができるか 」
   というテストを神から与えられているのであるからである。

   自分を愛する者を愛するのは 誰(たれ)でもできるのである。

   自分に敵対する者、自分を悪(あ)しざまにいう者さえも
   愛し得るのが本当の愛である。

   キリストは 自分を捕えに来た兵卒の傷をも 癒(いや)したのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

          <感謝合掌 平成29年11月30日 頓首再拝>

《愛を実現するのが人間の使命である》 - 伝統

2017/12/17 (Sun) 03:49:07


         *『 生長の家 』(昭和26年2月2日の法語)より

   脚下照顧と云う言葉がある。
   自分の生命が今何処(どこ)に立っているかと云うことを
   省みよと云うことである。

   自分の生命の立っているところが判らなければ、
   何(ど)の方向へ向って行くのが
   最も近道であるかと云うことがわからないのである。

   自分の生命が今立っている所が
    「 神の子 」 と云う 「 場 」 であると云うことがわかると、

   自分はただ 「 善 」 の方へ、
   「 愛 」 の方へ、
   人々を助ける方へ、
   人々を悦ばす方へ、

   人々にサービスする方へ向って行けば好いと云うことがわかるのである。


   何人(なんぴと)の生命の奥底にも
   「 愛したい 」 と云う念願が宿っているのである。

   これを満足しない限り、人間は落着くことは出来ない。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8a4e0f6aaa0891091b222bd3a1d40bd5

          <感謝合掌 平成29年12月17日 頓首再拝>

宇宙の大愛 - 伝統

2018/01/01 (Mon) 04:29:06


           *「光明道中記」(1月1日必ず楽しの日)より

【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】

愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。

太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。

天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。

人間のみに愛がなくて好い筈がない。
人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、その本質は愛によって成立っている。
人間の生命の本質は愛なのである。

人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。

愛されることが無くなったとき、その人の生命が生きる価値を失い、生き甲斐を失い、
病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、死へ近づいて来ると云うことは当然なことである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。

人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。

そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。

人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。

          <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

家族への愛 - 伝統

2018/01/04 (Thu) 04:21:28


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月4日)より

何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術(すべ)である。
それができなければ人間生活の土台が完成したとは言えぬ。

まず手近にある家族を愛せよ。
そこから天国が生まれてくるのである。

われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、
幸福とはどこか外のところにあるように思っていたが、脚下(あしもと)になるのである。

まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、
朗らかな韻(ひびき)のある語調で投げかけよ。
これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。

気がついたら今日(きょう)からそれを始めよう。

         <感謝合掌 平成30年1月4日 頓首再拝>

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