伝統板・第二
伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/19 (Mon) 08:24:03
新しく、又始めます。よろしくお願いいたします<m(__)m>。
車いすラグビーのエース、池崎大輔選手、海外武者修行の成果もあって、見事初メダル獲得です(^^)/。
立派な道産子です(^^)/。
さて、今日からは、谷口清超先生の「コラム」を投稿いたします。(昭和42年7月1日号、理想世界誌「窓」からです)
「窓」 谷口清超先生
〇四月になるとすぐ浜松の講習会に出発した。土曜日の新幹
線のプラットホームは沢山の見送り客でゴッタ返していた。新
婚旅行に出る人達を見送る紋付やモーニングや訪問着などであ
る。私を見送ってくれた家内の姿が人ごみにかくれてしまっ
た。春も蘭、桜が満開で、車内は冷房がしてあった。私は少々
寒さを感じたので、レインコートを着た。二時間で浜松につく
ともう夕方で、佐鳴湖ホテルに案内された。ここは一昨年にも
来た事がある静かな湖畔の一軒家の旅館(客室五)で、大変気
持ちのよい所である。秘伝の鳥料理をたべさせる。
湖の周囲には人家は殆どなく、舟もない。俗塵を離れた湖が、
浜松のごく近くにあるのが不思議でもある。
昔はここにボラが沢山住んでいて、舟で沖へ出て、船縁を叩
くと、その舟の中へ飛び込んで来たものだそうだ。
「ほんとですか、それはダボラとちがいますか」ときいたら忽
ち大笑いになった。今は鯉と鮒がいるそうだ。佐鳴湖というの
はアイヌ語から来ているらしい。この付近はメロンの名産地で
メロンづくりの話もきいた。
誌友の方で、とてもおいしいメロン持って来られた方がいた
が、この方は肥えた田を別に用意していて、その土をメロン畑
に運んで毎回土を取りかえてメロンを一つ一つ心をこめてつく
るのだそうだ。水をやるのでも決してジャーっとやらないで、
少しずつ霧吹きのようにしてやるのである。そうするとヒビの
目の細かい美しいメロンが出来るということだった。メロンは
このヒビの目の具合で値段がきまる。何でも、誠心をこめてつ
くるのと、そうでないのとは大変な違いがあらわれるものであ
る。実際この人のつくったメロンを頂いたところ大変美味であった。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/20 (Tue) 08:21:10
トキ様が女性だとは知りませんでした('◇')ゞ
般若心経、なかなか憶えられません('◇')ゞ
谷口清超先生の「窓」です。
講習会は光明会館で行なわれ、二千八十六名であった。第一会
場からテレビで旧館や色々の小道場のテレビセットに導かれる
ようになっていたので、これだけの数の人が収容できた。
静岡県は凡ゆる点で着実に伸びて行きつつあり、非常に安定し
ているのですばらしい。
現在相愛会も八十八、白鳩支部会百二十九、単青二十一となっ
ており、大体一万四千の誌友数である。
もっとのびることは確実であり、将来が大いに期待される。
青年会も自己限定をやぶりつつある。青年会の県大会も八百名ぐらい集まるようになった。
講師会も七十七名であり、二百二十七名の伝道員、六名の光明
実践委をもっているが、これもどんどん増大するにちがいない。
第一日は花ぐもりで時々小雨が降った。控室から東南の方角を
ながめると、市内が一望に見下され、所々に桜が咲いていた。
便所からもお花見が出来た。こんな眺めのよい教化部は、全国でも珍しい。
二日目は早朝ものすごい風雨があったが、講習会が始まる頃に
はすっかり上がってかえって大変よいお天気になった。
〇午後、よいお天気の浜松を「こだま」号で出発して、京都
に向かった。ここも快晴で、夕方大津へついた。
以前来た小島屋で、ゆっくりと落ち着くことが出来た。大津は
琵琶湖の畔にある古い町である。街がせまく、冬は寒い所だ。
大津会館での講習会は八百二十五名であった。終日雨であった
が、滋賀県はこれから“離陸”しようとしている県である。よう
やく組織も出来上がりかけて、八教区ができ、白鳩会は三地区
連で動き出しつつあり、増えて行こうとしている。青年会も九
単青ある。生高連は中々活発であって大会に百四十名くらい集
めるようになった。
平日であるのにたくさんの高校生が会に参加して下さったこと
は、大変私の心を明るくした。しかし今のところ全県的にはと
くに大津市内の誌友会が低調であるので、これから大いに頑
張って、面目を一新して頂きたいところである。
第二日目は快晴であった。会が終ってから、直ちに新幹線に
のって東京に帰った。車で大津から京都市内に入ると、各所で
満開の桜が目についた。近頃はめったに京都に来る機会が与え
られないが、相変わらず美しい古都だと思った。
新幹線の私達の坐る席には、変な感じの青年が坐っていて、しきりにミカンを床に吐きちらしていた。
私達が行くと「おかしいな」とか何とかいって、二人で前方の
席に移動して行ったが、やがて車掌が改札に来ると、その二人
は切符をさがすような様子をし乍ら、後の二等席の方に去って
行った。二等車の自由席は満員で、立っている人が一杯いた。
その二人のたべのこした床のミカンカスを、随行の土居君が黙ってきれいに掃除してくれた。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/21 (Wed) 08:10:12
がんこ親爺様が吠えています!(^^)!
もうお彼岸です。
谷口清超先生の「窓」です。
〇次の週には新潟の講習会に行った。飛行機で日本アルプスの
上をとぶと、まだ雪で真っ白に蔽われている山々が見えた。何
かの模様を見ているようで、とても美しかった。都会のスモッ
グによごれた姿とは、あまりにも大きくかけはなれているので
ある。新潟地方は、上から見ると砂の中にある町といった感じ
であった。いつも泊めてもらう小甚旅館におちついた。ここは
とてもうまい料理を出してくれる所で、その献立も決して同じ
ものを出さないように配慮してある。板前さんは四十代の人だ
というが、あまり料理屋臭くもなく、しかも垢抜けがしている料理をつくる。
講習会は北部連合会だけのもので、体育館で行なわれ、千八百
二十五名であった。新潟県は南北に分かれていて、北部連合会
も、最近は次第に組織が整って来たようである。聖使命の伸び
率も全国第四位となって二千八百五名と、南部にほとんど接近
して来て三三八六口である。誌数は三六六五で、前年より七三
七ふえた。
しかし残念ながら青年会が伸びていないので、これからは
何とかして伸ばして行かなければならないと思う。そのため
相・白・青・講各会から二名の代表者が選ばれて”青年口座”を
つくり、そこで青年の育成をはかり、教化部長を中心として幹
部養成をやっている。昨年九月ごろから発足したが、その成果
がどのくらい出るか、今後に注目したい。白鳩会はやはり数的
には主体であって、支部会も昨年中に九ヵ所ふえて大活躍して
いる。生憎白連会長の高橋ひでさんがちょっと身体をこわして
おられたが、幹部会には出席された。此れからは元気になっ
て、又大いに活躍されると思う。幹部層にも次第に新人が加
わって、今後は大いに飛躍するに違いない。佐渡からも今回の
講習には三十八名(第一日調べ)来ておられた。
二日目の天気もどうにかもって、四時に終わると、直ちに
飛行場にかけつけた。ノールとかいう小さな飛行機に乗り、か
なり遅れて雲上飛行をし乍ら東京についた。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/22 (Thu) 08:17:09
<雛形経綸の原理>、う~ん、何か示唆されているような気も・・・。
余りにも災害多発ですものね。
谷口清超先生の「窓」続きです。
〇中共の“文化大革命”はいよいよ複雑な様相を呈してきた。台
湾あたりでは依然として毛沢東は死んでいるとか、少なくとも
精神的肉体的に活動できない状態になっていると論ずる者があ
るらしい。とにかく、もはやこの“騒動”を本当に鎮める力を
もっている人は、誰一人いなくなっている様子である。毛夫人
の江青も、周恩来や林彪を非難しているし、近衛兵はどうやら
江青の“私兵”的性格を一層強くしつつある。林彪も周も、軍を
完全に掌握することは出来ないし、いたるところに分裂と対立
が生じている。このような国家をもった中国々民は、まことに
お気の毒と言わねばならない。
一方海外にいる華僑なども大変である。何故なら彼らは保護さるべき祖国をもたないからである。
分裂抗争の国家でも、まだないよりはましかもしれないが、イ
ンドネシア内の華僑などは、迫害につぐ迫害で、インドネシア
人の中共へのにくしみや不信を一身に背負っている感じであ
る。しかも彼らには、帰国すべき国家がない。いわば三界によ
るべなき流浪の民である。日本国の悪口を言ったり、国などな
くてもいいなどという日本人に、少しは彼らの苦しみを知らせてあげるのがよいと思う。
国家をもたない民族はまことにかくも悲惨である。立派な中心
のある、平和な国家をもたない民族も、まことに不幸である。
日本は今や世界第三に富める国になりつつある。やがて二十一
世紀にはアメリカよりも一人当りの所得ではふえるであろうと
いう人もいるのである。この国を、中鏡の如くに「革命」する
必要が、一体どこにあるであろうか?
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/23 (Fri) 08:31:45
<山ちゃん1952-
おいおい「生長の家」に
左翼雑誌の内容が掲載されるムダを考えたほうが妥当であろう。
それと
ジャ-ナリズムが廃れたのではなく「生長の家」が左翼として台
頭したというのが正解ですね。・・・>・・・。
目についたコメントです!(^^)!
新潮45、読みました!(^^)!
これまた、よき方へ進行せんことを!
谷口清超先生の「窓」終わりです。
〇久しぶりに佐賀の講習会へ出発した。都知事選以来陰々欝々
としていた天気も、この日はカラッと晴れて、よい飛行日和となった。佐賀市内は日中暑いくらいであった。
講習会は公園の中にある体育館で行われ二千四百六十五名で
あった。佐賀県の教勢は次第に充実して、幹部組織もしっかり
して来ていることは、まことに悦ばしい。誌友も約七千になっ
たが、今年は一万九千を目標にして頑張っている。伊万里市で
は「愛行の日」を実践して、十二、三名が誌友拡大に行ったと
報告しておられたが、そのとき五名の新誌友ができた。「あま
り成果がなかった」とおっしゃっていたが、しかし約五割増え
たことになるから、全誌友が毎月「愛行の日」に動き出したな
ら、大したことになるのは明らかである。
動けば必ず何らかの成果があるものだ。動かねば、何もよい事は起こらない訳である。
第一日目の会のはじまるまでの昼食を、川上峡の竜登園という
ところでいただいたが、見はらしのいい、気持ちのよい所で、
柿の木の新緑が美しかった。この県では壮年部が活躍してい
て、毎月一日の例会をもち、『生命の実相』を県産したり、
テーブル・スピーチや会議のやり方の実修を行なったりしている。
単青は十七で、内六単青が活動中ということだ。専従活動者を
もうけたいと言っておられた。
相愛会も活発にして、大いに殖やす計画である。特に多久市で
の隣保班活動はまことに目ざましいものがあって、タクサンの新誌友ができていた。
二日目も快晴で、むし暑いくらいであった。天気予報は天候が
崩れるように言っていたが、それどころか雲一点もない飛行日
和であったことは、県下の皆さんの祈りと誠意のたまものであろうと思う。
(おわり)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/24 (Sat) 08:20:27
<昭和51年9月24日 生長の家本部会館で行なわれた 白鳩中央委員会 の結語の冒頭で 谷口雅春先生は 『宇宙浄化の祈り』 を発表されました。
『この祈りによりまして、宇宙が浄まり日本の国が浄まり
生長の家のすべての人々の生命が浄まり、そこから宇宙の再出発が起って来るのであります。
今は恰度、荒ぶる神が暴れまはって、須佐之男命が暴れてゐ
るので、天照大御神が天の岩戸にお籠り遊ばした時のやうに、
天皇陛下の大御心が、宇宙に、日本の国のすべての人々に、ま
だ本当に目覚めてゐない状態なんであります。
この際に天照大御神のみ光、いよいよ天の岩戸の扉を開い
て、宇宙に我が日本の国にそしてすべての国民の心の中にさし
照らして、そこに本当の理想世界が実現するのには、どうしても人間の力ではダメである。
神様の力が本当に我々の信仰を通して働き出さなければなら
ないと思ひます。 その為に住吉本宮の御造営をやってゐるわけであります。
住吉大神出でまして我が日の本を浄め給ふ。
もうすでにその日本の浄化は始まってゐるのであります。
あのロッキード事件で、そして、三木首相が、ともかく今ま
での自民党のあり方が濁ってゐる、金権で濁ってをって本当の
日本の愛国精神が発揮されない状態だといふので、ああして真
黒の高官やら灰色の高官を探し出してゐるのも、あれも人間が
やってゐると思ったら、人間を動かして住吉大神の日本浄化の働きが起ってゐるのである。
その浄化の働きは最初の自壊作用の如く現れて参りました。
それは、伊邪那岐の大神が些紫の日向の橘の小門の阿波岐原
で禊ぎ祓ひをやられた時に、色々穢い神様が現はれてゐるのであります。
最後にいよいよ住吉大神が現れて浄化の最後のしめくくりを
なさいましたら、この世界が完全によき世界になる、よき日本
の国になる、そこに本当に理想世界が実現する、とかう思ふのであります。』
童子様のご投稿から<m(__)m>。
今朝からは、大聖師の法語です。
「理想世界」誌9/1号より、
輪読のための青年法語「宇宙の神秘を直観して」
谷口雅春先生。
十日のことば ◆ 霊はその知性を低下して物質となることができる
知性のない物質から知性は生ずることはできない。仮りに物
質に知性があるにしても、低い知性から高い知性を生ずることはできない。
ないものから、在るものは出てくることはできないからであ
る。しかし高い知性はその活性を低下して低い知性となって眠
ることはできるのである。
更に一層眠ってしまって、知性が完全に低下してしまえば、物
質のような無知性のような状態になることもできる筈である。
しかし物質のように無知性の相をあらわしていても、本来は、
宇宙は一元であって”神”なる霊的一元より発しているのである
から、眠っている(或いは微弱なる)知性を備えているから、
人間が、その知性に働きかければ、法則を通して物質は吾々の
欲する通りに動いてくれるのであり、物質科学の発達もこのよ
うにして得られたのである。
釈尊は悟りをひられた時に、「山川草木国土悉く皆、仏のい
のちの現成である」と観ぜられた。ということは、”仏のいの
ち”なる最高の知性が、その知性の発動を低下して山川草木国土
の如き鉱物や植物としてあらわれているのであって、一切の存
在は本来、鉱物の如き無知性のものではなく、万物みな仏のい
のちの顕われだということを悟られたということである。
物質が固定した鉱物や木材の如きものでなく”ほとけ”のいのち
現成であるということが解れば、吾々は物質の不足や、どうに
もならない物質の構造上から来る不自由の制約から解放される
即ち「ホトケル」のである。だから釈尊は「山川草木国土悉皆
成仏」と悟られたときに完全に自己解放を遂げられたのであり、即ち”仏”となられたのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/25 (Sun) 08:06:13
道産子は産経新聞が読めない・・・(*_*;
朝の大日本神国観、
<一切の生物ところを得て争う者なく、相食むものなく、病む
ものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。・・・>と読誦するたびに、なにか虚しい気がしていましたが、
答えはちゃんと、聖経「甘露の法雨」にありました。
<誠に誠にわれ汝らに告げん。『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり。『真の人間』なり。
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして
永遠に神の国を得る事能わず。・・・>。・・・。
大聖師の法語から続きです。
十四日のことば ◆ 人間の内に”無限”が宿っている証拠
私たちの現象の肉体は、すべて有限の生命しか有(も)って
いないのである。それなのに内部的要求としては、出来る限り
長寿を望み、可能ならば永遠に生きたいとすら念(おも)うの
である。それは何故であろうか。現象的には”有限”であるけれ
ども、その実相は”無限”であるから、外見の”有限”を克服し
て”無限”を顕したく思わずにはいられないからなのである。
吾々は戦争中の欠乏状態のことを憶(おも)い起こして、現在
の裕かなる状態とくらべるならば雲泥の差があるといってよい
ほどに繁栄しており、生活の福祉に満たされているにも拘わら
ず、尚もっと裕かに、もっと福祉に満たされたいと願わずには
いられないのは、人間本来の実相が”神の子”であり、いくら裕
かに表現しても、尚表現し足りない内在の”無限”が頭をもちあげて来るからである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/26 (Mon) 08:24:23
コスモス様、がんこ親爺様、深夜に吠えていらっしゃいます(^^)/
ほんとに切実な訴えばかりです。合掌。
大聖師の法語です。
十七日のことば ♦ みこころの天に成る世界
私たちが地上に誕生した目的は、既に天に成る“理想世界”を地上に顕現せんがためであるのである。
「天に成る」の天とは、空間的高さを示す“天空”ではないのである。
時間・空間を超えた超越世界(霊的世界)に神が創りたもう
た“理想世界”である。それは時空を超えた”内在の世界“とも謂
うことができるのである。
それは“内在の世界”であるから、キリストは天国を説きなが
ら、「神の国(即ち天国)は汝のうちにあり」とも教えている
のである。併しその「内在の世界」とは肉体の腹中に内在する
のではなく、時間空間世界を遥かに超えたという意味に於い
て、その超越性が”天”という語で表現されているのである。
時間空間以前の世界に於いて、神は既に理想世界を創造せられ
ているのであり、そのことが「その創造(つく)りたる全ての
ものを見給いけるに甚だ善かりき」と創世記第一章に表現されているのである。
この創世記第一章にある”天地の創造”は実相世界の創造である。
(つづき)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/27 (Tue) 08:41:46
もんじゅの智慧はないものですか?
コスモス様の切実な願いは聴かれないのですか?
皇統問題の正しき道が開かれますように。
大聖師の法語です。
十八日のことば ♦ 先ず自己の内なる神の国を求めよ
既に理想世界は“天”即ち“実相世界”に於いて成就しているの
であるけれども、それが人間の感覚面に感じられる現象世界に
あらわれるためには、現象世界は時間・空間の“認識の形式”を
通じてあらわれるのであるから、ある特定の時間・空間に一ぺんに完全世界があらわれる訳には行かない。
すなわち時間的序列を通して、空間世界に順次展開して来るという形をとるのである。
先ず吾々は“自己”というものに、その内在の天国を自覚し、それを外界にあらわさなければならないのである。
先ず「神の国を求めよ、自己のうちに神の国を自覚せよ」である。
自己のうちに“神の国”を自覚するならば、その“神の国”と
は“神の子”が住んである処であるから、自分が“神の子”だとわかるのである。
自分の内に“神の子”を自覚するための修行が神想観である。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/28 (Wed) 08:08:48
リーダーにカリスマ性は必要です、と思いますけど(^^)/。
ひとりひとりが『谷口雅春』ですから、どなたにも資格はあると思いますけど…。
大聖師の青年法語から。
二十二日のことば ♦ あなたは聖者として生きよ
大生命は普遍的存在である。到る処にその生命が顕現して、すべての生物としてあらわれているのである。
生物のみならず、天体の主要部分を構成している鉱物までもその普遍的生命の顕現であるのである。
だから釈尊は悟りをひらかれたとき「山川草木国土、悉く皆仏の現成である」と理解されたのである。
聖者は一切の個別的な存在の奥にあるところの「分割なき一者」を見るのである。
その「一者」は宇宙大生命であり、神であり、すべての物と人
との奥に神を観るから、物を大切にする心が起こり、すべての
事物を処理するのに、おのずからなる深切心が起こり、人に接
するにその表面にあらわれたる欠点を見ず、その奥に宿る“神”を見て尊敬しあいし深切を行ずるのである。
(つづき)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/29 (Thu) 07:58:02
<このことは今度の第二次世界大戦によって
ハッキリと実証されたのであります。先ず日本は自身の経済的
幸福を成就せんが為に、我意、我見をもって戦争を始めたので
す。それは一時成功するかの如く見えた。しかし「神」を離れ
て起こしたところの行動は、「成功」と見えるものの奥に「墜
落」があり、「勝利」と見えるものの奥に「敗北」があり、進
めば進むほど、焦れば焦るほど「墜落」と敗北の奈落の底へ近
づいて往ったのであります。
そして官自らも、軍自らも、何時その日本民族絶滅の急下降の
一歩手前でその惰力的進行を停止して好いかわからなかった。
その時、遂に神の愛の智慧はがこの戦争を停止に導いたのです。
それはアメリカをして原子爆弾を実用化し得る程度までに発明
を完成せしめられたことだったのです。そうしてついにこの戦争は神の愛の導きに依って停止せられたのです。・・・>・・・。
ショックな御文章が目に留まりました!(^^)!
平賀玄米様のご投稿から、です<m(__)m>。
大聖師と清超先生の御共著のご謹写です。
ここから聖戦へとどう繋がるのか続けて読んでみましょう。
大聖師の青年法語、続きです。
二十四日のことば ♦ “物質はない”という意味
“物質はない”という一喝は、物質をありとして悩熱をもって執
着している“心”から執着を消してしまうところの冷水三斗に匹敵する一転語である。
この一喝を素直に受けるとき、自分の心をなやましていた悩熱は消え去るのである。
事物の考え方が一転してしまうのである。すべて物質としてあらわれていたものが物質でなくなるのである。
一転して、それは物質ではなく神(仏)のいのちの現成であると悟るのである。
支那の高僧、百丈和尚が小川で野菜を洗っていたときに一枚の
菜の花がちぎれて流れ去って行ったときに、和尚はそれを駆け
足で追っかけて拾い上げると、それを頭に戴いて「これは仏物
である」と礼拝したということであるが、これが「物質はな
い、ただあるものは神と、神の顕現のみだ」という悟りの境地なのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/09/30 (Fri) 07:57:23
<・・・しかし、信徒たちの希望とは、裏腹に、
果たして、肝心要の、御三家の方々は、雅宣先生に総裁をやめ
て欲しいとか、ご自分たちご三家に 大政奉還して欲しいと
か、望んでおられるかどうかは、わからないことです。・・・>・・・。
志恩様のご投稿から、難解なご提案です('◇')ゞ
望んでおられることは確かだと思いますけれども・・・。
大聖師の青年法語です。
二十五日のことば ♦ 物質はエネルギーの旋渦である
“物質”はただ常識学的に呼び名であって、物質を物理学的に
研究して行くと、もうそれは物質という「一定の体積をもち、
分別し得うべき一種の固まり」という常識的概念には当て嵌まらなくなるのである。
それはある一定の方向に旋回するエネルギーの渦巻なのであ
る。(『生命の實相』実相篇第一章”近代科学の空即是色的展開“参照)
其の旋回の速度及び様式の相異から別々の素粒子のように顕れているのである。
普遍の大生命のエネルギーが、自己表現の無数のセンターを
作って異なる振動を起こし、各々個性ある旋回をすることに
よって、異なる原子となり、異なる元素となっているのである。
人間が動物と異なり、動物が植物と異なり、植物が鉱物と異な
るのは、そのエネルギーの運動形態及び構成形態がそれぞれ個性的に異なるからである。
どうしてエネルギーの運動形態が異なり、構成形態が異なるか
といえば、そのエネルギーの運動及び、形態を指導する設計が異なるからである。
色々の異なる設計が、一つの宇宙大生命の無限の知恵から出て
来るのである。それは一人の建築設計家が常に異なる様式の建
物を設計するのにも似ている。様式の異なる建物も一人の設計
技師から生まれて来ることができるのである。
その如く、宇宙の神羅万象には無限に異なる種類があるけれど
も、ただ唯一なる神によって、その神のエネルギーを素材とし
て、その神の知恵によってエネルギーの振動、旋回、方向等を
色々に設計され、それが組み合わされて各々異なる形に出現し
たのであり、形が異なるからといって別々のバラバラの存在ではないのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/01 (Sat) 08:15:26
般若心経、ようやく不増不減~辺りまで暗誦出来
るようになりました('◇')ゞ
最後の羯諦羯諦波羅羯諦~はもう暗誦済みですし…(^^♪
大聖師の青年法語、です。
二十六日のことば ♦ 現象世界は心の現わす世界である
「宇宙は宇宙大生命の無限の知恵の展開である。」
これは一応そのまま正しい見解である。その宇宙の中に於い
て、どうして不幸や災難が病気や、その他色々の不調和の状態が存在するのであろうか。
この宇宙を設計した”知性”は完全な知恵を備えていないのではないだろうか。
そのような“知性”は”神”と称するに耐えないものではないだろ
うか――釈迦はそれゆえに、この世界(現象界)はそのような完
全な知性(神)によって創造せられたのではなく(現象世界の
創造神の否定)それは人間の心(迷妄心――無明)によって生じたる唯心所現の世界であるとせられたのである。
神の想像し給える真創造の世界を「実在の世界」と称するなら
ば、吾々の肉眼で見るこの現象世界は仮虚不実の夢幻的世界であるという訳である。
現象世界は唯心所現の世界であるという世界観は、いっそう進歩したものの観方であると謂えるのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/02 (Sun) 07:47:51
<生長の家の教えの神髄を学べば、天皇国日本こそ
が、霊的に世界の中心である事がお解りだと思います。
その大切な中心を無くせば、世界は争いの真っ只中に放り込
まれ、やがて大きな争いの中で滅びるしかないでしょう。
「日本国天皇」とは、霊的にその様な存在であるのです。だ
からこそ、絶対に無くしてはならないのです。>・・・。
コスモス様の確固たるご主張です。
大聖師、青年法語の続きです。
二十七日のことば ♦ 仏教も創造神を立てている
ここに”この世界”を創造した創造神を立てるキリスト教や印
度教その他と「この世界は神の創造ではない」と創造神を否定する仏教との正面衝突があるのである。
仏教界の碩学大谷光瑞氏さえも、仏教とキリスト教とが同様の
真理を説くなどということは仏教の本質を知らない者だと罵倒したことがあるのである。
この両者の宗教を融合帰一せしめる道は不可能であると認めら
れていたのであるが、生長の家の説き方に従うならば、仏教と
基教とは容易に一致点を見出すことができるのである。
というのは「この世界を創造した」という場合の「この世界」
を「実相の世界」と観て「現象世界」のことではないと解釈
し“実相”と”現象”とをハッキリ区別すれば、仏教だとて、法華
経の如来寿量品に於いて”常に茲に在りて滅せざる如来“を説
き、現象界が「大火に焼かるる」と見る時にも「安穏にして天
人常に充満せる実相世界」のあることを強調しているのである。
常に安穏にして一切の不幸のない実相が如来の命の展開だとい
うことになれば、それは如来の創造せる世界(文字の表現が異
なるだけ)であって、如来は創造神と同一者であるということに解釈できる訳である。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/03 (Mon) 08:25:53
大聖師の講演御動画の会、 谷口貴康様のご講演も
あり、素晴らしい会になったようです。
大聖師の青年法語、続きです。
二十八日のことば ♦ 仏教の世界観と基教のそれとは一致する
つまり仏教では、「大火に焼かるる現象世界」と「永遠に滅
しない天人充満の実相世界」とを立て,前者を唯心所現・生者
必滅の仮現世界としているのであるが、キリスト教では「その
創造(つく)りたる全てのものを見給いけるに甚だ善かり
き」という「エデンの楽園」(実相世界)と、人間の心の迷い
によって楽園から追放されている”現象世界”とを立てているの
であって、こうして実相世界と現象世界、実在の世界と仮現の
世界とを区別して考えれば、仏教とキリスト教とは同一真理を
説いていることが判るのである。
つまり全宇宙は神の創造に成る世界であり、それが“心”のレン
ズを通して歪められて不完全に顕現せる世界が現象無常の仮現の世界なのである。
現象世界と雖も仮現の不完全な有様が消え実相完全の相を顕わ
している部分は実相世界の現実化即ち実相の延長と見てよいのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/04 (Tue) 08:13:14
<山ちゃん1952様ブログより
「法灯継承」は無効であると宣言する。>・・・。
志恩様のご投稿から。
だけど、トキ様って、本当に女性なんですか('◇')ゞ
すごい理論論にみえますけど・・・(*^-^*)。
大聖師の青年法語、続きです。
二十九日のことば ♦ 三種類の唯心論
今まで普通に説かれて来た唯心論を三種に大別することがで
きるであろう。主観的唯心論(Subjective Idealism)と、
客観的唯心論(Objective Idealism)と、絶対的唯心論(Absolute Idealism)とである。
第一の主観的唯心論、この世界は唯、人間の主観が時間空間
の“認識の形式”に投影されて現れているものであって、客観的
にはそんなものは存在しないという極端な観念論である。
第二の客観的唯心論は、この世界は、神または宇宙心の想念の
展開であるから、それは心の所現ではあるけれども、客観的に
儼存する世界であり、神の愛に護られている世界と説く。汎神論はこの中に入るであろう。
第三の絶対的唯心論、神は主観・客観を超越せる絶対者であっ
て、一切を包容し一切を支配するのは絶対者であるから、個人
の努力と見えるものも実は絶対者の顕現であり、全宇宙が絶対
者に支配されているから、すべては機械的に自動的に動き進展
して行くので、個人の努力の余地など存在しないと見るのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/05 (Wed) 08:39:25
志恩様も何が本当かしっかりと知って、論争されて
いるような…(^^♪
杉田水脈先生もご奮闘中、応援したいですね。
大聖師の御法語、終わりを…。
三十日のことば ♦ 生長の家の唯心実相論
生長の家の説く唯心論は、以上大別する三つの唯心論とは異なる世界観である。
唯心実相論と称しているのである。
以上三種の唯心論的世界観に於いては“この世界”に人間の心の
表現であるとか神の心の表現であるとか、絶対者の表現である
とかいっても、すべてこの“現象世界”のことを“この世界”といっているのである。
吾々の唯心実相哲学に於いては、神なる絶対完全者の顕現であ
る世界(実在界)と、吾々の”心”を媒介として投影し仮現され
たる現象世界とを説き、実在界と仮現の世界との交錯するとこ
ろに善悪混淆の現象があらわれるのであるが、仮現はどこまで
も仮現であって実在でないから、現象界は想念の変化によって変化する。
ここに努力の甲斐があると説くのである。
そして実在するものは唯、神と神の創造になる実在界のみで
あってそれは常住不変の完全原型の世界である。
そして吾々の努力次第で、どの程度その完全原型を現象世界に
具象させて円満幸福な生活を送り得るかがきまるのだと説くのである。
そしてその真理を実際生活に応用させて効果をあげているのである。
(おわり)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/06 (Thu) 08:34:59
峠に雪、いよいよ冬将軍の到来です( ^^) _U~~
今朝からは谷口恵美子先生の御文章です。
神のいのちそのままに 谷口恵美子先生
六月のなかば頃、ちょうど明治神宮の花菖蒲が見頃と聞いて夫と出かけました。
第一の鳥居をくぐり、玉砂利をふんで、太鼓橋を渡りますと左
手に内苑にはいる木戸があります。
木戸を通ってうすぐらいほどに木の茂った道をくだりますと、
広い池が眼前に明かるく開け、紅やクリーム色、桃色の睡蓮の点々と咲いているのがなつかしく目に移りました。
十代の頃より見慣れた内苑の、いつも変わらない清々しいたた
ずまいは、わが家の庭のように私には懐かしく見えるのでした。
私はこの明治神宮の近くに住んでもう三十年もたちます。
元旦にはお詣りする他は年に何度も伺いませんけれど、昨年花
菖蒲を見なかったことを思いますと、ことしは又行ってみたいと思うのです。
花菖蒲も見事なものですが、みどり深い木立にかこまれた広い
池に咲く睡蓮と、大きな鯉の群を見るのもたのしみです。
まるい葉を平に敷きつめた上に、黄、桃、紅と異なった色を散らして咲いている睡蓮!
急にその葉の一部が乱れ、大きく動き出したのを不思議に思っ
て見つめていますと、鯉がつついたと見えて、ひれがちらりと見えました。
色とりどりの鯉は見物人がビスケットなど投げるのを重なるよ
うに群れ集まってパクパク音を立てて食べています。その間を
二匹の亀が、黒い首をもたげて泳いでいるのです。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/07 (Fri) 08:35:21
「眼光紙背に徹す」=書物を読んで、字句の解
釈に止まらず、著者の深意や精神を鋭く読み取ろうとすること(*^_^*)
破邪顕正様の大反論に感動。
伝統様の厳しさにも深く首を垂れるのみ、必ずや実行させていただきます<m(__)m>。
谷口恵美子先生の御文章から…。
「見てごらんなさい! あんな大きな鯉がいますよ」
という声がすると人々は一せいに指さす方を見て感嘆したような声を出しています。
こんなに広い池なので、このように立派に育つのかしらと
思っていますと、又別の若い声が、
「すごい鯉ね。こんなの高いのよね。何万円もするのよ」と言っています。
地面に腰をおろしてキャンバスに向かって油絵を描いている青年が一人いました。
油絵の具がプーンと匂い、その絵筆は池の面に睡蓮の美しいぼ
んやりした影を塗っているところでした。
この自然の美を、この眼でそのまま見ているこのつややかな生
命の美しさを、光を、どこまで表していくことができるのでしょうか。
夫はカメラを構えてその美しさを捉えようと一所懸命でした。
私は木陰にやすみながら、そのままの美しさをただ眺めて飽きないのでした。
心の中に、みどりの木立、睡蓮の一群、水の色と光などを、
じっと吸い込むような気持で腰かけていますと、神宮の厳かな
雰囲気が木の間に満ちているのが感じられるのでした。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/08 (Sat) 08:09:14
<「組織の崩壊」は・・・
「組織」が <巨大> な場合は、徐々に 崩れて いき・・
ある 時期 が来れば・・<一気に崩れる>のです!!
そして、それが近い・・>・・・。
トンチンカン様の呟きですか!(^^)!
谷口恵美子先生の御文章です。
休日でもありませんのに十時も過ぎますと、見物の人は通路一
杯になり賑やかな話し声もあふれてきます。
池を離れて又木立の中を行きますと、日のよく当る花菖蒲苑に出ます。
みどりの葉に映えて紫の濃淡とまばゆいばかりの白い花が優
雅な中にも毅然とした趣で咲いているのが一望のもとに眺められます。
近よってみますと、似ているように見える花も、それぞれに
異なっていることがわかり、名札と見くらべながら眺めまし
た。鵜の羽毛のように白くふわっとした感じのもの、大江戸と
いう紫の落ち着いた色、あわい赤紫に、ぼたん色の縁どりの可
憐な花、札を見ますと小町娘とありました。
湧き出る清水が絶え間なく菖蒲苑をうるおし流れています。
これほどまでに見事に咲かせる苦心のほども偲ばれるのでした。
此処にも水彩やエンピツなどでスケッチに余念のない人達の
手拭姿や、麦藁帽子姿が六、七人見られ、カメラを持った人
も、友達を写したり家族を写したりしながら賑やかに行き過ぎ
る人の他は、じっくり三脚を据え熱心に花と取り組んでいるのでした。
見れば見るほど美しい花と風景、一人一人の感じ方は違って
もそこに神のいのちを感じ、自分の中の神のいのちと共鳴するよろこびは何と素晴らしいことでしょう。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/09 (Sun) 08:10:52
般若心経、遅々として進まず('◇')ゞ、
ただ今、無無明盡乃至無老死、あたりまで。
ただ、この後には、有名な(^^)/無罣礙~や阿のく多羅~もあ
りますから、そんなに遅くはならない筈です(^^)/
谷口恵美子先生の御文章続きです。
私は小学校の頃、毎日曜日に明治神宮の朝詣りに行ったことを思い出しました。
朝食前の早い時間だったと思いますが、この内苑は開いていま
せんので、朝の広々としたところで休んだようでした。
そしていつも校長先生から明治天皇の御製の書かれた紙を頂
き、色黒なにこやかな校長先生が、御製を読んでくださったことを覚えています。
あさみどりすみわたりたる大空の
ひろきを おのが心ともがな
このような御製を聞いて神域の朝の澄みきった空気を思う存
分吸って子供心にも何かしら清々しいよろこびを得て帰ったも
のでした。又その頃は表参道は今のように巨大なマンションが
立ち並んでいませんでしたし、自動車の往来もわずかでしたの
で、学校の行き帰りには表参道の中央で立ち止まって、神宮に
礼をして渡ったものでした。
そこにはつい最近、歩道橋がかけられ、車は絶え間なくその下を走り過ぎています。
都電が市電といわれていた戦前には青山通りを通る市電が表参
道にさしかかりますと、電車は徐行して、車掌さんは、
「ただいま、明治神宮前を通過しております」と知らせ、自分
も頭を垂れ、乗客も神宮へ対して頭を下げたものでした。
今こんなことを話しましたら、若い人達はびっくりなさるで
しょうけれど、決してこれは強制されたものではなく、尊ぶべ
きものは尊び、敬うべきものは敬って来ていた日本国民の自然な姿だったと私は思うのです。
それが終戦後アメリカの占領政策により、日本国民が尊び敬い
誇りとしていたものを失わされる教育を受け二十数年たった
今、日本の正しい歴史も知らず、何を尊び敬えばよいのか知っ
ていない青少年が大半を占めるようになりました。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/10 (Mon) 08:30:22
ラジオ聴いてますと、日本の放送の倍くらい
の、韓国(北朝鮮も?)、中国、そして1局だけのロシア放送、が・・・。
近いから聴こえてくるのでしょうが、不気味な気も致します!(^^)!
内容はさっぱり?ですが・・・(*_*;
今日は恵美子先生の93歳のお誕生日、おめでとうございます。お健やかにお過ごし願います。
谷口恵美子先生の御文章です。
先日テレビで宗教的な雰囲気の日本語の達者な外国人(途中
から見てどなたかわかりませんでした)と。七、八人の日本の
青年達が宗教問題について対談しているのを見ましたが、信仰
が必要か必要でないかということについて対談しているのを見
ましたが、信仰が必要か必要でないかということになります
と、青年たちは「別に神など信じなくとも、自分の力でやれる
だけやればよいと思います」というようなことを堂々と言っています。
司会者が、「この中で無信仰な人は、ちょっと手を上げてみて
ください」といいますと、全員手を上げたのには司会者もおど
ろいた顔をしていましたが、自分の力で精一杯やるという、そ
の自分の力が神から来ているなどとは考えてもみない風で、む
しろ信仰するなどというのは偶像を拝むようなものでつまらな
いと思っているようでした。その外国人は嘆かわしそうに言われました。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/11 (Tue) 08:39:25
http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/509a629e8a8f09e46781b18b984dfb25
当該ブログが昨年から更新されないとのことですが、残念なことです。詳細?です。
「生長の家」誌 昭和59年5月号の 大聖師の「91歳の感懐を語る」は誠に感動的ではあります。
これはYouTubeにもありましたか?
小生は大聖師に教わった歯の強健にする運動を毎日励行しております!(^^)!
谷口恵美子先生の御文章、終わりです。
「信仰が必要かどうかではなく、欧米では小さい時から必ず朝
起きて神に祈り、食事の前には神に感謝の祈りを捧げ、また夜
やすむ時にも神に祈らなければいられないという心を皆もっています。
ノーベル賞受賞者が来日した時に、彼らは日本の文化人達が無
信仰であることことに大変おどろいたのです。
他の国のノーベル賞受賞者はみな深い信仰の持ち主ですから。」
神社にお詣りしたりするのが信仰深いとか云うのではなく、人
間が神の子であるという根本を知り、常に神に生かされている
という感謝の念をもって、お互いの神性を拝み、生かし合う生
活をするのが信仰ある人の態度だと思うのです。
人間が「私は信仰心があります」ということは当り前のことなのです。
堂々と「信仰など無くとも、自分の力で・・・・・」などとい
うことははずかしいことだと思うのです。
自分の力で何でもやれると思っていましても、神を尊ばず、祖
先を敬わず、親に感謝できないような生活をしていますと、根
のしっかりしない木のようにいつかは揺らぐ時が来るでしょう。
神のいのちをそのまま感謝してうけ、神の子同志が互に生かし
合い助け合ってこそ本当のよき世界が現れるでしょう。
(おわり)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/12 (Wed) 08:18:03
https://www.youtube.com/watch?v=j2l7Mh4H7UA
アクエリアン様がご投稿された動画に、目から鱗の大転換
(^^♪、誠にわが愚かさを身に沁みました。
さて、今朝からは、再び、谷口清超先生の御文章です。
戦争か平和か 谷口清超先生
「戦争か平和か」と問えば、誰でも「平和」を好むにちがいありません。
戦争映画やタンクや戦闘機の恰好よさに幻惑されている小児な
らいざ知らず、本当に心から戦争が好きでたまらない人間などはない筈です。
何故なら、「人間は神の子」であるからであり、神の国には戦争はないからです。
ところが「平和」とは一体どのような状態であろうか。
それは「戦争がない」という消極的状態でしょうか。
戦争がなくとも、不自由であったり、圧迫されていたり、外国
軍隊によって占領されていては、決して「平和」とは言えないでしょう。
少くとも吾々の希望してやまない「平和」とは、決してそんなものではない筈です。
勿論、国内政治なんかは問題にしないで、国と国とが戦って
いるか、そうでないかで「戦争」と「平和」とを分けるのであ
れば、一触即発の国際関係であっても「平和」だと言えること
になるかも知れませんが、こんなものが「平和」として本当に希ましいと言える道理はない。
人々が「平和愛好国」という場合、こんな“瀬戸際政策“までふ
くめての「平和」とは考えていなかったでしょう。
つまり「平和」とは、もっと理想的な平安で調和した状態を指
すのであって、それ故にこそ人々は「平和」を求め、それを力強く追求するのであります。
ところで吾々は、「平和」とはかくの如きものであるという
ことを前提として、次の「日本国憲法」の前文をもう一度よくよんで見たいと思うのです。
『日本国民は、恒久の平和を念願して、人間相互の関係を支
配する崇高な理想を深く自覚するものであって、平和を愛する
諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』云々。
この文章の前半は、先ず問題ないとしても、後半には大いに問題があるようです。
というのは、この憲法が公布されたのは皆さんも御存知のよう
に、日本の敗戦直後、即ち昭和二十一年十一月三日であり、そ
の頃はまだ敗戦のショックと占領軍の重圧の下に置かれていました。
従って、日本は軍国主義で敗れ去ったけれども、一方世界中に
は平和を愛する諸国民が沢山いて、それらの国々を御手本とし
て日本導いて行こうと考えた人が国の内外にいたのでした。
そしてこのような気持ちが、
『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』
という条文となって表現されているのであります。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/13 (Thu) 08:29:26
ユーモアたっぷりの佐野一郎先生です(^^♪
机上の空論、ではないですけど・・・(^^)/
謹写も、校正?は大変です、あとで気がついて、編集したりして・・・。
だけど、いまのWordはいいです、ある程度の誤字、文章はカラーでチェックしてくれますから(^^♪
谷口清超先生の御文章です。
平和を愛する諸国民
けれども果たして、現実にどこに「平和を愛する諸国民」が
いて、その公正と信義に信頼しうるというのでしょうか。
しかもわれわれの安全と生存を、これらの諸国民への信頼に
よって保とうというのでありますが、こんな考えが独立国の憲
法としてふさわしいと言えるでしょうか。
又、吾々の周囲のどこにそのような”諸国民“がいるのでしょう?。
一人や二人や数十名の“諸国民”に吾々の国家の「安全と生存」
を委ねるわけには行きませんから、圧倒的多数の”諸国民”がい
なければならない筈だが、果たしてどこにそんな国家や国民がいるというのですか。
アメリカか?中共か?ソ連か?インドネシアか?
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/14 (Fri) 08:21:43
山口悌治先生の「万葉の世界と精神」ぜひ読んでみます
(^_-)-☆
谷口清超先生の御文章です。
残念ながら、“日本国民自身”を措いて他にそんな国民はいない
と言わなければなりません。
なるほど「平和」を本当は愛しているとか平和が好きだという諸国民はいるでしょう。
しかしその公正と信義に信頼して「われらの安全と生存」を
保持するような諸国民は日本以外のどこにもいないのです。
何となれば、現在の諸国民は自分の国の安全を保持するに精一
杯で、とても日本のために、その生存までも保持してはくれな
いからであり、もしそれを期待するなら、日本はそれらの「国の保護国」とならなければならないからであります。
ところが「日本国憲法」はいとも平然と、このような“独立国”らしからぬ非現実なことを宣言した。
それは何故かというと、当時の国際状態が、日本が占領下にあ
るという特殊状態であり、しかもこの憲法は英文の草案を押し
つけられて出来上がったものである(これは世界周知の事実)からです。
しかし、このような憲法がいつまでも独立国日本の憲法であっ
ってよい筈がない。
あまりにも敗戦ショック色のにじみ出すぎている憲法であり、
「頼りにしてまっせ」式の精神に彩られすぎている。
自国民の努力と意志とによって「安全と生存」をまもろうとい
う気迫がなく、又「平和」なるものを本当に真剣に考えた思想的内容に乏しいと言わなければなりません。
このことは第九条の戦争放棄の条文に於いてますますはっきり
来るのであって、ここに於いて日本国は、「戦えない状態」を
自己に強制し、これをもって平和を“誠実に希求している“と規定したのであります。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/15 (Sat) 08:18:35
志恩様が、トキ様の誌友会等のテキスト?
をご紹介されております。今日の誕生日の花はシオン、花言葉
が追憶、遠くの人を想う、だそうです!(^^)!
谷口清超先生の御文章続き、です。
戦えないこと
けれども、「平和」とは「戦えない状態」ではない筈です。
いかにも武力がなければ戦えないでしょう。しかし残念なが
らそれは決して本当の「平和」を約束してはくれないのです。
何故なら、吾々に戦う力がない場合、どこかの国が侵入して来て、占領したとしても、戦いはない。
戦えないから戦いはないが、しからば平和であるかというと、そうではない。
成程戦えないにはちがいはないが、それでは属国か非占領国に
なるにすぎないのであって、そんな所に本当の「平和」があるとは、保証出来ないからであります。
これと同じことは、無防備の中立主義についても言えるのです。
そもそも中立は、何によって保たれるのでしょうか。
それは、吾が国をどの軍隊も犯さないでくれることによってのみ保たれる。
ところが「戦えない国」しかもどことも同盟を結んでない国
を、強制的に侵さないという保証を、まだどの国もしてくれてはいないのです。
そこで日本の中立は、ただ日本以外の国の「おぼしめし」如何にかかっていると言わなければならなくなる。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/16 (Sun) 07:57:11
“みんな、何で退会しないのかなあ、不思議でならないわ”
偽らざる本流の方の思いではあります(^_-)-☆
念願の('◇')ゞ般若心経、ざっとですが暗誦出来てきました。
とても、難しいだろうと思っていた難事も、開いてみれば、出来てしまうものなんですね(^_-)-☆
まだ、スラスラとはいきませんが、それも時間の問題でしょう。
今は亡き同級生がサイパンで般若心経を唱えて来たと自慢げに話していたのにも触発されてましたが、
何といっても、
伝統様,ありがとうございます、です!(^^)!
ご投稿をよく読んで、さらに解釈したく思っております。
尚、お恥ずかしながら、先日、谷口恵美子先生の御歳を間違いました、訂正しておきました。
谷口清超先生の御文章です。
かくの如くして、日本は軍備を放棄することによって、もっぱ
ら「外国にたよる」という一貫した“保護国的性格”を堅持することになる他はない。
このような“保護国”、真の平和を自主的に希求する能力があるといえるだろうか?
残念ながら、ないといわなければなりません。
なぜなら、「安全と生存と平和を愛する諸国民」に委ねてし
まっていて、概念的には何の力ももたない国ということになっ
ているからです。(現実には自衛隊と安保条約があるから、か
ろうじて保護国的真空状態を脱してはいるが)
こうして、吾々は、現在は日本国憲法それ自体の精神によっ
て「平和」をかちとってはいないのであって、むしろ今迄日本
は「日本国憲法」を“置き去りにして”平和への努力を続けて来
たことによって、平和な状態を保っているのであるという、悲しむべき事態を直視しなければなりません。
それは、一口にいうと日本国民の努力が足らなかったからであ
るということが出来るけれども、”平和への努力“がたりなかっ
たのではなく、平和を実現し得ない日本国憲法を、正しい筋の
通った日本の憲法に復元することへの努力がたりなかったからなのであります。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/17 (Mon) 08:02:01
<『占領憲法が吾らの日常生活に及ぼす悪影響』
全文 / 谷口雅春先生 (44年7月)
◆私は反体制に味方する・・・>・・・。
童子様が既に5年前にご投稿されていた、大聖師の御著書?です。
谷口清超先生の御文章、続きです。上述に関連しています。
宗教の使命
かくの如くして、吾々が「平和」についての具体的内容を考
えるとき、日本国憲法は「戦力放棄憲法」ではあっても決して
「平和憲法」ではなく、もっとくだいて表現すれば、「頼りに
してまっせ憲法」であると言うことができるのです。
そこで吾々は、現行憲法にたよって平和を維持することが出来
ないというこの「現実」を、どのようにして平和ならしめることが出来るのでしょうか。
吾々は正しい「宗教」による以外に道はないと考えるのです。
勿論吾々は政治的努力を過少評価するつもりはないし、憲法を
正しいものにする努力を放棄する者でもありません。
しかし、凡ゆる政治活動は、宗教的信条に裏づけられていなけ
れば正しいものとなり得ないことを、更めて見直さなければならないというのです。
何故なら、政治権力は神への正しい信仰によってのみ、平和への力となるからです。
人間の“欲望“は決して正義を指向してはくれない。
その“欲望“が政治権力化したとき、暴政が行われるのは、数多の歴史が証明している所です。
欲望にあやつられる政治家が、いくら「平和」を叫んでみて
も、そんな「平和」は、事なかれ主義か、欲望第一享楽主義の別名にすぎません。
真の「平和」は「神の国」にあるのであって、それは愛と秩序にみたされた状態であります。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/18 (Tue) 08:25:03
摩訶般若波羅蜜多心経、就寝中に何回も暗誦しますが、まだ、少々錯綜はしております('◇')ゞ
だけど、よく読めました、解釈がもひとつですから、身をいれましょう。
谷口清超先生の御文章です。
しかるに欲望政治家はどのような愛を実行するのでしょう。
彼らは「平和」と称して個我をのさばらせ、欲望満足のしやすい状態をしか考えない。
さもなくば「自分」の自我をのさばらせるために、「他人」を圧迫し、人々を不自由ならしめるだけであります。
大体、平和とは欲望充足のことではない。前にも述べたよう
に、平和とは愛の秩序なのですから、人々が真の愛を自覚するようならなければ、到底達成されるものではないのです。
政治家だけが愛を行じても多くの国民が利己的行動や欲望の奴
隷となっていては、決して「平和な国」を実現することはできません。
しかも国家が乱れておれば、外国との間も”平和”にはなり得ない。必ず事が起る。
いくら「戦争放棄憲法」があっても、そんなことで具体的平和が来るものではない。
もしそのような”条文”が魔術的力を持つものなら、全ての国が憲法にそう書きそうなものであります。
要は国民の心が「平和」になるかどうかに懸かっているのです。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/19 (Wed) 08:01:07
サテライト会場に人はどのくらい入っているのでしょう?
谷口清超先生の御文章です。
愛と秩序
ところが、人々に愛と「秩序」をとき、心に平和を与える者は何であろうか。
政治であろうか? 政治は、愛によって正しく行われはする
が、愛を人々に唱導するのは、政治ではなく、むしろ宗教の役目です。
それも、インチキ宗教ではなく、愛や慈悲を説くところの“正しい宗教”です。
それ故、このような宗教が多くの人々の心の中に愛を燃え立た
せ、政治をして「愛の政治」たらしめたとき、はじめて「平和な国」となることが出来るのです。
政治家も正しい宗教を知っていなければなりませんが、国民の
凡ゆる階層が、正しい信仰によって、愛深く秩序正しく生きなければ「平和な国」とはならないでしょう。
バスや列車に先をあらそって乗車したり、老人や婦人を突き飛
ばしてもよい席をとろうとする人々がいる国で、いくら憲法に
平和、平和とのべられていても、そのような平和は空文にしかすぎません。
先ず、国民一人一人が愛を実行するように説き示して行かなければならないのです。
そうしないと「平和」は絵に書いた餅のようなものとなってしまうのです。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/20 (Thu) 08:32:53
朝日新聞の不動産事業もいいですけど、甲子園関係の
ご商売もスゴイですよ!(^^)!
谷口清超先生の御文章です。
こうして愛が人々の行ずる所となる時、その国には秩序ある
愛が国内に「平和」をもたらしてくれる。
国内が平和となる時、その国の外交関係も平和となるに違いないのです。
最近も、アラブやベトナムに戦争が行われていましたが、その
現地はすべて国内が分裂したり混乱している所です。
国内が平和に治まっていて、戦争だけが突如として降ってわくということはない。
これは生命体の心が外界にあらわれるという原則が適用される
からであり、「争いの心」が「衝突の環境」を作るからであります。
しかし、いかに争いの心がない国であっても、自衛力はなけれ
ばならないし、それが国家としての“生存条件”となっていることに変りありません。
つまり「生命」が一個の独立体としての宣言が「ふさわしからぬ外物を排除する力」たる自衛力となるからです。
いくら平和な心境となっても、人体には自衛力がそなわってい
るのでしょう。いや、自衛力や自然療能力、平和な心境でこそ
ますます効果的に働くのであって、「平和」とは単なる無秩序
ではなく、”秩序泰然たる治安”であり、そこには無秩序をゆるさぬ確乎たる意志と力とが存在するのであります。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/21 (Fri) 08:08:45
<伝統様
毎日膨大な数の光の言葉を投稿してくださり、ありがとうございます。
一体どこから膨大な情報を入手し、どうやって一気に投稿できるのだろうかと不思議な気がするのですが・・・>・・・。
流石の管理人様も不思議がられるほどのご投稿です(^_-)-☆
コスモス様が少々コワイご投稿をされております。
谷口清超先生の御文章です。
言葉に胡魔化されるな
考えてみると世の中には色々の「平和論」があり、我こそは平和の戦士であると名乗り出る人も数多くいます。
しかし、コトバの上だけ「平和、平和」と叫んでいる者を、真の平和主義者だと錯覚してはなりません。
口に平和を唱えながら、心はつねに”闘争”と”批判”に都に明け
暮れ、分派活動や対立抗争に憂き身をやつしている“平和屋”もいる世の中です。
かつて全面講和か、多数講和かなどと問題にされた時期がありました。
このとき全面講和を強く主張した人々は、現在中立主義や無防備反安保などの主張者となって引き継がれて来ています。
なるほど言葉の表面だけから見ると、全面講和といい、中立といい、平和といい、まことに結構のような響きがする。
しかしかつての全面講和は米・ソ対立の国際情勢から不可能で
あったし、現在の無防備中立も、不可能か、もしくは相手方の
心によってどうにでも変りうるアイマイなものにしかすぎません。
何故なら、中立を保つためには、交戦国のどちらかの軍艦が
日本の港に入って来たら、二十四時間以内に立ちのかさなければ、それを理由に別の交戦国が攻撃してくることになる。
これを無防備の国が、自衛隊もなく、どうして退去せしめうるでしょうか。
世界がただ日本だけで、他の国がいないのであれば、又米ソが
共同で日本の中立を保証するとでもいうのなら、このようなコ
トバもあるいは実現可能かも知れませんが、幸か不幸か世界には沢山の国がある。
そして中にはまだすこぶる混乱したアラブ諸国や中共のような
国々もあるし、中立条約などチリ紙の如くやぶりすてて領土を
拡大してゆく強国(ソ連)もあるのです。或いは原爆や水爆をもって弱小国を威嚇する国もある。
このような国際環境の中で、日本を真に「平和」に安全に生長
させるためには、政治家たるものは単なる「空想」や「希望」だけで政治することは断じてゆるされない筈です。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/22 (Sat) 07:52:18
たしかに、平成の世は災害は多いかもしれません。
安倍首相なら収まるかと思いきや('◇')ゞ。
次は南関東ですか・・・、いやいや北海道かも知れません(>_<)。
谷口清超先生の御文章です。今朝で終わりです。
何となれば、それでは自分一個の理論的満足や実験的スリルは
味わえても、多くの国民の生命や財産を失わしめる結果になる
かもしれないからであって、このような国民の犠牲の上にアグ
ラをかいて、自己の「学説」を実験してみるようなことは、くれぐれもつつしまなければならないことであるからです。
愛があれば、真に知性ある愛があれば、そんなことは出来ない相談であります。
その出来ないことを、”革命”の名の下にやりとげた国々もある
にはある。しかし、見てごらんなさい、残念なことにこれらの国々には、依然として「平和」は訪れていないのです。
キューバを見よ、中共の文化大革命の永続ぶりを見よ。
「革命」は「革命」を呼び、国民は「政争の具」に供せられ、
時には「紅衛兵」の如き少年までも、政争の為に利用されているという憐むべき現状ではありませんか。
このような現状を見ている者の中に、それでもまだかかる革
命国を「平和愛好国」と呼ぶ事を主張する者がいるという事は、一体どうした訳でしょう?
こうなってくると彼らの使う平和と、吾々一般人が使う「平
和」との内容がちがうのであると考えなければなりません。彼
らのコトバは段々一般人に通じなくなるおそれがある。
いや、それより前に、彼らの使う「独立」とか「中立」とか
「平和」とかのコトバを、そのまま素直な意味で受けとってい
る一般的常識の人々が、とんでもない「隷属」や「親共」や
「闘争」の実態を押しつけられるという悲惨な結果になる。
だから吾吾は、よくよく注意して、何よりも先ず真の「平和」
を実現すべく、まっしぐらに「愛」と「秩序」をうちたてる運動に挺して行かなければならないと主張するのであります。
(おわり)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/23 (Sun) 08:10:04
天皇陛下譲位の問題、鳥取県の妊娠中絶の多さな
どいろいろ教えられております<m(__)m>。
あのトランプ氏は中絶反対を訴えていましたが。
さて、今朝からは、
伝統様のご要請の、足らぬところを謹写させて頂きます。
尚、恥ずかしながら、前の謹写に単純ミスがございましたの
で、ここにお詫びをし、以前の間違い箇所は既に
訂正させていただきました。まことに失礼をいたしました<m(__)m>。
*①本題の「宇宙の神秘を直観して」⇦「直視して」(誤)。
②「十日のことば ♦ 霊はその知性を~」⇦「例はその知性
を~」(誤)(‘◇’)ゞ。
合掌、ありがとうございます。
理想世界誌 昭和42年 9/1号より
輪読のための青年法語 「宇宙の神秘を直観して」
谷口雅春先生
一日のことば ♦ 吾々は外界の事物をいかにして認識するか
普通われわれが肉眼で見、感覚でとらえる外界の事物は、それ
がそのまま、客観的にその通りに存在しているのだと考えられているのである。
では客観的に、自分の肉体から離れたるところに存在するものが吾々の“心”の中に入って来るのだろうか。
客観的の存在そのものは、われわれの眼や耳という感覚器官に
直接はいって来るのではなく、客観界の存在から発せられる或
る波動がわれわれの感覚器官に衝動を与え、その衝撃を、感覚
器官が感受する、その感受した衝撃を伝えられた意識が、複雑
に伝えられた色々の衝撃を分析及び総合して、そこに客観界にこのような物体があるのだとみとめるのである。
そして或る人は、其処に本当にそれがあると信ずる。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/24 (Mon) 08:31:44
鳥取の教化部長が地震当時、自然の恵みフェスタ
へ、しゃれにもならぬ出来事です(*^-^*)
大聖師の御言葉です。
二日のことば ♦ 普通人は素朴的リアリズムである
われわれが感覚器官によって見える通りに物体が存在すると
素朴にみとめて何ら疑わない存在論を素朴的リアリズムと称するのである。
それが一般普通の人のものの考え方であり、唯心哲学者といえ
ども、実際生活に於いては大抵、見える通りにものがあると信ずる形で生活をするのである。
すなわち橋があると見えれば足をあげて橋を渡ろうとするので
ある。船があると見えて、対岸に渡りたいと思えば、彼は本当
にそこに船があるとして、その船に自分の体を乗せるのである。
水があると見えれば、水を飲むし、食物があると見えればそれを食する。
こうして日常生活に於いては、唯心論者といえども、物質を仮りに見える通りにあるとして行動するのである。
だから見える通りに、果たしてそのものが実際にあるのだろう
かと考えるのは、余程。知性の発達した人のみのことであるのである。
皆さん、果たして、物体は吾々の感覚があると感じているようにあるのでしょうか。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/25 (Tue) 08:21:10
<新聞、テレビ、ラジオ、デモ、講演で、
左寄りな人たちはなぜ多いか?・・・>・・・。
新聞川柳選者の句が、
国防相集中砲火浴びせられ ですから( ;∀;)。
国防相ってどこの国の話???
大聖師の御言葉です。
三日のことば ♦ 何故物質が心象となって感じられるか
あなたは、外界にある物体や人間を見る、そして其処に、それ又は彼があると見る。
何によってあなたはそれを知るのであろうか。あなたはそれを目を通して見るのである。
普通の人は、「私の眼がものを見る」という。
知性のすぐれた人は、それだけで満足できないのである。
「眼はどうして外界の事物や人間を見るのであろうか」と彼は考える。
光の波動が瞳孔から入って水晶体というレンズを通して網膜上にその光の波動が焦点を結ぶのである。
そこまでは、物質的に考えられる「ものを見る」過程である。
しかし物質的な波動の刺激が、どうして網膜上に網の目のよう
にその尖端を張りめぐらせている視神経の末端を刺激したら、
それが視覚という「心に感ずる形」となってあらわれるのであろうかということが次の疑問となって来るのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/26 (Wed) 08:34:04
天女ヒルクライム、口あんぐりです(^◇^)
大聖師の御言葉です。
四日のことば ♦ 大脳の中の心象と客観的事物とは一致するか
視神経の末端を刺激した波動は、その神経繊維を伝わって大
脳の視覚中枢につたえられ、其処において、それが如何なる形
のものであるかの「心の象」(心象)がつくられるのである。
それは大脳の中に於いてである。
吾々が「机」を見る。机の心象は、大脳の中に於いて描かれているのである。
それがどうして外界に、数メートルの距離の彼方に、或いは数
千メートルの距離の彼方に、自分を離れて独立して存在する物
体又は人間として感じられるのであろうか。
その見えている物体又は人間は、実際に見えている通りに、その如く本当に存在するのであろうか。
普通の人は、そんなことに疑問をもたない。
実際、その見えている通りに、それほどの距離をはなれて、その物体又は人間があると信ずる。
しかし本当に客観的に自分と離れてその通りの姿があるのであろうか。
その「見えている形」なるものは、大脳の中でつくられた心象
であって、客観的にある物体又は人間がある通りの姿を、その心象がつくり出しているかどうかは疑問なのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/27 (Thu) 07:48:27
「経営者は遊んではいけない」松下幸之助・・・、
偉大な人物だったんですね。
新刊 『親日はかくして生まれた』 岡田幹彦著・・・
読みましょう(^^♪
大聖師の御言葉です。
五日のことば ♦ 視神経の“点”的な刺激が映像として
あらわれるには?
網膜上に触手をのばしている視神経の末端は謂わば、”点”で
あって、無数の“点”がそこに散らばっているのである。
その無数の点に対して、強度と性質の異る色いろのエーテル波動が刺激を与える。
それを一つの心象にまとめて具体的な物象と感ずるのは、それは物質のはたらきだけで可能なことではないのである。
どんなに小さい”点”でも、点は点であって、互いに離れているのである。
その互いに離れている無数の点を、互いに連繋せしめ、つなぎ
合わせて一つの具体的映像をつくりあげるという働きは、知性
のない物質のただの化学反応だけではできる筈はないのである。
すると、大脳を媒介として生じた具体的な心象は、本来“心”の
世界にあるのであって”心”の世界にあらかじめ存在する心象
を、視神経を通して大脳に与えられた無数の“点”をつなぎ合わ
せて、感覚面上に浮かび上がらせて、それを外界に投影(又は
移入)して、或る距離を隔てた位置に、その物体又は人間が存在すると知覚せしめたのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/28 (Fri) 08:30:59
アメリカ嫌いのドゥテルテ大統領、安倍首相との会見発表の席での表情はよかった!(^^)!
(その場面の写真はここに提示できませんが)
後ろで稲田大臣がにこやかに笑顔を見せている場面はなかなか大統領の好印象を与えていました。
天皇陛下からのメッセージに真摯に頷いていらしたということです!(^^)!「いつか会えたら」ともおっしゃったそうです。
大聖師の御言葉です。
六日のことば ♦ 感覚にて知覚されたる物象は決して単なる幻覚ではない
“心”が視覚器官に於ける“点”の刺激をつなぎ合わせ、それを解釈し翻訳して、”一定の物体又は人間が外界にいる“と視る。
それが単に、その一人の人間の感覚にのみそう見えるのではな
くて、他人の人がその感覚によって、その同じ物体を見れば、
〝壺“は壺として見え、”机“は机として見え、”人間“は人間と
して見え、容貌も同じように見えて、一人の人間が”彼“を”木村
君“として見るならば、他の人間も”彼“を木村君として同じ容貌の特徴を捉えるのである。
だから”心”が点の刺激をつなぎ合わせて、居て居の映像をつく
り出したにしても、それは単なる幻影ではなく、何人も同様
に、其処に、そのように視える何か一定の波動又は”サムシン
グ”が存在するということを肯定しなければならないのである。
つまり知覚されたる物象は、単なる幻影ではなく、そのよう
な条件の下に於いて、人類一般の感覚器官を通して知覚すれ
ば、一定のそのような形に視える”波動”又は”サムシング”が客観的に存在するということである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/29 (Sat) 08:09:45
大川小学校の悲劇、真相は如何に。こういうこと
も起こりえる現代かも。
ドゥテルテさんのはにかんだ良き表情と稲田大臣の、これも良
き笑顔、新聞から(^^♪。
大聖師の御言葉です。
七日のことば ♦ 物質は本来“物質”ではない
その客観的に存在する”波動”又は”サムシング”は果たして“物質的”なものであろうか。
それとも“霊的”又は“心的”なものであろうか。
それが単に物質的なものに過ぎないのであったならば、”物
質”がどうして”心”と連絡したり、“心”に感じられたりするのであろうか。
全然性質が異なり、その範疇が異なるものは、互いに感応することはできないのである。
光の波は電波となり、電波は、更に光波に還元したり、音波に
なったりするけれども、それはいずれも物質的エネルギーの範
疇に属するものであるから互いに感じ合い、互いに交流して状態を変化するのである。
しかし、物体から発したところの光の波が心象に変化するということは、どうしてそれが可能なのであろうか。
吾々の“意識”というものが、外界に存在する“物象”のイメージ
を描き上げるということができるのは外界に存するところの“物
質体”だと見えているものも、実は“精神体”又は“霊体”であっ
て、同一範疇に属するからこそ、心が物体を感じて、その存在
をみとめることができるのだと結論しなければならないのである。
即ち”物質”と見えるものも本来”物質”ではなく、一種の心的波動の固まりであるのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/30 (Sun) 07:58:36
<公園の砂場にある砂粒の数が地球全人口の数とします。
そして私が両手ですくい上げた砂の数が生長の家の数です。
しかし年月が経つにつれて指の間からこぼれ落ちていきます。
そして私が手を三度打ち合わすと又こぼれ落ちていきます。
そして最後迄私の両手の平についている砂の数が本当の生長の家の信者です。・・・>・・・。
源流様が注目されたがんこ親爺様の「谷口先生の落穂拾い」ですが、なにか寂しいような気がするのは私だけでしょうか('◇')ゞ
ドゥテルテさん、帰途の飛行機で神のお告げ?で、これより
悪態はつかぬとコメント、さて( ^ω^)・・・。
八日のことば ♦ 唯物論的見地からの反論
物質を心が感ずることができるのは、物質は本来“物質”では
なく心的存在であって、”物質”と”心”とは同一範疇に属するか
らだという結論を得たけれども、それの逆も考えることができるのである。
曰く、『“物質的存在”を”心”が感ずることができるのは、実
は”心”は脳髄物質の化学作用であり、従って”心”とか”魂”とか
いうような超越的存在は無いのであって、“心”というものも物
質の一作用であるから、「感ずる心」と「感じられる物質}と
は同じく物質同士であって、同一範疇に属するので、互いに感じ合うのである』と。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/10/31 (Mon) 08:17:56
河田亮太郎先生の語り口、何とも言えぬ滋味ある
ものです(^_-)-☆
大聖師の御言葉です。
九日のことば ♦ 人格は物質以上のものである
併しあなたの“心”は、あなたの”自分”(人格的存在)を感ずることができる。
その“自分”は必ずしも、此の“肉体”を指すのではないのである。
“自分”というものが単なる肉体であるならば片脚を無くしたと
き、”自分”という人格がそれだけ減ったとは感じないで”自分の
片脚”が減ったと思うだけであるのである。(注。「の」は所有格である)
私たちの”心”は”物質”ではないところの、五官の感覚に触れる
ことのできない“人格”というようなものを感ずることができるのである。
これは物質と物質の触れ合い又は、光波・電波・音波の如き物
質的波動の波長の同調又は共鳴によって感ずるのではないのであって、全く心霊的な認識であるのである。
即ち”心”が感ずるのは“物質以上”のものをも感ずる。即ち知性
を備えているのであるから、”心”は、知性のない物質の化学作
用で、物質と同範疇に属するものだということはできないのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/01 (Tue) 08:25:20
「女性自身」の大暴走、ベトナム戦争に於ける韓
国軍の大虐殺、こわいですねえ~( ;∀;)
大聖師の御言葉、続きです。
十一日のことば ♦ 宇宙の一切は霊的存在で渾然一体である
私たちの“心”が物質をみとめ、物質界の一切の存在を知覚す
ることができるのは、物質そのものが、普通の常識で考える如
き無知性のものではなく、知性の表現体であり、知性と知性と
が相感応するために、吾々の”心”は物質界をみとめ、外界の存在をみとめることができることをあらわしているのである。
“感ずる者”と“感ぜられる物”とが一体であり、本来同質のものであることをあらわしているのである。
”経験する者“と”経験される物“とは一体なのである。
この一体関係は全存在が、物質の如き、分子と分子との距離が
分子の直径の千倍も離れてバラバラであるような存在であるかぎりあり得ない関係である。
即ち全存在は”霊的存在”であって、それは普遍する実質によっ
て成り立っており、現象的・外面的には、個々別々の存在のよ
うな外観を呈するけれども、実相的・内面的には霊的存在として渾一なる全体としてつながっているのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/02 (Wed) 08:14:06
<昭和24年には 「青い山脈」 という歌が大ヒット
しました。 「古い上着よ、さようなら」 の歌詞とともに、
国民は徐々にGHQと日本共産党の意のままの歴史に染まっていったのかもしれません。・・・>・・・。
そういう詞でもあったのですか…('◇')ゞ ヒラリーさんの醜聞?と共に「勉強」です。
大聖師の御言葉です。
十二日のことば ♦ 外界と内界とを隔てるもの
外界を内界にある”心”が感ずることができるのは、外界と内
界とが全然“別物”ではなく、内外打成一片(注。禅語)の原理
又は実相が、あらゆる存在の奥に貫いて存するからなのである。
しかし吾吾は肉体と顕われて、地球上に生活する便宜上”時間・
空間”という”認識の形式”をつくり出し、その枠内に於いてのみ
作動する感覚器官を発達せしめて、内と外とを区別し、物体を
個々別々に区別し彼と我とを対立せしめて生活する。
時間・空間という着物を着て生活することが便利なために、直
接には、自分の“生命”の肌直接に、宇宙普遍の空気ともいうべ
き「渾然一体の霊的存在」を体験することができなくなっているのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/03 (Thu) 08:32:17
<文部省唱歌 明治節 (明治神宮)
https://www.youtube.com/watch?v=EHrdFZZIN50
『明治節』 作詞:堀沢周安 作曲:杉江秀
アジアの東、日いずるところ
ひじりの君の 現れまして
ふるき天地(あめつち) とざせる霧を
おおみ光に 隈なくはらい
教えあまねく 道あきらけく
治めたまえる み代とうと
恵みの波は 八州(やしま)にあまり
御稜威の風は 海原越えて
神の依させる 御業(みわざ)をひろめ
民のさかゆく 力をのばし
外(とつ)国々の ふみにも著(しる)く
留めたまえる 御名(みな)かしこ
秋の空すみ 菊の香たかき
今日の佳き日を 皆ことほぎて
定めましける 御憲(みのり)を崇め
諭(さと)しましける 詔勅(みこと)を守り
代々木の森の 代々とこしえに
仰ぎまつらん おおみかど>・・・。
源流様よりお借りいたしました<m(__)m>。
「明治の日」制定に大期待(^^)/。旗掲ぐ。
大聖師の御言葉です。
十三日のことば ♦ “向上精神”の内的本源が
実相である
われわれは誰も現象的には完全な人間でないのである。
それなのに完全になろうと欲して毎日、何らかの意味に於いて前進又は向上しつつあるのである。
不完全がその人の天性であるならば、そのような意欲も、内的衝動も努力も起こる筈はないのである。
われわれが幾ら向上しても、尚更に一層の完全さを顕現したい
という熱望が起こって来るのは“自己に宿る無限の完全”が顕われ出ようとして内部から押し出して来るからである。
その内部に宿っている“向上精神”の根源となるものが、吾々の“実相”であり“本当の自分”であり“神の子”なのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/04 (Fri) 08:38:59
文化勲章に「電子版」は大して反応しておりません
が、珍しく!(^^)!NHKの報道が光っておりました。
平岩弓枝さんのコメント「隠居も考えていましたが、恩に報い
るにもう一、二作仕上げなければと思いました」(概約)
ご立派ではございませんか。
大聖師の御言葉、続きです。
十五日のことば ♦ 向上の煩悩に実相の衝動を見る
人間に”永遠”が宿っているので、無限の長寿を欲し、人間
に“無限”が宿っているので、無限の向上発達を希い、無限の富の実現を望むのは当然のことであるのである。
この現象界の利益や福祉を希う煩悩と見えるものの内に、内在する神の動きが噴出しようとしているのである。
“煩悩即菩提”とはこのことである。
向上の煩悩なくして菩提すなわち悟りを得ることはできないのである。
諸君は大いに向上の意欲を起こしてよく勉強しよく研究して、
内部の神性を現象界に発顕し、地上に神の計画になる理想世界を実現するように努力しなければならないのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/05 (Sat) 09:06:26
お子様ランチ3皿のお話いいですね~!(^^)!
大聖師の御言葉です。
十六日のことば ♦ 地上天国建設の根本問題
現象界に天国を実現するためには、努力が必要であるけれど
も、神の叡智に導かれた努力でなければならないのである。
人間的頭脳の智慧で、向上の煉瓦を積みあげて、神まで到達せ
しめようと思っても、それは所詮「バベルの塔」であって、目的を達しないうちに土崩瓦解してしまうのである。
それ故に諸君は神想観を毎日怠らず実修することが必要である。
神想観は単に地上に天国を実現するため方法であるだけではな
く、それは“神”と“人間”、”天“と”地“との融合の行持であり、
その行持の中に、既に“神”と“人間”との融合があり、従って実相と現象との融合があるのである。
そして実相と現象が融合するとき「みこころが天になるが如く
地に成り」結局、地上天国なる理想世界が建設されることになるのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/06 (Sun) 07:44:23
北海道、遠軽積雪40Cm、沖縄気温30度近く、
日本列島は、そんなに長く伸びてますか!(^^)!
大聖師の御言葉です。
十九日のことば ♦ 各人は実相が種々の段階に開顕
されたる神の子である。
すべての人間は”神の子”であり、その本質に於いて円満完全なのである。
しかしその円満完全が、まだ蕾のような状態であって、各々人
によって程度は異なるが、その開発のある段階にあるのである。
高い段階にまでその円満完全な本質(実相)が開顕された人
は、健康で、幸福で、生活は裕かであって困窮することはないのである。
その円満完全な実相が、ある方面にのみ開発されたら(例えば
経済面に)その方面では裕かであるけれども、他の方面に於い
て例えば肉体が不健康にあらわれるとか、家庭が不調和になるとかするのである。
吾々は自己が神の子であることを自覚し、あらゆる人生の方面に於いて大自在の境に達しなければならないのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/07 (Mon) 08:23:30
伝統様は言うに及ばず、童子様、中仙堂様の発信力の
凄さにも頭が下がります!(^^)!
勿論、他の方にもまだ沢山の感動を受けておりますが…。
大聖師の御言葉です。
二十日のことば ♦ あなたは次第に大自在境に達する
そのような大自在の境地に達した、又は達したに近い人を“達人”と呼ぶのである。
宗教に入ったといって、行動が生温いような生活を送っている
人は、宗教信者として名前を連ねているだけで、本当に宗教的信仰ではないのである。
宗教とは大自在の生活に入る門である。
本当にあなたが宗教信者に入ったならば、決断の敏速、行動の
敏捷、しかしてその行動が悉く急所に中る精確さをもたねばならない。
その行動の敏捷と精確さは、自己が“絶対者“即ち”神“と常に波長を合わしていることによって得られるのである。
神と常に波長を合わすためには、毎日神想観の実修を怠らず、
その神想観による心の清澄状態を神想観を終った後も常に持続するように心懸けなければならぬのである。
内部の心の清澄が、澄み切ったレンズを通して精確な映像が得
られるように、実相世界の円満さに波長が合って、外界に完全円満さが実現して来るのでなければならないのである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/08 (Tue) 08:03:27
日本の国防の強化を訴えるYouTubuを観まし
た。こわいですね~!(^^)!
大聖師の御言葉です。あと2回くらいです。
二十一日のことば ♦ 科学の限界に就いて
科学というものでは究極的実在を知ることはできないのである。
それは常に日進月歩である。
それは相対的知識を得るのであって、真理とか実在とかいうものを知るのではないのである。
科学の“科”という字は、科(えだ)という字である。
色々の分科があるのであって、各々の科の立場にたって事物を解釈するのである。
化学はいつまでたっても“生命”そのものの実体を知ることはできない。
生命の通った軌跡を分析したり、総合したりして結論を下そう
とするのであるが、化学は生命そのものに直接触れることはできない。
生命の周囲を堂々廻りするだけである。
(つづく)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/09 (Wed) 08:34:04
<前総裁・谷口清超先生は「法燈継承の真義」について、
ご著書『正法眼蔵を読む 上巻』の「はしがき」の中で次のようにお説きくださっています。
『生命の實相』やその他の谷口雅春尊師の書物を読み、深く
その真理の奥義に魂をゆさぶられ、弟子と言ったり、そうでなくても会員として幹部活動をした人は沢山いるのである。
その中で、「われこそは尊師の御教えを正しく継承するもの
である」と考える人もいるにちがいない。しかし法(大法)の
継承というものは「自分がそう思う」だけでは成り立たないの
である。それを道元禅師は「面授」の巻でくわしく述べられ、
「師と弟子とが対面して」師がそのことを認可しなければなら
ぬ。弟子が勝手に自分で決める問題ではないと教えられるので
ある。勿論、世間様がきめるものでもないことは言をまたない。>・・・。
不動明様が引用されております<m(__)m>。
大聖師の御言葉です。漏れ分、最後です('◇')ゞ。
伝統様、ありがとうございます。
二十三日のことば ♦ あなたは聖者の諸徳を備えて生活せよ
聖者は現象にとらわれない。
他の人の批判を恐れて正義を棄てることをしない。
聖者は金銭によって自分の節義を売らない。聖者にとって大切なのは現象の名誉でも、富でもない。
自分の心の中に何を思っているかが最大の関心事である。
聖者は常に人と事物の奥にある実相のみを観るから、その心は常に平和である。
常に平和の心境であるから、実相から催して来る叡智を歪めず
に感受して、現象界に起こる複雑なる事件に対しても、それが
実相円満の姿の写象として調和ある姿をもって解決するように処理することができるのである。
聖者は自分の肉体のことについて思い煩わない。
併し常に内部の心を清澄平和に保つがゆえに肉体は内部の平静なる心の影として健康である。
(おわり)
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/10 (Thu) 08:58:18
ナパージュ日本国、スチームボートのシン・チェンジ
にてどう進行するのでしょうか?
大聖師の御導きこそ、今発揮される事とは思われますが・・・。
さて、今朝は銀世界の中から、新しき項へと入って参ります。
約1カ月を得て、困難と思えた「般若心経」の暗誦も完全となり
ましたので(^^♪、ここに訓読のものを写させていただきます。
解釈に少しは役に立つかと思いまして。説明がややこしいと思いますが、お許しを。
摩訶般若波羅蜜多心経 訓読 (法相宗大本山 薬師寺)
*摩訶=すぐれた 般若=迷いを去って悟をひらく知恵 波羅蜜=悟りを開くこと
観自在菩薩 *=観世音菩薩=生長の家の神。
深(じん)般若波羅蜜多を行ずる時
五蘊皆空なりと照見して *五蘊=色(肉体)・受(感覚、感情)・想(記憶、心象)
一切の苦厄を度したもう *行(意識、行動)・識(判断、推理) 度す=彼岸に渡す
舎利子よ *十大弟子の一人で第一の知恵者。
色は空に異ならず 空は色に異ならず
色即ち是れ空 空即ち是れ色
受想行識も亦復(またまた)是(かく)の如し
舎利子よ
是の諸法は空相にして
生ぜず滅せず
垢(あか)つかず浄からず 増さず減らず
是の故に空の中には色もなく
受想行識もなく
眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんい)もなく
色声香味触法(そくほう)もなく
眼界(げんかい)もなく 乃至意識界もなく *眼界=「目地の限りに眺むるに」と同じか。
無明もなく 亦無明の尽くることもなく *過去の煩悩の為に仏道に不覚、無知なこと。
乃至老死もなく
亦老死の尽くることもなく
苦集(くじゅう)滅道もなく 智もなく亦得も無し
所得なきを以ての故に 菩提薩埵(さった) *=菩薩=仏に次ぎ、衆生を救うもの。
般若波羅蜜多に依るが故に 薩埵=生きとし生けるもの=衆生。
心に罣礙(けげ)無し 罣礙無きが故に *(かいがい)とも。邪魔をする、妨げる。
恐怖(くふ)あること無し
一切の顛倒夢想を遠離して *顛倒=うろたえて平静を失う。
涅槃を究竟(くきょう)す 三世の諸仏 *涅槃=煩悩を脱して永遠の生命を得ること。
般若波羅蜜多に依るが故に *究竟(きゅうきょうとも。=無上。三世=前世・現世・来生。
阿耨(のく)多羅三藐(みゃく)三菩提を得たまえり *阿耨多羅=無上。藐(みょう)=遥か、美しい?。
故に知る般若波羅蜜多は *菩提=真の道理を悟る。
是れ大神呪(じんしゅ)なり 是れ大明呪(みょうしゅ)なり *神呪(じんじゅ、とも)=まじない。
是れ無上呪なり 是れ無等等(むとうどう)呪なり
能く一切の苦を除きて
真実にして虚(こ)ならず
故に般若波羅蜜多の呪(じゅ)を説く *呪=善を保ち、悪を防ぐ梵語の呪文。
即ち呪を説て曰く
羯諦 羯諦 波羅羯諦
波羅僧羯諦 菩提(ぼじ)娑婆呵(そわか)
*娑婆(しゃば)=煩悩の世界。呵=驚嘆の意?。
般若心経
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/11 (Fri) 08:47:01
村上 政俊(前衆議院議員/日本維新)先生の論説?
途中まで勉強させて頂きましたが、すごい洞察力と思います。
ヒラリーさんの健康問題も確かに垣間見えました!(^^)!。
今朝は、「仏説般若心経」なる(伝統様のご投稿から、お願い致します<m(__)m>)
大聖師の御講義を引用させて頂きます。
比較的判り易いように見えますが、如何でしょう。
よくよく勉強して暗誦読誦していきたい所存です。
<『般若心経』講義 - 夕刻版
2016/09/05 (Mon) 18:54:20
*「真佛教の把握」谷口雅春著作集第7巻(P223~273)より
『般若心経』講義~その1(P223~224)
この経は「仏説般若波羅蜜多心経・観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空……」
という聖句ではじまっております。
この『般若心経』という御経は佛教ではどんな宗派でも
皆排斥しないで採用しているところの御経であります。
生長の家でもこの『般若心経』の神髄を実践的に説いているのでありまして、
観自在菩薩というのは観世音菩薩のことであります。
観世音菩薩というと、其の仏像を御覧になって、何かそういう荘厳な仏像として
そこに現れているのが観世音菩薩だと、こう思っている人もありますけれども、
これは御経の表面の意義でありまして、御経の内密の意義 ―― 密義ではありません。
仏教では顕教と言って経典の表面に顕れた意義を説く教えと、
密教といいまして、御経の内部にひそむ秘密の意義を説く教えとがあるのであります。
秘密というのは内緒にしてかくしてあるという意味ではないのでありまして、
表面に現れていないところの奥深いところの内部的な意義を知り、それを実践する
―― これが密教であります。
この観世音菩薩というのも、内部的の意義即ち密教的にみますと、
これはそういう仏像ではないのであって、皆さんご自身が観世音菩薩なんであります。
みんな観音様なんですね。
観世音というのは、世音(せおん)すなわち世の中の音を観ずるのです。
「世音」というと人々の心の響きです。
人々の心の響きを「観ずる」というのは、肉眼でみるのじゃなくて、心の眼でみるのですね。
心の眼で人々の心を観じて、その心の姿の儘の姿に顕れる菩薩(大士)というのが、
観世音菩薩であります。
この菩薩は『観音経』にあります通り、相手の心の姿にしたがって三十三身に身を変ずる
というわけで、どんな姿にも、心のままに顕われるのであります。
必ずしも三十三種の身には決っていないのであって、
あるとあらゆるどんな姿にでも顕れて、衆生を済度なさる、
これが観世音菩薩であります。・・・>・・・。
この後は全て引用できませんので、当該URLを表示して、紹介させて頂きます、悪しからず…。伝統様、お許し願います。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6995626
合掌、ありがとうございます。
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - 道産子
2016/11/12 (Sat) 08:17:27
オバマ、トランプ会談、何かぎこちなかったですね
!(^^)!
「学ぶ」誌9月号「尊師・谷口雅春先生物語(21) 大乗キリスト教相応の地ブラジル 三上卓二先生」
より引用させて頂きました。あまりにも感動的なので。
<昭和三十八年六月七日、谷口雅春先生ご一行はブラジルのリオデジャネイロに到着されました。
このとき、飛行機は一旦サンパウロに立ち寄りましたが、その
わずか三十分の時間にかかわらず、四千人もの信徒たちが出迎
えてくださったのです。手にした、日の丸の旗、ブラジル国
旗、生長の家の旗を打ち振りながら、
「谷口先生」「奥様」と叫びながらどよめいていました。(中略)
後に伝えられたところによると、このときで迎えた人の中に、
足が悪くて松葉杖をついていた人がいたのです
が、谷口雅春先生のお顔を一目見たらまたたく間に足の病気が
治って、杖を空港に忘れて帰ったという体験が起きたといいいます。(中略)
宿泊したホテルのウェイトレスが騒いでいるというのです。
よく聞いてみると、「日本の偉い宗教家が来ていられるから、皆を祝福していただきたい」というのでした。
彼女たちは、「このホテルには偉い人が何人も来られたが、
今度のようにお部屋に近づくと電気に打たれたように、体がピ
リピリするのは初めてである。これはきっと何かあるに違いない」と。噂しているというのです。
谷口雅春先生がお部屋に集まってもよいというと、十人ばかり
のウェイトレスに二人のボーイもまじって、ニコニコしながらやってきました。
現地の人たちは、この辺りのホテルのウェイトレスは、笑顔を
見せることなく澄ました表情でいるのが普通なのに、谷口雅春
先生の部屋に集まってニコニコしているのが不思議だというのでした。
谷口雅春先生のお部屋の応接室で、ウェイトレスたちは先生を
中心に丸くなって手をつないで、先生が祈りの言葉を唱えられました。
清らかな雰囲気が室内に満ちました。
終わると、一人ひとりが谷口雅春先生と輝子奥様に握手され、
ワイワイ喜びながら、先生ご夫妻をエレベーターの前まで見送られたのでした。・・・>。・・・。
合掌、ありがとうございます。
Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅺ - kqyxzefhi URL
2020/08/29 (Sat) 16:09:38
伝統板・第二
[url=http://www.gb9s200y7317bx82myxvy7c5v6dp19v3s.org/]ukqyxzefhi[/url]
kqyxzefhi http://www.gb9s200y7317bx82myxvy7c5v6dp19v3s.org/
<a href="http://www.gb9s200y7317bx82myxvy7c5v6dp19v3s.org/">akqyxzefhi</a>