伝統板・第二

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ひかりの一日一言⑲~愛を人生に処方して - 伝統

2016/10/01 (Sat) 04:07:05

ひかりの一日一言《1日》

《1日 神の恵みをいただくには》

「汝の窓をひらいて、わが恵みのいかに大いに流れ入るかを実証せよ」

これが神がわれらに示したもう言葉であるのである。

神の恵みの流れ入る窓はどこにあるかというと、
あなたの愛の心と信とにあるのである。

あなたの心が、神の愛と善と無供給とを信じることが深い程度に従って、
あなたの心の窓はそれだけ広く開くのである。

まず「愛」である。

次に「信」である。

その次には、「祈り」によって「知恵」を受けることである。

次には、その受けた知恵を「実践」することである。

結果があらわれる前に、まず結果は既に与えられたと「感謝」することである。

そして「報恩行」を行うことである。

「信」「祈り」「知恵」「実践」「感謝」「報恩行」
この六つが神の恵みを頂くための六波羅蜜である。  


感情が激昂している時に書かれたる手紙は、
同じ事実を書いてもその文章に毒と棘とを含んでいる。

あとからあやまることができるにしても、一旦自分の文章で相手の感情に
傷をつけたら、なかなかそれは取り返しのつかない事になるのである。

もし過って興奮した際に自分がいったり書いたりした言動で、
相手に傷つけることがあったら、自己を責めても詰まらない。


「神はわが興奮によって過ちて犯せる行為をゆるしたもう。
しかして今後かくの如き事のなきよう導き給うことを感謝致します。

私とあの人との間は神の愛がこれを調和せしめ給いて、
互いに愛情を以て結ばれるのである。

私はあの人を愛しており、あの人は私を愛しているのである」

という思念を繰り返すがよいのである。
 

谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P199~200) より

・・・

<関連Web>

(1)ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439 

(2)ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866429

(3)ひかりの一日一言⑮~理想を高く掲げよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898754

(4)ひかりの一日一言⑯~心霊への目覚め
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6929870

(5)ひかりの一日一言⑰~健康への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6962847

(6)ひかりの一日一言⑱~寿福への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6990572

           <感謝合掌 平成28年10月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2016/10/02 (Sun) 06:24:41


《2日 成功への扉はこうして開かれる》

如何に自分が失敗したかのように見えるときにも、
失敗し切らない魂が自分の内に宿っているのである。
何故なら自分の魂は神の生命であるからである。

不幸が我々の前に立ちふさがり、
暗黒が自分を蔽うて手のほどこしようがないと考えられている時にも、
神と直通する道は閉ざされていないのである。

神と我々との間を閉ざしているように見えているのは、
唯(ただ)神を愛しないところの自身の「不信」の念のあらわれである。

神を愛し信念と信仰とによってこの扉をひらいたならば、
直ちに神の光は射し込んで来るのである。

成功への扉は、時として「それは不可能だ」と云う考えを、

「神はわれを愛し給う。神と偕なる自分には不可能なし」

と云う信念に置きかえるだけで開かれる事さえあるのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P201) より

           <感謝合掌 平成28年10月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2016/10/03 (Mon) 03:54:06


《3日 愛念は愛念を招(よ)ぶ》

今日(きょう)一日、愛と善意と平和の
想念のみをもつように心掛けて御覧なさい。

それは貴方を素晴らしく若返らせ、健康にする力があります。

地獄のような環境が忽ち極楽になったような感じがするでしょう。


あなたの内に宿っている神性 ―― 愛と善意と平和 ―― の導きのままに
あなたの生活をなすよう心掛けて御覧なさい。

『神の国は汝の内にあり』と云った
イエスの意味が本当にお判りになると思います。


何人(なんびと)に対しても愛念と同情とを起こすことは、
あなたの生活に異常な温か味を添えることになります。

愛は愛を招いて、あなた自身が周囲から愛されることになります。

人間が幸福感を得るのは愛されることによってであります。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P201~202) より

           <感謝合掌 平成28年10月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2016/10/04 (Tue) 03:25:53


《4日 失意に沈む人を激励せよ》

失意に沈んでいる人を鼓舞激励してあげることは神の愛の発現である。
失意に沈んでいる人は人生の暗黒面ばかり見ている気の毒な人であるから、
人生の明るい面を見るように導いてあげることが必要である。

愛に絶望している人には愛を与え、やさしい同情の言葉を与えることは
其の人に起死回生の勇気を与えることになるのである。

人間は神の子供の兄弟たちであるから、
どんな人でも《ひとり》で孤立している事には
とても耐えられないのである。

そんなに虐遇されているときでも、逆境にあるときでも、
誰か真に自分を愛してくれる人があると思うだけでも勇気づけられるのである。

愛は生命を生かすための最高の糧である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P202) より

           <感謝合掌 平成28年10月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2016/10/05 (Wed) 03:28:55


《5日 人から誤解された場合》

他(ひと)から誤解されたからと云って失望してはならない。

自分も多くの人々の美点の総てを見ることに失敗し、
時々誤解によって人々を悪しざまに思ったことがあるからである。

肉体人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うことを知って、
誤解した人を宥(ゆる)さねばならない。

又どんなに偉い人でも、釈迦でも、キリストでも、
親鸞でも、日蓮でも、誤解されてその時代に容れられなかった
時があるのだと云うことを知って、

自分が受けた誤れる批難くらいは何でもないことだ、
と心から捨ててしまうことが必要である。

そして

「すべての人は神の子であるから、
互いに愛し合い理解し合っていて誤解し合っている人は一人もない」

と実相調和の有様を心に描くことが必要である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P203) より

           <感謝合掌 平成28年10月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2016/10/06 (Thu) 04:37:55


《6日 自己の内に宿る神を自覚せよ》

あなたの中に「今」神が宿っているのであります。
神の無限力があなたを支えているのです。
神の愛があなたを護っているのです。

神の生命(いのち)があなたに流れ込んであなたの生命(いのち)となっているのです
―― 此の素晴らしい真理を目を瞑って、黙想してごらんなさい。
悦びがしみじみと内から湧いてまいります。

どんな困難でも、大問題でも、神にゆだねて解決しないと云うことはありません。

神と云うのは外にあるのではありません。
あなたの内に宿っていられるのです。
あなたの肉体は神様のお宮なのです。

「わが内に宿り給う無限力なる神よ、
あなたは常に私を導いて下さいます」と呼び掛けなさい。

あなたの肉体は神の宮であり、神の叡智の湧き出でるパイプであり、
神の生命(せいめい)が具体的に顕現するための自働的機構であります。
その中に神は坐(ま)しましてあなたを導き、動かし、生かしていられるのです。

あなたの肉体はあまりに完全な自働的機構でありますから、それ自身、
「我(が)」の意識を有していて、時としては内に宿りたまう神(これが本当の貴方自身です)
の御意(みこころ)に背反するようなことを行うことがあるものです。

そう云うような時に、所謂る「我(が)が出た」と云うことになるのでありまして、
事物が調子よく行かぬようになったときにはよく反省して神に懺悔し、
神の御心(みこころ)に従って実践して行きますと万事よくなります。

あなたの内に宿り給う神は、常にあなたを内部から力づけ、善き想念を生み出し、
よき計画を思いつかせてい給うのであります。

あなたの内に宿りたまう神は、
常にあなたに呼びかけて次のように云っておられるのです。

「わが愛する者よ、わたしはお前を愛している。
わたしの愛を受けよ、そしてお前のハートを、全身を全霊をわたしにおくれ。
わたしはお前と一体になりたいのだよ」と。

何故(なぜ)あなたは、神様のこの尊き求愛を受けないのですか。

神の愛を受けて一体となるとき、
貴方には何んでも貴方の欲するものを得(う)ることが出来るのです。

神は無限の富者であるからであります。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P203~205) より

           <感謝合掌 平成28年10月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2016/10/07 (Fri) 03:49:12


《7日 非観的な気分になったときは》

時として何の理由もないのに 憂鬱な陰気な否定的な気分が
自分の心のうちに湧き起こって来て、
世界が暗澹として何の希望も生き甲斐も感じられなく思われることがあります。

これは、どこかから宇宙に漂う悲観的な精神波動が放送されているのを
貴方がヒョッコリ受信したのであって、
あなたの本物(実相のあなた)が悲観的になったのではありません。

この真理を知ることが、その暗い感じから脱却する第一の門であります。

貴方が此の真理を知り、

「今自分にかかって来ているのは自分以外の念波であって、
自分は神の子であるから悲観的になったり、憂鬱になったりするものでない。
自分の心は明るいのだ、幸福だ」

と一心に念ずることにしますと、
暗い精神波動の波長を外(そ)らしてしまうことが出来ます。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P205) より

           <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2016/10/08 (Sat) 03:22:41

《8日 人を冷酷に審いてはならない》

愛情のない批評をされた時ほど、不快になるものはありません。

自分がそうされた時、不快になるのですから
あなたも人に対して冷たい批評をしてはなりません。

では、人を冷酷に批評しそうに自分がなってきた時には、
よほど警戒しなければなりません。

その時こそ神想観をし、(または神想観の気持ちになって)
「あの人は決して悪い人ではないのだ。あの人は神の子であり、立派な人であり、
あれで善意を一所懸命にやっているのだ。ありがとうございます」と

相手の実相を心の中で拝んでいればきっと、
相手は善意に満ちたよい人になってくれるのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P205~206) より

           <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2016/10/09 (Sun) 03:19:22

《9日 神の如く生きるには》

或る日のわが祈り。

「わが内に宿りたもう神よ。あなたの御心もて私の一挙手一投足を導き給いて、
あなたの完全なるみ姿をわれに於てあらわしめ給え。

神の子として相応(ふさ)わしくない
あらゆる行為と習慣とを我(われ)より剥落せしめたまえ。

今、神の御心われに流れ入りたまい、わが神らしからざる想念感情を浄め給う。

全身一万四千兆の細胞ことごとく神の御心にみたされ、神の御心の如く生き、
神の御心の如く動き、神の御心の如く生理作用を営んでいるのである。

われは神の如く善と愛のみ想念し、善と愛のみを感情するのである。

神の生命(せいめい)がわが肉、わが骨、わが内臓、わが全身である。

神に深く感謝致します」。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P206~207) より

           <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2016/10/10 (Mon) 04:03:33


《10日 神は必要に従って与えたもう》

神は、自己の内に「無限」を蔵し給うのであるが、
一般的にいえば、(特殊の場合は別)神は、その「無限」を
全部一時にわれわれに開示し給う訳ではないのである。

必要に従って必要になる物を与え給うのが神の一般的な行き方であると云える。

だから必要でない場合に、それを一所懸命考えるというやり方は、
多くの場合、一種の取り越し苦労と同じことで、
エネルギーを無駄に浪費しながら効果が少ないのである。

実際問題にぶつかったとき真実の神の導きが出て来るのである。

諺(ことわざ)に云う「当って砕けろ」とは、それである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P207) より

           <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2016/10/11 (Tue) 03:40:22


《11日 好きと愛とを混同してはならない》

神は人間を地上に或る使命を果させる目的でお生みになったのであるから、
人間が地上に生活するに必要な衣食住は必ず与え給うのである。

それが得られないのは、神の方に間違いがあるのではないのである。

人間が地上における使命を果すことを怠っているか、
神のみ心にかなわない愛にそむく生活をしているからであるのである。

愛と生命(せいめい)と智慧とは一体であるから
生命(せいめい)を生かすことが愛であり、
そのための正しい智慧の実践が愛である。

だから愛とは単に「好き」と云う意味ではない。
「あの人を好きだ」と云いながら、その貞操を蹂躙して不幸の運命につき落とすなどは、
決して愛ではないのであって、

それは「好き」と「愛する」とを混同したのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P207~208) より

           <感謝合掌 平成28年10月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2016/10/12 (Wed) 04:27:58


《12日 神の管理に一切を委ねよ》

何よりも、「神はすべてのすべて」と云う真理をみとめることが先である。

「神はすべてのすべて」であり、一切の創造者であり、一切の主(しゅ)にまします
のであるから、人間自身が高慢僭上(こうまんせんじょう)にも「俺のもの」
「儂(わし)のもの」「僕のもの」などと云い得る何物も存在しないのである。

だから、自分自身と、自分の有(も)てるものと、自分の仕事と、その一切を
神に明け渡して、先ず神に無条件降伏をすることが大切である。

かく決心が出来たのちに、万物は外見から見れば同様に見えているかも知れぬけれども、
内容から云えば、神の管理の下(もと)に、神の導きの下(もと)に一切が置かれた
ことになるのである。

神の管理の下(もと)に神の導きの下(もと)に一切が置かれたとき
万事は必ず調和して運ぶのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P208) より

           <感謝合掌 平成28年10月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2016/10/13 (Thu) 04:30:36


《13日 愛と親切とは異なる》

愛を表現する言葉、表情、態度と云うものは
相手を生かす力をもっているものである。
愛のこもった見舞いの言葉は病人を立たしめる。


しかし「あゝ重病でお気の毒ですね。随分衰弱なさいましたね」こう云う親切な言葉は、
現象に捉われて、相手の「健康なる生命」の実相を見ない言葉であるから、
却って相手を殺すのである。

「殺す」のは愛に背くのであるから、
斯う云う所謂親切な言葉は、愛の言葉ではないのである。

「親切」と「愛」とは異なるのである。

親切が単に親しみだけでなく深切となり、深く切に、相手の実相を徹見し、
病気の現象の奥にある完全健康なる彼の実相を見て「汝は病気に非ず」と
直言し得るようになってこそそれは「愛」である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P209) より

           <感謝合掌 平成28年10月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2016/10/14 (Fri) 03:45:23


《14日 病人を訪問した時には》

病人を訪問したときには先ず「思ったより元気そうなので安心しました。
私は非常にあなたのことを心配していましたのですよ。
しかし来てみれば、顔色もよいし、そんなに痩せてもいないし」と

先ず病人自身の恐怖を取り去り、安心の境地に導くことが大切であります。

その次には

「人間の内部には無限の快復力が宿っている。この内部生命の快復力こそ、神の力であって、
下痢するのも、咳するのも、痰が出るのも、熱があるのも、これは内部生命の自然治療の
働きである。死骸が下痢したり咳をしたりすることは無い。
これは死の働きでなく、生命の働きだ」

と云うことを諄々と説いて病気の症状に捉われて恐怖しないように、
相手を導くことが本当の深切である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P209~210) より

           <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2016/10/15 (Sat) 03:25:20


《15日 時々自己を祝福せよ》

「われは神の子である。神より祝福されたる者である。
神の愛はわがすべての過ちをゆるしたまいてわれを祝福したまい、愛したもうのである」

斯う仕事の合間合間に、30秒か1分間でよいから、
眼をつぶってこの言葉を心の中に黙念せよ。

疲れたとき、憂鬱になったとき、この黙念をつづけるならば
不思議に憂鬱は去ってしまい、疲労は回復するのである。

更に静かに深呼吸しながら、

「神の生命(せいめい)流れ入りてわが仕事を導きたまう」

と念ずるならば、仕事を遂行するよき知恵が湧き出て来て仕事が順調に運ぶのである。

煙草を吸う人ならば、その煙をふかぶかと喫(す)いこみながら同じように念ずるのもよい。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P210) より

           <感謝合掌 平成28年10月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2016/10/16 (Sun) 03:15:22


《16日 人が老いないためには》

神は我等をつくりたもうただけではなく、
絶えず我等を新生せしめ給いつつあるのである。

人間は「既成の人間」としてその儘(まま)、
老い古びてしまうような存在ではないのである。

常に若返り、常に不浄物は浄められ、
常に疲労は回復せしめられつつあるのである。
 
若しあなたが年令の進むにつれて若返ることなく老いて行くとすれば、
それはあなたの生活に何か間違っている所があるからである。

人間は物質だと云う観念は人間を老いさせるものである。
年とれば老いるという観念もまた然り。

心の平和を失ったことはないか、
正しい食物を正しい方法で正しい分量にとっているか、
と云うようなことも亦(また)考えてみなければならない。

人生の行路は焦ってはならない。

悠々自適、しかも不断に仕事をすることも老いない道である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P210~211) より

           <感謝合掌 平成28年10月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2016/10/17 (Mon) 04:45:33


《17日 失敗した人に追い討ちをかけるな》

どんなに暗黒にみえるときにも其処には光があるのである。

暗黒は唯(ただ)の一時的現象にすぎない。

暗幕を張った中に這入ってみると、一時(じ)は光が全く無いように見えるけれども、
じっと見詰めていると、其処には光があってだんだん見えて来ることがわかるのである。

暗黒に包まれたように失意に崩(くず)折れてしまっている人に、
賞讃の言葉や激励の言葉をかけてあげることは深い愛の道である。

失敗したとみずから悔悟(かいご)している人に、
追い討ちをかけるように罵(のの)しる言葉をかけることは
愛なき仕業(しわざ)である。

折角、自己反省して更生しようとしていた人に反抗心を起させ、
その人が過ちを悔い改めて善に遷(うつ)ろうとする働きを妨げることになる。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P211~212) より

           <感謝合掌 平成28年10月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2016/10/18 (Tue) 03:47:34


《18日 腹の立つ相手を赦すこと》

あなたの心のうちに何か腹が立つことがあったら、
それを他(た)の人の所為(せい)にして
人を憎んだり怨んだりしてはならないのである。

人を憎んだり怨んだりしている限りに於いては
貴方の不快の念は去らないのである。
先ず相手を赦すことが貴方の不快の念を除(と)り去る唯一の道である。

一切万事、我れより出でて、我(われ)に復(かえ)ると云うことを知って、
赦した次には相手を愛しなければならない。

愛は、自分の気に入る者だけを愛したのでは本当の愛ではないのである。
愛は最も愛しがたい相手を愛することによって、それが単に「好き」であるか、
「本当の愛」であるかがテストされるのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P212) より

           <感謝合掌 平成28年10月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2016/10/19 (Wed) 03:18:21

《19日 天地万物に感謝せよ》

ブラザ-・ロ-レンスは

「自分は神の愛を感じながらフライパンの上でケ-キを焼く。
神の愛を感ずるには自分にとっては
地に落ち散っている藁ひと筋を拾うだけで充分である」

と云ったそうである。

「木の切株に腰をおろすときにはその切株を拝んでから腰をおろせ。
大根を抜くときには、大根にお礼を云ってから抜け」

と云うのが金光教祖の教えであった。

一筋の藁、一本の大根、それに神の愛を感じ、
感謝出来るのが宗教的境地であって、
金が儲かるから集ると云うのは相場師の境地である。

百丈和尚は一枚の大根の葉が流れ行くのを追っかけて往って拾って頂いたと云う。

人生が退屈であったり、無意識に見えたりするのはその人の愛が乏しいからである。
愛して何事でも、愛のために行うならば自然と歓喜が湧いて来て退屈であったり、
無意識に感じられたりする筈はないのである。

仕事が退屈なのは、その仕事を
経済的理由で自分の労力を切売するような気持ちでするからである。

「神様、あなたの愛をこの仕事を通して実現させていただきます。ありがとうございます」

と感謝しながら仕事をするならば、決して仕事は退屈な重荷となってこないのである。

利己主義のところに真の悦びは湧いて来る筈はない。

神の愛を実現する処にのみ真の悦びは湧いて来るのである。 


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P212~213) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月1日~2日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2016/10/20 (Thu) 04:48:12


《20日 神を愛する者は人をも愛する》

真の信仰を得るまでは、本当の魂の平安は得られないのである。
他(ひと)を真にゆるすまでは本当の魂の平安は得られないのである。

吾々がどんなに熱心に祈っても神想観で黙然しても欲することが得られないのは、
誰かを憎んでいてその人をゆるさないからである。

神を愛するとは自己に宿る神性を愛することにほかならない。
自己に宿る仏性を愛することにほかならない。

自己に宿る神性仏性を愛するには同時に他(ひと)に宿る神性仏性を愛しなければならない。
何故(なぜ)なら神は霊であり、すべての渾(すべ)てであって、
すべてのものの中に神の霊が宿っているからである。

汝の隣人を愛さないでいて、
神を愛していると云うことは、戯言(たわごと)に過ぎないのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P213~214) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月3日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2016/10/21 (Fri) 04:36:16


《21日 汝の肉体を讃美せよ》

あなたが肉体を愛し、その健康を求めるならば、
肉体に小言を云ってはならないのである。

肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃え、
肉体の健康を祝福しなければならないのである。

こんな不健康な肉体をどうして讃美し祝福することが出来ようと思う人が
あるかも知れないけれども、あなたの肉体の何処かは健康であるであろう。
肺のわるい人も眼は見えるであろう。耳は聞こえるであろう。手足は健全であるであろう。

然らば何故、その眼を、耳を、手足を讃美し、祝福し、
それに感謝しないのであろうか。

真に神の恵みに感謝したとき、その肺も治るであろうに。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P214) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月4日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2016/10/22 (Sat) 04:37:39


《22日 自己に宿る自然療能力に感謝せよ》

肉体を愛し讃美するのは、必ずしも肉体主義でもエロティシズムでもないのである。

肉体は神の自己表現の機関として、神が創造したまいし
理念の形象化(かたちになったもの)である。
だから肉体を神の宮とも云うのである。

神の自己表現の機関である肉体は健康であるように、
美しくあるように作られたのであり、その美と健康とを維持するように
内部に自然療能(神御自身の再生能力)を与えられているのである。

常に神の再生能力は吾らを生かし、修復し、若返らせ、
疲労を快復せしめつつあるのである。

その驚くべき快復を発現せしめようと思うならば、
先ずその力の存在を認め、それに感謝することである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P215) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月5日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2016/10/23 (Sun) 04:47:11


《23日 人生は錦織なす織物である》
 

人生を織物にたとえるならば、人間はその織(お)り手である。
縦糸は全体を貫く自分の希望であり、理想である。

緯(よこ)糸は縦糸をさえぎり交叉するところの出来事である。

どんなすがたに緯(よこ)糸が交叉して来ようとも、
縦糸は必ずこれをまとめ上げて一反の織物に完成するのである。

そしてその緯糸の交叉する状態に応じていろいろの美しい
模様を作り上げるのである。

吾々はこう考えるとき自分の前途に横たわる出来事が何であろうとも、
それを悲しむことも憎むことも要(い)らないのである。

すべての出来事は人生を美しき織物に織りなす素材であるに過ぎないのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P215~216) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月6日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2016/10/24 (Mon) 03:41:48


《24日 自己の心を護ること》

最も辛く見えるところの境遇や出来事も、
それは一層魂を深めるところの素材である。

秋が来て落葉するように見える時にも、
吾々は嘆いてはならないのである。
落葉する樹ほど春になって美しき花をひらくのである。

寒さが訪れて来るときに、樹木が葉を落とすのは、
外の出来事にのみ生命を労しないで、内に深くこもって、
生命力をいたわり育て貯蔵せんがためである。

外界が荒々しいときには、
人間も外にひろがることを考えないで、内を守るが好いのである。

自己の心の中に悪い想念はないだろうか、
間違った感情はないだろうか、よく自己反省して見ることである。

そして外の悪想念の吹き込まないように自己の心を守り育てるべきである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P215~216) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月7日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2016/10/25 (Tue) 04:14:22


《25日 心の窓を閉じて自分を護ること》

外に寒い風が吹きすさんだり、あまり外に埃が立つときに諸君は窓をしめて、
その風が吹きこまないようにするであろう。

それならば、誰かが貴方の心の中に激情の嵐を吹き込ませたり、
怒り憎しみや悪口雑言の埃(ほこり)を吹き込ませたりするときに
何故あなたは自分の心の窓をひらいていて、その嵐で自分の心の中をさわがせたり、
吹込んで来る怒りや憎しみの埃(ほこり)だらけの心にしてしまうのであろうか。

人が誰かの悪口(あっこう)を云うときには自分の心の窓を閉じよ。
人が汝を悪(あしざまに云うときには自分の心の窓を閉じよ。
人が病気の話をするときには自分の心の窓を閉じよ。  


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P216~217) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月8日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2016/10/26 (Wed) 04:17:40


《26日 神はどんな難問をも解決したもう》

神はすべてのすべてであるから、神は外にも内にも到る処にいますのである。

何事が起って来ようとも、問題が起るのは解決があるから
心配することは要らないのである。

解決ができないのは智慧が足りないからである。
神の智慧をもって来さえすればどんな問題でも解決できるのである。

神の智慧をもって来るのはどうするか、
神にその問題をわたしてしまえば好(よ)いのである。
神に「自分」を明け渡すのである。

「神よ、この問題を貴方に全部ゆだねます。
神よ、あなたは無限の愛であり、無限の智慧あられます。
だから必ず此(こ)の問題をすべての人の幸福になるよう解決して下さいます」

このように祈るが好(よ)い。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P217) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月9日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2016/10/27 (Thu) 03:48:53


《27日 神の愛を「今」完全に生きよ》

あなたの生命(いのち)の内には神の愛が宿っているのである。
神の愛は唯勝利するほかはないのである。

過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の準備となったのである。
過去の失敗に捉われるな。
形の一進一退のうちに魂は必ず前進して行くのである。

今を生かせ。神を信じ、神に祈りつつ今を全力を出して生きるのである。

「今」は実相世界に既にあるところの勝利が
現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

「今」を支配するものは過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
未来永劫にただ喜びの生活を送ることが出来るのである。

次の如く念ぜよ。

「われは今日(きょう)、善と愛と深切の言葉のみを語るのである。
われはそれ故に愛と深切のみを刈り取るのである。
われは如何なる悪しき言葉も今より後(あと)口にしないのである。

自分は人の行いと其の動機とをさばかない。
自分はあらゆる人々の行いに其の善事を見るのである。
自分は人を軽蔑するような言葉を決して語らない。
自分はすべての人々の美点のみ見、美点のみを語るのである。

自分は言語が神であることを知ったのである。
だから、今後自分は善き事のみを語り、善き事のみが実現するのである」


繁昌は一日にして来たらず、それが単なる偶然の好運であるかに見えても、
必ず過去に蓄積されている善き想念、善き言葉、善き行為、善き感情が
現実化して生ずるのである。

すべての想念、感情、言葉、行為の結果は実現しないではいないのである。
それは原因結果の法則である。
原因結果の法則には、物理的な法則と、心の法則があるのである。

大抵の人は物理化学的法則のみを知っていて、心の法則を知らないのである。

繁栄せんと欲する者は顧客に対してよき想念、善き感情、深切な注意、
行き届いたサービスの精神を揮(ふる)い起さなければならないのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P217) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月10日~12日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2016/10/28 (Fri) 03:18:20


《28日 人の富を批評してはならない》

逆境がやって来たときに、人は大抵自分より順境でいる人や、
幸福な人に対して批評的になりたがる者である。

他人の富を批評して、「屹度それは闇をして儲けたに相違ない」とか
「屹度狡(ずる)いことをしたに相違ない」とか考え勝ちであるのである。

しかし他(ひと)の富を非難する者には、
自分に対しても「富」は近づいて来ないのである。

税務官吏で千万長者になった者がないのは常に他(ひと)の富を
苛辣(からつ)に批判してそれから奪おうと云う心理状態が働くからである。

奪おうと云うものは奪われるのである。

すべて心の世界に蒔いたものは現実の世界に刈りとらねばならぬのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P219~220) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月13日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2016/10/29 (Sat) 03:43:24


《29日 ただ善事のみを数えよ》

人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。
小さな過ちを拡大鏡で見て増大するような事を避けよ。

善事はどんな小さな事でもこれを拡大して見、そしてそれを賞め語れ。

さらば他(た)の人々も諸君の過ちを見のがし、
諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

それが心の法則である。

他人に辛(つら)くするときには自分も亦辛くせられ、
他人に寛大である者は自分も亦寛大に取り扱われるのである。

人が自分の対して冷酷だと思う者よ。
他(ひと)を怨むまでに、自分が他に対して冷酷でなかったかを反省して見よ。

そして今まで非難していた人々を赦せよ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P220) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月14日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2016/10/30 (Sun) 04:40:50


《30日 月が円満な如く人間は円満である》

この世界は 愛の神の造りたまえる世界であるから、
そんなに争闘の満ちている世界ではないのである。

吾々は 決して外界の誰とも戦っているのではないのである。
吾々の戦っているのは 自分自身の心に対してである。

自分自身の心を克服することによって 外界が克服されるのである。
この世界は 神の創造し給(たま)える世界であるから
悪いことは何一つ存在しないのである。


それはたとえば円満なる満月の如くである。

それが曇って見えるのは、満月そのものが曇っているのではなく、
雲が曇っているのを 月が曇っていると間違えているようなものである。

実相は永遠に曇らないのに、
人間の心が曇って 実相が曇ったように見えるに過ぎないのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P220~221) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月15日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2016/10/31 (Mon) 03:08:40


《31日 神なる無限供給の源泉と連絡せよ》

神は万物を生み給うた。神は愛である。
それゆえに神は無限の富の源泉であり、
与えるために、貯えられたる貯蔵庫であることが判るのであろう。

神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な大まかな運動や構成は出来るのであるが、
意識的な発動的創造の中心は、神が人間として現れてのみ出来ることになったのである。

神は無限の富の源泉であるから、
人間はその無限の富の意識的表出口だと云うことが出来るのである。

だから人間を神の子だと云うのである。

神の子たるものが貧しく生活しなければならぬなどと云うことは実際あり得ないことなのである。
汝が貧しいのは神の真意を知らず、神と人間との連絡を汝自身で断ち切っているからである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第10項(P221) より
(初出は「生長の家」昭和26年7月17日の法語)

           <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

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