伝統板・第二

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青年法語 「宇宙の神秘を直観して」 - 伝統

2016/11/10 (Thu) 03:27:30

理想世界誌 昭和42年 9/1号より

輪読のための青年法語 「宇宙の神秘を直観して」  


一日のことば   吾々は外界の事物をいかにして認識するか

普通われわれが肉眼で見、感覚でとらえる外界の事物は、それがそのまま、
客観的にその通りに存在しているのだと考えられているのである。

では客観的に、自分の肉体から離れたるところに存在するものが
吾々の“心”の中に入って来るのだろうか。

客観的の存在そのものは、われわれの眼や耳という感覚器官に直接はいって
来るのではなく、客観界の存在から発せられる或る波動がわれわれの感覚器官に
衝動を与え、その衝撃を、感覚器官が感受する、

その感受した衝撃を伝えられた意識が、複雑に伝えられた色々の衝撃を
分析及び総合して、そこに客観界にこのような物体があるのだとみとめるのである。

そして或る人は、其処に本当にそれがあると信ずる。

・・・

二日のことば   普通人は素朴的リアリズムである

われわれが感覚器官によって見える通りに物体が存在すると
素朴にみとめて何ら疑わない存在論を素朴的リアリズムと称するのである。

それが一般普通の人のものの考え方であり、唯心哲学者といえども、
実際生活に於いては大抵、見える通りにものがあると信ずる形で生活をするのである。

すなわち橋があると見えれば足をあげて橋を渡ろうとするのである。
船があると見えて、対岸に渡りたいと思えば、彼は本当にそこに船があるとして、
その船に自分の体を乗せるのである。

水があると見えれば、水を飲むし、食物があると見えればそれを食する。

こうして日常生活に於いては、唯心論者といえども、
物質を仮りに見える通りにあるとして行動するのである。

だから見える通りに、果たしてそのものが実際にあるのだろうかと考えるのは、
余程、知性の発達した人のみのことであるのである。

皆さん、果たして、物体は吾々の感覚があると感じているようにあるのでしょうか。

・・・

三日のことば  何故物質が心象となって感じられるか


あなたは、外界にある物体や人間を見る、そして其処に、それ又は彼があると見る。

何によってあなたはそれを知るのであろうか。
あなたはそれを目を通して見るのである。

普通の人は、「私の眼がものを見る」という。

知性のすぐれた人は、それだけで満足できないのである。

「眼はどうして外界の事物や人間を見るのであろうか」と彼は考える。

光の波動が瞳孔から入って水晶体というレンズを通して
網膜上にその光の波動が焦点を結ぶのである。

そこまでは、物質的に考えられる「ものを見る」過程である。

しかし物質的な波動の刺激が、どうして網膜上に網の目のようにその尖端を
張りめぐらせている視神経の末端を刺激したら、それが視覚という「心に感ずる形」
となってあらわれるのであろうかということが次の疑問となって来るのである。

・・・

四日のことば    大脳の中の心象と客観的事物とは一致するか

視神経の末端を刺激した波動は、その神経繊維を伝わって大脳の視覚中枢に
つたえられ、其処において、それが如何なる形のものであるかの
「心の象」(心象)がつくられるのである。

それは大脳の中に於いてである。

吾々が「机」を見る。机の心象は、大脳の中に於いて描かれているのである。

それがどうして外界に、数メートルの距離の彼方に、或いは数千メートルの
距離の彼方に、自分を離れて独立して存在する物体又は人間として
感じられるのであろうか。

その見えている物体又は人間は、実際に見えている通りに、
その如く本当に存在するのであろうか。

普通の人は、そんなことに疑問をもたない。

実際、その見えている通りに、それほどの距離をはなれて、
その物体又は人間があると信ずる。

しかし本当に客観的に自分と離れてその通りの姿があるのであろうか。

その「見えている形」なるものは、大脳の中でつくられた心象であって、
客観的にある物体又は人間がある通りの姿を、
その心象がつくり出しているかどうかは疑問なのである。

・・・

五日のことば  視神経の“点”的な刺激が映像としてあらわれるには?


網膜上に触手をのばしている視神経の末端は謂わば、”点”であって、
無数の“点”がそこに散らばっているのである。

その無数の点に対して、強度と性質の異る色いろのエーテル波動が刺激を与える。

それを一つの心象にまとめて具体的な物象と感ずるのは、
それは物質のはたらきだけで可能なことではないのである。

どんなに小さい”点”でも、点は点であって、互いに離れているのである。

その互いに離れている無数の点を、互いに連繋せしめ、つなぎ合わせて
一つの具体的映像をつくりあげるという働きは、
知性のない物質のただの化学反応だけではできる筈はないのである。

すると、大脳を媒介として生じた具体的な心象は、本来“心”の世界にあ
るのであって”心”の世界にあらかじめ存在する心象を、視神経を通して
大脳に与えられた無数の“点”をつなぎ合わせて、感覚面上に浮かび上がらせて、
それを外界に投影(又は移入)して、或る距離を隔てた位置に、
その物体又は人間が存在すると知覚せしめたのである。


・・・

六日のことば  感覚にて知覚されたる物象は決して単なる幻覚ではない


“心”が視覚器官に於ける“点”の刺激をつなぎ合わせ、それを解釈し翻訳して、
”一定の物体又は人間が外界にいる“と視る。

それが単に、その一人の人間の感覚にのみそう見えるのではなくて、
他人の人がその感覚によって、その同じ物体を見れば、

〝壺“は壺として見え、”机“は机として見え、”人間“は人間と

して見え、
容貌も同じように見えて、一人の人間が”彼“を”木村君“として見るならば、
他の人間も”彼“を木村君として同じ容貌の特徴を捉えるのである。

だから”心”が点の刺激をつなぎ合わせて、一定の映像をつくり出したにしても、
それは単なる幻影ではなく、何人も同様に、其処に、そのように視える何か一定の波動
又は”サムシング”が存在するということを肯定しなければならないのである。

 つまり知覚されたる物象は、単なる幻影ではなく、そのような条件の下に於いて、
人類一般の感覚器官を通して知覚すれば、一定のそのような形に視える”波動”
又は”サムシング”が客観的に存在するということである。

・・・

七日のことば  物質は本来“物質”ではない

 その客観的に存在する”波動”又は”サムシング”は
果たして“物質的”なものであろうか。

それとも“霊的”又は“心的”なものであろうか。

それが単に物質的なものに過ぎないのであったならば、”物質”がどうして
”心”と連絡したり、“心”に感じられたりするのであろうか。

全然性質が異なり、その範疇が異なるものは、
互いに感応することはできないのである。

光の波は電波となり、電波は、更に光波に還元したり、音波になったりする
けれども、それはいずれも物質的エネルギーの範疇に属するものであるから
互いに感じ合い、互いに交流して状態を変化するのである。

しかし、物体から発したところの光の波が心象に変化するということは、
どうしてそれが可能なのであろうか。

吾々の“意識”というものが、外界に存在する“物象”のイメージを描き上げる
ということができるのは外界に存するところの“物質体”だと見えているものも、
実は“精神体”又は“霊体”であって、同一範疇に属するからこそ、
心が物体を感じて、その存在をみとめることができるのだと
結論しなければならないのである。

即ち”物質”と見えるものも本来”物質”ではなく、
一種の心的波動の固まりであるのである。

・・・

八日のことば   唯物論的見地からの反論

物質を心が感ずることができるのは、物質は本来“物質”ではなく
心的存在であって、”物質”と”心”とは同一範疇に属するからだという
結論を得たけれども、それの逆も考えることができるのである。

曰く、『“物質的存在”を”心”が感ずることができるのは、
実は”心”は脳髄物質の化学作用であり、従って”心”とか”魂”とか
いうような超越的存在は無いのであって、

“心”というものも物質の一作用であるから、
「感ずる心」と「感じられる物質}とは同じく物質同士であって、
同一範疇に属するので、互いに感じ合うのである』と。


・・・

九日のことば  人格は物質以上のものである


併しあなたの“心”は、あなたの”自分”(人格的存在)を感ずることができる。

その“自分”は必ずしも、此の“肉体”を指すのではないのである。

“自分”というものが単なる肉体であるならば片脚を無くしたとき、
”自分”という人格がそれだけ減ったとは感じないで”自分の片脚”が減った
と思うだけであるのである。(注。「の」は所有格である)

私たちの”心”は”物質”ではないところの、五官の感覚に触れる
ことの
できない“人格”というようなものを感ずることができるのである。

これは物質と物質の触れ合い又は、光波・電波・音波の如き物質的波動の
波長の同調又は共鳴によって感ずるのではないのであって、
全く心霊的な認識であるのである。

即ち”心”が感ずるのは“物質以上”のものをも感ずる。
即ち知性を備えているのであるから、”心”は、知性のない物質の化学作用で、
物質と同範疇に属するものだということはできないのである。

・・・

十日のことば   霊はその知性を低下して物質となることができる

知性のない物質から知性は生ずることはできない。仮りに物質に知性があるに
しても、低い知性から高い知性を生ずることはできない。

ないものから、在るものは出てくることはできないからである。

しかし高い知性はその活性を低下して低い知性となって眠ることはできるのである。

更に一層眠ってしまって、知性が完全に低下してしまえば、
物質のような無知性のような状態になることもできる筈である。

しかし物質のように無知性の相をあらわしていても、本来は、
宇宙は一元であって”神”なる霊的一元より発しているのである
から、眠っている(或いは微弱なる)知性を備えているから、

人間が、その知性に働きかければ、法則を通して物質は吾々の欲する通りに動いて
くれるのであり、物質科学の発達もこのようにして得られたのである。

釈尊は悟りをひられた時に、
「山川草木国土悉く皆、仏のいのちの現成である」と観ぜられた。

ということは、”仏のいのち”なる最高の知性が、その知性の発動を低下して
山川草木国土の如き鉱物や植物としてあらわれているのであって、
一切の存在は本来、鉱物の如き無知性のものではなく、
万物みな仏のいのちの顕われだということを悟られたということである。

物質が固定した鉱物や木材の如きものでなく”ほとけ”のいのち現成である
ということが解れば、吾々は物質の不足や、どうにもならない物質の構造上から来る
不自由の制約から解放される即ち「ホトケル」のである。

だから釈尊は「山川草木国土悉皆成仏」と悟られたときに完全に自己解放を
遂げられたのであり、即ち”仏”となられたのである。

・・・

十一日のことば  宇宙の一切は霊的存在で渾然一体である

私たちの“心”が物質をみとめ、物質界の一切の存在を知覚することができる
のは、物質そのものが、普通の常識で考える如き無知性のものではなく、
知性の表現体であり、知性と知性とが相感応するために、吾々の”心”は
物質界をみとめ、外界の存在をみとめることができることをあらわしているのである。

“感ずる者”と“感ぜられる物”とが一体であり、
本来同質のものであることをあらわしているのである。

”経験する者“と”経験される物“とは一体なのである。

この一体関係は全存在が、物質の如き、分子と分子との距離が分子の直径の
千倍も離れてバラバラであるような存在であるかぎりあり得ない関係である。

即ち全存在は”霊的存在”であって、それは普遍する実質によって成り立っており、
現象的・外面的には、個々別々の存在のような外観を呈するけれども、
実相的・内面的には霊的存在として渾一なる全体としてつながっているのである。

・・・

十二日のことば   外界と内界とを隔てるもの

外界を内界にある”心”が感ずることができるのは、外界と内界とが
全然“別物”ではなく、内外打成一片(注。禅語)の原理又は実相が、
あらゆる存在の奥に貫いて存するからなのである。

しかし吾吾は肉体と顕われて、地球上に生活する便宜上”時間・空間”という
”認識の形式”をつくり出し、その枠内に於いてのみ作動する感覚器官を発達せしめて、
内と外とを区別し、物体を個々別々に区別し彼と我とを対立せしめて生活する。

時間・空間という着物を着て生活することが便利なために、直接には、
自分の“生命”の肌直接に、宇宙普遍の空気ともいうべき「渾然一体の霊的存在」
を体験することができなくなっているのである。


・・・

十三日のことば  “向上精神”の内的本源が実相である


われわれは誰も現象的には完全な人間でないのである。

それなのに完全になろうと欲して毎日、何らかの意味に於いて
前進又は向上しつつあるのである。

不完全がその人の天性であるならば、そのような意欲も、
内的衝動も努力も起こる筈はないのである。

われわれが幾ら向上しても、尚更に一層の完全さを顕現したいという熱望が
起こって来るのは“自己に宿る無限の完全”が顕われ出ようとして内部から
押し出して来るからである。

その内部に宿っている“向上精神”の根源となるものが、
吾々の“実相”であり“本当の自分”であり“神の子”なのである。

・・・

十四日のことば  人間の内に”無限”が宿っている証拠

私たちの現象の肉体は、すべて有限の生命しか有(も)っていないのである。
それなのに内部的要求としては、出来る限り長寿を望み、
可能ならば永遠に生きたいとすら念(おも)うのである。

それは何故であろうか。

現象的には”有限”であるけれども、その実相は”無限”であるから、外見の
”有限”を克服して”無限”を顕したく思わずにはいられないからなのである。

吾々は戦争中の欠乏状態のことを憶(おも)い起こして、現在の裕かなる状態と
くらべるならば雲泥の差があるといってよいほどに繁栄しており、生活の福祉に
満たされているにも拘わらず、尚もっと裕かに、もっと福祉に満たされたいと
願わずにはいられないのは、

人間本来の実相が”神の子”であり、いくら裕かに表現しても、
尚表現し足りない内在の”無限”が頭をもちあげて来るからである。

・・・

十五日のことば  向上の煩悩に実相の衝動を見る


人間に”永遠”が宿っているので、無限の長寿を欲し、人間に“無限”が
宿っているので、無限の向上発達を希い、無限の富の実現を望むのは
当然のことであるのである。

この現象界の利益や福祉を希う煩悩と見えるものの内に、
内在する神の動きが噴出しようとしているのである。

“煩悩即菩提”とはこのことである。

向上の煩悩なくして菩提すなわち悟りを得ることはできないのである。

諸君は大いに向上の意欲を起こしてよく勉強しよく研究して、内部の神性を
現象界に発顕し、地上に神の計画になる理想世界を実現するように
努力しなければならないのである。

・・・

十六日のことば   地上天国建設の根本問題


現象界に天国を実現するためには、努力が必要であるけれども、
神の叡智に導かれた努力でなければならないのである。

人間的頭脳の智慧で、向上の煉瓦を積みあげて、神まで到達せしめようと思っても、
それは所詮「バベルの塔」であって、目的を達しないうちに土崩瓦解してしまうのである。

それ故に諸君は神想観を毎日怠らず実修することが必要である。

神想観は単に地上に天国を実現するため方法であるだけではなく、
それは“神”と“人間”、”天“と”地“との融合の行持であり、
その行持の中に、既に“神”と“人間”との融合があり、
従って実相と現象との融合があるのである。

そして実相と現象が融合するとき「みこころが天になるが如く地に成り」
結局、地上天国なる理想世界が建設されることになるのである。


・・・

十七日のことば   みこころの天に成る世界

私たちが地上に誕生した目的は、既に天に成る“理想世界”を
地上に顕現せんがためであるのである。

「天に成る」の天とは、空間的高さを示す“天空”ではないのである。

時間・空間を超えた超越世界(霊的世界)に神が創りたもうた“理想世界”である。
それは時空を超えた”内在の世界“とも謂うことができるのである。

それは“内在の世界”であるから、キリストは天国を説きながら、
「神の国(即ち天国)は汝のうちにあり」とも教えているのである。

併しその「内在の世界」とは肉体の腹中に内在するのではなく、
時間空間世界を遥かに超えたという意味に於いて、
その超越性が”天”という語で表現されているのである。

時間空間以前の世界に於いて、神は既に理想世界を創造せられているのであり、
そのことが「その創造(つく)りたる全てのものを見給いけるに甚だ善かりき」と
創世記第一章に表現されているのである。

この創世記第一章にある”天地の創造”は実相世界の創造である。

・・・

十八日のことば  先ず自己の内なる神の国を求めよ


 既に理想世界は“天”即ち“実相世界”に於いて成就しているのであるけれども、
それが人間の感覚面に感じられる現象世界にあらわれるためには、現象世界は
時間・空間の“認識の形式”を通じてあらわれるのであるから、
ある特定の時間・空間に一ぺんに完全世界があらわれる訳には行かない。

すなわち時間的序列を通して、空間世界に順次展開して来るという形をとるのである。

先ず吾々は“自己”というものに、その内在の天国を自覚し、
それを外界にあらわさなければならないのである。

先ず「神の国を求めよ、自己のうちに神の国を自覚せよ」である。

自己のうちに“神の国”を自覚するならば、
その“神の国”とは“神の子”が住んである処であるから、
自分が“神の子”だとわかるのである。

自分の内に“神の子”を自覚するための修行が神想観である。

・・・

十九日のことば  各人は実相が種々の段階に開顕されたる神の子である。


すべての人間は”神の子”であり、その本質に於いて円満完全なのである。

しかしその円満完全が、まだ蕾のような状態であって、各々人によって
程度は異なるが、その開発のある段階にあるのである。

高い段階にまでその円満完全な本質(実相)が開顕された人は、
健康で、幸福で、生活は裕かであって困窮することはないのである。

その円満完全な実相が、ある方面にのみ開発されたら(例えば経済面に)
その方面では裕かであるけれども、他の方面に於いて例えば
肉体が不健康にあらわれるとか、家庭が不調和になるとかするのである。

吾々は自己が神の子であることを自覚し、あらゆる人生の方面に於いて
大自在の境に達しなければならないのである。

・・・

二十日のことば  あなたは次第に大自在境に達する

そのような大自在の境地に達した、又は達したに近い人を“達人”
と呼ぶのである。

宗教に入ったといって、行動が生温いような生活を送っている人は、
宗教信者として名前を連ねているだけで、本当に宗教的信仰ではないのである。

宗教とは大自在の生活に入る門である。

本当にあなたが宗教信者に入ったならば、決断の敏速、行動の敏捷、
しかしてその行動が悉く急所に中る精確さをもたねばならない。

その行動の敏捷と精確さは、自己が“絶対者“即ち”神“と常に波長を
合わしていることによって得られるのである。

神と常に波長を合わすためには、毎日神想観の実修を怠らず、その神想観による
心の清澄状態を神想観を終った後も常に持続するように心懸けなければならぬのである。

内部の心の清澄が、澄み切ったレンズを通して精確な映像が得られるように、
実相世界の円満さに波長が合って、外界に完全円満さが実現して来るのでなければ
ならないのである。

・・・

二十一日のことば  科学の限界に就いて


科学というものでは究極的実在を知ることはできないのである。
それは常に日進月歩である。

それは相対的知識を得るのであって、
真理とか実在とかいうものを知るのではないのである。

科学の“科”という字は、科(えだ)という字である。

色々の分科があるのであって、各々の科の立場にたって事物を解釈するのである。

化学はいつまでたっても“生命”そのものの実体を知ることはできない。

生命の通った軌跡を分析したり、総合したりして結論を下そうとするのであるが、
化学は生命そのものに直接触れることはできない。

生命の周囲を堂々廻りするだけである。

・・・

二十二日のことば  あなたは聖者として生きよ

大生命は普遍的存在である。到る処にその生命が顕現して、
すべての生物としてあらわれているのである。

生物のみならず、天体の主要部分を構成している鉱物までも
その普遍的生命の顕現であるのである。

だから釈尊は悟りをひらかれたとき
「山川草木国土、悉く皆仏の現成である」と理解されたのである。

聖者は一切の個別的な存在の奥にあるところの「分割なき一者」を見るのである。

その「一者」は宇宙大生命であり、神であり、すべての物と人との奥に神を観るから、
物を大切にする心が起こり、すべての事物を処理するのに、おのずからなる
深切心が起こり、人に接するにその表面にあらわれたる欠点を見ず、
その奥に宿る“神”を見て尊敬しあいし深切を行ずるのである。

・・・

二十三日のことば   あなたは聖者の諸徳を備えて生活せよ

聖者は現象にとらわれない。

他の人の批判を恐れて正義を棄てることをしない。

聖者は金銭によって自分の節義を売らない。
聖者にとって大切なのは現象の名誉でも、富でもない。

自分の心の中に何を思っているかが最大の関心事である。

聖者は常に人と事物の奥にある実相のみを観るから、その心は常に平和である。

常に平和の心境であるから、実相から催して来る叡智を歪めずに感受して、
現象界に起こる複雑なる事件に対しても、それが実相円満の姿の写象として
調和ある姿をもって解決するように処理することができるのである。

聖者は自分の肉体のことについて思い煩わない。

併し常に内部の心を清澄平和に保つがゆえに肉体は内部の平静なる心の影として健康である。


・・・


二十四日のことば  “物質はない”という意味


“物質はない”という一喝は、物質をありとして悩熱をもって執着している
“心”から執着を消してしまうところの冷水三斗に匹敵する一転語である。

この一喝を素直に受けるとき、自分の心をなやましていた悩熱は消え去るのである。

事物の考え方が一転してしまうのである。
すべて物質としてあらわれていたものが物質でなくなるのである。

一転して、それは物質ではなく神(仏)のいのちの現成であると悟るのである。

支那の高僧、百丈和尚が小川で野菜を洗っていたときに一枚の菜の花がちぎれて
流れ去って行ったときに、和尚はそれを駆け足で追っかけて拾い上げると、それを
頭に戴いて「これは仏物である」と礼拝したということであるが、これが
「物質はない、ただあるものは神と、神の顕現のみだ」という悟りの境地なのである。

・・・

二十五日のことば  物質はエネルギーの旋渦である


“物質”はただ常識学的に呼び名であって、物質を物理学的に研究して行くと、
もうそれは物質という「一定の体積をもち、分別し得うべき一種の固まり」という
常識的概念には当て嵌まらなくなるのである。

それはある一定の方向に旋回するエネルギーの渦巻なのである。
(『生命の實相』実相篇第一章”近代科学の空即是色的展開“参照)

其の旋回の速度及び様式の相異から別々の素粒子のように顕れているのである。

普遍の大生命のエネルギーが、自己表現の無数のセンターを作って異なる振動を
起こし、各々個性ある旋回をすることによって、異なる原子となり、
異なる元素となっているのである。

人間が動物と異なり、動物が植物と異なり、植物が鉱物と異なるのは、
そのエネルギーの運動形態及び構成形態がそれぞれ個性的に異なるからである。

どうしてエネルギーの運動形態が異なり、構成形態が異なるかといえば、
そのエネルギーの運動及び、形態を指導する設計が異なるからである。

色々の異なる設計が、一つの宇宙大生命の無限の知恵から出て来るのである。
それは一人の建築設計家が常に異なる様式の建物を設計するのにも似ている。
様式の異なる建物も一人の設計技師から生まれて来ることができるのである。

その如く、宇宙の神羅万象には無限に異なる種類があるけれども、
ただ唯一なる神によって、その神のエネルギーを素材として、

その神の知恵によってエネルギーの振動、旋回、方向等を色々に設計され、
それが組み合わされて各々異なる形に出現したのであり、
形が異なるからといって別々のバラバラの存在ではないのである。

・・・

二十六日のことば  現象世界は心の現わす世界である

「宇宙は宇宙大生命の無限の知恵の展開である。」

これは一応そのまま正しい見解である。
その宇宙の中に於いて、どうして不幸や災難が病気や、
その他色々の不調和の状態が存在するのであろうか。

この宇宙を設計した”知性”は完全な知恵を備えていないのではないだろうか。

そのような“知性”は”神”と称するに耐えないものではないだろ
うか

――釈迦はそれゆえに、この世界(現象界)はそのような完全な知性(神)によって
創造せられたのではなく(現象世界の創造神の否定)それは人間の心(迷妄心――無明)
によって生じたる唯心所現の世界であるとせられたのである。

神の想像し給える真創造の世界を「実在の世界」と称するならば、
吾々の肉眼で見るこの現象世界は仮虚不実の夢幻的世界であるという訳である。

現象世界は唯心所現の世界であるという世界観は、
いっそう進歩したものの観方であると謂えるのである。

・・・

二十七日のことば  仏教も創造神を立てている


ここに”この世界”を創造した創造神を立てるキリスト教や印度教その他と
「この世界は神の創造ではない」と創造神を否定する仏教との正面衝突があるのである。

仏教界の碩学大谷光瑞氏さえも、仏教とキリスト教とが同様の真理を説くなど
ということは仏教の本質を知らない者だと罵倒したことがあるのである。

この両者の宗教を融合帰一せしめる道は不可能であると認められていたのであるが、
生長の家の説き方に従うならば、仏教と基教とは容易に一致点を見出すことが
できるのである。

というのは「この世界を創造した」という場合の「この世界」を「実相の世界」と観て
「現象世界」のことではないと解釈し“実相”と”現象”とをハッキリ区別すれば、
仏教だとて、法華経の如来寿量品に於いて”常に茲に在りて滅せざる如来“を説き、
現象界が「大火に焼かるる」と見る時にも「安穏にして天人常に充満せる実相世界」
のあることを強調しているのである。

常に安穏にして一切の不幸のない実相が如来の命の展開だということになれば、
それは如来の創造せる世界(文字の表現が異なるだけ)であって、
如来は創造神と同一者であるということに解釈できる訳である。

・・・

二十八日のことば  仏教の世界観と基教のそれとは一致する


つまり仏教では、「大火に焼かるる現象世界」と「永遠に滅しない天人充満の
実相世界」とを立て、前者を唯心所現・生者必滅の仮現世界としているのであるが、

キリスト教では「その創造(つく)りたる全てのものを見給いけるに甚だ善かりき」
という「エデンの楽園」(実相世界)と、人間の心の迷いによって楽園から
追放されている”現象世界”とを立てているのであって、

こうして実相世界と現象世界、実在の世界と仮現の世界とを区別して考えれば、
仏教とキリスト教とは同一真理を説いていることが判るのである。

つまり全宇宙は神の創造に成る世界であり、それが“心”のレンズを通して
歪められて不完全に顕現せる世界が現象無常の仮現の世界なのである。

現象世界と雖も仮現の不完全な有様が消え実相完全の相を顕わしている部分は
実相世界の現実化即ち実相の延長と見てよいのである。

・・・


二十九日のことば  三種類の唯心論


今まで普通に説かれて来た唯心論を三種に大別することができるであろう。
主観的唯心論(Subjective Idealism)と、客観的唯心論(Objective Idealism)と、
絶対的唯心論(Absolute Idealism)とである。

第一の主観的唯心論、この世界は唯、人間の主観が時間空間の“認識の形式”に
投影されて現れているものであって、客観的にはそんなものは存在しないという
極端な観念論である。

第二の客観的唯心論は、この世界は、神または宇宙心の想念の展開であるから、
それは心の所現ではあるけれども、客観的に儼存する世界であり、
神の愛に護られている世界と説く。汎神論はこの中に入るであろう。

第三の絶対的唯心論、神は主観・客観を超越せる絶対者であって、一切を包容し
一切を支配するのは絶対者であるから、個人の努力と見えるものも実は絶対者の
顕現であり、全宇宙が絶対者に支配されているから、すべては機械的に自動的に動き
進展して行くので、個人の努力の余地など存在しないと見るのである。

・・・

三十日のことば  生長の家の唯心実相論


生長の家の説く唯心論は、以上大別する三つの唯心論とは異なる世界観である。

唯心実相論と称しているのである。

以上三種の唯心論的世界観に於いては“この世界”に人間の心の表現であるとか
神の心の表現であるとか、絶対者の表現であるとかいっても、
すべてこの“現象世界”のことを“この世界”といっているのである。

吾々の唯心実相哲学に於いては、神なる絶対完全者の顕現である世界(実在界)と、
吾々の”心”を媒介として投影し仮現されたる現象世界とを説き、実在界と仮現の
世界との交錯するところに善悪混淆の現象があらわれるのであるが、仮現はどこまでも
仮現であって実在でないから、現象界は想念の変化によって変化する。

ここに努力の甲斐があると説くのである。

そして実在するものは唯、神と神の創造になる実在界のみであって
それは常住不変の完全原型の世界である。

そして吾々の努力次第で、どの程度その完全原型を現象世界に具象させて
円満幸福な生活を送り得るかがきまるのだと説くのである。

そしてその真理を実際生活に応用させて効果をあげているのである。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7008757 より抜粋・整理) 

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