伝統板・第二

2546641
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

臨死体験~エベン・アレグザンダー博士の場合 - 夕刻版

2016/10/20 (Thu) 19:10:20

このスレッドでは、アメリカ人の脳神経外科医エベン・アレグザンダー博士による
臨死体験の情報について紹介してまいります。

               ・・・

(お忙しい方用のyoutube)
「プルーフ・オブ・へブン」を超えた対話DVD 予告
  → https://www.youtube.com/watch?v=AK-JRfkWwfc


(奇跡体験 アンビリバボー)
独占取材!脳外科権威が発表★死後の世界はあった
  → http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/131128_1.html


(40分間お付き合い出来る方用のyoutube)
【衝撃真実】死後の世界は100%存在した!【奇跡と感動】
  → https://www.youtube.com/watch?v=8keDBHbe8cI


・・・

<関連Web>


(1)“本流宣言”掲示板「ヒア アフター(来世・あの世) (7227)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1711


(2)光明掲示板・第一「臨死体験 (7380)」~(メル・ギル氏、川津 祐介氏)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1374


(3)光明掲示板・第二「臨死体験 ~ アニータ・ムアジャーニさんの場合」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1821


(4)光明掲示板・第三「臨死体験 ~ アニータ・ムアジャーニさんの場合」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=76


(5)光明掲示板・第三「臨死体験~鈴木秀子さんの場合」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=361


(6)伝統板・第二「臨死体験~ベティ・イーデイさんの場合」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6476705


(7)伝統板・第二「臨死体験~木内 鶴彦さんの場合」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6635843


(8)伝統板・第二「臨死体験~9つの証拠」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6741355


(9)伝統板・第二「臨死体験~メラン・トーマス・ベネディクトさんの場合」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6862043


(10)伝統板・第二「臨死体験~コルトン君の場合 」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6961081


           <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

意識は脳の産物か - 伝統

2016/10/24 (Mon) 19:26:08


       *Web: vqpv(ぱるばか日誌)<2014.09.06 Saturday>より

面白い本を読んだ。
エベン・アレグザンダーの『プルーフ・オブ・ヘヴン』。

原書は2012年に出版され、全米200万部突破のベストセラーだという。

神経外科医である著者が自身の臨死体験を経て、
「意識は脳の産物ではない」という結論に達したという本。
 
キミたちだって気になるだろう。
自分は果たして脳でしかないのか。
だったら死んだらおしまい。
天国や地獄、生まれ変わりなんて無い。

 
臨死体験というのは、
「意識は脳の産物ではない」ことの、ひとつの証左とみなされる。
 
この不可思議な体験については、1年前にご紹介したヤバい本
『死と神秘と夢のボーダーランド』の中で、
やはり脳神経学者のケヴィン・ネルソンが論じている。
 
彼いはく、臨死体験は意識にレム睡眠が侵入するということで説明できる。
つまり脳内の現象なのだ。やはりキミは脳の産物にほかならないというわけ。

 
著者アレグザンダーの臨死状態は、かなり完璧なものだった。
すなわち、大脳の新皮質がまったく機能しなくなったわけだ。
新皮質が機能しなければ、知覚や認識などの、いわゆる知性的な精神活動は存在しない。
 
著者はやはりネルソンの『ボーダーランド』を読んでいて、
自分の体験がネルソン説で説明できるか検討している。

その結果、「レム侵入を考えるためには大脳の新皮質が機能している必要がある」
ということで、自分の体験はそれにあてはまらないと言う。

 
アレグザンダーはそれ以外に、意識を脳の活動に還元する様々な脳神経学の仮説を
検討するが、そのどれにも自分の体験は適用できないという見解である。
 
ということは、脳以前にキミは存在するということだ。

いうなれば、西洋で延々と繰り広げられてきた唯物論vs唯心論の戦いの現代版だな。
 
近年は急速に発達した脳神経学を巻き込んだ論争となっている。
どちらかというと唯物側の有利かと思われたが、
こういう本が出てまたわからなくなってきた。

さて唯物側はどう反応するのか。

 
著者は米ヴァージニア州在住。
ヴァージニアといえば、オレも訪ねたモンロー研究所がある。
 
著者いはく、向こうの世界を覗くには、なにも瀕死にならずとも、
瞑想や祈りに親しめば良いという。
中でもモンロー研の瞑想法が彼にとって一番役に立ったそうだ。

臨死体験後、モンロー研で2011年に入門コースと上級コースを受講したらしい。

ともあれ、唯物側の医学者が奇跡的な体験を経て唯心側に回心するというお話は、
読み物としても面白い。

http://parpar.jugem.jp/?eid=272


           <感謝合掌 平成28年10月24日 頓首再拝>

「死後の世界はある!?」と 脳神経外科権威が主張!! - 伝統

2016/10/26 (Wed) 20:04:48


       *Web:nanaのほんわか村(2012年 10月 17日)より

人は死んだらどうなってしまうのだろうか? 
このことに明確に答えられる人はいない。

なぜなら、仮に臨死体験をしたとしても、
死後の世界で見たもの、感じたものを誰にも証明することはできないからだ。

最近になって、とある脳神経外科の権威の主張に世界が衝撃を受けている。

長らく来世(死後の世界)を否定してきたエベン・アレキサンダー博士は、
過去に7日間こん睡状態に陥った経験を持つ。

彼はこの経験から「死後の世界はある」と主張し、
その内容が米有力紙に掲載され世界的に注目を集めている。


《エベン・アレキサンダー博士の経験とは?》
 
エベン博士は2008年に急性細菌性髄膜炎という重い病にかかり、
脳の新皮質に深刻なダメージを受けてこん睡状態に陥った。

ハーバード大学で教育を受け、25年にわたって神経外科医として一線で活躍する彼は、
病気以前に死後の世界を否定していたのだ。
クリスチャンではあったものの、決して熱心に信仰している方ではなかった。


ところが病から復帰した後は、来世に対して肯定的な意見を持つようになった。
それは彼自身の経験によるものだった。

博士によれば、死後の世界では脳から独立した意識が
現実とは異なる世界を旅していたという。

青い目の美しい女性に出迎えられたその世界は、
大きなピンク色の雲(のようなもの)が果てしなく広がっていたという。

そして「鳥」もしくは「天使」、そのいずれの言葉でも説明し切れない存在が飛び交い、
壮麗な「音」が響きわたりまるで雨のように降り注いでいたそうだ。
そしてその「音」に触れることさえできたとのこと。

これらは、博士にとって実生活よりもリアルな体験であり、
自身の結婚や子供の出産に匹敵するインパクトを受けたという。

肉体が正常に機能をしていないながらも、
視覚・聴覚・嗅覚をともなう経験であり、
言葉ですべてを説明できないと話している。

脳科学の権威の発言に、世界中のインターネットユーザーは衝撃を受けているようだ。
はたして死後の世界は本当に存在するのだろうか? 
あなたはどのようj考えるだろうか。(source:rocketnews2012.10.17)

 
    (http://nana1029.exblog.jp/16608651/


           <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

脳神経外科医の臨死体験 - 伝統

2016/10/27 (Thu) 19:14:50

         *『プルーフ・オブ・へブン』エベン・アレグザンダー著
           プロローグより抜粋 (P18~21)

(1)私は脳神経外科の医師である。
   神経外科医をやってきた私は、さまざまな不思議な体験を聞かされてきた。
   その多くはいったん心停止を起こした人の話だった。

   それ(臨死体験)はすばらしい体験である。
   それはそうなのだが、そのような話はまったくの幻想でしかないと
   私は考えていた。

   自分の脳が故障するまでの私はそのように考え、話していた。

   (脳という装置が機能しているから生じた現象、と捉えていた。)

(2)これまでに報告されている臨死体験は、一定期間の心停止によって
   生じたケースが多い。そうしたケースでは新皮質も一時的に停止するが、
   およそ4分以内に蘇生法を施すことにより、蘇生している。

   しかし、自分の脳の故障の場合は、働きの低下ではなく、
   まったく機能しない状態にあった。(7日間の昏睡)

   私のケース(臨死体験)は、脳の新皮質はまったく無関係だった。
   そこで体験した意識の現実世界は、脳の物理的な働きから
   完全に切り離されていたのである。

(3)この体験に示唆されるものは、言葉ではとうてい表現しきれないほど、
   とてつもない内容である。

   脳や肉体が死んでしまっても意識は消滅せず、
   人間は死を超えて経験を継続していくことを、
   私の臨死体験は教えてくれた。

(4)またそのような意識には、個々人とこの宇宙にあるもの全体に注意を配り、
   行方を見守り続ける神の眼差しが注がれているという、
   さらに大切なことを教えられた。

(5)私が訪れた場所は、現実のものだった。
   日々の暮らしと営むこちらの世界がまったくの幻想と思えるほど、
   そこには現実味があった。

(6)この世の人生は決して無意味ではない。
   しかしこちら側にいるわれわれは、少なくとも
   大部分においてそのことに気づくことができずにいる。

   昏睡中の私が体験したことは、間違いなくきわめて大切な内容である。
   しかし通常の理解にはなじまない話であるため、
   それを伝えるのは容易なことではない。

(7)だが、脳や肉体の死が命の終わりを意味しないことを知る幸運に
   恵まれたことで、肉体とこの世界を超えて見てきたものを
   伝えなくてはならない、それが自分の責務であると考えている。

   これからお伝えするのは、ほかのどんな話より大切な話である。

   そして真理にほかならない。

           <感謝合掌 平成28年10月27日 頓首再拝>

地下世界 - 伝統

2016/11/04 (Fri) 18:35:44

第1章~第4章の要点の抽出

2008年11月10日の早朝、エベンは自宅で目覚め背中に痛みを感じます。
インフルエンザと思いお風呂に入って体を温めますが症状は悪化し
激しい痙攣発作を起こし病院に運ばれます。

救急搬送された病院では患者が仕事をともにする脳神経外科医エベンであることを知り
専門スタッフが集められ、検査の結果大人には1000万人に1人未満の罹患と
非常に珍しい大腸菌性髄膜炎であることが判り抗生物質による治療が行われます。

しかしエベンは昏睡状態になり治療の効果も上がらないまま7日間眠り続けます。
本書はその7日間の昏睡状態の中で彼が体験した世界と覚醒後家族や周りの人たちから
聞いたことを交互に織り交ぜて時系列的に書いています。




第5章 地下世界(P45~54)より

そこは暗い場所だった。
闇でありながら、視界が効く暗がり-泥の中に沈んでいながら、
泥を通してものが見える様な暗がりだった。

それとも汚らしいゼリーの中と言った方がいいかもしれない。
透けてはいるが、すべてがどんよりとぼやけていて、
閉じ込められている息苦しさを憶えた。

意識もあった。
だがそれは、記憶も自意識も持たない意識だった。

何が起きているのかわかっているのだが、
それを見ている自分がそこのだれなのかがわからない
・・・夢の中のそんな状態に似ていた。

音も聞こえていた。
どこか遠いところから響いてくる、リズミカルな深い音。
音が響くたびに、ずしんと力強い振動が伝わってきた。

心臓の鼓動にたとえることができるだろうか。
それも近いが、それより重苦しい、機械的な音だった。

金属がぶつかりあってできるような、地底に住む巨人の鍛冶屋が
遠くのどこかでハンマーを打ち下ろしているような音。

渾身の力でハンマーが振り下ろされると、地面なのか、泥なのか、足なのか、
何かは良く解らない全体にその振動が響き渡ってた。

私には体はなかった。

肉体の自覚がないまま、ただそこに”いるだけ”だった。
その場所をその時点で表現するとすれば、”始原的”あるいは”原初的”
といった言葉が当てはまっただろう。

しかしその場の私にはそんな言葉は思い浮かばなかった。
いや正確に言えば、そこにいた私自身は言葉そのものを持ち合わせていなかった。

ここに書き記しているのは、
こちらの世界へ戻ってきてから記憶を辿ってい書き始めた言葉である。

言葉、感情、論理。そこではこれらがすべて消え去ってたいた。
私はまるで生命の原初の段階、私の脳を乗っ取りシャットダウンさせてしまった
原始細菌の状態にまで逆行したかのようだった。

(中略)

(その後)周囲にあるものが目に見えるというより、蝕知するものになってきた。
うようよとミミズのように這いずっていく爬虫類のザラザラした皮、
つるつるした皮膚が触れていくのが感じられた。

臭いが漂っていることにも気がついた。反吐のような臭いだった。
生き物の死を連想させられた。

認識がいよいよ研ぎ澄まされてくる一方で、私はますますパニックになる
寸前まで追い詰められた。

自分が何であれ、ここにいるわけにはいかない。
ここを出なくてはならない。

出ると言っても、どこへ?

そのときだった。
それを自問していると、上方の暗がりから何かの姿が現れた。
冷たさのない、暗さと死とも無縁の、それらの正反対を表わすもの。

私が一生かけても説明しても、こちらへ近づいてきた存在の美しさを
表現することはかなわないだろう。

だが、それを試みてみよう。

           <感謝合掌 平成28年11月4日 頓首再拝>

回転する光体の調べとゲートウェイの世界 - 伝統

2016/11/12 (Sat) 17:27:07

回転する光体の調べとゲートウェイの世界(P55~59)より

闇の中から何かの姿が現れた。
ゆったり回転しながら、金色がかった絹糸のような白い光を燦々と放射している。
光に照らし出され、周りの闇が崩壊し始めた。

初めて聞く旋律も聞こえてきた。
それは”生きた”音色だった。
そんな音楽もかなわないほど豊かで美しい、妙なる調べ。

純白にきらめく光が下へ降りてくるにつれて、調べはいっそう強くなり、
永劫にわたって聞き続けた気がする単調で無機質な音がかき消されていった。

光はぐんぐんこちらへ迫ってくる。
回転しながら放射されるまぶしい光の筋には、
うっすらと金色がさして見えた。

やがて光の真ん中に、別の何かが出現してきた。
それを見極めよと、意識を集中させる。
そこに見えたのの、開いたすき間だった。

ゆるゆると回転している光そのものを通して、
私はその”向こう側”を見ていたのだ。

そのことに気づいたとたんに、私は上昇し始めた。猛烈なスピードだった。
ヒュッと音を立てて開口部をくぐり抜けると、
見たこともない別世界が広がっていた。

まぶしく輝き、活気に満ちて、うっとりさせられる。
目が眩むような・・・どれほど形容詞を連ねてみても、
その情景と感動はとても表現しきれない。

そこで自分が誕生しつつあるように感じられた。
生まれ変わるのでも、生き返るのでもない、
ただ生れ出ている、という感覚だった。


下には田園風景が広がっていた。
青々としたみずみずしい緑の・・・地面。
地面ではあったが、同時にそれは地面ではなかった。

たとえて言えば、両親に連れられて、幼い時代を過ごした場所を
訪れた感じに似ていた。未知の場所、それとも忘れていたはずの場所なのだが、
見回すと妙に心惹かれるものがある。

深い部分のどこかがいまでもそこを忘れておらず、
戻ってきたことを喜んでいる。
そんな場所だった。


私は木や野原、小川や滝を見下ろしながら飛んでいた。
あちこちに人の姿も見えた。
楽しそうに遊んでいる子どもたちの姿もあった。

みんなで輪になって歌い、踊っている。
犬がその足元で嬉しそうに跳ね回っている。

人々は簡素だが優美な服をまとい、
服は周囲の緑や花々の潤いを映し出す色合いをしていた。

ただ美しい。夢のような世界・・・

だが、それは夢ではなかった。

自分のいる場所も自分は何者なのかもわからなかったが、
ひとつだけはっきりしていたのは、突然身を置くことになった
その場所がまぎれもない現実であることだった。

”現実(リアル)”という抽象的な単語では、
説明しようとしている内容を伝えることができないのをもどかしく思う。

夏のある日に映画を観に行った子どもを想像していただきたい。
映画は面白く、夢中に観続けた。
上映が終わり映画館の外に出ると、明るい陽射しのほっとする世界に引き戻される。

太陽の熱や風の心地よさを肌で感じながら、こんなに気持ちのいい日を
薄暗いところに籠って過ごしたとは、なんてもったいないことをしてしまったの
だろう、と思ってしまう。

その気持ちを一千倍にしたものと考えてもらえばいいだろう。
だがそれでも、私がそこで感じた現実感にはとうてい及ばない。


どれほどの時間をそうして飛び続けたのかはわからない
(そこでの時間はこちらの世界で体験している線的な時間感覚とは異なっていた。
そのほかの側面もそうなのだが、それを説明するのは絶望的に難しい)。

しかしやがて、自分は一人でそこにいるのではないことに気がついた。


そばにだれかがいるのがわかった。
顔を見ると、それは深いブルーの目をした頬骨の高い、美しい女性だった。
眼下の村人たちに似た服を着て、金茶の巻き毛が可憐な輪郭を縁どっていた。


私もその女性も、生き生きとした絶妙な色で彩られた、複雑な模様の平らなもの
―― 蝶の羽根に乗っていたのであった。四方にも無数の蝶が舞い踊っていた。

蝶は波のように群れをなし、ひらひらと下方の緑の中に消えては、
また上空へ舞い上がってきた。
一羽で飛ぶ蝶はおらず、色彩と生命が綾なす流れがひとつになって舞い飛んでいた。

私は隣の女性と近づいたりはなれたりしながら、花をつけた木々を抜けて飛んでいた。
われわれが近づくと枝のつぼみが次々にほころび、花が開いた。

連れの女性が着ていた服は素朴だったが、淡いブルー、藍色、オレンジかかった桜色を
した色合いには、周囲と同じ溢れるような生命の躍動があった。

目には、わずかなあいだ目を合わせただけでそれまであったことを忘れ、
生きている喜びを感じさせる力があった。

ロマンチックな眼差しでも友情の眼差しでもなく、地上で知られている愛のかたちを
超えた目、そうした愛をすべて包み込みそれを超えたところにある、
清らかな目だった。

女の人は言葉を介さずに私に語りかけてきた。
メッセージはその風が吹き抜けるようにして伝わり、
真実を伝えていることが瞬時にわかった。

自分のいる世界が実体のないはかない幻想などではなく、
現実であることがわかったのと同じようにして、それがわかったのだ。


メッセージは3つの部分で構成されていた。
それを地上の言葉で言い換えれば、このようになる。

「あなたは永遠に深く愛されています」

「恐れることは何もありません」

「あなたのすることには、ひとつも間違いはありません」

それを聞き、たとえようのない安心感が嵐のように渦を巻いて押し寄せてきた。
生れ落ちたときから取り組み続けていたよくわからないゲームのルールを、
初めて教えてもらえたかのようだった。


「ここでいろいろなことを見せてあげましょう」

言葉を使わず、まっすぐに概念の本質を伝えるやり方でその人は云った」。

「いずれは帰ってもらいますけれど」

それについて、私の疑問はひとつだった。

どこへ帰るというのか?



これを書いているのがどのような人間であるかを、思い出していただきたい。
私は情緒的な感傷家タイプではない。

死がどういうものかを知っている。
笑ったり冗談を言ったりしていた人が、身体の機能を維持しようと
何時間も闘った末に、手術台で息を引き取ったときに味わう苦渋も知っている。

苦しみのかたちも知っている。
いなくなってしまうと思ってもいなかった相手を失った人の、
言葉もかけられない悲嘆の感情を知っている。

自分についても承知している。
物理学の専門家でないものの、多少の知識は持ち合わせている。
妄想と現実の違いはわきまえているつもりだ。

そんな私が、曖昧きわまりない輪郭しか描けずになんとかして
お伝えしようとしているこの話は、自分の知る限りもっとも確かな
正真正銘の現実であることを、承知しているのである。

現実性という観点からそれに匹敵し得る出来事といえば、
次に記す展開がその最たるものだった。

           <感謝合掌 平成28年11月12日 頓首再拝>

コアの世界①~その1 - 伝統

2016/11/19 (Sat) 19:31:32

コアの世界①(P63~69)~その1

そこには一面の雲が浮かんでいた。
吸い込まれそうな濃紺の空をバックに、薄桃色の見上げるばかりの巨大な雲が
くっきりとしたコントラストを際立たせて、そこここに浮かんでいる場所だった。

雲の上 ―― 上空のはるかな高みでは、キラキラ輝く透明の光の球が、弓なりに
弧を描いて空を横切りながら飛び交っていた。光の球が通り過ぎた後には、
細い光の帯が吹き流しのように長い尾を引いていた。

あれは鳥だろうか。それとも天使? 
これはどちらも、後からそのときの情景を思い出して書き始めた言葉である。

しかしあの存在を言い表わす適切な表現とは、とても言えそうにない。
そこで目にした存在は、この地上で知られているどんなものにも似ていなかった
からだ。もっと進歩したもの、もっと高等な存在だった。

上空からは、聖歌のような大音響が響き渡ってきた。
これはあの宙を飛ぶ存在たちが奏でている音なのだろうか。

そのときは不思議に思ったが、後日それを考えていたとき、あれは
あの存在たちの喜びの表現だったのだと気がついた。

舞い飛ぶ存在たちの歓喜に溢れこぼれるほどに大きく、ああして
”音楽にせずにはいられない”ほどのものだったのだ。

音は触れることができそうなほど、ほとんど固形のようで、
肌に感じられるのに濡れない雨のようだった。


そこで見えるものと聞こえるものに区別がなかった。
上空で銀色にきらめいている存在の美しさを”聞き取る”ことも、
その輝く存在たちが謳(うた)いあげている喜びの炸裂を”見て取る”こともできた。

その世界では、なにか神秘的なかたちで自分自身がその中に溶け込んで
しまわない限り、何も見えず、何も聞こえないように思われた。


現在の視点に立って考えれば、あの世界ではどんなものであれ、
”対象を見る”ことはできなかったのだろう。
そこには格助詞の”を”が表わす分離の概念が存在していなかったからである。

すべてをはっきりと識別することができたが、同時にすべてが周囲の一部でもあった。
ペルシャ絨毯の複雑に折り重なった絵模様のように、
あるいは、蝶の羽の模様のように。

さわやかな風が吹いた。
木の葉を揺らし、天のせせらぎながらさやさやと駆け抜ける、
最高に気持ちのいい夏の日に吹き渡る清風を思わせる風だった。

すがすがしいその風が吹き抜けると、あたりが一変し、
波動がさらに一段上のオクターブに変容した。

こちらの世界で考えられているような言語機能は働いていなかったが、
私は言葉を用いずにその風に対し、またその背後で働いていると感じられた
神聖な存在に対して問いかけた。

私はだれなのですか?

なぜ私はここにいるのですか?

ひとつ無言の質問をするたびに、電光石火の速さで答えが返ってきた。
答えは光と色と美が渾然一体となって爆発し、怒涛のように押し寄せる
かたちで返された。

私はその凄まじさに圧倒されて口をつぐしかなかったが、大切な点は、
私の質問に対して確かに答えが”返された”ことだった。
答えは言葉を介さずに、思考が直接私になだれ込んできた。

だが思考と言っても、それは地上で体験する頭の思考ではなかった。
曖昧ではなく、筋が通り、概念的ではなかった。

火よりも熱く、水よりも濡れているような、間に何も介在しない
しっかりしたものだった。

答えを受けると同時に、ふつうであれば理解するのに何年も
かかりそうな概念がすんなりと腑に落ちた。

           <感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>

コアの世界①(P63~69)~その2 - 伝統

2016/11/25 (Fri) 18:43:19


さらに先へ進んでいいくと、広大な虚空の中に入っていった。
果てしない広がりが続くまったくの闇だったが、そこでは限りない安らぎも感じられた。
漆黒の闇であるにもかかわらず、光も満ち溢れていた。

すぐ近くにいる気配のする光の球体、オーブ(玉響<たまゆら>といも言う)の
ひとつが放射している光らしかった。オーブはあの輝く存在の天使たちが奏でていた
調べと同じように、ほとんど固形のようで、生きていた。


奇妙なことだが、私の置かれた状況は、子宮の中の胎児に似ていた。
子宮の胎児はプラセンタと呼ばれるものを言わない相棒とつながり、
そこから栄養を受け取って、あらゆるところに存在していながら
姿は見えない母親との関係を仲介してもらっている。

私の場合は胎児の“母親”に相当するものが、宇宙とそこにあるもの全体の母体、
言い換えれば神や創造主、根源などと呼ばれる存在だった。
神の存在はきわめて間近に感じられ、自分との間にまったく距離がないように思えた。

しかしそれと同時に神が無限に広大であることがわかり、
それに対して自分がいかに比べ物にならないほどちっぽけであるかを思いしらされた。

昏睡から覚めた後で記憶を書き留めながら、
私は神を指すのに“オーム”という代名詞をよく使っていた。
そこで本書でもときどきこの言葉を用いることにしたい。

“オーム”というのは、無私の愛を注ぎ、全知で全能である神、
言葉をもってしては説明のできない存在につながる響きとして記憶していた音だったのだ。

オームと自分を隔てているものは、純粋な、無限の広大さなのだ。
オ―ブがそばについているのはそのためなのだと、私は気づいた。

完全な理解を得られたとは言えないが、オ―ブは自分とその自分を包みこんでいる
途方もない存在とを取り結ぶ、ある種の“通訳者”であることがはっきりとわかった。

そこでは、自分がもっと大きな世界に生まれ出でようとしているように感じられた。
宇宙そのものが巨大な子宮になっていて、オーブがその行程をたどる私の案内役を
務めているように思われた。

(オーブにはなんとなく、あの蝶の羽根に乗った女性が関係しているという
気がした。実際に、オーブはあの女性だった)。

           <感謝合掌 平成28年11月25日 頓首再拝>

コアの世界①(P63~69)~その3の場合 - 伝統

2016/11/30 (Wed) 18:15:03


こちらの世界に戻ってから、17世紀イギリスのキリスト教の抒情詩人、
ヘンリー・ヴォーンが書いた一節に出会った。

そこにはかなりの程度正確に、神聖な存在が住まう
広大無辺の漆黒のコアの世界が次のように表現されている。

「神の中には、深々とした輝ける闇があるという人もある」

まさにそのとおりの場所だった。
漆黒の闇でありながら、光が溢れていたのだ。


そこにいる間は、なおも質問と回答のやり取りが続いた。
答えは言語と呼ばれている方法では返されなかったが、存在の「声」は温かく
 ―― 奇妙に聞こえるかもしれないが ―― 親身だった。

存在には人間への理解があり、人間と同じ性質も持ち合わせていたが、
その度合いが桁違いに広く深かった。
私のことも知り尽くしていた。

私が人間特有の一面と考えてきたもの ―― 温かさ、哀れみ、哀愁、
さらには皮肉やユーモアといったもののすべてを溢れんばかりに備えていた。


オームはオーブを通して、私に語りかけた。  

宇宙はひとつではない。
お前の理解を超えるほど数多い宇宙がある。
しかしすべての宇宙がその中心に愛を持っている。

どの宇宙にも邪悪は存在しているが、ごくわずかでしかない。
邪悪が存在しなければ、自由意志を持つことができない。
邪悪はそのためにこそ必要とされてきた。

自由意志を持つことなしには、発展が得られない。
進歩がなくなり、神が人類に対して願い続けてきたことを、
人類には達成することができなくなる。

世俗世界の邪悪は醜悪で強力ではあるが、全体から見れば愛が圧倒的に優勢であり、
最終的に勝利を収めるのは愛である。声はそう語った。


私はその場所で、無数の宇宙に豊かに生命が息づいているのを見た。
その中には人類よりはるかに進歩した知性を備えるものたちもいた。
数限りない高次の次元があるあることも知った。

高次の次元は、その中へ入り、直接体験するかたちでしか
知る方法がないこともわかった。
低次の次元空間からは、高次元世界は知ることも理解することもできないのだ。

因果の関係は高次元にも存在しているが、この世界の概念とは異なっている。
またこちらの世界で体験されている時間空間は、いくつもの高次元に
複雑なかたちで密接に織り込まれている。

言い換えれば、高次元の世界はこの世界と完全に隔絶しているわけではない。
あらゆる世界がそれらすべてを包み込む神聖な”真理”の一部分を構成しているのである。
そして高次の世界からは、こちらの世界の時間や場所に自由につながることができるのだ。

           <感謝合掌 平成28年11月30日 頓首再拝>

コアの世界①(P63~69)~その4 - 伝統

2016/12/05 (Mon) 20:10:09


そこで学んだことがらを解き明かす作業は、その先一生に加えてさらに時間を
かけなくてはならない大仕事になるだろう。

私に与えられた知識は、数学や歴史の原理や定理を”学習”する性質のものでは
なかったからだ。誘導されて学び取るという手順を踏まえずに、そこではじかに
洞察を得ることができた。

記憶する手順を介さずに、瞬時に永久に消えない知識を授かった。
得られた知識は通常のように色褪せることもなかった。
私はいまに至るまで、そのすべてを保持し続けている。
学業を通じて身につけてきた長年の知識より、それははるかに明瞭な知識である。

しかし、そうは言っても、その知識をありのままに引き出すことができるわけではない。
世俗世界に戻ってきたいまは、
脳や肉体による物理的な制約を経由しなければならないからだ。

それでも知識はそこにある。
自分という存在の隅々に植えつけられていることが感じられる。

昔ながらのやり方で長年の努力によって知識を蓄え、理解することに務めてきた
私のような人間にとっては、それを超えるレベルのこういう学習方法があることが
わかっただけでも、これから何十年もそれについて考察する楽しみを
授けてもらえたようなものと言える。

           <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>

コアの世界②(P93~99) - 伝統

2016/12/09 (Fri) 17:42:14


何かに引っ張られているような気がした。
腕をつかんで引き寄せるというのではなく、
もっと微かな、物理的でない感覚だった。
太陽が雲に隠れたはずみに、急に気分が変わるときのような。

私はコアの世界を離れ、来た道を戻っていた。

眼下には大地が広がり、コアの輝く闇が絢爛(けんらん)とした緑に溶けていった。
下方には村の人々、木々やきらめく小川や滝が見え、
頭上には弧を描いて飛んでいるあの天使に似た存在たちが見えた。

連れの女性もそこにいた。
コアへの旅の間も、光の球体のオーブになってずっと私のそばにいたのだ。
いまは再び人間の姿をしていた。
前に見たのと同じ、美しい服をまとっている。

知らない大都会で迷子になっていた子どもがいつもの懐かしい顔を見つけた
ときのように、彼女に会えたことが嬉しかった。
彼女の存在に感謝した。

「いろいろなものを見せてあげます。けれどもいずれは、帰ってもらいます」
コアの闇に入っていくときに、言葉を使わずに伝えられてきたメッセージが思い出された。
そして帰るということの意味が、そのときになって理解できた。

それは旅の出発地点の”ミミズの目”の世界を指していたのだ。

           <感謝合掌 平成28年12月9日 頓首再拝>

コアの世界②~その2 - 伝統

2016/12/21 (Wed) 17:47:32


再びその暗がりに降りていきながら、高次の場所に何があるかを承知していた私は、
もう以前のように狼狽することはなかった。

”ゲートウェイ”の世界の荘厳な調べが消えてゆき、
鼓動に似た低次元の音がそれに代わっても、大人になると以前は恐ろしかった場所が
何でもなくなるのと同じように、そこにあるものを違う目で見ることができた。

泥。垂れこめた闇。浮かんでは消えていく無数の顔。
上から垂れ下がる動脈に似た木の根。
そうしたものが、もうなんの恐怖も呼び起こさなかった。

自分はその場所には所属しておらず、ただ訪れているだけなのだと
 ―― 言葉には頼らずすべてがわかる方法で ―― わかったからだった。


それにしても、”なぜ”再びここへやってきたのだろう?

疑問を抱くと、ただちに答えが返ってきた。
まぶしい天上世界で教えられたときと同じ、
それは言語によらない答えだった。

ここで自分が体験していることというのは、ある種の見学旅行に違いない
という意識が浮かんできたのだ。
存在の目には見えない霊的な側面を壮大に概観する見学旅行。
すべてをいろいろなレベルで見てまわる、よくできた見学旅行だった。

その低次の領域では。地上で知られるそれとは異なる
脈絡のない時間感覚が存続していた。

それえがどんな感覚かを知りたければ、ほんの一瞬でしかないのだが、
夢の中での時間を考えていただきたい。

夢では、”先に起きたこと”と、”後に起きたこと”が判然としない。
まだ体験していないのに、次に起こることがわかったりもする。
向こう側での”時間”は、それに似たものだった。

ただし最初の段階を別にすれば、私がそこで体験した内容には。
こちらの世界で見る夢のもやもやした不透明さはなかったことを
強調しておきたい。

どれほどの時間、私はそこにいたのだろう。わからない。
時間をはかる尺度がないのだ。

だが再び低次の世界に戻ってから、自分はその場所に囚われているわけではなく、
やり方次第で展開をコントロールすることができるとわかるまで、
かなりの時間がかかったことを覚えている。

真剣に努力すれば、それよりも高次の領域へ戻ることは可能だった。
それがわかったきっかけは、ふとあの”回転する存在の調べ”を聞きたいと
思ったことだった。

最初は旋律が思いさせなかったが、やがてその荘厳な音色と、
回転しながらそれを奏でていた光の珠が意識に戻ってきた。
暗がりを貫いてその調べが届くと、私はどんよりしたその場所から
上昇し始めたのだ。

           <感謝合掌 平成28年12月21日 頓首再拝>

コアの世界②~その3 - 伝統

2017/02/04 (Sat) 18:57:14


唯一のもっとも大切なことを教えられた。
それは3つの部分からなり、それはこのような意味だった。

「あなたは愛され、大切にされています」
「恐れるようなことは何もありません」
「あなたのすることには、ひとつも間違いがありません」

これを一文に要約すれば、

「あなたは愛されています」

ということになる。さらに要約すれば単なる

「愛」

という一語になる。

あらゆることの基本は、愛なのだ。

それは抽象的な愛ではなく、日常的な愛を指している。

愛がもっとも純粋で力強いかたちをとれば、妬みや利己的な感情のない
”無私の愛”になる。

これまでとこれから存在するものすべての中心には無私の愛が息づいている
ことこそが、理解を超えるほどにすばらしい、真実の真実なのだ。


このようなことを言うのは、あまり科学的な洞察ではないと思う人もいるだろう。
だが私はそうは考えていない。

その場所を訪れてきた私は、これこそがこの宇宙でもっとも重要な感情的真理であり、
同時にもっとも重要な科学的真実でもあることを確信している。

(中略)

それは深い部分では、だれもが承知している愛である。
そのすばらしい王国とのつながりを取り戻す力は、どんな人でも備わっている。
それができることを忘れているだけなのだ。

脳に支配された物理的な存在でいる間は、背後の広大無辺さを脳が遮断してしまう。

脳のフィルターを通して見えるものしか、われわれは見えていない。
特に言語や論理的思考をつかさどる左脳や、分別や自我の意識を抱かせる部分は、
高次元の智識や体験を得る上での妨げになっている。

(中略)

この本を上梓する目的は、古代からの最終的に基本的な事実を広く知って
もらうことにある。

そこで体験した無私の愛と無条件の受容は、唯一無二の無上の発見だった。

自分に託された大切な任務は
このきわめて基本的なメッセージを伝えることであると、痛切に思うのである。

(以上で、コアの世界②の紹介を終えます)


           <感謝合掌 平成29年2月4日 頓首再拝>

エベン・アレグザンダー著『プルーフ・オブ・へブン』 - 伝統

2017/07/16 (Sun) 19:43:30


         *Web:「バーソは自由に」( 2015/07/04 )より


《臨死体験は脳の幻覚ではないことを脳外科の権威が経験した。》

エベン・アレグザンダー博士は第一線の米国の脳神経外科医。医師として通算25年以上の
キャリアを持つ。名門ハーバード・メディカル・スクールで15年以上教鞭をとる。
全米メディカル・スクール・ランキングの研究部門第1位。

エベン医師は54歳のとき、致死率90%の細菌性髄膜炎で七日間昏睡に陥った。
たとえ覚醒しても発症前と同じ状態に回復した症例が1例もない奇病だった。

昏睡状態の間、言語や認識などをつかさどる大脳皮質が機能しておらず、
幻覚を見ることすらできない状態だった。そのことはあらゆるデータが証明していた。

しかしその間、エベンの意識は感情的にも論理的にも働いており、自分が
「死後の世界」に移動したことと、そこで宇宙と生命の真理を得たことを記憶した。


昏睡6日目は死亡率97%。そして七日目に奇跡が起きた。
眼が開き、呼吸管を必要としなくなり、こちらの世界に戻ってきたのだ。


《エベン医師の行った世界は、荘厳な「死後の世界」だった。》

そこは光が満ち溢れる広大な虚空で、限りないやすらぎと目のくらむような生命の
躍動があった。エベンにとっては実生活よりリアルな体験だった。

神の存在が身近に感じられ、自分との間にまったく距離がないように思えた。

優しい青い眼をした見知らぬ女性に出会い、無条件の愛と受容が知らされた。

「あなたは永遠に深く愛されています」
「恐れるようなことは何もありません」
「あなたのすることにはひとつも間違いはありません」


《臨死体験中、脳が介在しないゆえ新しい知識を瞬時に得た。》

エベン医師は、以前は思ったこともない、こんな気づきを得た。

(1)人間が空間、時間、質量、エネルギーとみなしているものは、
   本質においては高次元の時空で振動する一連のエネルギーであり、
   最も深いレベルではすべてがひとつに絡み合っている。

(2)物質世界とその時空は、巧みに組み立てられた幻想であって、
   そのおおもとにあるものは、神聖なひとつの意識である。

(3)意識こそは、存在のすべてに関わる唯一の実体である。

(4)意識は脳の活動に伴う現象ではない。
   物質世界とそこで見えているものの上位にあり、
   外から物質世界を支えるそれよりはるかに豊かなものである。

(5)神は、宇宙のあらゆる粒子に内在している。

(6)神は、無限の愛、慈悲、赦し、受容であり、
   すべての有神論者、無神論者、懐疑論者、
   地上のすべての生命、全宇宙に満ちる意識を愛している存在である。

(7)人間は神聖な存在の一部であり、それは絶対に変わることがない。

(8)宇宙はひとつではなく、無限の宇宙があり、みな中心に愛を持っている。
   霊的世界は物理的に遠い所にあるのではなく、
   周波数が異なる所に存在している。

(9)地球には善と悪が混在しており、
   だから人類は自由意志の恩恵を受けられる。


《臨死体験中に出会った女性は、顔も知らなかった実の妹だった。》

臨死体験をした人の多くは、亡くなった親族や友人と出会う経験をしている。

だが、エベンは亡くなった父にも親族にも出会えず、
会えたのは、ただ見知らぬひとりの女性だけだった。
だから覚醒後はそれが心に引っ掛かっていた。

じつはエベンは養子で、病に倒れる前年、53年ぶりに実の両親に再会したのだが、
ベッツィという名の妹がいたことと、すでに他界していたことを知った。

エベンが退院してから4か月後、家族から一通の手紙が届いた。
中には妹の写真が入っていた。なぜか懐かしい顔だった。

そして、はっと気づいた。妹は間違いなく、
臨死体験中に出会った、あの優しい青い眼をした見知らぬ女性だった。


この信じがたいほどの説得力に支えられた経験により、エベンは自分が宇宙から
愛されてきたことと、宇宙に存在する人々全員が愛されていることを理解した。

そして臨死体験で見たのは実際に《死者がいる世界》だったことを確信した。

   (http://barso.blog134.fc2.com/blog-entry-220.html

           <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.