伝統板・第二 2539353

本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。


省みる

1:伝統 :

2016/11/07 (Mon) 03:31:22

愛なき心がわれらを傷つける

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月7日)より

物質はわれわれを傷つけることはできぬ。
愛なき心がわれらを傷つけるのである 

―― そしてあたかも物質がわれわれを傷つけたるがごとく錯覚せしめるのである。
物質に傷つけられたるがごとく見えている時に、反省してみると、
物質によるよりも先ず自分の心が恐れていたか、憎んでいたか、怒っていたか ――

ともかく傷ついていたことを発見するであろう。

         <感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>
2:伝統 :

2016/11/19 (Sat) 03:46:07

         *『生長の家』(昭和25年7月28日の法語)より

   汝(なんじ)の潜在意識の中(うち)にある習慣に
   心を振り向けて反省せよ。

   如何(いか)なる心の習慣が自分の内にあるであろうか。

   自分は夫に従順であるだろうか。
   常に 「 ハイ 」 と返事しているであろうか。

   言葉ではハイと返事していながらも、
   心では‘すなお’に受けていないことがあろうか。

   夫の命令に対して 「 然し 」 「 だけど 」 などと考えながら
   言葉だけでハイと答えているようなことはなかろうか。

   人を さばかない積りで
   やはり さばいていることはなかろうか。

   暗いことは考えまいと考えながら、
   もすれば暗いことを考えていないだろうか。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

         <感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>
3:伝統 :

2016/12/05 (Mon) 03:23:22


           *「光明道中記」(12月5日)より抜粋

仏教では「人身得ること難し」と説かれている。

何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、
また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、
前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、
後の天上は楽のみの世界であるからである。

苦るしみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。
楽のみの世界では楽に執着するから結局はその楽は苦に変じて天上から墜落するのである。
「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。

吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、
自由自在の世界が其処に実現して来ると、
「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。

その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして
慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、
「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の
悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、

今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も
糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。

         <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>
4:伝統 :

2016/12/06 (Tue) 04:23:58


           *「光明道中記」(12月6日)より

【白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】


自分の言いなり通りが通る世界に永くいると、それに慣れて感謝と反省とを忘れる。
すると、その天上界の境涯が直ちに地獄に落ち、畜生に落ち、修羅に落ちる。

地獄とは如何なる世界であるかと言うと、閻魔と鬼とのいる世界である。
閻魔は審判(さば)く者であり、鬼は悪を爬羅(ほじくりだ)して責める者である。
人を審判き人を非難する者の住む世界が地獄である。

日々省みて、われ地獄の生活に堕ちてはいないかと反省せよ。

餓鬼とは如何なる世界であるかと云うと、貪(むさぼ)れば貪れど、
尚足らぬ飢え渇いた感じがしてたまらぬ者の世界である。
あるが上に欲しく、幾ら恵みが与えられていても尚不足に感ずる人はないだろうか。

げに常に不足を言うものは餓鬼の境涯に堕(お)ちているのである。
五感の快感のほかに喜びを知らぬ者は畜生である。
尤(もっと)も犬にも忠犬があり、義烈なる軍馬もあるが
、それは寧(むし)ろ仏性が出たのである。

また人を憎み嫉妬し腹立ち争う者は修羅である。

人間は、毎日自己が餓鬼に、畜生に、修羅に、堕ちていないかを
反省しなければならぬ。

         <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>
5:伝統 :

2016/12/22 (Thu) 04:50:08


          *「叡智の断片」(P190~192)より

自分の運命を好転するのはただ自分の心の持ち方一つになる。
最初好転していた運命はいつの間にか悪転する。

そしてある人は「神も仏もあるものか」と云う。
ある人は「これは自分の心の影だ」と反省する。

前者は堕落し後者は進歩するのである。

           〇

戦争中脊椎カリエスとリチャード氏病に罹って歩行不自由にまでなった
有留弘泰講師の手紙はそれを雄弁に語るものである。

この運命の逆転にもかかわらず、「神も仏もあるものか」と云はずに、
これ皆自分の心の影だと氏は精進して回復したのである。

次にその手紙の一節をかかげる。

昭和十八年夏、尼崎防衛部隊長として応召、約二年間の勤務を大過なく勤めさして
いただきましたのも全く光明思想の賜でございました。

しかしまだ信仰が不徹底であった為、折重なり来る悪条件の一つ一つを
一切笑顔で明朗に処理することが出来ず、勿論光明の生活によって或る程度まで
相当立派につとめさせては頂きましたが、

召集事務の複雑多岐、部隊召集権の脆弱性、市役所兵事課の無能、防衛施設の築設に
対する人員資材資金の殆ど皆無、尼崎土質の悪条件等々により種々心労もし、
不快の思を重ねざるを得ぬ実情にて、

加うるに頻発する警報などにより一時的なりとはいい乍ら心境を掻き乱さるる事多く、
浄心の機会少なく、遂に少しづつ超過したる心的毒素(長寿の霊薬の生産量よりも超過したる)
の蓄積累加によって遂にリチャード氏病と脊椎カリエスとの二つの難症を併発し、

遂に隊長として軍務処理に支障を来たすに至り、故山の篠山に退隠いたしましたのが、
四月二十一日(昭和二十年)でした。

それまで約半年(昭和十九年十月二十八日発病以来)不自由な身体を駆って、
兎も角も陣頭指揮とは行かぬ迄も隊務を処理し得た事は、光明真理の賜でございました。

部隊の軍医中尉鎌倉勝夫博士および阪大医学部小沢凱夫(よしお)教授(博士)の
診定によるも二カ年間の仰臥静養を宣告せられたる程にて、
事実一時は一歩も歩めない処まで落ち込みましたが、

静に心を養い信仰を深め高め、神と神の子の親子一体の境地に到達
(白熱化せる父子一体の妙境に入る)と共に(帰篠後約一ヶ月半位にて)
俄然好転し始め、急速に恢復、

爾後信仰による「働き療法」「忘病療法」「感謝療法」等によって或いは草むしり、
畑作、大工仕事、炎天下の裸体労働、魚釣、荷車曳、山行き(薪作り)一里の道を
薪を荷車に積んで運ぶ等の相当強度の労働によって急速に強健となり、
戦線復帰を期し居る折柄、終戦に遭遇し九月八日復員となりました。

この体験の記録をつくっています。

           〇

半身不随の重病にかかっていた有留講師でも病気の責任を他に転嫁せず、
みずから今までの自分の心を顧みて改むべきことを改めたならば立ち直ったのである
から、それより軽い病気が心の更め方で治るのは当然である。

病気を実相だと思ってはならない。
健全なのが実相である。

病中なお健康の実相を観ずるを入龍宮不可思議境界と云う。

         <感謝合掌 平成28年12月22日 頓首再拝>
6:伝統 :

2017/01/08 (Sun) 04:25:13


《自己の心を護(まも)ること》

          *『 生長の家 』(昭和26年7月7日の法語)より

   最も辛(から)く見えるところの境遇や出来事も、
   それは一層 魂を深めるところの素材である。

   秋が来て落葉するように見える時にも、
   吾々は嘆いてはならないのである。
   落葉する樹(き)ほど 春になって 美しき花をひらくのである。

   寒さが訪れて来るときに、樹木が葉を落すのは、
   外の出来事にのみ生命を労しないで、内(うち)に深くこもって、
   生命力をいたわり育て貯蔵せんがためである。

   外界が荒々しいときには、人間も外にひろがることを考えないで、
   内を守るが好(よ)いのである。

   自分の心の中に悪い想念はないだろうか、
   間違った感情はないだろうか、
   よく自己反省して見ることである。

   そして外の悪想念の吹き込まないように
   自己の心を守り育てるべきである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/efdd9661dbc7c5719ce482817c82a8c4

         <感謝合掌 平成29年1月8日 頓首再拝>
7:伝統 :

2017/01/18 (Wed) 04:41:40


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月18日)より

毎日何事か《人のためになる》仕事をせよ。
その《ためになる》部分だけが自分の《生きた》生命である。

《ためにならない》部分の生活は死んだ生活である。
自殺の生活である。
日々、自殺の生活を送らないように心がける者だけが大きく生長するのである。

何よりも自分に深切であることである。
そして自分に深切であるには、常に振り返ってみて、人のために何事をなしえたか ――
それによって自分の生命(いのち)がどれだけ生きたかを反省しなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年1月18日 頓首再拝>
8:伝統 :

2017/02/02 (Thu) 04:56:57


            *『臨時法語集』谷口雅春 より


『私は何も悪いことをしたことがないのに、どうして私は人から逆恨み受けるのだろう』

というようなことをよく考える人がある。


それは逆恨みの相手には、その人は決して悪いことをしていないかも知れないが、
他の人に対して自分が恩を受けながらその人を怨んだり、
つまり逆恨みしているようなことがあり、
それに自分が気づかないことがあるのである。

そこで他からせられる相(すがた)は、
自分の心の内にある通りのものの具象化だと考え、
自ら反省してその間違った心を捨ててしまうがよい。

例えば、相手が自分が憎んで来たらこう考える。

『彼が私を憎むのは、その人を私は憎んでいないけれども、誰か他の人を憎んでいる。
その憎んでいる業の波が、他方へ廻って反射して別の人からやって来るのだ。
三界は唯心の所現なのだから、あの人の相(すがた)は私の心の影なのだ』

と省みる、自分の心を改めるがよい。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17635345.html

           <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>
9:伝統 :

2017/02/17 (Fri) 04:28:10


        *『 生長の家 』(昭和24年8月16日の法語)より

   自分の力だけのものを
   得ることができるのである。

   人の力に頼ってはならない。

   自分で失敗しただけの程度に
   自分はその問題に明るくなるのである。

   人の失敗を他山の石として自己を省みるものは、
   労少なくして効大(おお)いなることができるのである。

   しかしこれは労の外に「 自己を省みる 」 という値(あたい)を
   払っているからである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12807072.html

           <感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>
10:伝統 :

2017/02/24 (Fri) 04:16:59


《心の波長を合わせるのは人間の役目》

           *「光明法語」(2月24日)より

「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。その余のものは汝等に加えらるべし」
とイエスは言った。
このことは何時までたっても真実である。

世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。

実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。

自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。


         <感謝合掌 平成29年2月24日 頓首再拝>
11:伝統 :

2017/03/12 (Sun) 04:39:39

《進歩の目標を定めて努力せよ》

           *『生長の家』(昭和25年8月19日の法語)より

   今日、唯今、神の力を実践することである。

   自分は如何に自分の余裕の時間を使っているであろうか。
   それを反省せよ。

   自分の生活には何か理想をもっているか。
   如何なる点に自分の進歩の目標をもっているか、反省せよ。

   自分の欠点は何であるか、
   その欠点を自分は克服すべく努力しつつあるか。

   努力することは、価いを払うことにあたる。
   価いを払わずして価値あるものを受けようと
   思ってはならないのである。

   「 進歩 」 は日に日に努力の価いを払う者のみに与えられる
   賜(たまもの)である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

         <感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝>
12:伝統 :

2017/03/22 (Wed) 04:57:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>
13:伝統 :

2017/04/09 (Sun) 06:17:13


         *『 生長の家 』(昭和24年9月25日の法語)より

   諸君は 夕方食事を終った後に自ら省みて今日の機会に、
   自分は人と生れて如何なる仕事をなしたのであるか
   反省してみなければならない。

   人の地上に生を享(う)けたるは、
   仕事によって自己表現を完成するためであるから、

   もしその晩 省みて今日は何事をも なさなかったと気がついたならば
   それを恥じて改めなければならないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

            <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝>
14:伝統 :

2017/04/28 (Fri) 05:00:13


       *『幸福を招く365章』第10項(P215~216) より

最も辛く見えるところの境遇や出来事も、
それは一層魂を深めるところの素材である。

秋が来て落葉するように見える時にも、
吾々は嘆いてはならないのである。
落葉する樹ほど春になって美しき花をひらくのである。

寒さが訪れて来るときに、樹木が葉を落とすのは、
外の出来事にのみ生命を労しないで、内に深くこもって、
生命力をいたわり育て貯蔵せんがためである。

外界が荒々しいときには、
人間も外にひろがることを考えないで、内を守るが好いのである。

自己の心の中に悪い想念はないだろうか、
間違った感情はないだろうか、よく自己反省して見ることである。

そして外の悪想念の吹き込まないように自己の心を守り育てるべきである。


(初出は「生長の家」昭和26年7月7日の法語)

            <感謝合掌 平成29年4月28日 頓首再拝>
15:伝統 :

2017/05/13 (Sat) 03:20:16


《サービスは繁昌の基礎工事である》

           *『生長の家』(昭和25年11月20日の法語)より

   あなたの仕事が繁昌しないならば喜べ悦(よろこ)べ。
   それはあなたにとっての反省の機会であり、魂の向上の機会である。

   どこかに貴方(あなた)の心に明るさが足りなかったか、
   深切さが足りなかったか、行き届かなかったか、
   サービスが足りなかったか、愛が足りなかったのである。

   出来るだけ、心を明るくし、深切にし、すべてに行き届いて、
   愈々(いよいよ)益々(ますます)人々にサービスを増加し、

   お客が来なければ、私の世界に先客万来を描いて
   「有り難う御座います」と感謝することにすれば、
   繁昌と成功とは疑いなしである。

            <感謝合掌 平成29年5月13日 頓首再拝>
16:伝統 :

2017/06/05 (Mon) 04:25:11


           *『 生長の家 』(昭和26年1月20日)の法語より

   心が感情で激動し、神の方へ集注することが出来ない場合には、
   屹度(きっと)それは何か 「 身びいき 」 の我の考えにとらわれているか、
   相手の身になって考えてやらないからである。

   自分に 「 身びいき 」 の考えはないか、
   相手にとって止むを得ないのではないか考えよ。

   更に自分の今考えていることだけが善いことではなく、
   その今考えていることが 妨げられることが却(かえ)って
   一層よくなって来るために、
   神が彼をつかわし給(たま)うているのではないかを充分考えよ。


   そうした反省が入って来るとき、
   激情は止み、心は平静となり、他を赦すことが出来、

   自分の心も解(ほど)けて 神の智慧が流れ入って来るのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成29年6月5日 頓首再拝>
17:伝統 :

2017/06/20 (Tue) 04:44:28


          *「光明道中記」(6月20日)より

【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
                        (『生命の實相』第一巻)】

自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。

利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。

憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、
腹につかえるものが残っているからである。

多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。

或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても
病気が治らないのであった。

治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。

治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。

『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。

            <感謝合掌 平成29年6月20日 頓首再拝>
18:伝統 :

2017/07/06 (Thu) 04:40:28


         *『 生長の家 』(昭和44年12月22日の法語)より

   誰か家族の内に病人が出たときには、
   それが一層悪くなるであろうと考えて恐怖してはならない。

   病気は「 病める気 」即ち「 不調和な心 」の状態のあらわれ
   であって、恐怖すれば「 心の不調和 」が増大するばかり
   であるからであるからである。

   そこで 病人が自分の家庭にあらわれたとき、
   家族同士の中に「 心の不調和 」がなかったか、
   互いに「 不平不満足 」の念を起したことがなかったかを
   反省してみるがよい。

   そして「 心の不調和 」や「 不平不満足 」があったならば、
   それを去って、家族互いに心を調和させるがよい。

   そのためには何か互いに気まずい事があって
   腹が立ったりしているならば、
   あなたが先ず率先して詫びるがよい。

   そして互いに詫び合って、互の心のもつれが解きほぐされたときの
   心の爽(さわ)やかさを味わうがよい。

   その時“ 神癒の力 ”を完全に受けとる
   “ 心の波長 ”が起るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/55d2bfff50ecbb8650ebb2f463f6bcae

            <感謝合掌 平成29年7月6日 頓首再拝>
19:伝統 :

2017/07/20 (Thu) 03:27:58


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月20日>(P21)より

われわれはわれわれを躓かしてくれたものに怒ることなく、
かえってこれに感謝すべきである。

われわれは躓くごとに、自分の”内部の故障”に眼を向けて反省しさえすれば、
躓きはかえって内部を浄める指示機となり、
いっそうわれわれを高めあげてくれる動機となるのである。

三界唯心の理は、反省が内面に向かうとき向上の契機を与える。

         <感謝合掌 平成29年7月20日 頓首再拝>
20:伝統 :

2017/09/03 (Sun) 04:30:49


       *「生長の家」(昭和16年10月7日の法語)より

   生長の家は敵を立てて戦うに非ず、敵なき世界に入り、
   邪心を抱くものに、おのづから鏡に影がうつるが如く
   自壊が起ること、山内翁の無敵の平法に同じである。

   「それ平法の真妙剣と云うは天地の妙を体認して剣術を行うゆえに、
   我此の真妙の心理を考えて、先ず天地の本性を見るに蓋し
   天地の本性は陰陽和合して大極建つ。

   其の中に万物包括せる故に乾坤の中にあらゆる物皆是れ
   天地の一性にして随順せずと云うことなし。
   天道に背き戦う者は自ら其身を害兇す。

   故に天地の外に亦天地なし。
   何を敵として戦うべきことあらんや」と。


   天地の外に亦天地なしとは、天地に対立のないことを云ったのである。
   天地は『一』である。『神の創造った世界』と『悪魔の創造った世界』
   対立するような二元的世界観ではない。

   我なく敵なく、天地ただ『一』なることを悟るとき天下無敵となる。


   『愚(それがし)おもへらく、天何ぞ天、我何ぞ我、
   同根一体にして其の性を一にす。天地無敵なれば、即ち我も亦無敵。
   是を以ての故に、我「一」の道を名づけて平常無敵と号す。
   平は平にして中也。常(じょう)は庸にして中庸の理なり』


   中庸に『喜怒哀楽の未だ発せざる、之れを中(ちゅう)と云う。
   発して節に当る、之れを和と云う。
   中とは天下の大本、和とは天下の達道。
   中和を発して天地位し、万物育つ。』

   心『中』ならば、発して必ず節に当り、万物育ちて天下無敵となる。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

         <感謝合掌 平成29年9月3日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/09/20 (Wed) 04:53:59


        *『 生長の家 』(昭和26年1月20日の法語)より

   心が感情で激動し、神の方へ集注することが出来ない場合には、
   屹度(きっと)それは何か 「 身びいき 」 の我の考えに
   とらわれているか、相手の身になって考えてやらないからである。

   自分に 「 身びいき 」 の考えはないか、
   相手にとって止むを得ないのではないか考えよ。

   更に自分の今考えていることだけが善いことではなく、
   その今考えていることが 妨げられることが却(かえ)って
   一層よくなって来るために、
   神が彼をつかわし給(たま)うているのではないかを充分考えよ。


   そうした反省が入って来るとき、
   激情は止み、心は平静となり、他を赦すことが出来、

   自分の心も解(ほど)けて 神の智慧が流れ入って来るのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

         <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>
22:伝統 :

2017/12/06 (Wed) 04:25:47


           *「光明道中記」(12月5日常住微笑の日)より

 【悲しい時ほど笑わなければならぬ。笑いぬくとき悲しさは征服される。
                       (『生命の實相』第四巻)】

仏教では「人身得ること難し」と説かれている。

何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、
また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、
前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、
後の天上は楽のみの世界であるからである。

苦るしみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。
楽のみの世界では楽に執着するから結局はその楽は苦に変じて天上から墜落するのである。
「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。

吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、
自由自在の世界が其処に実現して来ると、
「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。

その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして
慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、
「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の
悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、

今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も
糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。

・・・

           *「光明道中記」(12月6日貪(むさぼ)りを捨つる日)より

【白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】


自分の言いなり通りが通る世界に永くいると、それに慣れて感謝と反省とを忘れる。
すると、その天上界の境涯が直ちに地獄に落ち、畜生に落ち、修羅に落ちる。

地獄とは如何なる世界であるかと言うと、閻魔と鬼とのいる世界である。
閻魔は審判(さば)く者であり、鬼は悪を爬羅(ほじくりだ)して責める者である。
人を審判き人を非難する者の住む世界が地獄である。

日々省みて、われ地獄の生活に堕ちてはいないかと反省せよ。

餓鬼とは如何なる世界であるかと云うと、貪(むさぼ)れば貪れど、
尚足らぬ飢え渇いた感じがしてたまらぬ者の世界である。
あるが上に欲しく、幾ら恵みが与えられていても尚不足に感ずる人はないだろうか。

げに常に不足を言うものは餓鬼の境涯に堕(お)ちているのである。
五感の快感のほかに喜びを知らぬ者は畜生である。
尤(もっと)も犬にも忠犬があり、義烈なる軍馬もあるが
、それは寧(むし)ろ仏性が出たのである。

また人を憎み嫉妬し腹立ち争う者は修羅である。

人間は、毎日自己が餓鬼に、畜生に、修羅に、堕ちていないかを反省しなければならぬ。

         <感謝合掌 平成29年12月6日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/12/23 (Sat) 03:47:03


           *「光明道中記」(12月4日困難を遊戯化する日)より抜粋

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。何事も魂の生長の養分である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、その人にとって一つの誘惑であることがある。
通らないことが時にはあるので、自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。
無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

         <感謝合掌 平成29年12月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2018/01/18 (Thu) 04:47:49


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月18日)より

毎日何事か《人のためになる》仕事をせよ。
その《ためになる》部分だけが自分の《生きた》生命である。

《ためにならない》部分の生活は死んだ生活である。
自殺の生活である。
日々、自殺の生活を送らないように心がける者だけが大きく生長するのである。

何よりも自分に深切であることである。
そして自分に深切であるには、常に振り返ってみて、人のために何事をなしえたか ――
それによって自分の生命(いのち)がどれだけ生きたかを反省しなければならぬ。

            <感謝合掌 平成30年1月18日 頓首再拝>
25:伝統 :

2018/01/29 (Mon) 03:52:59


           *「光明道中記」(1月29日心朗かなる日)より

【病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。
                       (『生命の實相』第五巻)】

心朗かなれば病はない。
他を憎まなければ病はない。
悲しまなければ病はない。

物思いに沈むことなければ病はない。
怒ることなければ病はない。
気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。

不平に思うことなければ病はない。
呟くことなければ病はない。
ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。

病気になって都合よしと思うことなければ病はない。
家に争いなければ病はない。
仕事を嫌うことなければ病はない。

隠す心なければ病はない。
羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。

心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。
心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。
心暗ければ本当に善の資格はないのである。

人を愛すれば病はない。
すべての事物を愛すれば病はない。
愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、
執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。

心顛倒するは智慧が欠けているのである。
智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。

            <感謝合掌 平成30年1月29日 頓首再拝>
26:伝統 :

2018/02/06 (Tue) 03:29:53


           *「光明道中記」(2月6日一切に感謝謝する日)より

【天気に小言を言うな。すべてについて小言を言うな。小言はすべて暗い気分を招く。
 暗い気分は病気と不景気のもとだ。(『生命の實相』第十一巻)】


「あなたは心に不平を持っているから、
それを直さなければ、その病気は治らないでしょう」と、
道場へ来た人に助言してあげることがある。

すると「私は決して不平など心に持ったことはありません」と答える人が多い。
そう云う人は、自分の心に反省がないのである。

負債があるのに負債のあることに気附かず、
借金があるのに借金をしていることに気附かぬ人である。

そんな人は恐らく借金を払おうとしない人だろうし、
自分の悪癖(あくへき)を直そうとしない人で、
最も始末に了(お)えない種類の人間である。

そんな人が道場から帰る時間になって雨でも降って来たなら
直ぐ「チェッ雨が降って来て弱った!」と言って
天気の小言を言う現場を度々見せられているのである。

不平を持たぬ心とは、どんな事が起っても小言を言わぬ、小言を思わぬ心である。

観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。

自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。

            <感謝合掌 平成30年2月6日 頓首再拝>
27:伝統 :

2018/02/24 (Sat) 03:59:52


           *「光明法語」(2月24日)より

《心の波長を合わせるのは人間の役目》

「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。その余のものは汝等に加えらるべし」
とイエスは言った。
このことは何時までたっても真実である。

世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。

実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。

自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。

            <感謝合掌 平成30年2月24日 頓首再拝>
28:伝統 :

2018/03/22 (Thu) 03:24:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 平成30年3月22日 頓首再拝>
29:伝統 :

2018/04/27 (Fri) 03:34:54


     *「希望を叶える365章」(P26~27)より

問題が起こった場合、その問題は一見、誰か「他(た)の人」の失錯又は
悪意が原因になって起こったと見るかもしれない。

しかし、そんな場合でも、決してその「他(た)の人」を恨んだり
呪ったりしてはならないのである。

「一切万事われより出でてわれに還る」のが心の法則であるから、
現象的にはその事件は「他(た)の人」が起こしたように見えていても、
実はその人自身の心の波が「波長が合うもの」を引き寄せたのである。

他(ひと)が悪い悪いと思っていたら、「立ち向かう人の心」は
自分の心の鏡であって、「心の法則」(これが「観世音」である)が、
自分自身の心の状態を「他(た)の人」と謂う「鏡」に映し出して
自分自身の心を反省してあらためるように摂理されているのである。


自己反省の機会として与えられるのが、所謂る「問題」であるから、
本当に自己反省が徹底して、自分の心が改まったら環境も改まって来るし、
問題も解決してしまうのである。

相手や他(た)の人や環境に罪をきせて、自己反省せず、
自分の言いのがれをしているような事では問題は解決しないのである。

            <感謝合掌 平成30年4月27日 頓首再拝>
30:伝統 :

2018/05/23 (Wed) 04:32:32


      *『人生の秘訣365章』第4篇(P114~115) より

《“人を呪えば穴二つ”の真理 》

「彌蘭陀王所問経」だったと思う、こんな話があるが、
ある時、弟子が釈尊に向ってこういってたづねた。

「人が誰かを憎んだり、呪ったりした場合、
その憎しみや呪いの念を相手が受けなかった場合には
その憎しみや呪いの念は何処へ往って、どうなりますか」

「お前は人が誰かの所へ贈り物をもって往った場合、
相手がその贈り物を受け取らなかったら、その贈り物は何処へ行くと思うか」
と釈尊はたづねられた。

弟子は、

「その贈り物を相手が受取らなかったら、
その贈り物は、贈り主のところへ返ってまいります」

と答えた。

そのとき釈尊は、

「その通りじゃ、人が憎しみや呪いの念を誰かに送った場合、
相手がそれを受取らなかったら、その憎しみや呪いの念は自分に返って来て、
自分自身を害することになるのじゃ」

この釈尊の語(ことば)には深い意味がある。

これは個人のことにも通用するけれども国際上にも通用するのである。
私は今、南と北とが互いに憎しみ合って戦い、自由陣営と共産陣営とが
互いに呪いあって戦っているヴェトナムの現実を見るのである。

そして、その憎しみと呪いとが、いずれも自分自身に爆弾や砲弾となって返って来て、
みずからを傷つけ合っているいたましい姿を見るのである。

もう一度人類はこの釈尊の語(ことば)をかみしめて反省すべき秋(とき)ではなかろうか。

            <感謝合掌 平成30年5月23日 頓首再拝>
31:伝統 :

2018/07/20 (Fri) 03:53:54


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月20日)より

われわれはわれわれを躓かしてくれたものに怒ることなく、
かえってこれに感謝すべきである。

われわれは躓くごとに、自分の”内部の故障”に眼を向けて反省しさえすれば、
躓きはかえって内部を浄める指示機となり、
いっそうわれわれを高めあげてくれる動機となるのである。

三界唯心の理は、反省が内面に向かうとき向上の契機を与える。

         <感謝合掌 平成30年7月20日 頓首再拝>
32:伝統 :

2018/12/06 (Thu) 02:33:02


           *「光明道中記」(12月5日 常住微笑の日)より

 【悲しい時ほど笑わなければならぬ。笑いぬくとき悲しさは征服される。
                       (『生命の實相』第四巻)】

仏教では「人身得ること難し」と説かれている。

何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、
また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、
前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、
後の天上は楽のみの世界であるからである。

苦るしみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。
楽のみの世界では楽に執着するから
結局はその楽は苦に変じて天上から墜落するのである。

「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。

吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、
自由自在の世界が其処に実現して来ると、
「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。

その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして
慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、
「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の
悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、

今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も
糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。

・・・

     *「光明道中記」(12月6日 貪(むさぼ)りを捨つる日)より

【白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】


自分の言いなり通りが通る世界に永くいると、それに慣れて感謝と反省とを忘れる。
すると、その天上界の境涯が直ちに地獄に落ち、畜生に落ち、修羅に落ちる。

地獄とは如何なる世界であるかと言うと、閻魔と鬼とのいる世界である。
閻魔は審判(さば)く者であり、鬼は悪を爬羅(ほじくりだ)して責める者である。
人を審判き人を非難する者の住む世界が地獄である。

日々省みて、われ地獄の生活に堕ちてはいないかと反省せよ。

餓鬼とは如何なる世界であるかと云うと、貪(むさぼ)れば貪れど、
尚足らぬ飢え渇いた感じがしてたまらぬ者の世界である。
あるが上に欲しく、幾ら恵みが与えられていても尚不足に感ずる人はないだろうか。

げに常に不足を言うものは餓鬼の境涯に堕(お)ちているのである。
五感の快感のほかに喜びを知らぬ者は畜生である。
尤(もっと)も犬にも忠犬があり、義烈なる軍馬もあるが
、それは寧(むし)ろ仏性が出たのである。

また人を憎み嫉妬し腹立ち争う者は修羅である。

人間は、毎日自己が餓鬼に、畜生に、修羅に、堕ちていないかを
反省しなければならぬ。

         <感謝合掌 平成30年12月6日 頓首再拝>
33:伝統 :

2018/12/20 (Thu) 04:14:06


        *「光明法語」(12月20日)

「悔改めよ、天国は手の届くところにある」とキリストは言った。

ニセモノの自覚を捨てなければ、ニセモノのままで、
自分は神の子だと頑張ったとて何にもならぬ。

鍍金(メッキ)は本物だと頑張っても本物にはならぬ。
鍍金を剥がして本物を出してこそ「わしは本物だ」と主張する資格があるのだ。

鍍金(メッキ)を剥がす方法が『悔改(くいあらた)め』であり、懺悔である。
懺悔なしに自覚の転回は不可能である。

洗濯することなしに、垢)あか)を流し捨てることなしに
「私は清潔です」と頑張って見ても駄目だ。

         <感謝合掌 平成30年12月20日 頓首再拝>
34:伝統 :

2018/12/31 (Mon) 05:05:36

《再び新生をする》

        *「光明法語」(12月31日)より

愈々今年もこれで終わる。

吾等は今日限り一切の悪しき習慣、
人を怒ること、憎むこと、恨むこと、不平に思うこと、悲しむこと、
取越苦労すること、持越苦労する事を止めることを誓うのである。

何事に対しても腹立てることなく、常に愉快に、明るく、
人々の心の中に、行いの中に、常に善のみを見て悪を見ず、

物事は今を生かして積極的に取進み、
常に自らが神の子であり、円満完全であり、
無限の能力と健康とを所有していることを自覚自信し、

撓(たゆ)むことなくひるむことなく神の道に邁進せんことを誓う。

・・・

【 決意の日 】

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月31日)より

 本年最後の決意の日である。
 新しき天と地とを迎えるために潔(きよ)むべき日である。
 
 家を潔め、心を潔め、新しき花嫁の装いをした「真理(キリスト)」が釈迦が、
 その人の中に天降って来ても、その「真理(しんり)」の坐り場所がないような
 不潔なことをしておいてはならない。

 毎日の眠る前の神想観に、新しき次の日を迎えるべく、すべての人とその罪とを赦した
 と念じ、さらにその人に愛を送り祝福を送ったと同じように、今夜は眠るまえに
 いっさいの人々を赦し、

 いっさいの人々に感謝し、いっさいの事物に感謝し、感謝の念で心の中の汚れを洗い浄め、
 愛と祝福の念で、心の中を美しく装飾して、

 いつでも新しき「生命(せいめい)」の、新しき「真理(しんり)」
 の花嫁が天降って来ても招じえられるように魂の準備をして眠ろう。

 人々よ、安らかであれ。われはすべての人々に感謝する。
 よく戦ってくれた。よく働いてくれた。
 あなたたちがいてくれたのでわたしの生活が光栄あるものとなったのである。

 雷霆(らいてい)も、暴風も、山雨も、地震も、海しょう(津波)
 も、それはわたしを高めるためのものでしかなかったのである。

 われ、一切人(いっさいじん)、万事万物に感謝する。
 人々よ、平安なれ。

・・・

新生のため準備整う日

           *「光明道中記」(12月31日)より

【植物の種子と等しく人間の事業の発芽にも時間を要する。急ぐな。
                        (『生命の實相』(第一巻)】

愈々(いよいよ)今日で本年も終わるのである。
終わると思うと、名残り惜しいような気もする。

振返ってみると、どれだけ私の魂はこの1年間に進歩したことだろう。
色々の失敗もあったであろう。色々の躓きもあったであろう。

併しその時には魔誤ついた如く見えた失敗も躓きも、今から振り返って見ると、
悉く私の魂の生長に必要欠くべからざる要素をなしていることを発見するのである。

要するに、本当の意味に於て失敗と云うことはなかったのである。
躓きと云うものはあり得ないのである。
今から見ればすべてのものが拝まれる。

振返って見て拝まれるだけでは尚心細いと思う。
どんなときにも拝めるようになっていなければならない筈である。
その時その場で拝めるようでなければならないのである。

まだ私は、本当に拝み切っていることが出来なかったようにも反省せられもする。

愈々今年もこれで終わるのかと思うと、今年と云うものに申し訳ない気がする。
私自身の生命にも申し訳がないような気がする。
誌友諸君に対してもまことに申し訳がない。

この私を茲(ここ)まで鞭撻し、
ここまで引摺るようにして導いて下さったのは誌友の私に対する信頼である。

私は茲に感謝を以て本年の日記を終ろうと思う。

         <感謝合掌 平成30年12月31日 頓首再拝>
35:伝統 :

2019/06/04 (Tue) 03:59:14


          *「眞理」第9巻生活篇第13章(P347) より

私たちが、無我になり、一切の利己的観念や、肉体的な情欲や、
物質的な貪欲にわずらわされることなく、最も自然な生活になるとき、
法《そのまま》の生活が来(きた)るのである。

これを自然法爾(じねんほうに)の生活と言う。

私たちの無我がくずれるとき、利己的になるとき、肉体的な情欲や、
物質的な利欲の念に駆(か)られるとき、其処に不安が生じ、悩みが生じ、
一切の厄難がむらがり来(きた)る。

外なる神は人間を罰しないけれども、人の内なる神は、その自然の発露を
物質的な肉体的な欲望によって隠覆(いんぷく)せられるがゆえに、
恰も、燦(さん)として輝く太陽を黒雲(くろくも)が蔽い隠して
暴風吹きすさぶが如く暗澹たる現実界があらわれるのだ。

日常生活の色々の面倒な問題はこうして現れる。

常に”内なる神”の”導き”又は”囁(ささや)き”に従って生活しているか、
それを無視して勝手な生活をしているかを反省せよ。

         <感謝合掌 令和元年6月4日 頓首再拝>
36:伝統 :

2019/06/27 (Thu) 04:45:59


        *『 生長の家 』(昭和25年4月18日の法語)より

   自分が誰かと不調和な状態になったり、
   誰かが自分を苦しめると思えるようになった時には
   それは自分の心の影であるから自分の想念感情を振りかえって見て反省せよ。

   自分自身の心がおだやかとなり、
   自分自身の態度が相手に調和する様になった時、
   相手は自分にとって味方となってくれるのである。

   相手がたとい利己主義であっても それに対して腹を立て、
   攻撃しては 相手の利己主義は治らないのである。

   自分が彼を愛してやり、自分が彼に感謝してやることによってのみ
   彼の利己主義は治るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825912.html

         <感謝合掌 令和元年6月27日 頓首再拝>
37:伝統 :

2019/07/20 (Sat) 04:24:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月20日)より

われわれはわれわれを躓かしてくれたものに怒ることなく、
かえってこれに感謝すべきである。

われわれは躓くごとに、自分の”内部の故障”に眼を向けて反省しさえすれば、
躓きはかえって内部を浄める指示機となり、
いっそうわれわれを高めあげてくれる動機となるのである。

三界唯心の理は、反省が内面に向かうとき向上の契機を与える。

         <感謝合掌 令和元年7月20日 頓首再拝>
38:伝統 :

2019/08/07 (Wed) 04:31:44


      *「光明道中記」(8月7日《善のみを視る日》)より抜粋
         
【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 


今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。

如何なる不快なる相(すがた)をもってあらわれようとも、
その不快なる相は、現在又は過去に於て自分のどこかに潜(ひそ)んでいた
不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

         <感謝合掌 令和元年8月7日 頓首再拝>
39:伝統 :

2019/08/21 (Wed) 03:34:34


       *『 生長の家 』(昭和25年5月26日の法語)より
        ~《他を自分の思い通りにならせてはならない》

   心が焦々(いらいら)して来る時には、
   他(ほか)に対して働きかけるな。
   手紙を書くな。

   自分の心が平和でない時に
   人に対して何事かをしかければ、
   その行いにも 手紙にも 言葉にも
   すべて不調和の雰囲気がつきまとうから
   必ず悪しき結果が 相手から反響して来るのである。

   そんな時には静かなる所に退いて
   何故(なぜ)自分がいらいらしているのか
   内省して見よ。

   必ずや、あなたは誰(だれ)か他の者が
   自分の思う通りにならない結果であることがわかるだろう。

   かかる時に 「 自分の思うようにならせたい 」 という
   我の心を捨てることが必要である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

         <感謝合掌 令和元年8月21日 頓首再拝>
40:伝統 :

2019/12/05 (Thu) 04:52:10


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈(はげ)しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと誤解せられることあり。

心のうちにでも言葉に現わしても、行ないにあらわしても、
人を傷つけてはならない。

誠実であれ。虚偽であってはならない。
素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。

値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、いずれにせよ
なんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、
怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みととは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

            <感謝合掌 令和元年12月5日 頓首再拝>
41:伝統 :

2019/12/06 (Fri) 04:45:41


    *「光明道中記」(12月6日《貪(むさぼ)りを捨つる日》)より

【白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】


自分の言いなり通りが通る世界に永くいると、それに慣れて感謝と反省とを忘れる。
すると、その天上界の境涯が直ちに地獄に落ち、畜生に落ち、修羅に落ちる。

地獄とは如何なる世界であるかと言うと、閻魔と鬼とのいる世界である。
閻魔は審判(さば)く者であり、鬼は悪を爬羅(ほじくりだ)して責める者である。
人を審判き人を非難する者の住む世界が地獄である。

日々省みて、われ地獄の生活に堕ちてはいないかと反省せよ。

餓鬼とは如何なる世界であるかと云うと、貪(むさぼ)れば貪れど、
尚足らぬ飢え渇いた感じがしてたまらぬ者の世界である。
あるが上に欲しく、幾ら恵みが与えられていても尚不足に感ずる人はないだろうか。

げに常に不足を言うものは餓鬼の境涯に堕(お)ちているのである。
五感の快感のほかに喜びを知らぬ者は畜生である。
尤(もっと)も犬にも忠犬があり、義烈なる軍馬もあるが
、それは寧(むし)ろ仏性が出たのである。

また人を憎み嫉妬し腹立ち争う者は修羅である。

人間は、毎日自己が餓鬼に、畜生に、修羅に、
堕ちていないかを反省しなければならぬ。

            <感謝合掌 令和元年12月6日 頓首再拝>
42:伝統 :

2020/03/22 (Sun) 02:18:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 令和2年3月22日 頓首再拝>
43:伝統 :

2020/06/28 (Sun) 03:38:51


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年6月22日)より

スピリチュアルな世界では、
何か人とは違った特殊な能力を持ったり体験をすることで、
自分に陶酔し、うぬぼれてしまうことがあります。

スピリチュアルに関心を持つ人でも、
そうした特殊な能力にあこがれて惹かれる人もいます。

そして特殊な修行などをして、超能力や霊能力を得ようとしたり、
超常的な体験を積んで、自分は凄いのだと勘違いする事が多いのです。

そうした人には現実世界では、たとえば仕事であまりうまくいかずに、
周囲からの評価が良くなくて、それを心理的に補償しようとして、
別世界のスピリチュアルな世界では、自分は認められるのだ、優れた存在なのだ
と思おうとするのです。

実社会では自分は認められないけど、そうした自分への過小評価に耐えきれずに、
スピリチュアル界など他の世界では優れた者だ認められることを願っているものです。

こうした心理的補償というのは例えば学校では、
勉強があまりできないと、それを補うためにスポーツで
人より優れたところを見せたいと思う場合もありますし、

勉強もスポーツもダメだと、
今度はバンド活動など音楽の道で人気を得ようとしたりします。

もちろん、自分の才能がそちらの方に埋まっていて、
それを掘り起こすのは良いのですが、劣等感を補うためにしている事もあります。

あるいはどれもダメな場合には、不良グループなどに入って、
普通の生徒がしないような悪いことをして、
それで優越感を得るような事もあるでしょう。

そうした悪の世界ででも認められたいと思ってしまう事があります。

そのように人間には承認欲求がるため
「他人から認められたい、自分を価値ある存在として認めてほしい」と願います。

それが通常の道で叶わないとなると、違った道ででも認められたいと思うようになります

霊能者にもそうした傾向がある人も多く、
彼らのなかには、「私が唯一だ」とか、「特別な存在なのだ」とか、
己惚れてしまうことも多いでしょう。

何度か書いておりますが、慢心も自己卑下も、
極端にぶれると、人は足を踏み外してしまいます。

才能に酔いしれて、足元をすくわれる人もおれば、
自己卑下の泥沼に足を取られて動けなくなる人もいます。


ですので、極端な自己評価に陥っていないかを反省し、
中道となるように心がける必要があります。

    (https://www.spacebrothers.jp/2016/11/blog-post_20.html )

            <感謝合掌 令和2年6月28日 頓首再拝>
44:伝統 :

2020/07/20 (Mon) 03:43:25


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月20日)より

われわれはわれわれを躓かしてくれたものに怒ることなく、
かえってこれに感謝すべきである。

われわれは躓くごとに、自分の”内部の故障”に眼を向けて反省しさえすれば、
躓きはかえって内部を浄める指示機となり、
いっそうわれわれを高めあげてくれる動機となるのである。

三界唯心の理は、反省が内面に向かうとき向上の契機を与える。

            <感謝合掌 令和2年7月20日 頓首再拝>
45:伝統 :

2020/08/19 (Wed) 04:07:04


        *『 生長の家 』(昭和25年5月26日の法語)より

心が焦々(いらいら)して来る時には、
他(ほか)に対して働きかけるな。

手紙を書くな。


自分の心が平和でない時に人に対して何事かをしかければ、
その行いにも 手紙にも 言葉にも すべて不調和の雰囲気がつきまとうから
必ず悪しき結果が 相手から反響して来るのである。


そんな時には静かなる所に退いて
何故(なぜ)自分がいらいらしているのか

内省して見よ。


必ずや、あなたは誰(だれ)か他の者が
自分の思う通りにならない結果であることがわかるだろう。


かかる時に 「 自分の思うようにならせたい 」 という
我の心を捨てることが必要である。

            <感謝合掌 令和2年8月19日 頓首再拝>
46:qgwvffxcfw:

2020/08/29 (Sat) 03:51:19

伝統板・第二
[url=http://www.gm4o7w2j01js22x927880u7dh6ohlwm3s.org/]uqgwvffxcfw[/url]
qgwvffxcfw http://www.gm4o7w2j01js22x927880u7dh6ohlwm3s.org/
<a href="http://www.gm4o7w2j01js22x927880u7dh6ohlwm3s.org/">aqgwvffxcfw</a>
47:伝統 :

2020/09/05 (Sat) 03:58:29

        *「眞理」第2巻基礎編第4章(P118~119)より
          ~《腹立ちを抑えるには》

癇癪(かんしゃく)は自分をそこない、家庭をそこない、
自分の属する団体をそこない、結局マイナスばかりで
プラスする処は何一つないのであります。

しかも癇癪が立って来たとき、それを正面から抑えようと思っても
却ゝ(なかなか)それは抑えることが出来ないものである。

腹が立って来たとき、すぐ言葉を出さないで
「一、二、三、四・・・・」と十まで唱えよ。
そうすれば、腹立ちが収まって来ると教えた人もある。

腹が立つのは、自分の考えが他の人の考えで妨げられた場合に
起りがちであるから、

腹が立って来たとき、相手の立場になって考えることは、
腹立ちの根本原因を取り扱う方法にもなるのである。

自己の心を静かに反省することである。

            <感謝合掌 令和2年9月5日 頓首再拝>
48:伝統 :

2020/09/19 (Sat) 04:10:07


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年9月17日)より

なかなか上手くいかない状況が続いていたり、
今一つ波に乗れない時期というものがあります。


何かにチャレンジしていてもずっとダメだったり、
あれこれ試してみてもどうもしっくりこなかったりします。

一般的には運が悪い状態とか言われることもありますけど、
そうした時に運命の波を変えていく方法について述べてみたいと思います。

世間でよく言われるのは、
掃除や断捨離、断食などをするとよいなどと言われたりします。

まず部屋の中を掃除して綺麗にし、
整理整頓をすると心も整ってきて、運気の流れも変わってきます。

これは実際にある事で、部屋の中がごみだらけだったり、
物であふれていると運気も停滞してしまいます。

なるべく部屋は綺麗にして、物も片付いた状態がベストです。

そうしてお部屋に住まわせてもらえることに感謝するとなおよいでしょう。

また断捨離もよく言われます。

不要となった物を捨て去る事で、身も心も軽くなるというものです。

確かに物には人の念も付着しますので、
古くなった物や使わなくなった物はずっとしまっておくのではなくて、
断捨離した方がよいです。

そうする事で滞っていた運気も流れ出していくでしょう。

断食を進める人もいますが、
これは身体に溜まったものを捨てるという事です。

物にも念が付着すると言いましたが、
当然に身体にも過去の念は蓄積されていっていますので、
断食すると流れていく事はあるでしょう。

こちらも心身を軽くする効果はあるはずです。

同様なものとして髪を切るなどがありますね。

よく女性の方などが、新規一転するために長い髪を切るとこがあります。

これにはやはり髪に過去の感情や思いというものが付着していることがあるため、
短く切ることで軽くなれるわけです。

これも運気を切り替えるのはいいでしょう。


今までのは物理的なもので、他でも言われることではありますが、
もっとも大切なことがあります。

運命の流れを変えていくためにもっとも大切なのは、
心の中に溜まっていた思いを掃除し、整理して綺麗にすることです。

人間は生きていくうちに何かしら心の中に感情が溜まっていくものです。

良いものだけならいいのですが、ネガティブな感情も多く持ってしまうものです。

愚痴に不平不満、嫉妬や憎しみ、怒り、悲しみ、
それらが心の底に溜まってしまっていることがあります。

これらの思いを綺麗にするために、今までの人生をふりかえって見て、
一つひとつ点検する時間を持って見る事です。

間違った思いを持っていたなら反省し、至らない思いなら改めてみます。

そうして今まで当たり前だと思っていたことに感謝する思いを描いてみましょう。

人生の運命の流れを変えていくもっとも大きな力となるものが、
この心の中の整理であり、お掃除なのです。

汚れた部屋の中を掃除するように、自分のこころも掃除してみましょう。

あなたの人生を変える力となっていくでしょう。

      (https://www.spacebrothers.jp/2020/09/blog-post_17.html

            <感謝合掌 令和2年9月19日 頓首再拝>
49:伝統 :

2020/09/29 (Tue) 04:43:11


       *「眞理」第2巻基礎編第4章(P119~120)より
         ~《嫉妬心は自己劣等感の移入である》

更に腹が立つのは、自分自身の意気地なさに腹が立つのを相手に移入して、
相手に対して憤激していることがあるから、自分自身の心を
反省分析することによって腹立ちの原因を除去することが出来る。

嫉妬心が腹立ちの原因であることもある。

嫉妬心は自己の弱小感又は劣等感に対する腹立ちを、
「相手が自分のものを横取りしようとしている」又は「横取りした」と考えて、
相手にその原因を罪(つみ)着(き)せようとするのである。

だからこのようにな嫉妬による腹立ちは自分の弱小又は劣等を
他(た)の人の所為(せい)にしてその罪を他に転嫁しようとするものであるから、
誠に卑怯な訳だと言わなければならないのである。

男女間の嫉妬心は独占欲のあらわれであって、
その独占を他(た)の尚一層魅力ある者に奪われたことを
憤(いか)り悲しむ心であるが、

奪った者を怒るよりも、自分が奪われるに到った自分の精神的欠陥を反省して
「彼が悪いのではない、私が悪かったのだ、済みません」と云う心境になったとき、
嫉妬心は、自己反省と自己向上とに変貌することになるのである。

            <感謝合掌 令和2年9月29日 頓首再拝>
50:伝統 :

2020/12/05 (Sat) 03:13:48


      *「光明道中記」(12月5日《常住微笑の日》)より

 【悲しい時ほど笑わなければならぬ。笑いぬくとき悲しさは征服される。
                       (『生命の實相』第四巻)】

仏教では「人身得ること難し」と説かれている。

何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、
また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、
前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、
後の天上は楽のみの世界であるからである。

苦るしみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。
楽のみの世界では楽に執着するから結局はその楽は苦に変じて
天上から墜落するのである。

「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。

吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、
自由自在の世界が其処に実現して来ると、
「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。

その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして
慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、
「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の
悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、

今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も
糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。

            <感謝合掌 令和2年12月5日 頓首再拝>

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.