伝統板・第二

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神人一体 - 伝統

2016/11/05 (Sat) 03:32:21

《神人一体を行ぜよ》

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

         <感謝合掌 平成28年11月5日 頓首再拝>

自他一体の自覚 - 伝統

2016/11/18 (Fri) 03:47:35


       *「光明法語」(11月18日の法語)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

         <感謝合掌 平成28年11月18日 頓首再拝>

《神との一体を自覚せよ》 - 伝統

2016/12/05 (Mon) 03:28:49


       *「生長の家」(昭和25年6月5日の法語)より

   神は常に吾とともにあり、
   吾を力づけ、吾に必要なものを与え、
   弱きをはげまして、勇気を与え給い、
   凡ゆるものを豊かに恵み給うているのである。

   神は吾々の生命の源泉であり、
   智慧の源泉であり、愛の源泉であり、
   力と勇気の源泉であり給うのである。

   生命と智慧と愛とは
   神から来るのであるから、
   決して それが亡(ほろ)びるということはないのである。

   神の生命を自覚するものは 亡びず、
   愛を行ずるものは 死せず、

   智慧を実践するものは
   永遠に星の如(ごと)くなりて輝くのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

         <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>

《“I am” はあなたにとってアラヂンのランプである》 - 伝統

2016/12/20 (Tue) 04:13:56


           *『 生長の家 』(昭和33年9月16日の法語)より

   あなたは素晴らしい特権をもっているのである。
   それはあなたの内に『I am』《私は・・・・である》が
   宿っているからである。

   あなたは『私は・・・・である』と念ずる処のものになるのである。
   『私は病気である』と念じたら、あなたは病気となることも出来るし、
   『私は神の子で健康である』と念じたら、健康になることもできるのである。

   あなたはこの特権を愚かなことを実現するために
   つかってはならないのである。

   この特権を利用して、『私は神と一体である』と常に念じて、
   『神と一体』ところの實相を日常生活に実現するようにしたいものである。

   神との一体感が深まれば、何を為すにも恐怖感がなくなり、
   自信力が湧いて来、時と処と人とに応じて適当な智慧が湧いて来て、
   失敗することがなくなるのである。


         <感謝合掌 平成28年12月20日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2017/01/06 (Fri) 03:41:58


         *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。
神より悪なるものが来(く)ると考えることは神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。
その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、
わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

         <感謝合掌 平成29年1月6日 頓首再拝>

《既に阿弥陀仏と一体である》 - 伝統

2017/06/07 (Wed) 04:44:41


           *『生長の家』(昭和24年12月11日の法語)より

   南無阿弥陀仏は、「 私の生命は阿弥陀仏の生命と一体でございます 」
   と唱えることである。

   それは自殺する時に唱えて見たり、死ぬ時にのみ唱えて見る
   極楽への通用語では無いのである。
   今、自分が阿弥陀仏と一体であると云うことを確認する肯定語なのである。


   それは唱えても唱えないでも、
   人間は宇宙遍満の大生命に生かされているのであり、
   宇宙遍満の大生命の別名が阿弥陀であるがゆえに、

   既に実相においては吾々は阿弥陀仏と一体であり、
   既に極楽浄土に生活するのであるが、
   現象の姿は自覚の程度によるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

         <感謝合掌 平成29年6月7日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2017/06/13 (Tue) 03:41:51


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、幸福のほか与えることを知らぬ神が
自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。
吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、取囲まれているのである。
それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、善のみが出て来るし無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 平成29年6月13日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2017/06/17 (Sat) 04:40:37


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

           <感謝合掌 平成29年6月17日 頓首再拝>

神我一如となる日 - 伝統

2017/06/24 (Sat) 03:51:10


           *「光明道中記」(6月24日)より

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあるとエマソンは言った。
宇宙の心だ。宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、全宇宙がその人を護りたまう
のである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)う
ていることを私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

           <感謝合掌 平成29年6月24日 頓首再拝>

神を感ずるために - 伝統

2017/07/11 (Tue) 04:43:39


    *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月11日>(P16~17)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、感ずる対象と同じ波を
    こちらが起さねばならぬ。神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、
われらが神を自分のうちに感ずるためには、すべてを生かす心を起したときに、
その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、
「個(ひとり)」と「全体」とのつながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、
神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 平成29年7月11日 頓首再拝>

《神意の実現者たれ》 - 伝統

2017/07/21 (Fri) 04:10:15


         *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P173) より

吾々が植物の種を蒔く。植物は発芽し生長し、花を開き、実を結ぶ。
この微妙にして神秘なる働きと機構と過程とは、どんな“電子計算機”でも
出来ることではないのである。

人智の最高を尽くした“電子計算機”も
一個の小さき植物の種子に及ぶことはできないのである。

人間はもっと謙虚に大自然の智慧の前に跪(ひざまず)いて、
神からの智慧を受けるようにしなければならないのである。
 
 
医師は傷口に消毒薬を塗って繃帯(ほうたい)する。
繃帯も消毒薬も、新しき肉芽となることも新しき皮膚となることもできない。
傷口に新しき肉と皮膚とを新生せしめるものは人体の内部に宿る神の生命である。

医師は神の生命(せいめい)の動きに唯協力するに過ぎない。
こう言っても私は医術をいやしめるのではない。

人間のすべての動きは「神の生命(せいめい)の動き」に
協力することによって万物を成就するのである。

「神の生命(せいめい)の動き」とは法則である。
法則を守り、法則に協力することによって、吾々は益々神と一体となり
偉大な神意の実現者となる事ができるのである。

         <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝>

《あなたは宇宙神霊と一体である》 - 伝統

2017/08/07 (Mon) 04:55:30


       *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P161) より

「あなたは偉大なる存在である! 
あなたは最も祝福されたる存在である、不滅なる存在である。
あなたは光輝燦然たる至福の存在、普遍の神性である。

あなたは至上の真理である。真理とは如何なるものか。
それは言詮不及(ごんぜんふぎゅう)、不立文字の存在である。

それを書きあらわすことはどんなペンにもできない。
それを言い現わすことのできる人は此世にひとりもない。

それはただ存在する全てのもの
 ―― 物質に至るまでの全てのものを含むすべてのものだ。
それを表現せんとする凡(あら)ゆる努力は却って
その偉大さを限定する試みとなるに過ぎない。」


これは印度現代の聖者シヴァナンダの言葉である。
これは真に真理をよく表現している。

諸君はこの語(ことば)に表現されているような
実に偉大な存在であるのである。

彼は又言う。

「人生の根本的目的は、宇宙神霊と永遠に一体なるところの
自己の実現を自覚せんがためである」と。
(デイヴァイン・ライフ誌1960年10月号)

まことに其の通りである。

         <感謝合掌 平成29年8月7日 頓首再拝>

「真理即自己」 - 伝統

2017/08/23 (Wed) 04:50:49


    *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P166~167) より

《真理の消化、吸収》

潜在意識の奥底に横たわる普遍にして超越せる超在意識 ――
“個”としての肉体自己を超越しながら“個”として其処に顕現し
表現せんとしている“本当の自己”(即ち神性)の内には
“無限”が内在しているのである。

その無限を開発すれば、無限を内蔵する鉱山から欲する鉱石を掘り出してくるように、
自己の欲する色々のアイディアや能力を喚び出して来ることができるのである。

 
吾々の意識の奥底に潜在する“無限”を現実化するに
は聖典、聖経、神誌の反復精読のほかに
神想観の如き瞑想によらなければならないのである。

潜在せる“無限”は色々の成分を含んでいるところの植物みたいなものであり、
それを真理解説の聖典等によって頭脳に入れることはその食物に消化する
ようなものであり、神想観の如き瞑想法は、その消化した真理を吸収し同化し、
真理と自己とが一体となる行事である。

その時、真理と自己とが一体となり、真理の馬に人間が乗っているのではなく、
”鞍上人無く鞍下馬無し”の如く「真理即自己」となるのである。

         <感謝合掌 平成29年8月23日 頓首再拝>

本来互いに一体 - 伝統

2017/09/05 (Tue) 04:44:50


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月4日~5日)より
      
《九月四日の法語 個は如何にして表現されるか》

普遍が個別によって表現される場合、個別が個別たり得ることは、
彼が他と区別されることによってである。
他と区別されることなければ、何物も表現されないのである。

牡丹の花が美しく見えるのは、周囲の空気に対して区別されているからである。
若し牡丹の花が空気色していて他と全然区別されないようであるならば、
そこには牡丹の花は存在しないのである。

普遍は個別によって表現され、
個別は他と区別することによって表現を完(まっとう)する。
此処に個性の意義がある。

              ・・・

《九月五日の法語 個別者の相互関係》

個別は他と区別される事によって表現されるのであるが、
ただ区別されるだけでは表現されるものではない。

個別されたる者と、他の個別されたるものとの相互関係がなければ
それは他から認められ様がないから、折角、個別化されたものも
表現を完うする事が出来ない。

個別者と他の個別者との相互関係は如何にして可能であるか。
全然彼と是とが別物である場合は、相互関係はあり得ない。

個別者が互いに相互関係があるのは個別者は本来互いに一体であるからである。

           <感謝合掌 平成29年9月5日 頓首再拝>

私は神と一体である - 伝統

2017/09/23 (Sat) 05:01:11


     *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P188~189) より

“ I am” の特権

あなたは素晴らしい特権を持っているのである。
それはあなたの内に「I am」(私は…である)が宿っているからである。
あなたは「私は……である」と念ずる処のものになるのである。

「私は病気である」と念じたら、あなたは病気となる事も出来るし、
「私は神の子で健康である」と命じたら、健康になることもできるのである。

あなたは此の特権を愚かなことを実現するためにつかってはならないのである。

この特権を利用して、「私は神と一体である」と常に念じて、
「神と一体である」ところの実相を日常生活に実現するようにしたいものである。

神との一体感が深まれば、何を為すにも恐怖感が無くなり、自信力が湧いて来、
時と処と人とに応じて適当な智慧が湧いて来て、失敗することがなくなるのである。

(トロワード著、田中忠雄訳『聖書の神秘を開く』日本教文社刊参照)

           <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

神との一体感を深めるには - 伝統

2017/10/09 (Mon) 03:43:06


         *「女性の幸福365章」(P29)より

神との一体の自覚を深めるのは瞑想のほかに、
感謝の念を起す方法があるのである。

一切の善き出来事や日常の食物、衣服、住宅、什器、調度、
日光、空気、水、その他、見るもの聴くもの悉く神の賚(たまもの)である
ということを、出来るだけ憶い起こして、

神に対して「ありがとうございます」と念じ、
神の愛と恵みとにスッカリ常に包まれている自分を、
感謝の念毎に強く想い起すのである。

このような感謝の念は、結局「間断なき祈り」となって、
潜在意識の底までも「神との一体感」を深めることになるのである。


どんな時にも、「神と離れている」という感じを持ってはならない。

海綿が海の水の中にあり、海水が海綿の中にあるように、
人間の「生命(せいめい)」は神の「生命(せいめい)」の中にあり、
神の「生命」は人間の「生命」の中にあるのである。

短時間に有効に神想観をしようと思うならば眼をつぶって

「我(われ)は神の中にあり、神は我のうちにあり、
神と我とは分かち難く一体である」

と静かに数分間、暇ある毎に、念ずるが宜しい。

このような神想観なら、どんな忙しい婦人でもできるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月9日 頓首再拝>

《小我と大我と一致せしめて行動せよ》 - 伝統

2017/10/25 (Wed) 03:36:39


          *『生長の家』(昭和41年12月17日の法語)より

   自己に宿る“Iam”〈小我(しょうが)〉と、
   普遍の“Iam”〈宇宙の大我(たいが)〉との一致融合したとき、
   如何なる悪も不幸もあらわれて来ないのである。

   すべての悪と不幸とは、小我と大我と融合一致して行動することなく、
   幹を離れた小枝のように、宇宙普遍の Iam〈大我〉と離れてしまって、
   大我の大智慧の導きから訣別してしまっているからなのである。

   その象徴的神話が創世記第二章にあるアダムとイヴとが、
   神の命令をきかずして 〃善悪を知る樹の果〃 を食べた ―― 

   即ち大我の大智慧の導きに従わずして、小我が肉体的本能の欲望に
   まどわされて勝手に善悪を定めて行動したことによって、
   アダムとイヴとはエデンの楽園から追放され、苦しみながら
   人生を生きなければならなくなったという物語なのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

           <感謝合掌 平成29年10月25日 頓首再拝>

神人一体を行ぜよ - 伝統

2017/11/05 (Sun) 03:40:06


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

         <感謝合掌 平成29年11月5日 頓首再拝>

自他一体の自覚 - 伝統

2017/11/18 (Sat) 03:20:24


       *「光明法語」(11月18日の法語)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

         <感謝合掌 平成29年11月18日 頓首再拝>

《神を内に自覚する時、力が湧き出(い)でる》 - 伝統

2017/12/08 (Fri) 04:09:43


         *『 生長の家 』(昭和25年3月6日の法語)より

   神は 常に吾と ‘ とも ’ にあるのである。
   
   いつでも吾々がそれを自覚する時、
   神の力が湧き出て来るのである。

   求めよ さらば与えられん。たずねよ さらば見出(いだ)さん。
   叩(たた)けよ さらば開かれんと教えられているのも、
   そのためであるのである。

   神は一見不幸と見えるものから幸福を引き出し給(たま)う力である。

   冬枯れの荒涼たる山野から
   燃えるように色鮮かな緑を萌(も)え出だし
   美しき赤や紫の花を咲かし給う力があるのである。

   その如(ごと)く 悲しみを喜びに変え、不幸を幸福に変え、
   貧しさを豊かに変貌(へんぼう)し給うのが神である。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

         <感謝合掌 平成29年12月8日 頓首再拝>

自他一体、彼我一体 - 伝統

2017/12/26 (Tue) 04:11:15


       *「日常生活の中の真理(仏典篇)」(P15)より

人間の生命の実相というものは、唯一つの神が宇宙の根元であり、
全ての生命の根元でありますから、われわれの実相の生命というものは、
全ての生命と一体である というわけなんです。

自他一体であり、彼我一体である。
だから人の苦しみを見たら、自然と人を救いたくなる。
その苦しみを除いて楽を与えてやりたくなる。

これが当り前なんです。

         <感謝合掌 平成29年12月26日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2018/01/06 (Sat) 04:30:15


          *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと
和解した関係に入(い)らねばならぬ。

神より悪なるものが来(く)ると考えることは神と和解しているのではない。
神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、
わが耳をもって聴きたまい、わが呼吸器をもって呼吸したまい、
わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

         <感謝合掌 平成30年1月6日 頓首再拝>

《神との一体感が深まれば》 - 伝統

2018/01/22 (Mon) 03:19:08


         *『 生長の家 』(昭和46年3月20日の法語)より

   神との一体感が深まり、生き甲斐の感じが増して来るに従って、
   仕事に悦びが感じられて来、疲れることがなくなり、

   すべての暗い感情はあとかたもなく消えてしまい、
   その人の家庭も事務所も工場も神の祝福と光明とに
   包まれた状態となるのである。

   神は愛であるから、神との一体感が深まれば、
   神の如く愛を行ずることが悦びとなるのである。

   神は智慧であるから、神との一体感が深まれば、
   時に応じ、機に応じ、処に応じて縦横無礙(むげ)の神智が
   湧き出て来ることになるのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12696377.html

         <感謝合掌 平成30年1月22日 頓首再拝>

”霊的自我”に目覚めよ - 伝統

2018/02/07 (Wed) 03:32:54


      *『希望を叶える356章』(P5~6)より

自己を信頼し得ない者は、何事も大成することはできないのである。
併し自己を信ずるとは、身長1メートル数十センチ、体重50キロ乃至70キロの
肉体より発するところの僅かなる力を信ずるのではないのである。

本当の自己信頼の底の底には肉体の自己ではなく、
肉体の奥に存在するところの「霊妙きわりなき存在」なる“霊的自我”
 ―― その“霊的自我”を信ずることによって、

“宇宙の霊的自我” ―― 即ち“神”と協同体なる自己を発見し、
その自己を信ずるものでなければならないのである。


肉体の奥に宿るところの“霊的自我”を通して、私たちは“神”と一体となり、
神と協力することが出来、神の無限大の能力を、自己を媒介として実現することが
できるのである。

有限の自己に頼る者は、好運に恵まれている者には景気がよいようであるが、
逆境が来たったときには、ひとたまりもなく崩壊するのである。

自己の霊的自我を通して、神との一体感を有(も)つ者は
逆境に処しても崩折れることはないのである。

         <感謝合掌 平成30年2月7日 頓首再拝>

《神との一体感》 - 伝統

2018/02/23 (Fri) 04:23:22


      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P19) より

真にあなたが神との一体感を獲得せられるならば、あなたの欲することは
何一つとして成就しない事はあり得ない筈なのです。

もっと積極的に、もっと裕(ゆた)かに、与える愛を持って愛しなさい。
新しい人生があなたの前にひらかれて来ることは間違いはありません。
恐れる必要も、不安に思う必要もないのです。

不安や恐怖が起るのは、あなたの神との一体感が真物(ほんもの)ではないからです。
神との一体感が完全でないために、自分自身に自信がもてないのです。
自分の能力に確信がもてないのです。

もっと自分自身に自信をもち、もっと自分自身の能力に確信をおもちなさい。

そのためには、もっと祈りを深めなさい。もっと熱心に回数多く神想観をなさいませ。
そのとき神との一体感がもっと深まり、自分自身に自信がもて、自分の能力に確信がもて、
あらゆる問題についても恐怖不安も感ずる事無くなり、希望する事は何事も成就する
ようになるのであります。

         <感謝合掌 平成30年2月23日 頓首再拝>

《神の生命との一体感が深まれば》 - 伝統

2018/04/22 (Sun) 03:49:31


         *『 生長の家 』(昭和46年3月21日の法語)より

   神との一体感が深まれば、神は完全なる生命であるから、
   神の完全なる生命の流入によって
   生かされている人間が病気するということはなくなるのである。

   そして病気があらわれれば、
   神の完全なる生命が流入する通路となる「 心のレンズ 」に
   何らかの迷いの曇りがあるに相異ないことを知り、

   心を反省してその“迷いの心の曇り”を取り除くようにすれば
   病気は間もなく雲散霧消することになるのである。

   “生長の家”が病気を治すのではないと説きながら、
   多くの病気の治癒現象があらわれるのは、

   真理を知れば、“迷いの心”によって
   自縄自縛せられていた自己の“神の子”なる生命が
   解放されて自由自在を得られることになるからなのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12697468.html

         <感謝合掌 平成30年4月22日 頓首再拝>

『吾と神とは一体なり』 - 伝統

2018/05/07 (Mon) 04:23:14


        *「日々読誦三十章経」
          ~(七日の経言(のりごと)~【感情を正しくする言葉】)より

吾れは今神 ―― 常に吾が求めを聴いて応え給う親様 ―― に感謝します。
吾が求むるに先だちて吾が語らざる言葉をききて応え給う親様に感謝します。

私は今わが住む世界が吾が気分と想念との反映である事を知らして頂きました。
此れを自覚するが故に、私は今よりつとめて美しきもの、善なるもの、
真理なるもののみを考え、語り、そして聞く事に致します。

私は神なる貴方に、『吾と神とは一体(たい)なり』と云う真理の理由(ことわり)を
知らしめ給うことを感謝します。
そして此の真理を常に心に把持してあなたに愈々近づかせて頂きます。

・・・神との一体感によって、私の想念が正しくなり、私の感情が正しくなり、
従って私の想念と感情との反映なる吾が住む世界が正しくなりつつあることを
私は信じます。

私はいま、此上(このうえ)なき歓びと平和とに満たされています。
天に於ても地に於ても、私は総ての力を与えられていますが故に、
私はいま創造の歓びを感じています。

―― 神の国の永遠の構図に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じています。

私はいまあなたに、生命(せいめい)と永遠の愛とを与え給いしことを感謝致します。

・・・

<参考Web:「日々読誦三十章経」>

(1)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐 「日々読誦三十章経(経言)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yuyu6/&mode=res&log=101

(2)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐 「日々読誦三十章経(資料)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yuyu6/&mode=res&log=17

        <感謝合掌 平成30年5月7日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2018/06/13 (Wed) 04:31:56


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、
幸福のほか与えることを知らぬ神が自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。
吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、取囲まれているのである。

それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、善のみが出て来るし
無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 平成30年6月13日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2018/06/17 (Sun) 04:25:35


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

           <感謝合掌 平成30年6月17日 頓首再拝>

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。 - 伝統

2018/06/24 (Sun) 04:14:14


        *「光明道中記」(6月24日 神我一如となる日)より 

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあるとエマソンは言った。

宇宙の心だ。
宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、
全宇宙がその人を護りたまうのである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。

利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)うていることを
私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

           <感謝合掌 平成30年6月24日 頓首再拝>

愛は自他一体・神人一体の認識だ - 伝統

2018/09/06 (Thu) 23:45:11


    *「光明法語」(9月6日 そのままが完全円満)より

本来の自然になった時、生命は最も完全に発現する。

愛が若し自由意志による発現でなく、
強制的に機械的に行わしめられるものであるならば、
それは妓楼(ぎろう)の主人に強制されて愛を売る売笑婦のそれになってしまう。

愛は自発的であるのが尊いのだ。

愛は自他一体の認識だ。
個別者同士互いに「愛」の感情が起こるのは個別者は、
互いに別物ではなく本来一体であるからである。

また個別者が神に対して「愛」の感情が起こるのは、
個別者は本来、全体者(神)から発した者だからだ。

           <感謝合掌 平成30年9月6日 頓首再拝>

大生命の霊波と一体大化 - 伝統

2018/09/27 (Thu) 04:40:14

         *紫雲荘・(故)橋本徹馬師 『奇蹟と霊感の話』より――、

<宇宙生命と自己との全面的感応>

霊感の最も著しいのは、宇宙と自己との全面的感応である。
これは言い換えれば個人の生命が普遍の大生命と、完全に一体化した感応である。

宇宙即大生命――哲学上でいう実在――キリスト教でいう神――佛教でいう真如――と、
自己との一体の境地を体得することである。・・・直観的に体得するのが宗教的悟道である。

これは科学の法則の探究とは全然別である。
私の宇宙観、世界観、生命観、延いては大調和の繁栄道の主張等は、
皆この宗教的悟道によるのである。

そうしてそれは、先きの、日の出千日の修行に続く、
度々の断食行によって得られたものである。


<万物は生命の流れである>

・・・最初の断食中に、あれほど苦しんだのであったが、
断食後急速に健康の恢復して行く爽快さ。食物はもとより人にも禽獣草木にも
好感が持てて、腹の中も実に気持ちよく、何やらそのまま満ち足りている感じがする。

そのような断食後の爽快さと、前年の断食の際の不覚な自分を思う無念さとが、
翌年(昭和四年)の八月また私をして、第二回の断食を決行せしめた。

今度は宮城県の山中の潰れかかったスキー小屋に入り、
その二階の一隅に残っていた破れ畳一枚に、下駄を枕にして始めた。

・・・こんどの断食には、釈迦が三十五歳の十二月八日に、
暁の明星を見て悟ったという有名な言葉「われと大地有情と同時に成道す」
という言葉は如何なる意味であるかを、公案として考えて見ようと決心した。

そうしてこの公案が解けぬ限りは、再び山を降りぬぞと心に誓った。
それで本断食の期間を今度はまず二週間と決めてかかった。
つまりこの間に右の公案を解こうというのである。

・・・私は今回は、毎朝必ず四時に起き、先ず背後の山神を拝し、
続いて遥か前方の太平洋から昇る旭日を拝して、非常に前年と異なる心の爽快を覚えた。

殊に不思議にも、断食中の二週間は、如何に暴風雨の日と雖も、
日の出の瞬間だけは雲が切れて、或いは山は雨降りながらも、
海上より昇る旭日の拝せられぬ日とてはなかった。

これが恐らく私の悟道を余程助けてくれたであろう。
・・・一向公案が解けぬうちに、長かりし二週間の断食の日がすんでしまった。
・・・目的を達しなかった気の重いままに、食事を始めて五日目の夜十時ごろ、
私は断食中の苦しみとそれにも拘わらず、
全く公案が解けなかった不結果とを考えて安眠ができず、寝床の上に坐して落涙した。

・・・私は惜しげもなく落涙をしているうちに、赤子の泣き寝入りのように、
いつしか体を横たえて、さて幾時間寝入ったことか。

翌朝の二時頃であったか、私はふと眠りの中で、
何やら全身から湧き起こるような衝動を感じて、
ガバと寝床の上に起き上がって「分かった!」と叫んだ。

つまり我が全身から霊覚が湧いて、公案が解けたことを感じたのである。
私は歓喜に躍る心地で窓をハネ上げて見ると、向こうに、
釈迦が成道の時に輝いていたという、暁の明星が輝いているではないか。

むろん暁の明星が一定の時間に輝いていることは、天文学上からいって当然の話であるが、
その時に暁の明星が見えたということは、何やら私の悟道の真実性を裏書してくれた
ような感じがして、私を弥が上にも歓喜せしめた。

それでは私は一体なにを、どう悟ったのであろうか。

窓をはね上げて東天を見た時の私の心境は、昨日までの心境とは全く違っていた。
昨日までの私はそこらの山川草木を見る時、それを大体物質的存在と見ていた。

もちろん根から栄養を吸収し、葉からも太陽の助けを借りて栄養を取り、
生き且つ栄えている草木が、ただの物質でないことは分かっているが、
然し、やはり非情の草木、つまり物質的存在という感が多かったが、

今見る山川草木の姿は悉くこれ大生命という一(いち)より出でて、
多に分かれている生命そのものであり、この現象世界そのものも、
大きな一連の生命の流れであると感じ、
そうして私自身も、その大きな流れに連らなる存在の一つであることを感じた。

それゆえ、「われと大地有情と同時に成道す」とは、
釈迦が悟りを開いて見たならば、自分ばかりか一切の人間、一切の存在は、
皆そのまま成仏成道の境涯であるという、
大生命の真姿、宇宙の実相を知ったということである。


<大生命の霊波と一体化す>

ここが大事なところであるから、今一度説明しておきたい。
宗教的悟道が直感によるのであることは、初めに説いた通りである。

さてその直感は、何をどう直感するのであるかといえば、
それは現象界の奥にあって、現象界をかくあらしめている霊的宇宙、
即ち私達のいう大生命の霊波(或いは霊的リズム、或いは霊的法則の動きといってもよい)
と、自分の心境とが一体となった体験をいうのである。

それは恰もラジオの受信機にスイッチを入れて、
放送局からの電波と波長を合わせた時に、ラジオが聞こえて来るのと同じように、
自己の心境が浄化し純化し尽くした時に、
現象界の雑音雑行に気を取られている者の、到底感ずることのない、

全宇宙に通ずる大生命の普遍の霊波と、自己の心身の霊波とが一体になったことを
感得するのである。そこにその人の不動の信念が確立し、またそれによって
世の学者達の持たざる「権威」をもって語る力も与えられるのである。

           <感謝合掌 平成30年9月27日 頓首再拝>

神とともに大活動しなければならない - 伝統

2018/10/29 (Mon) 04:46:26


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月29日>(P114)より

すでに与えられていることを自覚せよ ―― と言えば、実際生活になんの努力もしないで
「すでに与えられている」とすこぶる甘い態度で生活している人も時には見出される。

そんなのを神に甘える信仰と言うのであって、”神の中に生きる”生活ではないのである。

われわれは小我を神の中に没却させてしまわねばならないが、
本当の我(われ)は「”神の中”」に生きなければならないのである。

「神は今に到るも働き給う」―― われらは小我を没し去ると同時に、
神とともに大活動しなければならないのである。

活動の中にのみ、神と偕(とも)なる悦びがある。

           <感謝合掌 平成30年10月29日 頓首再拝>

神人一体を行ぜよ - 伝統

2018/11/05 (Mon) 03:37:19


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。

神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

         <感謝合掌 平成30年11月5日 頓首再拝>

神人一体を阻礙するもの - 伝統

2018/11/18 (Sun) 03:45:10


       *「光明法語」(11月18日の法語 自他一体の自覚)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

         <感謝合掌 平成30年11月18日 頓首再拝>

《神の心と一体ならば恐るる事なし》 - 伝統

2018/12/06 (Thu) 02:43:18


         *『人生の秘訣365章』第11篇(P278) より

天地万物・森羅万象、悉くわが“心”のあらわれである。
“わが心”は“神の心”と一体であり、われ動けば神は動き給う。

神我一体の自覚を得ることが最大喫緊事である。
而して神にわが往くべき道を問いたまえ。
神の心を傾聴するのである。
それが神想観である。

人間智の小細工ではないのである。
他(ひと)の悪口(わつぐち)を言って
自分の勢力を伸ばすのではないのである。

何を為し、何を為さざるかを神の智慧によって教えられるのである。

恐れることはないのである。
あなたの前に横たわる障礙(しょうがい)の二倍以上の力が
つねに内部から湧き出て来て、如何なる障礙も平かとなるのである。

         <感謝合掌 平成30年12月6日 頓首再拝>

足 跡 - 伝統

2018/12/24 (Mon) 03:54:55

       足 跡


夢の中で浜辺を歩いていました。

神さまと2人並んで・・・。


その一足一足は生涯の一日一日を示していると思い、
立ち止まって後ろを振り返りました。

足跡は浜辺のずっと遠くまで続いていました。

ところが、ところどころ2人の足跡ではなく、
1人の足跡しかないのに気づきました。

それは、生涯で一番暗かった日々と重なります。


あの苦悩の日々。

悲しみに沈んでいた日々。

やりきれなかった日々。

そこで、神さまに向きなおって文句を言いました。


「あなたは、日々私たちとともにいると約束されたではありませんか。
 なぜ約束を守ってくださらなかったのか。
 
どうして、人生の危機にあった私を1人でほっておかれたのか。
 あなたの助けが必要だったときに・・・」


ところが、神は答えて言われました。

「わが子よ。
 砂の上に1人の足跡しか見えない日、
 それは私がきみをおぶって歩いた日だよ」

https://archives.mag2.com/0000280661/20091004000000000.html

         <感謝合掌 平成30年12月24日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2019/01/06 (Sun) 04:21:14


          *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。
神より悪なるものが来(く)ると考えることは神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。
その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、
わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

         <感謝合掌 平成31年1月6日 頓首再拝>

《今、そして永遠に神と一体である》 - 伝統

2019/01/21 (Mon) 04:56:01


         *『人生の秘訣365章』第12篇(P299~300) より

佛教に於いても、死んでから極楽浄土という荘厳の楽園(パラダイス)に
生まれられるという功徳を目的として念仏する信者がある。

しかしまた“報恩の念仏”という念仏もあるのである。
これは既に佛の慈悲の中に救われていることを報恩の意味で、
佛を憶い起すための念仏であるのである。


キリスト教と佛教とを根本的に異なるように説く人もあるけれども、
人間は一つの神から生命(せいめい)を享けて此世に誕生したのであるから、
何教信者であろうと一つの神によって救われるのである。

その神の名をGodと呼ぼうと、佛(ほとけ)と呼ぼうと、
それは人間が勝手につけるのであって、
神そのものには固有名詞などはないのである。

だから南無阿弥陀仏と“念仏”するということは
「オオ、神よ、あなたは私の父であります。
あなたの内に私は生きており、あなたは私の内に生きています」
と祈ることと同じなのである。

爰(ここ)に注意しなければならないのは、
神は“今”そして“永遠”に“わが内”に在(あ)り、
また“今”そして“永遠”に我(われ)は“神の内”に在るということである。

         <感謝合掌 平成31年1月21日 頓首再拝>

《常に神と偕にあるには 》 - 伝統

2019/02/12 (Tue) 04:09:58


         *『人生の秘訣365章』第1篇(P38~39) より

常に集団の祈りと共にある者は、ひとりいる時にも、
ひとりいるのではなく、集団の人たちと共にあり、また神と共にあり、
また私(谷口雅春)と共にあるのである。

あなた達は神に直接交通し直接接触するのである。

酸素と水素とは直接接触するけれども
必ずしも一体となって“水”とはならないのである。
されど其処に白金が出現するとき、それが触媒となって直ちに“水”となる。

キリストの出現は人間と神とが接触して一体となるための
触媒のはたらきをするのである。
触媒は変化しないが、人間が変化するのである。


併し、今や、キリストは各人の内にあるのである
触媒はあなたの内にあるのである。

キリストは「我によらずして天国に入る者なし」といい給う。
これは「自己内在のキリスト(仏性)を自覚せずして天国に入(い)る者なし」
という意味である。

「自己内在のキリスト」を自覚せよ。
「自己内在のキリスト」こそなたの「本当の自己」であるのである。

         <感謝合掌 平成31年2月12日 頓首再拝>

《 神との一体感を深めること 》 - 伝統

2019/04/04 (Thu) 02:28:00


        *『人生の秘訣365章』第3篇(P74) より

ただ神のみを見、ただ神のみに倚(よ)り頼れ。
そして神を自己に浸潤させ、浸透させ、自己を神と一体ならしめるのである。

そのとき、あなたの過去の一切の業(ごう)は拭い去られ、悪しき習慣は消え、
性格が一変し、生活全体の雰囲気が変ってしまうのである。

あなたは人間が世界を見るようにではなく、神が世界を見るように、
この世界を完全の相(すがた)に於いて見、すべての人間の実相の完全さを見、
それを実現することができるようになるのである。

あなたの人生観は明るくなり、容貌は明るくなり、雰囲気は明るくなり、
周囲の人々は、あなたを徳(とく)とするようになり、あなたを信頼するようになり、
事情は好転し、新しく明るい方向に問題は解決することになるのである。

         <感謝合掌 平成31年4月4日 頓首再拝>

《神の生命との一体感が深まれば》 - 伝統

2019/04/22 (Mon) 03:57:38


          *『 生長の家 』(昭和46年3月21日の法語)より

   神との一体感が深まれば、神は完全なる生命であるから、
   神の完全なる生命の流入によって
   生かされている人間が病気するということはなくなるのである。

   そして病気があらわれれば、
   神の完全なる生命が流入する通路となる「 心のレンズ 」に
   何らかの迷いの曇りがあるに相異ないことを知り、

   心を反省してその“迷いの心の曇り”を取り除くようにすれば
   病気は間もなく雲散霧消することになるのである。

   “生長の家”が病気を治すのではないと説きながら、
   多くの病気の治癒現象があらわれるのは、

   真理を知れば、“迷いの心”によって
   自縄自縛せられていた自己の“神の子”なる生命が
   解放されて自由自在を得られることになるからなのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12697468.html

         <感謝合掌 平成31年4月22日 頓首再拝>

《頼りになるものは、「神と偕にあり」という自覚です》 - 伝統

2019/05/10 (Fri) 04:35:13


           *「真理」第9巻生活篇(P110)より

本当の頼りになるものは外界にあるのではない。
物質や富や境遇や、資産や ――
そんなものは本当の決して頼りになるものではない。

本当の頼りは自分自身である。
しかも、自分の肉体や腕力ではなくて「内(うち)なる自覚」である。

「われ神の子であり、常に神われと偕にあり。何をか恐れんや」
と云う内的自覚があるならば、現象界に如何なる難問題があらわれても
少しも恐れることはないのである。

何故なら、どんな現象よりも神は偉大で強いからである。

神は無限の智慧であり、
神の智慧によって解決できない問題は何一つないからである。

常識的に考えてもただ心配するだけでは
智慧は麻痺し周到精確な計画と行動ともとることは出来ないのである。

神と偕なる自覚によってのみ凡ゆる問題を解決する
良き智慧が得られるのである。

           <感謝合掌 令和元年5月10日 頓首再拝>

《神と共に戦う者は平安なり》 - 伝統

2019/06/07 (Fri) 04:44:20


        *『 生長の家 』(昭和25年4月8日の法語)より

   困難に面して自分の力を以(もっ)て戦うと思うな。
   自分の力で戦うと思うものは、
   力が尽きてしまって結局 挫折してしまうのである。

   自己の内に宿る神の力に頼る者は
   永遠に挫折するということはないのである。

   ここに無我全托(ぜんたく)の全勝である秘密があるのである。

   自分が謙遜(けんそん)になった時にのみ
   神は力を与えて吾々を支え給(たま)うのである。

   神は常に自分を護(まも)り給い 幸福にし給い、平和を与え給うのである。
   どんな困難が来た時にも 自分の力で それに対抗しようと思ってはならない。

   「 吾 神と共にあり、吾 神と共に生く、何をおそれんや 」 と
   念じ乍(なが)ら進むが好(よ)いのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786986.html

           <感謝合掌 令和元年6月7日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2019/06/13 (Thu) 04:27:16


        *『光明法語』(6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、
幸福のほか与えることを知らぬ神が
自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、
現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。

吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、
取囲まれているのである。

それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、善のみが出て来るし
無限のよき物のみが出て来るのである。

           <感謝合掌 令和元年6月13日 頓首再拝>

天の父われに在(い)まして成さしめ給う - 伝統

2019/06/15 (Sat) 04:44:06


         *「光明法語」(6月15日)より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

        <感謝合掌 令和元年6月15日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2019/06/17 (Mon) 04:19:37


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

           <感謝合掌 令和元年6月17日 頓首再拝>

《神と一体となりて仕事をするには》 - 伝統

2019/07/12 (Fri) 04:21:46


        *『生長の家』(昭和26年4月9日の法語)より

   神にすべての仕事をゆだねよ。

   神にすべての仕事をゆだねると云っても
   自分が何事もなさないと云うことではないのである。

   自分が神の力の流れ出(い)ずる
   パイプとなり出口となると云うことである。

   何事をする前にも 「 神はわれを通して此の仕事を為(な)さしめ給う 」 と
   数回念じてからその仕事を、吾れに宿る神にまかせて行うような気持になれば、
   疲れることなくすべての仕事が順潮に運ぶのである。

   すべての仕事を課せられ強制されたる仕事であると考えてはならないのである。

   すべての仕事を神に導かれ為すところの
   自己向上の途(みち)であると思ってなせば
   楽しく好成績に順潮に運ぶのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12217093.html

           <感謝合掌 令和元年7月12日 頓首再拝>

《吾れ神と共にあり、何を恐れんや》 - 伝統

2019/08/06 (Tue) 04:50:45


        *『 生長の家 』(昭和25年5月4日の法語)より

   まず吾々は今 眼の前にある状態を
   祝福しようではないか。

   それが自分を害するものだという考えを
   捨てようではないか。

   今 眼の前にあるものは
   過去の想念の影であるのである。

   それはある様に見えているが
   過去のものにすぎないのである。

   それはすでに ないのである。
   ないものに心を捉えられるな。

   そこから新しいものが
   生まれて来ようとしているのである。

   新しきものは 自分の掌中にあるのである。
   自分の手に於いて 神が働き給うのである。

   神は今日ここにましますのである、自分の中に。
   されば吾は何を恐れんや。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和元年8月6日 頓首再拝>

本当の「南無阿弥陀仏」称名の意義 - 伝統

2019/08/29 (Thu) 04:37:54


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月29日)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」

とイエスは言った。

蓄音機のレコードのように
「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。
阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、
あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。

今本当に融け込んでいるのです! 
だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」

という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

           <感謝合掌 令和元年8月29日 頓首再拝>

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