伝統板・第二
ひかりの一日一言⑳~祈りを生活に処方して - 伝統
2016/11/01 (Tue) 03:51:46
ひかりの一日一言《1日》
《1日 祈りは父子相互の霊交である》
祈りは、わが内在の神が、宇宙の大神に近づくところの道である。
即ち神の子が「親様」へ霊交するところの方法であるのである。
祈りによって、神の感情を和(やわ)らげ、
神から御利益を懇請し得るなどと思ってはならないのである。
祈りによって吾々の魂が神に振り向けられ、自分の魂の波長が神に志向することによって
神の波長に同化されて来、神を変化するのでなく自分の心境が変化せしめられ、
それによって心の法則にしたがって、現象的御利益もあらわれて来るのである。
神を説き服(ふ)せ、甘言によって誘惑して、神を動かし、
神からご利益を得ようと思ってはならない。
いくら祈ったとて、自分の心境だけの御蔭を頂くのである。
神を拝みたおしても駄目である。
と云っても神に祈るなということではないのである。
神に祈ればその間だけでも、神の方へ心が振り向けられ、自分の心が感化せられる。
それこそが真の御利益である。
心境さえ変われば、心の法則によって物質的御利益は自然にあらわれるのであるから、
寧ろ、物質的なものを心に描いてそれに心を集中するよりは、
「神よ、み心の如くならしめたまえ」
と神の方へ心を振り向けることを専らにする方が、
心境の変化のためには一層よいのである。
神想観を実修し、実相の無限智、無限愛、無限生命の世界を心に描く祈りは
この意味で最もよいのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P222~223) より
・・・
<関連Web>
(1)ひかりの一日一言①~⑫ については、次のスレッドの「2016/04/30」に
投稿した記事に表示されているWebアドレスにて確認できます。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439
(2)ひかりの一日一言⑬~⑲ については、次のスレッドとそのスレッド内
の「2016/10/01」に投稿した記事に表示されているWebアドレスにて
確認できます。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7021791
<感謝合掌 平成28年11月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2016/11/02 (Wed) 03:28:37
《2日 先ず「内」なる宝を発見せよ》
吾々は自己が神の子として、自己の内に与えられている力を自覚することを
先ず目標としなければならない。
外の宝を求めるよりも、先ず自分の内にある「宝」を
発見することを先に しなければならない。
外の力に頼るな。
先ず自分を発見せよ。
自分の内の力を発見したら先ずその力を働かせることが必要である。
祈っただけで何もしないでいることは、
電気の存在を知っただけで、発電装置を作らず、
スイッチを入れないのとおなじである。
それでは、電気は存在すれども何の効果もあらわさないのと同じように、
神は存在すれども何の効果(おかげ)もあらわれないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P223~224) より
<感謝合掌 平成28年11月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2016/11/03 (Thu) 03:31:15
《3日 真に神のパイプとなるには》
自然現象のほかは、神は人間を通してその働きをあらわし給うのである。
人間が神のよきパイプとなり、よき道具となることが必要なのである。
自己をむなしくしての祈りは人間をして神のよきパイプとなることを可能ならしめ、
神の完全なる表現としての人間を完成することになるのである。
人間を通して神は自己実現したもうのであるから、
人間が働かないで、行動しないで
ただ祈るばかりでは役に立たないのは明らかである。
祈りによって神の御心と同調し、行動の方向が決定せられ、
その決定せられた方向に行動をとることによって、
その人は本当に神のパイプとなり、神の自己実現となるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P224) より
<感謝合掌 平成28年11月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2016/11/04 (Fri) 03:53:54
《4日 実相は金剛不壊完全である》
現象は遷(うつ)り変るが、実相は金剛不壊(ふえ)の存在である。
実相は神によって造られ、神によってその存在が保たれているのであるから、
それが決して肉眼に見えなくとも滅するものではないのである。
遷り変る現象の不完全さに心を奪われて、
その奥にある真実在( 実相 )の完全さを見失ってはならない。
吾々は真実在の完全さを時々見つめるために神想観をするのである。
即ち 現象(五官の世界)の不完全さに眼(め)を瞑(と)じて、
神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓喜(よろこび)、
無限の調和の満つる世界を心の眼で凝視するのである。
凝視が完全であれば 現象にも その完全さが現われる。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P224~225) より
<感謝合掌 平成28年11月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2016/11/05 (Sat) 03:24:39
《5日 真の正しき祈りとは》
神想観は、実相観であり、実相に於いて全(すべ)てのものが
既にに与えられていることを確認し肯定するための強き観法であり、
不足するものを認めて懇願するような祈りではないのである。
既にこの世界は完全であり、この人間は完全であることを確認し、
ほめ讃え、感謝する祈りである。
現在、不完全な世界が与えられていることを認め、神に懇請することによって、
神がこれを修正した給うなどと考えるのは神を侮辱するものである。
現象の不完全さは、実相を受信する「人間、ラジオ・セット」の心の波の不完全さで、
色々のものを混同しているからで、吾が心を調べれば不完全さは消えるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P225) より
<感謝合掌 平成28年11月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2016/11/06 (Sun) 03:23:38
《6日 困難な時ほど「神の子」を自覚せよ》
困難が来たときに其の人の信仰がテストされるのである。
困難が来ぬときに「人間、神の子」と豪語するのは容易(たやす)いことであるけれども、
実際、解決し難き困難、普通では癒えがたき病気に直面したときに
其の人の信仰がどの程度のものであるかがわかるのである。
かかる場合、信仰うすきものは平素の「神の子」の自覚は
何処(どこ)へやら、現象の困難の前に屈従してしまうのである。
そんなときに言葉の力によって自己が神の子であることを強調し、
「吾れは神の子であり、神の愛に強く支えられているから如何なる困難をも
克服し得るのである。神よあなたの愛に感謝いたします」
と繰り返し念ずることは信仰を更に強め困難を乗り切る力を与えるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P225~226) より
<感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2016/11/07 (Mon) 03:21:50
《7日 困難を克服する言葉》
困難に面したときは次の如く念ずるがよい。
「吾れは一切のものの創造主(つくりぬし)にましまし、
吾が父にまします神が常にわれを護り給うことを知るのである。
神の愛はわれを取り巻き、わが内にも外にも行きわたりて
我(われ)を護りたまうがゆえにわれは常に健康であり、
われは常に幸福であり、わが事は必ず成就するのである。
困難とみえ、病気とみえるのは仮相(かそう)であって
本当の相(すがた)ではないのである。
吾れは神の創造(つく)りたまいし此の世界が常に善に、今も善に、永遠に善であり、
常に調和していることを知るのである。
さればわれに敵対する者は何一つあり得ないのである」
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P226) より
<感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2016/11/08 (Tue) 03:24:44
《8日 勝利者としての確信》
「われ常に人生に於て勝利す」と云うのが
われらの標語でなければならないのである。
一切の困難とみゆるものは、真に困難なのではなく、
我々の力を鍛錬して高め上げるための運動競技の道具である。
吾々はその運動競技の道具を跳び超えることによって、
内在する「神の子」の力をより一層多く発揮することが出来るのである。
具体的な勝利は、勝利の確信の具象化であるのである。
勝利の確信なくして勝利したるものはないのである。
神がわが生命(いのち)であり、わが内に神いまして、
わが事業を導きたまい、わが肉体の健康を維持したまうのである。
これを信ずるとき、如何なる病も如何なる不幸も
我(われ)を害することは出来ない。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P227) より
<感謝合掌 平成28年11月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2016/11/09 (Wed) 03:21:50
《9日 先ず人生観を変えよ》
人生が思うようにならないとか、健康が思うようにならないとか云うものは、
自己の想念を変化し、自己の人生観を変化し、
生活感情全体が変化しなければならないのである。
先ず自己が神の子であることを信じ、
神の全能の力がわが内に宿っていることを信じ、
神の創造り給える環境が常に自分に対して微笑(ほほえ)みかけていて下さることを信じ、
楽観的な気持をもって、自己内在の力を出来るだけ出すようにするならば、
事業に於いては新しき機会が、
健康に於いては新しき活力が、
おのずから目覚めて来って、
輝かしい成功と健康とを実現することが出来るのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P227~228) より
<感謝合掌 平成28年11月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2016/11/10 (Thu) 03:06:15
《10日 神に対して心を調律せよ》
何事が起ってきても恐怖の旋風の中に巻き込まれる必要はないのである。
神はわれらの父でありたまい、神は愛でありたもうから、
どんな時にも、神を呼べば神は必らず護っていたもうのである。
神は、どんな不調和な中にも調和を、争いの中にも平和を、
病気とみゆるものの中にも健康を打ち建てたもうことができるのである。
併しそれが現実にあらわれるには、
ラジオのように心の波長を合わすことが必要である。
常に、自分の心を神に向って調律せよ。
暇ある毎に5分間でも3分間でも利用して、眼をつぶり、
「自分は神と一体である。神は愛であるから、自分は常に神の愛に護られている」
と暫時思念することは、心の調律に大変よい。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P228) より
<感謝合掌 平成28年11月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2016/11/11 (Fri) 03:59:43
《11日 神の愛を自己を通して表現せよ》
周囲の人々が自分に対して悪意を抱いているようにみえるときには、
自分の方が周囲の人々に好意を持っていないか、冷淡であるか、敵意をもっているか、
恐怖心をもっているかが、相手に映って、そう現われるのである。
あなた自身が、
「自己の内に神の愛が流れ入りて、
私というパイプを通して神が彼らを愛したもうのである」
と念じて、豊かに神の愛の言葉を、そして行為をあなたを通して周囲に注ぎかけるならば、
そのような敵意も恐怖も消えて周囲全体が調和ある状態に変化するのである。
どんな困難な事態でも、真に神の愛があなたを通して実現するならば、
調和が現れるほかはないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P228~229) より
<感謝合掌 平成28年11月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2016/11/12 (Sat) 04:19:29
《12日 如何なる時も相手の内に愛をみよ》
真に幸福なる生活を送ろうと思うならば、
周囲の人々に対して絶対調和した心持ちでいなければならないのである。
周囲の人々に怒りや憎しみや恐怖の感情を持っている限りは、
物質的にいくら豊かな生活を送っていても
その人は幸福だと云うことはできないのである。
誰でも愛されたいのに、その相手がこちらを憎んでいるのは、
こちらが相手を愛してあげようが足りないからである。
憎しみの言葉を相手がこちらに投げかけても、実はその人は
「私はあなたに愛されたいのに、愛してくれないから、
私はやむを得ず、やけくそにあなたに意地悪をするのよ」
と心の中では言っているのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P229) より
<感謝合掌 平成28年11月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2016/11/13 (Sun) 03:16:35
《13日 如何なる場合も相手の仏性をみよ》
人の表面の言葉や、行いで、其の人の愛を疑ってはならない。
現象をみて人を審判(さば)いてはならないのである。
どんな人にも仏性が宿っており、キリストが宿っているのである。
たとい誰かがあなたの感情を害することを云おうとも、また行おうとも、
相手に対して憤りの感情を起すよりも、
「あの人が幸福になりますように」とか
「あの人の“神の子”さんがあらわれますように」とか
祈ってやる気持ちになる方が、自分の心に平和と幸福とが訪れて来るのである。
そして終(つい)には相手を感化して、
真に相手を深切な人に化することができるのである。
特に自分に病気のある場合は人を憎んではならないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P230) より
初出~「生長の家(昭和26年5月14日)」
<感謝合掌 平成28年11月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2016/11/14 (Mon) 04:12:21
《14日 人を審判(さば)く心なかれ》
外見にあらわれている悪(病気、悪意、不調和等)を
存在すると思ってはならないのである。
それは実在するのではなく、「あらわれ」ているに過ぎないのである。
「あらわれ」と云うものは相対的関係で、そう見えるに過ぎないのである。
こちらの心が変われば「あらわれ」は変化して見えるのである。
あらゆる病気、不調和、悪意などは、神が創造らないのであるから、
真に存在するものではないのである。
現象(あらわれ)を見て心がひっかかってはならない。
人を審判(さば)く心は、痛みや、狭窄(きょうさく)や、胃潰瘍や、
出血性の病気や、高血圧病の原因である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P230~231) より
初出~「生長の家(昭和26年5月15日)」
<感謝合掌 平成28年11月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2016/11/15 (Tue) 03:58:41
《15日 まず神の智慧に導きを願えよ》
一日の仕事を始める前に、
神の導きを求めてその仕事を行うようにすることは、
よき仕事を行なう上に是非とも必要なことであるのである。
「神の智慧流れ入りてわが仕事を運ぶ道を導き給う」
と時々瞑目して心に念じ、
神の智慧に常に接触しながら仕事を運ぶようにすると失敗はないのである。
神の智慧に接触するには、
決して複雑、多言の祈りの言葉を要するものではないのである。
神の智慧に振り向いて、
「神よ」又は「父よ」と称(とな)えて心が平和に本当に落ち着いて、
神の心と波長が合えばよいのである。
又、時々『日々読誦三十章経』をひらいて、その思念の言葉を念ずるも好い。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P231) より
初出~「生長の家(昭和26年5月16日)」
<感謝合掌 平成28年11月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2016/11/16 (Wed) 03:37:34
《16日 心を明るく持てよ》
心の明るさと云うことが、第一に必要である。
神に祈って効果がない場合は、
概ねその人に心の明るさが欠乏している場合が多いのである。
神は光であるから、神の波長に合うためにはまず明るい心が必要である。
すべての恐怖や心配や、取越苦労などを《かなぐり》捨てて、
神に全的にまかせ切ることが必要である。
「私は朗かである。私は神の子であるから、親様なる神が私のすべてのことを
見(み)戍(まも)り給うから、私は神にすべてをまかせて、心平和である。
すべての事は必ずよく成就するのである」
と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、
心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P231~232) より
初出~「生長の家(昭和26年5月17日)」
<感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2016/11/17 (Thu) 03:32:13
《17日 何が神の導きかの判断について》
心に催して来ることが神の導きか、我(が)の導きか、
どちらであるかと云うことを決定する標準と云うものがあろうかと
問われることがある。
何でも自分の心に催して来ることが神の導きだと思えば
大変な間違いを演ずるかも知れない。
神の導きは、神は利己主義ではないから、
自他一体の幸福になるような願いは神の導きなのである。
自分の願いは、利己主義でないか、愛にかなうか、他(た)に迷惑を及ぼさないか、
自己欺瞞ではないか、向上の道にかなうか、反動的感情にかられていないか、
冷静な判断に基づくものか ――
若しこれらの反省によって正しいと考えられるものは神の導きと考えて好い。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P232) より
初出~「生長の家(昭和26年5月18日)」
<感謝合掌 平成28年11月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2016/11/18 (Fri) 03:37:44
《18日 祈りは内在の神を展開する》
祈りの効果と云うものは、神を説得によって感動せしめるのではなく、
祈りの深まることによって、神われと偕(とも)にあり、神われに来りたまいて、
われを通して働き給うていると云う自覚が深まると云うことである。
この自覚の深まるに従って、内在無限の神性が展開し出て
何事も順調に行なわれるようになり、身体に於ては内在無限の自然療能力が発現して、
病気も速かに癒えるのである。
自分を圧倒するような困難、迚(とて)も助からぬというような病気
―― こんな時には、しばらく人間的思慮を止(や)め、
神の前に跪いて神のはからいの前に全自己を投げ出すべきだ。
其の時、「我(が)」の障礙(しょうげ)が消え、神の力が発現するのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P233) より
初出~「生長の家(昭和26年5月19日)」
<感謝合掌 平成28年11月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2016/11/19 (Sat) 03:14:13
《19日 周囲の人々を完全にするには》
あなたの家族や周囲の者が不愉快な習慣や、癖(くせ)をもっているからと言って、
それを直せと云って忠告することが却って反抗心を唆(そそ)って直すのに
邪魔になる場合がある。
そう云う場合には神にそれを委ねる方が好いのである。
神は全能であり、神の支配下に全然それが委(ゆだ)ねられる時、
人間の我(が)が偏りによってあらわれていた一切の悪習慣が消えるのである。
相手を、審判(さば)く心や、批難(ひなん)する心で眺めることを止(や)め、
相手が如何(いか)に肉眼に見えようとも、
悪しき姿は自分の妄想の描いた虚像であるとして否定し、
「 既に彼は神の子で、神の支配下にあるのであるから、
神の像(すがた)そのままに完全円満である 」
として心の底深く礼拝するのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P233~234) より
初出~「生長の家(昭和26年5月20日)」
<感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2016/11/20 (Sun) 03:06:27
《20日 みずから神を拒むな》
神は幸福の源泉であり、人間に幸福を与うることを悦び給うのであって、
決して人間に不幸や貧乏や病気を与え給うのではないのである。
不幸や貧乏や病気は、吾々が勝手に神を拒んだ結果に過ぎないのである。
神は幸福の源泉であるけれども、
人間に完全なる自由を与え給うていられるのであるから、
それを吾々自身が拒む場合には幸福を強制し給うことはないから、
自己選択によって不幸や病気や貧乏があらわれて来るのである。
それは写真師が焼付の時間を選択することによって、
呆(ぼ)けた調子の写真でも、ドギツイ調子の写真でも、
完全な写真でも造り出し得るようなものである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P234) より
初出~「生長の家(昭和26年5月21日)」
<感謝合掌 平成28年11月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2016/11/21 (Mon) 03:38:26
《21日 想念の波動で世界を平和に》
世界の現状は、個人的肉体人間の姿を現していて、
雑誌や講演で説教しているだけでは
どうにもならないような行き詰りの状態をあらわしている。
肉の殻を脱してもっと自由自在の状態になり、霊界から強力な精神波動を送ることによって、
全人類の想念感情を正しき方向に向けかえない限り、全人類は、平和と幸福とを希望しながら、
却(かえ)って不幸と擾乱(じょうらん)の方へ巻き込まれそうである。
『生命の實相』第五巻霊界篇(携帯版九・十巻)には、
欧州大戦に於いて白色高級霊(ホワイトスピリット)が強力な平和の霊波を送って、
人類の不幸を押し返したと云うことが書かれている。
私たちは「世界平和光明思想連盟」というのをつくって、
愛と平和の霊的波動を祈りによって結集して、
戦争の起ろうとする闘争精神の波を押し返そうとしているのである。
押し返すときに押し返さなければ
人類の不幸と悲惨はかぎりなくますます加わるばかりである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P234~235) より
初出~「生長の家(昭和26年5月22日)」
<感謝合掌 平成28年11月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2016/11/22 (Tue) 03:10:33
《22日 人類互に拝み合え》
何故(なぜ)、人類が幸福と平和とを望みながら、
不幸と擾乱とに巻き込まれて行くかと云うと、
互いに人間が神の子であることを本当に信じないからである。
互いが相手を悪意に満ちているものであり、
こちらを害するに違いないと疑うがゆえに、
その疑う想念の具象化として相手は益々悪しき状態にあらわれ、
ついに重大なる結果を来(きた)すのである。
現象を見て分析し、此処(ここ)に相手の悪があるとみとめて
対応策を考えているような事では駄目である。
彼を悪であるとしてこちらが憎めば、
相手もこちらを悪であるとして対抗して来るのである。
人類全体が人間を神の子として互いに拝むようにならなければならぬ。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P235~236) より
初出~「生長の家(昭和26年5月23日)」
<感謝合掌 平成28年11月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2016/11/23 (Wed) 03:18:39
《23日 相手と調和するには》
人間は根本的に「愛されたい」「認められたい」「理解されたい」のである。
愛されたいのに愛して貰(もら)えず、認められたいのに認めて貰えず、
理解されたいのに理解されない。
そのもどかしさから、その反動から憎みが生ずるのである。
相手と調和したいと思うならば、相手を認めてあげ、理解してあげ、而(しか)して
愛してあげることによって相手と調和することが出来るのである。
愛されたい、認められたいのは、
人間は決して「個人」ではなく、全体一つの生命であるからである。
理解されたいのはすべての人には「善」なる神性が宿っておることを
自覚しているのでそれを理解してほしいのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P236) より
初出~「生長の家(昭和26年5月24日)」
<感謝合掌 平成28年11月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2016/11/24 (Thu) 04:15:40
《24日 心の幸福が本当の幸福》
この事さえ成就すれば私は屹度(きっと)幸福になれると思っている人が、
それが成就した後で幸福になれない実例は沢山ある。
胃病の人は胃が治れば幸福になれると思うが、
胃が治ったあとは又別なことを悩み出すのである。
あの女と結婚すれば幸福になれると思っていた人が結婚した後(のち)に
毎日夫婦喧嘩(げんか)をして決して幸福でない実例もある。
これだけ富が出来たら屹度幸福だと思っていた人が、
それだけ富が出来たときに、社会的な色々複雑な問題が紛糾して
幸福になれない人もある。
考えて見れば、幸福とは個々の事物にあるのではなく、
其の人の心の状態にあるのである。
心の幸福な人は常に幸福な人である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P236~237) より
初出~「生長の家(昭和26年5月25日)」
<感謝合掌 平成28年11月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2016/11/25 (Fri) 04:44:18
《25日 外界の事物は素材に過ぎぬ》
外界の事物は吾々の幸福の素材になるに過ぎないので、
その素材に対する心構えが間違っておれば却(かえ)って不幸を来すのである。
素材を如何(いか)に取扱うかの心構えが大切である。
富めること必ずしも幸福ならず、富めるために却って悩み多き人もある。
然(しか)りと雖(いえど)も生長の家は「貧しさ」をまた礼讃するものでもないのである。
「貧しさ」が生じて来たのも、自己の心の反映であるから心を変化すれば、
富が生ずると云うのである。
ただ富の求めようが、「富が得られたら幸福になる」と「富」そのものを求めては
幸福は得られないのであって、先(ま)ず幸福な心持になり、富める心になって
他(た)に奉仕するとき幸福も富も得らるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P237) より
初出~「生長の家(昭和26年5月26日)」
<感謝合掌 平成28年11月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2016/11/26 (Sat) 03:36:45
《26日 与えられたる仕事を拒(こば)むな》
何事でも自己に与えられたる仕事が、
誰かにとって益を与うるものであるならば決して拒むな。
それが自己に不適当なる仕事であると思っても決して拒むな。
神は決して貴方(あなた)に不適当なる仕事を強制し給うことはないのである。
与えられたる仕事を、神が自分に課せられたる人類の奉仕の仕事であると信じて
感謝してそれを為(な)すならば、自分に不適当なる仕事にも
それを完成し得る力が湧(わ)き出てくるのである。
容易なる仕事ばかりをしているのでは、
内在無限の力は湧き出ては来ないのである。
困難なる仕事に努力することによって、力は増強せられる。
努力は魂を向上せしむる道である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P238) より
初出~「生長の家(昭和26年5月27日)」
<感謝合掌 平成28年11月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2016/11/27 (Sun) 04:20:31
《27日 人を赦すには斯う考えよ》
人を赦すことが出来ない人は、
神を信じていると云っても実は信じていないのである。
何故なら、神の造りたまえる世界に何か悪があると信じているからである。
そして神の造りたまえる人間に悪があり、また神の与え給うた幸福を
その人が自分から奪い得ると信じているからである。
神の造りたまえる人間に悪人はいないと云うこと、そして神の自己へ与え給うた幸福は
何人(なんぴと)も自分から奪い去ることが出来ないと云うことを本当にその人が信じ得るならば、
自分に害を与えるかの如く見える人たちをも容易に赦すことが出来るのである。
自分を赦したとき自分に幸福の門は開かれる。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P238~239) より
初出~「生長の家(昭和26年5月28日)」
<感謝合掌 平成28年11月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2016/11/28 (Mon) 04:29:17
《28日 自然癒能力を呼び出すには》
吾々の肉体の内(うち)には無限の自然療能力が宿っているのである。
その自然療能力こそ、心臓も肺臓も胃袋もなき一個の卵細胞から
この無限に複雑なる内蔵諸機関を作り出したところの不可思議力なのである。
この不可思議力の活動を喚(よ)び覚ますことに成功するならば、
如何なる病いも癒(い)えないと云うことはないのである。
想念は不可思議力を自分の欲する形にまで誘導するところの力である。
この不可思議力を「療能力」として想念し、その方へ想念を集中するならば、
その不可思議力は癒やす力として直(ただ)ちに働き来(きた)るのである。
病気の時には、却(かえ)って病気を思わず、
「 神の生命(せいめい)流れ入りて今、癒やし給(たま)いつつある 」
と思念すべきである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P239) より
初出~「生長の家(昭和26年5月29日)」
<感謝合掌 平成28年11月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2016/11/29 (Tue) 03:28:02
《29日 現象は結果に過ぎない》
人は想念する(考える)ところの事物そのものとなるのである。
神は想念することによって宇宙を創造した。
創造されたる宇宙は結果であって原因ではない。
しかし結果を目的として想念したのではないのであって、
想念されたるものを「 観(み)る心 」が「 認識の形式 」を通して
「 物質宇宙 」として観るのである。
人もまた想念するところのものを肉体にあらわすが、
それは肉体にあらわそうと故意(ことさら)に想念しないでも、
ただ、何の気なしに想念していたことが肉体にあらわれて病気となったりするのである。
病気を治すのはその逆を行けばよいのである。
病気を治そうと思わないでも善き想念を描いておれば病気は消える。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P239~240) より
初出~「生長の家(昭和26年5月30日)」
<感謝合掌 平成28年11月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2016/11/30 (Wed) 03:37:46
《30日 光のみの世界を観るには》
神の愛は吾等を取り巻いてい給うのである。
何事が起って来ようとも、それは現象であり、
心のスクリーン上に映った映画の一断面に過ぎないのである。
映画の一断片にどんな不幸なことが顕れていようとも、
そんな事に心とらわれてはならないのである。
吾々は常に光源に振り向くことによって、
光ばかりの世界を見ることが出来るのである。
若(も)し吾々が光ばかりの世界を見ることが出来ないならば、
それは途中の妄念のフィルムに下らないことが描かれていて、
その光の照り渡ることを妨(さまた)げているのである。
汝(なんじ)の妄念を取り去れ。
憤りを去れ、憎みを去れ、
不平を去れ、悲しみを去れ、
唯、感謝せよ、
唯、光のみの世界を見るであろう。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P240) より
初出~「生長の家(昭和26年5月31日)」
<感謝合掌 平成28年11月30日 頓首再拝>