伝統板・第二

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吉田松陰 - 夕刻版

2016/10/27 (Thu) 19:21:44

今日10月27日は、吉田松陰の命日。


         *Web:知命立命 心地よい風景(2014/10/27)より抜粋



吉田松陰が残した著書

【士規七則】

”書物に溢れる偉大な言葉の数々は人の感奮を興起させる。
しかし、今の人々は書を読まず、読んだとしても実行をしない。
もしも書を読んで実行したならば、千年万年と受け継ぐに足るものなのである。
ああ、殊更何を言うべきことがあろうか。
そうは言っても、良き教えを知ればどうしても伝えたくなるのは、人の至情である。
だから古人はこれをいにしえに述べ、私は今これを述べる、
何を慮ることもない。
ここに士規七則を作る。


(1)人として生まれたのであれば、人が禽獣と異なる所以を知るべきである。
   人の人たる所以は忠と孝を基本とする。

(2)日本に生まれたのであれば、日本の偉大なる所を知るべきである。
   君臣一体、忠孝一致となることは、吾が国特有の特色といえる。

(3)武士の道は義より大切なものはない。
   義は勇気によって行われ、勇気は義によって成長する。

(4)武士の道は質朴実直にして、人を欺かないことが肝要である。

(5)古今の出来事に通じておらず聖賢を師としない者は、下らぬ人物となってしまう。
   従って、読書をし古人を友とすることは君子たるべき行為なのである。

(6)徳を磨き優れた人となるには、
   師の教導と友との切磋琢磨をどれだけ経験するかである。

(7)死して後やむ(死而後已)の四字は簡単な言葉だがその意味は大きい。
   意思が堅く忍耐強く決断力があり、
   何事にも動じない志を持つ者は、これが最適の言葉である。

この士規七則は、要約すれば3点である。
即ち、

志を立てることを万事の源とし、
友や師との交わりを持って仁義の行為を学び、
書を読むことで君子先人の遺訓を学ぶ。

ことである。

武士はこのような言葉から得るものがあれば、人として成長するに足るであろう。”



【講孟剳記】

江戸時代末期、吉田松陰が、『孟子』に関する注釈と見解をまとめた書物です。
未完成の間は『講孟剳記 (こうもうさつき) 』といわれたが、
完成と同時に”講孟余話”と改題されているものです。



【留魂録】

処刑の前日、夕刻に書き上げられた全十六章からなるもので、
これを読んだ門下生の国事行為への奮起が新政府誕生の原動力となった
とも言われているものです。


 【留魂録 冒頭の句】
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛士」

 【留魂録 第八章】
  今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、
  春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。

  つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
  秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、
  酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。

  未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを
  悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。

  私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。
  農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、
  そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。

  だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。
  そう考えると必ずしも悲しむことではない。
  なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。

  農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。

  しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
  十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。
  二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。

  五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。
  十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を
  長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。

  百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を
  蝉の如く短命にしようとするようなことで、
  いずれも天寿に達することにはならない。

  私は三十歳、四季はすでに備わっており、
  私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。

  それが単なる籾殻(もみがら)なのか、
  成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。

  もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、
  それを受け継いでやろうという人がいるなら、
  それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。

  同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。


 【留魂録 最後の句】

  「かきつけ終わりて後
  心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
  呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
  討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
  愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
  七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
  十月二十六日黄昏書す           二十一回猛士」

    (http://shutou.jp/post-386/

・・・

<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板」

  ①吉田松陰精神に学べ  (全文) (4729)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994   

  ②松陰スピリッツ (4756)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=998  

(2)「光明掲示板・第一」として、

   吉田松陰 (2876)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=581   

(3)「光明掲示板・第二」として

  ①吉田松陰~『留魂録』
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=507   

  ②千代(松陰の妹)から見た吉田松陰 (4255)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=902  

  ③成人式(元服)での吉田松陰の言葉 (4558)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=956   

  ④花燃ゆ~吉田松陰の末妹「文」の生涯 (11226)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2140   


(4)光明掲示板・第三「吉田松陰 (1324)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=267

(5)光明掲示板・伝統・第一「吉田松陰」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=62

(6)伝統板・第二「吉田松陰の留魂」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6814974

            <感謝合掌 平成28年10月27日 頓首再拝>

吉田松陰の愛読書と著書 - 伝統

2016/12/16 (Fri) 18:50:56


         *Web:「吉田松陰の愛読書と著書を読む!」より

【愛読書】

(1)四部の学関連

  ①『論語』 孔子 ~論語より学ぶ!人としての「徳」と「命」!
     http://shutou.jp/post-877/

  ②『孟子』 孟軻 ~孟子より学ぶ!性善説と王道に基づくリーダーの心得!
      http://shutou.jp/post-1427/


  ③『大学』 曾参(『礼記』第42篇と重複)
    ~大學(大学)より学ぶ!人を治める道の書!
      http://shutou.jp/post-872/

  ④『中庸』 孔?(『礼記』第31篇と重複)
    ~中庸より学ぶ!過ぎたるは猶及ばざるが如し!
      http://shutou.jp/post-1424/


(2)国史関連

  ①『日本書紀』 舎人親王・太安万侶

  ②『太平記』 小島法師

  ③『神皇正統記』 北畠親房

  ④『日本外史』 頼山陽


(3)水戸学関連

  ①『新論』 会沢正志斎

  ②『弘道舘記述義』 藤田東湖

  ③『正気歌』 藤田東湖


(4)陽明学関連

  ①『伝習録』 王陽明 ~伝習録より学ぶ!心を統治、練磨することの大切さ!
     http://shutou.jp/post-737/     

  ②『翁問答』 中江藤樹
    ~翁問答より学ぶ!心学の提唱・明徳と普遍道徳・全孝について
     http://shutou.jp/post-2420/

  ③『集義和書』 熊沢蕃山
    ~近江聖人:集義和書より学ぶ!経世済民のコンサルタントの教え!
     http://shutou.jp/post-750/

  ④『洗心洞箚記』 大塩平八郎
    ~洗心洞箚記より学ぶ!義と愛に生き、知行合一を貫いた人生の書!
     http://shutou.jp/post-743/

  ⑤『言志四録』 佐藤一斎
    ~言志四録より学ぶ!維新志士発奮の訓戒語録集!
     http://shutou.jp/post-622/

(5)山鹿流兵学・尊王論関連

  ①『山鹿語類』 山鹿素行
    ~山鹿語類より学ぶ!権威や権力に屈せず、義心を変えない大丈夫の心!
     http://shutou.jp/post-2732/

  ②『武教小学』『武教全書』 山鹿素行
    ~武教小学、武教全書より学ぶ!
     生きる上での基本と道徳的な修養の基本について
     http://shutou.jp/post-2811/

  ③『聖教要録』『配所残筆』 山鹿素行
    ~聖教要録、配所残筆より学ぶ!日常の礼節・道徳の重要性!
     http://shutou.jp/post-1811/


  ④『中朝事実』 山鹿素行
    ~中朝事実より考える!日本の国体について その1
    http://shutou.jp/post-2816/

  ⑤『靖献遺言』 浅見絅斎

  ⑥『柳子新論』 山県大弐


【著書】~松陰の主な著書と年代、年齢:

(1)『将及私言』 嘉永六年(1853)、24歳
     http://blog.goo.ne.jp/ryuunokoe/e/2f92b4c0605ef9ade54a11f5db7029dd

(2)『幽囚録』 安政元年(1854)、25歳
    ~幽囚録より学ぶ!時代の先見性と世界へ向かう志!
     http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020001.html

(3)『二十一回猛士の説』 安政元年(1854)、25歳
     http://d.hatena.ne.jp/aya_natu/20081107/1226053969

(4)『士規七則』 安政元年(1854)、25歳
     http://shutou.jp/post-386/

(5)『投夷書』 安政元年(1854)、25歳
     http://www.tomoland.net/nagamimi/nagamimi/blackships-shoin.html

(6)『回顧録』 安政二年(1855)、26歳
     http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020001.html

(7)『三月二十七日の記』 安政二年(1855)、26歳

(8)『七生説』 安政三年(1856)、27歳
     http://kaikikuyou.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

(9)『講孟剳記(講孟余話)』 安政三年(1856)、27歳
     http://shutou.jp/post-2876/
 
(10)『武教全書講録』 安政三年(1856)、27歳
     http://shutou.jp/post-2878/

(11)『松下村塾記』 安政三年(1856)、27歳
     http://www.yoshida-shoin.com/message/sonjyukuki.htm

(12)『狂夫の言』 安政五年(1858)、29歳
     http://blog.livedoor.jp/gokokumin/tag/%E7%8B%82%E5%A4%AB%E4%B9%8B%E8%A8%80

(13)『対策一道』 安政五年(1858)、29歳

(14)『愚論』 安政五年(1858)、29歳

(15)『続愚論』 安政五年(1858)、29歳

(16)『急務四条』 安政五年(1858)、29歳

(17)『大義を議す』 安政五年(1858)、29歳

(18)『照顔録 附坐獄日録』 安政六年(1860)、30歳
     http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020002.html

(19)『時勢論』 安政六年(1860)、30歳

(20)『要駕策主意』 安政六年(1860)、30歳

(21)『留魂録』 安政六年(1860)、30歳

   (http://shutou.jp/post-2758/ )

            <感謝合掌 平成28年12月16日 頓首再拝>

将及私言(藩主への意見書)~その1 - 伝統

2017/01/17 (Tue) 19:25:03


嘉永六年(1853)、吉田松陰 24歳

国立国会図書館デジタルコレクション
 → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048646/162?tocOpened=1


《松陰、第2次江戸遊学》

松陰24歳。
「今度こそ藩主の恩顧に応えよう」と決心して、
嘉永6年(1853)1月26日には2度目の江戸遊学を目指して萩を出発しました。

名前は大次郎から寅次郎に変え、このときから松陰の号を用いることになります。

江戸遊学は『癸丑遊歴日録』に表していますが、
2月1日富海を発ち、2月10日大阪に着いてから、伊勢5月8日、中仙道を経て
江戸には5月24日に着いています。

約80日間の近畿での滞在では、
先ず、大阪で砲術家・坂本鉱之助に会っています。
彼は天保8年の大塩平八郎の乱で鎮圧に功績を上げ、名が知られていました。
軍事防備を聞いたでしょう。

次に、頼山陽の高弟と知られ、海防と尊皇思想に関心の深い森田節斎に
教示を受けるため大和五条に向かいます。1日3州を経てという急ぎ足です。
13日は「風雨蓑笠を浸し、残寒、粟肌に生ず・」と詠まれる中を6里、五条に到着し、
医師・堤高亨宅で節斎に会います。

ところが節斎は、約束があって翌14日には富田林に出向くというのです。
松陰は、また節斎とともに千早峠を越えて富田林に戻ります。

こうして富田林の佐渡屋で、仲裁役の手伝いをしていて長逗留しますが、
さらに節斎に同行して2月23日に岸和田に赴き3月3日まで逗留します。
その地の学者らと議論、それから堺、そして富田林。

ここの佐渡屋徳兵衛は、松陰の一つ年上で話が合ったのかも知れません。

結局、4月1日まで節斎と過して、ひと時大阪に向かい、また五条を訪ねてから、
橿原八木の谷三山を訪ね、いよいよ江戸に向かっています。
  
   (http://ameblo.jp/kanmonya/entry-10893417255.html#main より抜粋)


江戸に着いた松陰は斉藤道場に立ち寄り、此処で桂小五郎と再会、
鳥山塾では鳥山新三郎と懐かしく会いましたが、翌5月25日には、
母・滝からお土産にと託されていた黍粉を持って鎌倉瑞泉寺の竹院和尚を訪ねています、
松陰は、4ヶ月も黍粉を持ち歩いていたのです。

そして、江戸・蒼龍軒に帰ったのは6月1日でした。

3日に佐久間象山の塾に行き、翌4日に藩邸を訪ねると
「ペリー艦隊が相模湾に現れた」ことを知らされます。
象山塾に行くと、すでに象山は出掛けていました。

 「心甚だ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し」心はやる松陰は、
まさに疾風怒濤、駆けて駆けぬき、浦賀に着いたのは夜10時ごろで、
運よく象山の宿に入れてもらいました。

賊船、黒船は4隻。2隻は蒸気船、砲20門。
他の2隻はコルベット(帆装軍艦)、砲26門など・・・」
と象山は、望遠鏡をのぞきながら弟子たちに伝えます。

朝夕、黒船は空砲を轟かせて威嚇します。

遂に9日、久里浜で浦賀奉行が国書を受け取りました。

この騒動に遭遇した松陰は『幕府の大狼狽の体、憐れむべし』と
その激情を友人に書き送っています。

この、三浦半島久里浜には、明治34年(1901)に、伊藤博文撰文の
「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」があり、
近くには「じょうきせん」の詩碑も建っています。

「太平の眠りを覚ますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず」。

松陰らは、久里浜の様子を見とどけ、江戸に帰ってから、その身分でも無いのに
「黒船対策の意見書『将及私言』並びに『急務条議』の上書に取り掛かりました。

この上書は、匿名として藩主、藩幹部の目に届いたようです。

松陰の攘夷は、柔軟性にとんだもので、進んだ文明を取り入れながら・・・というものです。

そのことは、平戸遊学のときすでに「兵器・兵学は西洋に学び」と言っているように、
松陰の夢は海外渡航に向かっていたのです。

この頃、長州藩は幕府から三浦半島の警備を命じられ、
佐久間象山の指導で巨砲も鋳造しています。

http://ameblo.jp/kanmonya/entry-10893418263.html より)



孫子のいう『彼を知り己を知る』異国の実情、実態を知りたいという情念は、
まさに松陰の夢でなく信念となっていました。

そんなとき、江戸で佐久間象山が話すには「俊才を留学させるべきだ」と
幕府に提言をして無視されたことを聴かされました。

「幕府が許さなければ、非常手段で、自分がやるしかない」と決心して、
これを象山に打ち明けました。この決心は、まさに死罪を覚悟したものです。

「いかに渡海し、いかに帰国するか・・・ジョン万次郎の例外もあるではないか」と、
漂流策、密航を練り、いよいよ、松陰が長崎にいるロシア軍艦に乗ろうと決心して旅立つとき、
象山は『送別の詩』を贈り旅費まで与えて送り出しました。

後にこの詩は松陰の下田踏海失敗のさい、象山も罪を得る端緒にもなりました。

松陰が長崎に着いた10月27日、数日前にロシア船は出航した後でした。
残念がっても仕方が無い。

今度はアメリカ船だと心に決めて、彼はまた江戸に引き返し、
12月27日に鳥山新三郎の塾に戻りました。

此処で待っていたのが金子重之助、同じ長州出身です。
今度はいよいよ下田で金子重之助との渡海になるのです。

 
安政元年(1854)1月14日、予定より早く黒船7隻が、江戸湾まで入って来ました。
そして3月3日、横浜にて幕府は、ついに下田と凾館を開港して友好関係を結ぼう
という日米和親条約の調印に同意しました。

二人は、万一のとき藩に迷惑がかからぬように.松陰は爪中万二、金子は一木公太と変名。
横浜沖で何とか乗船の機会を伺っていましたが、遂にならず13日に、
黒船は開港したという下田に向かって出航しました。 

二人は、これを追って下田に向かい、3月27日の夜、
下田柿崎海岸からアメリカ艦船に乗り込みました。 

http://ameblo.jp/kanmonya/entry-10893419775.html#main


二人の行動は、夜半に伝馬船を漕ぎ出して最初はミシシッピ艦に辿り着いたが、
大将がいないのであの船へといわれ、旗艦ポウワタン艦に乗り込んで願い書を出し、
アメリカへの渡航を懇願しました。

結局は下田奉行の許可が無ければ連れて行き事は出来ないと断られ、密航は叶いませんでした。
下船して帰ろうとしますが、伝馬船が流されていたので、黒船から小艇が降ろされて、
福浦という磯辺に送り返されてしまったのです。

流された伝馬船には大小刀と行李を残していたので、あたりを探したものの見当たらず、
伝馬船は盗んだものだし。事の発覚を自覚し山伝いに辿りついた忠右衛門に案内され
名主平右衛門に連れて自首しました。

ここから奉行所に届けが出されて、下田の同心に縄を掛けられ牢につながれたのです。

 (http://ameblo.jp/kanmonya/entry-10432415658.html#main より)


3月27日、吉田松陰と金子重之助(重輔)が、
下田沖の軍艦に潜入し海外密航を企て失敗しましたが、
これを松陰は「下田踏海」と呼んでいます。


伊豆下田市の歴史年表の中には、吉田松陰のことについては、
「吉田松陰密航失敗」と、ほんの一行しか記録にありませんが、
この下田踏海事件は、松陰のその後の人生をまた別の形で決定したともいえるようです。

彼は上陸後、いさぎよく自首して拘禁されたのが
宝光院長命寺(廃寺=現下田市教育委員会の場所=写真=)でした。

松陰が捕らわれ調べられるとき「下田の何処に居ったか」との奉行の問いに、
「我々のようなものは、何処も何時も留めてくれないから、あちらの軒下、
こちらの古堂などで夜を明して此処という宿はとり申さず」といったので、
村山邸への調べはまったく無かったようです。

下田でのこうした話は、村山好毅が昭和52年に祖母の聞き書きによる
『松陰先生と我家』を主に参考とさせて頂きました。

さらに下田では、獄舎を移され4月11日に江戸伝馬町の獄に送られます。
結局、松陰が下田に滞在したのは24日間といわれています。

直木賞作家の古川薫氏は、著書『吉田松陰』(PHP研究所刊)の中で、
松陰が密航に成功し、欧米に行っておれば、おそらく数年間は日本を留守にしていただろう。
松陰がいない幕末を仮想することは難しいが、彼の果たす役割は大きく変わっていたに
違いあるまい。

つまりは、密航に失敗し国内にとどまり、国事犯として幽囚の身となることによって、
松陰は松下村塾の指導者になり、歴史を展開させる原点に立つことが出来たといえる。

この、密航失敗に長州藩の行く手に要人は眉をひそめ、日本人の多くは嘲笑したが、

『ペリー日本遠征記』に「二人の教養ある日本人は新しい知識を得るために、
死をも厭わず、国の掟を進んで破ろうと試みた。彼らは、まさしく知識欲旺盛で、
精神的かつ知的な能力を伸ばす機会ならなんでも喜んで掴かむことだろう。

(中略)このような人々がいるということは、この興味深い国にいかなる思惑の世界、
いかなる希望に満ちた未来が開かれることを意味するのであろうか」とあり、
松陰の行動は、ペリーの日本人観に強い示唆を与えていたのだ。と書かれています。

http://ameblo.jp/kanmonya/entry-10449536657.html#main より)

            <感謝合掌 平成29年1月17日 頓首再拝>

将及私言(藩主への意見書)~その2(『将及私言』の概要) - 伝統

2017/01/24 (Tue) 18:35:26



松陰はいち早く『将及私言(しょうきゅうしげん)』で
武備の必要などを藩庁に訴えました。



謹んで案ずるに、外夷の患由来する所久し、固より今日に始まるに非ざるなり。
然れども今般亜美理駕夷の事、実に目前の急、乃ち万世の患なり。

六月三日、夷舶浦賀港に来りしより、日夜疾走し、彼の地に至り其の状態を察するに、
軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり。

然るに戦争に及ばざるは、幕府の令、夷の軽蔑侮慢を甘んじ、
専ら事穏便を主とせられし故なり。
然らずんば今己に戦争に及ぶこと久しからん。

然れども往事は姑く置く。
夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一帯を請ふ等の事件、
一として許允せらるべきものなし。

夷等来春には答書を取りに来らんに、願ふ所一も許允なき時は、
彼れ豈に徒然として帰らんや。

然れば来春には必定一戦に及ぶべし。
然るに太平の気智として、戦は万代の後迄もなきことの様に思ふもの多し、
豈に嘆ずべきの甚しきに非ずや。

今謹んで案ずるに、来春迄僅かに五六月の間なれば、此の際に乗じ嘗胆座薪の思ひをなし、
君臣上下一体と成りて備へをなすに非ずんば、我が太平連綿の余を以て
彼の百練千磨の夷と戦ふこと難かるべし。

若し然らずして安然日を渉る時は、追ふべからざるの悔に及ぶべくと、
窃かに国家の為め痛心し奉るなり。

故に忌諱を憚らず、妄言の罪を避けず、当今の急務を論列するなり。

              ・・・

大義

天下は天朝の天下にして、乃ち天下の天下なり、幕府の私有に非ず。
と断じ、外夷の侮りに対しては、幕府が率先して諸大名を率いて当たり
天皇の御心を安んずることが大義だということ。

              ・・・

聴政

藩主が自ら政務に精励し、臣下を交え、衆議の帰一の所を用ふべしということ。

              ・・・

納諫

臣下の意見を聞き、諫言を採用すること。

              ・・・

内臣を飭しめ、外臣と親しむ

藩主の側近くに仕える者と、そうでない者とが反目することは国家の一大患であり、
内外臣一致が急務であること。

              ・・・

四目を明にし、四聡を達す

自分の周囲をよく見、周辺の声をよく聞くことが為政者には欠かせない要件であること。

              ・・・

砲銃

大砲・小銃ともに西洋のものを採用し、隊の編成も西洋にならい毎日訓練すること。

              ・・・

船艦

船艦についても西洋にならうべきであり、
オランダ人を介して購入するか、または国内で建造するかのいずれかの方法で
諸藩が協力して充実すべきこと。

              ・・・

馬法

戦における騎兵の価値は大きい。
従って騎馬の訓練を急ぐ必要がある。

              ・・・

至誠

天道も君道も「誠」の一字に要約される。
誠は「実」「一」「久」の三義をもつもので、右に述べた八項目を
この誠でもって貫くことが最重要であること。

            <感謝合掌 平成29年1月24日 頓首再拝>

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