伝統板・第二 180393

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省みる

1:伝統 :

2016/11/07 (Mon) 03:31:22

愛なき心がわれらを傷つける

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月7日)より

物質はわれわれを傷つけることはできぬ。
愛なき心がわれらを傷つけるのである 

―― そしてあたかも物質がわれわれを傷つけたるがごとく錯覚せしめるのである。
物質に傷つけられたるがごとく見えている時に、反省してみると、
物質によるよりも先ず自分の心が恐れていたか、憎んでいたか、怒っていたか ――

ともかく傷ついていたことを発見するであろう。

         <感謝合掌 平成2年11月7日 頓首再拝>
2:伝統 :

2016/11/19 (Sat) 03:46:07

         *『生長の家』(昭和25年7月28日の法語)より

   汝(なんじ)の潜在意識の中(うち)にある習慣に
   心を振り向けて反省せよ。

   如何(いか)なる心の習慣が自分の内にあるであろうか。

   自分は夫に従順であるだろうか。
   常に 「 ハイ 」 と返事しているであろうか。

   言葉ではハイと返事していながらも、
   心では‘すなお’に受けていないことがあろうか。

   夫の命令に対して 「 然し 」 「 だけど 」 などと考えながら
   言葉だけでハイと答えているようなことはなかろうか。

   人を さばかない積りで
   やはり さばいていることはなかろうか。

   暗いことは考えまいと考えながら、
   もすれば暗いことを考えていないだろうか。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

         <感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>
3:伝統 :

2016/12/05 (Mon) 03:23:22


           *「光明道中記」(12月5日)より抜粋

仏教では「人身得ること難し」と説かれている。

何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、
また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、
前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、
後の天上は楽のみの世界であるからである。

苦るしみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。
楽のみの世界では楽に執着するから結局はその楽は苦に変じて天上から墜落するのである。
「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。

吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、
自由自在の世界が其処に実現して来ると、
「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。

その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして
慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、
「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の
悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、

今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も
糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。

         <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>
4:伝統 :

2016/12/06 (Tue) 04:23:58


           *「光明道中記」(12月6日)より

【白粉(おしろい)で化粧しても心情の下劣は隠せない。心で化粧せよ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】


自分の言いなり通りが通る世界に永くいると、それに慣れて感謝と反省とを忘れる。
すると、その天上界の境涯が直ちに地獄に落ち、畜生に落ち、修羅に落ちる。

地獄とは如何なる世界であるかと言うと、閻魔と鬼とのいる世界である。
閻魔は審判(さば)く者であり、鬼は悪を爬羅(ほじくりだ)して責める者である。
人を審判き人を非難する者の住む世界が地獄である。

日々省みて、われ地獄の生活に堕ちてはいないかと反省せよ。

餓鬼とは如何なる世界であるかと云うと、貪(むさぼ)れば貪れど、
尚足らぬ飢え渇いた感じがしてたまらぬ者の世界である。
あるが上に欲しく、幾ら恵みが与えられていても尚不足に感ずる人はないだろうか。

げに常に不足を言うものは餓鬼の境涯に堕(お)ちているのである。
五感の快感のほかに喜びを知らぬ者は畜生である。
尤(もっと)も犬にも忠犬があり、義烈なる軍馬もあるが
、それは寧(むし)ろ仏性が出たのである。

また人を憎み嫉妬し腹立ち争う者は修羅である。

人間は、毎日自己が餓鬼に、畜生に、修羅に、堕ちていないかを
反省しなければならぬ。

         <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>
5:伝統 :

2016/12/22 (Thu) 04:50:08


          *「叡智の断片」(P190~192)より

自分の運命を好転するのはただ自分の心の持ち方一つになる。
最初好転していた運命はいつの間にか悪転する。

そしてある人は「神も仏もあるものか」と云う。
ある人は「これは自分の心の影だ」と反省する。

前者は堕落し後者は進歩するのである。

           〇

戦争中脊椎カリエスとリチャード氏病に罹って歩行不自由にまでなった
有留弘泰講師の手紙はそれを雄弁に語るものである。

この運命の逆転にもかかわらず、「神も仏もあるものか」と云はずに、
これ皆自分の心の影だと氏は精進して回復したのである。

次にその手紙の一節をかかげる。

昭和十八年夏、尼崎防衛部隊長として応召、約二年間の勤務を大過なく勤めさして
いただきましたのも全く光明思想の賜でございました。

しかしまだ信仰が不徹底であった為、折重なり来る悪条件の一つ一つを
一切笑顔で明朗に処理することが出来ず、勿論光明の生活によって或る程度まで
相当立派につとめさせては頂きましたが、

召集事務の複雑多岐、部隊召集権の脆弱性、市役所兵事課の無能、防衛施設の築設に
対する人員資材資金の殆ど皆無、尼崎土質の悪条件等々により種々心労もし、
不快の思を重ねざるを得ぬ実情にて、

加うるに頻発する警報などにより一時的なりとはいい乍ら心境を掻き乱さるる事多く、
浄心の機会少なく、遂に少しづつ超過したる心的毒素(長寿の霊薬の生産量よりも超過したる)
の蓄積累加によって遂にリチャード氏病と脊椎カリエスとの二つの難症を併発し、

遂に隊長として軍務処理に支障を来たすに至り、故山の篠山に退隠いたしましたのが、
四月二十一日(昭和二十年)でした。

それまで約半年(昭和十九年十月二十八日発病以来)不自由な身体を駆って、
兎も角も陣頭指揮とは行かぬ迄も隊務を処理し得た事は、光明真理の賜でございました。

部隊の軍医中尉鎌倉勝夫博士および阪大医学部小沢凱夫(よしお)教授(博士)の
診定によるも二カ年間の仰臥静養を宣告せられたる程にて、
事実一時は一歩も歩めない処まで落ち込みましたが、

静に心を養い信仰を深め高め、神と神の子の親子一体の境地に到達
(白熱化せる父子一体の妙境に入る)と共に(帰篠後約一ヶ月半位にて)
俄然好転し始め、急速に恢復、

爾後信仰による「働き療法」「忘病療法」「感謝療法」等によって或いは草むしり、
畑作、大工仕事、炎天下の裸体労働、魚釣、荷車曳、山行き(薪作り)一里の道を
薪を荷車に積んで運ぶ等の相当強度の労働によって急速に強健となり、
戦線復帰を期し居る折柄、終戦に遭遇し九月八日復員となりました。

この体験の記録をつくっています。

           〇

半身不随の重病にかかっていた有留講師でも病気の責任を他に転嫁せず、
みずから今までの自分の心を顧みて改むべきことを改めたならば立ち直ったのである
から、それより軽い病気が心の更め方で治るのは当然である。

病気を実相だと思ってはならない。
健全なのが実相である。

病中なお健康の実相を観ずるを入龍宮不可思議境界と云う。

         <感謝合掌 平成28年12月22日 頓首再拝>
6:伝統 :

2017/01/08 (Sun) 04:25:13


《自己の心を護(まも)ること》

          *『 生長の家 』(昭和26年7月7日の法語)より

   最も辛(から)く見えるところの境遇や出来事も、
   それは一層 魂を深めるところの素材である。

   秋が来て落葉するように見える時にも、
   吾々は嘆いてはならないのである。
   落葉する樹(き)ほど 春になって 美しき花をひらくのである。

   寒さが訪れて来るときに、樹木が葉を落すのは、
   外の出来事にのみ生命を労しないで、内(うち)に深くこもって、
   生命力をいたわり育て貯蔵せんがためである。

   外界が荒々しいときには、人間も外にひろがることを考えないで、
   内を守るが好(よ)いのである。

   自分の心の中に悪い想念はないだろうか、
   間違った感情はないだろうか、
   よく自己反省して見ることである。

   そして外の悪想念の吹き込まないように
   自己の心を守り育てるべきである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/efdd9661dbc7c5719ce482817c82a8c4

         <感謝合掌 平成29年1月8日 頓首再拝>
7:伝統 :

2017/01/18 (Wed) 04:41:40


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月18日)より

毎日何事か《人のためになる》仕事をせよ。
その《ためになる》部分だけが自分の《生きた》生命である。

《ためにならない》部分の生活は死んだ生活である。
自殺の生活である。
日々、自殺の生活を送らないように心がける者だけが大きく生長するのである。

何よりも自分に深切であることである。
そして自分に深切であるには、常に振り返ってみて、人のために何事をなしえたか ――
それによって自分の生命(いのち)がどれだけ生きたかを反省しなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年1月18日 頓首再拝>
8:伝統 :

2017/02/02 (Thu) 04:56:57


            *『臨時法語集』谷口雅春 より


『私は何も悪いことをしたことがないのに、どうして私は人から逆恨み受けるのだろう』

というようなことをよく考える人がある。


それは逆恨みの相手には、その人は決して悪いことをしていないかも知れないが、
他の人に対して自分が恩を受けながらその人を怨んだり、
つまり逆恨みしているようなことがあり、
それに自分が気づかないことがあるのである。

そこで他からせられる相(すがた)は、
自分の心の内にある通りのものの具象化だと考え、
自ら反省してその間違った心を捨ててしまうがよい。

例えば、相手が自分が憎んで来たらこう考える。

『彼が私を憎むのは、その人を私は憎んでいないけれども、誰か他の人を憎んでいる。
その憎んでいる業の波が、他方へ廻って反射して別の人からやって来るのだ。
三界は唯心の所現なのだから、あの人の相(すがた)は私の心の影なのだ』

と省みる、自分の心を改めるがよい。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17635345.html

           <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>
9:伝統 :

2017/02/17 (Fri) 04:28:10


        *『 生長の家 』(昭和24年8月16日の法語)より

   自分の力だけのものを
   得ることができるのである。

   人の力に頼ってはならない。

   自分で失敗しただけの程度に
   自分はその問題に明るくなるのである。

   人の失敗を他山の石として自己を省みるものは、
   労少なくして効大(おお)いなることができるのである。

   しかしこれは労の外に「 自己を省みる 」 という値(あたい)を
   払っているからである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12807072.html

           <感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>
10:伝統 :

2017/02/24 (Fri) 04:16:59


《心の波長を合わせるのは人間の役目》

           *「光明法語」(2月24日)より

「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。その余のものは汝等に加えらるべし」
とイエスは言った。
このことは何時までたっても真実である。

世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。

実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。

自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。


         <感謝合掌 平成29年2月24日 頓首再拝>
11:伝統 :

2017/03/12 (Sun) 04:39:39

《進歩の目標を定めて努力せよ》

           *『生長の家』(昭和25年8月19日の法語)より

   今日、唯今、神の力を実践することである。

   自分は如何に自分の余裕の時間を使っているであろうか。
   それを反省せよ。

   自分の生活には何か理想をもっているか。
   如何なる点に自分の進歩の目標をもっているか、反省せよ。

   自分の欠点は何であるか、
   その欠点を自分は克服すべく努力しつつあるか。

   努力することは、価いを払うことにあたる。
   価いを払わずして価値あるものを受けようと
   思ってはならないのである。

   「 進歩 」 は日に日に努力の価いを払う者のみに与えられる
   賜(たまもの)である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

         <感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝>
12:伝統 :

2017/03/22 (Wed) 04:57:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>
13:伝統 :

2017/04/09 (Sun) 06:17:13


         *『 生長の家 』(昭和24年9月25日の法語)より

   諸君は 夕方食事を終った後に自ら省みて今日の機会に、
   自分は人と生れて如何なる仕事をなしたのであるか
   反省してみなければならない。

   人の地上に生を享(う)けたるは、
   仕事によって自己表現を完成するためであるから、

   もしその晩 省みて今日は何事をも なさなかったと気がついたならば
   それを恥じて改めなければならないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

            <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝>
14:伝統 :

2017/04/28 (Fri) 05:00:13


       *『幸福を招く365章』第10項(P215~216) より

最も辛く見えるところの境遇や出来事も、
それは一層魂を深めるところの素材である。

秋が来て落葉するように見える時にも、
吾々は嘆いてはならないのである。
落葉する樹ほど春になって美しき花をひらくのである。

寒さが訪れて来るときに、樹木が葉を落とすのは、
外の出来事にのみ生命を労しないで、内に深くこもって、
生命力をいたわり育て貯蔵せんがためである。

外界が荒々しいときには、
人間も外にひろがることを考えないで、内を守るが好いのである。

自己の心の中に悪い想念はないだろうか、
間違った感情はないだろうか、よく自己反省して見ることである。

そして外の悪想念の吹き込まないように自己の心を守り育てるべきである。


(初出は「生長の家」昭和26年7月7日の法語)

            <感謝合掌 平成29年4月28日 頓首再拝>
15:伝統 :

2017/05/13 (Sat) 03:20:16


《サービスは繁昌の基礎工事である》

           *『生長の家』(昭和25年11月20日の法語)より

   あなたの仕事が繁昌しないならば喜べ悦(よろこ)べ。
   それはあなたにとっての反省の機会であり、魂の向上の機会である。

   どこかに貴方(あなた)の心に明るさが足りなかったか、
   深切さが足りなかったか、行き届かなかったか、
   サービスが足りなかったか、愛が足りなかったのである。

   出来るだけ、心を明るくし、深切にし、すべてに行き届いて、
   愈々(いよいよ)益々(ますます)人々にサービスを増加し、

   お客が来なければ、私の世界に先客万来を描いて
   「有り難う御座います」と感謝することにすれば、
   繁昌と成功とは疑いなしである。

            <感謝合掌 平成29年5月13日 頓首再拝>
16:伝統 :

2017/06/05 (Mon) 04:25:11


           *『 生長の家 』(昭和26年1月20日)の法語より

   心が感情で激動し、神の方へ集注することが出来ない場合には、
   屹度(きっと)それは何か 「 身びいき 」 の我の考えにとらわれているか、
   相手の身になって考えてやらないからである。

   自分に 「 身びいき 」 の考えはないか、
   相手にとって止むを得ないのではないか考えよ。

   更に自分の今考えていることだけが善いことではなく、
   その今考えていることが 妨げられることが却(かえ)って
   一層よくなって来るために、
   神が彼をつかわし給(たま)うているのではないかを充分考えよ。


   そうした反省が入って来るとき、
   激情は止み、心は平静となり、他を赦すことが出来、

   自分の心も解(ほど)けて 神の智慧が流れ入って来るのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成29年6月5日 頓首再拝>
17:伝統 :

2017/06/20 (Tue) 04:44:28


          *「光明道中記」(6月20日)より

【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
                        (『生命の實相』第一巻)】

自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。

利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。

憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、
腹につかえるものが残っているからである。

多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。

或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても
病気が治らないのであった。

治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。

治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。

『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。

            <感謝合掌 平成29年6月20日 頓首再拝>

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