伝統板・第二

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神示とは - 伝統

2016/10/07 (Fri) 04:01:18

「「新講『甘露の法雨』解釈」~<神> 」内において
「創造神は霊媒にはかゝらぬ」の項があります。


このスレッドでは、「神示」に関する情報を紹介してまいります。


    *「光明道中記(その身まったし)」(P311)より

十月七日 黙示を受くる日

【神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで「生命」の黙示そのままが
 精神に顕れて来る状態である。           (『生命の實相』第十一巻)】

「神は霊媒にはかからぬ」と云う意味は、民間市井の巫女的現象、口寄現象、二重人格として
出て来るのは、いずれも霊示であって、その憑(かか)って来る霊魂の等級に応じて
一(ピン)から十(キリ)まであって、悉くは信ずべからずと云うことである。

国家の大事に尊き方の上に神霊来格の実例は古書にも見えていることである。

と云って普通の場合に於ては高級神霊さえも霊媒には憑らないのであるから、
(『生命の實相』霊界篇参照)霊媒的現象によって高級霊又は神が来(きた)った
と思って、思いあがってはいけないのである。

普通霊媒にかかるのは特殊の霊媒自身の守護霊か、
その辺に紆(う)路ついていた浮浪の霊の悪戯(いたずら)である。
斯くの如きものを神示だと思って有り難がっていたら必ず失敗する。

「神示」とは普通「霊示」の如く二重人格現象として、神寄せ式にはあらわれない。
それは「神格の内流」として直日霊(なおひのみたま)の啓示として、
”心が”純粋”になったとき”、内部から直接的に啓(ひら)かれて来る。

普通の人でも「良心」とはそれである。
「絶対」の直接把握だ。

私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、
直感された真理をその直後に書いたのだ。

            <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

直観は純粋であれば神示だと思っても好い - 伝統

2016/10/08 (Sat) 03:31:55


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月8日・P312)より

【神は「真如」であり此の真如より来生せし神人が「如来」である。
                            (『生命の實相』第一巻)】

「神は善である。至誠の善である」そう云うことは神示である。
その文章(かきかた)が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。

理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。
そう云うことは神想観中でなくとも普通の時にも、
パッと内部の光耀(こうよう)で判ることがある。

そこで普通の「直観」と「神示」とはどう区別すべきかなどど云うことを
色々考える人もあるらしい。
直観は純粋であれば神示だと思っても好い。併し要は純粋度の問題である。

利害関係に晦まされるに従って純粋度は減ずる。
物質ありと引っかかる程度に従って純粋度は減ずる。
五官に捉えられるに従って純粋度は減ずる。

そこで宇宙の絶対実在を悟るために、仏教では般若波羅蜜多の行があり、五蘊皆空と観じ、
色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)なしと観じ、眼耳鼻舌身意なしと観じ、
色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)なしと観じ、
眼界耳界鼻界舌界身界意識界なしと観じ、

それらを”ある”かの如く思い間違えた「無明(まよい)」も無しと観じ、
「無明」もないから「悟る」と云うことも無しと観じ、・・・斯くの如くして
一切の引っかかりを無くして初めて、「ここに彼岸あり」と悟る。

その内部的自覚は神示の一種である。

波羅蜜多とは到彼岸(はらみた)と訳されている。

            <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

真理の直接把握を「神示」と言う - 伝統

2016/10/09 (Sun) 03:29:16


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月9日・P313)より

【同じ真理も時に応じ場合に応じて相(すがた)が変る。(『生命の實相』第十一巻)】

「ここに彼岸あり」と云う文字が眼に見えても、耳に聴かされても、それが二重人格式に
他から教えられるだけで、一重式にその人の生命そのものの自覚となって来ないのは
真理の絶対把握でないから神示ではない。

それは霊示又は霊教として霊魂からの導きであることはあり得る。

併しそれは自己神格の内流ではない。
仏性の開示ではない。
波羅蜜多ではない。

「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である。

香厳和尚の撃竹(きょうちく)の公案は有名なものであるが、
師に教えられている間は、ただ師弟相対して相対的に教えられているだけで、
自己神格の内流的啓示(インスピレーション)とならなかったのである。

ところが或る日庭を清掃している時に瓦片(がへん)が飛んで竹の幹に衝突した。
その音を聴いた時に、内部からパッとその真理が啓示されて来たのである。
それは二重人格的な霊媒現象ではない。これが神格の内流である。

同じ真理でも”外”から来るのと、”内”から来るのとはそんなにも相異するのである。

”内”からのは真理の直接把握である。
真理の直接把握を「神示」と言い、二重人格的に教えられるのを霊示と言い、
霊媒現象と言うのである。

「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。

           <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>

神示と霊示 - 伝統

2016/10/30 (Sun) 04:50:42


          *「真理」第9巻生活篇(P199~200)より

世界に何らかの意味の於いて貢献した人は屹度、
単なる人間の頭脳で考えただけの仕事をした人ではないのであって、
常に霊の世界から或る種の導き又はインスピレーションを受けた人のみである。

霊の世界と云っても必ずしも霊魂の世界に限られているわけではない。

高級霊魂からの念波を啓示として感受して、
よい考えが起こることもあるが、自己の内部の霊性の囁きを感じて、
インスピレーションとして受け取る人もある。

自己の「内部の霊性」は「宇宙普遍の霊性」(神)が
自己の内に宿っているのであるから、その囁きは一種の「神示」であり、
高級霊界からの啓示は「霊示」である。


「神示」と「霊示」との区別はハッキリ区別することができない場合もあるが、
二重人格的に出て来るものは概ね霊示であり、
直観による全的把握が自己の神格の内部的啓示です。

           <感謝合掌 平成28年10月30日 頓首再拝>

神示と霊示との区別 - 伝統

2016/11/13 (Sun) 03:27:11


        *『 生長の家 』(昭和二十六年 七月号)より
         (~谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
           ”明鏡 さま”投稿記事)

霊示と言うのは、ある個性霊魂が霊媒的素質のある人にかかって来て、話し、
筆先(ふでさき)を書き霊言(れいげん)をきかせたりするのであるから、
本人の意識のほかに別人格があらわれた形で其の啓示が出て来るのである。

だからそれは二重人格式(にじゅうじんかくしき)に出て来るのである。・・・


霊示にも最高級のものから低級のものに到るまで無数の段階があるのである。

最高級の段階のものは伝える能作者(のうさしゃ)はある階級の霊魂であるが、
最高級の霊又は神(この辺になると神と最高級の霊との区別はハッキリと人間には
区別出来ぬのである)の意志を受けて、その意志を伝えるのである。・・・

かかる場合には 『 霊 』 が伝える言葉であっても神示である。


形式の問題ではなく内容の問題である。・・・

神示と霊示との区別はその文章に
内在する神韻(しんいん)と格調(かくちょう)の高さにある。
その文章と読者に及ぼす結果によって判断されるのである。


例えば 『 汝ら天地一切のものと和解せよ 』 と言う文章位(くらい)は
誰にも書けるのであるが、

しかもこの一句に触れるとき 宛(さなが)ら冷水三斗(れいすいさんと)の思いをして
愕然(がくぜん)として 過去の迷夢(めいむ)より覚(さ)むる如(ごと)き人々の多数あるは
人間業(にんげんわざ)の単なる名文では出来難(できがた)いのである。


『 果実を見てその樹(き)の善悪を知れ 』 とイエスは言ったが、

神示 か 霊示か 潜在意識の迷妄(めいもう)の産物であるかは
それに触れる人が 如何(いか)に魂を動かされるかの
結果を見て判断するほかはないのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=11 )

           <感謝合掌 平成28年11月13日 頓首再拝>

『神示』と『霊示』 - 伝統

2016/12/10 (Sat) 04:47:03


           *「百事如意」(P5~6)より

自己の宿る真理の『呼び掛け』を指して吾々は或いは『良心』と云い、
或いは『神示』というのであります。

『良心』と『神示』とは畢竟同じものの半面であって、
それは『《より》高き自我』かrなお啓示であり、自己の『真性』の啓示であり、
自己に宿る神の声であります。

『神示』は絶対性のものであって、古神道の方から云えば直霊(なほひのみたま)
の働きであり、奇魂(くしみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)、
荒魂(あらみたま)の四魂が円満に揃いて一つの統一された働きであります。


之(これ)に反して霊示と云うのは、ある霊界の棲息者からの精神波動の波及に
よって教えられるのでありますから、その霊界の指導者が、その程度まで、
自己の『神なる真性』を発現させているか、或はまだまだ其の指導者が
執着の塊であるかによって、その霊示の特徴にも価値にも千差万別があるのです。

           <感謝合掌 平成28年12月10日 頓首再拝>

『神示』は『神格の内流』 - 伝統

2016/12/27 (Tue) 04:01:23


           *「百事如意」(P6~7)より

吾々が執着を脱する程度に従って、計らい心が無くなる程度に従って、
磨きをかければかける程度に従って、内からなる多量に光を放射する
ダイヤモンドび如く、内から示されてくるものが『神示』であります。

執着の念をもって『神示』をきくが如きは自己撞着の甚だしきものであります。

吾々は其の本性に於いて神でありますから『神示』を聴くということは、
霊媒的素質の有無に拘らず、自己の執着を脱する程度に従って、
完全に出来るのであります。

『真の人間』は神である。
だから吾々が我執の皮を剥いで『真の人間』が其処に出たとき、
その思うところ、感ずるところが悉く神示であります。

大本教などでも此れを『神格の内流』と云って
霊媒の霊示とは区別しているようであります。

           <感謝合掌 平成28年12月27日 頓首再拝>

【新天新地の神示】 - 伝統

2017/01/01 (Sun) 05:05:14


見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。
人々よ、眼のおおいを取れ、

われは、新しき知恵である。
新しき生命である。
新しき宇宙である。
新しき光明である。

われ来たってこの世界は、既に変貌したのである。

既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚は滅し、病は癒え、
悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神秘を見て 人々よ  目覚めよ、
さめて わが新しき光に照らして存在の真実を見よ。

われは、存在の実相を照らし出す完成の灯台に灯を点ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。
今眼を上げて、吾が光を受けよ。
汝の悲しみは、喜びに変わるであろう。

病める者よ、今病の床より起ちて、わが生命を受けよ。
われを拒むな。われを信ぜざる者は、やむを得ぬ。
われを信ずる者は、黙座して、われを念じ、われに依り頼れ。

われ汝らに「神想観」という観行を教えたれば、それを為せ。
われに汲むものは、常に新しき力に涸れないであろう。

吾を呼ぶ者のもとに、吾れは常にありて、汝らのために、
汝らの重きくびきを軽からしめる。

なんじ一人ならば、吾れを念じて、吾れと共に二人なりと思え。
なんじら二人ならば、吾れを念じて、吾れと共に三人なりと思え。

悩める者よ、わが言葉を読めば、苦しめる魂も軽くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。
そは、われは、限りなき大愛であるからである。

汝ら事に臨んでわれを呼べば、自己の知らざる知恵の湧き出ずるに驚くであろう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫であるが助けようがないのである。
汝の心の疑いが、わが救いの波長に合わないからである。

遠くにいて救われている者もあるが、近くにいても救われぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。

もっと兄弟たちに「生長の家」を伝えよ。
神の愛は、貰い切りではならぬ。頂いたお蔭を「私」しないで、
神の人類光明化運動に協力せよ。

「生長の家の神」と仮に呼ばしてあるが、
「七つの灯台の点灯者」と呼んでもよい。
七つの教えとイスラエルの十二の分派が、わが教えで新しき生命を得るのだ。

わが教えは、どんな宗派をも排斥するような狭い宗教ではない。
教えのもとであるから宗教というのである。

(昭和六年五月六日神示)

             ・・・

【神示講義】

(1)新たに生れること

   誰でも新年といいますと、新たに生れ更(かわ)った気持がするのであります。

   新たに生れるという気持ちがするのでありますが、
   何時の間にかその新年が古年(ふるどし)になつてしまいまして、
   この年頭の新たに生れるという感激を、忘れてしまう傾きがあるのであります。

   それで私達は、この年頭に当りまして深く人間神の子の自覚を、
   潜在意識の底の底まで植えつけて、そして1年中神の子の自覚を失わない様に
   深く真理を刻みつけて置きたいと思うのであります。


(2)宗教の本質は何であるか

(3)仏陀(ほとけ)とは何であるか

(4)「七つの燈台」の意味するもの

(5)内にやどるキリスト

(6)人類光明化ということ

(7)運動の拡大につれて


このご講義の詳細については、次のWebにて学ぶことができます。

  「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱[928] 【新天新地の神示】」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=140

           <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

神示は対立を絶した内からの啓示、霊示は別人格からの意見 - 伝統

2017/01/19 (Thu) 04:07:47

           *「百事如意」(P7)より

神示は内流であって概ね直覚的にあらわれます。
霊示は「外からの放送」の感受であって、
概ね霊媒式、二重人格式にあらわれます。

神示は対立を絶した内からの啓示でありますが、
霊示は第二者、第三者などの対立せる人格からの意見であります。

神示は、我執に対して答えず、我執を捨てたとき、
おのずから現れるものでありますが、

霊示は我執にも答えてくれ、時々的中の明答を得たり、
見当違いの答えで背負い投げを喰らうこともあります。

兎も角も、霊媒によるが如く霊媒の先生に教えを乞うこともよいのでありますが、
霊媒の答えにも間違いがあります。( ⇒ この2行は省略部分があります<伝統>)

ただ間違いはないのは、吾らの「神格」又は「神性」の内流的啓示があるのみであります。
だから吾らは常に自己の「神格」の内的啓示に照らして行動するのが
好いのであります。

・・・

《一月の神示~谷口雅春先生》

1 月 6 日 ( 昭和 8 年 ) 梅(うめ)の花の神示(しんじ)

「 梅の花の開く時節(じせつ)が来たのである。・・・・・ 」


1 月 6 日 ( 昭和 21 年 ) 大和(だいわ)の国の神示

「 われ再び 大日本(だいにっぽん)天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)天皇(すめらみこと)と

云(い)う意味について語(かた)らん。・・・・・・」


1 月 11 日 ( 昭和 7 年 ) 声字(しょうじ)即(そく)実相の神示

「 吾(わ)が 第一の神殿は 既に成れり。名付けて 『 生命の實相 』 と言う。・・・・・・」


1 月 15 日 ( 昭和 6 年 ) 完成(ななつ)の燈台(とうだい)の神示

「 時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである。・・・・・・」


1 月 25 日 ( 昭和 8 年 ) 自然(じねん)流通(るつう)の神示

「 『 生長の家 』 は 奇蹟を見せるところではない。

『 生長の家 』 は 奇蹟を無(な)くするところである。・・・・・・」

(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」一月の神示 (4548)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090
  ”明鏡 さま”のお赦しをお願いいたします。)

・・・

《神示を含めた谷口雅春先生年譜一覧表(昭和4年~昭和29年)》

  → 山ちゃん1952<谷口雅春先生年譜一覧表-4>
    http://tecnopla1011.blog.jp/archives/10386052.html

  → 山ちゃん1952<谷口雅春先生年譜一覧表-5>
    http://tecnopla1011.blog.jp/archives/11516046.html

           <感謝合掌 平成29年1月19日 頓首再拝>

自己内流の神格の囁きに耳を傾ける習慣 - 伝統

2017/02/04 (Sat) 04:57:04

           *「百事如意」(P7~8)より

吾々が我執を空しくする習慣をつけ、自己内流の神格の囁きに耳を傾ける習慣を
つけますならば、次第々々にその囁きがハッキリ聞こえてくるようになるのであります。

自己内流の神格の囁きはこれを聞くだけにして、無視してしまって、
その通り行わないでおりますと、自己の神性を欺くことになりますから、
いくら耳を傾けて自己神格の啓示を聞こうとしても聞こえなくなって来ます。

だから、吾々が、自己神格の啓示を絶えず聞こうとするならば、絶えず
『内からの啓示』に順って、己を虚しうして、生活にそれを実行して行くと
云うことをしなければならないのであります。


・・・


【二月の神示】

2 月 4 日 ( 昭和 7 年 ) 自他(じた)一体(いったい)の神示

「 『 生命の實相 』 を 読んで 自分だけが 真理を悟って それで善(よ)いと
思うものは まだ ‘ 生命の実相 ’ を 悟ったものではない。
真理は 自他一体のものであるから、ひとに伝えるとき、其処(そこ)に
『 結び 』 の力が発現(はつげん)するのである。・・・・・・」



2 月 9 日 ( 昭和 7 年 ) 上求(じょうぐ)菩提(ぼだい)・下化(げけ)衆生の神示

「 実生活は 捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難(むつ)かしいのである。・・・・・・」

(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」二月の神示 (4554)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )


           <感謝合掌 平成29年2月4日 頓首再拝>

『ニセ物の自己』の啓示に従ってはならない - 伝統

2017/03/02 (Thu) 04:41:31


           *「百事如意」(P8~9)より

自己を空しくして『内からの啓示』に従い、人間の知恵才覚をもって計らわず、
何事も、その内から催して来るままに実行に推し進めて行くことにせねばならぬと
申しますと、内から不道徳な啓示が浮び上がって来た場合にも、素直にその不道徳な
行為を実行すべきかどうかと云う疑問が起こってくるかも知れませんが、
決してそんな惧(おそ)れはないのであります。

何故なら、凡そ『悪』と云い『不道徳』と云うのは『自己』が出るからであって、
自己が虚しくなっていないからであります。

自己だけを生かして他(ひと)はどうなっても構わない、自己ばかりを立てよう
立てようと思う ── これが『悪』であり『不道徳』なのでありますから、

自己を虚しく『内からの啓示』を聞く場合に『悪』や『不道徳』が
思い浮かんで来る筈はないのであります。

啓示などに頼って或る事件をどうしたら好いかと云うことを啓示に仰ぐ場合などには、
大抵『自己を虚しうする』ためではなく、『此の自己を立てるには、どうしたら好いか』
と云うような利己的なことをたずねるものですから失敗することもあり
成功することもあるのです。

若し、貴方がある問題に関し静坐し、神想観し、其の時、他(た)を押さえて
自分のみ生かすような考えが内から浮び上がって来ます場合には、それは真に
『自己神格の内流』ではない ── 

言い換えれば、神の御声ではないのであって『真の自己』の仮面を被(かぶ)れる
『ニセ物の自己』の啓示でありますから、そんな啓示に従ってはならないので
あります。



【三月の神示】

3 月 14 日 ( 昭和 7 年 ) 『 いのちのゆには 』 の神示

「 見真道場(いのちのゆには)とは 真(まこと)を見(あら)わす
斎(きよ)めの場(にわ)である。 『 真(まこと) 』 とは
『 生命の実相(まことのすがた) 』 のことである。
斎(きよ)めるとは 迷いを除(のぞ)くことである。・・・・・」

            ・・・

3 月 15 日 ( 昭和 7 年 ) 使命(しめい)邁進(まいしん)の神示

「 人が どう思うかも知れぬと、そんなことばかり気にかけているようなことでは
心の苦しみは 絶(た)えぬものだ。自分が どの位(くらい) 愛したか、
自分が どんな仕事をしたか、そればかりを考えるが好(よ)い。・・・・・」

            ・・・

3 月 16 日 ( 昭和 8 年 ) 至上者(しじょうしゃ)の自覚の神示

「 人 即(すなわ)ち 神であると言う真理を知らぬ者が多いのは 気の毒である。
『 生長の家 』 が 此世(このよ)に出現したのは すべての人々に
此(こ)の至上の真理を知らさんが為(ため)である。・・・・・・」


(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」三月の神示 (4555)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

           <感謝合掌 平成29年3月2日 頓首再拝>

『良心』は自己神格の内流 - 伝統

2017/04/05 (Wed) 03:39:25


           *「百事如意」(P9)より

『良心』は吾々の中に宿る自己神格の内流でありますから、
吾々は『良心』を捨ててはならない。

神示は所謂(いわゆ)る『良心』よりも大きく、広く
内外全包容的に出て来るところの内部的光耀(こうよう)でありますが、

それは本質に於いて良心と同じき本源から流れ出て来るのでありますから、
良心の囁きに一致しないものは決して神示ではありません。

それは、或る低級霊の示唆か、
《ニセ物の自分》の好い加減な潜在意識の囁きに過ぎないのであります。


・・・

【四月の神示】

4 月 5 日 ( 昭和 6 年 ) 

万教(ばんきょう)帰一(きいつ)の神示

「 われに姿(すがた)かたち あるように言うものあれど われは姿なきものである。
われは 道(ことば)である、われは 霊性(れいせい)である、智慧である、愛である、
生命である、われは如来(にょらい)である、われは 一つにして 多(た)である。・・・・・」


4 月 10 日 ( 昭和 7 年 ) 

無相(むそう)円相(えんそう)一切相(いっさいそう)の神示

「 吾(わ)が臨(きた)れるは 物のためではない、生命のためである。
肉のためではない、霊(れい)のためである。・・・・・」


(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」四月の神示 (4556)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

・・・

【万教帰一の神示(全文)】

われに姿かたちあるように言うものあれどわれは姿なきものである。

われは道(ことば)である、
われは霊性である、智慧である、愛である、生命である、

われは如来である、われは一つにして多である。

信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、
そはわが真の姿に非ず、
見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。

そは、われ神通力によって、疑う者の蒙(もう)を啓(ひら)かんがために、
異なる場所と異なる人とに同じき一定の神姿を示して、
神の客観的存在を実証したに過ぎない。

されど、本来われに一定の神姿はない。

如何なる姿も欲(おも)いのままに現ずることが自由である。
されば、嘗てわれ汝に告げたのである『吾れに神殿は不要である』と。

われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。
供え物も要らぬ。

わが姿を見んと欲うものは『生長の家』を読め。
われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。

この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。

われにすがた形はない。
われは霊の海である。大海原である。
すべての宗教(おしえ)流れ来たりて吾れに入らん。

吾れは完成する者である。
われは『七つの燈台』に燈(ひかり)を点ずる者である。

古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、
すべての教(おしえ)我に流れ入りて生命を得ん。

われは大いなるものかな。
すべての教を呑吐して、これに生命を与え、
すべての相争う教をその真髄に於て握手せしめる。

吾はすべてを包容し、すべてに光を与え、すべてに栄養を与え、
すべてを生かす地下水である。

他の如何なる宗教(おしえ)をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃頌(たたえごと)と、
善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその真髄に燈を点ずる。

あらゆる宗教(おしえ)がその真髄を礼拝して手をつなぐようにならねば
此の現実世界の改造は完成せぬ。精神界が先で現実界はその影である。

元乱れて影完(まった)からず、宗教家よ、宗派争いをしている時ではない。

(昭和六年四月五日神示)


           <感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>

本源の智慧に聴く - 伝統

2017/05/05 (Fri) 03:39:34


           *「百事如意」(P9~10)より

吾々の『生命(せいめい)』は本源に於いて
神と同一流れの『生命(せいめい)』を汲んでいるのでありますから、

吾々が その本源に対して心の堰(せき)を設けず、出来るだけ、
心の耳を傾けてその本源の智慧に聴くようにしますならば、
吾等にとって必要なるあらゆる智慧は吾等の心に流入して来るのであります。

・・・

【五月の神示】

5 月 5 日 ( 昭和 7 年 ) 無限供給の神示

「 われは 道(みち)である、光である、生命である、智慧である、
光は 先(ま)ず東方(とうほう)より現(あら)われて 遍(あまね)く一切(いっさい)を
照(て)らすのである。
生長の家が 日本に現(あら)われたのも 因縁(いんねん)のあることである。・・・・・・」

                ・・・

5 月 6 日 ( 昭和 6 年 ) 新天(しんてん)新地(しんち)の神示

「 見よ、われ 既に 天地を新(あら)たならしめたのである。
人々よ、眼(め)の蔽(おお)いをとれ、われは 新しき智慧である。新しき生命である。
新しき宇宙である。新しき光明である。
われ臨(きた)って 此(こ)の世界は 既に変貌(へんぼう)したのである。・・・・・」

                ・・・

5 月 27 日 ( 昭和 7 年 ) 
久遠(くおん)天上(てんじょう)理想国(りそうこく)実現の神示

「 『 生長の家 』 の因縁(いんねん)を書き置(お)く。
『 生長の家 』 とは 人間が附(つ)けた名(な)ではない。神がつけさせたのである。
『 生長の家 』 とは タカアマハラのことである。・・・・・」

                ・・・

5 月 30 日 ( 昭和 6 年 ) “ 心の法則 ” と “ 平和への道 ” の神示

「 吾(わ)が来(きた)れるは 古(いにし)え誤(あやま)れる道徳観念を修正し、
新しき 正しき生き方を 人類に示(しめ)さんがためである。
『 治(ち)にいて 乱(らん)を忘れず 』 と言うのが古(ふる)き人類の道徳であったが、
『 生長の家 』 の生き方は 乱にいて 治を忘れざる生活である。・・・・・」


(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」五月の神示 (4556)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

・・・

【無限供給の神示(全文)】

われは道である、光である、生命(せいめい)である、智慧である、
光は先づ東方より現われて遍く一切を照すのである。
生長の家が日本に現われたのも因縁のあることである。

老子が 谷神 死せずと言ったのも吾れのことである。
釈迦が過去無量千萬億阿僧祇東方世界に国あり。
此の国に仏いまして 多宝如来 と称(とな)うと言いたりしも吾れのことである。

天地一切を渾球(こんきゅう)と言い渾球を タカ アマ ハラ と言い、
略してアマと言い、天地一切を照らすときの名を天照大御神と言う。

神の名はそのハタラキを示したのであってハタラキに従って相(すがた)もまた異る。

吾れが一切多宝の供給無尽蔵なるハタラキをするとき多宝如来と言うのである。

一切の宝一切の善一切の美一切の生命吾れより出でざるはない。

吾が姿の一つは太陽である。
諸方の信仰厚き人々に吾が太陽の霊姿を霊眼で見せてあるが、
天文学上の対象になっている太陽はわが影に過ぎない。

釈迦が法華経を説くとき、われは地より涌き出て、
空中に『 七宝(しっぽう)の塔 』となって出現したのである。

『 七つの燈台 』は世を照らす光の側よりわれを見たのであり、
『七宝の塔』は多宝無限供給の側よりわれを見たのである。
『 七つ 』と言うのは一切と云うことである。

吾れは吾が誓願の如く、誰にてもあれ 『生命の実相』を説くところ に顕れ、
彼を讃歎し彼に半座を分って偕に坐し彼と一体となる事を示す。

釈迦が法華経を説くときわれがあらわれたのは、
釈迦は法華経を説いたとき『生命の実相』を説いたからである。

『生長の家』にわれが顕われたのは
『生長の家』の説くところは『生命の実相』であるからである。
『生長の家』も久遠の昔からあり、『生命の実相』も久遠の往昔(むかし)からある。

わが霊身は『生命の実相』そのもの であるから『生命の実相』が説かれるところ、
読まれる所、披(ひら)かれるところに吾れは顕われざるを得ないのである。

吾れは光明遍照世界(たかあまはら)の主宰者大日如来であり
千萬億阿僧祇久遠の昔より成仏せる釈迦であり、
アブラハムの生れざる以前より既に世の救い主なりしキリストである。

吾れに汲むものは涸(かわ)かず、
吾れは無限の光、無限の生命(せいめい)、無限の愛、無限供給の泉である。

(昭和七年五月五日神示)

           <感謝合掌 平成29年5月5日 頓首再拝>

心の窓を開く - 伝統

2017/06/05 (Mon) 04:27:55


           *「百事如意」(P10)より

吾々は窓を開いてただ眺めれば好いのであります。
美しい世界は窓を開かなくとも既に窓を開く前から
其処に展開しているのであります。

ただ窓を開(ひら)けば、その美しい世界の光景が自分のものとなるのであります。

此れは実相の世界は既に在る ―― 
吾等が心の窓を開(あ)ければそれが現実の世界のものとなる
ことの譬えであります。

と同時に、これは又、神の智慧が吾々の内に流れ込んで来る
事実の譬えであります。

だから、心の窓を開きなさい。
そうすれば神の智慧があなたの智慧となるのであります。


【六月の神示】

6 月 26 日 ( 昭和 6 年 ) 帰幽(きゆう)の神示

「 汝(なんじ)の肉体は 汝の ‘ 念絃(ねんげん) ’ の弾奏(だんそう)する
‘ 曲譜(きょくふ) ’ である。生命が 肉体に宿(やど)ると言うのは
二元的な考え方であって 真理ではない。
正しく言えば 生命は その念絃の弾(だん)ずる曲譜に従(したが)って
肉体を現(あらわ)すのである。・・・・・」


(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」六月の神示 (4558)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

           <感謝合掌 平成29年6月5日 頓首再拝>

「神格の内流」と「霊示」 - 伝統

2017/07/01 (Sat) 04:37:37


         *『生活の智慧365章』(P191)より

素晴らしいアイディア 

神が人間に導きを伝える方法には色々の方法ある。

先ず「神格の内流」そして其の人自身が恰も考えるが如く、
そのままの状態でスラスラと善き言葉や、よき考えが思い浮かんで来るのである。

そこに何ら不自然な状態はないのに、その湧き出て来た言葉やアイディアが、
「人間たる自分では迚(とて)も考えられないような」高さと格調とを
そなえた妙想であるのに驚くのである。


下腹から沫が込み上げて来るように声がこみ上げて来て奇想天外な事を話す場合がある。
これは明らかに憑霊(ひょうれい)であり、憑霊が喋るのであるから、
二重人格にあらわれるのであって、これを天言通とも言う。

その憑霊の高さ低さによって宇宙の大神の神意を伝えるための
高級霊の言葉であることもあれば、人間を弄(もてあそ)んで
愚弄(ぐろう)することを悦ぶ低級な動物霊であることもある。

こう云う霊示は常識で判断して審神(さにわ)しなければならない。


            ・・・

【七月の神示】

7 月 7 日 ( 昭和 7 年 ) 万教(ばんきょう)包容(ほうよう)の神示

「 キリスト教では 聖地エルサレムが 世界の中心であると言い、
大本教では 丹波(たんば)の綾部(あやべ)が 世界の中心であると言い、
天理教では 大和(やまと)の丹波市(たんばいち)が 世界の中心であると言い、
天行居(てんこうきょ)では 周防(すおう)の岩城山(いわきやま)が
世界の中心であると言う。

世界の中心 争いも 久(ひさ)しいものである。併(しか)し われは 言う、
それらは 悉(ことごと)く 皆(みな)世界の中心であると。
一定の場所が 世界の中心だと思っているものは 憐(あわ)れなるかな。
生命の実相の教えが 最も鮮(あざや)かに 顕(あらわ)れたところが
形の世界の中心であるのである。そこは 最も世を照らす光が 多いからである。・・・・・・」


(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」七月の神示 (4559)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

           <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>

より高き自我からの啓示 - 伝統

2017/08/05 (Sat) 04:24:12


        *『生命の實相』第8巻観行篇(P42)より

神は自己のうちに宿る、英知は自己のうちに宿る、真理は自己のうちに宿る。

自己のうちに、神が、英知が、真理が、宿っていないで、
神とか、英知とか、真理とかいうものが自己の外にのみあるものならば、
人間は永遠に自由になることはできないでありましょう。

神とか、真理とかいうものが吾々の「外」にばかりあるものならば、
神とか真理とかに従うということは、吾々自身が「外」から縛られることになりますので、
吾々は決して自由になれないのであります。

神とか、真理とかいうものが自己の「内」に埋蔵されている神性であるからこそ、
神に従うということ真理に従うということが、自己に埋められている真性を
伸び伸びと外に出すことになるのであります。

この、自己に宿る真理の「呼び掛け」に心の耳を傾けるとき、
われわれは神の無限の英知の導きを受けるのであります。

この自己に宿る真理の「呼び掛け」を指してわれわれはあるいは「良心」と言い、
あるいは「神示」と言うのであります。

「良心」と「神示」とはひっきょう同じものの半面であって、
それは「より高き自我」からの啓示であり、自己の「真性」の開示であり、
自己に宿る神の声であります。


      ・・・

【八月の神示】


8 月 5 日 ( 昭和 8 年 ) 本当の信仰に就(つ)いての神示

「 平和は 内界(ないかい)にあるのであって、
外界(がいかい)にあるのではない。 ・・・・・」



8 月 12 日 ( 昭和 7 年 ) 懺悔(ざんげ)の神示

「 汝(なんじ)らのうち 病(や)める者あらば、
吾(わ)が教えの先達(せんだち)の許(もと)に来(きた)りて
祈りを乞(こ)い 神想観の指導を頼(たの)め。
吾(わ)が教えの先達は 吾(わ)がことばを 受けたるものなれば、
彼(かれ)の言葉 汝(なんじ)を癒(い)やさん。・・・・・」


(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」八月の神示 (4560)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

           <感謝合掌 平成29年8月5日 頓首再拝>

《「神示」と「霊示」》 - 伝統

2017/09/02 (Sat) 04:47:54

       *「生命の實相」第8巻観行篇(P42~43)より

「神示」は絶対性のものであって、古神道の方から言えば直霊(なおひのみたま)
の働きであり、奇魂(くしみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)、
荒魂(あらみたま)の四魂(こん)が円満にそろいて一つに統一された
働きであります。

これに対して霊示というのは、ある霊界の棲息者からの精神波動の波及によって
教えられるのでありますから、その霊界の指導者が、どの程度まで、
自己の「神なる真性」を発現させているか、あるいはまだまだその指導者が
執着の塊であるかによって、その霊示の特徴にも価値にも千差万別があるのです。

「霊示」は、執着あるある霊魂の指導でありますから、執着ある問題についての
善き相談相手ともなり、執着あるがゆえに、また時として悪しき相談相手とも
なるのです。


      ・・・

【九月の神示】

9 月 2 日 ( 昭和 7 年 ) 実相(じっそう)金剛身(こんごうしん)の神示

「 悪平等(あくびょうどう)は 悉(ことごと)く あやまりである。
人間は 肉体でないと言えば、空気のような エーテルのような
捉(とら)え所(どころ)のない 『 空(くう) 』 なるものが
人間のように思っている者もあれど 皆(みな)見当(けんとう)ちがいである。
肉体や物質のほかは見えない者は 気の毒である。・・・・・」


9 月 5 日 ( 昭和 6 年 ) 生死(せいし)の教(おしえ)

「 生死(せいし)は ままならぬと言えども 生死は 心のままである。
兄弟(きょうだい)を生(い)かす心(こころ)の者は 生き、
兄弟を殺す心(こころ)の者は 死す。・・・・・」


9 月 15 日 ( 昭和 8 年 ) 霊魂(れいこん)進化(しんか)の神示

「 『 神の子 』 なる人間の実相を 現象世界に 実現するのが 人生の目的である。・・・・・・」


9 月 27 日 ( 昭和 6 年 ) 大調和(だいちょうわ)の神示

「 汝(なんじ)ら天地一切のものと和解(わかい)せよ。・・・・・・」



9 月 28 日 ( 昭和 6 年 ) “ 最後の審判 ” に就(つ)いての神示

「 キリスト再(ふたた)び 臨(きた)りて 審判(さば)くとは 今のことである。
キリストとは 肉体にあらず、 『 真理(しんり) 』 である。
キリストとは 肉体にあらず、 『 光(ひかり) 』 である。・・・・・・」


(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」九月の神示 (4561)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )


           <感謝合掌 平成29年9月2日 頓首再拝>

大調和の神示 - 伝統

2017/09/27 (Wed) 04:59:35

『大調和の神示』(朗読~谷口雅春先生)

https://www.youtube.com/watch?v=r_2i4oxg5Bg

今日9月27日は、86年前、谷口雅春先生に「大調和の神示」が天降った記念日です。

【大調和の神示】

汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
 
天地一切のものが汝の味方になるとき、天地の万物何者も汝を害することは出来ぬ。

汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。

われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。
 
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。

天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。

本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢しあったりするのでは得られぬ。
怺えたリ我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合ったとき本当の和解が成立する。

神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。
天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、
争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ。

 
皇恩に感謝せよ。
汝の父母に感謝せよ。

汝の夫又は妻に感謝せよ。
汝の子に感謝せよ。

汝の召使いに感謝せよ。
一切の人々に感謝せよ。
天地の万物に感謝せよ。

その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。

われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。
われは此処に見よ、彼処に見よと言うが如くにはいないのである。

だからわれは霊媒にはかからぬ。
神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ。

われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。
われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。  

                     (昭和6年9月27日夜神示)

           <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>

黙示を受くる日 - 伝統

2017/10/07 (Sat) 03:42:51


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月7日)より

【神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで「生命」の黙示そのままが
 精神に顕れて来る状態である。           (『生命の實相』第十一巻)】

「神は霊媒にはかからぬ」と云う意味は、民間市井の巫女的現象、口寄現象、
二重人格として出て来るのは、いずれも霊示であって、

その憑(かか)って来る霊魂の等級に応じて
一(ピン)から十(キリ)まであって、悉くは信ずべからずと云うことである。

国家の大事に尊き方の上に神霊来格の実例は古書にも見えていることである。
と云って普通の場合に於ては高級神霊さえも霊媒には憑らないのであるから、
(『生命の實相』霊界篇参照)
霊媒的現象によって高級霊又は神が来(きた)ったと思って、
思いあがってはいけないのである。

普通霊媒にかかるのは特殊の霊媒自身の守護霊か、
その辺に紆(う)路ついていた浮浪の霊の悪戯(いたずら)である。
斯くの如きものを神示だと思って有り難がっていたら必ず失敗する。

「神示」とは普通「霊示」の如く二重人格現象として、神寄せ式にはあらわれない。

それは「神格の内流」として直日霊(なおひのみたま)の啓示として、
”心が”純粋”になったとき”、内部から直接的に啓(ひら)かれて来る。

普通の人でも「良心」とはそれである。
「絶対」の直接把握だ。

私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、
直感された真理をその直後に書いたのだ。

           <感謝合掌 平成29年10月7日 頓首再拝>

内部的自覚は神示の一種である - 伝統

2017/10/08 (Sun) 04:35:06


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月8日神は善のみと知る日)より

【神は「真如」であり此の真如より来生せし神人が「如来」である。
                      (『生命の實相』第一巻)】


「神は善である。至誠の善である」そう云うことは神示である。
その文章(かきかた)が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。

理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。
そう云うことは神想観中でなくとも普通の時にも、
パッと内部の光耀(こうよう)で判ることがある。

そこで普通の「直観」と「神示」とはどう区別すべきかなどど云うことを
色々考える人もあるらしい。
直観は純粋であれば神示だと思っても好い。併し要は純粋度の問題である。

利害関係に晦まされるに従って純粋度は減ずる。
物質ありと引っかかる程度に従って純粋度は減ずる。
五官に捉えられるに従って純粋度は減ずる。

そこで宇宙の絶対実在を悟るために、
仏教では般若波羅蜜多の行があり、五蘊皆空と観じ、
色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)なしと観じ、
眼耳鼻舌身意なしと観じ、
色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)なしと観じ、
眼界耳界鼻界舌界身界意識界なしと観じ、

それらを”ある”かの如く思い間違えた「無明(まよい)」も無しと観じ、
「無明」もないから「悟る」と云うことも無しと観じ、・・・
斯くの如くして一切の引っかかりを無くして初めて、「ここに彼岸あり」と悟る。

その内部的自覚は神示の一種である。

波羅蜜多とは到彼岸(はらみた)と訳されている。

           <感謝合掌 平成29年10月8日 頓首再拝>

真理の直接把握を「神示」と言う - 伝統

2017/10/09 (Mon) 03:44:40


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月9日ここに彼岸ありと悟る日)より

【同じ真理も時に応じ場合に応じて相(すがた)が変る。(『生命の實相』第十一巻)】

「ここに彼岸あり」と云う文字が眼に見えても、耳に聴かされても、
それが二重人格式に他から教えられるだけで、一重式にその人の生命
そのものの自覚となって来ないのは真理の絶対把握でないから神示ではない。

それは霊示又は霊教として霊魂からの導きであることはあり得る。

併しそれは自己神格の内流ではない。
仏性の開示ではない。
波羅蜜多ではない。

「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である。

香厳和尚の撃竹(きょうちく)の公案は有名なものであるが、
師に教えられている間は、ただ師弟相対して相対的に教えられているだけで、
自己神格の内流的啓示(インスピレーション)とならなかったのである。

ところが或る日庭を清掃している時に瓦片(がへん)が飛んで竹の幹に衝突した。
その音を聴いた時に、内部からパッとその真理が啓示されて来たのである。
それは二重人格的な霊媒現象ではない。これが神格の内流である。

同じ真理でも”外”から来るのと、
”内”から来るのとはそんなにも相異するのである。

”内”からのは真理の直接把握である。
真理の直接把握を「神示」と言い、
二重人格的に教えられるのを霊示と言い、霊媒現象と言うのである。

「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。

           <感謝合掌 平成29年10月9日 頓首再拝>

《災いをまぬかれる神示》 - 伝統

2017/11/01 (Wed) 05:03:03


   *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P191~192) より

神示は必ずしも「言語(げんご)」と云う方法によってのみ伝えられるものではなく、
自然に或る行為を止’や)めたり、しなければならないように、事件が進展して来て、
自分の行動が支配されると云うこともある。

 
たとえば、いつも朝寝したことのない人が、その日に限って朝寝をしてしまって、
いつも利用していた省線電車の時間に間に合わないので、
やむを得ず他の乗物を利用して出勤したら、あの乗り遅れた省線電車は衝突して出火し、
乗客の殆んど全部が死傷したと云う事件や、

その日、木星号飛行機に乗って大阪へ行く筈になっていたのに、
ある事情の突発で木星号にのれなくなって、飛行機の座席券が無駄になったが、
あとから考えて見ると、木星号に乗れないのが幸いだったという話もある。

木星号は運転をあやまって三原山に激突して粉砕し、乗客全員は死亡してしまった。

この朝寝や突発の事情が神示である。

      ・・・

【十一月の神示】

11 月 4 日 ( 昭和 5 年 ) 生長の家の食事

「 聖書に 吾(われ)らが 祭壇(さいだん)に対して 供物(そなえもの)を
献(けん)ずるに当(あた)っては、先(ま)ず 兄弟と仲直(なかなお)り
しなければならないと言うことが書いてある。

吾らは 食事をとるに当(あた)っても矢張(やは)り これと同じことを
しなければならないのである。
何故(なぜ)なら 食事は 自己に宿(やど)る神に供(そな)え物(もの)を
献(けん)ずる最も厳粛(げんしゅく)な儀式(ぎしき)であるからである。・・・・・・」


11 月 10 日 ( 昭和 7 年 ) 無病(むびょう)常楽(じょうらく)の神示

「 病(や)んでいると言う病(やまい)は 本来(ほんらい)ない、
苦(くる)しんでいると言う苦しみは 本来(ほんらい)ない。・・・・・・」


11 月 25 日 ( 昭和 7 年 ) 本来(ほんらい)生(しょう)、不滅(ふめつ)の神示

「 物質の束縛(そくばく)に縛(しば)られざるものを 人間と言うのである。
真の人間は 『 神の子 』 であって物質ではなく、肉体ではない。
肉体ではないから 物質の世界に出入(しゅつにゅう)する事もない。・・・・・」


11 月 27 日 ( 昭和 20 年 ) 終戦後(しゅうせんご)の神示

「 われは 七つの燈台(とうだい)に燈(ひ)を点(てん)ずる者である。
われは 白髪(はくはつ)の老翁(ろうおう)である。

白髪とは 久遠(くおん)永劫(えいごう)よりつづく無量寿(むりょうじゅ)の
象徴(しょうちょう)である。

われは 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が 魚釣(なつ)らす鈎(つりばり)を
失(うしな)い給(たま)いて 憂(うれ)い 泣きたまう 海辺(うみべ)に来(きた)りて、
尊(みこと)を 龍宮海(りゅうぐうかい)に導(みちび)きたる塩椎神(しおつちのかみ)で
ある。・・・・・・」

(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」十一月の神示 (4586)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

           <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>

「神格の内流」と「霊示」 - 伝統

2017/12/01 (Fri) 04:46:21


     *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P191) より

《素晴らしいアイディア》

神が人間に導きを伝える方法には色々の方法ある。

先ず「神格の内流」そして其の人自身が恰も考えるが如く、
そのままの状態でスラスラと善き言葉や、よき考えが思い浮かんで来るのである。

そこに何ら不自然な状態はないのに、その湧き出て来た言葉やアイディアが、
「人間たる自分では迚(とて)も考えられないような」
高さと格調とをそなえた妙想であるのに驚くのである。


下腹から沫が込み上げて来るように声がこみ上げて来て
奇想天外な事を話す場合がある。

これは明らかに憑霊(ひょうれい)現象であり、憑霊が喋るのであるから
二重人格にあらわれるのであって、これを天言通とも言う。

その憑霊の高さ低さによって宇宙の大神の神意を伝えるための
高級霊の言葉であることもあれば、人間を弄(もてあそ)んで
愚弄(ぐろう)することを悦ぶ低級な動物霊であることもある。

こう云う霊示は常識で判断して審神(さにわ)しなければならない。

      ・・・

【十ニ月の神示】

12 月 5 日 ( 昭和 6 年 ) 信仰(しんこう)生活の神示

「 信仰生活とは 無用意(むようい)の生活ではない。
すべてに於(おい)て完全に用意されている生活である。・・・・・」


12 月 28 日 ( 年なし ) 君民(くんみん)同治(どうじ)の神示

「 国(くに)は 人間生命(にんげんせいめい)の外延(がいえん)である。
それは 身体(しんたい)が 人間生命(にんげんせいめい)の外延(がいえん)で
あるが如(ごと)くである。・・・・・・」


12 月 28 日 ( 昭和 20 年 ) 
日本(にっぽん)の実相(じっそう)顕現(けんげん)の神示

「 敗戦(はいせん)の原因は 多々(たた)あれども 戦争を始(はじ)めたから
敗(ま)けたのである。是(これ)は 過去(かこ)現在(げんざい)未来(みらい)
永劫(えいごう)に変(かわ)ることなき真理(しんり)である。・・・・・・」


(「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」十ニ月の神示 (4586)より複写しました。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

           <感謝合掌 平成29年12月1日 頓首再拝>

(一月の神示)【梅の花の神示】 - 伝統

2018/01/12 (Fri) 04:14:49


梅の花の開く時節が來たのである。 

去年の春に聖典『生命の實相』の一部を或る人に讀ませて、讀むに從つて、
一頁毎に、まだ時期來らぬ固き白梅の蕾を一輪づつ開かせて、
その開く毎にポンと《音を立てさせて》あつたのは、
彌々(いよいよ)《ひらく年》の型を見せてあつたのである。 

今年が彌々開く年である。 
昭和八年は彌(や)の年、彌々(いよいよ)の年、
《八》の年、《ハ》ナの年、《ハ》リ伸びる年、
《ハ》ジメに開く年である。 

《ハ》は開き伸びると云ふ意味であつて、
春、原、腹、晴、遥等皆この語源から來るのである。 
コト《バ》の『ハ』も開くと云ふ意味から來たのである。 

スメラミコト(命<みこと> ― 神)が開き展(の)びるとき音をたてるのであるから、
固き梅の蕾の花を開かせてその一輪毎にポンポンと音をたてさせて
型が示してあつたのである。 

『萬づのもの言葉にて生み出される』と云ふことが象徴化して示してあつたのである。

梅の花とは、《生みの花》 ―― 創造(うみ)の始動(はな)のことである。
『生みの花』はまた『海の原』のことである。 

『梅の花』の五瓣は五大洋に象(かた)どる。
五大洋にスメラミコトの花が開く始まりが今年である。 

一つ開く毎にポンと音がさせてあるのは何の象徴であるか考へれば判るであらう。 
何事もなしにはスメラミコトの花は開かぬのである。 
一つ一つ開く毎にポンポンと音を立ててつひに五大洋に梅の花がひろがるのである。 

開くまでには嚴寒の冷たい日が續くが、
嚴寒の冷たい日があるので一陽來復の日が來るのである。 
無明(まよい)の自壞作用がないのに光明遍萬の樂土が來るなどと甘いことを思ふな。 

昨年十二月十一日にも『戦ひの時は來たのだ』と知らせてある。 
ヒノモトの軍(いくさ)が嚴かに進むのは、
無明(まよひ)の世界を照らす唯一の光が進むのである。 

甘い平和論に耳を傾ける勿(な)。 
膏薬貼りで此の世が幸福になるなどと思ふな。

世界には《唯一の》光しかないのだ。唯一の光であるからヒノモトと呼ぶのである。 
ほかの光は皆僞(いつわり)の光ばかりである。 
梅の花には中心が一つしかないではないか。
世界に中心が幾つもあつて爭つてゐて人類が幸福になれるなどと思ふな。 

太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、
人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。 
極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。
この事實を見て宇宙の意志を窺へよ。 

地上の國々だけが中心が幾つもあつて好いと思ふな。 
複數の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。 
一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいたのである。 

現在無中心主義を標榜する者は皆現在の中心を貶黜(へんちゅつ)して
自分が中心を僣稱したいからである。 
スターリンなど、無明(まよひ)の塊の人物を中心として
世界が幸福になれると思ふものは愚か者である。 

世界を一つに統一する運動は二つある。 

一つは露西亜(ロシア)から始まつてゐる運動で、
世界を物で支配する運動である。 

もう一つは靈の本(ヒノモト)から始まつてゐる運動で、
世界を靈で支配し、一つの光明に統一する運動である。 

この二つの運動の衝突は避けられぬ。 
時機は迫つてゐるのに、まだヒノモトの使命を知らぬ者があるのは歯痒い。 

本當の愛は甘えかす愛ではない。戦ひの愛である。

      (昭和八年一月六日神示)

           <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>

(一月の神示)【大和(だいわ)の國の神示】 - 伝統

2018/01/13 (Sat) 04:29:47


われ再び大日本天津日嗣天皇(だいにつぽんあまつひつぎすめらみこと)
と云ふ意味について語らん。

天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、
天(あめ)が下(した)ことごとくが一つの光の世界になり、
大和(だいわ)、平和の世界があらはれると云ふ意味の象徴的表現である。

日本民族が世界を治めるのではなく、
『天孫(てんそん)』すなわち
『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。
これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。

それが眞(まこと)の大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)である。

大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)ということを狭い意味に解して、
日本民族の國だなどと考えるから誤解(まちがひ)を生ずるのである。
そんなものは小日本であり、本當の大日本國(ひかりのくに)ではない。

天(あめ)の下(した)ことごとくが
『天のみこころ』で滿ちひろがる世界が來ることを、
「全世界五大洲の國土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が來る」
と教へたのである。

天孫とは肉體のことではない。

「肉體は無い」と云ふことをあれほど教へてあるのに、
やはり肉體のことだと思つて
執着が強いから大(だい)それた間違(まちがひ)をして
取返しがつかぬことになるのである。

神からみればすべての人間は神の子であるから、
特に日本民族のみを愛すると云ふことはない。
あまり自惚れるから間違ふのである。

大日本天津日嗣(だいにつぽんあまつひつぎ)スメラミコトとは
固有名詞ではない。
理念の表現である。

「大日本(だいにつぽん)」すなわち「ひかりあまねき」、
「天津(あまつ)」すなわち「天の父の」、
「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまえる」、
「スメラミコト」すなわち
「天降(あも)りましたる帝王(ていおう)」という意味であるから、

總じて譯せば「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる
天降(あも)りましたる帝王」と云ふことである。

天の父のみこころが全世界に光被(くわうひ)して
あまねく平和になる世界になれば、
それが本當の大和(だいわ)の國である。

それが本當の大日本天津日嗣(だいにつぽんあまつひつぎ)すめらみことの
治(しろ)しめし給ふ世界である。

肉體のことではない。

(昭和二一年一月六日朝の啓示による)

           <感謝合掌 平成30年1月13日 頓首再拝>

(一月の神示)【聲字即實相の神示】 - 伝統

2018/01/14 (Sun) 04:01:36


吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の實相」と云ふ。
完成(ななつ)の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顯現には
周期的波動があるからである。七つが事物の顯現の周期律になつてゐる。

吾れに神殿は不要であると嘗(かつ)て示したことがあらう。
吾れは道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。
吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。

『生命の實相』は吾が本體であり、無形の「生命の實相」を形にあらはしたのが
『生命の實相』の《本》である。

『言葉』を載せた書物を「本(ほん)」と云ふのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、
本質であり、本體であり、本物であるからである。

『言葉の宇宙』が先ず出來て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。
今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐたから、
宇宙の萬物の運行が亂れて生活苦や、病氣や、天災や戰爭など色いろ不調和なことばかり
起つたのである。

『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿な調和した言葉の
『本(もと)』が調(ととの)うたのであるから今後何事も急轉直下する。

『生命の實相』を披くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々たゞ自己の生命の
實相(ほんとのすがた)を知り、歡喜踊躍(かんきようやく)して
手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。

その歡びの相(すがた)こそ人間の生命の實相である。
吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本(ほん)の形にして、
披(ひら)いて讀むものにさせたのも象徴的因縁あることである。

『生命の實相』が展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。
今は過渡時代であるから、假相(かりのすがた)の自壊作用として
色々の出來事が突発する。

日支の戰ひはその序幕である。神が戰ひをさせてゐるのではない。
迷ひと迷ひと相摶(あいう)つて自壞するのだ。

まだまだ烈しいことが今後起るであらうとも
それは迷ひのケミカラィゼーションであるから
生命の實相をしつかり握つて神に委(まか)せてゐるものは何も恐るる所はない。

(昭和七年一月十一日神示)

           <感謝合掌 平成30年1月14日 頓首再拝>

(一月の神示)【完成(ななつ)の燈臺(とうだい)の神示】 - 伝統

2018/01/15 (Mon) 04:49:27


時が來た。
今すべての病人は起つことが出來るのである。
最早、あなたにとつて病氣は存在しない時が來たのである。

二千年前、キリストが『汝の信仰によつて汝の信ずる如くなれ』と云ふ唯一語で、
遠隔の地にゐる病人を癒やした其の眞理が、
すべての人類に開顯される時期が來たのである。

『生長の家』を讀み眞理を知るだけで遠くにゐて病氣が治る事實を見よ。
『生長の家』は今かの黙示録が預言した『完成(ななつ)の燈臺』として
人類の前に臨むのである。

此の燈臺より眞理の光を受くるものは、
創世記のエデンの樂園追放以後、人類を惱ましたところの『罪』と『病』と『死』との
三暗黒を消盡するのである。

光が近附くときすべての暗黒は消える。
『眞理』が近づく時、すべての『迷』が消える。
『迷』が消える時、『迷』の産物なる『罪』と『病』と『死』とは消える。

疑はずに吾が光を受けよ。
われは『完成(ななつ)の燈臺』に燈を點ずるものである。

(昭和六年一月十五日神示)

           <感謝合掌 平成30年1月15日 頓首再拝>

(一月の神示)【自然流通の神示】 - 伝統

2018/01/25 (Thu) 04:33:57


『生長の家』は奇蹟を見せるところではない。
『生長の家』は奇蹟を無くするところである。

人間が健康になるのが何が奇蹟であるか。
人間は本來健康なのであるから、健康になるのは自然であって奇蹟ではない。

『生長の家』はすべての者に眞理を悟らしめ、異常現象を無くし、
當り前の人間に人類を歸らしめ、當り前のまゝで其の儘(まま)で喜べる
人間にならしめる處である。

あらゆる人間の不幸は、當り前で喜べない爲に起るものであることを知れ。
當たり前で喜べるようになったとき、その人の一切の不幸は拭(ぬぐ)ひとられる。

病氣もなければ、貧乏もない、また搾取された富もなければ、搾取した富もない。
蹂躙(ふみにじ)られた弱者もなければ蹂躙つた強者もない。

唯、一切が渾然(こんぜん)として一切の者が富んでゐる。此れが實相である。
大いなる生命の流れが一切者に貫流し、とゞまらず、堰(せ)くところなく、
豊かに流れて、物の供給もおのづから無限である。

一切のもの必要に應じて流れ入ること、一つの大河の流れより水を汲みとれば、
隣の水來りて其の虚を埋めるのと同じさまである。

流通無限、貧に執せざるが故に貧とならず、富に執せざるが故に他を搾取(さくしゅ)せず、
流通せざる固定の富なきが故に、みずから豊富なる供給の流れを受くれどもそれを占拠せず、
執着せず、來(きた)るに從つて拒まず、受けて更に価値を増して他を霑(うるお)す。

自給自足などとは自他に捉われた狭い考へである。
自他は一つである。

『生長の家』は自給他足、他給自足、循環してとゞまらず、大實在の無限流通の有様を見て、
その有様の如く現實世界を生きるのが現實界の『生長の家』 である。

貧に執する聖者も、富に執する富者も、『生長の家』 人ではない。

當(あた)り前の人間を自覚し、當り前に生きるのが『生長の家』 の人である。
「當り前の人間」 が神の子である。

皆此の眞理を悟つた人が少い。

「當り前の人間」のほかに「神の子」 があるやうに思つて異常なものを憧(あこが)れるのは、
太陽に背を向けて光を求めて走るに等しい。

皆の者よ、人間の生命の實相を悟つて病氣が治るのは、病念と云う異常現象が止んで、
人間本來の自然に帰るからである。

異常現象はすべて病氣の一種である。
貧しさも異常現象であるから、人間の心が自然に還ればなほるのである。

異常現象のなかに神があると思ふな。
そこには好奇を喜ぶ不自然な心があるばかりである。

怒り、憎しみ、恐れ、嫉(ねた)み、他を蹂躙(ふみにじ)つて打ち勝ちたい心
──すべて是等は異常な心であるから病氣の因(もと)である。
異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。

當り前の人間になることが大切である。

當り前の人間のほかに神の子はない。

 (昭和八年一月二十五日神示)

           <感謝合掌 平成30年1月25日 頓首再拝>

(ニ月の神示)【自他一體の神示】 - 伝統

2018/02/04 (Sun) 03:19:34

『生命の實相』を讀んで自分だけが眞理を悟つてそれで善いと思ふものは
まだ“生命の實相”を悟ったものではない。

眞理は自他一體のものであるから、ひとに傳へるとき、
其處に『結び』の力が發現するのである。

『結び』は愛の力、慈悲の力、神の力、佛の力である。

これを日本古道ではムスビ(産靈)と言ひ、ムスビによつて醸生(神)の力、
即ち生々化育の力が發現して來るのである。

だから『生命の實相』に書いてある通りのことを病人に愛の心で話してあげれば、
ただ、話をするだけで病氣が治るのである。
話が下手なら『生命の實相』の中で『光明の眞理』のところを、
本の由來を話してから讀んで聞かせてもよい。

神の道では『結び』の反對『切る』ことを最も厭ふのである。
怒つたり、審判いたりするのでは心で切るから善くない。
離縁、背信、忘恩、不忠、叛逆等がすべて善くないのは人と人との間を切るからである。

『神』は『道』であると云ふのも『道』と云ふものは
離れてゐるものを結び合はす働きがあるから『道』即ち神である。

結び合わす働きがなくて、審判く働きばかりあるものはどんな善人でも神に遠い。

一人の男子が縁あって一人の女性と結ばれたならば再び離れるのは『道』ではない、
それを圓く結んでやるのが道である。

神の道を知り『生命の實相』を知ると云ふことも
その道びきになる人々の間には深い因縁があることであるから、
橋掛けになつた人の恩を忘れてはならぬ。

自分はもう神と直取引が出來るから、
橋掛けになつた人の恩は忘れても良いと思ふやうな人は、
自分はもう神を知つたから神に背いても好いと云ふのと同じく不合理である。

『生長の家』を知らしてくれる人は
其の人にとつて天の使ひであるから何日までも恩を忘れてはならぬ。

日本人は忠孝一貫恩を忘れぬ國民であるから強いのである。

今度の戰ひは國民の魂の質から言へば知恩と忘恩との戰ひ、
『結び』働きと、バラバラに分離する働きとの戰ひである。

バラバラに分離する働きは結局自滅して『結ぶ働き』が世界を統一する。

醫學でも大和の醫學は結合の醫學であるが外國の醫學は分析の醫學である。
『生命』は綜合の統體であるからバラバラの醫學では解らぬ。

(昭和七年二月四日神示)

           <感謝合掌 平成30年2月4日 頓首再拝>

(ニ月の神示)【上求菩提(じゃうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)の神示】 - 伝統

2018/02/09 (Fri) 03:31:14


實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである。
實生活を捨てるのも自分だけ淨まるために捨てるのと、
他(ひと)を救ふために捨てるのと二種類ある。

實生活をあまり忙しがるな。
皆の者が『道』をきき病ひを癒して貰ひたうても遠慮して頼みに來にくい。
そのうちに救はれる機縁を失うて取返しがつかぬやうになる人もあるのが可哀さうだ。

同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとり運命は別々である。

わが第一の神殿は皆の誠によつて形の世界へ顯はれたから
第二の神殿に取りかゝつて貰はねばならぬ。

第一の神殿は聖典『生命の實相』であつて《智慧の神殿》である。
第二の神殿は《愛の神殿》であって、神が愛であり、
愛は癒やす力であることを知らす『見眞道場(いのちゆには)』である。

智慧と愛と兩(ふた)つの神殿が『生長の家』に揃へば
全世界の他上天國建設の心柱(しんばしら)が出來るのである。
この心柱は心の柱で智慧と愛との十字である、卍(まんじ)である。

  (昭和七年二月九日神示)

           <感謝合掌 平成30年2月9日 頓首再拝>

(三月の神示)【いのちのゆにはの神示】 - 伝統

2018/03/14 (Wed) 05:07:28


見眞道場(いのちのゆには)とは眞(まこと)を見(あら)はす齋(きよ)めの場(にわ)である。
『眞(まこと)』とは『生命の實相(まことのすがた)』のことである。

齋(きよ)めるとは迷ひを除くことである。
人は神の子であるから、その實相を見(あら)はせば
病なく、惱みなく、死なく、一切の不幸は無い。

人の世は、神の子と神の子とが相寄って造つてゐる世界であるから、
その眞実の姿があらはれれば、人と人、階級と階級、國と國との爭い戰いも自然に消える。

實相をさとつた人が少ないために皆が苦しむのである。
假相を實相だと思ひ誤り、皆が苦しんでゐるのが可哀相であるから、
さきには智慧の光で迷を照破するために、聖典『生命の實相』を造らせたのである。

これを讀むだけで救われる人は餘程神縁の深い人達である。
此の神縁をおろそかにせずに人に傳へて尚々多くの兄弟を救ふやう協力せよ。
人はすべて神に於て兄弟である。

人を救ひ道を傳へようと思へば、それが愛即ち神心であるから、
その人に神は偕にありて神の言葉を其の人に話さすのであるから、
自分はまだ人に話すだけの力がないなどと思わず、其の時に『生長の家』について
思出したことを話せば、それが種子(たね)になつて相手が救はれる。

人は種子(たね)を播きさへすれば好い。
教への種子(たね)は神が人の心の中へ吹き込むから、
思ひ出すまゝに語ればそれで相手が救はわれる。

人ひとりでも救ふのは神の前に大いなる仕事である。此の事はだいじである。

本だけ讀んで悟れるほどの境に達していない人のためと、
人を救ふために尚一層深く知りたい人のために、智慧の光に、
愛の温かさを加えて色々世話をやくやうに
智と愛との十字で曼陀羅を織らせるのが見眞道場(いのちのゆには)である。

これから人を救ふための天使の靈の宿つてゐる善き人たちが諸方から
此の道場(ゆには)へ集まつて來て、奇蹟(てほん)を此の道場(ゆには)で見せる。

愛の心で來るものは神德を受けて歸るが、審判く心や素見(ひやか)し心で來るものは
神と心の波長が合はぬから其の心が直らぬうちは神德は受けられぬ

(昭和七年三月十四日神示)

           <感謝合掌 平成30年3月14日 頓首再拝>

(三月の神示)【使命邁進の神示】 - 伝統

2018/03/15 (Thu) 03:53:54


人がどう思ふかも知れぬと、そんなことばかり氣にかけてゐるやうなことでは
心の苦しみは絶えぬものだ。

自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかり考へるが好(よ)い。

肉体の人間は誤解するものだとあれほど言ひきかしてある。
肉体は念の集積で出來たレンズ又はプリズムであるから、
人によつて其の『眼鏡』は違ふから、
どんな光線でもみんな屈折して見えるし、
人によって屈折の仕方も違ふのだ。

三角のものも丸く見えるし、丸いものも三角に見える。
深切で言つたつもりが悪意にとられたり、
失敗(しくじ)つて言った言葉でおかげを受ける人もある。

誰が何と思つても、それは迷ひで屈折して色々に觀るのであるから、
たゞ神に知られることだけを求めて人に知られようなどと思はぬが好い。

人間の苦しみの一つの元は上(うわ)べを飾りたい心である。

(昭和七年三月十五日執務中神示)

           <感謝合掌 平成30年3月15日 頓首再拝>

(三月の神示)【至上者の自覺の神示】 - 伝統

2018/03/16 (Fri) 03:48:29

 
人即ち神であると云ふ眞理を知らぬ者が多いのは氣の毒である。

『生長の家』 が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の眞理を知らさんが為である。

自己が神だと悟つたら人間が傲慢(ごうまん)になるやうに誤解したり、
自己の本生が神だと悟つたものを謙遜が足りぬと思ふ者は大變な思ひ違ひである。

斯(か)くの如き想像する者は
自己が神だと云ふ眞理をまだ一度も悟つて見たことがないからである。

自己が神だと悟れたら人間は本當に謙遜(けんそん)になれるのである。
キリストが弟子の足を洗ふことが出來たのも、自己が神だと悟つてゐたからである。

本當の謙遜は「神の自覺」 から來る。
神を自己の本性(うち)に自覺しないものは、いくら謙遜らしく見えても、
それは卑屈(ひくつ)にすぎない。

卑屈(ひくつ)と謙遜とを思ひ誤るな。

本當の謙遜とは「自己は神より出でた神の子である。従つて神そのもののほか何者でもない」
と云ふ眞理を何らの抗(さか)らひもなしに承認することである。

此の眞理を承認するものを謙遜と云ひ柔和と云ふ。

この眞理に逆ふ者を傲慢(ごうまん)と云ふのである。

すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神成り』の眞理を承認しないところの
根本傲慢より分化し來(きた)るのである。

觀点の違ふ者には解りやうがない。

人間の偉大な仕事を皆憑靈(ひょうれい)の仕事のやうに説いて、
人間をたゞ憑靈の傀儡(かいらい)のやうに教へるものがあるが邪教である。

人間の本性(うち)に憑靈の示唆(しさ)よりも偉大なものがあることを
教へるものこそ正しき教である。

《人間は肉體でもなければ傀儡(かいらい)でもない》、
人間は靈であり神であり自主である。

若し憑靈が「靈」 であるが故に偉大なる教(おしへ)を説き、
偉大なる仕事が出來るならば、人間自身も「靈」であるが故に、
偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出來ることも当然でなければばらぬ。

ただその教(おしへ)や仕事に高下(こうげ)があるのは靈界の靈にも、人間にも、
自己内在の無限性の掘りさげ方に差があるからである。

釈尊は決して憑靈の傀儡ではない、基督(キリスト)も決して憑靈の傀儡ではない。

いづれも自己内在の無限性を堀下げて、終(つい)に佛性(ぶっしょう)に達し、
神性に達したから、靈界の諸靈來たつて此の二聖に事(つか)へたのである。

釈耶(しゃくや)の憑靈ばかりを觀て釈迦が自覺したところの佛性、
イエスが自覺したところの神性を見ない者は憐(あわ)れである。

憑靈が説くほどの教なら人間自身も靈であるから説き得(う)べきであるのに、
釈耶(しゃくや)の教を釈耶自身の教ではなく釈耶の憑靈の教であると説く
スピリチュアリズムは自己撞著(どうちゃく)に陥(おちい)つてゐるのである。

人間よ、人間自身の尊嚴を自覺せよ、
これを自覺することは人間自身の尊嚴を奪還することである。

『生長の家』は人間自身の尊嚴を奪還せんがために出現した人生の燈臺である。

         (昭和八年三月十六日神示)

           <感謝合掌 平成30年3月16日 頓首再拝>

(四月の神示)【万教帰一の神示】 - 伝統

2018/04/05 (Thu) 04:15:05


われに姿かたちあるやうに言ふものもあれどわれは姿なきものである。
われは道である。われは靈性である。

智慧である、愛である、生命である、われは如來である、われは一つにして多である。

信仰深き諸方の靈覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが眞の姿に非ず、
見えたる神姿は靈覚者の心識の所現にも非ず。

そは、われ神通力によつて、疑ふ者の蒙を啓かんがために、
異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、
神の客観的存在を實証したに過ぎない。

されど、本來われに一定の神姿はない。
如何なる姿も欲(おも)ひのままに現ずることが自由である。
されば、嘗(かつ)てわれ汝に告げたのである『われに神殿は不要である』と。

われは神殿がないとて身の入れ場所に困るやうな神ではない。
供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲ふものは『生長の家』を読め。
われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。

この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。
われにすがた形はない。われは靈の海である。大海原である。
すべての宗教(おしへ)流れ來りて吾れに入らん。

吾れは完成する者である。われは『七つの燈臺』に燈を點ずる者である。
古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、
すべての教我に流れ入りて生命を得ん。

われは大(おほい)なるものなるかな。
すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を与へ、すべての相爭ふ教を
その眞髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与へ、
すべてに栄養を与へ、すべてを生かす地下水である。

他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃頌(さんしょう)と、
善き言葉とを雨ふらして、それを淨めその眞髄に燈を點ずる。

あらゆる宗教がその眞髄を礼拝して手をつなぐやうにならねば
此の現實世界の改造は完成せぬ。
精神界が先きで現實界はその影である。

元乱れて影完(まった)からず、宗教家よ、宗派爭ひをしてゐる時ではない。 

(昭和六年四月五日神示)

           <感謝合掌 平成30年4月5日 頓首再拝>

(四月の神示)【無相圓相一切相の神示】 - 伝統

2018/04/10 (Tue) 03:26:16


(無相(むそう)円相(えんそう)一切相(いっさいそう)の神示)


吾が臨(きた)れるは物のためではない。生命のためである。
肉のためではない、靈のためである。
これを覺(さと)ものは少ない。

物の生滅に心を捉へられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減つたときに信仰を失ひ、
身體が健康になつたときに神を讃へ、家族の誰かに病氣が起つたと云つては
信仰を失ふが如きは、神を信じているのではなく物を信じてゐるのである。

物は結局移り變わるものであるから、物の御利益の上に建てられた信仰は、
物の移り變わりによって懷れるのである。
  
神が病気を治して見せるのは、肉體は心でどうにでも移り變わらせることが出來ると云う
事實を見せて、『體(たい)』は念(こころ)の影だという眞理をさとらせるためである。

念(こころ)の影だと云ふ『體(たい)』とは肉體ばかりのことではない。
幽體も靈體もすべて念(こころ)の影である。

『死は無い』と云ふのは肉體のことではない。現に肉體細胞は刻々死滅し流轉している。

生き通しであるのは、斯くならしめている『生命(せいめい)』のみである。
『生命』のみが《吾れ》であり《汝》であり、
そのほかに《吾れ》も《汝》もないのである。

此の『生命』を“みたま”と云ふ。
“みたま”の形は球(たま)のやうに眞ん圓(まる)いから“みたま”と
云ふように解するものもあれど、眞ん圓いのは形のことではない。

神は本來形無く、空(くう)のうちに圓滿具足して自由自在であるから
仮りに稱して圓相と云ふのである。

自由自在なるが故に或時は龍神の姿を現じ、また或る時は衣冠束帶の姿を現じ、
或る時は天使天童の姿を現ずる。いづれの姿も權化であつて僞りではない。

しかし一つの形に執して、それのみを吾れであると思ふものは、
吾が眞実を知らざるものである。吾が全相を知らざるものである。

汝ら心して眞(まこと)を知れ。
汝たちも《神の子》であるから我れと同じきものである。

肉體は汝の一つの現れであつて汝の全相ではない。

 (昭和七年四月十日 神示)

             ・・・

<関連Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-04-10)
    → https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/25ecdc4efd5df42d8c7cd4c5a506dc03 >

           <感謝合掌 平成30年4月10日 頓首再拝>

(五月の神示)【無限供給の神示】 - 伝統

2018/05/05 (Sat) 03:24:50


われは道である。光である。生命(せいめい)である、智慧である。
光は先づ東方より現はれて遍く一切を照らすのである。
生長の家が日本に現はれたのも因縁のあることである。

老子が《谷神》死せずと云つたのも吾れのことである。
釈迦が過去無量千萬億阿僧祇《東方世界》に國あり。
此の國に佛いまして《多寶如來》と稱(とな)ふと云ひたりしも吾れのことである。

天地一切を渾球(こんきゅう)と云ひ渾球をタカ《アマ》ハラと云ひ、略してアマと云ひ、
天地一切を照らすときの名を天照大御神(あまてらすおほみかみ)と云ふ。

神の名はそのハタラキを示したのであって
ハタラキに從って相(すがた)もまた異(ことな)る。

吾れが一切多寶の供給無盡藏なるハタラキをするとき多寶如來と云ふのである。
《一切の寶一切の善一切の美一切の生命より出でざるはない》。

吾が姿の一つは太陽である。
諸方の信仰厚き人々に吾が太陽の靈姿を靈眼で見せてあるが、
《天文學上の對象になっている太陽はわが影に過ぎない》。

釋迦が法華經を説くとき、われは地より湧き出で、
空中に『七寶の塔』となって出現したのである。

『七つの燈臺』は世を照す光の側よりわれを見たのであり、
『七寶の塔』は多寶無限供給の側よりわれを見たのである。
『七つ』と云うのは一切と云ふことである。

吾れは吾が誓願の如く、誰にてもあれ《『生命の實相』を説くところに顯れ》、
《彼を讃嘆し彼に半座を分つて偕に坐し彼と一體となることを示す》。

釋迦が法華經を説くときわれがあらはれたのは、
釋迦が法華經を説いたとき『生命の實相』を説いたからである。

『生長の家』にわれが顯はれたのは
『生長の家』のとくところは『生命の實相』であるからである。
『生長の家』も久遠の昔からあり、
『生命の實相』も久遠の往昔(むかし)からある。

《わが靈身は『生命の實相』そのものである》から
『生命の實相』が説かれるところ、讀まれる所、披(ひら)かれるところに
吾は顯はれざるを得ないのである。

吾れは光明遍照世界(たかあまはら)の主宰者大日如來であり
千萬億阿僧祇久遠の昔より成佛せる釋迦であり、
アブラハムの生まれざる以前より既に救ひ主なりしキリストである。

吾れに汲むものは涸(かわ)かず、
吾れは無限の光、無限の生命(せいめい)、無限の愛、無限供給の泉である。

(昭和七年五月五日神示)

             ・・・

<関連Web:神は愛なり(2016年11月19日)
    → http://kamiwaainari.cocolog-nifty.com/kamiwaainari/2016/11/post-1c80.html >

           <感謝合掌 平成30年5月5日 頓首再拝>

(五月の神示)【新天新地の神示】 - 伝統

2018/05/06 (Sun) 03:54:09


見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。
人々よ、眼の蔽ひをとれ、われは新しき智慧である。
新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。

われ臨(きた)つて此の世界は既に變貌したのである。
既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、
悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神祕を見て人々よ、目覺めよ、覺めてわが新しき光に照らして存在の眞實を見よ。
われは存在の實相を照らし出す完成(ななつ)の燈臺に燈(ひ)を點ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。
汝の悲しみは喜びに變るであろう。

病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命(せいめい)を受けよ。
われを拒(こば)むな。

われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。
われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。
われ汝等に「神想觀」 と云ふ觀行を教へたれば、それを爲せ。

われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。
吾を呼ぶ者のもとに吾は常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを輕からしめる。

なんぢ一人なれば吾を念じて吾とともに二人なりと思へ。
なんぢら二人ならば、われを念じて吾と倶(とも)に三人なりと思へ。

惱める者よ、わが言葉を讀めば苦しめる魂も輕くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。

そはわれは限りなき大愛であるからである。
汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫(ふびん)であるが助けやうがないのである。
汝の心の疑(うたがい)がわが救ひの波長に合はないからである。

遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。

もつと兄弟たちに『生長の家』を傳へよ。
神の愛は貰ひ切りではならぬ。
頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。

『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好い。

七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命(せいめい)を得るのだ。
わが教へはどんな宗派をも排斥するやうな狭い宗教ではない。
教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。

(昭和六年五月六日神示)

・・・

<関連Web:谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/mode=res&log=140 >

           <感謝合掌 平成30年5月6日 頓首再拝>

(五月の神示)【久遠天上理想國實現の神示】 - 伝統

2018/05/27 (Sun) 04:22:25


『生長の家』の因縁を書き置く。
『生長の家』とは人間が附けた名ではない。
神がつけさせたのである。

『生長の家』とはタカアマハラのことである。

|(たて)に無限に生(の)びることを『生(せい)』と言ひ、
一(よこ)に無限に長(の)びることを『長(ちょう)』と言ひ、
|(たて)と―(よこ)とが十字に交叉した中心を
息叉(いへ)(家<いへ>)と言ふ、

|(たて)の生命(せいめい)と―(よこ)の生命とが
交叉した中心が『家(イヘ)』である。

イヘの《ヘ》は交叉の形を象徴(かたちど)つたものである。
家(いへ)のことを巣と言ひ、住むと言ふ。
住むと云ふのは中心に集まることである。

一切のものは中心に集り、中心に統一せられることによつて澄む
即ち淨められるのである。
中心のないものは統一がないので、雑然として言噪(ことさわ)ぐのである。

今の國際連盟を見るが好い、中心が無しに
いつまで論爭(ことあげ)して見たところで、善きことは生れぬ。

論争(ことあげ)したすべての國が一つの中心にあつまりて、
統一せられねば全世界は一つの『家』にならぬのである。

久遠天上の『生長の家(たかあまはら)』が地上に顯現して全世界が
『生長の家(せいちょうのいえ)』にならねば永遠理想世界は地上に來ぬ。

《久遠天上》とは地に対する《天》ではない。
實相世界のことである。

イエス・キリストも『み心の天に成るが如く地にも成らせ給へ』と祈つたが、
實相世界では既にひとつの極身(きみ)に統一せられて、
常樂の淨土となつてゐるのである。

地上にも實相世界が形を顯(うつ)して
天國が地上に天降つてくる時期が近づいたが、

今の世界は下照姫(したてるひめ)に心を迷はせてゐて
下照姫の言ひなり通りになつてゐるから、

その迷ひの自壞作用として、地上全体が
『生長の家(たかあまはら)』になるまでにまだまだ
色々な難問題が起つて來る。

皇典にある下照姫と云ふのは地鑛の下で光つてゐる金(きん)のことである。

全世界が一つの『生長の家(せいちょうのいえ)』となり、
實相の世界の『生長の家(せいちょうのいえ)』が地上に顯(うつ)つて來る時には
是非とも此の世界も一つの中心に統一せらねばならぬ。

|(たて)と一(よこ)との十字の中心は
”光の放射”を象徴(かたど)つたものであつて
その中心を『光(ひ)の本(もと)』と言ふのである。

日本(ひのもと)は光(ひ)の中心(もと)である。
十字架の中心ユダヤにあると思つてゐたら大なる間違ひである。

十字架の中心は日の本にあり
キリストの本地(ほんじ)も日本(ひのもと)にある。

十字架の放射光線が皇統連綿の國であると云ふことが
何人にも判つて來なければ此の世は治らぬ。

久遠皇統連綿と云ふことは偶然になることではない。

形の世界が心の世界の影であることが解り、
實相世界が久遠常住の世界であると云ふことが判れば

久遠皇統連綿と云ふことは
實相世界の久遠常住性が最も迷ひの念なしに形に顯れたのが
日本國だと云ふことが解るのである。

興廃常なき世界の國々は常住性のない迷ひが影をあらはしたのであるから、
生滅常なきは當然である。

今の世界で實相世界の常住性を形に顯(うつ)し出してゐるのは
たゞ日本の國ばかりである。

生滅常なき現實世界が變じて久遠實相世界の常住性を顯現するには、
常住性ある國がひろがりて常住性なき國を包みて、十六方位の世界を
一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければならぬのである。

十六菊と云ふのは光が十六方位にひろがりて、
十六方位の國ことごとくを中心に統一せる
ことを象徴(かたちど)つたものである。

十六の數は一と六と合はせて《七つ》を意味し、
《全て》を意味し、七つの燈臺が十六方位の中央に輝きて
十六方位の國ことごとくが一つの生長(みずほ)の家(くに)となると、

そこに久遠實相の高天原が形に顯現して
常樂の國土が地上に涌出(ようしゅつ)する。
太陽はまだ昇り始めたばかりである。

生長の家を、高天原と假名附けさせたり、
生長(みずほ)の家(くに)と假名附けさせたが、

高天原(たかあまはら)── 瑞穂の國 ── 生長の家(せいちょうのいえ)──
この三つは三位にして一體である。

『生長の家』とは『長生(ながいき)の家』、『無量壽の家』、
即ち『不滅の家』であって、
實相生命の不滅の相(すがた)が家系となつて連綿と続く家である、
日本に於ては國と家とは一体である。

全世界もまた家と國とが一体である事を教へたのがイエス・キリストであつて、
そのために彼は人間同士を兄弟と呼ばせたのである。

併し兄弟があるばかりで兄弟相爭つては家は治まらぬのである。

兄弟があり、家長があり、其処に統一があつて始めて此の世が淨(きよ)まつて
生長の家となり、不滅の家となるのである。

家と云ふのは生命(せいめい)が中心に交叉し集まることを意味すると教へたが、
國と云ふものも交叉する意味のクミ(組<くみ>)から來た語である。

今の國々は皆形がクミ合つてゐるだけで、
中心の生命(せいめい)(息<いき>)が一つに統一してゐぬから
”國即家”の實が挙がつてゐぬのである。

一つの中心にすべてが統一せられて、萬民その天分に応じて其の堵(と)に安んじ、
需給の関係でも一つの人体の血液が栄養を運ぶやうに、
全体の細胞へ各々適當な資料を、適當な分量だけ過不及なく與へるやうになったとき、
《國》は即ち《家》となり始めて本当の”國家”となるのである。

かくの如き國家にては凡てのものが瑞々しく穂(ひい)で、
その國家は『瑞穂の國』であると同時に『生長(せいちょう)の家(いへ)』であり、
久遠實相の生長の家(たかあまはら)の地上的顯現であるから、
高天原と、瑞穂の國と、生長の家とは三位にして一體であると言ふのである。

高天原の『高』とは|(たて)に無限性を示し、『原』は一(よこ)に無限性を示し、
『天(あま)』は|(たて)一(よこ)陽陰相交叉して運行する結果、
至大天球と成ることを示したのであり、

一一(てんち)の間に『人(ひと)』の生まれ出でたる象(かたち)が
『天(あま)』であり顯圓(あま)である。

天地の間に生れ出でたた本當の人間はいづれも日月(かみ)の子(こ)であり
顯圓(あま)であるから完全圓滿なものである。

天津日嗣の御子と言ふのはその完全圓滿さが
何の迷ひにも隠される事なく明らかであるから
生命の實相の久遠常住性が形に其のまま顯(うつ)し出されて
連綿と無窮につづいてゐるのである。

全世界が『生長(せいちょう)の家(いへ)』になつたら
各人の家系もまた連綿につづくやうになるのである。

家が中途で絶えるのはその家が迷ひに捉はれて
『生長(せいちょう)の家(いへ)』になつてゐないからである。

                  (昭和七年五月二十七日神示)

・・・

<参考Web>

(1)久遠の生命の泉(2014.02.08)
    → http://tingokokka.blog.fc2.com/blog-entry-105.html

(2)亀の子ブログ(2017/6/9)
    → https://blogs.yahoo.co.jp/kamenoko159357/35307703.html

           <感謝合掌 平成30年5月27日 頓首再拝>

(五月の神示)【“心の法則”と“平和への道”の神示】 - 伝統

2018/05/30 (Wed) 03:27:11


吾が來れるは古へ誤れる道徳観念を修正し、
新しき正しき生き方を人類に示さんがためである。

『治にゐて亂を忘れず』と云ふのが古き人類の道徳であつたが、
『生長の家』の生き方は亂にゐて治を忘れざる生活である。

亂を忘れざる者はつひに亂に逢ふ。
亂を忘れざるが故に常に恐怖し、亂を忘れざるが故に武備をたくはへ、
武備を蓄ふるが故に近隣を威脅し、近隣を威脅するがために、
近隣また恐怖して武備を増す。

かくの如くして近隣兵を増すを見て、また自國は更に兵を加へて互に虎視眈々として
近隣相睥睨す。武備に國費を要し、教育費は削られ、俸給は縮められ、民に正色なく、
國に寧日なきは當然である。

汝ら、若し治にゐて亂を忘れざらばつひに亂に會ひ、
亂にゐて治を忘れざらば平和に逢はん。
亂を忘れざるを教へたる古き教も吾前には愚かなる者なるかな。

治にゐて亂を忘れざる者は健康にゐて病ひを忘れざる者である。
健康にゐて病ひを忘れざる者は、如何なる善行の者も、如何なる積德の者も、
すべては病ひに逢わん。

忘れずと云ふことは、心の力にて呼び寄せることを意味する。

求めよ、與へられん。呼べよ、答へんと吾れ汝に告げたであらう。
呼ぶものは皆來ることを疑ふな。

高德の人が病氣になるのは實に不思議だと思ふ人があるかも知れぬが、
治にゐて亂を忘れざるを高德と稱すべくんば、健康にゐて病ひを忘れざる高德者が、
病氣になつたとて不思議ではないのである。

吾れは汝に、死を豫想するなと言ひ、遺言状を書くなと教へたることがあらう。
また、不幸に對して用意すな、病氣の起る時の用意をして藥をて携へ歩むなと
教へたことがあらう。

すべて是れ『心の法則』である。
如何なる高德の者も『心の法則』の外に出ることは出來ぬ。

汝ら心して亂を思ふこと勿れ、心して病ひを思ふこと勿れ、
亂の眞つただ中にゐてすらも、實相の世界の常住平和を思へ。
汝ら眞に實相世界の平和を思へば、汝の世界にも平和は來たるのである。

また汝ら病ひの眞つただ中にゐてすらも、本當の汝の常住健康を思へ。
汝ら眞に實在の汝の健康を念へば健康は來たるのである。

されど悲しいかな。
いま實在世界の常住平和を知るものは 寥々なる暁天の星であるぞ。
いま皆のものは一刻と雖も亂を思はない時とてない。
逆の精神波動が積り積つて、汝ら世界はもう累卵の危ぶさである。

近いうちに汝らの世界には一大変動が來るであらう。迷ひの自壊作用である。
○○は○○○と戦はねばならぬ。
神はその時の惨害を出來るだけ少なくするやうに努力してゐるが、
人間の方でもその惨害を出來るだけ少なくするやうに協力するやう頼む。

協力と云ふも何も難しいことではない。
亂の中にゐても心の平和を失はぬ修行をすることである。
そのためには常々神想觀の修行をさしてある。

(昭和六年五月三十日夜神示)

           <感謝合掌 平成30年5月30日 頓首再拝>

(六月の神示)【歸幽の神示】 - 伝統

2018/06/26 (Tue) 03:44:01


汝の肉體は汝の《念絃》の彈奏(だんそう)する曲譜である。

生命が肉體に宿ると云ふのは二元的な考へ方であつて眞理ではない。
正しく云へば、生命はその念絃の彈ずる曲譜に従つて肉體を現すのである。
肉體と云ひ、複體と云ひ、幽體と云ひ、靈體と云ふはこれ悉く念の映像に過ぎない。

汝の念譜の種類に從つて或は肉體を現じ、或は複體を現じ、
或は幽體を現じ、或は靈體を現ずる。

すべての人はいつか肉體を失ふであろうが死ぬのではない。
人は神の子であるから不死である。

念譜の形式が變わるに從つて汝の假有の形式が變わるのである。
すべての人の假有は念の異なるに從つて、その顯現を異(こと)にする。
念の形式に大變動を生ずれば、汝の假有は他界に顯現し、
今迄の念の顯現たる肉體は速かに自壞自消する。

これを人々は死と呼ぶが死ではない。
それは『生命』が念の絃をもつて一曲を彈じ終つてそれを止め、
他の奏曲に移らんとするにも等しい。


『生命(せいめい)』の彈ずる念の曲譜の形式に大變動を生ぜず、
その念絃の律動にただ調和を缺きたるのみなるを病と云ふ。
かくの如き病は、念絃の律動の調子を直せば治るのである。

併し如何にその念絃の律動正しくとも初歩の一曲を必ず終つて
一層高き形式の《曲譜》を學ばねばならない。

吾が云ふ意味は地上の生活は必ず終らねばならないと云ふことである。
地上の生活は汝の初歩の一曲である。

速かにこれを終るものは、初歩の教本を速かに終えたものである。
一曲が終らんとするを悲しむな。それはなお高き一曲に進まんがためである。
その前に調律者が來て汝の念絃の調子を正すであろう。

この調律のため一時汝の假有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。
此の世の一曲が終る前に肉體の調子が亂れたやうに見えるのは
此調律のためであつて眞に調子が亂れたのではない。

汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。
一曲は終るとも彈き手は終るのではない、
彈き手は神の子であつて不死であるぞ。

(昭和六年六月二十六日神示)

           <感謝合掌 平成30年6月26日 頓首再拝>

(七月の神示)【萬教包容の神示】 - 伝統

2018/07/07 (Sat) 04:36:34


キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると云ひ、
大本教では丹波の綾部が世界の中心であると云ひ、
天理教では大和の丹波市が世界の中心であると云ひ、
天行居では周防の岩城山が世界の中心であると云ふ。

世界の中心爭ひも久しいものである。
併しわれは言ふ、それらは悉く皆世界の中心であると。
一定の場所が世界の中心だと思つてゐるものは憐れなるかな。

生命の實相の教へが最も鮮かに顯れたところが形の世界の中心であるのである。
そこは最も世を照らす光が多いからである。

基督教でもイエスの教へがエルサレムに最もよく輝いてゐた時代は
エルサレムが世界の中心であつたのである。

天理教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は大和の丹波市が世界の中心であつたし、
大本教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は丹波の綾部が中心であつたのである。

わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。

誰にてもあれ生命の實相を此の世に最も多く輝かせた處に
吾は行きてとどまり其処が世界の中心となるのである。

十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。
『十』もヒノモトと読み、卍もヒノモトと讀む。

いづれも中心より四方に救ひの慈光の放射された相(すがた)を形どつたものであるから
ヒノモトと讀むのである。

古神道ひとすぢで行く、基督教ひとすぢで行く、阿弥陀ひとすぢで行くと云ふやうな人があり、
そのひとすぢの所に誠があらはれてゐて喜ばしいが、大抵は自教の外に他教を認め、
他と混りたくない意味で云ふのであるから、自分で自分の崇める神なり佛なりを
小さく貶(おと)してゐるのが気の毒である。

本當の神は一つであり、他の神と対立するやうな小さな存在ではない。

本當の古神道は自餘の一切の教を包括するものであり、
本當の基督教は自餘の一切の教へを包括するものであり、
本當の仏教は自餘の一切の教へを包括するものである。

そして如何なる教にてもあれ一切の教へを包括する本當の實相に到達したとき
『生長の家(たかあまはら)』と云ふのである。
それは天爾(てんに)の『家』であり『巣』であり『統(す)』であつて教ではない。

その家の中にあって色々の教(おしへ)が生きるのである。
本當の古神道は『生長の家』の内にあり、本當の基督教は『生長の家』の内にあり、
本當の佛教は『生長の家』の内にあり、生命の實相の顯現する所、説かるる所、
讀まるる所、その悉くが世界の中心である。

(昭和七年七月七日朝神示)

           <感謝合掌 平成30年7月7日 頓首再拝>

(八月の神示)【本當の信仰に就いての神示】 - 伝統

2018/08/05 (Sun) 09:38:16


平和は内界にあるのであって、外界にあるのではない。
外界は現象である、目眩(めまぐる)しく移り變る世界である。
常に變移する世界を追ひ廻してゐて落着かうと思つても落着けるものではない。

一世を支配する権力者の位置にのぼれば
誰も自分を脅かすことが出來なからうと思って最高の位置にのぼってみても、
高ければ高いほど不安であるのが常である。

では、誰よりも下座の地位について、もうこれ以上は落ちようのない
貧しい生活を送つたら不安がなからうと思つて、乞食の生活を送つてみても、
やはり不安は去るものではない。

下座々々と心掛けても、一椀の食にありつくとき、
尚、その一椀の食にすらありつき得ない同胞があることを思つたら、
その一椀の食も安心して食べられないであらう。

所詮は、高く上(のぼ)るも、低く下るも、比較上の世界に住む以上は、
その人の心から不安が去らないのは當然である。

何故汝らは絶對の世界に住しないのであるか。
目眩(めまぐる)しく回転する圓周の世界を追ひ廻さないで、
圓の中心の世界に住しないのであるか。

何故(なぜ)汝らは比較を絶した『我れ神の子』の世界に住しないのであるか。
中心の世界に坐せば、上下左右天地四維(しい)のいづこに顯現するとも
不安はないのである。

『我れ神の子』の世界に住すれば、
如何に高き位置につくとも高過ぎると云ふこともなく、

如何に低き位置につくとも
穢されたと云ふ感じも屈辱の感じも受けるものではないのである。

かくの如き『我れ神の子』の實相に参ぜしめ、
無畏怖の境地に入らしめるのが本當の宗教である。

恐怖心を唆(そそ)って遷善改過(せんぜんかいか)せしめるものは、
それは一種の社會施設であり、刑務所であり、懲治場(ちょうちば)であつて
宗教ではないのである。

宗教とは己が眞性を自覺せしめ、上下左右天地四維いづれに動いても、
いづれに置かれても、縛られない、恐れない、
自由自在の『神の子』たる本性を自覺せしめるものを云ふのである。

汝ら恐怖の宗教に心せよ。
神の子は、金剛不壊の實相身、無礙自在(むげじざい)の
無罣礙身(むけいげしん)であるから、凡そ恐怖すべき何ものもないのである。

恐怖を教へるものは迷を教へるものである。
恐怖を唆(そゝ)るものは、迷を唆るものである。

病氣や天變地變や色々の災厄で恐怖を教へるものは
人間の幸福が物質の増減で左右せられ、或は火に焼かれ、
或は水に溺れるものだとの迷信に立脚して教をなすのであり、
それを信ずる者は、それは信仰は信仰であっても、迷信に堕するものである。

火にも焼けず水にも溺れず、天地四維上下左右いづれに置かれるも
自由自在な人間の本性を信ずる信仰こそ本當の信仰である。  

  (昭和八年八月五日神示)

           <感謝合掌 平成30年8月5日 頓首再拝>

(八月の神示)【懺悔(ざんげ)の神示】 - 伝統

2018/08/12 (Sun) 03:32:53

【懺悔の神示】

汝らのうち病める者あらば、吾が教への先達(せんだち)の許に來たりて祈りを乞ひ
神想觀の指導を頼め。吾が教への先達は吾が言葉を受けたるものなれば、
彼の言葉汝を癒さん。

心に省みて罪ありと思負うものは、教への先達に包むところなく懺悔すべし。
吾が教へは、『罪』の無を説く。
本来『罪』なければ、懺悔も不要なりと思負は過(あやま)れり。

『罪』は本來『暗(やみ)』にして光にあうとき自滅すれども、
包みて光に會わしめざるときは、闇はそのまま闇にして滅ぶるものには非ざるなり。
罪の價は死なり。罪を包みて光に會わしめざる結果は死なり。

世の人々よ、悪を包み隠すことなかれ。
悪を包み隠すは、なお悪に執着せるがためなり。
罪の暴露を恐るるはなおその罪に執着せるがためなり。

『本來罪なし』の吾が教えを聽きて増上慢に陥ることなかれ。
本來罪なしの真理を知るものが、
何ぞ罪の暴露を恐れてそれを蔽うことを敢えてせんや。

『罪は本來ないからこれで好い』と自らを偽ることなかれ。
みずからを偽ることは罪の第一なり。
そは、みずからを包み隠し、その本來相の顯現をさまたぐるが故なり。

されどまた罪を一旦懺悔したる以上は、再びその罪に心を捉えられて、
神の分身なる自己の心を苦しむることなかれ。罪は懺悔と共に消ゆるなり。
暗は光の前に暴露さるると同時に消ゆるならずや。

懺悔せざるものの罪は消えず、暴露されざる暗の消えざるは当然にあらずや。
懺悔は密室にて行なうか、手紙に書きて教えの先達に送りても宜(よ)し。

されど暗の前にいたずらに悪評する民衆の前に、罪を暴露しても何の効なし。
暗に暗を照らさしむるとも何の甲斐かあらん。

人は一たび眞に懺悔するとき、
その刹那よりその全存在は洗い淨められたると等しく、
本來の神の子たる圓相をあらはす。

眞に懺悔せる後は汝ら心安かれ。
汝らは吾が眞子なればなり。吾汝らと一體なり。
聖靈(いのちのいき)汝らに交通し、汝らの靈(みたま)殖えて汝ら無限生命を得ん。

汝らのうち病める者あらば互いに祈り合ふべし。
互いに祈り合ふとき、吾が力汝らの上に來たらん。
自己が癒さるることを祈るはなお自己の利害にとらはれていることあり、
互いに祈り合ふとき愛の心あらはれ、神の靈波そのままに汝らの上に感ずべし。

病める人のために、その人を訪れて、祈り、且つ神想觀をなすべし。
祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、いずれも神の靈波に波長の合わぬ
迷(まよひ)の波動なりと知れ。

地方の信者たち互いに団結して祈り合へ。
家族同士互いに祈り合ふべし。
祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり。

本(もと)を忘るべからず。愛を竭(つく)し合い、
敬虔を竭し合ひ、誠を竭し合ひ、神を敬すべし。
この世界は光と迷いの反影が交錯してあらはれている映画なれば、
迷を一日も早く消すが世の苦難を濟(すく)う唯一の道なり。

(昭和七年八月十二日神示)

           <感謝合掌 平成30年8月12日 頓首再拝>

(九月の神示)【實相金剛身の神示】 - 伝統

2018/09/02 (Sun) 03:05:51


悪平等は悉くあやまりである。
人間は肉體でないと言へば、空氣のやうなエーテルのやうな
捉へ所のない『空(くう)』なるものが人間のように思つてゐる者も
あれど皆見當ちがひである。
肉體や物質のほかは見えない者は氣の毒である。

肉體は假相の念波的存在であつて、須臾(しゆゆ)にして消え滅びるのが肉體である。
そのやうな頼りないものを《本當の人間》と思ふな。
《本當の人間》即ち”實相人間”は『空(くう)』ではない。
金剛身である。永遠不壞なる實相身である。

形は無いと思ふな。形はたしかにある。

實相人間は肉體人間よりもまだまだ確かな至微至妙な形を有つが、
五官六感に觸れる形でないから、
五官六感に觸れる現象界の言葉では説明のしやうがない、
それは假りに肉體人間の姿を一層精妙にしたような姿だと思へば好い。

實相世界と云ふのは神が創造せる唯一の實在世界であつて、
此の世界のみが實在であり、此の世界に住む人間が實相人間であり、
至微至妙完全円滿金剛不壞の実相身を備えてゐるのである。

實相世界は一つの神に創造(つく)られ一つの神の叡智によつて支配せられてゐるから、
秩序整然たる相(すがた)である。實相世界を空無の世界、虚無の世界、茫漠の世界だと
思ふのは誤りである。

肉體の智慧には判らぬ。悟つたつもりで間違つてゐるから説いて聞かすのである。

其処には山もあれば川もあり、植物もあれば、動物もある。
獅子も羊もあるが皆な仲よく相戯れてゐる。
一切の人間、動物、諸靈悉く調和して相食むものはない。

從つて病気の人間は一人もない。

山の形や、川の形や、植物の形や、乃至動物の形なども、
假に現象界のそれに似ていると思へば好いが、
一層精妙なのが實相世界の姿である。

それは既に完成されたる世界であるが、
完成したと言へば静止の世界のやうに思ふかも知れぬが、
不斷の創造の世界である。不斷の創造を續けながら完成した世界である。

實相世界にはただ一つの國があるだけである。

その國は日の本(ひのもと)と名附けられ、
また高天原國(たかあまはら)と名附けられてゐる。
唯ひとりの君(きみ)がいまして高天原國(たかあまはら)を治(しろ)しめしてゐる。

現象世界は現界でも幽界でも念の映し世であつて、迷ひの念と、正しき念とが相交錯して
映つてゐるのであるから各國相對立して相爭ひ、悪念病念相爭ひて
修羅場(しゅらじょう)を演じてゐるが、
そんな對立は實相世界には現に存在しないのである。

實相世界が現象世界に迷ひなく映(うつ)れば、現實世界も一君に統一せられ、
悉(ことごと)くの國が大和合して一つの大日本國を顯現し、
現實世界にも獅子(しし)と羊が相戯れ、蚊も蚤も人を螫(さ)さず、
幽界、靈界の諸靈悉く相和して調和し其(そ)の處を得る。

かくの如くなることを指してキリストは
『御心が天になるが如く地にも成る』と言つたのである。

その時期は近づいてゐる。
しかしこれが實現する迄には迷ひの自壞作用として暫く惨憺たる
破壞の場面が演じられなければならぬ。

早く眞理を悟つたものは迷ひの自壞作用から免(のが)れて破壞の場面の中にも
實相世界を映して破壞の中に巻込まれずに濟むのである。

上海の戰ひにその實例が示してある。

(昭和七年九月二日神示)

           <感謝合掌 平成30年9月2日 頓首再拝>

(九月の神示)【生死の教】 - 伝統

2018/09/05 (Wed) 14:15:05


生死はまゝならぬと云へども生死は心のまゝである。

兄弟を生かす心の者は生き、兄弟を殺す心の者は死す。
殺すと云うても刀で斬ることではない。
兄弟を生かす心のないものは殺してゐるのである。

周囲の人々の思はくを生かしてやるのは『兄弟を生かす』の最も大なるものである。
自己の好まざる所を他(た)に轉嫁するは『兄弟を殺す』の最も大なるものである。

周囲に痰を吐き散らすな、紙屑を投げ捨てるな。
これは物質の事でもあれど、物質のことだけではない。

口角泡を飛ばして兄弟を非難するものは兄弟の心に唾を吐きかける者である。
腹立ちを手紙に書いて送る者は兄弟の心に紙屑を投げる者である。
かれは兄弟の心を言葉で殺し文字で殺す者である。

兄弟の心を殺すよりも尚大なる殺しがある。
汝の両親の思ひやりを殺し、汝の主君の思ひやりを殺す者である。

本當に汝が、心の殺人を止めて感謝の心に充(み)たされるやうになるまでは、
心の波長が違ふから神の救ひの靈波は受けられぬ。

(昭和六年九月五日神示)

           <感謝合掌 平成30年9月5日 頓首再拝>

(九月の神示)【靈魂進化の神示】 - 伝統

2018/09/15 (Sat) 04:32:11


『神の子』なる人間の實相を現象世界に實現するのが人生の目的である。
現象世界とは現界、幽界、靈界を通じて呼ぶ言葉である。

人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子<たね>)が現象界に投影する時、
時間的空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くやうに
大體定められてゐるのを言ふ。

それは譬へば朝顔の種子(たね)の中には既に『花』の因子が包藏されてゐるが、
それが現象界に『花』となって完成するまでには、日光に逢ひ、湿氣に遇ひ、
芽を出(いだ)し、蔓(つる)を出し、蕾を生じ、つひに花を開くと云ふやうに、
大體一定の順序を追うて展開するが如きである。

斯くの如く、神の子なる實相人間も、
その投影を現象界に完成するには大體一定の時間を要し、

植物が日光に逢ひ、雨露に遇ふが如く、
或は幸福に恵まれ、或は虐運と戦ふことによつて、
つひに實相人間の現象界への投影を完成するのである。

併し、その投影が完成するには、
その投影は『念波の集積』で成立つてゐるのであるし、

人間は心の自由を有ち、自由に實相の悟りによって
念波を淨め得もすれば、迷(まよひ)によって
念波を一層汚すことも出來るのであるから、

現象世界に實相人間を顯現する過程(進化の過程)を
心次第で縮めることも長くすることも出來るのである。

靈魂進化の過程を短縮するのは、念の淨化による。
念の淨化には、實相を悟ることが第一であり、物質慾に捉れざることが第二である。
物質慾に捉われざるためには、『物質本來無し』の眞理を悟るが第一である。

『物質本來無し』の眞理をさとる程度に達せざる者には、
物質の快に捉われざるための修行として、自ら苦を求めて喜ぶか、
物質に快を求めて却つて苦を得る體験を通じて、
つひに物質慾に捉われざるに到るかの二途しかない。

前者は自ら進んで嘗(な)める苦行であり、
後者は幸福を求めれども求めれども運命的に他動的にやつてくる苦難である。

その他に過去の惡業の自壞する過程として
自己の靈的流動體に起る擾(じょう)亂現象の苦痛もある。

苦難がみだりに取去られず、
多くの靈魂の靈界通信が苦行の價値を力説してゐるのも
此の色々の理由によるのである。

     (昭和八年九月十五日神示)

           <感謝合掌 平成30年9月15日 頓首再拝>

(九月の神示)【大調和の神示】  - 伝統

2018/09/27 (Thu) 04:59:46


汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の萬物何物も汝を害することは出來ぬ。

汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪靈に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解してゐない證據であるから省みて和解せよ。
われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教へたのはこの意味である。

汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなはぬ。
天地萬物と和解せよとは、天地萬物に感謝せよとの意味である。

本當の和解は互ひに怺へ合つたり、我慢し合つたりするのでは得られぬ。
怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合つたとき本當の和解が成立する。

神に感謝しても天地萬物に感謝せぬものは天地萬物と和解が成立せぬ。
天地萬物との和解が成立せねば、神は助けたうても、
争ひの念波は神の救ひの念波を能(よ)う受けぬ。

皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫または妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の萬物(すべてのもの)に感謝せよ。
その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。

われは全ての總(すべ)てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはゐる。
われは此處に見よ、彼處(かしこ)に見よと云ふが如くにはゐないのである。

だからわれは靈媒には憑(かか)らぬ。神を霊媒に招(よ)んでみて神が來ると思つてはならぬ。
われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。

われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其處(そこ)にわれは顯れる。

(昭和六年九月二十七日夜神示)

           <感謝合掌 平成30年9月27日 頓首再拝>

(九月の神示)【最後の審判に就いての神示】 - 伝統

2018/09/28 (Fri) 03:37:30


キリスト再び臨(きた)りて審判(さば)くとは今のことである。
キリストとは肉體にあらず、『眞理』である。
キリストとは肉體にあらず、『光』である。

肉體のわれの臨るを待ち望むな。
吾れは既に此處に臨(きた)れるに非ずや、
吾れは道である、眞理である、光である。

『眞理(われ)』來つて虚妄(まよひ)を審判き、
『光(われ)』來つて暗黒(やみ)を審判き、
すべての虚妄(まよひ)と暗黒(くらき)とを
地獄の火に投げ入れてこれを燒き滅ぼす。

今こそ最後の審判(しんぱん)であると知れ。

されど恐るる勿れ、吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず。

虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き
暗黒(やみ)を燒かるる者は却つて光をあらはさん。

病ひは癒やされ、惱みは消えん。
燒かるる者は『汝』にあらずして、『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。

『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるにあらず、
神より出(い)でざる汝は實在にあらず、
實在に非(あらざ)る汝はその眞相(しんそう)を暴露して消滅せん。

わが臨れるは『眞』と『僞』と、
『實在』と『虚妄(こまう)』とを選(よ)り別けて、

『僞(ぎ)』と『虚妄(こまう)』とを永久(えいきゅう)に
非實在(ぢごく)の中に葬りて封印を施(ほどこ)さんがためである。

(昭和六年九月二十八日朝神示)

           <感謝合掌 平成30年9月28日 頓首再拝>

真の「神示」は「生命」の黙示の顕れ - 伝統

2018/10/07 (Sun) 04:53:48


      *「光明道中記」(10月7日 黙示を受くる日)より


【神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで「生命」の黙示そのままが
 精神に顕れて来る状態である。           (『生命の實相』第十一巻)】

「神は霊媒にはかからぬ」と云う意味は、
民間市井の巫女的現象、口寄現象、二重人格として出て来るのは、
いずれも霊示であって、その憑(かか)って来る霊魂の等級に応じて
一(ピン)から十(キリ)まであって、悉くは信ずべからずと云うことである。

国家の大事に尊き方の上に神霊来格の実例は古書にも見えていることである。

と云って普通の場合に於ては高級神霊さえも霊媒には憑らないのであるから、
(『生命の實相』霊界篇参照)霊媒的現象によって高級霊又は神が来(きた)った
と思って、思いあがってはいけないのである。

普通霊媒にかかるのは特殊の霊媒自身の守護霊か、
その辺に紆(う)路ついていた浮浪の霊の悪戯(いたずら)である。
斯くの如きものを神示だと思って有り難がっていたら必ず失敗する。

「神示」とは普通「霊示」の如く二重人格現象として、神寄せ式にはあらわれない。

それは「神格の内流」として直日霊(なおひのみたま)の啓示として、
”心が”純粋”になったとき”、内部から直接的に啓(ひら)かれて来る。

普通の人でも「良心」とはそれである。
「絶対」の直接把握だ。

私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、
直感された真理をその直後に書いたのだ。

           <感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝>

神示の種々 - 伝統

2018/10/08 (Mon) 03:08:39


        *「光明道中記」(10月8日 神は善のみと知る日)より

【神は「真如」であり此の真如より来生せし神人が「如来」である。
                       (『生命の實相』第一巻)】

「神は善である。至誠の善である」そう云うことは神示である。
その文章(かきかた)が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。

理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。
そう云うことは神想観中でなくとも普通の時にも、
パッと内部の光耀(こうよう)で判ることがある。

そこで普通の「直観」と「神示」とはどう区別すべきかなどど云うことを
色々考える人もあるらしい。
直観は純粋であれば神示だと思っても好い。併し要は純粋度の問題である。

利害関係に晦まされるに従って純粋度は減ずる。
物質ありと引っかかる程度に従って純粋度は減ずる。
五官に捉えられるに従って純粋度は減ずる。

そこで宇宙の絶対実在を悟るために、
仏教では般若波羅蜜多の行があり、五蘊皆空と観じ、
色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)なしと観じ、眼耳鼻舌身意なしと観じ、
色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)なしと観じ、
眼界耳界鼻界舌界身界意識界なしと観じ、

それらを”ある”かの如く思い間違えた「無明(まよい)」も無しと観じ、
「無明」もないから「悟る」と云うことも無しと観じ、・・・
斯くの如くして一切の引っかかりを無くして初めて、「ここに彼岸あり」と悟る。

その内部的自覚は神示の一種である。

波羅蜜多とは到彼岸(はらみた)と訳されている。

           <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

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