伝統板・第二

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「真の人間とは」 - 夕刻版

2016/10/04 (Tue) 18:36:09



このタイトルで、光明掲示板・第二で投稿したことがありますが、
すでに消滅いたしておりますので、あらためて、紹介してまいります。

《絶対者の顕現としての我》

         *『生長の家』(昭和25年7月6日の法語)より

   吾は 永遠なるものである。
   吾は 不滅なるものである。
   吾は 神である。

   吾は 迷える凡夫(ぼんぷ)ではないのである、
   吾は 仏である。

   吾は永遠である。
   吾は普遍である。

   自分を個別的存在であると思っていたのは 迷いである。
   吾は 決して有限の存在ではないのである。
   吾は 死をこえたものである。

   吾は 時間をこえ、空間をこえ、久遠に存在し、
   無限の智慧をもち、無限の愛をもち、
   死せず滅せず、苦しまず、悲しまず、
   永遠に喜ぶ所のものである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


          <感謝合掌 平成28年10月4日 頓首再拝>

《人間は肉体に非ず》 - 伝統

2016/10/06 (Thu) 18:50:54


          *『 生長の家 』(昭和25年10月27日の法語)より

   病気は恐怖を去ればその80%は治ったと云ってもよいが、
   しかし恐怖心を恐怖することも止(や)めなければならない。

   人間の実相は 「 神の子 」 であるから病気によっても、
   恐怖心によっても滅ぼされるようなものではないのである。


   肺臓が何だ、心臓が何だ、脳髄が何だ、血液が何だ、
   人間は肺臓に非ず心臓に非ず、脳髄にあらず、筋肉にあらず、
   それらすべてを結合したるものにも非ずだ。

   人間は霊なり、神の子なり、実相なり。
   人間を動かすものは 「 神の生命 」 である。
   それ以外のものの増減に捉(とら)われてはならないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

          <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

《吾が真実の自分は 「 神の子 」 である》 - 伝統

2016/10/10 (Mon) 17:15:16

         *『 生長の家 』(昭和25年5月14日の法語)より
 
   吾に宿り給う 「 神 」 が本当の自分である。

   神は遠い所に ましますのではなくして
   今ここに自分の内に
   凡ゆる善を与えんがために すでに い給うのである。

   全能の神が自分の内に宿っていて、
   もし自分がそれに振り向きさえするならば、
   いつでも神は吾がために働き給うのである。

   常に神は働き給うているのであるのに
   気づかずして、神からはなれて 自分の我で
   物事をしようとするから失敗が現われて来るのである。

   神は吾にその生命を
   投げ入れ給うたのである。

   それ故に吾も神に吾が生命を
   投げ入れるべきである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

          <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

《肉体は人間ではない》 - 伝統

2016/10/14 (Fri) 19:01:47


         *『 生長の家 』(昭和25年9月13日の法語)より

   普通の人間は肉体の脳髄がものを考え、感ずるのであると
   考えがちであるけれども、
   肉体はただ意識のラジオ・セットにすぎないのである。

   脳髄にどんな打撃が加えられようとも、
   肉体のどの部分に故障が起ろうとも、

   意識の主体たる人間そのものは 「 神の子 」 だから
   何ら破壊せられることなく、故障が起ることなく、

   ただ毀(こわ)れたラジオ・セットに音波が起らなくなるように、
   その肉体は音無しくなるだけである。

   眼が傷(きずつ)いたら、人間はその眼を通して見なくなる。
   脳髄が傷いたら人間はその脳髄を通して考えなくなるだけである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

          <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

自己を「霊的人間」として悟りましょう - 伝統

2016/10/19 (Wed) 19:49:16


          *「真理」第9巻生活篇(P139~140)より

物質は物質に非ず、霊の表現である。
現象人間は人間にあらず、霊的人間の表現である。

その表現に誤差があって、完全に霊的人間の完全さを表現していないのは、
霊的人間から或るマイナスをして「霊的人間」と見ないところの
自覚の錯誤から来るのである。

恰度、色盲が実際ある色から或る色をマイナスして
美しき色彩を見ないのと同様である。

その自覚の錯誤を捨てて「神の子」なる人間として、
自分を自覚し、物質と見ゆれども物質人間でなくして、
此の身このまま「霊的人間」であると云う一如的な自覚を得るとき、

もう其処に病気も不幸もなく、エデンの楽園(仏教的に言えば極楽浄土)に
住んでいるそのままの「完全なる人間」を実現することになる。

併し感覚面に映る有様を見てその自覚がグラついて来たときに
再び病気や不幸が現れてくるのです。

内在の「神の子」を常に神想観して自覚し直すことが大切であります。
一度悟ったと云っても感覚面への印象は
人間の「霊的実在」としての自覚を覆しがちだからです。


          <感謝合掌 平成28年10月19日 頓首再拝>

超人を自覚せよ - 伝統

2016/10/23 (Sun) 18:24:45


          *「真理」第9巻生活篇(P145~146)より

五尺何寸、十何貫の物質的肉体が人間だと思っていたところの
弱小な常識から超えましょう。

宗教は常識を超え、肉体を超え、自己の存在自覚を超常識の世界にまで
翔(か)けのぼらせ、あなたを超人たらしめるものまのです。

私たちの説く真理は単に「病人を治す治病宗教」だ
などと云うケチなものではありません。

あなたの自覚が超人にまで高まりますから、病気が消えるのです。
何よりも『生命の實相』の第一巻(携帯版では第一・第二)にある
実相篇をお読み下さい。

この部分があなたに最も超常識の超人的自覚を与えるために
書かれた部分であります。

また『真理』第七巻を悟入篇をお読み下さい。

そして人間の実相が本来「神仏」であって肉体を超えた存在である
ことを理論的に把握なさい。

「病気を治そう」などと云うケチな考えを起して、
病気を心でつかんではなりません。

超人の自覚から自然に病気を超えるのです。
病気を超えたとき其処に病気はもうないのです。

          <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

あなたは既に超人です - 伝統

2016/10/26 (Wed) 20:10:18


          *「真理」第9巻生活篇(P146)より

超人の自覚は、あなた自身の自覚の程度に従って、
時間・空間の制約を超えて自由になれるのです。

私を標準や手本だと考えてはありません。
私は常に「自分は教祖ではない。私は喇叭である」と言っている通り、
私は教えられたところを伝え、聴いたところを取り次ぐだけです。

私の成績は真理の全体的効果の表現ではありません。
私を目標にしてはなりません。
真理を目標とするのです。

そうしてみずから超人になって頂くのです。
超人よ!!
あなたが《それ》です。

あなたは一切の制限を超えたのです。
最早あなたは病気や、失望や、失敗や、
悲観の虜(とりこ)となることはないのです。

「いや、まだ私の病気は治らぬ」 と被仰(おっしゃ)るのですか。

とんでもない、あなたは肉体ではないのです。
肉体でないから肉体の病気も《あなたのもの》ではないのです。

超えることです。

          <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

肉体を思い煩うことなかれ! - 伝統

2016/11/10 (Thu) 18:27:44


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より

人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。

思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。

神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。

そしてだれにも責任を負わせないで、自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。

・・・


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月10日)より

人間は「神の子」であるから不死である。
死んだと見える人間は、それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。

病気が治ったことを悟ったためであるというのは、自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。

釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。

         <感謝合掌 平成28年11月10日 頓首再拝>

《本当の人間は肉体人間ではない》 - 伝統

2016/11/26 (Sat) 18:50:55


         *「理想世界」(昭和47年10月1日の法語)より

   「わたくしたちが通常「人間」と呼ぶ者・・・つまり食べたり、飲んだり、
   栽培をしたり、取引の 勘定をしたりしている人間は、わたくしたちが
   自覚しているようには、人間そものものを表さず、人間を歪めて表現しているのである。

   そのような肉体人間を私どもは尊敬しない。

   しかしながらその肉体人間が魂の器官となって、その行為を通して、
   内なる魂を表現せしめるならば 、わたしはその前に跪かずにはいられないのである」

   「What we commonly call man, the eating, dri nking, planting, counting man,
   does not, as we know him, represent himself, but misrep resents himself.
   Him we do not respect, but the soul, whose or gan he is,
   would he let it appear through his action, would make our knees bend. 」


   (これはエマソンの「The Over Soul」という エッセイの一節である。
   このエッセイの完訳は 日本教文社発行の「エマソン選集」第二巻「精 神について」の
   篇に出ている。なかなか丹念な 訳であるから読まれたい。

   しかしその訳の中で 「精神」と訳出されている原語はSoulであるから、
   そのつもりで読まれないと意味が混同されるおそれがある。
   上記の訳は一層わかり易くSoul を「魂」又は「内なる魂」と訳したのである 。)


   明らかにエマソンは「肉体人間」と「本当の人 間」とを区別して、
   飲んだり食ったり田を耕し たり商売勘定をしている「肉体人間」を、
   そのまま「本当の人間」だと思ったら間違いである ということを書いているのである。

   それだから 、私はエマソンを近代における光明思想の幽祖であるといっているのである。
   しかし釈尊は2千数百年前の古代においてそれを説いていられるのである。


   http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2708

         <感謝合掌 平成28年11月26日 頓首再拝>

物質の世界、精神の世界、霊の世界、実相の世界 - 伝統

2016/11/30 (Wed) 18:22:20


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より

人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、さらに実相の世界に住んでいるのである。

物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。

この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。

だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。

昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。

われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。

科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。

この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない生命に必要なある要素が存在する
のであって、科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、米糠のビタミンB1とは
現在の科学者には未知のある要素において異なるのであって、これは臨床効果においても
見られるところである。

さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、心のうちに恐怖や心配や
悲しみや、ある人に対する憤(いきどお)りや憎しみを捨てないでいるかぎりにおいては、
薬効があらわれないことがしばしばあるのである。

それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して不用意にその病気の恐るべき
名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せ
しめ、かかる不用意なる医者の診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと思われる
患者を急速に死に導いてゆく実例も多いのである。

これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、言葉の暴力は、
人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力も
その人を害した程度にしたがって、「罪あり」と認めらるべきものである。

さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、物質治療も、精神治療も結局は
効果をあらわさないのであって、霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。

生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、本人の精神状態に及ぼす
心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先
霊を含む)の悟りの向上によるところが多いのである。

医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、癲癇の発作が聖経の
読誦で全治してしまう実例の多いのも、これらの病気が霊的障礙であるからである。

顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するにやぶさかでない現代の医学が、
なぜ肉眼で見えないという理由だけで霊の障害による病源を研究することを迷信視しようとする
のであろうか。

さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、それを悟ることによって
現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。

         <感謝合掌 平成28年11月30日 頓首再拝>

人間は円満完全・健康である。 - 伝統

2016/12/06 (Tue) 18:37:08

《月は常に円相である》

        *『 生長の家 』(昭和25年10月8日の法語)より

   皎々(こうこう)と輝く月にとっては、雲は存在しないのである。
   雲は下界(げかい)の心から見るから存在するのである。

   月そのものにとっては存在しないのである。

   「迷いの心」は此の雲のようなものであって、
   人間そのものにとっては存在しないのであるが、
   下界の心(五官の心)にとってのみ
   あるかの如(ごと)く見えるのである。

   月そのものにとっては、月は常に円相である。

   そのように下界の心(五官の心)にとっては、
   人間が病み苦しみ不幸になるように見えても、
   人間そのものにとっては人間は円満完全であり健康である。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

         <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>

《人間は遍照金剛の霊的実体である》 - 伝統

2016/12/08 (Thu) 18:57:20


        *『 生長の家 』(昭和25年9月18日の法語)より

   物質、肉体それ自身は、認識の形式の
   銀幕(スクリーン)上に映っている影である。

   映画にうつっている人物に生命はないが如(ごと)く、
   肉眼に見えている肉体人間そのものは
   実在でもなければ、生命もないのである。

   肉体は自分ではなく、
   その奥に本当の自分(霊的自分)があるのである。

   「 霊的自分 」 は 『 甘露の法雨 』 に書かれているように
   「 神より出でたる光なり 」 であって、
   光輝燦然(さんぜん)、遍照金剛(へんじょうこんごう)
   の存在である。

   その光の前に想念のフィルムを回転して
   表現されているのが肉体人間なのである。
   それは一種の映像であり、本当の自分自身ではないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年12月8日 頓首再拝>

吾らは初めから如来 - 伝統

2017/01/22 (Sun) 19:06:01


           *「光明道中記」(1月22日)より

【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】

金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。

凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。

仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると道元は『正法眼蔵』で喝破している。
たとい吾等が汚れたように見えようとも、人間は本来汚れているものではあり得ないのである。

発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、人間はその仏なる実相を露呈する。
そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、打てばそれがあらわれる。

打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 
生長の家は

「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」

と言って打つ。

どちらが効果があるかは既に実証済である。

            <感謝合掌 平成29年1月22日 頓首再拝>

《人間は何であるか》 - 伝統

2017/02/16 (Thu) 18:10:35


           *「光明法語」(2月16日)より

人間は肉体ではない。
肉体は《人間》の肉体である。

それなら人間とは何であるか、人間とは生命である。
『生きる力』であり、『愛する力』であり、『思考する力』である。
肉体は『生きる力』が想念の活動を組み合わせて創造(つく)ったところの産物である。

本当の人間は、その想念し考えるところの本体なのである。

吾々が『悪』を想念することは、吾々自身が『悪』に成ることである。
想念とは生命の波であり、生命そのものが想念することによって
『想念するところのもの』になるのである。

            <感謝合掌 平成29年2月16日 頓首再拝>

永遠に死なないところの機関手が「人間」 - 伝統

2017/04/07 (Fri) 18:56:30


           *「光明道中記」(4月7日)より抜粋

【五官に顕れる状態で喜悲(きひ)する者は五官を信じているので神を信じていない。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

眼は物を視(み)ない、耳は音を聴かない、脳髄は《もの》を考えない。
視るのは心であり、聴くのは心であり、考えるのは心である。
心は自分の便宜のために眼を創造し、耳を創造し、脳髄を創造したのである。

ここに言う「心」とは脳髄から出る作用ではない。
脳髄を設計したところの「心」である。
それは脳髄以前の「心」であるから「生命」と同意義に解しても可(よ)い。

「生命」は《常に》ある。
併し脳髄は破壊する。眼球も破壊する。聴官も破壊する。
併し、破壊するものは《常にある》ものではない。

途中から造られたもの、暫定的なもの、ただの機関に過ぎないもので、
「生命」そのものではない、「人間」そのものではない。

人間は死なないものである。

常に破壊しつつある機関の中にあってそれを操縦しながら、
永遠に死なないところの機関手が「人間」なのである。

            <感謝合掌 平成29年4月7日 頓首再拝>

人間の真の姿 - 伝統

2017/04/15 (Sat) 18:24:31


       *「生命の實相」第13巻倫理篇上(P75~76)より

わたしはこの序論の冒頭に、

「人生の目的とは、要するにこの世の神の生命を顕現することにある。
神がこの世にあらわれた生活を示現(じげん)することである」

と書きましたが、

われわれがその本来相において「神と一体である」という事実を肯定しなければ、
われらはこの世に神の生命(せいめい)を顕現することもできず、
神がこの世にあらわれた生活を示現することもできないのであります。

ただ、神なるもののみ、
神なる生命(せいめい)をこの世に示現することができるのであります。

本来、人が神でないならば
いくら努力しても神の生命をこの世に示現することはできない。
そして「神」のみが「善」であるから、本来、神でない人間がもしありとすれば、
彼らはいつまでも善に到達することはできないということになるのであります。

ところが幸いに、人間は本来神の子であり、
その本性において《神そのもの》であるがゆえに、

「本当の人間(リーアル・マン)」が生活されたならば、
そこに「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命がこの世に示現した」
ことになるのであります。

            <感謝合掌 平成29年4月15日 頓首再拝>

本当のわれというものは「無限荘厳の我」である - 伝統

2017/04/18 (Tue) 18:18:13


       *『生命の實相』第28巻久遠仏性篇下(P4~5)より

『法華経』の「自我偈」に書いてある実相の世界は、一様平等な
ホモジニヤスな世界ではなく、実に実に美しい世界が書いてある。

園林諸々の堂閣、種々の宝をもって荘厳せり、
宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なりと書いてある。
あれが本当の実相の世界です。

言葉に現わしてあるからまだ完全に現れていない。
それはただ形容が書いてあるだけでありますけれども、
あれが実相の世界であります。

その美しい実相の世界が、われわれの五官のレンズを通して眺めると、
そのレンズに曇りがあるからいまわれわれが肉眼で見ているような、
こういう美しさやら、汚れやら、愛やら、争いやらが取り交ぜて現れている。

美人もあれば、病人のような憔悴した醜い相もあるというふうに出ている
のでありますけれども、本当のわれというものは「無限荘厳の我」である。
活気溌剌たる無限に生きる力を持って、無限荘厳の身を持ち、
無限荘厳の世界の中に今現に住んでいるいるのであります。

今現にその実相世界に住んでいるのです。
今現に住んでいるその世界を、肉体が死んでから
そういう無限荘厳の世界へ往くのだと思うとまちがいであります。

衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時にも、病苦にて痩せさらばうて
貧しい病床にいるように見える時にも、今現に、われわれは宝樹華果多き
実相の国土に安楽身を逍遥させているのです。

            <感謝合掌 平成29年4月18日 頓首再拝>

「真の人間」を観る - 伝統

2017/04/26 (Wed) 16:53:03


          *『実相と現象』(P16)より

さて「真の人間の実相」を観るということが肝腎でありますが、
「真の人間」は観なければ顕われないのであります。

肉眼に見える人間は「仮相の人間」に過ぎない。

そして真の人間 ―― 神の完全な姿こそ本当の人間であるのに、
それは「霊的実在」ですから肉眼だけでみると判らないのです。

肉眼を超えて”実相の眼”を以ってそれを観なければならないのであります。

「本当の我」これは”神の子”である。
仏性であり、真理であり、只(ただ)これのみが唯一の実在なのであります。

偽物(にせもの)の我、病気の我、悪性格の我、そんなものは如何に実在する
ように見えても、それは”迷い”であり、心が勝手に胸に描き、
その描いたものを蜃気楼のように空中に映し出しているのであって、
その実、決して存在しないのであります。

            <感謝合掌 平成29年4月26日 頓首再拝>

まん円いお月様のようにマン円(まる)い姿が、実相の人間 - 伝統

2017/05/02 (Tue) 20:23:18


         *『生命の實相』第21巻経典篇(P65~66)より

『維摩経』には「この肉体は顛倒(=迷い)より生ず」とありますが、
そのとおりなのであります。

この肉体というものは要するに虚しい念の影なのです。
それは「虚の念」の影であって実相の念の影ではない。
実相は奥にあって「虚の念」が作用してここに影を映しているのです。

《ほんと》のものでない《もの》は消え去ってしまうより仕方ないのです。

海の水に喩えて言うならその念とは海の表面に立つ波だと先ほど申しました。
波は本来無いものである。

風が吹かなければ波は立たない。

風が来て波を立てさせた時に、その波はあるかのように見えるけれども、
さてこの波を掴まえようと思っても、波は常にその姿を変えていき掴まえようもない。
今つかまえたと思った波も、次の瞬間にはもう変わった姿になって渚を打っている。

要するにこの波すなわち念というものは捉えんとしても捉えられるものではない。
さて捉えてみればここには既にない。
無いものを追いかけて捉えようとするのは我々の迷いなのです。

われわれは迷いの感覚で《本来無い念》(喩えてみれば海の波)を有ると思っている。
そしてくだけた波(妄念)の上に実相の影を写して、
ちょうど月が波にくだけてちりぢりの光に散った、
そのくだけた月の相(すがた)を見て、それが本当の自分であると思い、

自分というのは、この憐れにくだけた肉体人間だと思うから
われわれとは儚いものだということにもなるのだけれども、
われわれの実相(じっそう)は波に映っている月ではない。

波が立とうが立つまいが、水の上にその姿がくだけて映ろうが映るまいが、
厳として完全円満な、欠くることなき、まん円(まる)な月こそ
われわれの実相なのであります。

今の「念(ねん)」の上に自分自身の本当の相(すがた)を捉えんと欲したら。
すでに次の瞬間に相(すがた)が変わっている。
もうまん円(まる)い月ではない。

たとい水の上で、くだけて見えようとも、
本当の月は円満なまん円(まる)いお月様である。

それが、その月のようにマン円(まる)い姿が、実相の人間であります。
それが分かったら、人間は儚(はかな)いものだとは言われない。
ちっとも儚いことがないのが人間なのです。

            <感謝合掌 平成29年5月2日 頓首再拝>

「真の人間」を自覚するには - 伝統

2017/05/07 (Sun) 19:28:00


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども
内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は地球上のいかなる残虐の君主よりも
なお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、傲慢によってみずから傷つき、
あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは真に自由を得ることはできないのである。
しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって苦しめられるようには
できていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。
だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。

これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。

その完全さを神想観によって自覚する時
人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。

釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。
自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時あらゆる不完全は消え去り、
不調和はなくなり、仏すなわちいっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。

しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。

正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。

            <感謝合掌 平成29年5月7日 頓首再拝>

実相人間の姿 - 伝統

2017/06/15 (Thu) 21:11:17


        *『生命の實相』第28巻久遠仏性篇下(P4~5)より

今現に我々は宝樹華果多き実相の国土に安楽身を逍遥させているのです。
今現に実相の国土にいるけれども、五官のスクリーンすなわち網目を通して、
下へ映る世界は縦・横・厚みだけしか映らない。

それ以上のひろがりの世界はスクリーンの上にあって残っているので、
われわれの五官という網目を通して見ると、
どうしても縦・横・厚みの3次元だけしか見えない。

その3次元だけでも完全に原形そのままに見えればよいのだけれども、
念のレンズに凹凸さまざまの歪みがあるために、真直な顔が歪んで見えたり、
近眼でないものが近眼に現われたりしている。

それでその念のレンズの無明(くもり)というものを断ってしまったら、
近眼が近眼でなくなり、あるいは病人が病人でなくなるというふうになる。

けれどもここに健康になり近眼の治った人間でも、
それが五官に見える現象人間である限り、まだまだ本当の人間ではない。

それは本当の無限荘厳の、無限の美しさの、その何と言おうか、
言いようのない無限の妙なる実相人間の姿を、ただ縦・横・厚みの3次元だけを
撮影できる写真機で映した人間なのです。

それからは無限次元の複雑な美しさが捨象られている、
ただそれが比較的歪みなしに映っているのは、
健康な人間として現われているのであります。

            <感謝合掌 平成29年6月15日 頓首再拝>

《肉の人間・偽存在の人間》を抹殺し去ったとき、《真の人間》を見出す - 伝統

2017/08/01 (Tue) 18:37:48


          *「人間死んでも死なぬ」(P359~360)より

キリストは神の子即ち理念(ロゴス)であるが故に
磔殺(たくさつ)され難きものである。
(ヨハネ伝第一章)

磔殺されたのは仮相であり、「土の塵」であり、「偽存在(ニセモノ)の人間」である。
仮相が抹殺されたが故に実相が顕現し、「土の塵」が抹殺されたが故に
「神の生気(いのちのいき)」なる真の人間が生き、

「偽存在(ニセモノ)の肉の人間」が十字架につけられたが故に
「真の人間」が復活したのである。

これがキリストの復活であって、その復活によってキリストは創世記の第二章の
「土の塵の人間」を抹殺すれば本当の人間が顕現する事を教えたのである。

キリストが「十字架を負いて我に従え」と言ったのは「肉の人間」を《偽存在の人間》
として存在の自覚から抹殺し去ったとき、ここに此の儘神の理念であるところの
「真の人間」を見出すと言ったのである。

            <感謝合掌 平成29年8月1日 頓首再拝>

《人間は霊であると云う意味》 - 伝統

2017/09/24 (Sun) 20:09:33


        *『 生長の家 』(昭和26年1月3日の法語)より

   「 霊 」 と云う語は ひろい意味をもっている。

   一般にそれは
   「 非物質であって霊妙(ふしぎ)な はたらきあるもの 」
   と云う意味である。


   霊と云えば、
   宇宙霊すなわち 「 天地の本源神(もとのかみ) 」 と
   云うような場合もあれば、

   肉体を脱け出た個別霊すなわち 「 霊魂 」 を意味する場合もある。


   「 人間は霊である 」 と云うような場合は、
   「 人間は霊魂である 」 と云う意味ではなく、

   人間は 「 非物質にして霊妙な はたらきを有する神霊である 」
   と云うような意味である。


   「 霊妙な はたらき 」 と云う意味には
   「 神通自在 」 と云う意味もあれば、

   「 生命力を有する 」 すなわち
   「 霊活者 」 であると云う意味もあり、

   「 叡智(えいち)を有する 」 すなわち
   「 霊智者 」 であると云う意味もある。


    即ち 「 人間は霊である 」 と云う意味は
   「 人間は非物質にして 神通自在の生命そのものであり
   霊智者である 」 と云う意味である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成29年9月24日 頓首再拝>

妙有の人間 - 伝統

2017/10/24 (Tue) 19:15:41


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月24日本当に明るくなる日)より

【本当の明るさは常に真理と、愛と、智慧とから来るのである。
                       (『生命の實相』第八巻)】

「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに生長の家の
新しき真空妙有の説き方があり、それが驚くべき奇蹟をあらわし、

キリストの言ったところの「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」
と言った如き業績が続々あらわれるようになったのである。

「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。

妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き
頼りなき存在の意ではない。

妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。

妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。

それは五官に触れ得ない故に非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、後世人をして人間の真実性を補足するに
くるしませる結果となったのである。

「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き
表現法(いいかた)でも尚足りない。

「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、
具体的な仏身であり、金剛不壊身である。

           <感謝合掌 平成29年10月24日 頓首再拝>

自己弁護する自分は「本物の自己でない」 - 伝統

2018/03/08 (Thu) 18:27:29


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、
ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

            <感謝合掌 平成30年3月8日 頓首再拝>

《「神聖なる人間」の自覚》 - 伝統

2018/03/14 (Wed) 18:45:27


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P326) より

新しく生れかわるとは「肉体人間」の自覚から
「霊なる人間」への自覚に一転することである。
「不浄なる人間」の自覚から「神聖なる人間」への自覚に超入することである。

色々の犯罪が行われるのは、自分自身を「性欲から生れてきた人間」
「不浄なる欲望の産物なる人間」と思うからである。

そして自己の「生(せい)」の根元なるものに”不浄”を感じ”罪”を感じ、
それを嫌悪し、それから逃れようとするために、却って其の不浄に捉えられて
不浄を犯し、罪を重なる。

そして、愈々(いよいよ)自己嫌悪、自己憎悪に陥るがゆえに、
自己を此の世に生み出した父母(ふぼ)を呪う。
父コンプレックスが其処に生じ、世界は不浄となり、罪悪よ憎悪との地獄となる。

釈尊も父コンプレックスに陥って出家し、ついに自己が「肉体なる人間」から
生まれた者ではなく「霊なる者」から生まれたる者と知り、
久遠無量寿の自己を発見したのである。

            <感謝合掌 平成30年3月14日 頓首再拝>

「真の人間」は日々に新たに生まれる - 伝統

2018/04/08 (Sun) 16:51:22


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月8日)」より

釈迦が生まれた日である。
しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。

生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。

「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。
なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。

            <感謝合掌 平成30年4月8日 頓首再拝>

「真の人間」を自覚するには - 伝統

2018/05/07 (Mon) 19:22:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は地球上のいかなる残虐の君主よりもなお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、傲慢によってみずから傷つき、
あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは真に自由を得ることはできないのである。
しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって苦しめられるようには
できていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。
だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。

これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。

その完全さを神想観によって自覚する時人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。

釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。
自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時あらゆる不完全は消え去り、
不調和はなくなり、仏すなわちいっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。

しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。

正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。

            <感謝合掌 平成30年5月7日 頓首再拝>

「真の人間」は具体的な仏身であり、金剛不壊身である。 - 伝統

2018/10/24 (Wed) 17:19:03


       *「光明道中記」(10月24日 本当に明るくなる日) より

【本当の明るさは常に真理と、愛と、智慧とから来るのである。(『生命の實相』第八巻)】

「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに生長の家の新しき真空妙有の
説き方があり、それが驚くべき奇蹟をあらわし、

キリストの言ったところの「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」と言った如き
業績が続々あらわれるようになったのである。

「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。

妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き頼りなき存在の意ではない。
妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。

妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。

それは五官に触れ得ない故に非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、後世人をして人間の真実性を補足するに
くるしませる結果となったのである。

「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き表現法(いいかた)でも尚足りない。

「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、
具体的な仏身であり、金剛不壊身である。

           <感謝合掌 平成30年10月24日 頓首再拝>

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