伝統板・第二

2545021
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

西郷隆盛 - 夕刻版

2016/09/24 (Sat) 18:52:22

今日、9月24日は「南洲忌」。

明治維新の一番の要を演じた「西郷隆盛」の命日。


西郷隆盛は、最高クラスの達人

         *「教養のすすめ」岡崎久彦・著 より

(1)西郷隆盛は、日本史上あるいは世界史上最高クラスの達人。

(2)西郷には、一点の疑念も挟まない大度量があった。

(3)西郷が徳之島に流されたとき、携帯した3本の行季はすべて書籍で一杯だった。
   それは『春秋左氏伝』、『孫子』、『言志四録』、『王陽明伝習録』、
   『洗心洞箚記』などであった。

(4)西郷の時代、学問と武術が人に優れていることが絶対必要条件であった。


<関連Web>

(1)「生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッド「西郷隆盛 (4625)」
    →  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=970

(2)光明掲示板・第一「西郷隆盛(Ⅱ) 」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=376

           <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

《かつて上質な日本人がいたるところにいた!》 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 18:41:46


        *「『人生の王道』・西郷南州の教えに学ぶ」稲森和夫・著より

かつて日本には社会のいたるところに、上質な人間がいました。
たとえ経済的に豊かでなくても高邁に振る舞い、上に媚びず下には謙虚に接し、
自己主張することもなく、他に善かれかしとと思いやる。

そんな美徳を持った日本人がたくさんいました。
また、そのような人々によって構成された集団も、
自ずから高い品格を備えていました。

(中略)

ところが近年、世の中を見渡せば、以前にはとても考えられなかったような、
ひどい出来事が続いています。

たとえば、それは食品偽装事件やリコール隠し、また粉飾決算やインサイダー取引に見られる、
企業の社会的意義が根本から問われるような、不祥事の数々です。

(中略)

私は、そうした社会の現象もすべて、日本人の質的低下がもたらしたのだと考えています。
戦後60年、日本は廃墟の中から敢然と立ち上がり、奇跡的な経済発展を成し遂げました。

その結果、確かに物質的には豊かさを得ましたが、
逆に精神的な豊かさを急速に失いつつあるのではないでしょうか。

(中略)

かつて、とびきり美しく温かい心をもった、
ひとりの上質な日本人がいたことを思い起こすのです。

それは西郷隆盛です。

西郷の生き方、考え方こそが、
日本人が本来持っていた「美しさ」「上質さ」を想起させるのです。

           <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その1 - 伝統

2016/09/30 (Fri) 18:19:23


《南洲翁遺訓》

南洲翁遺訓は西郷隆盛の遺訓集で
「西郷南洲翁遺訓」、「西郷南洲遺訓」、「大西郷遺訓」などとも呼ばれているものです。

明治維新の最大の功労者ともいわれる西郷隆盛ですが、坂本龍馬が評した
「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く。

馬鹿なら大馬鹿だし、利口なら大利口だ」という言葉が、
その大人物ぶりを明確に表しています。

(本流宣言掲示板「西郷隆盛 (4625)」
 内子記事「西郷隆盛と坂本龍馬 (4712)日時:2011年09月28日 (水) 04時51分」参照
 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=970 )


それは、内村鑑三が「代表的日本人」の中のひとりとして挙げている「克己無我」の人であり、
その中でも人情味に溢れることからも明らかです。


そんな西郷隆盛が、動乱の中でつかみとった人生哲学や憂国の思いを語ったもの、
それが南洲翁遺訓です。

                    ・・・

南洲翁遺訓~その1

《廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば》

政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、
いささかでも私利私欲を出してはならない。

だから、どんな事があっても心を公平にして正しい道を踏み、
広く賢明な人を選んでその職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。

だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、
すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい。

従ってどんなに国に功績があっても、
その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。

官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、
功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申されるので、

それでは尚書、誥こうの中に

「徳の高いものには官位を与え、功績の多いものには褒賞を多くする」

というのがありますが、

この意味でしょうかと尋ねたところ、
南洲翁は大変に喜ばれて、まったくその通りだと答えられた。

           <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その2 - 伝統

2016/10/01 (Sat) 18:08:59


『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)は、遺訓41条、追加2条、
その他の問答と補遺から成っています。

この遺訓は、旧出羽庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめたものであります。

大阪大学名誉教授の猪飼隆明は南洲翁遺訓を次のような6つのグループに分類しています。

『南洲翁遺訓』の構成

(1)1条~7条、20条 ~ 為政者の基本的姿勢と人材登用

(2)8条~12条  ~ 為政者がすすめる開化政策

(3)13条~15条   ~ 国の財政・会計

(4)16条~18条   ~ 外国交際

(5)21条~29条、追加の2条 ~天と人として踏むべき道

(6)30条~41条、追加の1条 ~聖賢・士大夫あるいは君子



南洲翁遺訓~その2

《賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ》

立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、
たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、
どれを取りどれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。


昨日出された命令が今日またすぐ、変更になるというような事も、
皆バラバラで一つにまとまる事がなく、
政治を行う方向が一つに決まっていないからである。

           <感謝合掌 平成28年10月1日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その3 - 伝統

2016/10/02 (Sun) 19:04:06


《庄内の人々の西郷隆盛への敬慕》

      *Web:国際派日本人養成講座( 2015/11/08 )より

世の中には不思議な付き合いがあるものだ。
西郷隆盛と庄内藩(現在の山形県庄内地方)の人々との交流である。

明治元(1868)年の戊辰戦争では、庄内藩は西郷隆盛率いる明治政府軍に降伏したのだが、
西郷の高潔な態度に感激し、その後、藩主自ら70余名の藩士を率いて、薩摩に赴き、
西郷に親しく教えを請う。

西郷は明治10(1878)年の西南の役で戦没し、
「逆賊(天皇への反逆者)」の汚名を着せられるが、
明治22(1889)年、明治天皇が正三位を与えて汚名を晴らすや、

旧庄内藩の人々は西郷の語った言葉をまとめた『南洲翁遺訓』を刊行し、
風呂敷包みに背負って、全国に配布して回った。

 
庄内の人びとの西郷への敬慕は現代まで続いており、
昭和51(1976)年には南洲神社が創設され、
「財団法人 庄内南洲会」が西郷の人徳を称える活動を続けている。

人びとが一人の偉人をかくも純粋に敬慕した、いかにもわが国らしい美談である。

                 ・・・

南洲翁遺訓~その3

《政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの3つに在り》

政治の根本は国民の教育を高め充実して、
国の自衛の為に軍備を整理強化し、
食料の自給率、安定の為、農業を奨励するという3つである。

その他の色々の事業は、皆この3つ政策を助ける為の手段である。

この3つの物の中で、時の成り行きによってどれを先にし、
どれを後にするかの順序はあろうが、この3つの政策を後回しにして、
他の政策を先にするというようなことがあっては決してならない。

           <感謝合掌 平成28年10月2日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その4 - 伝統

2016/10/03 (Mon) 18:01:06


《庄内藩の人々を感動させた明治政府軍》

      *Web:国際派日本人養成講座( 2015/11/08 )より

慶応3(1867)年12月、
江戸の薩摩藩邸に結集していた浪人たちが、江戸の治安を乱していた。

江戸の治安維持を任されていた庄内藩士千人を中心とする5藩は、
薩摩藩邸攻撃を命ぜられ、邸を砲撃し、焼き払った。

この事件をきっかけに、鳥羽伏見での明治政府と徳川幕府との戦いが始まり、
以後1年半ほどの戊辰(ぼしん)戦争が続く。

庄内藩は会津藩、米沢藩などとともに幕府側に立ち、
新政府側に立った秋田に攻め入って連戦連勝を重ねた。

庄内藩はもともと良民を手厚く保護する藩政をとってきており、
藩主・家臣・領民の結束が強かった。
藩政を支えてきた商人・本間家も、スナイドル銃などの
最新兵器購入のために莫大な献金をした。


米沢藩、会津藩の降伏後も、
庄内藩は最後まで藩領土への新政府軍の侵入を許さなかった。

しかし庄内藩以外のすべての藩が降伏したので、
明治元(1868)年9月、新政府軍に恭順の意を示した。

このように最後まで頑強に新政府軍に戦ったので、
庄内藩の人々はどれほど厳しい降伏条件を突きつけられるのか、
と心配していた。

しかし、勝者として庄内藩鶴ヶ岡城に入ってきた新政府軍は刀を持たず、丸腰だった。
新政府軍の兵士の中には勝ちに奢って乱暴狼藉を働くかも知れないので、
それを防ぐためだった。

逆に敗者の庄内藩士には帯刀を許し、武士の面目を持たせた。

これには庄内藩の人々が驚いた。

しかも、新政府軍の使者としてやってきた薩摩藩の黒田清隆が示したのは、
驚くほど寛大な条件だった。11代藩主・忠篤の謹慎、弟・忠宝への代替わりと、
16万7千余石から12万石への減封であった。

さらに黒田は、藩主の上座に座って、いちおうの「言い渡し」を終えると、
ただちに藩主の下座に降り、
「役目のために、ご無礼をいたしましたが、お許しください」と、
礼儀正しい態度をとった。

武士道を弁えた黒田の態度に、庄内藩の人々は心を動かされた。

(後日、この黒田清隆の態度は、
西郷隆盛の指導のもとでもあることが、明らかにされます)

               ・・・

南洲翁遺訓~その4

《下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し》

国民の上に立つ者は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、
偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、
仕事に励んで一般国民の手本となり、

一般国民がその仕事ぶりや生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、
政令はスムーズに行われないものである。

ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、
きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、
維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。

今となって見ると戊辰の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、
国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。

           <感謝合掌 平成28年10月3日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その5 - 伝統

2016/10/07 (Fri) 19:13:40


「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」

      *Web:国際派日本人養成講座( 2015/11/08 )より

明治2(1869)年、庄内藩の家老として敗戦処理を進めた菅実秀(すげ・さねひで)が
東京に出てきて、黒田に寛大な処置に対するお礼を述べた。

すると、黒田は

「あれは私の処置ではありません。すべて西郷先生の指示でやったことです」

と明かした。

新政府軍の指揮官だった西郷は、庄内藩が降伏した翌日にはすぐに帰ろうとした。
まだ降伏したばかりで、後で何が起きるのか分からないので、黒田は西郷を止めた。


   けれども西郷先生は、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。
   あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか。
   もう敵でも味方でもないよ』と、おっしゃったのです。

    <松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え[32]>


菅は「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」と感動した。
そして菅から西郷の話を聞いた庄内藩の人々の感動も察して余りある。

 
翌明治3(1870)年、18歳だった前藩主・酒井忠篤は70余名の家臣を引き連れて、
西郷に学ぶために鹿児島を訪れた。
西郷は彼らを歓迎し、いろいろ話を聞かせてやった。

忠篤は西郷の教えに感激し、大名気分を捨て去り、家臣たちと寝食を共にして過ごした。
これら庄内藩の人々が西郷の言葉を記録に残したのが、
後に『西郷南洲翁遺訓』としてまとめられたのである。

                  ・・・

南洲翁遺訓~その5

《若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したるとて見限られよ》

ある時

『何度も何度も辛い事や苦しい事にあった後、
志というものは始めて固く定まるものである。

志を持った真の男子は玉となって砕けるとも、
志をすてて瓦のようになって長生きすることを恥とせよ。
  
自分は我家に残しておくべき訓があるが、人はそれを知っているであろうか。
 
それは子孫の為に良い田を買わない、すなわち財産を残さないという事だ』

という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うような事があったら、
西郷は言う事と実行する事とが、反対であると言って見限っても良いと言われた。

・・・

*七言絶句の漢詩

  幾歴辛酸志始堅(いくたびかしんさんをへてこころざしはじめてかたし)。

  丈夫玉砕愧甎全(じょうぶぎょくさいせんぜんをはず)、

  一家遺事人知否(いっかのいじひとしるやいなや)。

  不為児孫買美田(じそんのためにびでんをかわず)。

           <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その6 - 伝統

2016/10/09 (Sun) 19:37:04


「西郷の涙」

      *Web:国際派日本人養成講座( 2015/11/08 )より


『遺訓』の中には、西郷が庄内藩士たちに語った肉声がまざまざと感じられる一幕がある。
こんな一節である。


   ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。

   「国民の上に立って、政治にたずさわる者は、つねに慎みの心をもって、
   どこにいても品行正しく、贅沢をしないように心がけ、自分の仕事に一生懸命に
   取り組むような……、つまり人の手本になるような人でなければならないね。・・・

   ところが、近ごろの政府はどうだい。
   今は、これから何もかもはじめなければならないという、
   いわば時代の出発点に立っている大事な時期なのに、

   豪邸に暮らし、高価な服に身をつつみ、美しい女性を愛人にし、
   そして関心があることといったら、個人の財産を築くことばかり……。

   こんなことでは、何のために明治維新をなしとげたのか……、
   その本来の理想を達成することなど、とてもおぼつかないよ。

   あの鳥羽伏見の戦いにはじまって、五稜郭の戦いで終わった戊辰戦争は、
   日本を再生するための“義”の戦いだったはずだよね。
   けれど、その戦いの結果できあがった新政府が、そんなありさまさ!

   今のままなら、どうなる? 
   結果的に、あの戦争は今の政府の高官たちの“利”のための戦いだった、
   ということになってしまうよ。

   こんなことでは、世の中の人々に対して、そして何より、
   あの戦いで戦場に散っていった戦没者たちに対しても、
   私は……本当に申しわけなくて……」

   そうおっしゃると西郷先生は、こみあげてくる思いを抑えきれずに、
   しきりに涙を流されていました。

    <松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え781]>

 
戊辰戦争を西郷の相手側として戦った当の庄内藩士たちも、
この西郷の言葉には、涙をこらえきれなかったのではないか。

                   ・・・

南洲翁遺訓~その6

《君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引起すもの也》

人材を採用する時、良く出来る人(君子)と普通(小人)の人との区別を厳しくし過ぎると、
かえって問題を引起すものである。

その理由は、この世が始まって以来、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、
よくこのような小人の長所をとり入れ、これをそれぞれの職業に用い、
その才能や技芸を十分発揮させる事が重要である。

藤田東湖先生(水戸藩士、尊王攘夷論者)が申されるには、

「小人は才能と技芸があって使用するに便利であるから、
ぜひ使用して仕事をさせなければならない。
 
だからといって、これを上役にして重要な職務につかせると、
必ず国をひっくり返すような事になりかねないから、
決して上役に立ててはならないものである」

とのこと。

・・・

<参考:藤田東湖先生(水戸藩士、尊王攘夷論者)>

(1)本流宣言掲示板「吉田松陰精神に学べ  (全文) (4729)」
   内子記事「水戸学を求めて (1)(2)2011年09月30日、2011年10月01日」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994

  ①斉昭公の信任を最も厚く受けた藤田東湖は、水戸の弘道館の建学の精神をうたった。
   『弘道館』(東湖起草)、『正気之歌』には皇国日本の真姿や
   〃人は人たる道〃などが記されている。

  ②松陰は、『弘道館記』の冒頭の言葉、「弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり・・・」
   の箇所が強烈に共感となり、後の松下村塾の教育方針の「塾則」や「士規七則」にも
   多大の影響となったのである。

   ところが、松陰が水戸に訪ねた時、夢にまで見た藤田東湖が
   藩主斉昭公同様幕府より謹慎中につき残念ながら直接二人が相会することなく、
   人を介しての意見の交換をしたのにとどまったとのことである。

  ③しかし、松陰は、『新論』の著者会沢正志斎に会って教えを乞うた。
   その時に七十一歳の会沢正志斎より、

   『国事を論ずる者は、もっと日本の歴史を学ばなければならない。
   とくに古事記や日本書紀をよく勉強されたか。
   日本建国がよくわからないで国事を論ずることは出来ない』

   と、この老翁より厳しい忠告を受けた。

   それまでの松陰は儒教を中心とする漢学だけで日本歴史には余り関心を
   もっていなかったことを大きく反省するとともに正志斎のこの時の言葉が
   その後の松陰の運命を大転換させる鉄槌となった。

   以来松陰は、江戸の小伝馬町で処刑されるまで
   水戸学を中心とする国史を猛烈なまでに勉強した。


(2)本流宣言掲示板「松陰スピリッツ (4756))」
   内子記事「正気之歌 (4791)2011年10月02日」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=998

   『正気之歌』(現代語訳から抜粋)

   天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。
   正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、
   流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八洲をめぐる。

   開けば、幾万もの枝に咲く桜の花となり、ほかの草木の及ぶところではない。

    (中略)

   神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。
   天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、
   その明らかなる御徳は太陽に等しい。

   世の中に栄枯盛衰の絶えることはない。時に正気が光り輝く。

    (以下略)


(3)動画~水戸学 藤田東湖 文天祥の正気歌に和す
    → https://www.youtube.com/watch?v=pRpPxeYn4j4&feature=mfu_in_order&list=UL

           <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その7 - 伝統

2016/10/10 (Mon) 17:11:28


「日本を再生するための“義”の戦い」

      *Web:国際派日本人養成講座( 2015/11/08 )より

西郷は「戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはず」と言ったが、
その「義」に関して次のように語っている。


   「節操や道義……恥を知る心、こういうものを国民が失ったら、
   国は、とても持たないね。これは、西洋でも同じことだよ。

   たとえば、政治家や官僚や公務員などの上に立つ者が、
   国民から利益を得ることばかりを求めて、
   社会正義を忘れてしまったならば、どうなる?

   国民もその真似をして、その心は、どんどん拝金主義に向かい、
   いやらしい貪欲な心が、日を追うごとに国民の間に広がっていくよ。 ・・・

   そうなってしまったら……、いったい、どうやって国を維持すればいいんだい?

    <松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え1245]>


道義を国民が失ったら、国は持たない。
明治政府の高官たちが私利私欲にふけっている姿は、自ら国を壊している。

それでは「日本再生のための義の戦い」と信じて、
命を捧げていった戦没者たちに申し訳ない。

その思いが西郷の涙となっていた。

西郷が戊辰戦争を「日本再生のための義の戦い」と捉えていたことを知れば、
『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。
新しい日本をつくる同志じゃないか』と、庄内藩の人々に寛大に接した理由も理解できる。

西郷は庄内藩士を「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた。
今後は日本の再生のために、ともに忠義を尽くして欲しい、というのが、西郷の願いだった。

                ・・・

南洲翁遺訓~その7

《事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀を用う可からず》

どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道を踏み、真心を尽くし、
一時の策略を用いてはならない。

人は多くの場合、難しい事に出会うと、何か策略を使ってうまく事を運ぼうとするが、
策略した為にそのツケが生じて、その事は必ず失敗するものである。

正しい道を踏み行う事は、目の前では回り道をしているようであるが
先に行けばかえって成功は早いものである。

           <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その8 - 伝統

2016/10/13 (Thu) 13:58:07

「西洋は野蛮じゃ!」

      *Web:国際派日本人養成講座( 2015/11/08 )より

明治維新という「日本再生のための義の戦い」は、黒船の来航に象徴される
欧米諸国の脅威の下で行われた。

その欧米諸国について、西郷は庄内藩士たちにこう語っている。


   ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。

   「“文明”というのは、どういうことかわかるかい? 
   それは、道徳心が人々に広くゆきわたって、
   それが実践されている国のようすを、称えて言う言葉なんだ。

   けっして宮廷が大きくて立派だとか、人々の服装が美しくて綺麗だとか、
   そういう外から見た、フワフワした華やかさを言うのではないよ。 ・・・

   私は昔、ある人と議論したことがあるんだよ。
   その時、私は、こう言ったのさ。

   『西洋は野蛮じゃ!』

   するとその人は、こう言った。 『いや、西洋は文明です』

   そこで私は、 『いいや、いいや……、野蛮じゃ!』と、たたみかけた。

   すると、その人はあきれて、 『どうして西洋のことを、それほどまでに
   悪くおっしゃるのですか?』と、不満そうに言い返してきた。
  
   そこで私は、こう言ってやったのさ。

   『ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、
   その国の人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に
   導いてやるんじゃないかな?

   けれど西洋は、そうではない。

   時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、
   むごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、
   そうして自分たちの私利私欲を満たしてきたじゃないか。

   これを“野蛮”と言わないで、何を“野蛮”と言うんだい?』

   私がそう言ったら、その人は口をつぐんで、もう何も言わなくなったよ」

   そう言って、西郷先生はお笑いになりました。

    <松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え1069]>


当時、欧米諸国はアジア・アフリカの諸国を植民地化し、搾取していた。
支配者がその様では、国民全体が植民地根性を抱いて、私利私欲のために働くようになる。
西洋の「野蛮」がアジア・アフリカに「野蛮」を生み出す。

西郷は「文明」とは「道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようす」
と考えた。西洋諸国に植民地化されてしまえば、そんな文明国にはなりえない。

そうした西洋諸国の「野蛮」から、国を守ろうとすることが「攘夷」なのであった。

南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え]の著者・松浦光修・皇學館大学教授は
次のように喝破している。


   「攘夷」によって先人たちが護ろうとしていたものは、単なる“国益”ではありません。
   ここが大切なところなのですが、最終的に護ろうとしていたのは、“道義”なのです。

    <松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え1106]>

                ・・・

南洲翁遺訓~その8

《事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀を用う可からず》

どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道を踏み、真心を尽くし、
一時の策略を用いてはならない。

人は多くの場合、難しい事に出会うと、何か策略を使ってうまく事を運ぼうとするが、
策略した為にそのツケが生じて、その事は必ず失敗するものである。

正しい道を踏み行う事は、目の前では回り道をしているようであるが、
先に行けばかえって成功は早いものである。

           <感謝合掌 平成28年10月13日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その9 - 伝統

2016/10/14 (Fri) 18:57:21


『後世への最大遺物』

      *Web:国際派日本人養成講座( 2015/11/08 )より

西郷から「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた、
そんな忠義の武士たちであったからこそ、西郷の道義あふれる振る舞いに感じ入り、
前藩主が70余名もの藩士を引き連れて、西郷のもとに学びに来たのである。

庄内藩士たちは、西郷の言葉に学んで「新しい日本をつくる同志」となったのであろう。
西南戦争の12年後、明治天皇が西郷に正三位を追贈して名誉を回復されるや、
『南洲翁遺訓』をまとめ、全国に広めようとしたのも、
「新しい日本をつくる同志」としての志に違いない。

西郷隆盛を『代表的日本人』の一人として描いた内村鑑三は、
『後世への最大遺物』と題した講演で次のように語っている。


   「誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。
   それは何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思います。

    <松浦光修『[新訳]南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え2992]>


西郷隆盛と庄内藩士たちの「高尚なる生涯」は、
現代の我々に贈られた「後世への最大遺物」そのものである。
それをどう活かすかは、我々の生き方にかかっている。

   (Web:国際派日本人養成講座( 2015/11/08 )
        → http://blog.jog-net.jp/201511/article_2.html )

          ・・・

南洲翁遺訓~その9

《先づ我国の本体を居え風教を張り、然して後徐かに、彼の長所を斟酌する》

広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化を押し進もうと思うならば、
まず我が国の本体を良くわきまえ、風俗教化を正しくして、そして後、
ゆっくりと諸外国の長所を取り入れるべきである。

そうではなく、ただみだりに諸外国の真似をして、これを見習うならば、
国体は弱体化して、風俗教化は乱れて、救いがたい状態になり、
そしてついには外国に制せられる事になるであろう。

           <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その10 - 伝統

2016/10/15 (Sat) 19:03:55


《庄内藩と西郷隆盛》

         *Web:多摩湖畔日誌(2014年3月 2日)より

庄内藩の始まりは、徳川家康の側近「徳川四天王」の一人・ 酒井忠次。

幕末、庄内藩は会津藩と並ぶ佐幕派の双壁といわれ、
治安を乱す薩長の不逞の輩を取締るため、会津藩は京都守護職、
庄内藩は「江戸市中取締り役」を勤めたことが、
後に明治政府から賊軍扱いされる発端となった。

1868年1月27日戊辰戦争の火ぶたは鳥羽伏見の戦いだったが、
その前哨は江戸で放火・強盗など凶悪事件を働くテロリストの拠点だった
「薩摩藩邸焼き討ち」を敢行したのが庄内藩だった。

歴史教科書では庄内藩が悪いような記述だが、全くの逆で
近年で例えるなら連合赤軍が立て籠もる「あさま山荘事件」で
機動隊が攻めたようなものだ。


「庄内藩」は戊辰戦争においては新政府軍と果敢に戦い続け、
藩内に一兵も入れない程、百戦百勝の強さだった。

しかし、いかに庄内藩が孤軍奮闘しようと奥羽諸藩は次々と降伏し、
時の勝勢は明らかだった。
庄内藩も時勢に逆らえず過酷な条件が提示されることを覚悟しながらも降伏を決定した。

しかし、その降伏に会津藩の23万石から3万石削減に対し、
庄内藩は17万石から12万石に減じただけだった。

(ここには、歴史の表面に出ていない泥臭い出来事があったようですが、
 ここでは省略します)

この寛大な処置に感激した藩主や藩士らは、生涯西郷隆盛を慕うこととなった。

歴史はこれだけで終わらなかった。
 
明治3年、旧庄内藩から70余名を鹿児島へ派遣し3ヵ月間留学させたほか、
明治10年の「西南の役」では、西郷とともに戦った庄内藩士も多くいた。

更に、賊軍の将となった西郷隆盛は官位を剥奪されたが、
明治22年、大日本憲法発布の恩赦により、名誉回復を果たすが、
その恩赦運動の中心は庄内藩の人々だった。
 
西郷隆盛の語録をまとめた「西郷南洲遺訓集」は西郷の著作ではなく、
明治3年、庄内藩主、酒井忠篤らが鹿児島を訪ね、寝食を共にして
直接教えを乞いたときの、西郷の言行をまとめたものだ。

http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post.html

                ・・・

南洲翁遺訓~その10

《人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり》

人間の知恵を開発、即ち教育の根本目的は愛国の心、忠孝の心を持つことである。

国の為に尽し、家のため働くという、人としての道理が明らかで有るならば、
すべての事業は進歩するであろう。

耳で聞いたり、目で見たりする分野を開発しようとして、
電信を架け、鉄道を敷き、蒸気仕掛の機械を造って、
人の目や耳を驚かすような事をするけれども、

どういう訳で電信、鉄道が無くてはならないか、欠くことの出来ない物で有るか
ということに目を注がないで、みだりに外国の盛大なことをうらやみ、
利害、損得を議論しないで、

家の造り構えから、子供のオモチャまでいちいち外国の真似をし、
身分不相応に贅沢をして財産を無駄使いするならば、
国の力は衰退し、人の心は軽々しく流され、結局日本は破綻するより他ない。

           <感謝合掌 平成28年10月15日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その11 - 伝統

2016/10/16 (Sun) 19:25:48


《文明とは道の普く行はるゝを賛称せるを言う》

文明というのは道義、道徳に基づいて事が広く行われることを称える言葉であって、
宮殿が大きく立派であったり、身にまとう着物が綺麗あったり、見かけが華やかである
ということではない。

世の中の人の言うところを聞いていると、何が文明なのか、何が野蛮なのか少しも解らない。

自分はかってある人と議論した事がある。

自分が西洋は野蛮だと言ったところ、その人は”いや西洋は文明だ”と言い争う。
”いや、いや、野蛮だ”とたたみかけて言ったところ、
”なぜそれほどまでに野蛮だと申されるのか”と強く言うので、

”もし西洋が本当に文明であったら開発途上の国に対しては、
いつくしみ愛する心を基として、よくよく説明説得して、文明開化へと
導くべきであるのに、そうではなく、開発途上の国に対するほど、
むごく残忍なことをして、自分達の利益のみをはかるのは明らかに野蛮である”
と言ったところ、その人もさすがに口をつぼめて返答出来なかったと笑って話された。

           <感謝合掌 平成28年10月16日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その12 - 伝統

2016/10/17 (Mon) 18:01:31


《実に文明ぢやと感ずる也》

西洋の刑法はもっぱら、罪を再び繰り返さないようにする事を、根本の精神として、
むごい扱いを避けて、人を善良に導く事を目的としており、だから獄中の罪人であっても
緩やかに取り扱い、教訓となる書籍を与え、
場合によっては親族や友人の面会も許すということである。

もともと昔の聖人が、刑罰というものを設けられたのも、
忠孝、仁愛の心から孤独な人の身上をあわれみ、そういう人が罪に陥るのを深く心配されたが、
実際の場で今の西洋のように配慮が行き届いていたかどうかは書物には見あたらない。

西洋のこのような点は誠に文明だとつくづく感ずることである。

           <感謝合掌 平成28年10月17日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その13 - 伝統

2016/10/18 (Tue) 20:15:43


《租税を薄くして民を裕にするは即ち国力を養成する也》

税金を少なくして国民生活を豊かにすることこそ国力を高めることになる。

だから国の事業が多く、財政の不足で苦しむような事があっても
決まった制度をしっかり守り、政府や上層の人達が損をしても、
下層の人達を、苦しめてはならない。

昔からの歴史をよく見るがよい。
道理の明らかに行われない世の中にあって、財政の不足で苦しむときは、
必ずこざかしい考えの小役人を用いて、その場しのぎをする人を
財政が良く分かる立派な役人と認め、そういう小役人は手段を選ばず、
無理やり国民から税金を取り立てるから、

人々は苦しみ、堪えかねて税の不当な取りたてから逃れようと、
自然に嘘いつわりを言って、お互いに騙し合い、役人と一般国民が敵対して、
終には、国が分裂して崩壊するようになっているではないか。

           <感謝合掌 平成28年10月18日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その14 - 伝統

2016/10/19 (Wed) 19:47:21



《入るを量りて出づるを制するの外更に術数無し》

会計出納は、すべての制度の基本であって、あらゆる事業はこれによって成り立ち、
秩序ある国家を創る上で最重要事であるから、慎重にしなければならない。

その方法を申すならば、収入の範囲内で、支出を押えるという以外に手段はない。

総ての収入の範囲で事業を制限して、
会計の総責任者は一身をかけてこの制度を守り、
定められた予算を超えててはならない。

そうでなくして時勢にまかせ、制限を緩かにして、
支出を優先して考え、それに合わせ収入を計算すれば、
結局国民から重税を徴収するほか方法はなくなるであろう。

もしそうなれば、たとえ事業は一時的に進むように見えても国力が疲弊して、
ついには救い難い事になるであろう。

           <感謝合掌 平成28年10月19日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その15 - 伝統

2016/10/20 (Thu) 19:08:40


《決して無限の虚勢を張る可からず》

常備する軍隊の人数も、また会計予算の中で対処すべきで、
決して無限に軍備を増やして、から威張りをしてはならない。

兵士の気力を奮い立たせて優れた軍隊を創りあげれば、
たとえ兵隊の数は少くても、外国との折衝にあたって
あなどりを受けるような事は無いであろう。

           <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その16 - 伝統

2016/10/21 (Fri) 18:11:16


《節義廉恥を失て、国を維持するの道決して有らず》

道義を守り、恥を知る心を失うようなことがあれば
国家を維持することは決して出来ない。

西洋各国でも皆同じである。

上に立つ者が下の者に対して利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、
下の者もまたこれに習うようになって、人の心は皆財欲にはしり、
卑しくケチな心が日に日に増し、道義を守り、恥を知る心を失って
親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するのである。

このようになったら何をもって国を維持することが出来ようか。

徳川氏は将兵の勇猛な心を抑えて世の中を治めたが、
今は昔の戦国時代の武士よりもなお一層勇猛心を奮い起さなければ、
世界のあらゆる国々と対峙することは出来無いであろう。

普、仏戦争のとき、フランスが三十万の兵と三ケ月の食糧が在ったにもかかわらず
降伏したのは、余り金銭のソロバン勘定に詳しかったが為であるといって笑われた。

           <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その17 - 伝統

2016/10/22 (Sat) 19:00:57


《正道を踏み国を以て斃るゝの精神無くば、外国交際は全かる可からず》

正しい道を踏み、国を賭けて、倒れてもやるという精神が無いと
外国との交際はこれを全うすることは出来ない。

外国の強大なことに萎縮し、ただ円満にことを納める事を主として、
自国の真意を曲げてまで、外国の言うままに従う事は、
軽蔑を受け、親しい交わりをするつもりがかえって破れ、
しまいには外国に制圧されるに至るであろう。

           <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その18 - 伝統

2016/10/23 (Sun) 18:20:55


《縦令国を以て斃るゝとも、正道を践み、義を尽すは政府の本務也》

話が国の事に及んだとき、大変に嘆いて言われるには、
国が外国からはずかしめを受けるような事があったら、たとえ国が倒れようとも、
正しい道を踏んで道義を尽くすのは政府の努めである。

しかるに、ふだん金銭、穀物、財政のことを議論するのを聞いていると、
何という英雄豪傑かと思われるようであるが、実際に血の出ることに臨むと
頭を一カ所に集め、ただ目の前のきやすめだけを謀るばかりである。

戦の一字を恐れ、政府の任務をおとすような事があったら、
商法支配所、と言うようなもので政府ではないというべきである。

           <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その19 - 伝統

2016/10/25 (Tue) 18:40:51


《己を足れりとする世に、治功の上りたるはあらず》

昔から、主君と臣下が共に自分は完全だ
と思って政治を行った世にうまく治まった時代はない。

自分はまだ足りない処がある、と考える処から始めて、
下々の言うことも聞き入れるものである。

自分が完全だと思っているとき、人が自分の欠点を正すと、すぐ怒るから、
賢人や君子というような立派な人は、おごり高ぶっている者に対しては
決して味方はしないものである。

           <感謝合掌 平成28年10月25日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その20 - 伝統

2016/10/26 (Wed) 20:08:29


《人は第一の実にして、己れ其人に成るの心懸け肝要なり》

どんなに制度や方法を論議しても、それを行なう人が立派な人でなければ、
うまく行われないだろう。

立派な人あって始めて色々な方法は行われるものだから、
人こそ第一の宝であって、自分がそういう立派な人物になるよう
心掛けるのが何より大事な事である。


           <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その21 - 伝統

2016/10/27 (Thu) 19:18:51


《講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ》

道というものは、天地自然の道理であるから、
学問の道は『敬天愛人』を目的とし、
自分を修には、己れに克つという事を心がけねばならない。

己れに克つという事の真の目的は

「意なし、必なし、固なし、我なし」

我がままをしない、無理押しをしない、固執しない、我を通さない、という事だ。

一般的に人は自分に克つ事によって成功し、
自分本位に考える事によって失敗するものだ。


よく昔からの歴史上の人物をみるが良い。

事業を始める人が、その事業の七、八割までは大抵良く出来るが、
残りの二、三割を終りまで成しとげる人の少いのは、
始めはよく自分を謹んで事を慎重にするから成功し有名にもなる。

ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、
畏れ慎むという精神がゆるんで、おごり高ぶる気分が多くなり、
その成し得た仕事を見て何でも出来るという過信のもとに、まずい仕事をするようになり、
ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。

だから、常に自分にうち克って、
人が見ていない時も、聞いていない時も、
自分を慎み戒めることが大事な事だ。

           <感謝合掌 平成28年10月27日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その22 - 伝統

2016/10/28 (Fri) 18:18:58


《兼て気象を以て克ち居れよ》

自分に克つと言う事は、
その時、その場の、いわゆる場あたりに克とうとするから、
なかなかうまくいかぬものである。

かねて精神を奮い起こして自分に克つ修行をしていなくてはいけない。

           <感謝合掌 平成28年10月28日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その23 - 伝統

2016/10/29 (Sat) 19:20:45


《堯舜をもって手本とし、孔夫子を教師とせよ》

学問を志す者はその規模、理想を大きくしなければならない。

しかし、ただその事のみに片寄ってしまうと、
身を修める事がおろそかになってゆくから、
常に自分にうち克って修養することが大事である。
規模、理想を大きくして自分にうち克つことに努めよ。

男子は、人を自分の心の中に呑みこむ位の寛容が必要で、
人に呑まれてはだめであると思えよと言われて、
昔の人の詞を書いて与えられた。

 その志を、おし広めようとする者にとって、
 もっとも憂えるべき事は自己の事をのみ図り、けちで低俗な生活に安んじ、
 昔の人を手本となして自分からそうなろうと修業をしようとしないことだ。


古人を期するというのはどういうことですかと尋ねたところ、
尭・舜(共に古代中国の偉大な帝王)を以って手本とし、
孔子を教師として勉強せよと教えられた。

           <感謝合掌 平成28年10月29日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その24 - 伝統

2016/10/30 (Sun) 18:53:09


《天は人も我も同一に愛し給ふ》

道というの天地自然のものであり、
人は之にのっとって生きるべきものであるから
何よりもまず、天を敬う事を目的とすべきである。

天は他人も自分も平等に愛し下さるから、
自分を愛する心をもって人を愛する事が大事である。

           <感謝合掌 平成28年10月30日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その25 - 伝統

2016/10/31 (Mon) 17:58:35


《人を相手にせず、天を相手にせよ》

人を相手にしないで、天を相手にするようにせよ。

天を相手にして自分の誠をつくし、
人の非をとがめるような事をせず、
自分の真心の足らない事を反省せよ。

           <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その26 - 伝統

2016/11/01 (Tue) 18:13:08


《己を愛するは善からぬことの第一也》

自分さえよければ良いというような心はもっとも善くない事である。

修業の出来ないのも、事業の成功しないのも、過ちを改める事の出来ないのも、
自分の功績を誇り、驕りたかぶるのも、皆自分を愛することから生ずることで、
決して自分だけを愛するようなことはしてはならない。

           <感謝合掌 平成28年11月1日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その27 - 伝統

2016/11/02 (Wed) 18:00:13


《自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し》

過ちを改めるに、自分から過ったとさえ思いついたら、それで良い。
その事をさっぱり捨てて、ただちに一歩前進するべし。

過ちを悔しく思って、あれこれと取りつくろおうと心配するのは、
たとえば茶わんを割って、その欠けらを集めて、合わせて見るのも
同様で何の役にも立たぬ事である。

           <感謝合掌 平成28年11月2日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その28 - 伝統

2016/11/04 (Fri) 18:37:27


《道を行ふには尊卑貴賤の差別なし》

道を行う事に、身分の尊いとか、卑しいとかの区別は無いものである。
要するに昔のことを言えば、古代中国の尭・舜は国王として国の政治を行っていたが、
もともとその職業は教師であった。

孔子は魯の国を始め、どこの国にも政治家として用いられず、
何度も困難な苦しいめに遭い、身分の低いままに一生を終えられたが、
三千人といわれるその子弟は、皆その教えに従って道を行ったのである。

           <感謝合掌 平成28年11月4日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その29 - 伝統

2016/11/05 (Sat) 19:45:45


《若し艱難に逢うて之を凌んとならば、弥々道を行ひ道を楽む可し》

正しい道を進もうとする者は、もともと困難な事に会うものだから、
どんな苦しい場面に立っても、その事が成功するか失敗するかという事や、
自分が生きるか死ぬかというような事に少しもこだわってはならない。

事を行なうには、上手下手があり、物によっては良く出来る人、良く出来ない人もあるので、
自然と道を行うことに疑いをもって動揺する人もあろうが、
人は道を行わねばならぬものだから、道を踏むという点では上手下手もなく、出来ない人もない。

だから精一杯道を行い、道を楽しみ、
もし困難な事にあってこれを乗り切ろうと思うならば、
いよいよ道を行い、道を楽しむような、境地にならなければならぬ。

自分は若い時代から、困難という困難にあって来たので、
今はどんな事に出会っても心が動揺するような事は無いだろう。
それだけは実に幸だ。

           <感謝合掌 平成28年11月5日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その30 - 伝統

2016/11/06 (Sun) 18:56:44


《命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也》

命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、
というような人は始末に困るものである。

このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、
一緒に国家の大きな仕事を大成する事は出来ない。


しかしながら、このような人は一般の人の眼では見ぬく事が出来ない、
と言われるので、それでは孟子の書に

『人は天下の広々とした所におり、天下の正しい位置に立って、天下の正しい道を行うものだ。
 もし、志を得て用いられたら一般国民と共にその道を行い、
 もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。

 そういう人はどんな富や身分もこれをおかす事は出来ないし、
 貧しく卑しい事もこれによって心が挫ける事はない。
 また力をもって、これを屈服させようとしても決してそれは出来ない』

と言っておるのは、今、仰せられたような人物の事ですかと尋ねたら、
いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければ、
そのような精神は得難い事だと答えられた。

           <感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その31 - 伝統

2016/11/07 (Mon) 17:49:34


《天下挙って毀るも足らざるとせず、天下挙って誉るも足れりとせざる》

正しい道を生きてゆく者は、国中の人が寄って、たかって、
悪く言われるような事があっても、決して不満を言わず、

また、国中の人がこぞって褒めても、決して自分に満足しないのは、
自分を深く信じているからである。

そのような人物になる方法は、韓文公(韓退之、唐の文章家)の
「伯夷の頌」(伯夷、叔斉兄弟の節を守って餓死したことを褒め称えた文の一章)を
よく読よんでしっかり身に付けるべきである。

             ・・・

<参考Web>

(1)『伯夷頌』 (韓愈)
   → http://blog.livedoor.jp/bassokukou/archives/50679826.html

(2)「伯夷の頌と驕り」 (南洲翁遺訓解説 1-2 )
       → http://saigou.at.webry.info/200901/article_9.html 

           <感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その32 - 伝統

2016/11/08 (Tue) 17:35:22


《道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也》

正しく道義を踏みおこなおうとする者は、偉大な事業を尊ばないものである。

司馬温公は寝室の中で妻と密かに語ったことも
他人に対して言えないような事は無いと言われた。

独りを慎むと言う事の真意は如何なるものであるかわかるでしょう。

人をあっと言わせるような事をして、その一時だけ良い気分になることを好むのは、
まだまだ未熟な人のする事で、十分反省すべきである。

           <感謝合掌 平成28年11月8日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その33 - 伝統

2016/11/09 (Wed) 18:21:33


《平日道を蹈まざる人は、事に臨て狼狽し、処分の出来ぬもの也》

かねて道義を踏み行わない人は、ある事柄に出会うと、
あわてふためき、なにをして良いか判らぬものである。

たとえば、近所に火事があった場合、
かねて心構えの出来ている人は少しも動揺する事なく、
これに対処することが出来る。

しかし、かねて心構えの出来ていない人は、
ただ狼狽して、なにをして良いか判らず的確に対処する事が出来ない。

それと同じ事で、かねて道義を踏み行っている人でなければ、
ある事柄に出会った時、立派な対策はできない。

私が先年戦いに出たある日のこと、兵士に向かって、
自分達の防備が十分であるかどうか、ただ味方の目ばかりで見ないで、
敵の心になって一つ突いて見よ、それこそ第一の防備であると説いて聞かせたと言われた。

           <感謝合掌 平成28年11月9日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その34 - 伝統

2016/11/10 (Thu) 18:25:53


《策略は平日致さぬものぞ》

策略は普段は用いてはならない方が良い。
策略をもって行なった事は、その結果を見れば良くない事がはっきりしていて、
必ず判るものである。

ただ戦争の場合だけは、策略が無ければいけない。
しかし、かねて策略をやっていると、いざ戦いという事になった時、
上手な策略は決して出来るものではない。

諸葛孔明はかねて策略をしなかったから、
いざという時、あのように思いもよらない策略を行うことが出来たのだ。

自分はかつて東京を引揚げたとき、弟(従道)に向かって
『自分はこれまで少しも謀ごとをやった事が無いので、
ここを引揚げた後も跡は少しも濁ることはあるまい。
 それだけはよく見ておけ』

と言っておいたという事である。

           <感謝合掌 平成28年11月10日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その35 - 伝統

2016/11/11 (Fri) 18:42:02


《人に推すに公平至誠を以てせよ》

人をごまかして、陰でこそこそと策略する者は、
たとえその事が上手に出来あがろうとも、
物事をよく見抜く人がこれを見れば、醜い事がすぐ分かる。

人に対しては常に公平で真心をもって接するのが良い。

公平でなければ英雄の心を掴む事は出来ないものだ。

           <感謝合掌 平成28年11月11日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その36 - 伝統

2016/11/12 (Sat) 17:25:24


《朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云われたり》

聖人賢者になろうとする気持ちがなく、昔の人が行なった史実をみて、
自分にはとてもまねる事が出来ないと思うような気持ちであったら、
戦いに臨んで逃げるより、なお卑怯なことだ。

朱子は抜いた刀を見て逃げる者はどうしようもないと言われた。

誠意をもって聖人賢者の書を読み、その一生をかけて培われた精神を、
心身に体験するような修業をしないで、ただこのような言葉を言われ、
このような事業をされたという事を知るばかりでは何の役にも立たぬ。

私は今、人の言う事を聞くに、何程もっともらしく論じようとも、
その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけの事であったら少しも感心しない。
本当にその行いの出来た人を見れば、実に立派だと感じるのである。

聖人賢者の書をただ上辺だけ読むのであったら、
ちょうど他人の剣術を傍から見るのと同じで、少しも自分の身に付かない。

自分の身に付かなければ、万一『刀を持って立ち会え』と言われた時、
逃げるよりほかないであろう。

           <感謝合掌 平成28年11月12日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その37 - 伝統

2016/11/13 (Sun) 18:45:27


《天下後世迄も信仰悦服せらるるものは只是一箇の真誠也》

未来永劫までも信じて心から従う事が出来るのは、ただ一つの真心だけである。

昔から父の仇を討った人は数えきれないほど大勢いるが、
その中でひとり曽我兄弟だけが、今の世に至るまで
女子子供でも知らない人のないくらい有名なのは、
多くの人にぬきんでて真心が深いからである。

真心がなくて世の中の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。

真心が深いと、たとえその当時、知る人がなくても
後の世に必ず心の友が出来るものである。

           <感謝合掌 平成28年11月13日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その38 - 伝統

2016/11/14 (Mon) 19:24:17


《真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くといふに在り》

世の中の人の言うチャンスとは、多くはたまたま得た偶然の幸せの事を指している。

しかし、本当のチャンスというのは道理を尽くして行い、
時の勢いをよく見きわめて動くという場合のことだ。

つね日頃、国や世の中のことを憂える真心がなくて、
ただ時のはずみにのって成功した事業は、決して長続きしないものである。

           <感謝合掌 平成28年11月14日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その39 - 伝統

2016/11/15 (Tue) 18:50:29


《体有りてこそ用は行はるゝなり》

今の人は、才能や知識だけあれば、どんな事業でも思うままに出来ると思っているが、
才能に任せてする事は、危なかしくて見てはおられないものだ。

しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。

肥後の長岡監物(熊本藩家老、勤皇家)のような立派な人物は、
今は見る事が出来ないようになったといって嘆かれ、昔の言葉を書いて与えられた。

『世の中のことは真心がない限り動かす事は出来ない。
 才能と識見がない限り治める事は出来ない。
 真心に撤するとその動きも速い。
 才識があまねく行渡っていると、その治めるところも広い。
 才識と真心と一緒になった時、すべての事は立派に出来あがるであろう』


           <感謝合掌 平成28年11月15日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その40 - 伝統

2016/11/16 (Wed) 18:17:22


《君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなり》

南洲翁に従って犬を連れて兎を追い、山や谷を歩いて一日中狩り暮らし、
田舎の宿で風呂に入って、身も心も、きわめて爽快になったとき、
悠々として言われるには『君子の心はいつもこのように爽やかなものであろうと思う』と。

           <感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~その41 - 伝統

2016/11/17 (Thu) 18:44:34


《君子の体を具ふる共、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり》

修行して心を正して、君子の心身を備えても、事にあたってその処理の出来ない人は、
ちょうど木で作った人形と同じ事である。

たとえば数十人のお客が突然おしかけて来た場合、どんなに接待しようと思っても、
食器や道具の準備が出来ていなければ、ただおろおろと心配するだけで、
接待のしようもないであろう。

いつも道具の準備があれば、たとえ何人であろうとも、
数に応じて接待する事が出来るのである。

だから、普段の準備が何よりも大事な事であると古語を書いて下さった。

『学問というものはただ文筆の業のことをいうのではない。
 必ず事に当ってこれをさばくことのできる才能のある事である。

 武道というものは剣や楯をうまく使いこなす事を言うのでは無い。
 必ず敵を知ってこれに処する知恵のある事である。
 才能と知恵のあるところはただ一つである』


・・・

<関連Web>

(1)南洲翁遺訓(全文)
    → http://www.keiten-aijin.com/ikun.html

(2)(庄内)南洲神社
    → http://washimo-web.jp/Trip/Sakata/sakata.htm

           <感謝合掌 平成28年11月17日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~追加 - 伝統

2016/11/18 (Fri) 19:27:50


南洲翁遺訓~追加その1

        *Web:「遺訓」より

《事に当り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。
凡(およそ)思慮は平生黙坐静思の際に於てすべし。
有事の時に至り、十に八九は履(り)行(こう)せらるるものなり。

事に当り率(そつ)爾(じ)に思慮することは、譬へば臥床夢(む)寐(び)の中、
奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄(もう)想(そう)に
類すること多し。 》


ある事がらにあたって考えの乏しいことを心配することはない。
およそ物事に対する考えというものは、かねて無言のまま座っている時、
心をしずめている時にすべきことである。

そうすれば、何か事ある時には十のうち八、九はやりとげることができるものである。
一つの事がらに出会ってその場で軽はずみにいろいろ考えるということは、
たとえば寝床で夢をみている間にすぐれた方法や考えを得ることができたように思うが、
あくる朝目覚めて起床するときには、役に立たない、
正しくない想いに終ってしまうようなことが多いものだ。

               ・・・
南洲翁遺訓~追加その2

        *Web:「遺訓」より

《漢学を成せる者は、弥(いよ)漢(いよ)籍に就て道を学ぶべし。
道は天地自然の物、東西の別なし。苟も当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、
春秋左氏伝を熟読し、助くるに孫子を以てすべし。
当時の形勢と略(ほ)ぼ大差なかるべし。》


漢学(中国の学問)を勉強したものはますます中国の古典について道義を学ぶのがよい。
道義は天地のおのずからなるもので東洋、西洋の区別なくどこでも同じである。

もし、現在の世界各国が対立している様子を知ろうと思うならば、
春秋左氏伝(中国の古い史書)をよく読み、
さらに補助として孫子(中国の兵書)を読むがよい。

今の世の中の様子とはほとんど大きな違いはないであろう。

    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月18日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~問答(岸良真二郎 問)その1 - 伝統

2016/11/19 (Sat) 19:33:39


        *Web:「遺訓」より

【問い】

一 事に臨み猶予狐疑して果断の出来ざるは、畢竟憂国之志情薄く、事の軽重時勢に暗く、
  且愛情に牽かさるるによるべし。真に憂国之志相貫居候へば、決断は依て出るものと
  奉(レ)存候。如何のものに御座候哉。

 
(訳)

大事な場面に臨んで、ぐずぐずしたり、疑い深く決心のできないのは、つまるところ、
国を憂える心が薄く、事がらの軽重や世の中の情勢について疎く、さらには人情に
ひかされることによると思います。

本当に国を憂える真心を貫ぬいていたら、
決心することは、おのずからできるものと思いますが、いかがでございましょうか。


【答】

一 猶予狐疑は第一毒病にて、害をなす事甚多し、何ぞ憂国志情の厚薄に関からんや。
  義を以て事を断ずれば、其宜にかなふべし、何ぞ狐疑を容るるに暇あらんや。
  狐疑猶予は義心の不足より発するものなり。 


(訳)

ぐずぐずしたり、疑い深いというのは第一の毒で、害を及ぼすことが、きわめて多い。
決して国を憂える心の厚いとか薄いとかに関係することではない。

正しい道をもって物事を判断すれば、きっと筋道にかなうであろう。
どうしてぐずぐずしたり疑い深い心など起こり得ようか。
ぐずぐずしたり疑い深いというのは正しい心の不足から起こってくるものである。 

    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~問答(岸良真二郎 問)その2 - 伝統

2016/11/20 (Sun) 19:04:55


        *Web:「遺訓」より

【問い】

二 何事も至誠を心となし候へば、仁勇知は、其中に可(レ)有(レ)之と奉(レ)存候。
  平日別段に可(レ)養ものに御座候哉。 

(訳)

何事も誠を心とすれば、仁(いつくしみ)勇(勇気)知(知恵)すなわち人としての
大事な道は、その中で養われるものと存じます。
かねて特別に養わねばならないものでしょうか。



【答】

二 至誠の域は、先づ慎独より手を下すべし。
  間居即慎独の場所なり。

  小人は此処万悪の淵籔(えんそう)なれば、
  放(ほう)肆(し)柔惰の念慮起さざるを慎独とは云ふなり。

  是善悪の分るる処なり。心を用ゆべし。

  古人云ふ、「主(トシ)(レ)静(ヲ)立(ツ)(二)人極(ヲ)(一)」
  (○宋 周藩渓の語)是其至誠の地位なり、不(レ)慎べけんや、
  人極を立てざるべけんや。

 

(訳)

至誠(この上もない真心)の境地はまず独りを慎むことから手を下すべきである。
することもなく、ひまでいることは、すなわち独りを慎むによい場所である。

小人(人格の低いつまらない人)にとっては、こういう場所が、
すべての悪いことのより集まるところであるから、わがままや、心弱く怠ける思いを
起さないことが、独りを慎むということである。

ここが善と悪との分かれるところであり、最も心を用いなければならない。

昔の人が言っている。「静かで安らかな心で人としてこの上もない道をきわめる」と。
これこそその至誠の境地である。慎まないでよかろうか。
人としてこの上もない道をきわめるよう努力しないでよかろうか。 


    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月20日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~問答(岸良真二郎 問)その3 - 伝統

2016/11/21 (Mon) 18:13:09


        *Web:「遺訓」より

【問い】

三 事の勢と機会を察するには、如何着目仕可(レ)然ものに御座候哉。 

(訳)

事がらの勢いと、機会を知るにはどういうところに気をつけたらいいものでしょうか。 


【答】

三 知と能とは天然固有のものなれば、
  「無知之知(ハ)。不(シテ)(レ)慮(ヲ)而知(リ)。無能之能(ハ)。
  不(シテ)(レ)学(バ)而能(クス)」(○明、王陽明の語)と、
  是何物ぞや、其惟(ただ)心之所為にあらずや。心明なれば、知又明なる処に発すべし。

 

(訳)

知恵と才能はおのずから備わったものであるから
「たとえ知識がないものでも深く考えることなくしてよく知り、
たとえ才能のないものでも、余り学ぶことなくしてよくできる」
(明の王陽明の語)とあるが、これはどういうことであろうか。

すべての心のなすところではないだろうか。
心さえ明らかであったら知恵もまた明らかにおこるであろう。

    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月21日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~問答(岸良真二郎 問)その4 - 伝統

2016/11/22 (Tue) 18:22:55


        *Web:「遺訓」より

【問い】

四 思設けざる事変に臨み一点動揺せざる胆力を養ふには、
  如何目的相定、何より入りて可(レ)然ものに御座候哉。

 

(訳)

思いがけない事がらに会い、少しも動揺しない胆力(きもったま)を養うには、
どのような目標を定め、何から勉強していったらよいものでしょうか。


【答】

四 勇は必ず養う処あるものなり。孟子云はずや、浩然之気を養うと。
  此気養はずんばあるべからず。

 

(訳)

勇気は必ず養わなければならない。孟子が言っているではないか。
天地に満ちている何ものにも屈しない勇気を養うと。
この勇気はかねて養うところがなければならない。 

    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月22日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~問答(岸良真二郎 問)その5 - 伝統

2016/11/23 (Wed) 19:51:15


        *Web:「遺訓」より

【答】

五 事の上には必ず理と勢との二つ必あるべし。
  歴史の上にては能見分つべけれ共、現事にかかりては、甚見分けがたし。
  理勢は是非離れざるものなれば、能々心を用ふべし。

  譬へば賊ありて討つべき罪あるは、其理なればなり。
  規(き)模(ぼ)術略吾胸中に定りて、是を発するとき、
  千仞に坐して円石を転ずるが如きは、其勢といふべし。

  事に関かるものは、理勢を知らずんばあるべからず、
  只勢のみを知りて事を為すものは必ず術に陥るべし、
  又理のみを以て為すものは、事にゆきあたりて迫(つま)るべし。

  いづれ「当(ツテ)(レ)理(ニ)而後進(ミ)。
  審(ニシテ)(レ)勢(ヲ)而後動(ク)」(○陳龍川、先主論の語)ものに
  あらずんば、理勢を知るものと云ふべからず。

 

(訳)

物事は何であっても、必ず道理と勢いの二つがある。
歴史の上ではこれをよく見分けることができるが、
現在目の前の事については、なかなか見分け難い。

道理と勢いとは二つとも離すことのできないものだから、よくよく心を用いるべきである。

たとえば悪者があって、これを征服しなければならないというのは、
そういう道理があってのことである。

物の仕組みや、はかりごとが自分の心の中に定まっていて、これを発するとき、
ちょうど非常に高いところにいて円い石をころがすようなのは、
その勢いといってよいだろう。

事に当たるもの、皆このような道理と勢いということをよく知らねばならない。
ただ勢いばかりを知って事をなそうとするものは、必ず計略に陥るだろう。

また、道理ばかりを知って事をなそうとするものは、ついには行きづまってしまうだろう。

いずれにしても「道理をよく知ってから進み、勢いをよく見きわめてから動く」
(陳龍川の先主論の語)というのでなければ、理勢を知るものということはできない。 


    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月23日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~問答(岸良真二郎 問)その6 - 伝統

2016/11/24 (Thu) 19:43:46


        *Web:「遺訓」より

【答】

六 事の上にて、機会といふべきもの二つあり。
  僥倖の機会あり。又設け起す機会あり。
  大丈夫僥倖を頼むべからず、大事に臨みては是非機会は引起さずばあるべからず。

  英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機会は、跡より見る時は僥倖のやうに見ゆ、
  気を付くべき所なり。

 

(訳)

物事の上で、機会というべきものが二つある。
まぐれあたりの機会と、こちらからしかけた機会である。
真の男児たるもの、決してまぐれあたりの幸いを頼んではならない。
大事に臨んでは、ぜひ機会というものを引きおこさねばならない。

英雄といわれる者のなしたことをよく見るがよい。
自分で引きおこした機会というものは、後(あと)から見ると
まぐれあたりの幸いのようにみえる。
これは気をつけねばならないことだ。


    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月24日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~問答(岸良真二郎 問)その7 - 伝統

2016/11/25 (Fri) 18:44:57


        *Web:「遺訓」より

【答】

七 変事俄に到来し、動揺せず、従容其変に応ずるものは、
  事の起らざる今日に定まらずんばあるべからず。
  変起らば、只それに応ずるのみなり。

  古人曰、「大丈夫胸中灑(しゃ)々(しゃ)落(らく)落(らく)。如(ク)
  (二)光風霽月(ノ)(○一)任(ズ)(二)其(ノ)自然(ニ)
  (○一)何(ゾ)有(ラン)(二)一毫之動心(一)哉」(○明、王耐軒筆疇の語)と、
  是即ち標的なり。如(レ)此体のもの、何ぞ動揺すべきあらんや。

 

(訳)

変わったできごとが急に起こった時、心を動揺させることなく、
ゆったりと落ちついてそれに対応するという心構えは、
まだまだ起こらないときに定まっていなければならない。

もし変わったことが起こった時は、ただそれに対処するだけである。

昔の人が言っている。「真の男児たるもの、心の中はいつもさっぱりして、
雨上がりの風月のようにわだかまりがなく、自然に任せる。
どうして、少しでも動揺するような心があろうか。」
(明の王耐軒筆疇の語)というのだが、

これこそ生き方の目標である。
このようなあり様であったら、どうして動揺などすることがあろうか。

           <感謝合掌 平成28年11月25日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~(補遺)その1 - 伝統

2016/11/26 (Sat) 18:45:45


(補遺)
一 誠はふかく厚からざれば、自ら支障も出来るべし、
  如何ぞ慈悲を以て失を取ることあるべき、決して無き筈なり。

  いづれ誠の受(じゅ)用(よう)においては、見ざる所において、
  戒慎し、聞かざる所において恐懼する所より手を下すべし。
 
  次第に其功も積みて、至誠の地位に至るべきなり。
  是を名づけて君子と云ふ。
  是非天地を証拠にいたすべし。

  是を以て事物に向へば、隠すものなかるべきなり。

  司馬温公曰「我胸中人に向うて云はれざるものなし」と、
  この処に至っては、天地を証拠といたすどころにてはこれなく、
  即ち天地と同体たるものなり、障(しょう)礙(がい)する慈悲は姑息にあらずや。

  嗚呼大丈夫姑息に陥るべけんや、何ぞ分別を持たんや。
  事の軽重難易を能く知らば、かたおちする気づかひ更にあるべからず。

 

(訳)

誠というものは、深く厚くなければ自然にさしさわりも出て来るであろう。
どうしてあわれみをかけて失敗するというようなことがあろうか。
決してないはずである。

これから誠を身につけるためには、人の見ていないところで心を戒め、慎み、
人の聞いていないところで恐れかしこむということから、まずはじめるべきである。

そうすれば次第にその結果も表われて、
至誠(この上もない真心)の境地に至ることができるであろう。
このような境地に至った人を君子というのである。

ぜひ、天地すなわち神をあかしにすべきである。
こういう心でいろいろな事に対処したら、何も隠すようなことはないであろう。

司馬温公が言ったことがある。
「自分の心の中は人に向かって言えないようなことは何もない」と。

この境地に至っては天地をあかしとするどころではなく、天地と一体である。
さしさわりの出て来る慈悲(情深い心)などというのは一時の間に合わせではないか。

ああ、真の男児たるもの、どうして一時の間に合わせなどに陥っていいものだろうか。
どうして物の判断などに待つ必要があろうか。

事がらの軽いとか重いとか、難しいとかやさしいとかをよく知っておれば、
片手落ちなどする心配は決してないものだ。

    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月26日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~(補遺)その2 - 伝統

2016/11/27 (Sun) 18:17:05


二 剛胆なる処を学ばんと欲せば、先づ英雄の為す処の跡を観察し、且つ事業を翫味し、
  必ず身を以て其事に処し、安心の地を得べし、然らざれば、只英雄の資のみあって、
  為す所を知らざれば、真の英雄と云ふべからず。

  是故に英雄の其事に処する時、如何なる胆略かある、
  又我の事に処するところ、如何なる胆力あると試較し、
  其及ばざるもの足らざる処を研究励精すべし。

  思ひ設けざる事に当り、一点動揺せず、安然として其事を断ずるところにおいて、
  平日やしなふ処の胆力を長ずべし、常に夢(む)寐(び)の間において
  我胆を探討すべきなり。

  夢は念ひの発動する処なれば、聖人も深く心を用ふるなり。
  周公の徳を慕ふ一念旦暮止まず、夢に発する程に厚からんことを希ふなるべし。

  夢寐の中、我の胆動揺せざれば、必驚(きょう)懼(く)の夢を発すべからず。
  是を以て試み且つ明むべし。

 

(訳)

肝っ玉の強くて太いことを学ぼうと思うならば、
まず英雄と言われた人のなしたあとをよく調べ、その事業をよく味わって、
必ず自分自身で事がらに対処し、心安らかな境地を得なければならない。

そうでなく、ただ英雄の資質だけあって、何もなすところがなければ、
ほんとうの英雄ということはできない。

こういうわけで、英雄が、ある事がらに対処するとき、
どのような大胆な策謀があったか、

また自分が、ある事がらに対処するとき、どのような度胸があるか、
ということを比較し、その及ばないところ、
足りないところをよく勉強して励まなければならない。

思いがけない事に直面し、いささかの動揺もなく落ち着いて
その事を処理することによって、かねて養うところの肝っ玉を
ますます強くすることができよう。

いつも眠って夢をみている間において自分の肝っ玉を試してみるがよい。

夢というものは、かねての思いが出て来るものだから、
聖人(知徳のもっとも優れた人)も深く心を用いられた。

周公(周の文王の子で孔子の理想とした聖人)も徳を慕う思いの朝夕やむことなく、
夢に出て来るくらい厚くなるよう願われたものであろう。

寝ている間に自分の心が動揺しなければ、
決して驚いたり、恐れたりする夢をみることはないであろう。

こういうことで自分の心を試し、かつまた明らかにするようすべきである。

           <感謝合掌 平成28年11月27日 頓首再拝>

南洲翁遺訓~(補遺)その3 - 伝統

2016/11/28 (Mon) 18:07:28


三 若し英雄を誤らん事を懼れ、古人の語を取り是を証す。
  譎詐無(ク)(レ)方。術略横出(ス)。智者之能也。

  去(リテ)(二)詭詐(ヲ)(一)而示(スニ)(レ)之(ヲ)以(テシ)
  (二)大義(テ)(○一)置(イテ)(二)術略(ヲ)(一)而臨(ムニ)
  (レ)之(ニ)以(二)正兵(ヲ)(○一)

  此(レ)英雄之事。
  而智者之所(レ)不(ル)(レ)能(ハ)(レ)為(ス)矣。

  (○陳龍川、諸葛孔明論の話)英雄の事業如(レ)此、豈奇妙不思議のものならんや。
  学んで而して至らざるべけんや。

 

(訳)

もし英雄というものを思い誤ってはと恐れて昔の人の言葉をとってこれを示された。

「相手を偽ること自由自在に、はかりごとをほしいままに出すというのは、
知恵ある人のよくすることである。

偽りあざむくことをしないで、相手に筋のとおった道理を示し、はかりごとをしないで、
正しい兵法をもって対応するというのは、これこそ英雄のすることであって、
知恵ある人のとうていできることではない。」(陳龍川の諸葛孔明論の語)と。

英雄のなすことは、大体このようなもので、どうして奇妙で不思議なものであろうか。
大いに学んでこの境地にぜひ達したいものである。

    (http://www.kamou.co.jp/keiten/saigoikun.html

           <感謝合掌 平成28年11月28日 頓首再拝>

”山形県にある南洲神社” - 伝統

2017/04/24 (Mon) 18:09:16


         *メルマガ「名言セラピー(110404)」より


薩摩藩(鹿児島県)&長州藩(山口県)を中心とする明治新政府勢力。

VS

会津藩(福島県)&庄内藩(山形県)を中心とする徳川幕府を支えた勢力。


この両者の戦いを戊辰戦争といいます。
勝ったのは、新政府勢力です。



ここで、ひとつ奇妙なことがあるのです。


負けた庄内藩には敵である薩摩藩のボス、
西郷隆盛を神様として祀った南洲神社があるんです。


山形県酒田市に南洲翁(西郷隆盛)の遺徳をたたえて、
昭和51年(1976年)に創建されています。


戦争で負けてるのに、
敵を神様として祀るって一体そこに何があったのでしょうか?


負けた庄内藩の戦後処理に当たったのは薩摩藩でした。


かつて三田の薩摩藩邸を焼き討ちにし、
戊辰戦争でも新政府軍に多大な損害を与えた庄内藩。

庄内藩主・酒井忠篤は、
切腹の覚悟を決めて、薩摩藩のボス、西郷隆盛の前に現れました。


生きては帰れないであろう・・・
負けた側のボス、酒井忠篤は切腹する覚悟が決まっていたのです。


しかし、平伏した酒井忠篤が顔を上げると、そこにあったのは・・・


西郷隆盛の穏やかな表情でした。
西郷の表情が、なごんでいる。


「悪かったとおわかりになれば、それで結構。
 切腹して詫びるなんて、とんでもないこと」



続いて、庄内藩が武器一切の目録を差し出すと、

「貴藩は、北方からのロシアの攻略に対する備えとなる藩です。
 この武器は、すべてそのまま保管しておいてください」

え、武器も没収されないんですか!?


庄内藩を敵ではなく、新しい時代の同胞として遇する西郷の誠実な態度に、
庄内藩の藩主はじめ家臣一同、涙を流して感動したと言われています。


この時の感動が、戦禍にまみれた庄内の地を癒しました。
敗者でありながら、庄内藩には愛が溢れました。


この感動が100年以上語り継がれ、
酒田の地に西郷を祀る南洲神社が作られたのです。


明治3年には、藩主・酒井忠篤自らが、 78名の藩士を引き連れて、
西郷の教えを乞いに鹿児島を訪れています。


西郷ドン、色々教えてくださいと。


そして、西郷の教えを文字に記して『南洲翁遺訓』として制作。
これを全国を歩き回って配ったのです。


西郷の庄内藩に対する姿勢も素晴らしいですが、 庄内藩の恩の返し方も粋です。



『南洲翁遺訓』には、西郷の哲学がおさめられています。

例えば、

「人を相手にせず、天を相手にせよ。
 天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、
 我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし」


常に天を相手にするように心がけよ。
天を相手にして自分の誠を尽くし、
決して人を咎(とが)めるようなことをせず、
自分の真心の足らないことを反省せよと。
 


西郷隆盛は、あれだけの大事業を成し遂げながら、
一冊の本もこの世には遺していません。


しかし、
庄内(山形県)の人々が西郷の生き方・考え方を語り継いでくれた
おかげで、私たちは、西郷の考え方を知ることができたのです。


強い立場になったものがやるべきことは、 相手の気持ちをいたわることです。


そんな武士道を持った日本人を生みだした日本の歴史そのものに、
心から拍手したい気分です。


憎しみの連鎖は愛によって断ち切れるんです。

・・・

<参考Webの追加:伝統板・第二「西郷隆盛②」
        →http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7408964 >

           <感謝合掌 平成29年4月24日 頓首再拝>

Re: 西郷隆盛 - zjqsvgbznMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:10:09

伝統板・第二
[url=http://www.gqkzkjhf9w537hd502z9x1w7570z34i7s.org/]uzjqsvgbzn[/url]
<a href="http://www.gqkzkjhf9w537hd502z9x1w7570z34i7s.org/">azjqsvgbzn</a>
zjqsvgbzn http://www.gqkzkjhf9w537hd502z9x1w7570z34i7s.org/

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.